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加藤参考人 慶応義塾大学の
加藤久雄でございます。お配りしましたレジュメに従いまして、私の
意見を述べさせていただきたいと思います。
最初に、まだ研究者としてひとり立ちしてわずか十五年にしかなっていない私に、こういうところで発言をする機会を与えていただいたことを心から感謝しております。
ちょうど四年前になりますけれ
ども、当時西ドイツに滞在していたときに、やはり西ドイツの刑法
改正の
審議の際に、西ドイツの連邦議会の
法務委員会で
外国人の参考人として
意見を述べよということで、きょうと同じように二十分間にわたって
意見を述べたことがございますが、日本ではこのような高い席から話をさせていただくのは初めてですので、十分まとまったお話ができるかどうか心配しておりますけれ
ども、精いっぱい
意見を述べさせていただきたいと思います。
まず「問題の提起」ですけれ
ども、私の刑事政策に対する基本的な立場というのはこの「問題の提起」に書いてあるとおりですが、御
案内のように、刑事政策というのはある面では時代の子であって、その国の鏡であると言うこともできます。
一般の人々が繁栄を享受しているとき、繁栄の落とし子である
犯罪者たちが、社会から隔絶された刑事施設の中で必要以上の苦痛を味わわされているとしたら、刑事政策は何をなすべきであろうかという課題が我々に与えられているわけであります。‐
現代の刑事政策は、
犯罪者の社会復帰と社会の防衛の目的を二律背反の原理としてとらえるのではなくて、
犯罪者の社会復帰と社会の防衛、この二つの原理を調和の原理として発展させることをその課題としているわけであります。
罪を犯した者が
犯罪者、受刑者という名のもとに、その人格をも否定され、同じ人間に生まれながら時代と国が違うことで余りにも不合理な差別的取り扱いを受けているとしたら、また、それが我々の無知に起因しているとしたら、我々は新しい情報を得ることにより直ちにそういった状態を改善していかなければならないわけであります。
ここ数年来、一口に欧米の行刑事情によればという漠然とした理解のもとに、
犯罪者に対する処遇思想や社会復帰思想を断念し、行刑における無干渉主義、これはもう何もやらないという主義を貫徹することが、あたかも進歩的で人道的な刑事政策であるかのように喧伝されてきております。
犯罪者に対する処遇思想の放棄、克服という命題は、スローガンとしてはスマートで進歩的に響くかもしれませんけれ
ども、その
実態は、
犯罪者の人権への
配慮か無策の突き放しか紙一重のところにあると言うことができます。刑事施設へ送られてくるような
犯罪者たちの多くが、もともと社会では偏見や差別の境遇のもとに置かれ、社会から落ちこぼれ、見捨てられ、突き放されてきた人たちであります。こうした彼らをその自主性の尊重という名目で、刑事司法の領域で援助の手も差し伸べず、ただ突き放すことが、果たして本当の意味での彼らに対する人権の保護と言えるのであろうかというのが私の疑問であります。
人間が人間を扱う
犯罪者処遇の成果というものは、論理や概念の整理あるいは簡単な比較法による制度の手直しなどで容易に得られるものではありません。その成果は、刑事司法における長い貴重な経験を生かしつつ、
努力に
努力を積み重ねて対象者一人一人の個性に適応する社会復帰への最良の道を探求する、いわば手づくりの血の通った処遇プロセスから生まれてくるものであることを忘れてはならないわけであります。
私は、このような立場から、今申し述べましたような明確な根拠に基づかない反処遇思想に対して、果たしてそうであろうかという疑問を抱き続けてまいりました。いつかこの疑問を確実な情報を根拠にして解消してみたいと
考えておりました。そこで、機会があるごとに、我が国はもとより欧米諸国の刑事施設を時間をかけて見学し、情報を収集し、行刑実務家や刑事政策専門家などと
意見を交換してまいりました。主に西ドイツ、デンマーク、オランダ、スイス、オーストリア、アメリカ合衆国における刑事施設約二百カ所の参観などを通して
犯罪者処遇に関する情報を中心に研究をしてまいりました。
犯罪者に対する処遇思想や社会復帰思想が断念されたなどと結論することがいかに現代の刑事政策の潮流を見誤ったものであるかという点を私の海外での比較研究を通して立証することを心がけてきたわけであります。
そこで、本日は、こうした私の経験を踏まえた上で受刑者処遇に関する私の存じ寄りを述べてみたいと思います。若干チャレンジャブルになるかもしれませんけれ
ども、御宥恕願いたいと思います。
また、我が国の社会
状況全般を見ましても、諸
外国と比較いたしまして人種問題、政治的混乱、社会的不公正といった点が顕著でないことを挙げることができるわけであります。したがって、刑事司法の領域においても、法のもとの平等もある程度実現しており、
検察官の求刑、
裁判官の量刑、更生保護
委員会の仮釈放の決定などに関してもドラスチックなトラブルは生じていないと私は
評価しております。制約された条件のもとで細々と実施されてまいりました行刑領域における処遇行刑もその限りで問題もなく、それほど大きな非難の対象にはなっていないと思われます。
しかし、その
努力も根拠となる
法律を持たないためにもう限界に来ていると言わなければなりません。こうした行刑現場の
職員の不断の
努力を
法律でもって認知していく時期に来ていると思っております。
したがって、我が国では、改善、社会復帰モデルはまだ本当の意味で刑事政策の嫡出子にはなっていないと言うことができます。
犯罪者処遇が比較的安定した状態にあるときだからこそ、我々は刑法
改正、監獄法
改正の両作業を通して、我が国の刑事司法の実情に適した我が国独自の改善、社会復帰行刑モデルを確立、定着化させていかなければならないというふうに
考えております。
監獄法の全面
改正の必要性は、現行監獄法は、明治四十一年に制定されて以来一度も実質的な
改正がなされておりません。内容的にも制定当時の刑事政策思想に立脚し、監獄内の規律の確保に
重点が置かれているため、受刑者に対する矯正処遇による改善更生及び社会復帰の促進と被収容者の
権利義務
関係の明確化という現代行刑の理念にそぐわなくなっております。そして、今回の法案の主な
改正点は、受刑者の改善更生及び社会復帰の促進と被収容者の
権利義務の確立という二つの理念に置かれているというふうに私は
考えております。
まず、きょうのテーマでありますけれ
ども、受刑者の処遇は個々の受刑者の資質及び環境に応じて最も適切な方法で行うという処遇の個別化の原理を明らかにし、特に矯正処遇としての作業あるいは教科指導、治療的処遇及び生活指導については、個々の受刑者の特性に応じて作成される処遇要領に基づいて計画的に行うことを定めているほか、外部通勤作業、外出、外泊等の効果的な処遇方策を導入しているというふうに
評価することができるのではないか。
しかしながら、もう少し
一般論からこの
改正問題を眺めてまいりますと、
犯罪の原因は何も
犯罪者個人のみに帰せられるわけではなくて、
犯罪者を取り巻いているさまざまな社会的な環境要因も大きく作用しているという見方が承認され始めたり、また、
犯罪者を科学的に分類したり、それに基づいて適切に処遇したりする技術がどんどん開発されることにより
犯罪者処遇を科学化、
多様化、社会化し、それぞれの
犯罪者のニーズに応じた処遇が要請されるようになってきております。そういった時代の流れを酌んで、今次の
刑事施設法案でも「受刑者の処遇」という条文を設けているわけであります。
ここで私は、
犯罪者あるいは受刑者の処遇、もう一度その意味を振り返ってみたいと思います。
処遇という言葉は、語源的には扱いであるとかあるいは
待遇の仕方、処遇に該当する英語のトリートメントも、取り扱いであるとか
待遇、処置、処分、治療の意味を持ち、ドイツ語のべハンドルングという言葉がありますけれ
ども、それも、取り扱いであるとか操縦であるとか手当てなどを意味しております。このことから受刑者処遇という言葉は、ある人の立場、状態、人格などを考慮した扱いというニュアンスを持つことができるわけで、受刑者の立場、状態、人格などを考慮した扱いをしていくというのが受刑者処遇の意味であります。
刑事法の領域で
犯罪者の処遇という用語が使われたのは比較的最近のことであります。これは、国際連合の
犯罪対策に関する仕事に結びついて生まれたものであると言われております。例えば、国連は一九五五年に第一回の
犯罪防止及び
犯罪者の処遇に関する
会議を開いて、そして、処遇は、主に受刑者その他の被収容者を取り扱うという意味で、矯正領域で、矯正処遇、施設内処遇という専門用語として慣用されてきております。
その場合に、処遇の方法としては、精神医学や心理学などの行動諸科学における治療方法に学び、
犯罪者を一種の病者とみなし、これに医学的治療を施すといういわゆるメディカルモデルの
考え方に基づいて従来は行われてきたわけであります。しかし、この点については、最近では批判があるのは御
案内のとおりであります。そのために、処遇の内容も治療を意味する響きを持っていたわけですけれ
ども、現在ではこういりた
考え方は克服されようとしているわけであります。
ここで、レジュメの三のところにもう既に入っているわけですけれ
ども、社会復帰、つまり受刑者処遇のポイントは、ここにも掲げておりますように、収容の確保ということと、収容者の自主性を尊重して、そして社会に復帰させなければいけないということに尽きるわけであります。したがって、ここで十分確認しておかなければならないことは、
犯罪者処遇あるいは受刑者処遇における社会復帰という意味であります。
社会復帰という用語は、アメリカ合衆国などにおきまして、
犯罪者処遇の医学モデルにおいて、
犯罪者イコール患者が治るということ、あるいは、受刑生活イコール入院生活からスムーズに社会生活に戻るという場合に用いられてきたわけであります。しかし、こういったアナロジーを現在の
犯罪者処遇の中でどのように合理的に用いていくかということが我々に課せられている課題でもあるわけです。
この社会復帰の行刑の目的というのは、処遇を通して対象者が主体的に刑法と葛藤を生じないようなライフスタイルを身につけるように指導援助することであります。このように、社会復帰の目的が刑法と衝突しない生活態度の確保にあるという点は
一般に承認されているところであります。しかし、その目的の内容は、調教による単なる適応なのか、あるいは、成人としての自己及び社会的な答責性を持った人格の形成までを目指しているのかという点になると必ずしも
意見が一致していないわけであります。
社会復帰行刑の目的は、対象者を既存の社会に無理やり適応させたり、国家に忠実な下僕をつくるための教育、あるいは、あつれきもなく社会に組み込まれる有用な構成員の育成でもなく、対象者が内的、外的自立性、主体的人格や社会的責任を持って生活できる能力などを獲得できるように援助することにあるというのが今のところ我々の領域で
考えられている一番妥当な
考えであるように思うわけであります。
ところで、具体的に今次の
刑事施設法案を見てまいりますと、大きくこのレジュメの四のところに書いておきましたように、分類制度に関するガイドラインというものに関して今次の法案については余り明示されていない。これは
法務省令等にゆだねるという形になっておりますけれ
ども、これはやはりもう少し
法律化した方がいいのじゃないかというのが私の基本的な
考え方であります。
そして、現行監獄法は、御承知のように
法務省令である行刑累進処遇令、これは
昭和八年に制定されたものでありますけれ
ども、それによって実質的な受刑者処遇を実施してきたわけであります。この処遇令は、もう一つの受刑者処遇の柱であります累進制度とともに、二本柱として監獄法を実質的に修正するものとして、受刑者の処遇という
観点において用いられてきたわけであります。
しかし、その運用の
実態は、かつて分類あって処遇なしと批判されましたように、処遇の側面よりも、どちらかといえば収容の確保、受刑者の管理の側面に
重点が置かれていたわけであります。それは、行刑の基本法たる現行監獄法が明治四十一年に制定、施行され、当時の富国強兵政策から後の軍国主義社会への変遷の中で、
犯罪者個人が重んじられるよりも社会全体の秩序が優先される時代であったということにもよるし、また、当時の刑事政策を支えるべき隣接の諸科学も未発達の状態であったため、およそ現在のような
犯罪者を処遇し、改善教育し、円滑な社会復帰を促進するというような
犯罪者処遇思想の萌芽さえ見ることができなかったからであります。したがって、第二次世界大戦前の受刑者処遇は、威嚇的な刑の執行、施設内秩序維持の最優先、隔離による社会防衛といった行刑目的のもとに管理法的側面を持って運用されてきたと言うことができるわけです。
しかし、終戦とともに諸
外国との学問的交流も再び活発になり、新しい刑事政策思潮やそれを支える隣接諸科学、とりわけ精神医学や臨床心理学などの新しい知見が次々に紹介され、我が国の矯正領域にも強力なインパクトを与えてきたわけであります。そして、
昭和二十二年に、医学、精神医学、心理学、教育学、社会学、統計学等の専門
委員から成る矯正科学
審議会が設置され、二十三年には新しい分類制度の樹立を目指した受刑者分類調査要綱というものが示されて、それが後の、現在の分類制度に結びつくということになるわけであります。
こういった
状況の中で、今次の
改正は受刑者処遇という点にポイントを置いて提案をしているわけですけれ
ども、それが必ずしも問題がないわけじゃないわけであります。
例えば、受刑者処遇の原則に関して、社会との連携に関する条文につきましては問題があると言わなければならないわけであります。法案の五十条では「刑事施設の長は、受刑者の処遇を行うに当たつては、できる限り、罪を犯した者の改善更生に
関係のある公私の
団体及び
民間の篤志家その他の個人の
協力と援助を得ることに努めるものとする。」と規定しておりますが、受刑者に対するいわゆる社会的援助に関する規定はこの条文のみで、五十三条によってもその具体的実施内容が
法務省令にゆだねられているわけでもない。これでは受刑者処遇の原則として社会との連携も考慮しなさいよという程度の意味しか持たないまさにプログラム的規定と言わざるを得ないわけであります。刑事政策や受刑者処遇への公衆の参加、社会資源の開発の重要性、受刑者の円滑な社会復帰と再就職への社会の理解の獲得などといった点からも、また、諸
外国の立法例にも見られるように、この社会的援助が国際的に見ても受刑者処遇の重要な課題になっているという点からいっても、具体的な
法律化が望ましい。それが不可能であれば、少なくとも五十三条に五十条を含めて具体的運用方法について
法務省令で明確にする必要があるように思われます。
それとともに、幾ら刑務所の中で受刑者にいい処遇をし、そして社会復帰への準備をさせても、その受け皿である地域社会、あるいは社会でのその受け皿が不十分であるということになりますと、それは決して
犯罪者処遇、受刑者処遇というのは成功しないわけであります。施設内処遇と社会内処遇の連係プレーという点についても十分に考慮していかなければいけないわけであります。そういう意味で受刑者に対する、あるいは仮釈放の対象者に対する保護観察の充実であるとか
更生保護会の充実であるとか、あるいはそういう施設を受け入れるような地域社会への啓蒙といったような点についても
配慮がなされていかなければならないわけであります。
もう時間も参りましたので細かい点につきまして
意見を述べる機会がなくなりましたけれ
ども、後の
質疑応答のところで詳しく述べさせていただきたいと思うわけであります。
最後に、まとめに若干時間をいただぎたいわけですけれ
ども、現代の刑事政策は、何度も申しますように
犯罪者の適切な社会復帰を促進し、もって
犯罪の防止を果たすことを目的としております。こうした刑事政策の思潮の背景には、人権思想の高揚により、応報的な刑罰よりも人道的な刑罰という
要求が高まったこと、
犯罪の原因を単に個人の問題に限定して理解するのでなく、
犯罪行為者を取り巻く社会環境とのかかわりにおいて把握すべきだという
考え方が定着してきたこと、刑事法領域の隣接諸科学の目覚ましい発展によって、行刑領域に導入可能な科学的処遇技術が開発され、ある程度まで
犯罪行為者の行動を科学的に予測し理解することが可能になったことという事情があるからであります。
しかし、刑事政策への過度な期待は、しばしば対象者の人権を侵害することにもなります。
犯罪の防止と対象者の人権の確保、この両者の調和こそが現代の刑事政策の課題であり、こうした刑事政策を実現させるために、今述べましたような隣接諸科学の知見の総動員はもとよりのこと、マスメディアや
コンピューターを利用した国際的規模での正確な情報が必要になってまいります。
また、
犯罪者の社会復帰が彼らを再び地域社会の構成員として承認することであるとすれば、地域社会の人々の理解と援助なくしてはこの社会復帰は成功しないわけであります。このためにも日ごろから地域の非行防止活動やBBS運動など市民レベルでのボランティア活動が継続的に維持発展するための環境づくりが必要であるというふうにも
考えております。
また、ボランティアの組織による社会資源開発バンクなどを設けて、できるだけ多くの社会資源の開発に努め、公衆の刑事政策への参加を促すべきではないか。それにはマスコミ
関係者も社会に与える影響と社会的責任を考慮して、こうした市民レベルでの刑事政策的運動の発展に寄与すべきであると
考えております。
長くなりましたけれ
ども、私の
意見はこの程度にさせていただきます。