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1989-11-28 第116回国会 参議院 内閣委員会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成元年十一月二十八日(火曜日)    午後一時開会     ─────────────    委員異動  十一月二十二日     辞任         補欠選任      高木健太郎君     中川 嘉美君  十一月二十七日     辞任         補欠選任      後藤 正夫君     木暮 山人君  十一月二十八日     辞任         補欠選任      中川 嘉美君     高木健太郎君     ─────────────   出席者は左のとおり。     委員長         板垣  正君     理 事                 大城 眞順君                 永野 茂門君                 山口 哲夫君                 吉川 春子君     委 員                 大島 友治君                 岡田  広君                 木暮 山人君                 田村 秀昭君                 名尾 良孝君                 村上 正邦君                 翫  正敏君                 角田 義一君                 野田  哲君                 三石 久江君                 八百板 正君                 高木健太郎君                 吉岡 吉典君                 星川 保松君                 田渕 哲也君    衆議院議員        発  議  者  竹内 黎一君    国務大臣        厚 生 大 臣  戸井田三郎君    政府委員        内閣総理大臣官        房審議官     文田 久雄君        厚生省健康政策        局長       仲村 英一君    事務局側        常任委員会専門        員        原   度君    参考人        日本医師会副会        長        村瀬 敏郎君        日本弁護士連合        会人権擁護委員        会第四部会副部        会長生命倫理        担当)      光石 忠敬君        大阪大学医学部        内科学教授・医        学倫理委員会前        委員長      垂井清一郎君        全国肝臓病患者        会連絡協議会代        表幹事      藤田  茂君     ─────────────   本日の会議に付した案件 ○臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案衆議院提出)     ─────────────
  2. 板垣正

    委員長板垣正君) ただいまから内閣委員会を開会いたします。  臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案を議題といたします。     ─────────────
  3. 板垣正

    委員長板垣正君) まず、委員異動について御報告いたします。  昨二十七日、後藤正夫君が委員辞任され、その補欠として木暮山人君が選任されました。     ─────────────
  4. 板垣正

    委員長板垣正君) 本日は、本案審査のため、参考人方々から御意見を聴取することといたしております。  御出席いただいております参考人は、日本医師会会長村瀬敏郎君、日本弁護士連合会人権擁護委員会第四部会部会長生命倫理担当光石忠敬君、大阪大学医学部内科学教授医学倫理委員会委員長垂井清一郎君、全国肝臓病患者会連絡協議会代表幹事藤田茂君、以上四名の方々でございます。  この際、参考人方々一言ごあいさつ申し上げます。  本日は、御多忙中のところ、本委員会に御出席をいただきましてまことにありがとうございました。  参考人の皆さんから忌憚のない御意見をいただきまして、本案審査参考にさしていただきたいと存じますので、よろしくお願いいたします。  それでは、議事の進め方について申し上げます。  まず、村瀬参考人光石参考人垂井参考人及び藤田参考人の順序で、お一人十五分程度の御意見をお述べいただき、その後、各委員質疑にお答えを願いたいと存じます。  なお、御発言はお座りのままで結構でございますので、御了承ください。  それでは、まず村瀬参考人にお願いいたします。
  5. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) それでは、委員長の御発言のとおり座ったままで発言さしていただきます。  日本医師会生命倫理懇談会というのをつくりまして、「脳死および臓器移植についての最終報告」をまとめ、世間に発表しましたことは御承知のとおりでありますし、その資料についてはお手元にもう行っていると思いますので、その資料について多少社会的な反響が起きた部分について私たち考え方を申し上げさしていただきます。  従来から私どもは死というものを判定する場合に、呼吸停止心臓停止、それから角膜及び対光反射消失という、要するにそれは脳幹機能消失をある程度証明しているわけですけれども、要するに肺、心臓、脳の三つ機能がとまったということで死というものを判定していたわけでございます。これは今後も永遠にこの判定の仕方は続いていくというふうに御理解いただいて結構でございます。  しかし、ごくまれにではありますが、ここに一つの問題が起きてきました。それは麻酔学進歩のために蘇生術というのが非常に進んでまいりました。脳の損傷クモ膜下出血とか脳出血、それから脳の外傷みたいなときに、治療を続ける過程で心臓と肺をとまらないようにしておいて治療を続けていくという努力が重ねられました。その努力は相当実を結んで、クモ膜下出血などは死亡が非常に減ってきております。効果的にその努力は果たされておるというふうに思っております。  ただ、不幸にしてどうしても脳の方の損傷が回復できないというときに、脳が死んでしまうという状態が起きたときに、そのまま肺と心臓だけは動かしておけるというふうな状態が出てきたわけでございます。脳の死が確認されますと肺や心臓を機械的に幾ら動かしておいても一ないし二週間、非常に実験的には何十日という日を言う方もありますが、それは私どもから見れば実験的な作 業にすぎないというふうに思っておりますが、そういうふうに脳が完全に死んだ状態で肺や心臓をいつまでも動かしておくということが果たして人の死の尊厳を損なわないだろうかと。やっておる方の医者としては全く無意味なことをやっているということを意識しながらやっておるわけでありますが、当然そのときは物事が消極的になっていきますし、そういうことがその人の死の尊厳を傷つける問題にならないかということが私たち議論をし出した出発点であります。  次に、臓器移植の問題というのがあります。臓器移植の方は、御存じのように、生きている臓器、要するに人間というのは臓器別に生きていることができますので、その生きている臓器をとり出して、どうしてもそれがなければ死んでしまうという人にそれを移植するという方向が今日的なテーマとして一つあるわけでございます。脳死状態個体死として認められれば、善意の人があってどうしても自分臓器をだれかにやりたい、またはその人が生前そういう意思があった、また家族の人がそういう意思があるという場合に、その臓器をいただいて、その臓器があれば生命を保てる人に移植するということは可能ではないかという今日的なもう一つの問題があります。これは必ずしも脳死を認めるという話と臓器移植とは連動している問題ではありませんけれども、結果的にはやはり避けて通れない問題であるというふうに思いますし、一般社会もそういうことに非常に強く今アクションを起こしておりますので、我々医師会といたしましては医療社会のコンセンサスをまとめる時期だということでこの問題の討議をしたわけでございます。  日本医師会生命倫理懇談会というのがございます。これは生命倫理に関する新たな問題の発生を前にして、医療界医学界がその対応に苦慮している実情にかんがみて、我が国の良識を代表する人によって組織されたものでございまして、必要の都度この懇談会の見解を公表することによって混乱の防止に資するということであります。懇談会メンバー医学者分子生物学者開業医師など医療関係四名、法律関係の方二名、社会学、哲学、経済人それから作家の方各一名で、十名の編成であります。  会議日本医師会通常業務とは独立して審議が行われておりますが、私及び私と同じような役員が何人かずっと立ち会っておりますし、私がお世話をしておりますので私はその会議の成り行きについては十分存じておるわけであります。  脳死及び臓器移植に関する審議は六十一年の十月から行われまして、各界代表の方、賛成の方、反対の方、十三名に御意見を伺いまして、質疑応答をいたし、この会と同じことを十七回やったというふうに御理解いただきたいと思います。中間報告を作成して各界アンケートを求めまして、そのアンケートでいろいろ御疑問のある点について再ヒアリングを対象者の方にまた来ていただきまして行いました。  一部では、日本医師会の生倫懇脳死議論というのは、臓器移植のために脳死を認めようという意思があったんではないかというふうな御批判がある向きもありますが、最終報告書をよくお読みいただければおわかりになると思いますが、末期医療における人間尊厳を保つことに重点が置かれております。  以上の点を踏まえて、最終報告書の要点で、巷間御指摘のある点について申し上げます。  まず、脳の死を個体死とするかどうかという問題であります。  脳というのは大脳と小脳と脳幹に分かれておりまして、それぞれいろいろな運動をしておるわけでございますけれども、この三者の機能が統合されて脳の調節によって人間生命活動が全体に営まれているというのが実態でありまして、先生方承知のとおりであります。  人間腎臓移植したり、心臓移植したり、または透析のような代用臓器によって置きかえても生きていくことはできます。たとえ死んだとしても、例えば凍結受精卵のように死んだ後も自分生命を組織の部分としては生かしておくことはできます。しかし、人間が生きているということの特徴は、やはり個々の細胞が生きているとか臓器が生きているという問題じゃなくて、細胞とか臓器相互に影響し合って統合された働きを持つ。この統合された働きを持っているということが人間が生きているということであり、それは人間一代に限ったことであるというふうに思います。この統合する機能というのが脳の果たしている機能でありまして、この統合機能が完全に喪失した状態は生物学的には死んだという、個体の死だというふうに考えてよいというふうに我々は考えました。  そこで、脳が完全に死んだということの判定は一体どうやってやるのかということになります。  アンケート調査段階では、脳の死の判定基準は統一すべきであるという意見が主流を占めました。確かに、簡単にできることであればやはり統一されるのが望ましいというふうに思います。しかし、我が国内はもとより世界的にも種々の判定基準があります。これを統一することは現実的には労多くして功少ないというふうに我々は判断し、あえて統一を提言しませんでした。医学進歩によって基準そのものが変わっておりますし、将来も変わり得ると思うからであります。  これは、アメリカで一九六〇年代にハーバード基準というのが出されました。このアメリカの、ハーバード基準基準にして幾つかの付加価値的な検査方法が追加され、州によってはそういうもので動いている、また大学によってはそういうもので動いているところもありますが、しかし現在のアメリカはむしろハーバード基準に戻ろうというふうな考え方であります。それは、脳の死の判定というものはあくまで臨床的な診断であって病理学的な診断ではない、法医学的な診断でもない。やっぱり臨床的な診断としてそういう診断方法でよろしいのではないかと。  しかし、野放しにしておくわけにもいきませんし、必要最小限基準として厚生省脳死に関する研究班による「脳死判定指針及び判定基準」、いわゆる竹内基準と言っておりますが、この竹内基準を一応最低限度として満たしなさい、その上、大学倫理委員会でこういうものを足した方がいいだろうという御意見があれば足したらいいでしょう、しかしその取捨選択はそこの最低基準を満たせばよろしいですと、こういう報告になっております。  なぜ判定基準竹内基準を採用したかと申しますと、まず第一に判定方法が明確に示されております。それから第二に、誤診のないように十分な配慮がなされておって、その内容は欧米諸国のものと比較してむしろ厳しくなっておる。それから第三番目に、ベッドサイドで比較的簡単に検査できる方法中心になっています。  この竹内基準に対していろいろな疑義が巷間ありますので、竹内先生を再度お招きし、また竹内基準反対意見を持たれる方もお招きしていろいろ御議論をいただき、御議論の上、「脳死判定基準補遺」として最終報告書の一番後ろの方に載せてございます。  それから死の問題について、本人意見とか家族意見を取り入れるべきでないという御意見が相当ありました。確かに死の判定は本来医師によって客観的になされるのが妥当であって、患者家族意思が加わるべきものではないと思いますけれども、現在、ただいま申し上げましたような状況で脳の死をもって個体の死とすることにはまだ国民全体が十分に納得しない人がおるという現状では、やはりその意思も尊重して、状況をよく説明し、納得してもらった上で死の判定をするのが適当だというふうに考えたわけであります。  これは国際的にもアメリカその他では皆そういう手法をとっておりますし、アメリカでも脳死自分個体の死として認めない人は宗教の関係の人もありますし、人種もありますけれども、恐らく三〇%ぐらいは現実にはいるのではないかというふうに思っております。ですから、脳死を脳の死というふうに判定して人工呼吸器を外すのは、 リビングウイルなり家族意思を尊重してもよいだろうというのが私たち意見であります。  それから、死亡時刻についても幾つかの御指摘があります。最終報告では、死亡時刻最初脳死判定したときということでよいのではないかという意見と、第二番目には、その六時間後に脳死であることを確認した時点がよいのではないかという二つ意見に分かれました。アンケート調査でも、これはフィフティー・フィフティーでほぼ半分ずつということであります。法律関係者の方、法医学者の方は最初の決めたときにした方がいいという御意見であります。ところが、実際に脳死患者を扱っている臨床医の立場はやはり確認のときにしてほしいという意見であります。それで、真っ二つに分かれましたので、両方書いておけばいいじゃないか。それで、それをカルテに明確に記載しておいて死亡診断書を出すときの記載は①でもよいし②でもよいし、御自分のいい方にしなさい、法律的な問題が起きた場合はそのカルテを引き出せばよいのではないかということであります。  報告書全体の意見の中で問題点となったところだけを申し上げましたが、以上のようなわけで、脳の死を正確に判定すれば脳死を人の死として社会的にも法的にも承認してよいのではないかというのが報告書主張です。  立法によってそれが明確になることは望ましいことではありますけれども法律というのはそれでよいということを一般に公認する形のものであって、立法がなくても、脳の死による個体死判定医師によって正確に誤りなく行われたことが客観的に認められて、しかも患者またはその家族がそれを人の死として了承するならば、脳死の問題についてはそれをもって社会的、法的に人の死として扱ってよいのではないかという主張であります。  臓器移植の問題について最後に触れておきますが、最終報告書はあくまで脳死中心として議論を展開しておりますので、臓器移植については最後に一項触れてあるのみでありますが、「臓器移植は、臓器提供者および受容者本人、またはそれらの家族が十分な説明を受け、自由な意思で承認した場合に、日本移植学会の定める指針に従って行うものとする。」というふうに割合と穏やかな意見になっております。しかし、その後急速に多くの人々が海外臓器移植に出かけるという事態が起きました。ある意味では国際問題になっているとも言えますし、日本人倫理観が問われている問題でもあります。だから、この問題はぜひ先生方のお手もわずらわして早急に解決しなければならない問題であろうというふうに思います。  この報告書を作成しました後、私はアメリカ臨床現場を視察いたしました。同時に各大学倫理委員会メンバー米国厚生省などの関係者とも話し合いました。アメリカではこの脳死判定基準というものはお医者さんの判断にゆだねる、医師判断にゆだねるということが医学的には正しいんだということを社会が容認しているというふうに私は印象づけられました。  しかし一方、日本現状でございますが、私たちアンケート調査をやりましてアンケートを集めている段階で、整理している段階で私が一番気になりましたのは、医療社会に対する信頼感の欠如ということが一つあります。医者に任すと何をやられるかわからないというような御指摘が必ずしも少なくはなかったということであります。しかし、国民の中にはやっぱり臓器移植を求めて海外へ行かれる方も後を絶ちませんし、外国移植医療チームにも、ピッツバーグの移植医療チームなんかはほとんど日本人だけで構成しているチームがあって、それがアメリカ人移植を何十例という数をやっております。  こういう状態でございますので、我々医師会といたしましては、やはり次の目標を医療社会信頼回復ということを目指しまして現在生命倫理懇談会にインフォームド・コンセントのあり方を、医師としてのあり方を御審議いただいております。こういう信頼回復をてこにして我々の提言が世の中に広がっていくことを期待しているわけでございます。  以上です。
  6. 板垣正

    委員長板垣正君) ありがとうございました。  大変恐れ入りますが、お一人十五分程度でよろしくお願いいたします。  次に、光石参考人にお願いいたします。
  7. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) 学校を出てからもう二十何年になりますが、先ほど久し振りに君と呼んでいただきまして非常に懐かしく感じました。  きょうは私ども日本弁護士連合会昭和六十三年七月に発表いたしました日本医師会生命倫理懇談会の「「脳死および臓器移植についての最終報告」に対する意見書」、これはお手元に配付されてございますが、これに基づいて一言意見を申し述べたいと思います。  私たち日本人にとって長い間、息が絶えるとか息を引き取るとか脈が触れないとかということがすなわち人が死ぬことを意味してきました。呼吸停止して、心拍が停止して、瞳孔が散大して対光反射消失する。肺、心臓そして脳についてのこの死の三徴候、これを確認して人の死とするということが私たちの伝統であり習慣でもあります。  ところが、一九六七年、今から二十数年前ですが、バーナードによって世界初心臓移植が行われたころから、脳が不可逆的に機能を喪失した状態について、これに不可逆性昏睡とか脳死状態とかいう名前をつけまして、その状態心臓肝臓腎臓などを摘出して移植をするということが諸外国では盛んに行われるようになってまいりました。  日本でも、先ほど紹介がありましたように、昭和六十年に厚生省竹内研究班が全脳死概念に基づいて脳死状態判定基準を発表して、これを受けて昭和六十三年に日本医師会生命倫理懇談会最終報告の中で、従来の心臓死のほかに脳の不可逆的機能喪失をもって人の死としてよいということ、それから判定基準としては竹内基準必要最低限のものとすることなどの考え方をまとめられまして、そして日本医師会理事会が直ちにこれを承認しました。今新しい死の概念日本医師会によって提案されているわけです。諸外国科学技術を積極的に取り入れて世界に冠たるハイテク文明を形成しつつある日本人ですけれども、幸か不幸か、この新しい死の概念提案に対しては同じようにすぐには飛びつきませんでした。賛否両論が鋭く対立して、議論は御承知のとおり混迷状態にあります。  日本医師会の新しい死の概念提案に対しては、先ほど申し上げた私ども日弁連意見書がございます。この意見書を御理解いただくために、いわゆる脳死臓器移植について社会的合意の形成を妨げているもの、それが何かという問題に焦点を合わせて私の考えを申し述べたいと思います。  いわゆる脳死臓器移植専門科学医学の問題が出発点ですが、私はとりあえず次の三つ角度から考えていきたい。一番目は、それぞれの専門科学医学がその内側で専門の小さな殻に閉じこもって内部での対話相互批判、これをおろそかにしてきたのではないのかということ、それから二番目は、それぞれの専門科学医学がこれと関連し隣接する科学医学との対話相互批判、これをおろそかにしてきたのではないかということ、三番目は、全体としての専門科学医学専門外の素人との対話それから相互批判、こういったものをおろそかにしてきたのではないかということです。  これらの角度から、以下、第一に山口青年宮崎青年の死について、第二に何についての合意が求められているのかということについて、第三に専門内外との対話それから相互批判について、それから第四に、倫理委員会の役割について考える、そして結びに、私たち一人一人が克服しなければならない課題についても触れて私の発表といたしたいと思います。  なお、問題の複雑さ、困難さから、どうしても私個人意見というものも入り込んでしまいま す。また私の誤解もあろうかと思いますが、それらは私個人のものとして御勘弁願いたいと思います。  まず第一は、山口青年そして宮崎青年に対する人権侵犯についてであります。  昭和四十三年、バーナードによって心臓移植が行われた翌年の八月、北海道の小樽郊外の海で二十一歳の青年がおぼれました。この山口青年救急車小樽市の病院に運ばれる途中蘇生したのですが、病院で容体が急変したとして、高圧酸素療法を受けるべく四十キロも離れた札幌医大救急部に転科いたします。この後、山口青年高圧酸素療法を受けることなく手術室に運ばれ、死亡確認も不明なまま心臓を摘出されます。一方、十八歳の宮崎青年が七月から同じ札幌医大内科から胸部外科に転科しておりました。この宮崎青年の病名は僧帽弁狭窄兼閉鎖不全でありまして、僧帽弁人工弁置換手術適応でありました。心臓移植適応ではありませんでした。この宮崎青年に対し山口青年から摘出した心臓移植されたのです。  日弁連はこの二人の青年の死に重大な人権侵害があったのではないかというふうに考えまして調査した結果、札幌医大教授及び学長に対して警告を発しました。それはお手元意見書の末尾に添付されております。  この事件を既に過去のこととして片づけるわけにはまいりません。確かにこの二十数年の間にすぐれた免疫抑制剤の開発など、科学医学の客観的、物的な環境は大いに変わりました。しかし、人的な面はどうだったでしょうか。現にこの胸部外科教授は最近でも、一緒に手術関係した二十名の医者グループ全員がよいことをしたと誇りに思っています、こういうふうにさえ述べているのであります。  山口青年宮崎青年の死に対して日本医学界はどのように考え、総括しているのでしょうか。この暗い過去に対して目をつぶろうとしているのではないでしょうか。特に日本移植医学界はこの人権侵犯として警告された先輩たちのしたこと、しなかったことに対してどう検証し、どう考え、教訓を酌み取っているのでしょうか。社会システムの問題ですから、私たちは善意の塊のような医師のみを想定するわけにはまいりません。第二の山口青年宮崎青年の悲劇を繰り返さないために、そして大きく失われた人々の医に対する信頼を回復するためにもこうした問いに答える必要もあるのではないでしょうか。  第二に、今、社会的合意が求められている対象は何か、何について合意社会に求められているのかという点です。この問題は、社会的理解や社会的合意のいわば前提でありまして、この点が明瞭でなければお話にならないわけです。  ところが、日本医師会の新しい死の提案では、例えば、いわゆる脳死による死の判定患者本人ないし家族の同意が必要なのかどうか、同意の位置づけがはっきりしないのでございます。一方で提案は、患者本人または家族の同意というものがいわゆる脳死による死の判定の要件ではない、社会的な礼節上その意思を尊重するのが現状では適当だと述べております。私は、この提案が、別の箇所ではいわゆる脳死による死の判定を是認しない人にはそれをとらないことを認めると言いながら、患者本人または家族の同意がなくてもいわゆる脳死による死の判定ができる余地を残している点はそれ自体矛盾だと思いますが、もっと根本的な矛盾があります。  それは、提案では、「生物としての個体死社会的・法的な人の死との関係」の項で触れられているのですが、人間の生物としての個体死判定が、「医師によって正確に誤りなくなされることが認められ、患者またはその家族がそれを人の死として了承するならば、それをもって社会的・法的に人の死として扱ってよい」と述べ、ここでは患者本人または家族意思が了承という形で、要件となっているかのように扱っているのです。個体死という言葉と人の死という言葉が使い分けられておって非常に紛らわしいのですが、要するに自己決定権の好きな人は患者本人または家族の同意が要件であるというふうにも読めますし、そうではなくて死の画一性という方が好きな人は要件ではないんだ、こういうふうに読めるわけです。  このあたりは法律家の唄孝一さんなんかが指摘されておりますが、このような論理的な混乱もまた単なるロジックの問題として見過ごすわけにはまいりません。科学医学専門家や法律専門家が患者ないし家族意思の尊重という重大な点において論理的に首尾一貫しない提案をしておいて、さあ、これについて理解してください、これについて合意してください、こういうふうに迫ってもそれはしょせん無理というものです。専門家は素人に対してもっと謙虚でなければ専門家と素人との間の対話、実りのある対話相互批判というものは成り立ちようがないと考えるのですが、皆様はいかがお考えでしょうか。  第三に、専門内外からの問いかけに対し、それぞれの専門科学医学がどう答え、どう根拠を説明し対話をするかという点です。  竹内基準に対しては、その作成の方法論に関する立花隆さんの批判があります。それから、竹内基準が脳波学会の基準における急性一次性粗大病変という判定対象を、一次性なら急性でなくてもいいとか粗大病変がなくてもいいとか、二次性の病変でもいいというふうに拡大した根拠、これが十分かどうかも問われております。  もっと原理的な問いもあります。脳が蘇生不能になったことと、脳が死んでいるということとは厳密に区別するべきではないかという批判です。私が先ほどからいわゆる脳死というふうにいわゆるという言葉を脳死という言葉の前に繰り返しくっつけていますのは、何やらこの脳死という言葉は、それが指示する事柄を超えておって、素人をごまかそうとしているのではないかというようなうさん臭さをこの脳死という言葉に感じるからであります。  竹内基準作成のもとになった症例における蘇生例の不存在というものは、脳死者が必ず伝統的意味における死に至ったことを実証するものではあっても、脳死判定時に既に死んでいたということを示す十分な根拠とはなり得ない。腎移植や血液透析などの治療方法のない時代においては尿毒症患者は必ず死に至ったのであるが、そのような患者を既に死んでいるものとなし得ないのと同じことである。よく言われるポイント・オブ・ノーリターン、蘇生不可能となった時点に至ったことをもって人の死とすることは論理的に正しくないんだという法律家の丸山英二さんの批判、それから蘇生例がないことをもって正しさの証明としている竹内基準は、真の脳の死を判定する基準ではなくて、脳が蘇生不可能になったという脳疾患の最末期症状を判定する基準でしかないという評論家の立花隆さんの批判などがあります。  果たして竹内基準発表後、竹内基準を満たした患者について瞳孔径の揺れ動きがあったとか、自発呼吸の開始があったとか、脳からのホルモンの分泌などの症例があったとか、手や足をゆっくり曲げたり首を左右に動かしたりした症例があったとか、あるいは脳に血液が循環していることが確認されたケースがあったということがいろいろな学会などで報告されております。  これらの論点について専門の脳神経外科学、神経内科学、麻酔・蘇生学、緊急医学、脳生理学、こういった諸学界はもとより、ほかの医学界、なかんずく移植医学界はどう考え、どう答えるのでしょうか。その根拠は何なんでしょうか。一つ専門の医科学が狭い殻の中に閉じこもってほかの分野のことには口出しせずという一種のセクショナリズムに固執する限り、社会は漠然とした不安を感じるのではないかと思います。  例えば、いわゆる脳死判定基準で重大な問題が起こっても、移植医学界は、それは脳外科の問題だ、ないしは脳神経内科の問題であるといって言い逃れができるような気がするわけであります。移植医学界が本当に人道上移植が必要と考えるのなら、それを言い出せば何か臓器を欲しがっていると思われるからなどという理由でちゅうちょすることなく、進んでこれらの論点について も発言したらどうかと思うのですが、いかがでしょうか。  脳生理学の伊藤正男さんは、竹内基準だけで本当に誤診は起こり得ないものであろうかと問われて、判定基準を確立するための新たな研究班の実施を提案されておりますが、傾聴に値する意見ではないでしょうか。  第四に倫理委員会が本当に機能するかどうかという点です。  過日の島根医大での生体肝移植、けさほどのニュースではアメリカでも第一回の生体肝移植が行われたと言っておりましたが、私もまたこういう手術を受けられた親子の無事と手術の成功を祈っておる者の一人です。  ただ、あの手術はことしの七月ごろ親御さんに説明されたと報道されておりますけれども、もしそうだとしますと、日本最初世界で四番目という実験段階にある手術について事前に倫理委員会審査を求めなかったということは、私たちを大変に不安にするものです。  この倫理委員会委員に例えば学外者が存在しないという意味で、ヘルシンキ宣言に定める独立の委員会と言えるかどうかという問題もあります。事後的に開かれた倫理委員会は、今回の手術が緊急を要するものでやむを得なかったとして了承したと報じられておりますが、これまたルール無視を適当な理由をつけて追認したのではないかと私たちを不安にさせます。  それから、インフォームド・コンセントについては、手術の危険性、不成功の場合の対応その他について、何がどのように説明され理解されたのか、承諾書に基づいて審査されたのだろうかといった疑問も生じます。事柄をごく個人的な美談で終わらせることなく、社会に向かってフェアに、かつ十分に説明することも専門家に課された義務ではないかと思います。  結びにかえまして、これは自戒の意味を込めて、生命倫理を考える私たち一人一人に求められる課題について述べたいと思います。  いわゆる脳死臓器移植に限らず、生命倫理を考える場合、それを他人ごとではなく、例えば自分家族が交通事故に遭遇して病院に担ぎ込まれた場合、例えば自分家族移植によってしか助からない重い心臓肝臓などの病気であった場合を考えなければなりません。身の回りの経験を総動員して、それでも幸いにして病人がいないなら想像力で補うほかありません。  そうはいっても、実際にそういう患者を抱えてみなければ本当のことはわからないというのもある意味では当たっています。しかし、だからといって、あなたは家族に先天性の胆道閉鎖症の患者を抱えていますか、抱えている上での脳死に対する反対論なら聞きましょうというような態度は、やはりある種の経験ニヒリズムの落とし穴に陥っているのではないかというふうに思います。それを言うなら、私たちは例えば交通事故に遭遇していつ何どきでも不幸にしてドナーの候補になったり、そういう家族を抱えることになるかわからないのではないかと言えるからであります。  今日、移植のため海外に出かけていく日本人も少なくありません。そういう姿を見るにつけ胸が痛みます。この問題を考えるとき、日本人のドナーの人権しか眼中にないような議論によくぶつかりますが、このような議論に対しても私は素朴な疑問を感じます。日本人が、例えば外国AならAに出かけて、A国人のドナーから心臓肝臓などをもらうことになる場合、Aという国のドナーの人権を考えなくてもいいのでしょうか。人権は、国際的に見た場合、保護の緩いところに保護の厳しいところからのしわ寄せがいくというのは残念ながら事実です。日本人のドナーの人権を考える以上、同じ人間なのですからA国人のドナーの人権にも思いをいたさなければなりません。人権の国際的調和、これをどう考えていけばいいのか、ここは問題提起だけさせていただいて、私の結びにかえさせていただきます。  どうもありがとうございました。
  8. 板垣正

    委員長板垣正君) ありがとうございました。  次に、垂井参考人にお願いいたします。
  9. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) 大阪大学医学部で内科学教授担当しているものでございますが、大学医学部に置かれました医学倫理委員会委員長としてこの八月の末まで委員会の司会をしておりまして、現在も委員でございます。そういう経験を踏まえまして、私自身の意見を申し上げたいと思います。  私どもはこの四月に中間勧告と称する文書を出しておりまして、あるいはお手元にあるかと存じますが、それはいわば申請に対する回答でございまして、ただいま申し上げますのが私自身の意見でございます。  今回の法案の提案理由の中に「脳死人間個体死と認められるか、」という設問がございます。最近の社会的な論議の動向を見ますと、私ども倫理委員会でいろいろと議論をいたしましたけれども、今申し上げました問題というのがやはり中心でございまして、この命題が解けなければ何事も進まない、そういう印象を最近強く持っているわけでございます。  ところで、この脳死人間の固体死であるかという命題は、まず後の方の個体死という概念を明確にした上で討議しなければならないと思います。個体死という概念が明確になりますと、その内容と脳死という概念の内容を対比することによりまして、脳死人間個体死であるかという問題に対しておのずから答えが出てくると思います。  先進国の中で最も遅く脳死を前提とする移植医療に踏み切りましたスウェーデンにおきましても、いろいろな紛糾の末、一九八〇年代に至りまして、彼らがたどりました道も本質的にはこれでございまして、スウェーデンの公式の死の定義委員会、スウィディシュ・コミッティー・オン・デファイニング・デス、つまり脳死の定義委員会ではなくて死の定義委員会というところが非常に重要ではないかと私は思うわけでございます。  それで、個体死というのは抽象的には一人の統合された有機体として生きている人間が全体として死滅する、そういうことになろうかと思いますけれども、さらに広く一般化しますと、死とは何かという、そういう問題になります。それはさまざまな人生観あるいは宗教観によって異なった見解が生ずるものでございまして、自分独自の死生観を持つのはその個人の自由でございますから、それを統一するというふうなことは不可能でございます。そういう論議の道をたどりますと、おのずから袋小路に陥ってしまうと思います。  そこで、私は最近いろいろ考えました末、いろいろな死生観あるいは人生観、宗教観の持ち主でも不思議に一致して承認しておられる死の概念、つまり先ほどから話に出ました心臓死という概念、そういう概念の内容を検討する、皆が一様に是認している概念の内容の検討から出発するというのが一番着実な解決方法ではないかというふうに思うわけでございます。そういう心臓死という概念から出発しまして、その内容を吟味することによりまして、今日の医療の状況に適合した個体死という内容もおのずから明らかになってくるのではないか。  それで、心臓死というのは、先ほどから発言された方の中にもございましたけれども心臓生命中心であるからこれがとまるから死である、そういう考え方ではないと思うわけでございます。心臓死という場合の心臓というのは、例えば窒息死という言葉にやや似ておりまして、むしろ死の原因を意味するわけでございます。つまり心臓の拍動が微弱になりますとやがて呼吸も浅くなって停止するわけでございます。呼吸中枢というのは一義的に血液の循環に依存しておりますので、そういうことになるわけでございます。呼吸が非常に微弱になりますと酸素の供給が少なくなりますので、心臓の拍動もまたそれに伴ってさらに弱くなる、そういう悪循環に陥った末、両方ともとまってしまう。  そうしますと脳の機能も侵されまして、正確に は脳幹機能ということになるんですが、先ほどお話が出ました瞳孔の散大あるいは対光反射の喪失、先ほどから出ました三徴候説というのが心停止呼吸停止及び瞳孔の散大、対光反射の喪失、その三つを挙げているわけでございますが、つまり対光反射というのは脳幹の反射の代表的な最も身近なものの一つでございまして、三徴候説といえども脳幹機能の廃絶を見て、そこに至って初めて御臨終でございますという判断を下しているわけでございます。  したがいまして、心臓死といいましても、突き詰めて考えてまいりますと脳の機能の廃絶に行き着くわけでございまして、今日そういうふうに考えている人も多いと思うわけでございます。  ところが、今お話がございましたように、脳死という概念が比較的最近出てまいりまして、こちらの方は脳の方、殊に脳幹の方が先に侵されるわけでございます。呼吸が危なくなってまいります。心臓の方はある程度オートノミーといいますか、自律機能を持っておりますけれども呼吸の方は一義的に脳幹呼吸中枢に依存しておりますので、呼吸中枢が危機に瀕しますと、呼吸が非常に困難になってまいります。そこで、レスピレーター、いわゆる人工呼吸器が必要となりまして、人工的に機械的に呼吸筋を動かす、そういうことになるわけです。そういう状態を維持しておりますと、心臓の拍動も保たれるわけでございます。先ほど申しましたように、心臓というのは自律機能を持っておりますので、多少心拍数は少なくなりますけれども、拍動は続けるわけです。呼吸と循環機能が維持されながら脳だけが死んでいく、それが脳死でございます。  心臓死という概念が、先ほど申しましたように究極的に脳の機能の廃絶を招く、そのことのゆえに個体死であるならば、確実に判定された脳死もやはり個体死でなければならないと私は思うわけでございます。そうなりますと、個体死というものを一元的に把握することができるのではないか。死に至る原因にはいろいろあろうかと思いますけれども、死そのものはいろいろあってはならない。死というものは常に一つでなければならないと思うわけでございます。  それで、アメリカの大統領委員会生命倫理総括レポートというのを見ますと、次のように書かれております。死は心臓と肺の不可逆的な機能停止であるという従来の基準か、または全脳のすべての機能の不可逆的な消失であるという基準のいずれかによって正確にあらわすことのできる単一の現象である、この文章はAまたはBであらわされる単一の現象という表現でございまして、一見矛盾しているように見えるわけでございますけれども、なかなか含蓄のある表現ではないか。つまり、実質的な内容は一つだと言っているのではないか。その一つの内容というのが、つまり個体死の内容ということでございます。  先ほどからお話が出ましたように、例えば両手両足を失っても死ではございませんし、腎臓が両方ともなくなりましても透析によって維持することが可能でございます。脾臓というのは現在の医療においてしばしば摘出される臓器でございます。今日、肝臓生命が宿っていると考える人は恐らくないと思います。あるいは、それぞれの個人心臓も少なくとも一時的には人工心臓で代替することが可能でございます。呼吸人工呼吸器によって動かすことができる。それなら、どの部分の廃絶が死であるか。先ほど言いましたスウェーデンの死の定義委員会でも、脳だけが特別なポジションを占めている。統合、これは英語ではコーディネーションでございますが、そういった能力の所在であるということを言っております。  そういうふうに個体死というものが一元的に理解されたとしますと、その後は脳死判定が問題になるわけでございます。先ほど私も、確実に判定された脳死個体死であろうと申しました。確実な判定とは何か。先ほどから出ました厚生省研究班判定基準というものも大筋では正しい基準を示していると存じますが、その後、ただいまの発言にもございましたように、さまざまな論議が巻き起こっておりますし、それから日本におきましては、脳死からの臓器提供というのが認められておりませんので、かえって脳死そのものの研究というのは非常に進んでおります。さまざまな知見というのが加えられております。そういうことを参考にして速やかに基準項目をつくって、判定方法を統一的な方向へ確定することが必要ではないかと思います。  その後は、例えば従来の心臓死の方が病理解剖の意思を示されて、医療側もこれを喜んで受け入れる、社会も是認している、そういう状況移植医療についても起こり得るのではないか。病理解剖の場合は医学進歩に貢献するという意義でございます。  移植医療の場合には、これを待ち受けている患者が存在するという点でさらに切実でございます。私どもの調査では、例えば大阪府というのを例にとってみますと、狭い意味の脳死、つまり人工呼吸器につながれている脳死の方というのが年間二百名に達するのではないかという推定がございまして、例えばその四分の一の方が提供を申し出たとされますと、五十名ということになりますが、肝移植専門家の推定によりますと、肝移植の絶対的な適応患者というのは年間少なくとも同じ地域で五十名以上ではないかと、そういうふうな数字も出ているわけでございます。  ただ、臓器提供の場合には病理解剖の場合と異なりまして、できれば健康な時代からそういう意思を示す、これは系統解剖に対する献体の場合に似ておりますけれども、そういうこともできれば好ましいわけで、それは次の一山越えた段階のことかもしれませんけれども、そういう登録制度もおいおい整備していく必要があるのではないか。登録がなければこういう移植医療はできないというものではないかと思いますけれども、できればそういう制度の整備も望ましいのではないか。  登録ということになりますと、これは自分の肉体の運命というものを自分で考えるということになりますので、例えば、あなたは脳死を認めるか、あるいは臓器移植を認めるかというふうな人ごとのようなアンケートに対する回答とは違って、自分の肉体の運命を真剣に考えるという時を持つということも今日のようなやや安逸に流れている社会においては必要なことではないか。そういうことを契機にして、人間愛といいますか、そういう精神も日本社会において高まってくるのではないか、そういうふうに考えている次第でございます。  以上、意見を申し上げました。
  10. 板垣正

    委員長板垣正君) ありがとうございました。  次に藤田参考人にお願いいたします。
  11. 藤田茂

    参考人藤田茂君) ただいま御紹介にあずかりました全国肝臓病患者会連絡協議会代幹事をしております藤田でございます。  初めに、このような席で意見を述べさしていただく機会を与えてくださったことに対し、深く感謝を申し上げます。  早速本題に入る前に、私ことし大きな手術をいたしましたので肺活量が少ないのと、入れ歯なもので大変聞きづらいことがあるかと思いますけれども、よろしくひとつお願いいたします。  臓器移植の問題については、臓器移植以外にその生命を救う方法のない患者にとって極めて切実な問題であり、移植を受けることができる日を一日千秋の思いで待ちわびています。私たち患者組織が知る範囲でも、腎移植を待つ人たちが一万二千人、肝臓移植を待ち望む人たちが、これは私たちの大阪の組織の調査で八十九人、胆道閉鎖症の子供が三百人、患者会が心臓病などまだつかんでいない希望者を含めれば恐らく全国ではこれをはるかに上回るものであることは間違いありません。  中でも胆道閉鎖症の患者は大部分が幼い赤ちゃんなので、末期症状の患者を持つ親御さんの願いは言葉に言いあらわせないものがあります。我が国で脳死からの臓器移植が行われていない現状のもとで、胆道閉鎖症の子供が肝臓移植を受けるた めにやむなく国外へ出た総数は四十三人に上り、移植難民という声さえ聞かれる中で新たな国際摩擦も心配されています。  私ごとで恐縮ですが、私も三年前肝がんが発見され、ことしの一月外科手術を受けました。今でも肝臓の周辺に痛みがあります。これ以上悪化すれば移植を含む新たな医学進歩を期待する以外に生命を維持できない当事者の一人でございます。  さて、私の経験を振り返ってみても、臓器移植が問題となる前にどうしても申さなければならないことがあります。それは、患者にとって臓器移植がすべてではない、そこへいく前に尽くすべき医療が十分に受けられるように国の施策を強化してほしいということです。  肝臓患者の実態と特徴を若干述べさしていただけば、我が国の肝臓患者の数は厚生省の推計でも二百万人と言われています。まだ発病していない人たちを含めれば八百万人に及んでいます。我が国は先進諸国の中で肝炎ウイルスの最大の汚染国でもあります。これらの人たちが肝炎になった原因といえば、お母さんからお産のときにうつる母子間感染、手術などで受ける輸血感染、各種の予防接種の際に注射の針と筒を一人一人取りかえることをしなかったために感染したことは最近の研究で明らかになっています。このように肝臓患者の大部分患者にとっては不可抗力な医療行為によって感染したものであり、それは国の予防接種行政とも深くかかわって発生しているのが特徴です。  しかも、働き盛りの四十歳から五十歳代の男性に多発し、一たん慢性化しますと長期の療養を強いられるため患者家族の生活は深刻な影響下に置かれています。その上、感染症なるがゆえに今日でも患者は誤解による差別と偏見に悩まされています。ウイルス保有者というだけで小学生がいじめに遭い転校した例や離婚させられた例、病院や歯医者で診察、診療を断られた例もあります。こうした病気に対する予防対策、患者家族の生活と人権を守る施策が物すごく立ちおくれているということです。  最近アメリカのカイロン社が非A非B型ウイルス肝炎の診断薬の開発に成功して、試薬が日本にも輸入されると聞いていますが、まだウイルスの正体も明らかでなく、現在でも年間十五万人以上が感染し、慢性肝炎から肝硬変、肝がんに進む率も高いと言われています。  私は肝臓病のことしかわかりませんので肝臓病を例にお話ししたいのですが、これは決して肝臓病だけの話ではないと思います。一つ、病気にかかる原因を明らかにし、その原因を取り除くこと。二つ臓器移植を必要とするような病気に対して研究費の思い切った増額と予防と治療法の一日も早い開発。三つ、難治性肝炎を初めこれらの病気に対する医療費の公費負担の拡充。このことをぜひ取り上げていただきたいと思います。臓器移植を必要とする患者が次々につくり出されているのでは患者は心から喜べないのです。これは私の切実な願いであります。  次に臓器移植の問題ですが、臓器移植は今日世界医学界でも有効な治療法の一つとして確立されてきており、欧米諸国では脳死による臓器移植が定着しています。また、我が国の医学、医療の技術面からはそれが可能となってきています。  一方、臓器移植以外に命が救えない患者が多数存在し、善意の臓器提供者も徐々にではありますがふえている現状から、臓器移植の障害になっているいろいろな問題について国民合意が求められています。  肝臓病の場合、人工臓器の実現は不可能に近いことから、肝不全末期、すなわち死であります。したがって、末期患者移植に対する期待も切実で、移植を希望し待ち望んでおられる方も少なくありません。ただ、そうは言っても、臓器移植治療法のごく一部を担う治療手段にしかすぎないと思います。胆道閉鎖症の場合、移植はかなり有効性が期待されますが、その他の治療法として日本で開発された手術方法で成功率七五%の成績を上げたという報告もあります。成人の場合はどうでしょうか。これまで数名の患者が国外で移植を受けましたが、期待した延命効果もなく大半の方が帰国後免疫力の低下もあって死亡されています。我が国で肝臓移植を希望する人たちは、ウイルス性肝炎の末期患者が技術的な問題もあってこれまで臓器移植の対象から外されていましたが、最近外国での成功例の報告もあり、三年前に移植適応疾患となりました。しかし、移植適応年齢も五十歳から五十五歳が限度だと言われ、極めて限定されたものです。  一方、臓器移植に対する国民の意識はどうでしょうか。読売新聞が昨年十一月に行った世論調査では、脳死を前提とした移植を進めた方がよいと答えた人が七二%、反面、脳死を認める人は四六%と合意は二分されています。また、医の倫理については、確立されていないが四五%で、確立されている三九%を上回っており、脳死を認めない人ほど医の倫理の確立に不安を抱いている結果となっています。  日本医師会生命倫理懇談会が昨年一月、脳死を認める報告を公表されて以降、大学病院中心に医療技術や施設、システム等の整備が急速に進められ、各大学倫理委員会に先を競ったように移植の許可申請が出されてきましたが、医学界全体での脳死及び臓器移植についての合意もなおできなくなっていると思います。患者にとって、いつまで待ったらいいのか、どのようにして社会的合意ができるのか気がかりな点です。  最後に、臓器移植調査会設置法案に対する意見と要望でございます。  臓器移植を待ち望む患者にとって、一日も早く我が国で成功的に臓器移植が行われるようになることを願っています。脳死個体の死と認め臓器移植ができるようになるには多くの問題を解決しなければなりませんが、その中心はこの問題についての国民合意をどのようにしてつくり出すことができるかにかかっています。  間もなく十二月四日から人権週間が始まりますが、世界人権宣言はその第三条で、「すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。」とうたっています。何をもって人間の死とするかという問題は人権の最も基本にかかわるものと思います。一人の患者脳死を死と認めるかどうかは、たとえ国が法律で決めようとも、一人一人の人間の他に譲ることのできない権利に属することだと思います。そうであれば、臓器移植を実現する最も近道は、法律をつくることを急ぐことではなく、社会的な合意をつくるための努力を尽くすことだと思います。それには、この調査会が国民合意を確立するにふさわしい委員の構成と公開を原則として、少なくとも国民に開かれたものにしていただきたい。また、法案の趣旨からいって、臓器移植関係する患者会または推薦者を委員に加えることを要望します。  臓器移植は、医師患者のほかに臓器を提供する第三者があって初めて成り立つ医療であります。患者の権利はもちろんのこと、提供者の権利も守られる保証がなければなりません。主権者である国民代表の言論の府である国会が脳死及び臓器移植についての社会的合意を得るためのイニシアチブを発揮していただきたいと思います。そのことを切に願い、私の発言を終わらせていただきます。  どうもありがとうございました。
  12. 板垣正

    委員長板垣正君) ありがとうございました。  以上で参考人方々からの御意見の聴取は終わりました。  これより参考人に対する質疑に入ります。  質疑のある方は順次御発言願います。
  13. 山口哲夫

    山口哲夫君 村瀬参考人に質問いたしたいと思います。  先ほど光石参考人から北海道の山口宮崎青年の死の問題についていろいろお話がございまして、大変関心を持って聞いたわけでございまして、そのことに対しまして、医学界の方を代表されていらっしゃると思いますので、村瀬参考人のお考えがあればぜひお聞かせをいただきたいと思 います。
  14. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) お答えいたします。  この事件については詳細な事実関係は明らかにされておりませんし、私も完全に把握しておりませんので、具体的にこの事件に対するコメントはちょっと御遠慮いたしたいと思いますが、本来医療の進歩、発展のために行われる技術が巷間言われるような疑惑を生んで、むしろ進歩の停滞という方向に向かったということは非常に残念なことだというふうに思っております。  先ほども私、参考人発言のところで申し上げましたように、医療社会に対してブラックボックスの中で物を処理しているんじゃないかというふうな御懸念が非常にあります。その点については十分に反省して、今後こうしたことは二度と繰り返してはいかぬというふうに思っております。  以上です。
  15. 山口哲夫

    山口哲夫君 もう一つ村瀬参考人にお聞きしたいと思うんですけれども脳死というものを立法化いたしますと、脳死反対する人に対しても強制力が出てくるんじゃないかということがよく言われております。特にお医者さんの中では、人工呼吸器をやっぱり外さざるを得なくなるだろう、そういうことに対する不安もあるわけですけれども、そういう問題についてはいかがでしょうか。
  16. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) お答えします。  先ほど光石参考人からいろいろ御指摘がありましたとおり、生命倫理懇の要旨の中で、人の死を本人または家族意思を背景にして左右していいのかどうかという、そこいらのあいまいさということを指摘されましたが、日本医師会生命倫理懇談会では、あくまで脳死の問題については完全な御理解が得られるまで、むしろ立法によるよりも医療社会一つ判断で納得していただける方に合意していただく方がいいという主張で一貫しておると思います。  それは、スウェーデンの話が先ほど出ましたけれども、スウェーデンの立法では、結局脳死判定した場合には、胎児を持っている婦人とそれから臓器を提供する人以外には医療を継続してはいかぬというふうになっております。だけれども、私ども臨床家として人間を見て、患者さんを見ている場合には、脳死に至るまでは相当生かそうという努力を継続しているわけでございますので、ここでぱさっと切れといっても家族の方の納得と合意がない限りそういうことはできませんので、私どもはむしろ法律できちっと決めるのも一つ方法かと思いますけれども、許容範囲というのはやっぱりそこへ持たせるべきだというふうに思って全体の趣旨は書かれていると思います。  以上です。
  17. 山口哲夫

    山口哲夫君 もう一つ垂井参考人にお尋ねいたしたいと思うんですけれども、これは聞いた話なんですが、今医学界の中では脳の再生の問題が随分研究されているというお話を聞いたことがございます。もし、仮にそれが実現可能なものと将来いたしますと、これは脳死をもって死の判定をするということが非常に矛盾してくるんではないだろうかという考えもあるんですけれども、実際にそういった研究が医学界の方でなされていらっしゃるでしょうか。
  18. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) そういう研究はなされております。例えば視覚の伝導経路、それを実験的に、もちろん動物実験でございますけれども、実験的に切りかえた場合に神経機能というのはどの程度回復するかというふうな研究がなされておりまして、ある程度再生といいますか、新しい組織に適応する力を持っているというような研究はございます。  ただ、脳死というのはそういう非常に局所的な機能の廃絶ではなくて、脳の大脳、小脳、脳幹を含むすべての反射統合機能の不可逆的な廃絶でございますので、そういう状態に今の組織の入れかえという概念は余り適合しないのではないかと思っておりますが、非常に脳の局所的な障害の治療としてあるいは将来研究が進められる可能性はあると考えております。
  19. 角田義一

    ○角田義一君 角田ですけれども光石参考人にお尋ねしたいんですが、日弁連が今まで脳死臓器の問題について人権擁護の立場でいろいろと研究をされ、意見書等も発表されたことについては非常に敬意を表するわけですが、最近の新聞報道を見ますと、何か日弁連脳死を認めていくというか、認めざるを得ないというか、そういう方向で今後行くんだというような趣旨の新聞記事が出ておったわけでございますが、日弁連はこの脳死の問題について今日基本的な方向といいましょうか、そういうのは変わってきているんでしょうか。
  20. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) 結論的には何も変わっておらないと思いますけれども、ただ日弁連は、先ほども申し上げた六十三年七月の意見書でも、脳死をただ白か黒かみたいに、これは容認しないとかするとかというようなことは一切考えておらないということです。脳死が本当に確実に判定できるのかとか、そういうことを問題にしているのであって、ですから六十三年七月の意見書の中にも脳死は絶対反対であるとか、そういうことは一切言っていないんです。ですから、一部のマスコミが何らかの意図を持って、私は方向という言葉がよくわからないのですが、何かの方向というふうに解釈したいのではないかなと思っております。  要するに、弁護士会の中のことについては、先日会長声明にもありましたように、全く白紙であるということでありますし、もちろん部会内でいろいろなたたき台のたたき台のようなものはこさえておりまして、それを各地の単位弁護士会にいろいろ意見を求めているということはございますけれども、それはそういう段階であるということであります。
  21. 角田義一

    ○角田義一君 今度できる調査会なんですが、私どもは事柄の性格上この調査会は、法文には書いてないんですけれども、原則として公開で審査をしてもらいたい。例外は認めないぐらいの強い公開原則というのを私ども主張しておるわけでありますが、この法文の中に秘密保持義務なんというのもあるんですけれども、いわばプライベートの問題はAとかBとか、甲とか乙という事例表現のような形で何とか乗り切って、あくまでも公開を原則として、しかもすべての資料国民の前に提供するということがこの死の大きな問題、しかも社会的な合意を得るための一つのプロセスとして極めて大事ではないかというふうに思っておるわけであります。これについては、光石参考人だけでなくて、村瀬参考人にも医師会のお立場でお答えいただければありがたいと思います。私どもは原則公開というのがいいと思うんですが、参考人はどういうふうにお考えになっておられるかということです。
  22. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) それぞれの患者のプライバシーというものが厳重に守られるということは留保いたしますけれども、やはりおっしゃるように公開が原則であるということだと思います。  以上です。
  23. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) 公開の原則でやられた方がよろしいと思います。
  24. 角田義一

    ○角田義一君 委員は十五名という形にこの調査会はなっておるわけでありますが、数は私どもも妥当じゃないかというふうに思っておるんですが、この人選については、先ほど藤田参考人の方から患者代表も入れてほしいというようなこともございまして、もっともだなという気がいたすわけでありますが、村瀬参考人はお医者さんの立場でございますけれども、具体的にはどういう層の方を人選するのがいいというふうにお考えでございますか。
  25. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) 非常に難しい御質問でございますのでお答えしにくいわけですけれども、当然こういう問題の議論をするときには、御賛成の立場の方、それから御反対の立場の方、それから中立的な立場の方、そういう構成が一つ必要であろう。それからもう一つの視点は、物事の理解が十分に行き届ける方ということが、やっぱり非常に科学的な問題であり、一つそういう視点が必要だ。それからもう一つの視点は、やはり死という非常に国民感情を背景にした問題でございますので、社会学的な視点といいますか、哲学的な視点 といいますか、そういうような日本人の心を見通せるような立場の方もお入りいただくという三つぐらいの視点で御人選をなさるべきではないかというふうに思っております。
  26. 角田義一

    ○角田義一君 これは光石参考人にお尋ねするんですけれども、例の日弁連意見書の中で、「脳死判定患者家族意思」という問題でありますが、私も死という問題は個人意思を超えた一つ社会的な問題だというふうなとらえ方もしているんですが、この総括文書を見ると、「個々の患者家族意思に左右されるべきではない」と。何をもって死と認めるかということはそのとおりでございますが、具体的に脳死状態というか、脳死から臓器をとるというふうな問題になった場合には、やはり患者あるいは家族意思確認というものは私は絶対的な要件だというふうに思うんですが、その辺はどうなんでしょうか。
  27. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) 脳死による死の判定についての患者ないし家族意思の問題と、それから臓器移植についてドナーになってもいいとかいうことについての意思の問題とはやっぱり違うと。それで、おっしゃるように、いわゆる脳死による死の判定自体については、患者意思ないし家族意思にかかわらせるものではないというふうに理解しております。
  28. 角田義一

    ○角田義一君 臓器移植については当然同意は両方の同意が必要だというふうに考えていますか。
  29. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) それはそのとおりだと思います。
  30. 角田義一

    ○角田義一君 もう一つ。  それで、社会的な合意を得るということが極めて難しいんですが、これ私は合意を得るために努めなきゃならぬというふうに思いますが、日弁連では社会的合意を得るということの方法、これについては何かいろいろ御論議しておるんですか。
  31. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) この意見書最後のところがそういうふうな「諸問題の検討方法」ということでまとめてございます。これがすべてとは思いませんけれども、こういうふうに多角的に、かつ何か結論を先取りするというようなことではなくて、いろいろ各界から疑問が出ているような点を虚心に検討していただくというような場をとにかくこさえて、そこで検討するということだろうと思います。
  32. 三石久江

    ○三石久江君 私は、脳死及び臓器移植について否定をしているものではないんです。  そこで、村瀬さんにお伺いしたいのですが、今この最終報告を拝見させていただきまして、臓器移植のところで、「脳の死と臓器移植とは、それ自体としては全く別の問題である。脳の死と臓器移植の両者を併せて論じることには、」等々書いてありますけれども、この言葉は医者の立場で言える言葉だと思うんですね。患者や一般市民はこれだけ見ているとわからないと思うんです。私は、一般市民の立場としてこれをもう少しやさしく説明をしていただく、それが社会的合意につながるんではないかと思うんですけれども、そういうお気持ちございますか。
  33. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) お答え申し上げます。  そこのところは言葉足らずだというふうにおっしゃられれば一言もありませんが、先ほども申し上げましたように、日本には大体三千人から六千人に推計される脳死者、脳死状態患者というのがおるわけでございます。我々はその患者治療をやっておるわけでございますから、完全に全脳が死んだという状態生命維持装置をそのまま動かしておくかどうかという問題が我々にとっては一番大きな課題であるということでございまして、脳の死と臓器移植とは分けて考える、別の話であるというふうに考え、いわゆる終末医療における人間尊厳、死の尊厳をどういうふうに保つかという問題が我々が当面している一番大きな課題だと。  その中で、恐らく臓器移植というテーマは、ごく限られた少数の方がドナーとなる、提供者となるということをおっしゃられても、ごく限られた少数の方にしか起きないわけですから、我々はまず第一に脳の死というものをはっきりしたい、脳死というものをはっきりしたいということが主眼でその報告書は検討されておりますので、そこのところが非常に――しかし、それを書かないのも今の社会では通らないということで書いておりますので、そういうことでございます。
  34. 三石久江

    ○三石久江君 今度は、三石というのとちょっと字が違うんですけれども光石参考人にちょっとお尋ねしたいんですけれども、私は患者、一般市民は医者が考えるほど医者判断を信じてはいないと思っているんです。それはどういうことかといいますと、現在の医療過誤の事件についても裁判でしかまだ解決していないという状態なものですから、脳死というのをお医者さんさえわかればよいというものではないと。また、大事なことは、この立花隆さんの本にも書いてあるんですけれども、「第一に、ドナーが本当に死んでいることを絶対にごまかしなく確かめること。第二に、レシピアントが移植手術適応していることをきちんと確かめること。第三に、そのすべての過程において、事後に問題が起きたときに、証拠隠滅などという不祥事が二度と起きないように、客観的な記録をきちんと作成し、保存しておくこと」というふうに書かれてあるんですけれども、そのことについて光石参考人、どう思われますか。
  35. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) 人々がお医者さんに対してお医者さんが考えているほど信頼していないかどうかということは、一般論として私はなかなか難しいとは思っております。  ただ、いわゆる脳死とか臓器移植に関しては、何といいましても先ほど申し上げた山口青年宮崎青年の死というものがやはりどうしても引っかかって、これが頭にこびりついて離れないわけです。ですから、この辺の検証なり総括というものを抜きにして信頼せよと言われても非常に困る。今おっしゃった立花さんのを引用されたその辺は、まさに山口青年宮崎青年に対する死というものに対して、これを二度と繰り返させないという立場から書かれたものというふうに私は理解しておりまして、全面的にそのとおり私も賛成いたします。
  36. 三石久江

    ○三石久江君 最後に、同僚議員が申し上げましたように、私も情報公開ということを重ねて皆さんによろしくお願いいたしたいと思います。  終わります。
  37. 翫正敏

    ○翫正敏君 最初垂井参考人にお伺いしますが、先ほど村瀬参考人がお考えをおっしゃった中に、脳死ということと臓器移植ということは別のことである、そういうことがこの最終報告の中にも述べられているという御説明がありましたけれども、この点についての端的なお考えをお聞かせください。
  38. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えいたします。  もちろん脳死判定というのは直ちに臓器提供につながるわけではございません。それは、先ほど村瀬参考人のおっしゃった死の尊厳というような見地からも扱われる問題でございまして、それは結局死の判定と同じでございますから、非常に範囲の広い、それ自身厳密に扱わなければならない一つの対象でございまして、その後で、残された本人意思あるいは家族意思によってある場合には臓器提供ということが生ずる可能性があるということでございまして、やはり事柄としては厳密に区別しなければならない別のことではないかと私は考えております。
  39. 翫正敏

    ○翫正敏君 脳死ということが医学界で研究されるようになった原因は、もともと末期医療患者治療の問題としてであるというふうに村瀬参考人からも先ほど意見の中で教えていただいたわけでありますが、そういうことからいいますと、つまりもともとは末期医療における治療の問題、つまり人工呼吸器をいつ取り外すかというような、そういうことについて基準または本人とか家族とかの同意、本人といいますか、本人の生前の同意といいますか、元気なときの同意といいますか、そういうような問題などが論じられてきた中で脳死ということが考えられてきた、議論されてきたと。それがアフリカとかアメリカなどで臓器移植の問題というものが行われるようになって、そし て脳死になった段階心臓を摘出するとか肝臓を取り出すとかというふうになってきた、そういうふうに私は考えているんですが、そういう理解でよろしいですか。村瀬参考人にお聞きいたしたい。
  40. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) 御説のとおりだと思います。  私は、移植技術というものが全く開発されない状態で、片方で現在の生命維持装置を使った救急蘇生法というものが発達していけば非常に純粋に今の議論ができた、脳死議論はできたというふうに思っておりますが、不幸か幸か知りませんけれども、たまたま移植技術の方が並行して進歩していったということが非常に大きな問題であろうというふうに、そういう交錯したところに議論がはまり込んでいるというふうな感じがしております。
  41. 翫正敏

    ○翫正敏君 同じことを垂井参考人にお伺いしたいんですが、そう私は理解しているんですが、それでよろしいでしょうか。
  42. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) 今おっしゃったとおりでございまして、元来が別の事柄に属することではないかと考えております。
  43. 翫正敏

    ○翫正敏君 脳死に関する竹内基準ですね、あの基準ももともとは末期医療患者人工呼吸器などをいつ取り外すかというようなことに絡んでつくられた基準である。それが先ほど言いましたような形で、世界脳死患者からの移植ということが行われるようになって、そしてそこへ流用、流用という言葉が適切かちょっとわかりませんが、それがまた同じように使われるようになった、こういうふうに私は理解しているんですが、それでよろしいですか、そういう理解で。村瀬参考人にお願いします。
  44. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) そのとおりでございまして、竹内基準報告書の一番末尾にそういうふうに書かれてあります。先生のおっしゃるように書かれてあります。
  45. 翫正敏

    ○翫正敏君 そういうことで、ちょっと違う質問に移りたいんですが、社会通念としての死ということについて村瀬参考人から先ほどお話もありましたのですが、念のためということでお伺いしたいんですけれども社会通念というものは、ちょっと辞典を見てみますと、   社会の一般的な常識、規範の体系としての法は原則として一般的な規定から成っている。社会通念は、この法を特殊な具体的事実に適用する場合、すなわち法の解釈・裁判・調停などにおいて判断基準として用いられる。民法でいう条理、信義誠実の原則というのも、これに近いが、それよりもくだけた社会の日常生活における良識をさす。一般民衆のもつ法思想といってもよい。 というふうに辞典には社会通念という言葉を解説してあるんですけれども、死における現在の社会通念は三徴候死、いわゆる心臓死である、そういうふうに考えてよろしいんですね、村瀬参考人
  46. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) 私はおっしゃるとおりの方法で現在行われていると思います。
  47. 翫正敏

    ○翫正敏君 垂井参考人にも同じことをお聞きしたいんですが、よろしいですか。
  48. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) 通常は三徴候説に基づいて死というものを判定しているわけでございますけれども、最近は、こういう世の中の脳死に関する論議、さまざまな情報が豊富になるにつれましてやはり脳死というものを理解する方もふえていることも事実でございまして、脳死であれば死だと、それは非常に正しい理解であると私は思いますけれども、そう理解する方も次第にふえてきつつあることも事実であると思います。
  49. 翫正敏

    ○翫正敏君 反論するというわけではないんですけれども、現在の社会通念としての死は歴史的、社会的に形成されてきたものであって、現在はそれは心臓死、三徴候死であるという理解をしてよいですかと伺っているんです。
  50. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えします。  それは、社会通念という、そういう非常に多くの人が抱いているという見地からの御質問でございましたら、三徴候説ということになろうかと思いますけれども、一方では私の申し上げたようなことも存在するということでございます。
  51. 翫正敏

    ○翫正敏君 そこで、こういうことをお聞きしたいんですが、つまり脳死の問題はそういうふうにしてもともとのことがあって臓器移植の問題に議論が移ってきているといいますか、そういうことが現状だということなんですが、この脳死をいわゆる死として認める認めないという議論についても私は二つに分けることが、分けると言うたら変ですけれども、そういうことができるんじゃないかと思うんですね。  つまりそれは、現在の社会通念として社会的、歴史的に形成されてきたこの死の定義というものについて、心臓死ですね、これと同等なものとして、またはこれに取ってかわるものとして脳死というものを議論したり考えたりするという場合と、そういうこととは全然別なこととして臓器移植するということについて、つまり治療ですね、そういう場合において、例えば我々が刃物で人をぶすっと刺すと傷害罪になるけれども、お医者さんが刺してもそれは治療のためであればもちろん傷害罪にならないという、そういうことになるのと同じように、臓器移植という人間の命を救うための治療ということにおいてのみ脳死状態の方から臓器を摘出するということが、つまり逮捕されたり警察に捕まったりしないという、そういう問題として議論をすると、詰めて議論をしていくということとあると思うんですけれども、私はむしろ後者であるべきではないかというふうに思うんですが、村瀬参考人はどういうふうにお考えでしょうか。
  52. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) ちょっと御質問と私のお答えが食い違いになるかどうかわかりませんが、やはりそうではなくて、先ほども申し上げましたように五千例から六千例ある脳死状態患者さんを診ている医師としてどこでやっぱりこれは打ち切るかということを御家族に納得いただくという意味で私は脳死というものを議論されるのが一つの筋ではないか。先生がおっしゃった臓器移植にそれを持っていくところは別のステップというふうに私はむしろ逆に考えております。
  53. 翫正敏

    ○翫正敏君 村瀬参考人のお考えはよくわかりましたので、垂井参考人は今ほど私が言いましたことについてどういうお考えか、ちょっとお聞かせください。
  54. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えいたします。  私も今の御質問の初めの方の条件、つまり個体死という考え方をだんだん深めていく。社会通念といいましてもそれは固定したものではなくて、やはり学術の進歩につれてある程度変わっていくものではないか、そういう観点から心臓死という内容についても先ほど議論したわけでございますが、そういうものに対する理解というのを現在の医療の状況に合わせて深めていくということで、脳死というものも非常に特殊な死のあり方ではなくて、従来の心臓死の中にも含まれ得るある普遍性を持ったものだというような理解が社会に行き渡る、そっちの方が望ましいのではないか。その中から、ある特殊な志を持っている人は利他的な精神を発揮されるだろうと、そういうふうに思います。
  55. 翫正敏

    ○翫正敏君 垂井参考人の考えもよくわかったんですけれども、つまりそういうふうに心臓死と同じように社会通念としての脳死をつくっていこうという場合ですと、かなりその方法論として困難が私はあると思うんですけれども、諸外国においてもそう簡単なことではないと思いますし、まして日本においてはやっぱり歴史的、社会的なものがありますから、宗教的なものもあると思いますが、そういうものがあってなかなか困難だと思うんです。  この国会において国会の決議で臨調ができますね。ここでの議論が必要なことはもちろんでありますが、そのほかに、私はもっと社会的コンセンサスを得るための社会通念まで深まっていくようなものを得るためにはまだまだたくさんな方法が 必要なのではないかと思うんですけれども、もしそういうふうに私の考えに同意していただけるのであれば、どういう方法をとっていくべきであると、この臨調のここでの議論以外にですね、その辺についてどう思われますか。
  56. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えします。  それはなかなか難しい問題ですけれども、あらゆる種類の啓蒙活動といいますか、ある方向に考えを持っていくというのでなくて、事実はこうだということをいろいろな機会で、講演会もありますでしょうし、あるいは先ほど言いましたような登録というふうなものも非常に小さい規模で始めるということもあるかもしれないと思います。あらゆる方法を通じていわゆる脳死の正しいあり方というものを、そういう情報を広めていくということだと思いまして、私自身は何といいますか、それはおのずから次第に広がっていくものであって、非常に特別な奇抜な方法というようなものはちょっと考えられないと思うし、着実な方法しかないのではないかと思っております。
  57. 翫正敏

    ○翫正敏君 私の考えを押しつけるわけではもちろんありませんが、歴史的に今日まで形成されてきた社会通念としての心臓死、三徴候死と同じようなレベルに脳死というものを持ってくるというようなことは百年河清を待つごとく、社会通念として形成されることは不可能である、そういうふうに私は思います。ですから、今、垂井参考人にどういう方法でと、こうお聞きしましたら、これという回答もなかったというふうに思うんですね。私もないと思うんです。自然に泥水が、泥水という例はやめますか、それはやめます。とにかく何か物が少しずつ変わっていくというようなそういうことで、春から秋にだんだん季節が移り変わっていくように少しずつ変わっていく、そういうものを待つしか方法がないというふうに思うんです。  むしろ、臓器移植ということが本当に医療の上でどうしても必要だということであるならば、先ほど私が申しましたような、脳死治療の上での特別な、警察にお医者さんが捕まることがないというような、そういう問題としてどういう条件が考えられるかというような、そういうふうにすべきではないかと私は思うんですけれども、同じことを何遍も垂井参考人に聞くのは何ですけれども一言でいいですから、私が今申しましたことについてどう思いますか。
  58. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えします。  それは何といいますか、あらゆる努力を尽くすという中に、やはり移植医療が確実な効果を示すという例が徐々にではあってもふえていくということがなければ、その周辺のいろいろな制度というものは整備されないということがあるかもしれないと思います。ですから、基本的には私は、やはり伝統的な通念というのもかなり時間を経たものでございますから、そういうのを深める努力というのが一番大切だとは思いますけれども、そのための何といいますか、一つのストラテジーとして今おっしゃったような、つまりはっきりとした症例が提出されるというふうなことを助長するということも一つ方法としてはあり得るのではないかというふうに思います。  ただ、基本的にはやっぱり概念の毀壊ということがなければならないとは思います。
  59. 翫正敏

    ○翫正敏君 わかりました。  藤田参考人にお聞きしたいんですが、突然なことを聞きますけれども竹内基準という脳死判定基準をまとめられた竹内一夫先生が「よくわかる脳死 臓器移植一問一答」という合同出版という会社の出している本の中に、「心臓死脳死はどんな関係にあるのですか」という自問自答ですよね、自分で問いを立てられて、その問いに答えておられるところがあるんで、ちょっとその部分を読みたいと思いますが、こういうふうに書いてあります。余り短いところだけ読むと引用が間違ったらいけませんので、少し三行ぐらい前から読みます。   脳死状態になれば自発呼吸がなくなるので、放置すれば「息をひきとって」間もなく心拍動も停止します。しかし、もし人工呼吸器により呼吸機能を維持すれば、心臓はひき続いて拍動を続けます。なぜならば、心臓は脳からのコントロールなしに、しばらくの間は自動的に拍動を続けることができるからです。したがって、脳死はよく近代医学進歩、とくに蘇生術の発達の副産物といわれています。もちろん、このような蘇生術により、息を吹き返して救命されるような場合も珍しくありません。しかし一方には、たとえ強力な蘇生術を施しても、どうしても脳の機能をひき戻すことができない場合があり、好むと好まざるにかかわらず脳死状態ができてしまうわけです。 こういうふうに書いてあって、何か脳死でも息を吹き返す場合があるように書いてあるように私は読むんですが、医学専門家でないのでわかりませんが、これは竹内一夫教授の書かれたものなんですけれども藤田参考人は今私が読み上げましたことをどういうふうに思われましたか。
  60. 藤田茂

    参考人藤田茂君) 脳死の問題で医学界の中でも分かれているようですね。だからその辺、私は素人ですからこれが脳死だとか、これがどうのこうのと言える立場ではないんです。だから、医学界でそういう脳死の問題についてもしっかり統一して、それでやっぱり患者が気持ちよくそれを受けられる、臓器移植が、そういうことが一日も早くされることを望むということしか言いようがないんですけれども、いかがでしょうか。
  61. 翫正敏

    ○翫正敏君 垂井参考人は今私の読みました部分についてどんな御意見ですか。
  62. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えします。  確実に脳死判定された個体が息を吹き返すということは絶対にあり得ないと私は思います。
  63. 翫正敏

    ○翫正敏君 村瀬参考人はいかがですか。
  64. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) お答え申し上げます。  私もその文章は読んだことがありますが、多分、脳死状態ということでいろいろな処置をして、そして回復することはありますよと、だけれども脳死になったら回復しませんというふうに言っていて、竹内教授脳死状態という幅を一つとっているわけです。その幅の一番最後のノーリターンのポイントというのは脳死であって、その幅の中の脳死状態というお考えで言っておられますので、恐らくそれをおっしゃりたくて書いているじゃないかというふうに思います。
  65. 翫正敏

    ○翫正敏君 村瀬参考人にお尋ねするんですが、それは、物の本に書いてあります脳の死と脳死、そういうことの違いなんでしょうか。脳の死から脳死に至る、そういうふうに書いてありますね、そういうことでしょうか。
  66. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) それはちょっとまた違うんです。脳の死という言葉は私どもがつくった言葉でありまして、脳の死、心臓の死、肺の死とか、要するに個体一つとして脳を取り上げた、臓器一つとして脳を取り上げた場合の脳の死という言葉でございまして、竹内先生の言われているのはそれとはちょっと違いまして、脳死状態という――非常に、悪い例を挙げて申しわけありませんが、だんだん収入が減ってきて生活保障を受けなきゃならないというポイントがありますが、だんだん収入が減ってくる状態像というのが一つあって、そして生活保障を受けなきゃならないというポイントがあるという、その状態像を言われているのではないでしょうか。だから、状態像の間は努力すれば回復することもあります。こういうお話だと思うんです。
  67. 翫正敏

    ○翫正敏君 やっぱり大変微妙な難しいことなんだなということを今感じたんです。  ところでこの最終報告では、脳死状態での臓器の提供について、「本人または家族の同意」という表現であらわされているんですが、私は献体登録もしている立場からも思うんですが、献体の場合では各大学が、本人及び家族、またはではなく本人及び家族の同意を得て登録をしております。そういう状態で今各大学が会をつくって管理しているわけですけれども、もし脳死及び臓器移植について前向きに議論が進んでいくとしますと、そういうことも今後問題になってくると私は思うん ですが、やはり本人及び家族という、この及びというところが非常に大事なところであると思うんです。つまり、献体と同じように生前に、元気なときに自分意思として自分臓器を提供してもいい、こういうものがやっぱり不可欠であると。それに家族の、家族といってもどこまでが家族かもありますが、そこは今ちょっと置いておきますが、そういう同意書も含めた登録ということがないといけないと思うんですけれども、それについての村瀬参考人のお考えをお聞かせください。
  68. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) お答え申し上げます。  本人及びというのは、本人が献体をする意思があって、そして家族も献体をしてよろしいですよということを含めて献体法は成り立っていると思うんです。私たちが申し上げたのは、「本人または家族意思」という、その「または」というところでございますけれども日本の場合には、現在臓器移植ということに対してリビングウイルを提示する方法がありませんので、御本人が、私が家内に、おれが死んだときにはだれかに差し上げてくれと生前言っていても、それを法的に登録する場が現在はありません。だから、そういうことで家族の方が、主人がそういうふうに生前言っておりましたからぜひしたいということはあり得るだろうという前提の上で「または」という言葉を使っていると思いますが、恐らく法律で規制するような段階になればそこの議論というのは一つあり得るだろうと。しかし、本人意思の尊重というのは今後の問題としては相当あるのではないかというふうに思います。
  69. 翫正敏

    ○翫正敏君 垂井参考人にもちょっとお聞きしたいんですが、この本人及び家族という、または家族ではなく及び家族というのは私は大事な点だと思うんですが、今後議論が進んでいく場合にこの点を重要視すべきだとお思いになりますか、いかがですか。
  70. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えします。  非常に重要な点であろうと思います。ただ、例えばアメリカなんかを見ましても、いわゆるドライバーライセンスのところに本人意思というのが多くの場合記載されているわけでございますけれども、実際の臓器提供の状況からしますと、本人意思を尊重してという場合がむしろマイノリティー、少数でございまして、家族意思に基づいて行われている場合の方が多いわけでございます。日本ではそういう登録というのはまだ始まっていないわけでございまして、それを非常に厳密に推し進めますと、実際の臓器提供あるいは移植医療そのものが成り立たない可能性が非常に大きいというふうに思います。  ですから、現状では、やはり家族意思というのを尊重するということは必須条件でございまして、さらに本人意思もそこに反映されればこれは非常に好ましいことでございますので、そういう登録を普及するのはどうかと申しましたのはそうでございますけれども最初段階でそれを非常に厳密に解釈しますと、実際の医療の実施というのが困難になるというのが実情ではないかと私は考えます。
  71. 翫正敏

    ○翫正敏君 あと一点だけ。参考人発言された順に四人の方に一言だけお伺いしたいんですが、先ほどからいろいろ質問しておる中でもあれなんですが、脳死ということと臓器移植ということはもともと流れが違うことであるという前提に立てば、この臨調においての審議も私は十五人十五人と、こういうふうに本当は思うんですが、人数のことは別にして、ともかくやはりこれを分けて、脳死脳死脳死問題は議論をして、別個なところで臓器移植問題というのは議論をして、そしてそれをやがてトータルに議論の結論が出るなら出るという、そういうふうにして分離審理というものが必要なのではないか。でないと、脳死議論というとすぐ移植をする目的だけで脳死議論をしているんじゃないかと、国民はこういうふうに受けとめる方が多いと思いますので、そういう意味からも、また脳死問題というものがもともと出てきたいわれということからも、私はそうすべきだと思うのですが、参考人発言順に一言ずつお答えください。  これで終わります。
  72. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) 社会的合意を形成する方法論として先生のおっしゃっているような考え方はあると思います。しかし、現在の社会がそういう考え方を素直に受け取れるかどうかというのはまた別な問題だろうというふうに思います。
  73. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) 別だという意味はよくわかりますけれども、実際にこのハーバード基準なんかがつくられたあの歴史的な経緯というのを見ますと、やはりバーナードによる心臓移植というあたりから始まっていると。だから、それは別なんだということで切り離してやることにいい点と悪い点があると思うのです。  それで、一言申し上げたいのは、立花さんなんかもおっしゃっているけれども、要するに末期状態におけるいわゆる脳死判定の問題と移植の場合のことをやはり切り離して議論すべきだというふうなことも議論されている。やはり一番問題なのは、移植の場合に本当にそのドナーの候補となっている人が死んでいるかどうかということの確認というのが焦眉の急というか、一番ポイントであって、そこをやはり逃さないような形にしていただきたいというふうに思います。
  74. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) 今の脳死個体死と認められるかという問題にやはり一定の結論が出るというのは非常に大切でございまして、そこに最大の努力を集中すべきではなかろうかというふうに思います。
  75. 藤田茂

    参考人藤田茂君) 非常に難しい問題で、私たちは直接受ける側ですから、委員の人があれこれ、どの方がいいのか、非常に判断が難しいところなんですけれども倫理委員会、弁護士さんあるいは医師会の皆さん、それぞれやっているわけですから、それらを持ち寄りまして、構成をどういうふうにするかなんというと全くこれはわかりませんから、とにもかくにも、願わくは早くそういう国民合意がされることを切に願うと言うしか言いようがないんですけれども
  76. 木暮山人

    木暮山人君 木暮でございます。  本日、臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案審議に際しましては、参考人の皆様、御意見を陳述していただきましてまことに御苦労さまでございました。  私は時間もそうたくさんございません。しかし、きょうはこの調査会を設置するかしないか、この問題につきまして非常に問題が多岐にわたって複雑でもあるし、社会的にこれの国民的な合意とか世界的レベルというものを考えますと、非常に難しい問題で、一朝一夕というものでもないと思います。  しかし、やはり私どもは、我が国の医療が従来の医療から二十一世紀に向かいまして超速歩で進み、また高度先進医療技術に加えて、将来はバイオテクノロジーの時代を迎えるのではないか。そのような時代に当たりまして、いろいろな障壁をいつか最も妥当な状態でクリアしなければ進歩も発展もできないんではないかというふうに確信している一人でございます。未知の、知らない大きな新分野に関しましてはいろいろの疑義が出てくると思います。しかし、社会的認識を明確に規定しなければ混乱を免れないものと考えております。  そういう意味では、本法案審議に関しまして、その道規範、また情理論、慣習法によるところの判断、宗教、哲学的思考、医学的技術の認定と施療施設の基準、特に社会医療保障制度下における妥当な技術の評価によるところの、現在日本におきますれば、国民皆保険制度への適切な導入等々の従来構想を踏まえた上で慎重にこの調査会を設置し、審議を重ねていただけることがよろしいのではないかという総括をまずごあいさつに申し上げさせていただきまして、また個々の質問をさせていただきます。簡単にひとつお願いしたいと思います。  まず、垂井先生でございますけれども、よろしくお願いします。  我が国におきましては、各大学または附属病院また研究所におきまして脳死及び臓器移植に関するところの倫理の委員会のようなものが多々あると漏れおうかがいしておりますけれども、先生の見るところでは、全国的に日本におきましてはどれぐらいの程度現状でございましょうか、ひとつ御説明願いたいと思います。
  77. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えします。  それは倫理委員会を設置している大学、その他の医療機関がどの程度あるかというお話でございますか。
  78. 木暮山人

    木暮山人君 そうでございます。
  79. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) それは附属病院を持っておりますほとんどすべての大学医学部は倫理委員会を持っていると思います。  それは、倫理委員会は必ずしも移植医療だけを審議するわけではなくて、ある程度その医療に対して、患者に利益を与えるけれどもリスクも伴うというふうな難しい問題を新たに始めるときには、一般に申請して審査を受けるという原則でございますので、ほとんどの大学が持っていると思います。
  80. 木暮山人

    木暮山人君 どうもありがとうございました。  そういたしますと、脳死とかその判定とか、いろんなものにおいてはプロの先生たちがやはりこういう倫理の委員会でそれ相応のいろんな条件をお持ちだと思うのでございますね。例えばアメリカにはハーバード基準とか、ミネソタ基準とか、イギリスの基準とか、日本の脳波学会の基準とか、いろいろあると思うのでございますが、それと同等ないろんなものがあると認識してよろしゅうございますですか。
  81. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えします。  基本的な基準というのはほとんど共通していると思います。英国だけが少し、あれは脳幹死という立場をとっておりますので脳波なんかございませんし、違うんですが、全脳死をとっている医療機関の基準というのはほぼ共通しておりまして、非常にディテールな、何時間観察するかとか、あるいは聴性脳幹反応を見るとか、非常に附帯的な条件で若干の相違があるだけで、基本的にはほぼ一致しているのではないかと思います。
  82. 木暮山人

    木暮山人君 関連いたしまして、この調査会ができますれば当然そのような皆様のお持ちになっている御意見が総括されていかなきゃいけない。これはもう全然反対意見というのは出てこないとは思うかもしれませんけれども、私はこの調査会としてはやはりそういうものが総括され、またそれが世界に共通するところの、先進国日本そしてまた日本医学というものを表現できるような方向に行っていただきたいという願いがあるわけでございます。どうもありがとうございました。  次に、光石先生にお伺いしたいと思うのでございますけれども、今お話し申し上げました委員会におきましてもそれぞれの内容差があるわけでございまして、統一と必要最低限度の必須条件の集約とその世界基準、同じようなことでございますが、これを策定して立法化ということにつきまして何か御意見はございますでしょうか。立法化するとか、規定づけるとか、法律の枠をつくるとかということについての先生の御説明がもしいただけたらと思いますけれども
  83. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) その判定基準立法化するということは、判定基準というのは常に科学進歩に合わせてよりよいものにしていくべきものだと思っているんです。そういうものが、その基準自体が立法に親しむかどうかというのはやや疑問があるんです。それよりは、むしろ日本医学界がこぞって、これならば絶対に生きている人を死んでいるというふうに判断することはないと思える――今いろいろな基準がありますけれども、それぞれがごく枝葉の基準のように言う人もいますけれども、私は必ずしもそうは思えない。聴性脳幹反応を加えるとか脳血流の停止を見るとかというのはかなり根本的なところの、いわゆる脳死概念にかかわっているところではないかというふうに理解しておりますので、それをぜひ日本医学界で総意を結集していただきたい、そういうふうに思います。
  84. 木暮山人

    木暮山人君 結構なことでございますが、しかし法律家の立場で見ますと、そういうことを言うと失礼かもしれませんけれども、何か自分の分野に少しでも導入したいというお考えも多少は出てくるんじゃないかと思って、失礼でございますけれども。  しかし、やはりこの問題に関しましては、医学、医術ということになりましたら、ある程度容認していただけるようなところがなければなかなか発展という歯車は回っていかないんじゃないかと。しかし、法律的な責任というものをなおかつ持てるんだという、そのような調査会になってほしいというような私は要望を持っておるわけでございます。  どうもありがとうございました。  続きまして、村瀬先生にひとつお願いしたいと思うんですが、いろんな臓器移植ということになりますと、専門医的な問題になってくると思います。極端なことを言いますと、心臓肝臓と全然違う。同じ方がおやりになるものか、脳と方々をやるのか。科目別の専門医制度というものがある程度そのそれぞれの水準によってやはり規定されると同時に、それがまた認定されるようなことでなかったら、なかなか技術レベルが一定にならないんではないかなんという懸念もございますもので、そんなことにつきましてのご意見等がちょうだいできればと思います。
  85. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) そういう医療技術の能力をどういうふうに評価して認定するかということについては、非常に難しい問題が幾つかあると思いますけれども臓器移植を先生は例にお挙げになりましたけれども臓器移植に関しては、肝臓をおやりになる方は肝臓チーム心臓をおやりになる方は心臓チーム腎臓の方は腎臓チームということでそれぞれトレーニングが別の領域でされておりますし、同じ技術でできる問題ではありませんので、それぞれの専門分野に分かれていくことになると思います。  それをどういうふうに認定するかというのは、ちょっと私にはお答えできません。
  86. 木暮山人

    木暮山人君 まことにありがとうございました。  私は、そういうふうにはっきり分化していく、これで結構なことだと思いますけれども、今の技術的な基本的なものといたしまして、いろんな移植技術のプロセスとかステップとか、やるいろんな手法があると思うのでございますですね。もしこの調査会ができましてそれが実行段階に入ります節、それぞれ全部別なことになって医療過誤が起きた場合の法的な何か判断が非常に難しくなってしまうんじゃないか。そうしますと今の大学医学教育の中にある程度そういうプロセス、ステップというものがやっぱりどこかに入って確立されているかいないかというようなことが、これは簡単なことと言っても、簡単でもないことでございますけれども、できましたら垂井先生ひとつ何か現状の御意見参考までにお話願いたいと思います。
  87. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えします。  医学倫理委員会というのは、倫理的な観点からも審査いたしますけれども、現在のメディカルサイエンスといいますか、そういうレベルから見ても誤りがないかということを検討します。  ただ、今御質問にございました移植手術の細かい手技というふうなところまでは倫理委員会で扱うということはまず少ないのではないかというふうに思っておりまして、それは現在行われている一般の、例えば腹部とか胸部の外科手術だってそれぞれの特有な方法でやっているわけでございますので、手技まで固定するということは非常に難しいのではないかと私は考えます。
  88. 木暮山人

    木暮山人君 どうもありがとうございます。  今のは倫理委員会の問題じゃなくて、調査会ができまして、それが技術的に実行段階に入ったときのテクニックとか、どういうものでございますか、施療の技術でございますとか、そういうものの基本的なプロセスというような感じで、やはり 大学医学部の教育課程にそういうものがある程度入っていくんだろうけれども、これはやはり高度先進医療ということになりますと、そればっかりやっていたら医学部の六生の年限ではなかなか追いつかなくなってしまうということも考えられるとしたら、この教育とかそういうものはどんなところに持っていったらいいのか、これも将来の大きな問題にはなってくるんじゃないかと思いますが、いかがなものでございますでしょうか。
  89. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えします。  もちろん現在でも一回の講義ですね、例えば二時間というふうな講義をそういうことに充てまして、それはやはり学生の視野を非常に広げる、いろんな柔軟な思考性を持たすという意味で講義が行われていると思いますけれども、細かい手技に関する講義というのは行われていないと思います。それはむしろ卒後教育という非常に専門化した一群の治療集団がやることでございまして、非常に広く教育するというのとやや性質が違うのだから、その細かい手技につきましてはむしろ移植学会とか胸部外科学会とか、そういうような専門の学会で細かい論議がなされて切磋琢磨していかれるものではないかというふうに考えております。
  90. 木暮山人

    木暮山人君 どうもありがとうございます。  やはりそういうような将来構想というものを、今できますいわゆる調査会ですね、この中に細分化して全部総合的に網羅できるような検討の場を早急につくりまして、どこから見ても異議のないような、国民合意が得られるようなものが私は必要になってくるんじゃないかと思うんです。  それともう一つは、先ほどもちょっと申し上げましたんですが、諸外国においては大学脳死判定基準というものの相違がそれぞれ外国にあるわけでございまして、それぞれ違うと思うのでございます。その違いを最低限度と言わず、最高これがすべてのものを今の段階ではいわゆる盛り込んだものであるというような、いわゆる意見というか論理といいますか、基準を策定しまして、そこからスタートしていく段階になるべく早く到達するように努力いたしませんことには、今の日本医学というものがなかなか思うようには進んでいかないんではないか。やはりみんな外国へ行きまして外国治療を受けてくるという現状になっていくんではないかと思います。  それともう一つこれに関連しては、日本は保険制度でございますから、じゃこれをどう取り扱っていくかということになりますと、保険財政というものをある程度維持できる中で考えていかなきゃいけないと思うのでございますけれども、そういうことになりますと、それの技術の評価とかその御苦労に対する評価、こういうものが今そろそろ失われかかってきているところの医療業界の中に、やはりプライドとか誇りとか、そういう道規範的な概念、感覚というのがある程度盛り込まれていってもこういう問題についてはいいのではないか、ということもこの調査会に何か含めてお考えになれるようなものにしていっていただきたい、こんなふうに思うのでございますが、御意見としてはいかがなものでございましょうか。垂井先生と光石先生と村瀬先生に一言ずつお願いしたいと思うのでございます。
  91. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えいたします。  それは、全国レベルのそれぞれの、例えば脳死判定なら脳死判定、それからその後の移植方法ならそれという、そういうふうなそれぞれの課題に関する知恵を集めまして、ある一定の基準に持っていくということは非常に必要なことであろうと思います。今の御意見全く同感でございます。
  92. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) 手技の技術的な面については私は日本医学界についてはかなり信頼を置いているんです。むしろそういう技術をどうするかという問題のもっと前の前の、はっきり言ってもっともっと前のところにいろんな問題があって、それをこういう調査会でやっていただきたい、そういう細かい手技の問題なんかはおのずと日本医学界で解決してくれるだろうというふうに私は楽観しております。
  93. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) 先生がお挙げになりました幾つかの問題点をきちっと整理して筋道を調査会で立てるべきだという御意見については賛成でございます。
  94. 木暮山人

    木暮山人君 最後一言つけ加えさしていただきたいことは、臓器とかいろんなものがございますが、角膜にいたしましてもやはりこれも一つのものだと思うのでございますね。こういうテクニックの中に入ってきますと、おまえは別というものでもないと思うんです。  そうなりますと、特に歯科の分野におきまして、歯牙の移植というものが相当進められてきております。まだ生体の移植という段階まで来ておりませんもので、人工歯根の移植とかそういうところにとどまっておりますが、でき得るならば将来は顎骨の問題にしましても、それぞれの歯牙の移植という問題も兼ねて行われていくのではないかと考えますもので、この調査会等が発足する時代になりましたならば総括的にそういうことも御考慮の中に入るように、各界の諸先生たちにひとつそういうような意向をお持ちになっていただくようにお願いいたしまして、私の質問を終わらせていただきます。  どうもありがとうございました。
  95. 吉川春子

    ○吉川春子君 日本共産党の吉川です。  参考人の皆様にはきょうは本当にありがとうございます。順次質問をいたします。  まず、お医者様である村瀬、垂井両参考人にお伺いしますが、脳死患者の現場に立ち会ったことがおありでしょうか。もしあるんだったらば、心臓死と比べてどういうふうに違うのか、教えていただきたいと思います。
  96. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) 私は自分自身が脳死患者に当面したことはございません。たまたま私の弟が脳外科の医者でございますので、弟のところへ訪ねていって脳死患者を見ることはありますけれども、私自身が主治医をしている患者脳死になった者を見たことはございません。
  97. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えいたします。  私は四例ぐらい見たことがございます。もちろん皮膚は温かくて心臓は拍動しております。もちろん体の統合機能は失われておりますので、何といいますか、尊厳性を持って生きているという印象は持たないわけでございまして、そういう対象を人間としての尊厳を保ったまま扱うにはどうすべきであるかということを考えさせるような経験がございました。
  98. 吉川春子

    ○吉川春子君 体も温かい、呼吸もとまってない、そういうところから臓器をとり出すということについてなかなか国民的なコンセンサスが得られにくいんじゃないかという問題が一つはあると思うんですね。  それで、日本医師会でお出しになりましたこの最終報告を拝見いたしますと、社会的合意について、「概して時期尚早論者の説く社会的合意論は、国民の大多数の納得が必要だという心情を表しているに過ぎず、何をもって社会的合意とするか、またどうすれば社会的合意の成立が確認されるかについて、具体的な要件や手続を明示していない。」というふうに批判をいたしまして、社会的合意がかなりできているというふうに述べていて、その理由の一つ昭和六十二年六月の総理府の世論調査を挙げているわけですね。  それで、脳死を死と認めてよいかについて、認めてよいが二三・七、認めないが二四・六、本人意思家族意思に任せるのがよい三六・七、これを合わせて六〇・四%の人が認めているから社会的合意ができているんだと、こういうふうに書いてあるんですけれども、六割ぐらいでいいんですか、社会的合意が成り立っているんでしょうか。
  99. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) お答え申し上げます。  その前段の書き方は、社会的合意について、アンケート調査幾つかの御提案社会的合意の形成ということにありましたけれども社会的合意を形成する方法論についてお書きになった方は全くありませんでした。それで、その社会的合意が 実証される一つの素材として総理府のその調査を取り上げたわけでございます。  総理府の調査で、まあともかく脳死というものを認めるよという人と、その人の意思に任せればいいじゃないかという人が六十何%ということは、社会のともかく六十何%は納得しているんじゃないかという表現になっているんだと思います。だけれども、やはりあくまでその文章は、社会的合意形成論というのが得られにくいものだから、現実的に物を運んでいった方がいいんじゃないかというふうな考えが背景にあるというふうに私は考えております。
  100. 吉川春子

    ○吉川春子君 社会的合意方法で一番いいのは国会の立法、多数決原理によって国民全体の意思になり、反対の者も拘束すると、だから、というふうに述べていますね。消費税も多数でもって全国民を拘束しているんですよ。でも、合意を得られているかどうかはかなり大きな論議があるところですね。多数決でもって少数の意思を拘束することは、これは社会的合意とは言えないんじゃないか。むしろ、そういうことではなくて、本当に今必要なのは、反対の人の意思も拘束するような立法という強制力というんじゃなくて、本当に国民の自発的な合意、そういうものを形成することが必要じゃないかと思うんですが、参考人はいかがですか。
  101. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) これはもうここから先は個人的な見解になりますけれども、六八%なり七〇%の人が納得していれば社会としてはそれはやっていいし、三〇%の人がいやだと言えば、その人はやらなければいいというのが一番納得のいく社会的な合意ではないかと私は思いますけれども
  102. 吉川春子

    ○吉川春子君 私はそれは社会的な合意という言葉は適切ではないと思います。反対の人はやらなくてもいいというのは、これは合意を求める姿勢ではありませんね。  例えば、脳死臓器移植の問題について、個々の患者または家族がそのことを了承すれば他人がこれに異論を述べる必要はないんだと、こういう書き方もしてあるんですけれども光石参考人に伺いますが、死という問題は、例えば刑法二百二条ですか、承諾殺人罪の例もありますように、本人が承諾すればそれでいいというものじゃないので、と私は思うんですけれども、やはり本人がいいと言ったからそれはいいんだという形じゃなくて、こういう問題についてはもっと客観的に決めなきゃならないと思いますが、御意見はいかがでしょうか。
  103. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) おっしゃるとおり死というものは本人がどうであるとかということと関係なしに決まるべき問題だろうと思います。ですから、賛成の人がやればいいんで、反対の人はどうだというような議論は、結局は私の目から見るとちょっと暴論ではないかと。そういう死というものを区々にするというようなことは非常に大きな混乱を引き起こすものではないかというふうに考えます。
  104. 吉川春子

    ○吉川春子君 それから、もう一つこれに関してお伺いしたいのは、臓器を提供するかどうかというのは、本人とか家族の同意というのはもうこれは必要だと思うんですが、脳死というものは客観的なものであって、あなたが好きだと言ったからサラダ記念日なんというのもありますけれども、そうじゃなくて、やっぱりこれは客観的に決めなきゃいけないものじゃないですか。本人がいいと言ったから脳死なんだという形にすると、その後いろいろな問題が起きてきやしないか、そういうことを懸念するんですけれども、いかがでしょうか。
  105. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) 私もそのとおりだというふうに思います。そういったふうにいわゆる脳死というものを意思にかかわらしめるというのは大変危険なことではないかというふうに思います。
  106. 吉川春子

    ○吉川春子君 それから、続いて日弁連光石参考人にお伺いしますが、これは何紙かの新聞報道で、日弁連意見書案が脳死容認に前向きだという報道をいたしました、先ほども質問があったと思うんですけれども。その中で、意見書案は、脳死容認の前提として関係法令の立法措置、社会的合意を得る、医学的にも万全の安全策がとられるという条件を挙げた上で、これらの条件が満たされれば脳死を人の死と認める上で法律的、社会的な障害はクリアできるのではないかとしているというんですけれども、この報道に間違いはないんでしょうか。
  107. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) 先ほど申し上げた日弁連の人権擁護委員会の中の部会案というものがたたき台のたたき台のようなものとしてありますが、それはそういうふうに要約していただくと、それはそれでまた誤解を招くと。私どもは、今こういう微妙な時期ですので、今は専ら弁護士会の内部で討論をするんであるからということで、取り扱い注意ということでやってきておって、そういう報道をするのは、それはそういう報道をした会社の責任においておやりになっていることで、今お読み上げになったことが先ほど申し上げたたたき台のたたき台の要旨かと言われると、それはちょっと答えをしかねるというか、それはそのマスコミが自分の責任においてまとめたものであるというふうにしか言いようがありません。
  108. 吉川春子

    ○吉川春子君 そうしますと、今の段階では日弁連脳死を認めるかどうかについては全く白紙の立場であるというふうに理解してよろしいんですか。
  109. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) それは先日日弁連の藤井会長が記者会見で申し述べておったとおり白紙であろうと思います。
  110. 吉川春子

    ○吉川春子君 それを前提として伺うんですけれども社会的な合意を得るために日弁連としては具体的にはどういうことが必要であるというふうにお考えでしょうか。
  111. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) 先ほどの日弁連意見書最後の項で主張しているとおりなんです。繰り返しになってしまうと思うんですが……。
  112. 吉川春子

    ○吉川春子君 それでは質問を変えます。  医師への信頼の回復という問題がきょうも幾つか論議されましたけれども、先ほども参考人発言にありましたが、脳死反対する中には医師への不信によるものが決して少なくないと。これに対して、医師への信頼を取り戻す努力が必要であるというふうに述べられているんですけれども村瀬参考人医師への信頼を回復する手だては何でしょうか。例えば私は、大学医学教育の中にもっと一般教養の科目に比重を置くとか、あるいは医師概論とか医師の倫理、そういうものに対する教科をふやすとか、そういうことも一つの長期的な方法ではないかと思いますが、その辺も含めてお考えをお聞かせいただきたいと思います。
  113. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) お答え申し上げます。  吉川先生のおっしゃった医師というよりも、医療社会全体に対して、国民の方が非常に自分のわかりにくいところに入り込んでいろいろわかりにくい方法で接点ができる、人間関係ができるわけですから、そこを非常にわかりよくするためにはやはりよく説明をするということだろうと思っているんです。基本は、あり得る状態を十分に説明して患者さんにわかっていただくということ、そしてその上で、最近の医療は幾つかの選択肢ができてきておりますので、そういう選択肢を選ぶ患者さんの権利を尊重するということが信頼感の醸成には絶対必要だというふうに私は思っております。そういう意味では、私は医師というのはある意味では言葉を使う職業であって、そういう訓練を十分に大学の教育の中ですべきではないかというふうに思っております。
  114. 吉川春子

    ○吉川春子君 垂井参考人、同じ質問ですけれども、いかがでしょうか。
  115. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えします。  今、村瀬参考人がおっしゃったのと同感でございまして、患者に対する十分な説明、それから何といいますか、患者の立場に立って同じような方向で病気に立ち向かう。患者患者の抱えている問題に立ち向かう。そういうことに対する教育というのは、もちろん私ども大学でも医学概論というのはやっておりますが、そういう講義だけでは なくて、患者に接触していく実際の臨床教育の中で指導する教官の姿勢としておのずから教えていく、そういう道に留意しながら現在みんな努力していると考えております。
  116. 吉川春子

    ○吉川春子君 藤田参考人にお伺いいたします。  先ほどの意見を伺いまして、患者さんの抱えている大変切実な問題というのがよくわかりましたし、御自身も重い肝臓病だということで、本当に大変だと思います。  臓器移植に至るまで病気を悪化させない方法を考える必要があると。それからまた、発病を抑えることがもっと大切だというふうに私は思うわけですね。確かに現在の時点で臓器移植を待ち望んでいる方がおられる。それでなくては絶対に命を保てないという方も確かにいらっしゃる。そういうことも非常に重要だと思いますね。早期発見、早期治療というのは何の病気にも大切なことですけれども肝臓病においても臓器移植で助かる人の率というのはまだすごく比重としては少ないということも伺いまして、今患者会としてこういう問題で国に対する要望とか社会に対する要望とかいろいろあると思うんですけれども、ぜひ御意見をお聞かせいただきたいと思います。
  117. 藤田茂

    参考人藤田茂君) 今各自治体でもやっていますけれども、ここで冒頭に申しましたように、やっぱり病気に至るまでのいろんな医療のかかわりが極めて弱い。ともすると移植の方に問題がすりかわってしまうという、そういう懸念がありまして、すごく残念に思っております。  肝炎の特殊性、さっき冒頭でも申しましたように、八百万からいる。しかもそれがみんな医療とかかわり合っている。ひどいのは予防接種というふうな問題もありますけれども、そういういわゆる最終駅に、移植まで行く前の段階の、そういうことをぜひお願いしたい。そういうための研究費なり医療に対する注意をぜひお願いしたいなということを、これは自分肝臓を長い間もう二十年絡みやっていますけれども、切実に感じています。だから、そういう意味で、肝臓に関することで言えば、移植問題に至る前の段階でもっと皆さんの御理解と政府の実のあるいろんな対策をやっていただきたいというふうに思います。
  118. 吉川春子

    ○吉川春子君 そうしますと、移植までいかなくても、その前で食いとめられる方法というのは、現在の医学、医療といいますか、そういうことをもう少し駆使すればそういうことは可能だということですか。
  119. 藤田茂

    参考人藤田茂君) 私は専門家でもないので、余りその辺に立ち入った中身についてお話しするのはどうかと思うんですけれども、現実にもう何人もがん末期の方を見ています。これも病院によっても違うし、さまざまな個人の違いもあるんでしょうけれども、こうすれば助かるんじゃないかなという感じはいつも持ちます。だから、そういう意味では移植がすべてじゃないんだ、いろんな方法をもっと研究していただきたいというふうに自分の体でやっぱりそれはつくづくと考えています。  私、三年前に発見されましたけれども、エンボリという塞栓術をやるんですけれども、それも四回やったわけですけれども、それも余りはかばかしくないから手術をしたわけなんですけれども移植の問題についても、移植学会の本を読んでも余り納得いくような中身でない。例えばウイルス肝炎の人が移植をしても、ウイルスは体にどこかしら残るんじゃないか。そうすると、せっかく移植した肝臓もウイルスに侵されて、また再び再発するんではないか、そういう素人考えの心配もあります。だから、そういう意味では移植だけがすべてではないというふうに私は考えています。
  120. 吉川春子

    ○吉川春子君 終わります。
  121. 高木健太郎

    高木健太郎君 私は呼吸の生理学をやり、心臓の生理学をやっておりまして、この脳死ということについては大変深い関心を持っているものでございます。  医学進歩するといいますか、死の概念世界じゅうで脳死の方に変わってきつつある。恐らく先進国のすべて、日本を除いたすべてが、脳死が来ればそれは個体の死である、そういうふうな考えに現在なってきていると思います。ただ、日本では和田教授心臓移植事件が契機となりまして、医学界というものに対して非常な不信を持ってきたということが一つの原因となって、現在まで脳死がなかなか認められないということもあるんじゃないかと思っておりますし、また脳というものの構造と機能が、あるいは心臓呼吸との関係がなかなか理解が困難なところであるということもこの死の概念の統一ということに対して障害になっているんじゃないかと思います。  私としましては、やはり脳死、脳の死というものがいわゆる人間の死であるというふうに考えておりまして、それは垂井教授が先ほどおっしゃいましたような、心臓の死というものは脳の死に至る一つの原因である、こういうふうに考える、あるいはまたスウェーデンにおけるように、あるいはオーストラリアにおけるように、そのように脳死一つに死の概念が統一される時期がいつか来るのではないか、その段階が今その中間の段階にある、こういうふうに考える者の一人でございます。  また、一方におきまして脳死移植というものと直接かかわるように感ぜられておりまして、脳死になれば必ず臓器をとられる、あるいは病気は移植以外にはないというようなことも、これは私は間違いのもとであると思いまして、先ほど藤田さんが言われるように、いわゆる病因を明らかにし、その予防対策を講じて、移植以外の方法が何かないかということを医学者あるいは医師は絶えず研さんをしているということを私は信じているわけでございますし、またいつかは移植なしにすべての病が治る時代も来るのではないかというふうに思っております。  人工臓器というものも大変研究はされておりますけれども、いろいろ根本的に矛盾がございまして、なかなか生体の臓器に取ってかわるというところまでは現在は至っておりません。これは甚だ残念なことでございますけれども、やはり医学としてはそういう臓器移植ということを考えないでも患者に福音を与えるという道も、並行してというよりも、そちらをより盛んにして、臓器移植をしないでも済むような状態にしたいと思います。しかし、脳死というものは脳死として残るのではないかというふうに思っているわけです。  そこで、初めに、きょうは参考人の方、皆様おいでいただきましてまことに御苦労さまでございます。ありがたく厚く御礼を申し上げます。  脳死臨調というものが設置されようとしておりますけれども、その結論には二年を要するということになります。その間には専門委員会あるいは小委員会を置かれまして、専門家の御意見も聞くようなことになるかと思います。ところが、そういうように設置されましても、その結論として脳死立法脳死が死であるという立法ができるかどうかは、これはわからないわけでございまして、今のままで過ぎていくかもしれません。  そこで、光石参考人最初にお伺いしたいわけでございますけれども、この二年の間にも患者数はだんだんふえていく、またそういう希望者もふえていくのだと思います。その間にも世界における死の概念というものはどんどん、脳死なら脳死、あるいはある一定の方向に固まっていく。日本人の死の概念も少しずつは変わっていくんじゃないかなと思います。その日本における古いそして長いいわゆる社会通念といいますか、そういう日本におきましても果たして意識改革というものができるかどうか、これが一つの問題だと思います。その二年間の間にこの意識改革ができて、国民的なコンセンサスが果たして得られるかどうか、こういうことに対しまして光石参考人のお考えをまずお伺いしたい。  その次に、立法化ができてもできなくても、患者自身が、例えば私としまして脳死というものをよく知っている、そういう私がその脳死判定基準を信じまして、それでよいと私が考える、また家族脳死を信じる、こうして生前に私の意思をはっきりしておいた場合に、脳死であった場合に 私の臓器を他の人に差し上げるというような場合、その場合にこの医師は殺人罪として問われるでしょうか。それを第二番目にお伺いしたい。あるいは死体損壊罪として訴えられるでしょうか。それは罪悪となるでしょうか。あるいはまた、いや、それは本人がよく脳死を知っておるし、それに生前の意思がはっきりしておる、家族の同意もあったということで、それは違法性の阻却になるものだろうかどうだろうか、こういうことを第二番目にお伺いしたいと思います。  第三番目に、現在、生体の肝臓の一部移植というものがございますが、生体に傷をつけるということは医師にだけ治療の目的のときにだけ許されている行為でございますけれども、肝移植というのは世界で四例目ですか、三例目ぐらいでありまして、その効果がどれぐらいはっきりしているかわからないときに、生体の一部を傷つけるということは傷害罪にならないのかどうか。あるいはこれをそのまま見過ごした場合、生体の肝移植あるいはその他の移植が生体から行われて、その成績が悪かった場合には傷害罪になるのか、悪くてもそれは医療として認められるのかどうか。この四点についてまず光石参考人にお伺いしたいと思います。
  122. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) 大変な難題を突きつけられまして、まずコンセンサスが得られるかという問題ですけれども、それは私が先ほど申し上げたように、日本医学界の対応の仕方いかんによっては大いに社会的合意が形成される余地があるのではないかというふうに考えております。それは何か小手先のことだけではなくて、やはりさっき申し上げたような点を中心として一つ一つについてけじめをつけていっていただくということがとりもなおさず合意を形成する。さっき言い漏らしましたけれども、例えば倫理委員会なんというのもいわば一つの小さな世論でなければいけないと思うんですが、その中に学内者しかいないというような倫理委員会ではやはりなかなか社会的合意は得られないのではないかというふうに考えております。  それから二番目の問題ですが、殺人罪とかそういう犯罪に問われるかどうかということ、これは私ども日弁連意見書でも述べておりますように、医学専門ではありませんけれども医学の中でいろいろな疑問とかそういうものが提起されておるときに、最も厳しい判定基準を使っているかどうか。つまり、厳しいという意味は、間違っても生きている人間を死んでいるというふうに判定しないという確実な基準を用いているかどうか。そして、そういった判定の経過というものが本当に担保されているのかどうか、何か制度的に記録が残されるとか、もし家族が望むならば立ち会いが認められるとか、そういったことが本当に行われるのかどうか。それから、先ほどから問題になっていますインフォームド・コンセントのことも含めまして、実質的に、単に形だけではなくてそういう審議というものが独立の委員会というような、ヘルシンキ宣言が定めるようなところで本当に患者のために審議されているのかどうか、そういったこといかんによるのではないかというふうに私は考えております。  それが具体的に刑法上どうなるかということについては私にはちょっと難しくてわかりませんけれども、要するに何か白か黒かで必ず殺人罪になるんだとか、緊急避難だから違法性がなくなるんだとか、そういうのはいわば後からとってつける結論でして、やっぱりもっともっと実質的なことが本当にその患者に対して行われたのかどうかということを考えて結論をするべき問題だろうと思います。  それから、生体肝移植については、私も技術的には成功した、もう完成しているというふうな話をごく最近シンポジウム等で伺ったばかりで、本当に中身がよくわからないんですが、感じますのは、仮にいわゆる脳死というものを人の死であるというふうに社会的な合意ができたとしても、やはりドナーというものは必然的に不足するということが予想されておりまして、やはりそういう段階でも補助的な医療として行われていくのではないかというふうに私は予想しております。その場合には、今の殺人が問われるかどうかというようなことと同じように、そういった社会の不安を取り除くようなプロセスがちゃんと実現されているかどうかというようなことから結論が違ってくるんだろうというふうに私は思います。  成績が悪いとか悪くないとかということは、これはいわば結果論でして、やはり実験性が高いというようなこと、予期される危険というものがよくわかっていないということ、例えば生体肝移植の場合には、もし移植されたものが仮に生着しなかった場合にどうなるんだろうかというようなことを考えますと、これは今大変な冒険をしているんだなというふうには思いますが、それは成績が結果的に悪かったからどうかということで判断されるべきものではないと思いますけれども、やはり詳細なインフォームド・コンセントというものはぜひ実現していただきたいというふうに思っております。
  123. 高木健太郎

    高木健太郎君 ありがとうございました。  次に、垂井参考人にお伺いいたします。  脳死を死と認めるにいたしましても、その判定基準というものが各大学における倫理委員会の決定ではなくて日本において統一されるべきじゃないかなと考えておりますが、いかがでしょうか。また、各大学での倫理委員会はお互いに話し合われたことがございましょうか。  あるいはまた、阪大では十二時間後に脳死を決定する、あるいは聴性の誘発電位の記録も必要じゃないかとも言われておりますが、こういうものは絶対に必要とお考えでしょうか。  あるいは、日弁連では脳血流の停止確認事項というようなものも提案されておりますが、こういうものが臨床的に果たして可能でしょうか。そういう検査のためにかえってその患者の死を早めるというおそれはないでしょうか。  あるいはまた、脳死の場合に死亡時刻というものが非常に判然としないという欠点がございますが、その宣告の時刻にされますか、あるいはまたそれを確定の時刻にされますか。  こういうことについて御意見をお伺いしたいと思います。
  124. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) 脳死判定の基本的な事項につきましては、全国レベルで一定の合意が成立することが望ましいと思います。ただ、例えば現在の心臓死の場合でもすべて心電図がとられているわけではございませんし、細かい例えば脳循環の判定方法につきましてもそれぞれの大学で違う角度から検査するということはあり得ると思いますけれども、基本的な項目というものは一定の合意が成立することが望ましいというふうに考えております。  それから、聴性脳幹反応というのは、大阪大学では二次性病変の場合に必要な項目として挙げておるわけでございますけれども、これは先ほどからお話がございましたように客観的な記録の一つでございまして、できるだけそういうのを残していく、殊に移植のドナーとした場合にはそういうものは残していく必要がございますので、そういう検査というのは尊重したいというふうに思います。  脳循環に対する検査というのは、今先生も御指摘のように、いわゆる医学の用語では侵襲的な、インベーシブな検査というのがございまして、つまり脳死判定をする前は死であるかどうかわからないという状態で検査をするわけでございますので、それによってある負担を患者にかけるということは十分検討を要する問題でございますが、最近のテクノロジーの進歩で非侵襲的な脳循環の検査も多数開発されつつあるわけでございますので、そういう見地から見て診断的価値、これは少数の国では、例えばノルウェーとか西ドイツとかスウェーデンの判定の一部というのは採用しているわけでございますから、そういうこともやはり検討してよろしいのではないかというふうに思います。  それから、死亡時間でございますが、先ほど村 瀬参考人から生倫懇の御意見として、前の方、つまり最初の一定の基準を満たした後と、後の脳死確認時の両方の意見が出たというお話がございまして、私どもはやはり後の方をとっているわけでございます。  それは私自身も経験がございまして、つまり判定項目というのは、例えば脳幹に関するものでも竹内基準には八項目ほどあると思いますが、そのうちで例えば一つだけ、角膜反射だけ残っているというふうな場合があるわけでございます。そうしますと、診療側というのはそれに注目して経過を見ているわけでございますが、あるときにそれが消失してしまう、そうしますとすべての条件を満たすということになるわけですが、そういう検査項目というのはいわば代表的な脳機能の指標でございまして、やはり脳死の定義ということになりますと、すべての脳の反射統合機能の廃絶ということになるとしますと、一つ残っていたのが消えた瞬間にすべての機能がなくなったとはちょっと考えにくい、その消えたよりも少し後にやはりそういう脳死の確実な時期というのが訪れているに違いない。そういうことを考えますと、後の時刻をとるのがメディカルサイエンスとしても正しいのではないかと私は考えております。
  125. 高木健太郎

    高木健太郎君 ちょっと時間がオーバーしましたんですけれども村瀬参考人にお伺いいたします。  先ほどから医師への不信とか医療への疑惑というものが取り上げられております。こういうものが実際はこの実施を阻んでいる一つの原因だと思います。  この一つに医療の密室性、医師の権威主義というものと患者のプライバシー、それから医師の守秘義務、そういうものが絡まっている点だと思うんですね。しかし一方では、公開性あるいはツルース・テリング、あるいはインフォームド・コンセント、あるいは患者のセルフデターミネーション、こういう権利が一方にはあるわけでございます。  国民の疑惑を解くために医師会としては、先ほどちょっとお話しになったようですけれども医師の信用を得るための何か措置を今やっているんだというようなお話がございましたが、医師会として今後この最終報告の趣旨の徹底についてどのような措置をおとりになろうとしているのか。それから、医師会として今後医師への不信を取り除くような具体的な方法としてどういうことをされるおつもりなのか。それをお聞かせいただきたいと思います。  ついでで非常に悪いんですが、藤田参考人に、時間がなくなりましたので最初にちょっとお伺いしておきます。  海外に出かけられたり、あるいは今までは援護資金を募集されたり、キャンペーンをやりましたり、いろんな援護を受けておられるわけですが、臓器移植というものにつきましては多額の金を要するということでありまして、キャンペーンとかで集められております。しかし、一番問題になるのは、臓器を得るためにお金がかかる、あるいは手術のためにお金がかかるということでありまして、そこに貧富の差が出てくるんじゃないか。保険ではこれは見切れないのではないかという一方心配があるわけです。その点に対して藤田参考人はどんなふうな御希望あるいは今までの経験をお持ちか、それを最後にお話しいただけませんか。それで質問を終わりたいと思います。少し時間が超過しました。
  126. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) 三点に絞られてくると思いますのでお答え申し上げます。  まず、日本医師会の立場といたしまして、脳死問題の会員への普及はいろいろな広報媒体を使って教育活動を行っております。  第二番目に、一般社会に対して医師への不信感をなくす方法、払拭する方法としては、やはりこの問題に関しては会員の一人一人が患者さんの一人一人によくわかるように御説明できるように、知識を吸収した上で御説明することが、御理解をいただくことが社会的合意を形成する一つの手段にはなるのではないかというふうな形で考えております。  もう一点、密室性云々の問題につきましては、先ほども議論申し上げましたように、生命倫理懇談会で説明と同意というふうなテーマで最終報告をまとめておりまして、十二月いっぱいにはこれもでき上がりますので、会員に十分説明と同意という問題について御理解いただいて、そういう医療の密室性と言われるものがあるとすればそれをなくしたいというふうに思っております。  以上です。
  127. 藤田茂

    参考人藤田茂君) 海外へ行って移植をやるということがどうかというお尋ねですね。
  128. 高木健太郎

    高木健太郎君 お金がかかるからです。
  129. 藤田茂

    参考人藤田茂君) これは、僕個人に言わせれば、とてもじゃないけれども行けないということになるわけですけれども、これをお金がかかるからという、例えば胆道閉鎖の子供の親御さんにとっては、もうお金の問題じゃなく、それこそ我が子がかわいく、何とか健康にしたいというこの願いですよね。これに我々がとやかく言える立場ではないと思うんです。私にとっては早く日本でそういう移植国民合意がなされて、速やかにされるということしか願いがないわけで、そのことについて海外で、これはもう国際的な摩擦も起きているわけですから、余りよくない、できるなら国内でやるということが大前提であります。だから、お金をかけてどうこうと言われると、じゃいけないというふうに言える状況じゃない。理想的に言えばそういうことはやらなくて済むようなことを速やかにしてほしいとしか言いようがないと思うんです。余りよくはないと思いますよね。
  130. 高木健太郎

    高木健太郎君 どうもありがとうございました。  時間を超過してどうも失礼しました。
  131. 星川保松

    ○星川保松君 時間が余りありませんので、私は一点に絞って参考人の皆さんにお伺いしたいと思います。  それは、この脳死といいまた臓器移植といい、大変に難しい問題であるということでございますけれども、難しいからといってこれを放置しておくわけにはいかない。何とかここで脳死及び臓器移植についての国民合意を得る努力をしなければならないという段階なわけでございます。それで今回もこの調査会の設置という運びになったわけでございます。  ただ、私は脳死というものが認められるということになりますと、今までは死というものは心臓死であるというのが国民一般の中に広がっているいわゆる死の概念なわけでございます。それに今度は新たな死の概念として脳死というものが出てきた。いわゆる死の定義に二つあるような、そういうことが一般社会に対して大きな波紋を投げかけるのではないか。それによっていろいろな社会的な混乱さえも予想されるのではないかという気がするわけでございます。  そこで、私ども考えられるごく卑近な例を挙げて、適当な例かどうかわかりませんけれども、これはまず光石先生にお尋ねをしたいと思いますが、夫婦で車に乗っていて交通事故を起こした。二人とも死につながるような状態になった。そういう場合に、その夫の方がいわゆる脳死の場合に臓器を提供してもよろしいという同意者であった。ところが、妻の方はそういう意思は表示しておらないというような場合に、片方が、いわゆる夫の方が脳死判定を受けるわけですね。そうしますと、妻の方はそういうことを何にもしておりませんから、一般的ないわゆる心臓死で処理をされるということになってまいりますと、両方の死の判定が異なってくるわけでございます。そうした場合に、卑近な例をとりますと、その夫の遺産について相続が開始をするという場合は、その前後によって相続が全く変わってくるわけです。その夫婦の間に子がない場合、あるいは子がある場合、あるいはその妻の方が再婚であって前夫との間に子があって、その子がいわゆるそのときの夫との養子縁組み等は結んでおらないというような 場合、大変な相続の差異が生じてくるわけでございます。  そうしたことで、いわゆる二つの死をめぐっての社会的な混乱というものが私にも素人なりに想定できるわけですけれども、そうしたことについては二つの死と言うことができる。それについての一般社会の反応といいますか、それについてはどのようにお考えでしょうか。御意見を賜りたいと思います。
  132. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) 今のようなケースというのはおっしゃるようなケース以外にも、夫婦が別々の病院に運ばれて、そしてA病院では脳循環の停止までも確認する基準であった、B病院ではそうではない竹内基準であったというような場合でもやはり起こってくるのだろうと思います。それから、もちろん最初判定時なのか確認時なのか、どういうふうに決めているか、それによって確かにそういう問題は起こってくると思います。  ですから、そういう場合に、恐らく相続の問題になれば裁判所がこれを最終的に解決していくのだろうと思うんですが、それは例えば民法にあります「同時死亡ノ推定」というようなものの規定を活用して解決するというようなことも一つ考えられますし、やはりケース・バイ・ケースで裁判所が随分苦労してやっていくだろうと思うんです。ところが、これをその相続を争う人たちだけに負担を負わせる。御承知のように裁判となれば長い時間がかかる。その間の負担というものを全部その人に負わせていくというのは、やはりこれは酷ではないかという気がいたします。  ですから、判定基準にしても、それから死亡時刻にしても、やはり統一されたガイドラインなりなんなりというものがないとそういう混乱が起こってくるんで、それを皆さんで衆知を集めて議論して、そしてどれかに決めるということがやはり大事ではないか。余り裁判所にそういうことで負担をかけるのは気の毒ではないかというふうに思っております。  以上です。
  133. 星川保松

    ○星川保松君 そのようなことを考えながら日本医師会生命倫理懇で出された意見を読ませていただきますと、やはり特に死の判定時間について、①、②、③とあってというようなことで死亡診断書は②というようなことですと、やはり混乱が生じやすい、こう思われるんですけれども、それらについての御論議などがありましたらお聞かせいただきたいと思います。
  134. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) お答えします。  確かにそこの問題については、先ほども申し上げましたように、まず脳死判定した時刻をもって死亡の時刻とするという御意見がまず半分、それから六時間後の確認時をもって時刻とせよというのが約半分で、意見が全く対立して分かれました。分かれたために、いろいろ議論を闘わせた末、どちらをとっても実害はないのではないかと。  それは、世界じゅうに現在脳死判定で、相続で裁判が起きた判例がないということを調査しました結果、もしそういうことで脳死判定をされて、奥さんが急いでその御主人のところへ駆けつけようと思っている途中で交通事故が起きた、それで亡くなったというような事態が起きないことはないけれども、そのときは裁判所に判定をゆだねるということでいいのではないか。その裁判所が判定をする場合に、①から②へ行くまでの経過を克明に資料として残しておくということと、そしてそれになぜ①をとったか、なぜ②をとったかということを意見としてきちっとカルテに記載しておくということをすればよろしいのではないかということで、そのどちらをとってもいいという言い方になっていると思います。  以上です。
  135. 星川保松

    ○星川保松君 ただいま相続で問題の起きた前例がないということでありますが、今まではそう多くはなかったわけでありまして、これから脳死判定され、臓器移植がどんどん行われるということになりますと、やはり今までなかったからというわけにはいかなくなるのではないかと私は思うわけです。  それから、裁判所が決めればいいということでありますけれども、死の判定はお医者さんしかこれは決められないことなんですね。裁判所は相続がどうなるかということは決めますけれども、死の判定は裁判官でもこれはできないことだと私は思いますが、その点についてはどうお考えでしょうか。
  136. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) それは、死の判定医師判定でございますから、判定をして、その相続、要するに死の判定の時間の問題でございますから、時間の問題についてはその医師意見を書いて、その意見に付記してその意見を立てた根拠をきちっと書いておくということで現状は足りるのではないかというふうに考えます。  以上です。
  137. 星川保松

    ○星川保松君 ちょっとその点納得いかないんですが、お医者さんが死の判定をするというのはあくまでも時間ですね、時刻なわけです。その時刻の前後によって裁判官が決めるほかないわけですね。その時刻を変えるわけにはいかないわけなんですよ。ですから、判定だけして時刻を書かないというわけにもいきませんでしょうし、その時刻の前後について裁判官が裁量をもってどうこうするということは、これはできないはずなんですね。あくまでもそのお医者さんしか下せない死の判定時刻、それに基づいて物事は進められていくわけなんですね。そういうことからしますと、やはりもう少しこの点は、死亡時刻についてはやはりきちんとしたものをお出しにならないと混乱が出てくるのではないかと、こういうふうに考えますが、いかがですか。
  138. 村瀬敏郎

    参考人村瀬敏郎君) 先生が御指摘のとおりだと思います。ですから、五〇%五〇%というふうに意見が分かれたということは、まさしくその時間については完全なコンセンサスが得られていないということだと思います。  先ほど垂井先生もおっしゃいましたように、垂井先生は、要するに確認の時期というふうにもう御自分のお考えをまとめておられます。ですけれども、垂井先生のところの大学法医学者の人などの中には、いやそうではないと、最初の時点だという方もおられますので、そこいらはもうちょっと医療社会できちっとまとめるべきだというふうに思っております。
  139. 星川保松

    ○星川保松君 垂井先生は、先ほど死は常に一つでなければならないと、それで医学的には実質的内容は一つなんだと、こういうことをおっしゃったわけですけれども、そのことは当然脳死とそれから心臓死二つあってはならない、医学的にも社会的にも法的にもやはり一つであるべきだというお考えでしょうか。お伺いしたいと思います。
  140. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えします。  原理的に一つでなければならないということを申しているわけでございまして、心臓死の場合も、いわゆる現在の脳死判定基準脳死判定をしなければならないと申し上げているわけではございません。心臓死の場合は、これはもう循環機能の不可逆的な停止によって必然的に脳の死というのを招くわけでございまして、したがって伝統的な方法が今まで大きな誤りを犯さなかったゆえんだと思うわけでございますけれども、何といいますか、究極的な実態というのは同じだということを申し上げておりまして、実際の死の判定とすれば、やはり伝統的な心臓死による判定を受ける方が大多数であって、非常に少数の方が現在の、あるいはこれから洗練されていくであろう脳死判定基準に基づいて判定される、そういうふうに思います。概念としては同じだ、そういうことでございます。
  141. 星川保松

    ○星川保松君 そうすると、やはり時刻の決定については二つあり得る、こういうことですか。
  142. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) 脳死の場合のですか。
  143. 星川保松

    ○星川保松君 脳死の場合と心臓死の場合と、原理的には一緒だけれども、その時刻の判定については……。
  144. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) 心臓死の場合というのは、心臓、つまり循環機能の不可逆的な停止を もって医者は大体判断しておりますので、例えば心電図が平たんになる、それがもはやもう一度打ち出すことがないということを確認した上で、平たんになった時点を死亡時刻として判定して誤りはないと思います。ただ、脳死の場合に、脳死というのは脳の死を直接認識するいろいろな基準に頼らなければならないわけでございまして、つまり心臓死というのはいわば間接的に脳の死を見ていると言えるわけでございます。それが大きな誤りを犯さなかったというのは、高木先生の前ですけれども、循環機能と脳機能の間の非常に不可分の関係の上に立脚しているわけでございます。脳の死そのものを認識する場合に、その前か後かという、つまり今の心臓死の場合ですと最初にとまった時点を選んで大きな誤りはないわけなんで、それと同じ論理で前の時点だということを主張される方がいらっしゃるわけです。今もお話に出ました法医学界委員会意見もそういう意見なんでございます。  ただ、私はやはりすべての機能の廃絶という点に着目すると、ある項目を満たした瞬間にすべてというのはやや早計ではないかというふうに考えまして、私ども大学委員会としては討議の末、後をとるべきだという結論に達したわけでございます。
  145. 星川保松

    ○星川保松君 終わります。どうもありがとうございました。
  146. 田渕哲也

    ○田渕哲也君 まず始めに光石参考人にお伺いします。  弁護士会の意見書を見ておりますと、光石参考人は弁護士会は脳死に対しては白紙だということをおっしゃいましたが、しかしこの意見書をよく読んでみると、垂井先生が言われるように完全に判定された脳死個体死であるということを否定されておるというふうには思わないわけです。むしろ脳死の定義、つまり脳の不可逆的機能喪失を脳の死とするということについては疑問がある、これについてはもっと高度の医学的検討が必要であると言われております。それから、脳死判定基準竹内基準を採用するについても、その妥当性について疑問がある。したがって、こういう点がきちんと条件が整えば脳死個体死とすることについては異議がない、そのように考えていいものかどうかお伺いをしたいと思います。
  147. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) 今まで日弁連でいわゆる脳死をどうするかという意見はまだ出してはいないんです。それで、日本医師会生命倫理懇談会の方で出された最終報告案の論理に対して、この点は疑問だということを申し上げているということで、さっきおっしゃっていたようなことでほぼそのとおりだと思うんですが、要するに本当に確実に判定できるのかというところのいろいろの疑問を提起しているということでございます。
  148. 田渕哲也

    ○田渕哲也君 それから、次にお伺いしたいことは、何をもって人の死と認めるかどうかは個人意思を超越した問題であって個々の患者家族意思に左右されるべきではないと、これは私ももっともだと思います。そして、現在「心臓死社会的合意を得ているのであるから、新たに脳死を人の死と認めるためには、立法あるいは新しい社会的合意が形成されるべきである。」、したがってまず第一義的には立法措置を講ずるのが望ましいというふうにお考えですか。
  149. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) その点は「立法あるいは新しい社会的合意」というところでさんざん議論をしたんですが、別に立法を特にウエートを置いたわけでもなく、立法ということがあれば必然的にこういう調査会とかそういうことが必要になってまいりますので、いつまでもああでもないこうでもないというようなことではなくて、もっともっときちんとした、さっき私が申し上げたような意味での対話とか相互批判というのが行われるだろう、そういう意味では新しい社会的合意の形成に資するのではないか、そういうふうに考えております。
  150. 田渕哲也

    ○田渕哲也君 ということは、必ずしも立法はなくてもいいということだと理解しますが、その場合、立法ではなくて新しい社会的合意というものは具体的にはどういうものができればいいとお考えですか。
  151. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) 先ほど、最初に申し上げましたように、何について合意してほしいのか、その点をまずはっきりさせてもらいたいということでございます。社会的合意の要件とか手続が示されていないではないかというような議論は、私どもの目から見ますといささか謙虚さに欠けている。そもそもきちっと論理的に整合性のあるものをまず人々に対して示してほしいということでございます。だから、問いがどうも適切でないというふうに私ども思っております。
  152. 田渕哲也

    ○田渕哲也君 私は国会で立法措置をするのが一番はっきりしていいと思うんですけれども、しかし国会で立法措置をするにはやはりある程度社会的なコンセンサスというものができないと、国会で多数決で死の判定をそれに不服の人まで従わせるというのはやはりとるべき態度ではないのではないかと思います。  したがって、国会で立法措置ができるかどうかそれはわかりませんけれども、できないから今のままでそれまではいくんだということではなくて、過渡的な措置として、医師会提案しておられるように、アンケートでも、自分脳死になった場合は臓器を提供してもいいとか、あるいは脳死になった場合は死と判定されてもいいという賛意を表する人については、そういう措置をとっても違法ではないというような状態には少なくともするのが現実的な方法ではないかという気もするのですが、その点はいかがですか。
  153. 光石忠敬

    参考人光石忠敬君) 世論調査というものの問題点二つ申し上げたいのは、まず今まで行われた世論調査のアンケート票の、調査票の問いというのは必ずしも適切ではないと思うんです。私どもの目から見ると、いわゆる脳死というものについて誘導尋問のような形になっておるというふうに思っておりますし、したがって社会的合意というのを何か世論調査で何割というようなことで言うのはそもそも間違っている。つまり、何について合意が求められているかというところがそもそも腰砕けになっておって、何で人々が合意したとかしないとか、あるいは理解したとかしないとかということが言えるんだろうか。  そういう意味では、例えば一つの例を挙げますけれども、朝日新聞社の調査で、脳死を死と認めないのに心臓移植を認める人が三割近くに上っていたんですね。ああいうのを見ますと、やはり人々が一体どういうふうに思っているのかということがよく出ていると思うんです。だから、提案をする側がもう少し謙虚になってやってもらいたいし、世論調査ももっと慎重にやってもらいたい、そういうふうに私は思います。
  154. 田渕哲也

    ○田渕哲也君 次に、垂井参考人にお伺いしますが、完全に判定された脳死、今医学界でやっておられる基準とかそういうものは完全に判定された脳死に適合するかどうか、この点はいかがですか。
  155. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えします。  それはなかなか難しい問題でございますけれども、私どもの中間勧告では、殊に移植医療臓器提供の場合の脳死判定というのはやはり慎重な上にも慎重でなければならないということで、客観的に記録の残る聴性脳幹反応をすべての脳死判定に、それから非侵襲的な方法も含めた脳循環の観察も勧告しておりまして、そういうものを含めた場合には確実に判定したと現在の医療水準では判断して差し支えないと考えます。
  156. 田渕哲也

    ○田渕哲也君 光石参考人が述べられましたけれども、この人はもう助からない、絶対助からない状態と、死んだ状態とは違うと思うんですね。それで、絶対助からない状態で死んだとみなしてそういう措置をとった場合、将来医学進歩して、絶対助からないとあの時点では思われておったけれども、実は助かる方法が見つかったということもあり得ないではないと思うんですね。したがって、この判定というのは非常にやっぱり慎重を要する問題だと思いますが、この点について御意見はいかがですか。
  157. 垂井清一郎

    参考人垂井清一郎君) お答えします。  全く同感でございまして、絶対に助からないがやはり生きているという、つまり脳も神経機能も何かは残っている、そういう状態で死とみなしてはならないと思います。
  158. 田渕哲也

    ○田渕哲也君 終わります。
  159. 板垣正

    委員長板垣正君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。  参考人方々一言御礼を申し上げます。  長時間にわたり御出席を願い、貴重な御意見をお述べいただきましてありがとうございました。委員会代表いたしまして厚く御礼申し上げます。(拍手)  参考人に対する質疑をもって質疑は終局したものと認めて御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  160. 板垣正

    委員長板垣正君) 御異議ないと認めます。  これより討論に入ります。  御意見のある方は賛否を明らかにしてお述べ願います
  161. 吉川春子

    ○吉川春子君 私は、日本共産党を代表して臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案に対し、反対討論を行います。  病気で苦しむ多くの国民を救うためには、医学進歩を保障するための学術研究予算の確保はもちろん、何よりも徹底した予防医学により、病気の発生を最小限に抑えることに国は最大限の努力を払わなくてはなりません。そうした中でなおかつ現状では臓器移植を行うことによってしか生命を維持し得ないであろう人々が存在し、医学進歩に伴い臓器移植が可能となり、そういう要求があることも事実です。  同時に人間としての根源的な生と死にかかわる脳死臓器移植は、国民合意が不可欠であることは衆目の一致するところです。この国民合意を形成するに際しては、医学関係者はもとより、法律、倫理、哲学、宗教など広く各界の論議を深め、すべての論議を国民の前に明らかにする必要があることは当然であります。  しかし、これまでの経過を見ればこういう努力が十分にはなされてこなかったことは明らかです。  政府はいわゆる臨調方式によって、これまでの臨調、行革審、臨教審など、国会で審議すべきものを内閣総理大臣直轄の審議会とした国会の無視、公正さを欠く人選、非公開の密室審議国民合意抜きの政治的結論の押しつけがまかり通ってきました。今回の脳死臨調も、これらと同じもので政府主導の人選で二年間という短期間に結論を得ようとするものであり、その審議内容も公開とはなっていません。  私の質問に対し提案者は、非公開にしなければならない理由はないと答えざるを得ませんでしたが、一方で委員に守秘義務を課し調査会の非公開に道をつけるなど国民に開かれた調査会とは言えません。  これでは、国民的な合意を形成することに役立つどころか、審議国民への情報提供が不十分なまま、見切り発車をして脳死の認定と臓器移植を推進する恐れが十分あると言わなければなりません。  以上の理由から、我が党は本法案に反対するものであります。  我が党は臓器移植を願う患者家族の切実な心情を真剣に受けとめ、この問題についての国民合意が得られるよう今後とも一層努力することを表明して討論を終わります。
  162. 板垣正

    委員長板垣正君) 他に御意見もなければ、討論は終局したものと認めて御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  163. 板垣正

    委員長板垣正君) 御異議ないと認めます。  それでは、これより採決に入ります。  臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案に賛成の方の挙手を願います。    〔賛成者挙手〕
  164. 板垣正

    委員長板垣正君) 多数と認めます。よって、本案は多数をもって原案どおり可決すべきものと決定いたしました。  山口君から発言を求められておりますので、これを許します。山口哲夫君。
  165. 山口哲夫

    山口哲夫君 私は、ただいま可決されました臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案に対し、日本社会党・護憲共同を代表し、附帯決議案を提出いたします。  案文を朗読いたします。     臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案に対する附帯決議(案)   臨時脳死及び臓器移植調査会は、臓器移植の分野における生命倫理に配慮した適正な医療の確立に資するために設置されることにかんがみ、政府は、委員の人選に当たっては、各界各層から意見を聴取し、公正に選任すべきである。   調査会は、設置の趣旨にかんがみ、審議国民に明らかにし、また、重要事項については、できる限り意見の一致をみるよう努力することを要望する。  右決議する。  以上でございます  何とぞ御賛同いただきますようお願いいたします。
  166. 板垣正

    委員長板垣正君) ただいま山口君から提出されました附帯決議案を議題とし、採決を行います。  本附帯決議案に賛成の方の挙手を願います。    〔賛成者挙手〕
  167. 板垣正

    委員長板垣正君) 全会一致と認めます。よって、山口君提出の附帯決議案は全会一致をもって本委員会の決議とすることに決定いたしました。  ただいまの決議に対し、戸井田厚生大臣から発言を求められておりますので、この際、これを許します。戸井田厚生大臣。
  168. 戸井田三郎

    ○国務大臣(戸井田三郎君) ただいま御決議になられました附帯決議につきましては、その趣旨を十分尊重いたしまして努力いたす所存でございます。
  169. 板垣正

    委員長板垣正君) なお、審査報告書の作成につきましては、これを委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  170. 板垣正

    委員長板垣正君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。  本日はこれにて散会いたします。    午後四時三十八分散会