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1991-11-21 第122回国会 衆議院 本会議 第5号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成三年十一月二十一日(木曜日)     —————————————   平成三年十一月二十一日     正午 本会議     ————————————— ○本日の会議に付した案件  伏木和雄君の故議員小此木彦三郎君に対する追   悼演説  議員請暇の件  裁判官弾劾裁判所裁判員辞職の件  裁判官訴追委員辞職の件  裁判官弾劾裁判所裁判員選挙  裁判官訴追委員選挙  検察官適格審査会委員及び同予備委員選挙  国土開発幹線自動車道建設審議会委員選挙  国土審議会委員選挙  日本ユネスコ国内委員会委員選挙     午後零時二分開議
  2. 櫻内義雄

    議長櫻内義雄君) これより会議を開きます。      ————◇—————
  3. 櫻内義雄

    議長櫻内義雄君) 御報告いたすことがあります。  議員小此木彦三郎君は、去る四日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。  同君に対する弔詞は、議長において去る十七日贈呈いたしました。これを朗読いたします。     〔総員起立〕  衆議院は 多年憲政のために尽力し さきに運  輸委員長議院運営委員長政治改革に関する特別  委員長等要職につき また再度国務大臣の重  任にあたられた議員正三位勲一等小此木彦三郎  君の長逝を哀悼し つつしんで弔詞をささげま  す     —————————————  故議員小此木彦三郎君に対する追悼演説
  4. 櫻内義雄

    議長櫻内義雄君) この際、弔意を表するため、伏木和雄君から発言を求められております。これを許します。伏木和雄君。     〔伏木和雄君登壇〕
  5. 伏木和雄

    伏木和雄君 ただいま議長より御報告のありましたとおり、本院議員小此木彦三郎先生は、去る十一月四日、御家族の手厚い看護のかいもなく、入院先慈恵会医科大学附属病院において六十三歳の生涯を閉じられました。まことに哀悼痛惜の念にたえません。  さき臨時国会において、政治改革に関する特別委員長として、与野党融和を図りながら、政治改革を目指して粉骨砕身努力されていたお姿が、今まだまぶたにはっきりと焼きついている者の一人として、その突然の死がいまだに信じられない思いであります。  私は、ここに、諸君の御同意を得て、議員一同を代表して、謹んで哀悼言葉を申し上げます。(拍手)  小此木先生は、昭和三年一月、広く世界を見渡す港都、神奈川横浜市に材木業を営む県内屈指商家の長男としてお生まれになりました。御尊父歌治氏は、県下徳望家として聞こえ、横浜市議会議長要職を経て、日本自由党衆議院議員として御活躍された方でありました。  そのすぐれた資質を受け継がれた先生は、長じて、神奈川県立第一中学校を経て、早稲田大学文学部哲学科昭和二十七年に卒業し、商家のよき伝統と、おのれを律することの厳しさを身をもって体験させようとする御尊父教育方針により、生地を離れ、関西の地に人生修業の場を求められたのであります。製材や材木を担いだりの下積みの生活を送る中で、先生は、常に社会的に弱い者の立場に身を置き、耐えることを通して人の心の痛みを体得してこられたのであります。このことが先生人格形成において多大な影響を及ぼしたであろうことは想像にかたくありません。  昭和二十八年、御尊父の急逝に際し、弱冠二十五歳にして県下第一の材木商の後継ぎとなられ、実業家への道を歩まれることとなったのであります。  自来十年、実業家として順調な歩みを送ってこられた先生ではありますが、世の激流と社会の変転は、あなたを事業世界に安穏と置いておくことを許しませんでした。  昭和三十八年になると、父親譲り政治への情熱は、先生をまず横浜市議会議員へと駆り立てました。見事最高点当選を果たされた先生は、激増する人口問題と、立ちおくれた都市整備問題に積極的に取り組み、着実にその地歩を固められて、わずか六年の間に、国政へ参画することを嘱望される若き保守のリーダーと目されるに至ったのであります。(拍手)  先生のたゆみない活動は、先生のお人柄と相まって、やがて「彦さん」の愛称で広く郷土の人々の信頼と期待を集めるところとなり、神奈川県第一区より勇躍立候補された昭和四十四年十二月の第三十二回衆議院議員選挙において、見事初の栄冠を得られ、国政への第一歩をしるされたのであります。(拍手)  この選挙において、先生が「私のニックネームは”象さん”です。ふだんは優しくおとなしいけれども、いざとなればライオンやトラにもしっぱを巻かせるあの象です。」とおっしゃっていられたことは、忘れることができません。この言葉は、先生が象のように堂々として力強く、だれからも愛される政治家に一歩一歩確かな足取りで到達しようとする心情をまさに象徴するものでありました。  本院に議席を得られてからは、新進気鋭議員として、世代交代の旗を高く掲げながら、そのたくましい行動力をもって勇壮活発な議会活動を展開してこられました。また先生は、持ち前政治信条である、平和を希求し、不幸な人を一人でもなくしていごうとする理念に従って、議院運営運輸予算等の各委員会を舞台に、その実践に基づいた豊富な経験と卓越した識見を生かして縦横無尽の御活躍をされました。  各委員会の理事はもとより、運輸委員長土地問題等に関する特別委員長を歴任し、常に誠実に、公正な立場を堅持し、各党意見を十分に聞き入れ、円滑で充実した審議に心を砕かれてきた先生に、同僚議員はひとしく敬服してきたところであります。特に、参議院与野党勢力逆転があり得るかという厳しい政治状況のもと、平成元年六月には、推されて議院運営委員長の重責を担われました。  思えば、「信頼議会運営」を常に心がけてこられた先生議院運営委員長に選ばれたのは、至極当然のことであります。  議院運営委員長としての先生は、与野党逆転下参議院との調整という新たな課題を背負いながらも、良識とよき慣行に従い、何よりも与野党の一致という大原則を貫かれました。持ち前政治感覚とすぐれた調整能力をもって、さまざまな難局にその力量を遺憾なく発揮され、党派を超えた厚い信望を集められたのであります。  小此木先生は、この間、自由民主党にあっては、交通部会長都市局長成田空港建設促進特別委員長、副幹事長国会対策委員長要職につかれ、重要な施策の立案、推進と党の運営、強化に大きな役割を果たしてこられました。  「行くに小径によらず大道を往け」これが先生の座右の銘であったでありましょうか。先生御自身が回顧されているように、「これまでで一番思い出の深いのは、就任直後の与野党国対委員長会談において、中曽根総理所信表明演説をめぐり、減税政治倫理問題の先決を主張する野党と意見が対峙したとき、各党に対して、涙を流すまでに訴え、その解決を果たしたときだ。」というように、偽りのない心情の吐露と、何事によらず体ごと向かい合い、それを堂々と受けとめた上で物事を解決していくという、政治大道を歩む小此木政治の本領がまさにこのとき発揮されたものだと確信をするものであります。(拍手)  一方、政府にあっては、田中内閣のもとで運輸政務次官を、三木内閣においては再度運輸政務次官、次いで外務政務次官を歴任され、着々と実績を積み重ね、その手腕を高く評価された先生は、昭和五十八年十二月、第二次中曽根内閣において、見事通商産業大臣として初の入閣を果たされたのであります。  就任早々先生は、自由貿易維持拡大必要性を強く主張して、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、日本貿易大臣の会合へと出席され、保護主義の抑制、貿易障壁の撤廃に向け積極的な役割を果たされました。  さらに、中小企業景気拡大のための投資減税の確立、消費者保護の充実を図るための割賦販売法の改正に努力され、また、テクノポリスの第一次地域指定を達成し、地方産業の育成に努められるたど、通商産業大臣として多くの実績を残されました。  先生は特に、ハイテクノロジー時代日本という新局面に対して、「日本商人としての礼儀を失ってはならない。商人が新しいものや利潤の向上ばかりに目を向け、伝統的な習慣とか礼儀を失ったら日本はどうなってしまうのか。」といった商人魂を披瀝され、商業至上主義に陥っていた産業界に警鐘を鳴らされたことは、今日、バブルと呼ばれた経済が破綻し、商業全体のモラルが問われている現状を見るにつけ、今さらながら時代の先を読み取る眼力に、ただただ頭が下がるのみであります。  昭和六十三年十二月には、竹下内閣建設大臣として再度入閣を果たされましたが、初当選以来、都市問題のエキスパートとして活躍され、人一倍建設行政に精通されていた先生にとっては、まさにうってつけの立場でありました。  諸外国との建設摩擦が本格化した中にあって、我が国の建設市場外国企業による公共事業の参入を推進し、また、良好な都市整備環境形成を図りつつ宅地開発を推進していくための種々の法律の成立に尽力されるなど、建設大臣として多大な功績を残されました。  先生は、国政への多大な貢献はもとより、横浜育ちの「ハマっ子議員として、郷土発展にも惜しみない努力をなされました。その業績を数え上げれば、枚挙にいとまがありません。  地元横浜発展のために、計画当初より汗を流してこられた先生が、市民の熱望した横浜ベイブリッジ開通記念セレモニーにおいて、「この美しい斜張橋の完成は私にとっても二重にうれしいんだ。橋を支える橋脚がH型になりていて、私の彦三郎のイニシャルと同じだからね。」とほほ笑んで語っておられたのがきのうのように思い出されます。  かくて、小此木先生は、本院議員に連続して当選すること八回、在職二十二年一カ月の長きに及び、その間我が国政に残された功績はまことに偉大なものがあります。しかし、自己の業績は決して口にすることなく、常に裏方に徹してこられた、その陰の力がどれほど大きいものであったかは、議員諸君のよく知るところであります。(拍手)  その歩みは、昭和四十四年に初当選した新進気鋭政治家小此木彦三郎先生が、ゆっくり時間をかけて一歩一歩大地に刻み込んできた「象さん」の歩み理想そのものであったように思われます。  先生と私は、同じ昭和三年生まれの同世代の友として、互いに切磋琢磨し、議員生活を送ってまいりました。与野党が激しくぶつかり合っていたときでも、先生とは何のあつれきもなく、党派を超えた友情をはぐくんでまいりました。  私は、先生ほど平和を愛する思いの強かった方はないと思っております。それは、昭和二十年五月の横浜空襲でお母様と妹さんを亡くされたという体験に基づいているからでありましょう。私もまた、空襲により母と姉を失った者として、平和への絶対の誓いを先生と同じくするものであります。  そうしたことからでありましょうか、小此木先生ほど、また家族を大切に思う気持の強かった方もおられません。子供と接触する時間が余りないからといって、「日曜日の晩などは努めて一緒に食事をしたい」と常日ごろ語っておられたふくよかな顔が、今も脳裏をかすめます。人を愛し、郷 土を愛し、国を思うに当たって、まず家庭を大切にすることなどの信念を守り抜いた小此木先生人生観に、私は深い感銘を覚えるのであります。(拍手)  一挙手一投足が常に世人の注目の的になることは政治家の宿命とは申せ、家庭にあってはよき親であり、よき夫でありた先生が、卒然と他界されました。御家族の胸中を思うとき、お慰めの言葉もございません。  現下、内外の情勢は百年に一度とも言われる激しい変革期にあります。このときに当たり、先生のようなすぐれた政党政治家を失いましたことは、ひとり自由民主党のみ肥らず、国家のため、国民のためにはかり知れない大きな損失であり、惜しみても余りあるものがあります。  ここに、謹んで小此木先生の生前の御功績をたたえ、その人となりをしのび、心からの御冥福をお祈り申し上げ、追悼言葉といたします。(拍手)      ————◇—————  議員請暇の件
  6. 櫻内義雄

    議長櫻内義雄君) 議員請暇の件につきお諮りいたします。  小渕恵三君から、海外旅行のため、十一月二十四日から十二月一日まで八日間、請暇申し出があります。これを許可するに御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  7. 櫻内義雄

    議長櫻内義雄君) 御異議なしと認めます。よって、許可するに決しました。      ————◇—————  裁判官弾劾裁判所裁判員辞職の件  裁判官訴追委員辞職の件
  8. 櫻内義雄

    議長櫻内義雄君) お諮りいたします。  裁判官弾劾裁判所裁判員松永光君及び武藤山治君から、裁判員を辞職いたしたいとの申し出があります。  また、裁判官訴追委員佐藤敬治君から、訴追委員を辞職いたしたいとの申し出があります。  右申し出をそれぞれ許可するに御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  9. 櫻内義雄

  10. 櫻内義雄

  11. 木村義雄

    木村義雄君 各種委員等選挙は、いずれもその手続を省略して、議長において指名されることを望みます。
  12. 櫻内義雄

    議長櫻内義雄君) 木村義雄君の動議に御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  13. 櫻内義雄

    議長櫻内義雄君) 御異議なしと認めます。よって、動議のとおり決しました。  議長は、裁判官弾劾裁判所裁判員に       武村 正義君 及び 山下八洲夫君を指名いたします。  次に、裁判官訴追委員山花貞夫君を指名いたします。  次に、検察官適格審査会委員に       加藤 卓二君 及び 土井たか子君を指名いたします。  また、杉浦正健君を船田元君の予備委員に指名いたします。  なお、予備委員中川昭一君は加藤卓二君の予備委員とし、予備委員田口健二君は土井たか子君の予備委員といたします。  次に、国土開発幹線自動車道建設審議会委員に       綿貫 民輔君    佐藤 孝行君       森  喜朗君    塚原 俊平君    及び 春田 重昭君を指名いたします。  次に、国土審議会委員村山富市君を指名いたします。  次に、日本ユネスコ国内委員会委員片岡武司君を指名いたします。      ————◇—————
  14. 櫻内義雄

    議長櫻内義雄君) 本日は、これにて散会いたします。    午後零時二十七分散会      ————◇—————