○
議長(
櫻内義雄君) 本日
表彰を受けられました他の
議員諸君の
あいさつにつきましては、これを
会議録に掲載することといたします。
—————————————
塩川正十郎君の
あいさつ
この度、永年
在職議員として
院議をもって
表彰のご
決議を賜りました。誠に光栄であり、
感謝に堪えません。これもひとえに
先輩同僚議員のご
指導、ご
鞭撻、
郷土大阪府、特に
大阪第四区の
皆様方のご理解、ご
支援によるものでありまして、ここに心から
御礼申し上げます。
私が初
当選しましたのは
昭和四十二年一月で第三十一回総
選挙であります。この時期は、
わが国は
高度成長期がようやく
軌道に乗ったときでありましたが、
政治には弾みが出てきたときであります。即ち、
選挙の直前に国有地払い下げ問題や
政府系資金の
不正融資をめぐる
共和製糖事件等、いわゆる黒い霧が
政界を覆い、その
浄化と
倫理の
確立が叫ばれ
政治家の清潔さが問われた
選挙でありました。
また、その
時代は
米ソ対立が極限にまで達し、
米国は過日
北ベトナム軍がハノイに対し空爆を強行して
代理戦争は本格的な
世界戦争に
発展するかと心配されたときであります。しかしながら、一方では
佐藤総理が
沖縄返還に執念を燃やし、その
道筋がようやくみえてきたときでありました。
あれから二十五年、
わが国の
政治はその間一年が十年に相当する程、激しい
変化であり、
国家民族の将来に重大な影響を与えるものばかりでありました。しかも我々が関与した、これら重大な
時代の
変化は
政治、
経済、文化の
制度改正を通じて
実行されてきたもので、その
決定に我々が関与できたことは大きな誇りであります。しかも、それらの
政治活動が昨日のように記憶が鮮明であることから、問題の
解決と未
解決、
実行と不
実行が交錯し、たえず
問題提起に追い立てられていることも事実であります。その一例が初
当選時から問題となっている
政治浄化、
政治改革であります。
初心忘れること無くこの問題に対する、
国民の
信頼を得るよう
努力いたします。
今、
ソビエト連邦を始め
東側諸国は、過去堅持したイデオロギーをもってしては
国民を豊かにすることは不可能であることを知って
政治の誤謬を認め、
自由主義諸国に対する抗争と反目を捨てて
世界融和に努めようとしています。国境の垣根は確かに低くなりました。しかしながら、それに相応する
世界の新
秩序は未だ輪郭が明らかでありません。
わが国は今こそ
世界の新
秩序確立と新しい
経済繁栄をもたらすため
協力をいたさなければならぬと思います。
また、
わが国に対する
米国及び
EC等の非難と偏見は不安な
政治問題として淀んでいます。今後
わが国が
世界諸国とどのようにかかわりを持つかが、
わが国の
政治に求められる
最大の
課題であります。内外の
情勢は厳しく激しいものであります。場当たり的、対症療法を繰り返しては
犠牲が益々大きく膨らむのみであります。
今こそ我々は、二十五年の
議会政治で体得した
経験と識見を持って将来に明るい見透しのある
政治を創造しようと
覚悟を新たにするものであります。今後とも変わらざるご
指導ご
鞭撻をお願い申し上げ、
お礼の
言葉といたします。
…………………………………
内海英男君の
あいさつ
本日、
衆議院在職二十五年の故をもって
院議にて
表彰の御
決議を賜わり、誠に光栄であり
感激に堪えません。
四半
世紀の永きに亘り、本院に
在職、
政治活動が出来ましたのも、私の
人生に於いて巡り会った多くの
先輩、そして
友人、
同志の
皆様方の御
指導と御
協力、とり分け私の
郷里宮城県の多くの
方々の力強い御
支援の賜ものであり、この
栄誉に浴するに当り、心から
感謝と
御礼を申し上げる次第であります。
私が本院に
議席を得ましたのは、
政界をめぐる黒い霧が相次いで表面化した
昭和四十二年の所謂黒い
霧解散の時であり、この二十五年間
政治改革と
政治倫理の
確立のために、
同志の
皆様と
努力して参りましたが、
道筋未だ半ばの感強く、今後とも
国民の
信頼に応える清潔で公正な
政治の
確立に
努力して参らなければと
決意を新たにするものであります。
顧みれば、
我が国の
高度経済成長政策による、
国民所得の
驚異的増大、消費が美徳と云はれる世相、その反面公害問題が深刻化し、
自然環境に対するいたわりの心を忘れかけた時期、華美になりすぎた
社会への警鐘でありましょうか、その直後の
ドルショック、二度に亘る
オイルショックに見舞われて、
エネルギー政策の見直しを迫られ、
高度経済成長から
安定経済成長へ、
軌道修正を図ったのであります。このような
社会経済の
変遷の過程の中でも、高度な
技術革新、
設備投資の
拡大等、
国民の英知と
努力により
幾多の
試練を乗り越え、
世界のどの国よりも豊かで、平和な
国家を建設する事が出来ました。
政治、
経済の
変動期に
国民の
皆様の
舵取り役として
国政の場に参画出来ました事、望外の
喜びであり、その
責任の重さを自覚し、誠実な行動を旨として
政治活動をつづけて参りました。
来るべき二十一
世紀の新しい
時代を迎えるに当り、
我が国を取りまく
世界情勢は
歴史的変革の厳しさに直面し、
国民の要望も多様化し、物質的な豊かさのみならず、心の豊かさを求めております。また
高齢化社会への
対応、更に
国際社会に於ける
日本の
責務の
遂行など、過去に
我が国が
経験したことのない、多くの
課題が山積
しており、厳しい
環境の中で自からの力で、この
難局打開のために
全力を傾注しなければなりません。
私は、今回の
栄誉を
契機にこの
感激を忘れず、
初心にかえって永い
政治経験を生かしながら、
国家と
国民、ふる里の
発展のために、情熱と誠実さを堅持し、更に
努力してまいる事をお誓い申し上げ、
感謝の御
挨拶といたします。
…………………………………
坂本三十次君の
あいさつ
本日、
議員在職二十五年の故を以って
表彰を賜りましたことは、
議会政治家として、これに優る
栄誉はありません。これ一重に、
郷里石川の
選挙区の
皆様のご
支援と、
先輩友人のご
指導の賜と心から
お礼申し上げます。
私の
国政を志した
初心或は
原点は三つありました。その
一つは
平和国家の建設でありました。第二次
大戦で
学徒兵として参戦した体験からも、二度と
戦争の惨禍を繰り返してはならない。
平和外交と軍縮、特に核軍縮とシビリアンコントロールを徹底させたい。その二は、
郷土能登半島のように、いわゆる
土地貧乏から来る
人々の
生活の格差を是正したい。陽の当たらぬ所に光を当てたい。国土の均衡ある
発展を
政治の力で出来るだけ
実現したいとの念願でありました。その三は、
国民の
政治への
信頼こそ
議会政治の
原点であるとの
教訓であります。時あたかも、いわゆる「黒い
霧解散」で大量の新人が初
当選して来ました。私もその一人でありました。
現在叫ばれている
政治の
信頼回復のための
政治改革は、私の
出発点からの宿命的な
課題であります。以上三つの
初心を今後共大切にして行きたいと念願しております。
この二十五年の間の特に印象的な思い出としては
日中国交回復の
実現でありました。私は
松村謙三先生から「自分の生きている中には
日中国交回復は難しい。君は若いからお国の為に私の志を継いでもらいたい。」と若輩の私に威儀を正されてのお話がありました。
其後一九七一年訪中の時に、
周恩来総理から「……
日本国民は敗戦で大被害をうけた。
中国は
日本に対し一円の賠償も要求しません。ただ望むらくは子々孫々に至る中日の
友好親善だけである……。」この
発言を聞いて私共は大変な感動にうたれ、
国交回復に
全力をあげるべく、その場で
決意を固めたことを今懐かしく思い出します。
我国は
世界の中で
協調した時は成功し、
世界と対決した時は失敗したのが近代に於ける
歴史の
教訓であります。今や
冷戦構造は音をたてて崩壊し、
世界は
激動の真っ只中にあります。
我国は
経済大国として、
世界に対し一段と
協調と貢献を求められております。かつてない
歴史的試練に堪えられる様な
我国の
適確な
政策決定が
迫られております。対
ソ連もPKOもその第一歩であります。
議会人として
責任を痛感するのは今日より大なるはありません。
二十五年の歳月は決して短いものではありません。その間お国の為に報いることの余りにも少なかった事は残念でなりませんが、「
人生の本舞台は常に将来に在り」との
尾崎咢堂先生の教えに自らを励まして
微力をつくす
覚悟であることを申し上げ、
表彰に際しての謝辞と致します。
…………………………………
井上普方君の
あいさつ
衆議院議員として
在職すること二十五年の故をもって、ただいま、院の
決議で
表彰の栄に浴しました。
政党議会人として、誠に身にあまる光栄であり、
感激の極みであります。
二十五年の永い間、
政治家としてご
指導、ご
鞭撻をいただきました
先輩同僚の
皆様に心から
お礼を申し上げます。
連続して九回の
選挙に
当選させていただいた
選挙区徳島の
方々の変わらぬご
支援、ご
厚情に対し何と
お礼を申し上げて良いか
言葉もありません。本当にありがとうございます。
私が本院に初めて
議席を得させていただきましたのは、当時、
政界を揺るがしたいわゆる黒い
霧解散の後、つまり一九六七年の第三十一回総
選挙でありました。当時、
国内での
最大の
政治課題は、
政界の
浄化であり、また国際的には、
ベトナム戦争が
拡大の一途をたどるといった状況であり、反戦平和を声高に叫ばねばならない時期でもありました。
四分の一
世紀を経た今日、
世界の相貌は全く異なっております。
今世紀最大の出来事は、
社会主義国家ソ連邦の出現でありましたが、その
ソ連邦さえも今や大変貌を遂げようとしています。
人類の不幸を作ってきた
米ソによる東西の
冷戦構造はやっと終結し、いま
世界は新しい
国際秩序の構築に向けて急速に動きつつあります。同時に
人類の悲願である核兵器の廃絶についても長年の
努力が現実のものとなりつつあり、心から歓迎し、
喜びにたえません。
これから、二十一
世紀にかけて、
世界は多元化し、
人々の
価値観も多様化する中で、
人類は新しい展開を求めようとするでありましょう。このような中で、我々には、二十年後、八十億人に達する
世界の人口問題、地球の
環境問題などに積極的に取り組むという
課題が待ち受けております。
一方、
国内に眼を向けると、今度の
証券金融不祥事にみられるように
利益追求至上主義、
金権主義によって
政治をますます腐敗させています。黒い
霧事件、
ロッキード事件、
リクルート事件、さらには今回の
事件へと続いています。依然として
政界・官界・
経済界の
構造汚職事件の続発に対して、いまなお
政治が有効な
対応をなし得ないでいることに、私は、自らの力不足を反省するとともに、憤りを強くするところであります。
政治家と
国民との間に結ばれた
信頼関係の崩壊は、
民主政治の根幹を危うくすることをいま実感するのであります。
政治の
浄化を
実現することに一刻の猶予もあろうなど考えてはなりません。
私は、このような
激動の時期に、
表彰を受けることができたことに改めて
感謝を申し上げるとともに、これら山積する
課題に渾身の
努力をしてまいる
決意を申し上げ、謹んで
お礼のご
挨拶といたします。ありがとうございました。
…………………………………
加藤六月君の
あいさつ
この度、永年
在職議員として
表彰のご
決議をいただきました。誠に身に余る光栄であり、
感謝に絶えません。
昭和四十二年一月の第三十一回総
選挙に初
当選以来、
連続九回、二十五年の永い間、本
院議員として
在職し、今回の
表彰の
栄誉に浴することができましたのは、ひとえに
郷土岡山の
皆様の暖かいご
支援のお陰であり、同時に、
先輩、
同僚議員のご
指導ご
鞭撻の賜物と心から厚く
御礼申し上げます。その中には今は亡き
方々も沢
山ございます。そのお一人お一人に深甚なる
感謝を捧げます。
私が
日本国に仕えた二十五年間、二十一
世紀を目前にした
今世紀最後の四半期に
歴史は
激動し、
世界も、
日本国も大きく
構造的変化を遂げました。
昭和四十二年当時、想像もできなかった
冷戦構造が解消されました。即ちベルリンの壁が壊され東西ドイツが統合され、
東欧諸国が
共産主義、
社会主義の表現を国名や憲法から除
去しました。
ソ連邦という超
大国が
共和国連合に大きく変貌しつつあり、第二次
大戦関連で併合したバルト三国の独立を認めるまでになりました。
歴史はマルクス主義、
共産主義そして
社会主義の敗北と、自由と
民主主義、
市場経済の原理の勝利を証明したのです。そして
世界は、
国連中心の新しい
秩序作りに向かっています。まさに大
激動の二十五年です。一方
我が国も、
ドルショック、二度に渡る
オイルショックを克服し、
先進七か国の中枢として、
世界よりその
経済力に見合う
国際的役割を大いに期待されております。半
世紀前戦後の瓦礫の中から立ち上がった
日本国も、百四十か国に百億ドルの援助を行う
経済大国になりました。
一方我が愛する
郷里岡山県も大きく変わりました。
昭和六十三年、「夢のかけ橋」といわれた瀬戸大橋が開通し、その橋を
恩師星島二郎先生の銅像が見下ろしています。
先生の遺志を継いで力一杯
ふるさと発展のために頑張ってきた私にとり橋の開通は感無量でありました。また空の
玄関口、
新岡山空港も同年開港し、今年夏より大韓航空の
定期便も飛来するようになりました。
私は今回の
表彰を
契機とし、更に大きく飛躍
発展する
郷里岡山のために力一杯尽くし、その体力、
精神力、そして気力の及ぶ限り、
郷里の
皆さんへの
感謝の気持ちを胸に
日本国の
繁栄と
世界平和のために、私自身の
政治家としての
人生を捧げる
覚悟でございます。
有り難う御座いました。
…………………………………
武藤嘉文君の
あいさつ
衆議院議員として
在職すること二十五年の故をもって、
院議をもってご丁重な
表彰のご
決議を賜りました。誠に光栄の至りであります。
顧みますれば、
昭和三十九年十二月の
補欠選挙に、
政治家としての心構えも十分出来てないにも拘らず、おだてられて立候補し、見事に落選致しました。その際、「おめでとう」と云われた
正眼寺住職(のちに
妙心寺管長になられた)
梶浦逸外老師の真意を二、三ケ月後にわからせていただいて以来、
日本の国の現状並びに将来を洞察させていただき、又、
郷土岐阜県の
発展のためになすべきことを認識させていただき、お蔭でその
成果が二年後の
昭和四十二年一月の総
選挙に現われ、予期せぬ好
成果で見事初
当選を果させていただきました。
その二年間の間にご
協力賜りました多くの
方々の暖かい友情とご
支援は、永久に忘れることがございません。
その後も
連続九回の
当選に引続き暖かいご
支援をいただき、何と
御礼を申上げてよいのか、その
言葉もありません。本当に長い間、有難うございました。
そして今日の
表彰は、この長い間、常に暖かく私をご
支援していただいた
皆様方に対する
表彰でもあると存じ、この
栄誉を
皆様と共に分かち合いたいという気持で一杯であります。
この二十五年の
議員生活の間、私は常に「
国民と共に歩む
政治家」を目指し、公正で平等な
政治の
実現のために、特に弱い
立場の
皆様に少しでも強くなっていただこうと懸命の
努力を致して参ったと自負して居ります。
中小企業の振興、農業の
基盤強化、
身体障害者、
精薄者等の
社会における
立場の
向上、
老人対策の充実、
遺族会、
傷痍軍人会など、
戦争犠牲者の
皆様の地位の
向上等、弱者の
立場にたって
政策の立案、
遂行に
努力をして参りました。
又、
平和国家日本として
世界の恒久的平和と
繁栄のために、
先進諸国との
協調、
開発途上国への
支援等に力をつくして参りました。いよいよ、あと十年足らずで二十一
世紀を迎えます。
東西
冷戦構造の終結によって新しい
世界秩序を作りあげてゆかなければなりません。南北の問題は、依然として深刻であります。又、地球
環境の保全と
世界経済の成長を如何に両立させてゆくかも、これからの大きな
課題であります。
国内的には、高齢
社会を迎え、老人の
皆様に、生きがいを感じ、いつ迄も健康で天寿を全うしていただけるための施策を考えてゆかねばなりません。
又、生産重視から消費者重視に産業
政策を転換し、
国民に心身ともに「ゆとり」と「豊かさ」を実感していただける
社会を作りあげなければなりません。
今日の
栄誉と
感激を深く肝に銘じ、新たな
決意と
覚悟をもってこれ等の問題の
解決に向って
全力をつくすことをお誓いし、
皆様の一層のご
指導、ご
鞭撻を賜りますことをお願い申上げて、
御礼のご
挨拶と致します。
…………………………………
浅井美幸君の
あいさつ
このたび、
院議をもって永年
在職議員表彰のご
決議を賜り、光栄これに過ぎるものはございません。今後この名誉を汚す事のないよう、一層精進する
決意であります。
このような
栄誉を受けることができましたのも、陰に陽に私を支えて下さいました関係各位、わけても地元
大阪の皆さまの、暖かいご
支援の賜物であり、心から厚く
御礼申し上げます。
顧みますれば、私が本院にはじめて
議席を得ました第三十一回総
選挙は黒い
霧解散と言われ、公明党が中道
政治を標榜し、
政界浄化、大衆福祉の
実現を目指して本院に初挑戦した時であり、わが党が二十五
議席を獲得し、今日の
多党化時代をもたらした時であります。
特に記憶に残るのは、初
当選の年に追求したLPガス税法をめぐるタクシー汚職や、木曾ヒノキの入札をめぐる営林幹部と業者の癒着を追及した
事件などでありますが、二十五年の歳月が流れた現在、今もなお
政治倫理の
確立が、声高に叫ばれていることは残念でなりません。今国会で、
政治改革が審議されていますが、
国民の
信頼を回復するためには速やかな改革が必要と考えています。
沖縄返還に際しては「非核三原則」を国是とする、
歴史的な国会
決議の趣旨説明を行い、その
実現に
微力を傾けたことや、公明党第一次訪中団の一員として初めて訪中し、
日中国交回復への五原則を明示した。わが党との共同声明の調印も脳裏から離れません。あれから二十年の佳節を迎えようとしていますが、今は亡き
周恩来総理との出会いは、誠に印象的でありました。
また、沖縄・北方領土問題特別委員長の際、全会一致の北方領土返還
決議が議決され、
ソ連を訪問し領土の返還を強く要請したことも、今日の
情勢を鑑みますと感慨もひとしおであります。
さて、東西冷戦の終結を
契機に、
日本の
国際社会の中で果たすべき役割、その
責任はますます重くなっています。それとともに
国内では、
生活者のための
政治に
原点をおき、一人ひとりの個性や生き方、
価値観、
人生観を
最大限に生かし、豊かさを感じることのできる
社会の構築を目指さねばならないと思います。
浅学非才の私が、ひたむきに走り続けきたこの二十五年間を振り返りますと、自責の念で一杯であります。今回の
栄誉を
契機に一層心を引き締め、
初心に戻り、
国家国民のために報いる
人生でありたいと願っております。
今後とも、皆さまの一層のご
指導、ご
鞭撻を心からお願い申し上げ、
御礼のご
挨拶と致します。
…………………………………
伏木和雄君の
あいさつ
ただいま、
院議をもって、永年
在職議員の御丁重なる
表彰の
決議を賜りました。
議会人としてまことに光栄であり、
感謝にたえません。これもひとえに、
先輩同僚議員の御
厚情と、
同志ならびに
郷土の
皆様の長年にわたる暖かい御
支援のたまものと、心から
御礼申し上げます。
私が本院に初めて
議席を与えられましたのは、
政界の粛正が問われた、いわゆる黒い
霧解散後の第三十一回総
選挙でございました。この時、わが公明党も「清潔な
政治」を標望して、本院に初進出いたしました。
以来二十五年、ふり返ってみますと、大学紛争、公害問題、
沖縄返還の
実現や日中の国交正常化、政財界を揺るがした
ロッキード事件など、さまざまなことがございました。
さらに、
経済の面では、二度にわたる
オイルショックなどの苦難を乗り越え、
世界有数の
経済大国となりました。
一方、
世界は、瞬時にして砕かれたベルリンの壁をはじめとして、
ソ連、東欧の劇的な
変化、まさに滄桑の変を見る思いがいたします。
この間、私も、
微力ながら、立ち遅れた福祉の充実、住みよい都市づくりと均衡ある国土の
発展などに尽くすとともに、
民主政治の
原点ともいうべき
選挙制度の改革などに務めてまいりました。
このような中で、今日
わが国は、
国際社会において
政治・
経済の分野に限らず、大きな地位を占めるとともに、国連を中心とした新たな
国際秩序の構築に向けて、大いなる貢献をしなければならなくなっております。
また、
国内的には、
解決しなければならない諸問題、とりわけ
政治改革が今日ほど強く叫ばれたことはございません。初めて
議席を与えられました時のことをふり返り、不思議なめぐりあわせを感じないわけにまいりません。
時は得難く失い易しと申します。今こそ、
政治改革に真剣に取り組み、
民主政治の確固たる基盤を作らなければならないと存じます。
二十一
世紀を目前にひかえ、次の世代に胸を張って引き継げるよう、なお一層精進してまいる所存でございます。
今後とも、
皆様の御
指導、御
鞭撻を心からお願い申し上げまして、
御礼の
言葉とさせていただきます。
…………………………………
阿部昭吾君の
あいさつ
ただいま
議員在職二十五年ということで、本院の
決議をもちまして御丁重な
表彰をいただき、誠に
感謝の至り、心から
御礼を申し上げる次第でございます。
本日、この
栄誉に浴することが出来ましたのは、ひとえに私の
郷里山形県の
皆様の絶大なるご
支援のお陰であり、よき師、よき
先輩、よき友に恵まれた私は
感謝感激でいっぱいでございます。また
皆様のお許しを得まして、苦労を共にしてまいりました吾が妻に対しましても、
感謝の気持ちを捧げたいと思います。
ふりかえってみまするに、私は、敗戦後の廃墟と瓦礫と飢餓の中、若冠十九才の貧乏な一学生の当時、
日本社会党に入党いたしました。以来四十四年間、一貫して農民運動、草の根
民主主義運動に身を投じてまいりました。草莽の中に育ちました私が、
選挙区の
皆様の厚い友情に支えられ、県
会議員二期八年、
衆議院総
選挙を九期
連続当選をさせていただいてきましたが、誠に身に余る光栄と深く
感謝いたしております。
現在折しも
ソ連の
激動、
世界史的な大転換でありますが、三十五年前、若かった私は
日本海を渡ってナホトカに上陸しシベリア鉄道で九日間かかってスターリン死後のモスクワを訪問いたしました。そこにおきまして私は、官僚と共産党員が特権階級と化し、市場の原理を否定した統制
経済と一党独裁
政治の実態を鋭く見聞い
たしました。以来、私は草の根の
民主主義こそが近代
社会の根幹であり、一党独裁は
民主主義とは相容れない、政党間政権交代の
実現こそが
民主政治の基本であると、確信するに至ったのであります。
三年前、わが楢崎弥之助代議士は、同じ永年
在職議員表彰への謝辞の壇上で、
日本の
政治と
議会制民主主義活性化のためには、自民党一党支配に代わり得る新しい
政治勢力をつくる以外にない、そのために現代の
坂本竜馬たらんとして自らの使命を
最後まで果たしてまいりたい、と申しました。私も全く同じ気持ちでございます。それが国会における吾が恩師、江田三郎の
最後の願いでもあります。
古いイデオロギー主義を克服し、野党結集、連合新党、
政界再編、政権交代の
実現に、私は全精力を傾けてまいりたいと
決意いたしております。
同僚議員各位の御
指導と御
協力を心からお願い申し上げます。
本日十月一日は、私の長年の念願でありましたが、
郷里におきましては、庄内空港の開港式の日でもあります。私の
感激は頂点に達しておる思いであります。本日は誠にありがとうございました。
…………………………………
葉梨信行君の
あいさつ
院議により此度勤続二十五年の
表彰の栄に浴しましたことは、私にとりましてこの上ない
喜びであります。
昭和四十二年一月初めて
当選し、
衆議院の委員会室に掲げられた
先輩の肖像画を尊敬の念を以って見上げたことが思い出されます。私の様な浅学非才の身でこの様な御処置に与り、身の置き所もない思いが致します。
二十五年の永きにわたり心のこもったご支持とご
鞭撻を賜りました
郷里茨城の皆々様を始め
先輩同僚の
方々に衷心より
御礼申し上げます。
一昨
平成元年秋のベルリンの壁崩壊、昨年七月の東西ドイツの平和的統一、そして本年八月の
ソ連共産党の解体、そして
米国による核兵器の大幅削減等
世界状勢は大きく転換を遂げつつあります。
米国に次ぐ
経済大国となった我が
日本は、その持てる力を
世界の新たなる平和と
繁栄、
我が国内政の更なる進展に捧げなければなりません。今程
政治の真の力が期待されている時はありません。
私は、
歴史に学び
先輩の苦悩と勇気に思いを致し、十年後に迫った二十一
世紀を目指して議員としての光栄ある負託にこたえて行くことをお誓い申し上げ、
御礼の
言葉と致します。
…………………………………
渡部一郎君の
あいさつ
このたび、
院議をもって永年
在職議員表彰のご
決議を賜りました。謹んで
御礼申し上げます。
このような
栄誉を受けることができましたのも、不肖の私を二十五年もの長きにわたって、陰に陽に支えて下さいました
先輩、
同僚議員の
皆様、地元神戸の
皆様、全国の党員、支持者、
同志、有権者の
皆様の熱烈なる、また暖かなご
支援の賜物であり、心より
感謝申し上げます。
私が、幼年
時代を
中国で送り、引揚げ者として
日本に足を踏み入れ、最初に目にしたのは原爆投下後の広島の惨状でありました。その胸の傷みのままに、これまでひたすら
世界平和を目的に走り抜いてまいりました。
顧みますと、私が三十七歳の若輩で、本院に初めて
議席を得ました第三十一回総
選挙は、公明党が中道
政治を掲げ、
政界浄化、大衆福祉の
実現を目指して初挑戦、二十五
議席を獲得し、世の中がまさに
多党化時代の幕開けとなったときであります。
我が党は、立党精神を“大衆と共に語り、大衆と共に戦い、大衆のために戦い、大衆の中に入り切って、大衆の中に死んでいく”と掲げ、スタートいたしました。
その精神を誇りとして、私は
微力ながら、神戸・兵庫の活性化のために、又、
沖縄返還、
日中国交回復、公害対策等、
全力で取り組ませていただきました。中でも、食品添加物規制、有害農薬使用禁止、PCB追放に力を入れ、難病であるネフローゼ問題を初めて国会で取り上げました。また、外交委員としては、海外子女教育対策や国連外交へも積極的に取組み、国連に遠いといわれた
日本の国
会議員を国連に近づける役割も果たしてまいりました。
米ソ対決の幕は下り、一国平和主義の
時代は終り、
世界各地で
国連中心主義が叫ばれる今日の
情勢を鑑みますと、感慨もひとしおであります。
ひたむきに走り続けてきたこの二十五年間ではございますが、まだまだ私が思い描く
世界平和にはほど遠く、自責の念で一杯であります。
今や
時代はボーダーレスの
時代をむかえ、またハードからソフトの
時代へと移行しつつあります。民主と平和と人権と友好と
繁栄は、他者の不幸の上に築くものではなく、自ら創造し、自ら
努力し、
人類に遺すべきものと信じます。それが
人類の常識となることを願ってやみません。
私は、意義あるこの時に
表彰されましたことを誇りに思い、一層心を引き締め、
初心に戻り、今後とも、二十一
世紀を展望し、
世界の大衆と共に、
世界の大衆のために、
世界の大衆の中に入り切って、さらに前進してゆきたい所存でおります。
今後とも、
皆様の一層のご
指導、ご
鞭撻を心からお願い申し上げ、
御礼のご
挨拶といたします。
…………………………………
矢野絢也君の
あいさつ
このたび、
院議をもって永年
在職議員として
表彰いただき、誠に光栄に存じます。
これも、ひとえに今日までご支持を頂いたわが党支持者、創価学会の会員各位、とりわけ
郷土大阪四区の
皆様のご熱誠、ご
厚情の賜で深く
御礼申し上げます。
私は初
当選直後、三十四歳の若輩でありましたが、院において科学技術特別委員長、党において二十二年余にわたり、党書記長、委員長の重任を拝命し、
微力、不敏の身でありますが、自他政党の
先輩、
同僚議員、わが党員諸氏に暖かく支えられてまいりました。誠に有難く、厚く
御礼申し上げます。
思えば、この二十五年間は、
国民各位のご
努力により
日本の国運が隆昌し、それとあいまち、石油危機、狂乱物価、公害、土地高騰、貿易摩擦など、
変化と進歩にともなう軋みの続発した波瀾の四半
世紀でありました。
この間、私は十八回にわたり
衆議院予算委員会の総括トップ質問の機会を与えて頂き、その時々の
国家的
課題、
国民の関心事につき、平和、民主、人権を
原点として庶民の声を代弁すべく、さまざまな論点について政府見解を追究、変更させることができました。
また、四十六年、
沖縄返還国会の大混乱において、今や国是ともいえる非核三原則の国会
決議を
実現させ、沖縄が返還されたこと、また、
昭和五十三年、覇権条項で難航していた日中平和条約を締結させることにいささか貢献をなしえました。
これらは
先輩、
同僚議員のご
協力の賜であります。心より
感謝申し上げます。
さらに、
昭和五十四年十二月公民、
昭和五十五年一月社公連合政権構想合意の成立、第十五回参議院
選挙比例区での候補者名簿の野党一本化の提唱など、政権担当能力のある野党勢力の結集、
政界再編成のため、
同志諸氏とさまざまに
努力いたしましたが、自らの不徳、非力のため、また、時の至らざる故か、その志を未だ達
成していません。しかし、僭越乍らこれは、
先輩、先覚者より残された私の
政治使命であると受け止め、今後とも百折不撓の
決意で取り組んでまいります。
内外ともに、誠に時局多端な折柄、
国政の担う
責任は益々重要であります。回天の思いを「吹きおこる 秋風 鶴を 歩ましむ」(波郷)の一句に籠め、新たなる思いで
微力乍ら
全力を尽くしてまいります。
引き続き、ご
指導、ご叱正を心よりお願いし、
御礼のご
挨拶といたします。
…………………………………
藤波孝生君の
あいさつ
この度、
院議をもって永年勤続議員として
表彰を賜りましたことは、まことに身に余る光栄であり
感謝にたえません。二十五年の永きにわたり本院に
在職し、本日この
栄誉に浴することが出来ましたのも、ひとえに神仏の御加護の下、諸
先輩、
同僚議員各位の御
指導と御
鞭撻、
郷土三重県第二区の
選挙民の
皆様及び全国の後援者のあたたかい御
支援のおかげであり、ここに心から厚く
御礼を申し上げます。
私は
郷里で青年運動を進めました後、
昭和三十八年四月に三十歳で三重県議
会議員となり、浜地文平
先生御勇退の後をうけて
昭和四十二年一月、第三十一回総
選挙に立候補し
衆議院議員に初
当選、今日まで九期
連続して
当選させて頂きました。永い歳月の間には順調に
政治街道を進む日ばかりではなく、時に寒風吹き荒ぶ逆境
の日もありましたが、大勢の
皆様が終始変らぬ御理解をお寄せ下さり、私に大きな力をお与え下さいました。今日の日を迎えて
感謝と
感激でいっぱいであります。
初
当選を致しました当時は佐藤内閣の初期であり、
経済成長の道を進むなかで公害問題や大学紛争が深刻な影を投げかけ、このままでは国が亡んで了うという思いでその対策に打ち込みました。以来、
時代はいろいろ
変遷をとげて来ましたが、その時その時の
課題に真剣に取り組み今日に至りました。
国政の中枢で働く機会を与えられ、市場開放や行財政改革などに
微力をつくしました。又、三重県の
発展を願って渾身の
努力を重ねて参りました。しかしその
成果について過ぎ来し方を振り返り、どれだけの足跡を残し得たか、至らざることはなかったかと反省致します時、まことに忸怩たるものがあります。
今日、
世界は大きな転換期を迎えており、平和の維持、
環境の保全など沢山の
課題をかかえ、その
解決が急がれています。近年
経済大国として重きをなすことになった
日本が
世界の中でどのように進んで行くべきか、国の未来を冷静に見つめ
国家百年の大計を
確立すべき秋であると信じます。
これを機に
初心を忘れず更に気分を引きしめ「至誠一貫」をモットーに
全力を挙げて働いて行く
決意であります。どうぞこれからも一層の御
指導を賜わりますよう伏してお願い申し上げます。本日はまことに有難うございました。
…………………………………
河野洋平君の
あいさつ
本日は、院の
決議をもちまして、永年
在職議員としての
表彰を賜り、
感激のきわみでございます。
初
当選以来、今日までを顧みますれば、思うことのみ多く、実りの少ない二十五年であったと、唯々反省するばかりでございます。
いまこの節目に当たり、私の至らざる
政治活動に温かいご声援をお送り下さいました多くの
方々を始め、ご心配を煩わしました
先輩同僚の
皆様にお許しを乞い、
感謝し、何にもまして、いつも揺るぎないご支持を賜りました神奈川県地元
選挙区の
皆様に厚く
御礼を申し上げます。
私が初めて国会に
議席を頂戴致しましたのは、
昭和四十二年一月でございました。
この総
選挙は、議員の権力乱用、公私の混同、業界との癒着等が、きびしく問われた。いわゆる「黒い
霧解散」と呼ばれるものでした。
二十九歳でのこの
経験は、常に
国民の心を心とする
政治を目指す私の
初心として、忘れられないものであります。
昭和五十一年、政権政党を離れて新自由クラブを結成した私は、保守
政治に新しい息吹を与えようと
努力致しました。
この活動は十年目にして挫折の止むなきに至りましたが、私の四半
世紀に及ぶ
政治活動の中で貴重な体験となりました。
その際提唱致しました腐敗との訣別、新しい自由主義の
確立、硬直した
政治からの脱却などは、今なお
政治の大きな
課題となっており、さらに一段の
努力を自らに課して参る
覚悟でございます。
そして、来るべき二十一
世紀に向かい、誤りなき
日本の進路を開拓すべく、精励精進することをお誓い申し上げ、
御礼の
言葉にかえさせて頂きたいと存じます。
…………………………………
山口敏夫君の
あいさつ
このたび、永年
在職議員として、
院議をもって
表彰の
決議を賜りましたこと、誠に身に余る光栄であり、謹んで
感謝申し上げます。
二十五年の永きにわたり、議員として
在職し、今日
議会人としての
栄誉に浴することができましたのは、諸
先輩、
同僚議員のご
指導、ご
鞭撻はもちろんのこと、
郷土埼玉県の
皆様からの変わらぬご
支援、ご
厚情をいただいた賜物であり、ここに衷心より厚く
御礼申し上げます。
思えば私の学生
時代は、六十年安保の熱い
政治の季節であり、東西が激しく対峙する渦中にございました。アジア諸風でも、欧米の植民地主義からの解放を叫ぶ狼煙が燃え盛る中、単身アジア十数カ国を旅し、戦乱のインドシナ半島の過酷な惨状に大きな衝撃を受けました。
米ソ両超
大国の狭間にあえぎ、
国民が飢餓と欠乏に苦しんでいる姿に、私は
政治の果たす
責任の重さを痛感し、
政治家は傍観者ではなく、
歴史の創造者でなければならないという、私の
政治理念の
原点となったのであります。
それから二十五年、歳月を経て
日本と
世界は大きな変貌を遂げました。
我が国は、今や
世界一の債権国、
世界第二の
国民総生産を誇る
経済大国となり、
国際社会でその動向を注視されるようになるまでに至りました。
私自身の
政治生活も、これまで決して平坦なものではありませんでしたが、道なき道を拓く
決意で取り組んでまいりました。新自由クラブとして保守
政治の活性化に挑み、伯仲国会の中で保・保連立政権を成立させ、また労働大臣在任時は、
人生一
世紀時代を視野に入れた。「定年制の延長」「男女雇用機会均等法」「労働時間短縮」「五月四日の休日化」などを
実現させ、新しい
時代にふさわしい
政治を目指し、
努力を続けてまいりましたことを、私は大きな誇りとしております。
そして今や、二十一
世紀を目前にした。この
世界史の激流の中で、
我が国も
政治・
経済・
社会全般にわたるダイナミックなシステムの変革を迫られています。これまで、日米安全保障体制、ガット—IMF体制の受益者であった
我が国は、今後は
世界の
繁栄と成長に先駆的な役割を果たしていかなければなりません。この
歴史の転換期に、
政治家が果たすべき役割は、かつてないほどの重みを増加させています。
世界が新
秩序を模索し「道標」なき
時代に立つ時、私は日ソ関係の改善、南北朝鮮の緊張緩和等、
日本のおかれている
立場を再認識し、
世界の平和と安定と
繁栄、そして、
我が国にあっては活力ある自由主義
社会の構築、ゆとりと豊かさに満ちた
生活大国の
実現を目指し、その重大な使命と
責任を果たしていくことをお誓いし、
御礼の
言葉とさせていただきます。
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