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1992-11-10 第125回国会 衆議院 本会議 第4号
公式Web版
会議録情報
0
平成
四年十一月十日(火曜日)
—————————————
平成
四年十一月十日 正午 本
会議
—————————————
○本日の
会議
に付した案件
田邊誠
君の故
議員齋藤邦吉
君に対する
追悼演説
森井忠良
君の故
議員岸田文武
君に対する
追悼演
説 午後零時三分
開議
櫻内義雄
1
○
議長
(
櫻内義雄
君) これより
会議
を開きます。 ————◇—————
櫻内義雄
2
○
議長
(
櫻内義雄
君) 御
報告
いたすことがあります。
議員齋藤邦吉
君は、去る六月十八日逝去されました。まことに
哀悼痛惜
の
至り
にたえません。
同君
に対する
弔詞
は、
議長
において去る八月四日贈呈いたしました。これを朗読いたします。 〔
総員起立
〕
衆議院
は 多年
憲政
のために尽力し 特に
院議
をもってその功労を表彰され
さき
に
大蔵委員
長
公職選挙法改正
に関する
調査特別委員長
の要 職につき またしばしば国務
大臣
の重任にあた られた
議員
正三位
勲一等齋藤邦吉
君の
長逝
を哀 悼し つつしんで
弔詞
をささげます
—————————————
故
議員齋藤邦吉
君に対する
追悼演説
櫻内義雄
3
○
議長
(
櫻内義雄
君) この際、
弔意
を表するため、
田邊誠
君から
発言
を求められております。これを許します。
田邊誠
君。 〔
田邊誠
君
登壇
〕
田邊誠
4
○
田邊誠
君 ただいま
議長
から御
報告
のありましたとおり、本
院議員齋藤邦吉先生
は、去る六月十八日、
入院先
の
国立東京
第二
病院
において逝去されました。まことに
痛惜
の念にたえません。 昨年の秋には、流動する
政治
の
節目
にあって元気に
活躍
されておりましたが、その後、体調を崩され、再度の御
入院
の後、御
家族
の懸命の
看護
のかいもなく、八十二年の生涯を静かに閉じられたのであります。弔問にお伺いした私が相対した
先生
の寝顔は、大
往生そのもの
のように安らかでありました。 私は、ここに、
諸君
の御
同意
を得て、
議員一同
を代表し、謹んで
哀悼
の
言葉
を申し述べたいと存じます。(
拍手
)
齋藤先生
は、明治四十二年六月、現在の
福島
県
相馬
市にお生まれになりました。 幼少のとろより俊英の誉れ高く、向学心に燃えた
先生
は、長じて
旧制相馬中学校
から第一高等学校に進み、さらに
東京帝国大学法学部
に学ばれました。 そして、
昭和
八年に
大学
を
卒業
、
高等文官試験
に合格後、直ちに
内務省
に入り、神奈川県に配属となり、
地方行政
について
研さん
を積まれた後、本省に戻り勤務されました。
世界
的な恐慌、五・一五事件の発生、
国際連盟
からの脱退など、
政治
的、
経済
的に
内外とも
に激動のときに、
内務省
にあって、時流の赴くところをじっと見詰め、みずからの進むべき道に思いをめぐらされたのであります。 その後、静岡県の
教育課長
を務められ、
昭和
十四年、
新設
間もない
厚生省
の
職業部勤務
となり、これが戦中戦後を通じて、
先生
が
労働行政
に携わることを運命づけられていく
出発点
となったのであります。 そして、戦後間もない
昭和
二十二年には、
先生
が
厚生省大臣官房総務課長
のときに、みずから
事務担当
として尽力し設立されることになった
労働省
に、その
発足
と同時に移り、
大臣官房総務課長
、
職業安定局長
、
労政局長
を歴任されました。 この間、
先生
は、
我が国
の
ILO復帰
のために
国際労働機関総会
に
首席政府代表
として出席されました。この
総会
において、多年にわたる
復帰実現
への
努力
が実を結び、
日本
の
ILO
再加盟が認められることになったのでありますが、
先生
は、 その歴史的な使命を見事に達成されたのであります。 そして、
昭和
二十八年には、四十三歳にして
労働事務次官
に
就任
され、
労働情勢
に通暁された
先生
は、労使間の
調整
を図り、
労働金庫法
の制定、
労働者生活協同組合
の
設立等
に貢献するなどその
業績
は枚挙にいとまなく、四年有余に及びその重責を立派に勤め上げられたのであります。
昭和
三十二年、この在任中に
郷里
の
大竹作摩
元
福島県知事
から「後任として県の
近代化
のために働いてほしい」と懇請された
先生
は、今日まで
自分
をはぐくみ育ててくれた
郷土
のためにその身をささげるべく、同年八月の
福島県知事選挙
に立候補されたのであります。そして、
選挙
を通じて
郷土福島
の
発展
に尽くす覚悟を懸命に訴えられたのでありますが、健闘わずかに及ばず、苦杯を喫せられたのでありました。 しかし、この
経験
が
先生
にむしろ
政治家
として生きる決意を固めさせ、
知事選挙
で受けた
郷土
の
人々
の温かい心にこたえるため、翌
昭和
三十三年の第二十八回
衆議院議員
総
選挙
に
福島
県第三区から立候補し、すべての
国民
の
生活
を守る
政治
の
確立
、中でも、母子、養老、
身体障害者年金
などの
国民年金制度
を中心とした
社会保障制度
の
確立
のために渾身の
努力
を払うことを約束されました。
先生
のこの政見は、
選挙民
の力強い
支持
を受け、
見事最高点
をもって初
当選
の栄に輝いたのであります。(
拍手
) 本院に議席を得られてからは、
労働
、
厚生
問題の
エキスパート
としての豊富な
経験
と卓越した
識見
は、たちまち嘱目されるところとなりました。
自由民主党
にあっては、間もなく
政務調査会労働部長
に
就任
、引き続き、
労働問題特別調査会
副
会長
、
政調社会部会長等
の
要職
を歴任され、常に
国民生活
の安定、向上を念頭に、党の
政策
の
立案
、
推進
に大きな
役割
を果たされたのであります。 本院にあっては、結社の自由、
団結権
の保護に関する
ILO
八十七
号条約
の
批准
をめぐって、二年生代議士ながら、
社会労働委員会
の
理事
として、すぐれた
実務家
の
経験
を生かして、
各党
間の
調整
に奔走、その
批准
に貢献され、早くも「
社会労働委員会
の
齋藤
」の名を
内外
に知らしめることになりました。(
拍手
)
昭和
三十五年に
国会
に
当選
した私が、
齋藤先生
の
けいがい
に接したのは実にこの時期に当たり、その
国会
の第一線での
活躍
、手腕に目を見張り、畏敬の念を抱いたのでありました。自来、
制度改正
の
節目
に遭遇するたびに
先生
と相対する
関係
になり、その目覚ましい
力量
を知るに至ったのであります。 また、
昭和
四十三年には
公職選挙法改正
に関する
調査特別委員長
、
昭和
四十六年には
大蔵委員長
に
就任
、公正で円満な
運営
に全力を注がれ、
先生
の誠実にして信義に厚い
人柄
は、
与野党委員
の信望を
一身
に集めるに至ったのであります。 一方、
内閣
にあっては、
昭和
三十八年には
大蔵政務次官
に、
昭和
三十九年には第三次
池田内閣
の
内閣官房
副
長官
に
就任
され、
行政
に
研さん
を積まれました。 そして、
昭和
四十七年、第二次
田中内閣
の
厚生大臣
として、初の入閣を果たされたのであります。かねて
福祉国家
の
建設
に
情熱
を注がれてきた
先生
は、
福祉
の大きな柱をなすものは
年金
と
医療保険
の二つであるとの
政治信条
から、その改善に積極的に取り組まれました。
福祉元年
と言われた
昭和
四十八年、懸案でありました
健康保険法等改正案
、
厚生年金保険法等改正案
の両
改正案
をよく
成立
に導かれたのも、
各党
の理解を得べく
先生
が精魂を傾けられた
努力
と熱意の結果にほかならなかったと思うのであります。(
拍手
) 特に
対決法案
として三年間も持ち越された
健康保険法等改正案
が、私
ども野党
の
意見
も取り入れ、
大幅修正
の上、
成立
した過程で、
先生
の果たされた
指導的役割
は後世の語りぐさとなっており、中でも、
国民
の
負担
を求めるときは連動して国の
負担
も増加させるという方式を編み出した
先生
のすぐれた
政治的感覚
と
国民本位
の
政策立案能力
は、私
ども
当時の
関係者
の驚嘆するところでありました。(
拍手
) これらの
改正
で、
家族給付
の七割
支給
、
高額療養費支給制度
の
新設
が図られ、また、いわゆる五万円
年金
と
年金額
の
自動物価スライド制
の導入が
実現
されました。
先生
御自身が、当時を回顧して、「諸
外国
に負けない
制度
の
確立
をなし遂げ、
我が国
の
厚生行政
が
世界
の標準に達するところになったことは、私にとりましても生涯忘れ得ない
会心事
であった」と語られておりますが、これらの
改正
は、
年金
、
医療保険制度
の将来に向けて新たな一歩を踏み出したものであったと申せましょう。 また、
先生
は、
医療供給体制
の
整備
にも力を入れ、
昭和
四十九年から、人口十万人以上の市のすべてに休日・
夜間診療所
を設置し、
看護婦不足
に対処するため
ナースバンク
を
新設
するなどの措置を講ずると
とも
に、
老人福祉対策
、
保育所
の
整備
などについてもきめ細かな配慮をされました。
社会情勢
の変化、時代の
要請
に機敏に応じ、かつ、 将来を洞察した
政策
を力強く
推進
されたのであります。 かように、
先生
の
福祉
に尽力された御
功績
はまことに多大であり、その
一つ一つ
が今日の
福祉政策
の礎を築くものであったと申せましょう。 こうした
実績
を高く評価されて、
昭和
五十五年、三たび
厚生大臣
を務められた後、
昭和
五十七年には
行政管理庁長官
に
就任
され、
行政改革
の
重要性
が叫ばれるときにあって、
行政事務簡素化法案
など
行政改革関連法案
の
審議
に精力的に当たり、これが
成立
に導かれたのであります。 かくのごとく、
齋藤先生
は、
屈指
の
政策通
であり、とりわけ
労働
、
厚生分野
での多くの
実績
は、
政策
についての深い造詣と余人の追従を許さない卓越した見識の持ち主であると
とも
に、その根底には、「
政治
で一番大切なのは、
国民
の中にある「日陰」をなくすことであり、温かい太陽の光をまんべんなく受けられることだと思う。」とのかたい信念があったからに違いありません。(
拍手
)
昭和
五十二年には、
自由民主党
の筆頭副
幹事長
として、
党幹事長
を立派に補佐され、翌五十三年には、第一次
大平内閣
の
発足
に当たって、
党幹事長
の
要職
につかれたのであります。当時の激しく揺れ動いた政局にあって、大変な御苦労をされながら、
持ち前
の誠実さと粘り強さで
議会政治
の
確立
のために腐心され、
政治家
としての
練達堪能ぶり
を示されたことは、今も我々の記憶にとどめられているところであります。 中でも、五十四年の
予算案審議
が渋滞したことを打開するための
各党折衝
が行われた際、
雇用対策
に関して私と話し合いに当たられた
先生
は、翌年以降実施を予定していた計画を先取りすることを決断され、内部の抵抗を懸念した私に対して、「
国民
のためになる
施策
を一日も早く実施するのが
政治
だ、役所は私が説得するよ」と自信あふれる
言葉
を述べられたのでありまして、
齋藤先生
の
行政
への
影響力
の強さと、官僚を十分活用できる
政治家
としての真の権威をしみじみと感じさせられたのであります。(
拍手
) かくして、
齋藤先生
は、本
院議員
に連続して
当選
すること十二回、
在職
実に三十四年四カ月の長きに及び、
昭和
五十八年二月には、永年
在職議員
として、
院議
をもって栄誉ある表彰を受けられました。 この間、
先生
が
国政
の上に、また
議会政治
の
発展
のために残された
功績
は、まことに偉大なものがあります。
先生
は、
中央政界
にあって多端な激務に当たられる傍ら、常に
郷土
の
発展
を念願されておりました。「国をよくすることは、
郷土
を
発展
させることが根本、国と
郷土
の
かけ橋
になろう。」と
郷土福島
の
発展
に尽力され、数々の
社会基盤
の
整備
に多くの
業績
を残されました。 こうして
地方
と
国政
を結ぶ大きな
かけ橋
となられた
先生
を惜しむ
地元
の
人々
の声は、今なお県下に満ちあふれているのであります。
バラづくり
は、
先生
の御趣味の
一つ
であり、その腕前は一かどのものであったと伺っております。多忙な
政務
の日々にあって、
ひとときバラづくり
にいそしまれる
先生
の柔和なお姿がほうふつとして今浮かんでまいります。 思えば、いつも笑みを絶やさず、だれにでも気さくに接する
先生
の身辺は常に
春風駘蕩
としており、その円満な人徳と包容力豊かな
人柄
は、常に兄貴としての風格を備えて、多くの
同僚
、後輩、知友から尊敬され、慕われてまいりました。(
拍手
) 今や、
我が国
の
内外
の
情勢
は激しい流動を続け、
幾多
の試練と難関に直面しております。とりわけ、
社会
の
高齢化
が進み、二十一
世紀
に向けて
福祉国家
としての
国民
の
要請
にいかに対応すべきかが問われているこのときに、
屈指
の
労働
、
厚生
の
指導者
であり、
福祉国家
の
建設
に終始一貫して取り組まれてきた
先生
の豊富な
経験
とすぐれた
識見
、円熟されたお
人柄
に期待するところ極めて大きいものがありました。 しかるに、このような期待もむなしく、もはや、この議場に、「邦さん」と愛称され、だれからも慕われた
先生
のあの温顔に接することかなわず、
痛惜
の念ひとしおのものがあります。 殊に、長年、内にあって
先生
を支え、労苦を
とも
にされてきた奥様の御心情を思うとき、お慰めの
言葉
もありません。それでも御子息は皆立派に成長され
一家
をなしておられ、中でも
長男邦彦
君は、
先生
の歩まれた
行政
の同じ道を進み、現在、
労働省職業安定局長
の
要職
にあることは、直接
先生
の意志を継ぐことであり、
齋藤先生
にとって大きな喜びであったと思うのであります。(
拍手
) また、
政治家
としての
先生
の最後の念願であり、執念を燃やした
宮澤政権
の
実現
に、礎石となって大きな
役割
を果たしたことを思うとき、
先生
の逝去された悲しみを人一倍感じておられるのは、
宮澤総理
その人であると言えるでありましょう。
先生
の御逝去は、
ひとり自由民主党
のみならず、本院にとりましても、
国家国民
にとりましても、この上もない大きな
損失
であり、惜しみてもなお余りあるものがあります。 しかし、
先生
が
国政
の場に、あるいは
郷土
に残された
幾多
の
業績
と御
遺志
は、
先生
を敬慕する多くの
人々
の胸に深く刻まれ、力強く受け継がれていくことを信じて疑いません。
齋藤先生
、どうぞ安らかにお眠りください。 ここに、ありし日の
齋藤邦吉先生
の面影をしのびながら、その御
功績
をたたえ、心から御
冥福
をお祈りいたしまして、
追悼
の
言葉
といたします。(
拍手
) ————◇—————
櫻内義雄
5
○
議長
(
櫻内義雄
君) 御
報告
いたすことがあります。
議員岸田文武
君は、去る八月四日逝去されました。まことに
哀悼痛惜
の
至り
にたえません。
同君
に対する
弔詞
は、
議長
において去る八月二十九日贈呈いたしました。これを朗読いたします。 〔
総員起立
〕
衆議院
は 多年
憲政
のために尽力し
さき
に
内閣委員長
の
要職
にあたられた
議員
正四位勲二等
岸田文武
君の
長逝
を
哀悼
しつつしんで
弔詞
をささげます
—————————————
故
議員岸田文武
君に対する
追悼演説
櫻内義雄
6
○
議長
(
櫻内義雄
君) この際、
弔意
を表するため、
森井忠良
君から
発言
を求められております。これを許します。
森井忠良
君。 〔
森井忠良
君
登壇
〕
森井忠良
7
○
森井忠良
君 ただいま
議長
から御
報告
のありましたとおり、本
院議員岸田文武
君は、去る八月四日、都内の
病院
で逝去されました。 君が昨年六月
入院
し、手術をされたことを承り、心配しておりましたところ、昨年秋に行われた
自由民主党総裁選
の際には、
宮澤総裁選出
のため奔走しておられると伺い、御回復されたものと安堵いたしておりました。 しかるに、人一倍責任感旺盛であった君は、病魔と闘い、治療を受けながら、
一身
を顧みず、無理に無理を重ね、ついに
政治
に命の
とも
しびを燃やし尽くされたのであります。
自分
の身をすり減らし、
国家国民
のために働くのが
政治家
の務めであるとは申せ、同じ道を歩む者として、哀惜の念ひとしお深いものを覚えるのであります。 私は、ここに、
諸君
の御
同意
を得て、
議員一同
を代表し、謹んで
哀悼
の
言葉
を申し述べたいと存じます。(
拍手
)
岸田
君は、大正十五年
広島
市に生まれ、
戦時
中の厳しい環境の中で、
昭和
二十年三月、
旧制東京高等学校
を御
卒業
、
東京大学
へ進学されました。 しかし、
戦争末期
のころであり、
入学早々
から
勉強
どころではなく、連日の
勤労動員
に続いて、
終戦
間近の同年七月には、
学徒動員
で旭川の師団に入隊されました。 そして、その一カ月後には、
郷里広島
に原爆が投下され、
広島
市の自宅はその被害に遭い、また、多くの知人を亡くされたのであります。 八月十五日、
終戦
と同時に、
東京
にあった家も進駐軍の接収に遭い、また、外地において大きく
事業
を営んでいた御
一家
の財産も、すべて失ってしまったのであります。 君は、この逆境にもめげず、除隊後は直ちに
東京大学
に復学し、
戦時
中の空白を取り戻すべく勉学に励まれたのであります。 当時は、本を買うのもお米と交換しなければならないなど、厳しい
社会情勢
の中で
勉強
を続け、
法学部
の学生として、最初に旧
帝国憲法
が教材に、そして途中から新
憲法
にかわりました。
民法
も旧
民法
から新
民法
に、
刑法
も旧
刑法
から新
刑法
を学習するという、大変な
過渡期
でありました。 君は、
持ち前
の勤勉さで、在学中に
高等文官試験
に合格し、
昭和
二十三年には、
東京大学
を優秀な成績で
卒業
されたのであります。 当時の
東京
は見渡す限り焼け野が原で、
やみ市全盛
の混乱と窮乏
生活
のるつぼにありました。 君は、この混乱した
日本
を立て直すには、
産業
を復興し、
経済
の再
出発
を図り、
国民生活
を安定させることだと考え、迷うことなく当時の
商工省
へ就職し、日夜その若い
エネルギー
を燃やし続け、
世界有数
といわれる今日の
日本経済
のもとを築かれたのであります。(
拍手
) 特に一九六三年(
昭和
三十八年)には、君は選ばれて
日本貿易振興会ニューヨーク
軽
機械センター
の
初代所長
として赴任され、海外においてもその
能力
を遺憾なく発揮され、
ニューヨーク世界博覧会
への参加を通じ、
我が国産業
の
国際化
に大きく貢献されたのであります。
昭和
四十三年には
大阪
府
商工部長
として赴任、二年後に開催された
大阪万国博覧会
を
成功
に導き、
大阪
を
世界
にアピールすると
とも
に、
関西経済
の
振興
に大きく寄与されたのであります。 その後、
昭和
四十八年、
日本経済
が
オイルショック
という戦後最大の
経済危機
に見舞われたとき、資源
エネルギー
庁の
公益事業部長
として、電力、ガスの
供給確保
などのために昼夜を問わずその才腕を振るわれました。
オイルショック
後の
不況
の
長期化
により、
中小企業
の
企業体質
は著しく
弱体化
を招いたのでありますが、当時、
中小企業庁長官
であった君は、
事業転換対策
、大
企業
との
分野調整
、
倒産防止共済
などの画期的な
中小企業対策
を創設され、今日の
中小企業
の
発展
の道を開いたのであります。(
拍手
)
昭和
五十三年、
地元広島
県
選出
の
衆議院議員萩原幸雄先生
の御病気による引退という事情があ り、また、熱烈なる
支持者
の声にこたえ、みずから直接
国民
のお役に立ちたいという
情熱
により、迷うことなく、将来を嘱望されていた
中小企業庁長官
の
要職
を辞し、かねてからの御
尊父
の
遺志
を継ぐべく
政界
への道を選んだのであります。 思い起こせば、君の御
尊父岸田正記先生
は、
戦前
戦後を通じて
衆議院議員
を七期、二十年
余り勤め
、
戦前
は
立憲政友会
、戦後は自由党の
要職
を歴任された我が
郷土
の先達であり、君の
政治家
への転身をだれよりも喜んでおられたことでありましょう。 かくして
昭和
五十四年、第三十五回
衆議院議員
総
選挙
に
自由民主党公認候補者
として勇躍立候補された君は、有権者の方々の絶大なる
支持
と信頼を得て、見事初
当選
の栄冠をかち取られたのであります。(
拍手
) かくして本
院議員
として
当選
すること連続五回、
在職
十三年、その間、
地方行政委員会
、
農林水産委員会
、
科学技術委員会
、
商工委員会
、
文教委員会
、
物価問題等
に関する
特別委員会等
の
委員
あるいは
理事
として、豊富な
経験
と卓越した
識見
をもって、「信頼される
政治
」をモットーに広い範囲で御
活躍
されました。
平成
二年三月には
内閣委員長
という
要職
に
就任
され、お
人柄
そのままの誠実さで公正な立場を堅持し、すぐれた
調整力
で公平、円滑な
委員会運営
に当たられる姿は、
与野党
の別なく、
同僚議員
からひとしく敬服されていたところであります。 また、
政府
にあっては、第二次
中曽根内閣
においては
総務政務次官
、第三次
中曽根内閣
では
文部政務次官
として、
大臣
を補佐しながら、
国民
のため、諸
施策
の
実現
に真摯な
努力
を重ねられたのであります。 この間、特に
教育改革
の
積極的推進
に努められ、一九八六年(
昭和
六十一年)十二月、ジュネーブで開催された第四十回
国際教育会議
では、
我が国
の
首席代表
として、
各国代表
の前で堂々の
演説
を行い、
我が国
の
教育改革
への取り組みを紹介すると
とも
に、
教育
の
国際協力
の
重要性
を強調され、
各国代表
に深い
感銘
を与えるなど、
国際舞台
でも大きな
活躍
をされてきたのであります。 また、
自由民主党
にあっては、
都市局長
、資源・
エネルギー対策調査会
副
会長
、
中小企業調査会
副
会長
、
調査局次長
、
行財政調査会
副
会長
などを務め、
昭和
六十三年十二月からは
党経理局長
として、竹下、宇野、海部、
宮澤
の四代の
総裁
のもとで、
幹事長
を補佐し、
自由民主党
の台所を賄ってこられたのであります。
岸田
君、第十二回
アジア競技大会
はあと二年後に迫ってまいりました。今
広島
では、
メーンスタジアム
が完成したほか、この
大会
に向けて数々の
社会資本
の
整備
のための
建設
が行われております。君は、
平成
六年
アジア競技大会準備促進国会議員団
の
世話人代表
として、
首都圏
以外では初めてという
広島
での
大会
の
成功
のため、心血を注がれました。君はそれを見ることなく去られたのであります。 これは一例を挙げたにすぎません。
郷土
の
発展
に残された足跡の大きさを思うとき、改めて
広島
にとっての大きな
損失
を感ずるのであります。 君は、
自他とも
に認める
読書家
であり、秘書が「
先生
の姿が見つからないときは、本屋へ行け」と言われるほどでありました。
政治
、
経済
、歴史、
科学
あるいは
文学等
と
分野
にこだわらず幅広く読まれ、広く国の未来を見据えるために、多くの知識、情報を取り入れ、それを
政策
として反映させる姿は、まさに
政策通岸田文武先生
の
面目躍如
たるものがあったと言えるでありましょう。(
拍手
)
先生
の著書である「
エネルギー
と
技術
の旅」の中には、脱
石油エネルギー
、すなわち、
外国
に依存しない夢の
エネルギー
にささげられた熱い
情熱
が深く刻み込まれ、読む人に強い
感銘
を与えております。 君は、親しかった
人々
に揮毫を頼まれると、気軽に「
春風接人
」と書きました。「
春風
」とは春の風、「
接人
」とは人に接すると書くのでありますが、春の風はまことに暖かく、まろやかで、希望に満ち、ほのぼのとしたものを感じますが、そのお気持ちで多くの友人を持たれたに違いありません。 仕事熱心で、いつもにこやかな君は、人の心を引きつける力と、同時に、人を説得する力を持っていました。ある
委員会
で
理事
の一人が、「いつの間にか
岸田
君の
意見
にまとまってしまうんだよなあ」と言っていたのを耳にしたことがありました。
岸田
君、君は
宮澤弘参議院議員
を義兄弟に、また、
宮澤総理大臣
を姻戚に持つという
政治家ファミリー
の一員でもありました。 宏池会では、
宮澤政権構想
の
担当スタッフ
として、
生活大国
をキャッチフレーズに、豊かな
生活
、豊かな心をつくることに力点を置いた「二十一
世紀国家
の
建設
」を起草し、今日の
宮澤内閣
の
政策
の礎を築かれたのであります。 次は
大臣
、次は
大臣
と目されながら、享年六十五歳、
政治家
としてますますその
力量
を発揮していただかなければならないこのときに、人の世の定めとは申せ、君を失ったことは、惜しみても余りあるものがあります。 今日、
我が国
をめぐる
内外
の諸
情勢
は極めて厳 しく、構造的な
不況
が
世界
に広がりつつあり、とりわけ
バブル経済崩壊
後の
日本経済
の低迷する中、物価問題に明るく、
中小企業対策
の
エキスパート
である有為の
政治家岸田文武先生
を失ったことは、
自由民主党
のみならず、本院はもちろん、
国家国民
にとって大きな
損失
であると言わなければなりません。(
拍手
) ここに、謹んで
諸君
と
とも
に
岸田
君のみたま安らかならんことを願い、生前の御
功績
をたたえ、御遺徳をしのび、謹んで御
冥福
をお祈りして、
追悼
の
言葉
といたします。(
拍手
) ————◇—————
櫻内義雄
8
○
議長
(
櫻内義雄
君) 本日は、これにて散会いたします。 午後零時四十一分散会 ————◇—————