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真鍋委員 家庭教育との
関係でもう
一つお願いしておきたいのは、国内で
単身赴任する
お父さん、四十かいわいになってくると、みんな
単身赴任でやっています。私の選挙区も、
支店経済ということで成り立っておると言われておるのですけれ
ども、その分、飲み屋は
面積当たり密度が全国一多いんだそうであります。そういう
人たちには恨まれるかもわかりませんが、とにかく
単身赴任は
教育の場から
父親を離すということにもなってくるわけでございます。
単身赴任、それとの
関係で一番問題なのは、
転校でございます。
高等学校くらいになりますと、
中学校でもそうなのかもわかりませんけれ
ども、
名門校だなんだと言われると、外から来ると、余りできがよくないのにその人はあの
学校にはいれて、中の
地域の人ははいれぬ、こういう問題が出てきますから、自然に狭められるのですね。これが実際に
家族を連れて赴任するということに対して非常に大きな問題になっておりますので、この
あたりについては御一考いただきたいなという
気持ちがいたすわけでございます。時間の都合がありますので、
意見だけ述べさせていただきます。
もう
一つ意見として述べさせていただきたいのは、
教育基本法第一条に「
教育の目的」ということが書かれております。すなわち、一
教育は、
人格の完成をめざし、平和的な
国家及び
社会の
形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と
責任を重んじ、
自主的精神に充ちた
心身ともに健康な国民の
育成を期して行われなければならない。」
「平和的な
国家及び
社会の
形成者としてこという
言葉があるのですね。
日本が太平洋戦争で
世界じゅうを荒らしたという
反省の上に立ては、これは確かにみずからが平和であれば、みずからの
国家が平和であれば
世界の平和が守れる、維持される、こういうことでございますが、今日の
世界がそうでないということは、我々ひとしく知るところでございます。また同時に、
世界の
経済第一級の国として
日本人が
人間としても
世界から尊敬されなければ
世界の国々と仲よくやっていけないということを考えますれば、単に「平和的な
国家及び
社会の
形成者としてこというだけではなくて、
世界の平和、人類の福祉、こういったものに貢献できるような、そういった
人格を持った
人間になっていくんだ、つくり上げていくんだ、こんな国際的な視点もぜひひとつ入れていただきたいな、こう思うわけでございます。
さて、なぜ中学生が荒れるのかということでございます。これは当然いろいろ
意見があるわけでございまして、いずれにせよ十四、五歳前後、
思春期でございますから、
感情がそれだけ移ろいやすい、動きやすいところでございますから、問題が起こるのは当然な面もあるわけですが、ただ、それが普通以上に増幅されて出てくるので大変な問題が出てくるということでございますが、私は、その基底には、
公教育中心の
義務教育体制、その中にあるんじゃないかな、こんな
気持ちがいたしております。
民主主義は御承知のように自由と平等の上に成り立っておるわけでございますが、
教育における自由と平等について少し論じてみたいと思うわけでございます。
私もよく知らぬで生意気なことを言うのですが、本に書いてあったのは、
教育における自由というのは
ジェファーソン的民主主義でして、最もすぐれたる者をして勝たしめよ、質を重んじる
教育、
エリート教育。それから、
教育における平等というのは
ジャクソン的民主主義、
機会の平等の保障、量を強調する
教育、
大衆教育。こうなっておるわけでございます。
日本の
義務教育ては、
教育における平等が結果として強調され過ぎておるのではないかと私は思うわけでございます。つまり、
公立学校の数が
義務教育で大変多いわけですね。
アメリカの
教育は決してうまくいっていないことはよくわかっておるのですが、例えば
アメリカでの
公立、
私立を見てみますと、
小学校段階では、一九八〇、八一年度ですから十年ちょっと前になりますけれ
ども、
私立の
小学校は一万六千八百、
公立は六万一千、
私立の
比率が二一・六%になっております。これが、それから三十年前になりますか、一九四九、五〇年度であれば、
私立が一万四百、
公立が十二万八千二百ということであったわけで、そのときの
私立の
比率は七・五%ですが、年を追うて、経年で上がっておることは、資料で見て確認をいたしております。
一方、
中学校の方は、一九八〇、八一年度、同じ年でございますが、
私立が五千七百、それから
公立が二万四千四百ということでございまして、一八・九%の
私立の
比率になっております。これも、三十一年前ですか、一九四九年、五〇年度の数字で見ますと、
私立が三千三百、
公立が二万四千五百となっておりまして、
私立の
比率は一二・〇%、これも、ちょっと波はありますが、基本的には大体ふえていく方にある。
一方で、
日本の
文部省の統計で見てみましたら、
平成四年五月末現在か何かで、
小学校だと
私立が百七十校でございまして、全体の〇・六九%、
アメリカは二一・六%ですが、
日本の場合〇・六九%に当たります。それから、
中学校でいきましたら、
私立は、
日本は同じ年が六百二十六校となっていまして、全体の中で五・五%、
アメリカでは一八・九%に相当するのが五・五%となっておるわけでございます。
私立も、少しずつは
日本もふえてきておるとは思うのですけれ
ども、ちょっと
公立学校に偏しておるんじゃないか。
といいますのは、結局もうそこに
生徒は行かざるを得ない。親はそこへやらざるを得ないということですから、
自然人質をとったようなもので、教えてやるとは言わぬまでも、やはりそういうことになるわけでございますし、
一定年限で卒業させるということが
一つの大きな問題になっておると思うのですね。
一定年限で出させるから、
心身の
発達段階において
落ちこぼれができる。
落ちこぼれができるということは、
学校の
先生、絶対卒業させなければいかぬ
先生にとっては、大変に
重荷になる。
重荷になるから一
論理の話を申し上げておるんで、個別の
先生がそれを
理性で抑えていく、これはもう立派なことですけれ
ども、
論理の問題です。
落ちこぼれができるのは
先生にとって迷惑だから、何となく
気持ちの底で迷惑だな、それをほかの
生徒は感じる。またこいつのおかげでわかり切ったものに時間かけるのか、あいつがいつも邪魔だ、そうなるといじめも出てくるということにもなろう。
落ちこぼれのもとは、そういう
一定年限でどんどん上げていくことじゃないかというふうに思います。
また、一校で
落ちこぼれができましたら、もうほかになかなか回していけないんですよね。私らはこういう
政治の
仕事をしておりますから、一番難しい問題、困難な問題のときに頼まれ事をしょっちゅうするんですけれ
ども、
高等学校は
私立が多いんで、割と
落ちこぼれても、それじゃそっちへ頼む、それから
私立同士のときでも相互に頼むわ、
あとは
内申書というか、送るときに悪口を余り書かないで、こんなことで何となくうまくいって、それはそれで皆さんうまくいくんですよ。
ところが、
義務教育の
段階で
公立一本ということになりましたら、非常にやりにくいというか、少なくとも僕らにとってはお手上げという状態でございまして、まことにかわいそうです。だから、万引きした女の子だったら、僕らが知恵つけて、それじゃお寺さんに入って、とにかく一月間こもって掃除をする、何をする、それで
反省の弁を
校長先生や担任の
先生に三日に一回送りなさい、それで許してもらいなさい。許してもらったケースも、これは
私立てすが、ありました。いずれにしましても、
私立学校ができると、少しでもそうした
転校もできやすいんじゃなかろうか、そんなことで
落ちこぼれにするのほかわいそうじゃないか、こう思うわけでございます。
そこで、現
体制でいくのであれば
落第を認めてほしい。
落第といっては悪いですから、
原級留置とか留年とか、いろいろなもっといい
言葉ができると思うのですが、認めてほしい。これはフランスでもドイツでもスイスでも認めておる、ある
制度です。さもなくば
アメリカ式で、
文部省ずっと
努力はしていただいていますが、
学習の
個別化あるいは多様な
学校、オルタナティブスクールですか、そういったものの方向にどんどん進まなきゃいかぬのじゃないか、私はこう思うわけでございます。
これは物の本に書いてある話ですが、フランス
あたりでは、
小学校一年生の留年率は三三%、
小学校五年間で一度も
落第せずに卒業できた
子供は二七%しかいなかった。本当かどうか知りません。立派な本に書いてありますからあれです。
それから、スイスにも
落第はありまして、
日本に
落第のないことを知ってスイスの
先生が、そんな不親切な
教育をしてもよいのかと不思議がったということでございます。
それからドイツでは、
小学校四年修了後に入る九年制の
高校、ギムナジウムですか、ここでは毎年五%から一〇%の
原級留置者、
落第が出る。
落第者を、上限の一〇%で九年間それを累計すると、約五〇%の
生徒が
落第する、こういうことになっておる。しかも、
落第は同学年一回しか認められないから、二度目の
原級留置が決まるとほかの
学校、ギムナジウム以外の種類の
学校に
転校することになる、こういうことを言っておるわけでございます。
そうでない
アメリカ、
アメリカの
公立学校、これでも
公立学校中心というんですよね、
公立学校中心でいこうという
アメリカでは、
落第は
教育の失敗だ、それならということで、
学習の
個別化、多様な
学校ということを考えていって、
学習の
個別化が進めば
落ちこぼれという概念はなくなる。
落第があるのは一斉指導、集団指導の結果ということになる、こういうふうにその報告は書いてあるわけでございます。この
あたりについてどう考えられるか、ひとつ
文部省サイドから一言
意見を。