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青島幸男君 ただいまも
お話に出ました高度
情報化時代ということでございますけれども、いつでもどこでもだれでもが良質で安全で安価な形で確実な情報が得られるというようになるのはとてもすばらしいことだと一見思うんです。
アメリカなんかでも大変熱心にやっておりますし、ヨーロッパなんかもそれに追随して負けず劣らずと言っていいですし、
我が国も、先ほどから話が再三出ておりますように、
情報化社会の
ネットワークとそれから
アプリケーションを確実なものにしていってということは結構なことだと思うんですけれども、これがどんどん進んでいって、究極我々の
生活はどうなるかということに思いをいたすときに、大変そら恐ろしい気がするんです。
と申しますのは、
郵政は
郵政で、それこそ厚生や文部とも話し合っていかなきゃならない、大蔵とも話をつけていかなきゃならないでしょうけれども、効率的に経済的に確実に事を行っていくためにはどうすればいいかということに心をお砕きになるのは当然のことかと思います。しかし、行き着く先がどこなのかということを一応目安として持っておかないととんでもないことになりはしないかなというふうな危惧を私は持っているわけです。
と申しますのは、今でも地上波七波あって、これから全国でも大体四波見られるようにしたい、こういうことでしょう。
衛星放送が二浪、三波ということになりますと、常に情報は散乱しているわけです。しかも、これから光ケーブルができて、各家庭に相互
通信ができるというようなことになる。しかも、携帯電話がここまで急速に
普及するとは私も思いませんでした。
ついせんだってですよ、携帯電話ができましたといってNTTの方から見せていただきましたが、それこそ大きな弁当箱ほどのものでしたけれども、それでも届くところと届かないところがあると言っていました。今はもう非常に便利なものができましたし、しかもこれはディジタルでやろうということでしょう。ディジタルにすると、おおむね
有線で結んだと同じくらいに、コンピューターと結べば、それこそ
ギガビットの
時代ですから、いろんなことができるわけです。
そうなりますと、身の回りにそういう情報が散乱しているわけですね。それは便利になることには違いないんですけれども、
生活の様式もかなり変わってくると思うんです。
生活の様式が変わってくるということは思考も変わってくるわけでして、その思考に基づいていくところの
生活感とか幸福感とかいうものまで変わってくるんじゃないかと思うんです。
例えば、
我が国でも終戦直後、ずっと家長、世帯主というようなものがありまして、父親が君臨しておりまして、一家の安全とその
教育なんかも全部見ていたわけです、経済なんかも。ところが、給与が
金融機関を通じて奥さんは明細書しか見ないということになりますと、かつては給料日のたびに奥様は、お父様、御苦労さまでしたと言って給料袋を神棚に上げて、皆さん、お父さんのおかげでこうやって
生活できるんだから感謝と感激をもってお父さんをたたえていきましょうというんで、一家団らんというものもあったわけですけれども、これが給与明細になりまして父親の権威はがたっと下がりました。
またしかも、女性の方々の進出がかまびすしいといってはなんですが、女性の方の進出が目覚ましい。ますます女性の方の経済力もついてまいりますし、自立心と申しますか男と対等にということで、そうなりますと、今までの幸せというのは何だったんだろうという思考の格好まで変わってきてしまう。
例えば、こういうところで言いにくい表現ですけれども、「家つきカーつきばばあ抜き」なんという、それこそ核家族化が進んで年寄りを大事にしないとか、二世帯住宅なんというふうな今言い回しかあります。これも一家団らんで過ごすのではなくて、年寄りは年寄りで別に世帯を持ちなさい、若い者は若い者というところから核家族化の形がゆがんで、結局は手当てをしなきゃならない、介護をしなきゃならない老人がふえてくる。昔は御家族で、御家内で面倒を見て、それこそよみの国に旅立つまで安心して死に水をとってもらったという方が、いろんな
機関を通じて面倒を見てもらわなきゃならないというようなことにもなってきているわけです。
そうなりますと、幸福観というものとか人生の究極の
目的は何だろうということまで、手段が変わることによって思考が変わって、幸せ観まで変わってくる。そうなりますと、究極は一夫一婦制というものまで幸せと言えるんだろうかということが起こりやしないかと思うんです。現に、結婚の適齢期というのはもう三十に近くなっておりますし、お子さんができるのはどこでも一・五以下と、こういうことになっているわけでしょう。
昔、SF映画でキューブリックという人がつくったのがあるんですけれども、巨大なコンピューターが反乱を起こしまして人間に反旗を翻すんですね。コンピューターと戦いまして、その映画の中では人間が勝ちを制しますからハッピーエンドで済むんです。
この高度
情報化社会というものが、本当に各家庭、各
パーソナルを
有線なり
無線なりで明確につないで、しかもそれが安全確実に常に簡単に相互
通信ができる。あらゆる
サービスが受けられる。家庭にいながら仕事もできる、買物もできる、決済もできるということになりますと、家庭というものの
あり方というのはどうなるんだろうかというような気もするんです。
それこれ考え合わせますと、ただしゃにむに、
アメリカがこうだから、ヨーロッパもこうだから、日本も負けちゃいけないから
郵政は頑張らなきゃいけない。他の省と協力し合いながら、効率的に素早く安全に確実にやることだけを目安にしていまして、やがてでき上がった
社会が大きく我々に反旗を翻してくるんじゃないか。
極めて哲学的な
分野になって恐縮ですけれども、少なくとも人の幸せをどう確保するかということになりますと、それは便利は確保できますけれども、果たしてそれが人の幸せに通じるかということになりますと、大いに疑問があると思うんです。
ですから、その辺を、
郵政がいかに効率的に確実にということで
高度化社会を考えるのも結構ですけれども、もっとトータルで、各省にわたって、あるいは総理というような形の国の育成に責任を持つ人が、将来の
高度化社会の究極の
目的は何なんだろうか、あるいは全般に確実に理想どおり行き渡った暁にはそれが我々にどういう至福、幸せをもたらすのかということまで究極考えておかなきゃいけないんじゃないかなという気がしているんですが、その点をどんなふうにお考えになりますか。