○
松尾参考人 松尾でございます。
刑事補償法の一部を
改正する
法律案関係資料を御送付いただきまして、一両日前に拝見した次第でございますが、
我が国が
未決拘禁及び
再審、あるいは
誤判と言った方がよろしいかもしれませんが、これに対する
賠償の
制度を持っておりますことは、大変すぐれた
制度であり、そういう
制度を十分に持っていない国あるいはまたそういう時代との対比におきまして、私は非常に結構なことと存ずるのであります。そして、今回の
改正法律案はその額を変更し、
引き上げを行うという
趣旨でございまして、私はその点を含めてこの案は適切なものであるというふうに存じつつ拝見したわけでございます。
ただ、
金額の
改定ということになりますと、上げ幅が大き過ぎるという御
意見もあるかもしれませんし、逆にもっと積極的な
引き上げが望ましいという御
意見も非常に有力なのではなかろうかと考えます。そこで、私自身どう考えるかということについて
意見を申し上げなければならないわけですが、直接その
金額の点に入ります前に、
刑事補償制度について私のふだん考えておりますことを若干申し述べて御
参考に供したいと思います。
第一に、
刑事補償制度は、
公務員ないし
国家の側における
国民に対する、ある
意味で不法な
行為に対する
損害の
賠償あるいは
損失の
補償という
制度の
一環でございます。直接に対比されるべきは無論
国家賠償法でございまして、
国家賠償法と
刑事補償法とはそれぞれ
役割を少しずつ異にしながら
損害賠償、
損失補償の問題を分担しているわけでございます。その際、
意見が一致しておりますのは、
国家賠償法の方は
関係した
公務員の
故意過失という主観的な要件を必要とするのに対して、
刑事補償法はこれを必要としないという点であります。無論そこには
故意過失の立証の問題という
手続的な側面もございますけれ
ども、しばらくこれを捨象いたしますと、
国家賠償法と
刑事補償法とはその分担する
領域をはっきりと異にしているということになろうかと思います。
これに対しまして、
行為の
適法性あるいは
違法性という観点から見ますと、学説も必ずしも一致しておりません。
刑事補償の対象になるような
公務員の
行為が無論違法な場合も含まれてくることは確かでありますが、常にそれが違法と評価されるべきかという点については、これを肯定的にとらえて、客観的な違法あるいは実体としての不法というふうな
表現で、ともかく
裁判が誤ったあるいは
無罪の
判決が出たということは、そういう
意味での違法を含むというお考えの方もおられます。これに対して、
再審による
補償の方はともかくといたしまして、
無罪判決の際の
未決拘禁の
補償につきましては、これは
行為自体としては必ずしも違法なものではない、しかし適法な
行為からもそういう
損失補償の問題は生ずるのであるという
考え方をとっている学者もございます。この点については説が分かれているということになろうかと思います。しかし、この種の問題は本質的には
行政法学あるいはまた
民事法学の方の
専門領域の事柄でございまして、私は
刑事法の専攻でございますので、これ以上立ち入ることはできませんけれ
ども、一応
前提として以上のようなことを
一つ申し上げておきたいのでございます。
刑事法固有の
領域から考えてみますと、
刑事補償の
制度は、
被告人であった人あるいは
受刑者であった人の
救済のために非常に有益な
制度であることは言をまたないところでございます。ただ、
救済の局面だけでなく、
刑事司法の全体を観察してその中に位置づけるとどうなるかということを申し上げたいのでございますが、
刑事訴訟法その他の
制度が戦後面目を一新しましてから既に四十年以上の月日がたっております。そのために最近は、
刑事司法の全体を生態学的にと申しましょうか、いわばエコロジカルに見てみようという傾向が強まってきておりますが、その
一環として考えたいわけでございます。
戦後間もないころに
憲法の全面的な
改正が行われ、それときびすを接して
刑事司法制度も
改正されたわけでございますが、その際、
日本の
刑事手続は
一つの
岐路に立たされた、こう考えられます。その
岐路の一方は英米法的な
当事者訴訟をモデルとしてそちらの方に歩み寄ろうとする道であり、もう
一つは、むしろ旧刑訴以来蓄積されていた
日本の伝統的な
手法をより洗練された形で発展させようというものであったと存じます。
私は、ここにおいでの
横山参考人もそうでありますが、
昭和二十年代から三十年代にかけて
刑事訴訟法学界に身を投じたものでございまして、
留学先がアメリカであったこともございまして、先ほど申し上げました二つの道のうちの前者を進むのが
日本の
刑事司法にとってとるべき道ではなかろうかという気がいたしまして、その
方向の努力を及ばずながら重ねてきたつもりでございます。しかし、戦後四十年の
経過はそういう私
どものいささか楽観的であった予想を裏切りまして、反対の
方向に進んでおります。
日本の伝統的な
手法と申しましょうか、それがますます磨き上げられた形で貫徹していると思われるのでございます。
近年、
日本の
刑事裁判の
有罪率が非常に高いということが時々引き合いに出されるようになっております。九九・八六%というような数字が持ち出されるのでございますが、それはまさに
日本の
刑事司法がいわば特殊
日本的な形で完成に近づいているということを物語っているものでございます。そのこと
自体の分析はまたさらに詳細な研究を必要といたしますけれ
ども、当面の問題とつなげて考えますと、
刑事補償制度の基礎にある
憲法四十条というものがそこで微妙な
役割を果たしていることを認めざるを得ないと思うのでございます。
憲法四十条は、
再審補償に限らず、通常の
手続において
無罪の
判決がなされた場合をも含めまして、
未決拘禁の
補償を
国民の基本的な権利として規定しております。繰り返し申しますように、そのこと
自体は
人権感覚に富んだ、すぐれた規定でありますけれ
ども、しかし反面において、
無罪判決というものが
一種の病理的な現象である、あるいは
刑事裁判は実体的な真実を突き詰めて最後までそれを発見すべきものである、ぎりぎりにおいて
無罪が言い渡されたときには、それは本来あるべからざることであるから
補償を与えるべきであるという
考え方が
憲法四十条の背後にございます。
憲法三十一条から三十九条までの抱懐している思想と
憲法四十条のよって立つ
考え方とは、
言葉を強めて申しますと矛盾しております。その
意味において四十条は、
刑事司法の発展にとって、
人権擁護の貴重な
役割を果たしつつも、同時にまた
一つのつまずきの石となったというふうに考えられるわけでございます。
そういう全体的な評価を
前提といたしまして今回の
改正案を拝見したわけでございますが、
改正の
理由については「
経済事情にかんがみ、」ということだけでございますので、具体的にどうして七千二百円が九千四百円になるのかという、その具体的な
経過は必ずしも承知しないのでございますが、
資料としておつけいただいております「
賃金・
物価指数調」というのを拝見いたしますと、
昭和二十五年という
刑事補償法制定の年を
基準として、その後の
賃金と
物価の
変動を考慮に入れ、
一種の
算術平均を行って算出されたものであると考えられます。これが適切であるかどうかという点はなかなか難しい問題だと思いますが、
一つの
考え方といたしまして、
物価の
変動というのは
一種の
国民の
生活を支える物資の
購買力を示しているものでありますから、
物価に対応させるということは
昭和二十五年、
基準年と同じような
生活を保障するということになろうかと思います。これに対して、
賃金にスライドさせるということは、その後の三十数年にわたる
生活水準の
向上というものを取り入れようということになると思います。したがって、後者をとりました方が、最近の
我が国の
生活水準の
向上は目覚ましいものがございますから、これを一〇〇%反映させるということになるわけでございますし、
物価の方を
基準にいたしますと、そうではない、
昭和二十五年当時のある
意味で
最低の
生活に対応する
支給額ということになると思われます。
今度の
改正案はちょうどその中をとるという
考え方のようでございまして、私はそれは
それなりに
一つの
根拠を持っているのではないかという気がして拝見したわけでございます。
昭和二十五年当時は
日本全体の
生活が非常に貧しいものでございましたから、それは
それなりに
刑事補償の場合にも十分考える必要があった。しかしその後、現在のある
意味で豊かになった
日本において、その
生活水準の
向上を一〇〇%まで
刑事補償の額に反映させる必要はない、その中をとるということでいいのではないかというのが
根拠であるとすれば、それにも
一つの
理由があるだろうということでございます。
もう
一つの
死刑の方でございますが、二千万円から二千五百万円に
引き上げるということでございまして、これは先ほ
どもちょっと申し上げましたように、
未決拘禁などとは性質を異にしておりまして、非常に厳しい
意味での
誤判の、ある
意味で最悪の結果に対する
補償でございます。
法律の世界では絶対という
言葉はめったに使うべきものでないと思いますけれ
ども、しかし、こういう誤った
死刑の
執行というようなことは恐らく絶対にあってはならないことである、こう考えられます。そして万一そういう事態が起こった場合に
国家が何をなすべきかということにつきましては、それはほとんど数学的な数、
金額というつもりでございますが、数学的な計算の外にあるものではなかろうかと思うのでございますが、そういう
意味では二千万円を二千五百万円に
引き上げるという案がやむを得ないのかとも思われますし、しかしそういう小刻みな
考え方ではなくて、
改定の必要があるということであれば例えば三千万円に
引き上げるというふうな案の方がすっきりするのではなかろうかという気もするわけでございます。
時間のようでございますので、以上にとどめさせていただきます。