○秦野章君 今の宣明書で、司法のうちの、まあ司法というよりも行政の検事総長の指揮でもって不起訴、アメリカの方は起訴しない、永遠にしないと、こうやったわけだ。ところが、刑事訴訟法の起訴するかしないかというのは確かに検事の専権事項だけれ
ども、言うまでもなく、これは立法の精神というものは、その被疑者の利益を顧慮して不起訴にするとかしないとかを決める一種の刑事政策であるということは、学説全部一致しているんだよ。ある人を処罰するためにある人を不起訴にするということはあり得ないんだ。だけど、検事は何とかして
田中をやらにゃいかぬということでやった。そういうことも商売熱心の余りということはあるんだけれ
ども、ちょっとおかしいんだよな、立法の精神からいけば。
しかし、一方、それはさておいて、裁判所がアメリカから、最高裁が何か保証とかルールを何とかすれば、向こうの調書をよこすということでしょう。
日本とアメリカの裁判の違いというのを大きく見ると、要するに陪審が向こうはある、免責制度がある、司法取引がある。
日本にはこれ全部ないんだよ。多少司法取引的なにおいがする部分は訴訟手続の中で実際上ある部分はないとは言えないけれ
ども、とにかく免責というのはないというのは、学者も実務家も一致した見解なんだ。免責というのは、おまえしゃべったら罪にしないよとしゃべって、しゃべらせるわけよ。おまえ罪にしないと言ってしゃべらせるわけよ。その調書を証拠にするというようなことは、これはおかしいんだよ、
日本にそういう免責制度ないから。あるなら教えてもらいたいけれ
ども、これは現に裁判中だから私は
答弁は求めない。求めないけれ
ども、これはどうしたっておかしいんだよ。
それで、宣明書の発行を司法行政でやったと言うんでしょう、裁判所は。司法行政というものは実体の裁判に影響することはないはずなんだ。特定、具体的な事件について司法行政というのはあり得ないと解釈すべきであり、司法行政なら下の裁判官は拘束されるわけだよ。司法行政は、一種の命令みたいなものだ、最高裁の。ところが、問題はそこなんだ。司法行政は命令で拘束。しかし事件の実体裁判はまだ最高裁に上がってこないんだから、拘束しちゃいけないんだよ。事件は一審、二審、三審、順々に上がってくるんだよ。私は、飛鳥田さんとテレビで対談したときに、こんな宣明書を採用して、私はこれは憲法違反だと言ったら、飛鳥田さんが言うには、まあ憲法違反と言わぬまでもこんなことをやっちゃいけないと、こうはっきりテレビで私に言ったよ。これはイデオロギーを問いませんぜ。何で最高裁がこんなあほなことをやったかと私は思うよ。これは、政治が腐敗しているというあらしのような
一つの空気の中で、最高裁も裁判官もその圏外に立つことは非常に困難だというその事例なんだ。圏外に立たなかったんだよ。これは、マスコミというよりも裁判官というものは、司法の独立の
立場なんだから、そんなことをやっちゃいけないんだ。後で最高裁におった裁判官のうち三人、一人は岡原という
長官をやった人だ。この宣明書をお墨つきと言っているんだ。これは講演したものが文書になっているよ。お墨つきと言っているんだよ。それから藤林という人は
裏書きと言っているんだよ。最高裁が検事の要請に
裏書きしたら行政と司法は一体じゃないか。それから團藤さんはちょっとうまいわな、さすがに名手だから。しかし團藤さんだ、本当を言うとこれは問題だと、こう言っている。これは学士会館での演説の中にあるわけだ。あのあらしの中で、あの空気の中ではやっちゃったけれ
ども、検事総長に最高裁が
裏書きしちゃおかしいよな。これは、裁判所な、私が言っているのを、
答弁求めないけれ
ども、やっぱり聞いてもらいたいと思うんだ。こういうことをしちゃいけない。政治が腐敗したら政治が片づける。腐敗しているから司法権が乗り出したら、司法消極主義の放棄ですよ。司法というものは政治に乗り出さないという、これは教訓ですよ、司法消極主義というのは。司法積極主義になって政治を直そうといったら、これはえらいことになるよ。今は自民党が天下だからいいと言っているけれ
ども、野党だって考えなきゃだめだよ。自分がとる可能性もあるだろうがな。そのときに司法が政治化していいのかい。私は、こういう問題は党派を超えて、司法制度の
基本的問題として考えなきゃいかぬと思う。司法と行政は別だ。むしろ、司法は行政つまり検察の方を批判する。批判が足らなければ、下手すると冤罪が起きるという。問題があるわけよ。再審までいって死刑になったという者の中に、私は本当に神様から見て無罪だったという人があると思うんだよな。幸い裁判で再審で無罪になった。疑わしきは罰せずの原則もさることながら、私は神様が見てあの中に無罪という者がいただろう。一人の冤罪を出さないためには、百人の有罪も見逃せというのが、これは確言にあるんだけれ
ども、これは人権というか、冤罪でやられたということになったらこんなつらいことない。過剰な法律主義は法律がない社会よりも怖いということはしみじみ感じなきゃだめだ、裁判官は。そういう
意味でこの宣明書というものは、非常に私は間違っていると思うんだ。
田中政治がいけないんなら、
田中政治を超える政治を誰かがやりゃいいんだ。やらなくちゃいけないんだ。やったらいいじゃないか。そう文句言う者は。それを司法が片づけるという格好になったということはどう考えてもおかしいし、法務省も考えるべきは、まだ裁判が終わる前に検事総長なんかテレビで有罪を確信するなんて言うのは、裁判官に予断を抱かせるんだ。先進国でこれは禁物になっている。何でそういうふうにあおりそそのかしてこういうふうに持っていったかというのは私は大変問題で、これはどうしても納得いかぬ。
それから免責制度というのは
日本にないんだということは、これは当たり前なんでね、これを導入したということはアメリカのつまり要求に対してそのまま従ったということは、アメリカ追随というか、やっぱり独立国としてはまずいんだよ。最高裁も国籍があるんだから。
日本の最高裁だ、やっぱり司法の独立というものは
日本の司法の独立だということはきちっとせにゃいかぬ。これは先例になったらえらいことだ。私はそういう点でよく聞いておいてもらいたいと思う。
それから最後にちょっとまた戻った話になるけれ
ども、防大の学生が卒業して会社へ行っちまうのがいるんだよな、結構。防大というところは月謝を納めるんじゃなくて、
政府が金をやるわけだ、金をやる。月に七万やって、ボーナスもやるわけだ。卒業式の後けろっとして向こうへ行っちまうんだ。向こうというか、鹿島建設とか、そういうところへ行くわけだよ。それで、それは自由だからそれはいいかもしらぬよ、自由だから。自由だと言えばいいかもしらぬが、大体
教育というものは義務
教育を除けば、国立でも私立でも自分で月謝払って
教育を受付るんだよ。お上から月謝もらうというのは、あれは防衛の幹部になるという
防衛庁設置法から来ているんだから、これに平気だという感覚。これは
加藤さんのせいじゃない、前からだから。私はそれに対して今ここでどうのこうのと言うわけじゃないけれ
ども納得いかぬ。詐欺だよ、これ。実態はあそこは主が工学部、つまり東京工大の孫みたいなことをやっているんだよ。中に防衛研修会といって防衛というものは特別のようにやっているんだよな。これ
加藤さん点検してくれよ。あそこをのぞいてみると、やっぱり工学部ですよ。工学部もいいんだよ、いいんだけれ
ども、学生の防衛研修会というのは何だね、これまさに防衛大学そのものじゃないか。ああいうのを長年にわたって来ているんだけれ
ども、しかも
総理は防衛大学の卒業式へ行けば、精強な自衛隊。なあに、ころっとどっかの会社へ行っちまうんだよ。それを平気だというのは困るんだよな。だからこれは何か対応策があるだろう。縄つけて引っ張るわけにいきませんぜ。いかぬけれ
ども、例えば出るときによく話をして、第二予備隊か何かしらぬが、予備自衛隊なんてありますな、そういう第二予備隊でも何でもいいんだよ、もし防衛意識というものをあの訓練によって持てたということなら、やっぱりそういうふうなことにはめていかないと、防衛ということはやっぱり防衛意識を持つすそ野を広げるということが大事なんだから、私は陸上自衛隊でもそうだと思うんだ。あれ減らせとかなんとか言うけれ
ども、やっぱり防衛の陸上自衛隊なんというものは、ある
意味で一種の
教育機関と見た方がいいんですよ、それは逃げるという者もいっぱいいる世の中。そうでない者をやっぱり大事にせにゃいかぬ。そういう
意味においては、まあ時間が来たけれ
ども、こんなばかばかしいことはよくない。
教育とは何ぞや。大人だったら自分で月謝納める。特別に頭がよくなくて月謝ただというものもいい。しかし銭を国からもらって、はい、さよならというのはどう考えても私は理解できぬ。
そういうことでひとつ、これは
答弁要りませんから、
加藤さん頼みますよ。
じゃ終わります。(拍手)