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参考人(瀬沼克彰君)
日本余暇学会の瀬沼でございます。
日ごろ
余暇問題を研究しておりまして、その一端をお話しさせていただきたいと思います。
本年、私ども
余暇を研究している者にとりまして大変画期的といいますか、非常に興味深い、意義深いことがあったのでございます。それは、きょうパンフレットを持ってきたんですけれども、オーストラリアが建国二百周年記念で万国博を実施いたしました。そのときのテーマが工業化社会における
レジャーということで、通称
レジャー万博というふうに言われまして、新聞その他で報道されて皆さん御存じかと思いますけれども、
レジャー万博ということで、
レジャーが万博のテーマになったということで大変意義深い年でございました。
技術時代の
レジャーということでございまして、私八月に行ってまいりましたのですけれども、ハイテクを駆使した
レジャーというものが各国でパビリオンをつくっておりました。しかし、ハイテクばかりではなくて、私一番感心しましたのは大道芸といいますか、ストリートパフォーマンスといいますか、そういうハイテクに対してその反対のヒューマンタッチといいますか、人間的な触れ合いということを主催者側が大変重視いたしまして、各国の大道芸の方々に呼びかけて、四月上旬から九月の下旬まで開催されたのでございますけれども、延べで一万五千人の方々をお招きしてパビリオンの広場とかいろいろなところでやっておりまして、そちらの方がどうも皆さん関心が深かった、こんなことがございました。
本日、今、一番ケ瀬先生から主として工業社会における
余暇と
労働というお話がございましたので、私はその後を受けまして、私
自身の関心分野といいますか、関心を持っているテーマといたしまして、むしろ脱工業化社会、工業化社会の次の社会で一体
余暇がどういうふうになるのであろうかということをずっと
考えたり書いたりしてまいりましたので、少しお話ししてみたいと思います。
レジュメを準備いたしましたので、それをちょっとごらんいただきたいと思うんですけれども、今そういう万国博のテーマに
レジャーがなったということで、
余暇社会とか
余暇時代とかということが頻繁に使われております。果たして、じゃ
日本が
余暇社会というふうなことが言えるのかということなのでございますけれども、私は結論的にはまだまだ
余暇社会には至っていないというふうな
考え方をいたしております。
八〇年代から九〇年代の社会というものがどういう社会になっていくかという中で、そこにメモいたしましたような文化の時代になるとか、それから
生活の質の向上が極めて高くなるとか、それから主体性のある自主的
生活づくりとか、物質的なものから精神的な豊かさが求められるとか、そういうふうなトレンドがございます。欧米各国ともつい最近まではクォリティー・オブ・ライフということが大変重視されておりましたけれども、どうもこの数年前ぐらいからはクォリティー・オブ・ライフよりもむしろアメニティー・オブ・ライフなんだということで、
生活の質とともに快適な
生活ということが叫ばれてきたように思います。
その中で
余暇ということが改めて重視されつつあるというふうに思うのでございますけれども、
余暇社会の成熟ということを
考えたときに、私はこの五つの
条件を
考えているんです。
一つは
余暇時間がある一定の長さに達するということでございます。確かにまだ
日本の
労働時間は長いんですけれども、一定の長さに達したことは間違いない。それから、
労働に従属する
余暇からの脱皮ということで、
労働が重要で
余暇はそのためにある、そういう
考え方というのは一時代前にはあったんですけれども、ほとんどこれは
日本でも今そうではなくなってきたというふうに思われます。大変近年
余暇意欲というものが高まってきております。
それから、今の一番ケ瀬先生のお話にもございましたが、
余暇活動を行うにはお金がかかるのでございますけれども、いわゆる自由裁量所得が大変増加してきて、
余暇に充てる費用が捻出できるようになったということもございます。冒頭申し上げました
余暇社会にはまだ
日本は至っていないというので私が一番重視しておりますのは、その五番目にございます
余暇の主体的形成ということで、この点がまだまだ
日本では劣っているのではないかというふうに思われるわけです。
そのときの、じゃ
余暇というのは一体どういうことなんだと、これはもうずっと先生方も何人かの
参考人から
意見を聞かれまして御理解いただいているかと思うんですけれども、ここに書きました図式はパリ大学のデュマズディエという教授がつくった図式でございまして、
余暇というのは、
労働から解放された時間に行うところの休息と気晴らしと自己啓発活動の総称というふうに彼は定義したんです。実はその定義というのは一九六〇年代の定義でございまして、先ほどのデュマズディエ教授はその
考え方を、どうも
自分の
考え方は最近はこの
考え方ではなくなってきたということを最近になって言ってきております。
というのは、今一番ケ瀬先生も御指摘になったんですけれども、工業社会における
余暇というものと脱工業社会における
余暇というものはかなり違うということでございます。これからの
国民生活で
考えていく場合に、私
たちは今工業社会の中に半分の足を入れて、そしてもう半分の足でその次の階段のステップを脱工業社会ということで踏もうとしておりますので、後ほど申し上げる政策的な観点としましては、両者に関係するあるいは両者にまたがった政策的なものが必要ではなかろうかというふうに
考えられますけれども、私はどちらかというと次のステップを、冒頭申し上げましたとおり主として
考えております。
それで、じゃどういうふうに次の
段階で
余暇というものの定義が変わってくるかと申しますと、それは次の二ページでございます。
工業化社会におきましては、そこにございますように、
仕事時間というのは大体生涯で
考えまして十万時間ぐらい、それに対して
余暇は総トータル二十万時間ということでございます。ただし、この
労働と
余暇というものが大きく分かれてしまったということが大変大きな問題点でございます。
と申しますのは、これまでの社会におきましては
労働と
余暇というものは切れ目のないものであったということが、工業化社会になりまして大きく二つが離れてしまった、再びこれからの社会になってまいりますと、
仕事と
労働の二つがまたかつての時代みたいにだんだん近づいてくるというところが工業社会の
余暇の定義とかなり違うことになってくるわけであります。最近アメリカにおきましては、
ヨーロッパも、先ほどのデュマズディエもそうなんですけれども、
余暇と
労働というものを二元的に
考えてきた、それを近年におきましては、
余暇と
労働というものを一元のものとして一元的に
考えていくということが大体今の
考え方として強く出てきております。
特にその中で、最近皆さん方もお聞きになると思いますけれども、フュージョンという
考え方が大変出てくる。あえて訳せば融合というふうに訳せるかと思うんですけれども、
労働と
余暇というものを限りなく融合さしていくということが脱工業社会における目標であるというふうなことでございます。
そのとき、じゃ一体最終的に
余暇というのは何なんだといいますと、私
個人でずっと
考えてまいりましたのは、
余暇の最終目標というのは、
個人といたしましては自己実現、
自分というものを限りなく生涯の中で成長、発達さしていくということが
個人にとっての恐らく最終目標でありましょうし、それから、それは社会的には
余暇を使って地域の独自な文化をつくっていくというのが恐らく最終の目標になるのではないか。従来の
余暇論でいきますと、その二つを離してしまって、
労働に関係なく
余暇というものをとらえておりましたけれども、これら二つを合体さした形でこれからは
考えていかなければならないということになってきたのではなかろうかと思います。しかし、それはこれからの問題でございまして、現在の工業社会におきましてはまだまだそこまで至らない多くの課題が残っているということでございます。
したがいまして、その次に、現在の工業社会で発生している
余暇問題といたしましてはとにかく
余暇時間が少ないと、これはもう先生方、皆さんからお聞きになったことであろうと思います。しかし、生涯時間で
考えると
余暇というのは決して少なくないということも御理解いただいたんではなかろうかと思います。
そこにございますように、学校に行っている時間よりもむしろ
余暇時間の方が長いとか、それから職業期におきまして、二十二歳から六十歳というのは大変忙しいように思うんですけれども、ここで十万時間を
仕事で費やしたといたしますれば、大体七万時間ぐらいはこの時期にも
余暇時間があるということでございます。それから、退職期におきましては約十万時間ぐらいの
余暇があるということですから、私
たち日本人は、確かに
労働時間が長くて
余暇時間は短いと
考えますけれども、絶対数で
考えるとそれほど
余暇時間は短いものではないということがございます。
それから、二番目の
余暇意識におきましても、最近
余暇重視の
考え方が大変多くなってきている。中年クラスは、そこにございますように、まだ
仕事志向が強いんですけれども……。
ここで
一つちょっとミスがございまして、申しわけございません。ヤングは
余暇重視が八〇%で、
仕事重視が二〇%でございます。ヤングは
余暇重視である。高齢者も大変
余暇重視になってきております。こういう現状があります。
それから三枚目に参りまして、
日本人が
余暇重視になってきたのは大変いいんですけれども、ただ一方では
仕事への意識がだんだんと低下しつつあるということも指摘できるのではないか。その中で
会社離れということが近年顕著になってまいりました。今までの
余暇というのは、どちらかというと
職場を中心に
余暇活動が行われていたんですけれども、近年では
職場離れということで、ある電機メーカーの例で調べましたところ、昭和四十年代には文化とか体育のスポーツクラブに入っている加入率が八〇%ぐらいあったんですけれども、それが近年では二〇%に大変落ちてしまったとか、それから、これは先ほど一番ヶ棚先生からも御指摘がありましたが、
仕事意識の高い少数者と
仕事外に関心を持つ多数者への二極分化、最近はやりの言葉で言いますと、アフターファイブが
本当の
自分だというふうなことが特に若い
人たちの中で出てきております。
それから中年の方
たちも、一方では一生懸命もちろん働いているわけですけれども、
人生が八十年になったということで、かつてのように中年のときに一生懸命全力投球しないで余力を残していくという働き方、もうこれは当然でございますけれども、働き続けるためにはゆっくりと働かなければならないという働き方がふえてきております。それから、技術革新の時代でございますので、今までの熟練工の方々が、技術が一夜にして単純
労働に落ち込むというふうなこともございます。それから、これはもう特に若い人を中心にして
仕事がおもしろくないという
人たちが増加している。
そういうことをいろいろ
考えてまいりますと、今まで高い我が国の生産性というものがございましたけれども、これから
余暇問題といいますか、
余暇がだんだんふえてまいりますと、
一つの心配として
日本人全体がイタリア病とか
イギリス病とか、そういうふうに言われますような
仕事から逃走する下地というものも一方では形成されつつあるということが指摘できると思います。
そして、それに対しまして
余暇問題に関しまして欧米流の解決策というのは、私は時間短縮であったのではなかろうかというふうに思います。時間を短縮することによって
余暇問題というものを解消していく。それで、その
余暇の受け皿といたしまして、大変安い、いい、充実した施設を国内各地につくっていく、そういう政策があったかと思うんです。
日本でもちろんそのいい点はたくさん学ばなければいけないんですけれども、私は、むしろ
日本的な解決法というのは、欧米型の
余暇問題の解決法とは異なるのではなかろうかというふうに
考えておりまして、まさに今最も新しいといいますか、先ほど申し上げた
余暇と
労働というものを一元論で、フュージョンで
考えると、そういうふうな解決法というものを図っていく必要があるのではないかというふうに思います。
それで、次のページに参りまして、
余暇活動の現状につきましてはもう簡単に触れさしていただきます。
工業社会から脱工業に移る過程の中で、そこに書きましたようなお金よりもむしろ時間をたくさん使っていこうとか、それから人のまねはしないで
自分なりの
余暇をやっていきたいとか、それから先ほどの企業の人と
一緒にどこか
余暇に行くのじゃなくて、ファミリーで行きたいとか、地域の
人々といろんなことをしたいとか、そういうふうな
傾向が出てきております。それから、先ほどの工業化社会の
余暇の定義で言えば、気晴らしとか休息を重視する
余暇ではなくて、むしろ
自分を高めたいという
余暇がだんだん台頭してきたというふうなこともございます。
それから、最近の
余暇志向といたしましては、かつての
日本人の
余暇といいますと、ギャンブルとか、それから気晴らしが多かったんですけれども、最近は、そこにございますような健康とか自然、それから学習、家族、コミュニティー、創作、コミュニケーション、そういった方向に
余暇が動いてきているということがございます。
それから、その次に五ページに参りまして、それでは一体
余暇というものを創造的に過ごすためにはどうしたらいいかということになりますと、
これはもう
本当に、どなたかからも指摘があったかと思いますけれども、私も
日本人の
余暇能力がどうしても低い。
余暇能力というのは
余暇を有効に活用する力と
考えますと、これを育成していく必要があるのではないか。
余暇を実際に行うためには、時間とそれからお金それから活動エネルギー、体力、知識、技術、仲間、こういうものが必要でありまして、どちらかというと今まで、時間短縮ももちろん大事なんですけれども、時間短縮だけが論議されてまいりまして、
余暇を十全に過ごすためのほかのものに対する検討というものが余りなされてこなかったという実情が我が国はあるのではなかろうかというふうに
考えますと、確かに時間もお金も必要だけれども、むしろ最も大事なのは知識と技術ではないか、この点が相当
日本の場合には劣っているのではないかというふうに思います。
それで、じゃ一体
余暇の能力というものをどういうふうにつけたらいいのかということで、非常にラフな図式を書いてみたわけですけれども、知識と技術を習得するためには時間がかかるということをここで言いたいわけでございます。例えば
音楽にいたしましても絵画にいたしましても、やはりいいものを見たり聞いたりしませんと、なかなか
自分でやりたいというふうにはなりませんので、そういう時間が恐らく千時間ぐらい必要であろう。そして、そういう見たり聞いたりして、その次の
段階といたしましては
自分で実際に楽器を演奏してみるとか、あるいは絵筆をとってみるとか、そういうふうなことになる。それで、それをさらにずっとやっておりますとだんだん
自分も力がついてまいりまして、人に教えたいとか、あるいはもっとレベルが高くなってまいりますと
本当に
自分らしさというものをつくり出せるということになってまいります。
さまざまな
余暇活動でどういうふうに人が伸びていったかという追跡研究をやってみますと、大体
一つの科目をかなりマスターするのに十年近くかかっているというふうなこともケーススタディーでとってみたことがございます。したがいまして、かなり前から本格的にやってきませんと、
余暇の能力というものはレベルアップしないということがあろうかと思います。
最後に政策提言ということでございますので、幾つかのことを
考えてまいりました。
一つは、ちょっとメモには書いてないのでございますけれども、第一といたしましては、私は時間配分政策というふうに呼んでいるんですが、これは国でないとできない。例えば
バカンスで各国が
夏休みに物すごく生産性が落ちるとか、それから交通事故が物すごく起こるとかということがございまして、ドイツなどでは州によって分けた
休暇をやっているというお話もございます。
そこで、
日本では恐らくいい
休暇制度として四季
休暇ということがいいのではないか、いわゆるフォー・
シーズン・
バカンスということで、
日本では
夏休みだけを四週間というのではなくて、四季折々の季節に一週間ずつとっていくというふうな
休暇制度。それから縦に長い列島でございますので、ローカルホリデーということで、北海道と東北と関東と、みんな
休暇が、学校の休みも違ってくるというふうなことも、そう実現が難しいことではないのではないかというふうに思います。そういう
休暇制度。
それと、これは学校
教育とも大変関係するんですけれども、今までは工業化社会の中での
教育ということですから、読み書きそろばんを初めといたしまして、今までの学校
教育というものが主として職業準備
教育がなされてきた。その職業準備
教育で
日本は経済的にこれだけ発達してきたわけですけれども、これだけ豊かな社会になって、クォリティーライフとかアメニティーライフということが大事なことになってまいりますと、
余暇教育といいますか、
余暇を独自に過ごすための
教育の必要性がある。
これは各国の
教育制度を調べてみますと、多くの先進国が小学校、中学校レベルにおきましては、いわゆる将来の職業のための準備
教育は半日だけ、国語、算数、理科、社会という科目は半日だけやって、午後はそういう国語、算数はやらないで、絵の好きな
子供は学校のアトリエに行く、体操の好きな
子供は体育館に行く、あるいはグラウンドでサッカーをするというふうに、将来の
余暇のための
教育、学習ということに大変重点を置いてやってきているということを
考えますと、
余暇能力というものは一朝一夕にできませんので、なるべく
子供時代に
余暇を将来活用できる能力というものを身につけておく必要があるのではないかと思います。
時間配分政策といたしましては、学校時代にすべての職業
教育ばかりでなくて、これは生涯
教育という
考え方になろうかと思いますけれども、欧米各国ともこの十年前ぐらいから継続
教育ということで、学校卒業以降のいわゆる勤め人といいますか、サラリーマンの
人たちをどうやってもう一回学校に戻すかという、リカレント
教育というふうに呼ばれておりますけれども、これが活発になってまいっております。ですから、例えばアメリカなどで、ある南の大学とか、西の方の暖かいところの大学では約五〇%の
人たちが大学のキャンパスに学生になって行っているとか、それからコミュニティーカレッジというものが大変普及している。そこに行っているのは十八歳人口ではなくて、ほとんど
大人の
人たちである、成人の
人たちであるということで、これは
ヨーロッパ各国も独自な成人
教育というものをやっております。
したがいまして、それには
教育休暇というものがございませんと学校に再び戻ることができませんので、各国とも
教育休暇というものを義務づけているということでございますけれども、我が国におきましては、
教育休暇というものは全く存在しないということで、ようやく一部の
労働組合で
教育休暇の要求ということを出し始めたというふうに思います。
教育休暇というものがなければ、とてももう一度学校に行って再び学び直すということはできませんので、そういうふうな、中年のときに
仕事ばかりでなくて
余暇も……。逆に高齢期になりますと今度はもう毎日が
余暇ばかりということですので。
それから、小学校、中学校は受験で非常に忙しい。どうもその辺は
国民の時間配分ということがうまくいっていないのではなかろうか。工業化社会の時間配分だったけれども、脱工業化社会では時間配分が相当変わってくる。したがって、それの政策といいますか、その配分の仕方ということはこれは
本当に国でなければできないと思いますので、そこらにつきまして各国の事情を
参考にして配分政策を変えていく、そういうことが必要ではないかと思います。
特に国レベルにおきましても、
余暇問題というのは御承知のとおりすべての省庁に絡みます。関係のない省庁というのはございませんぐらいにすべての各省庁に絡む問題でございますので、どこかコーディネートするような省庁の窓口が必要ではなかろうかという気がいたします。
それから、地方自治体におきましてはいろんな事業を行っておりますけれども、まだまだ
条件整備がおくれているということが目立つのではなかろうか。かといって、国もそうですけれども、財源が豊かな時代ではございませんので、私は、そう高い値段ではなくて民活方式のような、民間企業が
余暇とかスポーツ、文化活動の場というものを整備するような
日本独自の方法があってもいいのではないかというふうに思います。ですから、地方自治体が民間あるいは財団法人、公益法人等と連携した形で
自分の地域にいい施設をつくっていく必要があるのではないかと思います。
あと、
国民的なサイドの問題としましては、やっぱり能力をつけていく。時間短縮が可能になった、さあどうするとなったときに、その時間というものを有効に活用できないという
人々が非常に多いわけでございますので、
余暇の能力を小さいうちから開発する。それから、中年の場合には、もう一度学校なりそういったものを習得できるところに行きまして能力開発を図る必要があるのではないか、このように思います。
まだほかにもあろうかと思いますけれども、一応その程度にとどめさしていただきます。