○副
議長(
鯨岡兵輔君) 本日
表彰を受けられました他の
議員諸君の
あいさつにつきましては、これを
会議録に掲載することにいたします。
――
―――――――――――
山原健二郎君の
あいさつ
私はこのたび
院議をもって「永年
在職議員」として
表彰をうけました。ここに院を構成する
同僚議員と
関係者各位に心から
お礼を申し上げます。特に
四半世紀の長きにわたりかわらぬご
支援をいただいた
高知県民のみなさんに
衷心より
感謝いたします。かつて
吉田茂、
林譲治氏などの
政治家を輩出し「
保守王国」といわれた
農漁村県において連続九期にわたり
日本共産党の
議席を与えてくださったことは、さすがに「自由は土佐の山間より出づ」といわれた「自由・民権」の精神の
脈うつ地のなせるたまものと感動をこめて報告する次第です。
私は一九六九年(
昭和四四年)初
議席をえて以来、主として
教育問題にたずさわってきました。かつて
日本の
教育は子弟を戦場にかりたてる役割をはたしてまいりました。戦後深刻な反省のなかで「教え子を再び戦場に送らない」との教訓をみちびき出し、私もその
提唱者の一人として、この道を一筋に歩んで来ました。そのなかで戦前からあらゆる迫害に耐えて反戦平和をつらぬきとおした
日本共産党を知り、その
一員として赤いじゅうたんを踏み、以来「
憲法」と「
教育基本法」のさし示す理念の正しさを確信し、
民主教育の確立のため
全力をあげて来ました。
いま
冷戦は終わった。保革のちがいはなくなった。などの論が横行していますが、敗戦後半
世紀を経た今日も百数十の
米軍基地が国内いたるところに蟠踞し、主食のコメすら
国内自給を許さぬという
主権侵害の屈辱が強要されています。民族のあらゆる
主権と誇りを取りかえし
憲法の平和的・
民主的条項をくらしのなかに全面的に生かすことこそ真の革新・
改革の道と考えています。
私も
高齢者の仲間入りをしていますが、「全国の
高齢者起て、
憲法第二五条にうたわれた“健康で文化的な
生活を営む権利がある”を
名実ともに手中ににぎり幾多の苦難をくぐりぬけた
高齢者を守り、若者の命をまもるために奮闘しよう」とよびかけているところです。
この大道を切りひらくことこそ私にとっての生涯の仕事であり、国と
国民のみなさんの負託にこたえる道と考えています。
道はこの 九十九(つづら)折る道
いばら道 古稀すぎてなお この道をゆく
初心を忘れることなくこの
道一筋に不退転の
決意で歩みつづけることをここに表明しまして謝辞といたします。
…………………………………
佐藤守良君の
あいさつ
この度、
院議をもって永年
勤続議員としての
表彰をご
決議賜り、誠に身に余る光栄であり
感謝にたえません。これもひとえに、二十五年の永きにわたり
地元広島県第三区の
皆様のあたたかいご
支援と私を支えてくださった諸
先輩はじめ
関係各位の
皆様の賜であり、心から厚く
御礼申し上げます。
顧みますと私が初当選できましたのは
昭和四十四年十二月で、
沖縄県の
祖国復帰を
国民に問いかけた
我が国にとって戦後の節目ともいうべき総
選挙のときでありました。
以来今日まで、連続九回当選させていただきましたのも全く
皆様の
おかげと重ねて厚く
御礼申し上げます。
今、思いますのに、私が今日ありますのは、今は亡き
田中耕太郎先生(元
最高裁判所長官)、
永野護先生(元
運輸大臣)、
永野重雄先生(元
日本商工会議所会頭)のお三方から受けました教えのかずかずと、励ましてあります。特に
衆議院議員を志し、挑戦すること三度、失意のつど、人間が生きていくために一番大事なことは「
初心忘るべからず」であり、「常に誠実たれ」であるという教えは私の終生変わることのない
政治信条となっております。
また、
政治家として弱者への思いやりを忘れることなく弱い立場に立って考え、行動すること、地域による
不公平格差をなくす
地方分権の実現をめざして参りました。
おかげさまで、この間に何度か歴史に残る国家的な出来事に携わり、
皆さんと喜びを共にすることができました。
昭和五十六年、
全国新幹線鉄道整備法の
議員立法の実現にこぎつけ、東北・東海道・山陽各
新幹線に
追加新駅設置の道が開け、多くの
方々の役に立ったことが忘れられません。また、私が
全力を尽くしました本四架橋・新尾道駅・東福山駅・広島新空港などが陽の目をみた時の郷里の
皆さんの笑顔が今も脳裏に焼き付いております。実に嬉しい思い出です。しかし、
政治家にとって大切なことは未来をどう切り拓くかであります。
そこで、私といたしましては今日の
栄誉と感激を胸に刻み、さらに新たな
決意をもって、国のため、地元のため
全力を尽くす
覚悟ております。私はいつも国と
地方の
一体的発展に尽力することこそ
国会議員の
使命であると考え実行して参りました。これからも同じ考えで進みます。終始一貫、筋を通し
政治改革を実現する為、昨年苦渋の選択により時の
政権与党を離れ、同志と共に
政治改革完結に邁進しております。
なにとぞ
皆様方には今後尚一層のご
指導、ご
鞭撻を賜りますようお願い申し上げ、
御礼のご挨拶と致します。ありがとうございました。
…………………………………
村田敬次郎君の
あいさつ
この度、二十五年
在職議員の故をもって、
院議にて
表彰のご
決議を賜りました。誠に光栄であり、
感謝に堪えない次第であります。
これもひとえに、
郷土愛知県、特に東三河の
皆様方のご理解、ご
支援によるものでありまして、心から深く
御礼を申し上げます。
顧みますれば、私が初当選しましたのは
昭和四十四年の第三十二回総
選挙でありました。
日本はもとより
世界はこの時期以来大きな変化が次々と起ってきました。わけても、最も大きな課題のひとつとなった
地方分権、
地方自治等に触れて、私が年来考えております新
首都建設推進について述べたいと思います。
二十一
世紀に向かって、
世界は大きく変化しつつあります。
民族国家(ネイション・ステーツ)の
時代から、
恒星地球(プラネット・アース)の
時代へと大きく動いているとある
宇宙飛行士が指摘をいたしました。
我が国でも初の
女性宇宙飛行士である
向井千秋さんが
宇宙に飛び立ちました。こうしたことに象徴されるように、新しい規模での
政治、
世界への展望が語られる
時代になってきました。その中で
日本は、二十一
世紀の
グランドデザインとして、新
首都建設が象徴する
地方分権を推進していくことが重要になって参りました。
私は、
昭和三十九年の
河野一郎建設大臣(当時)の閣議での
発言以来この課題を追求し続けて参りました。また、
地方の
理想的形態として、新首都がひとつのシンボルとなり、北海道から
沖縄まで、新しい都市と
農山漁村が均衡ある
発展を遂げ、光り輝く「真珠の
ネックレス構想」を主張し、あわせて
国会においても新首都問題についての発案著として、度々取り上げて参りました。
そして、
平成二年十一月七日
衆参両院においで、「
国会等の移転に関する
決議」が行なわれるとともに、
平成四年十二月、
議員立法として「
国会等の移転に関する法律」が成立したことは、極めて画期的なことであると思います。
今回の二十五年の
表彰を契機とし、新たな
決意と展望をもって、私自身にとってもライフワークとして、また
使命として新
首都建設を推進することを思い、二十一
世紀を
目前にひかえ、次の世代に力強く引き継げるようなお一層精進していく所存でございます。
今後とも、
皆様のご
指導、ご
鞭撻を心よりお願い申し上げまして、
御礼のご挨拶とさせていただきます。
…………………………………
左藤恵君の
あいさつ
この度、
衆議院在職二十五年の故をもって
院議にて
表彰の御
決議を賜りました。誠に光栄であり、
感謝に堪えません。これひとえに
先輩、
同僚議員のご
指導、ご
鞭撻の賜物であり、厚く
御礼申し上げます。更には
郷土大阪、特に
大阪第六区の
皆様方の変わらぬご
支援、ご厚情に対してはどのように
お礼を申し上げてよいか、その
言葉もありません。唯々、
感謝の気持で一杯であります。有難うございました。
顧みれば、
昭和四十四年十二月、
佐藤内閣の下、
沖縄返還が決定しての解散、総
選挙に初めて立候補し、初当選させて頂いてより、所謂五五年体制の下、
米ソ対立の
冷戦が続く中、都市問題、
教育の振興、
情報化時代の
通信政策、
中小企業対策、
地方分権の
推進等に微力を尽くしてまいりました。
国際情勢も大きく転換し、二十一
世紀を間近に控えて、
政治が今程
国民のご理解を得るよう努めなければならない時はありません。
国民の
政治に対する信頼を回復するために、私たちは
政治改革の礎になろうと新生党を結成し、昨年九度目の当選をさせて頂きました。
来るべき新しい
時代に向って、
我が国を取りまく
世界情勢は、更に厳しいものとなり、
国民のニーズも多様化し、物質的な豊かさだけでなく、心の豊かさ、ゆとりを求めております。
高齢化社会への急速な展開にも対応しなければなりませんでこの
四半世紀の
国会活動を通した経験を生かし、明るい見透しのある
政治に向って、努力いたしたいと思います。特に
地球環境の保全と
世界の中の
日本の
発展をめざして
全力を尽くすことをお誓い申し上げます。
時恰も関西国際空港が開港いたしました今日、
表彰に浴するという
栄誉と感激を深く肝に銘じ新たな
決意と
覚悟をもって、
国政の
発展に一層微力を捧げてまいります。
今後とも
皆様のご
指導、ご
鞭撻を心からお願い申し上げまして、
お礼の
言葉とさせて頂きます。
…………………………………
東中光雄君の
あいさつ
私は、このたび
院議をもって、永年
在職議員の
表彰をうけました。望外の喜びであり、
感謝の念に堪えません。二十五年の長きにわたり、私を
支援し、
日本共産党の
議席を守っていただいた
大阪二区の
支持者の
皆さんに心から
お礼を申しあげます。
私は、かつて
米軍全面占領下の
国会で、この壇上から「全
占領軍の即時、
完全撤退」を主張し、そのことの故に
国会議員を除名されても断じて節を曲げなかった
川上貫一代議士の後を受け継いで、一九六九年の総
選挙で本院の
議席を得たのであります。
顧みますと、わが国は、私が小学校に入った一九三一年、
中国への
侵略を開始し、十五年
戦争に突入しました。私は、
日本帝国主義の
侵略戦争強化、拡大のなかで成長し、四五年六月、零戦
特攻隊員となりました。文字通り「決死の
覚悟」をしたのであります。それだけに、戦後、
太平洋戦争は一体何であったのか真剣に追求してまいりました。
太平洋戦争は
侵略戦争であります。
国民主権と
侵略戦争反対をかかげてたたかいぬいた
日本共産党への
徹底弾圧と
日本国民への抑圧によって強行された
侵略戦争であります。この歴史的事実を確認することが戦後
政治の原点です。
日本国憲法は、この
侵略戦争への反省のうえに、政府の行為によって再び
戦争の惨禍が起こることのないように
決意して、
国民主権と恒久平和の原則をうちたてたのであります。この
憲法の
平和的民主的原則の
擁護こそ私のいっかんした
政治的信念であります。
私の
国会活動の
出発点は、
沖縄の
無条件全面返還と
日米安保条約の廃棄、
日本の独立・平和のたたかいであり、
公害規制をはじめ大
企業本位の
政治を
国民本位に変えるたたかいであり、
ロッキード疑獄の
徹底究明でありました。
いま、
憲法九条をないがしろにする
改憲策動が公然とすすめられています。
憲法九条は、
世界史の流れに照らして国際的な
先駆的意義をもつものです。
日米安保体制をテコにした自衛隊の
海外派兵態勢の強化や
国連安保理常任理事国入りをめざす
軍事大国への道は九条をふみにじるものであり断じてゆるされません。
新・旧連立諸党が「
政治改革」の美名のもとに導入しようとする小
選挙区制は、
民意をゆがめ、虚構の多数
議席によって「強力な
政治」をつくろうとするものであり、この道が
国民生活にも重大な困難をもたらすことは、
公約違反の
消費税税率アップや
コメ自由化などの
悪政実施を競いあっていることでも明らかです。
また、私はこの二十二年間、
議院運営委員会理事会にあって、
国会の
民主的運営と
議会制民主主義の
擁護のために奮闘してきました。私はあらためて「
国対政治」「
密室談合政治」の打破、金の力で
政治を支配する
企業献金の
全面禁止をつよく主張するものです。
私は、ひきつづき
国会議員として、
憲法の
平和的民主的原則の
擁護と
完全実施に
全力をつくす
決意をここに表明して謝辞といたします。
…………………………………
綿貫民輔君の
あいさつ
ただいま、本院永年
在職議員として、
院議をもって御丁重な
表彰の御
決議を賜わり、
議会人として、また
政党人としてまことに身に余る光栄であり、
感謝にたえない次第であります。
私が
在職二十五年の長きにわたって
国政に参画し、今日このような
栄誉に浴することができましたのは、ひとえに
先輩、
同僚議員の
皆さんのご厚情と
郷土富山県の
皆様方の多年にわたる温かい御
支援のたまものでありまして、この
機会に心から深く
お礼申し上げる次第であります。
顧みますと、私が本院に
議席を得ましたのは、
昭和四十四年十二月の第三十二回総
選挙のときでありました。
この
師走選挙には、二つの特徴がありました。
まず第一は、
選挙運動の
自由化として初のテレビの政見放送が実施されたことであります。
もう一つは、当時の
佐藤内閣総理大臣とニクソン米大統領との日米首脳
会議において「一九七二年中の
沖縄施政権返還」が合意されたのに伴い、「
沖縄・安保
選挙」と呼ばれ「七〇年代の選択」として総
選挙が展開されたことであります。
私が「七〇年代の選択」とし
沖縄返還を問う総
選挙で初当選し、その後
昭和六十一年七月の中曽根内閣において
沖縄開発庁長官(国土庁長官、北海道開発庁長官、三長官兼務)として初入閣し、
沖縄県民の
発展のために
全力を傾注出来ましたことは無上の喜びと考える次第であります。
昨年から今年にかけて、
日本の
政治は五五年体制の崩壊にともない、大変な激動期を迎え、議会運営のあり方が大きく問われております。一方、諸外国においても、
冷戦構造の終結を契機に国連を中心とした未曽有の変革期に直面しております。こうした中、
我が国の果たす役割は、なお一層重大な責任が課せられております。
政治経済分野に限らず、新しい国際秩序の構築に向けて大いなる貢献が求められております。
私はこの
政治の転換期に際し「至誠天に通ず」の処世観を持って今後の
日本の
政治の
改革に取り組んでまいる所存であります。
今日の
議会制民主主義は、あまたの先人、諸
先輩の御努力により、幾多の変遷を経て
改革され、現在にいたっております。
私は
議会人として二十五年間の
政治活動を振り返り、我が身に課せられた責務の大きさを改めて胸に刻みながら、七年後に迫った来るべき二十一
世紀に向かって新しい
出発点としたい
決意であります。
最後に本日の
栄誉を機に、心を新たにして
国民の負託にこたえ、
国政、
憲政発展のためなお一層微力をささげることをお誓い申し上げ、
御礼の
言葉といたします。
…………………………………
林義郎君の
あいさつ
この度、永年
在職議員として
院議をもって
表彰のご
決議を賜りました。
議会人として誠に光栄であり
感謝に堪えません。これもひとえに
先輩同僚議員のご
指導ご
鞭撻と、
郷土山口県特に山口第一区の
皆様方の多年に亙る温かいご
支援のたまものであり、心から
御礼を申し上げます。
私が初当選しましたのは
昭和四十四年十二月第三十二回総
選挙であります。郷党の
先輩周東英雄先生が引退されるに当り、後継としてご指名を受けた日から投票日まで五十八日間、無我夢中の
選挙戦を闘って栄冠を得たのであります。当時の佐藤栄作首相が
沖縄返還に執念を燃やされた時でもありました。
佐藤栄作先生は山口県の出であり、個人的にも親しい間柄でありました。先生からは「高度
経済成長の
時代は終わり、社会開発の
時代に入った」という教訓を賜りました。私は前身が通商産業省の官僚でありますが、
時代の変化に即応して
政治は動くものであると考え、
国会においては「公害対策並びに環境保全特別委員会」に席をおき公害
国会といわれた
国会をこなし、
昭和四十七年には瀬戸内海環境保全臨時措置法を
議員立法として成立させました。この法については、産業界からの反対や環境団体からの手緩いという批判もありましたが、
時代を卜するものと確信してこれに努力したのであります。
昭和四十六年七月に米国と
中国が国交正常化をし、
日本も
昭和四十七年九月には歴史的な日
中国交回復を田中首相の決断で果たしました。その下で下働きをした者として深い感銘を受けた出来事でありました。
国際
経済においてもドルの金本位離脱により四十六年十一月一ドル三六〇円が一気に三〇六円になり、
昭和四十八年十月第一次石油ショック、
昭和五十四年十二月第二次石油ショックがおこり、これに対しプラザ合意、ルーブル合意と先進国側の協調の努力も重ねられましたが、不安定な国際
経済時代を経験してきたのであります。この中にあって
我が国は多くの苦難を克服しつつ
経済の運営につとめ、又年金、医療をはじめとする福祉政策の充実につとめて参りました。この間にあって
経済企画政務次官、大蔵政務次官を務めさせて頂きましたが、厚生大臣として老人保健法の施行、健康保険における自己負担制度、基礎年金制度の確立につとめさせて頂きました。又、
平成時代に入っては
日本の国際貢献の方向を示す所謂PKO法の成立に特別委員長として尽力し、引続き大蔵大臣としてバブル
経済の後始末、景気回復に努力して参りました。
政治の流れは一刻も止まる所を知らぬ大河の動きであります。
国政を誤りなきよう二十一
世紀に向かって大きな一歩を踏み出すべく渾身の努力を致す
決意であります。今後とも変らざるご
指導をお願い申し上げて、
お礼の
言葉といたします。
…………………………………
奥田敬和君の
あいさつ
本日、永年
在職議員として
院議をもって
表彰のご
決議を賜わり、
議会人として、これに勝る
栄誉はありません。委員室で見上げた
先輩政治家の肖像画に接し、二十五年の議員歴のいかにきびしく、遠いものであるかと、畏敬の念をもって眺めておったのが、つい昨日のようであります。それだけに、
四半世紀の永きにわたり、本院に
在職、活動できましたことは、
感謝感激の至りで、
選挙区石川の
皆様のご厚情とご
支援に対し、また
先輩、友人のご
指導の
おかげと、心から
お礼申しあげます。
私たちが初当選を果した
昭和四十四年は、米
宇宙船オリンピア号が人類初の
月面着陸に成功した画期的な年であり、また
日本経済も成長軌道に乗り、繊維、鉄鋼をめぐり、日米
経済摩擦が顕在化してきた時期でありました。他方、アジアでは、ベトナム
戦争の戦火は収まらず、カンボジア内戦に波及し、中ソ論争は、米中接近を誘発し、複雑な外交展開の中で、米ソ超大国が火花を散らす緊張と対立の
時代でもありました。
「
沖縄の返還なくして、戦後は終らない」の名言で、佐藤総理は
沖縄返還を実現し、米サンクレメンテで行われた佐藤・ニクソン会談に同行議員として、歴史的瞬間の場に接した感動は忘れることはできない。日中正常化前の周恩来首相との対面で、彼の鋭い
国際情勢の分析から、
日米安保体制支持の言質を得たときの感激、
日本の頭越し米中接近で、当時米上院民主党院内総務だったマンスフィールド議員との出会い。アジア情勢に精通した同議員の貴重なアドバイスは、その後の田中総理の日中正常化への決断に大いに役立った等々、一年生議員
時代の感激と感動を、つい昨日のように生々しく想い起し、まことに感慨無量であります。いまや、わが国も幾多の試練を乗り越え、米国に次ぐ第二の
経済大国の地歩を占めるに至りました。
世界は
冷戦構造の崩壊をうけて、新しい国際秩序への模索を始めており、わが国に責任と分担を求める声は日増しに強まってきており、これから逃れる術はありません。
内に円高による
経済対策、
国民生活の質的向上、さらに高齢化対策をかかえ、外に爆発的人口問題、
地球環境問題等々、
政治が解決しなければならない難問題が山積しております。今日ほど
政治の責任の重いときはない。
政治を
改革し、常に緊張と活力をはらむ
政治体制の確立に最后の努力を傾注して、二十一
世紀の橋渡し役の任を全うしたいことをお誓いし、
お礼の
言葉と致します。
…………………………………
松永 光君の
あいさつ
この度、永年
在職議員として
院議をもって
表彰を賜わりましたことは、議会
政治家としてこれに優る
栄誉はありません。誠に身にあまる来栄であり感激の極みであります。
この
栄誉に浴することが出来ましたのは、
先輩諸先生のご
指導、ご
鞭撻によるものであり、特に埼玉一区の
皆様の暖いご
支援のお蔭であります。ここに心から
御礼申し上げます。
私が初当選しましたのは、
昭和四十四年十二月の第三十二回総
選挙であります。この時期は、東京大学安田講堂が一部の学生団体で占拠される等の学生騒動が一応の鎮静をみて間もない頃でありました。
経済は
大阪万博を
目前にし、高度成長が続いている頃でした。私は
国政の場で、
教育の正常化、さらには
教育改革を行い、これによって次代を担う青少年を、心身共に健康で、且つ知的水準の高い、道徳心をもつ人間に育成することこそ、
国政の最重要課題と認識し、一心不乱にこの問題と取り組んで参りました。また産業
経済の分野では、
経済の持続的成長をはかり、これによって
国民の
生活水準の向上を成し遂げると共に、中小企業など弱い立場にあるものについて特に暖い政策が遂行されるよう努力を傾注して参りました。
いま二十一
世紀を
目前にしてわが国をめぐる内外の情勢は極めて厳しいものがあります。特に
高齢化社会の中で、
日本国民が安心して豊かに暮らして行けるようにすることが、これからの
政治の最大の任務であり、
政治家の責任はいよいよ重くなってきたと認識しております。私はこの度の
表彰の
栄誉を頂いた
機会に、心を新たにして
政治家の
使命達成を目ざし、
全力で頑張る
決意であります。
今後とも変わらざるご
指導、ご
支援を賜わりますようお願い申し上げ、
お礼の
言葉といたします。
…………………………………
土井たか子君の
あいさつ
このたび、
衆議院議員として永年
在職の
表彰をいただきました。今日まで議員として終始、苦楽をともにしてくれた秘書とも力をあわせて、及ばずながらせいいっぱい務めてくることができました。まことに有り難く、感無量でございます。
一九六九年十二月二十七日。私は一人の学究の徒から立候補して、初当選した日です。以来、この二十五年の道程。その一日一日は常に新しいものでした。苦しくも、難事をのりこえることのできたときは、全国の皆さまのよろこばれる面影に想いを馳せるときでありました。
非力な私が、ここまで来れたのは、何よりも第一に、九回の総
選挙を一度も落選させずに励まし、強く支えてくださった兵庫県第二区の有権者の皆さまがあったればこそであります。それに対して、直接ご
あいさつをすることのなかった私は、いま、
言葉ではいい尽くせない
感謝の気持を、やはり月並みな「ありがとうございます」という表現で、ただただ厚く
御礼を申しあげるばかりでございます。
また、この間、いずれも字義通りに図らずものことで、苦渋を伴うものではありましたが、
日本社会党の委員長となり、そして、只今は
衆議院議長の重職にございます。非才を顧みて忸怩たるものがあります。これも有権者の皆さまとともに
同僚議員の皆さまのご厚情によるものであります。
感謝の
言葉もございません。
来年は戦後五十年をむかえます。その後半の
議席にあったこの二十五年は、
世界と
日本の
政治にはきわめて深く大きな変動があり、いまも私たちに厳しい選択を日々迫っております。
日本の進路を示す
日本国憲法に示された人類普遍の理念に私は深く共感し、
憲法を暮らしと
政治に生かすことを思想と行動の中心に据えて、今日までの議員
生活を過ごして参りました。顧みて、まだまだ不十分であって、その成果の薄く、ささやかであることを恥ずかしく思います。
しかし、今日の激動のなかで、
議会制民主主義と政党の健全な活動が今くらい大事なときはないことを思いますと、なお、初心を胸に、皆さま方の厳粛な信託に応えて、渾身の力を振るう
覚悟でございます。
皆さま方のご健勝を念じますとともに、私自身、健康にも留意致しまして、このうえも務めを果たすことをお誓い申しあげたいと存じます。
…………………………………
高鳥 修君の
あいさつ
この度、永年
在職議員として
院議をもって
表彰のご
決議を賜りました。まことに光栄であり、感激に堪えません。これひとえに
先輩同僚議員のご
指導とご
鞭撻、
郷土の
皆様のご理解とご
支援の賜物であり、心から
感謝申し上げます。
私が初めて
衆議院選挙に立候補致しましたのは
昭和四十二年、黒い霧解散による新春総
選挙でありました。この時は事前の準備もなく、豪雪にも妨げられて落選しましたが、苦節三年、四十四年十二月初当選の
栄誉を得ました。
国会では土井現
衆議院議長、綿貫元自民党幹事長などとともに
地方行政委員会に所属し、塩川
先輩や故砂田・古屋
先輩、社会党では山口現総務庁長官などにお世話になりました。
この最初の
国会で、我が
郷土に最も関係の深い過疎対策緊急特別措置法を
議員立法で成立させ、翌年は私自身の提案で豪雪基本法を改正して特別豪雪地域を設定することが出来ました。
佐藤内閣の総仕上げとしての
沖縄返還協定批准の
国会の大荒れも今は懐かしい思い出です。
昭和四十七年七月七日「
日本列島改造論」を引っ提げ、決断と実行の
政治を訴えた田中内閣が成立、日
中国交回復を実現して
国民の大きな支持を得ましたが、オイルショックによる狂乱物価・物不足にあおられ、金脈問題もあって志半ばで挫折、その後ロッキード事件で起訴され、最高裁の判決を待たずに他界されたことは、同郷の後輩として、また田中派の
一員であった者として、大変残念に思っております。
議員立法として自然災害弔慰金制度の制定・火山災害対策立法・貸金業法(サラ金規制法)などに関与しましたが、ざる法といわれながらサラ金規制法の効果は真に顕著でありました。
ふるさと創生を提唱した竹下内閣で総務庁長官を拝命し、「さわやか行政サービス」を実行し、「個人情報保護法」を成立させましたし、宮澤内閣では不信任案可決、自民党分裂、解散という異常事態の中で、短い期間でしたが
経済企画庁長官も経験出来ました。
私は
昭和二十九年十一月、二十五才で町長
選挙に当選して以来、県議
会議員をへて今日までちょうど四十年間、「政清人和」をモットーとして、清潔な
政治姿勢を堅持して参りました。栄えある
表彰を頂いたのを機に、自らを厳しく律し、国家・
国民のため、
郷土の
発展のため尽くす
決意を新たにしております。
…………………………………
不破哲三君の
あいさつ
今回、
院議をもって、永年勤続の
表彰をうけたことについて、謝意を表するものです。
これは、ただ私ひとりの問題ではありません。この間の九回の総
選挙で、政局のあらゆる激動やさまざまな困難をのりこえ、
日本共産党の
議席をからとりまもりぬくために協力いただいた、東京六区のすべての
支持者のみなさんの
栄誉に属するものであります。
私の初当選は一九六九年十二月の総
選挙でした。当時の
日本は、一方では
日米安保条約の固定期限の終了がせまり、他方では大企業中心主義の「高度成長」政策の諸結果が、
国民生活と
日本列島を深刻にむしばむなど、
日本の進路の如何が切実な問題として問われていました。
日本共産党はこの時期に、
日本の新しい進路をひらく
国政の基本課題として、(1)日米軍事同盟と手をきり
日本の中立をはかる、(2)大資本中心の
政治を打破し
国民のいのちとくらしを守る
政治を実行する、(3)軍国主義の全面復活・強化に反対し、議会の
民主的運営と民主主義の確立をめざす、の三つの目標を提起しました。その後、
日本社会党との間では、三回にわたる党首会談で、この三目標が両党の共同行動の政策的基準として確認されました。このことは、革新三目標が、一政党だけの党派的な基準ではけっしてなく、
日本の社会と
国民の必要にこたえる客観的な意義をもつことを証明するものでした。
八〇年代をへて、諸政党の政策的立場は大きく変わり、
国会内では、
日本共産党以外のすべての党派が自民党
政治の継承を共通の
政治路線とするにいたり、革新三目標の立場に立つ政党は、私たちの党以外にはなくなりました。しかし、政界との金権的な癒着のもとでの大企業の横暴と特権や、ソ理解体後も
日本を
アメリカの「
世界の憲兵」戦略の拠点とし、
憲法にそむく海外派兵まですすめる
日米安保体制は、その形態こそ違え、内容的には二十五年前以上の深刻な被害を
日本の社会と
国民におよぼしています。
三代の連立内閣のもとでも、自民党
政治の枠組みは忠実にひきつがれてきました。この古い枠組みを
国民の立場で打開することこそ、
政治の民主的再生の道であり、革新三目標は、そのための基準として、いまあらためて新鮮かつ重大な意義をもちつつあります。
私は、
国会議員としての今後の活動のなかでも、この立場で
全力をつくすつもりでいることを申しのべて、永年勤続の
表彰をうけての謝辞とするものです。
…………………………………
唐沢俊二郎君の
あいさつ
この度
院議をもって永年
在職議員としての
表彰のご
決議を賜りました。この上ない光栄と存じ、感無量であります。これもひとえに
先輩同僚議員から頂戴した数々のご
指導、ご厚情の賜であり、心から
御礼を申し上げます。さらに
郷土長野県の
皆様、とりわけアルプスの麓にある第四区の郷党の
皆様に、深く頭を垂れて
感謝の誠を捧げたいと存じます。
想えば
昭和四十四年十二月、第三十二回総
選挙で初当選致しましたが、私の故郷山形村は普選の父といわれる中村太八郎翁を輩出した地でありますので、その理想と熱情をわが心と致したいと念じつつ今日に至りました。
顧みれば、当時の世相は外ではインドシナ半島で戦火が交わされ、内では大学紛争が各所で嵐のごとく吹き荒れておりましたが、
国会は
選挙直前の十一月、
沖縄返還が日米両国で確約され、その批准を巡って議論が交わされておりました。
当時と現今を比較すると、
四半世紀の歴史が確実に刻まれております。
政治的には、米ソという東西二極の対立の構図が、
平成元年、ベルリンの壁崩壊を機に終焉を迎え、いまや人種や宗教の争いに変貌してきております。こうした
時代を背景にして、
世界的に保革連合が大きな潮流となり、
我が国の政界地図も一色から多色の連立政権に塗り変わりました。
経済的には、
我が国は戦後復興から
経済発展の一途をたどり、第一次・第二次のオイルショック、円高不況をも克服してきたのですが、その勢いはバブル
経済という砂上の楼閣を築き上げ、やがてそれも崩壊。今や、円高、産業の空洞化、ひいては雇用不安、また出生率の低下等、未だ嘗て経験したことのない深刻な事態に直面しております。
政治政章も勿論重要でありますが、私は
経済界から身を投じた人間として、これらの
経済の難問に立ち向かい、新
世紀を希望の
世紀とするため、子孫に安定した力強い国を引き継げるよう、微力の限りを尽くしてまいりたいと存じます。
皆様の一層のご
指導、ご
鞭撻をお願い申し上げ
御礼の
言葉と致します。有り難うございました。
…………………………………
石田幸四郎君の
あいさつ
此の度、
院議をもって永年
在職議員表彰のご
決議を賜りました。
誠に身に余る光栄であり、謹んで
御礼を申し上げます。
これまで長きにわたり真心から支えて下さった
方々お一人お一人と共に喜びとこの
栄誉を分かち合いたいと存じます。
思えば、公明党が本院に初めて
議席を得ました頃、わが党の
政治手法は、未だ素人のそれでありました。体系付けた政策も少なかったと思います。私共議員は、毎日毎日ドブ板を踏みながら、各家庭にどんな悩みがあるか、行政の狭間で埋もれている
生活の矛盾はないかと問うて歩きました。赤裸々な庶民の
生活像の中から問題点を探り当て
政治の場に取り上げていったのです。こうして出来上がった政策、
政治の
世界では耳慣れない「中道
政治」「大衆福祉」を掲げながら、政界に新風を送ったのでありました。以来
先輩、同僚諸氏と共に地道な実績を積み重ねてまいりました。今や、福祉を語らぬ政党はありません。この誇るべき道程を歩み得た
政治家の一人として深い感慨を覚えるものであります。
また、自身の足跡をたどれば、思い出は尽きないところでありますが、中でも大学紛争盛んなりし頃、大学問題への提言を取りまとめ、放送大学構想を提唱し、それが後に放送大学学園法として結実した事や国鉄民営化の論議に加わり今日のJR誕生に幾分かの貢献ができた事等が懐かしく想起されてまいります。
他方、はからずも
平成元年五月より党中央執行委員長の任を受ける事となり、東奔西走の日々を送りつつ、その運営に専念してまいりました。
平成五年八月、巨大な汚職事件の摘発を契機としてついに保守一党支配の
時代は終焉し、その後成立した細川・羽田内閣のもとで私は、総務庁長官を拝命致しました。この間、行政手続法の成立をはじめ様々な規制緩和に精力的に取り組んでまいりました。
顧みれば、「黒い霧解散」の後に行われたのが、私の初当選の第三十一回総
選挙でありました
政治の浄化・
改革は、当時から喫緊の課題であったのです。しかしながら、爾来、二十七年余りを経て
政治改革はようやくその緒に着いたばかりであります。その歩みの遅さを嘆かざるを得ませんが、同時にこの機を逸してはならないと思います。
国政は尚、激動の最中にあります。
改革を目指す多くの同志と共に大きなうねりの中で
全力を尽くしてまいりたいと存じます。今後とも各位のご
指導ご
鞭撻を心よりお願い申し上げ、
御礼といたします。
…………………………………
渡部恒三君の
あいさつ
ただいま本院永年
在職議員として
院議をもって
表彰の
決議をいただきました。
顧みますと、私が本院に
議席を得ましたのは、
昭和四十四年十二月第三十二回総
選挙の時でありました。
雪深い会津に生まれた私は、少年の時より、国のため、ふるさとのために役に立つ人間になりたいと云う夢をいだき早稲田大学に進学いたしました。当時政界で活躍中の石橋湛山、緒方竹虎、三木武吉、浅沼稲次郎氏等の
先輩にあこがれ、
国会議員たる事を志しました。
あれから二十五年、ただひたすらに国のため、ふるさとのためと走りつづけて参りました。今、二十五年の歳月を振り返ると、院にあっては商工委員長、予算委員長等の大任をつとめ、厚生大臣、自治大臣・国家公安委員長、通商産業大臣等の要職も大過なくつとめさせていただきました。
ひとえに
先輩、
同僚議員の
皆さんと、
選挙区の
皆さんのあたたかい御
支援の賜物であり、心から
感謝申し上げます。
幼い時、私は母親から「恒三、ひとのために役に立つ人間になれ、人様から信頼され尊敬される人間になれ」と教えられて
政治家を志しました。
残念ながら今、
政治家は
国民から信頼され尊敬される存在ではありません。
戦後五十年、これほどの繁栄を築いた
政治が
国民から信頼されないのは何故か、
政治家は嘘つきではないのか、
政治家は悪い事をしているのではないかと云う疑いのためであります。
私は
国民に向かって、私の歩んできた道を見て下さい、これからの私のやる事を見て下さい、そう申し上げて
政治の信頼を取り戻したいと思います。
永遠なる美しき尊さものを守りながら、永遠なる価値あるものを創造するたゆまざる努力、今日まで歩んできた私の哲学であります。
激動する政局と内外の厳しい諸情勢の中で、民主主義を不動のものとし、
世界の平和と自由で豊かで明るいこの国の
発展と郷里の繁栄のため、さらに力一杯働かせていただくことを誓って、
御礼の
言葉といたします。
…………………………………
中山正暉君の
あいさつ
永年
在職議員として
表彰を受けるに際し、国家の命運を意義付ける場に席を得て二五年、その光栄を先づ神仏に、そして共に
国会議員を務めた天国の父母に、また
大阪市議会二期、
衆議院初出馬から連続九期、
支援を続けて下さった
大阪第二区
選挙民の皆々様方に、心よりの
感謝を捧げたいと思います。
私が大学を出た
昭和三〇年、母校の中央大学講堂が自由党・民主党、保守合同の舞台となりました。同じ年、左右社会党も一本化しました。いわゆる五五年体制と後に言われる
政治図式の発足でした。
昭和三八年からの
大阪市議経験を足場に、
昭和四四年、九四名の新人議員の一人となり、直後、
沖縄返還協定が批准され、一〇か月後には、本土復帰が実現して、
沖縄選出の
方々とも
議席を共にすることになりました。今般同期二〇名が共に受彰する事となり感慨無量です。
昭和四四年の国家予算規模は、六兆七三九六億でしたが、
平成六年のそれは、七三兆○八一七億と、実に一〇・八倍と国勢は増大しました。当時、ベトナム
戦争は泥沼化し、過激派は、ばっこし、大学紛争の頻発は大学管理法を成立させ、米・ソ・中と
冷戦構造は不穏な雰囲気を醸し出していましたが、中・ソの対立に乗じて米・中が突然接近し、米国の中ソ分断戦略は
日本にも影響を与え、日
中国交回復、平和友好条約締結と
国際情勢も変化し、対共産圏政策の変更は、自由
中国台湾に犠牲を強いた事もありました。私も郵政大臣として、
経済援助協議のため、中華人民共和国を訪れた思い出があります。
外交的変化は
日本の内政にも影響を及ぼし、革新自治体は大都市から都道府県へと、政権政党自民党の相乗りが始まり、遂に、国防、治安、外交、
教育内容と
国政の場にも自社連立の実現を見ましたが、このことは内外の時流を逃れば当然の帰結とも思われます。本年一〇月成田空港の対立も終止符が打たれ、九月には関西国際空港が開港し、既に軌道に乗っている東の筑波学研都市に対して、西の京阪奈学術文化研究都市は一〇月に都市開きしました。
大阪市政一〇〇周年記念花の万博開催にも寄与できた事は幸福でした。
お慕われになられて御崩御された
昭和天皇様のお姿が懐かしく偲ばれ、その御冥福と新天皇の彌栄を祈る者です。
ベルリンの壁の崩壊から
冷戦構造そのものが崩れ大
戦争の危機を遠ざけたことは嬉しい事です。大砲の筒先に花をと、民族、宗教的対立の少ない
日本の知恵が国際平和に役立つことを期待し、本議会が
世界の未来に貢献する機能を増大させることを祈念して止みません。
…………………………………
羽田 孜君の
あいさつ
このたび
院議をもって、永年
在職議員の
表彰を賜りましたことは、身に余る光栄と感激しております。思えば、父の引退表明によって郷里の
皆様からご推薦をいただき、サラリーマンから
国政の場に転身いたしましたのは、すでに二十五年前のことであります。初めてこの議場に入った折、
国政にたずさわることの責任の重みに身震いしたことを、今でも鮮明に記憶しております。浅学非才な私を純粋な思いで支え、たえず励まして下さった長野二区及び長野県民の
皆様応援して下さった全国の
皆様、あらゆる
機会にご
指導いただいた
先輩、同僚の
皆様、陰に陽に私の支えとなってくれた事務所のスタッフ、そして家族の一人一人に、この日にあたり改めて深く
感謝を申し上げます。私が今日賜った
栄誉の大半は、本来、これらの
方々に帰するものであります。
この二十五年間は
日本にとっても、
世界にとっても、まさに激動の
時代でありました。私が
議席を得た当時、一ドルは三百六十円。自動車やコンピューターの
自由化慎重論も根強く、農業の構造改善事業に対しても「小農切捨て」だとする反対論が強く残っておりました。高速道路の建設も「大企業奉仕」ではないか、との議論が真顔でなされておりました。
冷戦後の今日、
国際社会のほとんどの国が自由主義、市場
経済を目指し、国内におきましても脱イデオロギーの
政治、
経済論議が始まったのを見る時、今昔の感に堪えません。
しかしながら
国際情勢の急激な変化は、一方で宗教、人種、国境の問題に起因する局地的な紛争を多発させるなど、
世界の新秩序形成の道は、希望と不安が混在する、極めて困難な道であります。その中で、今日の
日本が求められているのは、内政にあってはこれまでの古い枠組みを勇気をもって変え、課題を先送りにせずに新たな質の高い国家の礎を築くことであり、
国際社会に対しては、
世界の理解があってこそ今日の繁栄があることを自覚し、追随ではなく積極的に役割を分担していくことであろうと信じます。
さらに来年は敗戦から五十周年を迎えます。この
国会では新しい
選挙制度の確立が
目前に迫っており、今こそ
日本の
政治を変え、活力と潤いのある
日本をつくるため、
政治がリーダーシップを発揮しなければならない時であります。
二十五年、いろいろな思いが胸をよぎりますが、同志とともに政界再編のきっかけをつくりましたことは、私にとって
政治生命を賭けた決断であり、この新しい
政治の流れを安定させるためにも、大いなる理想を掲げ、責任ある行動を起こしていく
決意です。今日までの経験を生かし、
国民と国に対する最後のご奉公の
覚悟で、
日本の変革に死にものぐるいで取り組んで参りますことを申し上げ、
お礼と
決意の挨拶にさせていただきます。
…………………………………
森喜朗君の
あいさつ
この度、
院議をもって永年
在職議員の
表彰を賜りましたことは、
議会人として誠に身に余る光栄であり、感激の極みであります。
これもひとえに多くの諸
先輩、
同僚議員のご
指導、ご
鞭撻、そして郷里石川県の
皆様方の深いご理解と暖かいご
支援によるものであります。ここに、厚く
御礼を申し上げます。
顧みますれば、私が初めて本院に
議席を得ましたのは
昭和四十四年十二月の第三十二回総
選挙でございました。期待した党公認を得られず、無所属の身ながら「あえて可能性に挑戦する」との
決意を固めた私に、多くの県民がご支持をお与え下さいました。
当時は、東西両勢力が厳しく対峙した
冷戦下で、
政治イデオロギーが激しくぶつかり合っていた
時代でありました。アジアには次第にベトナム
戦争の黒雲が広がり、国内では大学紛争の収束とともに
沖縄の本土復帰が日程に上ってきたころでもございました。
以来
四半世紀が経過致しましたが、私は連続当選九回を重相、
国政の大いなる
発展と
郷土の一層の繁栄に情熱を傾けて参りました。
この間に、わが国
経済は
国民のたゆまざる努力によって着実な
発展を遂げました。わが国が自由と民主主義を尊重し、市場
経済の原理を忠実に遵守してきた成果が実を結んだのであります。
あの劇的な「ベルリンの壁」崩壊に象徴される
東西冷戦の終えんは五年前の出来事でありますが、
世界はあの瞬間から新たな
時代に突入致しました。そして、わが国の国際的な責任と貢献の度合いが厳しく問われる
時代になったのであります。人口、環境問題、さらに貧困との戦いでも、
日本の大きな役割が期待されております。
わが国の存立は、何よりも
世界の平和と安定に依存しております。内政も
世界各国との協調と連帯を無視して進めることは不可能な
時代を迎えて、われわれは
国民の英知と努力とによってここまで築き上げた国際的評価と実力とを、正しい方向へ一段と高めていかねばならないと存じます。そのためには、間断なき
政治改革の実行を通じて
政治に対する
国民の信頼を取り戻し、勇気と責任ある政策を思い切って遂行していかねばなりません。
約一年に及ぶ野党の苦難を経験したのち、いま政権を担当する政党の幹事長として永年
在職議員の
表彰を賜ることは、感激ひとしおの思いであります。今回の
表彰を
皆様方のお励ましと有り難く受け止め、これを契機にさらに強く自粛自戒してわが国の
発展と
世界の平和、繁栄のため
全力を尽くすことをお誓い申し上げ、ご
あいさつと致します。有り難うございました。
…………………………………
佐藤観樹君の
あいさつ
この度は、永年
在職議員として、
院議をもって
表彰の御
決議を賜り、
議会人として、
政党人として、真に身に余る光栄であり、
感謝に堪えない次第です。
私がこの
栄誉に浴することができますのは、敗戦で焼土と化した
日本の復興と平和を期して、父・観次郎が
昭和二十一年四月、戦後第一回目(第二十二回)の
衆議院総
選挙に出馬以来、私の二十五年を含め、ほぼ半
世紀の長きにわたり御
支援をいただいた、
郷土・愛知三区の
皆さんを始め、
先輩、同僚の皆々様の御蔭であり、茲に改めて厚く
御礼申しあげます。
私が本院に始めて
議席を得ましたのは、
昭和四十四年(一九六九年)十二月二十七日、第三十二回総
選挙でした。〝激動の七〇年代〟といわれた幕開けの時でした。
この年は、戦後最長の好景気が続き、前年のGNPが西側で米国についで第二位、米国のアポロ十一号で、人類が始めて月面に第一歩をしるし、多くの議論の中で
沖縄返還が決まったという明るいニュースの反面、公害白書が始めて公表されたり、中ソ対立て武力衝突がおこったり、ベトナム
戦争も続いており、
日本は国連で中華民国を
中国を代表する政府と認めている
時代でもありました。
その後、二十五年間、一年づつを想起する毎に、まさに激動の歴史の中で、
国政に参画した感慨は一入であると同時に、
世界も
日本も様変りをし、全体的には、良い方向へ歩みを進めているといえます。
しかし、
東西冷戦の枠組みは消えても、新しい
世界秩序は模索中であり、核からの恐怖、民族・地域紛争、飢餓・貧困、
地球環境の破壊、南北格差の拡大など、依然として、解決を迫られております。
日本も、
経済規模の割には、
生活面でのゆとり・豊かさか実感できず、高齢化・少子化社会に向う中で、
経済構造、福祉、税制、行政
改革から
地方分権など、社会構造の大胆な
改革も緊急な課題です。
在職二十五年のうち、二十四年近くは野党として活動し、残りは自治大臣・国家公安委員長として、また現在は予算委員長として活動しておりますが、これらの多くの課題に引続き真正面から取り組んで参る
決意であります。二十一
世紀が
日本国民と
世界の人々にとって、より平和と繁栄の
時代になりますよう最大の努力をすることを誓い、変らぬ御教導を賜りますようお願いして、謝辞といたします。
…………………………………
小沢一郎君の
あいさつ
本日、本院の御
決議により、
在職二十五年の
表彰を賜り、
議会人として、また
政党人として誠に光栄に存じます。今日まで御
指導、御
鞭撻を賜りました諸
先輩、
同僚議員の
皆様に深く
感謝申し上げます。
また、
昭和四十四年の初当選以来、一度も途切れることなく
国政に参画できましたのは、
郷土岩手県の
皆様の温かい御
支援の御蔭にほかなりません。この
機会に心より
御礼申し上げます。
顧みますと、この
四半世紀の内外の変化は、常に、私たちの予想をはるかに越えたものでありました。特に、
東西冷戦の終結と、それに伴う
世界の
政治・
経済構造の激変は、ロシア革命、二度の
世界大戦に匹敵する二十
世紀の歴史的大事件であります。
それは、私自身にも、
政治家としての一大転機をもたらしました。
選挙制度
改革による
政治の
改革に
政治生命を賭け、その実現のために、二十四年間同じ道を歩んできた自民党に別れを告げて、新生党の結成に参画したことであります。
冷戦構造の崩壊は、
冷戦構造の下で
経済的
発展に専念してきた
日本にとって、平和と繁栄の基盤が揺らいだことを意味します。その激変に対応してまず
政治を、次いで行政、
経済、社会を自ら
改革しなければ、
日本が
国際社会で生き残り、今日の平和と繁栄を維持していくことは不可能であると確信したが故の決断でありました。
私は今、初当選直後に小
選挙区制の導入を柱とする
選挙制度
改革を唱えましたことを、昨日のことのように鮮明に想い起こしております。そして、
政治改革の第一段階の仕上げとも言うべき小
選挙区割り法案が審議される今
国会で、永年
在職の
表彰を賜りましたことに、何かしら宿命的なものを感じざるを得ません。
このうえは、愚直に己の
政治信念に従い、できるだけ早く「新生
日本」を担い得る
政治システムを確立し、平和と繁栄の基盤を再構築することに
全力を挙げたいと存じます。「
議会人第二期」を迎えた
覚悟を申し述べ、このうえない
栄誉に対する謝辞と致します。
――――◇―――――
議員請暇の件