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1988-03-29 第112回国会 衆議院 法務委員会 第6号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和六十三年三月二十九日(火曜日)     午前九時三十四分開議  出席委員    委員長 戸沢 政方君    理事 逢沢 一郎君 理事 井出 正一君    理事 今枝 敬雄君 理事 太田 誠一君    理事 保岡 興治君 理事 坂上 富男君    理事 中村  巖君 理事 安倍 基雄君       赤城 宗徳君    上村千一郎君       丹羽 兵助君    宮里 松正君       稲葉 誠一君    冬柴 鉄三君       山田 英介君    安藤  巖君  委員外出席者         参  考  人         (東京大学法学         部教授)    松尾 浩也君         参  考  人         (九州大学法学         部教授)    横山晃一郎君         参  考  人         (弁 護 士) 竹沢 哲夫君         参  考  人         (弁 護 士) 後藤昌次郎君         法務委員会調査         室長      乙部 二郎君     ───────────── 本日の会議に付した案件  刑事補償法の一部を改正する法律案内閣提出第四八号)      ────◇─────
  2. 戸沢政方

    戸沢委員長 これより会議を開きます。  内閣提出刑事補償法の一部を改正する法律案を議題といたします。  本日は、本案審査のため、参考人として東京大学法学部教授松尾浩也君九州大学法学部教授横山晃一郎君、弁護士竹沢哲夫君、弁護士後藤昌次郎君、以上四名の方々に御出席いただいております。  この際、一言ごあいさつ申し上げます。  参考人各位には、御多用中のところ、本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。本案について、参考人各位には、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきますようお願いいたします。  次に、議事順序について申し上げます。御意見の開陳は、松尾参考人横山参考人竹沢参考人後藤参考人順序で、お一人十五分以内に取りまとめてお述べいただき、次に、委員からの質問に対しお答えいただきたいと存じます。  それでは、まず松尾参考人にお願いいたします。
  3. 松尾浩也

    松尾参考人 松尾でございます。  刑事補償法の一部を改正する法律案関係資料を御送付いただきまして、一両日前に拝見した次第でございますが、我が国未決拘禁及び再審、あるいは誤判と言った方がよろしいかもしれませんが、これに対する賠償制度を持っておりますことは、大変すぐれた制度であり、そういう制度を十分に持っていない国あるいはまたそういう時代との対比におきまして、私は非常に結構なことと存ずるのであります。そして、今回の改正法律案はその額を変更し、引き上げを行うという趣旨でございまして、私はその点を含めてこの案は適切なものであるというふうに存じつつ拝見したわけでございます。  ただ、金額改定ということになりますと、上げ幅が大き過ぎるという御意見もあるかもしれませんし、逆にもっと積極的な引き上げが望ましいという御意見も非常に有力なのではなかろうかと考えます。そこで、私自身どう考えるかということについて意見を申し上げなければならないわけですが、直接その金額の点に入ります前に、刑事補償制度について私のふだん考えておりますことを若干申し述べて御参考に供したいと思います。  第一に、刑事補償制度は、公務員ないし国家の側における国民に対する、ある意味で不法な行為に対する損害賠償あるいは損失補償という制度一環でございます。直接に対比されるべきは無論国家賠償法でございまして、国家賠償法刑事補償法とはそれぞれ役割を少しずつ異にしながら損害賠償損失補償の問題を分担しているわけでございます。その際、意見が一致しておりますのは、国家賠償法の方は関係した公務員故意過失という主観的な要件を必要とするのに対して、刑事補償法はこれを必要としないという点であります。無論そこには故意過失の立証の問題という手続的な側面もございますけれども、しばらくこれを捨象いたしますと、国家賠償法刑事補償法とはその分担する領域をはっきりと異にしているということになろうかと思います。  これに対しまして、行為適法性あるいは違法性という観点から見ますと、学説も必ずしも一致しておりません。刑事補償の対象になるような公務員行為が無論違法な場合も含まれてくることは確かでありますが、常にそれが違法と評価されるべきかという点については、これを肯定的にとらえて、客観的な違法あるいは実体としての不法というふうな表現で、ともかく裁判が誤ったあるいは無罪判決が出たということは、そういう意味での違法を含むというお考えの方もおられます。これに対して、再審による補償の方はともかくといたしまして、無罪判決の際の未決拘禁補償につきましては、これは行為自体としては必ずしも違法なものではない、しかし適法な行為からもそういう損失補償の問題は生ずるのであるという考え方をとっている学者もございます。この点については説が分かれているということになろうかと思います。しかし、この種の問題は本質的には行政法学あるいはまた民事法学の方の専門領域の事柄でございまして、私は刑事法の専攻でございますので、これ以上立ち入ることはできませんけれども、一応前提として以上のようなことを一つ申し上げておきたいのでございます。  刑事法固有領域から考えてみますと、刑事補償制度は、被告人であった人あるいは受刑者であった人の救済のために非常に有益な制度であることは言をまたないところでございます。ただ、救済の局面だけでなく、刑事司法の全体を観察してその中に位置づけるとどうなるかということを申し上げたいのでございますが、刑事訴訟法その他の制度が戦後面目を一新しましてから既に四十年以上の月日がたっております。そのために最近は、刑事司法の全体を生態学的にと申しましょうか、いわばエコロジカルに見てみようという傾向が強まってきておりますが、その一環として考えたいわけでございます。  戦後間もないころに憲法の全面的な改正が行われ、それときびすを接して刑事司法制度改正されたわけでございますが、その際、日本刑事手続一つ岐路に立たされた、こう考えられます。その岐路の一方は英米法的な当事者訴訟をモデルとしてそちらの方に歩み寄ろうとする道であり、もう一つは、むしろ旧刑訴以来蓄積されていた日本の伝統的な手法をより洗練された形で発展させようというものであったと存じます。  私は、ここにおいでの横山参考人もそうでありますが、昭和二十年代から三十年代にかけて刑事訴訟法学界に身を投じたものでございまして、留学先がアメリカであったこともございまして、先ほど申し上げました二つの道のうちの前者を進むのが日本刑事司法にとってとるべき道ではなかろうかという気がいたしまして、その方向の努力を及ばずながら重ねてきたつもりでございます。しかし、戦後四十年の経過はそういう私どものいささか楽観的であった予想を裏切りまして、反対の方向に進んでおります。日本の伝統的な手法と申しましょうか、それがますます磨き上げられた形で貫徹していると思われるのでございます。  近年、日本刑事裁判有罪率が非常に高いということが時々引き合いに出されるようになっております。九九・八六%というような数字が持ち出されるのでございますが、それはまさに日本刑事司法がいわば特殊日本的な形で完成に近づいているということを物語っているものでございます。そのこと自体の分析はまたさらに詳細な研究を必要といたしますけれども、当面の問題とつなげて考えますと、刑事補償制度の基礎にある憲法四十条というものがそこで微妙な役割を果たしていることを認めざるを得ないと思うのでございます。  憲法四十条は、再審補償に限らず、通常の手続において無罪判決がなされた場合をも含めまして、未決拘禁補償国民の基本的な権利として規定しております。繰り返し申しますように、そのこと自体人権感覚に富んだ、すぐれた規定でありますけれども、しかし反面において、無罪判決というものが一種の病理的な現象である、あるいは刑事裁判は実体的な真実を突き詰めて最後までそれを発見すべきものである、ぎりぎりにおいて無罪が言い渡されたときには、それは本来あるべからざることであるから補償を与えるべきであるという考え方憲法四十条の背後にございます。憲法三十一条から三十九条までの抱懐している思想と憲法四十条のよって立つ考え方とは、言葉を強めて申しますと矛盾しております。その意味において四十条は、刑事司法の発展にとって、人権擁護の貴重な役割を果たしつつも、同時にまた一つのつまずきの石となったというふうに考えられるわけでございます。  そういう全体的な評価を前提といたしまして今回の改正案を拝見したわけでございますが、改正理由については「経済事情にかんがみ、」ということだけでございますので、具体的にどうして七千二百円が九千四百円になるのかという、その具体的な経過は必ずしも承知しないのでございますが、資料としておつけいただいております「賃金物価指数調」というのを拝見いたしますと、昭和二十五年という刑事補償法制定の年を基準として、その後の賃金物価変動を考慮に入れ、一種算術平均を行って算出されたものであると考えられます。これが適切であるかどうかという点はなかなか難しい問題だと思いますが、一つ考え方といたしまして、物価変動というのは一種国民生活を支える物資の購買力を示しているものでありますから、物価に対応させるということは昭和二十五年、基準年と同じような生活を保障するということになろうかと思います。これに対して、賃金にスライドさせるということは、その後の三十数年にわたる生活水準向上というものを取り入れようということになると思います。したがって、後者をとりました方が、最近の我が国生活水準向上は目覚ましいものがございますから、これを一〇〇%反映させるということになるわけでございますし、物価の方を基準にいたしますと、そうではない、昭和二十五年当時のある意味最低生活に対応する支給額ということになると思われます。  今度の改正案はちょうどその中をとるという考え方のようでございまして、私はそれはそれなり一つ根拠を持っているのではないかという気がして拝見したわけでございます。昭和二十五年当時は日本全体の生活が非常に貧しいものでございましたから、それはそれなり刑事補償の場合にも十分考える必要があった。しかしその後、現在のある意味で豊かになった日本において、その生活水準向上を一〇〇%まで刑事補償の額に反映させる必要はない、その中をとるということでいいのではないかというのが根拠であるとすれば、それにも一つ理由があるだろうということでございます。  もう一つ死刑の方でございますが、二千万円から二千五百万円に引き上げるということでございまして、これは先ほどもちょっと申し上げましたように、未決拘禁などとは性質を異にしておりまして、非常に厳しい意味での誤判の、ある意味で最悪の結果に対する補償でございます。法律の世界では絶対という言葉はめったに使うべきものでないと思いますけれども、しかし、こういう誤った死刑執行というようなことは恐らく絶対にあってはならないことである、こう考えられます。そして万一そういう事態が起こった場合に国家が何をなすべきかということにつきましては、それはほとんど数学的な数、金額というつもりでございますが、数学的な計算の外にあるものではなかろうかと思うのでございますが、そういう意味では二千万円を二千五百万円に引き上げるという案がやむを得ないのかとも思われますし、しかしそういう小刻みな考え方ではなくて、改定の必要があるということであれば例えば三千万円に引き上げるというふうな案の方がすっきりするのではなかろうかという気もするわけでございます。  時間のようでございますので、以上にとどめさせていただきます。
  4. 戸沢政方

    戸沢委員長 松尾参考人ありがとうございました。  次に、横山参考人にお願いいたします。
  5. 横山晃一郎

    横山参考人 九州大学横山でございます。時間ということもございますので、少しお話し申し上げることを書いてまいりましたので、それに従いまして述べさせていただきます。刑事補償法の一部改正案が今度の国会に提出されるということを知りまして、大変喜ばしく思った者の一人でございます。また、その内容補償金額引き上げにあるということも知って、これもまた喜ばしく思ったことであります。しかし、日額上限を七千二百円から九千四百円にする、死刑執行者に対する補償を二千万から二千五百万にという非常に簡明な改正内容というのを眺めておりますと、ここ十数年来の再審裁判状況であるとか、あるいはまた戦前戦後の刑事補償法の歩み、さらには諸外国の刑事補償法の動向、特に一九七一年の西ドイツにおきます刑事補償法改正、それに連動した形の東ドイツ刑事補償法改正、こういうのが次々に頭に浮かんでまいりまして、今度の改正、またこの改正案というのを喜んでいいのか、本当にこれでよいか、そういう思いにとらわれております。  再審請求が認められて再審裁判無罪判決が出るたびに、再審請求をした方々の苦痛であるとかその家族方々がなめた物心両面の苦労というものが語られるわけであります。そしてそのたびに、いろいろな雑誌やまたマスコミなどに、人間裁判制度、もっと広くいいますならば、この刑事司法システムというものに不可避的につきまとう誤判であるとかあるいは間違った起訴、刑事処分、そういう間違った判断の犠牲者に対する全面的な補償の必要ということが説かれてきたわけであります。こういうところが問題になるということは、現在の刑事補償法、そのときどきの刑事補償法に問題があるということの指摘でもあるわけでございます。  今の刑事補償法といいますのは、御承知のように旧刑事補償法を全面的に改正してつくられたものでございます。旧刑事補償法は、そのときの司法大臣が申されたことでございますが、国は賠償義務もない、補償義務もない、しかし一つ仁政をしいて国民に対して同情慰謝の意を表するのである、こういうふうに申されたわけであります。そういう旧刑事補償法を抜本的に改正して、国家には賠償義務があるんだ、これは損害てん補賠償法だということを明言された上でつくられたものでございます。  私ども犯罪からの安全というのは、警察、検察、裁判所という刑事司法システム、これは人間システムでございますから誤りを免れないわけでございますが、それによって守られているわけであります。ですから、こういうシステムによって犯罪からの安全を守られているところの国民が、このシステム運用またこういうシステムを維持することから発生したところの損害賠償義務を負うというのは当然であるというふうに思われるわけでございまして、こういう損害を、間違って被告人にされた人、間違って受刑者にされた人に負わせるべきでない、これが刑事補償を支えるところの根本理念だと思われるわけです。今の刑事補償法を一歩進めたということで出された被疑者補償規程であるとか、あるいは無罪確定者に対して国が弁護人報酬など裁判費用補償する制度ということで昭和五十一年に刑事訴訟法の一部改正が行われたわけでございますが、これは刑事司法システム維持運用から発生した被疑者被告人損害てん補というものを目指したものであります。  昭和五十年から五十一年にかけまして、非常にこの刑事補償を充実しようという動きが国会でも高まったように思うわけでございますが、そういう五十年、五十一年の状況というのを思い出して、そして十余年を経た今回の改正案の極めて明快、簡単な条文の案というのを見ますと、何か不思議な感じがしてきたわけでございます。誤った刑事判決から発生した損害てん補というのは拘禁期間補償だけでよいのか。西ドイツのように確定有罪判決から発生した財産的損害補償を考える必要はないか。損害てん補であるのに、なぜ補償基準日額上限が決められているか。西ドイツ東ドイツのようになぜ上限の除去ということができないのか。再審無罪事件とか破棄差し戻し無罪事件を思い起こしますと、いろいろな疑問がわいてくるわけでございます。  しかし、そういう根本的な疑問は一応わきにおきまして、基準日額引き上げという問題に絞ってこの案を眺めてみますと、旧刑事補償法審議状況であるとか、あるいは戦後抜本的改正が行われた刑事補償法改正審議議事録が思い浮かんでくるわけでございまして、昭和六年に「一ツノ仁政布キ」と、そういう意識のもとに出された刑事補償法補償金額最高は五円でございました。これは、当時の労務者平均賃金の約二倍のところに設定してあったわけでございます。政府はこの五円という金額妥当性を、労務者賃金の二倍ということのほかに、証人の日当は二円である、通訳、鑑定人のそれも五円から十円であるということをもって説明しようとしたわけでございますが、これに対して牧野良議員は、身体の拘束を全く受けない、何らの不名誉を感じなくて堂々と法廷に立てる人と冤罪の被告人とを同視するというのは何事であるか、これは我々に対する侮辱であるというふうに述べたわけであります。政府もこれに対しまして困ったようでありまして、これは賠償じゃなくて慰謝である、同情慰謝である、だから金額が低いのは当然だ、こういうふうに答えたわけであります。  今の刑事補償法昭和二十四年に議会で討議されましたときにやはり問題になりましたのはこの基準日額の点でございまして、四百円というのが政府の案でございましたが、国会で大問題になりまして、松井道夫議員最低千円ということを主張したわけであります。これは当時の労働者平均賃金が三百五十二円であった、こういうことを考えますと松井道夫議員がなぜこう主張したかはわかるわけでございまして、「仁政布キ」これは単なる慰謝だという、そういう旧刑事補償法のもとにおいても労務者平均賃金の二倍であった、そうだとすれば賠償義務というのを肯定した現在の刑事補償法のもとで二倍以下であっていいか、これが松井道夫議員を支えるところの問題意識であったと思われるわけでありまして、ですから三百五十二円の二倍以上、少なくとも千円、これが譲れないところの一線だというふうに松井さんは述べられたわけでございます。  こういうことをいろいろ思い出してみますと、また、そういうことを思い出しながら参考資料を見ますと、平均賃金変化、また物価指数変化というのが、足して二で割って二千三百幾らと、こうあります。その二千三百幾らに四百円を掛けますと確かに九千円近くの金額が出るわけでございますが、しかし、それで本当にいいのだろうかということが私の頭から離れないわけでございます。  二千五百万の点につきましては、昭和五十年の一部改正の際に政府の案は一千万でございましたが、そのときの自動車損害賠償保障法の死者の補償の額が千五百万でありましたから、せめて千五百万まではということがこの議会で問題になりまして、与野党一致で一千五百万に引き上げられた、そのことを思い出したりしております。  以上でございます。
  6. 戸沢政方

    戸沢委員長 横山参考人ありがとうございました。  次に、竹沢参考人にお願いいたします。
  7. 竹沢哲夫

    竹沢参考人 竹沢でございます。  意見を求められております刑事補償法の一部改正内容は、刑事補償金額算定基準日額引き上げ死刑執行による補償最高額引き上げの二点でございまして、これらの刑事補償金額は、法の趣旨が十分に機能し法の目的が達成されますように、そのときどきの経済事情等に時期を失することなく即応させるべきことは当然でございますので、今回の引き上げそのものに限って申しますれば、格段異論等あるわけがないわけでございます。  時間の関係もございますので、他の参考人が述べられました点をそのまま私も賛成いたしたいと思いますが、次の一点だけについてとりあえず私の意見を申し上げまして、今後の法運用やあるいは法改正方向等を考える場合の参考にしていただければと思っております。  その一点と申しますのは刑事補償法の四条にかかわることでございますが、その四条におきましては、拘置による補償懲役禁錮拘留、この拘留は刑の一種類としての拘留でございますが、と同列に置きまして、その上限を今回の改正案では九千四百円としている点、この点について一言申し上げたいわけであります。  ここに言うところの拘置というのは、申すまでもなく、刑法十一条二項の拘置、すなわち死刑判決が確定した後に同条一項の死刑執行までの拘禁意味するものでございますけれども、私は、死刑確定後その執行に至るまでの拘置について補償額上限を、他の懲役禁錮あるいは拘留などと同列に論ずることにはいささか問題があるのではないかというぐあいに思っております。  その理由を簡単に述べさせていただきたいと思います。  死刑といいますと、申すまでもなく、これを執行いたしますと取り返しのつかないものであります。究極の刑罰あるいは冷厳な刑罰、いろいろの表現がなされておるわけであります。その死刑判決が確定することの意味の重さというのは、例えば刑事訴訟法四百七十五条一項が「死刑執行は、法務大臣の命令による。」といたしまして、その二項において、ただし書きの場合、つまり再審請求とか恩赦の出願などの場合のほか、死刑執行命令は「判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。」と規定していることによっても十分理解できるところであります。  死刑判決が確定した場合に、しかもそれが誤った裁判、無実を訴えながらそれがついに三審まで入れられなかったという場合にその死刑判決が確定してしまった場合、その死刑執行に直面せざるを得ない立場に置かれた者の無念苦しみというものは、これは御想像願えるとおりであります。今日私どもは、この十年以内に死刑が確定した後で再審無罪となった三つの事件、すなわち免田、財田川、松山の場合を現実に私どもの知識として知っているわけであります。いずれも私どもの属しております日本弁護士連合会がこの非常救済手続再審手続に、事件委員会を設けまして積極的に再審実現のために努力してまいった事件でございます。それだからこそ、私ども被告人と最も近いところにありまして、死刑執行に直面しながらせっぱ詰まった中で再審の壁に挑まなければならない手続の困難さ、そしてそのために長い長い時間や労力、その間の本人家族苦しみに直接接する立場にございました。  一例だけを申し上げますと、例えば免田事件免田栄氏は、再審無罪判決の後に「獄中記」というものを書いて出版しております。その中で同氏は、死刑確定後の恐怖無念の日々を書いております。他の死刑確定者が隣の房で「処刑の日が近づくにつれて、日頃の明るさもなくなって、運動や教誨にも出席せず、房内にこもって泣いていた。その姿を隣房に見せられている私は、ますます死の恐怖にひきこまれ、寝食もろくにとれない。運動に出ても足が地についている感覚がない。まるで生きてる蝋人形のような心地だった。」と書いております。免田氏は同書でまた、死刑確定後面会に来た父親が、それまでの弁護費用などで「田畑もなくなってしまった。俺も光則(弟)も、お前のことはもうあきらめている。再審というのをして、また俺たちを苦しめるな」と言ったということが書かれております。そこまで追い詰められた父親、そしてそれにもかかわらず、何とか助けてくれと言わなければならなかった免田本人、父と子のそれぞれの立場やその苦しみ無念が描かれているわけであります。  誤判の、あるいは誤って訴追された者の苦しみはもとより死刑事件に限りません。ちょうど五十年前に一審で無罪が確定したところの、例えば帝人事件の場合に被告の座に置かれました河合良成さんあるいは三土忠造さん、それぞれ「帝人心境録」とか「幽囚徒然草」などをお書きになって、そこにおける、訴追された、無実を訴える者の苦しみを書いておられます。戦後の徳島のラジオ商殺しで十三年の刑をついに服し終えなければならなかった冨士茂子さんの場合にも、冨士茂子さんのことについて、その娘さんとの関係などについて瀬戸内寂聴さんらがいろいろ書いておられますし、御本人も短歌に詠んでおられるのであります。それにもかかわらず、死刑事件が確定して拘置されている場合の本人家族のもろもろの苦しみ無念は、ほかの懲役等の場合と同列に論ずることはできないのじゃないか、質的に異なったものがあるのではなかろうか、私どもはこの三つの事件家族本人のことを知るにつけまして痛感するわけでございます。  刑事補償の本質が私法上の損害賠償的な要素を含むものと解してよいと思いますけれども刑事補償法四条二項も、裁判所が補償を決定するについてもろもろの事情をしんしゃくすべきその一つとして「拘束の種類」を挙げ、あるいは「精神上の苦痛」等の事情を挙げていることを考えますと、四条一項が補償基準額について、死刑確定後の拘置懲役禁錮あるいは刑罰一種類としての拘留同列に規定しているのはいささか問題があるのじゃなかろうか、私は強く疑問に思っているのであります。拘置に関する補償基準額の上限をこのように懲役等と同列に論ずるといたしますと、他の懲役等の拘禁に対する補償は、その適用の場合に、死刑拘置の場合と比較して裁判所の判断の中で結局押し下げられることになる可能性が大きいと言わざるを得ないのじゃなかろうか。私はこのような観点から、拘置に対する補償基準額の上限は、懲役禁錮拘留と区別してやはり高額にすべきではなかろうかと考えております。  今日の経済事情、あるいは他の労災あるいは交通事故等による補償額との一定のバランスということも考えなければならないだろうと思います。そして、懲役禁錮拘留について九千四百円の基準額が仮に相当であるとしても、少なくとも拘置期間の補償日額九千四百円とすることは、金額面でも、他とのバランスという面を考えましても、少し考えなければならないものがありますし、現実にこの数年来に私どもの前に実例として示されているということを申し上げたいわけでございます。  時間の関係で、以上で終わらしていただきます。
  8. 戸沢政方

    戸沢委員長 竹沢参考人ありがとうございました。  次に、後藤参考人にお願いいたします。
  9. 後藤昌次郎

    後藤参考人 心をどこに置こうぞ、あらゆる問題に対処する場合と同じように、特にこの問題の場合、一番大事なのはこの点であろうと私は思っております。金をやればいいんだろう、これだけやればいいんだろうというような取引や財政の問題ではないということをまず申し上げたいと思います。事は人間の生命と自由に関する問題であります。時は金なりという言葉があります。私はそうじゃないと思っております。時は命であります。  第二に、この問題は恩恵や慈悲の問題でもないということを申し上げたいと思うのです。国家の存在理由にかかわる問題だからであります。  言うまでもなく、憲法国民の基本的人権といたしまして国民の生命、自由、財産、幸福追求の権利を保障しております。これを守るのが国の任務であり、国家の存在理由であります。この任務を守らないならば国家の存在理由はない、有害無益であると私は思います。この任務に反して、国が、正当な理由がないのに国民の生命、自由、財産、幸福追求の権利を奪う、そういう国家権力による犯罪、そして国家しかできない犯罪、それが戦争と冤罪であります。このことを私は皆さんに、この問題を考える大前提としてお考え願いたいと思っております。  刑事補償国家補償は、それに対する国の心からの償いでなければならないと思います。そして冤罪というのは、私はあえて申し上げたいのですが、決して例外的な偶発事ではないということを申し上げたい。なぜならば、私が体験した、あるいは学びました多くの冤罪事件を見ますと、意図的に、少なくとも重大な過失によって無実の人間が有罪に仕立てられた場合が余りにも多いからです。  よく指摘されますように、その大きな原因は自白であります。うその自白であります。多くの人々は、やりもしない人間がうその自白をやるわけはないだろうと軽く考えます。肉体的拷問、これは戦前に比べれば少なくなっているでしょう。しかし、体に跡を残して裁判で問題になるような肉体的拷問をしなくとも、例えば眠らせないというような生理的な拷問があります。肉体的拷問あるいは生理的な拷問をしなくとも、人格の崩壊に陥れるもっとひどいやり方がある。  例えば、皆さん御承知の池田元首相の最大のパトロンであった財界の重鎮小林中氏は、戦前の帝人事件で被告とされ、無罪となったのであります。そしてその無罪は、後で裁判長がこれは空中楼閣であるとわざわざ断定したほどのでっち上げであって、しかも御承知のように、その後に続いた二・二六事件前提として斎藤内閣をつぶすきっかけとなり、そのために司法ファッショ、検察ファッショと呼ばれる、そういう言葉を生んだ事件であります。その事件で被告とされた小林中氏は、肉体的拷問も生理的拷問も受けないのに、人格の崩壊にまで追い詰められてうその自白をしたのです。それがどのようなやり方であったかということは、時間がないので残念ながら省略いたします。  小林さんほどの社会的地位もあり見識もありお金もあり、恐らくあったでしょう。それからまた、皆さん御承知のように、戦後アメリカからドッジが来て非常な緊縮財政を強行した。その前に日本の財、政、官界のほとんどすべての人がひれ伏しました。ひとり硬骨をもって鳴って、ドッジをして日本にもこの人ありと言わしめたのが小林中氏だ。その小林中氏ですら拷問を受けないでうその自白に追い込まれるのであります。自白させるために警察、検察当局が行うのが、常套手段が、別件逮捕と、別件逮捕で捕まえた人間を警察の留置場、いわゆる代用監獄にとどめ置いて一切の情報を遮断し、朝から晩まで一日じゅうの生活を自分の管理下に置いて、完全に洗脳してうその自白に追い込むということです。  私は一つ申し上げたい。なぜ別件逮捕をするのか。それは証拠がないからであります。そうでしょう。だって、証拠があったらその事件で逮捕すればいいのです。本件で逮捕すればいい。その事件で逮捕するだけの証拠がないから別件を利用するのである。別件で逮捕して証拠をつくるのである。その証拠というのは自白であります。そしてその自白をつくるために、捕まえた人間を社会から遮断し情報から遮断するために、絶望の孤立に追い込むために警察の代用監獄を利用するのです。そして法廷に立てば被告に有利な証拠を隠滅する、隠して出しません。松川事件の諏訪メモなんかは一番有名であります。  私は、時間がありませんので特に申し上げたいのは、国家賠償法によって刑事補償で足りない点を補うことができるから云々という議論をなす人がありますが、それは事実上、全く誤っているということなのであります。国家賠償法は、実際の適用において正当に機能しておりません。無罪になった人々の多くは、今や国家賠償法による補償を求めようとしないのです。なぜか。その気持ちはうんとあるのですが、国家賠償法によって裁判所に救済を求めても裁判所は用をなさないということを今までの判例によって痛感しているからです。  そのリーディングケースとなったのは、皆さん御承知の芦別国家賠償請求事件最高裁判所の判決であります。御承知のように、国家賠償をするかどうかの一つ基準といたしまして、結果説か職務行為基準説かというのがあって、最高裁判所のただいまのリーディングケースを初めとする下級審の判例の多くの動向というのは、要するにその時点で、例えば検事が起訴する時点で、あるいは裁判所が判決する時点で、そのときの証拠を総合して勘案すれば、起訴し、あるいは有罪にする合理的な疑いがあった、したがって故意過失がないといってけっちゃうのです。ところが、今私は念のために芦別国家賠償事件判決も見ました。それには、その部分がこう書いてあるのですね。「起訴時あるいは公訴追行時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば足りるものと解するのが相当である」、こう言うのですね。  皆さん、私が今朗読いたしました最高裁の判決をお聞きになって、重大なインチキがあるというふうにお考えになりませんか。この判決は「各種の」と言っている。そうじゃないのですよ。総合的な判断をするためには、各種の証拠資料ではなくてすべての証拠資料が必要なのです。ところが検察官は、起訴するときに手元に持っておった証拠資料を隠して出そうとしないわけです。無罪が確定して国家賠償の訴訟を起こす。国家賠償の訴訟を受けた民事裁判所は検察官に対して、起訴したときに手元にあったあらゆる証拠を出したらどうかという勧告すらしないのであります。そして、総合的に勘案すれば合理的な理由があった、こう言うのですよね。こういうインチキを裁判所がやる以上は、どうして国民が警察、検察、裁判所を信頼することができましょう。  私は、刑事補償法を考えられる一番の根底、金額を考えられる場合にも、警察や検察や裁判の実態がこのようなものであるということを魂の底に据えてお考え願いたい、このことを申し上げるために参りました。
  10. 戸沢政方

    戸沢委員長 後藤参考人ありがとうございました。  以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     ─────────────
  11. 戸沢政方

    戸沢委員長 これより参考人に対する質疑に入ります。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。保岡興治君。
  12. 保岡興治

    ○保岡委員 参考人の四人の先生方におかれましては、大変お忙しい中を貴重な御意見を聞かせていただきまして大変ありがとうございます。時間が十五分しかありませんので、端的にお伺いをしてまいりたいと思うのでございます。  諸先生のお話を聞いておりまして、やはり国家裁判の司法の手続死刑になったり拘禁をされたりした方々が、後に誤りであったということで無罪になった場合の補償というものは、国家という物の考え方あるいは人間というものに対する物の考え方ということで非常に難しい哲学的な、また、人間社会の文化的な物の考え方というものに連動しているという感が非常に深くするものでございます。そういった意味で、国家刑事補償というものは金銭ではかれないというものがある、そういうふうなこともございますけれども制度としてはこれを金銭で補償する以外ないので、金額をそれぞれ制度として定めて補償しておる。今回の改正は、諸先生もそれぞれ引き上げがあった点については評価をしていただいているのでございますけれども、私もそういった点では全く同感でございまして、政府や我々自由民主党、与党はこれを法務部会で了承して、この委員会にも国会にも提出をしているわけでございますが、その改正に至った経緯あるいは改正をするに際しての物の考え方というものは松尾先生も評価をしていただいて、その他の先生もそれなりの評価をしていただいていると思いますが、一応それなりの物の考え方で対処しております。  そういう点では、私も、今回の法改正を出したということは意義のあることだとは思っておりますが、今の諸先生のお話や、私自身もこの刑事補償の性格というものを考えるときに、常に前進して物を考えていかなければいけないという観点から、どうしても次の改正のときにはよく考えて検討して、政府や我々としても臨まなければいけないと思っている点の一つは、やはり死刑執行の場合の慰謝料の上限が二千五百万になっておるという点であろうと思います。  松尾先生も、三千万というようなことを具体的な数字を挙げて言っておられましたけれども、私も、交通事故で一家の支柱を失った場合の慰謝料というものが判例でどのように推移しているかというものを見た場合に、最近は、一番大変な場合というのでしょうか、精神的苦痛の大きい場合でしょうが、二千万前後にまで金額が上がってきておる。そういった点と比較すると、確かに交通事故で一家の支柱を失うというようなことは大変な人生の悲劇でございますから、これがある程度高くなってくるのは当然だと思うのですが、これと比較するというのもなんでございますけれども死刑が間違って執行された場合、今諸先生からもいろいろるるお話がありましたが、捜査の過程から起訴される過程、そして裁判も一審、二審、三審、そして執行に至るまでの大変な当事者の苦痛、苦悩あるいは失う財産的な損失、こういったものを考えたときには、やはりこの慰謝料というものもこれと比較して果たして二千五百万がいいのか、幾らがいいのかということについては、その比較においても下からひたひたと判例というものが迫っているという感じが私はしてならないのです。  これは上限を設ける方がいいのかどうか。財産的損害については上限が設けてありませんので、これはあるいはホフマン方式等によって所得がはっきりすれば計数的にきちっと類型化されて金額が出てくるという点もあるかもしれませんけれども、やはり証明するという点でも裁判の過程やその他捜査の過程というのはもういわば公知の事実でございますから、大体どういう精神的苦痛があったかはおよそ知るところでありますし、いろいろな民事の慰謝料の金額等との、例えば今一例として挙げた交通事故の慰謝料などとの比較をしても、裁判において裁判官が自由に判断できるとした方がむしろ合理的かもしれないと思ったり、あるいは最低補償をするという意味である程度の金額を決めることがむしろ合理的かもしれないと思ったり、まだはっきり考えはまとまりませんけれども、これは次の改正では十分考えなければならないものだという感じがいたします。  そういう点で、それぞれ諸先生方はこの上限を設ける点あるいは交通事故の他の裁判の例での慰謝料との兼ね合いなどについてどうお考えになるか。これは金額ではかれない問題だということもありますけれども制度が一応金額を決めて運用されている以上、先生方の貴重な御意見をまた次の改正にでも我々与党としても参考にさせていただきたいと思いますので、それぞれの先生方に簡単に御意見を賜れれば幸いだと思います。
  13. 松尾浩也

    松尾参考人 四条三項になりましょうか、死刑執行による補償については上限を設けない方が適切ではあるまいかという保岡議員のお話でございまして、私も先ほども申し上げましたように、この問題は計数的な考慮を絶したものであるという意味においては御意見に共感する点があるのでございますけれども、また一方におきまして、刑事補償法は全体として一種の定額主義を貫いているという点に特色があるように感じられます。  受刑者被告人もそれぞれの立場は千差万別と申してよろしいかもしれませんけれども、そういう違いをひとまず捨象して、一人の国民として見て、日額幾らあるいはそのほかの補償金が幾らという考え方をとっている点に刑事補償としての特色があらわれていると言うこともできるのではないか。したがいまして、私は御提案のように変えることも十分考えられますと同時に、現行法もそれほど不合理なものではないという気がしております。
  14. 横山晃一郎

    横山参考人 私は、先ほど申し上げましたように、西ドイツのように補償上限というのを除去してはどうかというふうに考えておりますので、死刑執行があった場合についても、先生がおっしゃったように、そのときの状況に応じて額を上げていくことができるというふうにするのも大変おもしろいやり方ではないかというふうに考えております。
  15. 竹沢哲夫

    竹沢参考人 私自身は、保岡先生がおっしゃるように、よくわからないのです。  ただ、この死刑の具体例がないのだろうと私は思います。そういう意味で、刑事補償法に掲げられているこれは、刑事補償法のいわば趣旨、精神などを示す一つのあれになっているのだろうと思うのですけれども、そういう意味で、上限ということを具体的に決めることによってこの法律がどこまで人権に、あるいはこういう誤判に関心を持ち、どういう思想を持っているかということを示す一つの徴想になろうかと思いますので、これは上限なら上限をきちっと決めて、人間の生命なり自由なりについてどう考えているかということをきちっと示してもらうというのも一つのお考え方であろうと思います。先ほど申しましたようないろいろの具体例がもう既に示されておりますし、免田の「獄中記」を読みますと、やはり無実を訴えながら死刑執行されたという人もあるやに思われます。そうとすれば、これはやはり単にそこに展示してあるというものではなしに、あるいは具体化することも決してないとは言えないことですから、そういう意味で、私は上限をきちっと示した方がいいんじゃなかろうかというぐあいに現段階では思っております。
  16. 後藤昌次郎

    後藤参考人 私は、上限を決めない方がいい、決めるべきではないというふうに思います。  一つ理由は、人間の生命は地球より重いという最高裁判所の判決の有名な言葉があります。もっとも最高裁の判決は、それではこれは死刑を禁止する判決かなと思って読んでいきますと、死刑を肯定するための前言葉なので、非常に不思議な判決であります。言葉自体は、私は非常に重い意味を持った大切な言葉だと思う。それが一つ理由です。  それからもう一つは、刑事補償の場合は国家賠償と違って定型的であるというようなことが言われるわけですけれども、しかしそれでは定型的な刑事補償法による補償を超えて、実質的な損害補償国家賠償法の適用によって求めることが可能であるかといいますと、不可能であるとは言いませんけれども、現在の裁判状況では事実上不可能に近いという実態があります。ですから、私は刑事補償法上限を決めないでやるべきではないかというふうに思います。  ただ、その場合に一つ考えられますのは、判決をした裁判所が刑事補償を決めるということでありますから、死刑を言い渡した裁判官が補償額を決めるということになると、このやろう悪いやろうだというような、そういう人間の命よりも特定人の性格なり行動なりに幻惑されて不当に低い評価をするおそれがあるのではないか、この点を恐れます。  それを除けば、第三といたしまして、国家賠償法の適用そのものが、死刑執行されてしまいますと、生きている人ですらも難しい適用がおよそ不可能になるだろうと思うからであります。
  17. 保岡興治

    ○保岡委員 私も刑事補償国家賠償との役割はそれぞれあると思いますが、やはり故意過失というのを立証する範囲が、二千五百万を超えるとなってくるという点を考えると、実際に後藤先生が言われるように国家賠償法が機能しているかどうかは別問題としても、これは財産的損害の方と均衡を失するんじゃないか、そんなふうに感じたりするわけです。  最後に、松尾先生に、拘禁の方の上限の問題ですが、これは先生の御意見からしても、平均賃金の上昇率でむしろ上限を決めておいて、あるいは最低補償の方を物価を反映させるというような考え方もあり得るのかどうか、一点だけお伺いして終わりたいと思います。
  18. 松尾浩也

    松尾参考人 ただいまお話しのような考え方も、一つの合理的な基準として十分成り立つと私は思います。  ただ、先ほど私が申し述べましたのは、一つの大前提として、この刑事補償という制度はすぐれた制度ではあるけれども、そこに余りに多くのものを積み込み過ぎると、全体としての刑事司法という船の針路が曲がってしまうおそれがあるのではないかということを常々考えておりますものですから、先ほどのようなことを申し上げた次第でございます。
  19. 保岡興治

    ○保岡委員 いずれにしても非常に哲学的、人間的、すぐれてそういう問題で、次の改正の際にはやはり改正基準というものについては抜本的に法務省も我々もよく見直して、そして臨むようにしたいなと、先生方の御意見を聞いたり、また同僚の議員の、与野党問わず指摘を受けて、今そう個人的に思っておるところでございます。  貴重な御意見、本当にありがとうございました。
  20. 戸沢政方

    戸沢委員長 稲葉誠一君。
  21. 稲葉誠一

    ○稲葉(誠)委員 社会党の稲葉誠一でございます。  大変貴重な御意見をお聞かせをいただきまして、本当にありがとうございます。  まず、松尾先生と横山先生にお伺いさせていただきたい、こう思うのです。  松尾先生の憲法四十条との関係ですね、私も大変大きな示唆を得ました。あれは憲法のあれにはなくて後から委員会で追加されたものですから、そこら辺のところとの関連があろうかと私は思うわけです。そこで、昭和六十年八月二日に先生が日弁連の研修会で大阪で講演されていらっしゃるわけですが、それの特別研修叢書がございまして、「最近の刑事訴訟法の諸問題」、私も拝見させていただきまして、これに基づいて国会で質問したこともございます。いずれ議事録などお送りして御批判をいただきたい、こう思うわけでございます。  そういう中で、現在の刑事訴訟法は約四十年たっている。私は改正しろとは言っていないのです。それはなかなか大変ですから、再検討しなさいということを言っているわけですけれども、これは法務省も検察もとてもそういう意思も能力もございませんということなんですね。そういうことを言っているわけなんです、どういう意味かは別として。  この中にもありますように、英米法とそれからそうでないものとの関係なんか、絡みが出てくるわけですけれども、特に捜査の場合と起訴の場合、公判、いろいろございますね。この中で、先生が捜査の場合にこういうことを言っていらっしゃるわけです。   戦後の改革が、司法の力を重視するアメリカ法の影響のもとに行われたにもかかわらず、捜査機関、すなわち行政機関の権限を拡大するという方向で進行したのは理解し難いことのようにも感じられます。しかし、昭和初期からの「革新論」の蓄積が、戦後の変革の際に自己実現をはかったと考えればよく分ります。すでに平野先生は、この点を痛烈に指摘する論文を早くから書いておられました。 こういうふうに言っておられるわけですけれども、このところの御説明をお願いいたしたいということ。  もう一つ、   わが国では、刑法改正、あるいは刑事訴訟法改正というようなことは、近年ほとんど行われておりません。しかし、フランスでもドイツでもまたアメリカでも、刑法、刑訴の法典には頻繁に改正が加えられています。 こうございますね。刑法は別としまして、刑訴の問題に限りまして、今私が言いました二つの点についてぜひ御説明をお願いを申し上げたい、こういうふうに考える次第でございます。  それから横山先生には、先生の「法律時報」の一九八一年四月号と五月号、「再審無罪刑事補償」これを拝見させていただきました。この中にもございますが、ドイツの例なんかですね。実は国会図書館の翻訳がございますけれども、それを私も取りまして、全部読ませていただきました。それとの関連において、例えば今、上限を決めないということがありましたが、実際にドイツではどういうふうに行われているのだろうか、よくわからないのです。それが一つです。  この論文の中にございますように、私どもずっと問題にしておりますのは、憲法四十条から出ておると言っていいのでしょうか、刑事補償法と、刑事訴訟法の百八十八条の二、改正昭和五十一年にございましたが、それと国家賠償法、この三つがあると思うのですが、問題は、国家賠償法の場合に、故意過失を立証しろと言ったって、現実にとてもできるものではないわけですね。この前同僚議員が聞きましたら、全体で、今あるうちで、警察や何かの故意過失が認められた国賠は二件しかない。二十三件が棄却されて、二十三件が今係属しているというふうに私は聞いたのですが、正確にはこの次の委員会で確かめてみたいと思います。  そこで問題になりますのは、なぜ国家賠償法の規定が日本の場合に活用されないのだろうか。これは、故意過失の立証を原告側がしろと言ってもなかなか大変だ。難しい。後藤先生のお話にありました、すべての証拠がそのときに現実にあるということがわかっていて、そのうちからある程度のものを出したというのならわかるのですが、そのこと自身が日本刑事訴訟法では率直に言ってわからなくなっているわけですね、証拠開示の問題や何かいろいろございますが。  そこで、私がお聞きしたいのは立証責任の問題です。国賠の場合に、立証責任が最初は原告側にあるとしても、ある段階に至ったときにそれが転換しないと、実際にはこれは有名無実になってくるのではないかということを私は強く考えるわけです。今の日本でも、薬品訴訟の場合や何かはある程度転換されているのではないか、あるいは推定の原則が働いているのではないかということもちょっと考えられるわけなんですが、そういう点に関連をして、横山先生の御意見をぜひお聞かせを願いたい、こういうふうに考えるわけでございます。  二人の弁護士の先生方は、恐縮ですが、それが終わりましてからということにさせていただきたいと思います。
  22. 松尾浩也

    松尾参考人 お尋ねいただきました最初の点でございますが、司法制度革新論という言葉は小野清一郎先生がお使いになった言葉かと存じます。稲葉議員御承知のとおりでございますが、戦前に、昭和八、九年ごろから刑事訴訟法、旧刑事訴訟法でございますが、その見直しということが具体的な日程にのってまいりまして、いろいろな論議の末に次第にはっきりとしてきましたそのトーンは、当時も、捜査の過程における人権の侵害、あのころは人権じゅうりんという言葉がよく使われておりましたが、それを根絶するためにはどうしたらいいか、それが根本問題であるということについてはいわばコンセンサスがある。しかし、その根絶の手段としての処方せんについては見解が分かれましたが、主流とされた考え方は、刑事訴訟法が捜査機関の権限を制限し過ぎているので、いわばやむを得ず脱法的な行為が行われる、したがって、むしろ正面から捜査機関に必要なだけの権限を与えておいて、そのかわり脱法行為を厳しく取り締まるのがよろしいという考え方でございました。これが具体的な形をとりますと予審制度の廃止というような議論になるわけでございますが、それが戦前は実現しませんでしたのが、戦後の改正で実現しているわけでございます。  そこだけをとらえますと、私が講演で述べましたように、戦後改革の趣旨は山体どこにあったのかという疑問すら出てくるわけでございますが、戦後の改革、すなわち現行刑事訴訟法の制定の過程を、最近は資料が豊富になってまいりましたので、つぶさに検討することがある程度可能でございますけれども、現行刑訴法制定は三つの時期に分かれて進行しておりまして、その第一期においては、まさに先ほどの司法制度革新論の現実化という過程をたどっていたのでございます。これに対して第二期は、現行憲法の草案が示されて、憲法の明文のある事項についてはそれに厳格に従わなければならない。例えば令状主義というような問題でございます。そして第三期は、さらに英米側の法律家との密接な接触のもとで、現行刑訴を一応特色づけているところの訴因制度でありますとか、証拠法でありますとか、上訴の制度でありますとか、そういうものができ上がってきましたので、現行法はいわば幾重にも皮の包んであるおまんじゅうのような形をしているということになるのかもしれません。どこまで皮をむいていくと何が出てくるかということは学問的には非常に興味のある点でございますが、それがさらに四十年の変遷を経て、今御承知のような姿で運用されているわけでございます。  そして、私どもも当初は比較的単純に英米法と大陸法との対立という形で考えておりましたけれども、やはりそうでない、日本という第三の軸があって、むしろ日本的なものへの回帰ということではなかろうか。私も不敏にしてそう考えるに至りましたのは比較的最近のことでございますが、御指摘の大阪弁護士会の講演にはたしか「普遍と個性」というような副題をつけていたかと思いますけれども日本刑事訴訟法は西欧あるいはアメリカその他の、ある意味では世界的に普遍的な原則というものに示唆を得て改められる、しかし少し時がたつにつれましてまた日本的な個性が表に出てくる、そういうことの繰り返しではなかったか。これはずっと大きな目で見ますと、かつて中国から律令の制度を継受しましたのが、やがて日本で御成敗式目でありますとか、公事方御定書てありますとか、そういう日本的なものに変質してくるという過程もあったかと存じますけれども、同じようなことが明治の時代にはフランス法、ドイツ法への接近とそれからの離脱、戦後はアメリカ法の継受とさらにそれからの離脱という形で起こっているのではないかというのが第一点でございます。  それから第二の点につきましては、国会は唯一の立法機関である、国権の最高機関であるということは十分存じ上げているわけでございますが、いろいろ重要な立法活動を毎年行っておられるということも知っているつもりでございますけれども、しかしながら、事民法、刑法あるいは民事訴訟法、刑事訴訟法というふうな基本法の改正につきましては、日本の立法機関はよく言えば非常に慎重でいらっしゃる。悪く言えばどうなるのかよくわかりませんが、諸外国との対比で見ますと、やはり違いが感じられるわけでございます。日本にはもともと不文法的な特質というものが根底にあって、そして表面的に実社会の利害と結びついているようなことはやむを得ず頻繁に改正が行われるわけですけれども、そうでない、社会の基盤を形成しているような規範については、お互いにもうわかっているではないか、条文の字句をいじる必要はないではないかという気持ちが、私自身も含めて日本人の間には強いのではないだろうか。しかし、それも見方によっては日本的な個性のあらわれ方であって、決して普遍的なものではあるまいというのが申し上げた趣旨でございます。
  23. 横山晃一郎

    横山参考人 最初の西ドイツ状況でありますが、私も実際にそれがどのように運用され、どういうふうな補償額が出されておるかということについては知らないのでございまして、ただ、本で読んだところによりますと、西の場合は、再審無罪判決が出ますと補償義務があるというところまでそこで決めておいて、後で額の方は司法行政当局が決めて、不服があればさらに裁判所に出訴できるというふうになっておるようでございます。  東の場合は、最高裁判所が決定というのを出しておりまして、それが時々変わるわけでして、それによって補償の範囲とかというのが大幅なところでは決まってきて、もっと細かいところはどうも検事総長の下で決まるようでございますが、これも本にそう書いてあったということで、私が一つ一つの事案について幾ら出たということまでは知らないわけでございます。  それから第二の問題でございますが、私の論文を読んでいただいての御質問でございましたが、国家が行う補償賠償というのは確かに現在はきちっと分けられておりますけれども、やがて補償法、賠償法という区別はなくなってくるのではないかと私自身は考えておるわけでございます。歴史的には刑事補償というのが、まず最初に国家は悪をなさない、国家に不法行為責任なしという原則を破るものとして出てくる。しかし、十九世紀の中でだんだんと国家の不法行為責任が認められるようになってまいるわけでございまして、そうなると刑事補償賠償というのが区別されて、不法行為の場合は当然のことながら故意過失がある場合はそうだ、こういうふうになってくるわけでございます。しかし、民事の場合そうでありますが、不法行為も無過失損害賠償責任というようなことがいろいろ言われるに及んでだんだん内容が変わってきているのじゃないかと思うのですね。中身が補償と余り違わなくなってきてはいないかと私は考えております。  実は、時間の関係で余り詳しく申し上げませんでしたが、刑事補償の理念ということで、国家機関の活動あるいは国家がある行為をするためにさまざまな組織、機構をつくるわけでございますが、そういう機構が存在することによって発生するところの損害は、当然それによって我々国民が利益を受けているわけでございますから、その損害に対して支払うのは当然であるというわけで、補償賠償は一本化されてくる。私は刑事補償の理念という形で申し上げたわけでございますけれども、これは刑事補償と言わず、国家国家機関の活動あるいは国家が設置したところのさまざまな施設から生じたところの損害に対して支払う義務がだんだん出てくるわけでございまして、その点では将来は一つになるだろう。だから目下のところは、先ほど先生が御指摘のように、刑事補償的なものとしてはまさに刑事補償法という法律があり、また刑事訴訟法の中に昭和五十一年の費用補償制度が入っておるというふうなことでございます。  そうなると、国家賠償法との関係はどうか、三つの関係が今度は問題になってくるわけでございます。  費用補償刑事補償法は理念においては全く同じだということを、私は「再審無罪刑事補償」の中で書いたわけでございます。また、あの論文の中でもう一つ、先ほど後藤先生がおっしゃいましたように国家賠償法が実際に機能していないわけでございまして、その中でそれじゃどうすればいいか、私はやはり過失の推定ということが必要なんだと思うのです。フランスなんかでは過失の推定があるやに聞いておりますし、また、我が国におきましても薬害訴訟なんかでは過失が一応推定される。ですから、国家の側にどうしてもそれは察知しようにも察知し得なかったのであるということが十分立証された場合に限って免責される、そういうふうに考える法が既にあるわけでございますから、国賠の場合もそのように理解すべきであるというようにあの論文の中では主張しておいたわけです。  それじゃ故意過失がうまく立証できた場合はどうか。このときは私は賠償額を制裁的に非常に高く科すべきだということも同時に主張してみたわけでございます。そのことによってこういう過ちをもう二度と犯すまい、そういうことは国民もまたそういうことに関係のあった国家機関も思うに違いないわけでございますから、したがって、故意過失の立証があれば制裁額はまさに制裁的に決めてよろしいというふうに書いたわけでございます。
  24. 稲葉誠一

    ○稲葉(誠)委員 竹沢先生、後藤先生、お話を私もお聞きしておったわけですが、問題は今の刑事訴訟法運用の問題ですね。運用と、それからどうやって房罪をなくすかということを中心としての問題ですけれども刑事訴訟法運用の問題と刑事訴訟法自身の改正の問題、あるいは規則の改正なりなんなりの問題もあると思うのですけれども、そういう問題とに必ずしも分けなくても結構だと思うのですが、どういうふうにしたら寅罪をなくすることができるのだろうか。刑事補償というのは、刑事補償がないことが一番いいわけですね。そこをどういうふうに理解をしたらよろしいのだろうか、こういう点についてお二人の先生から御教授賜りたい、こういうふうに思います。
  25. 竹沢哲夫

    竹沢参考人 現在、私、日本弁護士連合会人権擁護委員会の中に誤判原因調査研究委員会というのをつくっております。もう一つ再審法改正実行委員会というのがありまして、いずれも私、委員長立場にございます。誤判原因調査研究委員会というのは、既に確定した無罪判決の幾つかを取り上げまして、誤判の原因がどこにあるか、そのことを調査研究することによって制度として誤判をどうやって少なくし、なくしていくかということを探求しようではないかということをやっているわけでございます。そういう意味では、これは日弁連でやっておりますけれども、確定した判決ですから、進行している裁判に別に関与するということではないのですから、むしろ立法機関が積極的にその確定無罪例を取り上げて誤判原因を追求する、研究する、そしてその資料国民の前に出していただくということをやっていただけたらというぐあいに私は思っております。  それから、この十年来、既に確定してしまった有罪判決再審開始になり、そして無罪判決に至ったという例が、日弁連が関与しただけで十件ございます。しかもその中に死刑事件が三件、それから現在再審公判で間もなく判決が出るだろうと思われる島田事件を含めますと四件あるわけですけれども、これだけの重大事態を前にいたしまして、やはり一つは、それを誤判原因の調査研究に向けていただいて将来こういうことがないようにしていただきたいということとともに、再審制度を、寅罪の犠牲者がより早く、より確実に、よりたやすくその門が開かれるようにその制度を考えていただきたい、私どもはそのように思っております。
  26. 後藤昌次郎

    後藤参考人 先輩の前でこういうことを申し上げるのはおこがましい話ですけれども、寅罪の原因は幾つかあるわけですが、主なものといたしましてやはりうその自白を強要する、誘導するということが非常に大きなウエートを占めているのではないかと私は思うのです。そして、どのような状況で、どのような動機、原因でそのようになるのかといいますと、やはり身柄を拘束されている場所、それを管理する人間と取り調べをする人間が一緒である、官署が一緒である、同じ警察である、つまり代用監獄が利用、乱用、悪用されているということが大きいと思います。ですから、今非常に大きな問題になっている拘禁二法案について、今の代用監獄が恒久化されるようなことがあれば非常に害をもたらすことになるであろうと思っております。ですから、取り調べの際は、法が原則としておりますように勾留された被疑者の身柄は必ず拘置所に置いて、取り調べも拘置所で行うというように法ではっきり明記していただきたい、これが一つであります。  それから取り調べの内容でありますが、拘置所で取り調べるといいましても、拘置所の所員が警察官の取り調べを常に監視するわけではないわけですから、弁護人の立ち会いを認めるか、少なくとも取り調べの状況を後で回収できないような方法でテープにとっておくということが大事であろうと思います。といいますのは、今までの例を見ましても、仁保事件で取り調べの状況が差し戻し審でテープによって再現されたために虚偽の自白が強要されたということが明らかになって無罪になった例があります。  それともう一つ、私言うつもりで出てきたのですが、しゃべっているうちにちょっとど忘れしましたので、時間の関係もあるでしょうから、思い出したら……。
  27. 稲葉誠一

    ○稲葉(誠)委員 貴重な御意見をお聞かせいただきましてありがとうございました。  今、再審の問題で松尾先生からもお話がありました国会が立法府だという話なんですが、そのとおりなんですけれども、それに対する批判は差し控えます。  再審の場合に、再審の法制、これを政府側から出せといっても実際には無理な話なわけです。再審というのは例外中の例外の事件で、裁判が間違ったということの前提を認めることですからね。だから、出せというのは無理だと私は思うので、これこそ本当に議員立法に通したものだというふうに私は考えておるわけです。  そこで、最小限として、例えば再審開始決定があったときに、それに対して検察官の即時抗告は許さない。このことのために三年も五年もずっとまた身柄が入っていてやられていますね。ドイツではそれは刑事訴訟法改正のときに議員立法で直したわけですね。あれを私どもは提案しているわけなんですが、いろいろな問題がございますけれども。  それから、今言った百八十八条の六の中でも、条文が公判期日及び公判準備となっておりますから、これはその再審の場合に、その開始決定までに要したいろいろな費用というのは条文上は入らないわけですからね。これは立法政策の問題だろう、こう私は思っておるわけです。  そこで、もう時間がございませんので、私が疑問に思っていますことは、特に松尾先生、先生の本の中にちょっと出ているのですが、ミランダ判決が現在一体どういうふうになってどういうふうに運用されているのかということを、私は常々疑問に思っているわけなんです。関心を持っているといいますかな、それが一つ。  それからもう一つは陪審ですね、陪審法。アメリカの陪審法制というものは現実は危機に瀕して、実際にはもう崩壊寸前だ、こういう見方をしている人もいるわけですね。そういう見方をしている人もいるのですよ。ですから、こういうことに関連をして先生の御意見をお聞かせ願えれば、こう思うわけなんです。
  28. 松尾浩也

    松尾参考人 外国の現在の状況につきまして正確なお答えをするということはなかなか困難でございますけれども、一応の私の感想としてお聞き取りいただければ幸いでございます。  ミランダ判決につきましては、これは一つのピークでございまして、その適用範囲を縮小しようとする判決が相次いでいることは御承知のとおりかと思います。しかし私は、基本的にはやはりミフンダの考え方は維持されていて、ただそれがいろいろな場面で行き過ぎないようにという努力をしているのが現在のアメリカ判例法の姿ではなかろうかと思っております。  それから、陪審についての評価はなお難しいのですが、私の今の所見では、民事と刑事でもかなり違うと思いますが、刑事につきましては、これもいろいろな問題を含みながら、しかしなおこれを維持していきたい。アメリカは成文憲法関係もございますけれども、陪審制度が刑事の領域においてアメリカから見失われる時期というのは、近い将来にはあり得ないのではなかろうかと思っております。
  29. 稲葉誠一

    ○稲葉(誠)委員 時間が参りましたのであれですが、私の疑問に思っておりますことは、刑事訴訟法全体の中で、特に取り調べの中での供述調書の問題なんですね。あの証拠能力の問題なんですよ。あれは私は作文だと思うのです。これはもう完全な作文ですわね。日本人の場合は、おまえ名前を書いて判こを押せと言えば、みんなだれでも名前を書いて判こを押す。そして名前を書いて判こを押すといったって、あれは全部とじられているわけでも何でもないですわね。それで、判こを押してちゃんとしたものでやっているわけでもありませんし、やはりテープの問題が起きてくると思うのですけれども、そこで費用の問題、改ざんの問題とか、いろいろな問題が出てくるわけですね。去年イギリスへ行きましたときにイギリスの例をいろいろ聞いてきたわけですけれども、それが日本の中でどういうふうに生かされていくのか、これが私は今後の大きな課題だというふうに思っておるわけなんですが、これはまた別の機会にいろいろ御教授をお願いをいたしたい、かように考えております。  時間が参りましたので、これで終わります。どうもありがとうございました。
  30. 戸沢政方

    戸沢委員長 坂上富男君。
  31. 坂上富男

    ○坂上委員 先生方大変ありがとうございました。そこで私は、わずかな時間しかないのでありますが、少しお教えをいただきたいと思います。  まず松尾先生でございますが、憲法第四十条の規定というのは人権擁護の伸長に大変寄与すると同時に、また一面、つまずきの石ともなっておる、こうおっしゃっておるのですが、もうちょっと具体的にお教えいただけますでしょうか。
  32. 松尾浩也

    松尾参考人 憲法四十条の規定は、先ほど稲葉議員からも御指摘あったかと思いますが、憲法制定の過程で日本のイニシアチブで挿入された規定でございます。したがって、三十一条から三十九条までがアメリカ法的な考え方で一貫しているのに対しますと、異質の規定であるということは最初から明らかなところであったと思います。ただ、その両者がうまく適合していけばよろしかったのですけれども、その後の経過を見ますと、無罪というのは非常に例外的なものだという考え方を助長する一つの支えになったように思われます。  それは具体的にどこにあらわれてくるかですが、先ほどから日本とアメリカとの違いというようなことも論じられておりますけれども、その違いは、今の陪審制度のように目に見える違いもございますが、もっと目に見えないものとして、捜査と公判との比重の置き方という問題がございます。この点になりますと、アメリカの方は明らかに公判に比重があり、それに比して日本は捜査の方にはるかに比重がかかりております。それは具体的には起訴のときの基準という形であらわれてまいりますわけで、日本では司法研修でもそう教えておられると思いますし、私どもも講義でそう申しますが、検察官は起訴するときには確実な嫌疑をもとにして起訴しなければならない。言いかえれば、疑いがあるときには起訴すべきでないという考え方が支配的でございます。一部に有力な異説がございますが、通説はそうでございます。  その結果、それが主たる原因ではないかと思うのですが、非常に高い有罪率。九九%の有罪率日本では戦前、昭和六、七年ごろから実現しているわけでございますが、戦後、戦争直後にちょっと低下しましたが、その後じりじりと上昇いたしまして九九・八%というような高率になっておりまして、これは外国の研究者を驚倒させる数字でございます。  私の親しいドイツの学者に率直に言われたことがあります、これで裁判なんですかと。そのときは私はいろいろ日本刑事司法の長所をあげつらって議論をいたしましたけれども、一面、そういう見方があり得る。つまり、それはもう捜査段階でほとんどすべてが終わっていて、公判は、しかしそれは今でも重要性を失っているとは申しませんけれども、捜査の結果が誤りなかったということを確認する場に近くなっているのではないか。そういう際に、それがいいんだという考え方も十分あり得るわけです。非常に効率のいい、むだのない、誤った起訴などはほとんど含まれていない、すぐれた手続であるという見方も成り立ちます。そういう見方を支える一つの有力な支えが憲法四十条ではなかろうかと考えている次第でございます。
  33. 坂上富男

    ○坂上委員 ありがとうございました。  国家賠償法刑事補償法関係は各先生方から、また御質問の中でも出ておりまするから、さらにこれと隣接をしておる問題についてお聞きをいたしたいのであります。  まず、両弁護士先生にお聞きをいたしたいのでございますが、これは法律でございませんが、被疑者補償規程というのがございます。常々私は、この規程も大変問題がある規程なのではなかろうかと思っておるわけであります。特にこの補償は、調べた検察官あるいはそれを担当する検察庁の検察官が被疑者補償をなさるというような構図になっておるわけでございますが、これについて御意見がございましたらお聞かせいただけましょうか、両先生。
  34. 竹沢哲夫

    竹沢参考人 被疑者段階における補償という関係からいいますと、一つ被疑者段階における国選弁護制度というのがいつも出てまいります。私ども被疑者段階で国選弁護制度を一定の条件あるいは一定のケースに限ってでも導入すべきだと思っておりますが、それと同じくもう一つ問題になるのは、今おっしゃった被疑者補償規程だと思います。これにつきましても法律的な補償にまで高めて、ただその場合の要件とか何かの非常に難しい問題もあろうかと思いますが、法律化ということは積極的に考えていいんじゃないかと私個人は思っております。
  35. 後藤昌次郎

    後藤参考人 私も竹沢さんと同じ意見でありまして、これは単なる訓令にしかすぎない。しかも、裁量が検察官に任されている。しかも、実態は起訴保留になったほとんどすべての件が立件されていない。なきに等しい、力もなければ事実もなきに等しい、いわば空文というべきものである。ですから、これを本当に無実の被疑者の人権を守るために生かすとするならば、立法化するか、少なくとも検察官の自由裁量ではなくて国会で裁量の基準を明確に附帯決議なりあるいは何かしらの形で出していただきたい。もちろん一番いいのは、法律でそれを規定していただくことだと思っております。
  36. 坂上富男

    ○坂上委員 ありがとうございました。  先回も実はこの被疑者補償規程法律化すべきじゃないかという提案をしているのでございますが、なかなか法務省の方の同意が得られないというのが現在の状況なんでございまして、ぜひまた実務の観点からも先生方からの声を上げていただきますこともお願いをいたしたいと思います。  それから、今度刑事訴訟法に規定のありまするところの費用補償についてでございますが、これに対する問題点、感じられておればお話をお伺いしたいのであります。特に再審に対する費用補償がほとんどなされないというのがどうも条文から出てくるのだというようなお話があるのでございますが、両弁護士先生あるいはまた学者の先生方、もし何かここにこういう問題があるというようなことがありましたら、お聞かせをいただければありがたいと思いますが、最初にもし弁護士先生方からでもございましたら。
  37. 竹沢哲夫

    竹沢参考人 費用補償等で一番私どもが問題にしておりますのは、再審請求審段階における費用の関係でございます。これは御存じのとおりでございますが、再審請求審というのは、再審の二段階の中で実質的に非常に大きな地位を占めるし、左右する手続でございますけれども、その関係補償について十分ではないという点がやはり問題だろうと私は思っております。
  38. 後藤昌次郎

    後藤参考人 再審については、私、経験がありませんので、お答えする資格はありません。
  39. 坂上富男

    ○坂上委員 学者の先生方、何かございましたら御意見賜りたいと思いますが、ございませんか、費用補償における問題点。
  40. 横山晃一郎

    横山参考人 費用補償制度ができましたときに、その理由として三つの理由が挙げられておりましたが、主たる理由は、国家機関の故意過失がないにもかかわらず無罪確定者裁判費用補償を行う特別な理由というのは、客観的には無罪なのに公訴提起によって応訴、防御、費用支出を余儀なくされた者にそのまま損害を負担させるのは、公平の理念に反するというのが一つ。もう一つは、客観的に不当な公訴提起によってこうむる被告人の財産上の損害の方が、不当な検察官上訴によって被告人がこうむる損害よりも大きいのに、上訴費用が補償されて、無罪の場合補償がないのは法制度として均衡を欠く、これが立法当局者によって説明されたことであったと思うのです。  それの実際の運用で問題になりましたのがさっきの再審でございますが、あれは加藤老事件再審請求のときでございましたが、再審請求事件の審理のために弁護人出頭のもとに何回かの証人尋問が行われておりまして、ただ、その証人尋問の費用というのが裁判所によって認められなかったわけです。これは、認めなかった理由というのは、要するに法文の非常に形式的なといいますか、文理的な解釈によるわけでありまして、証拠調べとか公判準備というのは、それは再審裁判の証拠調べ、再審裁判の公判準備をいうのであって、再審請求手続のそれを指すのではない、これで切って捨られたというふうに思うわけです。  しかし、この事件裁判の評釈をされた最高裁のある判事によりますと、実際に再審裁判がわずか三開廷で済んだのは、再審請求手続で何回かの証人尋問が行われたからである。だから、実質的に考えると、再審請求手続における証人尋問というのは、再審裁判における証人尋問のまさに代行であった。だから、そういうことを考えると、それをも含めて考えるべきだというのは当然ではないかというふうなことが言われておりました。私も実はそういうふうに思うわけでありまして、法の解釈というのは必ずしも法文どおりである必要はないんじゃないかというふうに思っておりまして、制度趣旨とかあるいは公平の理念というようなことを考えてみますと、やはり解釈としても公判準備という概念を少し広げて考えれば、再審請求手続における証人尋問に要したところの費用というものの補償は可能だったのではないかというふうに私自身は考えているわけです。  もちろん、裁判所がだめだというふうに判断をしましたのは、その当時の立法当局者の刑訴法一部改正法についての解説がございまして、解説の中で、証拠調べとか公判準備というのはかくかくしかじかのものである、再審裁判におけるそれをいうというふうにはっきり書いてございましたから、それと余り日を隔てていないところにおける裁判であったということが、裁判所に立法関係者のその法の解釈に従った判断を生んだ理由なのではないかというふうに思います。しかし、それからもう相当日にちがたっておりますから、解釈の問題として入れることができないとは言えないのじゃないかというふうに私は思うわけでございます。
  41. 坂上富男

    ○坂上委員 最後でございますが、後藤先生にお聞きをしたいのでありますが、後藤先生は弁護士の第一線に立たれまして、特に、寛罪と思われるものについて本当にまさにすべてをなげうってこの救済に当たっておられまして、日ごろから大変尊敬しておる}人でございますが、いわばこの寅罪の構図については、大体のお話があったからわかるわけでございます。ほぼわかるような気がするのでございますが、また、先生が実践面においてこれはもう寅罪なんだというようなことがいわば直観的といいましょうか、あるいは大変たくさんの研究の結果、検討の結果、出てくるのかもしれませんが、そういう実務の弁護士とされまして、これは寅罪なんだというような感触といいましょうか、突き進める原動力といいましょうか、そんなのはどんなところから端緒を得られてやっておられるのか、大変な苦労があるのだろうと思います。一言に言うにはなかなか言いづらいと思いますが、そんなようなことに対する感想といいましょうか、ちょっとお話しいただければ大変ありがたいのでございますが。
  42. 後藤昌次郎

    後藤参考人 今先生おっしゃられたようにいわく言いがたしてありまして、言いがたいのは経験が足りないからだろうと思うのですが、しかし、あえてその逆のことを言わしていただきますと、ある程度の経験を積んできたために、その経験の中から生み出された人間や事実を見る勘というようなものがおのずとできているのかもしれませんですね、と思うことがあります。  皆さん御承知と思いますが、作家の広津和郎先生、松川事件の被告諸君を救済するために文筆を願って奮闘して、被告諸君を寅罪から救ってくださった先生でありますが、広津さんが最初の松川事件の二審のころ仙台高等裁判所での裁判に宇野浩二さんと一緒に傍聴に行った。それは、獄中の被告諸君からはがきが来たわけですね。自分たちは無実であるということを訴えたはがきが来た。広津さんのところにも来ました。宇野さんのところにも来た」一人は仲のよい間柄でしたから、はがきを受け取られた当時、こういうはがきが来たけれどもどうだ、あれはどうもにせものとは思えないけれどもどうだ、うん、文面からあれはにせものの書く文章じゃないということで、じゃ傍聴に行こうじゃないかということで仙台まではるばる出かけた。  傍聴して、帰りに被告諸君と面会した。そして、非常に目が澄んでいる、ああいう人たちがああいう犯罪を行うはずがないということを言われた。もちろん、その前に広津さんはそれなり裁判記録も読まれて、ある程度の確信を持っておられたわけです。ところが、広津さんの被告の目は澄んでいるということばかりがとらえられまして、二審の判決が出たときに、広津さんを初めとする多くの人々の期待に反して、四名の死刑を含む有罪判決が出ました。そうしましたら、その松川事件の被告が無罪であるということに生理的といいますか、政治的といいますか、本能的といいますか、反感を持つ人々があったとみえまして、作家の中にも随分あったとみえまして、それ見たことか、広津は単なる作家にすぎないのに、目がきれいだからやっているはずはないなんという甘っちょろいことを言うのほ本物の作家ではないという悪口を言っていた人たちがいました。  広津さんは、有罪の判決が出たときに男泣きに泣いたそうです。そして、二、三日して心が落ちついたときに、自分はあの目の光ばかりでなくて、今まで見た記録から被告諸君は無実であると確信している、有罪判決は間違いであるということを日本じゅうの人々に知らせなくてはいけないということで、広津さんは一生懸命になって中央公論に松川裁判内容を、証拠に基づいて、訴訟記録に基づいて、というのは想像あるいは偏見に基づかないで、こつこつと書きためていかれたわけです。その証拠と訴訟記録に基づく誠実な議論が次第次第に国民の中に広まって、あの歴史上まれな、日本史上まれなというよりは、世界史上にもまれな歴史的な裁判運動となり、最高裁判所で破棄、差し戻しの判決があり、差し戻しになった仙台高等裁判所で無罪判決がありました。  あれを見まして、何といいますか、私はほかの同僚の弁護士の方々より特に経験を積んでいるというわけでもありませんし、人間として特に洞察力があるというわけでもありません。ただ率直に、例えば政治的な立場、党派的な立場、思想的な立場にとらわれないで人間人間として相接するときに、そしてその人間の言うことを率直に聞くときに、そしてその人間の言う証拠を虚心に見るときに、これはシロだという確信が持てるのではないか、こう私は思っております。
  43. 坂上富男

    ○坂上委員 先生方どうもありがとうございました。御健康に御注意くださいましてまたその道にひとつ御指導いただきますことをお願いいたしまして、質問を終わります。ありがとうございました。
  44. 戸沢政方

    戸沢委員長 中村展君。
  45. 中村巖

    ○中村(巖)委員 参考人の先生方におかれましては、お忙しい中を当委員会に御出席をいただきまして大変ありがとうございます。四人の参考人の先生方は、いずれもこの刑事補償法の問題を論ずるに日本最高の権威にお集まりをいただきまして、その意味でも大変有意義な審議ができる、こういうふうに思っております。  今回の刑事補償法の一部改正というのは極めて単純でありまして、金額を一定限度、拘留期間の問題にしましてもあるいは死刑の問題にしましても引き上げる、こういうことだけでございます。しかし、この引き上げに関しましては実は大変異論があるわけでございまして、それがために先生方を煩わして論議をするということになったわけで、私ども野党の立場といたしますれば引き上げ額が余りにも低過ぎるという考え方で、共同で野党の修正案を提出しようか、こういう段階になっているわけでございます。そのことは、刑事補償の本質というか、そういうものに深くかかわるわけでありますし、また計算の方法の問題でもあるわけで、政府提出の法案はいわば極めて安易に、ただ単に物価と労働賃金というものによって率を策定してその率を掛ける、これだけのことであるわけです。  そういうようなやり方自体が正しいのか正しくないのか。もともと刑事補償というものを考えた場合に、例えば拘留の問題について言いますならば、労働賃金に見合うようなものをただ補償するだけで国家の誤った裁判の責任を全うすることができるのか、こういうことになるわけでございまして、私どもは端的に申し上げますると、この政府の案に対しまして、少なくとも労働賃金以上のものでなくてはならない。政府の提出しました法律案関係資料の中にも、今一日当たり賃金が一万五千幾らである、こういうことがあるわけであります。したがって、それ以上のものでなければならないのではないか。ましてその場合には、賃金だけではなくて、やはりいわゆる慰謝料的なものも含まなければならない。そうすれば、九千四百円なんという額は到底あり得べからざる額じゃないかというふうに思って、拘留に関して私ども最低一万六千円には引き上げるべきである。あるいはまた死刑の問題にいたしましても、死刑になってしまって後から刑事補償を求めるという事例が実際に起こり得るかどうかということは別として、やはり少なくとも二千五百万なんというこんな額ではなくて、その倍額である五千万円ぐらいは国が出すのが当然であろうという考え方に立っているわけでございます。  そこで、その問題についてまず最初に松尾参考人にお伺いをいたしますけれども、先生は先ほどはこの引き上げは妥当だろうというようなお考えをお述べいただいたわけでありますが、今私が申し上げたことを前提にいたしまして、刑事補償の本質というか、刑事補償の本来あるべき姿というものをどういうふうにお考えになられるのか、それからすればこの金額が妥当だということが言い得るのかどうか、そういった観点からひとつ御意見をお聞かせいただきたいと思います。
  46. 松尾浩也

    松尾参考人 中村議員のお話を謹んで拝聴したわけでございますが、刑事補償制度を仮に現在新たに創造するということになりますと、またいろいろな考え方ができようと思います。ただ私は、今回の修正案は昭和二十五年の法律の一部改正であるという形で見てまいりましたものですから、そうしますと従来の経緯というものも無視するわけにいかない。現在まで六、七回の改定が行われているようでございますが、その線上で判断して今回のも適正ではあるまいかというふうに一応考えた次第でございます。  その精神的なと申しますか、そういう根拠につきましては先ほど申し上げたとおりでございますけれども、多少言葉をかえて申し上げますと、この刑事補償という制度は、ある意味では非常に結果の方から見た制度でございます。特に再審の場合そうでありまして、これは明らかに誤判であるということが最後にわかった、この結果は耐えがたいものではないかというところから出発していろいろな議論がなされ、私は、再審の場合はそれもある程度もっともなことであり、決して日本的個性というところに閉じ込め得る性質のものではない。例えば国際的な人権規約B規約などにも規定が最近つくられたものでございまして、それは普遍的に考えて、誤った有罪判決が確定した、それが再審によって修正されて無罪になったというような場合にはやはり積極的な補償ないし賠償を行うべきであるということは十分成り立つと思います。  ただ、我が国の場合はそうでなくて通常の手続無罪判決を言い渡したという場合も同列に扱われておりまして、私はむしろそちらの方にはある程度消極的な考え方を先ほども申し上げたわけでございます。手続法というものはそれ自体として尊重さるべきであり、結果からのみ判断されるべきものではないということでございます。とりあえずそれでよろしゅうございましょうか。  それからさらにつけ加えますと、少し技術的なことになるかもしれませんけれども、結局刑事司法全体の改善ということをもう少し注意を払う必要があるのではないか。例えば国選弁護の充実というようなこともしばしば言われているところでございますし、あるいは証拠開示に関するお話も先ほどちょっと出たかと思いますけれども、そういうこともそれぞれ実際にやろうとしますと費用を伴う話でございます。それで、一定の額の予算をどういうふうに配分するのが国民の福祉のために最善であるかということはまさに立法府のお考えになる問題でございますけれども刑事補償という一点だけではなくて広い視野に立ってお考えいただく、無論そうしておられると思いますけれども、それが望ましいのではないかという感じを持っております。
  47. 中村巖

    ○中村(巖)委員 次に、横山参考人にお伺いをいたします。  横山参考人は、先ほど来他の委員も指摘しておられるように、この刑事補償の問題について「法律時報」に論文をお書きになられたわけでございまして、その中にいろいろのことが論ぜられておるわけですが、その一つとして、刑事補償法のいわゆる補償決定の公示という問題について、現在の法の規定というものが十分でないのではなかろうか、いわば寅罪であったという人たちの名誉の回復というものはもっと十分に行われなければならないし、国が間違ったということに対して、その間違ったことに対する間違えられた本人に対する謝罪というか、そういう意味というものも盛り込まれた公示のあり方でなければならないのではないか、こういうふうに書かれておったように覚えております。金額引き上げの問題はしばらくおきまして、公示のあり方について、その辺の規定の改正とかも含めて、立法論というか、御意見を拝聴できればというふうに思います。
  48. 横山晃一郎

    横山参考人 昭和二十八年に大学を出て学界に入りましてから、最初に非常に問題だなという気がしましたのが実は刑事補償の問題でございまして、三十年以降刑事補償がどのように行われているのかということをずっと注意して見てきたわけでございますが、公示という制度も、私のように関心を持っておる者が新聞記事を非常に注意して見てもなかなか見つからないぐらい小さいのですね。しかも、尋ね人の広告のすぐ横にあったり、どこかの学校の広告のすぐ横にあったりして、まず見にくい。これでは一体名誉が回復されるということになるのだろうか。悔しいと思っている人の悔しさというのがそれでぬぐえただろうか。非常に強い疑問を感じていたわけです。さらに言葉を読んでみますと、これは裁判所の決定がそのままありまして、名前を呼び捨てなんですね。何の太郎兵衛と書いてあるわけでありまして、無罪の何とかがあったので公示する、こう書いてあるだけなんで、こんなのを読んで果たして国家によって慰謝されたと思うだろうか、絶対に思うはずはないというふうに私はだんだん強く思うようになりました。  それが加藤新一老の事件の際に、あの方は刑事補償を受けられましてその後国家賠償請求をしたわけでありますけれども、その国家賠償に踏み切ったときの動機が朝日新聞に出ておりました。吉田石松さんの事件のときには裁判所が、あの場合裁判長でございましたが、断りを言うた、謝ったというのですね。ところが私の場合は何にも言ってはもらえなかった、人間の一生を台なしにされて、一言の謝りもないとは何事だというふうに言っておられるということが書いてございまして、私は本当にそうだという気がしたわけです。これは政府のあれでは決定はないのでございますけれども事件が発覚をして起訴まで持っていかれる過程で新聞紙上なんかで物すごく書かれまして、人の名誉は完全に傷つけられてしまうわけで、少なくともその傷つけられた名誉を回復するぐらいのことは国も、またマスコミもすべきではないか、これが私の基本的な考え方でございます。  ですから、例えば起訴のときに十センチ大の記事が載ったのであればそれと同じだけの無罪の告示というものはなさるべきである、それが新聞紙上に三回出たのであれば三回の告示は絶対に必要である、そういうふうに私は考えているわけです。ですから、今度の賠償額の引き上げの問題と絡めてみますと、財政とかいろいろなことがあると思うのでありますけれども、大変口幅ったい言い方でございますが、やはり実際に完罪に追い込まれた人の立場で考えてみたらどうかということが一番大事なところではないかという気がします。もし金がだめならばどうして名誉回復ということに本気になって取り組んでいただけないのであろうか、これは私は非常に強く感じておるところでございます。     〔委員長退席、今枝委員長代理着席〕
  49. 中村巖

    ○中村(巖)委員 次に、竹沢参考人にお伺いをしたいのでございますけれども、二点ございまして、一点は、先ほど松尾参考人に伺ったと同じことでございますけれども竹沢先生も、まあ引き上げはいいことではないか、こういうお話でございました。私も、引き上げそのものは今より上がるということで前進的な意味があるということは認めないわけではないのですけれども引き上げ額について先ほど申し上げたような疑問を持っておりまして、そのことについて先生はどうお考えになられるかということが一点でございます。  それからもう一点は、この法案と直接には関係がありませんけれども再審の問題でございます。刑事補償を受ける場合に、本来の裁判無罪になって刑事補償を受けることもあるし、または再審無罪になって刑事補償を受けるということもあるわけですけれども再審について、私どもはもう再審の法制を改めるべきであるということを常々主張しておるわけでございまして、現在の再審について言うならば極めて不十分であって、また再審の門戸も狭過ぎるではないか。最高裁の白鳥決定というものがあるわけですけれども、それにしても法律の条文等からすれば門戸は非常に閉ざされておるし、あるいはまたその中の手続的ないろいろな面でも不十分な部分がある。また、さらに言ってしまえば再審請求の段階と再審公判廷という二段階構造というのはどうなのかというような問題もあるわけでございまして、具体的に再審法制はどういうふうに改めなければならないのかということについて日弁連の改正案というか、そういうものもあるわけでありますけれども、それを踏まえて御意見をお聞かせいただきたいと思っております。
  50. 竹沢哲夫

    竹沢参考人 最初の点でございますけれども刑事補償の額そのものということになりますと、先ほど申しましたように具体的にどれだけがいいか、多ければ多いほどいいというものでもないと私は思いますし、受ける側、つまり未決拘禁なり拘禁を経て刑事補償を受ける立場に立った側にしますと、いろいろの意味を持つわけです。私はやはり、一つは社会復帰といいますか、そういう意味で、単なる金銭ということではなしに、先ほど横山先生が申されましたように名誉の回復なり、あるいは無罪であったあるいは刑事補償が出たということについての公示をどうするかという問題を含めて、社会復帰を容易にするという観点がぜひとも必要だと思うのです。そういう意味で、金額は確かに今七千二百円を九千四百円にする、これでは低いじゃないかという議論は当然出てくるでしょうし、私も低いじゃないかなという感じもいたしますけれども、それじゃどれだけが適正額かということになりますと、結局先ほどから議論が出ておりますようなことに落ちつかざるを得ないんじゃないかということもまた思うわけでございます。  なお、私ども弁護士ですと、いつも労災保険あるいは交通事故による損害賠償事件、いろいろの事件に関与するわけでございまして、それとの対比ということを一応の目安にすることもございます。そこら辺のことを考えて、何とかそのときどきの経済事情等を踏まえた適正額というものを御審議の上決定していただきたいという抽象的なことしか申し上げようがないわけでございます。  二番目の再審のことでございますけれども、私、日本弁護士連合会再審関係のことをずっとやってまいりまして、日弁連として外国から先生をお呼びするというのは初めてだったのですけれども西ドイツからカール・ペータース元チュービンゲン大学教授をお招きしたのが昭和四十八年で、ことしで十五年になるわけです。その十五年前にカール・ベータース氏をお呼びしたのは、西ドイツにおける再審法改正という実績を踏まえたその原動力になったのは何か、その後それが法制度改正に結びついたのはどうしてかという実情を知りたかったわけでございます。それは非常に有益な示唆を私ども受けましたし、それに基づいて日弁連としても、現在の再審法における手続上の問題点、先ほど先生の申されましたように二段階構造がいいのかどうかということを踏まえて議論をした末に、現実的な改正案として日弁連の改正案を提案しているところでございます。  ただ、これに対して法務省の側では、改正意見についての姿勢というものについて若干の変化があるように思うのです。伊藤刑事局長の時代にはできるところからやるというような答弁が国会でもなされたやに私ども議事録で散見するところでございますけれども、最近は刑事訴訟の基本に立ち返ってということで、再審制度が上訴あるいは通常手続にどうはね返るか、そこら辺を踏まえないとできないんだということでやや停滞しているというぐあいに思わざるを得ないわけでございます。  私どもは、既に日弁連の改正案昭和五十二年と一昨年ですか、そのまた修正したものを示しているわけでございまして、再審請求手続における問題あるいはその中における再審請求人あるいは弁護人の権利の拡大、あるいはもっと根本的に言うと再審理由の拡大、緩和というようなところを柱にしながら、「何としてもこの十年間における再審無罪事件、特にその中に死刑事件が三件ないし四件含まれているというこの重大な事実を踏まえた上で、単に解釈、運用ということでこれを今後の裁判に生かすのではなしに、むしろ制度の改善、立法の改正ということでひとつ対処していただきたいということを日弁連の強い叫びとして申し上げたい、かように思っております。
  51. 中村巖

    ○中村(巖)委員 後藤参考人にお尋ねをいたします。  先ほどのお尋ねもありましたが、誤判ということ、これはあってはならないわけですけれども誤判がある、したがって刑事補償も必要になる、こういうことであります。誤判に至る原因というものを先ほど若干述べておられますけれども、その原因はいろいろあると思います。一つには、やはり現在の刑事訴訟法がまずい点があるのじゃないか、こんなようなことも考えていかなければならないと思いますけれども誤判との関連において現在の刑事訴訟法について先生がどういう点をどうすべきというようなお考えがありましたら、お話しをいただきたいと思います。
  52. 後藤昌次郎

    後藤参考人 誤判を生む土壌となるのは捜査段階だと思いますので、ですから、捜査段階での問題が一番大事じゃないかと私は思っているのです。  捜査段階では、被疑者は特に経済的なゆとりがあって自分ないし家族が弁護人をつける場合以外は、国選弁護人というものがないわけですね。ところが、捜査段階でうその自白をつくられてしまいますと、公判段階でそれを覆すということはもう容易ならざるものがあるわけです。ですから、捜査段階で国選弁護人をつけるということをまず一つ考えなくてはいけない。  それから、捜査段階における取り調べで、例えば弁護人が立ち会うとか少なくともテープをとるとか、あるいは捜査を担当する官署と身柄を拘禁する官署とは別にして代用監獄は禁止しなくてはならないとか、そういうようなことがあると思うのです。  それから、公判段階になりましたら、というよりは正確に言いますと第一回公判以前に、検察官は手持ちの全証拠を被告、弁護人に開示しなくてはならない、それを制度化すべきであると私は思います。  それから、捜査段階のことでもあるし公判以後のことでもありますが、特に捜査段階において弁護人の接見を警察や検察官が非常に妨害する、制限するというようなことはやめるべきだと思うのです。といいますのは、先ほどもちょっとお話があったのですけれども被疑者と会ってシロかクロかわかるかどうかというふうな御質問があったときに私十分に答えられなかったのですけれども被疑者は連日朝から晩まで、夜の十時、十二時ごろまで何人もの取り調べ官に取り囲まれまして、もう聞くにたえないような侮辱的な言辞を浴びせられて、犯人だと決めつけられて取り調べられるわけですね。弁護人が被疑者に接見できるのはせいぜい十五分か二十分、それも一週間に一回、よくて三日に一回という。私は土田邸事件やそれから総監公舎爆破未遂事件、恐らくいわゆる過激派の爆弾事件と言われるような事件で、一審だけで検事が控訴できなくて無罪の確定になったというのはこれ以外にほとんどないのではないかと思っておりますが、その被告諸君から聞きますと、もう朝から晩まで警察にいじめつけられている。そのときにせいぜい十五分か二十分、それも三日に一遍か一週間に一遍来たって全然役に立たぬというのですよ。帰った後で、おまえ弁護人が何を言っておったかということを追及される。おまえの弁護士が幾ら偉くても、あんなものはすぐひっくり返せるぞ、こういうようなことを言っておどかされるわけですね。  弁護人にとって一番大事なのは、被疑者との人間的な心のつながりなんですよ。その心のつながり、信頼が確立しない限り本当の弁護はできない。それを捜査段階でやらなくてはいけない。とするならば、警察や検事が毎日のように十時間も十二時間も真正面につき合って、しかも何人もやっているのに、弁護人が一週間や三日に一回十五分や二十分会って人間的なつながりができるなんというのはとても考えられない。現実はそういうような状態。これはやめなければいけない。これはむしろ刑事訴訟法自体が弁護人の自由交通権、接見交通権というものの自由を原則として認めておりまして、それを制限するのが例外であるわけですが、原則と例外が逆転されている現在の実態を改める必要があるというふうに痛感しております。  それから、私はこう思っております。捜査、裁判について、それから刑事補償についてでもありますけれども、精神的な痛み、慰謝料、これもやはり現代の社会では金に換算するよりしようがないわけですから経済の問題になるわけですが、この経済の問題を房罪者の新生活を祝福し鼓舞するという観点から考えるべきであって、国の財政的な観点から考えるのは根本的に間違っている。なぜならば、これは国の権力犯罪に対する謝罪のしるしなわけですから、それを国の財政がこれぐらいしかないということから考えるのは大間違いです。実務的に言いますと、例えば証拠開示、これは全然金がかかりません。検察官はただでやれる。それからテープをとる。それはテ!ブ代も幾らかかかるでしょう。しかし、一人の被疑者の取り調べに四人も五人も一日じゅう、二十三日間もかかって取り調べる人件費に比べればテープ代なんてたかの知れたものです。ですから、実務的に言っても、私は財政的な見地から寛罪、刑事訴訟の手続をどういうふうにしたらいいとか刑事補償をどのようにしたらいいかということについて、国の財政から財政改革的な意味でけちん坊な考えをとるのは絶対に反対であります。
  53. 中村巖

    ○中村(巖)委員 参考人の先生方、大変ありがとうございました。時間ですので、これで終わらせていただきます。
  54. 今枝敬雄

    ○今枝委員長代理 安倍基雄君。
  55. 安倍基雄

    ○安倍(基)委員 参考人の先生方、きょうはまことに御苦労さまでございます。大体同僚議員がいろいろな質問をしておりますので、余り重複したことを質問してもあれでございますから、簡単に制度の仕組みについて。  今、中村先生から、我々が誤って死刑にしたときに五千万にしようという案を用意しているというお話をいたしました。これはさっき松尾参考人は、従来の延長線というふうでございます。実は、私よく調べますと、これは昭和二十五年に当時五十万円のあれがございまして、その後自賠責が三十年に三十万の上限が来て、三十九年あたりに百万円にしたときに一緒にした。出発点が本当はもっともっと高かったわけでございまして、今までいろいろ改正のときに何でこれを見直さなかったかな、こう思っておるわけでございまして、大きなやり方としては三十年の価格を二十五年に引き直して三十対五十で、三十がもう少し縮まりますから、それをちょうど自賠責の伸び率と掛けますともっと高くなるのですけれども、まあこの五千万ぐらいでという話になっておるのでございますけれども、これはまた一般の質疑の過程で議論になると思います。  さっきもう松尾参考人には一応お聞きしたものでございますから、我々の五千万という感じ、ちょっとこの辺の感じを横山参考人と日弁連の竹沢参考人にお聞かせ願いたいと思います。
  56. 横山晃一郎

    横山参考人 五千万が適当であるかどうかということについては、正直、わからないというふうに申し上げる以外にないのでございまして、ただ、亡くなられた方の御家族が、もしその方が亡くならずに普通に働いていたとすれば今どのぐらい収入があって、自分たちの生活はこうであり、また、その平穏な生活の後でその人が亡くなった後に遺族の者がどのぐらい取るのかということで考えてみますと、さまざまであろうと思います。  私が先ほど上限を設けないということを申しましたのは、事例によって違うでありましょうし、ですから一億でも二億でも少ないという場合もあるでありましょうし、四千万でいいのではないかという場合もないことはないかもしれないというふうに考えるからでございまして、固定することについて私が余り積極的でないのは、一たん法律というのができますと、早いときでも三年、五年ぐらいたって改正があるというのは割合早い方に属するわけでございまして、その間の変化に対応できないということがあるわけです。今は物価が比較的安定しておりますからいいような感じがするわけでありますが、これが物価上昇期に五年ということになりますと、今は三千万なら三千万で適当というふうに考えられておりましても、五年後になってみますと、それがいかにも少ないというふうに思われる場合があるわけです。ですから、人の命というものを幾らに換算するのか本当に難しいことでございまして、そのときどきに判断する以外にはないのではないか。五千万が適当であるかどうか。ただ、先ほどおっしゃいました自賠責なんかの関係で片方が五十万で片方が三十万、それは確かに一つ幾らにすべきかということの比較の材料になろうかというふうに思います。
  57. 竹沢哲夫

    竹沢参考人 私もよくわからないのですけれども、ただ、二千万を二千五百万、五百万増額ということ、もともとの二千万というのは、先ほどの質疑の中にもございましたが、自賠責でも死亡の慰謝料の基準が大体二千万前後という現状があります。それとの関係で言いますと、それをわずか五百万上回るだけということになると私も低いんじゃないかなという、これは感じでございますが、感じます。  先ほど言いましたように、死刑判決が確定して、そして執行を待つ身のその苦しさ、それを経て死刑執行を受けた人に対する補償ということになりますと、交通事故、労災その他の基準を上回るのは相当質的に高いものでないといかぬ。そういう意味では、ではそれを倍にした五千万が相当かと言われると、私もにわかにそれは申し上げられませんけれども、二千万を二千五百万円にするということは、感じだけで言いますと、やはり倍ぐらいにしたらいいんじゃないかというような感じも持ちます。
  58. 安倍基雄

    ○安倍(基)委員 私ども、五千万は逸失利益とか財産的損害を別にした全くの精神的な慰謝料的な意味で考えておりまして、それプラスいわば抑留、拘禁の期間に相当するものか逸失利益的なものをオンするということがむしろ正しいのじゃないかと思っておるのでございますけれども、当面、今回の改正に対する対案としてはこういった形をとっております。そういった意味で、私ども五千万というのは、何も財産的損害や逸失利益を含まない形の全く精神的慰謝料としての五千万という考えでおりまして、それ以外はプラスと考えておりますので、これはまた論議の過程で出てくると思います。  そこで、二番目でございますけれども、さっき賠償法補償法との関係が出ました。実は、私もこういう議論をした後いろいろ論文を書くのが好きなもので、またひとつ書いてみようかと思っておるのでございますけれども、この前の養子縁組のときに、終わった後養子縁組の死後離縁についての論文をちょっと「ジュリスト」に書かせていただきました。今度の賠償法補償法の関係を考えましたときに、いわゆる国家賠償法で、物をつくってそれが事故を起こしたとかそういう意味賠償と、人を捕まえてそれで間違ったというのとは大分異質じゃないか。かつてのキングは誤りを犯さないという思想がどんどん転換してきて、今や本当に人権の方が中心になってきているということ。それからもう一つは、大きな変化としては、人命についての評価というのはどんどん変わってきている。     〔今枝委員長代理退席、委員長着席〕 戦前と戦後とは随分違うわけですから、そういう全体の動きを見たときに、まず公権力で捕まえてきて裁判して間違ったという種類のものは通常の国家賠償責任とは違うのじゃないか。  通常、国家賠償責任というのは、まず物と人間に分ける。作為、不作為に分ける。そうやってきたときに、人間に対して、かつ作為でやったというのは国家賠償法でよいものかどうか。まず補償法があって最後は国家賠償法があるからいいじゃないかというのとは意味が違うのではないか。むしろ特別法というよりは完全に独立したもの、もう国家賠償法じゃない、補償法全部でやれるくらいのものにしてこれでやるべきじゃないか。それがすなわち四十条の精神でもあろうし、それを広めていけば、ドイツ方式で、立証されれば財産的損害がどのくらいあるというようなことをそのままのむ。さっき松尾先生は定額方式だと言われましたし、補償法と賠償法と一緒になるというような議論もありましたけれども、これはむしろ賠償責任の中にそういう対物、対人、作為、不作為、公権力に基づくもの、昔は公権力に基づくものは責任はなかったのだけれども、今度は公権力に基づくものの方がむしろ責任が大きいという概念の転換があるだろう。  もう一つは、システム責任といいますか、個人の裁判官あるいは検察官が間違ったというのとは別に、そういう誤審に導いたシステムそのものの責任が国にあるのではないか。システム責任を考えたときに、今挙証責任というような話も出てきましたけれども、既に捕まえて判決を下したということの大きなシステムとしての責任が当然あるのだ。だから、裁判官あるいは検察官の故意あたりを立証するというようなことを今さら言う必要ない。これはさっきの賠償責任、公権力に基づいて抑留、拘禁して間違ったということそのものが、ほかのものの賠償責任とは全く異質のものである。その面で、裁判官あるいは検察官に故意なんかもともとないし、過失を問うのもそもそもおかしい。それはむしろシステム責任として、無過失責任に近いものじゃないかというような考えがあるのじゃないか。だから、さっきの補償法と賠償法と一体になるというよりは、賠償法の中でそういう一つのジャンルが分離されて、それが一つの責任論に展開されるのじゃないかというふうな気がしているのです。それはちょっとそんな議論が既にされているのかわかりませんけれども、この賠償法補償法の関連について、松尾先生、横山先生、日弁連、お三人の御意見を私は承りたい。むしろ学問的な問題であれば学者の方でもよろしいのでございますが、この三人の御意見を、もう時間が十九分まででございますからあと四分しかございませんから、二分かそこらずつでも結構でございます。
  59. 松尾浩也

    松尾参考人 システム責任というお考えは大変興味深いものだと思いますが、当面の死刑執行の場合に限って申しますと、おっしゃるとおり非常に究極的で極めて例外的なものでございますので、この算定の根拠についてはお考えのような額も十分成り立ち得ると思います。  ただ、この問題につきましては、やはり行政法学やあるいは労働法学その他の専門家の意見というのもあると思いますし、それからまた肝心の補償を受ける主体が既に死亡しているわけでございますので、慰謝料と申しましてもそれは相続されるということになるのかと思いますけれども慰謝料債権の相続性ということについては民法の学者の間で非常に激しい議論があることも御承知のとおりでございます。刑事法立場からは、この問題については必ずしも専門家としての発言権を持たないのではないかという感じがしているということを最後に申し上げます。
  60. 横山晃一郎

    横山参考人 私、先ほど先生のお話を伺いまして、失礼な言い方ですが、余り私と変わらない考え方を持っていらっしゃるのかなと思ったわけです。私自身の考え方につきましては、先ほどちょっと申し上げましたので、それでもってかえさせていただきます。いずれ、この問題については少しまとまったものを書いてみたいというふうに思っております。
  61. 竹沢哲夫

    竹沢参考人 日弁連でこの問題について特に委員会で議論したこともございませんので、日弁連としての意見というのは現在のところはございません。  なお、再審法改正実行委員会なりあるいは先ほど来申し上げておる各委員会で、この問題については早急に私どもも討議を深めてみたいというぐあいに考えております。
  62. 安倍基雄

    ○安倍(基)委員 もう時間がございませんから、あと松尾参考人に。  私も今抑留、拘禁補償について、どちらかというとドイツ方式がいいのじゃないかという考えも持っているのでございますけれども、立証されればそれを認める。定額、上限の決めがなくて、これは少なくともこのくらいの額だ、しかしそれ以外に本人が逸失利益を立証すればできるということで横山参考人あたりも考えて、私もむしろそれは考えていいのじゃないかと思っておりますが、それについてどう思いますか。
  63. 松尾浩也

    松尾参考人 あるいは将来の方向としてはそうなるのかもしれませんけれども、ただいまのところ、私は国家賠償法刑事補償法とを二元的にとらえる考え方できようもお話しいたしましたので、そういう意味では補償法の方は定額制というところに特色があり、財産的なもの、非財産的なものを包括して支給するという特色を持っているので、その意味においては今おっしゃったことと見解を異にするかと思います。
  64. 安倍基雄

    ○安倍(基)委員 最後に一つ竹沢参考人。  竹沢さん、死刑判決後の抑留、拘禁はちょっと異質じゃないか、特別扱いすべきじゃないか、ここら辺一つのおもしろい考えでございます。私もそれとはちょっと別に考えておったのは、一定の期間以上の抑留、拘禁、これはちょっともう少し考えてやるべきじゃないか。というのは、若いころ捕まって、本来ならばどんどん社会で偉くなってという夢があるという場合があります。そうすると、それが長期間捕まってあと無罪だったというときは普通の——私はさっきの死刑の話は初めて考えたのです。私は前から期間の問題について、若干、累進税じゃないけれども、一定期間以上の抑留、拘禁というのは、本来彼らだってどんどん収入もふえていったかもしれないし、偉くなったかもしれないという意味で、期間的な観念を持ち込むのも一つの方法じゃないかなという気がするのですが、日弁連、今後それは今の竹沢先生の死刑後という考えもあったかもしれませんけれども判決後のそういった期間的な考え方については、せっかく竹沢先生そこに似たような議論をなされましたから、どんな考えかお聞きして、質問を終わります。
  65. 竹沢哲夫

    竹沢参考人 四条二項が言っている「一切の事情」の中にはそういうものも入るんだというぐあいに私も理解しておりますが、それを含めての上限ということが今回決められているんじゃないか、案の中にあるんじゃないかと思うのでございますけれども、なおその期間の点といいますと、やはり具体例でいろいろ思い当たる。例えば青春の一番大事な時期を服役しておった、そのために人生の大部分を、一番大事な時期を失ったという場合、そういういろいろな具体例があると思いますので、その点については日弁連でも今後考えさしていただきたいというぐあいに思っております。
  66. 安倍基雄

    ○安倍(基)委員 時間も参りましたから、後藤参考人には質問しなかったのは申しわけなかったですけれども、これで終わります。
  67. 戸沢政方

    戸沢委員長 安藤巖君。
  68. 安藤巖

    ○安藤委員 共産党の安藤巖でございます。きょうは、長時間参考人の先生方には貴重な御意見を拝聴しましてありがとうございました。私が最後でございますので、よろしくお願いしたいと思います。  いろいろ御意見を拝聴いたしましたが、この刑事補償なるものの基本的な問題についてお尋ねをしたいと思うのですが、それはなぜかといいますと、先ほど来・いろいろ議論がなされております補償金額の多寡の問題ですね。それから先ほどお話がありましたが、公示の場合の文言の問題、それから大きさの問題とか、そういうようなことにも関連するものですから。松尾先生は公務員及び国家の行政行為のある意味で不法な行動に対する損害賠償、こういうふうにおっしゃってみえておりました。それから、後藤先生はまさにこれは権力犯罪国家権力による犯罪だ、こういうふうに言うておられるのですが、しかしこれはお聞きいたしておりますと、捜査の段階における国家権力の犯罪というふうに力点を置いておられました。そして、松尾先生は今の日本刑事裁判の問題として、捜査の方に重点があって公判の方が後始末みたいな御指摘もあったのですが、やはり公判の段階というのも一つあると思うのですね、捜査の段階ばかりではなくて。それは、やはり全体として公務員あるいは国家の行政行為の違法な行為に対する損害賠償なんだという受けとめ方でよろしいのかどうかということを、改めて参考人の先生方にお話しをいただければありがたいと思います。
  69. 松尾浩也

    松尾参考人 突き詰めて考えますと、その点はやはり再審ないし誤判による補償の場合と、それから通常手続における無罪判決後の刑事補償の場合とを本当は分けて考えるべきではないかという気がいたします。諸外国の立法例では、これをそれぞれ別の法律にしている例も珍しくないくらいでございますが、我が国では一本の法律の、しかも同じ条文の一項、二項という形をとっております。その点に若干問題がないとは申せませんけれども、一括して考えますと、ここでも捜査の段階のことがしばしば問題になりました。日本の捜査の段階とアメリカの状況などを比較いたしますと、ミランダ判決も引用されましたとおり相当に大きな違いがあるということは事実でございます。しかしその違いたるや、単に捜査の段階にとどまらず、公訴の提起、さらに公判の段階にもずっと引き継がれていくわけでございまして、最後の判決の時点をとって考えましても、アメリカに限らず、多くの国では無罪判決が言い渡されると、それは恐らく弁護の勝利であるという形で把握されるのではないか。  ところが、日本では必ずしもそうではなくて、起訴が間違っていた、あるいは捜査段階に問題があったというふうに、注意が前へ前へと来るわけでございます。その結果、何が改善されるか。改善される場合もあるでしょうけれども、全体としては、ますます公訴提起が慎重になり、捜査がますます丹念になるという、一種の悪循環を繰り返しているように思われるわけでございまして、その究極の姿が最近の有罪率九九・八六%という刑事裁判の姿であります。私は、これにはこれなりのまた一つのあるいは長所があるとは思うのでございますけれども、しかし、それは余りにも行き過ぎつつあるのではないか。刑事裁判の理想の姿が一〇〇%の有罪の裁判であるとは到底考えられないわけでございまして、その種の問題に対してきょうの御論議は一石を投じているのではないかという気がしております。
  70. 横山晃一郎

    横山参考人 松尾先生の御心配というのは、非常によくわかるところがございます。  お尋ねは、違法というふうに考えるかどうかということでございましたが、私はその問題はちょっとずらして、結果的に見てそれが法にとって望ましくない状態であった、こうは言えるのではないかというふうに思うわけでございます。そういう状態というのをなくすために、それじゃどうしたらよいかということになってきて、松尾教授は日本の場合は捜査に問題がある、もっとしっかりやらなければということで圧力がかかって、結果的にどうも有罪率九九・八六%は結構なところもあるけれども、しかし捜査のところが物すごく頭でっかちになってしまって、公判はそれの追認みたいな格好になる、こういうふうに言われている。私は、その点はまさにそのとおりで、やはり問題の解決というのは捜査の段階をどうするかということにあるのじゃないかというふうに、私もこの点は後藤先生なんかと同じように考えているわけでありまして、捜査段階というのがもう少し可視的なものになるならば、弁護人が取り調べに関与するということがもう少し広範に認められるならば、今のような問題というのは少なくとも何十%かは減るはずだ、こういうふうに考えております。  ところが現実には取り調べの段階では、三十九条で接見交通権が認められているにもかかわらず、それが例外化していることは御承知のとおりであります。また、できるだけ確実にという検察官の方の考え方も非常によくわかるわけでありますが、そうなりますと、客観的な証拠はある程度そろっているじゃないか、こういうふうに私ども第三者は思うのに、なおかつそこにプラス自白がないと起訴まで持っていけないというふうにお考えになる。そうすると、自白があるかどうかということを捜査の一線の方にも言うようになる。すると、ますます外と遮断しての自白の追及が行われる。ですから、問題の解決はどうしても検事、検察官の方々の起訴のところでの考え方というものを変えていただく必要があるし、また、捜査の段階で取り調べに弁護人の立ち会いを認めるという方へいくということが必要なのではなかろうかというふうに思っております。  随分問題をずらしてしまいましたので申しわけございませんが、ただ、違法の責任の追及として補償というものを考えるかどうか。違法違法ということを言いますと、どの段階でというと、松尾教授は再審のような場合と普通の場合と違うというふうにおっしゃったわけでありますが、結果的に見て望ましくなかったということでいきますと、それぞれの段階において、逮捕のときにそうすべきでなかったとか、起訴のときにそうすべきでなかったとか、あるいは有罪判決のときにそうすべきでなかったということがあり得るのではないかというふうに考えているわけです。
  71. 竹沢哲夫

    竹沢参考人 刑事補償国家賠償関係で言いますと、刑事補償は一定の列挙されている要件を満たせばということになっておりまして、その中に違法ということがあるかということになりますと、私ども具体的な事件を見るならば、私ども弁護人の立場で言うと大部分は違法な捜査であり、あるいは結果として違法な裁判であった。つまり、無実の訴えをこれだけ証拠を挙げて、あるいは隠された証拠を出してくれということを言ったのに、それがなされないまま誤った裁判に至ったということになれば違法ということになる事例が甚だ多いということが、私は実際上は言えると思います。ただ、刑事補償の場合にそれを要件とするということになりますと、これまた全然難しい問題になってまいりますので、私は、一定の要件を満たせばこれは十分の補償をする、その補償の中に補償請求する側の立場被告人であった人々の立場というもの、あるいは社会復帰に寄与できるような条件がその額の上でもそれからその補償公示の中にも満たされるようにしなければいけない、このように思っております。
  72. 後藤昌次郎

    後藤参考人 私は、無実の人間を起訴して有罪にするということ、あるいは起訴すべからざる人間を起訴して有罪にするということ自体が結果として違法であることは、これは間違いがないのであって、これが違法でないという法理論があるとすれば、法理論そのものに問題があるというように思っております。職務行為説ですか、最高裁の判例のとっている、あれが下級審の判例も支配している、あれは違法の問題と責任の問題を混同しているのじゃないかというふうに思います。あれは要するに責任の問題を論じているのである。しかし、責任の問題を論ずるときに、その時点における各種の証拠ではなくてあらゆる証拠ということで被告、弁護人側に証拠を開示させ、裁判所見なくちゃならないのに、開示もさせず、裁判所も知らないくせに、その時点で検察官はすべての証拠を見て合理的な判断をしたんだというような裁判をする、これはとんでもない間違いであると私は思っております。  それから、刑事補償法国家賠償法との関係において言いますと、私は国家賠償法が現実に正当に機能していないというふうに思いますので、これはちょっと例えがいいかどうかわかりませんけれども、交通事故なんかにおける仮払いみたいに仮の支払いということで、無罪になった人間が直ちに社会に新生できるというような、その新生を鼓舞、激励するようなお金を出す、そして挙証責任を転換して国家賠償、少なくとも転換してやる、無責任ということが難しいとすれば挙証責任だけは転換すべきではないか、このように思っております。
  73. 安藤巖

    ○安藤委員 時間が参りましたが、まだちょっとありますね。  最後に、竹沢先生にお尋ねしたいと思うのですが、先ほど竹沢先生は、死刑確定再審をやって、そして再審裁判でそれこそ無罪確定という、その段階における当事者の無念さあるいは苦しみ、これはまさに御本人でなかったらわからないことだろうと思うのですが、そういう点についての慰謝料も含めての補償、そういう意味補償、これが不十分だというような御指摘があったのですが、今、費用補償だとかあるいは被疑者補償規程だと、か国家賠償とかこの刑事補償とか、いろいろあるのですが、法制度上、現在のこの補償法あるいは一連のこういうもののほかに何かそういうような富罪事件の当事者の方たちを救済するという法的な救済措置、こういうものは考えられますでしょうか。それがあれば、一言お聞かせいただきたいと思います。
  74. 竹沢哲夫

    竹沢参考人 刑事補償法誤判犠牲者救済する一環だと思うのです。それでは、誤判を生まないような制度的保障をどういうぐあいにとらえるか。これは幾つかあると思います。一つは、先ほど申しましたように誤判原因を究明して、制度的にそれを直せるものは直していくという努力だと思います。そのことに関連して、私ども日本弁護士連合会では、先ほども申しましたように西ドイツからカール・ベータース氏をお呼びいたしました。そのときの話にもありましたけれども西ドイツにおいては、一九六〇年にヒルシュベルクという人が「刑事訴訟における無罪」という本を書いた、それが直ちに国会で取り上げられて、このように無罪という、しかもその無罪が確定した事例がここにあるとするならば、それは制度的な問題があるんじゃないか、それでは無罪確定した事例を調査研究してみなければいけないというので、チュービンゲン大学にその調査を西ドイツ連邦議会の名において委嘱された、その研究結果に基づいて直ちにといいますか、早い時期に再審法の改正にまで行ったという事例が報告されました。つまり、誤った裁判による犠牲が出た場合に、それが制度的な欠陥として示されているとするならば、その制度をどう直すかということについて、立法制度の問題としてそれを国会において取り上げてもらう、国会の責任においてやってもらうということがやはり一つ大事なことだろうと私は思っております。  それから第二番目に、それにもかかわらず誤判が確定してしまった場合のその救済、これがまさに非常救済手続としての再審制度の問題だろうと思いますが、これについては私ども日弁連は先ほど申しましたように提案をしているということになりまして、これも現行法の運用を超えた制度の問題としてひとつ真剣に考えなければならないし、特に私ども日弁連としては立法府にそのことをお願いしたいというぐあいに思っております。  そして最後に、それにもかかわらず確定してその犠牲が出てしまったという場合の補償というのが刑事補償法であろう。  私は、誤判の犠牲を救済するという制度としては、先ほど言いましたように誤判原因を追求して誤判をなくする、それは人が人を裁くものだから根絶することはできないにしても、極限少なくする努力を制度的にやること、二番目には再審制度改正、三番目には刑事補償の充実、この三点だろうと思っております。
  75. 安藤巖

    ○安藤委員 ありがとうございました。時間が来ましたので、これで終わります。
  76. 戸沢政方

    戸沢委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。  参考人各位におかれましては、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。  この際、暫時休憩いたします。     午後零時三十九分休憩      ────◇─────     〔休憩後は会議を開くに至らなかった〕