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井上参考人 井上でございます。
多様化する
現代社会における
災害対策ということで御
意見を申し上げなければならないわけでございます。私は、二十年間
中央政府の
職員をいたしまして、二十年間
国立大学の教師をいたしまして、ちょうど半々でございますが、もうきょうは
最後の御奉公だと思ってまかり出た次第でございます。私は
都市計画に関与しておりましたので、主として
都市防災の面から私の日ごろ考えていることを申し上げたいと思います。
現在、
関東大震災とこれからの
地震というものを考えますと、いろいろな点で違った様相、問題がございます。これに対しまして、例えば
人口が集中しておる、あるいは市街地の
高層化が進んでいる、あるいは
自動車交通の増加があるということ、いろいろございますが、私はその根本に、
災害の発生するケースが今まで考えていなかったようなことに対応しなければならないということがあろうかと思うのでございます。例えば新しい材料を使うとか、あるいは考えられなかったようなところから過熱して火が出てくるとか、あるいはいわゆる新しいオフィスのいろいろな機器の作動すること、それに対するいろいろな故障あるいは誤作動というようなことがございまして、私はそういうことが
都市の中で、殊に
都市が
機能化すればするほど新しい対応、
対策が考えられなければならないと思うのであります。そのように、今私
どもの
対策も変わるけれ
ども、
災害自体が新しい姿で我々に挑戦してきている、殊に
都市において、
都市生活においてそれが甚だしいということを感ずるのでございます。
私は、時間も短いので、幾つかの例を申し上げまして、これだけは難しいけれ
どもお考えいただきたいという
意味で申し上げたいと思うのでございます。
まず第一は、
地下利用の問題でございます。この点につきましては、
東京に
昭和の初めに
地下鉄ができまして浅草と上野が結ばれたときから、
地下に
商店街を設けるというようなことがございました。そして、戦後やみ市の盛んなときに、渋谷の例のハチ公の
広場でございますが、あそこをきれいにしなければならないということから、そこで生きている
人たちを
地下に移して、そして
地下街というものを認めたわけでございます。
しかしながら、
地下街の持つ非常に大きな
危険性、これは例えば静岡でもそのほかの
場所でもいろいろな実例がございますが、どうしても防ぎ切れないような問題もございまして、
避難路とかそれからいろいろな
防御施設をいたしますが、
政府の
考え方としては、これはよほどのことでない限り認めることはできないという方針が長く続いたわけでございます
しかしながら、ここ数年、この問題につきまして
地下も
利用するという方向へだんだんと
考え方が移りつつあるわけでございます。これはもっともなことでございます。高度に土地を
利用するには
地下を使わなければならない、あるいは
鉄道をさらにこれ以上
都市の
中心部へ持ってくるにはどうしても
地下に行かざるを得ない。
皆様が
東京駅その他の
地下駅を
ごらんになりますと御理解いただけるわけでございますが、非常に深いところまでそのような
利用の仕方というものを今後は認めていこう、もっとやりやすくしようというところへ変わりつつあるわけでございます。
これに対しまして、私はもちろんそういう
考え方で進むべきだと思いますが、またそれに対する土木工学的ないろいろな
技術は非常に進んでいるわけでございます。従来一本の円柱を通して、そして
鉄道をその中へ通していたのが、二つ重ねて眼鏡のような形にして、それを重ね合わせて掘っていくというようなことが現に
東京でも行われているわけでございます。その方が経済的でもあり強いということで、
技術の
進歩というものは非常に大きなものでございます。また、
変電所を
地下に入れて上を公園化しようとかいろいろな考えが出ているわけでございます。
私は、これらの企画あるいは
計画がそれぞれ単独に進まないで、ある
地域に対して総合的に、将来ここには何を入れるということをはっきり確認した上で
町づくりをしていかなければならないのではないか、こういうふうに考えるわけでございます。今いろいろな
地下の
施設を見ておりますと、これはそれぞれ早い
者勝ちでございまして、
人間が一番後に残されて大きな下水道の管の下を私
どもがくぐり抜けるとか、あるいは横浜の駅の下の
広場、
商店街の
広場を
ごらんになりますと、上がったり下がったりしながら人が歩かなければならないというようなことがございます。全体の
地下利用をするならば、
地下利用もやはりこれは
一つの総合的な
構造物として考えていかなければならないのではないか、こういうふうに考えるわけでございます。
それから、その次に
水害に対しましては、これはもういろいろな
対策がございまして、私がここでいろいろ申し上げることではございませんが、私は
長崎県に起こりました二つの大きな
水害を、
一つは
行政官の立場として、
一つは学校の
職員として対応いたしました。
長崎の
諫早で起こりましたときには、これは「
眼鏡橋の嘆き」という詩を書いた人がおります。と申しますのは、
眼鏡橋は絶対にどんな
洪水が来ても壊れない橋でなければならないぞと言われて、
諫早ではつくったわけでございます。しかしながら、頑張ったことによって、朝、夜が明けてみたらすべての人がそこで自分に非難の目を向けたということがございまして、結局、
眼鏡橋そのものが
一つのせきとめになって、そしてそれが大きな
水害を呼んで、その後を私
どもは
計画高水量に従って新しい川をつくったわけでございます。それは最近の第二の
災害、
水害のときには、そういう
意味で
諫早には
被害がなかったわけでございます。それで、第二の
長崎市に起こりました
水害の後始末のときには、私は全体の
計画の
取りまとめ役として現在の
水害に強い
都市というものの
計画を提案してお決めいただいたわけでございます。
しかしながら、私は非常に大きな疑問を持っておりますのは、この第二の
水害のときに三十時間に五百ミリの雨が降った。五百ミリと申しますのは、
東京に降る雨の三分の一が三十時間に降ったということでございます。そして、それだけであればまだあれでございますが、その中に今度は、これはだんだん調べていくとわかるのですが、局所的に非常に大きな
集中雨量がある。例えば一時間に二百ミリを超える雨がある部分に降り注ぐ、これに耐え切れないで動き出した土砂が結局あの
被害を生んだわけでございます。そのような経験を
長崎市は持って、そして
河川の
行政はそういう箇所についていろいろと
対策を講じておられるわけでございますけれ
ども、全国的に見て、五百ミリの雨が降り、そこへさらに一時間二百ミリの雨が降って耐え得るような山地の始末ということはなかなか難しいんじゃないか。ということを考えますと、その
対策ということは非常に大きな問題になるのではないか。少し早く警報を出せば家は失っても人の命は失わない、これが今の
長崎の
考え方でございます。ということは、
観測網をよくしきまして、そして刻々に来る
雨量を検査いたしまして
避難命令を出す、こういうようなことでございますが、やはりこれを考えていかなければならない、こういうふうに思うわけでございます。
それから、
地震の場合で申しますと、いよいよ
地震が起こったというときに、初めの一日とかそういう間の
対策というものがどうなるだろうか。私自身、今
首都高速道路公団の
管理委員会委員をやらさせていただいておりますが、
首都高速道路というものが一体どんなふうになるだろうか。この上を走っていた
自動車が突然とまる。今でもとまると言っておしかりを受けておりますが、とまるわけでございます。それがどこかから下へおりるにしても、これはなかなか難しい問題であろう。
道路とそれから
鉄道網、これはすぐとまる。
鉄道はもっと鋭敏に、ちょっと揺れてもすぐとまるわけでございますから、それだけ安全だと思いますが、なおかつ余震が頻々として起こるときに、その
鉄道もまた
利用するのが難しいんじゃないか。ということを考えると、私は、どうしても
ヘリコプターというもののもう少しきめの細かい
利用方法ということを考えておかなければならないんではないか、こういうふうに思うわけでございます。
それらのことを考えますと、
ヘリコプターがおりる
場所というのは一体どういうところだろうか。今、立川で私
ども計画の御相談にも乗っておりますが、あそこに非常に大きな基地ができるということはいいけれ
ども、そこからそれぞれの局部へ行く行く先はどうだろうかということを考えるわけでございます。私はいろいろな会合でいろいろな話をしておりまして感じますのは、やはり今の行き方は、広い公園であるとかそういうものをねらっているわけでございますが、
小学校の校庭というものが住民にとっては、小さな
子供から大人まで非常に親しみの持てる
場所である。そうとするならば、
小学校の
校舎というものを非常に頑丈につくって、例えて申しますと、
小学校の
校舎の上には
ヘリコプターもおりられるというような
場所をつくって、これを全体の細胞の
最小単位にすべきではないかというふうに思うわけでございます。
関東大震災のときには私は大森の山の手の方に住んでおりまして、
小学校前でございますから
関東大震災を知っている世代の
最後だろうと思うのでございますが、父が
東京に勤めておりまして、駆け足で帰ってきて家の中へ入ろうとするのを外にいた我々が引きとめたというようなことで、やはり家族が心配であろう。そのときには電話が非常に詰まってくる、こういうことを申しますが、電話の連絡、通信は毎年進んでまいりますので、だんだんそういう心配はなくなるのではないか、むしろ通勤距離が延びているということに対して、一家が一緒にならなくてもそれぞれが安心して
災害の後を過ごせる、高齢者も幼年者もそういう形で生き延びる工夫が必要ではないかと私は思うのでございます。
それからもう
一つは、高速
道路は大丈夫かとか橋は大丈夫かとかいろいろ言われまして、それに対して、南関東に大
地震が起きたときにどうなるかということを
調査委員会は長年にわたって
調査を続けております。さらに、これはニューヨークの下町で起きたことでございますが、五十年前につくった高速
道路が落ちて、それを取り除いてその跡を今再開発いたしておりますが、
施設が古くなって使えなくなるというような問題がございます。今は丈夫でも年代の変遷とともにこれが変わっていくということも考えなければならないのではないか、私はこういうふうに思うわけでございます。
それからもう
一つ、これは非常に先の話でございますが、本当に
災害に強い町というものをつくるならば、市街地は面的整備をしなければならない。面的整備と申しますのは、
計画されたような広がりのある町をつくっていくということでございます。
一九六〇年というのは、六〇年安保と申しまして非常に騒がしい年でございましたが、この年に初めて
人口集中地区という統計を十月にとって、人が固まって住んでいる
地域が一体どれだけあるだろうかということを調べたわけでございます。そのときに、三千八百平方キロの
地域に国民の四五%が住んでいる。ということは、四五%の人は全体の国土の一%の中に住んでいるというのがそのときの結果でございまして、私
どもは非常に驚いたわけでございます。
それが現在は三倍になりまして、三倍になったかわりに住み方は、これは
人口密度と申しますが、ずっと下がってきております。ずっと下がってきておりますが、それほど下がっておりません。やはり固まって町をなしているわけでございます。そして、二十一世紀を迎えるころにはもう一倍、四千平方キロぐらいの市街地をつくらなければならない、こういうことが課せられているわけでございます。
私は、これらの市街地はなるたけ
計画的な面的整備を重んずるようなつくり方をしてほしい、こういうふうに思うわけでございます。非常に時間のかかる、お金のかかる大きな問題でございますが、市街地をただ自由に、土地があるからといって家を建てないで、そこに何らかの
計画を入れていくということが必要なのではないか、こういうふうに思うわけでございます。
現在、
日本の家屋の統計を見てみますと、四メートル以上の
道路に面している家屋は全体の四割しかない。二メートル未満あるいは四メートル未満の
道路に面した家に住んでいる人は六〇%に及ぶわけでございます。ということは、救急車の問題とかいろいろなことを考えますときに、行動の自由というものは非常に限られておる、そういう点が今のような面的整備をすることによって救われる、少しはよくなるというふうに私は信ずるわけでございます。これは非常に長い問題でございますが、なおかつ、二十一世紀を迎えるこの十何年の間にもう三千平方キロ以上の市街地を我々はつくらなければならない。市街地をつくるときには必ずそういう
計画的な配慮が必要であるということを私は強調したいと思うのでございます。
お耳を汚しまして甚だ恐縮でございますが、また、御質問がございましたらお答えいたしたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)