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板垣正君 やはり
長官も、いわゆる
東京裁判史観というのは日本がすべて悪かったと、簡単に言えば。つまりあの判決の弾劾を受けて、平和の敵である、人道の敵である、それをもうそのまま素直に受けとめてそのとおりでございますという史観がいわゆる
東京裁判史観で、私
どもはそれは早く脱皮しなければ本当の
歴史は見えてこない。今伺っていると、
長官もまだ半分ぐらい
東京裁判史観に毒されていると言っちゃ失礼かもしれませんが、講和条約にそれほどこだわることはないんじゃないでしょうか。これはさっきも申し上げたことです。
東京裁判史観とは何かというのを東大の小堀先生が割に要領よくまとめておられるんですね。いわゆる
東京裁判史観なる一個の体系的
歴史観の骨格をなすものは何だろうかと。まとめてみると、
一、
昭和三年に始まり
昭和二十年八月に終る期間に日本が従事した戦争は全て侵略戦争であり、従ってパリ不戦条約に違反する犯罪である。
昭和史は概ね、殊に
昭和六年以降は連年一貫してこの国家的犯罪の積み重ねである。
二、この犯罪を
計画し実行したのは一部の車国主義者と超国家主義者達であり、
国民はそれに引き摺られた。欺かれ、駆り立てられてゐた
国民は今や覚醒し、自分達を瞞した者に対して厳しい批判を加へるべきである。一般化して言へば、支配階級対被支配階級の対立相剋、そしてこれまでの被支配階級が自らの権利を恢復する欲求に眼覚めることが将来戦争再発の防止の基礎になる。
三、しかし乍ら、日本が
昭和初年以来のシナ大陸へ向けての膨張政策、
昭和十六年以降の東南アジアへの進出に伴ふ軍事支配によって、これら近隣諸国に対する侵略者にして加害者の位置に立つたこと、これらの諸国に及ぼした禍害の責任は、日本
国民全体にかかってくるものとして永く忘れられてはならない。
以上の三点がその主要項目である。この三点を押さへて、今後の日本の復興・発展に対する軛とし、足枷としておけば、日本が米英を始めとする連合国にとって再び恐るべき競争相手として立ち向ってくることの危険は防止できるであらう――といふのが連合国側の読みであり、
東京裁判の検察団といふ存在も、結局はこの国家戦略的意図の下に
運用されてゐた道具にすぎなかつたのである。
つまり
国民はだまされていた、一握りの指導者が悪かったんだ。そして、日本の行ってきたのは全部侵略だ、しかし
国民全部も侵略者として加害者ですよと。いわゆる三点を押さえて、もう講和条約でそれをいただきましたからそれについては文句を言えませんという、まさに総仕上げの姿において
東京裁判が、日教組あるいは知識人、いわゆる進歩的文化人と称する、そういうとうとうたる流れの中で、まさにこの期待したとおりの
歴史観、
歴史の見方が今日なおいろんな方面で、また検定が行われている学校の教科書にもあらわれている。
こうした問題を
見直していくこと、つまりこの
東京裁判史観の呪縛を脱していくこと、私
どもはどうしてもその
歴史の舞台であった一号館の
保存という必然的に強いつながりの中でこの大きな
見直しをしていかなければ、日本の国の本当の
歴史というものは取り戻せないのではないのか。それは決して過去の賛美でもなければ戦争肯定でもありません。今、日本
国民の平和に対する
思いというものは決して薄いものではないはずでありますから。
そういう面を考えますと、この日本の歩みというものが、明治維新以来今日に至る歩みというものがどういう流れの中で来たのか。アメリカとの関係というのは今日も大きいし、当時から大きかったということを改めて思うんです。ただ、ルーズベルト大統領が、日露戦争のときには非常に日本に好意的であったけれ
ども、日露戦争が終わった後は、私は今までは日本びいきだったけれ
どもこれからはそうじゃないんだと。つまりアメリカがハワイ、フィリピン、アジア方面に進出してくる大きな流れと、日本が明治維新をなし遂げ、近代国家として日清、日露を戦い抜いて伸びていく、こうした姿が中国大陸あるいは満州等をめぐっていろいろきしみを生じてくる。
ここに日本の近代国家としての歩みの非常な厳しさもあった。同時にこういう流れを、日本も明治維新、近代国家の道を歩んで、米英と同じ侵略国家、帝国主義国家になってその利権をあさったという見方で見るのか、いや、アジアにおけるただ一国の近代国家として、アジアの日本として、むしろ西欧勢力に対する抵抗の勢いとしてその前途を曲折の中を切り開いてきたと見るか、ここに
東京裁判の見方も分かれてくると
思いますけれ
ども、やはりあの裁判を通じて、インドのパール判事が出された判決なりパールさんの
考え方というものを私
どもは改めて見直す必要があるんじゃないか。
パールさんは日本は無罪であるという判決をただ一人出されたわけです。しかし、この判決文は読むことを許されなかった。占領中は印刷して配ることも許されなかった。しかし、やがてその後刊行されましたし、またパールさんは日本にもお見えになって勲一等の勲章も日本
政府から受けておられる。国際法の人権威でございます。
国連の国際法
委員会における責任者として、これだけの権威ある方が、私は日本に同情するがために意見を呈したのではない。私の願いは真実の発見である。真実を探求した結果、かのような
結論になった。それ以上のものでもそれ以外のものでもない。同情に感謝するというのは全く見当違いだ。日本がパールさんに、あなたが日本無罪の判決を下してありがたいと言ったら、そうじゃないと、
歴史の真実を見きわめて書いたと、こういうことを日本に明確に言っているわけです。そのくらい、パールさんも言っておられるこのアジア侵略というもの、植民地化というものが極めて、これはもう時間もだんだん迫っておりますからあれですけれ
ども、つまりはコロンブスがアメリカ大陸を発見した大航海
時代以来、世界はまさに白色人種の支配する、征服するところに、特に産業革命以後、十八
世紀、十九
世紀、かくしてアジアのほとんどの地域、日本を除いてはほとんどの地域が何百年にわたって欧米の植民地化するに至った。
この状況をあの
歴史家のトインビーがこう言っています。西欧人は羊のもを刈るがごとくに世界至るところを侵略した。我々西欧人が土着民と呼ぶときには、我々は彼らを歩いている樹木か物言う野獣としか考えていない。我々はこれらの土着民を放逐されるべき有害動物がさもなければ森林伐採者とか水くみにならすことのできる家畜として取り扱ってきたのだと。これが実情だったんじゃないでしょうか。
いろいろな書をひもときますと、イギリスのインド支配、インド侵略、ニュージーランドとか、ニュージーランドに一七六九年以来接触が、侵入が始まるわけですけれ
ども、一八四〇年、属領とする。一八四五年から七一年の間に英人のマオリ族虐殺、三十年間で数十万人いたこのマオリ人種が約四万人になってしまった。あるいはオーストラリアにおきましても、一七七〇年、あの有名なクックが豪州東岸に達した。流刑植民地としてこれが植民地化したわけですけれ
ども、最古の人種と言われたアボリジニーズ族の現地民、当然のごとくに虐殺され、百万人ぐらいいたのがわずか六万人になってしまった。彼らはそうした土着民を動物より幾らか進歩した動物だと。
こういう中で、日本が辛うじて植民地化を免れてアジアのために戦ってきた姿というものは、そういう流れの中で、日中戦争は非常に不幸なことでありましたけれ
ども、これは私も一概にただ日本の一方的領土的野心を持った侵略とは言えないと思うし、まして大東亜戦争に至りましてはむしろ追い詰められやむなく立ち上がると、これは開戦の詔勅にも明らかです。
したがって、
東京裁判史観と言われるように、あの裁判結果に呪縛をされていつまでも、日本がただ何か悪いことをしたんだ、今の若い人たちにも自分たちの先祖は悪いことをしたんだ、父や何かはただただ侵略をしその手先になったんだと、こういう形で語られ、こういう形で伝えられているということはもう大変残念なことです。
これは私ばかりしゃべることになって申しわけないが、大事な点でありますからもう一言言わせていただきますけれ
ども、だからこそインドのパール判事が一九五二年、広島高裁で演説をされたそのときに、要するに連合国は、日本が侵略戦争を行ったことを
歴史にとどめることによって自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の過去十七年間の一切を罪悪であると烙印することが目的であったのだ。欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人だ。それなのにあなた方は自分らの子弟に、日本は国際的犯罪を犯したのだ、日本はアジア諸国に対し侵略の暴挙をあえてしたのだと教えている。私は、日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って卑屈、退廃に流れていくのを見過ごして平然たるわけにはいかない。誤られた彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた
歴史は書きかえられねばならないと。これこそ本当のアジア人の声であり、日本に対する最も理解ある、また激励、鞭撻ではないでしょうか。
以上、るる申し上げたことについて、
東京裁判史観の払拭を含めて、
長官のお
気持ちを承りたいと
思います。