運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1988-09-07 第113回国会 参議院 国民生活に関する調査会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和六十三年九月七日(水曜日)    午前十時五分開会     ─────────────   出席者は左のとおり。     会 長         長田 裕二君     理 事                 岩本 政光君                 大塚清次郎君                 斎藤栄三郎君                 山口 哲夫君                 高木健太郎君                 近藤 忠孝君     委 員                 井上 吉夫君                 小野 清子君                 大島 友治君                 斎藤 文夫君                 寺内 弘子君                 中曽根弘文君                 二木 秀夫君                 水谷  力君                 向山 一人君                 矢野俊比古君                 吉川 芳男君                 糸久八重子君                 山本 正和君                 刈田 貞子君                 吉川 春子君                 平野  清君    事務局側        第二特別調査室        長        菊池  守君    参考人        財団法人日本レ        クリエーション        協会レジャー・        レクリエーショ        ン研究所主任研        究員       薗田 碩哉君        筑波大学助教授        財団法人余暇開        発センター研究        参与       松田 義幸君        財団法人労働科        学研究所客員所        員        藤本  武君     ─────────────   本日の会議に付した案件 ○国民生活に関する調査  (労働余暇に関する件)     ─────────────
  2. 長田裕二

    ○会長(長田裕二君) ただいまから国民生活に関する調査会を開会いたします。  国民生活に関する調査を議題とし、労働余暇に関する件について参考人から意見を聴取いたします。  本日は、お手元に配付の参考人名簿のとおり三名の方々の御出席をいただき、順次御意見を承ることとなっております。  まず、財団法人日本レクリエーション協会レジャーレクリエーション研究所主任研究員薗田碩哉君から意見を聴取いたします。  この際、薗田参考人に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中のところ、本調査会に御出席をいただきましてまことにありがとうございました。  本日は、労働余暇につきまして忌憚のない御意見を拝聴し、今後の調査参考にいたしたいと存じます。  議事の進め方といたしましては、まず最初に四十五分程度御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑に対しお答えをいただく方法で進めてまいりたいと存じますのでよろしくお願いいたします。
  3. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) 御紹介いただきました財団法人日本レクリエーション協会レジャーレクリエーション研究所主任研究員、大変長いんですが、薗田碩哉と申します。  この参議院国民生活に関する調査会労働余暇の問題をお取り上げになるということで、私どもこの問題について長く携わってきている者といたしましては大変感激しているところでございます。  レジャーレクリエーション余暇の問題などやっておりますと、余りまともな仕事と思われない、私なども近所の人からは遊び人だと思われているわけです。ところが、国民生活一つの大きな課題として余暇というものを参議院調査会がお取り上げになる、こういう調査会というのは参議院独自のシステムというふうに伺いましたけれども余暇という問題がそこまでひとつ成熟した問題になってきたのかということで私ども大変感激しておりますとともに、何か御参考になることを申し上げて、調査会先生方がこの問題について非常に充実したすばらしい御提言をつくってくださるようにお願いをいたしたいと思います。  初めに、私ども研究所につきましてちょっとだけ資料を用意いたしましたので御紹介をさせていただいて、そして本論に入りたいと思います。  お手元資料の中に、研究所所報創刊号の目次と研究所の簡単なパンフレットの写しがございます。レクリエーション協会と申しますのは、戦後四十年レクリエーション充実国民生活におけるレクリエーション活動発展を目指して活動しておる団体でございますが、創立四十周年を期しまして、この四月にレジャーレクリエーション研究所というものをつくりました。ところが、まだできたばかりでございまして、所報創刊号もまだ出ていないところでありまして、大変そういう意味ではまだ未熟でございます。ただ、これまで四十年の蓄積を踏まえまして、余暇の問題、レジャーレクリエーションの問題を重要な課題としてさらに一層発展させようということで研究所をつくりました。これまでも研究活動がなかったわけではありませんで、そういう蓄積を踏まえてやっているということを御理解いただければと思います。  この研究所課題といたしましては、レジャーレクリエーション生活化ということを非常に重要な柱に、特に余暇の質の問題、クォリティー・オブ・レジャーと申しますか、余暇は単に量の問題ではなくてその中身が問われる大きな生活課題だと考えておりますが、その質の問題をひとつ追求したいというのがねらいでございます。  それから、協会の四十年の運動成果で各領域にさまざまな実践活動が広がっております。このメモにありますように、職場地域学校社会福祉等々の領域でさまざまな活動が展開されておりますが、そういう実践活動を踏まえて、いわば現場と交流のある研究活動を推進したいというのが私ども願いでございます。  それでは、早速本論に入らせていただきますが、そこに簡単なメモを用意させていただきましたので、ごらんいただければ幸いでございます。  まず、「労働余暇」、特に余暇の問題を中心にお話をさせていただきますが、この問題は国民生活の重要な生活課題であるというふうにとらえたいと思います。  日本はもう御承知のとおり大変豊かな経済大国 でございますが、一転、余暇の問題に目を転じますと、残念ながら余暇貧国と申しましょうか、余暇問題については必ずしも成熟した先進国並みに至っておらないのが現状だと思います。これは御承知のことかとは思いますけれども、例えば西ドイツが年間千六百時間という労働時間であれだけの経済を支えておりますのに対して、私どもは二千百時間を超える労働時間、といいますのは、週休二日制の普及にしてもまだ非常に低いわけでございますし、残業という超過勤務もほとんど野放しでたくさん働いておる。それからさらに、もう夏が終わりましたけれども夏休みというのも大変短うございまして、我々勤労者はせいぜい一週間の夏休みがやっとというのが現状ですが、先進国では必ずしも大企業の社員でなくても四週間、五週間の休みをとるのが常識でありまして、私どもはどうしてそんなに休めるのだろうかと不思議に思うくらいでありますが、しかしそれが先進国では当たり前のことになっておるわけであります。そういう余暇の格差が労働時間の大きな差になっているというのが現実であります。  この問題は、ただ休むかどうかという問題だけではなくて、要するに経済大国になったのにこんなにたくさん働いておるというのは公正ではないと諸外国から言われているわけでありまして、いわば公正な競争という面からも、もう少しゆとりのある国民生活をつくり出さなければいけないというのが日本人課題であろうかと思います。  どうして我々はこんなにたくさん働いてしまうのかということの土台には、どうも勤労に対する意識の彼我の非常に大きな差があろうかと思います。ヨーロッパへ行きますと、あちらの方はいわば余暇が大きな人生の目標でありまして、大変単純化して言えば遊ぶために働いているということでありますが、私どもはやはり遊びなどといいますと何となく後ろめたい感じが今でもつきまとうことが多いんじゃないかと思います。やはり働くということ自体に楽しみを見出すというのが理想の人生でありまして、余暇というのは余った暇、たまたま少し余ったら少し遊んでもよかろうというような余暇意識をずっと持ち続けてきたのではないかと思います。これも決して昔からではなくて、江戸文化なんかを見ますと相当豊かな余暇文化があったようでありますから、やはりこういう勤労意識というのは明治以来の富国強兵の歩みの中で出てきたのかと思いますが、ともかく現状では、余暇の問題というのは余り生活上の重要な問題にまだ我々の意識としては至っていないのではないかと思います。  そこで、私どもといたしましては、レジャーレクリエーションというのは単なる人生のつけ足しではない、これは人間人間らしく生きるために欠かすことのできないもの、極めて正当な権利といいましょうか、権利といいますと大変言い方がかたくなるかとは思いますが、正当なもの、それを持つことが人間にとって真っ当なことであるというようなものとして、この余暇あるいはレジャーレクリエーションの問題を確立したいというのが願いでございます。  私どもレクリエーション協会というのは国際的な組織を持っております。レクリエーション運動というのは、淵源を尋ねますと十九世紀の末にアメリカの東部の都市化された都市、シカゴとかボストンなどで起こりました子供のための遊び場運動遊び場づくり運動に端を発しております。そこから、子供だけではなくて青少年から成人に至る余暇充実ということを目指す国際的な運動がスタートしたわけです。  私ども協会は戦後一応できたものでありますが、実は戦前にも系譜が、流れがございまして、戦前日本厚生協会と申しておりました。この「厚生」というのは、レクリエーションという言葉に当てられた一種翻訳語であると、今は余りそういうふうに言われませんけれども、もともとは厚生とはレクリエーションであるということであります。つまり、世界レクリエーション運動アメリカで活発になり、ヨーロッパから世界に広がっていった折、日本でもこれに対応する運動をつくろうとして厚生運動というものが組織されたわけです。そして、昭和十五に予定されておりました東京オリンピックの折に世界厚生会議というのが開かれるはずでありました。その折に一応戦前版レクリエーション協会がつくられたわけですが、戦後はそれを継承しまして、さらにアメリカ風コミュニティーレクリエーションを軸にした運動を進めているわけです。  その国際組織世界レジャーレクリエーション協会というのがございますが、それが一九七〇年にレジャー憲章という一つのテーゼを打ち出しました。そこにはレジャーレクリエーションというものが人間生活にとって大事な柱であるということがうたわれております。これを私ども一つの信条にしておりまして、繰り返しになりますが、生活の中で大切なものとして余暇というものを考えていこうということを運動の柱にして活動しております。  そういう見地から、最近ようやく労働省でも労働基準法が改正されて時間短縮への大きな一歩が始まったわけでありますが、これをぜひ積極的に推進したい、そしてただ労働時間を制限するということだけではなくて、むしろ自分余暇生活を獲得してこれを充実させる、そういう方面から余暇へのニーズ、充実した自由時間への国民的な需要というものをつくり出していく必要があるのではないかと思います。  そのために大切な一つ条件というのは、やはり余暇のための環境を整備するということではないか。日本余暇が貧しいというのは、単に時間の問題ではなくて、身の回りのごく日常生活の中に余暇を十分に楽しむような条件がいまだ熟していないということが大きな原因になっているのではないかと思います。これはもちろんまずは環境ですから、スポーツ施設とか文化施設とかいうこともありますが、あわせていわば人間的な環境と申しましょうか、レクリエーションレジャーを一緒に楽しむ仲間地域で十分に組織されているかどうかということも非常に大きなポイントではないかと思います。  それからもう一つは、やはり自然を含めた自然環境と申しますか、地域生活の中に公園等の緑の環境がどれほどあるかということも余暇中身に随分影響を与える課題ではないかと思います。こういうことを含めて余暇生活課題としてとらえる。  これは例えば私ども研究所研究員をお願いしております一番ケ瀬康子先生生活学というような視点からも特に強調されているところでありますけれども余暇問題というのを単なる労働に付随する余暇という見地からだけではなく、それからまた余暇産業というような余暇を再びお金にして経済成長に資するというふうな面からだけではなく、むしろ日常国民生活という点から余暇の問題を考えるということが必要ではないかと思っております。  私ども協会は、先ほど申しましたように戦前からその前史があるわけでございますが、基本的なレクリエーション協会としてのスタートは戦後昭和二十二年からでございます。戦後の荒廃した社会の中で、少しでも自分の時間というものをつくり出して、そしてその時間に健康的なスポーツ文化活動をする、それによって地域社会人間関係をつくっていく、あるいは職場に明るい勤労的な雰囲気をつくっていく、あるいは学校の中でよく学びよく遊べということで学校の中にも遊びレクリエーションを定着させていく、そういう運動としてスタートいたしまして、これまで四十年活動を続けてまいりました。  いわばその成果と申しましょうか、先ほど申しました地域職域そして学校、さらに社会福祉領域、これは具体的な現場老人ホームとか障害者施設とかあるいは地域の中における福祉活動でありますが、そういう現場にやはりレクリエーションが行われております。この四つの領域を私どもレクリエーションの四領域というふうに言っておりまして、その四領域で、私ども組織が養成したレクリエーション指導者あるいはレク リエーションワーカーという活動家、大半はボランティアでございますが、そういう活動家がおりまして、その人たちを核に活動を続けております。  指導者は今のところ二級二万二千名、一級千六百名、上級が二百八十七名、二級、一級、上級とお酒のランクみたいになっているんですが、合わせて二万四千人の指導者が、地域でレクリエーンョンという楽しい自由時間の活用を土台にしながら、あるいは地域社会づくりあるいは楽しい学校づくり、あるいは明るい職場づくりあるいは福祉施設充実というような課題に取り組んでおります。こういう四十年の活動がそれなりに各領域に広がっているわけでありますけれども、これを土台にして私どもはさらにいよいよ本当に余暇時代がやってきた、余暇というものが生活の重要な土台になる時代、それだけ経済発展をし経済的な基盤ができたということでありますから、その基盤の上に立って真の余暇文化を花開かせる時代がやってきたと考えております。  そして、今後の活動方向として幾つかの柱を立てておりますので、それをちょっとお話しさせていただきたいと思います。  まず第一に基盤となるのは、何といっても地域レクリエーションであります。コミュニティーレクリエーションというふうに私どもは呼んでおりますが、地域社会に自由時間をもとにしたさまざまな文化スポーツ学習レクリエーション活動を展開しようということであります。  日本人余暇というのは今のところかなり職場に偏って存在している。勤労時間が長いということもありますが、勤労が終わった後の余暇時間も大多数の勤労者においては職場人間関係土台にした余暇である。早い話が、一杯飲むにしても職場の同僚とというのがサラリーマンの日常の姿であります。どこかへ遊びに行く、日曜日にゴルフに行くというのも職域関連、半ばは仕事であったりすることさえあるわけであります。つまり余暇というのが職場職域労働というものの中にいわば包摂されているというのがかなり顕著な特色ではないかと思います。  もちろん職場に一定のレクリエーションというものは必要でありまして、職場でも休みの時間もありますし、仕事が終わった後の自由時間も職場で過ごしてもいいわけでありますから、そこで健康づくり活動が行われるというのはよいことでありますが、しかし、余りにも余暇職場にのみ偏っていますと、生活のいろんなアンバランスを引き起こすのではないか。これから余暇がふえてまいりますので、その余暇のふえた分というのはこれ以上職域生活に投入する必要はないであろう、むしろ地域社会余暇を持って帰ってくる、勤労者余暇の増分といいますか、これから週休二日制等普及によってふえる分はできるだけ地域社会に持って帰ってきていただく、そして地域社会の中で自分自身仲間を求め、あるいは家族とあるいは子供たち高齢者と、そこに新しい町づくりをにらんだレクリエーション活動を進めてほしい、またそのような運動、そのような動きを組織していくことが私ども課題であると考えております。  地域社会というのはたくさんの人、さまざまな人によって成り立っているわけで、それ自身うまくまとめていきますと大変おもしろいレクリエーション資源であるというふうに思います。隣は何をする人ぞで、つき合わなければそれまでですが、隣近所の中に楽しい関係をつくりますとそれは一つの小さな社会がそこに出現するわけでありまして、それはさまざまな情報学習を含んでいる。例えば一杯飲むにしても、職場仲間と飲んでおりますと余り大した話はいたしませんで、上司悪口などを言っておりますが、地域社会の中で新しい仲間をつくってそこでお酒を飲んだりいたしますと、余り上司悪口なんかを言う人はおりませんで、言ってもしようがないわけですから、むしろそれぞれの仕事情報などを交換して、これはそのまま一種社会教育になっている。別に教育なんということを意識しているわけではありませんが、地域社会の中に働いている人たちがそれぞれ自分のやっていることを報告し合うだけで大変楽しく、またためになる活動組織できるということであります。そういう意味で、それこそが余暇の受け皿、余暇可能性をまず第一に受けとめるのはそういう地域社会の中の新しい豊かな人間関係ではないかと思います。  次の課題といたしましては、レジャーレクリエーションというのも、これは一つ人間文化である以上そこには一つ大きな教育的な課題があると思います。もちろん余暇というものは自由なものでありますから、これを一方的に押しつける意味で教化、教育するというのは問題でありますけれども、しかし、余暇を生かしてさまざまな文化を創造するためには知識技術というものが求められるわけでありまして、むしろ教育一つ課題勤労のための教育だけではなく余暇のための教育というのもあるのではないかと思うわけであります。  これまでの教育というのはよき働き人になるため、有能な労働者になるための教育であったかと思いますけれども、そして、それはもちろん社会が生産、産業によって成り立つ以上当然のことでありますが、あわせてもし余暇が大きな生活課題であるといたしますならば、教育においても余暇は重要な基本的テーマであるはずであります。いわゆる教科の中で音楽とか体育とか美術というようなものは基本的には余暇を目指しているということが言えると思いますし、国語、算数、社会、理科、こういう基本的な教科の中でも、そういう知識技術自分生活の中で自由に組織していくという面では余暇教育に結びつく部分が多々あるのではないかと思います。  今、教育問題というのは大変大きな問題になっております。さまざまな面があると思いますが、私ども一つ非常に深刻に受けとめておりますのは、教育が何か非常に硬直化いたしまして、子供たちを伸び伸びと生かすというよりも、子供たちを管理して型にはめてしまうというような教育になっているような面があるのではないかと思います。そういう教育硬直化を少しでもソフトに、より子供たちを生き生きと生かす方向に変えていくためにも、実はこの余暇の問題あるいは遊びレクリエーションというのはもっともっと重視されていいことではないかと思います。  そこで、私どもといたしましては、学校現場で志のある先生方と、いかにすれば学校子供たちが本当に楽しく、毎日登校拒否なんということを考えるそんな発想も浮かんでこないほどに生き生きと学校に通っていけるようになるか、そのためには学校生活全体を単に行事とかクラブ活動だけではなくて、学級をまた授業そのものをもっと楽しくするということを考えていきたい、そういう運動を進めております。  私たちの標語なんですけれども、どうも学校というところは「カキクケコ」が多くて、かたい、厳しい、苦しい、警察的な怖い先生がいたりするわけですけれども、私たちはそれをもっと「アイウエオ」にしたい。明るい、いいことづくめのうれしくなるような笑顔のおもしろい先生、「アイウエオ」の先生をつくろうというようなことで、それには実はこのレクリエーションというふうな方法が大変有効であるということであります。  それからもう一つ、これからは高齢化社会ということに代表されますように、福祉というのが非常に大きな課題になろうかと思います。そして、高齢者障害者のための福祉政策も年々充実をしておりますけれども、その中でレクリエーションの占める位置というのは非常に重要であろうかと思います。  レクリエーションというのは人々を生き生きとさせるという活動でありますから、福祉というのも、ただ福祉サービスを受けざるを得ない人の生活を支えるというだけではなくて、その生活を楽しく生き生きさせるというところまで含んで初めて福祉が完成するんだろうと思います。そういう点では福祉サービスの中にこのレクリエーションの問題を十分に定着させていくこと。福祉サービスを受ける人たちにとってはほとんど生活がある 意味では余暇でございますから、労働に対して余暇価値があるということ、そういう見地で言いますと福祉を受ける人たちは余り価値がないことになってしまうわけです。そうではなくて、余暇自体価値があるという考え方から、福祉政策というのは実は余暇充実政策でもあるということを考えているわけであります。  ことしから国家の資格として福祉関係社会福祉士介護福祉士というものがつくられましたけれども、この介護福祉士のカリキュラムの中にレクリエーション指導というものが必須の単位として定着をいたしました。これも私どもは大変喜んでいることでありまして、これからはお年寄りあるいは障害者の方を楽しく生き生きさせるレクリエーションをもっともっと充実させたいと思っております。  私ども研究所テーマ余暇の質を問い直すことだと申しました。余暇というものは個人が伸び伸びと自分自身であるという非常に貴重な時間であろうかと思います。余暇土台は、レジャー憲章にもありますが、自由というものでありまして、何人も侵すことのできない自由な個性の伸長を図る、そういう時間が余暇であります。したがって、余暇は十把一からげに産業化されるというふうな方向ではなくて、一人一人の個性を生かすような質を問われる課題、時間として追求されなければいけないと思うわけです。そこで、余暇の質を高めるための余暇環境の整備とともに、余暇のソフトウエアと申しましょうか、質のいい余暇中身をつくり出す、そういう研究、実践を進めていく必要があると思います。  私ども協会も実はここに仕事の中心を置いて運動をしておりますけれども、当面の課題としてそこにありますように三つの課題を挙げております。  一つは、余暇の活用がレクリエーションだとお考えいただくとして、質のいいレクリエーション情報をたくさん集めてこれを皆さんに提供するということであります。一人一人が実に個性的にさまざまな余暇活動を実は行っているわけでありまして、そういういい事例をたくさん紹介して相互に刺激をしていくというのが一つ課題。そのために余暇情報を細かく集め、そして適切に提供していくような余暇情報センターみたいなシステムが整備されるとよろしいと思います。  それから、新しい質のいいレクリエーションをどんどんつくり出していく必要があると思います。その一つは、まずスポーツ課題でありますが、スポーツも、現状日本スポーツというのはやはり競技スポーツ土台になって、非常に勝つことのための苦しいスポーツというのが市民のレベルまで浸透しております。もちろんソウルのオリンピックに行ってメダルをたくさんとってくるというふうな人間の限界に挑戦するスポーツというものは一つ課題として重要でありますが、すべての市民がそういう競技スポーツ方向スポーツをする必要はないのでありまして、私どもはもう一つ楽しみとしてのスポーツ、生涯を生き生きといわば喜びに満ちて過ごすその表現としてのスポーツというものがもっともっとあっていいと思います。そして、そういう市民のスポーツというのは、競技スポーツの底辺とか土台とかいうのではなくて、むしろ競技スポーツ一つ課題であるとすれば、それと並ぶもう一つ重要な生涯スポーツ、みんなのスポーツという課題があるというふうに考えたいと思います。  そこで、これまでのスポーツとは一味違ったおもしろいスポーツ、それから競技会の持ち方なんかもちょっと変わったやり方をするというふうなスポーツを楽しむ工夫を広げたいと思っております。ゲートボールというふうなお年寄りに人気のスポーツも、もとはといえばクロッケーという大変楽しい優雅なスポーツであったんですが、残念ながら現状ではゲートボールが余りにも競技化してしまって、どうも緊張の高まるようなスポーツになってしまった。あれをやり過ぎますと寿命を縮めるんじゃないかというようなそういう傾向がありますので、もっとゆったりとスポーツを楽しむ、そういう高齢者スポーツをつくり出したい。  競技会というのも常識的には、例えば勝った人が残って勝ち残りというのが競技会の原則でありますが、あれを逆に負け残りにいたしまして、負けた人が二回戦へ進むというふうなやり方をいたしますと、これは想像していただくとおわかりと思いますが、回が進むほど試合がめちゃめちゃになりまして大変楽しいものになるわけであります。それから、体力のない人が負けるわけですから、そういう負ける人こそたくさん試合をしていただく必要があるわけですから、負け残りというのは健康づくりという点では非常な合理性があるわけであります。  それから、文化学習活動というのも私どもの発想からいいますともっと楽しいものになっていいんじゃないか。社会教育にしましても難しい講座をしかつめらしい顔をして聞くというふうなスタイルが多いわけでありますが、もっと実践的な体験的な楽しい教育というやり方があると思うんです。  日本はどうも遊びと勉強というものを切り離してしまって、まじめに勉強をしてそうしたらしばらく遊ぶという発想が強いわけであります。ちょうど労働余暇関係と似ておりますけれども、しかし私どもは、特に学習という課題はともにある体験をいたしまして、例えば野外活動でキャンプをいたしますとそれ自身が楽しいレクリエーションでありますけれども、その中にさまざまな自然科学的な、あるいはまた人間関係というような面で社会的な教育があると考えております。つまり遊びというのは教育を取り除いてしまった単なる快楽ではなくて、遊びの中に教育がある、教育というものは遊びの中から実は出発すべきものなんじゃないかというふうに思います。  それは社会人の場合でもそうでありまして、そういう意味ではレクリエーションは気晴らしの遊びというふうに限定して考えるのではなくて、人間自身をつくり直す、レクリエートする、人間自身をより高い、よりすばらしい人間としてつくり直す活動である。そういう意味ではスポーツ学習文化というものはもっと融合し混然として総合化されてとらえられていいのではないかと思っているわけであります。そういう活動を推進していくためには、その活動をお手伝いする人がいてよろしいんじゃないかということであります。  余暇生活余暇というものは自由なものでありますから、これを指導とか教育するといいますとどなたにも抵抗があろうかと思います。そこで、余暇生活の自由は自由として尊重しながら、しかしその自由を自律的に自分組織していくためのお手伝いをするような支援者を育てるということがあっていいと私どもは考えております。そうしませんと余暇生活が不全といいますか、うまくいかないために、例えば遊びを知らない子供、これが友達とうまい関係をつくることができない、あるいは余暇というものを楽しむすべを知らないワーカホリック、働き症のお父さんがノイローゼに陥るなんということがあります。それから主婦が余暇をもてあましてアルコール依存症になってしまうというようなこともあります。高齢者が退職後の膨大な余暇時間というものの目標を見失って一種の退行現象を起こすというようなこともあります。  つまり、余暇生活がうまくいかないというのはさまざまな社会的な病気やひずみのもとになるということでありまして、これを支援する方法を開発し、これを支援する人たちを育てていくということを続けていきたい。レクリエーション指導者というのは戦後二十年代からの名称で、指導者という言葉がいささか自由な余暇時代にそぐわないような感もあるわけであります。そこで、私どもはこの指導者というのは実は支援者である、余暇生活の自立を支援する専門家というふうに位置づけて、今後も余暇生活支援者としてのレクリエーションワーカーを育てていきたいと思っております。  来るべき二十一世紀と申しますのは、一種の余 暇社会になるであろうということが予想されております。高齢化、国際化、情報化というのが今後の社会を占う一つのキーワードとしてよく語られますけれども、いずれもこれは余暇の問題と深い結びつきがございます。高齢化というのは文字どおり余暇問題でありまして、私どもが定年を迎えた後でどう生きていくか。そのどう生きていくかの中には第二の労働というふうな労働問題もありますけれども、しかし、退職後の生活というのは何といっても自由時間がメーンになる生活だと思います。そこで、その自由時間が生涯の最後の瞬間まで生き生きと充実して送られるために、今から、また若いうちからさまざまな準備をしておく必要がある、これが余暇教育であり、また地域レクリエーション組織充実であり、さまざまな新しいレクリエーションの開発ということと結びついてまいります。  それから、国際化というのも、これも日本が避けることのできない非常に大きな課題であろうかと思います。現実に私ども日常生活のさまざまな局面で国際化が進んでおります。余暇の面で見ますと、日本人余暇はまず海外旅行というような点で非常に国際化しつつあるわけです。現実に七百万というような人たちが一年間に海外へ出てまいります。海外旅行もさまざまな違う文化、違う国の人たちが相互に理解し合う大変いい機会としてとらえるべきであります。そういう点からしますと、国際的な余暇活動、言葉を越え、文化を越えて人々が交流し合うようなプログラムというものをいろいろ開発していく必要があると思います。  国際化と言いますと、言葉の障害が常に言われますけれどもレクリエーション世界では、もちろん言葉が要らないわけではありませんけれども、言葉を越えてお互いが人間として交流し合うということが可能であります。例えば踊りという世界では、実に世界のさまざまな国の人が踊りの輪の中で全く一体になってしまう。そして、人間であるというこの共通の事実の喜びといいますか、楽しさというものを味わい尽くすことができるわけであります。レクリエーションプログラムは国際化、特に国際理解の進展に非常に大きく貢献することができると考えております。  それから、情報化というのも、これもいや応なく進行しつつある社会の傾向でありますけれども、この情報化と余暇という面では、やはり余暇充実させるためのさまざまないい情報をお互いに提供し合うという意味で重要な課題だと思います。この情報というのは、私どものとらえ方としては何か中央、例えば東京に情報センターがあって、その情報が一方的に地域に流されるというふうなものではなくて、むしろ各地域地域情報があって、それが緩やかなネットワークによって相互に交換される、そういう意味での情報社会。ですから、東京の余暇と大阪の余暇とはもちろん違ってよろしいわけですし、北海道の山の中の余暇と沖縄の海辺の余暇とはもちろん違うわけであります。そういうさまざまな余暇のあり方がこの情報のパイプによって交換されて、私たち余暇の新しい可能性を開いてくれる、そういう意味での情報化というのは大いに進んでほしいと思っております。また、逆に情報化を利用しまして、余暇が画一的になるのではなくてむしろ多様になるように、みんな同じ余暇を過ごすというのではなくて、みんながみんなそれぞれ自分個性的な余暇を見つけるようになるように私ども運動を続けていきたいと思っております。  こういうわけで、余暇課題にしてなされるべきことはたくさんある。これは国にもやっていただきたいこともいろいろありますし、私どももいろいろ民間の運動として、また自由な、自律的な、また自治的なレクリエーション組織の育成、そういう中から達成すべき課題として追求していきたいと思いますけれども、幾つかこれから大きなレベルでの、国レベルでの施策として私どもからお願いしたいことを挙げてみました。  一つは、余暇に関連する各省庁の施策というものは実はいろいろございます。特に、最近リゾートブームということで各省庁がいろいろな開発計画を出されております。しかし、そのそれぞれがどうもてんでんばらばらであって、余り横の連絡がうまくいっていないのではないかという印象を受けるわけであります。国民から見ますと、もちろん各省庁がいろんな意味でのサービスを強化して全体として余暇環境が整えばよろしいわけですが、余り同じようなもので競合したり、大きな施設ばかりつくって肝心の日常生活圏域での活動がおろそかになったりするのはむだでありますから、最も効率的に余暇環境整備が進むような連絡調整というものが必要ではないかと思います。そういう点で、これはどういう形がよろしいのかよくわかりません、レクリエーション省なんというのをつくるという考え方もあるかもしれませんが、それがまた一つの縦割りのお役所になってしまうかもしれませんので。しかし、何らかの意味余暇行政の調整連絡が必要ではないかと思います。  それからもう一つ、もっと大きな課題として、日本人は一体どういう余暇生活を理想とするのかということについて、もっといろいろなレベルから議論をしていきたいと思います。もちろん私どもも民間でしていくわけですけれども、ぜひ国のレベルでも各界各層の人々を集めてレジャーに関する議論の場、フォーラムなどをつくっていただいて、そういうところから私ども余暇意識を少しずつ見直してみるということもあってよろしいんじゃないかと思います。  それから、こういうことも含めて余暇労働の問題等国際的な問題。私ども国際組織に入っておりまして、アメリカヨーロッパの先進的なレジャー情報が入ってまいりますけれども、そういうものも参考にしながら今後の余暇のあり方をもっと総合的に検討するような研究機関があってもいいんじゃないか。レジャーレクリエーション研究所もささやかにやっておりますけれども、国のレベルでもぜひ総合的な余暇研究を進めていただいたら、多分国民にとって大変意味のあることができるのではないかと思います。  以上、余暇というものが一つ生活課題として浮上してきているということを非常にうれしく、前向きに受けとめながら、しかしそこにたくさんの課題があるということを申し述べてみました。  以上で終わらせていただきます。ありがとうございました。
  4. 長田裕二

    ○会長(長田裕二君) まことに有意義なお話をありがとうございました。  以上で薗田参考人からの意見聴取は終わりました。  これより薗由参考人に対する質疑を行います。  質疑のある方は会長の許可を得て順次御発言を願います。
  5. 山口哲夫

    ○山口哲夫君 大変参考になるお話を聞かせていただきましてありがとうございました。たくさんお聞きしたいことがあるんですけれども、与えられた時間が二十五分間ですから、まず三つばかりお聞きしたいと思います。  今いろいろお話の中にもありましたけれども日本人の場合、なかなか余暇の利用というのが思うように進まないですね。いろんな障害があると思うんですけれども、専門家の先生のお立場から一つ二つ、一番大きな理由は一体何なのか、その辺端的にお聞かせをいただきたいと思うことが一つです。  その次は、先生のお話の中にもあったんですけれども、どうも日本人というのは、特に我々年配の連中を中心に遊ぶことに対する後ろめたさというのがあるんですね。そういった思想を持っている人というのは、職場の中で言えばいわば管理職をわけですね。その辺に私はなかなか職場の中での余暇の利用というのが進まない理由があるのではないかなと思うんですけれども、そういう遊びに対する後ろめたさを持っているようなそういう人たちの思想改造というか、一体どういうふうにしていくべきなのか。それが二つ目です。  それから三つ目は、今度は技術的な問題なんですが、若い方は余暇の利用について、いわば遊び 方なんかは十分心得ていると思うんですけれども、やはり年配者になるとそういうことがなかなかよくわからない。せっかく週休二日制になっても、一体どうやって余暇を過ごしていいのかわからなくて、結局ごろ寝してテレビを見ているのが関の山だというようなそんなこともよく言われるんですけれども、そういうものに対する教育ですね。今のお話の中にはレクリエーションに対する専門家というか活動家が随分養成されているというんですけれども、なかなかそういう人たちというのは職場の中には少ないんですね。大きな企業になりますと、そういう専門家をちゃんと配置して、余暇の利用ということも、職員に対する教育機関というか、そういうものとして位置づけられているようですけれども、一般的には非常に少ないんじゃないかと思うんですね。だからある程度の、職場にそういう人たちを配置するような義務づけもこれから必要になってきはしないだろうか、そんな感じもしているんですけれども、そういう問題についていかがでしょうか。  以上三つ、とりあえずお聞きしたいと思います。
  6. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) 三つの御質問に共通する一つの解決策といたしまして、まず基本的にはやっぱり余暇時間が短いということだと思うんです。つまり、余暇を利用しようといってもその時間そのものがほとんどない。休みとはいってもまた休日出勤をしているというふうな状況もありますから、ですから何といってももう少し、せめて週休二日ぐらいは完全に実施するように、これは大企業だけではなくて中小企業までそれが土台になるのではないかと思います。  それから一番目の、余暇の利用が進まない障害で、まず時間がないということですが、もう一つは、余暇というのはお金がかかるという意識が私どもに非常に定着をしてしまっているんじゃないか。これ以上暇がふえたら財布がもたないというふうに恐怖を感じている勤労者もいるわけですね。そこで、むしろこれからは余暇というのはお金をかけるものではないというキャンペーンが必要なんじゃないか。余暇というのは時間そのものを楽しむことであって、何か車に乗って遠くへ行くとか、まあディズニーランドへでも出かけるとか、どこかへ出かけるという余暇の形態が余暇充実だというふうに思ってしまっている、この偏見を打ち破る必要があると思うんです。そのためには日常生活圏の中でさまざまにできるような余暇活動の開発が必要であろうと思います。  確かに、二番目に先生おっしゃるように、ある一定の年代より上の方は遊ぶことへの罪悪感というのをお持ちである。これはもうなかなか直らない、死ぬまで直らないという感じもいたしますが、ただ若い人たちから相当刺激を受けているということも事実ではないか。若い人たちは明らかに出世よりも私生活を、そして勤労よりも余暇をというような方向が見えているわけでありまして、そしてそれが大変充実した生活を送っているという現実の事例が何よりもこの思想改造になっていくんじゃないか。やっぱり後ろめたさというのは長い歴史を踏まえてつくられてきたものだと思いますけれども、現実に余暇充実でみんなが幸福になっているというその事実が広がっていけば思想は変わってくるんじゃないかというふうに思います。  それから、遊び方がわからない、そういう人たちに何とか手を差し伸べたいと思うわけですが、ただ余暇の問題というのは、例えば企業の中でああしろこうしろなんというふうに余暇にまで余り口を出しますと抵抗を受けます。それは、自由時間まで管理されてはたまらぬというようなそういう考え方もあると思います。そこで、遊び方の事例をいっぱいつくり出していくしかないんじゃないか。特に大企業の場合ですと、先生も御承知のようにレクリエーションリーダーとか健康づくり指導員とかいろんな役目の人がいまして、それなりに研修を受け、予算も持って事業を展開しておりますけれども、中小企業になりますと確かにそういう組織的な余暇教育というのはなされていないわけです。  では、どこがそれを担えばいいのかというので、やはりこれは地域社会が、特に社会教育というのをもう少し見直しをいたしまして、むしろ勤労者のための地域での余暇支援といいますか、そういう方向社会教育のプログラムを少しずつ置きかえていく。社会教育が余り勤労者に役に立っていないと思うんですね。その辺が一つ可能性のある活動なんではないかと思います。  お答えになりましたかどうか……。
  7. 山口哲夫

    ○山口哲夫君 今、たまたま先生のお話の中に出てきた問題が非常にやっぱり重要な問題だというふうにお聞きしていたんですけれども、それはまず時間が短いという問題と、それからお金がかかるという問題なんですけれども、実際問題この余暇の利用をする場合に、今の国内にあるいろんな施設は非常に高過ぎるんですね。家族そろって有給休暇を一週間なら一週間とって出かけるにしても施設が高過ぎる、それから食事も外国から比べたら非常に高い。だから、せっかく休みをとってもなかなか家族でもって出かけることができないというそういう障害があると思うんですね。そういうことに対して改善するべく、厚生省なんかが中心になっていると思うんですけれども、国民休暇村とかいろんなものをつくっていますね。  しかし、最近随分質がよくなってきたと思うんですけれども、まだまだ質の面からいくと国民が要求しているものになっていないわけですね。そうすると、せっかく家族そろって遊びに行くんだから、どうしても少しはいいところに行きたい。そうするとお金がかかる。この辺を、外国なんか余りよく知らないんですけれども先生方はよく御存じだと思うんで、そういう外国なんかとの比較の中で一体日本のそういう施設というものをどういうふうにごらんになっていらっしゃるか、それが一つです。  それから、労働時間の問題は、これはもう特に中小企業なんかは週休二日制を実現しようといったってなかなかできない状態ですね、残業残業で。しかも残業しなければなかなかいい生活ができない、その賃金を得られないというようなそういう問題もあるわけですね。だから、週休二日制というのは恐らく今度の国会でも大きな課題になると思うんですけれども、私なんかの持論から言えば、むしろやっぱり積極的に国や地方自治体からこういうものを始めて、そしてそこの地域の中で企業関係もみんなそれに倣ってやっていかなきゃならないような、そういったものをまずつくり出していく責任が国や地方自治体にあるんじゃないかなと思うんです。  しかし、どちらかというと古い人たちは、先憂後楽だから公務員は後でもいいんだというようなそういう考え方というのが出てくるんですね。これはもう全然反対だというふうに私は思っているんですけれども、そんなお考えもちょっとまぜながら、結論としては私は、この休暇制度というものをもう少し法的に義務づけるような形をとるべきでないだろうか、何日間法的に休暇をとりなさいと。まあ罰則も何もないわけですね、日本の場合には。しかし、相当諸外国では積極的に強制的にとらせるというところもあるというように聞いておるんですけれども、そのくらいやはり規制をしていかなければなかなかこの余暇というものが全国的に進んでいかないんじゃないかなというような感じも持つわけですが、その辺に対するお考えを聞かしていただきたいと思います。
  8. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) さきの問題ですけれども、ある外国の方が日本で二泊三日、三泊四日ぐらいの旅行に家族そろって出かけると、その方は野尻湖に小さな山荘を持っているわけですけれども、その山荘で一カ月暮らすのと同じお金がかかるということをおっしゃっていました。つまり、日本では旅行しますとえらいお金がかかるわけですね。一方、山荘一つ持っていれば、その減価償却なんかは一応別にすれば、そこで簡素な生活を静かにじっと楽しめばそんなにお金がかからない。つまりこれは、基本的にやっぱり時間が短いから、その短い時間にたくさんお金を投入してともかく楽しんでくるというそういうパターンができてし まっているので、まず余暇を長くすれば、そう長い時間ホテルで暮らすわけにいきませんから、もっと廉価な施設への要求が高まってくると思うんです。  むしろ余暇というのは自然の中で簡素に暮らすことなんだと、こういう意識をもっともっと私どもも広げていきたいと思うんですけれどもね。豪華な施設でごちそうを食べることが余暇だというのは、いわば逆に言うと貧しい余暇なんだと思うんですね。むしろ一週間二週間と続く長い時間を自然の中で静かに本を読んだりお話をしたりして過ごすというふうな、そういう自然型の余暇のパターンというのを広げていく必要があると思います。  それから、やっぱり低廉な施設、そしてしかも質のいい施設というのを何とかしてつくっていかなくちゃいけない。そうすると、今のリゾート開発とはちょっと違う方向で、例えばみんなが少しお金を出し合って協同組合風の別荘村をつくるとか、まあ大変過疎村がこのごろふえておりますけれども、そういう過疎の村をひとつ提供してもらって、そこでみんながゆったり過ごせる夏の休暇村をつくるとか、何かいろんな工夫をして、安くていい施設というものを広げていかなくちゃいけないというふうに思っております。  それから、中小企業と大企業の余暇格差がこれからますます広がってしまうであろうと。中小企業の方の話を聞くと、余暇どころじゃない、ますます時間がふえているんだということをおっしゃられるわけなんです。しかし、これは法律で規制をするということ以前に、働く人たちが何とか余暇をもっとつくり出そうという意識を強烈に持つ必要があると思うんです。例えば労働組合で有給休暇を全部消化しようなんという運動を進めて成功した例も聞いておりますし、まずは私ども自身余暇を持っていこうということをもっともっと本当の要求として強く持つということが必要なんじゃないかと思います。それが進むように確かに制度的な整備も必要だと思いますけれども、無理やり休ませるというよりも、やっぱり休みたくて休むというそういう意識改革を先にしたいものだと思います。  それから、週休二日制が進んでいきますと差が開いていきますけれども、しばらくは余暇格差が拡大するのはやむを得ない、やっぱり休めるところから休んで、それが当たり前なんだということを広げていくしかないんじゃないか。ですから、お役所もどうぞ週休二日制をやっていただいて、不評を買うかもしれませんけれども、それがこれからのライフスタイルだ、やれるところからやっていくということでなければなかなか普及は難しいのではないかと思います。
  9. 山口哲夫

    ○山口哲夫君 確かに余暇を利用する場合には、今おっしゃった自然の中で簡素に暮らすという、これは非常に大事なことだと思うんですね。しかし、日本の今のレクリエーション施設というのを見ていると、必ずしもそこに力が入っていないんでないかなという、これは私の感じですけれども、やはり建物だとかそういうものが中心になっているんですね。ですから、キャンピングカーでもって家族そろって出かけていって、そこで本当に森林浴を楽しみながら何日間か読書をしたり遊んだりするようなそういう施設というのは割合少ないんでないだろうか。例えば共同調理場なんか見ても余りちゃんとしたものがないとか、それからトイレの施設一つとってみてもなかなかそういうものがないとか、そういう面を専門家の目から見て、実際諸外国に比べて今先生がおっしゃったような日本施設というものが果たしてどういう程度のものなのか、そんなことについてもお聞かせいただきたいと思います。  それから、今随分あちこちでカルチャーセンターというのができていますね。これもやはり週休二日制なんかが徹底してきた場合には、もっともっと充実していかなければならないものだと思うんですけれども、利用する立場からいきますと、いろんなものがあるんですけれども、やっぱり高いんですね。それからもう一つは、施設の少なさも原因しているんでないかなと思うんですけれども、もう少し地方自治体あたりでそういうカルチャーセンターのようなものをどんどんつくっていくべきでないのだろうかなと思うんですね。家庭の主婦なんかのそういう利用を見ておりますと、やはり公共的なそういう自由に安く使えるような施設がないために、相当の負担を強いられるからなかなか行きにくいというようなそういう苦情もよく耳にするんですけれども、その辺専門家の目から見ていかがなものか。  それから、先ほどスポーツのお話もございましたけれども、もう少し職場の中にスポーツ施設というものを取り入れられないものだろうか。生産に関係する施設がどうしても最優先になって、そこに働く人たち施設というものは不十分のように思われるんですね。そうすると、どうしても仕方がないから民間でやっているカルチャーセンターに職場仕事が終わってから行く、なかなかやっぱり時間もかかるし金もかかるしというようなことがあるわけですね。だから、一定規模の従業員を抱えているようなところでは、そういう施設というものをもっと積極的につくらせるような施策というものも必要でないのかなという実は感じがするんですね。民間でやっているのは大変立派なものができているんです。もちろん会費制でもってお金も取っていますからそれに対応するだけの立派な施設があるんですけれども、幾つか企業関係でそういうものを持っている人たちの話を聞いても、どうもそういう民間の施設に比べると余りにも差があり過ぎるということがあるわけですね。  現に国会なんかでもそうなんですね。国会にもちゃんと健康センターがあるんです。私も時々行くんですけれども、実に中途半端なんです。だからなかなか利用しないから不評を買うわけですね、逆に。六千人くらいの人が国会の中にいるわけでしょう。そうすると相当の施設を持っても決しておかしくはないわけですね、六千人なら六千人の健康を管理するという意味からいきますと。それが非常に中途半端なものしかやっていない。同じようなものが私は各企業の中でも言えるんでないかと思うんですね。  くどいようですけれども、そうすると、仕方なく立派な施設を持った会費制でもってやれるようなところに相当のお金を払って行かざるを得ない。だから、もっと職場の中で、本当に健康管理を考えるんであれば、もう少し金をかけてやってもおかしくはないんでないかということをいつも思っているんですけれども、そんなことに対する御意見も聞かせていただきたいと思うんです。
  10. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) まず、最初の自然の中での施設という点では日本は大変劣っていると思います。特にオートキャンプなんかでゆったり過ごすような施設は皆無とは言いませんけれども、コンマ以下に少ないという感じがいたしますので、これはぜひ公的ないいモデル施設をつくって、民間でもそういう安価でしかもいい施設をつくれば商売になるということが見えてくるようにしたいものだと思います。  それから、カルチャーセンターとか職場スポーツ施設の問題ですけれども、カルチャーセンターは確かに民間のものは充実しているけれども高い。自治体も社会教育等で文化教室などやっております。これは安いというか、ほとんどただですが、そのかわりサービスが悪いし先生も大したことがない。そうしますと、どうも第三の道というのがあるんじゃないかという気がいたします。つまり、先生の方は、市民の中にいろいろと能力のある人がふえておりますのでそういう人たちを活用する、そしてそれを民間ではなくて官庁、教育委員会等が応援をしてやっていく。施設は公的に提供して、しかし運営はむしろ市民サイドが、社会教育のお役人が考えるんじゃなくて市民の中の知恵のある人が考えるというふうなやり方がよろしいんじゃないか。  同じように、職場の中でも確かに大企業はいろんないい施設を持っております。大企業についてはむしろ職場スポーツ施設をもっと地域に開放 すべきだというのが私ども意見ですが、中小企業はなかなかスポーツ施設までつくる余裕がないわけで、これにはぜひ公的な援助というものがやっぱり必要なんじゃないかと思います。ただ、公的に全部やりますと管理の問題とかサービスの問題でなかなかうまくいかないわけですので、できればこういうスポーツとか文化施設というのは、できるだけ公的な資金でもってつくるけれども、運営は民間ベースで、そこそこのサービスに対する対価は取って運営する。つまり、設備投資の分がなければそんなに高い値段にはならないと思うんですね。だから何か中間的な、要するに文化スポーツで商売をしようとしますとどうしても高くつくわけですので、これはやはり公的な性格を考慮して一定の土台を援助する、あと運営自体はお客さんでペイするようなものを考えるというふうなやり方をもう少し大胆に追求してみたらどうかと思っております。
  11. 山口哲夫

    ○山口哲夫君 最後にもう一問だけお願いしたいんですけれどもレクリエーションの専門家、例えば職場におけるスポーツ教育等も含めましてそういう専門家の教育というのは、今日本の場合少しは進んできたようですけれども、なかなか大学なんかを見てみましても専門の課程というのが諸外国に比べて少ないというふうに聞いているんですけれども、そういう専門家の教育面についてのお考えいかがでしょうか。
  12. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) アメリカ等ではほとんどの大学にレクリエーションレジャーを専攻する学部がありまして、そこからたくさんの卒業生が出ております。つまり、レクリエーション指導者の養成は完全に専門化されているということですが、日本の場合には、これまでは教育委員会等の主催する講習会、私ども組織が行っております簡単な講習会等で資格を出しておりました。しかし、ここ十年ほど専門的にこの問題を追求してある程度体系的な知識技術を持った人を育てて、できればそれで飯が食えるようにしたいという動きもかなり出てまいりました。一つは、体育学部の社会体育等の学科でレクリエーションをやっておりますし、教育系でもやるようになりました。それからもう一つ福祉系の専門学校、短大等で、あるいは大学でも、これは先ほどの介護福祉士の問題とも絡めて、レクリエーション教科として定着するようになってきております。  私ども協会の先ほどの指導者養成の認定ですけれども、二つの方式がありまして、一つ地域組織が行うものですが、もう一つは大学、短大、専門学校等の講座で行うものを私どもが認定をさせていただいて、つまりあっさり言えば、大学でレクリエーション指導者の資格が取れるというこういう制度があります。現実に全国で約五十校ほどの大学、専門学校、短大でレクリエーション指導者が誕生しております。こういうのを突破口にしまして、より総合的なカリキュラムを今整備しているわけなんですけれどもレクリエーションも大学できちんと勉強して、そして相当の知識技術を身につけて、しかるべきポジションを開拓して、仕事として、その一番高度な部分はプロフェッショナルな専門家として活動できるようにしたい、そういうふうに進めたいと思っております。
  13. 山口哲夫

    ○山口哲夫君 ありがとうございました。
  14. 大塚清次郎

    大塚清次郎君 ただいま前段で薗田先生のお話を承りましたが、そのことに関連して一、二お伺いいたしたいと思います。  実は、おっしゃるとおり今高齢化、情報化、国際化が急なる中で、二十一世紀に向けてのレジャーレクリエーションのあり方、こういうことにつきまして御高説を承ったわけでございますけれども、私はたびたび仕事関係で外国を回ります。その中で、やはりレジャーレクリエーションに対する感覚、それからその態様、そういうものに大きな格差があるような気がいたすわけでございます。そういう意味では、やっぱり日本はまだ余暇レジャーレクリエーションという一つ生活課題として我々が大きく取り上げていかなきゃならぬ、そういうことにはほど遠いような感じを受けるわけでございます。  じっとこのわけをどうしてだろうということを考えてみますと、やはりそこには、さっきおっしゃいましたように生活のサイクルの中での労働の占める割合というのが非常に高い。だから、まずこれを何とかひとつ短縮していかなきゃならぬ、そして余暇に使える部分を広げていかなきゃならぬということもさることながら、国内的にも非常に余暇そのものの格差があり過ぎる。これは一つ日本産業構造がそういう格差をつくっているんじゃないかということになるとすれば、法的な制約もさることながら、措置もさることながら、産業構造そのものを余暇が全国民に均てん化していくような方向に変えていかなきゃならぬじゃないか、こう思うんです。  その端的な例は、今、日本産業構造が経済大国までなったわけでございますが、ピラミッド型の下請産業に支えられた企業であり、産業形態であるということでございます。そこに大きな勤労時間の格差がある。だから、法的な規制を一般的に投網をかけるように加えてみても、なかなかそれがそういうふうにいかないということが一つ日本的な障害じゃなかろうかと思うんですが、この点についての御意見を伺っておきたいと思います。  それからもう一つは、余暇の我々の客体ですね、これが先ほど話がありましたが、やっぱり大きく自然を取り込んだ余暇施設ももちろんありますが、そのコンビネーション、施設に偏っているんじゃないか、遊びという意味からそれは満足するかもしれませんが、非常にコストが高いものになっておるということがあるわけでございます。もちろん日本の狭い島国の国土の中ではやむを得ぬ面もありますが、それにしてもそういう質的なものが、自然の中の施設ということで安上がりにできないものかどうか、その客体についてどうお考えになりますか。  それからもう一つは、日本人の国民性でしょうか、レジャーのとり方が労働の延長のようになっておる、レジャーで疲れるということ、全部国民がそうなっているんじゃなかろうかと私は思いますが、それはレジャーの多様化、それから非常に細切れ的なレジャーに用いる時間しかないというようなこと、そして労働の延長として、その生活のサイクルの中で労働の延長的なレジャーになっておるようなこと、これは施設の面でも言えるんじゃないかと思います。  そういう点について二十一世紀に向けて本当に我が国が生活課題としてこれを広げていきますためには、何か外国にはない一つの大きな日本型のレジャーというものがある程度浮かんでこないと、いわゆる私どもが政策的に、国政あるいは地方行政の中で目指すべき、あるべきレジャーの全体像というのが見えてこないということになる。そうなってくると、そこに政策課題として何を求めていくかということが見えてこないと思うんですが、そういう点につきましてひとつお伺いをいたしたいと思います。
  15. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) 大変何か雄大な御質問で、任にたえないんですけれども、まず一番目の日本産業構造と余暇の問題なんです。  日本産業構造が諸外国と比べて余暇というものを生み出しにくくなっているのかどうか、私も残念ながらもう少し研究してみたいと思うんですけれども、多分日本人余暇が非常におくれてしまったのは、日本産業の近代化が余りに急速であって、つまりヨーロッパの場合にはもう少しテンポがゆっくりだったと思いますので、その余暇を獲得しながら少しずつ余暇労働を調整しながら発展してきた。ところが、日本は余りにも急速に拡大してしまったわけですから、余暇が置いていかれてしまったというところに一つ理由があるのではないかと思うんです。  ただ、先生おっしゃいますように、ピラミッド型の産業構造になっていますから、上の方は余暇を持っても下の方はむしろそのしわ寄せを受けてなかなか時間がとれないということはあるのかもしれません。現実に、割と余暇を十分に楽しんで いるような企業を見ますと、かなり独立型の企業といいますか、新しいノーハウを持った、小さいながらも自立しているような企業では、従業員の一種の能力開発を含めて思い切って一カ月休ませるとか、手当つきで休暇をやるとか、先ほどの山口先生のお話とも関連しますけれども、出勤を停止して、来るな、休んでこいと命令するというふうなそういうおもしろい余暇体制をしいているところは皆独立的な企業であるという点は、先生のおっしゃることを裏づけているのかもしれません。そういう意味では、産業のあり方自体からもっと研究をしていく必要があると思ったわけでございます。  それから、日本余暇施設がいわゆる入れ物、施設に偏っていて、非常にコストが高いものになっているというのは御指摘のとおりであろうかと思います。余暇施設というのは、建物とかそれからさまざまな設備だけではなくて、もっと自然環境全体を含めた総合的なとらえ方をすべきであるというのは私どもも強く感じております。例えばスポーツにしても、野球一つとりましても、いわゆる野球場として特化した空間をつくりますと大変お金がかかりますけれども、野球自体を楽しむためには芝生の広場があればよろしいわけですので、いわゆるこれからのスポーツレクリエーション施設は、余り種目を特化した、つまり野球場があり、テニスコートがありというふうな施設の発想ではなくて、自然の中でいろんなことができる多目的なレクリエーション広場というようなものを基本的なコンセプトにする施設づくりをなすべきではないか。  ただ、自然を生かした施設づくりというのは意外にお金がかかるようでありまして、自然を大事にするということになりますと木も切らないで建物を建てる。全部切ってしまって大きな広場にしてそれから建設をした方が安上がりで、地形を大事にし、木を切らずにホテルを建てるなんというとお金がかかってしまう。つまり自然自体も決してただではないということで、この辺が大変雑しいと思いますけれども、しかしともかく、いわゆるお金のかかる施設、設備ではなくて、自然を取り込んだ、全体としてゆったりした施設をつくらなきゃいけないということはまことにそのとおりだと思います。  それから、日本人レジャー労働の延長というのはまさにそうでありまして、例えば私ども遊びに行っても非常に忙しいわけであります。もう時間刻みで次々と観光地を回って歩く、お忙しレジャーといいますか、多忙型レジャーをやってしまう。これは全く仕事と同じ原理。この辺はやっぱり余暇意識の転換が必要で、要するにレジャーというのは何にもしないことだと、あたふたあたふた動き回ることではないというふうな意識を何とか育てていきたいものだと思います。  そういう点からいいますと、実は日本にはそういう余暇の伝統がございまして、例えば江戸時代の江戸の庶民といいますか、町人の上層部分なんかは大変な余暇階級で、暇をもてあましていろんなことをやっておりますね。江戸文化というのがちょっと今見直されているようでありますけれども、自然と交流して楽しむとか、それからさまざまな文化的創造、みんなで集まって川柳を詠むとか、俳句をつくるとか、落語を聞くとか、そういう一種文化的なレジャーですけれども、そういうものはむしろ日本文化の伝統にはかなりあったんじゃないかと思います。  そこで、おっしゃる日本レジャーを活発にするために、もう一回日本人余暇文化の伝統を見直し、掘り起こして、ある意味では日本に返るといいますか、何もレジャーはみんな外国からということではないのであって、おっしゃいますように、日本人の伝統的な文化生活をむしろもう一回取り戻すような面がとても大事なことではないかと思います。
  16. 大塚清次郎

    大塚清次郎君 それでは、もう一つ最後に、今の日本型のレジャーを生み出してまいりますためにはそうしなきゃならぬというのは、国際化の中で情報として外国のレジャーの行き方を取り入れるのはこれは怠っちゃいけないと思うんですが、やっぱりそれを日本の中に取り込んだものにしないというと、外国のような自然発生的に生まれたものは、これは歴史的に気象条件だとかあるいは自然条件だとかいうものが大変色濃く作用しておると思うんですね。しかし、日本ではやっぱり日本なりに制約された一定の環境条件の中でございますので、特にその点については民間も行政も一体になって何か一つのマニュアル的なものがもうこの段階では出てこなければ、なかなか外国とのこれだけの格差があるものに格差縮小ができないと思うわけでございます。  そういう点で、先ほど先生がおっしゃいましたレジャーのいわゆる指導者じゃなくて支援者、支援の仕組み、その人、これをどうして組織化していくかということが民間、行政ともに一番求められていくんです。というのは、先ほどおっしゃいましたように、やっぱりそれが核になって急速にレジャーのあるべき方向に進めていかなきゃならぬ。そうした場合、いわゆるレジャーサポーターとしてのソフトとハードの両面を兼ね備えた組織化について何か御希望が、民間の立場から協会の立場からおありでしょうか、その点を最後に一点お伺いして終わりたいと思います。
  17. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) 大変ありがたい御質問をいただきまして、私どもレジャーの支援ということで、ハードの方は今のところまだ十分じゃありませんが、いろいろなソフト開発をしてきております。  お手元にお配りした「余暇生活診断とレクリエーション処方の開発に関する研究」というレポートも、どうすれば余暇活動というこの自由な活動を的確に支援できるそういうサービスがつくれるかということのための基礎研究なんですけれどもレジャーサポーター、初めて伺いますが、大変おもしろいお言葉だと思います。私どもとしては、そういうレジャーサポーターあるいはレジャーカウンセラーみたいな人たちを養成して、最近行政が余暇情報センターなどというのをつくり出しておりますが、これをできればそういうところの専門職に定着させたいと思っております。  そこで、もし可能ならば、余暇活動支援のための何らかの法的な整備をしていただいて、そしてどこの省庁かわかりませんけれども余暇情報余暇のノーハウをサービスするようなそういう機関を自治体につくれるような、例えばそういう補助金を出していただくとか、何かモデルをつくって行政をリードしていただくとか、そんなことができたらよろしいんじゃないか。つまり、これからの自治体サービスの中には、いろんなサービスがありますけれども余暇活動支援サービスというのも特に市町村では欠かせない課題であると、こういうことが見えてくるように私どももいろいろ運動していきたいと思いますが、ぜひ法制化とかあるいは各省庁の施策の中でそういうものが見えてくるように御指導いただけたらと思います。
  18. 大塚清次郎

    大塚清次郎君 終わります。
  19. 高木健太郎

    高木健太郎君 先生のおっしゃったこと大変参考になりまして、また今後の日本産業あるいは行政のあり方として考えられるところがたくさんあったと思います。  ちょっと、わかりませんこととかその他のことをお尋ね申し上げたいと思いますが、まずレジャー憲章というものはいつできて、どんなことが書いてあるものでしょうか。どういう参考書を見ればわかるかお尋ねしたいと思います。
  20. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) レジャー憲章と申しますのは、国際的なレクリエーションレジャー組織であります世界レジャーレクリエーション協会、ワールド・レジャー・アンド・レクリエーション・アソシエーションと申しまして、ただいま本部はカナダにございますけれども、その組織が一九七〇年、当時はまだ世界レジャーレクリエーション協会ではなくて、国際レクリエーション協会と申しておりました。インターナショナル・レクリエーション・アソシエーションと申しておりましたが、その組織がジュネーブで余暇化問題シ ンポジウムを開きまして、その結果採択した憲章であります。各国の余暇運動が目標とすべき一つのテーゼを打ち出しております。  それで、あっさり言いますと、レジャーというものは人間生活に重要なものであるから、これを活用また支援していくということを国の政策にもしっかり定着させようということをねらっております。  全七条ございまして、第一条が「レジャーに対する権利」で、人はすべてレジャーに対する権利を有するということから、合理的な労働時間、正規の有給休暇、それから旅行条件レジャー活動の有効性を高めるための環境整備の必要をうたっております。  第二条が「個人の自由」ということでございまして、レジャーは完全な自由のもとに行われなければいけない、これをだれかがああせい、こうせいという意味で教化、指導してはいけないということがうたわれております。  それから、第三条が「レクリエーション資源活用の権利」でありまして、人はすべて公開されているレクリエーション施設、湖水、海、森林、山岳、その他オープンスペースを容易に活用する権利を有する。つまり海や山もレクリエーションの資源としてみんなのものであるということを説いております。  第四条が「あらゆるレクリエーションへの参加の権利」ということでありまして、人はすべて年齢、性、あらゆる教育程度等に関係なく、スポーツ、ゲーム、野外生活、旅行、いろんなレジャーに参加できる、そういう権利を持っている。例えば障害があってもレクリエーションを楽しむ権利があるということであります。  第五条が「自治体、専門家等の役割」でありまして、自治体や専門家というものはレジャーを押しつけるのではなくて、人々のレジャーが豊かに開花するように条件整備をするんだということを言っております。  第六条が「レジャー教育への権利」でありまして、人はすべてレジャーの楽しみ方を習得する機会への権利を有する。つまりレジャーの楽しみ方を教えられるというのは教育権の一部であるという発想であります。  第七条が「レジャー教育の推進」でありまして、レジャー教育は公共、民間の組織が協調し、協力して果たすものであるというようなことを言っております。  その後改定されまして、趣旨は同じようですけれども少し条文が変わりましたけれども、これを私どもは国際レクリエーション運動の目標として掲げて運動しております。
  21. 高木健太郎

    高木健太郎君 日本のどこか自治体でこういう憲章というようなものを出しているところはございますか。あるいは政府から出ているということはございますか。
  22. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) 政府はまだだと思いますけれども、自治体では一九七〇年代に兵庫県に余暇課ができて、県レベルの余暇行政が整備されかかったときに、憲章というほどではありませんが、それぞれ運動方針というか施策方針みたいなものを出しているようです。  それから、市のレベルでは新潟の長岡市がレクリエーション課というものをつくりまして、そのときもまだ憲章ではないと思いますけれども一つの方針を出しております。  憲章というようなものでは、埼玉県の越谷市がスポーツレクリエーション宣言という都市宣言を出しております。  その他、まだあるのかもしれませんが、自治体でスポーツレクリエーションを市民生活の柱として打ち出すというような傾向は出てきているようであります。
  23. 高木健太郎

    高木健太郎君 それから、レクリエーション協会先生の属しておられる協会の設立趣旨あるいは目的というようなものはどういうふうになっておりましょうか。
  24. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) 設立趣旨は、あっさり言えば、昭和二十年代に書かれたものですので、国民が余暇を活用して健康を高め、文化生活を追求して民主的文化的な日本をつくるというのが設立趣旨でありました。
  25. 高木健太郎

    高木健太郎君 そのお仕事の科目の主なるものはどういうものでしょうか。
  26. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) 協会の事業としましては、先ほど申し上げましたように、地域職場学校福祉という四つの領域がございまして、それぞれの領域での指導者養成とか、さまざまな大会、研究会、講習会、そういうものの実施というのが土台であります。  全国的な行事といたしましては、全国レクリエーション大会というものを毎年一回開いてまいりました。ことしからちょっと変わりまして、全国的なイベントとして全国スポーツレクリエーション祭という文部省がつくりました新しいみんなのスポーツの祭典がございますが、これに参加して一緒に運営をするということが一つ。それから、二万四千人のレクリエーション指導者を中心にレクリエーションの研究大会というものを開いているというのが大きな柱でございます。それから、国民へのレクリエーション啓蒙というか普及のイベントとして、朝日新聞社と協力しまして全国一斉ウォークラリー大会、ウォークラリーと申しますのは、簡単な案内図のようなものを持って、町の中、自然の中を歩いていろんな課題を解いて帰ってくるという大変楽しいファミリー向きの野外スポーツですが、その一斉ウォークラリー大会というのをやっております。  あとは、事業としてはいわゆる広報出版事業、雑誌とか単行本を出しておりますし、サービスセンターというのがございまして、組織を通じてスポーツの用具とかレコードとか教材などを広めております。それからレクリエーション相談、いろんなコンサルティングを行っております。そして研究所というのが附属でございまして、これが私がおりますところですが、調査研究活動を先ほどの資料のようなことをやっております。
  27. 高木健太郎

    高木健太郎君 もう少し時間がございますのでお聞きしたいんですが、現在の産業構造というものが、非常に例えばライン生産とかそういうものがありまして単調で抑圧的であるということはわかりますし、そのためにレジャーあるいはレクリエーションが必要であるということもわかるわけですけれども、また、お書きになった本から見ましても、そういうレクリエートするというような気持ちもよくわかるわけですが、その仕事の種類によって非常に違うと思うわけです。初めから創造的な仕事をしておられる方は自分の好きでやっておられてそう大して疲れない、あるいは仕事そのものが自分の生きがいであって休みを別にとるというような気持ちもないと、そういうのもありますし、あるいはライン生産のようなところで縛りつけられたものもあるというようなことで、レジャーのとり方あるいはレクリエーションのやり方が非常に違うと思うんですが、それについてはどのようにお考えかということが一つ。  それから、私は今からすぐ週休二日をとるということは、非常に急激に変えるということは一方において非常な産業の低下を来して危険なこともあるのではないか。一遍そうなってしまうとなかなかそれをもとに戻すことは大変であると思うので、週休二日のやり方というものも非常に問題があると思うんですが、まず私は、老人の余暇の使い方というようなものが先にあるべきじゃないかなというふうに思っておりますし、特に高齢化が進んでいる現在では老人の遊び方というものが大事じゃないかと思うんです。その最初の仕事の種類によってどういうふうにお考えか、それから年齢の違いによってどのようにお考えか、特に高齢者に対する余暇の使い方というものについてお考えをお伺いしたいと思います。
  28. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) 先生のおっしゃるように、余暇の問題というのはそう一律にだれにも共通に言えるものではないということでございます。大きく分けますと、仕事余暇関係は、仕事余暇が融合的であるというふうな、さっきの創造的なお仕事とか仕事を楽しんでいるとかいうのは確か にあるわけですので、融合的な仕事余暇のとらえ方というのが一つ。それからもう一つは、やはり仕事仕事余暇余暇と、これをしっかり分離する分離型のとらえ方が一つ。大きくライフスタイルが融合型と分離型では違うということはそのとおりだと思います。  融合型の場合には、労働時間というものもなかなか明確に定義しがたいようなところがあるわけです。しかし、融合型の仕事というのはかなり限られておりまして、だれでもなかなか融合型になれないという意味ではこれはかなりの少数派である。国民全体のことからいいますと、やはり分離型というのをメーンに考える必要があろうかと思います。分離型の考え方ですと、やはり仕事というものはできるだけ効率的に、できるならば短くして、そのかわりに余暇というものをしっかり確立しようということになるわけで、私どももその分離型を一応のモデルにしながら余暇生活充実を考えなきゃいけないと思っております。  それから、年代によっても余暇の過ごし方が非常に違う。これも確かに国民のうち、いわゆるフルタイムの仕事を持っている人はあっさり言って半分ぐらいだと思いますので、勤労余暇という形で余暇問題を考える人たちが半分、もう半分はほとんどみんな余暇である。子供たちは勉強というのを労働というふうに考えますと、ちょっと似ている学習余暇というふうな問題の立て方もできますが、しかし、やはり生活全体から遊びの問題も考えていくことになると思いますし、いわゆる仕事を持たない主婦あるいは高齢者の場合ですと、勤労余暇という問題の立て方では生活が語れないわけでありまして、むしろ余暇というのが本科といいますか、そちらにメーンがあって、たまたま多少いろんなお手伝いの仕事もしていると、こういう人たちがあるわけで、これもまた問題を分けて考えなければいけないと思っております。  しかし、大多数の国民の大きな課題としては、勤労者余暇仕事があって余暇がある、そういう余暇が、しかも働いている壮年層の余暇が非常に貧しい。この辺から充実をまず図らなければいけないと思っておりますが、先生のおっしゃるように、まず高齢者からというのも確かに重要な視点だとは思います。高齢者はこれまでのところ、人生のこれまでの時期に余り余暇体験といいますか、余暇教育を十分受けてこなかった方々が今のところは多いわけでありますから、そういう意味では高齢者のための余暇サービスを、できるだけ高齢者になってからではなくて高齢者になる以前から、何らかの形で社会教育とかさまざまな機関によって提供できるようにしなければならないんではないか、こう思っております。
  29. 高木健太郎

    高木健太郎君 ありがとうございました。終わります。
  30. 近藤忠孝

    ○近藤忠孝君 まず、余暇の阻害原因について、今まで御指摘のとおりほぼ三つ、一つは時間的余裕がない、二番目に金がかかる、三番目に仲間やリーダー、あるいは施設の問題、恐らくこれは私はそれが原因であるということは共通の認識だと思うんですよ。  問題は、時間がとれないのはなぜかという点について、原因は急激な産業の成長というのが原因ですが、じゃどうやってとるかという点ですね。これはやはり生産性の向上に比例して余暇は出るはずですね。それが出ていない。じゃこれをどうやって現実にこれから打開をしていくのかという点で、参考人の立場から御意見があればお聞きしたいというのが一つです。  それから、金がかかるについては、かからない余暇の利用方法があると、全くおっしゃるとおりですが、人間、案外周りにあると言われても気がつかぬものなんですね。それで、専門的立場から、例えばこんなことがあるじゃないかと言うと、はっと気がついて、それがさらにまた発展していくということもあるも思いますので、それについてひとつ御意見があればお聞きしたいと思うんです。
  31. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) まずは先生おっしゃるように、生産性向上というものをどういうふうに振り分けるかということだと思うんですけれども、これまでは生産性向上分を専ら所得の方へ振り分けてしまって、余暇の方へ全然配分してこなかったというわけでありますから、これは国民的な合意ができなきゃいけないわけですけれども、生産性向上分の一定の分は必ず余暇へ振り向けるというふうな合意と、そういう意味では法律かなんかつくって、ことし何%か生産性が向上したらこれは余暇へ半分回す、半分はお金に回す、経済に回すというふうなことをやっていく必要があると思うんです。  ヨーロッパはそれをやってきたと思うんですね。欧米の社会は生産性の向上を上手に配分しながら、それだけ余暇の需要というものが、ニーズというのが高かったと思うんですけれども日本人の場合には残念ながらというか、ある意味では幸福なというか融合的な労働観が、非常に労働から生きがいを獲得するという人が多かったものですからそれはできないできたということがあると思うんですね。ですから、その配分を変えるためにも、もっと余暇意識余暇権利意識みたいなものを高めるということが非常に重要なんじゃないか。これはまあいろいろ我々もあるいは先生方も、みんなで余暇というのはやっぱり大事なんだというのは、これはある意味では党を超えてもイデオロギーの問題じゃなくて一致できると思いますので、何とか合意したところまで余暇をみんなでつくり出すというふうにやっていきたいというふうに思います。  それから、日常余暇の具体例としましては、これはまず、勤労者に我々がいつも勧めていることは御近所再発見といいますか、自分の住んでいるところを知らないんですね。住まいと駅の間、それも最短距離で移動しているだけというような勤労者が多いわけでして、今どこの町へ行っても相応の文化施設があり、それから公園とか名所旧跡、それから自然も結構残っているわけですね。まずは御近所というものをもっと見直そうじゃないか、そうすると結構いろいろな活動が見えてくるはずだと思います。ウォークラリーなんという我々がやっているのも御近所再発見のプログラムですけれども、御近所にもいい場所がある。そして仲間もいる。公園へ行ってみればジョギングをしている人がいる。そういう人たちと一緒に自分たちの自前の自立的な組織をつくっていく。そこがやっぱり余暇充実の非常に大きなポイントではないか。まず日常からというのが大変おっしゃるように大事なことだと思います。
  32. 近藤忠孝

    ○近藤忠孝君 先ほどのレジャー憲章の中のレジャー権ですね。権利として確立しようというので大変賛成ですし、我々もスポーツに関して国民がみずからスポーツに参加するスポーツ権というものを確立したい、こう思っておるんですが、ただこれスポーツ権といってもなかなかまだ国民的合意にまで達していないのが現状だと思うんです。そういう意味では、先ほどのレジャーに関する権利もまだ国民的合意までには至ってはいないんじゃないかなというのが現状だと思うんですね。これはやはり早く国民的合意にスポーツ権も含めまして広げる必要があると思うんですが、その広げ方についてのお考えがあればお聞きしたいと思うんです。
  33. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) 幾つかの方法があると思うんですけれども、まずは正攻法から言えば、やはり教育の問題が大きいと思います。余暇というもの、あるいはスポーツもその一つの形態ですけれども、そういうものがとっても大事だということをしっかり小さいころから体験させ、そしてまた知識としても教育していくということだと思うんですが、教育というのは大変時間のかかるものでそう簡単にはいきませんので、むしろ今現実に勤労者たちにそういう意識を持ってもらうためにはやっぱりいい実例を、モデルを出していくことしかないんじゃないか。勤労者でもこんなに余暇を楽しんでいますということをどんどん広めていってうらやましがってもらうということですね。自分もやればできるんだと思ってもらうこと。 余りスポーツ権とか余暇権とかいっても、権なんというとそれだけで敬遠しちゃうような人もいるわけですので、一つの具体例としてまず権利の実現の部分を見えるように形にしていく、これがとても大事なことではないかと思います。  それからあとは、日本はマスコミ社会ですので、マスコミ等で余暇の問題というのをもっともっとまじめに考える、そういうキャンペーンをやっていくことではないか。最近、新聞でも余暇問題というのはかなりの頻度で出てくるようになったと思いますので、これは相当急速に進んでいくんではないかと思います。その突破口は先ほどもちょっと申しましたけれども子供遊びというのがまずかなり重要な突破口になるんじゃないか。やっぱり子供のころから遊びの体験、余暇体験がないと大変なことになるというのは相当皆さんわかってくださると思うんです。  勤労者余暇なんといっても、やっぱり働かなきゃ経済はどうなるかという動因が強いんですけれども、これはやっぱり健康から迫るべきだと思うんです。やっぱり余暇と健康が結びついている、余暇を持たなければ健康を壊してしまう。健康というのはこれはだれでも否定できない大変重要な課題ですので、健康から入るのが第一と。  それで、高齢者や主婦層で余暇を現実に所有している人は、やっぱり生きがいと余暇という、余暇の中から生きがいを創造するというそういう迫り方が効果があるんじゃないか、そんなふうに思っております。
  34. 近藤忠孝

    ○近藤忠孝君 それから先ほどのお話の中で、楽しみとしてのスポーツという話がありました。これは参考人の書かれたものでも競争原理から共同原理と、恐らく同じことだと思うんですが、ゆったりとしたスポーツ、そしてその場合競技スポーツの基礎、土台としてではなくとおっしゃった点についてお聞きしたいのです。  スポーツという面を一面考えてみますと、みずからスポーツを行う国民がずっとふえるということは、スポーツの基礎が広がってそういう意味スポーツ人口の増加が国民全体の健康、体育の増進につながり、そういう基礎があってすぐれたスポーツマンが輩出をして、そして金メダルもふえてくる、私はこういう論理構造になっていくんじゃないかと思うんですが、その今言った側面と参考人が言われた楽しみとしてのスポーツ、そういう競技スポーツの基礎ではない、別だというその辺の関連性についていかがでしょうか。
  35. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) 実は、これは大変議論のあるところだと思いますが、結果として見ると、確かに楽しみとしてのスポーツが広がることが競技の向上にもなるわけなんですけれども、今現実にスポーツが余りまだ十分国民に行き渡っていないという状況で、一つ運動論的に考えた場合、その楽しみとしてのスポーツは底辺拡大なんだというふうな言い方はスポーツをやっている人たちを勇気づけないといいますか、むしろ楽しみとしてのスポーツはそれ自体価値がある。必ずしも勝った負けたではなくて、つまり今のスポーツの方式で言いますと、スポーツをやったら勝たなければ、競技会に行って勝ってこなければ意味がないというふうなそういうスポーツに対する考え方が非常に広いわけです。これは少年スポーツにしても、本当は少年スポーツ子供の体を育て、そしてスポーツによって仲間をつくるということだと思うんですが、これはもう競技会に勝つということに全く収れんさせられてしまって、スポーツの大きな目標が見失われちゃっているわけです。  それを合理化する理論というのはやっぱりみんなが広くやることで、そうするとそこから優秀な選手が出てくるということになってしまうわけですので、私どもは今のところ一種の戦術的と言ってもいいのかもしれませんが、一たん切り離した方がいいんじゃないか。競技スポーツは競技スポーツで、むしろ楽しむスポーツをどんどん広げていく、その中から次第に競技も育ってくるわけですが、それは富士山みたいに土台にみんなの楽しみとしてのスポーツがあって上に競技スポーツがあるんじゃなくて、峰が二つあるといいますか、重なり合うところもあるんですけれども、楽しみとしてのスポーツとして発展する部分と競技スポーツとしての部分とはずれていていいんじゃないか。  文部行政なんかも競技スポーツと生涯スポーツに今度分かれたんですけれども、私たちはそういう意味では歓迎しているわけなんですね。どうも体協主導型の競技スポーツだけでは国民のスポーツの本当の可能性は生かせないんじゃないか、こういうことでございます。
  36. 平野清

    ○平野清君 どうも御苦労さまでございます。  お話をお聞きしていて二つ感想を持ったんですけれども、国会のこと、党のこと、それから自分関係している諸団体のこと、もう寸秒を争って時間がない人間余暇のことをやっていることがいかに矛盾しているかなということと、それから遊び方、余暇の過ごし方を一生懸命教わらなければやれない日本人の悲しさというんですか、その二つを痛感したんです。  それは質問じゃございませんけれども、質問はほかの先生がほとんど私の考えていたことを言われてしまったんですが、まず普通の青年層ですと日曜日とか祭日にソフトをやるとかゴルフをやるとか、野球をやるとか柔剣道をやるとか、自分一つの趣味を持っていらっしゃる人はそういう団体に入って一生懸命やっている。一番問題はものぐさ族をどうやってそういう地域ぐるみのレクリエーションに参加させるかということだと思うんですが、そういう意味でもレクリエーション指導者養成講座なんというのをよく五日間か六日間おやりになっているのを見ていますと、何か子供を対象にした支援者になりたいという人が多くて、高齢者の支援者になりたいとか壮年層の支援者になりたいという人が極めて少ないような、私の狭い経験ですけれども持っていること、そういうことをどういうふうにお考えになっているか。  それから、最近、高齢者の方が遊んでばかりいたのではもったいない、健康のために高齢者事業団みたいなところへ入られて一生懸命働いていらっしゃる。私なんかも留守にしちゃいますので、庭がぼうぼうになっちゃうと、そういうところへ頼むと非常に丁寧で安くやってくれるので、そういうおじいさんとたまにお話をしますと、植木をやっていることが、働くんじゃなくて私の趣味なんであると。そういう高齢者の働くことと、さっきのお話しになりました融合性の問題ですね。お年寄りに生きがいを与える勤労といいますか、労働プラス余暇というんですか、そういうことをもっと進める方法がないものかどうかということ。  それから、これから大事なお仕事をなさっていく財団法人日本レクリエーション協会というものの存立の財政的基盤とか、どういう支援団体があるのか。収入なんというのはどういうふうにどこからあれされて、今後活動していく素地が、基礎が十分におありになるのか。  時間がないのでその三点をお聞きしたいんです。
  37. 薗田碩哉

    参考人薗田碩哉君) 最後の協会のことからお答えしたいと思いますけれども、余りレクリエーション協会は国や公的な資金はもらっておりませんで、主として先ほど申しました事業収入で成り立っております。ただ、あと会員がございまして、会員の中には企業もそれから都道府県、市町村の団体もそれから個人もおりますので、そういう会員からの収入と事業収入でやっている。余りお国の丸抱えになりますと自由な余暇でなくなるかもしれませんので、それはそれでいいのかもしれませんが、将来的には二万数千人の指導者をもっと専門性の高い指導者にして、そういう指導者活動、支援者の活動基盤にした団体をつくっていきたいということでございます。  先生のおっしゃる、まずものぐさ族の問題なんですけれども、ものぐさ族に余りテレビとごろ寝は程度が低いというふうな言い方をするのもどうか、ものぐさも立派な余暇であって、まずものぐさを楽しんでいただくことが必要じゃないか。ただ、人間というのは必ず進歩への欲求を持ってお りますので、一週間もものぐさというわけにはいかなくなる。そこのところでさまざまな支援の手を差し伸べる必要があると思うんです。  その場合に、これまで余暇活動というとすぐ種目から入って、まあ野球のグループだとか文化活動だとか、ですから種目が思い浮かばない人、あるいはそういう種目が余り自信のない人はどうも余暇に入ってこられなかったと思うんです。これからはそういう種目型のお誘いだけではなくて、むしろ人と人とのつながりの方から余暇に入っていく。つまりどなたも必ず人間は人の間を求めているわけでありまして、地域社会の中に一杯飲めるような楽しい仲間が欲しいと思っていると思うんですね。だから、野球をやります、ゴルフをやりますというふうな種目からではなくて、むしろあなたとお話がしたいという仲間ですね、ものぐさでもいいから一緒にしゃべろうという仲間づくり、人間関係の発見みたいなところに大きく力点を置いて活動していく必要があるんじゃないか。意外と地域社会の中で我々ばらばらにされているわけですので、地域の気の合った人たちを再組織するというそういう意味地域社会基盤づくりをするということが大変大事なポイントではないかと思っております。  それから、高齢者事業団ということで、確かに現在の高齢者はただゲートボールをやっているなんというよりは、自分の特技を生かして、おっしゃるように植木を直すとか障子を張るとかいう方がよっぽど生きがいなわけですね。もしかすると、そういうふうに仕事でもあり生きがいでもある、融合的な、余暇でもあり労働でもあるというようなのが人間の理想なのかもしれない。ただ、現実に融合的に仕事ができる人はどうしても限られてしまいますけれども、むしろ人生の終わりの方になって無理やり働かされるのではなくて、また、しゃかりきにお金を稼ぐ必要がなくなれば自分の特技を楽しみの範囲内で適度に生かせる、ちょうどよく働いてそして余暇の気分も味わえるというふうな、つまり融合的な、労働余暇が融合する理想の境地というものが、あるいは人生の終末期には実現しやすいのかもしれない。ですから、ここまでいきますと余り我々も余暇余暇というよりも、一体何をするかという活動自体の問題だと思います。  ですから、高齢者事業団も、そう言ったら失礼かもしれませんが、レクリエーション団体だと、そう思っているわけでございまして、先生のおっしゃるように、最後は融合させる、労働余暇も含めた生きがい活動みたいなものを一生続けて楽しく人生を終わりたいということではないかと思います。
  38. 平野清

    ○平野清君 ありがとうございました。
  39. 長田裕二

    ○会長(長田裕二君) 以上で薗田参考人に対する質疑は終わりました。  薗田参考人にはお忙しい中を御出席いただきましてまことにありがとうございました。ただいまお述べいただきました貴重な御意見等は今後の調査参考にさせていただきたいと存じます。薗田参考人に対しまして本調査会を代表して厚く御礼申し上げます。(拍手)  午前の調査はこの程度にとどめ、午後一時十五分まで休憩いたします。    正午休憩      ─────・─────    午後一時十七分開会
  40. 長田裕二

    ○会長(長田裕二君) ただいまから国民生活に関する調査会を再開いたします。  休憩前に引き続き、国民生活に関する調査を議題とし、労働余暇に関する件について参考人から意見を聴取いたします。  まず、筑波大学助教授財団法人余暇開発センター研究参与松田義幸君及び財団法人労働科学研究所客員所員藤本武君から意見を聴取いたします。  この際、両参考人に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中のところ、本調査会に御出席をいただきましてまことにありがとうございました。  本日は、労働余暇につきまして忌慢のない御意見を拝聴し、今後の調査参考にいたしたいと存じます。  議事の進め方といたしましては、まず最初に四十五分程度ずつ順次御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑に対しお答えをいただく方法で進めてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。  それでは、まず松田参考人にお願いいたします。
  41. 松田義幸

    参考人(松田義幸君) 筑波大学の松田と申します。私、きょう、人生八十年時代労働余暇、豊かさの本質ということについて、幾つかの点についての考えを申し上げたいと思います。  「クロワッサン」という雑誌の五月十日号の広告が全新聞五段で出たことを記憶されている方もあるのではないかと思います。これは中刷り広告にもたくさん載っていまして、しばらくこれが話題になりました。どういう内容だったかと申しますと、「妻に先立たれたら、二、三年で後を追い、生活費を稼がなくなったらゴミ扱いされ、」、これについては、粗大生ごみ扱いされ、というと余りきついからやめたそうです。「子ども達には、オフクロより親父が先に死んでくれたらと願われ、絶望的で不機嫌な老後に向って、ただ働き続けている愛しくて、可哀そうな男たちへ。」、こういうコピーでありました。どんな有能なビジネスマンでもいつか仕事から引退の日が来るわけですけれども日本人について見ますと、仕事仕事仕事だけの人生できているために、仕事人生からの引退の日が人生からの引退の日になっている。こういうことは非常に異常なことではないか、こういう高齢化社会は大変異常なことではないか、そう感じております。  これはあるときに聞いた話なんですけれども、あるアルコール依存症の病院に元大企業の経営者という方が、名前を言うとおやっと思うような方々が相当入っているそうです。こういう方々は、JRの時刻表を見て三つくらい乗り継いでひなびた温泉宿に行けるかというと、ほとんど行けない。いつからかすべて生活は秘書任せで、奥さん任せできていますから、そういう小まめなことがもうできなくなっている。奥さんが病気にでもなると家の中に何があるかわからない、御飯も炊けない、洗濯もできない、ただおろおろする。で、ついついアルコールに依存してしまう、こういうことなんだそうです。  これは定年を迎えてからの話なんですけれども、昨年、看護婦さんの教育をされている団体から相談を受けました。最近看護婦さんがお医者さんと結婚することを望まなくなってきたというんですね。理由は、お医者さんがおもしろくなくなってきたというんです。非常にまじめだけれどもおもしろくなくなってきた。細分化され専門化された仕事領域で、そしてイノベーションに追いつくためにただひたすら勉強しているわけですけれども、本人が自由時間の世界人間としてつき合うということについてインポテンツである。したがって、もっとおもしろい人たちとつき合いたいというのがそこから受けた相談でありました。  筑波研究学園都市というところは細分化、専門化された仕事世界で働いている人がたくさんいるわけですけれども、どういうわけか自殺が多い。お医者さんの場合と同じで、細分化され専門化された仕事で一生懸命働いているわけですけれども、ふっと自分のことについて考えたときに迷ってしまう。水泳の高飛び台から飛び込む前に筑波の建物から飛び込んでしまうこういう人たちが後を絶たないわけですね。どうも仕事仕事仕事、その人生できた人たちが行き詰まってきている。  そういうことで見ますと、カメラ会社に勤めている人が写真芸術の楽しみ方を知らない、出版社に勤めている人が読書生活の楽しみ方を知らない、ビール会社に勤めている人がビールの飲み方の楽しみ方を知らない、スポーツ会社に勤めている人がスポーツの楽しみ方を知らない、飛行機会 社に勤めている人が旅の楽しみ方を知らない。ただひたすら供給側に回って仕事仕事仕事だけの人生、そういうことであるわけです。これは、ほかの国から見ると非常に異常に映っているのではないかと思います。仕事人生につけ加えて、これからは人間的魅力、人間的おもしろさ、そういう能力を身につけていかないと、人生八十年、充実した人生ということにはならないのではないかと考えております。  少し大学の授業のようになって大変恐縮なんでありますけれども資料を見ながらちょっと御報告したいと思います。「Leisure and Human Being」という資料を見ていただきたいと思います。  この中で、五つばかり述べてみたいと思います。一つレジャー、ホリデーの語源、二つ目がレジャーの今日的意義、三つ目がレジャーのライフスタイル、四つ目が社会変動とレクリエーション、エンターテーメント、レジャー、五つ目が七十万時間の時間予算ということであります。  二ページ目の「言葉の整理」というところで、レジャーの言葉の前にホリデーという言葉から入ってみたいと思います。  ホリデーという言葉を今の子供たちは休日と訳しております。それでいいわけですけれども、このホリデーという言葉のもともとの意味はホーリーとデー、ホーリーデーと言えばあっ、聖なる日かと言われる。そのとおりなんでありますけれども、なぜ聖なる日と言われるようになったか。holy(ホーリー)はwhole(ホール)でもあったわけです。ホールはまた自然を意味しておりました。今日この意味はドイツ語の方にまだ非常によく残っているのでありますけれども、wholeは、欠けたるものがないこと、完全なこと、全体、健康、幸福、こういう意味であったわけです。したがって、ホーリーデーというのは、その人がその人本来になるための日、その人が心身健康になるための日、その人が完成するための日、その人が全体を取り戻すための日、こういう意味であったわけです。そして、日曜日というのは週の始まりで、一週間の始まりにホールライフに向かうためのホリデーがあったわけです。  ホリデーに対する反対の言葉はワークデーなわけですけれども、今日、非常に仕事領域が細分化、専門化されてきております。ある人間の特定の能力が鋭く開発される、そういう状況下にあります。その人の本来持っておった全体性、それが非常に忘れられてきている。なぜか。  ワークということをビジネス、オキュペーション、ネゴシエーションというわけですけれども、これらの言葉の本来の意味は、自由がないこと、その人の本来の姿がそこにないことというところから来ているわけです。したがって、我を忘れて細分化された、専門化された領域で忙しく働くということは、その人がその人の部分と非常にかかわってくる、部分だけとかかわってくる。そしてそれが定年の日にその部分もなくなってしまうということですからすべてなくなってしまう。それから人生八十年どう生きるか。人生五十年仕事中心で生きておれた時代はそれでいいわけですけれども、どうも寿命が非常に長くなって自由時間がふえて、仕事人生だけでは生きていけなくなってきた。仕事人生につけ加えてもう一つホールライフをつくる、そういう生活もなければいけない、そういうふうになってきたのではないかと思います。  それで、ギリシャ語の方のレジャーの言葉遣いについて次に述べてみたいと思います。  今日、レジャーというとパチンコとかマージャンとかゴルフとかテニスとか、遊びというか気晴らしのたぐいで理解されている方が多いのではないかと思いますけれどもレジャーはもともとはスクールをギリシャにおいては意味しておりました。このスカラー、それがギリシャ語のレジャーであったわけですけれども、最近自由時間がふえてきてレジャーを本来のスクールに戻して使うということが一般化してきております。ギリシャとか古代ローマにおいては、働くということはレジャーがないことということを意味しておったわけです。そこからネゴシエーションとかビジネスとか先ほどのオキュペーションとかという言葉が出てきた。  では、スコレーとは何かということなんですけれども、それは文化価値を楽しみながらその人がその人本来になることということを意味しておった。一般にギリシャでは奴隷制を前提にしておって、そして市民階級はレジャーばかりだと思われておるのでありますけれども、市民階級も働いておった。それはスコレーの反対のアスコリアという言葉にあらわされております。そして、そのセルフデベロプメントという、文化価値を楽しみながらその人がその人本来になる、それがスコレー、レジャーなのでありますけれども、デベロプメントというのは封を開いて手紙を取り出すという意味で、それにセルフをつけるわけですから、その人の価値を引き出すこと、自己開発を図ること、自己を完成に向かわせること、つまりレジャーという言葉もホーリーライフということと同じであったわけです。  四ページをちょっと見ていただきますと、「自由時間の過し方」というのは大きく分けると三つに分けていいのではないかと思います。  一つは、Aタイプの休息・休養・保養、または疲労の回復、労働からくる疲労回復。二番目が気晴し・娯楽、退屈からの脱出、労働からくるストレスの解放。三番目が自己開発、自己を完成させる、または身体・感情・理性の陶冶、または自己規律を課した自由時間の過ごし方。これまではAタイプ、Bタイプの自由時間の過ごし方は一般化しておったわけですけれども、これからはCタイプに力を入れていかなきゃいけない、入れていくべきだと思います。  Cタイプとは何かということでありますけれども、それが「レジャー生活人間化」ということで四ページのところに図が書いてございます。人間のことを子供たちに説明してごらんと言うと、世界史の最初の一ページを取り出して、体を使うこと、二足歩行で歩くこと、それから頭を使うこと、手を使うこと、これが人間一つ条件になっておるわけです。ところが、足の速い人、遅い人がいる、遅い方はいつも損する。そういうことでトランスポーテーションが発達してきた、今日のモータリゼーション、そういう状況下にあります。それから頭を使う方も、記憶のいい悪いということはこれはもう問題でなくなってコンピュータリゼーション、マスコミが発達してきた。それから手を使う方も、オートメーションでぶきっちょの人がそういうコンプレックスから解放されてきた。  ところが、現代社会人間条件が組み込まれてきたために、人間は足を持っていても、体を持っていても体を使わなくなってきた、心を持っていても心を使わなくなってきた、手を持っていても手に文化を持てなくなってきた。つまり、体の疎外、心の疎外、技の疎外ということでありますけれども人間条件を失ったわけですから非人間化と言ってよかろうかと思います。これらの非人間化の状況からいかに人間化を図るかということをレジャーとの関係で言えば、一つスポーツを楽しむこと、一つはリベラルアーツを楽しむこと、一つはクラフトを楽しむこと、そして非日常生活においては自然生活を楽しむこと、旅を楽しむこと、こういうことになっていくのではないかと思います。  次の「社会変動とレクリエーション、エンターテインメント、レジャー」というところについて話してみたいと思います。  いつからか社会のあり方をその社会の科学技術のあり方から、前工業社会、工業社会、脱工業社会というふうに呼ぶようになってきております。まだほかの呼び名もあるわけですけれども、私はこの呼び名をとってこれから申し上げたいと思います。前工業社会というのは農業中心の社会、手工業中心の社会。工業社会というのは、物をつくる、日本がこれまでやってきた社会。それからこれからの社会というのは、ハイテク、サービス中心の 社会というふうに言われているわけです。これらの社会の中で、人々がどんな生き方をしてきたか、その社会を成り立たせるために社会はどういう価値観を大切にしてきたか、国はどういう価値観を大切にしてきたかということでありますけれども、前工業社会においては、勤勉・節約の価値観を大切にしてきた。うちのおふくろ、おやじさんは明治生まれだったんですけれども、まさに勤勉・節約の価値観そのものでした。  ところが、こういう生き方が一九二九年に崩れるわけです。産業革命以降科学技術の水準が高くなってきて物の生産力が非常についてきた。人々が勤勉・節約の価値観を持っているということでは物余りの現象が起きる、大不況に入ってきたわけです。そこで、社会はこういう価値観ではもう古臭い、これからの価値観は物をたくさん所有し、物をたくさん消費する、そういう価値観こそが大切であるということで物中心の社会の工業社会に入ってきたわけです。  ところが、一九七〇年ころから、どうもおかしい、人間人間らしく生きるために必要以上に物を消費し、物を所有するということはこれはおかしいのではないかということで、いろんな考え方が一九七〇年前後に出されたわけです。アメリカでもチャールス・ライクという人の「ザ グリーニング オブ アメリカ」とかそれからイギリスのシューマッハという人の「スモール イズ ビューティフル」とか、それからことしの夏大変話題を呼んだ、自由時間までも時計時間で生きることはない、自由時間は人間時間、自然時間に合わせて生きるべきであるというミヒャエル・エンデの「モモ」というのもこのごろ出されたわけです。それから、「自由からの逃走」で我が国でも大変なファン、読者を持っているわけですが、エーリッヒ・フロムという人は、物を持つ時代から人間らしく生きる時代へという提起をしたわけです。  そもそも人間のことはヒューマンビーイングとは言うけれども、ヒューマンハビングとは言わない。なのに我々の社会は、いつの間にか女房を持つ、子供を持つ、土地を持つ、知識を持つ、愛情を持つ、全部持つという言葉をやたらに使うようになってしまった。しかしよく考えれば、ともに生きるとか知識を持つと言わないで知る、愛情を持つと言わないで愛するという、もっとbe動詞系列の言葉を大切にするべきだ、価値観を大切にするべきだということで、エーリッヒ・フロムという人が、ツー・ハブの社会からツー・ビーの社会へ、ハビングの文化社会からビーイングの文化社会へということを提起したわけです。これは大変多くの人の関心を集めたのでありますけれども、それからオイルショックが二回起きまして、世界が大不況時代を迎えて、この考え方が一時棚上げされたわけです。  ところが、欧米諸国もまた我が国もこの大経済危機を乗り越えて、そして生物として生きるということ、それを充足したときに、もっと人間らしく生きるそのときのコンセプト、哲学を探してみたところ、一九七〇年時代のころよく出されていたというところに気がついて、そしてそれが今日多くの人のコンセンサスを得つつあるのではないかと思います。つまり所有・消費の価値観の社会から人間らしく生きる、存在、そしてその人がその人本来になる自己開発、その価値観の時代へ今向かっているのではないか、また向かうべきなのではないかと思います。  それに対して、経済理論の方を考えてみますと、前工業社会というのはアダム・スミスの古典経済学というその理論で世の中がよく回っておったわけです。ところが、世界大恐慌以降その経済理論では社会を運営することができなくなって近代経済学、さらにはマスプロダクション、マスセールス、マスコンサンプションの近代経営というのがとってかわったわけです。しかし、今この古典経済学も近代経済学も、これからの脱工業社会に向けては通用しない学問になってきています。ネクストエコノミーという新しい経済学の体系というのは一体何なのか、どうなのか、今模索されているところだと思います。  この中で一つ注目すべき考え方は、アメリカのスコットバーンズという人の考え方の家庭株式会社という考え方です。これは我々の経済の歴史を見ますと、市場経済の歴史の時代よりは非市場経済の歴史の時代の方がはるかに長い、人類の歴史の九九%は非市場経済の歴史であった。それは何か。協調とか信頼をベースにして行われた価値の交換で、自由時間がふえてきますと、今後愛情とか信頼とか協調とかそういうことをベースにした賃金を伴わない生産活動文化価値の生産活動が起きてきて、そしてそれがいろいろと人々の幸せに貢献することになるだろう。そのときには経済システムイコール市場経済ということではなくて、経済システムイコール市場経済ブラス非市場経済社会になるのではないか、そういうことをスコットバーンズという人が提起しております。  それから、きょうのテーマであります自由時間の過ごし方について見ますと、前工業社会人たちは休息、休養、保養が中心であったわけです。うちのおふくろもおやじさんも、温泉に行って一日に四、五回ふるに入る、これが何よりの幸福としておりました。ところが、昭和一けたから二けたの世代というのは、戦前の「欲しがりません、勝つまでは」と、そういう精神主義に反省を加えて、物を所有し消費するという方へ人生を求めるようになってきた。そういう人たちは自由時間の過ごし方も、東京ディズニーランドとか後楽園ドーム球場とかああいうところに見られるように、気晴らし、娯楽と、自由時間をお金で楽しむ、そういうふうになってきたわけです。ところが、どんな人でも一カ月休みを与えられて東京ディズニーランドで楽しみなさいと言われると、四日目あたりから働きたくなってくるわけです。つまり、自由時間を金と時間で楽しむということは飽きがくるのも非常に早い、それに気がついてきた。時間と金と能力を必要とするような自由時間の過ごし方がこれからの人生ではないか、そう考える人が非常にふえてきております。具体的にはスポーツ、学芸、クラフト、自然生活、旅、こういうことであります。  次に、「人生八十年時代の時間予算」ということについて述べてみたいと思います。  人生五十年の時代は、子供の時期、教育の時期、労働の時期そして引退ということであったわけですけれども人生八十年ということになりますと、生涯生活時間に換算して七十万時間ございます。今、日本は働き過ぎだと言われておりますけれども、大体二千時間くらいになってきた、見通しが立ってきた。二千時間を四十年働いたとしてちょうど八万時間です。人生は七十万時間ですから一割ちょっとということです。労働時間の短縮は自由時間の増大ということなわけですけれども、自由時間はこれから社会に出る人たちについて見てみますと、低く見積もっても二十一万時間、人生の三割になります。現在、労働組合は生涯自由時間を二十五万時間というふうに置いております。三割を超えております。こうなってきますと、人生八十年をいかに充実して生きるかということは、人生八十年の自由時間をいかに充実して生きるかということに置きかえてもよかろうかと思います。  ところが、我々の社会は今日、人生五十年を前提としてつくられたその枠の中にいるわけです。それから我々の生き方も人生五十年を前提とした生き方であるわけですね。具体的には直線型の人生であるわけです。ところが、これはスウェーデンのパルメ首相が提案したことなのでありますけれども、これはおかしい、自由時間がこれだけあるのであるならば、我々はもっと柔軟に人生を組みかえて自分人生をつくるようなそういう生き方、またその受け皿が望ましいのではないか、そういうことで提案したのがリカレント型の人生、リカレント型の社会ということであります。  それはどういうのかといいますと、子供の時期、教育の時期、そして働いて、それからもう一度やり直して充電をする、それから働いて充電をする、それを繰り返していく。または教育を受けた後社会人になるわけですけれども労働の機会とレ ジャーの機会と教育の機会を柔軟に選択できるそういう生き方が望ましいと。ここではリカレント型の循環型、それから学びながら働く並行型、これがリカレント型A、リカレント型Bと言っていいと思います。そのほか、若いとき大きな会社で能力をつけてそれで充電してライフワークにつくとか、それからシュリーマンのような生き方とかピーターパンの生き方がいろいろあるわけです。  日本人について調査をしてみましたところ、これは日本の一部上場企業の人たちを対象に調査したんですけれども、これからどういう生き方がいいかということについて、直線型の人生がいいという人はもう一五%しかいないんですね。多くのビジネスマンはリカレント型A、リカレント型B、もう六割の人がこういう生き方を望んでいるわけです。こういう人生八十年時代に向けての新しいライフスタイルと新しい受け皿の社会を要望しているわけですけれども社会は依然として仕事中心の人生五十年型の生き方、また社会であるわけです。  したがって、今後国民のニーズに沿った、望めるライフスタイルに沿った社会づくりということが大切になってくるのではないか。その社会のことを臨教審では生涯学習社会と名づけたわけですけれども、これは日本だけがつけた名前ではなくて教育学者のハッチンスという人がもう既に前につけたことでございます。学習社会、これからの社会というのは、スクールという制度を人生全体とかかわらして人間が自己を完成させることができるような社会が望ましい。六三三四の教育制度は仕事中心の時代教育制度である。これからは仕事人生に加えて人間を完成させる、自己を完成させる、そういう人生が大切になってくる。そうなってくるとスクールという制度は、レジャーという制度は人生全体とかかわるべきだと、こういう提案がなされているわけです。社会もこの方向に今後向かっていくのではないかと、多くの国の社会もこれに向かっていくのではないかというふうに思います。  七ページ、八ページにはそれを裏づけるデータが載ってございます。明治のときには人生五十年じゃなくて人生四十年であった。ところが今現在人生八十年、寿命が倍になった、労働時間も、これは後に藤本先生の方からあると思いますが、明治のときには三千時間働いておった。今大体二千時間になっています。一年間八千七百六十時間あります。もう労働時間よりも自由時間の方が多い、そういう時代に現に入っているわけです。ところが今現在日本人は自由時間を何に使っているかというと、大きく使われているのは一つは千百時間がテレビでございます。それから三、四百時間がパチンコ、それで老後はゲートボールと、人生まじめに生きてきた人たちに対して自由時間がこういうかかわり方だけで終わっているということは大変不幸なことではないかというふうに思います。  次に、これからの生涯学習の中でのレジャー教育はいかにあるべきかということについて述べてみたいと思います。  これは労働組合の方からよく頼まれて労働組合の方との勉強会、さらには企業の厚生の方の関係たちとの勉強会で考えてきたプロジェクトなのでありますけれども、今レジャーカウンセリングという学問が注目されてきております。これはレジャーの能力を開発することをお手伝いするということです。このレジャーカウンセリングというシステムを受けますとこういう自己変革が起きます。今日のこれまで、私にバタフライができる、私に飛び込みができる、そんなことは夢に見ることすらなかった。今日のこれまで、あのウエストサイド物語のように私にモダンダンスができる、あのバッハのコラールの世界が私の心をとらえて離さない、そんなこと考えたこともなかった。私はこのレジャーカウンセリングを受けてすばらしい先生たちに出会え、仕事人生につけ加えてもう一つ人生に気づいたような気がする、レジャー人生とはこの味を一度覚えたら忘れられない、そういう世界であると思えるようになってきた。  実は、最近大学に入ることが目的になっていまして、大学へ入ると目的を喪失してしまうこういう子たちが非常に多くなっております。それからいい会社に入るのが目的で、会社に入った途端に自己の目的を失っている人たちが非常にふえてきています。こういう人たちに今第四の心理学ということを背景にしてアプローチしてきまして、そして自己探しをさせるのでありますけれども自分探しをさせるのでありますけれども、これは新興宗教の世界へ引っ張っていくんですね。これに非常に多くの学生が現在ひっかかっております。これらの人たち、それから大企業に勤めている人たちもこの新興宗教に今どんどん入っていっております。そして物すごく金がかかります。一講座受けるのに四、五十万円取られます。  いかに多くの人が手段を目的としてその手段を達成したときに人生の目的を失っているか。カルチャーとか文化とかレジャーというのは、実はそうならないようにするために人間人生の知恵でつくり上げてきたわけですけれども、多くの人がこれらの文化価値にかかわらないで人生を終わっているわけです。非常にもったいないことだと思います。この皆さんの中でも、五メーターから飛び込んだことのない人、バタフライで百メーター泳いだことのない人、まあほとんどだと思いますけれども、こういうことがいい指導者、いいプログラム、いい環境があるといつからでも可能なんです。飛び込みとかバタフライとか音楽とかダンスとか絵画、すべてカルチャーの世界、そういうのは専門家の世界だと多くの人はあきらめているわけですけれども、実はこれは我々庶民の一つの大切な生活の営みであったわけです。こういう価値と接近させるようなメソッドの開発、メソッド、方法というのがこれがレジャーカウンセリングであります。  読み書きそろばんというのは労働世界の主要科目ですけれども、自由時間の主要科目というのはこういうスポーツとかリベラルアーツとかクラフトとか自然生活だと思います。これらの価値とかかわる能力開発のシステムというのは今日まだ我が国社会においては確立されていないわけです。先ほどの「クロワッサン」の広告を見て多くの人がショックを受けたと思うんですけれども、そのときに自分人生とは何だろう、自分人生はいかにあったらいいか、こういう問題はしばらく考えてこなかったわけですけれども、考えた方々も多かったのではないか。それから多くの人は自由時間をたくさん持って、そしてどう生きたらいいかということがわからずにいますから、そのために宗教の世界へ入っていく、宗教の世界へ入っていくのはいいわけですけれども。  それで、「レジャー版十牛図」というのをちょっと見ていただきたいんでありますが、「廓庵十牛図頌」、これはうちの大学の弓道場にパイロット、スチュワーデスがやってきて弓道をやっています。その人たちに動機を聞きますと、禅と日本文化に引かれたと言います。それから宇都宮の方へ行きますと盆栽をやっている外国人が非常に多いです。それから私は山形の出身なんですけれども、うちの方に奥の細道、俳句をつくる外国人たちも非常にふえてきております。この人たち日本に来る前に十牛図をよく読んできておるようです。牛というのは聖なる生き物で、その人本来の姿をあらわしているわけです。先ほど「クロワッサン」の広告を見たときに僕はこの十牛図というのを考えておりました。  最初が「尋牛」、牛を尋ねるということです。  人生八十年、その三割にも増えようとしている自由時間を、いかに生きるべきか。どういうレジャー文化と関わると、自己本来に向かうことができるのか、心身健康になれるのか、自分が完成に向かうことができるのか、全体を取り戻すことができるのか、自分が完全に向かうことができるのか、自己の存在価値を高め、個性を開花させることができるのか。 そういうことで深い自然の中に入っていって自分探しをする、牛探しをする。  二番目が、牛探しは牛の足跡探しから始まる。 「見跡」です。  スポーツ、音楽、美術、読書、文芸、クラフト、自然生活、旅など、自分に適したレジャー文化はなにか、探してみたところ、方向がおぼろげながら見えてきた。 左側のがけっ縁の道路のところへ牛の足跡が見えます。  三番目が「見牛」、それを追いかけていったところ牛のしっぽが見えた。  自分に最もフィットしたレジャー文化世界はこれだ、と直感できた。この世界と関わって、時を刻んでみよう。またそのための技術方法を身につけてみよう。こう決断すると、希望も勇気も湧いてくる。  次が「得牛」。  しかし、これまで仕事の方ばかり向き、自分レジャー文化を楽しむ能力があるなど考えたこともなかったから、自分なりにマスターするにしても、時間がかかるだろう。でもその技術方法を身につけ、その世界のコスモスに熟知するために、努力、学習することにしよう。 これは禅の世界の座禅に当たるわけですね。  練習に練習を積んだ結果、そのレジャー世界自分となじむようになってきた。これが「牧牛」です。  途中なん度も投げ出そうと思ったが、自分をだまし、だまし、学習した甲斐があって、なんとか、自分世界を表現できるようになってきた。自分はプロになることはないのだから、自分世界を表現できる技術方法を身につけることができればよい。技術方法に走ることよりも、表現しようとしている自分世界を広げ、深めてみたい。 そういう世界自分のものになってくると心が非常に落ちつく。  そして、ふるさとに帰る。「騎牛帰家」。  良寛も言っている。専門家の書、詩、歌よりも、素人の書、詩、歌の方が、人間的で、自然でよいと言っている。誰からも邪魔されることなく、このように好きな世界に打ち込む生活を大切にする。こんな幸福なひとときは他にないではないか。心が本当に落ち着く。心の故郷に帰ったような気がする。  次が「忘牛存人」。山の頂でお月さん、満月を眺めている様子です。  世俗を離れて、自由な心の状態で、レジャー文化を楽しんでいると、不思議なことに向こうの方から、真なるもの、善なるもの、美なるものが観えてくる。心が和む。これが自分本来の自然の姿なのである。  日本ではよく円をかくわけですが、これが「人牛倶忘」。  欠けたもののない完全な世界、 ホリデー、ホールライフ、レジャーに当たるわけですが、  それは円である。円は自然であり、本質であり、真なるもの、善なるもの、美なるものである。無心の境地でそれは味わうものである。融通無碍、自由自在の境地である。  そういう心の状態になると、自分はウグイスのようになった気分を楽しむことができる。梅の花になったような気分を楽しむことができる。自然そのものを楽しむことができる。「返本還源」。  人間は自然の一部である。この自然の秩序に、心身を委ね、好きなレジャー文化世界に遊ばさせてもらうと、健康になり、自然のリズムと自分の心身のリズムを完全に重ねることができる。  そういう人間仕事人生を終えても、その人の魅力ある人生が完全に向かっている、自己完成に向かっている人生というのはあるわけで、そういう人というのは人間的魅力がある。「入てん垂手」、布袋様です。  レジャー文化を楽しみ、人間らしい自己本来の価値を開発していると、人間的魅力がついてくる。人間的に深まり、人間的に魅力がついてくると、自然に人間を愛することができるようになる。なんと至上な人生か。 これは鈴木大拙先生日本文化を外国に広めるときによく使われた図でございます。  もう時間が参りましたので最後に、私の友人がこういうことを言っております。国際通貨になった国の文化世界に広がる、今、日本はその時代を迎えている、そのときに日本人日本文化を愛する、日本文化に熟知するそういう能力が欠けている、インポテンツである、余りにもったいないことではないか、この能力開発こそ今一番大切な教育の問題ではないか、生涯学習の問題ではないかと言っております。  フランスのフランが一番強かった時代にフランスの文化世界に広がったわけです。産業革命以降イギリスのポンドが世界の通貨になってイギリスの文化世界に広がった。この国会の形式も先生の皆様方の服装も、全部イギリスの文化のスタイルであるわけです。戦後アメリカのドルが国際通貨になってアメリカ文化世界に広がったが、今、日本の通貨が国際通貨になり、日本文化が今世界に広がりつつある。ところが、日本人がこの文化にインポテンツである。余りにもったいないことではないか。そのためにも経済交流の能力に加えて文化交流の能力開発、さらに環境づくりというのが必要ではないかというふうに思います。  時間が参りましたので、後ほど最後のこれからの施策については先生方からの御質問を受けながら答えていきたいと思います。  以上でございます。
  42. 長田裕二

    ○会長(長田裕二君) 有意義なお話をありがとうございました。  それでは次に、藤本参考人にお願いいたします。
  43. 藤本武

    参考人(藤本武君) 内容はいろいろたくさんここに掲げておきましたが、表は幾つかくくってありますから余りその表の説明をせずに、その箇所を指摘しながら進めたいと思っております。  一番最初に、私の話は今のお話と違いまして、専門が経済なものですから、もう少し泥臭い現実の問題を中心にお話しするということになろうかと思います。  最初の「総論」は、これは余り説明はいたしませんで、こういうことを話したいという意味の箇条書きでございますが、第一の国際的に労働余暇を統一的にとらえるというのは、これは一九七一年にOECDで労働時間の新しいパターンというのでセミナーをやっております。その中で大体まとめをした人が、この会議はこれまでと違って労働余暇を対立して別々のものだというように考えるんじゃなしに、この二つを包括的に考えて、例えばレジャーというものは労働生活を忘れるための時間だというようなとらえ方じゃなくて、この二つを合わせたものが人間生活なんだというようなとらえ方をすべきじゃないか。そういうように皆さんの意見が大体まとまっておるように自分は思うというようなサマリーをやっておるところがございます。それをちょっと御紹介したかったわけです。  それから二番目は、国際的には各国の労働時間が非常に短くなりまして余暇時間がどんどんふえてきておる。それに対しまして日本労働時間はえらく長くて、休日、休暇は少なくて余暇は非常に貧弱であります。その内容につきましては後で申し上げます。  それから、実質賃金の低さも余暇の水準を低めておるということが言えます。  それで、今回の労働基準法の改定は、私に言わせますと、労働時間の短縮にとって非常にいいチャンスだったと思いますが、実施されましたのは当面の労働時間の短縮にはほとんど役に立たない。その点は一番最後に申し上げたいと思っております。  「日本労働時間と余暇」の問題に入りますが、ただ表が、節約を旨としましてあいているところへうまく入りそうな表を突っ込むという形でつくりましたものですから、順序はむちゃくちゃになっております。ですから、私、話しする途中で、これは何表に関係するということを申し上げながら進めたいと思います。  第一は、所定の週の労働時間は長くて、週休二日制は少ない。これは一枚目の四表でございます。これは立法と協約の主な資本主義諸国の時間をここに示しておりますが、最近では大部分が四十時間でありまして、四十八時間という国が若干残っておりますが、しかしそういう国は労働協約が非常に発達しておりまして、実際には、右の方をごらんになりますと、例えば西ドイツは立法は四十八時間ですけれども、大部分は三十八・五時間から四十時間という形でございますし、それからイタリアも三十六時間から四十時間。  ここで注意していただきたいのはギリシャですね。発展途上国に近いような国でございますが、このギリシャが四十時間立法を持っております。これはどうかといいますと、ECに入るときに、ECでは大体週四十時間とそれから四労働週、年次有給休暇、そういうものを満たすことがリコメンデーション、つまり勧告で出されておりまして、それを満たさないと入れてもらえないというようなことで、ああいうおくれた国で既に四十時間法、協約では三十五時間から四十時間ということになっております。日本はこの当時は四十八時間でございまして、協約は三十六時間から四十八時間まで散らばっておったということであります。  それから週休二日制は、大抵の四十時間の国は週休二日制でございます。ただ、商業部門だとかそれからサービス部門では必ずしも週休二日とならずに、一日を休んであとの一日は半日ずつ休むとか、そういうような形で処理しておるようでありますが、日本は残念ながら、今の計算でいきますと土曜日休みをとっておるのが全労働者の約四分の一というそういう計算になります。日本で言う週休二日制という言葉は実は間違っておりまして、本来週休二日制というものは毎週週休二日のを週休二日制と言いまして、完全週休二日制という外国語はございません。日本だけでございます。つまり、月に一回土曜を休むのを週休二日制なんというように勝手に日本語で呼んだものですから、完全週休二日制が必要になったわけです。外国では最初から完全週休二日制が週休二日制でございます。その点申し上げておきます。  それから、本来の週休二日制というのは、祝日がありましても祝日がある週は三日休むことになりますが、それが本来の週休二日制でありまして、日本にある完全週休二日制と称しているのを調べてみますと、半分以上は祝祭日があるときには土曜日は出勤するという形になっております。そういうものがずっと残っておったんですが、電機労連がやっと最近それを大企業に関しては大体本当の意味の完全週休二日制に変えましけれども、ほかのところは相当それが残っております。ですから、日本週休二日制というのは国際的に見ますと非常にアブノーマルな誤った使い方をしておる、つまり過大に週休二日制があるような表現になっておるということを申し上げておきます。  それから、残業が非常に多いわけであります。それで、二枚目の十二表をごらんいただきたいんですが、十二表というのは右の下の方でございますが、これは時間外労働時間の総労働時間に対する割合でございます、これは大部分が七八年ですけれども。まあ大抵の国は二%から三%の間にございますが、日本は八%から一〇%というのでべらぼうに多いわけです。イギリスもアメリカも割合多いんですけれども日本よりはずっと少ないということであります。  残業がいかに多いかということの証拠にNHKの生活時間調査があるんです。そのうちでほとんどの方は余りお気づきにならないんですが、その中に勤め人の、仕事についておる人のパーセンテージが一日の時間当たりでずっと数字が出ております。そうすると、午後六時過ぎたところで三四%が働いております。それから七時過ぎになりますと二一%の人が働いておる。八時過ぎになってもまだ一四%の人が働いております。九時過ぎでも一〇%です。十時過ぎが七%。それから十一時過ぎになりますと五%で、大体五%の人はこれは交代制についておる人だろうと思います。それでも、これから今度はうちへ帰るわけですから、相当遅くまで働いておるということで、帰りが遅いために親子が顔を合わすのが日曜日というようなそういう事態になりますし、それがもとで家庭が破壊されるとか子供教育上よろしくないというようなそういう問題も起きておるわけであります。ですから、日本人の残業というのはヨーロッパで働き中毒患者と言われておる言葉に本当に当てはまるようなことであります。  それから実働時間につきましても非常に多くて、一枚目の五表ですね、これはフランス人の計算した労働時間なんですが、これをごらんになる場合に、一番左に「欠勤率」と書いてあります。この欠勤率というのは日本は二%となっておりますが、最近は一・六%であります。外国は非常に欠勤率が高いわけですね。日本人の年間労働時間が高いという中には、出勤率が高い、つまり欠勤率が少ないということが入っておるわけです。国によりますと欠勤率が一〇%を超えておるところがあるわけですね。そうしますと、所定労働時間が同じで仮に残業が同じであっても、年間の労働時間というのは相当日本人が長く働いておるということになるわけです。  それで、右の方に「提供時間」というような字が入っておりますが、提供というのはフランス語でオフリールと言うんですけれども、これは所定労働時間に残業時間を加えたもので計算したものです。これはある意味から言いますと国際比較するときは非常にいい方法だと思います。といいますのは、欠勤率が影響しないことになります。欠勤率の高い国であろうと低い国であろうと、提供労働時間はその所定労働時間に残業時間を加えるわけですから、非常に似たものに、似たものといいますか、欠勤率を捨象したデータが出ますから、労働時間が長いとか短いとかということがはっきりしてくる、無論年次有給休暇はカットされますけれども。それで見ますと、一番下に日本がありますが、「中央値」というのは全体の中央値、日本も含めての中央値、それが提供労働時間では千九百二十時間なんですが、日本は二千百九十時間で、大体二百時間近く長い。それから右が実働時間でございますが、これですと四百時間ぐらい年間余計働いておる。これは一九八一年のデータであります。  それから年次有給休暇につきましては、四枚目の十八表で、各国の年次有給休暇にあります。立法では三週間ないし五週間が多いのでございます。協約では四週間以上が大部分であります。アメリカとカナダは非常に短い。今アメリカでは年次有給休暇は資本主義諸国の中で日本の次ぐらいに少ない国ではないかと思います。アメリカは年次有給休暇では手本になりません。もう発展途上国にもおくれるぐらいになっておりまして、アメリカ労働者は、年次有給休暇で足らずに、バカンスに出かけるうちの約四分の一は欠勤をして消化しておるというようなひどい状態にアメリカは今悪化しておるわけです。そうしますと、日本は六日ですね。日本はたったの六日、これは一年勤続ですから。それで協約では六日ないし十五日で、大企業になりますと日数が多いということになります。これはいずれも最低でございます。それで日本は一年ですけれども、西ドイツは大抵六カ月です。六カ月があると三週間というのは立法で決まっておりまして、それから協約では四ないし六週間というようになっております。  三枚目の十三表と十四表というのは西ドイツの労働時間の短縮の歴史をずっとここに示しております。これをたどっていただきますと、この一九六〇年から八二年にかけて、いかに労働時間が急速に短縮していったかということがこれでおわかりになると思います。その中心は週休二日制、それから週労働時間の短縮、そして年次有給休暇の増大ですね。それで実働時間はこの間で三百五十時間ぐらい年間短縮になっておるということであります。  日本に関連しまして、一ページの一表ですね、これはイギリスの人がつくった統計でございますが、一九五〇年と七〇年と七九年のこの年間労働時間の変化を示しております。日本はこの間に たった六%しか短縮になっておりませんが、ほかの国は一二%以上、それで西ドイツなんかは二五%、ベルギーも二四%短縮になっております。イギリスが一七%ですね。ですから、五〇年のときには西ドイツとそれからベルギーが年間日本よりちょっと長かったんですね。それが、今は日本よりは四百時間も短くなっております。ですから、ヨーロッパがだあっとこう時間が短くなったのに、日本はもたもたして、もうはるかに追い抜かれて、長い時間が日本に残存しておるということになったというように理解していただきたいと思います。  それで、追加的に申し上げておきたいんですが、フランスのバカンスの統計がここに出ておりますので紹介しておきますが、二枚目の十一表です。これは政府の統計研究所の統計でありまして、こういうものを二年に一回、二年分一緒にして調査したのをこうやって出しております。この表からとったわけでありますが、それによりますと、一番左は出発した人の率ですね。つまり出かけた人の率です。なお、このバカンスというのは四泊以上でありまして、三泊未満はバカンスに入っておりません。日本の統計は一泊以上の統計なんですが、これは四泊以上の統計でありますから注意していただきたいわけです。それに出かけたのは大体半分以上であります。五八%ほど出かけております。その人たちが何泊したかというのは二十九・五日ですね。つまり、大体三十日間、年間でその人たちは出かけておる。冬は二四%の人が十四日で、夏が五四%の人が二十五日ほど出かけておるということになっておりますが、これを可能にしておるのは年次有給休暇でございます。  この四枚目の十七表です。フランスの休暇のための事業場閉鎖、これは一九七〇年で、年次有給休暇の立法が、四週間のときの統計でございますが、これをごらんになりますと、事業場を閉鎖するわけですね、フランスでは事業場を閉鎖して年次有給休暇を消化するという慣習が、一九三六年の人民戦線の政府のときに年次有給休暇法ができたんですが、そのときから大体実施されております。普通は三分の二以上が休業をして出かけるということになります。これをごらんになりますと、その休業日数が製造業の場合、加工業となっておりますが、大体八割以上が四週間以上工場を閉鎖して行くわけであります。運輸だとか商業・自由業になりますと若干その割合は低くなります。全体とすると七〇%弱のところが四週間以上閉鎖しておる。ただ、閉鎖しないところが全体で三〇%ほどありますので、もし全事業場をとりますと四週間以上休業するところは約半分程度ということになろうかと思います。  そういうようにずばっと休む。バカンスというのは大体週単位でとるものだということになっております。日本みたいに一日単位でとるものじゃございません。週単位でとるもので、これはアメリカでもバカンスの調査は全部週単位になっております。ILOの条約でも三労働週といって週単位のものになっておるわけであります。こういうように休む。  特に夏に多いわけで、フランスの革命記念日の十四日からバカンスをとるところが多いのですが、八月の生産指数は六月の大体六割ぐらいに落ちます、四〇%落ちるわけです。ですから、もうパリの散髪屋さんも店じまいしてバカンスに出かけるという形になるわけで、それでアメリカ人と日本人がパリを占拠するなんていうようなそういうジョークが飛ぶことにもなるのでございます。そういう形でフランスは一番すごく落ちますが、イギリスやオランダ、ベルギー等は、年間の生産指数に比べまして八月は一〇%台の落ち込みであります。これは少し前のデータでありますので、最近はもう少し率が高くなっておるだろうと思います。  そういうような形に対して、日本の生産指数を調べてみますと、私の見たところでは、最近は八月が四%ぐらいは指数が落ちるようになってきておりますが、とてもじゃないがフランスに比べますと問題にならない。ですから、フランスの人が日本に来ますと、日本にはバカンスがないというようなことを言うわけでありますが、そのバカンスのことは二枚目の九表と十表をごらんいただきますと、純観光旅行の回数、最近一年間、これは一泊以上であります。一泊以上でどういうように皆さんが出かけておるかということでありますが、平均回数が左の方で、右の方は平均日数でございます。ですから、これは一泊以上の統計だということで、フランス式に四泊以上に直しますと、日本人の中ではそれだけ行っている人はがた落ちになるということになります。  それからその下に海外旅行の経験のことがありますが、この一年間で出かけた人というのは三・六%程度でありますが、フランスなんかは十何%の人が海外へ出かけておりまして、フランスのそういう人たちは平均二十日海外のバカンスへ出かけておる。日本の場合には平均は出ておりませんが、大体いろんなエックなんかを見てみますと、平均八日ぐらいじゃないかと思います。そして海外へ行く人もフランスの三分の一にすぎないというようなことで、バカンスという点では、毎年新聞を見ますと何か日本人はバカンスづいた、バカンスづいたというように錯覚を起こすような書き方なんですが、私、外国のことを知っておりますので、またうそをついておるなとよく思っておるのであります。ですから外国の実情をよく調べますと、日本のバカンスというのはいかに惨めであるかということがよくわかります。  年間の労働時間を申し上げましたが、それからもう一つ、先ほど生涯の生活時間というのを先生がお話しになりましたので、私が計算した生涯の労働時間の計算がありますので、それをちょっと御紹介しておきますと、これは男子労働者をもとにして計算したんですけれども、その中には男女の労働時間をとったりしておりますので正確ではありません。むしろ、パーセントを後で申し上げますが、パーセントに重点があるというようにお考えいただきたいんですが。アメリカ合衆国は一応生涯で七万六千時間ほど働く、それからフランスは七万五千時間ほど働く、日本は十万九千時間ほど働く。これになりますと、日本人は大体フランス人、アメリカ人より六割ほど余計働くということになります。  これの理由の一つは、年間の実働時間が長いということが一つ。それからもう一つは、労働についておる期間が長いということがあります。最近は定年が六十歳になりましたので、商業新聞なんか見てみますと六十歳でみんな仕事をやめるような調子で書いてあるんですが、あれは絶対うそでありまして、あれから後、定年のないところへみんな落ちていって一生懸命働いておるわけです。それで大体この計算には七十歳近くまで働くという想定になっております、私の計算の根拠には。それは六十五ぐらいまでの人を調べた場合にも七十歳までを調べた場合にも、いろいろ推定するとやっぱり平均的には七十まで働くというように考えた方がよろしいということで、それが計算の基礎になっておりますが、今フランスなんかでは六十歳を超えて働く人はもう一〇%台に減ってきております。そういうように国際的にはどんどん早く仕事につかなくなってきておるわけでありまして、日本人はそういう意味で、二重の意味で働き過ぎということが言えようかと思います。  それからもう一つ生活時間の表が二枚目の八表の二、一番下でございますが、六カ国の生活時間の比較、これはフィンランドの生活時間の調査のレポートの中に出ておったものでございます。これで男子と女子に分けてありますが、両方とも労働時間は、一番右が日本であります。日本もNHKと電機労連の調査と二つ掲げてありますが、労働時間がいかに長いか、男女ともに。それから通勤時間も長いんですね。そしてそれが睡眠時間にも及ぼしておりますが、自由時間には一番きつくきておる。  ここで、御婦人の方がいらっしゃるので申し上げておきますが、外国では大抵の国では男の人と女の人の睡眠時間がほぼ同じであります。日本だけは女性の時間が二十分ほど少ないですね。初め 私知りませんで、昔から生活時間の調査をやっていたんですが、どうも女性は体の方から見て短い睡眠時間でもやれるんじゃないかというように解釈しておりました。年がたって外国の生活時間のデータを見るようになりましたら、フランスなんかは奥さんの方が長いんですね。早目に寝ちゃって、だんなが後から寝るというようなことで、日本と逆なところもあるというようなことがわかりまして、どうもこれは生理的な問題じゃなくて、やっぱり社会的な問題じゃないかというようなことを最近は確信しておるわけであります。  それからその次に、今度は労働時間の短縮は国内消費の拡大につながるかというのですが、この点は私疑問を持っております。といいますのは、実働時間の短縮は二通りありまして、残業時間の短縮とそれから所定労働時間の短縮とあるわけですが、残業時間の短縮になりますと、これは収入が減るわけですから、とてもじゃないがレジャーの支出が全体としてふえるということはこれはあり得ないことであります。それから所定労働時間が短縮をして、それでしかも賃金の切り下げがないということであれば、そうしましたらほかの支出を減らせばレジャーの支出が出せるわけですが、それはなかなか難しい。そうすると消費がふえるためには貯蓄を減らすしか仕方がないわけです。貯蓄を減らして消費に回せば、そういうことになります。  しかも今度の労働基準法のように、時間をカットした場合に賃金も保障せなければならないというILOの勧告に載っておるような条項はこの法律には入っておりませんので、その分だけカットされる危険性があるわけですね。そうしますと、そんなうまいぐあいに、労働時間を短縮したら国内消費がふえるということは私は考えられないと思うんです。前川レポートの最初のやつには国内消費の拡大の中に労働時間短縮が入っておった。そうすると、今度は第二次の新の方ですと、これはやっぱりまずいということがわかったんでしょうね、今度は別に取り出しまして、国内消費とは別に労働時間の短縮というのが取り上げられました。それの方が正確だというように私は思います。  それから「実質賃金水準と余暇」でございますが、これは余り詳しく申し上げるつもりはないんですけれども、ただこのことだけはぜひ強調しておきたいのであります。  ことしの初めに日経連の方で労働問題研究会報告というのが出ましたら、あの中で、ILOで発表しておる労働時間からとったんだといって日本アメリカの比較がしてございました。それは確かにああいう数字があるのでございますが、ただ注意していただきたいのは、外国の時間当たり賃金という中には、有給休暇の手当だとかそれから忌引手当だとか、そういうものは一切入っていないですね。純粋に働いた時間に対して払われるものが計算されておる。日本の場合には有給休暇から何から何まで入っての賃金になっておるわけですね。そういうものを比べますと、日本のポジションが相当上へいくわけですね。それで外国の場合にはそれを不就業手当と言っておりますが、あるいは不就業給と言っておりますが、そのパーセンテージは大体二割前後ございます。そうすると、日本の場合には厳密に言いますと三%程度だというように推定しております。そうしますと、そこでもう一五、六%は違うわけですね。ですから、そういういわゆる賃金統計、ILOで発表しておりますものを機械的に比較すると今言いましたような間違った比較になりますから、そういう不就業手当を含めた賃金を計算し直して比較しないと正確な比較にならないということが第一点です。  それからもう一つは、最近各国で間接賃金といいまして、経営者側の負担する社会保障のいろんな掛金、それから企業福祉で支出するもの、そういうものの割合が非常にふえてきておりまして、フランスなんかはそれが五〇%近くになっておる。日本はたった一七%です。そうしますと、経営者の負担としますと、フランスはそういう賃金を、今の不就業手当を加えたものにまた五〇%ほどプラスしないと本当の賃金総額にならぬわけですね。日本はこれに一七%プラスするだけだ。それですから、最近の賃金比較をする場合には、ILOでの各国の統計に載っておる賃金の資料だけを為替レートで換算して比較するのは本当に間違いのもとでありまして、今言いました不就業手当それからそういう社会保障の負担分だとか労働福祉の負担分、こういうものをフランス語では間接賃金と言っておりますが、そういうものを全部加えたもの、英語では労働コストと言っておりますけれども、その労働コストで賃金を比較するというようにするのが正確なのでありますから、皆さんが国会でいろいろあるいは文書を読まれるときに、いわゆる賃金比較というものはやっぱり相当念を押して、一体これはどうかというようなことを確かめていただきたい。  それからもう一つは、日本は三十人以上のデータをよく使います、最近労働省は五人以上に直しておりますが。しかし、人によると三十人以上で外国のものと比較してどうこうと議論する経済学者も相当おります、これは労働問題専門でない経済学者がやるわけなんですが。ところが、日本は三十人未満の賃金がえらく低いわけですね、外国では見られないぐらい低いです。そうすると、三十人未満を加えたものの数字であるかどうかによって賃金の比較の数字が大分変わってきます。その点も念を押していただきたいと思います。日本の商業新聞は、困ったことにはいろんな統計全部に何人以上というのを新聞には載せません。したがって、発表されたものが三十人以上であっても、これは日本労働者全体を代表しておるんだというように、すぐそういうように間違って理解するようになります。ですから、そういう点はやっぱりもう少し新聞社もそれぐらい考えてほしいというように思っております。  それで、この表の中の一枚目の二表に労働省が計算した労働コストの図が出ております。為替レートで計算したもの——八五年のレートの場合には日本アメリカと西ドイツがどうなるか、最近時のレートの場合、それから八五年の購買力で見た場合ということで。購買力で見た場合の数字が大体実質賃金の比較というように考えていただきたいと思います。日本は物価が非常に高いために、為替レートでいきますと相当接近しても、実質賃金では相当の差が出てくるということがここに示されておると思います。  最後に、今回の労働基準法の問題でありますが、今回の労働基準法は私はにせの四十時間法だと言っておるんです。これはどういう意味かといいますと、実は外国の労働時間法を全部調べましたんですけれども、何時間にするというのは必ずいつから実施すると書いてあるわけですね。今度の法律は四十時間にすると書いてあるんですよ、三十二条かどこかで。そうしまして、百三十一条のところで、当分の間は四十時間を超えて四十八時間未満を命令で定めるということになって、政令では四十六時間と、こうなったわけですね。そして、特例が多くて、その特例は四十八時間なんです。ですから、私は今度の法律は四十六時間、四十八時間法だというように言っておるわけなんです。  外国ではこういう法律はありません。皆さんこれに手を挙げた方も相当多いんじゃないんですか。外国じゃこんな法律はないんですよ。皆さんは税金の法律だったら恐らくこんなばかなことはなさらないでしょうね。何%にすると書いてあって、それで当分の間は何%と何%の間の金額を政令で定めると、こういうおかしな所得税法が出たら、皆さん恐らく反対なさるでしょう。そんなあいまいなことじゃ困るじゃないかと突き上げがあると思います。  ところが、こういう法律は、これはあそこから出てきておるんですね、労働基準法の審議会の労働側委員も賛成をして。ですが、労働側委員も私はちょっとおかしいんじゃないかと思っております。外国にもない、もう世界にただ一つの法律を日本でつくり出した。後で総評へ行きましたら、日本労働時間は何時間になっているのかと法律 を持ってきた場合に困ると言っていた。確かに四十時間と書いてあるわけですね。外国の人で知らない人はもう日本は四十時間になったというように書くでしょうね。ことしパリで世界の学者が集まってその労働時間問題のセミナーをやったわけですが、僕は外国留学したことがないんでそれには出席しませんでしたが、書くことは書けるからと言ってレポートを提出したわけです。それは、やっぱり日本の実態を外国の先生方に理解してもらいたいということです。  それからもう一つ日本の残業でまずいのは、支払われない残業というのが相当あります。それがわからないわけです。何時間あるかということはわからないんですが、あることは確実ですね、いろんな人が書いたりなんかしておりますから。そういう実情も外国の人は知りませんので、やっぱり知ってもらうために英語で、少し長い論文でしたが、書いたりしております。  それから残業の規制ももとのままですね。三十六条で労使協定があれば自由に延長できます。年休は原則として十日に延びたんですけれども、例外が多くて、当面は大体中小企業は当分は六日のままですね。これが三年先になったらどうなるかということなんですが、三年先になるとこの六日とかいうのは八日に延ばさないといかぬとか、あるいは四十八時間を認められているのが三年先には四十六時間になる、そういうことになります。  それで、こういう法律を出して、そしてその後経済審議会から出まして閣議決定になったわけですけれども、一九九二年を目指して労働時間を千八百時間になるように努力するというようなことが出まして、あと雇用の対策の計画も出ましたし、労働省も全部一九九二年に千八百時間というように言っております。ところが、実はこの間労働省の統計を見ましたら、法律が実施された四月から六月の期間で全産業について前年の四月ないし六月と比較してみますと、残業は一時間延びております。これは一カ月当たりですね。それから所定内労働時間は二・三時間短くなっておる。それを差し引きしますと一・三時間短くなっておる。これを年間に直しますと十五時間ぐらいですね。これが法律が実施になった最初の年ですよ。たった年間十五時間しか短くなりそうもないという状態であります。  しかし、これはこの後四年間で三百時間短くせにゃいかぬですね。そうすると一年につき六十時間以上短くしないといかぬ。月五時間ですね。ところが、今出てきたのは月一・三時間です。それで来年は特に短くなる法律上の措置はありません。再来年もありません。三年先にはあります。三年先には少しあります。こんな調子でとてもじゃないが千八百時間にはこれは絶望であります。私の推計では二千時間ぐらいにやっとこせ、なるかもしれぬ。しかし、今度は外国にも約束したことであります。これは重大問題になりますね。これをやるためにはその一年ぐらい前に週四十時間、ILOの条約と同じように三労働週の年休を完全実施する立法を確立することだというように私は確信しております。そうでもしなければとても千八百時間にはなりません。  以上でございます。
  44. 長田裕二

    ○会長(長田裕二君) 有意義なお話をありがとうございました。  以上で両参考人からの意見聴取は終わりました。  これより両参考人に対する質疑を行います。  質疑のある方は会長の許可を得て順次御発言願います。
  45. 山本正和

    ○山本正和君 大変お二人の参考人の方からそれぞれ角度の違った形で重大な問題を御指摘いただきまして、大変私ども勉強さしていただきました。ちょっと順序が逆になりますが、藤本先生の方からお伺いをしてまいりたいと思います。  今の先生のお話の中にありました今度の労働基準法改定には、実は私も社会労働委員会の理事でございまして、審議に参加した一人としまして大変恐縮に存じております。ただ、そういう問題点につきましては、国会の中でもいろいろ議論いたしまして、これからもいろんな論議をしていこうと、こういうことには現在なっておるわけでございます。今の御指摘のとおりの問題点が幾つか残っていると、これは私もそういうふうに率直に思うのでありますけれども、ただ、この法案を審議するに当たりまして最大の問題点は、我が国の経済がいわゆる外国並みにこれを実施した場合もち得るのか、こういう懸念ですね。特に多くの中小企業が果たして経営が可能なのか、こういう問題が背後にあったということが一つでございます。  それからもう一点は、我が国のいわゆる労働分配率というものが本当の意味で、いろんな数値がございますけれども、果たして欧米と比べてどうなのかという議論が若干不十分だったように思うわけであります。そういう意味で今の二つの問題について、できましたら藤本先生のお考えを承っておきたいと思うわけでございます。
  46. 藤本武

    参考人(藤本武君) 最初の問題でありますが、実は中小企業に対する別途の労働時間を設定している国はほとんどありません。大体一本なんですね。その根拠になっておりますのは公正競争という考え方でありまして、アメリカ労働法は公正労働基準法という、その公正はルーズベルトも言っていますように公正競争を維持するための公正なんですね。だから人よりは低い賃金を払って競争力をつけておるというのは、これはスポーツで言うとフェアではない。あるいは長時間労働であれば、それを許しておることであればそれはフェアではないと。やっぱり競争はそういうようにフェアなべースで競争すべきであるというので公正労働基準法というのはできておるわけです。そういう考え方が国際的にも根づいております。ですから、中小企業だからといってそれに特別の悪い労働条件を認めるというようなことはないんです。  もう一つは、外国の労働組合は横断的な労働組合でありますから、何か議論するときに、中小企業は特別に労働時間は長くていいんだというようなことを組合が認めると、同じ組合員の中で組合が差別しておるということになります。ところが日本の場合は組合は全部企業別組合ですから、中小企業の組合と大企業の組合は別の組合なんですね。だからそういう意味で不公正だという考え方が組合自体の中に起きてこない。外国はそういうことになったら組合も維持できないです。中小企業の方は低賃金でよろしい、それから労働時間も長くてよろしいという要求を出すべきだというようなことはとても出てこない。ですから全部一本なんです。  そういう点で私は、やはり国際的に見てもルールになっておる労働時間については標準労働時間というものを設定すべきじゃないか。外国では一つ産業の中で中小企業と大企業との間で労働時間の格差はほとんどありません。  この中に表がたしか出ていたと思いますが、四枚目の十九表と二十表ですね。これはイギリスとフランスについての規模別の労働時間の格差です。上の方は所定時間の格差が出ておりますが、これは一時間もないですね、非常に接近しておる。超過労働も非常に接近しておる。それからフランスの場合も十人未満と五百人以上で一時間四十分ほど差がある。こっちは、短縮になってからは五十分ぐらいしか差がありませんね。そういうように外国では団体交渉で産業別の標準労働時間というのを設定していきます。そうすると大企業も中小企業も労働時間が非常に似てくるわけです。そうすると、大企業ではその標準労働時間より若干短いものを設定する企業があるというように理解していただければいい。  ですから私は、すぐ同一の基準のやつをぱっと設定するとこれはつぶれる企業が出てきたりしますから、余裕を置いて何年までには何時間にせい、何年までには何時間にせいということを法律ができたときに設定しておく。外国でもそういう段階的に実施するというものはあるわけですね。日本みたいに何年に何時間になるかわからぬような、今度の法律みたいなものは外国ではつくりませ ん。  それともう一つこの機会に申し上げておきますが、アメリカ労働立法は細かいですね。日本の省令から何から入るようなものが全部法律の中に入っています。それが民主的な立法だと思うんですよ。法律を読んだら一体どうなっているかわからないというのが今度の法律ですよね。何時間になっているか政令を読まないとわからない。その政令が出たのは法律ができてからもう半年以上たっておるわけですね。そのときに、今度は政令だけじゃなしに省令も出ているんですね、省の規則。そういうものも調べないと一体何時間になっているかわからない。こういう法律はやっぱりつくるべきじゃない。僕はできればアメリカのようにそういう民主的な法律というものをつくるのを建前にしてもらいたい。官僚にそういういろんなことを任せるというのは、私は戦前の明治憲法下の官僚の生き残りだと思うわけです。  それから、労働分配率は、確かに各国の統計のとり方が違いますので、私も労働分配率の正確な比較を実際やったことはないんですね。日本でも工業統計用と別の統計でまた違った指数が出たりします。ですからどうもあれなんですが、私は日本労働分配率は比較的高い方に属するんじゃないかと思います。それは今度の円高のときでもたまげたんですが、日本の企業はもっとたくさん倒産するのかと思ったら案外倒産が少なかったわけですね、無論、廃業だとかいうのは多かったんですけれども。しかしそれは日本の大企業は相当何か隠している利潤が多いんじゃないかと思うんですね、いろんな形で。隠す方法は、私の知っている経理屋さんが言っていましたが、何かいろいろ方法があるんだと言っていましたがね。ですから、そういうものが、やっぱり隠しのあれがあるから円高になっても耐久力があるんじゃないか。そうしますと、いろんな統計もどうも信用できない。さっきの残業統計と同じですね。そういうことになりますと、どうもわからないけれども、何か日本はそういう隠しも含めますと労働分配率は低い、経営側の分配率の方は割合多いんじゃないかというように思っております。
  47. 山本正和

    ○山本正和君 また時間がございましたらもう少し藤本先生に後でお伺いすることにいたしまして、松田先生の方にちょっとお伺いしたいのであります。  先生のお話をずっと承っておりまして、これは二十一世紀に生きる人間人間論といいましょうか、あるいは文明論といいましょうか、そういう問題と深くかかわってくるように私はお聞きした次第でございます。  実は、文部省が臨教審等で随分議論しまして、教育の根っこの部分で人間価値の問題をかなり議論もした、そういう記録も残っているわけなんです。ところが実際問題として、今度の答申の中には、その部分については抽象的には触れておるけれども、具体的に我が国の教育の中でどう位置づけられていくかについての提言はほとんどないわけなんです。その辺を含めまして、今の豊かさの本質、こういうふうに先生はおっしゃっておられるわけですけれども、そういうふうなことが国民の間に関心を持って議論されるようにするためにはいろんな問題があろうかと思います。  私自身も、実は三重県で退職した校長も含めた退職教員六千名ほどの互助会をつくっておりまして、理事長をしておるものですからいろんなことを聞くわけです。六十歳以上の、教育という仕事をした者、いろんな人間論なんかも出てきますし、中には非常に心豊かに暮らしているというように見える人、あるいは大変苦しんで、自分自身人生に年をとってから悩んでいるといいましょうか、そういう人、いろいろあるわけですけれども、結局そうすると、こういう問題をどこかの場所で国民的論議にいつかはしなきゃいけない、そこのそういう場所を先生どういうふうにお考えになっているのか、ちょっと承りたいんです。
  48. 松田義幸

    参考人(松田義幸君) 環境の問題について二つあろうかと思います。それは、都市生活における環境とそれから田園生活、自然生活における環境です。  自然生活における環境の整備というのは、このたびのリゾート法を上手にその方向へ持っていけるかということにかかっていると思います。ただこの問題についてはまた後に触れるといたしまして、ハードウエア先行でリゾート法が進められているというのは大変大きな問題ではないか。つまり、箱物だけをつくり上げていく、先行しているというのは大変大きい問題だと思う。これはまた後にちょっと触れます。  それから、都市生活における環境整備というのは、こういう方向で持っていったらどうかと思います。それは、日本の都市には公園がないということがよく言われます。確かに公園がないのでありますけれども学校はふんだんにあります。それから、大学もヨーロッパの数の倍もあるわけです。しかし、今回大学ラッシュなわけですけれども、今後は人口がどんどん減ってくるわけですね。こうなってきますと、大学の経営の立場からも、生涯学習に高等教育機関を開放してこないと経営がやっていけなくなると思います。ところが、これまでの大学、高等教育機関というのは、六三三四で仕事の能力の開発の方へウエートがかかっております。しかし、これからはリベラルアーツ、教養文化の方にもウエートをかけていかなきゃいかぬ。そうなってきますと、こちらの人材の開発、プログラムの充実、開発、こういうことに力を入れていかなきゃいかぬ。  かつて、学芸大学を全部教育大学へ変えたわけですけれども、そして学生数が減ってくるということで、学芸大学はゼロ免許でほかの分野、ビジネスが入ってこようとしているんですが、この人たちこそかつての学芸大学の人材開発に向かっていくべきではないかと思うんです。つまり、ようやくリベラルアーツの時代が来たときに、学芸大学がその役割を忘れて、そして一般ビジネスの方へ入っていく。そうではなくて、生涯学習のソフトウエアの充実とそして人材の開発に学芸大学が力を入れてくれば、高等教育機関の設備を少し手直しするだけで相当都市生活におけるレジャーニーズを吸収できるのではないかと思います。  その場合に、一番の問題は何かということなんですが、スポーツ、音楽、ダンスではないか。仕事の方の主要科目というのは読み書きそろばんですけれども、自由時間の方の主要科目というのはスポーツ、ダンス、音楽ではないか。  これまた述べると時間が長くなるんですが、一つの例で申しますと、森隆夫先生というリカレント教育、生涯学習の専門の御茶大の先生がいるんです。二年間勉強し終わった後で、最初はちょっと抵抗もあったんですが、おい松田君、生涯学習の一番の目的は自己を学習する能力をつけることだ、生涯学習時代学校教育の役割は自己を学習する能力を身につけてやることだと。そのときに、スポーツというのはこれは大切だ、スポーツを通じていい仲間ができてくると、この人たちが自由に自己開発をするカルチャーと出合うことができる、もっとスポーツに力を入れていかなきゃいかぬというふうに言われておりました。これはまた後ほど。  それから、リゾートの方の問題について言いますと、レジャーを幾ら二十年近くアピールしてきてもだれも相手にしてくれないので、もう遊ぶ方へ僕も回っているんですけれども、この夏モーレアに行ったら、ここ十七年くらいの間にバカンス村がいっぱいできているんです。ところが、アメリカのドルが弱くなったために、どのバカンス村も全部開店休業です。その中でたった一つ、一二〇%の稼働で、隣りのバカンス村を借りている村があります。それは地中海クラブです。この不況の中で三十三カ国、百十三カ所にネットワークを張った地中海クラブ。先生方にぜひ視察する機会があったら視察していただきたい。まあ、お客さんとして入っていただいた方がよく見えると思いますが。これはソフトウエアです。人材とソフトウエアの魅力で世界に伸びてきた。我が国もハードの方でリゾート法を引っ張っておりますけれども、リゾート開発を進めていますが、むしろハー ドよりもソフト重視、ハードミニマムでいかないと、我が国のリゾートも開店休業のゴーストビレッジになるんじゃないか。  いずれにしても、いいコンセプトでいい方法を見つけてもらいたい。コンセプトが悪いのにハードの方が先行しているというのが我が国のレジャー世界の欠点ではないかというふうに思います。
  49. 山本正和

    ○山本正和君 ちょっと引き続いて松田先生先生の所属しておられる余暇開発センターで何かそういうふうな問題についての御提言がないのか。といいますのは、実は私も昨年、きょうの長田会長とも御一緒だったんですけれども、フランスへ参りまして、ニースの観光開発局の局長さんといろんな話をしたわけです。そこで、例えばパリで一カ月生活するよりもニースへ来てもらって一カ月レジャーを楽しむ、バカンスを楽しんでもらった方が生活費が安くつきますよというふうなお話とかいろいろ聞きまして、しかもそれはフランスが第二次大戦が終わった後、いろんな意味での地域開発、国土復興も含めて国策的なプロジェクトとしてきちっとしたものをつくって、そしてやっていったんだという話を聞いたんですけれども、我が国の場合はリゾート問題を本当に議論し始めたのはまだ最近でございますし、となると、こういう民間団体等いろいろと議論されている中での御提言がありはしないかと思うんで、その辺もし何かございましたらこの際承っておきたいんですが。
  50. 松田義幸

    参考人(松田義幸君) 今リゾート法に関心を持っている地域は、勤勉・節約型の非常にまじめな方々がリゾート開発をしようとしているわけです。そこへお客さんで来ようとしている人たちは自己開発型の楽しみ、おもしろさを求めて来るわけです。とてもこれはミスマッチだと思います。  それから大企業の場合も、これからはレジャービジネスだと言っているんですが、この人たちは欲望を開発して物を所有し消費させようとしてきた人たちであるわけですね。この人たちがディズニーランド的なものをつくり上げたとしてもフランスのように一カ月楽しませることのできるサービスはできないと思います。物を買わせる、買わせる、使わせるで来ているからですね。したがって、勤勉・節約型の供給側でビジネスをやろうとしている人、工業社会でやろうと思っている人たちがまず自己開発の価値観で自分人生に魅力をつけないと、そういうお客さんにはとてもサービスできぬのじゃないか。野沢菜を三食おなかいっぱい食べている人が国際化のサービスはできないんではないか、こんなふうにも思います。  したがって、何よりも重要なのは各大学に、工業の社会にこれだけいろんな学科をつくってあげて物の生産に日本は成功してきたわけですけれども、カルチャー、レジャーのこれからの時代、自由時間の世界にやはりそれに向かうべき学科、学部をつくって、そして人材を開発していかなければ、とてもではないけれどもフランス先進国には追いつけないのではないか。アメリカも追いつけない、ドイツも追いつけない。したがって、フランスの提供するサービスに勤勉・節約型の国は全部そちらへ来ておって、自国を使っていないんですね。人材開発とソフトウエアの充実ということは一番大切ではないかと思います。
  51. 小野清子

    ○小野清子君 松田先生、藤本先生のお話、本当に学問的な裏づけあるいは統計的なものをいろいろ数字を出していただきまして大変わかりやすく、参考にさせていただきました。  私も藤本先生の方からお伺いをさせていただきたいのですが、非常にちょっとこれは細かな点になろうかと思いますが、先生後半の方でフランスの事業場が閉鎖をして出かけるというお話がございました。これは日本ではいわば考えられないことでございまして、だれかが残って仕事をするとかあるいは交代をしながらやっていくという日本現状から考えますと、閉鎖などをしたら帰ってきたらもう次の仕事が来なくなっているのではないか、そんなふうに思うわけですが、これはフランスの場合に国民の理解とか今までの伝統とかそういうことだけではない、もうちょっと細やかなお互いの連絡なり幇助システムがあって行われているものではないかと思いますが、その辺をお聞かせいただきたいと思います。
  52. 藤本武

    参考人(藤本武君) フランスの場合は、先ほどもちょっと触れましたが、一九三六年の人民戦線のときに二労働週の年次有給休暇ができたわけです。法律が決まりまして、それが六月の末だったんですが、その年に年休を二週間とりなさいということになりまして、そのときのレジャースポーツ局長のラグランジュという人が指令を出しまして、レジャーに、バカンスに行くのには国鉄だとかそういうものを半額にすると。無論一回限りなんですが、往復のを半額にするラグランジュ切符というのを発行しまして、それでみんながわっと行ったわけです、無論工場は閉鎖して。それで工場を閉鎖して年休を消化するという慣習がそこでついてきたわけです。  ほかの国は必ずしもフランスみたいに一遍に工場を閉鎖して年休を消化するという形ではなかったんですけれども、ところが年休がふえてきますと日本みたいにぽつぽつとるということはないわけです。国によっては継続してとらねばならぬというようなことを法律で決めているところもありますし、そうするとみんながてんでんばらばらに休まれると、工場で穴があちこちにあいて工場の能率上非常に困るというようなことが起きてきたわけです。それよりは一遍に工場を閉鎖してみんなが休んでくれれば、年休を消化してくれれば、そうすると、あとのときはずっと工場を継続して運営できるというようなことで、むしろその場合には経営側の意図が出てきたわけです。  それともう一つは、日本なんかと違いまして、ヨーロッパでは真夏がレジャーに一番適当な季節ですね。十月になったらどんより曇って、レジャーに行っても余りぱっとしないということになりますから、どうしても七月から九月の初めにかけてどっと集中する。それともう一つは、フランスなんかそうなんですけれども、各国でレジャーを楽しむのには子供と一緒に行くということが前提になりますから、そうなると小学校休みにならなければとれないわけですね。それですから、最近はあんまりレジャーが長くなって集中して観光地が困って、そのときは超満員でもてあますんですが、あとのときはがらっと減るというようなことで、時差出勤みたいに時差的にバカンスをとる、こういうことを考え出したんです。しかし、そのためには学校を時差的に休まないといかぬというようなことで、いろいろ各国で試みたんですけれども、フランスは失敗しまして、ある程度成功したのは西ドイツだけです。  西ドイツは、五月ごろからある州が学校休みを始めます。一番最後に休むのが十月にちょっとかかるころです。その間を八つか九つの州あるいは大都市で区切りまして、これを固定化すると不公平になりますから、毎年こうやって動かしていくわけです。それで、真夏にバカンスがとれるところとそうでないところがある。そういうように配慮しないといかぬということで問題にはなったんですが、結局今言いましたように西ドイツぐらいしかできなかったというような形です。そうしますと、やっぱり一斉に休むというような形を全部はとれません。特に交通業なんかとれませんね、これは絶対入れかわりでとらないとまずいわけですが、しかし工場なんかは割合閉鎖して消化できるというようなこういうことは言えると思います。
  53. 小野清子

    ○小野清子君 ありがとうございました。  次の質問も先生にもうお答えいただきました。ずらしてやっていくということの成功、不成功をお伺いしたかったんですけれども、お話をちょうだいいたしました。ありがとうございました。  松田先生の方にお伺いしたいと思いますが、先生のお話をずっとお伺いさせていただきまして、この労働余暇時間というのは、いわゆる時間の有無の問題と配分の問題、それからそうした場合の利用者の経済的な面あるいは施設、設備が今レジャー時代に入ったと言われている中で、日本で 行われておりますホテル、モーテル、キャンプ場、スポーツ施設、多々ございますけれども先生のお考えの中で、例えば日本に欠けている施設があるとすればどういう面が今欠けているかということをちょっとお伺いさせていただきたいと思います。
  54. 松田義幸

    参考人(松田義幸君) 日常生活環境の中で本当に運動不足になってきておりますので、楽しみながら体を動かす環境、つまり生涯スポーツ環境が非常に不足していると思います。商業的な施設環境は非常にコストが高くて、そうみんなが平等にスポーツを楽しむ環境下にない。スポーツは、これは権利としてみんなが平等に楽しむ環境というのはなきゃいけない、生涯スポーツ環境の整備というものは物すごく大切な問題だと思います。
  55. 小野清子

    ○小野清子君 それで、レジャービジネス、企業関係が大変今大きく進出してまいりましたね。先ほどの山本先生の御質問にもありましたけれども、こういうものが、先生のお考えでの見通しですね、ソフト面を忘れたいわゆるハードの面のこういう企業開発に関してはどういうふうなお考えを持っていらっしゃいますでしょうか。
  56. 松田義幸

    参考人(松田義幸君) 今のところ、企業は短期的な見通しのもとに採算に乗っけるということでやっているわけですから、金と時間のある方に供給が偏り出してきていて、自由時間はふえてきているけれどもレジャーの享受格差というのは今の状況のもとでは非常に広がってくると思います。コストが非常に高いものへ高いものへ一般の人たちも来ているんですけれども、これをもっと平等の方へ下げるためにも公共的な公営的なそういうレジャースポーツ環境の整備というのは大切だと思います。  それについてちょっと、先ほどの山本先生の方のお話とも関係してくるんですけれども日本だけが大学で一般体育というのを教えております。そして、これは廃止すべきであるという意見が最近また出てきております。ところが、これは逆ではないかと思います。  例えば、私も東京女子大学の隣に住んでおりますけれども運動場も体育施設もいつもほとんど使われておりません。あの一等地でこれだけの空間が使われていないわけです。ところが、この環境に個人会員、法人会員を募って、そして基金を集めたらすばらしいスポーツ環境並びにレジャー環境施設ができると思います。そして、学生たちには午前中そういうのを使わせて、それ以外は地域社会に開放していく。こういうことですと、夜とか休みのときに使える。  本当に日本は大学だらけなんですけれども、このことに余り多くの方が気がついておられない。むしろ逆手にとって、高等教育機関のスポーツ環境を民活で充実していく、そしてそのためのまた人材を養成していく。学芸大学の役割というのは、今までは学校教育の人材をつくってきたわけですけれども、これからは学芸大学へ戻って生涯学習時代の人材養成に切りかえていったら、彼らの伝統、ノーハウというのは国民に広くサービスできるんではないかというふうに思います。
  57. 小野清子

    ○小野清子君 そうしますと、先ほど先生がおっしゃいましたレジャーカウンセリングというのを養成するとすれば、先ほどからお話しになっていらっしゃる学芸大、あるいはそういう方々の養成ということがそこでドッキングをするわけでございますね。
  58. 松田義幸

    参考人(松田義幸君) はい。実はアメリカの方が十五年くらいちょっと早いんですね、人口が減ってきて教育系大学が生涯学習にモデルチェンジしてきた。例えば体育大学一つとってみても、体育学部がレジャー学部へ体質改善を図ってモデルチェンジしてきているわけです。幅広いサービスのできる人材開発に入ってきております。もちろん、そこを出た学生たちはプライベートビジネスにも入っておりますけれども、パブリックのビジネスにも入っております。我が国もその点をもっともっも参考にして、教育系大学がイノベーションを図っていくべきではないかというふうに思います。
  59. 小野清子

    ○小野清子君 午前中にレクリエーション関係先生からお話をお伺いしたわけですが、いろんな財団が日本にはありまして、そういうところの施設指導者、そういう方々がいらっしゃるわけです。専門的にそういう部門で活躍する方、あるいはボランティアの方々というものの存在があるわけです。  先生からきょうはいろいろ語源的なお話もお伺いしたわけですが、このボランティアという言葉からする今後の指導的役割の意味合い、そういうものについてお考えをお聞かせいただきたいと思います。
  60. 松田義幸

    参考人(松田義幸君) これまでのボランティアの人たちの能力について見ますと、前工業社会のサービス能力にとどまっておる。そのために企業の厚生関係レクリエーションサービスが大変今不人気でございます。どこも集まってこないんですね。社員旅行とか企業でいろいろ楽しみに行くということについても、もう勤勉・節約型のレクリエーションプログラムにはだれも魅力を感じなくなってきているんです。したがって、ボランティアなサービスの人たちが今後とも人々の幸福に資するというのであるならば、彼らが能力を再開発するような機会が一方になければ、ボランティアな気持ちがあってもそれは人々に満足を与えることはできないし、ましてや外国みたいにそれによって必要ミニマムの収入を得ることもできないのではないか。そういう指導者というのが今たくさんいるんですけれども、もうすべてアウト・オブ・デートになってきているのではないかと思います。
  61. 小野清子

    ○小野清子君 日本の場合には、中小零細企業まで入れますと、数字の上からは三百四十八万九千の事業場があるということでございます。これを一〇〇%といたしますと、先ほど藤本先生のお話の方からも三十人未満という数字はいかがかというお話もございましたが、三十人未満の規模の事業場というのが三百二十六万一千、約九三・四%になると。そうしますと、中小企業関係がいわゆる労働余暇ということを考えたときに、この方々が週休二日を謳歌するという、これが現実的に具体的になされなければ日本労働余暇という問題はまことに語られているに当たらないということになろうかと思うわけでございます。そうした中でレクリエーション関係というのは、活発に動く方は非常に活発に動いて何にでもお出になる。ところが出ない方はまことに貝に閉じ込もったように出ない。  アメリカでの女性スポーツ会議というのに参加をさせていただいたときにも、こういう言葉が出たんですね。人間嫌いの方をいかに人の中に呼び出すかというのがこれからの指導者の大きな役割であるということが話題になったわけです。私は、運動が嫌いだとか、人の中に入らないのを人間嫌いという言葉を使ったことはなかったものですから、新しい言葉に戸惑いを覚えながら、ああそういえばそういうことはいわゆる社会学、心理学的な立場でとらえてやっていかなければならない。ですから、とかく労働余暇という問題の中で労働がやっぱり主役で余暇が本当にわき役のような形でしたが、きょうのお話からいろいろお伺いいたしますと、労働余暇あるいはレジャーというのは両方相まって人生を豊かにしていくというこういう概念に立ちますと、そういう人間嫌いとかいわゆるスポーツ指導者あるいは企業の関係者のみではなく、非常に科学的、心理学的、社会的な方々の参加がこれから必要ではないか。  ボランティアという言葉の中にさまざまな人がそこに協力をするということにおいて、その辺の期待というものはやはりボランティアであってだめなのかという点と、それからまた、こういうレジャー関係にそういう方々の参加というものは今現在あるのかどうか、その辺をちょっとお伺いさしていただきたいと思います。
  62. 松田義幸

    参考人(松田義幸君) 非常に難しい問題なんですけれども、いろんなそういう指導者育成の東京と地方で行われている研修会に出るのでありますけれども、彼らが今、もしこの新しい時代に向け てトータルな能力を身につけなければ、やはり彼らのボランティアのサービスというのは、機会というのはだんだん停滞していくのではないかと思います。  先ほどレジャーカウンセリングと言いましたけれども、これは、これこそまさにスクールそのものであったわけです。スポーツをやる人は音楽とか読書とか絵画とか、そちらの方に対する関心が足りない。音楽の人は他の文化領域に関心が足りない。ところがプレーという言葉一つとってみても、プレーにはスポーツも音楽もダンスもみんなくっついてくるわけです。そういう総合的な能力を身につける、つまりボランティアなサービスをする人たちも生涯学習に一方でブリッジしていなければこの人たちもアウト・オブ・デートになる。もう今は教える、教えられるという関係ではなくて、ともに楽しみながら学習していくというそういう姿勢だと思うんです。したがって、お客さんの方がお客さんに教えるということもあってしかるべきだし、フランスなんかのユーモアと非常にゆとり感覚のある人たちというのは、供給側に全部サービスを受けるというんじゃなくて、実際には需要者の側がお互いにサービスし合って交換し合っているという、それが実態なんですね。  ですからボランティアの方々も、本当におもしろく、ユーモアがあり、魅力があり、文化の諸領域に能力を開発してくれば、それは自分にとってのまた人生を自己完成させることになるので、ただ単に供給側からだけ考えるボランティアという時代は終わったんではないかというふうに思います。
  63. 小野清子

    ○小野清子君 先ほどのいわゆる学問的立場の体育学部とか体育学科とか、そういう観点がどうしても主導的に今現在なっているわけですね。いわゆるこれからの生涯教育なりあるいはレジャー関係の中でどうしてもそれが主導的になってきますと、人間というのは飽きっぽいところがありますし、やはり先ほどの地中海クラブがうまくいっているということの中のソフト面が問われたわけですけれども、その辺の偏りに対する今現在の動き、今後の動きですね。例えばこういう面はこういう動きを始めているというふうなあたりは、先生の観点からいかがなものでしょうか。
  64. 松田義幸

    参考人(松田義幸君) 実は筑波大学で今一つの実験を行おうと思っております。国立スポーツ科学研究所ができてきますと競技スポーツ選手というのはそちらの方が相当お世話するようになるだろう。そうすると筑波大学の体育学部のようなのはどういう役割がこれから出てくるんだろうか。やはり生涯スポーツとかレジャー、自然生活へのサービスだろう。それに対して現在のプログラムは、小中高の体育の先生をつくるそういう科目になっているわけですね。  ところが、レジャー関係スポーツというのは全部体育学部の中に入っていないわけです。そうなってきますと、体育学部を出ても生涯スポーツのサービスをする能力は身につかないということになってくるわけです。さらに、そのスポーツ環境を今度デザインするという環境のデザイナーというようなところまでも知恵を能力を広げていかなきゃいけない。そうなってきますと、本当に今一番重要なのは、彼らは資質に恵まれているだけに、今後大学体育のような生涯スポーツの能力開発の、人材開発のプログラム、そういうところとリンクしながら、そして教育実習なんかも高等学校、中学校、小学校教育実習行くのではなくて、そういう大学で行う公開講座の生涯スポーツ教育実習に行きながら、そこで理論を学び、能力を身につけていく、こういうことが非常に大切になってくるであろうということで、筑波大学に関して言えば今そのプランニングに入っているところです。ああいう大学は教官を百四十人も抱えている大学ですから、変わってくると他大学も変わってくるのではないか、その辺に期待したいと思っております。
  65. 小野清子

    ○小野清子君 藤本先生にもう一度お話をお伺いしたいと思いますが、先ほどの有給休暇の点でございます。  欧米諸国の場合には一〇〇%消化をしているということに対しまして、日本の場合の実際の消化率は五〇%ではないかということでございますけれども、この辺、先ほどのお話からお伺いいたしまして、立法化をしなければだめではないかというお話でございましたけれども、もう少し何か具体的にいい御示唆がいただけましたらお話をお伺いさしていただきたいと思います。
  66. 藤本武

    参考人(藤本武君) 十五、六年前なんですが、南米で大学の先生をして、それから会社勤めをしていた人が本を書きました。それは結局レジャーの問題が出てくるわけなんですが、その中で、アルゼンチンかブラジルに勤めておるときに、技術屋さんなものですから忙しくてとても休みがとれなかったと言うんですね。そうしましたら、技師長に呼びつけられて、おまえはなぜとらぬかといってどなりつけられて、おれを侮辱する気かと言われたというんですね。それでびっくりしてかしこまっていたら、結局、大体人員の計画を立てるときに、必ず年次有給休暇を一カ月とるということを前提に置いて人員計画を立てておるわけですね。それがとれないということは、自分が立てた人員計画がミスしているというようにおまえがおれに言うのに等しいんだと言われて、それでもう恐縮して、すぐ一カ月の年休の届けを出して休んだということなんですね。  だから、日本の経営者と根本的に違うんですね。日本の経営者ですと、年休を満度にとるのは大体立身出世させられない人なんですね。ですから、公務員でもそうなんですけれども、民間でもできるだけたくさんとるのは女性なんです。女性は割合とりますけれども、男の方は、特に立身出世したいと思っておるのはできるだけ少ししかとらない、こういう形になっていまして、労働省の基準局が調査したものでも、困ったことには、その回答で、年次有給休暇をどの程度とるかということが何かに関係があるというのが三、四〇%おるんです。何かの中には、ボーナスの査定、それから昇給昇格、それから精勤手当は大部分ですね。そういうことでいろんな給与が減ることになっておるんですね。それから立身出世できないと。  私は工場見学へ行きまして、九六%出勤率達成とかといってあちこちに張られているのがありますと、必ず聞くんです。この残りの四%の中には年休が入っていますかと言うと、入っていますと言うんです。年休は除いて計算していますと言うのはもう一カ所もありません。私は何十カ所か、必ずそういうパーセントが出ていると聞くんですね。そうすると、会社とすれば出勤率何%という場合には欠勤の中に年休を加えておるわけですから、それだからやっぱり年休はとってもらっちゃ困るということがもう最初から労務管理の中に入っておるわけですね。ですから、私は、年休というものを労働者権利じゃなくて、経営側の恩恵的なものと考えておる、これが根本的にあるわけです。  ですから、ことしの夏休みでも、忙しいといって、最初十日休むと言っていた年休を、年休というが夏季休暇を簡単に三日縮めたとか、そういうのが続出したわけですね。そういうように簡単にカットできるということはやっぱり恩恵的に考えておる、その考え方の違いですね。  私フランスへ調査に行ったことがありますけれども、役所の役員さんでも、きのう夏休みでカナリア群島まで遊びに行って、きょう出勤してきたんだというようなそういう幹部によく会いました。というのは、皆さんが、そういうポジションにおる人もみんなレジャーを楽しむわけですね。日本はやっぱり立身出世したいと思う課長なんかはできるだけ休まない、それからまた休んだ人も、墓参りに帰ったのに社長からすぐ電話がかかりましてねなんというような形で、おちおち郷里で体を休められませんでしたという式で、上役の人も全部、下の中級の職制の人の年休もとりにくいようにしておる。ですから、やっぱり根本的に経営側が頭を入れかえなければ僕はだめだと思っています。  そのためには、オーストラリアのメルボルンで すか、これはNHKで放送になりましたので覚えておるんですが、年休を残しますと労働裁判所に労使ともに呼ばれるんですね。処罰はされぬらしいんですけれども、両方呼んで、それで労働者にはなぜとらなかったか、なぜ残したか。経営側はなぜ与えなかったか、これを尋問されるわけですね。それですから、もう年末になると、とってくれ、とってくれということになるんですが、私はやっぱりそれをやらないとだめだという意見です。  今まで長年やってきて、それぐらい日本で法律で、年休を残した場合には何かするとか……。フランスでこういうのがあるんですよ。前から真夏に年休をとれというように決まっておりまして、例えばそれをとらせなかった場合には三日プラスするというんですよ。一週間とらなかった場合には三日プラスする、また追加で休ませにゃいかぬというような罰則をつけておるんです、フランスの立法では。ですから、そういうように思い切って何か方策をやらないと、今度も不利な扱いをしちゃいかぬというのがありましたね。ところが、あれは罰則がついておらぬのですよ。調べたんです、罰則ついておるか。ありません。日本では罰則なしだと全然守られません、そう思っています。
  67. 小野清子

    ○小野清子君 ありがとうございました。
  68. 刈田貞子

    ○刈田貞子君 私、公明党の刈田でございます。持ち時間が十五分しかございませんので、先に質問を全部続けて申し上げますので、後から御回答をお願いしたいと思います。  まず、藤本参考人にお伺いいたしますけれども、さっきからお話を伺っておりまして、他国の労働条件から見ますと、これは前々から私どもも申しておることでございますけれども、改めて数字を見てみますと、本当に大変惨めな状況にあるということを思います。そこで、難しいことは申しませんけれども、端的に言いまして、こうした労働条件下にある日本人が描く余暇の未来像というのは、一体どんなものが描けるのでしょうかということを藤本先生にお伺いしたいというふうに思います。  それから、松田先生には、先ほどからソフト、ハードのいろいろな条件のことが出ておりましたけれども、私、先般「ダイヤモンド」を読んでおるときに、余暇市場五十四兆二千億というような数字を見まして、そしてこれがGNPを大変な勢いで引っ張っている、二〇〇〇年にはこれが百兆円市場になるのだというようなことを読みました。そして、先ほどからお話がありますリゾート開発の問題であるとか、あるいは私も大変びっくりしたんですけれども、パチンコ業界が大変にすばらしい景気で伸びているというようなことでございますが、こうした余暇のイニシアチブを持っているのは、やっぱりこういう形の民間の産業が引っ張っているのであって、先生、先ほどからいろいろレジャーカウンセラーというようなお話をなさいました。それからまた、午前中にもレジャーサポーターというような話も出たわけでございますけれども、事実上、我が国の余暇の実態というのは、そうした産業化した形のものに引っ張られていってしまうのではなかろうかなということを考えます。  そこで、先生がおっしゃられているところの自由時間の過ごし方Cタイプ。先生はAタイプ、Bタイプは既に一般化したものであるというふうに言われておるわけでございますけれども、いわゆるセルフデベロプメントの範疇に入りますCタイプの余暇の過ごし方というものが我が国に定着していくためには、先ほどから先生が幾つかおっしゃっていらっしゃいますけれども、定着していくためにその決定的なものは何なんだろうかということが大変問題になるのではないかなというふうに思います。
  69. 藤本武

    参考人(藤本武君) 余暇の未来像というと難しい問題なんで、非常に答えにくいんですけれども、ただ、参考意見として申し上げますと、イギリスでもフランスでも、今のレジャーというのは歴史的なものですね。中にはヨーロッパ人というのは昔から何かレジャーレジャーと言っておったような調子の、そのことを書く学者先生がいることはおるんですけれども、私の読んだ限りでは、戦後出た本なんですが、そのレジャーの本によりますと、戦前は、イギリス人は暇があると悪魔がつけ入ると、こういうことを信じておる人たちがたくさんいた。ところが、戦後、ティーンエージャーをトップにしてレジャーがばあっと広がっていったんだということを言っております。ですから、イギリスでもレジャーというのは歴史的に発展してきたんだというように考えます。  それから、私がフランスに行きましたときに、フランスの労働総同盟の書記の人に、一体フランスのバカンス、バカンスというのはいつごろから始まったんだと言ったら、一九三六年の二週間の年次有給休暇、このときからバカンス、バカンスということが非常に言われ始めた。その前も無論年次有給休暇を与えるというような要求はあったわけです。またそれを背景にして立法化されたんですけれども、本当にバカンスというのは、それで二週間の休みを経験してそれから爆発してきたんだ、こういうようにおっしゃっていたんですね。それですから、私はそういうことを聞きまして、やっぱりヨーロッパの人のこのバカンスも歴史的なものなんだ。とすれば、日本も歴史的に見てだんだん広がっていくんじゃないか。だんだん今よりは来年はより多くのバカンスになる、こういう形になることは確実だと思います。  ただ、確実だと言いながら、この間、毎日新聞の記者が書いておりましたが、どうもヨーロッパ遊び過ぎじゃないかというような言い方をしておるわけですね。あの人が言う場合には、昔風の日本人の目からヨーロッパの今のバカンスを見ると、少し遊び過ぎのように見えるという人は確かに少なからずいるだろうというように思いますけれども、そういう人たちを含めても私はやっぱり歴史的に変化していくだろうと。  ただ問題は、政策とすればそういう変化を抑えるんじゃなくて、できるだけ促進していくように努力することが必要なんじゃないか。特に、今国際化あるいは経済摩擦でいろんな問題になっておって、日本人の働き過ぎというのが、疲れているだけじゃなくて、国内的に見ましても長時間労働でいろんな問題が、家庭問題にしてもそれから最近問題になっております過労死ですね、仕事をしていながら突然に死ぬとかというようなのが頻々として発生しております。ですから、そういうものをできるだけ防止していくためには、時間を短縮して年休をふやして、バカンスをふやしていくということが必要なんじゃないか。そのために政策面でやるべきことはたくさんある。  特に日本労働組合は企業別従業員組合なものですから、労働組合で社会的な標準的な労働時間というのをつくれないわけですね。外国ですと、例えばフランスですと、今三十九時間労働している人がもう九〇%以上いるわけですね。イギリスでも大体八〇%ぐらいは三十九時間ですね。アメリカでは四十時間が七〇%ぐらいいます。ですから、それぞれの国で四十とか三十九時間というのが標準労働時間ということが言えるわけなんですが、日本ではないんです。もう三十六、七時間から始まりましてずうっとふえたり減ったりしますけれども、四十八時間ないしは五十四時間まであるわけですね、所定労働時間が。標準労働時間がないわけです。だから、労働組合の団体交渉に頼ってそういう標準労働時間をつくってくれというのは、もう日本労働組合の現状から見まして、これを産業別組合に切りかえるのはだめなんですね。そういうことはできない。産業労働組合になって、産業別の経営者団体との間で団体交渉で労働時間を決める、こういうヨーロッパの慣習が日本に入ればよろしいんですけれども、とてもそれは難しい。そうなれば、立法でやってもらうしか仕方がないわけですね。  ところが、日経連の方は、労働時間は労使交渉で決めるものだというような変なことを言っているんですが、あれは根本的にすりかえがありまして、立法で決めるのは労使の団体交渉にかわってやるんじゃなくて、最低限を決めるだけなんです ね。最低限を決めるだけでありまして、もしそんなことを言えば過去のイギリスで始まりました工場法以下のあらゆる労働時間立法を否定することになります。あくまでもあれは最低限というか、時間の長さで言うと最高限になりますが。そういうことですから、そういうものを前提に置いて、後、労使交渉でより短い時間を決めるというのがルールなんですから、そういうことで日本では特に労働時間立法の果たす役割は非常に大きい。  そうしますと、先ほど山本さんからありました中小企業の問題ですね。この問題が出てくると思います。しかし、これは時間をかけてやっていく、それと産業政策を一方でプッシュしていく必要も無論あるだろうと思います。時間だけでほうりっ放しにしておいたらいろいろ問題が深刻化しますから、そういう面もあわせあれして、逆に小企業では長時間労働でもよろしいんだという形になっているから小企業がふえていくわけなんですね。それはだからその奨励策になっておるわけです。外国はもう同じ時間になっていますから、小企業を起こすときには独特の技術を持った中小企業が起きてくるわけですね。大企業ではできないような、大企業に匹敵する何か技術を持っておる、そういう形に中小企業が切りかえていけるような、下請制じゃなしに、何か技術を持っておるというようなところへ誘導していくためにも、私は労働時間の規制ということが必要なんじゃないかというように思っております。  以上でございます。
  70. 松田義幸

    参考人(松田義幸君) 一つの前提で、日本人レジャー文化価値の享受能力が低いために時短要求が低い、これは鶏が先か卵が先かですが、僕はそういうふうに一つは感じております。したがって、レジャー文化能力を身につけていくということは物すごい重要な問題であると思います。  それから、先ほどの先生のお話の欲望を刺激するようなという話がありましたが、企業は欲望があれば必ず供給するわけですけれども、その企業の人たちですら、もう何とかならぬかと言っているのが実は最近の実情だと思います。というのは、例えばある大手の出版社の人が、去年が五十億書籍部門が赤字で、それを雑誌部門がカバーした。書籍部門から雑誌部門へ自分が配置がえになったところが、毎週毎週これでもかこれでもかという新聞、週刊誌の広告、中刷り、広告にああいうスキャンダラスなことを毎日考えなきゃいかぬ、そうこうしているうちにおれの人生がもうめちゃくちゃになってきちゃったと言うんですね。そうもうからぬでもいいから、あの落ちついた書籍づくりをもう一度やれないものだろうかと。そのときにその会社の経営者に申し上げたのは、それであるならば、もっと古典教育、読書教育にビジネスも力を入れるべきではないか。一生かけて勤めて、仕事の方でも疎外され、レジャーでも疎外されている今の日本というのは余りにも不幸ではないか。  ではどうすればいいかということなんですが、レジャー教育というのは学校も重要だけれども、家庭がもっと大切ではないか。労働生活余暇生活、家庭生活の幸福に与える影響というのをとってみますと、余暇開発センターでやっておりますが、ここ十七年間に家庭の幸福に与える影響度はどんどん下がってきています。そして、労働レジャーに生きがいを求める、手ごたえを感ずるというその割合がふえてきております。家庭が衰弱してきているんですね。ところが、人生七十万時間の受け皿のほとんどは、ベースは家庭であるわけです。家庭がおもしろくなくなってきているという、これは大問題ではないか。家庭こそがレジャー文化を享受する場であり、原点であり、そしてレジャー文化を楽しみながら親子関係をリッチにしていく、もうそういう時代が来たんじゃないか。かつては職業でそれが可能だったけれども、職業が外に出た以上、親子の関係、三世代の関係、それはレジャー文化関係でリッチにしていくのではないか。そこのところも重要なポイントだと思います。
  71. 刈田貞子

    ○刈田貞子君 ありがとうございました。結構でございます。
  72. 近藤忠孝

    ○近藤忠孝君 持ち時間の関係で、まとめて両参考人に二問ずつ質問をしたいと思います。  まず藤本先生にですが、これは先ほどから問題になっている年間労働時間は日本が大変多い、しかもこの三十年間の変化は一番日本が少ない、極めて少ない。こういう点で一体その原因は何だろうか。今まで相当いろいろな角度からお話がございました。    〔会長退席、理事斎藤栄三郎君着席〕 その一つとして例えば経営者の姿勢の問題ですね。しかし経営者の姿勢から見ますと、それは今の日本の経営者のあり方がむしろ本能的な対応で、決して昔から今のような状況ではなかったと思うんですね。そういうふうな問題も含めて、ヨーロッパでこのように変わってきた、また日本がなぜこんなにおくれているのかというその原因について、今までお述べになったこと以外にあればひとつお教えいただきたいと思います。  もう一問はいわゆるフレックスタイム、核時間帯と自由時間帯の勤務体制が大変多くなっておりますが、その功罪。観点としては時間短縮の関係でどうか、また自由時間の関係でどうか、この辺についてお教えいただきたいと思います。  それから松田先生には、人生の中で労働時間が一割それから自由時間三割というお話がございました。ただ、我々の今の実感と、また藤本先生のお話から聞いてもどうもこれがぴんと来ないんですよ、そのことがね。そしてまた先生も参加されておる経企庁の「人生八十年時代における労働余暇」、その中でもそういう考え方もあるというようなことですね。その論拠をひとつお教えいただきたい。  それからもう一つは、これは午前中も話が出たんですが、レジャー阻害要因として時間ともう一つは金がかかるということで、お金の問題ですね。これはやっぱり民間施設、いわば企業としてのスポーツ施設レジャー施設というところに原因があると思うんですが、聞くところによりますと、特に先進的なのは東西ドイツだと聞いておりますが、その辺の先進例で日本参考にすべきものがあればひとつお教えいただきたい。  以上であります。
  73. 藤本武

    参考人(藤本武君) なぜヨーロッパ労働時間が急速に短縮されたかというのを追跡してみますと、一つは実質賃金が上がりまして生活水準も上昇してきたわけですね。そうしますと、大体戦前水準を回復しまして少したってから時間短縮運動が高まってきております。ですから、生活水準の上昇とそれとのつながりは非常に緊密だろうというように思います。    〔理事斎藤栄三郎君退席、会長着席〕  それともう一つは、やはり労働内容の変化で、これは六五、六年ごろから大きな問題になってきておりまして、七〇年に入りますと労働人間化というようなことが非常に問題になってくる。単に作業の速度が早いだけじゃなくて仕事の質が変わりまして、それで労働が肉体労働よりも精神労働の方に移ってきて、それから精神疲労が非常に高くなるようなそういう労働がふえてきたというようなことがありますし、それから交代制が非常にふえてきまして生活が混乱をしてくるというようなこともあります。一時はイギリスなんか労働災害率が非常に高まったわけですけれども、最近VDTですね、日本ではVDTと言いますけれども向こうではVDUなんですが、ユニットと言っていまして、それが使われていろんな精神障害だとかその他の疾病が広がってきておるとか、いろんな労働の変化がやはり休息を必要としておる。その条件がいよいよ高まってきておるというようなことが生活水準の上昇と結びついて、それでレジャー、バカンスの要求というようなことにつながってきたんじゃないか。  それから、もともとバカンスの要求というのは人間的な要求でしてね、単に労働の影響が強くなったからだけでそういうものが高まったというより、もともと人間というものはやっぱりレ ジャーを楽しみたいというそういう本性を本来は持っておったはずなんですが、それがこれまでいろんな意味で、経済的な理由で抑えられていたのがここのところで爆発的に発現しておると、こういうように考えるべきじゃなかろうかというように思います。  そうすると、条件日本でも今同じようにあるわけなんですが、その割に日本ではテンポが遅いというのは、昔からの貧乏症というのですかね、特に終戦直後苦しい生活をしましたから、それに比べますと何とか今は相当上等な生活をしておるというようなことになりまして、ヨーロッパ人ほど強くバカンス、バカンスという発言が出てこないというような面は確かにあると思いますが、先ほど触れましたように、やっぱりそういう考え方も未来永劫ずっと続くんじゃなしに、だんだん日本人も変化していく、それを早く変わるようにお願いしたいというように思っております。  それからフレックスタイムなんですが、フレックスタイムは、最初は経営側のあれから出まして、それで一番広まったのは西ドイツとスイスでございまして、あそこでは相当経営の中へ入っておりますけれども、しかし生産現場に余り入っておりません。生産現場ではせいぜい設計部門には入っておりますけれども、あとはオフィスを中心にフレックスタイムが入っております。向こうの書物を読みますと、日本で問題になっているほど何というか、経営側に押しつけられたとかというようなことは一つも出てきません。むしろ残業が減ったとかそういう点で不利だとかいうような点を挙げることがありますけれども。それから有利な点としていろいろ自分の都合で出たり入ったりできるわけですから有利だというようなことで、功罪半ばするような評価が普通多いんです。  労働組合はやっぱり組合の弱体化につながるということで余りいい顔をしておりません。これは例えば職場集会を開くといっても、出たり入ったりするのは各人自由なものですから、全員集めるということは不可能になってしまうわけですね。それですから、そういう点で組合は余りいい顔はしませんけれども、それで利益を得るというような人が中におるものですから、やっぱりそれを真っ向から徹底的に反対するというような立場は多くの組合はとっておりません。  ところが、日本の組合の報告なんかを見ますと、どうも押しつけられたとかなんとかというような苦情がちょいちょい出ておりますが、ヨーロッパではそういうことはありません。どうしてかな、やっぱり日本労働者や組合と向こうと違うんじゃないかというような気がします。向こうの人は自律性が非常に強いですから、経営側がちょっと出てくれぬかと言ったぐらいでは、いや自分は都合が悪いからきょうはだめですというような形で自分の意思を通す人が多いのに、日本はちょっと言われると、もうそれで経営側の圧力というように受けとめてそれに従う。そういうことになりますと、一種の変形労働時間制になるわけです。経営側が都合のいいときに働かせて、それで都合の悪いときには休め休めというようなことで時間を一番有効に使うというような形にフレックスタイムが利用されておる。  もともとこの制度はメッサーシュミットでしたかね、本社に八千人かおるんだそうですが、その本社のところへ朝八時になるとわあっと八千人が来るわけですね。エレベーターが何台あっても足りぬで、下でこうやって待っておるわけですよ。その時間のロスが余りにも大きいというので、何とか時差出勤にして、エレベーターをもう少し有効に使えるようにしたいというようなことがフレックスタイムの始まりなんですね。ですから、どうも日本のあれは労働者がそういうように弱いですから、経営側に言われるともうあれですから、そういうことでやっぱり日本が特別のそういう対策を必要としているんじゃないかというように思います。  以上です。
  74. 松田義幸

    参考人(松田義幸君) 藤本先生の場合も、ここにお集まりの方々も、平均すると生涯一年間三千時間くらい働いてこられた。勤勉・節約型に属しておられたからこれはしようがないと思うんですが。  これからの人たちについて見れば、先ほど藤本先生も諸外国七万時間と。ところが、さらに諸外国はこれから千六百、千五百時間時代に向けているわけですから、間違いなく七万時間は切ることになると思います。我が国についても、これから社会に出る人たちについて見れば七万時間前後になるだろうと思います。そしてそういうところに若い人たちの人気がまた集まっている。その人たちのことを最近のはやりの言葉では新人類というふうに呼んでいるわけです。  今、フレックスタイムの話がありましたけれども労働時間短縮の歴史についてちょっと触れてみますと、最初は一日の労働時間短縮だったわけです。それが週労働時間の短縮になり、月の労働時間の短縮になり、現在は年間の労働時間をどう短縮するかと。ところが、ILOのPIACTの宣言では、ILOが何年か前に出したのでは、一生涯の中の労働時間の短縮をどう進めるか。そして権利として義務として労働時間をどう配分したらいいのか。その労働時間をどう人間化を図っていくかということで、今労働時間の短縮の諸種の施策については、考え方は恐ろしく多様化してきている。そして、そういう方向に沿ってヨーロッパの場合には進んでいるのではないかというふうに思います。  それから先進事例ということでしたけれどもヨーロッパ人はこれまでは地中海でぼんやりしているという話だったんですが、最近は非常にアクティブにレジャーライフを楽しむようになってきていると言ってよかろうと思います。それは先ほどから何回も申していますけれども、ソフトウエアの完備しているところ、いい人材のいるところ、そこがはやってきている。そういうことでは、ヨーロッパ諸国の人気のあるところへ行かれたら非常に参考になると思います。  それからレジャーカウンセリングの話では、これは高齢化社会に向けてどの国も非常に困っているわけで、カナダのオンタリオ州が非常に進んでおります。ところが理論的には、今我が国も割にいいところまで学問の方では来ていると思います。こういう成果が先ほどのレジャーの分野の人材開発に応用されていけば、ハードに対して、先行に対してソフトというのも、おくればせながらではありますけれどもバランスがとれていくのではないかと、そういうふうに思います。
  75. 平野清

    ○平野清君 時間の関係で、お二人の先生に二問ずつ前もって御質問申し上げます。  松田先生にちょっとお聞きしたいんですけれども仕事の引退は人生の引退だというのが今までのパターンだったと言われて、それを生涯教育によって余った余暇時間を有効に使うのがこれからの目的だと言われましたけれども、今あちこちでいろいろ開かれている生涯教育のカルチャーセンターというのは、受講生がほとんど女性なんですね。だんなの方は、もう朝早く行って、通勤時間が一時間半、往復三時間かかる。それで残業をやって遅く帰ってきて、もう疲れて寝てしまう。またその繰り返しだと。  そうすると、今、新聞紙上で見ますと、中年離婚とか高齢者離婚というものがはやってきている。女性がどんどん勉強する、テレビで解説は聞く。男性の方は働く一方。女性と男性との社会に対する感覚がどんどんずれてしまって、そういう現象が起きていると思うんです。そういう働く壮年層男子の方にのしかかっている教育費とか住宅費とか通勤時間だとかいろんなものがあると思うんですね。そういう先生の言われた大事な壮年層をどう教育するかということが一番大事なような気がするんですが、その方法があったらひとつ教えていただきたい。  それから大学開放の話がございましたけれども、一般の人だと、大学というのは非常に何か近寄りがたい気がすると思うんです。地域には小中、高等学校があるわけなんです。小中学校、高等学校先生ということになりますと非常に親近感が ある。もっとそういう中学とか高校が開放講座といいますか、地域講座というようなものをどんどん土曜日の午後なり日曜日にやって、教員の人たち地域社会に溶け込んでくれたらもっと違うんじゃないかという気がするんですが、そういうことが果たして今の学校教育の義務教育をやっている先生たちに可能なのかどうか。  それから藤本先生には、大企業と下請の関係なんですけれども、以前ですが大分電気の問題が起きたときに、ある地域で大きな企業、もうその町を支配しているような大企業が休電日を設けて、例えば月曜日と金曜日はきょうは全部休むと。下請も当然それに倣って休む。そのかわりいざ休電日が明けますと、いついつまでに頼んだ物を持ってこいということになって、下請は一切休めないというようなことが問題になったことがあります。だから、先ほど中小企業も大企業も同列に労働時間を短縮しろと言っても、大企業のそういう下請に対する大きな圧力があったのではとてもできないような気がする。そのことはどういうふうにお考えになるのか。  それから、私はサラリーマン生活を長いことしてきましたけれども、残業手当というものはもう既に生活給の一部になっているわけですね。だから、初めから低賃金のところに残業がなくなってしまうと生活費が減ってしまう。生活費が減ってしまうから、困るから人の分を買ってまで残業をやるような人まで出てくる。初めから企業の方は、早出一時間、遅出一時間といって勤務表に全部もうできちゃっているわけですね。そういう実態をどういうふうにお考えになるのか。  ユニオンショップ制の組合だから、だんだん闘う労組が減ってきた点もあって、労働組合が企業に対して力強いことが言えない。協調精神はいいんですけれども、物が言えない労働組合がふえてきたかのように思うんですが、そういう点はいかがでしょうか。
  76. 松田義幸

    参考人(松田義幸君) 僕は四十代、五十代からでもいい指導者、いいプログラムに出会えば、それからでもレジャー文化世界は遅くない、それがこれから我が国が開発していかなきゃいかぬソフトではないかというふうに思います。といいますのは、レジャー教育というのは大変おせっかいなものなわけです。なくてもいいわけですね。それを相手にサービスをしていくというときには、やはりアプローチしていく人がそのおもしろさをうんと会得した人でないとその世界を教えることができない。それなしできょう生きることができないというくらい好きな人がやっぱり教えていくべきだと思うんです。  ところが、スポーツでも音楽でも、現在のカルチャーセンター、生涯教育は、例えばスポーツの一級の選手と一級のコーチとの関係を易しく教えていけば生涯スポーツの振興になると思っているんですけれども、これはもう全然違うんだそうです。楽しさを基調にして教えていくプログラムと、競争で、競技スポーツで教えていくプログラムは全然違うんだそうです。したがって、これらの問題は全くこれからということで、そして四十代からでも、五十代からでも、六十からでもそういうことは可能である。したがって、そういうプログラムを実際に開発しサービスする、そういうソフトをつくること、これにもう尽きるんじゃないかと思います。  それから二つ目の学校開放の問題ですけれども、おっしゃられたとおり、大学がちょっと象牙の塔ではないかと。ところが、もう今そんなこと言っておれなくなってきまして、だんだん学生数が少なくなってきている。大学を公開していかなければもう経営が成り立たなくなってきている。それからさらに、高校、中学、この施設はよくなってきていますから大人の人も十分楽しむことができる。  今回、生涯学習局というのが筆頭局になったわけですけれども、文部省がやるべきことというのは、日本は公園をつくるのに失敗してきたけれども学校をつくるのには成功してきたわけですから、学校の資源を充実して、小中高大学、これを地域社会にどうレジャー文化の教授能力の資源として出していくか、これが僕は生涯学習局の第一優先課題ではないかというふうに思います。
  77. 藤本武

    参考人(藤本武君) 二問でしたね。  後の方からお答えしますが、残業が生活給になっておるというのはイギリスでも同じでありまして、なかなかこれは減らないんですね。それで、これの方策とすれば、やっぱりもう立法で抑えるしか仕方がないというようにイギリスの労働組合自身も最近言い始めております。失業者が多いのに現場労働者は残業をふやすというような社会的に見たら非常におかしな現象が生じておるのでそういう議論が出てきております。  その場合に時間短縮をしましても残業手当を保障するということはないわけです、どこの国でも。所定内労働時間の賃金は時間短縮でも保障するというのはあるんですけれども、残業はプラスアルファですからこれはしようがないので、それと同時にやっぱり残業手当のパーセントを引き上げる、割り増し率を。日本は国際的に見ますと非常に低いわけです。諸外国は大抵三三%から五〇%、特に休日は一〇〇%ですね。一〇〇%になりますと余り残業をやってくれ、休日労働をやってくれということは頼まなくなるだろうと思いますが。ですから、こういうものと割り増し率を併用して、そして残業を規制していく、こういうようなことが必要じゃないかと思います。  それから第一の問題で下請制の問題ですが、これは非常に日本的な下請制で、これが私は日本経済摩擦の一番大きいとは言いませんけれども、非常に大きな原因になっておる。下請制が中小企業で非常に低賃金あるいは長時間労働だから、それを利用して輸出をやっておる。日本の電機だとか機械を見ますと、これはもう日本産業の中で一番下請制に依存する率は高いですね。ですから、輸出産業は鉄鋼を除きますとほとんどがこの下請制を利用して国際競争力を高めておるということですから、やはり国際競争力を何とか抑えていくためにはその一番下を底上げするしか仕方がない。しかも、個々の場合に何か救済しようといっても私は無理だと思うんです。やっぱり労働立法というのは、個々の企業でなくて全体としてやれば割合やりやすいからやっておるのじゃないかと思います。  ですから、例えば今の最賃制すね。日本の最賃制は非常に国際的に見ますと最低に近いですね。平均賃金に比べて最低賃金の額の比率を見ますと、日本ヨーロッパ諸国に比べると最低ですね。パーセントが非常に低いというように最賃制の役割が非常に微々たるものである。それから労働時間の問題ですね。それですから、労働時間と最賃制を組み合わせて底上げをしていく、一遍にはできませんけれども、何しろそういうことを考えて下請制に依存する体質を少しずつ変えていくということが必要なんじゃないかというように思っております。
  78. 平野清

    ○平野清君 ありがとうございました。
  79. 長田裕二

    ○会長(長田裕二君) 以上で両参考人に対する質疑は終わりました。  松田参考人、藤本参考人にはお忙しい中を御出席いただきましてまことにありがとうございました。ただいままでお述べいただきました貴重な御意見等は今後の調査参考にさせていただきたいと存じます。両参考人に対しまして本調査会を代表して厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。(拍手)  本日はこれにて散会いたします。    午後四時二十五分散会