○針生雄吉君 公明党の針生でございます。よろしくお願いいたします。
私は、縁があって参議院の議席をいただき沖特のメンバーに加えさせていた
だいておりますけれども、間もなくまたもとの医者に戻るという立場でございます。
沖縄問題に関しましては、学生時代に国頭村の無料診療チームに参加した以降は沖特のメンバーになって二回
沖縄にお邪魔した程度で、余りなじみのない人間が
沖縄について語るというのは
沖縄県民の方に対して冒涜になるのではないかという気がしないでもありません。
私は仙台の学校を出ましたけれども、同級生や医者仲間にも
沖縄県
出身の方が大変いらっしゃいまして、知念とか屋嘉比とか池端とか西平、それから新垣、儀間、そういった名前を思い出します。いずれのそういった同僚あるいは先輩後輩の
沖縄県
出身の方も本当に大変まじめで義に厚いと申しますか、礼を重んじて恩に厚く情に深く懐が深く、毛も毛深いところもありますけれども、いいところばかり並べるとごまをすっているのじゃないかということにもなりかねませんが、欠点か長所が、よく忍ぶ、忍という字を心得ていらっしゃる。お酒に強いというのは長所でしょうか欠点でしょうか、大変お酒に強い。そういった方々の顔を思い浮かべるわけでございます。
沖縄に関しましてはその程度の見識しかございませんけれども、ひとつ失礼にわたる点があればお許しをいただきたいと思います。
私が敬愛してやまない我が国の桂冠詩人が一九八八年に
沖縄の過去、現在、未来を歌った長編、長い長い詩に次のような一節がございます。
ああ
沖縄!
忍従と働突の島よ
誰よりも 誰よりも
苦しんだあなた
たちこそ
誰よりも 誰よりも
幸せになる権利がある
そうなのだ
ここに安穏なくして
真実の世界の平和はない
ここに幸の花咲かずして
人の世の幸福はない
という一節がございます。
私は、ことしで
本土復帰二十周年を迎える
沖縄の
県民皆々様に対しまして、改めて第二次大戦中の
本土防衛の盾として戦い犠牲になられた悲惨な体験に同苦の意を表して、また戦後の米国統治下における御苦労に心からお見舞いを申し上げ、また現在もなお我が国の安全保障
体制に偉大なる貢献をしてくださっていることに
感謝を申し上げたいと思います。また、戦略軍略の見地からかつては太平洋のかなめ石と呼ばれ続けた運命の天地、宇流麻島が、今やアジアヘ、そして全世界へ向けての海のシルクロードのかなめ石として、今後永遠の平和
国土として名実ともに確固たる存在となるよう
県民皆々様の秘めたる可能性を全開して御
努力をしていただきたいと御期待申し上げますとともに、我が国を挙げて全力でさらなる
援助を続けるべきことを主張するものであります。
申すまでもなく現下の世界
情勢は、旧ソ連の消滅を初めとするデタントの一層の進展、全世界的な核軍備廃絶に向けての流れ、通常軍備の縮小への動き等により、日本を含むアジアの緊張、北東アジアの軍事的緊張も緩和の
方向へ向かいつつあるわけであります。歴史のしからしむるところ、我が国は依然として日米安保条約
体制下にありまして米国あるいは米軍との軍事的な協力
体制にあるとは申せ、こういった世界的な軍事的緊張緩和の傾向、その流れの中にあることもまた事実であります。
この世界的な軍事的緊張緩和の流れの中で、我が国内においても
米軍基地返還、
整理縮小を求める動きが加速されつつあるのも当然であります。現実問題といたしまして全面返還への道のりはまだまだ前途遼遠ではありましょうが、まず不急不要の基地の返還の推進を求めるとともに、我が国
自身としても返還実現への
条件づくりに努めなければならないと思います。
沖縄県においても同様でありまして、
米軍基地の早期返還及び
整理縮小を促進し、返還跡地の有効利用を図ることは、
自然環境との調和、共生、持続可能な
開発を大前提とした上で、
県民の良好な
生活環境の確保、均衡ある
産業の
振興、二十一世紀を目指す人間
中心の都市
計画や
交通体系の
整備等を含めて健全な都市形成を図る等々の施策の実現を図る
観点からも非常に重要な
課題であると思います。
私が取り上げます本日の主題は、読谷飛行場
地域における読谷
補助飛行場の返還跡利用の問題でありますけれども、これは今申し上げました
観点から典型的なケースであろうと思いますし、またこういった視点は第三次振計の
目標の
一つでもあります
自立経済基盤の
整備、
沖縄の
特性を生かした
地域整備という命題にもかなう問題であると思います。
皆様既によく御存じのように、読谷飛行場は
沖縄本島中部読谷村に所在し、那覇市より二十八キロ、
沖縄市より十キロ、名護市より四十五キロに位置して読谷村の
中心部にありまして、国道五十八号に隣接し、県道六号線、十二号線に囲まれていて
沖縄県の中枢に位置しております。
また、明日開会式が行われる甲子園で選抜高校野球大会が行われるわけでありますが、読谷高校が汗水とか糸満とかそういう強豪の中から選ばれまして
沖縄代表として出場することになりまして、三日目の第一試合で我が郷土の仙台育英と対戦することになっております。仙台育英も
かなりな強豪でございまして、読谷にしても仙台育英にしてもそれに勝ては、一回戦に勝ては
かなりのところに行くのではないかというそういう下馬評がありますけれども、読谷高校、小粒ながら極めて強力なチームとも伺っております。
それはさておきまして、読谷飛行場用地の土地所有権問題につきましては、
本土復帰後の早い時期から衆参両院においても取り上げられ、長期にわたって
審議が続けられてきた経緯を持っております。今回、
沖縄県から読谷飛行場
地域開発整備基本
計画が提出されておりますけれども、この基本
計画策定に至る間の国会における政府見解
表明の主なる経緯を述べてみたいと思います。
一九七九年、昭和五十四年六月一日、参議院の本
特別委員会において当時の三原
朝雄沖縄開発庁長官が、長
期間にわたってあれだけ広大な大事な土地が何ら利用されないで放置されているのは国家的にも損失である。県なり市町村なりが
開発計画、
事業計画等を明確にしてくれれば、
開発庁としても政令をつくるなどして処理したいと。
一九七九年、昭和五十四年十一月二十八日、参議院決算
委員会において当時の竹下大蔵
大臣が、政府として統一した考え方を取りまとめるならば、昭和五十四年六月一日に参議院沖特
委員会において長官が答弁したように、
地方公共団体において
振興開発計画にのっとった利用
計画が提出されれば、
関係省庁と十分協議し、
沖縄振興開発特別措置法、国有財産法等現行
制度に沿ってできるだけ早く
地方公共団体に対し払い下げる等の処理を行うと述べておられます。
また、衆議院の
沖縄及び北方問題に関する
特別委員会において、一九七九年、昭和五十四年十二月七日、当時の小渕
沖縄開発庁長官が、地元からの
計画が提出された段階で
振興計画にのせていくことになっており、地元の公共的施設として活用できるよう
開発庁も協力したいと述べておられます。
また、衆議院の決算決議に対する
内閣総理大臣の報告として、一九八六年、昭和六十一年二月七日、当時の中曽根
内閣総理大臣は、
沖縄県読谷村内の国有地については、
沖縄の
振興開発にとって貴重な財産と考えられるので、その利活用に当たっては地元の土地利用構想を尊重し、
沖縄振興開発特別措置法の趣旨を踏まえつつ対処していく所存であるというふうに述べておられます。
以上の経過を踏まえまして読谷村では、一九八七年、昭和六十二年七月に読谷飛行場転用基本
計画を策定し具体的な考えを示しました。また
沖縄県は、この読谷村の
計画の趣旨を踏まえてこのたび読谷飛行場
地域開発整備計画を策定したのであります。
まず初めに、
大臣に
お尋ねをし、お願いを申し上げたいと思います。
沖縄県は、第三次振計の策定に先立ちまして、地元のコンセンサスの成立を前提として読谷飛行場の跡利用
計画案が読谷飛行場
地域開発整備基本
計画として具体的に固まったのを受けて、近く大田
沖縄県知事
自身が直接
大臣に
陳情する意向のようでありますけれども、それ以前に既に三月五日に
沖縄開発庁にこの基本
計画が提出されたわけであります。これに対して
大臣も三月十日の衆議院の
沖縄北方問題
特別委員会で、前向きに取り組みたいと発言をしておられますが、具体的にどのように今後取り組むおつもりなのか、今後の
計画をお示しいただきたいと思います。
特に大蔵
大臣とのトップ協議が必要であろうと思いますが、その大蔵
大臣とのトップ協議を先行させるべきであると思いますけれども、いかがでしょうか。もしトップ協議をおやりになるとすれば予定はいつごろになるか。そういった点も含めて、
大臣からお願いをいたしたいと思います。