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政府委員(
千種秀夫君) 御
指摘のとおり、身分法といいますのは、国民の意識あるいは社会的な伝統といったものに根づいておりまして、そう簡単に理論的に割り切れるものではございません。
そこで、この
特別養子というものの提案といいますか、そういうことがなされたのは遠く
昭和三十年代にさかのぼるわけでございます。
法務省でもそういう終戦後直した
民法を全面的に見直すということを、これは
昭和三十年代初めからずっとやってきておりまして、三十年代にはその問題の事項別な整理をいたしまして、その中でも
特別養子が今のような形で提案されていたわけでございます。しかし、
昭和三十年代というのはまだ我が国の社会もそれほど安定はしておりません。そういうこともありまして、三十年代の議論はどっちかというと消極的ということでございました。
それがまた四十年代になりまして、特に四十年代というのは、ヨーロッパなどではそういう
養子制度がどんどんと進んだ
時代でございまして、一九六七年にヨーロッパの
養子協定ができたということでございますから
昭和四十二年でございますが、そういう
外国からの知識、情報というものもかなり入ってきたことは事実でございますが、そこに生じたのが例の菊田医師事件でございまして、これが
昭和四十八年のことでございます。
昭和四十八年というのは、四十年代ですが、そろそろオイルショックで世の中が大いに変わってくるような
時代でございまして、そういう時期にそういう問題が起こってきたということは、これは身分関係というよりはどちらかというと未婚の母とか、要するに、保護を要する
子供が社会の中にたくさん出てきたという社会現象に対する注目であったわけでございます。そういう
意味で身分法関係の基礎となるものは、
日本の場合は血縁関係を基礎として戸籍
制度もできておりますし、なかなか
一般的には動かしにくいという情勢でございましたが、新しく出てきた社会問題として、保護を要する
子供がある、そういうものが現実に量としてあるということがそこで初めて明るみに出たわけでございます。
ところが、そのとき、四十八年当時におきましても、やはり菊田医師事件に対しては世論は非常に反対でございました。当時、あれは実子特例法というふうな名前で呼ばれていたわけでございますが、そういう提案に対しましては、血縁関係を基礎とする我が国の
制度にはなじまない、戸籍の真実性を害する、あるいは倫理的でないそういう問題を助長するとかいろいろな社会的な批判が多うございまして、これまた実らなかったわけでございます。しかし、四十八年から五十五年ぐらいまでの間そういう議論が続きました中に、やはりだんだんと都市化が進んで行きまして、そういう要保護児童の数もふえてまいりました。それに対する社会的な行政もだんだんと進んでまいりまして、そういう中でどうしてもそういうものに対する需要というものもよそ並みに考えなければいけないんじゃないかという認識が新たに出てまいりまして、それでこの問題が改めて取り上げられたのが
昭和五十七年からでございました。
それからことしの二月までですから三年余議論を進めます。その過程で、私
どももいろいろな学者の意見、そういうものをまとめて世に問いまして、中間試案を発表し、各種団体からいろいろな御意見を承りました。しかし、その時点におきましてはそういう
制度の創設ということにつきましては
基本的に皆賛成であるというところまで参りまして、その間に私も大いに
時代が変わったなという感を強くしたわけでございますが、しかしそれは結局、いろいろな批判を踏まえてのことでございまして、我が国の身分
制度、少なくとも
養子制度を全部そういうふうに変えようということについては、これは皆さんの合意はなかなか得られないでございましょう。今でもそう思います。
しかし、今までの
養子制度をそのまま存置した上に、特別に必要なそういう児童に対して特別な
養子制度、それは我が国がひとりで考えたことではなくて、これはヨーロッパにおいて既に何十年かの経験を経て成長してきたそういう
制度を参考にすることは決して無理なことではないだろう。そういう
観点から、個々の条件につきましてはいろいろ賛否両論ございますけれ
ども一大方の意見としてこういう
制度を是認するというふうに皆さんおっしゃっているように私
どもは認識しているわけでございます。
ただ、そういう経緯がございますので、これにつきましては非常に
要件を絞って、
一般養子と並んでこういう
制度をつくるわけでもございますので、かなり
要件を絞って例外的な
制度としてここに提案している次第でございます。