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薮仲分科員 私は、後藤田官房
長官に以下申し上げる点を質問するわけでございますけれども、三十分で御理解をいただくのは無理かなと思いつつ官房
長官に質問いたします。
私がきょう官房
長官に質問いたしますのは、私にとっては官房
長官は人生の大先輩です。また政治家としての経験も豊かでございます。そういう現
内閣の有力な閣僚としての官房
長官の政治家としての御意見、また私は翻って一人の人間として、人の子の親としてどう思いをいたすか、きょうはその辺を一言大臣からお伺いすればこの質問は終わりだろう。
関係省庁呼んでございます。いろいろ具体的なことは申し上げますが、官房
長官は私が要求している省庁の言わんとすることは先刻御承知だと思うのです。時間がなければ官房
長官のごあいさつを言いただいて終わりにしたいところでございますが、私がなぜきょう官房
長官にそれを申し上げるかといえば、私のところに五日ほど前一通の手紙が来ました。
私は今五十歳ですから、終戦のときに小学校四年でした。戦争を知らない世代かもしれませんし知っている世代かもしれない。ただ子供心にたった一つ記憶しているのは終戦、戦争が終わったんだな、おのとき子供心に一番うれしかったのは灯火管制がなくなったこと、ラジオが大きな声で放送できたこと、世の中が明るくなったこと。私は海岸におりました、艦載機が来なくなったこと。平和っていいな、小学校四年の僕にはそれが非常に実感として、終戦の実感を味わいました。
私はいただいた手紙を読んだときに、戦後四十年であるけれども、まだ戦争が終わってないのかと心の痛みを覚えました。それは函南にいらっしゃる杉崎さんという方からの一通の手紙だったのですけれども、その中に証明書が二通と神奈川県の行政監察局の手紙が入っておりました。これがそうですけれども、この証明書二通と、神奈川行政監察
局長名で杉崎勇四郎殿という手紙が入っていました。私はこれを読んでみました。この中に書いてあったことは何かといいますと、こういうことなのです。
別紙に明らかのように、
昭和四十一年七月十六日神奈川県の平塚の海岸へ遊泳に出かけ、たき火をしたときに不発弾で受傷いたしました。
私の妻は当時二十八歳です。一時間後に死んでしまいました。私は内臓が破裂しました。腸が飛び出しました。そして戦後四十年といいますけれども、私はその受傷してから二十年たちました。現在五十六歳です。だんだん年をとってまいりました。当時四歳だった下の英子がお嫁にいって子供が、孫が生まれました。そして長男も、当時七つでしたけれども大きくなって父を助けるようになりました。しかし行政監察局から、しばらく待ってください、こう書いてあるのです。「上記の不慮の事故については、まことにお気の毒に存じます。」「現在の段階では今すぐご期待に沿うことができず、まことに残念ですが、今しばらくお待ち下さるようお願いいたします。」書いてある内容は、旧陸海軍等の爆発物の爆発による、被害者等に対する見舞金の支給に関する法律案が次期
国会には提案されます。そしてこれは「防衛庁と
内閣審議室とがおおむね了解済みである」、ここまで読みますと、ああ法律が必ずできるんだなと期待感を持ちました。本法案が制定されたときに内容と手続の方法をあなたにお知らせします。お待ちください。
私は、杉崎さんのこのお手紙をいただいて、それから二十年間ある意味ではじっと待っておりました。なぜ
裁判しなかったのですか。経済的な理由もあった。もう一つは、
四歳と七歳の子供を育てるのに後ろを向いでいるゆとりはありませんでした。必死に私はきょうまで生きてきました。当時は大工でした。それから大工の仕事はできませんでした。そして運転手をやりいろいろと職を転々として、現在細々とラーメン屋を一人でやっております。
私はこのお手紙だけでは実態がわからないので、いろいろ
関係省庁に聞いた上で、きのう夜三島まで行きました。私は、ある意味では政治家として心の底から残念だった。これでいいのかと思った。それで私は
関係省庁からすべてを聞いた上で三島まで行ってきました。
御主人に会いたい。家族みんな来ていました。お孫さんも来ていた。息子さんも娘さんも来ていた。私はお父さんにだけ事情を聞こうと思った。これは大変御無札な言い方でお許しいただきたいのですが、官房
長官に実態を知っていただくために私は申し上げるが、顔面が砂で真っ黒です。こちら側の半身も砂で真っ黒ですよ。私に見せてくれました。今でも腕が痛い。もう近々医者に行かなければならない。切ればすぐ鉄粉が出てくる。そういう状態になってもじっと何も言わずに、今に政府が、国が必ず私に何か声をかけてくれるだろうと待っている。そういうまじめな一人の人がいるわけです。私はこれを聞いて、お会いして非常に心が痛んだ。本当に何とかできないのかなと、私はお会いしたときに断腸の思いがした。お見舞いが一言あったのですか、ありません。弔慰金ももちろんありません。
私はお嬢さんに聞いたのです。お嬢さん、私はあした官房
長官にお会いして
委員会でこのことを一言言いましょう、お嬢さん、何か
長官に直接言ってもらいたいことがあったら私が言ってあげる。そうしたら言いました。僕はその前に聞いたのです、そのときのことを知ってる。知っています。お母さんが死んだ瞬間よく覚えています。それからお兄ちゃんと二人で施設にやられました。お父さんがお医者さんから帰ってきたけれども、余り丈夫じゃないのでお台所の仕事をしました。背が低かったので踏み台を置いてお皿を洗うのに苦労しました等々語ってくれました。でも、その最後に私に言ったことは、
薮仲さん、お願いがあるのです。当時の新聞を
薮仲さんは見たそうですね、私は知らないのです、見せてください。お母さんかどうして死んだのかお父さんは余り語ろうとしなかったし、私も思い出が寂しいことばかりだから聞こうとは思わなかった。でも
薮仲さん、新聞を送ってくれ。
私はこの問題を聞いたときに、当時の新聞を
国会図書館から朝日、読売、神奈川新聞等全部取り寄せて見た。私は、これを読んでみて非常に悲しかったですね。これは縮刷版からとったからこういうようにとり方が汚いが、「血に染まった行楽三人死に一人重体」ここで笑っているお嬢さんが英子さんです。ここに書いてある。「奇跡的に助かる 母の死知らぬ英子ちゃんカメラにニッコリ」ここに書いてあるのですよ。「母親の死を聞いていないため悲しみのようすは見せず」以下は英子ちゃんですよ。「「ドカンと大きな音がしたの。とてもこわかった。音といっしょにおかあさんのからだが横へ飛んで打っちゃった。おとうさんも病院へ行ってんの」とはきはき答え、カメラを向けるとニッコリしたのが、一層あわれをさそった。」当時の新聞です。しかも、お兄ちゃんの方は家にいたのです。家にいて、近所の人がわいわい騒いだ。「どうしたの。何かあったの」これは勇君というお兄さんなんです。「おとうちゃんもおかあちゃんも何もいわないで出かけちゃった」と、ポツンとひとこと。あとはいすを持ち出し、近所の子と無心に遊んでいた。」これがその日の新聞ですよ。当時四つと七つです。
今、お嬢さんが言っていました。私も結婚して子供が一人生まれました。一歳の子を連れてきていました。今私の夫が、あるいは私が不慮の死で死んだとき、この子がと思うと
薮仲さん、この事実を教えてほしい、私の目で確かに、お母さんかどうして死んだのかを知りたいのだ。こう私に言われたとき、私は、そのとおり官房
長官にお伝えします、一人の人間としてあなたの言うことは、戦後は終わっていない、戦後四十年というけれども、一人一人の心の傷の痛みは決して――いろいろな形でのことは言われます。
裁判が云々とかそんなことではなくて、一人一人の歴史の中に、人生の中に戦争はきちっと刻み込まれている。今もしょいながらじっと黙って耐えている人もいらっしゃるのだなと私は思ったのです。
それで、お父さんに言いました。杉崎さん、今度のこの問題を聞いて私が一番残念だったのは、現在の行政府の中にあなたの問題にダイレクトにこたえてくれるところはありませんでした。私はこの問題を知ろうと思って
関係官庁みんな聞きました。法務省も聞きました。法務省は、
裁判に持ち込んでくだされば法務大臣が被告です、こういう答弁でした。それから、警察庁にもいかがですかと。警察庁は、後ほど聞きますけれども、戦後六件の事案がございました、ただしこれは加害者を特定できません。官房
長官として、警察庁
長官ですからその辺は十分御承知だ。加害者を特定できないので、事案としては記録はあるけれども、事件としては記録は残っておりません、警察庁としてはそれは調べました、しかし加害者は特定できずということで、書類送検とか送致はいたしません。これは後ほど正確に聞きたいと思います。そして、いろいろ聞いてみると、海岸は建設省ですか、農水省の漁協ですか、運輸省の港湾区域ですか、こういう答弁が私には返ってきた。私は、そういうことをこの杉崎さんに言えるのかな。じゃどこなんですか、
総理府にも聞きました。
総理府は交付金を配っているだけです、じゃ私はこの
分科会でどの大臣に質問すればいいんだ、どこもございません、これは
内閣官房で処理いたします。大臣が決まるまで何日間もかかったんですよ。
私は、私の部屋にお見えになった方に、何人か本当にざんきの思いでこの事実、これではよくないのじゃないですかと申し上げた。私は官房
長官に中曽根
内閣の本当の国務大臣として、まだ戦後処理は終わっていない、国民のその心の痛みに、私はきょうこれをどうするか、例えば法務省は
裁判をやりなさいとおっしゃる。私は新島の一審、二審、三審の記録も全部読んでみました。大変です、これは。この記録の中にあるのにどうやってやるかというと、国賠法ですから、警察官の方と東京都を相手に国家賠償を求めているのです。これはここに書かれているのを読んでみると、私は警察官の方だってやりきれないと思うのです。この奥村さんという署長さんは、この辺は危険ですといって島状報告を警察庁に出しているのです。でも、判決としてどう言われるかというと、警察の責任というものを問われなければならない。まじめな警察官の方だったらやりきれないお気持ちだと思う。
裁判すればいいと法務省がおっしゃるけれども、まあそれは言い過ぎかもしれませんが、
裁判すれば本当にこの平塚の場合も、警察の方は、「平塚署の調べでは、戦後間もなく米軍が旧日本海軍の弾薬、砲弾をコンクリートで固めて現場近くの沖合に沈めたが、これがときどき流れつき、当時、現場付近で砲弾を捨った二人が死傷した事件があった。」こう記事になっているわけですから、警察の方はその辺は危ないということを十分に承知していらっしゃったと思う。新島の場合も、現場は危ないですよといいながら、不慮の事故でこうやってたき火で亡くなってしまった。これをやると、この新島の場合も、四十七年に提訴して最高裁の上告棄却の判決が出たのに十数年かかっているのです。今杉崎さんに私は弁護士を紹介しましょうと申し上げた。でも、これから十数年かかったら生きていらっしゃるかどうか、これは失礼な言い方だ。でも、これから十数年、果たしてどうなのかな。健康のぐあいも、お年をとられていらっしゃるし、何の一言もないという実態を考えて、私は官房
長官にこの問題についてどうお考えか最後に聞きたいわけでございます。後々のために、これはごく事務的な問題でございますから、
関係省庁もおいでだと思いますので、簡単に言ってください。
警察庁にお伺いをしたいわけでございますが、戦後不発弾処理によって死傷事故、亡くなった方の事件はどういう実態であったか、簡単におっしゃっていただきたい。
またもう一点は、ただいま申し上げた四十一年七月十六日の千石海岸の死傷について、現場を検証なさった警察としてその実態をどう認識していらっしゃるか、それから私がさっき申し上げたように、六件のうち事件となったのはどれなのか、この件ちょっと簡単にお願いしたいのですが。