○高桑栄松君 そこがまたちょっと私と違うんですけれどもね。
私は、大学紛争を今思い出したんです。大学紛争というのは若い学生たちが新しい時代、要するに日本の古来の伝統というようなもの、しきたりというようなものすべてを否定するような
立場で反乱をしてきたわけですね。大学側は、今まであった規則が一番いいものだとその規則を守り続けるわけだ。それでこれに反するものは罰するというわけだ。学生たちは、その規則はあなた方及びもっと古い人が決めたのではないか、だからそんなものは今の時代には合わないんだから新しく規則をつくろうではないか、それから出発しようではないか、これの争いですね。非常に簡単明瞭にいえばそれです。
私は医学部長を六年勤めた
理由は、私は学生の言い分はもっともだと思ったからです。決して僕は迎合はしません。迎合はしませんが、なるほどそうだ、今までの規則が悪いかもしらない、それなら直そうではないか。学生たちと同じスタートに立ったんですね。その論理を展開して、我が日本をどうしたらいいか、我が大学をどうしたらいいか相談しようではないか。これが私の
考え方です。そして論争の結果、常に私が学生を納得させたということです。
もう
一つあるんです。学生が年寄りは死ぬんだからと言っているのは、本当に嫌らしいことですね。本当に嫌らしい話だけれども、今
自分たちは二十歳だ、あと二十年たてば四十になる、おまえたちは七十ではないか、死んでいるんじゃないか、日本はおれたちがしょっていくんだぞ、こう言われて、このやろうとは言えないんです。そのとおりなんだ。生物学的なこれは事実なんですよね。そのときに、我々は我々の固定的な経験則で彼らを本当に圧倒していいのだろうか、規則で切っていいのだろうか、そうではない、納得させなければこの若者たちは大きくなってどうするだろう、我が日本をどうするだろう。おれは死んでいるかもしらぬが、日本をどうするんだ、これがあったわけです。
ですから私は、根底にはいつもやっぱり学生が日本をしょっていくんだ、だからこの人たちの
考えにおれたちの
考えを少しでも取り入れさせよう、いいところはとってもらいたい、悪いところは捨ててもらおう、この
考えですね。ですから、そういう
考えでやってきたので、指導する側が常に正しいという
考えは、その人がそれまで持ってきた日本古来の
考えなんでないのかなと今思ったわけです。それではやっぱり将来を若い
教員に預けていけないんではないか。だから、
先ほど相談をしたかとか、どのグループに言われたか忘れましたけれども、やっぱり納得をさせていくということが、我が国の将来を預かってもらう若者に必要なんじゃないか。だから、そういう思いでいますと、相互の
個性尊重というのは、どっちに軍配を上げるかというのであれば、やっぱり若い人に何とかしてもらいたい、こう私は思いますね。
そういう
意味で、
個性尊重という、僕は
個性というのは嫌いだと申し上げましたが、
個性むき出しではだめなんですよ。やっぱり
個性というものは、いい点を伸ばし悪い点を抑えていく。どうして抑えられるか。周りから言ったってだめなんですね、それは。
自分でそれをちゃんと会得して、そうして
自分の悪い点をよくわかって、そいつを抑えていくという、これが
教育環境ですよ。その
教育環境の中の要素の一人が教師でありまして、教師がその子供たちの人格形成に決定的な存在ではありません。そんな神様なんていないんだから、決定的ではありませんね。期待される教師像というのはありますよ、それは。あるけれども、神様のように思って
考える必要はない。つまり、そんなに厳しければいいというものじゃないです。厳しければ黙ってしまうだけではないのかな。
あの大学紛争は黙っていなかったです。だからよかった。そのときに大学臨時措置法ができたおかげで学生は言わなくなったんです。何だか少し脱線して済みませんが、私は大学紛争のときに国がもてあまして
法律でこれを罰しようとしたところに大学の活性化が失われる非常に大きな原因があった。私は、さっき申し上げましたが、学生とは団交を喜んでやりました。論理は展開しよう。暴力団じゃないんだから、お互いに。論理でやりましょう。大学の存在
理由は論理だ。私は若者だって同じだと思いますよ。やっぱり論理こそ一番大事な武器なわけですよね。腕力じゃない。暴力ではない。論理ですよ。
何だか少し話が飛んでしまいましたけれども、私は
研修のあり方ということはそういうことで
考え直す必要があるんじゃないか。
教育のテクニックは一年やればいいんじゃない。臨床の医者のことをさっき申し上げました。十年やる。たった一年でだめ。それでなくしたかどうかわかりませんが、医者はインターンがなくなっちゃった。アドバイスしているんです。リコメンドしているんです。しかし、やらないから罰するということはない。資格試験は通っているんです。臨床は知らなくても、大して知っていません、だけれども、医師免許状を持っていますから。インターン要らないんですよね。しかも、
教員と医者の違いは、医者というのはまかり間違えばその人の命にかかわる診断と治療をしているわけです。決定的要因なんですね。
教員は決定的じゃないんだ。大したことないんですね、子供たちは。だから、その社会、
教育環境と私申し上げたのは、教師は
学校における数時間の教師であって、家へ帰ればお父さん、お母さん、兄さん、その周りが
教育環境にある。そして、町へ出れば社会環境がやっぱり
教育ですよ。
新聞にいろんなことが出るんだから、やっぱりそれをみんな見て子供たちは成長していくんです。幾ら
学校で
先生が倫理を説き、うまいことを言っても、社会がだめならだめなわけだ。
ですから、少し
教育の非常に広い環境に触れましたけれども、私が言おうとしたのは、
教員だけにそんなに大きな責任をしょわせるような
考え方は私はやっぱり間違いではないかということです。何を言おうとしたかわからなくなっちゃったけれども、まあ大体言っていることはおわかりになったと思うんです、言っていることはですね。
そこで、今度、私はこれから指導教官の選び方とか、そんなことを少し聞いてみたいんですけれどね。
研修にかかわる人的及びその他の経費とか財源とかということがいろいろと聞かされておりますけれども、それは
義務教育の小中においては二分の一を自治体が持つんでしたっけ、非常勤講師は全額自治体でしたか、私は二、三年前に
教育国庫補助が削られたと思っていたら、聞いてみると、これは自治省の交付税の中に入って、
一般財源に入っているから、そこからかすめ取るといっておられるようであります。それは力
関係があって取れるかどうかわかりませんが、貧乏県と豊かな県がありますね。ですから、あのときにも私質問しましたが、貧乏な県は
教育費は減るのではないか。そうすると
教育格差ができてくる。それこそ、国としてはむしろ問題ではないのか。今度、再び市町村に割ったらどれくらいになるのかわかりませんが、かなりな額がまた持ち出しになるんだろうと思うんです。
私は
精神論だけで
教育ができるとは思っておりませんので、
教育にはやっぱり
施設も要るし人手も要ります。それだけのやっぱりサポートをしてやらないとできないと思うんですよね。だから、
研修を進めていくための私は経費が自治体負担の分が少し多いのではないのか。これは私、結果としては減らされていかないか、つまり交付税の方がですね。減らすという
意味は、自治体が使う分ですよ。だから、そういうことが非常に気になるんですね。そして、例えば旅費なんかも外されておったわけですよね。旅費は外されているんです。旅費はたしか
研修なんかにも使っていたと思うんですよね。
自分の
研修に使われたと思うんですが、その旅費もひょっとしたら満額取れればいい方で、取れないかもしらないということじゃないのかな。そうすると、この
研修が、旅費等については
初任者については支給されても、中にいる
先生方が
自主研修ということでどうなっているのかな、こんなふうな気がするんです。これについて
大臣、大分熱心に聞いてくださったから、
大臣、コメントを。