○山本孝史君 私は、ただいま
議題となりました
臓器の
移植に関する
法律案について、慎重な
審議を求めるという立場から、
提出者と
厚生大臣に対して質問を行います。
私も、この
法律案要綱を作成した
脳死及び
臓器移植に関する
各党協議会のメンバーとして議論に積極的に参加させていただきましたが、その過程を振り返っても、さらに議論を深める必要があると痛感をいたしております。
以下、具体的
内容について質問をいたします。
第一は、これまで呼吸と
心臓の停止及び瞳孔の散大のいわゆる三徴候をもって死としてきた死の概念を、この
法律により、根本的に変更してよいのかという点です。
この
法律案では、「
死体(
脳死体を含む。)」という表現で
脳死を人の死としようとしています。これは明らかに死の概念を広げています。
脳死は、見た目には死と明確には理解できない、見えない死であると言われています。
人工呼吸器が規則的に呼吸を管理していますが、当初は体も温かく、その
患者の家族にとっては人の死としてなかなか受容しがたいものと考えます。
脳死を人の死と認める人は、
平成四年の朝日新聞社の世論
調査では四七%、
平成三年の
脳死臨調の世論
調査でも四四・六%という数字が出ています。
国民の約半数は、
脳死を人の死と思わないか、迷っているという状態ではないでしょうか。
脳死患者を見舞うのに、香典を持っていくかあるいは見舞いを持っていくのかというふうに聞かれたときに答えに窮するという事実は、現在の
脳死に対する理解の度合いと困惑を明快に示しています。
刑法第三十五条には、医師の行う外科手術などの「正当ノ業務」による治療行為は、たとえ刑罰法規に触れる場合でも処罰の対象にはならないと
規定しています。その正当業務行為の法理によって立法することができないのか。つまり、
国民にさまざまな混乱を強いる死の概念の変更を行わなくても、
臓器移植を行う立法はできないのか。その法技術的
検討はどのように十分に行ったのか。
提出者の明快な答弁を求めます。
第二は、
臓器提供の
承諾手続における
本人意思の確認と家族の代理
承諾の問題です。
交通事故の犠牲者が
臓器提供者として最善であると言われています。しかし、御家族が事故に遭われましたとの突然の電話で病院に駆けつけたその家族が、ベッドに横たわる肉親の姿を前に、
脳死とは何かを理解し受け入れられる状況にあるでしょうか。
脳死を頭の中では理解できていても、自分の身内の人間が
脳死となったとき、その事実をすぐに受け入れられない人もおられるでしょう。まして、家族に
臓器提供承諾の最終判断を迫る
本案のような場合、動転した心理状態で後々後悔しない
臓器提供の
承諾が行われるか、これまでに報道された事例を見ても極めて心配をするところです。
医療の現場には、末期の
患者家族に昼夜分かたぬ献身的な医師の姿を印象づけ、亡くなった際には家族が解剖の献体を断れない雰囲気をつくっておくという手法が公然と語られる、そんな実態があると言われています。このような、現在の日本の、対等とは言いづらい医師と
患者家族との関係の中で、
臓器提供の
承諾の際に強要が生まれる余地がないと断言できるでしょうか。
この
法律案の
趣旨は、
臓器を
提供したいというドナーと、
臓器を必要とするレシピエントの間をつなぐものであると考えます。
脳死臨調
答申でも、「
本人の
意思は近親者の
意思に優先すべきものであり、
脳死者からの
臓器の
提供にあたっては、
本人の
意思が最大限に尊重されなければならないものと考える。」とか、「
臓器移植をめぐる
国民の様々な懸念にも十分な
配慮をした上で、あくまで、善意・
任意の
臓器提供意思に基づくべき」などと指摘しています。しかしながら、本
法律案では、
本人の
意思を推察して、家族だけの
承諾で
提供を決定してよいとされています。
大変異例なことではありますが、本
法律案については、その
提出以前に、
脳死及び
臓器移植に関する
各党協議会に対して、本来は
法律成立後、その
施行までの間に整備される
厚生省令に盛り込まれるべき事項をあらかじめ示していただきました。その中で、
臓器提供の
承諾等に係る手続についての指針骨子が有職者のワーキンググループから
答申されています。その中には、「
本人は、死んで後も肉体の一部が生き続けることを望んでいた。」とか、「
本人は
臓器移植について何も言っていなかったが、もし聞いてみたら、
本人の平素の言動からみて
臓器提供の
意思を表明したと思う。」このような例が、
本人の
意思をそんたくして判断すれば
臓器提供を認め得る具体的事例とされています。
仮に
本人意思が
書面により表示されていなかった場合、このような程度のことで
本人の
意思を推測して
臓器提供を認めてよいのでしょうか。
提出者の認識を伺います。また、この指針骨子を
厚生省としてはどのように評価されているのか、
脳死臨調
答申の言う
本人意思尊重の指摘との差についても認識を伺います。
第三は、
臓器提供が実際に行われる救急
医療の現場の問題についてです。
救急医からは、この
法律が成立をすると救急現場が混乱することを憂える声が数多く寄せられています。つまり、救命救急センターに運ばれてきた救急
患者に対し、後に
移植用
臓器をいただこうとするかどうかで救急処置の治療方針が天と地ほど異なるという指摘です。
臓器を
移植に適するようにと考慮すると、命を救う
医療はできない。つまり、
臓器を生かそうとすれば、
脳死に移行せざるを得ない消極的
医療しかできないということです。命を救う
医療と
臓器を生かす
医療は根本的に相反するものです。したがって、救急医が
移植を念頭に置くことによって、救急
医療の質の低下、ひいては命を軽んずることにならないだろうか。この点の
提出者の認識について明快な答弁を求めます。
また、救急現場での混乱や積極的な救命治療が
臓器移植のための
臓器の質のためにはマイナスに働くという点について、
厚生省の認識を御答弁いただきたいと存じます。三第四は、
我が国における
医療不信の問題についてです。
脳死臨調
答申は「
臓器移植もまた、その前提に
国民の
信頼感があって初めて円滑に進め得る
医療である。
移植医療に対する
不信感が
人々の心の底にあっては、善意に基づく
臓器の
提供自体おぼつかない見通しとなるからである。」と述べています。また、「少なからぬ
医療現場では、いまだ権威主義的姿勢ないしパターナリズムが残存し、医師の間にこうした
不安感に十分こたえる姿勢が欠けていることが、
医療に対する
不信感をもたらす結果となった」とも指摘しています。
脳死臨調の指摘を待つまでもなく、
我が国における
医療不信がどれほどのものであるかは想像にかたくありません。これら
移植医療の信頼獲得と
不信感の払拭に当たっては、
厚生省は具体的にどのような施策の中でその実現を図っていくおつもりであるのか、御答弁を願います。
医師の
倫理規範の最高の指針とされる「ヒポクラテスの誓い」の中で、古代ギリシャの医師ヒポクラテスは「我が力を尽くし、我が誠の心を尽くし、病人のたかに手だてを尽くし、危害を阻止するように専心すべきであります。第一に
患者の安寧を思い、不善不義を遠ざけ、殊に男女を問わず、自由市民と奴隷とを分け隔ていたしません」と述べています。ここには、現代の
移植医療にかかわる者が傾聴すべき示唆が多く含まれています。
移植を一日千秋の思いで待っておられるレシピエントの皆さんの存在は、私も十分に認識をいたしております。しかしながら、
臓器提供の際に強要が起こらないように、またドナーとレシピエントの双方の人権をいかにして守ることができるのか、それらの点に十分に
配慮をしつつ、厚生
委員会においては拙速を慎み、慎重にも慎重を重ねた
審議を求めたいと思います。そして、大多数の
国民の支持が得られるような
法律をつくるという立法府の責任を全うすべきであると思います。
最後になりますが、戦後日本の憲政史上初めて、
本案の
採決に当たっては、各会派において党議拘束を外す方向で今
検討が進んでおります。死の概念を変更し、日本の終末期
医療に根本的な変容を迫るこの重大な法案でございます。どうぞ議員諸氏の真摯な取り組みをお願いいたしますとともに、立法府の英知を結集し、より矛盾の少ない
法律を制定できるよう慎重な
審議を求めて、私の質問を終わります。(
拍手)
〔野呂昭彦君
登壇〕