○
議長(
原健三郎君) 本日
表彰を受けられました他の
議員諸君の
あいさつにつきましては、これを
会議録に掲載することといたします。
─────────────
奥野誠亮君の
あいさつ
この度、永年
在職議員として
院議をもって
表彰のご
決議を賜わりました。誠に光栄であり、
感謝に堪えません。これもひとえに
先輩同僚議員のご
指導ご
鞭撻、
郷土奈良県の
皆さま方のご理解ご
支援によるものでありまして、ここに心から御礼申し上げます。
私が初めて
議席を得ました
昭和三十八年以後におきましても、
日韓条約の批准など戦後処理に類するものの
議事運営におきましては、物理的な抵抗がくり返され、採決に際しての
速記録には「聞きとれず」と書かれているものが幾つかあります。
幸い、その後、
国会運営の混乱は回避される反面、
わが国の
経済は順調な
発展を続け、今や先の大戦における勝者と敗者の地位が、部分的には逆転せんばかりになっています。
しかし、私にかかわることで恐縮ではありますが、数年前、
法務大臣をしておりましたとき「
自主憲法をどう思うか」と問われ、「同じものであってもよいから、もう一度つくり直してみたい」という考えが
国民の間に生れてくれば好ましいと思う旨答えました。数時間後には、
質問者所属の政党の方々から「
法務大臣罷免」の声が上がって参りました。
また先頃、
日中間の戦についての所見を求められ「その発端は
昭和十二年七月の
盧溝橋事件にあると思いますが、ライシャワー氏は偶発的な事情によるものと述べています。私も同じ見地に立っております」と答えましたところ、これまた答弁の当否を論ずることなく、
国務大臣罷免の声を上げられました。
敗戦によって、
昭和二十年八月から
昭和二十七年四月まで、
わが国は、
戦勝国である
連合国の
占領下におかれ、その間、天皇及び
日本国政府の権限は
連合国軍総
司令官に従属するものとされました。そして「憲法と総
司令部との関係にふれること」、「
占領政策を批判すること」など多数の
問題点にふれることは禁止されていました。
極東国際軍事裁判所も一方的なものでありました。しかも
戦勝国側、例えば
アメリカや中国の事情にふみこんだ調査は許されず、
日本国内の調査は徹底して行われましたが、
盧溝橋事件は、
日本側の謀略と決めつけることはできませんでした。
それだけに、憲法や大
東亜戦争にからむ問題については、国会での論議を封じていては、真の戦後は終りません。それなくして
日本の展望を正しく切り開いて行くことは困難であります。
国会運営についての希望をつけ加えさせて頂き、また重ねて関係の
皆さま方に
感謝し、今後のご
指導をお願いして謝辞と致します。
…………………………………
村山達雄君の
あいさつ
このたび、
院議をもって永年
在職議員として
表彰のご
決議を賜わりましたことは、
議会人としてこれに過ぐる名誉は無く、誠に
感謝にたえません。
二十五年の永きにわたり、ひき続いて本院に
在職し、本日この
栄誉に浴することができましたのは、ひとえに
先輩同僚議員各位のご
指導、ご
鞭撻と、わけても
郷土新潟県の
皆様方から賜わりました変わらぬご
支援、ご厚情のお蔭でありまして、ここに心から厚く
お礼申し上げます。
私が、はじめて本院に
議席を得ましたのは、
昭和三十八年十一月の第三十回の総
選挙であります。当時
池田内閣は、
所得倍増の旗を掲げ
高度経済成長の路線を驀進していました。しかし、国際的には
先進国の仲間入りをしたばかりで、
国民総生産二十五兆円台、
一般会計の規模三兆円弱、
外貨準備高二十億ドル、また
高速道路も名神の一部が供用開始され、新幹線も
東京オリンピックを機に、
東海道線が開業をみたばかりという有様でした。私は、
郷土の
発展と国の
繁栄を請い願い、両者は不可分のものであるとの考え方で微力を尽して参りました。
それから四分の一世紀、
世界の
政治経済の激動の波を
国民の英知と努力で乗り越えてきました。
ドルショック、二度にわたるオイル
ショック、
アメリカの双子の赤字に起因する
貿易摩擦に対処するための
先進国間の
政策協調——日本にとっては、
円高誘導、
市場開放と
内需拡大、
財政再建下の
積極財政、
経済構造の
調整等苦渋にみちた経験を積んできました。そして気がつくと、
日本は今や
世界二位の
経済大国となり、
経常収支、
対外債権、
外貨準備高は群を抜いて
世界一位となりました。
これからの二十一世紀を展望すると、
経済の
国際化がいよいよテンポを速める中で、
日本はその地位にふさわしい
世界経済への貢献を求められております。また、モスクワにおける
米ソ首脳会談を機に東西の
相互理解が進み、
地域紛争の解決の萌しが見えはじめ、第二次大戦後はじめて、不確かながら
世界平和への希望も生まれてきました。これからの
日本は、
世界の平和と
繁栄のために、
世界と共に生きねばならない
時代を迎えたと言えましょう。そのためには、内を固め、体力をつけることが肝要です。
税制改革や
財政再建はそのためにも避けて通れない道であります。
私は今回の
表彰の
栄誉を機会に、志を新にして山積するこれらの課題にとりくむ覚悟であります。
先輩同僚各位ならびに
郷土新潟県の
皆様の一層のご
指導、ご
鞭撻を心からお願い申し上げ、謹んで
お礼のご挨拶といたします。
…………………………………
鯨岡兵輔君の
あいさつ
衆議院議員として
在職すること二十五年の故をもって、院の
決議で
表彰の栄に浴しました。
二十五年の永い間、
政治家としてご
指導ご
鞭撻をいただいた
先輩同僚の
皆様に心から
お礼を申しあげます。
連続して九回の
選挙に当選させていただいた
選挙区の方々に対し何と
お礼を申しあげて良いか
言葉がありません。その中には既に鬼籍に入られた方も多数ございます。そのお一人お一人が、いま私の目先に浮かびます。本当に有り灘うございました。
二十五年は夢のように過ぎ去りましたが、思えばそれは決して短かい歳月ではございませんでした。
その間、私は
政治家として何をしてきたのだろうと考えますと、まことに慚愧に堪えないものがあります。
物質的な面だけに目を奪われ、そこにのみ幸福を求めた結果、心を失った寒々とした
社会にしてしまったのではないかと、私は密かに反省するのでございます。そして「われ過てり」の感に身の縮む思いです。
国民の血の出るような努力によって
経済的には
繁栄し、大変に便利な
世の中にはなりましたものの、人の情けはいつの間にか薄くなって、その面では棲みにくい
世の中になったような気がいたします。
もしこの私の考えが間違っていないとしたら、世相の
水先案内人たるべき
政治家の罪であると、お詫びの仕様もありません。
戦争に敗れて生まれ変わった
わが国は、二度と
戦争はしないと固く誓いました。この誓いを忘れてはならないと、私はこの二十五年間、それを思いつづけ、特に
核兵器に反対する運動をつづけて参りました。
空気が汚れ、水が濁り、土は痩せ、森林は減り、砂漠は増える。このようにして地球の環境は悪化の一途を辿り止まるところを知りません。
これを防がなければ人類に明日はないと、私は今日まで叫びつづけて参りましたし、明日からもこれを叫ぼうとしていますが、力不足を嘆かずにはおられません。
力不足と言えば、
政治が金力に支配される傾向に歯止めをかけることがでぎず、ついに
国民から大きくその信を失うにまで至った今日の
政治の姿を思うとき、私はこれに対し申し訳の
言葉を知りません。
私は、
選挙区に於いて、私の微意を理解していただき、清潔な
政治に終始させて下さった有権者の
皆様に何と
お礼を申しあげてよいか解かりませんが、
金力支配の
政治の罪は私一人清しと免れるものでないことを反省し、残された生涯をこのことに力を尽くしたいと決意しております。
在職二十五年の
栄誉をお与えいただいた
お礼を申しあげると共に、所懐の一端を述べご挨拶といたします。
…………………………………
藤尾正行君の
あいさつ
只今議長から
院議で永年勤続の
表彰をお受けしました。大変光栄なことだと思います。この光栄は多くの
先輩・
同僚の御
指導と栃木県第二区
選挙民皆様の二十五ケ年間に亘る変らぬ御
支援のお蔭です。今後この名誉を汚すことのないよう、一層御奉公に精進いたします。
いま
日本は、敗戦と
政治、
社会、
経済の混乱の時期から脱け出して、
世界一といわれる
繁栄を謳歌しております。
吉田茂先生をはじめ、
指導者の諸
先輩が、その時々に多くの苦難を乗り越えて、
わが国の再建と
近代化に全力を尽された成果でもあります。
しかし乍ら、財界、
労働界、
知識人、その他各
団体等、
国民の中には
政治の現状に対して、厳しい批判、提言が相次いでいます。
一、国会の審議は形がい化してはいないか
一、
金権体質を一日も早く一掃すべきだ
一、政党にも、
国会議員にも
自己改革の能力が衰えているのではないか
等々であります。
議会制度発足百年を二年後に迎え
議会政治の
抜本改革、出直しを求めるものばかりであります。
私
どもはこれらの声に応えなければなりません。
二百年前、
産業革命が起りました。人口が四倍にふえ、産業も貿易も広く全
世界に拡がりました。
世界の歴史が塗りかえられたのです。そして今、私達が迎えるこれからの
世界は、交通、
電気通信、
情報化、
航空技術の発達で、また金融、証券、保険などのサービスの
先物化、
国際化で
産業革命に匹敵する
一大変革を遂げようとしています。
政治も、
経済も、福祉も、
教育制度もこの変革に順応してゆかなければ生きてゆけないのです。
これからはコンピューターの普及、
バイオ技術の革新で
時代は
工業化時代から
高度工業化、脱
工業化時代に向って猛スピードで変ってゆきます。
いま
世界の中で
日本の
国際化が叫ばれています。科学、
技術が、そして
産業経済が
国際化を果したように、私
どもの「
政治の
国際化」が何よりも必要だと思います。
二十世紀の
素粒子物理学は
核エネルギーを開発しました。
核兵器の恐怖も生れました。
近代化学はいろいろのガスを発見しました。その
一つフロンガスは地球をとり巻く
オゾン層を破壊しているということです。
アフリカ等諸地域で
砂漠化が進んでいます。そして六十億に近い
世界の人口に、飢え、病い、
気象異変、大
規模災害が惧れられています。
日本の科学、
技術、
経済の力を駆使して、地球、
世界のために役立てる必要があります。
伝統ある
日本民族の「心」の基礎の上に
世界をみる新しい目を見ひらいて、新しい
わが国政治への道を
同僚皆様とともに進みたいと思います。
私は今後残された
政治生涯をかけて、
政治改革の大道を邁進いたします。
…………………………………
渡辺栄一君の
あいさつ
このたび、永年
在職議員として、
院議をもってご丁重な
表彰のご
決議を賜わりました。誠に身に余る光栄であり、
感謝にたえません。
昭和三十八年十一月第三十回総
選挙に初当選以来、二十五年の永きにわたり本
院議員として
在職し、今回の
栄誉に浴することができましたのは、ひとえに
郷土岐阜県第二区の
皆様の変らぬご厚情ご
支援の
おかげであり、さらに諸
先輩、
同僚議員各位の暖かいご教導ご
鞭撻の賜ものと心から厚く御礼申し上げます。
顧みますと、私は故
大野伴睦副総裁のご
指導を受け、
祖国愛に燃えて
政治を志しました。私共が初当選した当時は、
池田内閣の末期であり、「
所得倍増政策」から「
高度経済成長」へ前進を開始したばかりであって、
政治、
経済共にその
国際的地位は極めて低いものでありました。以来今日まで
わが国は、ドル・
ショックやオイル・
ショックなど幾多の試練をのりこえ、
世界第二位の
経済繁栄を成し遂げ、
世界に貢献する
日本をめざしております。
私は永年にわたる
地方行政の経験を生かし、きびしい
財政事情のもと
国土保全・
社会資本の充実と住宅の整備など、内需の拡大と
産業構造転換の推進に努力し、心豊かな
郷土と
国政の進展に全力を尽くして参りました。その間
議会人として
国政の場に参画し、本院においては建設・
懲罰常任委員長を、また内閣においては
建設大臣をはじめ幾多の要職をつとめさせていただき、誠意と情熱をもって
国政に悔いなき精進を尽くし得ましたことは、誠に感慨無量であります。
今や内外の諸情勢は歴史的なきびしさに直面し、最近の
貿易摩擦に見られるように、
わが国の
国際的責任遂行の要請は極めて強く、その責務を果たしていくと同時に、真に豊かな
国民生活の安定を実現し、当面、
税制改革の遂行、行財政・
教育改革、
高齢化社会の対応など多くの課題が山積しており、この
難局打開に全力を傾注せねばなりません。
今日の
栄誉をいただいた感激を銘記し、初心に帰り、二十一世紀に向け新しい視点からの
国づくりに、新たなる決意と覚悟をもって全身全霊を尽くすことをお誓いし、
皆様の一層のご
指導ご
鞭撻をお願い申し上げて、御礼の
言葉といたします。
…………………………………
村山喜一君の
あいさつ
ただいま、
院議をもって永年
在職議員として
表彰の御
決議をいただきました。誠に身に余る光栄であり、
感謝にたえません。
今日、この
栄誉に浴することができたのは、ひとえに
郷土鹿児島の
皆さんの永年にわたる御
支援と
先輩、
同僚議員各位の御
指導の賜物であり、ここに改めて厚く
お礼申し上げます。
私が初当選できましたのは、
昭和三十五年の秋、右翼の凶刃に倒れた
社会党委員長浅沼稲次郎氏の屍をのりこえての斗いでありました。「
議会制民主主義を守れ」「革新の灯を消すな」の声に支えられ、三十九歳の若さで当選できたのが、つい昨日のように思われます。
第二次大戦に参加し生き残った私
達戦中派の責任は、
戦争のない平和な
世界を築くことであり、そのためには
人類皆殺しの核を廃絶し、軍縮を達成することだと思います。
戦争を放棄した
日本国憲法のもとに、
わが国は不充分ではありますが、非核三原則を国是として持っています。
軍事大国への誘惑もありますが、
軍備増強反対は依然として
国民の多数を制しています。
日本人は教育、勤勉、創意によって
科学技術の力を駆使し、
経済力をつよめ豊かな国を創ってさました。GNPが
世界の一三%に達した
日本国の
国際的責任も大きくなってきました。外国から、水洗トイレのない国が失業を輸出し、年間三百時間も余分に働く
中毒蜂が我々を苦しめていると批判されています。私達の生活の質と
価値観が問われています。
いまや
時代は
高度情報化、
高学歴化、
高齢化社会を迎えています。顧みますと国内では情報、金融、知識、
技術、教育、文化、
政治の東京一極
集中化が進み、
国民の四分の一が
首都圏に住みついています。一方、地方では町が、
農村集落が消失しています。国土の均衡ある
発展が失われるなかで、一坪一億円の
狂乱地価が生まれ、億ションと称せられるマンションが現われています。
政治がいま
国民からその
存在価値を問われているのだと思います。国際的には米ソによる
INF全廃交渉が成立し、
核兵器廃止へのスタートが始まりました。イラン・イラクの十年
戦争も中止の方向に動いています。私
達人類の生存する共有の惑星=地球が未来に輝きを失わないようにしたいものです。
私は本日の
表彰を期して、今後も初心を忘れず頑張りたいと思います。変らざる御
指導、御
鞭撻をお願いして、御挨拶と致します。
…………………………………
大出 俊君の
あいさつ
このたび、永年
在職議員として、
院議をもって御鄭重なる
表彰の御
決議を賜り、誠に身に余る光栄であり、
感謝に堪えません。
二十五年の長きにわたり、引続き本院に
在職し、本日の
栄誉に浴することが出来ましたのは、ひとえに
郷土横浜の
皆さんの変わらぬ御
支援、御協力の
おかげであり、
先輩、
同僚議員各位の御
指導、御
鞭撻の賜物であり、ここにあらためて心から厚く御礼を申し上げます。そして又、
議員各位のお赦しをいただいて、七年前に先だたれた亡き妻に心から
感謝致したいと存じます。
私が初めて本院に
議席を得させていただきましたのは、
昭和三十八年の第三十回総
選挙でありました。
立候補に当たりまして三つの目標をもって居りましたが、其の一つは自らの「赤貧洗うが如き」幼い日の体験にてらして「真面目に働く者がむくわれない」のは
社会の仕組みがまちがっている。つまり
政治を変えたい。其の二つは全逓労働運動の長い経験から「スト権奪還」なくしては公務員の本当の生活改善は出来ない。又あわせて
日本の賃金が公務員主導型になっている以上、これなくして
日本の労働者の真の生活は守れない。其の三つは私が豊橋第一陸軍予備士官学校の出身であり、同期の見習士官の殆んどが少尉になる前に沖縄で戦死をしているという悲惨な体験から、何としても
日本の平和を守り抜きたい、ということでございました。
以来二十五年、内閣委員会、予算委員会に席を置いた私は、人事院勧告完全実施の為に、ILO条約批准と国内法の改正とスト権奪還の為に、更に抑止と均衡の名のもとにふくれ上がる軍拡と予算を抑える為に、又ロッキード以来
政治の悪を糾弾する為に懸命に努力を続けて参りました。
今日この
栄誉に浴するに当たり、更にこの道を根限り進みたいと申し上げて、御挨拶と致します。
…………………………………
渡辺美智雄君の
あいさつ
この度永年
在職議員として
院議をもって
表彰の
決議を賜り、誠に光栄の至りであります。
これひとえに
昭和三十八年十一月の初当選以来、今日まで終始一貫私を御
支援下さいました栃木県第一区の有権者及び全国の後援者の方々並びに
先輩友人のお蔭であり、心から厚く御礼申し上げます。
顧みれば、私は敗戦の焼土の中に復員して参りましたが、国敗れて山河あり、生れ故郷で行商から計理士に身をおこし、
郷土の開発と生活の向上のため、図って県議に出馬。当選二期を半ばにして、
国政参加の大望を抱き、衆議院に立候補いたしました。第一回目は見事に落選しましたが、二度目からは前述の如きお蔭により、今日に至りました。
一度は大臣として
国政の中枢に入り、自分の日頃の願望を政策に反映したいと念じましたが、幸いにして数度にわたって閣僚にも登用され、個人としては望外の
政治生活を与えられてまいりました。
わが国の
繁栄は私の予想も及ばないほどになりました。しかし、近年に至り、
わが国の
繁栄は一体いつまで続くものだろうかという不安にかられています。
繁栄は原因があってその結果ですが、その原因と経過を我々は忘れかけているのではないだろうか。先人の英知と苦労の上にあぐらをかいているのではないだろうか。深く反省するところであります。
栄枯盛衰はまさにこの世の摂理であります。
繁栄した国家民族は数々あれ
ども、
繁栄し続けた国家民族はありません。ローマは一朝にして成りませんが、一朝にして滅びました。国際競争に負けたものが衰えてゆきます。
私は二十一世紀に向けて、
わが国が老化しないように、永い間若さが保てるように、改良改革を積重ね、発明発見を促していかなければなりません。
当面する諸問題は、行政、財政税制、教育等の改革を推進し、国際協調と協力に努め、自分の国は自分で守り、国際平和と
繁栄に寄与してゆくことであると信じています。
繁栄が崩壊するほころびは、心のおごり、怠惰、堕落、腐敗に始まり、ものの原理、原則からはずれるからであります。二十五周年を契機に一層心を引きしめ、初心に戻ってあと十年間、国家
国民のために御奉公させていただきたく、誠心誠意努力する決意であります。
何卒、後援者を始め
先輩友人関係各位の一層の御
指導、御
鞭撻をお願い申し上げ、
感謝と御礼の
言葉といたします。
…………………………………
武藤山治君の
あいさつ
本日、
院議をもって永年勤続議員として、
表彰の御
決議を賜わりましたことは、政党
議会人としてこれに過ぐる名誉はなく、感激の極みで謹んで
感謝申し上げる次第でございます。
この間変らざる御
支援、御協力を頂戴いたしました栃木県の
皆様方及び
先輩同僚議員諸賢に心より御礼を申し上げます。
私は、少年
時代に立志し、代議士をめざして幾多の辛酸をなめ、十四歳で税務署の給仕となり、中学校に入学させていただけなかったため上京し、アルバイト、そして
昭和十八年警視庁少年消防官となり、夜間の上野中学に通い中学卒の資格を得ました。早稲田高等学院、早稲田大学政経学部へと進みましたが、戦中戦後の苦しいアルバイト学生としての生活を体験しました。そんな過去を振り返りますと、今回の
表彰が夢のようです。
昭和二十一年四月に故金子益太郎代議士の秘書に採用され、国会の様子を多感な二十歳の頃から見聞してきた私にとっては一層の感激であり、今この
表彰を受けるに当り金子先生に真先に報告いたしたいと思います。
昭和三十年四月、栃木県議会議員となり、三十五年に
衆議院議員に初当選したのですが、当時は日米安保条約の改定をめぐり国論を二分するような騒然たる
社会情勢であり、その年の十月に私が師とあおぐ故浅沼稲次郎先生が凶刃に倒れられたのです。浅沼先生は、死の二日前に足利市まで
支援においで下さいました。そうした思い出を脳裏に浮べながら二十五年
在職の重みをかみしめております。
この二十五年間に、歴代総理との論戦を通じ幾多の法律の制定や修正を実現させたこと、大臣や局長との質疑を通じて、国家
国民のためにと提案した事柄がいくつも実現したことを振り返り、
政治家になってよかったと思っております。私は、野党議員でしたから大臣にはなれませんでしたが、その時々に適切な発言、提言を行い政策に影響を与えることが多少でも出来たことで責任を果したと自負しております。
今や、
世界一のマネー国家にのし上がり、
世界のリーダー国家となりました。それだけに各国からの要請や仕打ちも厳しいものがあり、
国際化時代のむずかしさがあります。また、財政は国と地方を含めて約二五六兆円の借金をかかえており、この財政を再建することも子孫に責任をもつ
政治家として最重要課題だと考えます。
私は、今回の
栄誉と感激を深く肝に銘じ、今後更に一層の精進を重ねたいと決意しております。この上も御
指導、御
鞭撻を賜わりますようお願い申し上げ、御礼の御挨拶といたします。
…………………………………
竹内黎一君の
あいさつ
このたび、永年
在職議員として、
院議をもって御丁重な
表彰の御
決議を賜りました。まことに身に余る光栄であり、
感謝にたえません。
二十五年の永きにわたり本院に
在職し、本日この
栄誉に浴することができましたのも、ひとえに諸
先輩、
同僚議員各位の暖かい御
指導、御
鞭撻、そして郷里青森の
皆様方の変わらぬ御
支援、御協力の
おかげであり、ここに心から厚く御礼を申しあげます。また労苦を共にした妻にも、
感謝をささげるものであります。
ふりかえってみますと、私が本院にはじめて席を得たのは、
昭和三十八年十一月の第三十回総
選挙の時でした。初出馬で当選という幸運なスタートでした。しかしこの喜びも、直後に起ったあのケネディ米大統領暗殺のニュースに、たちまちかき失せ、『民主主義と暴力』を深く考えさせられる出発ともなりました。
さて、この二十五年間、私は微力ながら、我が国が直面した
国政上の諸問題に真剣に取り組んで参りました。「
郷土青森がよくなることが、
日本の
発展につながる」を
政治信条に、私なりの努力を続けた日々でした。しかし、その成果について考えますと、まことに忸怩たるものがあります。果して、青森県はよくなったのか、
日本の
発展に少しは役立ったのかと、改めて反省するものであります。
今日、我が国の内外情勢は極めて多事多難であり、二十一世紀に向けて果すべき
政治課題も山積しております。
世界的には、核軍縮の促進が、人類の生き残りを賭けた緊急の問題となっております。また自由化の波に洗われる中で、どうしたら
日本農業が生き延びてゆけるか、これは農業県にとっては死活の問題です。医療保障、年金の再構築も急がなくてはなりません。
私はいま、国会に籍を置くものの一人として、ある恐れを持っております。それは、私たちの子供や孫たちから、『出来なかったのではない、彼等はやろうとしなかったのだ』の非難を受けることです。この怠慢の罪だけは、絶対に犯すまいと、決意を新にする次第です。
どうぞ、これからも旧に倍しての御
指導、御
鞭撻のほどよろしく、伏して御願い申しあげます。どうもありがとうございます。
…………………………………
小宮山重四郎君の
あいさつ
この度、
院議をもって、永年
在職議員表彰の議決をいただき、誠にありがとうございます。
四半世紀の長きにわたりまして、有権者の
皆様の代表として微力ながら
国政に参画し得ましたことは、諸
先輩ならびに
同僚知友の
皆様、地元埼玉の後援会ならびに有権者の
皆様の温かいご理解とたゆみなきご
支援・ご
鞭撻の賜物と心から
感謝いたします。
さて、私が
衆議院議員に初当選いたしました
昭和三十八年は、アジアで初めての
東京オリンピックの開催に向けまして、
日本中が新たな
国づくりに燃えていた時でした。
高度経済成長政策は軌道に乗り、加速の度を速めつつありました。各地に進められたコンビナートの建設、各産業分野で積極的に展開された新
技術の導入と研究開発、そして槌音高い新幹線やハイウェイの建設等、総てが来るべき新近代国家の到来を予感せしめるものでした。
敗戦と廃墟の中で多感な青春
時代を過ごした私にとって、この新しい
国づくりの息吹はなんとも魅力的でありました。そして、当時ジョン・F・ケネディー
アメリカ大統領に「
日本の
国づくりは若い力が必要だ。勇気をもって行動してください」と激励をうけ、その感激をもってこの
国づくりに参画して、祖国を、
郷土をもっともっと素晴らしいものにしたい、いや必ずしてみせるぞ……若い血をたぎらせたその思いが、私をして
国政壇上へとますます駆り立てたのでした。
そして今顧みれば、アッというまに過ぎた二十五年間でした。初心忘れずただただ夢中でした。
思えばこの二十五年、
政治家としてただ一途、地元のため地味な仕事に励んでまいりましたことを自らの誇りとしております。また
政治家小宮山のライフワークとしてひたすら
科学技術の振興に努め、併せてその国際交流に微力を尽くし得ましたことを誇りとしております。
今、二十一世紀を展望して、物の豊かな
時代から心の豊かさを求める
時代が志向されております。
政治に豊かな感性と賢い洞察と、そしてなによりも明確な哲学がなくてはならないと固く信ずるものであります。これからも私の哲学と良心に照らして誠心誠意、全力投球してまいりたいと存じますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
本日は、どうもありがとうございました。
…………………………………
小渕恵三君の
あいさつ
本日、
院議をもって永年勤続議員として
表彰を賜りましたことは、
議会人としてこれに過ぐる名誉はなく、
感謝、感激にたえません。
二十五年間の永きにわたり本院に
在職し、この名誉に浴することができましたのも、弱冠二十六歳の無名の青年を
国政の場に送り込み、その後も心からの声援を送り続けてくださったわが
郷土群馬の
皆様の
おかげであります。そして、
先輩諸賢、
同僚議員各位の暖かいご
指導、ご協力があったればこそと肝に銘じております。ここに改めて厚く御礼を申し上げます。
私が、
国政に参画する決意を固め、本院に初めて
議席を得ましたのは、
昭和三十八年十一月二十一日の総
選挙であります。私が初陣を飾り、その喜びにひたっている時、遠く
アメリカから日米間初のテレビ宇宙中継の映像が送られてきました。しかし、その映像は米国の若き
指導者ケネディ大統領の暗殺事件を伝えるものでありました。
私は、初当選の喜びとともに、
政治家としての責任、とりわけ青年議員として何を為すべきか、若き
指導者の訃報に接しながら深く思いをいたしたことを今もはっきりと覚えております。
翻って国内的には、
池田内閣時代で、
東京オリンピックを翌年に控え、
所得倍増計画が大きな成果をあげようとしていました。あれから四半世紀、
ドルショック、オイル
ショックなど幾多の危機を乗り越え我が国は
世界一の債権国の地位を築くに至りました。
しかし、その一方で日米
貿易摩擦、産業空洞化に代表される新たな問題も生じております。また、高度成長のハイスピードが
国民の間に肌をすりあわせて暮らす感覚を失わせ、孤独な人々を大都市に集中させる現象を生んでおり、「心の豊かさ」を求める
政治が強く求められる
時代を迎えております。
私は初当選以来、政策面では地元群馬の代表的産業である蚕糸産業の保護、育成、そして未来産業である情報産業の
発展等に心血を注いで参りました。それは我が国が固有にもつ古き素晴らしきものと、新しいものとの調和ある
発展を求めるという私の考えに根差すものであります。
私は若き頃、ある友人から「誠実であれ、謙虚であれ、勇敢であれ」という
言葉を贈られました。これは今も変わらぬおのが信条であります。この
言葉を忘れず、今回の
表彰をひと区切りとして自らを厳しく陶冶し国家
国民の為、
議会人としてさらに研鑚を重ねたいと存じております。本日の
表彰決議に対し、謹んで厚く御礼申し上げます。
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橋本龍太郎君の
あいさつ
ただ今永年
在職議員として、
院議をもって
表彰の御
決議を賜りました。誠に身に余る光栄であり、感激の極みであります。
憲政史上最年少の二十六歳で初めて当選させていただいた私が、二十五年の長きにわたり、本院に引続き
在職し、
昭和二桁世代初めての
栄誉に浴する事が出来ましたのは、
先輩、
同僚議員の御
指導と御
鞭撻、
郷土岡山の
皆様の深い御理解と御
支援、かげで常に私を支え続けてくれた家族とスタッフの献身の
おかげであり、ここに改めて心より御礼申し上げる次第であります。
本来
政治家を夢見た事のなかった私が、この道をえらぶ事となりましたのは、本
院議員でありました父龍伍急逝の後、佐藤栄作先生をはじめ多くの
先輩議員、
郷土で亡父の後援を続けて下さっていた多くの方々、わけても母の強いすすめによってでありました。
昭和三十八年暮の第三十回総
選挙で初当選、本院に
議席を得ました投票日が、亡父の一周忌の当日であり、直後、ケネディ大統領暗殺の報道に驚愕した事が忘れられません。
当時の我国は
高度経済成長時代の真只中でした。二回のオイル
ショックを体験し、安定成長の中で
世界経済の重要な役割を各国から期待される今日の
日本の姿を、当時の私は想像すらいたしておりませんでした。
同時に、この頃既に、やがて到来するであろう
高齢化社会の姿を想定し、その
時代に向けての政策立案に黙々と取り組んでおられた数少ない
先輩議員の
指導を受ける事が出来ました事は、
政治家のスタートにおいて本当に幸せでありました。
環境庁創設、スモン患者との和解交渉、臨時行政調査会の答申を受けての行政改革など、大きなテーマに取り組む機会にめぐり逢えた事も幸せでありました。殊に国鉄百十五年の歴史をとじ、民営分割によるJR各社の誕生を自らの手で発足させ得た事は望外の幸せであります。
私達は今指呼の間に二十一世紀を望む時に位しております。この道は私達にとり、いわば手本の存在しない、自らが定め、切り開いて行かねばならぬ道であります。
亡父龍伍より只一つ、「
政治は弱い者の為にある」と私は教えられました。初心を忘れず、本日の感激を胸に、今後とも努力研鑚を続ける事を誓い、
感謝の御挨拶といたします。
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国務大臣の演説に対する質疑