○沢藤
委員 学校についてのいろいろのことを申し上げましたが、まだたくさん申し上げたいことがあるのですけれ
ども、人事の
あり方というのが
学校の場に、
教育の場にすごく大きな力を働かしているという認識は、ぜひ深めていただきたいと思うのです。本当に一生懸命やりたいと思っている
教職員、そして校長、教頭先生に手を差し伸べている
子供たち。ところが、特に
障害児教育の場ではよく指摘されるのですけれ
ども、校長先生もトレーニング姿で知恵おくれの
子供さんたちと取っ組み合いしながら頑張っている方もいます。ところが、ネクタイ締めてぴんとして、
子供たちがそばに寄っていくとすっと逃げるような態度の校長先生もいるんです。これは結局、人事の中で、本当はあっちの
学校の教頭、校長になりたかったんだけれ
ども、こうこうこうなって障害児
学校に来たというふうな、そういう意識を持っている方もおられるんじゃないかとさえ思われるケースがある。
障害児教育そのものに携わったこともない、
子供たちに対する愛情も持っていない人が来られた
学校というのは、これは大変ですよ。そういうケースがあったならということで申し上げておきますけれ
ども、あったなら大変なんです。こうした大事による
教育の場の大きなプラスと大きなマイナスのこんなに違いがあるということの重大さを、ぜひ御認識方お願いしたいと思います。
時間が経過していますので、家庭、
学校と来ましたから、今度は
教育制度、
教育行政について
幾つか触れてみたいと思います。
今のいろいろな問題の背景にあるのは、私はやはり
受験戦争だと思います。中学から
高校、
高校から大学、大学から社会への就職試験、そして、簡単に図式化して言ってしまえば、一流大学に入るために――失礼しました。私が言うよりは、
一つ御
紹介をしたい投書があります。
これは一月十五日付の毎日新聞の投書欄、中学生、十四歳の少年の投書です。「我が子に向かって、
学歴社会、
学歴社会と騒ぐ親たち。いい会社に就職するためにはいい大学に行かなきゃと言い聞かせる親たち。なんてバカバカしい話だろう。いい会社に就職するために大学に行くのなら、僕は」疑問だ。また、「果たして一流企業と言われる会社は、学歴だけで社員を選んでいるのだろうか。もしそうだったらとても残念に思う。」そして最後には、「とにかく、学歴みたいに表向きのことだけで人を判断して欲しくない。そういう社会をなくして欲しい。」これが十四歳の
子供の叫びであります。
二月二十二日、東京新聞、同じく投書欄、「”学歴”は人の価値を決めない」という十六歳の
高校生からの投書であります。「今やっている勉強は、一体、何の役に立つのだろうかこと疑問に思う。「人の価値が学歴で判断される。そのため多くの親が
子供を塾に通わせ、
子供たちは遊ぶ間もない。
受験地獄を通り抜け、優秀な学歴を修めた者が、社会的に高い地位につき権力をふるう。しかし、今の
教育は、物事の暗記、正確な計算、究極的に言えば「教師の言った通りにする」ことなのである。事実、試験ではこれらのことだけが問われ、その判定を基に”学歴”はつくられていく。」「暗記や計算なら機械のほうがより良くできるし、第一、それしかできない者が権力を持つのは考えものである。権力を持つ者に必要なものは高い教養と徳である。
教育ではそれを教えるべきで、それによって人の価値を問うべきではなかろうか。」まさしくそのとおりなんです。
子供たちの方が私たちよりもしっかりしている。
そして、では今の
学歴社会はどうしてできたのかというと、
子供たちがつくったんじゃないですよね。我々がつくったんです。一流企業に行かなければならない、そのためには有名大学だ、有名大学に入るためには何々
高校だ、そこに入るためにはこうだああだといって、
一つの、一直線のレールに親も駆り立て、教師も手を貸して、息つく暇ない
状況をつくっているというのが今の実態でしょう。ですから、先ごろ通達出しましたね、きのう、おとといですか、あの
高校入試選抜、あれもきらりきらりと光っている部分はあります。しかし、
高校入試制度そのもの、大学
入試制度そのもの、社会の
学歴社会というものを壊さない限り、これは本質的な解決は絶対にならない。
もう私は、今の
子供たちの声を再び読み上げることはしませんけれ
ども、
学歴社会というものに挑戦をする、これは大変な仕事です。ドン・キホーテみたいな仕事です。恐らく今世紀にはどうなるかという大きな仕事です。しかし、私たちはやらなければならないでしょう。
大臣にしても私にしても、あと二十年か三十年でこの世の中から姿を消しますよね。しかし、その後に彼ら、彼女、青少年は生きていくわけだ。そして、その彼らが生きていく社会が、依然として肩書が物を言い、学歴が物を言って、そうじゃない人たちがいろいろな思いをして生きている社会をそのままバトンタッチするのであれば、一体何のために私たちは大人をしているのかということになると思うのですよ。これはすぐれて私は
教育にかかわる問題ですから、文部
大臣に頑張ってもらわなければならない。
そこで、では具体的に何をすればいいんだ。
学歴社会反対反対と言っているだけでどうなんだということになるわけですが、私は、
幾つかの問題を提起してみたいのです。
一つは、やはり
高校入試を例にとりますと、
学校間格差というのがある、ランキングがある。
普通科、
普通高校、次は商業ですかね、土地によっては
工業ですか、まあ普商工農と言っておきますか。昔は士農工商だったけれ
ども、今はそうじゃない。それに向かって集中するわけですから、幾ら募集定員を多くしても、
入試の多様化をしても、多
段階化をしても、あるいは
内申書、
調査書に
工夫を凝らしても、今の空気はとにかく頂点を目指して進め進めですから、集中は免れない。その集中を決定づけるのは学歴でしょう。ですから、
入試に必要な
学科だけを勉強する
子供がふえているわけです。音楽とか図工なんというものは目じゃないんですね。とにかく
学校の勉強といえば
受験科目だけなんですよ。三年生の二学期になりますと、後期対策といって、物理の授業をしているはずのクラスがばらばら解体して、
受験科目に、また再び生物の教室に逆戻りしているという例だってあるのですよ。これは
学校教育法違反じゃないですか。そういう実態があるんです。それは全部
受験社会、
受験地獄、そして
学歴社会がなしているわざですから。
そういう
意味で、まず
入試に関して言えば、なかなか一口には言えないけれ
ども、
高校入試制度と大学
入試制度というのは、今どちらも知識の切り売りというのですか、詰め込みというのですか、あるいはスピード、時間を競ってのマークシートとか、こういう試験になっています。そこには
人間性をはかる
入試制度はほとんどありません。私は、
高校というのは今やほとんど一〇〇%近くの
進学率ですから、
人間としての基本的な能力、それを学ぶ、それに答えるものを尺度にして
高校入試はなされるべきであって、知識の量と答える速さとは無関係にしてほしい。大学も同じです。
特に大学の場合は、進路指導ということになりますけれ
ども、こういう文章が、これも投書欄です。
高校教育に携わる立場からいえば、まず
職業観を育てながら自分の適性を生かせる職業を考える、そのために何を専攻するか、どの大学に進むかという
段階を経てから初めて
受験の指導が来るんだ、今それが、前段が全部吹っ飛ばされている、省略されている、
受験の合格だけが指導だというふうな実態になっている。この指摘は正しいと思うのですね。
ですから、
高校入試は、
人間の生活のこれから六十年を支える基本的なものを学ぶ、そういった基本的な能力を問うような
入試制度、
高校入試制度であるべきだという基本。大学
入試は、いずれは社会人になるわけですから、その職業
選択と結びつくいわゆる自分としての進路
選択を中心にしながら、それを問うような大学
入試であるべきであって、今の大学
入試センターの試験については随分厳しい批判があるということは、やはり指摘しておかなければなりません。
これは週刊誌ですから、笑い飛ばせば笑い飛ばしてもいいんだろうけれ
ども、このテストは「
受験知識を答えさせるものばかりだ。およそ学問の本質とは無縁の暗記モノや、パズルまがいの設問が並んでいる。しかし本来、学問というものは、思考のプロセスこそが大切なのだ。」というふうな指摘、さらにアメリカ人の記者の談話ですけれ
ども、こんな役にも立たない
受験知識だけを詰め込んだ人が大学に行ったって、将来本当の社会人になれるわけがない、そういう指摘をしていました。
これは、じゃ、こうしろということは申し上げません。やはり社会にどう出ていくかどう参加するかということを大切にするような大学であってほしいし、それを手助けするような大学
入試であってほしい、このことを本当に真剣になって考えてください。そのことをお願いしておきたいと思います。
入試制度についていろいろ御苦労なさっていることはわかるのですが、今申し上げた
高校入試、大学
入試についてのお考え、どなたかお願いしたいと思います。