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1989-12-06 第116回国会 衆議院 文教委員会 第7号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成元年十二月六日(水曜日)     午前十時八分開議  出席委員    委員長 鳩山 邦夫君    理事 麻生 太郎君 理事 臼井日出男君    理事 鴻池 祥肇君 理事 中西 績介君    理事 中野 寛成君       青木 正久君    岸田 文武君       工藤  巌君    斉藤斗志二君       杉浦 正健君    渡海紀三朗君       長谷川 峻君    渡辺 栄一君       江田 五月君    嶋崎  譲君       有島 重武君    石井 郁子君       山原健二郎君    田川 誠一君  出席国務大臣         文 部 大 臣 石橋 一弥君  出席政府委員         文部大臣官房長 國分 正明君         文部大臣官房総         務審議官    佐藤 次郎君         文部省生涯学習         局長      横瀬 庄次君         文部省初等中等         教育局長    菱村 幸彦君         文部省教育助成         局長      倉地 克次君         文部省高等教育         局長      坂元 弘直君         文部省高等教育         局私学部長   野崎  弘君         文部省学術国際         局長      川村 恒明君         文化庁次長   遠山 敦子君  委員外出席者         参  考  人         (作・編曲家) 山室 紘一君         文教委員会調査         室長      多田 俊幸君     ───────────── 十二月四日  文化政策拡充等に関する請願井上泉紹介)(第八五五号)  同(緒方克陽紹介)(第八五六号)  同(小谷輝二君紹介)(第八五七号)  同(児玉健次紹介)(第八五八号)  同(佐藤敬治紹介)(第八五九号)  同(田邊誠紹介)(第八六〇号)  同(永井孝信紹介)(第八六一号)  同(野間友一紹介)(第八六二号)  同(矢追秀彦紹介)(第八六三号)  同(石橋大吉紹介)(第九〇九号)  同(上坂昇紹介)(第九一〇号)  同(関山信之紹介)(第九一一号)  同(二見伸明紹介)(第九一二号)  同外一件(水田稔紹介)(第九一三号)  同(阿部未喜男君紹介)(第九七〇号)  同(池端清一紹介)(第一〇〇〇号)  同(鍛冶清紹介)(第一〇〇一号)  同(佐々木良作紹介)(第一〇〇二号)  同(早川勝紹介)(第一〇〇三号) 同月五日  文化政策拡充等に関する請願井上和久紹介)(第一〇三三号)  同(田口健二紹介)(第一〇三四号)  同(玉城栄一紹介)(第一〇三五号)  同(森本晃司紹介)(第一〇三六号)  同外一件(阿部昭吾紹介)(第一一一三号)  同(関山信之紹介)(第一一一四号)  同(田口健二紹介)(第一一一五号)  同(和田一仁紹介)(第一一一六号) 同月六日  文化政策拡充等に関する請願木間章紹介)(第一三五三号)  同(関山信之紹介)(第一三五四号)  同(松本善明紹介)(第一三五五号)  同(関山信之紹介)(第一四五五号) は本委員会に付託された。     ───────────── 本日の会議に付した案件  参考人出頭要求に関する件  文教行政基本施策に関する件      ────◇─────
  2. 鳩山邦夫

    鳩山委員長 これより会議を開きます。  文教行政基本施策に関する件について調査を進めます。  この際、参考人出頭要求に関する件についてお諮りいたします。  本件調査のため、本日、中野寛成君の質疑に当たり、作・編曲家山室紘一君に参考人として御出席を願い、御意見を聴取することといたしたいと存じますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 鳩山邦夫

    鳩山委員長 御異議なしと認めます。よって、さよう決しました。     ─────────────
  4. 鳩山邦夫

    鳩山委員長 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。鴻池祥肇君。
  5. 鴻池祥肇

    鴻池委員 私は、当選をさせていただきましてから三年五カ月、その前までは全く政治という世界には関係のない男でございました。まして役人もしたこともございませんし、あるいは当然地方議員も経たことがございません。そしてまた、身近に総理大臣とか国務大臣であったおやじとか親戚の者がおったわけでもございませんので、大変粗にして野である、またぶしつけな御質問を申し上げることになるかもしれませんが、あらかじめ御了承とお許しをいただきたいと存じます。  まず、大臣御存じでいらっしゃいましょうか、「幼児教育考え昭和二桁の会」というのがございます。御存じでいらっしゃいますか。
  6. 石橋大吉

    石橋国務大臣 よく存じ上げてはおりません。
  7. 鴻池祥肇

    鴻池委員 この「幼児教育考え昭和二桁の会」というのは、三歳児に対しても就園奨励費助成がなされるように一生懸命運動をしている会でございまして、御存じのように四、五歳児に対しましてはこの助成が行われておるわけでございますが、三歳児に対しては行われておりません。一方、入園率に関して言えば、四、五歳児の入園率に対して三歳児の入園率は極端に低いという数字が出ておるわけでございまして、これはいろいろな理由があろうかと思いますが、助成がないという点も一つの理由ではなかろうかと思います。このあたりいかがでございますか。
  8. 石橋大吉

    石橋国務大臣 お答えいたします。  私は従来から、東洋にはいわゆる胎教という教えがあります。そしてまた三つ子の魂百までということわざもあるし、特にこのごろはゼロ歳児教育ということで大変世の中にいい考え方が出てきておるなという考えを持っております。それは、幼児期人間形成の基礎が培われる極めて重要な時期である。  そこで、今委員指摘のようなこと、三歳児の就園児童が非常に少ないということですね。これはやはり行政側がそこに視点を置いて適切な処置をしたならばまた様相が変わってくるではないかな、すべきであろうな、このような考え方を率直に申し上げます。
  9. 鴻池祥肇

    鴻池委員 ある地方では、国の助成を待たないで地方独自に就園奨励費的施策を行ったようでございますが、その折には三歳児の就園率が非常に高まったという事実もあるようでございます。これは助成があることによって初めて通園させることのできた低所得家庭と申しますか、こういうことがあるということが示されているのではなかろうかと存じます。その意味で、この助成の問題につきましては前向きの取り組みをぜひともお願いしたい、こういうふうに思うものでございますが、いかがでございましょうか。
  10. 石橋大吉

    石橋国務大臣 お答えいたします。  ただいまも考え方について触れたわけでありますが、文部省当局といたしましても、委員指摘のようなことについてでき得る限り前向きな施策を展開をいたしたい、こう考えております。
  11. 鴻池祥肇

    鴻池委員 大変心強い御見解をちょうだいしました。ありがたく存じております。  次に、教科書採択の問題について御質問申し上げたいと思います。  ちょっと大臣にこの資料をお見せしたいと思います。よろしいですか。――今大臣のお手元にお持ちをいたしました文書は、ごらんのとおり福島教組福島支部支部長なる者が「新編日本史」を採択予定のある私立高校の校長に出した文書でございますけれども、この教科書採択するならば、子供たちをその学校に送り出す立場にある者として子供たちを送り出すことはできないとして、採択中止を強硬に働きかけているものであります。大変な問題だと考えますけれども、それをごらんになりまして大臣はいかがお考えでございましょうか。
  12. 石橋大吉

    石橋国務大臣 お答えいたします。  率直に申し上げて、この背景あるいは周りにどんなことが起きたか、その点についてはよく存じ上げておらないわけでありますが、少なくとも組織を代表する支部長がこのようなことを要求するというのは果たしていかがかな、大変疑問に思います。
  13. 鴻池祥肇

    鴻池委員 昨年の三月三十日、文部省では初等中等局長名で各県に通知を出されております。それによりますれば、「教科書採択は、採択権を有する者の責任において、適正かつ公正に行われる必要があり、いやしくも外部からの不当な影響により採択結果が左右されることのないよう適切な対応がなされなければならない。各都道府県教育委員会においては、このことを踏まえ、貴管下の採択関係者に対して指導を徹底すること。」とあります。この採択適正化指導は十分になされておるのでありましょうか。
  14. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 ただいま先生から御指摘のありましたような事例をそのほかにも私ども聞きましたので、文部省教育委員会を通して調査をいたしました。その事実につきましては一応承知しているわけでございます。  そこで、教科書採択につきましては、これは先生指摘のように適正かつ公正に行われるべきものでございますので、早速局長通知を出しまして、そして各都道府県指導をしているところでございます。私どもとしては、今後とも採択公正確保ということには一層力を尽くしてまいりたいというふうに思います。
  15. 鴻池祥肇

    鴻池委員 ただいまの御答弁、もう少し詳しく教えていただきたいのでございますけれども昭和六十三年六月の新聞に「教科書採択への”妨害”文部省実態調査へ」、こういうのが私の手元記事としてあるわけでございますけれども、その調査結果というものを公表されたでございましょうか。
  16. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 実は昭和六十三年一月に「諸君!」という雑誌に高橋史朗先生が、大学の先生ですが、教科書採択についての論文を出されたわけであります。そこに幾つかの不公正な採択の事実についての記述がございましたので、私どもとしましては関係都府県から事情を聞きまして、そしてその事実につきまして確認をさしていただいたわけでございますが、御指摘のように外部からの働きかけによって行われた事実はある程度ございました。  そこで、先ほど申し上げましたような通知、これは今年度、平成元年通知におきましても同様のことを書きまして注意を促しているわけでございますが、適正採択採択公正確保について指導してきたわけです。私どもとしましては、毎年採択につきましての報告を各都道府県からとっておりますので、かかる行為があれば都道府県から報告をしていただくようにということでお願いをしているところでございます。
  17. 鴻池祥肇

    鴻池委員 ここに社会党機関紙でございます社会新報の本年十月十七日付の記事があるわけでございます。この記事には、来年度の「新編日本史」の採択が福岡県で十校にふえたというのが掲載されていますが、最後に「今後も採択校は増える見込みで、民主勢力反撃が望まれる。」このように書いてあります。  この民主勢力反撃とは一体何でありましょうか。この民主勢力反撃とは、ただいまの話題になっておりますこの通知に言う外部からの不当な影響以外の何物でもないと私は思います。いやしくも公党機関紙にこのようなことが書かれているという事態の異常性をどのようにお考えでいらっしゃいますでしょうか。
  18. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 教科書採択権につきましては、法令上、公立学校では所管の教育委員会が選ぶ、それから国立と私立につきましては学校長が選ぶということになっております。したがいまして、これらの採択権を有する者の責任において公正かつ適切に採択が行われるべきでございますから、それらの採択権に仮に外部から不当な圧力があるとすれば、それはやはり法律に定めます採択権趣旨から見て合わないものであると考えます。したがいまして、私どもはそういうことのないように今後とも指導を強めてまいりたいと思います。
  19. 鴻池祥肇

    鴻池委員 ただいまのお話で心強く感じるわけでございますけれども、こういう事例がたくさんある。また、こういう不当な介入というものに対して指導するというお話でございますけれども、特別な措置ということはお考えではございませんか。
  20. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 まず初中局長で先ほど御指摘のような指導をしております。そのほか、教育委員会指導部課長会議というのがありまして、これは学校教育指導します教育委員会部長課長の全国的な会合でございますが、こういうところで機会をとらえましてその趣旨について徹底したいと思いますし、そのほか指導主事会議等もございますので、そういうあらゆる機会を通じまして適正な採択が行われますように指導していきたいと思っております。
  21. 鴻池祥肇

    鴻池委員 ちょっと話題を変えさせていただきたいと思います。  私の記憶では、一九八六年に例のチャレンジャーという宇宙飛行船が爆発をいたしまして全世界に大変なショックを与えたわけでございます。そのときに、御存じ思いますが、日系のエリソン・オニズカという中佐さんがやはり殉職をされました。その一年前の八五年の一月にディスカバリーという宇宙船によって初めて宇宙に飛び立った、こういうことらしゅうございますけれども、そのときに、エリソン・オニズカさんは宇宙服の中に小さな日の丸の小旗を三つ持って宇宙飛行に旅立たれた、こういう話を聞きまして私は大変感激をいたしました。  先年、このエリソン・オニズカさんの未亡人が日本を訪れられて、そして科学技術庁にお越しになりまして、私は当時の伊藤長官のお供をさせていただきまして会見をさせていただきまして確かめました。一本の日の丸の旗はハワイに眠る父上のお墓に、一本はみずから妻へのお土産に、もう一本はできることなら皇居におわします天皇陛下のお目にとまるところに、こういうことだったということを確かめました。まさにそのとおりだったということで感激を新たにいたしました。  エリソン・オニズカ中佐は紛れもなくアメリカの忠実な兵隊さんでございますけれども、しかし、父母の国、あるいは祖父母の国に対する思いをはせられた。そのことを考えましたときに、一方、この国に生まれ、この国に育つ者といたしまして、今なお国旗国歌の問題がいろいろなところで議論されているということに私は非常に悲しい憤りを感じるものでございます。  しかし、報道によりますれば、高等学校の方も来年から国旗掲揚国歌斉唱義務化に乗り出すとのことを承りました。まことに当然のことであると存じますし、また、文部省の御努力を高く評価するものでございます。しかしながら、先ほどの話題に出ておりました、民主勢力と称する、例えば日教組等は相変わらず反対し、新しい国旗国歌をつくるような運動をしているやにも聞いております。この点、文部省方針は今後もそういう抵抗に遭うことと考えられますけれども、この抵抗に対してどのように指導されていかれるおつもりか、お伺いしたいと存じます。
  22. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 学校教育において国旗国歌に対する正しい認識を育てるということは極めて重要だと私ども考えております。  それで、これまでもずっと国旗国歌についての指導ということは重視してまいりましたし、昭和六十年には特に局長通知も出しまして、各都道府県国旗国歌が適正に指導されますようにお願いをしてきているところでございます。  そして、今回、今先生指摘のように学習指導要領を改訂いたしまして、国旗国歌扱いにつきましての取り扱いを明確化いたしました。これはもちろん国際化進展を踏まえまして、国際的なマナーとしまして、自国の国旗国歌敬意を表する、それがひいては他国の国旗国歌についての正しい扱いをするということの指導にもつながります。ですから、国際化進展の中でも国旗国歌扱いというのは一層重要になってくるだろうというふうに考えております。  そういうことから、学習指導要領を改訂いたしましてその扱いを明確化いたしまして、平成元年の三月には事務次官通知指導要領の全体的な改正の通知の中で特に国旗国歌扱いについても触れたわけでございますが、今回高等学校についても、指導要領の適用、全面実施自体は少し先なのでございますが、できるだけ早くできるものは実施していこうということで、移行措置という形で、国旗国歌につきましては来年から学校におきまして新しい指導要領でやるということで通知したのであります。今後とも、私どもはさまざまな機会を通じまして国旗国歌学校で適切に扱われますよう指導してまいりたいと思います。
  23. 鴻池祥肇

    鴻池委員 新聞報道にもございましたし文部省調査ということでもございますが、君が代斉唱については三割から四割の学校が行っていない、こういう数字が出ておるようでございます。新聞はこれについて「教育現場での抵抗が依然として強いことが明らかになっていると解説されております。  ここで大臣にお伺いしたいのでございますけれども、今後こうした抵抗運動の中で目に余る行為に対しては、もしそれがあった場合、緩やかな御指導というお気持ちかもしれませんけれども、明確に処分していただきたい、私はこのように思うのでございますが、明確に処分されるおつもりでございましょうか。その点についてお答えをいただきたいと思います。
  24. 石橋大吉

    石橋国務大臣 お答えいたします。  ただいま委員御所論国旗国歌の問題、これはもう日本国の中に定着をしている、どの国民であっても、オリンピックに勝ったときに日の丸が揚がったとき、君が代を歌うとき、涙をもってこれにこたえるのが普通の、自然の姿にもうなったなという気持ちを私はいつも持っております。そうした中において、国旗掲揚については極めて順調に各学校現場において取り入れられております。国歌君が代については、ややその実行におけるパーセンテージが落ちております。これは音楽で教えねばならないということ、いろいろな問題があるので、日の丸をするすると揚げるよりは努力をしなくちゃいけないということがそこについているな、こんな感じを私は持っております。  そこで、委員指摘の、ではやらなかった場合に、教えなかった場合に、歌わせなかった場合に処分をするかしないかという問題になりますと、これは今度は文部省権限じゃなくなるわけです。どこまでもそれが属する地方公共団体判断をする問題、地方教育委員会判断をする問題になるわけであります。ですから、そのときとその場所とその中身いかんによって、どうするかということはやはり地方団体が決定すべき事柄に法制度上もどうしてもなります。ただ、そこまで国旗国歌というものが理解されている中でありますから、処罰の対象にならないような、もっと言えばならせないような指導の仕方をやってもらいたいな、こう私は考えております。
  25. 鴻池祥肇

    鴻池委員 ただいまの大臣の御所見、私もいい方向で進んでいるなと同感の思いをいたしているものでございます。  しかし、これは十二月二日の朝日新聞の「声」という欄でございます。投書者日本社会党委員長土井たか子さんでございます。これをじっくりと何度も読ませていただきました、同じ選挙区でもございますし。この中で土井委員長は、「「君が代」は主権在民をうたう憲法精神にふさわしいものとは認められません。」「したがって政府が、それらを強制するような行政指導は、すべきではありません。」このように述べておられるわけであります。  まず、君が代主権在民をうたう憲法精神に反するものでございましょうか。君が代憲法精神に関する大臣の御見解を承りたいと思います。あわせて、公党委員長たる土井さんのこのような主張に対する感想もぜひとも大臣からお聞かせいただきたいと思います。
  26. 石橋大吉

    石橋国務大臣 お答えいたします。  ただいまの所論、憲法論でありますので、憲法第一条に「天皇は、日本国象徴であり日本国民統合象徴である」、このように明らかに明文化されているものであります。ですから、君が代という言葉そのものが第一条の天皇象徴統合象徴と全く合致をいたしているな、私はこんなふうに考えておりますので、現憲法違反であるという考え方にはくみさないものであります。  土井たか子さんの言い方に対していかがかということについては、差し控えさせていただきます。
  27. 鴻池祥肇

    鴻池委員 国旗掲揚国歌斉唱することを強く指導するということは国として当然のことであると存じますし、それを強制と言うのは何をかいわんやというふうに私は思います。果たして、国旗掲揚したり国歌斉唱したりすることを教育現場自由判断に任せておくのだという国がありましたら教えてほしいなと思うのですが、そんな国ありますでしょうか。
  28. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 各国の事情まで詳しく存じませんけれども、私の知っている限りでは、例えばアメリカでは各州教育権を持っておりまして、各州の州法で教育目的とかいろいろ掲げております。そういう中で、愛国心教育というようなものは強調しておりますし、国旗国歌についても敬意を表するというようなことを規定している州もございます。それからイギリスやフランスでも、学校教育において国旗が掲げられ国歌が歌われているという事実については承知しております。ただ、具体的に細かにどういうふうになっているかということは、恐縮でございますが承知しておりません。
  29. 鴻池祥肇

    鴻池委員 時間があと五分になりました。簡単に御質問を申し上げますので、ひとつそれ以内でお答えをちょうだいしたいと思います。  即位の礼と大嘗祭についてでございます。  今年度実施される小学校学習指導要領によりますと、「天皇については、日本国憲法に定める国事に関する行為など児童に理解しやすい具体的な事項を取り上げ、歴史に関する学習との関連も図りながら、天皇についての理解敬愛の念を深めるようにすること。」とございます。  ここでお伺いいたしますけれども、来年の秋、天皇陛下即位の礼が国事行為として行われるとされておりますが、学校ではこの即位の礼について、この指導要領に言う「天皇についての理解敬愛の念を深めるように」、このためにどのように教えていかれる方針でございましょうか、お伺いしたいと思います。
  30. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 この問題につきましては、現在、政府として即位の礼に関する諸課題について協議を行っているところであると承知しております。したがいまして、その結果を踏まえまして文部省としても適切に対応していきたい、このように考えております。
  31. 鴻池祥肇

    鴻池委員 即位の礼とともに大嘗祭が公的な儀式としてとり行われると言われておりますけれども、公的な儀式として行われるのでありましたらこの大嘗祭につきましても教育が無関心であってはならないと私は思います。またこれは日本文化、伝統、日本民族の稲の文化と申しますか、こういった本質とも随分かかわり合いのある儀式でございますので、その意味では歴史に関する学習とも関連するものであります。文部省といたしましては、積極的にその意義を子供たち指導してしかるべきだと存じますけれども、このあたりはいかがでございましょうか。
  32. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 この件につきましては、先ほど申し上げましたが、即位礼準備委員会政府に設置されておりまして目下検討中ということでございますので、その検討結果を見まして教育的にも遺憾のないように十分指導していきたいと思っております。
  33. 鴻池祥肇

    鴻池委員 天皇、御皇室につきましては理解敬愛の念を深めるようにする、このためには即位の礼、大嘗祭に関する指導及びいろいろな奉祝事業というのは大変意義あろうかと私は思います。厚生省の方は、この即位の礼に当たって奉祝事業を行うと大臣が言われたようでございますけれども文部省として何かお考えでありましょうか。もしおありでございましたらお教えをいただきたいと思います。
  34. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 繰り返しで恐縮でございますが、政府対応方針が決まりましてから私どもも適切に対応していきたいということでございます。
  35. 鴻池祥肇

    鴻池委員 ありがとうございました。時間が参りましたので、終わります。
  36. 鳩山邦夫

    鳩山委員長 次に、渡海紀三朗君。
  37. 渡海紀三朗

    渡海委員 質問をさせていただきます前に、先ほど鴻池委員お話ししたことでございますけれども、「幼児教育考え昭和二桁の会」、私も鴻池委員同様、今この問題について一生懸命努力をさせていただいておるところでございます。今後社会の変化、私が申し上げております社会の変化というのは、これから女性がどんどん社会に出ていかれる、既に随分そういう傾向があらわれているわけであります。そういうことを考えますと、先ほど大臣からも積極的な御答弁をいただいたわけでありますが、この問題について、文部省の方においても今後ぜひともそういった対応お願いしたいということを要望させていただきたいと思います。  さて、質問に移らせていただきますけれども石橋文部大臣が就任されましてから初めて質問をさせていただく機会でございますので、まず大臣にお伺いをいたしたいと思います。  失礼だとは思いましたが、大臣の経歴を見せていただきました。それによりますと昭和五十五年、五十六年にかけては文部政務次官、そして昭和五十六年から五十八年にかけて二期にわたりまして我が党の文教部会長も経験をされておるわけであります。また、六十一年には、これも同じく我が党の文教制度調査会長、文教関係の役職が非常に目にとまったわけであります。  このような大臣でございますから、今回文部大臣に就任をされまして、これまでもいろいろと文部政策、文教政策に御努力をいただいたわけでありますけれども大臣として在任中に、石橋の時代においてはぜひこれだけは実現をしたいといいますか、たとえ実現に至らなくてもその道筋だけを何とかつけておきたい、こんなことをお考えではないか、私、そのように勝手に想像をいたしておるわけでありますけれども、いかがでございましょうか、お答えをいただきたいと思います。
  38. 石橋大吉

    石橋国務大臣 お答えをいたします。  お褒めの言葉をいただき汗顔の至りでございます。ただ、私は国会に籍を置かせていただきまして以来、主に歩いた道は御指摘のとおり文教、人づくりのことと、それと政調関係の副会長でありますとか政調会長代理でありますとか、そんなことをずっとやってまいりましたが、それ以前の二十八年間というものが地方自治の仕事だけに、ほかには一切横道をしないでそれだけに専念をしてまいりました。  したがって、その考え方のもとは、やはりふるさとがよくならなければ日本の国がよくなるはずがない、そのまたもとは、生意気なことを言うようですが、やはりそれぞれの指導者を立派につくり上げることだという考え方が私の基調であったわけです。したがって、文教のことをやらせていただいておりますが、専門家ではありません。専門家では全然ないわけであります。ただ、人づくりというものが一番大事だなということでお手伝いをさせていただいているだけでございます。  そこで、大臣になってこれをということでありますが、これだけはということでありますが、これは私いつも申し上げあるいは物にも書いておりますが、いろいろ考えてみても、結局人格の完成を目指すものが教育であるならば、心の問題、心というものを素直に、そしてまた開かれていくような人々をつくること、そのような方々を養成することが一番大事だなということでお話はいたしておりますけれども、なかなかもってこの文教政策というのは一年や二年や三年や五年では、これは直りません。新しいものを打ち立てていくということそのものが一つの大臣ポストではでき得ない、こう私は考えております。  そこで、心というものを花開かせるにはさてなと考えましたのが、芸術、文化の問題です。まさに今、地方に行きましても都会に行きましても、大変な芸術待望論、そしてまた、みずからも絵をかいたり書を書いたりと非常にようけになったのですね。これは短い任期の中においても、何とかこうというものに視点を置いてやっていく教育行政の中で、芸術、文化というものは、これは金目のことさえ何とかなればそこに一つの土台を据えることができるであろうなということで、今、芸術文化振興基金をきちっとつくり上げたい、こんな考え方でおります。
  39. 渡海紀三朗

    渡海委員 大臣のふるさとに対する思い、私も大臣地方行政常任委員長時代に理事として御指導をいただきまして、そのときに随分勉強させていただいたわけでありますけれども、今後とも、そのまた基礎になる人づくりの問題について大いに積極的に御尽力をいただきますようにお願いを申し上げる次第でございます。  次の質問に移りたいと思うわけでありますが、三十分という非常に限られた時間でございますので、文教行政のうちでも少し焦点を絞って、きょうは文教行政における社会の変化への対応、とりわけ国際化への対応ということにテーマを絞りまして時間の許す限り質問をさせていただきたいと思います。  御承知のように、今日の我が国の国際化、これは非常に急速に進展をいたしておるわけでありますし、海外との交流、これは国と国との交流もそうでありますが、人と人との交流も大変盛んになってきておるわけでございます。こういった観点から考えますと、学校教育におきましても、そういった視点から、国際社会の中で通用するといいますか尊敬されるといいますか、そういった日本人を育成するという観点に立った教育が強く望まれているところであろうと思います。  諸外国の生活や文化理解し、そして同時に尊重しながら、それでいてお互いに相互理解といいますか、そういったことを図っていくことが大変重要であると考えておるわけでございますけれども、この国際化への対応について大臣の御所見をお伺いしたいと思いますし、同時にまた学習指導要領、さまざまな点で改善がなされているわけでございますが、その中で具体的にどのような対応がなされているのかということについてお答えをいただきたいと思います。
  40. 石橋大吉

    石橋国務大臣 お答えいたします。  国際化、まことに結構なことだと思います。要は、垣根の高さがだんだん低くなってお隣の庭も見えるようになっていく。そこに当然対応すべきことが生まれてくる。でもまた、その庭にある、片方はバラが咲いている、片方はチューリップが咲いている。それがそれぞれの民族あるいは一人一人の個性である、こんな考え方であります。  そこで、特に今回の指導要領の改訂に当たりましては、この三月に公示した新指導要領、情報化、国際化など社会の変化に主体的に対応していく資質を養うという観点から改訂をいたしたわけでございます。自国の文化や伝統、歴史をしっかりと身につけること、バラ論、チューリップ論です。その上で他国の文化や伝統、歴史を知り、尊重することが必要だ、これも今申し上げたお隣の垣根が低くなってバラやチューリップが見えるということでございます。  この観点に立って、今回の改訂におきましては、古典学習など我が国の文化と伝統の尊重、これは具体的なことです。そして、国旗国歌指導の充実、さらには歴史教育の重視、外国語教育の充実、こうしたものを主として取り上げて新指導要領の改訂を行ったわけでございます。
  41. 渡海紀三朗

    渡海委員 今お答えをいただいたわけでありますが、国旗国歌の問題は先ほども同僚の鴻池委員質問をしていたようでございますので、私は、今のお答えの中で一つ歴史教育の問題について御質問をさせていただきたいと思います。  国際化時代の中で地球的規模、グローバルな視野とでもいいますか、そういった視野を育てるという観点から世界歴史を勉強するということは非常に大事である、私もそのように考えておるところでございますけれども、同時に、大臣も自国の古典文化というお話もされました。やはり、まず自分の国の歴史を我々は日本人としてしっかりと身につけなければいけない。私の高校時代の印象を振り返ってみましても、これは私が余り一生懸命勉強しなかったからということもあるかもしれませんけれども、我々の時代の教育というのは、余り日本歴史について教育の制度そのものも充実をしていなかったのではないかなというふうに私自身はいつも疑問を感じているわけであります。  今回、そういうような観点に立って、社会科教育の中で地歴、公民というような形で新たな教育方針も出されたわけでございますけれども、この歴史教育、特に日本史の教育の充実を図るという上で現在具体的にどのような方策、どのようなお取り組みをされているのか。また、こういったことに関する御所見がございましたらお伺いをいたしたいと思います。
  42. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 御指摘のように、歴史教育は大変重要だと思っております。  そこで、今回の新しい学習指導要領でも歴史教育の充実を図っているわけでございますが、まず小学校歴史教育では、政治経済史的なものを中心にした通史に流れないように、子供たちの発達段階を考えまして本当に子供が興味や関心を持ってそれが学べるように、歴史上の人物とか歴史上の文化遺産を中心にして歴史学習を徹底していくということを一層重視しております。ですから、指導事項が網羅的になったりしないように指導事項も焦点化を図るというようなことをしております。これらはもちろん日本史です。  その小学校段階の日本教育の上に立ちまして、今度は、中学校ではもう少し目を世界に広げまして我が国の歴史をしっかりやるわけでございますが、世界歴史を背景にして世界の中の日本という視点から中学校では日本学習を重視する、そういう構成になっております。  そして、高等学校になりましては、小学校、中学校日本教育の上に立ちまして、今度はより専門的な歴史教育をやろうということで、今回社会科の再編成ということで従来社会科一本になっておりましたのを再編成いたしまして地理歴史科と公民料に分けたわけでございます。ですから、歴史教育自体も専門性が深まるということであろうと思います。ただ、小中で日本史をやってきているものですから、これだけ国際化が進みますとどうしても世界史の知識が必要だということで、高等学校では世界史を必修にしております。なるべく日本史も選んでいただくように指導したいと思いますけれども日本史は選択ということになっております。  いずれにしましても、小中高を通じましてバランスのとれた歴史教育が行われますように一層力を尽くしていきたいと思っております。
  43. 渡海紀三朗

    渡海委員 繰り返して申し上げますけれども、私がいろいろ経験をした中でも、大臣御存じですが、地方行政委員会でもう三年前になりますか、東欧を視察をいたしましたときに、ユーゴスラビアへ参ったときのことを私は今思い出しておるわけでありますが、当時ユーゴスラビアの軍事博物館だったと思うのですが、その博物館に過去の歴史を一堂に会して、戦争はもちろんよくないことであります、しかしながらユーゴという国は、こういった歴史の中で現在、民族の独立をかち得たんだということを本当にわかりやすく展示をされておったわけであります。そして、説明員といいますか、その説明をしてくれた、言葉は悪いのですが、おばさんが、本当に自国の歴史に誇りを持って、みずからが戦ってかち得た自分の国の自立、独立というものを誇らしげに我々に説明してくれたことを今印象深く思い出すわけであります。  やはり国際社会の中で我々がまず日本人として、日本人としての自覚といいますか、そういった自覚をしっかり持つことが世界の国々に対して我が日本人が尊敬をされるということの最も重要なポイントであるというふうに考えますので、伝統、文化の問題ももちろんでございますけれども、今後ともこの日本史の問題についても十分積極的なお取り組みをいただきたいと要望を申し上げる次第でございます。  もう一点、先ほどの御意見に関連して、外国語教育についてお伺いをいたしたいと思います。  国際化時代を迎えるに当たって経済摩擦、文化摩擦、いろいろなことが言われているわけでありますが、先ほども申し上げましたように、国と国との交流というのは要は人と人との触れ合いであり、交流であります。そういったことを考えましたときに、これは言葉もろくに通じないということでは言うまでもなく十分なコミュニケーションを図るというわけにいかないわけでございます。  従来、我が国の語学教育というのは、我々もそうですが、どうしても読むこと、書くこと、こういうことに主眼が置かれまして、実用的なといいますか、生きた教育がなされていなかった。そういう反省点に立っていろいろな改善が現在もなされてきているわけでございますけれども、これまでのそういった状況の中での具体的な進捗状況、また今後の問題点、課題といいますか、そういった点についてお答えをいただきたいと思います。
  44. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 御指摘のように、外国語教育はこれからの国際化の中で大変重要になってまいると思います。我が国の英語教育は、先生が今御指摘ありましたように、読むこと、書くことにどうしても重点が置かれて、聞くこと、話すことにはどうも弱いというのは御指摘のとおりだろうと思います。  そこで、コミュニケーション能力としての外国語教育を重視しようということでいろいろこれまでも工夫してきたわけでございますが、今回の学習指導要領では、例えば高等学校の科目を従来の英語と言わずにオーラル・コミュニケーションAとかオーラル・コミュニケーションBというような、こういう聞くこと、話すことに重点を置いた科目を設けたりしておりますし、それから、この聞くこと、話すことにはやはり教育機器の活用ということも重要でございますので、これは昭和五十年代から既にやっていることでございますけれども、各学校にLLとかアナライザーの機器を整備するというようなこともしております。  それから、これは昭和六十二年からでございますか、自治省、外務省と文部省と共同いたしまして外国の青年、ネーティブスピーカーを招きまして、各学校で実際上のそういうプラクティカルな教育をしていただくということで呼んでおりますが、ことしは千八百九十四人になっております。そのほか、今いる日本人の英語の先生を、聞くこと、話すことができるようになるために外国に送りまして海外で研修をしていただく、こんなプログラムを実施しているところでございます。
  45. 渡海紀三朗

    渡海委員 今お答えをいただきました英語教師の招致の件に関してでございます。  これは同僚の杉浦委員が予算委員会で文部大臣質問をしたようでございますけれども、私も委員の意見に全く同感でございます。当時、杉浦委員お話をいたしましたように、私もそのときに実は同行をいたしておりまして、フィリピンの大使館でネーティブスピーカー、ネーティブスピーカーということで、現在の招致事業というのは欧米を中心といいますか、そういったことになっているようでございますし、文部省の資料を見せていただいてもネーティブスピーカーから直接語学指導とはっきり書いてあるわけでございますけれども、アジアのこういった国でも既に母国語が英語であるもしくは英語に近い、公用語として英語を用いている、しかも幼児教育の非常に初期の段階から英語で教育をしているという国もたくさん出てきているわけであります。  そしてこれは外交という観点からとりましても、今、日本は援助大国になりましてこういった発展途上国に対して多大な援助をしているわけでありますけれども、やはり相互理解、相互信頼ということを考えた場合に、我々がそういった国からも学ぶことがあれば積極的に我々も学ぶんだ、そういったことが相互理解を進めていく上で非常に重要なことではないかなと私は思っておるわけでございます。  ですから、これは既にお答えになっておる、ここにこの資料もございますけれども見解はお聞きをしているわけでございますけれども、今後そういったことについてぜひとも積極的に文部省の方としてもお取り組みをいただきたいということをこの機会に御要望を申し上げておきたいと思います。  もう時間が余りないわけでありますが、次の質問に移りたいと思います。  国際化への対応ということで主に我が国における教育ということを今御質問を申し上げたわけでありますが、国際化ということを考えた場合に、文教政策としては単に我が国、日本人を教育するということだけではなくて海外からの留学生の問題も広い意味ではやはり国際化への対応でないかというふうに考える次第であります。かつて日中国交回復の中で重要な役割を果たした周恩来首相、また戦後の日本、当時、分割統治という話があったそうでありますが、そういったことに反対をして、そして現代の統一された日本といいますか、この形を救ったというか、そういうのを主張したのが前台湾総統の蒋介石である、この二人はいずれも御案内のように日本への留学生でございます。日本文化に対する理解また日本の社会のいろいろな仕組みに対する理解が深いことがこういった我が国の歴史で非常に大きな役割も果たしたというふうに考えるわけでございます。  そういった観点から考えますと、今後この留学生の問題についても、現在も非常に積極的にお取り組みをいただいておるわけでございますけれども、ますますその重要度が増してくるのではないかと考えているわけでございますが、現在の状況なり、そして今後の見通しなりについてお答えをいただきたいと思います。
  46. 川村恒明

    ○川村政府委員 御指摘をいただきましたとおり、留学生の受け入れというのは我が国のこれからの国際化考える際の非常に大きな施策の柱でございます。現在、留学生の受け入れにつきましては通常十万人計画ということを申しております。二十一世紀の初頭に留学生を十万人受け入れるということを政策の目標にしたいということでございます。  現在の状況は、昨年の五月一日現在でございますけれども、我が国におります留学生の数が大体二万五千人ということでございます。その多くはいわゆる私費の留学生でございまして、大ざっぱに申しますと私費の留学生が約八割、それから国費が一五%ぐらい、残りはそれぞれの相手国政府が経費を持って負担をする政府派遣の留学生、大ざっぱに言ってこの三つぐらいに分かれておりまして、最近留学生はおかげさまで年々増高の傾向をたどっておる。伸び率で申せば、この過去五年ぐらいをとりますと年平均大体一五%ないし二〇%ぐらいの割合でこれがふえている、こんな状況でございます。
  47. 渡海紀三朗

    渡海委員 従来から留学生の問題について私も非常に関心を持ちましていろいろと勉強をさせていただいておるところでございますが、その中でよく承る話は、先ほど私費留学生の割合が非常に多いという話があったわけでございますが、海外で、日本に行きたいんだけれども日本は余り奨学金制度が充実をしていない、こういう話をまずよく聞くわけでございまして、この点についてどういうふうにとらえておられるか、この点をまずお伺いをいたしたいと思います。  同時に、やはり日本に来るときに一番障害になるのは、これは正しいのかどうかわかりませんけれども日本語というのは特殊な言葉でございますから、そういった意味では言葉の問題が非常に問題なんだということがございます。私も、ちょうど昨年の今ごろでございましたけれども、これは経済協力の視察ということでマラヤ大学の日本語センターの視察をさせていただきました。日本語で大変高度な教育がされているその姿を見せていただいたわけであります。こういうことを考えますと、日本に受け入れてからいろいろと日本語の教育をするということも非常に重要でありますけれども、同時にこういった海外における日本教育のセンターというものをより充実をさせる必要があるのではないか、そういうふうに考えるわけでありますが、この件についてお答えをいただきたいと思います。  ついでにと申しましても時間がもうございませんけれども日本の留学生、この制度に対してアフターケアが非常に不親切であるという意見をよく聞きます。米国などの場合は、留学生がその国へ帰ってからもアメリカの方からいろいろな働きかけがある、場合によっては研究費の援助なんかも行われているというふうに聞くわけでございまして、この以上三点について時間の許す限りお答えをいただきたいと思います。
  48. 川村恒明

    ○川村政府委員 三点ほどのお尋ねでございますが、最初の奨学金の問題、大変的確な御指摘をいただいたわけでございます。先ほど申し上げましたように、留学生の八割が私費の留学生というようなことがございますし、最近特に円高の傾向というものがずっと続いておった関係で、そういう点で奨学金に対する要望が非常に強いということでございます。  そこで、私どもといたしましては、この問題に対応するために私費留学生に対する本格的な育英奨学制度として学習奨励費制度というものを大幅に拡充をしていくということで取り組んでいるわけでございます。考え方としては、成績が優秀で、かつ経済的に困難のある者につきましては日本国内で日本育英会がやっておりますような形と同じような形でこの学習奨励費制度というものを充実をしていきたいということでございます。予算的には、平成元年度予算でそれまで五百人を対象としたものを一挙に二千五百人、五倍増にするというようなことで力を入れているわけでございますけれども、今後ともなおその充実に努力をしてまいりたいと思っております。  それから、二番目の海外での日本語の問題でございますが、御視察をいただきましたマラヤ大学、これはマレーシア政府の要請でマレーシア政府派遣の留学生の予備教育をやっているわけでございます。このような形はマレーシアのほかに中国でもやっておりまして、中国から来る政府派遣の留学生につきまして事前の予備教育をやっておりまして、これはただいま御指摘をいただきましたように大変好評でございます。やはり日本に来る前にそういうきちんとした日本語を含む予備教育をしておくということがあらゆる面で効果的であろうということでございまして、現在、海外では日本語自体に対する学習の要望も強まっておりますが、御指摘のような形での留学予備教育の拡充ということについて私どももこれから努力をしていきたいというふうに思っております。  それから、最後のアフターケアの問題もまた大変的確な御指摘をいただいたわけでございまして、私どももそれなりに、帰った留学生に対してそれぞれの大学から学会誌等を送るとか、あるいは一定期間を置きますとまた日本に来てもらう、短期の研修でもう一度来ていただくとか、そんないろいろなアフターケアの方策を大学なり、それから日本国教育協会を通じて実施をしております。けれども、もう少しそういうものを手厚くしなければならない。外務省とも御相談をして、現地では在外公館の方で留学生の名簿をつくったり、留学生会館をつくるときの援助をしたりということもございますが、やはり日本の出身大学との定期的なパイプづくりということを今後とも努力してまいりたいというふうに思っております。
  49. 渡海紀三朗

    渡海委員 少し時間が長くなりまして申しわけありません。  以上で質問を終わりたいと思います。どうもありがとうございました。
  50. 鳩山邦夫

    鳩山委員長 次に、嶋崎譲君。
  51. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 入学試験の時期がいよいよ参りましたので、来年度の、来春の大学入試の現状と大学入試問題について改めて議論をさせていただきたいと思います。  最初にお伺いしますが、大学入試制度、大学の入試の方式の決定はどこが行うのですか。
  52. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 お答えいたします。  大学入試の方法、内容等を最終的に決定するのはそれぞれ各大学でございます。
  53. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 各大学の意向を反映して国立大学協会が例年、次の年の大学入試について一定の方向づけをしてきたという経過がありますが、その場合の各大学の最終決定の判断と誘導するという、誘導するというのか次の年に向かって大体前の年の五、六月ごろに入試の方向づけをやりますね、それとの関係で、今日の大学内部での世論が国大協などを経由して忠実に反映しているのだろうかという気がいたしますが、いい悪いの判断は別として、どうも国大協と各大学の判断との間に、形式的な決定は常に一致していますけれども、運営ないし入学試験のあり方などについてはかなり御議論があるのではないかと思いますが、いかがですか。
  54. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 国大協は、御承知のとおりに各大学の学長が集まっておるわけでございますけれども、私どもが承知しているところでは、学長が入試の問題について議論をする場合には、それぞれの大学の大まかなコンセンサスを得て、そしてその大学の意見を持って国大協の総会に臨んでおるというふうに私ども理解をいたしております。  事実、分離分割の問題、連続方式から分離分割に移行するというようなときも、かなりそれぞれの大学で議論があって、そしてその大学の決定を持ち寄って国大協の最終決定に臨んでおるというふうに私ども理解いたしておりますが、個々の大学が議論の過程の中でいろいろな議論があったということについてはつまびらかには承知いたしてはおりません。
  55. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 大学入試というのは、本来大学固有の事務ですから、大学が判断し最終決定を出していくわけですが、この大学入試問題について文部大臣並びに文部省はどのような関与の仕方をしてまいりましたか。
  56. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 私どもとしましては、基本的な立場は、現在の法制のもとでは大学入試に関して大学に対して指導助言をする立場でございます。したがいまして、例えば臨時教育審議会等である種の提言が行われて入試に関する提言が行われた場合に、それを具体化する場合に、どういう段取りで行うかというような場合には、例えば大学入試改善協議会というような形の協議会を設けまして関係者、言いかえれば国公立、私立あるいは高等学校関係者の方々にお集まりいただきまして、そこでいろいろ御議論をしていただいて、その結論をいただいた後に私ども指導助言と申し上げますか、そういう動きをしてきているわけでございます。  別にまた、大きな大学入試のあり方を検討するということのほかに、例えば大学入試改善会議というものを私ども関係者の協力を得て設けておりますが、これは私ども指導助言の一環として毎年度各国公私立大学で行う入試選抜のやり方、あるいは時期等につきまして入試選抜実施要項という要項を決めておりますが、この要項を具体的に決める場合にその入試改善会議の結論を得て決めておるというのが実情でございます。  さらには、大学入試問題というのは単に大学の教育、大学に入学する人の問題だけにとどまらず、高等学校以下の教育にも影響を及ぼす、日本教育全体に影響を及ぼすというようなこともございまして、広い観点からやや中長期的にいろいろ勉強しなければいけないだろうというようなこともございまして、先生御承知の大学審議会という審議会が文部省の中にございますが、その審議会でもやや中長期的な観点でいろいろと御検討をいただいておるということでございます。
  57. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 大学審議会とか中教審等、文部省とか大学入試に関連する問題は一番最後に今後の対応のところでまたまとめてやることにします。  今の局長の御説明で、文部大臣並びに文部省は大学入試について指導助言ということの権限を持っているという、この点は今後の議論に際して文部省側の対応などについての一つの重要なかかわり方になると理解をいたしまして、問題の中身に入っていこうと思います。  さて、来春の大学入試は今までの共通一次と言われてきたようなテストの方式から新テストという言葉が一時使われ、来年度は大学入試センター試験というふうに変わるというふうに理解してよろしいですね。
  58. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 そのとおりでございます。
  59. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 大学入試センター試験に改めるが、何をどのように改めたからそう呼んだのですか。
  60. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 もう御説明するまでもないことでございますが、共通一次試験というのは国公立大学が共通で一次試験を実施するということでスタートして、平成元年度まで行われたものでございます。  大学入試センター試験というのは、単に国公立だけではなくて、私学を含めて共通試験を実施するということが共通一次試験と違う第一番目の点でございます。  それから、これは形式的な問題よりもむしろ実質的な問題と言えるかもしれませんが、共通一次試験は、原則として各国立大学あるいは公立大学の申し合わせで五教科を各大学が行うという考え方でございましたけれども、大学入試センター試験につきましては、各大学がどのような科目・教科を実施するかということは原則としては各大学の判断に任せるということでございまして、それが二番目の違いかというふうに理解いたしております。
  61. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 そこで、今までと同じように全国共通のテスト、第一回をやって、そして第二次、それぞれ各大学の試験に入るという意味では今までと同じだと思いますけれども、来年度、来春の入試に際して、ここ数年非常に入試制度が変わってきているために、入試制度というか大学の受験の仕方、選択の仕方などについての仕組みが変化してきているために、幾つか戸惑った経過があったと思いますけれども、来春の場合にどんな傾向が特徴ですか。
  62. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 まず、大枠と申しますか、人数全体の問題で申し上げますと、大学入試センター試験の受験者が四十三万人という受験希望者になっておりまして、これは今までで一番人数の多い受験数でございます。ただし、これは国公立大学へ進学志望者がふえたという数字ではございますけれども、十八歳人口、高等学校卒業生も同時にふえておるということもございまして四十三万人の受験者がおるということが第一点でございます。  それから、先ほど申し上げましたとおり、入試センター試験になりまして私学もこれを利用するという道が開かれたわけでございますが、私立学校の参加数が十六大学十九学部ということが第二点でございます。大体、大枠としてはそういうような傾向ではないかというふうに思っております。
  63. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 その第一点の、受験者は上昇しているということですけれども、倍率でいきますと去年もことしもそんなにふえてませんね。つまり、収容に対して受験者というふうに見れば倍率は三・数%、ちょっと下がっているくらいの割合じゃなかったかと思いますね。あれは共通一次をやっていたおととし、昭和六十一年ぐらいまでの倍率はどのぐらいでしたか。六十年前後ぐらいまでだな。――いいや、それは後で……。最近の傾向として、国立大学から私立大学の方向に移っていく志望者が全体的にふえていく傾向が強くなっておりますから、倍率は下がっていると私は見ているのですが、数字はいいです。  今局長は二つの点を言われましたが、もう一つ大きな特徴は、私の見る限り、連続の方式と分離分割という方式を昨年度から実施したわけですね。その場合に、分離分割とA、Bのグループ分けのいわば仕組みの中でどんな傾向が出ていますか。
  64. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 お答えいたします。  分離分割方式をとっておりましたのは、前年度、言いかえれば平成元年度入学者の場合には九大学四十四学部でございますが、来年度は四十大学百五十八学部にふえております。したがいまして、連続方式をとる大学が昨年度A日程が六十八大学百八十七学部、B日程が七十三大学二百十三学部でございましたが、A日程六十六大学百五十二学部、B日程五十五大学百四十一学部というように連続方式をとる大学が減りまして、その分、分離分割方式がふえているということでございます。
  65. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 つまり、分離分割が行われたことによって、去年に比べて大体四倍ですね。分離分割を選んだ大学は、去年に比べて四倍ぐらいふえているというふうに判断していいと思います。  同時に、前回のBグループに属していた大学がこぞってだあっとAグループに流れていったというのが、またこれは非常に重要な来年度の受験に当たっての特徴だと思います。なぜそうなったと思いますか。
  66. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 必ずしもその辺の理由というのは私どももつまびらかにはしてないわけでございますが、連続方式でA日程にシフトした大学というのは、なるたけ早くいい学生を確保したいというお気持ちが強かったんじゃなかろうかと思っております。  ただ、ちなみに分離分割方式とA日程、前期日程の、言いかえれば前半、後半に分かれる学生数の比率というのは、平成二年度の場合は五・四対四・六、言いかえれば前半の方に試験を行うのが五四%、後半が四六%でございます。平成元年度の場合は八八%対一二%ということで、人数だけで見れば全体として半々ぐらいが前半、あるいは半分が後半というような数字になっております。
  67. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 これは要するに複数受験、複数の機会を与えるという判断が、かつての共通一次当時と違ってA、Bに分かれたり、分離分割というような形になって、今度は分離分割とA、Bグループに分類しますと、Cグループは別としまして大体三回のチャンスがあるわけですね。Aの最初の日程、Bグループ、それから分離分割の後期という、それは行き方はそれぞれ願書の届け出の仕組みが違いますから、流れはイコールになりませんけれどもね。そういう形をとったのは、結局受験機会の複数化ということが問題になったからではありませんか。
  68. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 いずれにしましても、連続方式、六十二年にスタートし、それから元年度から分離分割も導入されたわけですが、その導入した理由というのは、先生指摘のとおり複数受験を可能にするということからでございます。
  69. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 そこで、経過を見ますと、私の調べたのが正しいかどうかちょっと確認しますが、最初に国大協がかつての共通一次テスト当時に比べて複数化問題というのを決定したのは昭和六十一年五月二十三日の国大協総会、こういうふうに私は理解しております。この昭和六十一年五月二十三日の国大協総会で国立大学の受験の複数化を六十二年度から実施するという方針を決めたのですが、そこでA、Bの二つのグループ分けの実施要領というものを決めた。これが六十一年の五月なんですが、その前にそれと前後して、その一年前ですが、やはり臨教審の中で共通テストが問題になりまして、それで六十年の臨教審の第一次答申で受験機会の複数化という提言が出てきている。それを受けて、一年後に国大協が六十二年度から複数化をやるという方針を決めた。これが第一の経過、スタートはここからではないか。そういう意味で、昭和六十年、六十一年の時期に変化があらわれた。  複数化によって、これをやったものですから、たしか六十二年のときですか、先に出願をやって、そして共通一次をやって二次試験をやるという仕組みをとった。ところが、これはいかぬというので、六十三年になって今度は前段の共通一次をやってから出願の手続をとるというふうに変更したのが、これは六十二年だったと思います。その六十二年の段階でAグループ、Bグループ、それからC日程グループという大体三つのグループ分けというものが決まった。このときに足切りが問題になりまして、足切りが相当出たんじゃなかったですか。あれは十万人くらいだった。だから、たしか六十二年の大学入試で足切り十万人が社会問題になりました。ここで、共通一次のあり方というものが再び問われてきたわけであります。  しかし、片一方、受験の複数化ということでA、B、C――Cはまあ、あとのA、Bが重立ったところですが、分ければ三つになった。そして、今度は、六十二年度が問題になって、六十二年に国大協が、これは十一月十二日ですか、六十四年度はA、Bグループ、分割方式併用の方針というものを確認していますね、平成元年の試験はそれでいこうと。そして、六十四年、去年はAグループが五十大学百五十学部、Bグループが五十二大学百六十八学部、分割方式が九大学四十四だったのです。したがって、六十四年、平成元年でこのいわゆる複数化というものの三回チャンスの仕組みがここで具体化した、Cを入れれば四回になりますけれどもね。そして、今年度は、分離分割が昨年度の場合にはさっきおっしゃったように九大学四十四学部だったのに対して、今度は三十八大学百五十二学部に変わったということです。  したがって、今までのこの経過は、六十年の臨教審の第一次答申、それで国大協がそれを受けて複数化の方針を決め、その複数化がA、BからA、Bプラス分割というふうに変わって、そして私立大学が参加していくという仕組みに変化してきた、こういうふうに理解してよろしいですね。
  70. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 先生指摘のとおりでございます。  ただ、Cグループというのは公立大学が主でございます。
  71. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 こういう形をとったことによって、来年度の入試にあらわれる受験者の傾向にどんな特徴が出ると思いますか。
  72. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 ちょっとにわかに私どもも予測が立たないわけでございますが、分離分割方式というのが九大学から四十大学、先ほど先生、三十八大学とおっしゃいましたが、私どもの四十大学というのは公立大学も含めておりますので、国立だけですと三十八大学でございますが、ふえておりますので、受験の複数化というのが、ほかの大学を受けるという形の人ももちろん複数でございますが、むしろ、ある大学にどうしても入りたい、その大学を分離分割の場合には前期も受けるし後期も受けるというような人たちがかなりふえていくのではないか。新しい傾向としてはそういう傾向があらわれるのじゃないかというふうに予想しておりますが、全体の受験生の動きとしてどういうダイナミックな動きをするのかというのは私どもちょっと、恐縮でございますが、予測が立たないところでございます。
  73. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 大学の受験産業は早く早く手を打って各高等学校にいろいろな情報を提供します。そういうところの分析によると、非常に特徴になるのが私大の志望者がふえてくるということ。つまり、国立の方は、ある意味では回数は二回のチャンスがある。例えば前期で落っこちても、後期は少ないけれどももう一遍受けられるというようなことがあるにしても、分割方式の二度目の大体一〇%程度とる大学というのは非常に難しい試験になると僕は思うのです。ですから、それだけに第一段階で入れない人で第二段階でというときには、もっと倍率が激しい中で出てきますから、例えば私立大学のトップクラスぐらいをねらっている人が今度は東京や京都やいわゆるそういうかつての大きい大学の後期の方に、こっちも受けてみようかというような形で受ける場合も僕はあり得ると思うのです。  いずれにしても、受験産業全体の予測は、こんなふうにAにどんと、かつてA、Bでパラレルだったものが、Bグループだった大学がだっとAグループに入っていく、早くいい生徒をとりたい、こうなるわけですね。Bグループに残っているという大学、それから分割方式で前半に少なくて後半に多い大学もあれば、前半に多くて後半に少ないのもある。大変複雑な構造ですね。こういう複雑な構造なるがゆえに、しかも今度は共通一次五教科全部すぱんととって全体の平均でいくというような話じゃなくて、それぞれの大学に応じて、おれのところは共通一次ではこのうちでここに力点が置かれるよとか、おれのところは共通一次の中でここに力点を置くよというような、今度新たな大学における共通一次テストの選別枠とでもいいますか、そんなものを提起してくるわけですから、受験者は、さて自分が志望していく場合に、Aを受ける、自分の一般的な能力だけでAで一発で決まればいいけれども、決まらぬ場合はBを選ばなければならぬ。また同時に、Aで決まらない人がAの分割方式のところに、二回目は物すごい競争になりますから、これは難しいなと判断をするわけですね。  そうしますと、受験者の側から言うと複雑怪奇になった試験の仕組みというのは、どうしても私立の方に流れるという傾向がふえるであろうという予測をするのと同時に、今度は私立大学の方もレベルが高くなる。というのは共通一次に参加する大学が出てきておりますし、同時に全体として私立に流れる傾向が出てくればそこでまた競争が激化しますから、私立の方がいい学生が集まるかもしれないが、受験者が非常に多くなって競争が激化する、倍率が非常に高くなる、こういう予測を立てているわけですが、私も大体そんな傾向になるんじゃないかなというふうに見ております。  確かに最近ハイテクブームで理工系は試験が難しくなってきていますから、理工系よりも財テクブームの方に動いて法系、文科系に動いていくという傾向もこれまた一方に出てきております。ですから、そういういわば社会全体の変化、そして将来自分の生涯の職業選択というものを考えたときに、社会の変化もあり、そして与えられた今の新テストと大学の選択の複数化に伴う、僕は複数化に伴うことから始まっていると思うのですけれども、この複雑な構造が受験者にとっては大変な新しい悩みになっているのではないかというふうに想定しますが、いかがですか。
  74. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 先生の今の御指摘が予備校の予想ということでございまして、全体の傾向としてはよく理解ができます。ただ、それともう一つは、先ほど申し上げました共通一次試験と違って大学入試センター試験というのが各大学で、例えば五教科が原則であったものがある程度自由に教科数を選択できるという道を開いたわけでございますので、国立大学などでも四教科でもいい、あるいは三教科でもいいという大学も出てきております。  そうなりますと、おのずから文科系で三教科というふうになりますと、私学が大体三教科ですが、私学の三教科と大体教科・科目数はダブるというようなこともございまして、国立大学も受けられるし、かつまた私学を受ける場合も教科・科目数が違わないので受けられるというような受験層がふえてまいりますので、確かに先生指摘のとおりに、私学と国立を両方同じような条件で受けられる人が多くなりますので、私学にかなりの人が流れていくと申しますか、受験する人もふえていくだろうという気もいたします。
  75. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 とにかくですね、六十三年から平成元年ですか、この傾向は東大と京大の競争だったということは認めますか。
  76. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 東大と京大の競争ということになるかどうかは別といたしまして、六十二年度にA日程、B日程という分け方をいたしました。ところがたまたま、これは学部によって違いますけれども、東大と京大がA日程、B日程に分かれておった。その結果、両方受けられて京都大学と東大を選択する場合、もちろん、両方受かって京都大学を選択した人もおりますし、東大を選択した人もいるのですが、東大を選択した人の方が圧倒的に多かったというようなこともございまして、京都大学が御承知のように学内でいろいろ議論がございまして平成元年度から分離分割方式を導入した。そういう経緯を見ますと、京都大学としては東大に負けずに優秀な学生を確保したいという気持ちが働いておったのは事実であろうかと思います。
  77. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 要するに、京都大学が分離分割やって、そして平成元年度には東大よりもより点数の高い人が行っちゃった。そこで東大は、ことしはこれはいかぬというわけでAグループに入り、同時に分離分割をやって、以後方針を決めた瞬間にだあっと全国に波及しまして分離分割というのが急激にふえたきっかけになり、同時に、早くやっていい学生をとりたいというのでだあっとB日程からA日程に移ってしまった。これが事の真相だと私は理解しますが、どうですか。
  78. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 国立大学の大学人の立場からの気持ちをおもんぱかるとそういうようなことじゃなかろうかというふうに思います。
  79. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 それが困るんだな。これは一種の大学の教育支配、国民支配ですよ。エリート大学が自分らの大学にいい生徒をとりたいということのために採用した分離分割が全部に波及していくというのは、チャンスがふえるとか後にやればいい生徒が来るであろうというような、それは後で解釈するのであって、きっかけはまさに競争を激化させていくという構造の中であらわれた現象形態だと私は思うのです。  そこで、もとに返りましょう。私がこの大学入試問題を議論したのは昭和五十二年でございます。昭和五十二年三月十四日の議事録はかなり詳細に、当時の共通一次テストというものを導入する際のいわばメリット・デメリットをどんなふうに理解するのかということを当時の佐野文一郎局長と詳細な議論を展開いたしました。自分が忘れてしまっておりますから、その議事録を改めて今度読んでみまして、さて、ここで言ってきた当時の文部省考え方と現実に進行した来年度にあらわれたこの複雑な構造とがどんな関連があるかということについて基本的な議論をしてみたいと思います。  まず、何のために共通一次というものをやるのかということについて、つまり全国共通一次テストというのはなぜ必要かということについて、当時文部省はどういう判断をされていたかというのを、お聞きしていると時間をとりますから、当時は文部大臣は海部さんです。そして大学局長は佐野文一郎さんです。共通一次というものを適用することが大学入試が社会問題化している現状に対する是正策としていい方法なんだというふうに国大協が意見が一致した、文部省もそう思っていた、したがって、文部省と国大協が意見が一致したので、これに踏み切るのだということで議論が行われたわけであります。  そのときの理由は、大学入試というものが非常に社会問題化しておるのは大きく言って二つだ。一つは何かというと、過度の集中、学歴社会、大学の格差というものを前提にして過度に集中していくという傾向、その過度の集中の中にも技術的には難問奇問という問題が出てくるわけです。難しい問題で高等学校の到達度ではとても試験には間に合わぬというようなことでだんだん難問奇問になってくる。そういう意味で過度の集中というものを分散させるのが第一、そういう方向に持っていくべきだ、そういう意味で受験競争の激化をなるべくチェックしていくという役割を果たそうということですね。これは当然学歴社会から来るのであって、その学歴社会というものをどういうふうに今後――その中にはメリットもあればデメリットもある、そういう学歴社会のあり方について今後どのように改革を進めていくかということについても、大学入試に共通一次というのを導入していくことは過度の集中を避けていくという意味で後期中等教育も大切にされるし、同時に過度の集中の是正になる、これが第一の理由でありました。  もう一つは、大学入試というのはまさに、OECDの当時の教育調査団の報告にありますように、「十八歳の春の一日」で人生が決まってしまうというあり方、こういう問題も検討すべき課題になってくるけれども、基本はやはり過度の集中、難問奇問などをなくしていく。  そこでその前に、その当時ありました一期校、二期校というものをなくさぬといかぬ。一期校、二期校をなくするためには入試期日を一元化していくという方針が必要なんだ。つまり、過度に集中しないためには、生徒がどこを選択するか慎重に選択して、おれの能力ならここだなと一発で決められるような選択をするという意味では入試期日の一元化という方針をとることがいいということで事を進めた。  これが第一のメリットだというふうに理解しますが、さて、平成二年度に行われる入試はかつてのような一期校と二期校の亡霊が復活していませんか。
  80. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 過去の一期校、二期校の分け方というのは、いわゆる入るのが比較的難しい大学が一期校に集中しておって、すべてがそうじゃありませんが、比較的易しい大学が二期校に集中しておったというようなこともございまして、一期校と二期校の大学人の間で若干のそういう問題があったわけでございます。  確かに、来年度のA日程、B日程の方を見ますと、B日程をとるところは比較的入りやすい大学が、相対論でございますけれども多いというような傾向は見られますけれども、かなりの大学が分離分割に踏み切ったこともございますので、前期と後期という分け方をすると、必ずしも前半が一期校で後半がかつての二期校というような形にはなっていないのではないかと私ども理解いたしております。  いずれにしましても、分離分割が来年度これだけふえるわけでございますので、一、二年、現実の受験生の動向等を見守らないと、最終的になかなか判断ができないんじゃないかと考えております。
  81. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 当時これを実施したら受験産業というのは物すごく発達しまして、第一次共通テストを公にしないといったって各高等学校のランクはみんな決まってくるし、同時に受験産業はその予測をするためにコンピューターを使ってあらゆる対応をする時代になっちゃう。そうすると、どんなに共通一次試験のあり方を、例えば秘密にするとか公にしないとかそういうことを言ってみたってだめだということを私は当時強く言ったわけであります。  しかし今おっしゃるように、確かにBグループの中には分割された、いわゆるいい大学と言われる大学の後期試験というのがあることは間違いありませんよ。しかし、BグループからAグループにだあっと流れていって、Bグループの立場を堅持したところというのは非常にけなげだと私は思うのです。立派だと思うのですよ。ところが実際は、予備校による調査によれば、そのBグループはかつての二期校的性格が浮き彫りになったなあ、こう言っているわけです。そういう情報が受験者たちに流れるわけですから、それがみんな選択の基準になっていくわけです。  だから、これは新聞だったか週刊誌だったか記憶がありませんけれども、今や変化した、新たな段階における一期校、二期校の亡霊が復活したというふうに皮肉られるような構造になっているのではないかというふうに私は判断をします。つまり、格差是正とか集中を排除するとかいうようなことは、技術的に何ぼ対処してみても、少しは是正にはなっても事の根本的な治療にはならぬということを証明していると私は思うのです。これが第一点の私の結論です。  さて二番目に、今の新テストは二段階選抜になっているのですか、なっていないのですか。
  82. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 ある一定の倍率以上の応募者があった場合に共通一次試験を使って一定の倍率に抑えるということ、先生が御指摘になりましたいわゆる二段階選抜については、入学志願者の数が入学定員を大幅に上回って、その結果、採点能力とか人員とか試験場の確保等の面から一定期間に個別学力検査あるいは面接試験、実技試験――各大学では二次試験で試験の多様化に努力しているわけですが、そういうことを適切に実施することが困難である場合に限って、ごく限定的に二段階選抜を行うようにということを私どもとしては指導しておりますし、仮に入学志願者が予告した倍率を上回ったとしても、先ほど申し上げましたような条件がクリアできれば、可能な限りすべての受験者に二次試験を受けさせるようにという指導をしているわけでございます。  ただ、先ほど先生から御指摘がありましたように、昭和六十二年に、久しぶりにと申しますか、複数受験の機会を与えたということ、それから試験の始まる前に各学校の受験の応募をさせたということもございまして、各大学の倍率が相当に上がりまして、その結果九万九千何がしの数字の二段階選抜で落とされた人がおりまして、本文教委員会でも先生方から大変おしかりを受けたということがございました。  その後、共通一次試験の結果を見てからという意味で試験が終わってから受験の志願を出させる、それからその志願を出す期日もなるたけ長くとるということ、あるいは各大学がテレホンサービスなどで現段階での倍率を常時受験生にお知らせするというようなこともございまして、一万五千人、それから平成元年度が一万三千人というような足切り、いわゆる二段階選抜で落とされた人数で、漸減してきております。  ちなみに、平成元年度の一万三千人のうち、すべての国公立大学で足切りされたという人は四千人でございまして、どこかの大学で二段階選抜で落とされたけれどもどこかの国公立大学は受けることが可能だったという人は九千人でございます。  来年度、平成二年度の状況でございますが、本年度、平成元年度の足切り、あらかじめ一定の倍率になったら二段階選抜をするという大学の数、学部の数よりもそういう予告をしている大学が若干ふえている状況でございます。  これは新しく大学入試センター試験になったということと、それから先ほど申し上げましたとおりに科目数等が、五教科の原則が若干弾力化されたというようなこと、それから分離分割ということでかなり分離分割に移っていった、あるいはA日程の方に移っていったというようなこともございまして、各大学が自分のところにどのぐらいの倍数の志願者がいるかということの予測がなかなか難しいということもございまして、念のために倍率が高くなった場合には二段階選抜をするという予告をしているんだろう、そういうことで若干ふえたんだろうと思っておりますが、私どもとしましては、現実に二段階選抜を行うというふうに予告していても、先ほど申し上げましたようないろいろな条件をクリアしてできるだけ二段階選抜をしないで二次試験を受けさせるように努力を願いたいというふうに各大学にお願いしているところでございます。
  83. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 だから、いずれにしろ客観的には二段階選抜になっているということですね。現に六十三年度に向けても足切り五七%、大学の五七%が予定していたりしているわけですから、共通一次というのは、もう足切りを前提にして一定程度の人間が被害を受けるという意味で二段階選抜の構造として客観化されているというふうに見なければならぬと思うのです。  そこで問題になるのは、この法律をつくったときに法律事項で起こしたんです。国立学校設置法の第三章の四、大学入試センターを設立する際に、第九条の三で大学入試センターというものを設けた上で行うこれからの試験の重要な位置づけとして、大学に入学を志望する者の高等学校の段階における基礎的な学習の到達の程度を判定することを主たる目的として大学が共同して実施することとする試験の問題の作成、採点その他一括して処理することが適当な業務を行うこと、法律事項としてこの場合に起こして大議論をしたわけでありまして、ここで後期中等教育のあり方と大学入試の関係が非常に重要だ。したがって、第九条の三の一項では「高等学校の段階における基礎的な学習の達成の程度」、これをいわば高校の到達度ということで委員会では随分いろいろな議論が行われました。  さて、今のような二段階選抜の場合に、既にもう客観的にそうなっているわけですけれども、その最初の段階で行われますところの全国共通テスト、大学入試テストですね、この入試テストがこの法律で言った高等学校の到達度という観点から見て今妥当だというふうに判断してよろしいですか。
  84. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 もう先生も十分御承知で私から説明するまでもないわけでございますが、いわゆる共通一次試験は今先生が申されましたような趣旨、目的で試験を行う、そしてその試験の内容を前提として各大学あるいは各学部の二次試験においては科目数を極力限定して、当該学部にふさわしい人であるかどうかということを、単に教科だけではなくて高等学校の活動歴あるいは面接、小論文などを課して、それとの組み合わせで適切な選抜に当たるというねらいが二次試験の方にあったわけでございます。  したがいまして、二次試験を多様化する、これが非常に難しいところでございますけれども、面接を入れ、論文を入れ、二次試験を多様化すればするほど、当然当該大学あるいは学部の教職員の数に、あるいは会場などに物理的な限界があるわけでございますので、多様化すればするほど二次試験を受けさせる人数については、その限界の範囲内で実施する人数に絞らざるを得ないという矛盾もあるわけでございます。そういう意味で、私どもはそういう場合に限ってごく限定的に足切りと申しますか二段階選抜に使うこともやむを得ないというような指導をいたしてはおりますけれども、そういう二次試験の多様化に伴う問題点も限界もあるんだということも御理解をいただきたいというふうに思っているところでございます。  ただ、例えば元年度で申し上げますと、先生、先ほど来年度は五七%の大学で二段階選抜を予告しているではないかという御指摘で、数字は全くそのとおりでございます。本年度、元年度の入試の始まる前の足切りの実施予告をしておった大学はやはり五五%、学部で五三%の数ではございましたけれども、先ほど申し上げましたような努力等あるいは倍率がそこまで至らなかったというようなものを含めまして、現実に二段階選抜を行ったという大学は二十九、二二%で、学部で六十四で一四%でございます。数字的には大学で二割、学部で一五%ぐらいの数字になっております。
  85. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 したがって、二段階選抜問題というのは、後期中等教育における到達度というものをどう理解し、その共通一次試験をどう位置づけるかという問題なんです。現に平成元年度で実際の学力差以上に差ができたということで理科について修正方式を出したでしょう。これはいかに到達度という観点で行われた試験という意味とかけ離れてきているかの一つの証左だと思うのです。大体平均したらもっといいはずだと思ったのに、問題はかなり難しかった。したがって、それは到達度をはるかに超えるがゆえに実際の学力よりも差があるから修正したわけでしょう。  ここに象徴的に出ているように、法律で起こした大学の入試センターの行う試験というものは後期中等教育の到達度という観点から見ろというふうに論じ、我々委員会の場ではどんな議論を当時したかというと、これは内申書的性格の試験というふうな言葉が当時の委員会で議論されたわけであります。つまり後期中等教育の基礎的な学習を終えておればほとんどパスできる可能性を秘めている試験というふうに位置づけなければならぬ。もちろんそれは時代の変化、科学技術の発達、そういうものによって相対的に動いていくものであることは間違いありません。  しかし、難しさ、難度という観点からいえば一定程度平準化するわけでありまして、到達度という観点をそういうふうに位置づけるから二段階選抜でないんだ、二段階選抜にしてはいけないんだ、それが当時の委員会における結論であったから、大学入試、これは藤波さんが委員長ですが、藤波委員長の入試問題に対する委員会決議でも二段階選抜はあってはならぬ、到達度というのはそういう性格のものだということを改めて一項目起こしたのです。そして法律が通ったときに私が附帯を全部書きまして、この委員会の結論に基づいて、二度繰り返す必要のないことだが、またわざわざ附帯でそれを強調して滑り込んだわけであります。  ところが、今日、もう十二年たって何回かやってみたけれども、まさにこの到達度というものは、そもそも最初の大学の共通試験というものがキャパシティーが少ないところに受験者が多いのですから選抜にならざるを得ぬ、選抜という条件がある限りはどう見たって内申書にはならないよ、ここから選抜になるよ、したがって二段階選抜になるという意味で生徒は負担になるのよ。高等学校教育はそのために性格が変わらざるを得ないのよ。  これを我々が議論した結果、この附帯にも、委員会決議にもそういう問題を入れたにもかかわらず、今日の姿は、残念ながら二段階であるのみならず、その到達度となるものについて大学入試センター、国大協を含んでいますけれども、いわばその判断が去年とことしではまさに違うというような判定をせざるを得ない。また、来年度に向けても、去年のような過ちを犯してはならぬという形で、また修正せざるを得ない、こういうことになっているという意味で、発足当時のあり方とは相当矛盾をしているというふうに思います。  本当はここで初中局長の立場から、高等学校における到達度というものと今の共通一次の関係については少し議論をしたいなと思うが、余り時間もないので一言、今度は大学入試センター試験ですけれども、いわゆる共通一次に示される後期中等教育の基礎的な学習の到達度の程度をやるという試験、この法律で起こした精神と、今行われている入試センターとの間にギャップはないか、今日どういうふうにお考えですか。初中局長の意見を聞きたいと思います。
  86. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 高等学校の到達度は国の基準としての学習指導要領が基準になると思います。ただ、指導要領自体はかなり抽象的な大綱的な基準が多うございますから、具体的には教科書などがその基準の目安になるのだろうと思います。  ただ、実際上の共通一次等の試験の問題と今学習指導要領ないし教科書で行っている基準との間の問題につきましては、恐縮でございますが、私はちょっと内容を承知しておりませんので、コメントを差し控えさせていただきます。
  87. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 少なくとも平成元年度の理科の試験でこの到達度という判断に基づいて行われたことが、試験そのものの修正をしなければ、修正方式というものを出さざるを得なかったという事実を見ても、これはやはり科目によって変化が出ていたことの何よりの証拠であるということだけを申し上げておきます。  さて、共通一次が行われてからもう大分時間がたってしまいました。もう十年近くになるわけですから、この間に高等学校教育というのは相当な変化をしたと僕は思っております。今ここ三、四年をとってみれば大して変化はないように見えるけれども、この間に大学入試というもののあり方をめぐって、後期中等教育はまさにかつてよりもさらに受験地獄が激化する。というのは、キャパシティーに対して受験者はどんどん多くなって進学率は高くなってくる。そこへもってきて受け入れる人数は少ないのですから、選抜をやらざるを得ない。学歴が高くなることはいいことですし、いい専門を学ぶことは国民としての要求ですから、それはいいことです。ですけれども、残念ながらこの二段階選抜による試験をやっていることによって、今まで以上に競争体制がより受験者も負担になり、生徒も負担になり、同時に競争は激化していくという側面が拡大してきた。その証拠に、受験産業の肥大化はこの十年の間にすごいものです。これはデータを挙げたらもうびっくりされるほどの拡大であります。  こういうことからして、残念ながら、現行の大学入試の進行していく過程でどんなに技術的に修正しても学歴社会にメスが入らないことは言うまでもない。デメリットに対してメスが入らないばかりでなくて、後期中等教育がそういう受験体制に追い込まれれば、それが中学、小学校といって日本全体が大変な受験地獄の中にさらされている今日の青年や児童の姿になっているということをお互いに確認して、二十一世紀もこれでいいんだなんというようなのんきな話ではなくて、本気になって今の日本の――人材を養成するという意味で競争が必要なことを私は一つも否定しません。我々も昔はみんな競争の中で旧制の高等学校やらみんな試験を受けてきたのですから。  だからそういうことと、これだけ高学歴になってたくさんの人間が高等教育を受けようという時代になった今日の状況の中で、今の受験制度のあり方で、選抜、選抜でやっていくような方式を維持していくのかどうかというのは、もう本気になって国大協も考えてもらわなければいけませんし、文部省の側も大学に対する指導助言という観点からして検討しなければならぬ時期だと思う。僕は、出てきたときは大学自治防衛の立場からいろいろな立論をしてきましたけれども、このごろは大学自治という名のもとに大学自身が改革を怠っているのではないかという気がしてなりません。そういう観点からも、文部省としては、何も管理法をつくれという話ではなくて、もう少し大学改革に刺激を与えるような方式というものはどうするのかとか、いろいろなことを考える時期に来ているのではないかというふうに思います。  いずれにいたしましても、もう一度初心に返って、我々が五十二年にこの制度を発足するに当たって文教委員会では長い議論をしました。最近のように法案を上げるのに一国会なんてそんなことはやりません。あの当時は与野党伯仲時代ですから、もう重要法案は三国会、こういうテーマは小委員会をつくってここでフリー討議をやって、そうしてがんがんやりながらみんなでコンセンサスを得て、小委員会委員会決議などをやって事態に対応してきた。そのときにも、大学自治問題だから国会として言うのには限界があるというところで議論をしたけれども、我々野党も賛成に回って今日までまいりました。それだけに、もう一度原点に返って、今日の現状のあり方と日本教育のあり方について再検討すべき時期に来ている、こういうふうに思うのです。  そこで、これからの対応の課題としてお聞きしますが、まず第一に、入試センターのあり方。  私がここでかつて五十二年の段階で議論したときに、こう言ったのです。入試センターというのは二つの側面がある。当面は第一次テスト、共通テストというものをやるための評価の仕方とか方法みたいなものを議論しなければだめですよ。それをやらなければならぬ。  もう一つは何か。イギリスに学びなさい。英国では大学入試の問題を、五年、七年、十年タームで生徒の基礎調査をやるのです。その基礎調査というのは、高等学校の生徒が大学というものをどういうふうに選ぼうとしているのか、現実はどうなっているのかということについてのアンケートをきちっととるとか、教師の側から見た、今の受験の仕組みが高等学校教育にどんな影響が出て、それはどうあるべきかというような調査。さらには、高等学校の生徒が将来の人生進路というものを決めていくときには社会観、人生観と関係してくるのですから、その社会観や人生観というものをこの期にはどういうふうに育成されるのか、そして彼らはどういうふうにして大学を選択しようとするのか、その際に今の学校制度並びに入試制度というのはどういう意味を持っているのか、この調査をやっているんですよ。実施するには十年もかかって基礎調査をやるんです。  そのときにイングランドとウェールズにある十のエグザマイニングボードのリポートを皆さんに示して、こういうことをきちんと一方でやりながら、現実に進行している共通一次というものに対応しつつ常に全体を見ていかなければだめよ、そういうセンターにしなさいと私は言ったのです。そのとき、佐野局長参考人も、みんなその制度をつくりましょうと言ったんですよ。  さあ大学入試センターの省令を見ますと、大学入試センター組織運営規則を見ますと、六十二年から六十三年に省令の改正が抜本的に行われています。これは国会では議論していませんでしょう。いかがですか。国会で議論しているかどうかということだけです。この省令の変更は何もかけてないでしょう。みんなに相談してないでしょう。
  88. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 はい。しておりません。
  89. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 この省令は、改正の時期を見ますと六十二年、六十三年です。いよいよA、Bグループ等々の制度に変わってきた時期、この時期に合わせて六十二年から六十三年にかけて第一条、第二条が変わっています。研究開発部、これが入ったのかな、よくわからぬが変わった。それから第三条が六十三年に変わっています。それから、四条が六十二年、六十三年に変わっています。これはかなり重要な部門であります。五条が六十三年に変わっています。そして、六条が同じく六十三年に変わっています。それから、第七条が同じく六十三年に変わっております。  文部省が省令で独自に改革をされた六十二年、六十三年の改革の細かな個別は、これを見て前のものと比較すれば見当がつきますけれども、僕はそれを調べてきておりませんが、この時期にやったポイントは何の省令改正でありますか。どこにねらいがあったと思いますか。
  90. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 先生指摘の六十二年の改正は、一つは研究開発機能を充実するために新たに進学適性研究部門を設置するということと、研究部を単に分析、追跡研究だけに限らず広く入試の方法、あり方等を含めまして研究を行うということで研究部の名称を研究開発部に改めたわけでございます。  それから、昭和六十三年度においては二回の改正を行っておりますが、最初の第一回目の改正は、副所長を従来の一名から、二名置きまして組織運営体制を強化するということと、新たに研究開発部の中に特別試験研究部門と試験問題研究部門を設置したわけでございます。特別試験研究部門というのは、社会人入学あるいは身障者の入試をどういうふうに行っていくかということを研究する部門でございます。  それから、第二回目の改正は、大学入試センター試験の実施が近くなりましたので、大学入試センター試験の実施に伴うセンターの所掌事務の変更等を内容とするものでございまして、新たに大学に関する情報の提供を管理部の仕事として行うということと、大学入試センター試験の内容その他これに関連する事項について、所長の諮問に応じて評価し、または所長に助言する評価委員を新たに置くという内容、その他に、私立大学も大学入試センター試験に参加してくるという可能性もあるわけでございまして、先ほど先生が御指摘になりました評議員あるいはセンターの運営委員等の人数を若干ふやしまして、私立大学の方々にも入れる道を開いた改正を行ったわけでございます。
  91. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 要するに大学入試センターは、今進行してきた大学入試の技術的並びにその内容についての検討をやるためのみに規模や制度が統一されているというふうに理解してよろしいですね。例えばこれに関連してリポートを聞きましょうか。いっぱいリポートが出ているはずですね。そのリポートの中に、私が申し上げたようなイギリスのエグザマイニングボードなんかでやったような基礎資料に関する研究データという調査報告が出たことがありますか。
  92. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 お答えいたします。  先生が御指摘のイギリスの機関の基礎資料と同じであるかどうかというのはまた判断が分かれるところかもしれませんが、昭和六十三年の二月に、大学入試センターは、高校二年生約十万人、高等学校約千六百校を対象といたしまして、進路選択と大学情報に関する調査ということで進路に関する悩みあるいは志望大学の選定に当たって重視する要因など、かなりの項目についてアンケート調査を行ったことがございます。  それから、本年度の予算で高等学校の進路指導における個性尊重に関する共同研究というものを、これは高等学校先生を含めた共同研究の予算を計上いたしておりますが、その研究の中で高等学校約三千校を対象としたアンケート調査を実施しているところでございます。この三千校というのは高等学校が対象でありますが、さらにそれだけではなくて、高校一、二年生を対象にした進路選択の実態に関する調査も現在計画しているところでございます。
  93. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 六十三年、六十四年に少し傾向が出ているけれども、それはあくまで現実に行われている入試の構造を前提にした上で問題になさっているのですね。極端に言いますと、私は、それと切り離して、今のような仕組みでいいのか、今の学校制度でいいのか、進路選択のやり方に今のような入試のあり方でいいのかということを含めてのそういう観点からの調査というふうにしたら恐らく調査のデータのとり方は違うだろうと思う。昨年行ったもののデータ、ちょっと後でそのレポート下さい。レポート、ありますね。六十三年度のデータは後で見させていただきます。  そこで、十二年前のここの委員会は最終的に詰めて、佐野文一郎局長も文部大臣も、私が申し上げたような研究部門、これを国立学校設置法でいうと三番目の研究云々というもの、これでいくといい。そして、検討すべき課題だということで終わったのだが、六十三年に上がったとすれば、それは今日まで本当に何にもやっていなかったということと同じことだ。そういう意味でもう一度改めて入試センターのあり方について検討してみる必要があるということをまず提言申し上げておきたい。これが一つ。  もう時間もなくなってきましたが、この十二年前の議論、これがスタートするとき何が問題になったかというと、学歴社会に対して「十八歳の春の一日」ということを、OECDの報告をどう考えたらいいか。そこで議論になったのはバイパスなんですよ。国道一本だから、十八歳のときに将来の人生を決めるのです。バイパスが幾つかあれば、働きながら高等教育の資格を取る、そういうバイパスができさえすればいいのであるから、西欧先進国がやっているようないわばバイパスコース問題を大学制度の改革、生涯学習権の問題として検討すべきであるということをお互いに了承し合いました。  さあ、そこで聞きます。放送大学、これは一つのいいテーマとして動いていると私は思う。しかし、放送大学というのは通信の大学ですね。これは、時間がありませんから後で聞きます。そういう意味で、放送大学ともう一つ、大学で行ってきた通信教育、これがこの十何年の間に広がっているのか広がっていないのか。これが第二番目。  第三番目、通信教育と放送大学との間の相互交流、例えば学習指導センターを一緒に借りるような便宜を図るとか、各大学でやっているビデオみたいなものをどんなふうに、横断的に使うとか、そういう通信教育に相当するようなものと、それが拡大しているのかどうかに関連して、放送大学とこれとの関連について検討中か、検討していることがあるのか。  この三つをまずちょっと聞きます。あと数分しかありませんので……。
  94. 坂元弘直

    ○坂元政府委員 お答えいたします。  最初の数の傾向でございますが、数の傾向は、どちらかというと平行かあるいは若干下りぎみだという通信教育でございます。それから放送大学は、御承知のとおりまだスタートしたばかりでございまして、大体正課の履修生が一万五千人ぐらい、七千人の入学定員に対して一万五千人ぐらいの人数でございます。  それから放送大学と通信教育との連携の問題でございますが、これは単に通信教育だけではなくて、広く一般の大学の教養部課程の教育と放送大学が連携できないかどうかということを私どもも放送大学の関係者と一緒になって既存の大学にいろいろと一緒に研究していただきたいということをお願いしているところでございます。
  95. 嶋崎譲

    ○嶋崎委員 学歴社会打破というのは、成人が勉強するチャンスを広げさえすればいいというものではないのです。現実に与えられておるのは、資格問題と関連してみんな高等教育を受けるのですから、与えられた現実に合わせて、そのような制度化をどうするかという議論を一方にやらないとだめだという意味で、これはやはり高等教育局や生涯学習局の重要なテーマだということです。  それともう一つは、外国ではヨーロッパのイギリスをとったってスウェーデンをとったって、通信教育というのはみんな国民の税金、国費でやっているのです。日本の場合は、放送大学はエアのユニバーシティーなのですけれども、それは国費でやるが、その他はみんな私立でやっているという特徴があります。この改革を考えなければいけません。  それから、もっと通信教育というものをそういう意味国民に開かれて、そしていい条件をつくるためにはどうするかということを国政の課題、文教の課題として考えなければいかぬということです。  そういう問題をやらないでいて、共通一次だとか入学試験の選別のところを何ぼ技術的にいじってみたって、今の日本の競争による教育の退廃という状況を克服することはできません。したがって、バイパスコースというものをどうするかという観点で、かつて我々が議論したと同じように、もう一度根本的に議論しなければいかぬと思います。  最後に文部大臣、西岡文部大臣は大学入試センター、大学入試の問題について大学審議会に検討することを提案しています。そうしたら、大学審議会の項目を見ますと、大学院その他ありますが、その他の中に小さく一番最後に大学入試というのが白書にもちらっと載っております。そういう意味で本格的に大学入試問題をどこで審議するか。一つは大学審議会があります。中教審に対して、今度西岡文部大臣は入学期を九月にするとかなんとかという技術的な問題をまた諮問している。こんな全く意味のないことをやっている、自分の学説をここで議論するのじゃないのですから。だから、片一方で中教春に諮問をする。また、片一方では大学審議会に諮問する。それから同時に、文部大臣のもとにいろいろな協議会や何かがあるが、そういうところにヤマタノオロチみたいにあっちにもこっちにも諮問していて事を解決できるほど生易しいものではありません。  したがって、文部大臣として今後、私の聞きたいのは、大学入試センターのあり方について諸外国の経験に学ぶ基礎研究的な部門をいかに強化するか、これが一つ。それから、バイパスコースを強化するための通信教育その他について放送大学との関連で改めて再検討する必要がありはしないか。そして一番最後に、それをどこで議論をするかということについて、今の議論を聞いていた文部大臣判断をお聞かせ願いまして、私の質問を終わります。
  96. 石橋大吉

    石橋国務大臣 お答えいたします。  まず委員の大変な御研究、すばらしいものだなと思ってずっと傾聴をいたしたわけであります。  今の三つの点でございますが、いずれも高等教育の中において、また社会全般が高等教育を受けた方々に対するニーズの問題、あるいはまたそれそのものがいわゆる初中教育に及ぼす影響、そしてまた通信教育、放送大学もその一つでありますが、すべての面について十分検討をしてやっていかねばならないなと考えます。
  97. 鳩山邦夫

    鳩山委員長 午後一時三十分から委員会を再開することとし、この際、休憩いたします。     午後零時三十四分休憩      ────◇─────     午後一時三十分開議
  98. 鳩山邦夫

    鳩山委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  質疑を続行いたします。有島重武君。
  99. 有島重武

    ○有島委員 一般質疑機会を得させていただきまして喜んでおります。  一つの時代が終わって新しい時代が始まろうとしているのじゃないかと、これは国民の大部分の方々が身で感じていらっしゃると思うのですね。世界じゅうの人たちがテレビやいろいろな報道を通じて昔よりよっぽど身近に感じている、そういった時代の中に私たちは生きているのじゃないだろうかと思うわけでございます。  二十世紀というのはおもしろい時代で、初めて月に人間が行ってしまって、それを大勢の人たちが地球の上で同時にテレビで見ていたということは随分おもしろい時代に生きていたと思うわけだけれども、それじゃ二十一世紀はどうなるのかということですね。私は、二十一世紀は生命の時代だというふうに決め込んで一生懸命やってきたようなものですけれども、それはごく身近というか間近というのですか見えてきた。大臣のお立場でもっていろいろと御感想もおありになると思うのですね。特に昨今の大きな政治的な変化ということもある。国内にもある。与野党逆転もあれば労働組合が改組されていくといったような本当に身近な問題もあるし、そういう中にあって二十一世紀はどうあるのか、どうあってもらいたいのか、どういうふうに努力していくのか。そんな大ざっぱなことでもって、大臣の所信表明というのを今度はまだ伺っておりませんけれども、そんなことを交えてきょうはお話を伺ってみたいと思っているわけです。  特にきょうは、生涯学習社会の中の学校教育、言い方をかえますと生涯学習体系の中に位置づけられた学校制度、こんなふうにも言えるかと思いますけれども、そんなことを中心にして意見を交換できればと私は思っております。  それで、私は考え方を先に御紹介申し上げておきたいと思うのです。大変古い文章で恐縮なんですけれども、私は昭和四十二年に初めて衆議院に当選してずっとこの文教委員会に所属をさせていただいておるものでございます。昭和四十年のそのころに本当に一生懸命考えて策定していったものです。  ここに「大衆福祉をめざして」という政策誌の第七巻の「教育文化・科学技術」というのがあって、第一版が昭和四十一年、この第四版が四十六年のものでございますけれども、「次代の人々のために――教育」ということでもって「教育改革の基本政策」「教育改革の方途」といった二本立てで教育政策をやった。その後、文化政策ということについて考えてきたわけです。  書き出しのところに「二十一世紀は生命の世紀といわれ、今七〇年代は教育改革の時である。」飛ばしまして三ページですが、   ここに公明党は、人間性回復を第一の課題ととらえ、国民総参加の民主教育構想の上に、「教育の時間と場との拡大」「自由選択の拡張」の方向に教育制度を改革し、さらに「制度の効率的運用」を推進する方途を提示して、その実現に努力する こんな心がけで来た。それから続いて「教育の原点」というところがありますが、   教育の原点はいうまでもなく「人間そのもの」であり、教育は人間の一生涯にわたる「自己開発」である。   制度としての教育は「受ける側」と「授ける側」とに画然たる区別を設けるのが慣例であるが、表面上のすがたはともかく、教育の本質は、学習者、教育者、社会の「各立ち場おのおのの自己開発」を前提とした、相関作用としてとらえることから出発しなければならない。   こと新しく「生涯教育」ということばが流行し始めているが、すでに教育基本法第二条には「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない」ともある。縦に時間に沿って「出生から老年まで」、横に空間的には「家庭、学校、職場および自然環境をも含む、社会全般にいたるまで」が人間教育の活動範囲であって、従来の、学校教育中心主義的な狭い考え方はむしろ過去のものとなり、教育の概念は拡張されると同時に、本来の「教育の原点」に立ち戻ろうとする姿勢が顕著になりつつある。   生涯教育は個人個人の心構えの問題であり、また個人の心構えをささえる社会意識の潮流に強く関係される。社会的な生涯教育への意識と要求が熟するのと対応して「制度としての生涯教育」あるいは「生涯教育を可能にするためのサービス」が設立されるべきである。   教育基本法第三条には、教育機会均等が明記されているが、二十一世紀をめざす教育の改革に際しては、「教育の時間、空間における拡張」を有効に実現するために、多元的な教育サービスの機会を、学習者の知能・性向・体力・経済力等の諸条件に適して、自由に選択できる、ダイナミックな機会均等の体制を構築しなければならない。   そしてその前提として、第一に学習者本人が「自己教育への意欲」を保ち続けると同時に、生涯にわたって機能を発揮できる「基礎的な学習力――消化・吸収の技法」を若いうちから身につけさせるといった、本来的意味での教養の充足。そして第二は、学習希望者が、多様な教育機関から自由に、適確に選択できるための学習ガイドや、あるいはカウンセリングのシステムを整備すること。――そして最後に、それらをささえる財政的裏付けをしっかりさせることが不可欠な条件である。 そんなことを考えておったわけです。  次に「学校教育の特質」という部分があって、私たちとしては学校教育は、生涯の中で時間的な区切りと場所的な限定のもとで、教師と学習者との対面の中で、教育の質を確保すること、教育の能率を高めること、こういった主要なメリットを認められて社会側から有用視されておる。だけれども、最近に至って、これらの学校に対する要求というものが随分変わってきている。それで学校教育が形骸化されつつあるんじゃないか。それで、現在学校教育制度において確保されるべき質とは一体何だろうか、高めるべき能率とは何であろうか。こうした生涯教育の視点から見るすべての教育体制の中にあって、だけれども学校教育はなお厳然たる中枢機関である。だから、学校教育の改革は最も慎重な検討を要求される。  以下、こういろいろあって、それでこの中にも高校の必修科目を精選して、単位制にして外からどんどんいろんなものを学んでも構わないとか、あるいは放送大学だとか単位の互換であるとか、そういったようなことがもう既にここにはある、そういうことがございました。  ちょうど中教審の四六答申の作業が始まりましたのと大体並行してやっておりましたから、平塚益徳先生とか文部省の西田亀久夫審議官とか随分意見を闘わして、生涯学習という立場からすべての教育を見直すという、このことをやらなきゃだめだだめだとこっちは随分言った。それでいろいろ意見交換の中で――ですから、四六答申の中にほんの一行、一言ですけれども、「生涯教育」という言葉を入れていただくことができた。私どもとしては、あの中教審の答申そのものについては相当批判を持っておりますけれども考え方の基礎にはこういったことがあったということも大体知っておいていただければと思います。  これでもって、こういった方向でもって今までずっと押してきたわけですけれども、なお今の時点で随分当局におかれてもこういった方向でもってのその努力を始められたことについて私は心から敬意を表するものでございますが、なおこれが定着していくのにやはりこれから十年かかるだろう、二十一世紀に間に合うかどうか、そんなふうに思うわけであります。  前置きが長くなってしまいましたけれども大臣からの大体の御感想を伺っておきたい。  なお、時間がありますれば、放送大学のこと、それからあと日本語大辞典のことなんかも触れておきたいと思っておりますけれども、以上前置きはこの辺にいたしまして、大臣の所感を承っておきたいと思います。
  100. 石橋大吉

    石橋国務大臣 お答えいたします。  ただいまの委員お話でありますが、「大衆福祉をめざして」、特に「教育文化・科学技術」ということで、昭和四十六年に公明党が発表をしたものであろう、こう思います。  ちょうどこの四十六年というと、いわゆる四六答申の出た年であるな、こう思うわけでありますが、中で申されている教育の理念、そしてこれからの方向、いろんな点から考え合わせてみましても、約二十年も前におつくりになったことが、今全く私どもが各審議会等からいただいておるものと比較いたしますと、教育の本質をとらえて、基礎的な学習力の修得でありますとかあるいは学習者がみずからの望むものを自由に的確に選択し得る体制の整備、このような考え方は、臨時教育審議会、いわゆる臨教審の答申あるいは中教審の生涯学習委員会の経過報告に示された考え方、私どもの生涯学習推進のための施策の方向と基本的に異なる点はありません。  そこで、私どももこのような考え方に沿ってやっていきたいことでありますので、ぜひひとついろんな意味で御指導をいただきたいな、こう思います。
  101. 有島重武

    ○有島委員 文部省からお出しになりましたいわゆる教育白書といいますか、「我が国の文教施策」、これの六十三年の版、これはまさに「生涯学習の新しい展開」というタイトルでお書きになっている。大変すぐれた内容であると思います。それでこの中に、第一章の第一節ですか、「生涯学習体系への移行」ということがありまして、そこの第一番目に出てくることが「学校中心の考え方からの脱却」、こうあるんですね。  この「学校中心の考え方」ということについて、これは何だというと、これを拝見したところでは、第一番は学校教育への過度の依存である、それから第二番目は学校の自己完結性の過度の強化、ちょっと難しい言葉だけれども、そういうのを脱却しましょう、それで基礎・基本の徹底と、それから自己教育力の育成に努めていく、それから家庭、社会との開かれた関係をつくっていきましょう。書いてあることはこういうことでございますね。  で、私がきょうここでもって提起して指摘しておきたいと存じておりますことは、学校中心主義という言葉もいいんだけれども学校権威主義というようなものがあるんじゃないのか。ということは、学校になじまない人間は悪人か病人か、人間失格であって、あるいは学校の権威になじみさえすれば内容はそれほど問わないというような、こういった権威主義というようなことがあるんじゃなかろうか。それで、学校中心の考えの反省もさることながら、そのことをひとつ御一緒に考えておきたいと思うんです。  それで、お役所の立場としては、現行法に定められるところをなるべく例外をないように守り抜いていく、そういったことがお役目であると思うんですけれども、制度が変わっていくときには、制度が変わっていくというか時代が変わっていくときには、今までの法律、今までの制度とは間尺に合わぬのがいろいろ出てくる。初めは例外でもってけしからぬと思っていたんだけれども、だんだんそれがふえてくる。そして、実はその例外と思われていたものにかなりの道理があって、それで法律も改正し、制度も変えていかなければならないのじゃないだろうか、そんなふうにだんだん移すと思うのですが、だからお役所の立場からは今の法制でもっていいと思うのですけれども。  憲法二十六条は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」こういうふうになっている。教育基本法の四条には「国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。」こういうふうになっていることは御承知のとおりです。それで、これの普通教育というのはどういうことなんだろうか。これもお役所側からいえば、それは学校教育法の二十二条ということになるんだと思うのですね。ですから、憲法を読むのに、お役所の立場からいけば学校教育法でもって憲法を見ていく、教育基本法を見ていく、こうなると思うのです。これはまさに学校中心主義なんですね。私たち立法府の立場、政治家としての大臣のお立場から見れば、一つの時代の変化の中に立ちながら憲法を読んでいく、そして教育基本法を読んでいく、そういう立場から学校教育法をもう一遍見直していく、こういうようなことになるのじゃないんだろうかと思うのですけれども、その辺のことについて大臣はどうお思いになるか。
  102. 石橋大吉

    石橋国務大臣 お答えいたします。  憲法の場合、これは明らかに義務を負うという規定でございます。これはいわゆる義務教育という言葉が出たもとだな。ですから、保護者というものはこの条項に従って義務教育の義務を負う。はっきり言えば、小学校、中学校、この二つのことについては義務としてやっていかなければならないんだ、こういうことであろう、こう考えます。  私はまた一方、今委員指摘のとおり、日本の国、東洋全体の考え方の中に、学問に対してはやはり死ぬまでどこででも、あらゆるものを教材とし、あるいはそれが師となり学んでいくべきものであるということは大変古い歴史の時代からずっとつながつているものである、こう考えております。そこで生涯学習教育という言葉ができて、その制度が文部省の中にもきちっとつくり上げられたということは、まさに日本人が小学校、中学校、高校、大学をやればそれでもういいんだ、もう学問から解放されたんだという、従来の比較的学校重視の立場から、社会全体どこからも学べるんだ、そしてその学べるところを大いに自分の向学心、学を求める気持ちの上に立って、あるいは求道と申し上げた方がいいかもわかりませんが、道を学ぶという上に立ってそしてやっているのがまさに新しい、当然古くからあったですが、それが一つのものとして成り立って生涯学習ということになったと思います。ですから、今度はそうなった以上は生涯学習の中で学びやすいような環境整備、これを行政といたしますと力を入れてやっていかねばならないな、こう考えます。  そこで、私の個人的な考え方で、あるいは省内の皆さん方からはしかられるかもわかりませんが、文部省という省は、学問、人々がそれぞれ求めていろいろなものを学びたいという心、それを助けてやるような環境整備をやっておあげするのが一番文部省の持っている責任ではないかな。ですから、何もかにも文部省そのものがやる必要はない、環境さえつくってやって学ぶ心を持っている人たちにどこへ行っても学べるような形のものをやっておあげするのが文部省の立場ではないかな、こんなふうな今委員の御所論を伺いながらの感想でございます。
  103. 有島重武

    ○有島委員 普通教育を受けさせる、この普通教育の中身、現代において国民に本当に普遍的に共通して受けさせるこの中身というものは、これはたどっていけば学習指導要領の小学校一年から中学校三年までの中にその内容が大体述べられているわけでしょうね。それを学校でなしに、ある場合にはどこか外国に行ってしまって日本学校に入れなかったとかその他の事情でもって学校ではなしにだけれども、その普通教育の内容を修得するということがあってもいいのではなかろうか。今のは例外ですけれども、そういった例外が今後ふえてくるのではなかろうか。ですから、この普通教育というものの中身を学校以外で修得してもいいのですね。
  104. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 義務教育につきましては、ただいま先生からも御指摘がございましたように、憲法二十六条にありまして教育基本法で九年と決めているわけでございますが、これは言うまでもなく、国民として必要とされる教養やその教育機会均等などの見地から定めているわけでございます。子供たちは次代の社会、国家を担う者でございます。その次代の社会、国家を担う人たちは、やはり共通の教育をしっかりしなければいけない。それから、その子供たち自身の発達からいいましても、人権からいいましても、その子供たち自身のためにもそうした教育を施さなければいけない。こうした国家的な要請といいますか社会的な要請と個人の側からの要請の二つがありまして今日の義務教育制度ができていると思うわけでございます。  ただし、それで公教育を組織してそこで行っているわけでございますが、御指摘のようにどうしても例外的な措置は出てまいります。例えば、どうしても病気で就学ができないというような子供に対しましては、現在就学猶予ないしは免除という制度もございます。それから、御指摘になりましたように、外国に行けば日本学校教育の制度の外になりますから受けられない。その場合も、なるべく共通の教育を施そうというので海外日本学校をつくりましていろいろ整備をしておりますが、日本学校に行けない子もございますから、そういう子供たちは現地の学校に行くとか、ないしは現地の学校も適切でない国もございますので、そういうときには自分で学習せざるを得ないというような、こういう特別な場合には例外を見ておりますので、その意味では先生のおっしゃいますような義務教育自体も弾力的な考え方というものはとらざるを得ないわけでございますが、しかし、先ほど申し上げました義務教育本来の趣旨でございます国家的な要請、社会的な要請、それから個人の発達、人権からいいましても出てくる個人的な要請からいって、現在のところはやはり公教育制度としてある学校教育においてそれを行うということが極めて重要ではないかと考えているわけでございます。
  105. 有島重武

    ○有島委員 六歳から十五歳ということが法律で決められているわけですね。これを決めた時点のときの日本民族と今とはちょっと、随分背の高さも発育状況もいろいろ違っている。大脳生理学者の報告を聞きますと、六歳から十五歳というのは平均的には適当なんだ、こう言っておりますけれども、五歳からやるのは、やはり法律違反になってしまう。これは許してくれないらしいですね。だから、事情があって一年おくれちゃって七歳になって入った、これは許してくれるらしいのですね。この辺は将来どうなりましょうかね。
  106. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 現在のところ、義務教育制度は六歳から九年間ということになっているわけでございます。そこで、その五歳児の入学ないしはおくれての七歳児の入学というようなことは外国に、国によりましてはその辺弾力的にやっている国もないわけではないと思いますけれども、我が国の場合は法律でそれをしっかり決めておりますので、私どもとしては、その法律に従って就学義務、就学事務を履行してまいりたいと思っております。
  107. 有島重武

    ○有島委員 お役所としてはそういうふうにしているわけですよ、そう決まっているんだから。我々としてはこれは少しみんなの話を聞いて考えるべきときが来ているのかもしれない。まだ来ていないのかもしれない。六歳じゃなければいかぬぞといつまでもそこに義理立てをするということは、立法府としてはないというか、これから随分考えなければならないことじゃないのでしょうかね。それを指摘をしておきたいわけなんです。  それから、途中で抜けたり、あるいは入るのが遅くなったりして十五歳に至ったんだけれども、その学年は中学一年程度までしか行っておらぬかった、こうなりますね。そうすると、これはどういうことになるのか。親としては九年間、義務というのですかな、九年間の義務を六歳から十五歳に限って義務づけられるということだけなのか、あるいはずれてしまったときには、八歳から十七歳ということになるのか、そういった考えで、これは現実に起こってしまっているわけですよね、今は。お役所の方としては、教育長の方としてはそれが多少オーバーしても、義務教育学校というのはとにかくお金を取らないから安心していらっしゃい、こういうふうに言ってくださるというふうにはなっておりますけれども、この年齢主義ということが一つありますね。  それからもう一つ、これももっともっと普遍的なことでございますけれども、小学校四年なんだけれども四年の学力がない。学力がないんだけれども、今落第ということはございませんから、そのままで五年生になり六年生になりますね。そうすると、算数といいますか、数学なんかは九九がわからないとその先がわからぬということがございますね。わからないままで中学に行ってしまう。そういう方々が、いわゆる七五三というのですか、小学校の低学年のときはみんな喜んで行くのだけれども、上級になると三割方の方々はもう内容がよくわかっておらない。そのままとにかく卒業していく。中には後からぱっと何かのきっかけや何かの家庭の学習先生の配慮でもって追いつけるような場合もあるかもしれないけれども、追いつけない状況でもって中学に入っていわゆるお客さん生徒になってしまう子が中学になると五割はいる、そんなことを言われております。その実態も調べてみればわかる。  こうした普通教育というのは年齢の中に適当に当てはめた、それでもって九年間これを保障し履修させてあげればそれでいいのか、あるいは私たちは学力保障ということを相当大切に思っているわけですけれども、最低学力保障というような考え方を今後この普通教育ということに中に入れていかなければならないのじゃないんだろうか。とにかく履修さえさせればこっちの責任は済んだ、悪く言ってしまえばそういった行き方がこの中に混入しているわけですけれども、最低学力保障、こうなりますと、先ほど申しました指導要領なんかは、その履修させるべきメニューがずっと非常に整備されてある。その中でそれじゃどの程度のことだけは本当に身につけてマスターさせていこう、基礎・基本をというふうに言われますけれども、まあ例外はどこでもあるわけですけれども、その部分は本当に学力保障という点でもって今後押さえていくという、そういった視点が必要なんじゃないだろうか。  ですから、今の普通教育の中にその大体の内容、それもそのエッセンス、それを保障するかしないか、履修主義なのか年齢主義なのか、こういうようなことですね。こういうようなことが今、昔はそんなことを考えなくてよかったのだけれども、今はそういういろいろな方が出てきておりますから、そういったことも考えなければならない。考える前にいろいろな例外がどのくらい起こっておるのか、そういったことの調査を始めていかなければならないのじゃなかろうか、そんなふうに思うのです。私の言っていることの意味、わかっていただけるかしら。
  108. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 先生の御指摘になりました学力といいますか、教育内容を保障してやるということは、学校教育において極めて大切なことであろうと思います。現在の学校制度におきましても年齢で義務を課しておりますけれども、それは学齢児童、学齢生徒ということでその間の義務でありまして、それを外れたらもう一切学習をしなくていいのかということには必ずしもならないと思います。ですから、例えば病気でおくれた子供たちにつきましては、年齢十五歳で卒業できなければ、なお必要ならば、本人も希望するならば、中学なら中学にとどめて最低限度の学力は保障してやるというようなことも必要だろうと思います。いずれにしましても、今の制度は、単なる履修主義ではなくて、本来はその内容を修得するという意味で修得主義的なことも大事であろうと考えております。  ただ、実態は、我が国の場合、小中学校では落第の制度というのは、学校教育法の施行規則によりまして学校は平素の成績を評価して進級を定めるということになっておりますから、本来は、要するに成績が悪ければ進級しないという建前はあるわけでございますが、我が国の教育風土の中におきましては、小中学校では原則として落第というのは見られないという状況であろうかと思います。  そういう意味で、先生がまさに御指摘になりました履修主義に終わっているではないかということは、そういう傾向が非常に強いということはそのとおりだと思いますが、御指摘になりましたように、私どもとしては、今後とも履修した内容を子供たちにしっかり身につけてやるという立場で教育指導に当たってまいりたい、このように考えております。
  109. 有島重武

    ○有島委員 登校拒否につきまして、社会問題となっている。文部省におかれまして「児童生徒の問題行動等の実態と文部省施策について」というレポートを、今年の十月に初中局の中学校課からお出しになっていますが、大変立派なレポートです。特に私は、いじめと登校拒否、このことについて注目をしたいと思っているのですけれども、この内容については、きょうは時間が非常に少ないから。  とにかく登校拒否がふえている。これは、ふえている実態のつかみ方が、五十日以上の長期欠席の人に限って調査している。でも、五十日という根拠はどういうところにあるのか。四十九日の人も相当いるかもしれぬのです。あるいは三十日、四十日の人がいるかもしれない。二十日くらいの人がいるかもしれない。五十日以上も、もっと百五十日も一年の人もいるかもしれない。五十日というところで切って、これで結構なのです。これはそれなりに意味があります。ありますけれども、これがもう一つ踏み込んだ実態を知っていかなければならないときが来ているのじゃなかろうかと私は指摘を申し上げたい。  それで、これについて、これも文部省からいただいた資料です。これは文部省御自身ではお調べになったわけじゃないのですけれども、大阪市立大学で「「不登校」問題に関する社会学的研究」という資料がございます。これは、五十日と限らずに、範囲は小さいけれども非常にきめの細かい調査をしておる、そういうものがございます。文部省の方がどんな対応をしていらっしゃるかということについては、文部時報の資料、これは春ごろお出しになっていたのじゃないかと思うのですけれども、いろいろな御苦労をしていらっしゃることがここからうかがわれます。本当に大変だろうと思います。そういうようなことはこちらは了解していると思ってください。  それで、教員の方々との人間的な接触というようなものももっと高めていくべきじゃないのだろうか、こう思います。そういった指摘があっちからもこっちからもされております。そうすると、あの例の四十人教室をさらに徹底しろ、こういうことがあるわけです。それから、もう四十人に達しているところについては、もっと専門の教師の方をそのまま定員をふやした形だとかいろいろな措置をこれからもやっていってもらわなければならない。それで、まだ四十人教室に達しないところが全国的に幾つかある。それから、もっとゆとりを持って子供たちのためにもっといい措置をどんどんとっていきたいと思っている県もあるわけなんです。  東京なんかの場合に、今の文部省の基準を超えて措置をしようとすると、文部省は口ではそれは結構ですとおっしゃるらしいのですけれども、大蔵省の方からは、そんなゆとりがあるならば国庫の方は遠慮させてもらいますよというようなことを言っておどかされてしまうので結局できない、そういうような話をしばしば聞いております。  これは理想状況に持っていこうということなんですから、まだそこに達しているところがないんだから力があってもやってはだめ、下限を一生懸命押し上げている最中なんだから上に飛び出してはいけない、そういうような行き方は今はもう必要なくなってきているのじゃなかろうか。それは確かに余り差別があってはいけないとかなんとかということがあるかもしれないけれども、その考え方も今後もっと弾力的に持たせるようにひとつ大臣から御努力をいただいた方がいいんじゃないのだろうか、これが一つ。  それから、事務職員の配置について随分たくさん陳情を受けておりますけれども、事務職員が配置されているという名目にはなっているけれども、三つの学校を一緒に私一人が事務職員として名目的にやっていますなんて言って、そんなことはできっこないです。だけれども、帳じりを合わせるためにそれをやっている。そういうようなこともあるのです。これは事務職員についての給与の与え方なんかも絡んでの問題ですけれども、これもやはり教員が子供たちの方にしっかり目を向けてつき合っていってあげる時間を確保するために事務量を減らすこと。それから、事務職員は必ず置くということですね。当分の間もう置かなくてもいいみたいなことはしない。これが二つ目の指摘。  それから、養護教員の問題でございますけれども、これも全部に置いてもらいたい。ところがこのごろは、養護教員は健康に関しては専門家なんですけれども、昔は、暴れて切り傷つくって赤チンをつけてもらいに飛び込んでくる子供が多かったんだけれども、今はそんな子供よりも、どういうか、ちょっとニヒルな顔をしてすっと入ってきて、ちょっと休ませてもらう、こういうような心の病の方が多いらしいのですね。それで何かちょっとした激励を受けてまた行く。こうなってみると、体の健康、心の健康、両方の心得を持った養護教員の方々が必要になってくる。文部省におかれましても、これこれについては御報告を受けました、いろいろなパンフレットなんかをおつくりになったり、再教育なんかもやっていこう、こういうことですけれども、やはり向き不向きということもあるし、そういうことをどんどん話してくださる方は割合と両方ともできる方。けれども、それがなかなか機能しないところもあるようです。  これは積極的とは言えないけれども、とにかく落ちこぼれていくといいますか、あるいは登校拒否に陥る人たち、あるいは陥る予備軍のような人たち、そういう人たちに対して学校側が手を伸ばしていく、そういうことを相当強力にやっていただきたい。  まずその点、大ざっぱで結構なんです。今言った少人数教育をもっと積極的に進めていくこと、事務職員の必置、養護教員の機能をもっと広げていく、そのためにはやはり養護教員に対しての手当ても考えなければならないし、そういうことについて少し積極的に取り組んでいただきたい。  お役所としてはきっと、こういうふうにやっています、こういうふうにやっていますといろいろなことになってしまうと思うのだけれども大臣からひとつお言葉をいただいておきたいと思うわけであります。
  110. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 ただいま先生指摘になりました、子供の教育にとって教師がいかに大事であるかというのはまさにそのとおりであろうと思います。したがいまして、特に登校拒否とかいじめとか、いろいろな問題行動が多くなっておりますので、これから教師の量、質ともに充実を図らなければならないと考えております。  御指摘いただきました教師の増員の件ないしは事務職員の件、養護教諭の件は、先生の御指摘を踏まえまして今後の定数改善の中で一生懸命やっていきたいと考えております。
  111. 有島重武

    ○有島委員 先ほど申しました大阪市立大学の調査、細かい数字はいろいろありますけれども、こんなことが書いてあるのです。子供たちの登校拒否、いじめ、非行など問題行動が社会問題となっているけれども、この背景には学歴社会とか受験戦争とか従来指摘されている問題が子供たちに影を落としていることは否定できません。しかし、より大きな背景として、私たちを伝統的に結びつけてきた人間関係のつながり、私たちの集団や組織へのかかわり方に大きな変化が最近あらわれてきているんじゃないか、このことを見逃すわけにはいかない、こうした社会の大きな流れの中で子供たちもそういうふうになっている。  この間も新聞に出ていたけれども、脱サラというのが随分多くなってきた。昔は会社に忠誠を誓っていた。あるいは離婚というものが非常に不道徳的なことであると僕たちは思っていたけれども、もっとさばさばしたものに変わっておりますね。一つの集団の中に帰属して、そこに依存して生活していかなかったならば生活が成り立たないという状況から、集団に依存しなくても平気でどんどんいけるというような傾向が大きくあるのじゃなかろうか。そういうものの中で子供たちが敏感に学校に行きたくないということを行動にあらわしてきてしまっている、そういうことがあるんじゃなかろうかというのがこの人たちの分析なんです。だから、これも注意をして考えていただきたいと思うのです。  それが、学校でなければ勉強できないというのはどういうことだといって、何で学校へ行くのお母さんと聞くというのです。お母さんは聞かれても困るから父ちゃんに聞いてと言うと、父ちゃんは何をぐずぐず言っているのや、みんな行っておるやないか、わしも行ったんや、おまえも行け、こうだというのですね。だから、昔はみんなそろってやることが道徳だった、それが子供には通じないわけです。先生にもみんな通じないのです。だけれども、そういう子供ができて、こういった本なんか、昔の中教審のもそうある、臨教審もある、いろいろ個性のある、個性豊かなものがどんどん出てくるような世の中になった方がいいなんて書いてあるわけなのです。野方図にそういうのが出られても困るけれども、時代の流れとして今までは例外と思われていたものが相当ふえてくる。  この文部省の問題行動の統計、これは五十日以上の相当重症なところばかりを考えておりますけれども、そのすそ野というものはかなり広いと思わなければいけない。それからもう一つ、学校には出てきているんだけれども、もうわけがわからなくなってしまって仕方なしに座っているという状況の人が相当そのまたすそ野にいる。そのことをやはり考えなければならないと思うのですね。  それで六歳から十二歳、十五歳というところでもってこれで縛り、学校という枠の中で縛り、履修主義で縛りというような行き方というのをもう一遍、今考え直した方がいいんじゃないか、今から考え直しておかないと、何も来年から変えろなんて言っていませんよ。十年先、二十年先のことでいいんだけれども、今から手をつけなければいけないんじゃなかろうかと私は言っているわけだ。一言ありますか。
  112. 石橋大吉

    石橋国務大臣 お答えいたします。  学習指導要領があるということは、初等普通教育、中等普通教育、高等普通教育、いわゆる普通教育の中において我が日本国子供たちの中でこういうことは学んで自分のものにしておいた方がいいよというスタンダードのものがあると私は思います。ですから、それももちろん普通なこととして大きく取り上げていかなければならない。だからといって、それだけで縛ってしまうには、今の社会はいろいろなものが芽生え始めたりあるいは落ち込んでいったりいろいろなことがあると存じますから、芽生えてきたものは伸ばしていく、落ちていった人たちに対してはそれ相応の教育的な手当てをして引き上げてやっていく、そういうことが今の社会が望んでいることであるな、こんなふうに考えております。
  113. 有島重武

    ○有島委員 今度のベルリンのことだとか、それから東ヨーロッパのことを考えても、少数意見なんというのはイデオロギーの力でぐんと圧倒していた時代があった。それがやはり例外的じゃなしにどんどん今の体制を押し返していくような、そういうような力が及んできたことになると思うのですけれどもね。その例外的、少数のところにやはり光を当てていくような――今までの文部省はとにかく一生懸命やってきた。我々も本当は、日本の国がみんなそれでやってきたのですから、今度は少し豊かになってゆとりを持ってそういった例外的なものを新しい芽としてやはり温かく見ていってあげる、なるべくスタンダードの方に入れていく。これはいいことですよ。その努力のほかにそうしてもらいたい。  例えば、こうして資格に欠けたるところの、欠格と言ってよろしいのですか、その児童生徒をどうするのか。これは落第とはいわないけれども、原級留置という言葉があるそうですね。原級留置にするということ、留置場の留置と一緒のことです。それから、高校受験の資格というものを校長さんが認定してあげるということ、そういったこともあるようですね。それから、九年間を超えても無償で扱っていく、こういうような例がどのくらいあるものか、どのくらいふえていくものか、これ、伺ったのですけれども、僕はまだ数字として資料をいただけなかったから、今度何か資料をいただければいただきたいのです。いただいて僕が見るというよりも、大臣もそういったところに気をつけていただけるようにしたい、そういうことです。何かちょっとまだ中途半端な感じもいたしますけれども、新しい時代を感じながら一つの出発をしていく、そんな意味でもって申し上げた。  それで、時間がもうあと十分ちょっとありますけれども、放送大学のことを承りたいと思っております。  先ほども嶋崎先生の方から話題が出ておりましたけれども、放送大学を全国化するその前提として広島の大学で学習センターというのですかをつくってやっていらっしゃるということを聞いています。放送大学広島地区ビデオ学習センター、これが来年からは正式に放送大学としてそこでもって単位を認定していくということになるのですね。     〔委員長退席、鴻池委員長代理着席〕
  114. 横瀬庄次

    ○横瀬政府委員 ただいまの広島大学のビデオ学習センターでございますが、これは御存じのように、放送大学がまだ関東地域だけに限られているというようなことが実態でございますので、この放送網の外側にあるところでも、放送大学の放送教材をぜひ活発に使っていただきたいというような気持ち考えているものでございますけれども、具体的には本年度広島大学の協力をいただきましてビデオテープあるいはオーディオテープの視聴による放送教育の、厳密に言いますと、ことしは試行実験でございます。  それで、現在のところの状況をちょっと申し上げますと、モニターによる視聴というものを現在のところやっておりまして、第一期四月から八月まででございますが、その間には三百七十五人の方、それから現在行われております第二期、これは本年の十月から来年の二月にかけてでございますが、これが千三百六十三人、こういうように非常に人気があるといいますか非常に関心を持たれているわけでございまして、そのような形で現在のところモニターによる試行実験、そういうことをやっているわけでございます。  そして、お話しのように、これは来年度のことでございますので、計画予定ということになりますけれども、来年度は二学期を予定しております。二学期からは、放送大学の中の学生の種別の中に選科履修生、それから科目履修生というものがございまして、卒業を目的とする学生についてはちょっとその体制が整わないのでまだでございますけれども、単位を修得する者あるいは全体のコースを修得する者、そういう選科履修生、科目履修生について受け入れをいたしまして、これは、先生お話しのように、単位の認定を行うという事業になってくるということで、ぜひ展開をしていきたいということを検討しておるところでございます。  それから、来年度はこのビデオ学習センターを、これまた概算要求でございますけれども、六カ所、これは広島大学も含めてでございますけれども、六カ所に広げたいということで現在要求中でございます。
  115. 有島重武

    ○有島委員 大臣、御承知のように、今衛星を飛ばさなくてもビデオテープでもって各地方に配ってしまって、そこの地域の放送にうまく乗っけてさえもらえばどんどん事が運ぶようなふうに、日本国内は少なくともそういったことがどこでもできるようになってしまったんじゃないでしょうかね、今の技術では。衛星でやるときには、今度その衛星がむしろアジアの国々にそれこそいろいろ貢献していく、そんなふうに使われていくようになるかもしれない。今の御報告にありましたけれども、来年、北海道から名古屋ですか、それから九州も沖縄もずっとこういうところでもって同じようにビデオでの学習が始まる。このビデオ学習というのは、そこのセンターに行かなければ受講もできなければ、スクーリングもまたありますけれども、今のところ点のようになっているでしょう。ないよりかはましだけれども、一つの、でも拠点にはなる、そんなようなおつもりでいらっしゃるのでしょうか。  もう一つ、技術的にはどんどん教材を配ることができるけれども、スクーリングのできる先生を確保するということ、これは大変でしょうね。広島の場合には五十科目やっていらっしゃるそうですけれども、このスクーリングないしは指導もしてくださる先生というのは何人ぐらい専門で張りついているのか、これは広島大学の先生なのかあるいはよそからの方も来ていらっしゃるのかということです。この辺、ちょっと聞けますか。
  116. 横瀬庄次

    ○横瀬政府委員 広島大学に御協力をお願いしてこういうビデオ学習センターをつくっている。現在のところ、先ほど申しましたように試行実験の段階でございますので、それぞれの科目について具体的なスクーリングをやっているというところまではまだ行ってないわけでございまして、お手伝いいただいている先生方の数は数人程度でございます。来年になりますと、これが選科履修生とか科目履修生とかというような、単位を与えるという形になりますので、ここは本格的な御協力をいただかなければならないということでございまして、それは現在広島大学と放送大学との間で検討中でございます。
  117. 有島重武

    ○有島委員 大臣も放送大学については非常に御精通の大臣で私は期待をいたしておりますけれども、イギリスのオープンユニバーシティーでも、初めてつくったときはよかったのだけれども、しばらくしたらスクーリングのための人件費がばかにならぬ。行く先が危ないということを言っておられた。そういった段階がございましたね。  それからその次に私が行っていろいろなことを聞いたときには、イギリスの中に各田舎にUターン現象というのか、中央にばかり集まっていた人たちが、かなりのインテリがどんどん田舎に帰っておる。それがそこの土地の美術館だとか図書館だとかあるいは高校の先生になっていたり郵便局長になったり、そういうのがいる。そういう人たちがほとんどアルバイト的というのですかボランティア的というのですか、自分も生きがい半分、それでオープンユニバーシティーの方の生徒のチューターとなっている。それを引き受けてくれるようになってきた。これが非常にいい効果を生んでいるということを言っておりました。  我が国においても、初めのうちは余りルースにすることはできないかもしれないけれども、ある程度ターミナルをつくって人材を養成してそれで今度大きく開いていく段階が早晩来るのじゃないのだろうかと思いますけれども、これも大体これから十年以内の課題として、今大臣御任期のある間ひとつ力を入れて、後戻りができないような措置を講じておいてもらいたい。これはお願いです。  それから、私は昭和五十二年三月の予算委員会のときに日本語の問題をやった。そのときに、日本語の大辞典をつくるべきだ、そういうことを言った。日本語の大辞典はたくさんあるみたいでございますけれども、これからの国際貢献、とにかく言葉の教育、特に言葉の教育ということになると外国語ですけれども、外国語のもとになるというのは日本語、日本語のまたもとになるそうした引用例の多い本格的な辞書をつくってください、こういうことで申し上げた。  それ以来機会あるごとにそんなことを言ってきたわけですけれども、金額が少ないのだけれども非常に重要な問題である、文化の本当の基本にかかわる問題であるというふうに私は思っています。文化庁からもきょうは来てくださっておるようですから、進捗状況をひとつ御報告いただいて、それから一番最後に大臣からお言葉をいただいて終わることにしましょう。
  118. 遠山敦子

    ○遠山政府委員 先生、この問題につきましてはかねてからしばしば御関心を示していただきまして、私どももこのような地味な仕事にいろいろな形で応援をしていただいていることには感謝をしているわけでございますが、この日本語大辞典は国立国語研究所が編集の準備作業を進めておりまして、日本語の歴史的な足跡を可能な限りたどりまして時代ごとの用例を示すことによって貴重な資料となるものでございます。  御指摘のように、ちょうど昭和五十二年度からこの国語辞典編さんのための準備に着手しておりまして、辞典編集の具体的な方法などにつきまして調査検討を行ってまいりましたが、昭和六十年度にはその成果の一環といたしまして、標準語の確立に大きな影響を与えました国定読本の用例をまとめた「国定読本用語総覧I」というものを作成いたしまして、以来毎年度続編を刊行するなど研究成果を蓄積しているところでございます。  昭和六十三年度には新たに定員措置もいたしましたし、わずかながらではございますけれども、予算措置も年々拡充してまいっております。国語大辞典の編集は大変壮大でかつ長期にわたる事業でございますけれども、私ども、今後とも関係者の協力を得ながら前進させていきたいと考えております。
  119. 有島重武

    ○有島委員 大臣から一言。
  120. 石橋大吉

    石橋国務大臣 お答えいたします。  最初に、委員からいろいろな話の出ました放送大学、これは学習機会の拡充を図る生涯学習ということで大変重要なことだと私も考えております。そしてまた、ビデオ学習センターの設置等も必要でありますが、例えば自分のことを言って恐縮ですが、ここから七十キロしか離れていない私の周囲、千葉県であります。全然これはだめです。放送学習は来ておらない。電波が届きません。ですから、結局は、これをつくったときに諸先生方といろいろ議論をいたしました。結局、放送衛星、これをやりませんと当初の目的には合致しないなというふうに私は考えております。  それから、最後に決意いかんということで国語大辞典編集のことでございますが、国家、民族、この魂の所産、そして知恵の所産と言うべきものが国語であると私は考えております。ですから、その変化、発展の跡をたどるべき国語大辞典編集事業、これはまことに意義深いものである、こう感じとっております。  そこで、今政府委員から具体的なお話をいたしたわけでありますけれども大臣といたしましても、この大辞典の編集に向かって現在続けております大変気の長い年月を要するものでありますけれども、これはきちっとしてつくっておくことが日本国家、民族のためになることである、こう考えております。
  121. 有島重武

    ○有島委員 さっきは随分古い、二十年前の文章を上げたけれども、今のやや新しい政策集をそちらに差し上げましたから、大臣、受け取ってください。どうもありがとうございました。終わります。
  122. 鴻池祥肇

    鴻池委員長代理 次に、江田五月君。
  123. 江田五月

    ○江田委員 先日に引き続きまして文教行政に関して一般質問をいたします。  私は衆議院に出てちょうど六年少々ですが、その前参議院に六年間おりまして、国会に議席を得て今十二年目でございますが、衆議院に来て六年間、ずっと文教委員会で文部行政、いろいろな提案もしてまいりまして、国民的課題としての教育改革、今教育がなかなか大変な状態になっていますので、私ども教育にいろいろな形で携わる者が皆、心を痛め、心を砕き、すばらしいあすを担う人間を育てていかなければならぬと思っているわけですが、とりわけ、私はこの間男女の平等の問題、これにずっとかかわってまいりました。  ちょうど女子差別撤廃条約がこの間に批准をされたとか、男女平等ということになりますと、例えば男女雇用機会均等法ができたとか、大きな変化の時代でもあったわけで、とりわけ教育の場では家庭科の男女共修、従来家庭科といいますと女子教育の中で特に扱われてまいりましたが、しかし家庭というものの営みは、これは別に女子に限るものじゃない。男女の固定的な役割分担というものを排していかなければいけない。男も家庭の営みに責任も持ち、関与もし、女も社会の営みに責任を持ち、関与もし、そういういろいろな制度上の整備をしていかなければならぬ、こういう時代になってきていて、家庭科の問題を取り上げてまいりました。  この家庭科の男女共修、家庭科の中身自体も大きく、時代の変化に伴いまして家庭の生活の仕方というものも随分変わってきておりますから、例えば今はセックスの問題一つとらえてみても随分常識が変わっていますね、そうしたことで中身も大いに進歩をさせて男女ともに教えるということを主張してまいりまして、今回の学習指導要領でこの点大いに前進をいたしましたので、きょうはそのことを若干フォローアップをしておきたいと思います。  同時に、先日のこの委員会で、これは出席簿の編成の問題について菱村初中局長から「男女の平等の問題につきましては、御指摘がありましたように、家庭科は直しましたし、それから、今回の新しい指導要領では家庭科以外にも社会科の中でも、それから特別活動のホームムールなどでもそういうことを指導するように、そういう配慮をしております。」そういうお答えがございました。  男女平等教育への前向きの答弁だと思っておるのですが、ひとつここで政治家の大先輩、教育行政の大先輩でもあられる大臣に、男女平等教育、こういう問題について、あるいは家庭科を男にも教えるという時代の流れ、こうした意義について大先輩としての大所高所からのお考えを伺いたいと思います。
  124. 石橋大吉

    石橋国務大臣 お答えいたします。  私は、御承知のとおり戦中派であります。ですから、着物を縫ったりあるいはお掃除をしたりあるいはお台所で御飯等をつくってくださること、これは戦中派は、男子厨房に入るを許さずということで育ってまいりました。そこで、時代の変革というものをしみじみ感じますが、やはり男社会、女社会があって、これが共同して家庭の中においてもまた社会の中においてもますますいいものをつくり上げていく。お掃除や洗濯は女だけにやらせて男は知らないよということであっては相ならないな、私もこう実感をやっとできるところまでなってきた、こう自分自身でも考えているわけであります。  そこで、生活に必要な知識と技術、これを男も女もともに習得をしていくということ、これはこれからの社会においてすばらしく進歩したことであるな、私はこう考えております。
  125. 江田五月

    ○江田委員 まあまだそんなお年じゃないと思いますが、長い人生を歩んでこられて、確かに大正生まれの男子の、今の状況について何とも釈然としないお気持ちがあるというのも、私もよく理解はできるつもりですけれども、しかし時代は変わっている。  例えば今単身赴任なんというのも盛んで、単身赴任があるから調理や裁縫を男も学ばなければならぬ、そんなことをもっと超えた話だろうと私は思いますけれども、男もそういう家庭生活、身辺自立の素養なり感覚なり技術なり、そういうものを持っていないともう生きていけない時代でもありますね。俗に、男の連れ合いが先に亡くなった女の人は天寿を全うできる、女の連れ合いが先に亡くなった男は、大体六十過ぎでそうなると二年ぐらいで死んじゃう、それが天寿だと言えばそうかもしれないけれども、こんなことも言われるようなことで、これからやはり男はこういうもの、女はこういうものと決めつけるのでなくて、いろいろな男がおる、いろいろな女もいる、それがそれぞれ個性を伸ばしながら助け合っていく、そんなことになってきておる。  例えば、セックスの話なんかになりますと、これはもう目を丸くするようなことで、私も家庭裁判所の裁判官なんかやったこともあるのですけれども、今ごろ桃色遊戯なんて学校現場で言うと多分子供たちは何だろうかと目を丸くするようなこともあったりで、そういう時代に、家庭教育の機能も随分失われておりますから、セックスの問題、子育ての問題やなんかも学校の中できちんと教えていかなければならぬだろう。あるいは、家庭の経済活動というものも、例えばこれほどクレジットカードが普及をしてまいりますと、そういうクレジットカードが飛び交う中で家庭経済をどう維持していくかというようなことも素養として相当きちんと教え込んでおかなければ大変だ。悲劇が随分起きていますね。  そういう時代の家庭科の男女共修ということで、大臣の方から大切なことだというお話ございましたが、そこで確かめておきたいのですが、中学校の技術・家庭科、これは男女とも、家庭領域の家庭生活と食物、技術領域の木材加工と電気、これが必修で、あとの二ないし三単位は、生徒の興味と関心に応じて選択する、こういうことになっているのですが、この選択の部分も技術領域、家庭領域に偏らないフィフティー・フィフティーの時間割りに当然なるべきだと思いますけれども、これはいかがですか。
  126. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 新しい中学校の技術・家庭科におきましては、女子差別条約との関連も考慮しまして、現行のを大幅に改めております。現行のは御案内のように、男子は男子向きというので技術系列中心、女子は女子向きということで家庭系列中心の内容になっていたわけでありますが、新しい指導要領ではそれをやめまして、今お話がありましたように、男女とも共通に履修する領域として木材加工、電気、家庭生活、食物、四領域に決めております。残りは、あと七領域決めておりますので、その中から生徒の興味、関心に応じて三領域以上選択するということになっております。  では、具体的にどのようなカリキュラム編成になるのかということになりますと、各学校がそれぞれ教育課程を組むということになりますので、生徒の実態を踏まえて適切にやっていただきたい。もちろんその際には、男子向き女子向きというのではなくて、男女平等の立場で選択ができるようなカリキュラム構成をしていただきたいというふうに私ども考えております。
  127. 江田五月

    ○江田委員 男女平等の立場でというお話でございましたので、そういう指針で各学校が自主的にやっていくということなのでしょう。それにしても、ある生徒は家庭科は必修の二単位だけで高校へ行く、他の生徒はさらに三単位を選択して五単位家庭科を学んで高校へ行くということが起こる。そして高校で男女共修の家庭科四単位を学ぶことになると、二単位しか学んでない者と五単位学んでいる者とが同じ高校の家庭科を学ぶということになってうまくつながっていかないという心配が起こるのじゃないかと思うのですが、いかがですか。
  128. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 今回の新しい学習指導要領では、家庭科だけでなくてそのほかの普通の科目につきましても選択ということを認めております。したがいまして、共通部分はもちろんございますが、それを超えてある生徒は英語を余分にやる、数学を余分にやる、理科を余分にやるというようなカリキュラム構成になるわけでございます。その場合も、高校へ行きましてそのギャップが生じないように高校のカリキュラムで配慮しております。したがいまして、今回の家庭科の履修につきましても今の共通の基礎を押さえておけば高校へ行ってうまくつながるように工夫しているつもりでございます。
  129. 江田五月

    ○江田委員 そういうことで、中学から高校へかわるわけで、同じ学校でずっと行くわけではないのですから、多少跳びはねるところがあったり重複するところがあったり、そういうことは当然あると思うのですが、余り目をぱちくりでわけがわからなくなるようなことのないうまいつながり方を考えていただきたいと思います。  今の中学の残り二ないし三単位というものについては、男女ともに技術領域、家庭領域のどちらでも選択できる、男子はこう、女子はこうと偏らない選択ができるようになることを念頭に置いておられる、もちろん教科の編成はそれぞれ各学校でやられることだが、こういうふうに理解しておいてよろしいですね。     〔鴻池委員長代理退席、麻生委員長代理着席〕
  130. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 そのとおりでございます。
  131. 江田五月

    ○江田委員 昨年だったと思いますが、この委員会で私は、高校の新指導要領は平成六年度実施で、中学の方は平成五年度実施、そうすると平成六年度の高校一年生が中学一年生になる平成三年度から新しい学習指導要領に基づいた履修を行わなければうまくつながっていかないのではないかという質問をして、当時の古村初中局長が中学も前倒しにするというような答弁をされましたが、これはその後そういう方向で進んでおりますか。
  132. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 その点につきましても、先生の御指摘を踏まえましてなだらかに移行できるような措置をとっているつもりでございます。もう少し具体的に申し上げますと、新しい中学校指導要領は平成五年から全面実施ということでございますけれども、新しい指導要領で実施できるものはできる限り早くやろうということで、特例を定めまして移行措置を講じております。  そこで、技術・家庭科につきましては平成三年度の第一学年から順次指導要領によることにしたい、移行措置としてそういう措置をとりたいと思っております。平成三年の一学年の生徒は平成六年に高校に入ります。そのときちょうど高等学校は、新しい指導要領は平成六年度の入学生から実施するということになりますので、前回御指摘いただきましたようにつながらせたという措置をとったのでございます。
  133. 江田五月

    ○江田委員 それともう一つ、これも前に質問しましたが、平成六年度からの高校家庭科、私立の男子校とか公立の工業高校など七百校以上の高校が施設設備が整っていない、そこで当分の間、生活一般四単位ですが、これは二単位を生活一般で残り二単位は体育など代替科目を履修してもよい、こうなっています。しかし、施設設備や教員の問題は平成六年までまだ四年もあるわけですから、今から最大限努力をして施設設備を整えていけば平成六年度までに代替履修など限りなくゼロにできる、こういうことを提案しまして、これはそういう努力をするということでしたが、その後、この点はどういうことになっておりますか。
  134. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 高等学校学習指導要領の全面実施までにはもちろん時間がございますので、その間できる限りこの整備を図りたいというふうに考えております。新しい家庭科の円滑な実施に向けまして、現在各都道府県に対しまして計画的な整備を策定し実施するようにお願いしております。そのためには、当然財政的な援助が必要になりますので、文部省におきましても産業教育振興関係補助金の一層の充実に努めていきたいというふうに思っております。  それから、これは国の補助金でございますが、各都道府県の持ち分がございますので、そこは交付税で措置することになります。したがいまして、交付税におきましても新しい学習指導要領の家庭科が円滑にできるように、現在自治省に交付税の裏打ちも充実するようお願いしているところでございます。
  135. 江田五月

    ○江田委員 計画的ということで今お話がございましたが、各都道府県、さらにそのもとの市町村なり各学校なりが今どういうふうに計画的にやっておられるかということの実態調査はされてますか。
  136. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 今家庭科を置いてない学校というのはわかりますので、その数等は把握しております。ただこれはついこの間告示したばかりでございまして、これから本格的に整備に乗り出すわけでございますので、現在のところ各都道府県の具体的な計画も定まっておりませんし、全国的にどうなっているかというのは現在の時点では難しいわけでございますが、今後十分意を尽くしていきたいと思います。
  137. 江田五月

    ○江田委員 そうですね。まだ始まったばかりですから、調査をしても今こんなにできているというはずがないので、これはそうだと思いますが、こういう家庭科の男女共修を進めるグループの皆さんが各高等学校にずっとアンケート調査をしてみましたら、なかなか進んだ高校もないわけではないけれども、全くそんなもの寝耳に水というような感じの高校のアンケート調査も随分返ってきているようです。それは当然そうで、だからこそ大いにこれから努力をいただかなければならぬと思いますが、ひとつ万遺漏なきようにこの点はお願いをしておきます。  ところで、今家庭科関係学習指導要領の問題にちょっと触れたわけですが、この家庭科以外に男女平等教育ということで今回学習指導要領の改訂で扱っている分はありますか。
  138. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 特別にこれという言い方は難しいかと思いますけれども、社会科とか、それからホームルームの指導事項の中にはそうした趣旨の内容を入れております。ちょっと今、手元にきょうは持ってきてないわけでございますけれども、そういうふうな形で学校教育全体を通じて男女平等の教育をするというのが基本であろうというふうに思います。
  139. 江田五月

    ○江田委員 さて、その学習指導要領ですが、家庭科のように前進をしたと思われるものもあれば、どうかなと心配なところもございまして、その中でも今私ども心配しておりますのが例の国旗国歌という、割ににぎやかな議論になっているのですが、これはやはり心配をしております。  昨日、海部総理大臣が記者団の質問で、それぞれの国が国旗国歌を持つことにどの国が反発しますかと逆に尋ねるというようなことで、日の丸君が代国旗国歌として十分定着していると思うとか、戦争の歴史といったって、何事にも光の面と影の面があって、悪いことは悪いことだけれども、いいことはいいことと教えなければならぬと私はいつも言っている、そんなお答えのようでした。戦争でいい面というのはよくわからないのですが、どうですかね。  西岡前文部大臣がことしの二月十日に記者会見で、国旗国歌指導に従わない場合は処分の対象になるのかという質問があったのに対して、当然守っていただくことになるので、指摘のとおりだと述べて、教師が指導に反した場合の文部省としての処分もあるという姿勢を明確にされたという新聞報道があります。  別の資料によりますと、文部省の担当官が、職務命令を出してその命令に従わないと処分をする、こういうふうに説明をした、こういう記述もあるのですが、これはそんなような何か肩ひじ張った態度を石橋文部大臣もおとりになるつもりですか。
  140. 石橋大吉

    石橋国務大臣 今委員指摘のことについては私も承ってはおりますが、午前中の鴻池委員への答弁の中にも触れましたですが、学習指導要領ということで、さっきも話をいたしましたとおり、スタンダードな形で、国旗国歌というものを掲揚するんだよ、「するものとする。」という法律用語だそうですが、そういうことであった。だから、現場において事あるごとに国歌を歌ったり国旗を掲げたりするということを当然教えなければならない、これは文部省指導としてきちっとしてやらなければならないことである、こういうことになります。  でも、ではそれをやらなかった場合どうするんだということになって、処分をするしないということ、これはやはり文部省の法律ではできないと私は思いますよ。任免権者でありますところの都道府県教育委員会、市町村教育委員会、この場においてそれぞれ判定をすべきことである、一般論としてはどこまでもそういう形になると私は思います。  ただ、事国旗国歌のことにまで処分をしなければならないような形にするということ、これは明らかに指導力の欠如だと私は思いますね。そうした意味の中においてこの問題は処理していった方がいいではないかという考え方です。
  141. 江田五月

    ○江田委員 指導要領というものの法的拘束性の問題ということですが、指導要領に法的拘束性があるとして、それで、それに違反したら、さあ処分だ、そんなことを教育の場で余り言ったって、こんなことをしている教育は、これはそれでもう落第ですね。まして文部省ですから、文部省は大所高所、大きな立場に立って全国的に教育のあり方を見ながら、こんな気持ちでいるんだからしっかりやってくれよ、こういうことでいいんだというのが今の大臣のお気持ちだ、そんなふうに伺いましたが、まずはそれでよろしいですか。
  142. 石橋大吉

    石橋国務大臣 要は、指導をして、やってもらえるようにしたいんだということでございます。
  143. 江田五月

    ○江田委員 指導要領に違反したら処分だとか――指導するということで、それでよろしいのですけれども、これはちょっときちっと指摘をしておきますと、指導要領も随分細かいのですよ。  私も見てびっくりしたのですけれども、中学校の理科の指導要領で、例えば「レンツの法則、フレミングの法則は取り上げないこと。」フレミングの法則というのは、何か左手とか右手とか、忘れましたけれども、電流がどう流れた、磁力がどうなったとかいう話ですね。「取り上げないこと。」あるいは「水中の物体に働く浮力や物体に働く重力と浮力の関係に触れる」が、「アルキメデスの原理は取り上げないこと。」というような、取り上げたらそれですぐ処分だなんておかしな話のようだけれども、随分細かいことだと思いますが、処分なんというのは、そういうものでない教育の現場をつくるようにひとつ努力してもらいたいと思うのです。  ところで、学習指導要領というものが本当に法的拘束性があるのかどうか。昭和五十一年の最高裁判決、これを鬼の首でもとったように随分おっしゃるようですが、その五十一年最高裁判決と法的拘束性ということについて文部省の共通理解というのはどういうことになっているのか、これをちょっと説明してみてください。
  144. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 昭和五十一年の最高裁判決ではいろいろな争点があるわけでございますけれども学習指導要領につきましては、まずそういうものを制定する国の権能みたいなものがあるかというところから始まっていると思います。それにつきましては、この判決では、一定の「教育における機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的な」範囲内でそれを認める、権能を認めているわけでございますが、そこで、学習指導要領につきましてこの判決は具体的にいろいろ吟味をしております。が、結論的に全体として「全国的な大綱的基準としての性格をもつ」ということで、この基準をいわゆる指導の基準として認めていると考えております。  そこで、その場合の基準でございますが、「遵守すべき基準」というような言い方もしておりますし、それから原判決におきますそれは指導助言にとどめるべきであるという考え方につきましても、最高裁のこの判決では一応ネガティブに解しておりますので、そういうのを総合して考えれば、国側が従来主張しております教育の全国の遵守すべき基準としての、言葉はともかく、この法的拘束力といえばそれを認めておる判決であると理解しております。
  145. 江田五月

    ○江田委員 その法的拘束力、言葉はともかくということなのですが、法律の議論というのは言葉の遊びみたいなところもあったりで、余り言葉の遊びに入ってもおもしろくないのですけれども、ではどういう意味で法的拘束力があるということなのですか。  この判決は、私も見てみますと、まず教育基本法十条についてかなり大きな議論をするわけですね。子供の学習権、教師の教授の自由、こうした教育人権を憲法上の権利として認める、同時に、必要かつ相当と認められる範囲内での国の教育内容決定権を認めるということですが、そういう基準設定の場合に、教師の創意工夫の尊重、こういう教育基本法十条、これは基本ですよ、こういうことも言っているわけです。同時に、教育に関する地方自治の原則、これも考慮しなければならぬ。そして、「機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的なそれにとどめられるべきもの」である、こう言っておるわけです。  指導要領というものはこうでなければならぬ。そして、授業時数とか教科名だけではこれは狭過ぎるが、この事件当時の中学校学習指導要領の内容を通覧すると、おおむね全国的に共通なものとしてこういうことを教えなさいと言って決めていることが最小限度の基準と考えても必ずしも不合理とはいえない事項だ、それが根幹をなしていると認められる、ある程度細目にわたり、詳細に過ぎ、法的拘束力――ここに言葉が出てくるのですが、「法的拘束力をもって地方公共団体を制約し、又は教師を強制するのに適切でなく、また、はたしてそのように制約し、ないしは強制する趣旨であるかどうか疑わしいものが幾分含まれているとしても、」と括弧書きで出てくるところにこの法的拘束力という言葉がちょろっと出てくるわけです。  しかし全体としては、「教師による創造的かつ弾力的な教育の余地や、地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分に残されており、全体としてはなお全国的な大綱的基準としての性格をもつ」、「その内容においても、教師に対し一方的な一定の理論ないしは観念を生徒に教え込むことを強制するような点は全く含まれていない」、したがって法的見地からは是認できる、こういう言い方なのです。これはそういう読み方をしてよろしいですか。
  146. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 今御指摘のありました点は、判決に沿ってのお言葉でございますので、基本的にそのとおりだと思います。
  147. 江田五月

    ○江田委員 ですから、学習指導要領というのは、今言ったような地方ごとの個別化の余地も十分あるとか教師による創造的、弾力的教育の余地もある、教師に対し一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制するような点は全くない、そういうものであるのが指導要領なんですよ、こう最高裁は言っているわけで、そういう準則というもの、これは法的拘束力はあるのですか。そういうものが法的拘束力あると言って、一体何の意味があるのですか。
  148. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 今御指摘のありました中で、「教師に対し一方的な一定の理論ないしは観念を生徒に教え込むことを強制するような点は全く含まれていない」といいますのは、その指導要領の中にそういうものがないということでございまして、これは、例えば進化論をある一定の立場から教えないなどというのがアメリカではまだ一部ではあるようでございますけれども、そういうようなことは排除する、インドクトリネーションといいますか、そういうことの排除だと思います。したがいまして、これはおっしゃっているのとちょっと違って、要するに指導要領にはそういうものがないから必要かつ合理的な基準なのだということを是認する一つの理由に挙げているものだと思います。  いずれにしましても、学習指導要領は、学校教育法の規定を受けまして、施行規則、さらには告示として法規命令の形式において定められているという点においていわゆる法的拘束力などという言葉を使っているわけでございますけれども、これは、実際は教育の基準でございますから、当然そこには教師の創意工夫の働く余地がある書き方になっておりますし、その具体的な書き方によってそれが教師に対してどういうことを求めているかということは異なってくるのだろうと思います。     〔麻生委員長代理退席、委員長着席〕
  149. 江田五月

    ○江田委員 その法形式ということで、学校教育法の条項、さらに学校教育法施行規則二十五条でしたかね、それに基づいてといった法形式で、こういうことで決まるものだから、そういう説明は確かにそれは一つの説明です。法律家としてその説明はわかります。  わかりますが、教育という営みを一体どういうふうに法的に構成するかというのはなかなか難しいことで、教育の営みというのは、確かに行政法的には、国公立学校というのは公の施設、そしてそこに働く人、あるいはそこに籍を置く学生生徒と教師なり校長なり教育委員会、そうした関係が普通の関係とは違う特別権力関係、そんなことを言うわけですけれども、問題は教育という場なのですね。教育における人間の営みを法的に整理する場合にどこまで法律が前へ出てくるのか、これはどうなのでしょうね。  例えば特別権力関係と言いますね。国公立学校の生徒と教師の関係は特別権力関係である。これは支配、服従の関係、命令と服従ということになりますから、要するに監獄とか公務員、そういうことと同じだ、行政法上そういう説明をするわけですが、文部省はそれを盾にとって特別権力関係だからといってやっていかれますか。そんなことで教育できると思いますか。
  150. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 教育という営みをどういう側面から見るかというのはいろいろ見方があると思います。もちろん教育の側面からも見ますし、経営の側面からも見ますし、法律の側面からも見ることができると思います。したがいまして、たまたま教育という営みを法律の側面から見て、法律家がそれは特別権力関係であるとか法的拘束力があるという言い方がありますし、事実それは法理論として成り立ち得る考えであろうと思います。  ただ、学校先生にそんなこと言っても、これは教育がそれによって高まるわけはございません。したがいまして、教育の場では教育の立場から重要なことをしっかりやっていく、私はそうあるべきだと思っております。
  151. 江田五月

    ○江田委員 ひとつそこを履き違えないようにといいますか、恐縮ですが、間違えないようにしていただきたいと思うのです。法律の目で見たいろいろな説明の仕方がどこまで現実にそのまま通っていくのかというのはそれぞれの営み、営みによって違っているわけでして、教育という営みでは、法律で整理した人間関係というものをそのまま強行することによって教育という営み自体が壊れてしまうという営みであって、生徒と教師の関係も、指導を受ける指導する、あるいは教育を受ける、しかし、おれは指導する側だ、おまえたちは指導に従え、これでは教育は成り立たなくなってしまうという関係もありますよ。  教師を尊敬することも必要だけれども、しかし同時に、子供の成長発展、子供の伸びていく力によって教師自身がみずから高まっていくという、人間としての相互のぶつかり合いでそこに生じてくるものが教育だという、そういう視点も欠かしてはいけない。そこへ何か法的拘束力なんというものを持ってきたらたちまち教育が崩壊をしてしまうというようなことになるのじゃないかと思うのですが、そこを間違っていただいては困る。  そこで、今の指導要領日の丸君が代のことなんですけれども、文言が「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗掲揚するとともに、国歌斉唱するよう指導するものとする。」こうなっているのですが、「意義を踏まえ」というのは何の意義を踏まえるのですか。「その」というのは何ですか。
  152. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 入学式や卒業式が学校の生活の中において一つの特別な儀式として、入学式の場合には新しく入った、卒業式の場合は学校社会から出ていくということで大変意味のある行事だと思います。それは、通常は厳粛な中でしかも教育的な雰囲気の中で行われるものでありまして、子供たちにとりましてもそれは教育の一つの課程として非常に重要なものである、そういう意義でございます。
  153. 江田五月

    ○江田委員 「など」というのは、例えば創立記念日であるとかいろいろな学校儀式がある、そこで「など」ということだということですね。「その」というのは、入学式、卒業式あるいはそういうさまざまな儀式、そういう儀式ごとにいろいろな意義があるので、その儀式の持っている意義を踏まえてやれ、こういう意味だというふうに理解するのだと思いますが、今の御説明とちょっと違うのかなという気もするし、いやそうだとも思うし、どっちですかね。ちょっとわかりますか。  「その意義」というのは、入学式、卒業式あるいはいろいろな儀式がある、それぞれの儀式の意義というものに従ってと、こういう理解ですか。
  154. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 繰り返しになりますけれども、入学式、卒業式というような行事は学校生活の中で大変有意義な折り目をつける行事でございます。ですから、通常は厳粛で清新な雰囲気の中で新しい生活への展開の動機づけを行うとか、そういう意義を持っているわけでございます。ですから、そういう意義を持つ機会でございますので、「その意義を踏まえ、」ですから卒業式、入学式それぞれの意義ないしは、その「など」がいろいろございますが、いろいろある学校行事等もその意義を踏まえてという趣旨でございます。
  155. 江田五月

    ○江田委員 もう時間がありませんので、これ以上突っ込めないのですけれども、私は余り異を唱えるつもりもないのです。しかし、入学式、卒業式というのは一体どこにだれがそんなことを決めたのだ。入学式、卒業式というのは全然ほかにどこにも、指導要領の中にも何もないのですね。  入学式、卒業式はずっとやっているからということなんで、入学式はこういうもの、卒業式はこういうものと、何かおおむね社会常識でわからぬわけでもないけれども、そうまで入学式、卒業式の意義はかくかくしかじかと決めなきゃならぬものなのかどうか。それぞれの学校でいろいろな対応の仕方があっていいのじゃないか。それぞれの学校で我が学校の入学式はこういう意義を持った行事とする、その行事にはこういうものがふさわしいとかこういうものはふさわしくないとか、そういう学校のいろいろな意義づけ方、意義づけの仕方があっていいのじゃないかと思いますが、いかがですか。
  156. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 学校生活の中ではいろいろな行事がございます。始業式とか、終業式とか、運動会とか、創立記念日とか、開校記念日とか、学芸会とかいろいろございますけれども、やはりその中でも入学式と卒業式は際立って子供たちにとって重要な行事であるというふうに理解しているわけであります。
  157. 江田五月

    ○江田委員 いずれにしても余り大ごとにならぬように、ひとつよろしくお願いいたします。終わります。
  158. 鳩山邦夫

    鳩山委員長 次に、中野寛成君。
  159. 中野寛成

    中野委員 きょうは、音楽教育について参考人をお迎えして御質問を若干させていただきたいと思います。何しろ専門分野にわたるものですから、参考人にお聞きしませんとわからないものがたくさんございますので、参考人にかなり時間をとって御説明をいただき、それに沿った形での質問をさせていただきたいと思います。  もう大臣も十分御認識のように、教育の重要性を語るときに知情意のバランスがとれていなければいけない。それに徳体を加えたりいたしますが、とりわけ情を育てる、これは幼児のころからの教育が極めて大きな意味を持つと思います。また、音楽的に人間がその営みの中で感覚として発展するのは十歳もしくは十五歳くらいまでだ、こう言われておるわけでありまして、幼児教育、そして小学校における低学年教育、そこでの音楽教育が極めて重要だ、こう言われておるわけであります。  しかしながら、小学校低学年における教員の質、これは小学校ですから全科目を一人の先生教える、それは子供たち学校教育になれてもらうということや、子供たちのすべてについて一人の先生が把握するように配慮したことや、子供たちの心理を配慮したことなど、いろいろな意味づけがあることは事実であります。そのことのゆえに、専門的な知識を要する音楽等について、極めて大切であるにもかかわらずおろそかにされる傾向がまだある。ましてや、その基本となるべき教科書、それからその教科書に基づいて教え先生方の唯一の手引書である指導書、これらについて十分目が行き届いていない、間違いが多い、不適切な部分が多いということになりますといよいよ救いようがないということになるわけでありまして、この極めて重要な課題について現状をまず参考人に御説明をいただいて、そして文部省の皆さんにもその問題意識を強く持っていただき、できるだけ早く是正をしていただくようにお願いをしたい、こう思っておるわけであります。  きょうは、山室参考人には御多忙のところを御足労いただきまして、ありがとうございました。それでは早速、参考人が音楽教育について感じておられますことをまず総体的にお話しをいただけれぱと思います。
  160. 山室絋一

    山室参考人 御紹介いただきました、私、職業を音楽の方、作曲、編曲その他というところで専門にしております。  私がきょうお話ししようと思いますのは、私自身、子供の父親として子供の学校の音楽の授業その他を見ておりました中で感じましたこと、それからもう一つは、仕事の上で、今文部省がいろいろやっていらっしゃいます検定の教科書に係るある音楽を一部つくったりという、そういう中でいろいろ感じましたことが多々ございまして、その辺のことをきょうはお話しさせていただきたいと思います。  大きくテーマとしましては、今の小学校、中学、高校という三つの検定教科書を使っているところで使われている音楽の教科書の問題点、それからもう一つは、現在の教員の音楽指導能力というところである問題点と、その二つに絞りたいと思います。  早速ですが、まず一つ目、音楽教科書及び指導書の誤りまたは不適切な部分についてと、いきなりはっきり申し上げるのですが、このテーマで二、三お話しします。  まず、教科書というものは、生徒に配付するいわゆる教科書というものがございまして、それを教え先生のための指導書というその二つから一応成り立っていると考えられます。教科書には、一部の曲を除きましてはほとんど伴奏の楽譜は載っておりません。先生は、それぞれの教科書対応した指導書、この指導書というのはそれぞれの教科書会社が独自につくっているものでございますが、その指導書に示されている伴奏譜を使うのが通例でございます。それから、伴奏譜といいますのは原作者が書いた原典、いわゆるオリジナルというもののほかに第三者が後で伴奏だけを編曲したもの、大きく分けますとその二つがございます。  きょうの問題提起の対象となるのはその後の方です。原作者、例えば亡くなりました芥川也寸志さん、これは生きておりますが團伊玖磨さん、それから中田喜直さん、そういった方々もたくさん教科書に曲を提供なさっています。こういう方々は、伴奏譜も最初から作曲と同時にできているわけで、それが載っかっているわけですが、そうじゃないいろいろな曲の場合に、例えば外国曲でありますとかそういうものは第三者、つまり編曲者、作曲者といった音楽家の方がそれを編曲するわけです。  それで、ここで後から述べます指導者の音楽能力というところでも触れるわけなんですが、伴奏譜にはピアノを演奏する能力があれば弾ける通常の伴奏譜、それから、これが実は日本の現状で大変残念なんですが、ほとんど弾けない先生方のための簡易伴奏、通常の伴奏語と簡易伴奏の楽譜という二種類が指導書の中には載っております。  それで、きょうはいろいろお話しする中で編曲ということが実に大事な要素になってきますので、編曲とは一体何かというのを簡単に述べておきます。  編曲ということはどういうことかといいますと、ある楽曲、いろいろな曲がございますが、それの楽曲を用途に応じてそれぞれ音楽的な方向性とか最もふさわしいスタイルとか様式を決めまして書き直すことを編曲と申します。例えば同じ曲でも編曲次第でいろいろな色合いに変わってきます。わかりやすい例を出しますと、近くにございます武道館なんかで開かれる非常に盛大な音楽祭、こういうところで大変華やかな色彩感を持ったような書き方で書きますとそういうふうに音楽をできますし、それから非常に静かに自宅でリスニングとして耳を傾けたいようなレコードなんかをつくる場合にどういう編曲をすればいいか、これは明らかに書き方ががらっと変わってきます。そういうわけで、編曲ということはある用途をきちっと踏まえて書かないと、同じ曲でありましても全然色合いが違ってきます。  それから、いろいろな用途、つまり教育とかそういった特殊な目的ではない場合の編曲というものはいろいろな趣向を凝らすことが通例でございまして、例えば中で使われているもともとありました和声進行を、もちろん音楽の理論にのっとってではあるのですけれども、和声進行を変えましたり、いろいろな形に変えたりすることが通常よく行われます。ただし、例えば原曲をできるだけ忠実に再現しなければいけないというふうな目的の場合、例えば教材なんかもそうだと思うのですが、そういう場合に編曲者が自由にできる部分というのは非常に限られた部分になります。  それから、今編曲ということを簡単に御説明しました。その次に、教科書の場合に、特に新たな編曲を施す場合は、非常に最深の配慮がなされなければいけないと私は思います。  どういうことか約四つほどまとめますと、一番、原曲の和声進行を尊重しているかどうか。二番、対象児童の年齢にふさわしい、つまり、理解のできる和声づけでの伴奏であるかどうか。三番、社会通念上一般になじんだ和声、これは業界の言葉で申しわけないのですが、よく私たちは定番と申します。この曲の行き方は定番ですねと言うと、だれもがこの曲はこうだというある決まった、社会通念上定着した編曲のパターンがございます。そういうことです。三番、もう一度申し上げますと、社会通念上一般になじんだ和声かどうか。四番目、歌の伴奏であるわけですから、当然歌いやすいかどうか。以上の四つが大事な配慮されなければいけない点だと思います。ただし、この四つの条件を満たしていれば、編曲者によってある程度といいますか編曲者の創意工夫でいろいろな色合いの編曲ができることは、もちろん言うまでもございません。  以上を踏まえまして、一年生から六年生までの教科書のうち、一年生の教科書だけを全部見てまいりました。そこに資料としてお配りしてあると思うのですが、お手元の楽譜、めったにこういう会議場では出ないと思うのですが、ちょっと見ながら御説明したいと思います。  まず、教科書会社、特定の名前を申しませんが、大手の約三社がございます。ほとんど日本じゅうの学校は、多分九割以上はこの三社のどれかを使っているだろうというところで、きょうはその三社をまんべんなくここにリストアップしてございます。大変専門的なことで恐縮ですが、一応耳を傾けてください。  最初の資料の一ページ目にございます「ちゅうりっぷ」という曲ですが、これはどういう例かと申しますと、非常に不適切な和声がついているという例です。一番下の段の、四段目の二小節目の頭のハーモニー、この和音は大変奇妙な音がします。音楽的には間違いではございませんが、大変奇妙な音がする。これは普通、子供に与えるこの「ちゅうりっぷ」という、先ほど私が申しましたいわゆる定番には絶対にないハーモニーで非常に素直さがない編曲、ここは四度のハーモニーにきちっとしなければいけない。  二曲目、「ぞうさん」。これも同じく不適切な和音の例です。二段目の三小節目、頭にGというコードネームが振ってございます。この教科書会社はコードネームをつけるということをずっとやっているようで、これは非常に好ましいことではないかなと思います。若い先生方はギターを弾く先生方もいらっしゃるでしょうし、いろいろな意味でコードネームから和音を判別するというには大変便利な表記法なんですが、ここで書いてございます二段目の三小節目のGというコードは、この曲の場合非常に不適切、これはBフラットというコードでなければいけない。これはなぜかというと、だれがやっても「ぞうさん」の定番はそういうふうになっているから、社会通念上そうだからということです。  三曲目「旅愁」。これも不適切な和音、これは一番下の段です。それの一小節目の四拍目、それから一番下の段の二小節目と三小節目にわたって赤で囲ってございますところのここのハーモニーの行き方は、これは実は不適切とは申しましたが、和声進行という、音楽の場合は数学と非常に似通ったことがございまして、理論できちっと納得ずくで解決できる部分というのは和声の場合にございます。この編曲者は恐らくそれを全く知らないか、知っててわざとしたとは到底思えないのですが、かなりきつく書きましたけれども、和声進行の法則を無視したでたらめな例である。  その次、これは中学一年生ですが、「若者たち」。これも不適切な和音。裏を見てください。「若者たち」の裏側の一小節目の枠で囲ったところ、これもコードネームが書いてあります。Dセブン、Bセブン、Eマイナー、これはやはり和声進行の法則を全く無視した理論上全然受け入れられない進行でございます。  その次、「たなばたさま」。これは拙劣な伴奏編曲と書かせていただきました。拙劣なということは、これは非常に抽象的な言い方で数学のように割り切れないのですが、この伴奏譜は簡易伴奏じゃございません。弾ける人がきちっと弾いてもいいという伴奏なんですね。にもかかわらず、左手の和声づけがほとんど小学生が書いたような譜面、特に二段目あたりはどうしようもない。  その次、「みつばちぶんぶん」。これも同じく拙劣な編曲です。なぜかと申しますと、上に書いてございます。左手の部分、和音が低音域に集まって、聞いたら非常に汚い響きがします。和音というのは、音域によって、同じ開きがありましてもきれいな響きがしたり汚い響きがしたりいろいろな響きがございます。音楽の理論用語で、ロー・インターバル・リミットという言葉がございます。低いところにいったときに汚くなる限界点というのがございます。これはその例を無視したよくない伴奏例。  その次、「きらきらぼし」。これも簡易伴奏じゃございません。弾ける先生が堂々と弾いてくださいという伴奏例なんですが、余りにも何も考えてない、非音楽的な伴奏の例です。我々が見ますとどうしようもない。それに比べて、次のページの「きらきらぼし」は非常にいい例です。ちゃんとした人が書けばこういういい伴奏例がきちっとできるわけですね。非常にこれは美しいです。  その次、「めだかのがっこう」。これは書いてございますように中田喜直さんの作曲のものです。中田喜直さん自身が書かれた伴奏譜が次のページにございます。みんなこれを聞いて育ってきました。我々もそうでした。ただ、それを簡易伴奏に直したものが今のそのページにございます。簡易伴奏に直すというときに、極力少しでも弾きやすくするという工夫はなされるわけなんですが、やってはいけないこととやってもいいことがございます。  まず、一小節目がFのシャープという音を入れるだけで非常に音が豊かになります。これはちょっとした工夫で、それが入ったからといってちっとも弾くのが難しくはなりません。これは原曲の伴奏の雰囲気を損なっております。それから、二段目の二小節目、ここはハーモニーのいわゆる根音と申しますが、そのVIの和音の雰囲気を出す肝心の根音が抜けておりまして、和声として違う和声にとられます。一度の和声のようにとられて原曲のハーモニー感を損なっております。一番最後の小節も同じく、これは一度のハーモニーで左手で一つ伸ばしているだけなのですが、必ず一度、四度、一度といくのがこの「めだかのがっこう」の「みんなでおゆうぎしているよ」、「しているよ」というところのこの響きの変化が子供たちの耳にきちっと本当はついているはずなんですね。これもそれを無視している。というわけで、原曲を無視した和声づけと配慮の足らない編曲の例です。  中田さんのオリジナルのものは一枚飛ばしていただきまして、その次、「うれしいひなまつり」。これは右に書きましたように、対象年齢を無視した独善的な編曲。この編曲は決して音楽的にだめとかなんとか、一部だめなところもあるのですが、さほどそういうことじゃございません。「うれしいひなまつり」というのは河村光陽さんが作曲した古い曲なんですが、河村さん自身のピアノの編曲がございます。ただ、この編曲者は恐らく非常に頑張っておやりになったと思うのですが、これはまず大変歌いにくい。それから、これは小学校の一年生の教材です。とても小学生で理解できるようなハーモニーづけとは思えないようなのが随所に出てまいります。かつ、歌いづらい。そういうわけで、基礎的な和声機能の学習というところには全く適さない。そういう意味で、適材適所という編曲の方向性というところを見誤った編曲者の独善的な編曲である。  その次、「しろくまのじぇんか」。これも歌のメロディーを無視した独善的な編曲。これがオーケストラであれば、ひょっとしたらこの編曲のあるラインはそのまま生きるかもしれません。楽器の音色が変わりますと非常に違った響きを伴いまして、隣同士で音がぶつかっていても邪魔にならないということは音楽の感性上ございます。ただ、これが生徒たちが教室で歌い、先生がピアノで弾いたときに、「かあさんの」の「さん」というところを見てください。ファという音が「さん」の歌のメロディー、伴奏の方はミという音が一番上にきております。ミとファの間の半音だということぐらい恐らく義務教育を受けた人なら皆さんわかるとおりで、これは非常に歌を邪魔する。特に、半音でぶつけるというのは非常に歌いづらい。ところが、この編曲者は「かあさんの」の最初のところはファ、「さん」のところはミ、「しろくま」の「し」というところはレと、ファミレというふうに下がる、こういうラインを求めたかったからやったというのは私にはよくわかります。ただし、歌の伴奏には適しません。  以上、簡単に、いっぱいございますが、例を挙げさせていただきました。  私がとりあえず調べました結果を申しますと、A社は全部で三十二曲の歌の伴奏のうち九曲が不適切、B社は三十九曲中三曲不適切、C社は三十一曲中六曲が不適切。これは全部小学校の一年生です。それから、中学の一年生、A社しか見ませんでしたが、三十一曲中六曲が不適切。これは言ってしまえば実に簡単なことですが、大変な問題をはらんでいるのじゃないかと思います。  以上が、音楽教科書及び指導書の誤りまたは不適切な部分についてという私の意見でございます。  その次、二番目にまいります。教科書の検定方法について。  文部省教科書を検定しているわけです。ところが、指導書は各教科書会社にお任せになっているように聞いております。ところが、教科書の上にはほとんどが歌詞とメロディーしか載っておりません。肝心の伴奏譜は、教科書だけを検定している以上、全くノーチェックで済まされているわけです。こういうことではハーモニーの間違いとかいろいろな音楽的な要素をチェックすることは全くできないと思います。逆に、この伴奏譜をきちっと監修することが一番大事ではないかと思います。実際の現場の教員は事実上教科書会社がつくった指導書を使って授業をしているわけでございます。  それに比べまして、私は仕事の関係上、海外の音楽教育というところも多少いろいろと目の当たりにしておりまして、欧米の音楽教育がどういうふうになっているかというようなあるプロジェクトにもちょっと入っているのですが、よその国はよその国でほっておけということなんですが、例えばアメリカあたりを見ますと、ガバメントはサム・ガイドラインと言っておりますけれども、あるガイドラインは示すけれども、これをやりなさい、こういう歌を歌ってはいけませんということは決してやっていない。いつでも内容が変更できて、非常にフレキシブルな要素を持っております。  アメリカの例をとりますと、四つのエレメントがあるということで、一つはメーキングミュージック、これは音楽をする。つまり、歌ったり弾いたり、小学生から鍵盤にさわらせるということをやっております。二番目は、リスニング・ツー・ミュージック、音楽を聞きましょう。三番目は、ディスカッシング・アンド・ディスクリプション、音楽についていろいろなことを語り合ったり、それから楽譜を書いたりしましょう。四番目は、クリエーティビティー・オブ・ゼア・オウン・ミュージック、生徒たちみずからの音楽の創作、創造性を大事にしましょう、こういったのがアメリカのフォーエレメンツ。この大きなことだけを指針として出して、あとは非常に自由に現場の先生がやっております。  その結果、日本のような立派な検定教科書もありませんので、逆に先生方が生き生きとしてやっているということでございます。しかるに、日本は検定している以上、結果的には間違ったものを使うことを強制していることになっているわけで、これはとんでもない事態ではないかと思います。  それで、この検定方法というのはどういうふうになされているか私もよく存じません。ただ、文部省の中に教科書調査官という立場の方がいらっしゃるようですが、恐らく調査官が独自に判断されているのかどうかよくわかりませんが、もう少し社会通念上よくわかった常識的な音楽家を諮問機関ないしはブレーンにきちっと置いてそういった検定をすべきではないか。往々にして音楽大学、国立で言えば東京芸術大学がございますが、その他優秀な音楽大学が日本にはたくさんあるのですが、音楽大学の先生方というのは、確かに立派な方々も多いわけですが、我々から見ますと、一般にきちっとした音楽をつくっていくということでは非常にふなれな方々もたくさんいるということをぜひここで御記憶いただきたいと思います。  以上が教科書の検定方法についてということでございました。  その次、三番目、教科書及び指導書の誤りの是正の体制。  私がちょっと見ただけでこれだけありました。これは複数のきちっとした人たちが見れば当然いっぱい出てくるのは目に見えております。というわけで、早急に複数の音楽的常識を持った音楽家グループをブレーンとして一般常識的な見地から見直しを図るべきではないかと思います。一年生から六年生までの例えば大きな三つの出版社の教科書を全部チェックするのに、恐らく四、五人でやれば四、五日で済むと思います。それぐらいで簡単にできると思います。  その次に参ります。四番目、教科書の選曲のあり方。  教科書には古い曲とか名曲とかいい曲がたくさん入ってございます。我々もそれで育ってきました。ただ、時代が変わりますとその時代時代に応じた新しい曲が当然入れかえになって古い曲が脱落していきます。これは非常に残念なんです。ところが、現在の出版社から出ている教科書を見ますと、出版社みずからおつくりになっている自由な部分でその出版社がそれぞれかかわっていらっしゃると思われる方々の作曲家のオリジナル曲がたくさん入ってございます。そのオリジナル曲がすばらしい曲であるかどうかというのは一般の人たちが判断することでありますが、私、個人的に見ました結果、ほとんどいいものはありません。逆に非常に質のよくないものも見受けられることもございます。  それよりも、これは私の個人的な見解ですが、古今の名曲は腐るほどございます。そういったいい曲を非常に感受性に富んだ年齢の児童たちに聞かせるチャンスをもっともっと与えるべきではないか、そういう指導こそ文部省がなされて当然ではないかと思います。今、すばらしい作曲家が新しい作品を書くということは非常にクリエーティブでいいことだと思うのですが、それが一般の義務教育教科書にそのままストレートに入ってくるのはどうか。いい曲はもちろん入ってもいいのですが、実態はさほどいい作品というのは、私の音楽家としての目から見ますと、それほどございません。  以上が教科書の選曲のあり方。  その次へ参ります。  五番目、児童の発育段階と音楽性育成の関連というところをちょっと簡単にお話しします。  幼児期の三、四歳ごろから大体子供というのはメロディーを聞き分けられる能力があります。四歳から五歳ごろにかけまして和音判別ができるようになります。これはいろいろな子供の教育を研究しているところではもう既に周知の事実でございます。和音判別ができるということはどういうことかというと、一度の和音、五度の和音、四度の和音という基本の三和音の判別ができる耳がこの辺でできます。それから六歳とかその上の十二歳、十八歳ごろの耳は飛躍的に発達します。この時期を逃しては耳の発達はございません。二十以降はほとんど発達いたしません。  しかるに現状、一年生から三年生、場合によっては四年生ごろまでのクラスではクラス担任が音楽を教えております。残念ながらピアノが弾けるとはおよそ義理にも申せません。それから教育大学とか一般大学の教職課程、そういうところで小学校の教職課程をとる方は当然ピアノもやるわけですが、ピアノをそれから生徒に教えるという立場でやるには、それから音楽的な感性を養うという意味では絶対に無理であると私は断言いたします。  それから、先ほど申しましたように伴奏には二種類あります。普通の伴奏譜と簡易伴奏譜がございます。この簡易伴奏譜というのは、現状の先生方を何とかピアノに向かわせなければしょうがないからつくっているわけです。ところが、この簡易伴奏というのは決していいものとはお義理にも申せません。非常にプアで、全く貧弱な不完全な楽譜でございます。こういう楽譜で子供の音楽教育が行われるということは大変悲しむべきことです。きちっとした伴奏譜でやるべきではないか。最近では子供の方が弾けるケースが大変多いわけで、何子ちゃん弾いてよ、そういうケースがたくさんございます。子供が幼児期に、つまり低学年のころに非常に感受性に富んだ耳を持って受け入れる余地がたくさんあるというお話が今の話でございます。  最後に六番目、教員の音楽能力と指導力及び専科教員の配置について。  今まで申しましたように、児童の耳の発育とか音楽的感性の発育を考えますと、低学年でこそ専科の教員による正しい音楽の授業が行われるべきであると考えます。今は全く逆で、四年生から六年生ごろでやっと本当の音楽のわかった先生に生徒はめぐり会えるというのが現状でございます。各教育大学、例えば私も仕事上いろいろな教授とつき合いがございます。兵庫教育大学、鳴門教育大学、上越教育大学といった教員養成を専門にしている大学とか一般の大学の教職課程を担当している方々とよくお話をしますが、その教授たちはとりあえず皆さん困っていらっしゃいます。何でこんなできない、音楽のわからない者にピアノを教えなければいけないのか、でもしようがないからやっています、どうやったら大量生産で教えることができるでしょうか、そういう会話もよくございます。ただし、結果は目に見えておりまして、決して音楽を教える立場になるレベルには到達できないという結果は目に見えております。  しかるに現在、日本の音楽大学、これはいろいろな学校がございます。ここから毎年卒業してくる学生が約六万人というふうに聞いております。そのうちの半数が教職課程をとったとしても、三万人の若い音楽を専門に勉強した人が巣立っているわけですが、現状はほとんど就職先がございません。最近は音大を出た人が大手の航空会社なんかの秘書室に勤務しているとか、いろいろなことがございます。現在の音大のほとんどの卒業生は行くところがないというのが実は現状でございます。  それから、音楽は数学とか理科とか国語と違って、一生懸命勉強すればだれでも何とかできるようになる、そういったものと少し違う部分を必ず含んでおります。感性が適しているかどうか、いろいろな要素がたくさんございます。それで、だれもが、先ほど申しましたような教育大学でみんながそれを勉強したとしても、自分で楽しむのなら何をやってもいいのですが、いやしくも音楽を教えるというふうなところまでは絶対に到達できない。それにはきちっとした音楽の専門教育を受けた人をぜひ配置していただきたい。子供の一番大事な時期をもっともっとよく考えた音楽教育のシステムをぜひ御検討いただきたいということで、私の意見を終わらせていただきます。ありがとうございました。
  161. 中野寛成

    中野委員 ありがとうございました。もう時間もそうあるわけではありませんので、私は繰り返して申し上げることは避けます。  ただ、項目だけ申し上げますと、教科書の検定方法、指導書の位置づけと指導書に対する文部省のかかわり方、教科書及び指導書の間違いや不適切な部分をどう是正するか、音楽教科書の選曲のあり方、もし教科書にかかわる人が自分の小遣い稼ぎで、まずい表現で恐縮ですが、もし自分のオリジナルを教科書に押し込んで、それで結局本来あるべき姿でないふうに教科書をゆがめてしまっているというふうなことがあっては困ります。そして児童の発達段階に合った音楽教育をしなければなりませんが、一番肝心なところで手が抜けているという指摘、これらのことについてまずお伺いをしたいと思います。
  162. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 たくさん御質問がございましたので、あるいは抜けているかもしれませんが、順次申し上げます。  まず、教科書の検定方法でございますが、これは学習指導要領に基づきまして教科書が編集されるわけでございまして、それが今は検定制度をとっておりますから、民間の創意工夫で編集されまして、文部省に検定申請が出されます。そこで、文部省ではもちろん専門の調査官がいて見ますが、実際的には音楽の場合は五人の専門家の委員会がございまして、そこで慎重に適切に審査が行われまして、そして直すべきところがあれば修正意見がつく、不適切な教科書であれば不合格になるというような答申がその審議会から出ます。教科用図書検定調査審議会と申しますが、その答申に基づきまして検定を行っている、こういう手続でございます。  それから、教科書には教科書会社が発行する指導書がございます。教科書指導書でございます。きょう御指摘になった部分はかなりの部分がその指導書の部分で、実は、教科書の中身も若干あったようでございますが、ほとんどが指導書の部分だと思います。  この指導書につきましては、これは文部省の検定にはなっておりません。これは、教科書会社がそれぞれ独自につくりまして各学校で使用するように売っているわけでございますけれども、任意発行になっております。ですから、文部省の検定を経るとか文部省の目を通すということは一切ないわけでございます。ただ、余りにも指導書が不適切な場合には、学校教育影響もございますので、そういうものが指摘されましたときは教科書会社に適宜指導助言をするというようなことはいたしております。  それから、教科書の間違いがあったらどうするかということでございますが、一般論で申し上げますと、教科書に誤りがございましたら正誤訂正という手続を定めております。教科書の検定は、三年ごとに従来改訂をしておりますから、その改訂の中でも直っていくわけでございますけれども、明らかに誤りという場合には正誤訂正の手続がございますので、これは著者、発行者の申請によりまして、もしそれが本当に誤りであれば直ちに訂正させるという手続を決めております。  教師用の指導書につきましては、これは検定自体をやっておりませんので、この正誤訂正という手続はもちろんございません。ただ、先ほど申し上げましたように、教育上不適切な指導書であれば、それはその都度発行者に注意を促すということになります。  それから、音楽教科書の選曲のあり方でございますが、学習指導要領でまず共通教材というのを決めております。これは、音楽の指導要領では表現と鑑賞の二領域で指導しているわけでございますが、それぞれにつきまして各学年三曲ずつ共通教材、これは国民共通に歌い継ぐ、ないしは聞いて共通の財産とするというような代表的な曲をそれぞれ各学年に三曲ずつ選んでいるわけでございます。この選定に当たりましては、もちろん学習指導要領をつくりますときに音楽の専門家とか、それから学校先生とか、それぞれ理論的にも指導の場でも代表的な方々が十数名、二十名近くお集まりいただきまして、この選定作業をしているわけでございます。  ただ、これはそれぞれ三曲でございますから、教科書はもっと何十曲と入っております。ですから、これはほんの一部でございまして、残りのものは結局発行者といいますか、編集者といいますか、その著者といいますか、その方々が選んで教科書をおつくりになるわけです。ですから、ここにはまさに著者の創意工夫、編集者の創意工夫が生かされるわけでございます。この部分が大変多いわけでございます。  ただ、それはもちろん検定にかかりますから、検定の審議会で、この曲は子供たちの発達段階にふさわしくない、教育的にふさわしくないというものは意見をつけてそれを差しかえる、ないしは適宜修正をするというような手順、手続で教科書を適切なものにするということをいたしております。  以上でございましたでしょうか。
  163. 中野寛成

    中野委員 発達段階、発育段階。
  164. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 発育段階と音楽性の育成のかかわりでございますが、音楽科におきましては、児童の発達段階に応じまして、先ほど申し上げましたように表現と鑑賞の二領域の指導を通しまして音楽性の基礎を培う、小学校でございますので、その基礎を培うということを主要なねらいにしております。そのため、小学校の低学年ではリズムの聴取と表現ということに重点を置いておりますし、中学年では、三、四年でございますが、旋律の聴取と表現、それから高学年では音の重なりや和声の聴取と表現、そういうそれぞれ重点、これは重点だけでございますが、具体的には学習指導要領にかなり発達段階に応ずるきめ細かな規定をいたしております。  また、学習活動の面でも、子供たちの発達段階を考慮しまして、低学年では感覚面を重視した音楽体験、それから中学年では感覚面に歌詞の内容の理解など知的なものを加味した音楽体験、高学年では楽曲の仕組みの理解など知的な面を一層重視して味わいの深い音楽体験を通して音楽への興味と関心を育てる、そしてみずからも音楽活動をしようとする意欲を育てたい、そんなことで小学校の音楽教育をやっているわけでございます。  いずれにしましても、この辺になりますと私も専門家じゃございませんので、この程度でお許しをいただきたいと思います。
  165. 中野寛成

    中野委員 教科書に対する検定はやっておられる。しかも専門委員が数人にわたって検定をされているということでありますが、その教科書につきましては、選曲について、なぜこの人のオリジナルをここにこれだけ入れなければならないのかという不自然さが先ほど指摘をされました。一方、内容につきましては、指導書を中心にして、つけるべき伴奏の和音の不適切な部分、コードネームの間違い等々指摘がされました。いわゆる音楽についてその指導書の果たす役割、教員の果たす役割がある意味では教科書以上に重要だということも先ほど来の参考人の御意見でおわかりいただいていると思うわけであります。  これらのことについて、文部省が関与することが不適切であるとか行き過ぎであるとかという指摘をされる方もあるかもしれませんが、しかし事の性格、そして教科によって大切な部分が指導書、教員の資質ということにあるとするならば、そこに文部省としては当然目が行き届かなければならないであろうというふうに思うわけであります。これらのことについて、先ほど来の参考人指摘に対して文部省としては今後何らか努力をしていこう、こういう工夫をしてみようというお気持ちがありましたら御答弁をいただきたいと思います。
  166. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 きょう初めて聞いたことでございますし、私も音楽の専門家じゃございませんのでわかりませんので、これからよく検討させていただきたいと思います。  ただ、一般論としては、何か伴奏のつけ方にはそれぞれいろいろ多様なつけ方があるというふうに聞いております。したがいまして、最近では現代風な伴奏が付せられているケースも多いということで、検定の立場で言うとかなり許容範囲の幅が本来これは広いんじゃないかなという面があろうと思います。ですから、ある方にとっては不適切というものも、もう一人の方に言わせればこれでいいじゃないかというような問題があろうと思いますので、検定教科書もございましたので、少なくとも検定教科書につきましては、きょう聞かしていただきました点を十分に検討させていただきたいというふうに考えております。  それから、指導書につきましては、これは私ども検定しておりませんが、きょうせっかくの御指摘でございますので、これもあわせて検討いたしまして、もし仮に誤り等がございましたら教科書発行者に指導助言をしていきたいと思います。  いずれにしましても、伴奏のつけ方につきましてはかなり音楽的センス等にゆだねられている許容範囲の広いものというふうに聞いておりますので、十分検討の上、善処をいたしたいと思います。
  167. 中野寛成

    中野委員 事は芸術でございますから、その幅の広さというのはわかるわけでありますが、しかしながら、先ほど参考人言われましたように、例えば業界用語では定番という言葉もあるほどに、ある意味では常識というのがあるわけですね。その常識を外しているようなものがあれば、これはやはり子供の教育にとってはゆゆしいことですから、そのことについては積極的に是正していくという姿勢がやはり必要だろうというふうに思うわけであります。  しかも教員が――時間がありませんから、教員のことについても触れますが、結局多くの教員の皆さんがそういうものを是正して、そして正しいことを教えていくだけの能力というのは、なかなかもってそれだけの能力を持った教師はいない。それどころか、もっと音楽教育そのものがほとんどできない教師が存在をしている。それは決して教師の責めに帰すべきことのみではなくて、専科の教諭をふやすとか日常の教員養成、また、教員の再教育とかについてもっともっと努力をしなければならない部分というのがあるのではないだろうか、こういうふうに思うわけであります。  ゆえに、音楽教育につきましては、もう少しトータルで教科書指導書、教員の資質等々につきましていかにあるべきかをしかるべき専門家の皆さんに諮問をして検討していただく、実態を検討していただく、そして、先般教員免許状で国際化の時代に時代の要請に応じた、例えば世界史の必修科目など提示されたわけでありますけれども日本人の音痴が世界的に有名などということはまさに恥ずかしいことでありまして、むしろ国際化の時代にあって、これから育てていく日本人の音楽教育というものは国際化の時代になればなるほどなお必要でありましょう。そういうことを踏まえた努力が必要だと思いますけれども、その包括的なことにつきまして大臣の御所見をお聞きしたいと思います。
  168. 石橋大吉

    石橋国務大臣 ただいま山室専門委員お話を聞いて大変感を深くしたものであります。  そこで、児童生徒の豊かな情操を、委員は情という表現でなさいましたですが、養い、調和のとれた人間形成を図る上で極めて重要なものである、このような認識を持っております。  このような観点から、今回の指導要領の改訂におきましては、音楽に対する豊かな感性を培うことや個性的、創造的な学習活動が行われるようにすることを重視しての内容の改善を行ったところであります。文部省といたしますと、このような観点に立ちまして新学習指導要領の定着を図って適切な教科書の確保に努めるとともに、教員の指導力の向上や指導体制の工夫等を通じて音楽教育が充実するよう努めてまいりたいと考えております。  いずれにいたしましても、きょうはありがとう存じました。
  169. 中野寛成

    中野委員 基本的に大臣の方から今後大いに努力をしたいという御答弁でございますから、これ以上は申し上げませんけれども、しかし、指導書の問題等も思想的なことに及ぶことはこれは大変なことでございます。しかし、こういう音楽の問題等につきまして、携わる人たちの個性も大切にしなければなりませんが、事教育という視点から教科書指導書をもっと厳密にチェックしていく、また、教員の資質をより一層向上させる、この努力は必要でございますので、ぜひともそのことを踏まえた御検討文部省内でも早急にしていただきまして、対処していただくようにお願いをしておきたいと思います。  残念ながら時間が参りましたので、これ以上申し上げることはできませんけれども、あと一分ほどしかありませんが、参考人、何かございましたら……。
  170. 山室絋一

    山室参考人 最後に、一言だけなんですが、音楽の和声づけその他で非常に許容範囲が広いという局長のさっきの御答弁がございましたが、確かにそのとおりです。ただ、その中でも何が最も適切かというのをきちっと判断できるというところで審議会を持っていただかないと、いつまでたってもこういった教科書でおかしなことが起こるのは目に見えております。  そこでの人選とか、その辺をこの際一応きちっと考えていただきたい。我々一般通常で通用しているという言い方はちょっとおかしいですが、音楽を仕事としている常識的な者から見ますと、大変奇異に映るところというのはたくさんございます。机の上だけで楽譜とにらめっこしている方々ばかりでなくて、もっと生きた音楽家をどんどん文部省に導入なさってはいかがでしょうか、私はそういうふうに思います。
  171. 中野寛成

    中野委員 ありがとうございました。
  172. 鳩山邦夫

    鳩山委員長 次に、山原健二郎君。
  173. 山原健二郎

    ○山原委員 最後の質問になったようですが、最初に臨時教員の問題でお尋ねしようと思ったのですけれども、ちょっと時間の自信がありませんので、最初に新学習指導要領の問題について伺います。  これは、今もお話が出ました国際社会に生きるということが盛んに言われているわけですが、「国際社会に生きる民主的、平和的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。」としたのが文部省の小学校社会科の目標に出ているわけですね。ところが、ことしの二月十八日付のイギリスの有力紙である「エコノミスト」ですが、新学習指導要領案が公表されたときにこういうふうに書いております。「日本文部省学校の時計を一九三〇年代に戻そうとしている」、こういう指摘をしておりますね。その中で「文部省の国粋主義者らは「日の丸」の掲揚、「君が代」の斉唱を義務づけ、戦前での学校で生徒の軍人精神を鼓舞するものに使われた東郷平八郎を四十二人の英雄の中に入れている」、こういう批判的報道がなされております。  引き続いて、三月九日ですが、西岡前文部大臣が外人記者クラブで行った会見でこういうふうに言っております。「我が国は、日清・日露戦争を契機として国力を充実し、国際的地位を向上した日露戦争は日本国の存亡にかかわる重要な戦いだった。それで軍事的な戦争終結の要因となった日本海海戦の提督・東郷を取り上げて指導するのが最も適当」と述べました。このことについて、もう申し上げるまでもなく御承知のように、香港紙、それから朝鮮日報、それからソウル新聞、それから韓国にあります世界日報、これらのいわゆる各商業紙が、北京放送などもそうですけれども、「日本閣僚、また侵略美化」「文相軍国擁護の発言」「日清・日露の侵略戦争美化」などと報じているわけでございます。この委員会でまだ取り上げておりませんが、こういう国際的な批判について文部省としてどういう見解を持っておるか、この点、最初に伺っておきたいのです。
  174. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 今回の学習指導要領の改訂におきまして東郷平八郎が取り上げられたのは、小学校におきます歴史学習で従来から人物とか文化遺産を中心にした学習が大事だ、一層徹底しなければならない、とかく小学校歴史学習も中学や高校のように通史的な扱いがどうしても教科書では多いわけでございますが、やはり小学校段階の子供には歴史上の人物とか文化遺産、そういうものを中心にした学習で興味と関心を持たせる、そういう歴史学習が大事であるというふうに従来から教育課程審議会でも指摘されまして、そしてそういうことで来ているわけですが、なかなか実際の教科書等もそのようにならない。ですから、今回の新しい学習指導要領におきましては、歴史的事象において大きな働きをしました人物を政治や文化など広い面から四十二名取り上げて例示したわけでございます。  したがいまして、その中の一人として東郷平八郎が取り上げられたわけでありますが、小学校歴史学習におきましては、この日露戦争は近代日本の発展過程を学習する上で欠かせない歴史的事象であるわけでございます。それで従来から取り上げてきておりますが、今回の改訂では、その歴史事象を人物中心の学習が一層徹底できるようにするという観点から、日露戦争において日本海海戦の提督として活躍した東郷平八郎を取り上げて例示した、こういうわけでございます。これにつきましては、いろいろの御意見は賛否ございましょうが、私ども趣旨はそういうことで取り上げているということでございます。
  175. 山原健二郎

    ○山原委員 学習指導要領の記述が問題なんですが、小学校社会科六年生では「大日本帝国憲法の発布、日清・日露の戦争、条約改正などについて調べて、国力が次第に充実し、国際的地位が向上したことを理解すること。」こうなっております。この内容では日清・日露戦争をどうとらえるかについては言及しておりませんが、ところが、指導書を見ますとその内容が明らかになります。  小学校指導書・社会では「日清・日露の戦争については明治二十年代から三十年代にかけて我が国が厳しい国際環境に置かれた状況において、これらの戦争に勝利を収め、講和条約を締結することによって、国の安全を確保することができたこと、また国内において工業の発達によって国力が次第に充実したことなどを指導することが考えられる」、こうなっております。  ここには日清・日露戦争の性格、つまり日清戦争は日本と清朝中国とが朝鮮支配を争った侵略戦争であり、また、日露戦争は日本と帝政ロシアが中国東北部、朝鮮の支配権を争った双方の側の侵略戦争であったという性格が欠如しているわけですね。  これは、私はここでちょっと大臣、お帰りになったからお聞きしたいのですが、日清・日露戦争はその後に続くいわゆる十五年戦争を準備した重要な戦争でありますが、日清・日露戦争は侵略戦争であったのか、また、十五年戦争は侵略戦争であったのか、この点について新しい文部大臣はどういう御見解を持っているのでしょうか、まず伺っておきたいのです。
  176. 石橋大吉

    石橋国務大臣 歴史というもの、私はいつも感ずるのですが、Aという国がその事実を眺め、Bという国がその事実を見た場合に全く正反対になる、これはやむを得ないことだな、こう考えております。  侵略戦争であったかどうかということでありますが、その問題について、我が国といたしますと、日清戦争の場合は朝鮮半島というもの、これが仮に侵された場合は日本の国は大変なことになるな、日露戦争におきましては満州、続いて朝鮮半島というものを侵されたら日本は大変なものになるな、この考え方であったと思います。また反対に矛を交えた清国から見れば、朝鮮半島が日本の領有とかあるいは支配下に服したら大変なものになる、ロシアもそのとおりでありますが、お互いが一つの時点を、物事を見た場合に明らかに正反対なことが出るのは歴史上のことについてはたくさんそういうことがあると思います。  その意味からいいますと、新学習指導要領の中で小学校歴史学習、日清・日露戦争というものはいわゆる侵略戦争である、あるいは防衛戦争であるということの思想的な背景というものはとにかくとして、歴史上の事実であった、歴史上の事実ということでこれを取り上げてやはり歴史学習の中で教えることは当然なことであるな、こんなふうに考えております。
  177. 山原健二郎

    ○山原委員 大臣、日清・日露だけおっしゃったのですが、これはまた後で申し上げますけれども、いわゆる十五年戦争についてはどう解釈しておりますか。
  178. 石橋大吉

    石橋国務大臣 私自身あの戦いに一兵卒として参加した一人であります。そして、あのときには明らかに太平洋戦争、いわゆるあのときの日本国の呼称である大東亜戦争、これはいわゆる経済封鎖を受けて民族として生きていけるかどうかという立場、これをとった場合、これを主として考えてみた場合はまさに防衛戦争である、こう思いますが、実際に戦いを宣してやっていった形から見ると、一つの覇権を目指してやった戦いであったなというふうに私は今は思っております。当時は違いますよ、今はそう思っております。でも、最初の満州事変のころ、これは果たしていかがなものであるかということになりますと、当時の世界史全体を見てみますと、いずれも、どの国々もいわゆる資本主義と申しますか軍国主義と申しますか、そんなようなことでそれぞれがそれぞれのところに行って、そしてそこを支配し、その中において自分の国の民族、国民の一人一人を豊かにさせるということでやってきたこともこれもまた事実であろうと思います。世界じゅうがそうしたことであったと思います。  そこで、いわゆる朝鮮半島、満蒙における日本国の権益、これを守るのだという立場をとるか、これはもともと我が国のものでなかったものを、それ以前のことからつながってきたものの中においてしているから、これはやはりよその国のものであったのだから返すべきであるという立場をとっての見方だと、これはもう全然違ってくると思います。  私といたしますと、私の個人の考え方といたしますと、いわゆる前期の戦争というものは、これは守りの範疇の中に置いていいではないかなという感じ方を持っております。ただ、今の歴史がそのようなことであるから、では今からの問題として戦いを起こすあるいは起こされる――戦争というものの悲惨さというのは、これはもう味わったことのない方々には本当はわかりません。大変なことであります。命を取ることが、相手を殺すことがいさおであるという哲学でありますから、こんなことは全くこれからはあってはならないし、また、絶対に構えてはならないことだと思います。私はもう一点、暴力革命、これも戦争と全く同じような形を過去においては全部とっております。この二点、戦争というもの、暴力革命というものはこれからの人類の歴史の中においては絶対にあってはならないこと、しむけるような形もとってはならないこと、そう私の体験の中において本当に銘記いたしております。
  179. 山原健二郎

    ○山原委員 同じように戦中派ですから、私も戦場におった者でございますから、あなたのおっしゃることは一部わかりますけれども、しかし、歴史をどう見るかという点は、教育の問題でも非常に重大な問題で、教科書の記述について外国からもいろいろ言われ、また、文部大臣あるいは総理大臣がかわるたびに、あの日清・日露の問題あるいは十五年戦争が侵略であったかどうかということが問われてきたわけです。今までの私の接した文部大臣は、侵略戦争であるとはっきり言うものもおりましたし、また、はっきり答えなかったものもおりますけれども、大体そういうことであったわけです。  ただ、時間の関係がありますから先へ進みますけれども、この日清・日露の戦争の結果はどうであったかといいますと、日清戦争によって中国からの賠償金や中国における諸特権のほか、遼東半島と台湾を割譲させ、日本が初めてここで植民地を持つ結果となったわけです。また、日露戦争においては、ポーツマス講和条約によって日本は朝鮮の単独支配権を確立し、樺太南半分を取り、遼東半島の租借権、南満州鉄道の経営権を獲得するというものであったわけです。これは明らかにアジア諸民族に対する抑圧です。そして、その犠牲のもとに日本の国力が充実したというものなんです。  しかも、現行教科書、高校日本史では、日露戦争の犠牲として次のように書いてあります。文部省が検定した教科書に今書いてあるわけですが、「日露戦争は国民生活にあたえた影響も深刻であった」「この戦争を通じて動員された軍人軍属の総数約百三十万人、戦没者数約八万八千人、戦傷病者数約四十四万人、捕虜約二千人にたっした」、こういうふうに現在の教科書が記述している。勝利したということを教えるのではなくて、今あなたがおっしゃった、こういう戦争を再び繰り返してはならない、こういう視点で教科書は書かれておるし、また、戦後の憲法に基づいた教育の基本はここなんです。  だから、侵略戦争と認めるかどうかということは非常に重大な中身を持っているわけです。我が国が過去においてやった行為というものが侵略戦争であるということを認めたって恥ずかしくも何ともない。それは新たな平和を生み出す力になるわけですが、そこのところをあいまいにすることが非常に問題なんです。だから今まで、戦後、この国会において常にこのことが問題になっておるわけでして、気持ちはわかるのですけれども、これを侵略戦争と規定するかどうかということは非常に重要な問題ですが、もう一回お答えをお聞きしておきたいのです。     〔委員長退席、臼井委員長代理着席〕
  180. 石橋大吉

    石橋国務大臣 先ほどから申し上げておりますが、結局、その起こったことを第三者的な立場で物を判断する、あるいはAとBとの立場でAはA、BはBの立場において物を判断する、これは大変な差異が起こってくると私は思います。  そこで、先ほどの戦争の前期、満州事変といいますか、このことについてやや軌道修正をしておきたいと存じますが、いわゆる鉄道の爆破事件、張作霖の事件あるいはあのときに登場した関東軍の諸君の行い、そうしたことをつづっていってみますと、これは、その観点を重く見た場合は、我が方からしかけた侵略戦争であるかなという感じも持つわけであります。  しかし、いずれにいたしましても、歴史の事実というのは教えねばならない、そして、そのようなことを再び起こしてはならないよということをきちっとせねばならないな、こう考えるものであります。
  181. 山原健二郎

    ○山原委員 日本国憲法は「政府行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」こう述べております。日清・日露、それに続く十五年戦争に対する反省こそ、これが平和を確立する先決であるというのが大体今までの立場です。  したがって、日清・日露戦争、また十五年戦争は侵略戦争であって再び繰り返してはならないというのが戦後国民が決意したところだと思います。だから、教科書はもう明らかに十五年戦争については侵略。この言葉を文部省は検定で変えようとして、進出というふうに変えるという問題であの教科書問題が大きくなったわけです。さらに、現在の教科書は帝国主義戦争として日清・日露戦争を見ているわけでして、いわゆる分割・侵略戦争と教科書に書いてあるのです。  だから、このことは文部大臣にはっきりお認めになっていただく必要があると私は思います。むしろ、これはストレートに、侵略であったというそのことの反省の上に立って新たな平和を確立する国家として、また子弟を教育していくという立場をとっていただきたいと思うのです。そういう意味では、この戦争肯定の学習指導要領並びに指導書は撤回すべきだと私は思います。  この点についてもうちょっと触れてみたいと思いますが、この日露戦争に関連づけられて、今回、学習指導要領に東郷平八郎が登場してくるわけですけれども、これはどういう経緯ですか、四十二人の中にどうして入ったのですか。  もう一つは、中島元文部大臣が月刊Asahiの八九年九月号で、「東郷元帥で日本海海戦は語れても、日露戦争の全体像を語れますか。私は無理だと思いますよ。」と言って歴史上の人物に取り上げることに反対されまして、そのことを次の西岡文部大臣に伝えたと語っているわけですが、このことは事実でしょうか。そして中島文部大臣では、つまり東郷平八郎は入らないことになるので、次期文部大臣である西岡さんの出現を待って告示したのではないかと思われますが、そういう経過じゃないのですか。簡単にお答えください。
  182. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 この東郷平八郎が取り上げられましたのは、先ほど申し上げましたように、日清・日露の戦争という歴史的事実を小学生といういわば発達段階にございます児童に教える際に歴史上の人物を中心として教える、それに代表的な人として掲げているわけでございます。これはそれ以外の歴史的事実、事象につきましても、それぞれ代表的な人を選びまして四十二人取り上げているわけでございますが、これを決めるに当たりましては、学習指導要領の作成協力者の会議で慎重に検討いたしまして、これはもちろん専門の方とか歴史学者とか学校先生とか、たくさん入っていらっしゃるわけでございますが、検討をして、それぞれの歴史事象にどの人がふさわしいかということで選んだわけでございます。  その決定に至ります間にはいろいろな御意見はもちろんございました。ございましたが、そうした作成協力者の御意見に基づいたのと、そして最終的には西岡大臣のときにこれを決定して告示した、こういう経緯でございます。
  183. 山原健二郎

    ○山原委員 私は、むしろ非常に政治的な経過と判断せざるを得ないのです。ただ、中島文部大臣がこのことに関して一定の抵抗をしたという、自民党の中にもそういう考えを持っている方がおられたということは一つの救いですよ。  東郷平八郎というのは、私ども子供のときからその人のことを習って育った人間です。これは生きながらにして軍神と言われた人物です。日露戦争における連合艦隊司令長官、その後満州事変、十五年戦争へと強引に戦争を推し進めた人物であることも間違いありません。それは記述は幾らも証明することができます。しかも、無敵日本艦隊の宣伝とともに軍神東郷と、いわゆる軍国主義のシンボルとなった人でしょう。その東郷を入れたねらいは何か。一体、東郷平八郎を入れることによって何をどう教えようとしているのかということが問題なのです。  時間の関係でずっと申し上げてみたいのですが、この新学習指導要領に東郷平八郎が入れられたことによりまして、既に東郷平八郎についての授業が行われています。  私は今ここへ、ことしの十月十八日に東京都文京区のある小学校六年生を対象に区社会科研究会の公開授業で行われたものを持ってきているのです。この小単元名は「条約改正と日清・日露の戦争」として、その授業の内容は「日露戦争(2)〈東郷平八郎と戦艦三笠〉」、こういうことになっております。それで、行われた研究授業をたくさんの人が見るわけです。それを見ますと、こういうふうになっているのですよ。  まず第一番に、「日本の連合艦隊が勝った。」「日本の被害はあまり多くない。」「どうやって勝ったのだろう。」ということが出てくる。子供たちに資料が配られる。これは昭和十三年の小学校国語読本の尋常科用ですが、その文章をわかりやすく直したものというのです。それを見ますと、これはもうまさに戦争ごっこといいますか、これは私どもが習ったものが配られるのです。  いわゆる「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ。」その中身は何かというと、「天皇の国、日本の生きるか死ぬかは、この戦いで決まる。一人一人が今まで以上に努力してがんばりなさい。」というのがいわゆる皇国の興廃、Z旗の問題なのです。これが配られて授業が行われるのです。  その次に、資料をもとに連合艦隊の勝因を調べる、勝った原因を調べて子供たちに発表さす。それには「丁字戦法について、戦艦の形のマグネットを操作し、作戦の工夫を予想する。」「正面からの打ち合い」「両側からはさむようにして攻撃」する、それを戦艦の形のマグネットを使って授業が行われるわけです。御承知のように、バルチック艦隊の前にT字形に並んだ有名な東郷ターンですけれども、そのことが克明に教えられるわけです。  それから、さらに教案の中を見ますと、「東郷の名をとった道や商品まであるほど世界各国で話題になった。」「日本が力のある国々の仲間に入った。」その次に「まとめる」として、「本時の学習でわかったことを、グループで話し合い、カルタの言葉にまとめる。」かるたにする。それは「フィンランドではビールになった東郷さん」「日本の勝利で世界は大騒ぎ」「世界もびっくり”東郷ターン”」というようなかるた。そして、最後の「評価」では「日本海海戦における東郷平八郎率いる連合艦隊の活躍を通して、日露戦争の勝利が国際的に高い評価を得、日本の国際的地位がさらに向上したことを、カルタの言葉にまとめることができたか。」こういうふうになってくるわけですね。  こういうふうに、言うならばこれはまさに教育というよりも軍隊、今で言えば自衛隊における作戦訓練を見ているような教育が早くも行われた。戦争ごっこといいましょうか、いわゆる軍事教育ともいえましょうか、余りオーバーな言葉を使いたくありませんけれども、本当に戦争に対して無批判な子供に対してこういう形で戦争は勝ったんだという、そういう作戦の動きまで教えるというところまで東郷平八郎を新学習指導要領で取り扱うことによって早くも来ているわけですね。私は、これを見まして、本当に文部省、一体何を考えているのかなという気がしますが、そのことを御承知でしょうか。
  184. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 一々の各学校におきます授業の展開につきましては承知しておりませんが、ただ、私どもが今回の小学校学習指導要領におきまして東郷平八郎を入れましたのは、先ほど来申し上げておりますように、小学校歴史学習でも、この日露戦争は近代日本の発展過程を学習する上では欠かすことのできない歴史的事象であるということでございます。そして、その日露戦争において人物中心の学習を一層徹底するという観点からは、軍事的に戦争終結の要因となりました日本海海戦の提督として代表的な東郷平八郎を取り上げて指導するということで例示したわけでございます。  しかし、日清・日露の戦争、この日露戦争につきましても、もちろん戦争に際しましては朝鮮半島とか中国の人々に大きな損害を与えたことも事実でございます。ですから、このような戦争の影の部分にも気づかせるように指導してほしいということで、文部省指導書にもその点を書いているわけでございます。
  185. 山原健二郎

    ○山原委員 私が今申しました児童に配った資料は、昭和十三年の小学校国語読本巻十一の文章をわかりやすくそのまま書いたものですね。戦前の教育勅語体制下の教科書を今登場させるということは、私は初めての経験です。しかも公的な機関がやるわけですからね。これは戦後教育体制のもとでは否定されたものがここへ出てくるわけでしょう。これは、こんなことになって全国広がっていくわけです。こういう研究授業をやって社会科の先生に見てもらって散らばっていくわけですからね。しかもここにある、今読み上げました「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ。」という言葉が載っているが、その説明として「天皇の国、日本の生きるか死ぬかは、この戦いで決まる。一人一人が今まで以上に努力してがんばりなさい。」こういうことでしょう。何の説明もなしに「天皇の国」となれば、児童は、我が国は天皇の国と思わざるを得ない。まさに憲法に違反するわけでしょう。憲法の前文にある、主権は国民に存在するという主権在民国民主権の立場というのは本当に教育の場で崩れていっているのが実態なのです。  私は、そういう意味で、もうこれ以上申し上げませんけれども文部省がとられた、新学習指導要領をつくられ、そして指導書となってくると、まさに戦後四十年間、戦前の教育の反省の上につくられた教育がこういう形で崩されていく、そこに東郷平八郎という人物を登場させたあなた方の意図があるのではないかと思わざるを得ないわけです。これは私はやはり指導要領から削除すべきものだと思います。指導要領は撤回すべきだ。もっと国民的な合意を得ることが今、日本教育の前進にとって必要なことだと私は思うのですが、この点についての見解を伺いたいのです。
  186. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 このたびの学習指導要領につきましては、数年をかけまして教育課程審議会で十分専門家、それから教育の実際の場にいらっしゃる方々の慎重な討議に基づきまして御答申をいただき、その答申に基づきまして、全国から約六百名を超えます専門家や学校先生方等にお集まりいただきまして、これも時間をかけて英知を集めてつくった学習指導要領でございます。  したがいまして、二十一世紀に生きる子供たちのための教育のあり方としては最も現時点において適切なものというふうに考えておりますので、その趣旨を一層徹底してまいりたいというふうに考えております。
  187. 山原健二郎

    ○山原委員 文部省は二度とあの過ちを犯してはならぬと思いますよ。私ども本当は軍国主義少年に育てられたのですよ。でも、本当に戦争が済んでみたとき、あの戦争に対して本当に反省したかどうかが今問われているのです。だから、このことを申し上げたのです。  時間がありませんから、次に日の丸君が代の問題ですけれども、これを国旗国歌とする法的定めというものはこれまで存在しないことは、歴代の政府答弁で明確なところです。これを国旗国歌とする唯一の政府の論拠も、実は慣習によって定着しているということだけなんですね。この論拠の解釈自体も国民の間には議論のあるところですが、問題は、日の丸君が代国旗国歌考えるかどうか、ふさわしいかどうかは国民自身の判断であり、個人の内面にかかわる思想、良心の自由の問題であるということであります。憲法に「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と明確にうたっているわけでございますが、これに属する問題だと私は思っております。  アメリカでの判決で、一九四三年、これはちょうど第二次世界大戦の真っ最中です。アメリカでもこのときは非常に国家主義的な雰囲気が高まったときですね。このときに、いわゆるバーネット裁判があるわけですね。これは、ある生徒が国旗に対して敬意を表明しないということで退学になり、お父さんは罰金に処せられるというものでございますが、これは、州の法律によってアメリカ国旗、星条旗に敬礼を強制することに対して、それに従うかどうかは個人の思想、良心の自由に照らして違憲か合憲かが争われたものでありました。連邦最高裁は個人の自由、広くは表現の自由としてこれを侵すものとして厳しく断罪をした。これはその後のアメリカ教育行政に大きな影響を与えています。本来、国旗国歌というのは、これを強制できない性質を持ったものであることをこのアメリカにおける判決の事例は示しておるというふうに思うわけですね。  まして日本の場合は、過去の侵略戦争と結びついた忌まわしい体験があるわけです。日の丸君が代については異論があるのです。これを掲げることを好む者もおりましょう。歌うことも何の異論も思わない人もおるでしょう。しかし、異論もあるのです。事実あるわけでしょう、沖縄においてもどこにおいても。議論が分かれている問題ですね。これを画一的に一方の見解で縛ろうとすること自体、民主主義を踏みにじる行為であり、憲法で保障された個人の思想、良心の自由を侵すものではないか。内閣法制局長官でさえ、強制するにはそのための法律が別途必要となると今まで答弁をしてきているわけですね。これを強制することに問題があると私は思うのですが、この点は、文部省、どう考えていますか。
  188. 菱村幸彦

    ○菱村政府委員 今御指摘になりましたバーネット事件の判決は、これは学校指導することを違法としているわけではなくて、要するに国旗掲揚してそれに向こうの、国旗礼拝というようですが、いろいろ動作がございまして、そしてそういう礼をする、その行為をするということを拒否した、これは宗教上の理由と聞いておりますが、その子供につきまして懲戒処分として退学という、放校といいますか非常に厳しい処分でありましたから、それを違法としたと思うわけでありますが、同判決は、その前提として愛国心教育の必要性は十分認めると判決で言っております。そしてその方法として、国旗掲揚というようなことは当然の前提にしているわけでございます。  ただ、それに子供が従わなかった、その従わなかった子供を退学にするという処分はやはりこれは行き過ぎではないかということで違法判決があるというわけでございまして、今回の学習指導要領は、子供にそういうことを、子供にまず適用のあるものではございません。学習指導要領というのは教師に対する基準でございますから、教師がそれに従って指導をするということでございます。したがいまして、バーネット判決に示されましたその内容とは次元を異にしている問題であるというふうにまず理解いたします。そして、いずれの国におきましても、国旗掲揚したり国歌指導すること自体が違法であるというような国は、私はないというふうに思っております。
  189. 山原健二郎

    ○山原委員 きょうも、これに従わないものは処分せよという話が出ましたけれども、あなたはそんなふうにおっしゃるが、これはすごいのですよ。このジャクソン判事の判決は名判決と言われて、しかも現在なおアメリカ教育界においてこの判決は生きておりまして、その後幾つかの事例がありますけれども、この判決はすごいものです。民主主義に対する確固たる信念がこの中に書かれております。これを私は読んで感動したのですけれども、最後のところをちょっと読み上げます。  「強制的に反対を除去し始める人々は、やがて反対者を絶滅させようとしていることに気づく。意見の強制的な統一は墓場への統一をもたらすにすぎない」、これはジャクソン判事の言葉なんですね。民主主義とはそんなものだ。これは手をこう持っていったとかそういうことじゃなくて、その行為も、あるいは日の丸を掲げよ、君が代斉唱せよと言われたときにある先生がそれは私の過去の経歴と信念に基づいてできないと言った、それと同じなんですね。その本人の持っているものを抑圧する、あるいは処分をするということは、まさにこれはジャクソン判事が否定しているものにつながるわけなんですよ。     〔臼井委員長代理退席、委員長着席〕  そして、今度私は、ことしの二月十八日、全国公立学校教頭会第十三回中央研修会、ここへ出ました文部省の熱海審議官の発言をここへいただいてきたわけですが、これは日の丸君が代についての教育の研修会ですわね。最後に「自分の思想信条に合わないから教えないというなら、公立学校の教員やめて塾を開けばいい。」これですよ。そんな権利が文部省にありますか。冗談じゃないですよ。そういうことで日本教育が過去においてゆがめられたということですからね。  だからこれらについては、本当に教育というのは、もうあなた方に申し上げる必要もないと思いますけれども、本当に教育における指導というのはあくまでも説得と納得を通じて行うのが基本です。学校教育における取り組みは自主的、創造的になされるべきで、教職員の合意が大切なんです。強引にやって学校現場を混乱させ、子供たちを傷つけるようなことのないように、このために万全の注意を払うのが教育行政の責任なんですね。私はそのことを強く申しておきたいと思います。きょうはもう時間がありませんし、もう一つの問題を抱えておりますので、この問題はこれでおきますけれども、私の教育観を含めて皆さんに申し上げた次第でございます。  もう一つは、もう少し時間がありますので、これは文化庁、おいでいただいておいてお待たせしまして恐縮です。  特別天然記念物のオナガドリのことですけれども、これが特別天然記念物というのは、「天然記念物のうち世界的に又国家的に価値が特に高いもの」というふうに見られてそういう指定をされておると思いますが、そういうふうに解釈してよろしいでしょうか。
  190. 遠山敦子

    ○遠山政府委員 特別天然記念物についてのお尋ねでございますけれども、動物、植物などのうち、「学術上貴重で、わが国の自然を記念するもの」については、文化財保護法に基づきまして天然記念物に指定されておりまして、これら天然記念物のうち特に価値が高いものにつきましては特別天然記念物として指定されているという意味で、先生の御指摘のとおりであります。
  191. 山原健二郎

    ○山原委員 このオナガドリは、江戸時代にさかのぼって、これは土佐の、特に農民たちの努力で今日まで系統維持が図られてきましたが、さきの戦争の際に飼育数が著しく減少しまして、絶滅に瀕するという事態もあったのですけれども、これをわずかな保存会の人たちが努力して乗り越えて、今ここへ来ております。  ところが、現在再びこの数が減りまして、また飼育後継者も次第に少なくなり、飼育に当たっているオナガドリ保存会の会員も現在ではわずか十一名、そのうちほとんどの方が高齢化しております。さらに、個体数減少に伴う近親交配などが原因となりまして、尾が伸びない、抜けやすい、ふ化率が悪い、死ごもりなどが多くて、質的な悪化も生じております。戦後二度目の危機と言われている事態を迎えているわけですが、これについて文化庁としてどういう認識をされておるかということと、現在は措置としてえさ代への助成がなされているわけです。その補助額は国、県、市合わせて飼料代年百三万円で、これに対して国が二分の一で、五十一万五千円を出しておられます。それと五万円の活動費補助が出ているにすぎません。しかし、尾を伸ばす期間は七年とか十年とかいう長期に及びまして、非常に手間もかかる、だからとても採算が合わないという状態、後継者もいなくなるという状態にあるわけでございます。  この点で、特別天然記念物の保存についての何らかの対策がとられないのか、あるいは飼育技術に対する畜産試験場等の援助など、行政機関としてやるべきことがあるのではないかと思いますが、その点についての御見解をお聞きしたいのです。
  192. 遠山敦子

    ○遠山政府委員 オナガドリの尾の羽が長く伸びるという特性は、遺伝的な形質に加えまして特殊な飼育技術が相まってあらわれるというふうなことで、その形質を保存するということにつきましては大変難しい飼育技術を要するというふうに考えております。このようなことを前提といたしまして、文化庁といたしましても、従来、管理団体である南国市に対しまして、御指摘のようなえさ代等につきまして国庫補助を行ってきたところでございます。  今日、絶滅の危機に瀕しているかどうかの問題につきましては、現在の数がまだ数百羽いるというような話もございますし、そのようなことも含めまして、高知県等におきまして現在取り組みを検討中というふうに聞いております。文化庁といたしましても、そのような検討結果なり御意向なりをよく承って、可能な面における協力を行いたいというふうに考えております。
  193. 山原健二郎

    ○山原委員 最後に、臨時教師の問題ですが、もう一問だけ御質問をしておきたいと思います。  定数内の臨時教員が全国的にふえておりまして、臨時教員のうち定数内補充をしておるところが一九八五年、四年前の調査ですと、鹿児島で八四・三%、鳥取で六九・七%、島根で六九・六%、徳島が六四・二%で、臨時教員の半数以上が定数内補充という実態でございます。そして、その中で本来ならば定数内補充をなくして正教員として任用すべきだと私は思うのですけれども、そういうふうにならないわけですね。  そして長期にわたって臨時教員のままで放置されて、年齢が二十九歳になりますと大体ここで年齢制限で教師に採用の道が閉ざされてしまうというのが、もう非常に多いんですね。その手記などを見ましても、本当に胸が詰まるような状態です。三月三十一日まで一年間働いて、ここで首が切れて四月一日からまたつながる。これを何年も繰り返し、中には九年繰り返して二十九歳になって、そこで完全にお払い箱というような例も出ているわけでございます。  この点について、一つは、ぜひ実態調査をしていただきたいんです。なかなか実態をつかむことができませんので、文部省としまして、そういう意味で大体どういう実態にあるのか、これをしていただきまして、そしてこの臨時教員はいわゆる教育公務員、各県教育委員会と雇用関係が成立している、いわゆる職員なんですね。したがって、臨時教員は、大学卒業予定者と同じ扱いではなくて、二回も試験をやるんじゃなくて、辞令切りかえで教師として採用すべきである、こういうふうに思いますが、この点についてのお答えをお聞きしまして、きょうの質問は終わりたいと思います。
  194. 倉地克次

    ○倉地政府委員 臨時教員の実態でございますけれども、これは、昭和六十三年度末の教員人事異動状況調査というのがございまして、平成元年五月一日現在の数でございますが、産休補助員の教員としては約七千六百人、それから育休代替教員として約一万二千七百人、病休代替教員として千八百六十四人ということになっているわけでございます。また、このほかに、採用予定者に対する採用候補者の不足による欠員補充、それから児童生徒の変動に伴う教員定数の変動に対応するなどの理由によりまして、一年程度の期限を付して任用されている者が約三千五百人ということになっている次第でございます。  各都道府県におきましては、以上のようなことで臨時教員の任用を行っておるわけでございますので、これはやむを得ないのではないかというふうに考えている次第でございます。  それから、辞令切りかえのお話でございますけれども、これは地方公務員法の規定がございまして、「臨時的任用は、正式任用に際して、いかなる優先権をも与えるものではない。」ということでございますので、臨時教員であるからといって、正式任用に当たって何らかの便宜を図るということは困難だというふうに考えている次第でございます。  以上でございます。
  195. 山原健二郎

    ○山原委員 一言。これは本当に私、実態を今度お伝えしますが、実態を見ていただいて、そんな冷たいことを言わないで対処していただきたいという気持ちがいっぱいです。けれども、きょうはもう時間の関係でこれで終わります。ありがとうございます。
  196. 鳩山邦夫

    鳩山委員長 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。     午後五時二十分散会