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山室参考人 御
紹介いただきました、私、職業を音楽の方、作曲、編曲その他というところで専門にしております。
私がきょう
お話ししようと
思いますのは、私自身、子供の父親として子供の
学校の音楽の授業その他を見ておりました中で感じましたこと、それからもう一つは、仕事の上で、今
文部省がいろいろやっていらっしゃいます検定の
教科書に係るある音楽を一部つくったりという、そういう中でいろいろ感じましたことが多々ございまして、その辺のことをきょうは
お話しさせていただきたいと
思います。
大きくテーマとしましては、今の小
学校、中学、高校という三つの検定
教科書を使っているところで使われている音楽の
教科書の問題点、それからもう一つは、現在の教員の音楽
指導能力というところである問題点と、その二つに絞りたいと
思います。
早速ですが、まず一つ目、音楽
教科書及び
指導書の誤りまたは不適切な部分についてと、いきなりはっきり申し上げるのですが、このテーマで二、三
お話しします。
まず、
教科書というものは、生徒に配付するいわゆる
教科書というものがございまして、それを
教える
先生のための
指導書というその二つから一応成り立っていると
考えられます。
教科書には、一部の曲を除きましてはほとんど伴奏の楽譜は載っておりません。
先生は、それぞれの
教科書に
対応した
指導書、この
指導書というのはそれぞれの
教科書会社が独自につくっているものでございますが、その
指導書に示されている伴奏譜を使うのが通例でございます。それから、伴奏譜といいますのは原作者が書いた原典、いわゆるオリジナルというもののほかに第三者が後で伴奏だけを編曲したもの、大きく分けますとその二つがございます。
きょうの問題提起の対象となるのはその後の方です。原作者、例えば亡くなりました芥川也寸志さん、これは生きておりますが團伊玖磨さん、それから中田喜直さん、そういった方々もたくさん
教科書に曲を提供なさっています。こういう方々は、伴奏譜も最初から作曲と同時にできているわけで、それが載っかっているわけですが、そうじゃないいろいろな曲の場合に、例えば外国曲でありますとかそういうものは第三者、つまり編曲者、作曲者といった音楽家の方がそれを編曲するわけです。
それで、ここで後から述べます
指導者の音楽能力というところでも触れるわけなんですが、伴奏譜にはピアノを演奏する能力があれば弾ける通常の伴奏譜、それから、これが実は
日本の現状で大変残念なんですが、ほとんど弾けない
先生方のための簡易伴奏、通常の伴奏語と簡易伴奏の楽譜という二種類が
指導書の中には載っております。
それで、きょうはいろいろ
お話しする中で編曲ということが実に大事な要素になってきますので、編曲とは一体何かというのを簡単に述べておきます。
編曲ということはどういうことかといいますと、ある楽曲、いろいろな曲がございますが、それの楽曲を用途に応じてそれぞれ音楽的な方向性とか最もふさわしいスタイルとか様式を決めまして書き直すことを編曲と申します。例えば同じ曲でも編曲次第でいろいろな色合いに変わってきます。わかりやすい例を出しますと、近くにございます武道館なんかで開かれる非常に盛大な音楽祭、こういうところで大変華やかな色彩感を持ったような書き方で書きますとそういうふうに音楽をできますし、それから非常に静かに自宅でリスニングとして耳を傾けたいようなレコードなんかをつくる場合にどういう編曲をすればいいか、これは明らかに書き方ががらっと変わってきます。そういうわけで、編曲ということはある用途をきちっと踏まえて書かないと、同じ曲でありましても全然色合いが違ってきます。
それから、いろいろな用途、つまり
教育とかそういった特殊な目的ではない場合の編曲というものはいろいろな趣向を凝らすことが通例でございまして、例えば中で使われているもともとありました和声進行を、もちろん音楽の理論にのっとってではあるのですけれ
ども、和声進行を変えましたり、いろいろな形に変えたりすることが通常よく行われます。ただし、例えば原曲をできるだけ忠実に再現しなければいけないというふうな目的の場合、例えば教材なんかもそうだと思うのですが、そういう場合に編曲者が自由にできる部分というのは非常に限られた部分になります。
それから、今編曲ということを簡単に御説明しました。その次に、
教科書の場合に、特に新たな編曲を施す場合は、非常に最深の配慮がなされなければいけないと私は
思います。
どういうことか約四つほどまとめますと、一番、原曲の和声進行を尊重しているかどうか。二番、対象児童の年齢にふさわしい、つまり、
理解のできる和声づけでの伴奏であるかどうか。三番、社会通念上一般になじんだ和声、これは業界の言葉で申しわけないのですが、よく私たちは定番と申します。この曲の行き方は定番ですねと言うと、だれもがこの曲はこうだというある決まった、社会通念上定着した編曲のパターンがございます。そういうことです。三番、もう一度申し上げますと、社会通念上一般になじんだ和声かどうか。四番目、歌の伴奏であるわけですから、当然歌いやすいかどうか。以上の四つが大事な配慮されなければいけない点だと
思います。ただし、この四つの条件を満たしていれば、編曲者によってある程度といいますか編曲者の創意工夫でいろいろな色合いの編曲ができることは、もちろん言うまでもございません。
以上を踏まえまして、一年生から六年生までの
教科書のうち、一年生の
教科書だけを全部見てまいりました。そこに資料としてお配りしてあると思うのですが、お
手元の楽譜、めったにこういう
会議場では出ないと思うのですが、ちょっと見ながら御説明したいと
思います。
まず、
教科書会社、特定の名前を申しませんが、大手の約三社がございます。ほとんど
日本じゅうの
学校は、多分九割以上はこの三社のどれかを使っているだろうというところで、きょうはその三社をまんべんなくここにリストアップしてございます。大変専門的なことで恐縮ですが、一応耳を傾けてください。
最初の資料の一ページ目にございます「ちゅうりっぷ」という曲ですが、これはどういう例かと申しますと、非常に不適切な和声がついているという例です。一番下の段の、四段目の二小節目の頭のハーモニー、この和音は大変奇妙な音がします。音楽的には間違いではございませんが、大変奇妙な音がする。これは普通、子供に与えるこの「ちゅうりっぷ」という、先ほど私が申しましたいわゆる定番には絶対にないハーモニーで非常に素直さがない編曲、ここは四度のハーモニーにきちっとしなければいけない。
二曲目、「ぞうさん」。これも同じく不適切な和音の例です。二段目の三小節目、頭にGというコードネームが振ってございます。この
教科書会社はコードネームをつけるということをずっとやっているようで、これは非常に好ましいことではないかなと
思います。若い
先生方はギターを弾く
先生方もいらっしゃるでしょうし、いろいろな
意味でコードネームから和音を判別するというには大変便利な表記法なんですが、ここで書いてございます二段目の三小節目のGというコードは、この曲の場合非常に不適切、これはBフラットというコードでなければいけない。これはなぜかというと、だれがやっても「ぞうさん」の定番はそういうふうになっているから、社会通念上そうだからということです。
三曲目「旅愁」。これも不適切な和音、これは一番下の段です。それの一小節目の四拍目、それから一番下の段の二小節目と三小節目にわたって赤で囲ってございますところのここのハーモニーの行き方は、これは実は不適切とは申しましたが、和声進行という、音楽の場合は数学と非常に似通ったことがございまして、理論できちっと納得ずくで解決できる部分というのは和声の場合にございます。この編曲者は恐らくそれを全く知らないか、知っててわざとしたとは到底思えないのですが、かなりきつく書きましたけれ
ども、和声進行の法則を無視したでたらめな例である。
その次、これは中学一年生ですが、「若者たち」。これも不適切な和音。裏を見てください。「若者たち」の裏側の一小節目の枠で囲ったところ、これもコードネームが書いてあります。Dセブン、Bセブン、Eマイナー、これはやはり和声進行の法則を全く無視した理論上全然受け入れられない進行でございます。
その次、「たなばたさま」。これは拙劣な伴奏編曲と書かせていただきました。拙劣なということは、これは非常に抽象的な言い方で数学のように割り切れないのですが、この伴奏譜は簡易伴奏じゃございません。弾ける人がきちっと弾いてもいいという伴奏なんですね。にもかかわらず、左手の和声づけがほとんど小学生が書いたような譜面、特に二段目あたりはどうしようもない。
その次、「みつばちぶんぶん」。これも同じく拙劣な編曲です。なぜかと申しますと、上に書いてございます。左手の部分、和音が低音域に集まって、聞いたら非常に汚い響きがします。和音というのは、音域によって、同じ開きがありましてもきれいな響きがしたり汚い響きがしたりいろいろな響きがございます。音楽の理論用語で、ロー・インターバル・リミットという言葉がございます。低いところにいったときに汚くなる限界点というのがございます。これはその例を無視したよくない伴奏例。
その次、「きらきらぼし」。これも簡易伴奏じゃございません。弾ける
先生が堂々と弾いてくださいという伴奏例なんですが、余りにも何も
考えてない、非音楽的な伴奏の例です。我々が見ますとどうしようもない。それに比べて、次のページの「きらきらぼし」は非常にいい例です。ちゃんとした人が書けばこういういい伴奏例がきちっとできるわけですね。非常にこれは美しいです。
その次、「めだかのがっこう」。これは書いてございますように中田喜直さんの作曲のものです。中田喜直さん自身が書かれた伴奏譜が次のページにございます。みんなこれを聞いて育ってきました。我々もそうでした。ただ、それを簡易伴奏に直したものが今のそのページにございます。簡易伴奏に直すというときに、極力少しでも弾きやすくするという工夫はなされるわけなんですが、やってはいけないこととやってもいいことがございます。
まず、一小節目がFのシャープという音を入れるだけで非常に音が豊かになります。これはちょっとした工夫で、それが入ったからといってちっとも弾くのが難しくはなりません。これは原曲の伴奏の雰囲気を損なっております。それから、二段目の二小節目、ここはハーモニーのいわゆる根音と申しますが、そのVIの和音の雰囲気を出す肝心の根音が抜けておりまして、和声として違う和声にとられます。一度の和声のようにとられて原曲のハーモニー感を損なっております。一番最後の小節も同じく、これは一度のハーモニーで左手で一つ伸ばしているだけなのですが、必ず一度、四度、一度といくのがこの「めだかのがっこう」の「みんなでおゆうぎしているよ」、「しているよ」というところのこの響きの変化が
子供たちの耳にきちっと本当はついているはずなんですね。これもそれを無視している。というわけで、原曲を無視した和声づけと配慮の足らない編曲の例です。
中田さんのオリジナルのものは一枚飛ばしていただきまして、その次、「うれしいひなまつり」。これは右に書きましたように、対象年齢を無視した独善的な編曲。この編曲は決して音楽的にだめとかなんとか、一部だめなところもあるのですが、さほどそういうことじゃございません。「うれしいひなまつり」というのは河村光陽さんが作曲した古い曲なんですが、河村さん自身のピアノの編曲がございます。ただ、この編曲者は恐らく非常に頑張っておやりになったと思うのですが、これはまず大変歌いにくい。それから、これは小
学校の一年生の教材です。とても小学生で
理解できるようなハーモニーづけとは思えないようなのが随所に出てまいります。かつ、歌いづらい。そういうわけで、基礎的な和声機能の
学習というところには全く適さない。そういう
意味で、適材適所という編曲の方向性というところを見誤った編曲者の独善的な編曲である。
その次、「しろくまのじぇんか」。これも歌のメロディーを無視した独善的な編曲。これがオーケストラであれば、ひょっとしたらこの編曲のあるラインはそのまま生きるかもしれません。楽器の音色が変わりますと非常に違った響きを伴いまして、隣同士で音がぶつかっていても邪魔にならないということは音楽の感性上ございます。ただ、これが生徒たちが教室で歌い、
先生がピアノで弾いたときに、「かあさんの」の「さん」というところを見てください。ファという音が「さん」の歌のメロディー、伴奏の方はミという音が一番上にきております。ミとファの間の半音だということぐらい恐らく義務
教育を受けた人なら皆さんわかるとおりで、これは非常に歌を邪魔する。特に、半音でぶつけるというのは非常に歌いづらい。ところが、この編曲者は「かあさんの」の最初のところはファ、「さん」のところはミ、「しろくま」の「し」というところはレと、ファミレというふうに下がる、こういうラインを求めたかったからやったというのは私にはよくわかります。ただし、歌の伴奏には適しません。
以上、簡単に、いっぱいございますが、例を挙げさせていただきました。
私がとりあえず調べました結果を申しますと、A社は全部で三十二曲の歌の伴奏のうち九曲が不適切、B社は三十九曲中三曲不適切、C社は三十一曲中六曲が不適切。これは全部小
学校の一年生です。それから、中学の一年生、A社しか見ませんでしたが、三十一曲中六曲が不適切。これは言ってしまえば実に簡単なことですが、大変な問題をはらんでいるのじゃないかと
思います。
以上が、音楽
教科書及び
指導書の誤りまたは不適切な部分についてという私の意見でございます。
その次、二番目にまいります。
教科書の検定方法について。
文部省は
教科書を検定しているわけです。ところが、
指導書は各
教科書会社にお任せになっているように聞いております。ところが、
教科書の上にはほとんどが歌詞とメロディーしか載っておりません。肝心の伴奏譜は、
教科書だけを検定している以上、全くノーチェックで済まされているわけです。こういうことではハーモニーの間違いとかいろいろな音楽的な要素をチェックすることは全くできないと
思います。逆に、この伴奏譜をきちっと監修することが一番大事ではないかと
思います。実際の現場の教員は事実上
教科書会社がつくった
指導書を使って授業をしているわけでございます。
それに比べまして、私は仕事の
関係上、海外の音楽
教育というところも多少いろいろと目の当たりにしておりまして、欧米の音楽
教育がどういうふうになっているかというようなあるプロジェクトにもちょっと入っているのですが、よその国はよその国でほっておけということなんですが、例えば
アメリカあたりを見ますと、ガバメントはサム・ガイドラインと言っておりますけれ
ども、あるガイドラインは示すけれ
ども、これをやりなさい、こういう歌を歌ってはいけませんということは決してやっていない。いつでも内容が変更できて、非常にフレキシブルな要素を持っております。
アメリカの例をとりますと、四つのエレメントがあるということで、一つはメーキングミュージック、これは音楽をする。つまり、歌ったり弾いたり、小学生から鍵盤にさわらせるということをやっております。二番目は、リスニング・ツー・ミュージック、音楽を聞きましょう。三番目は、ディスカッシング・アンド・ディスクリプション、音楽についていろいろなことを語り合ったり、それから楽譜を書いたりしましょう。四番目は、クリエーティビティー・オブ・ゼア・オウン・ミュージック、生徒たちみずからの音楽の創作、創造性を大事にしましょう、こういったのが
アメリカのフォーエレメンツ。この大きなことだけを指針として出して、あとは非常に自由に現場の
先生がやっております。
その結果、
日本のような立派な検定
教科書もありませんので、逆に
先生方が生き生きとしてやっているということでございます。しかるに、
日本は検定している以上、結果的には間違ったものを使うことを強制していることになっているわけで、これはとんでもない事態ではないかと
思います。
それで、この検定方法というのはどういうふうになされているか私もよく存じません。ただ、
文部省の中に
教科書調査官という立場の方がいらっしゃるようですが、恐らく
調査官が独自に
判断されているのかどうかよくわかりませんが、もう少し社会通念上よくわかった常識的な音楽家を諮問機関ないしはブレーンにきちっと置いてそういった検定をすべきではないか。往々にして音楽大学、国立で言えば東京芸術大学がございますが、その他優秀な音楽大学が
日本にはたくさんあるのですが、音楽大学の
先生方というのは、確かに立派な方々も多いわけですが、我々から見ますと、一般にきちっとした音楽をつくっていくということでは非常にふなれな方々もたくさんいるということをぜひここで御記憶いただきたいと
思います。
以上が
教科書の検定方法についてということでございました。
その次、三番目、
教科書及び
指導書の誤りの是正の体制。
私がちょっと見ただけでこれだけありました。これは複数のきちっとした人たちが見れば当然いっぱい出てくるのは目に見えております。というわけで、早急に複数の音楽的常識を持った音楽家グループをブレーンとして一般常識的な見地から見直しを図るべきではないかと
思います。一年生から六年生までの例えば大きな三つの出版社の
教科書を全部チェックするのに、恐らく四、五人でやれば四、五日で済むと
思います。それぐらいで簡単にできると
思います。
その次に参ります。四番目、
教科書の選曲のあり方。
教科書には古い曲とか名曲とかいい曲がたくさん入ってございます。我々もそれで育ってきました。ただ、時代が変わりますとその時代時代に応じた新しい曲が当然入れかえになって古い曲が脱落していきます。これは非常に残念なんです。ところが、現在の出版社から出ている
教科書を見ますと、出版社みずからおつくりになっている自由な部分でその出版社がそれぞれかかわっていらっしゃると思われる方々の作曲家のオリジナル曲がたくさん入ってございます。そのオリジナル曲がすばらしい曲であるかどうかというのは一般の人たちが
判断することでありますが、私、個人的に見ました結果、ほとんどいいものはありません。逆に非常に質のよくないものも見受けられることもございます。
それよりも、これは私の個人的な
見解ですが、古今の名曲は腐るほどございます。そういったいい曲を非常に感受性に富んだ年齢の児童たちに聞かせるチャンスをもっともっと与えるべきではないか、そういう
指導こそ
文部省がなされて当然ではないかと
思います。今、すばらしい作曲家が新しい作品を書くということは非常にクリエーティブでいいことだと思うのですが、それが一般の義務
教育の
教科書にそのままストレートに入ってくるのはどうか。いい曲はもちろん入ってもいいのですが、実態はさほどいい作品というのは、私の音楽家としての目から見ますと、それほどございません。
以上が
教科書の選曲のあり方。
その次へ参ります。
五番目、児童の発育段階と音楽性育成の関連というところをちょっと簡単に
お話しします。
幼児期の三、四歳ごろから大体子供というのはメロディーを聞き分けられる能力があります。四歳から五歳ごろにかけまして和音判別ができるようになります。これはいろいろな子供の
教育を研究しているところではもう既に周知の事実でございます。和音判別ができるということはどういうことかというと、一度の和音、五度の和音、四度の和音という基本の三和音の判別ができる耳がこの辺でできます。それから六歳とかその上の十二歳、十八歳ごろの耳は飛躍的に発達します。この時期を逃しては耳の発達はございません。二十以降はほとんど発達いたしません。
しかるに現状、一年生から三年生、場合によっては四年生ごろまでのクラスではクラス担任が音楽を
教えております。残念ながらピアノが弾けるとはおよそ義理にも申せません。それから
教育大学とか一般大学の教職課程、そういうところで小
学校の教職課程をとる方は当然ピアノもやるわけですが、ピアノをそれから生徒に
教えるという立場でやるには、それから音楽的な感性を養うという
意味では絶対に無理であると私は断言いたします。
それから、先ほど申しましたように伴奏には二種類あります。普通の伴奏譜と簡易伴奏譜がございます。この簡易伴奏譜というのは、現状の
先生方を何とかピアノに向かわせなければしょうがないからつくっているわけです。ところが、この簡易伴奏というのは決していいものとはお義理にも申せません。非常にプアで、全く貧弱な不完全な楽譜でございます。こういう楽譜で子供の音楽
教育が行われるということは大変悲しむべきことです。きちっとした伴奏譜でやるべきではないか。最近では子供の方が弾けるケースが大変多いわけで、何子ちゃん弾いてよ、そういうケースがたくさんございます。子供が
幼児期に、つまり低学年のころに非常に感受性に富んだ耳を持って受け入れる余地がたくさんあるという
お話が今の話でございます。
最後に六番目、教員の音楽能力と
指導力及び専科教員の配置について。
今まで申しましたように、児童の耳の発育とか音楽的感性の発育を
考えますと、低学年でこそ専科の教員による正しい音楽の授業が行われるべきであると
考えます。今は全く逆で、四年生から六年生ごろでやっと本当の音楽のわかった
先生に生徒はめぐり会えるというのが現状でございます。各
教育大学、例えば私も仕事上いろいろな教授とつき合いがございます。兵庫
教育大学、鳴門
教育大学、上越
教育大学といった教員養成を専門にしている大学とか一般の大学の教職課程を担当している方々とよく
お話をしますが、その教授たちはとりあえず皆さん困っていらっしゃいます。何でこんなできない、音楽のわからない者にピアノを
教えなければいけないのか、でもしようがないからやっています、どうやったら大量生産で
教えることができるでしょうか、そういう会話もよくございます。ただし、結果は目に見えておりまして、決して音楽を
教える立場になるレベルには到達できないという結果は目に見えております。
しかるに現在、
日本の音楽大学、これはいろいろな
学校がございます。ここから毎年卒業してくる学生が約六万人というふうに聞いております。そのうちの半数が教職課程をとったとしても、三万人の若い音楽を専門に勉強した人が巣立っているわけですが、現状はほとんど就職先がございません。最近は音大を出た人が大手の航空会社なんかの秘書室に勤務しているとか、いろいろなことがございます。現在の音大のほとんどの卒業生は行くところがないというのが実は現状でございます。
それから、音楽は数学とか理科とか国語と違って、一生懸命勉強すればだれでも何とかできるようになる、そういったものと少し違う部分を必ず含んでおります。感性が適しているかどうか、いろいろな要素がたくさんございます。それで、だれもが、先ほど申しましたような
教育大学でみんながそれを勉強したとしても、自分で楽しむのなら何をやってもいいのですが、いやしくも音楽を
教えるというふうなところまでは絶対に到達できない。それにはきちっとした音楽の専門
教育を受けた人をぜひ配置していただきたい。子供の一番大事な時期をもっともっとよく
考えた音楽
教育のシステムをぜひ御
検討いただきたいということで、私の意見を終わらせていただきます。ありがとうございました。