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参考人(
伊藤憲一君) ただいまから三十分ほど、与えられました
ソ連・
東欧の
情勢変化と
アジアの
政治情勢及び
安全保障というテーマにつきまして、私の日ごろ考えておることを申し上げたいと思います。
最初に、
ソ連・
東欧の変化の
意味とそれの
ヨーロッパにおける
影響について述べたいと思います。この
部分につきましては
三つに分けまして、まず最初に、
ソ連の変化
自体につきましてその本質は何かということ、二番目に、引き続いて起きました
東欧の変化につきましてその本質は何か、三番目に、これが今西
ヨーロッパを含む
ヨーロッパ全体の将来に大きな
影響を及ぼしておりますので、それについての私見を述べたいと思います。
その後、二番目といたしまして、このような
ソ連・
東欧の変化とその
アジアに及ぼす
影響について述べたいと思います。この
部分は特に我が国が位置する地域、つまり東
アジアあるいは西太平洋という地域を含んでおりますので、政策的な
意味合いを込めて
意見を申し述べたいと考えております。この
部分につきましては四点について触れたいと思っておりますが、第一点は、
ソ連・
東欧の変化が
アジアの
共産主義諸国、
中国、北鮮、
ベトナム、
モンゴルとございますが、これにどのような
影響を及ぼすかということでございます。二番目に、
ヨーロッパにおいて
冷戦の終えんということが言われているわけですが、
アジアにおいても
冷戦は終わったのかという問題でございます。三番目に、そのような
情勢の変化を背景として、それが日米
関係、特に日米安保条約体制にどのような
影響を及ぼすか。最後に四番目に、この地域における軍備管理の
可能性、特に
ソ連から提唱されております
アジア安保構想などとの関連で私見を述べてみたいと思います。
それでは、まず最初に
ソ連の変化の本質でございますが、このことを問う理由と申しますのは、言われておりますような
冷戦の終えんと言われる
現象は、ゴルバチョフの登場とそれに引き続くペレストロイカの展開に起因するものでありますので、
冷戦の終えんが果たして不可逆的なものか、決して逆戻りすることのないものであるのかどうか。それを問う上で、
ソ連の変化の本質ということを一応頭の中ではっきりとさせておくことがすべての問題を考える前提
条件ではないかという考え方からこの問題に迫ってみたいと思うわけでございます。
すべては一九八五年三月、ゴルバチョフが
ソ連共産党書記長になったときから始まったわけでございます。ゴルバチョフという人は、
世界の、特に
西側の崇拝者あるいは敬愛者、ファンの中で理想家肌の政治家あるいは大戦略を持った政治家というイメージでとらえられているわけでございますが、果たしてそうであるのか。この点を問うことによって、与えられた時間も限られておりますので、ありとあらゆる角度から学問的な議論をする時間も必要もないと思いますので、このように問題を一点に絞った形で私の考えの一端を示すことによって次々とテーマをこなしていきたいと思います。この点につきまして私は、もしそうであるのならば、今日の
ソ連政治の
民主化であるとか、
西側とのデタントであるとかいったことはすべて彼が最初からそれを理想として実現を目指し、そして達成したことであるのでありますから、
西側から見て信頼
可能性の高いものであり、
冷戦の終えんにしても不可逆的なものであるという考えを強めるわけでありますが、そして
西側の多くの崇拝者たちの間で彼がそのような理想家、大戦略家としてイメージされていることは否定できないと思いますが、私は、ゴルバチョフはむしろそういう理想家あるいは大戦略家から最も遠い人物であるというふうに考えております。
それでは、彼はいかなる人物であるか。彼は基本的にプラグマチストであり、最も優秀なトラブルシューターであります。与えられた課題、任務を最も効率的に処理するという、むしろイデオロギー抜きの、あるいはイデオロギーを超越した、実践的な有能な問題解決者であります。このゆえに彼は、彼の前任者である
ブレジネフ、チェルネンコ、あるいはアンドロポフの
もとで評価され、出世を遂げて党の書記長の地位まで立ち至ったものでございます。彼は、与えられた課題に対しては、
状況を判断して解決に至る最も近道を見出そうとする天才であります。したがいまして、彼が党の書記長になったとき、彼は
ソ連の抱えるあらゆる問題を、はっきりと書記長としての高いレベルにおいて認識したわけでありまして、そこから彼が最初に打ち出してきた対策というのがウスカレーニエであります。ウスカレーニエというのはロシア語でございますが、英語でいうとアクセレレーション、加速化という
意味でありまして、これは現体制の効率、能率を高めるということでございます。したがいまして、彼が書記長に就任した直後においては、彼は体制改革の展望は持っていなかったと私は思うわけであります。彼は現体制を何とかして稼働させようということで、まず労働規律の強化、遅刻、早退、無断欠勤、こういったものに対して厳しい労働規律の強化をもって臨んだわけであります。また、一連の節酒令を発することによって
ソ連社会におけるアルコール中毒の追放に乗り出したわけであります。
しかし彼は優秀な問題解決者、トラブルシューターであるだけに、そういった現行体制の手直しだけでは問題が解決しないことを短期間のうちに認識し、それによってペレストロイカ、さらにはペレストロイカを進行させるためにはグラスノスチ、グラスノスチを徹底させるとデモクラチザーチアというふうに進展していったわけでありまして、私は、彼はデザイン、戦略があって今日に至ったものではなく、
一つ一つの問題を解決しながら、いわば気がついてみると森の中をだんだんと奥へ入ってきたということではないかと思います。したがって、彼は例えば党の一党独裁制の廃止の問題にいたしましても、
ドイツの統一を認めるかどうかという問題につきましても、最初はその
可能性を強く否定しているにもかかわらず、わずか一カ月か二カ月、三カ月の時間の経過の中で、
状況が変化いたしますとやがてこれを認めるという大転換を何回も行っているわけでございます。
このようなことを申し上げましたのは、ゴルバチョフと彼の率いる一連の
ソ連政権中枢部というものは、基本的に
状況に対応しているだけであって、物事の考え方の根本は依然として伝統的な力の支配という観念に駆られているということであります。決して彼らが
西側的な個人主義であるとか、人権主義であるとか、民主主義であるとかの信者に急に生まれ変わったからではないということであります。
しからば、
状況が変わればまた
ソ連は古い
ソ連に逆戻りするのであろうか。すべてが同じであるとすれば、私はゴルバチョフという人は、
状況がそれを必要とし有利と判断すれば、彼は逆戻りすることを何らちゅうちょしない人であると思います。現に
リトアニアに対してとりつつある一連の措置というものは、決して彼の本質が、対話であるとか住民の自決であるとかということに根本的価値観の基準を置いているわけではないということをあからさまに示しているのではないかと思います。こういうことを私が申し上げるのは、
ソ連が逆戻りするおそれがあるということを言っているわけではございません。そのような主観的な考え方にもかかわらず、ゴルバチョフとその指導部は、一連の政治改革を進める過程の中で、いわばパンドラの箱をあけてしまったということが言えるのではないでしょうか。その結果として、ゴルバチョフ及びその指導部は依然として基本的には私は力の支配を信ずる体質を捨てていないと思います。しかし便宜的にあけてしまったパンドラの箱から起こった一連の政治社会
現象の展開の結果として、
ソ連の基本的な内政
外交の方向というのはもはやゴルバチョフあるいはその側近の意思によっても逆戻りさせることが不可能な方向に進んできているということが言えるのではないか。これが
ソ連の変化の本質として重要なところであろうかと思います。
次に、
東欧の変化の本質でございますが、時間の
関係で当初予定していたよりも簡単に結論のみをたどる言い方をさせていただきたいと思いますが、御承知のとおり
東ヨーロッパ諸国は第二次大戦後
ソ連赤軍の力によって
共産党の支配下に置かれ、
ソ連圏に属したわけでありまして、
東欧諸国民にとりまして、
共産主義とはロシア帝国主義の同義語であり、自国の
共産党はそのかいらいにすぎなかったわけでございます。それにもかかわらず、
東欧諸国民がその支配に甘んじたのは、
ソ連が軍事力を行使してもその支配を貫徹しようとする、いわゆる
ブレジネフ・
ドクトリンを維持してきたからでございます。したがいまして、今回一九八九年末の数カ月間に起こった
東欧の解放という
現象は全く単純でございまして、その原因というのは、
ソ連が
ブレジネフ・
ドクトリンを放棄したからであります。それ以外の何物でもなく、それ以上の何物でもございません。
ソ連はなぜ
ブレジネフ・
ドクトリンを放棄したのか。御承知のように、一九八八年、既に
ソ連はアフガニスタンからの撤退を決定いたしました。これは
ソ連が急に平和主義者になったからではなく、自己の力をはかり、アフガニスタンに
駐留を続けることによって失われる利益を計量し、つまり
状況に対応して撤退を決めたものであります。私がゴルバチョフは基本的にプラグマチストであり、力の支配の信奉者であることに変化があるとは思えないと言うのは、アフガニスタン撤退の動機をはかることによって、そしてアフガニスタン撤退こそは
ソ連の今日のいろいろな対外政策の
出発点になっているわけであります。アフガニスタンから撤退したのは、単にコストとべネフィットを計算して、アフガニスタンに
ソ連軍を
駐留し続けることが
ソ連にとってマイナスであり、さらには支えること
自体が耐えられない負担になったということであります。ということは、その延長線上において
東ヨーロッパ諸国につきましても同様のことを考えることになるわけでありまして、事実一九八八年の暮れから一九八九年の春夏にかけまして、
ソ連指導部は、いろいろな機会に
東ヨーロッパ諸国の指導部に対して、君たちは、君たちの問題を
自分で責任を持たなければいけないというメッセージを盛んに送っているわけであります。このメッセージを真剣に受けとめたのが
ポーランドであり、ハンガリーであります。これに対して、その
意味を理解できないままに
事態を放置したのが東独であり、
チェコであり、
ブルガリアであり、
ルーマニアであったわけであります。これがその後の
ポーランド、ハンガリー両国における
共産党の位置づけと、それ以外の
東欧諸国における
共産党の位置づけの違いとなってあらわれたわけでございます。
いずれにせよ、
ブレジネフ・
ドクトリンという力の支えを失ったとき、
東欧諸国民はかいらい政権としての
共産党統治に反乱を起こし、
共産党支配が終わったわけでございます。これに伴って、
東欧諸国において
市民社会への回帰が起こっているわけでございますが、その延長線上において起こっている問題は、
ワルシャワ条約機構の空洞化という問題であり、これに伴いまして西
ヨーロッパ、NATOにとっての脅威というものの
意味が変化しつつございます。事実、NATOはもはや
東欧を脅威とはみなさず、あり得る脅威というのは直接的には
ソ連であるということで、これまでの柔軟反応戦略を改定し、戦術核などを中心とする正面配備の戦力を削減、撤廃し、むしろアメリカ本土からのALCM、空中発射巡航ミサイル、あるいは大西洋からのSLCM、海上発射巡航ミサイル、あるいは米本土からの戦略爆撃機による対ソ攻撃へと、NATOの防衛戦略を変更させようとする
動きが出てきているわけでございます。またもう
一つ、さらに先を読んだ将来的な展望といたしましては、そのように後退し、縮小し続ける
ソ連よりも、むしろ統一することによって巨大なスーパー
ドイツとして登場しようとしている統一
ドイツに対する脅威感というものが新たに登場し、NATOはむしろこの
ドイツの将来における脅威を封じ込めることにその
役割を見出そうとする変化もあらわれているわけであります。
三番目に、このようなことで
ヨーロッパ全体に対する現在の
ソ連・
東欧の変化の
意味合いについて一言申し上げます。
これまでのところは、
ソ連を脅威とし
ドイツは分裂したままという前提で
欧州統合が進められてまいりまして、これは一九九二年にはシングルマーケット、単一市場を達成する見通しでございます。しかし、その達成前に突如として
ソ連・
東欧の崩壊と統一
ドイツの登場という新
事態が生じたわけでございまして、ここにおきまして
欧州統合のプロセスは大きな予期せざる
事態の変化、あるいは当然のこととして前提としていた諸
条件の変化という問題に直面しているわけでございます。NATOの変質については既に申し上げたとおりでございますが、EC統合につきましても、九二年の単一市場の形成までは既定方針どおり進むといたしましても、それ以後の通貨統合あるいは政治統合等の問題になりますと、EFTA諸国あるいは
東欧諸国の加盟、そしてそのように枠を広げた統合の中におけるスーパー
ドイツの巨大な
影響力、こういった新しい与件を踏まえて、
欧州統合はむしろ御破算にするくらいの新しい構想を立てることなしには進展していくことができないのではないか、そのように考えておりますが、これもまた間接的には
ソ連・
東欧に起こった変化の
ヨーロッパに及ぼした大きな
影響と言うことができるのではないかと思います。
このようなことで、これまで
欧州の分断を前提として進められてきた
欧州統合、具体的には西
ヨーロッパの統合にすぎなかったわけでありますが、この過程に
ドイツ問題というものが登場してきている。それと同時に、もう
一つ足を引っ張る要因として
民族問題の浮上ということ、これがやはり同じように
ソ連・
東欧の変化によって
ヨーロッパに浮上してきている。こういった
ドイツ問題、
民族問題に足を取られながら、
欧州統合はよろめきながら予測不能な時間の中に入っていきつつあるように考えるわけであります。
それでは次に、
アジアへの
影響でございますが、
アジアへの
影響はどのように考えたらよいのでありましょうか。
東ヨーロッパ諸国が次々と改革をなし遂げ、
共産党を政権から追い払ったように、
アジア共産主義諸国においても同じような
事態が起こるものでありましょうか。私は、短期的にはそれは起こらないのではないか。
モンゴルにつきましては、これは
東ヨーロッパ諸国とかなり似た
状況、つまり
ソ連の力の支えによって
共産党が支配しているという構造がございましたので、
東ヨーロッパの例を追っているようでありますが、
中国、北鮮、
ベトナムにつきましては
ブレジネフ・
ドクトリンのような
ソ連軍の力に支えられた政権ではございませんので、
ブレジネフ・
ドクトリンが撤回されたからといって
東欧で起こったような変化がすぐこれらの国々で起こるわけもないことは、ある
意味で当然のことではないかと考えるわけであります。また、
ブレジネフ・
ドクトリンが撤回されたとき、
東ヨーロッパ諸国は伝統的な
市民社会、市民政治に回帰することを知っていたわけでありますが、これらの
アジア諸国においては、そのような
市民社会の伝統が全くないということも混迷を予測させるものであろうかと考えます。しかし、長期的にはこれらの国々が
世界の最後進国として
経済発展の道から脱落することをみずから選ぶのでない限り、つまりある程度の
経済改革を進めていく限り、
中国、
ベトナムはその道を選んでいると思われますが、その道を進む限り、それは必然的に政治的改革を伴うものでありまして、長期的には
ソ連・
東欧で起こったのと同じような変化がタイムラグと程度の差を抱えながら進行することは不可避であろうかと考えます。
次に、そのような
状況を前提といたしまして、
アジアにおいて、特に東
アジア・西太平洋において
冷戦は終わったのかという問題でございますが、この点につきましては、私は
二つのバロメーターというかリトマス試験紙というか、踏み絵になるものがございます。それは、第二次
世界大戦の結果として
ヨーロッパに残された傷跡がヤルタ体制による鉄のカーテンによる東西
欧州の分断であり、さらには東西
ドイツの分断であったとすれば、東
アジアにおける同様の問題は、第一に朝鮮半島の分断でございます。第二に北方
領土問題でございます。これら
二つの問題が第二次大戦の傷跡としていやされることなく残っている限り、この地域において
冷戦が終わったということを言うのは私は軽率かつ浅薄な判断ではないかと考えるわけであります。
それでは、この
二つの問題の展開の見通しはいかがか。表面的には何らこの
二つの問題を解決する
動きは見られないわけでありますが、しかし、
ソ連による韓国の
外交的承認が年内にも可能ではないかというようなことが言われている
状況を見ますと、朝鮮半島をめぐる緊張
状況も徐々に変化していく
可能性は大きいものと考えております。また、北方
領土問題につきましても、明年春ゴルバチョフ大統領が来日するということで、みずから問題解決について一定のタイムリミットを課しているということは注目してよろしいのではないか。
なお、この問題につきまして一言申し上げれば、北方
領土問題に関する日ソの立場というのはこういうことではないかと考えます。それは、熱いトタン板の屋根の上にいる猫が
ソ連でありまして、我々は下からそれを見ているわけであります。だんだんトタン屋根は熱くなるばかりであります。屋根の上の猫は飛びおりたくてじたばたしているわけであります。しかし決して
自分から飛びおりようとせず、下にいる日本に上がってこい上がってこいと言っているわけであります。私どもは、戦後四十五年間、筋を通して、節を曲げずにここまで頑張ってきたわけであります。そうして、今まで悠然と、熱くないトタン板の屋根の上で寝そべっていた、そんな北方
領土問題などという問題は存在しないとか、解決済みであるとか言って寝そべっていた猫が、そうは言っておれなくなった
状況の中でじたばたとしているのが現在の
状況でございます。私は、基本的には
ソ連側からいろいろな働きかけがこれからあるのではないか。みずからタイムリミットを切っているというのは、
ソ連側の弱みでこそあれ我々の弱みではないわけであります。ここでは私どもは節を守りながら
ソ連側の出方を注意深く見ていく、対応していくということが非常に大切ではないか、さように考えます。しかし、そのことは日本側が何もするなということではございません。節を守りながら対話を促し、
ソ連という猫が飛びおりやすいようにしてやる、そういう努力はすべきであろうかと思いますが、我が方から屋根の上に上がっていく必要はないということでございます。
次に、このような
状況の変化の中で日米安保体制はどうなるのか、その変質の
可能性はないのかということでございます。
これはひとえに
ソ連の脅威の評価にかかっているわけでございますが、
ソ連の脅威につきましてはその能力と意図によって判断するということは常識でございますが、能力につきましては量的にはほとんど変化がございません。いろいろの一方的軍縮の発言がなされておりますが、それを検証する手段がないだけでなく、そもそも極東
ソ連軍の全貌について基礎的な情報が公開されておりませんので、全体がわからないところで
部分が削減されたと言われても、私どもはそれを確認することができないという
状況でございまして、量的には削減は行われていないと言ってよろしいのではないかと考えます。その上、質的には、つまり近代化でございますが、当初の予定どおり着々と進められている。したがいまして、
現象的には
ヨーロッパ正面において起こっていることと
アジア正面において起こっていることは全く何の脈絡もない、全く同じ国家のやっていることとは思えないありさまの現状でございます。そういうことでありますが、しかし
ソ連の脅威を意図という面から見ますと、皆様も御承知の諸般の
状況から判断いたしまして、
ソ連が極東方面において日本を含む何らかの隣国に対して攻勢的意図を有するということはほとんど考えられないと言ってよい
状況ではないかと思います。今日
ソ連に対日侵攻の意図ありやといえば、ないわけであります。明日もないわけであります。しかし、将来五年、十年、二十年という先まで考えなければならないのが国家
安全保障の問題でございますので、そういう先まで考えるならば、やはり今日存在する
ソ連の軍事的な能力というものを無視して考えるわけにもいかないのではないか。そのようなことから、日米安保体制につきましては基本的にこれを堅持していくことが重要かつ大切ではないかと考えておる次第であります。
しかし、長期的に
ヨーロッパにおいて起こっているような
ソ連の変化が
アジアにおいてもその姿をあらわし、具体的な行動によって
ソ連のデタントの意思が表明されてくるのであれば、そのときには、ちょうど
ヨーロッパにおいてNATO条約の
意味が急速に変質しつつある、
ソ連に対する脅威、
東欧に対する脅威に対抗する性格のものから、むしろ
ドイツを封じ込めるための機関に変質しつつあると言われるような変化がNATOについて起こっているわけでありますが、日米安保体制につきましても
ソ連の脅威を封じ込めるという当初の、一九五一年この条約が調印された当時の環境と大きく異なるような
状況に進むものであれば、日米安保体制というものも主たる目的が、むしろ日本の軍事大国化を封じ込めるというようなものに変質していく
可能性もあろうかと考えるわけであります。
そのようなこととの関連において我が自衛隊のあるべき姿等についても私見を有するものでありますが、時間の制限がございますので割愛いたします。
最後に、この西太平洋あるいは東
アジアにおける軍備管理の問題に関連して私見の一端を申し述べます。
この地域における軍備管理ということになりますと、どうしても海軍力の軍備管理ということが前面に出てまいるわけでございますが、海軍力の軍備管理という問題は非常に慎重に扱わなければならない問題でございます。と申しますのは、日本、そしてアメリカも、ある
意味では巨大なという形容詞がつくだけで日本と同様に島国でございます。島国はシーレーンによって物資の自由な補給を、航行の自由を、法律的だけではなく現実的保障によって守られていることが国家存立の基盤でございます。
ソ連は大陸国家でございまして、シベリア鉄道をその生命線、幹線としているわけでございますが、そのシベリア鉄道を守り抜くためであるならば
ソ連はありとあらゆることをするであろうと思われますが、それと同じくらいの
重要性を我々はシーレーンの安全確保に感じているわけでありまして、であるとするならば、大陸国家
ソ連の太平洋艦隊と海洋国家アメリカの第七艦隊をともに五〇%ずつ削減しようなどという海軍軍縮はあり得ないということであります。海軍軍縮がこの地域においてもし着手されるとすれば、その大前提としては日米両国が島国として持っている航行の安全に対する死活的な依存度というものを
ソ連側がまず認めることによって、むしろその安全を保障することによってスタートする性質の軍備管理でなければならないのではないか、かように考えますが、現在の段階ではそういった実態を踏まえながら、アメリカとしてはむしろそもそもそういった海軍軍備管理の話し合いに巻き込まれること
自体を不利と考えているという
状況のようであります。
日本といたしましては、日米安保体制によってアメリカと一体となって我が国の安全を確保している
状況でございますので、こういったアメリカの基本的な姿勢を理解し、それとの連携において我が国の軍備管理の考え方をつくり上げていく必要があろうかと考えます。
いろいろ
言葉足らずでございますが、時間が超過しておりますので、これで終わらせていただきます。