○堀
委員 本日は、宮澤総理大臣の御
出席をいただき、羽田
大蔵大臣とともに、当面するこの証券の問題がございますけれ
ども、それに先立ちまして、去る五月十二日、十三日の両日、
日本・EC議員
会議の第十三回
会議がストラスブールで行われました。
日本・EC議員
会議は倉成さんが
会長を初めからしておられまして、私も副
会長として長くこれに参加をさせていただいているのでありますが、
国会開会中にもかかわらず、
会議が行われましたので、
出席をしてまいりました。
今回のこの
日本・EC議員
会議は、私
ども長年やっておりました者にとっては、大変実は新しい段階を迎えた
会議だというふうに私たちは認識をいたしました。それはどういうことかと申しますと、これまで、例えばドロール
委員長あるいは外交担当のアンドリューセン副
委員長に表敬訪問をするというような日程が組まれておりましたけれ
ども、たびたびこれが向こう側からキャンセルをされるという事態がございました。しかし今回は、ドロール
委員長、アンドリューセン副
委員長がみずから私
どもの
会議の席上に参りまして、約一時間、
自分たちの見解を述べ、私たちの質疑応答に答えるという極めて好意的な
会議の状態でございました。私は、
日本がいろいろな点でだんだんと力をつけてまいりまして、ECとしても
日本というものを正しく評価する段階に参ったのではないか、こういう感じがいたしておるわけであります。
この
会議が終わりまして、かねてから問題になっておりますところのフランスのリセフランコジャポネ、富士見町にございますフランス人学校の問題について、最近、私
ども日仏議員連盟の者がいろいろと
努力をいたしまして、港北ニュータウンに適地を見つけ、そこへの移転等について
努力をいたしております最中に、四月の中旬にフランス政府から、フランス側の理由によってこの話はもうやめにする、こういう
連絡が入ってまいったわけでございます。実はこの問題は、フランス側とすれば、富士見町にあります施設を売って、その施設の収入によって新たな場所に土地と建物を建てたい、こういう問題でございました。
この問題の経緯をちょっと簡単に申し上げておきませんと、お聞きになっておる皆さんは事情がわからないと思いますので、これのそもそものもとになりますのは、実はミッテラン大統領が一九八二年、
日本に公式訪問されまして、「迎賓館におけるミッテラン大統領と鈴木善幸首相との会談後にミッテラン大統領が記者団に行った言明 一九八二年四月十五日し、こういうことで実は文書がございます、
本日は、まず鈴木首相と私との間で約一時間の首脳会談を行い、次いで閣僚を含めた拡大
会議を同じく約一時間行った。
会談は主として日仏間の二国間交流について、その現状や
内容を検討し、その
発展の見通しや、
発展させるべき方向を話し合い、両国の利害
関係が一致しているか、一致していない場合にはいかにすれば一致させられるかなどを討議した。
次に、
最後に私たちは日仏文化
関係の
発展に関連する問題を議題とした。この
発展はとくにパリの
日本会館と東京のフランス会館の実現という形で具体化することになる、いくつかの基本的方向に沿って進められるべきものである。これら両会館はそれぞれの国が相手国にもつ知的、科学的中心地となる性格のもので、できる限り近い将来に建設される必要がある。すなわち来年にも着工が可能だと考えられる。こうなっておりまして、さらに記者会見のクラブでの話でありますが、同じく四月十五日、パリの
日本会館、東京のフランス会館、青少年交流の推進、文化交流の
発展、その他とくに外国語教育の分野をはじめとする多くの組織的なキャンペーンなどを通して、フランス政府は、世界史の中で偉大な地位を占める国の一つである
日本に対するフランス人の関心と知識を高め、深めるよう努める
所存である。しかし、
日本もフランスの不在に余りにも慣れてしまったように思われるので、これから私たちも
努力してフランスの存在感を強めるつもりであり、そのことを
日本の方々に認識していただく必要があろう。
こういうコメントが実は発表されているわけであります。
当時、総理大臣は官房長官をしておいでになりまして、ミッテラン大統領の午さん会に私も実はお招きをいただきました。非常にありがたく感謝をいたしているわけでございます。この問題が実は今日も実現をしていないというのが現実の問題でございます。
その中で、実は一九八八年の暮れに、私、パリで社会民主主義の大会がございまして、それに
出席をして帰りますときに、フランス大使館が、ちょうどニッコー・ド・パリの少し川上の方に、実はこの土地が日仏会館の建設予定地でありますというのを教えてくれました。この予定地というのは千七百五十平米でございまして、フランス側としては、これを向こうの言葉で言いますと、一フランの賃貸料で四十九年間お貸しをします。シンボリックな賃貸料と言っておりますけれ
ども、これは差し上げるわけではありませんということで、しかし、実質的には無償貸与の形でこの土地を提供する。そして、これについては平岩さんを中心とする
日本側の方がその文化会館の建物については費用を出して建設をされる、こういうことになっておるのを見て帰ったところでございます。
帰りましたときに、実は日仏議連の会合が急に招集をされまして、当時のドラン大使が、実は目黒にある土地に日仏文化会館とリセフランコジャポネを移動して処理をしてほしいというお話が出てまいったわけでございます。その後実はいろいろと紆余曲折がございまして、私
ども大変
努力をして、フランス側の負担にならないように
努力をしたのでありますけれ
ども、この目黒における東京営林局の跡地の問題というのはフランス側からキャンセルをされるということになったのでございます。
その後、ちょうど一九八九年、パリの二百年祭、フランス革命二百年祭の前に、実はフランスの商工
会議所の
関係者の方が私のところに来られまして、実は堀さん、
日本政府はいよいよあの市ケ谷の土地に、あそこをぶっ壊してリセを建てよう、こういうことを言っております、しかし、あそこは十分な面積もないので、あそこに建ててもとても二、三年したらまた足らなくなります、ドイツは今横浜市が開発をしておる港北ニュータウンに既に敷地を予定をしてドイツの学校を建てていますので、堀さん、ひとつ何とかエリゼ宮に話をしていただいて、今の市ケ谷に建てるのではなくて港北ニュータウンのような広いところに、土地の余裕のあるところに建てるように話をしてくれませんかというのがフランスの商工
会議所の幹部の皆さんの要請でございましたから、またまた私はこの二百年祭に招待を受けておりましたので、エリゼ宮でクリスチャン・ソーテーユ大統領補佐官に会いましてこの話を伝えて、実は
日本の、在日のフランス人の皆さんは余裕のあるところをやってほしい、こういうことなので、ひとつ大統領に一話をして新しい余裕のあるところに移るように考え方を変えてもらえないだろうかという話をいたしました。その結果、フランス政府側も、港北ニュータウンにおける私たちが選定をいたしました場所に移ろう、こういうことになったのでありますが、時期がだんだんおくれてまいりますと、御承知のように、このフランコジャポネの土地が、かなり高かったのがどんどん値下がりをしてまいりました。
この土地は実は普通の土地ではなくて、東京都が文教地区と指定をしておりますから、この土地には貸しマンションとか貸しビルを建てるわけにはいきません。制約された土地なのであります。しかし、何とかしたいということで、柿澤さんや皆さんのお骨折りの結果、三和銀行に
関係する皆さんがその新しい買い主を見つけてくれて、ことしの一月二十四日に実は入札が行われまして、テンポラリーという会社が九十五億円でこれを入札をしてくれたわけであります。
しかし実際には、この港北ニュータウンでフランス側が希望しております二・五ヘクタールというものは九十五億円ではちょっと処理が困難になってまいっておりましたので、私たちは竹下
会長とも相談をいたしまして、横浜市の高秀市長にも
協力を願って、その隣が横浜市の小学校、中学校の敷地になっておりますので、〇・五ヘクタールぐらいをひとつ横浜市で買っていただいて、しかし横浜市といえ
ども、その土地を買っても、フランス側に賃貸で貸す場合の費用はどこかから出してもらわなければ困ります、こういう話でございますから、当然それは何らかの財団をつくって、そこからの支援をいたしましょうということで、実は平岩さんにもお話をいたしまして、いろいろな点での御
協力をお願いしておりました最中に、フランス政府側から、もうやめたという話が参ったわけであります。
そこで、しかしもしあそこをやめたといたしますと、あの土地が上がる見込みはありませんし、ますます児童がふえてくれば、これは日仏間の
関係の、実は非常にのどに骨の刺さったような問題として残ってまいりますので、これだけはどうしても何とかしたいと思って、実はストラスブールの帰りにパリに回りまして、今ミッテランのシェルパをしておりますところのマダム・ローベルジャンに会いまして、経過の話をいたしました。そうしたら、マダム・ローペルジャンも、大統領も非常にこの問題について関心を持っており、宮澤総理がおいでになったときにもたしかお話が出たと思う、ついては担当のジャン・レビーという方に会ってください、こういうことで、その後でレビーさんにお会いをいたしました。レビーさんの方のお話は、フランス政府の現状では新しく財政支出をして移転をするということは到底不可能なものだからお断りをした、こういうことでありますから、では私たちは、今すぐできるわけではないが、少し時間をかけて、少なくとも予定通り港北ニュータウンにリセを移転をしてもらって、そして、そこでかなり余裕のある地域で子供たちが勉学をしてもらえるようにいろいろな工夫をしている最中に、あなた方が一方的に断ってきたのでは、これはどうにもならないという話をしましたら、いや、皆さんの方でそこまで考えていただいているのなら、堀さん、皆さんにお任せをします、フランス政府としての財政負担がないのならば、それはもう皆さんの御好意に非常に感謝をし、私
どもとしてもその方向でやっていただくことを望みます、こういうことに実はなってまいりました。
帰ってまいりましたのは十七日でありますが、十八日のお昼に日仏議連の
会長の竹下さんにお会いをいたしまして、このことを御
報告をいたしました。そうして、現在の私の構想というのは、この学校の問題だけでは実は片がつかないのでございまして、さっき読み上げましたように、この日仏文化会館の処理をしなければなりませんが、フランスヘ参りまして、前の西欧一
課長でありました桂さんが参事官をしておりまして、総理がおいでになって向こう側は何かオーケーをしたように聞いたけれ
どもどうかと言いましたら、実はまだそこまでいっておりません、こういうような話で、どうも今のフランスの文化会館の問題というのは、こちらの
日本の問題が片づかなければ、向こう側としてもどうも動かないということのようでありますので、この問題を、まずリセを片づけ、文化会館もあわせて片づけるということにしなければ、なかなか問題は解決しない。そういうことで、これをセットに考えますためには、やはりプラスアルファの資金が必要になる、こう考えまして、私は竹下さんに、ひとつ日仏文化教育振興財団というような財団を国の費用と民間の費用を合わせたものでつくりまして、その財団の
運用収入を利用しながらリセの問題も処理する。大体こういう学校の問題については、国が金を出したりする性格のものではございませんから、直接に国が支出をするわけにはまいりませんけれ
ども、そういう民間と公的なものの財団が横浜市の買ってくれた土地の土地代の賃料だけを払うぐらいのことは可能ではないかということを竹下さんにもお話をいたしまして、何とかひとつ、これは総理もこの間お出かけになってお話があったことだろうと思いますが、この際ひとつ、そういう官民合同になるところの日仏文化教育振興財団というようなものを考えて、全体としてこの一九八二年の鈴木・ミッテラン会談における日仏文化問題の解決をしたい、こう考えておるのでありますが、この件についてひとつ総理の御見解を承りたいと思うのでございます。