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1985-11-26 第103回国会 参議院 文教委員会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和六十年十一月二十六日(火曜日)    午前十時開会     ―――――――――――――   出席者は左のとおり。     委員長         林  寛子君     理 事                 杉山 令肇君                 柳川 覺治君                 粕谷 照美君                 吉川 春子君     委 員                 井上  裕君                 山東 昭子君                 世耕 政隆君                 仲川 幸男君                 林 健太郎君                 林  ゆう君                 真鍋 賢二君                 久保  亘君                 中村  哲君                 本岡 昭次君                 高木健太郎君                 関  嘉彦君    国務大臣        文 部 大 臣  松永  光君    政府委員        臨時教育審議会        事務局次長    齋藤 諦淳君        文部大臣官房長  西崎 清久君        文部省初等中等        教育局長     高石 邦男君        文部省教育助成        局長       阿部 充夫君        文部省高等教育        局長       大崎  仁君        文部省高等教育        局私学部長    國分 正明君        文部省学術国際        局長       植木  浩君    事務局側        常任委員会専門        員        佐々木定典君    説明員        警察庁刑事局保        安部少年課長   根本 芳雄君        厚生省健康政策        局医事課長    佐野 利昭君    参考人        臨時教育審議会        会長       岡本 道雄君        臨時教育審議会        第一部会長    天谷 直弘君        臨時教育審議会        第四部会長    飯島 宗一君     ―――――――――――――   本日の会議に付した案件 ○教育文化及び学術に関する調査  (我が国初等中等教育及び大学教育水準に  関する件)  (医師歯科医師臨床研修に関する件)  (医学教育における医の倫理の重要性に関する  件)   (初等中等教育における生命尊厳についての教  育に関する件)  (学校法人福田学園の運営に関する件)  (大学入学資格検定試験の現状及び年齢制限に  関する件)  (子供の非行化に対する日本弁護士連合会の報  告書に関する件)  (国立私立中学校の難解な入試問題に関する  件)  (臨時教育審議会における審議状況に関する件  ) ○日本体育学校健康センター法案(第百二回国  会内閣提出、第百三回国会衆議院送付)     ―――――――――――――
  2. 林寛子

    委員長林寛子君) ただいまから文教委員会を開会いたします。  教育文化及び学術に関する調査を議題とし、質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言願います。
  3. 高木健太郎

    高木健太郎君 初中教育教育到達度といいますか、そういうものにつきましてはいろいろこれまで調査機関がございまして、かなりデータがそろっておるようでございます。それを見ますと、日本教育というものは諸外国に比しまして非常に高水準にあるということが言われております。そういう意味では、私は日本教育というのは一般的には非常に現在いい、ただし画一的であるとかあるいは学校内の暴力、いじめというような問題は反省すべきところはありますけれども、一般的にはいいと考えていいんじゃないかと思うんです。また日本教育は、初中教育におきましては非常に厳しいわけですけれども大学はその大学自主性を重んじ、学生が自主的であるという意味で緩いという気がいたします。そこでお尋ねしたいわけですけれども大学卒業生につきまして現在何か、どの程度外国と比して水準にあるのかというようなことをお調べになったことはございますか。
  4. 大崎仁

    政府委員大崎仁君) 大学レベルでの教育到達度と申しますか、学力水準等につきましての組織立った国際的な比較研究というのは現在はございません。
  5. 高木健太郎

    高木健太郎君 今後そういうことをなさるお気持ちはございますか。というのは、今後臨教審におきまして大学教育改革もまた考えておられると思うわけですが、そのためには、どこが悪くてどういう点が改革すべきであるかということをあらかじめ知っておく必要があると思うのですが、そのような御意向がございますかどうかお尋ねいたします。
  6. 大崎仁

    政府委員大崎仁君) 大学教育につきましては初等中等教育と異なりまして、分野あるいは専門の度合いというのが非常に多様でもございますし、また大学あり方につきましての各国の国情の相違というのもございますので、小中レベルでの比較研究というような形での調査というのは非常に難しいと存じます。ただ、やはり我が国大学教育考えます際に、諸国の教育あり方というのは十分調査し、また参考にもすべきものというふうに考えておりますが、やはりどうしても個別の事例調査というようなことになるのではないかと存じております。
  7. 高木健太郎

    高木健太郎君 専門別でも結構でございますし、そのうちの一つでもやはりある程度の私はデータを持っておかれることが必要ではないかと考えますので、機会があればそういうこともやっていただきたいということをここで希望をしておきます。  次に、第二回の国際理科教育調査というものが行われまして、国内でも教育研究所ですか、そういうところで日本調べたわけでございますが、それによりますと、理科学力というものは小中では知識理解がさらにこの前の検査のときから向上している。しかしながら、具体的な実験を行うテスト成績受験期の中三におきましては極めて悪いと、そういう報告が出ておるわけです。これは、各段階における入試がほとんどペーパーテストということに偏っているからではないかと考えますが、それはどのように考えておられますか。
  8. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 実験関係につきましては御指摘のとおりに知識面理解の面の点数よりも低いわけでございます。ただ、これも国際間の比較がもうちょっと分析されないと、国際的に実験関係全体が低いのか高いのか、そのデータがございませんので、国際的なレベル比較での結論は出しにくいわけでございます。しかし、御指摘のような傾向がございますが、これはやはり大学入試出題というのは、どうしても実験を伴うような出題というのは非常に困難でございますので、そういうのも一つの原因ではなかろうかと思います。
  9. 高木健太郎

    高木健太郎君 そうではなくて、実は入試ペーパーテストであるので、入試にすぐ近い三年生においてはそういうことが手が抜けていくのではないかということをお聞きしているわけでございます。
  10. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) そういう傾向もあろうかと思います。
  11. 高木健太郎

    高木健太郎君 傾向ではなくて実際にそう出ているわけなんですから、それは考えるべきじゃないかと私は言っておるわけです。  高校の三年の成績というのは、学校における履修状況とは関係がなくて、予備校など学校外での勉強の時間というものと比例するという結果が出ております。これは予備校学習法というものが学校学習法とはどこか違うのではないか。それはどのようにお考えでございますか。
  12. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 予備校勉強の仕方とそれから学校勉強の仕方は、予備校はどちらかといいますと受験ということを念頭に置いて展開するわけでございますし、勢い大学受験に有利な形の理科勉強ということになるわけでございます。そういうことから、学校における正しい理科教育の展開という観点から考えると、実験等を伴うような内容の面について息手薄な形での勉学が行われているという指摘はそのとおりだと思います。
  13. 高木健太郎

    高木健太郎君 私が申し上げたかったのは、予備校というのはいろいろ工夫をして先生も熱を入れてやっている、そういうところがあるんじゃないか、だから、そういう教育方法というところに学ぶところがあるのじゃないか、我々学校教育自身に反省するべき点があるのではないかということを申し上げたかったわけでございます。  次にお聞きしますが、今までお聞きしましたのは、一つはいわゆる実験的なものがだめだ、いわゆる実技というものはぺーパーテストだけではなかなか出てこないということが一つですね。もう一つは、予備校的なものが、一方では弊害もあるでしょうけれども、家庭では自分の子女の教育のためにお金を出してでも予備校に入れているというところは、文部当局としてもあるいは我々自身も反省しなきゃならぬことだと、そういうことを申し上げたわけです。これに関連しまして大学系の方においてもこのような傾向が見られるので、その前段階として今までお聞きしたわけです。  大学におきまして理科系学部、特に医学部あるいは看護学部あるいは歯学部というようなところ、そういうところは卒後国家試験というものがありまして、そのペーパーテストに通ればすぐに医師あるいは歯科医師あるいは看護婦として認められまして、そして今度は人体に直接触れる、人の生命を預る、こういう職業につくわけでございます。ほかの学部におきましても同様大切な職業ではございますけれども、特に医科歯科系看護婦というところは、人体に触れ、その生命を預かるという意味では、私は極めて特異な学部ではないかなと思っておるわけです。  そこでお聞きをいたしますけれども医科歯科系にも、このごろ大学を卒業してから、予備校があるということを聞いておるわけですが、全国でどれくらいの予備校があるかということなんです。その収容人員はどれくらいか、またそこを出た者の国家試験合格率というのはどれくらいだろうか、これは文部省の管轄にはございませんので非常に調べにくいことかと思いますけれども、そちらで握っておられる、把握しておられるデータがあればお聞かせ願いたい。それを大学卒業したすぐの者と比べてどうであるかということもお聞かせ願いたいと思います。
  14. 大崎仁

    政府委員大崎仁君) 専ら医師あるいは歯科医師国家試験準備のために教育を行う施設というものが存在しておりますことは、一部の雑誌の広告等によりまして我々も承知をいたしているわけでございますが、どうも専修学校あるいは各種学校の認可というようなものを受けて行っておるというものがほとんどございませんで、現時点では、恐縮でございますが、その実態を把握をいたしておらないわけでございます。
  15. 高木健太郎

    高木健太郎君 これも非常に重要なことだから、ぜひ何かの機会にお調べいただいたらどうかなと私思っております。私たち自身がなかなか調べにくいところもございますので、文部省からお調べになったらどうかと思っておるわけです。  それからまた、大学自身予備校化ということがこのごろ言われているわけです。それは、国立公立ては乱そう多くはないと思いますけれども、私の知っている範囲では、私立大学医科系大学では、最終学年におきましては、正常な授業というよりも、ほとんど国家試験準備のための教育である、悪い言葉で言いますと、大学自体国家試験のいわゆる予備校化しているということを聞いております。その実態はどういうふうか把握しておられますか。
  16. 大崎仁

    政府委員大崎仁君) 医師試験というのは、本来医学部における通常の教育というのを十分履修をしておれば合格をするものであるというふうに理解をしておるわけでございますし、またその意味では、大学医学教育というものと国家試験というものの間には深い関連性があるということが基本にあろうかと思いますが、御指摘のように、それが過度に走りまして、いわゆる受験対策受験準備的な教育が行われるということであれば、医学教育の本旨にたがうのではないかというふうに考えております。  個々の大学教育あり方につきましては、これはいわゆる大学自治ということでもございますので私どもつまびらかにいたしておりません。一般的に医学教育の問題につきましては、現在、私どもといたしましても、医学教育に関する調査研究協力者にお願いをいたしまして、さらに改善のための御審議はいただいているという状況にあるわけでございます。
  17. 高木健太郎

    高木健太郎君 国家試験合格率というのが新聞に発表されるわけでございます。それによって一般の人たち医科系あるいは歯科系大学の優劣を決めるというような傾向にございます。もしも悪ければ、私立大学等では入学志願者がそれによって非常に減少するということになります。それが私立大学の経営にも大きく影響するということになりまして、そういう意味で、私立大学におきましては入試に特に力を入れるということになって、本来のいわゆる医学教育というものがひずみを受けるということを私心配するわけです。これをやかましく言いますのは、先ほども申し上げましたように、国家試験に通れば直接人体に触れる、生命を預かるという重要な職業柄であるので、そういう意味で、そのようなひずんだ教育をやっていいのかということを私は強く皆さんに申し上げたいわけです。だから、把握できません、大学自治であると言って、そのまま放置していいような問題とは少し違うのではないかということを申し上げたかったわけです。  これは御存じのように、日本医科系大学あるいは歯科系大学を出ました学生は、米国の学生比較しますと、学力はあるかもしれません、あるいは基礎的な知識はあるのかもしれませんけれども、いわゆる実際に、注射をしたりあるいは聴診をしたりいろいろ人の体にさわるという実技、それを実技と申し上げますが、そういう実技が非常に劣っている。だから、そのままではすぐに使え。ないような、そういう卒業生を出している。そして、医師国家試験を受ける、ペーパーテストを受ければ、それでもう医師になるということになるわけです。だからして、卒業しただけでは、私は医師あるいは看護婦歯科医師として責任のある活動は恐らくできなくなっているんじゃないかなというふうに思っております。昔はインターンがございまして丁二年くらいの研修を受けておったわけで、そこで実技を学んでおったわけでございますが、現在は、卒業して六月か七月ごろ医師国家試験がございまして、それに合格しますとお医者さんになります。厚生省の方ではどのようにこれをお考えか。厚生省の御意見では、卒後国家試験を通っても二年間の研修が望ましいというように言っておられまして、それを義務づけておられません。これについて御意見を伺いたいわけですが。今は大きな病院あるいは大学等で、都合上各医局に属して指導者のもとに自発的に研修をしている人が大多数ではないかと思うわけです。しかしながら、ここ何年かの間はまだまだ医師がふえ続けます。今でも十万対百五十を都会ではもう超えているわけです。すなわち医師過剰時代、こう言われておりますが、ここ五、六年あるいは七、八年の間はますます医師が過剰になるというふうに思います。現在の医師歯科医師都会に集中しておりまして、そういう意味では、病院大学病院等指導者のあるところである程度研修を受けることができますけれども、さらに医師歯科医師がふえてまいりますというと、指導者のない無医村あるいは僻地というところで活動することになると思います。そういう場合に、今のようなペーパーテストだけで医師医師免許証をもらい、そして人の命を預かる、そういうことが起こり得ると思うわけです。これは法律的には許されるわけでございますが、そういうことになった場合、あるいはなる可能性が私は大きいと思いますが、その点について厚生省の御意見はどういうふうですか。
  18. 佐野利昭

    説明員佐野利昭君) お答えいたします。  先生指摘のように、お医者さんの教育につきましては、まず基本的には、各大学十分技術研さんも積まれて御卒業いただくというのが基本でございます。その上で、さらに医師国家試験合格した後に臨床研修をやっていただくということで、これは医師法努力義務規定といたしまして、「医師は、免許を受けた後も、二年以上」「臨床研修を行なうように努めるものとする。」という規定を設けておるわけでございます。現在のところ、このような形で臨床研修を受けておりますお医者さんは、新たに免許を取得しましたお医者さんの約八割が受けていらっしゃいます。そのほかにも、臨床系ではなくて大学院の基礎系あるいは研究分野にお入りになる方、あるいは私ども厚生省などのような行政分野にお入りになる方などもいらっしゃいますので、ほぼ、ほとんどの方が実際に臨床にお進みになる場合には臨床研修を受けていらっしゃるのじゃないかと推測いたしております。なお、この状態が現在はほとんど多くの部分を御出身の国立大学なりあるいは公私立大学に依存しているのが実態でございますけれども、私どもといたしましては、それに加えまして臨床研修病院という指定をいたしまして、国公立の病院、あるいは民間でもかなり一般的総合的な指導教育ができるような病院を指定いたしまして、そこでも臨床研修のできるようなシステムを組んでおります。現在はまだこの分野につきましては相当余裕があると思いますので、先生の御指摘のような御心配余りないのではないかというふうに理解いたしております。
  19. 高木健太郎

    高木健太郎君 そういうお言葉でございますけれども指導しておる、あるいはそういうふうに勧めているということでございまして、法律的にはその人は患者をさわってもいいということでございますから、ある場合には必ずそういうことが起こり得ると、その場合は責任医師免許証を上げた厚生省にあるんじゃないかと、私こう思うわけですね。だから、その前の教育文部省における教育、そしてそれを国家試験でそれに法律的の権利を与えたと、そういうやり方に私は問題があるんじゃないかと。だから、大体やっておられますとか、あるいは八〇%は二年間ぐらいはやっておられます、あるいはあと基礎の方へ行っておられますからして大丈夫だと思いますということでは私は済まないと、一人でもそういう人がおって、そしてそのために医療過誤が起こって――医療過誤ではなくて、本当ならば助かるような人が助からないということになれば、私はそれは重大な過誤じゃないかと、こう思うので念には念を入れて聞いているわけでございまして、これはもとはインターンシップというのが義務づけられておりまして、それが済んでから医師国家試験を受けたわけですね。それがああいう大学紛争のあふりでインターンシップというのはやめてしまったと、そしてあとはそういうアドバイスであるということになったわけですから、もう一度ここで考え直す必要があるんじゃないか。特に、医師が過剰になってきました場合、競争が起こってきて一日でも早くというようなことになれば、なおさら弊害が出てくるおそれがなしとしないというふうに心配をするので申し上げているわけでございまして、もう一度ここら辺で検討をされ直してはいかがかと思います。私は、医学部に入った学生には、医者の場合は故意でなかったら、そして現在の医学知識でやむを得ないと判断された場合には、患者が死んでも罪にならないと、それだけの権利とそれから保障が与えられている医師である。だから理科における実験に相当する人間に対する適切な処置の訓練大学内において行われるということが私は大事じゃないかなと思っているわけで、これは文部省にもぜひ考えていただきたい。いわゆるペーパーテストだけに通るような、予備校ができるような、そして最終学年ではそのテストに通るための教育しか――教育しかと言っては言い過ぎでございますが、教育にある程度重点が置かれるような教育では、これは私は問題じゃないかと、こう思うわけでございます。いや、教育の方は文部省がおやりになるんだ、私たちはそのテストをやればいいんだと、こういうふうに部局が分かれているために全然そこの間が切れているということは、私はそれ非常に憂うべきことではないかと、そういうふうに思うので、あえて御注文を申し上げるわけでございます。  アメリカやカナダなんかの臨床実習を私も見てまいったことがございますけれども日本で外来と言っているのはただ患者を診察するというだけで、治療も何もやらないわけです。診断をつけるというだけでございますし、そのデータはみんな病院の方でとる。自分自身がやるというようなことではございません。また、三直とかあるいは夜直というようなものも学生にはほとんどない。まあ三直はありますけれども学生余り三直には行かない。要するに臨床にはほとんどタッチしない。薬をどれぐらいやっていいかもよくわからない。そういう状態で卒業していくわけでございます。アメリカではエクスターンシップというのがありまして、大学の中でもう既に患者をちゃんとつけられまして、そして指導者がついて実際の実技を行っておる。夜も遅くまで働いている。こういう状況でございまして、非常に訓練が厳しいわけでございます。だからして、したがって臨床実習程度も非常に大きな差があるのではないか。そういうことで、初めに大学卒業生について特に一つの学科についてでも外国比較されてはどうであろうかと、そういうデータを持たれたらどうかと、そういうことを持たないで大学改革は進められないんじゃないかなというふうに私申し上げたわけでございまして、一方厚生省、一方文部省にその点はぜひお考えをいただきたいと、こういうふうに思うわけでございます。で、大学を出てから、それで医師免許証を取ってからまた再び実技教育するなんていうのは非常におかしなものでございまして、もしもそういうふうに必要なことで、医師となるのに必要なものであるなら、一年延ばしてでも実技の時間をきちんととるべきじゃないか、こう思います。ペーパーテストだけ通ればもう医師になってよいと、患者さわってもいいというようなことは、やっぱり教育の期限が短いというなら短い、やり方が悪いというなら悪い、どちらかをとらなければいけないんじゃないかなとこう思うんですが、御感想はいかがですか。
  20. 松永光

    国務大臣松永光君) 先ほどからの先生のお話を聞いておりまして、まことにもっともだなという感じを私は深くいたしました。先ほどこのインターン制度が廃止になって、国家試験合格をすれば。努力義務規定はあるけれども指導者実技についての指導を受けないでも医師になれるというこの法的な仕組みについては、なるほど八〇%程度指導者指導を受けて、二、三年受けて、それから実際の実技にはついておると。残りは基礎研究に進むとか、あるいは関係した事務につくとかということで、指導者実技についての指導を二、三年を受けないで、すなわち努力義務を果たさないで実際上の医療活動に入る人はほとんどないということでございましたが、先生指摘のとおり、絶無ならいいんだけれども、ほとんどないということは幾らかはあるということでもありましょうから、努力義務という規定があるだけでよろしいもんだろうかという感じを私は持ちました。しかし、私の所管ではありませんので、これは厚生省の方でよく研究していただくことではなかろうかというふうに私は思ったわけであります。  それから、大学教育あり方につきましては、これは大学自治との関係もあるわけでありますが、やはり先生の御指摘の点もあろうかと思いますので、今後関係者の間で十分これは研究しておいていただかなけりゃならぬ課題ではなかろうかというふうに思ったわけであります。  なお、ちょっと話は別のことへそれますが、医師国家試験のほかに、私どももその門をくぐってきたんですけれども、司法試験という制度がございます。これも実際問題としては我々のときには在学者が相当合格できおった。今では在学者がほとんど合格できないという状況が出てまいりました。そして、多くの受験希望者が在学中あるいは卒業してから後、その司法試験を受けるための特別の予備校みたいなところに多くの人が行っているというふうな話も聞いております。昔は、大学の中に先輩たちが中心になってあるいは若手の先生方が指導の主任になって、司法試験のための法律の勉強をその大学の中で、そういう仕組みでやっていただいておったわけでありますが、大学の中での先輩や若手の教師を中心にした指導体制よりも、民間の方のそのものずばりの勉強をする学校の方がどうも合格率がいいという話も聞いておるわけでありまして、それが東京に二つ、三つあると聞いております。そしてその結果、この間も六十年度の司法試験合格者の関係でだんだん合格者の年齢が高くなってきておる、そのことが、これは担当は法務省でございますが、高くなってくることがいろいろ新たな問題が出てきておるということで、何か研究に入られるような話も聞いておるわけでありますが、さようなことで、国家資格ということで試験がある場合には、どうも競争が激しくなってまいりますというと大学教育だけでなかなか試験合格できないという、そういう傾向が出てきているような感じがいたします。そこらは試験制度、国家試験の制度のあり方との関係でこれは検討すべき課題ではなかろうかというふうに思うわけであります。特に、先ほどの司法試験関係は法律の分野でございますけれども、実際の話、大学の四年生で、東大の場合でも司法試験の科目は全部は終わってないというふうに聞いております、講義が。したがって、留年をしなければ全部が終わらぬみたいな話もあるようでありまして、これは、法律の中で基礎的なものだけの試験ならばいいんでしょうけれども、競争が激しくなるというと、より複雑な法律問題を試験問題に出すということになってきますというと、大学教育を受けているだけでは合格できないというようなことの結果ではなかろうかというふうに思われる節もあるわけでありまして、その意味では、大学教育あり方、現在の原則二年一般教養、そして後期二年が専門分野というふう係な切り方をそのまま踏襲していいのかどうかという問題もあろうかと思うわけでありまして、いずれにせよ、これからの大きな検討課題であろうというふうに思うわけであります。
  21. 高木健太郎

    高木健太郎君 確かに大学というところは昔からよく学のうんのうをきわめと言いましたので、非常に基礎的なあるいは抽象的な問題を勉強して頭を鍛うわけですから、実際の知識はないけれども、今後発展していく、開発する創造的な基礎日本大学は十分与えているんだと思います。そういう意味では、すぐにはお役に立たぬけれども、将来は非常に立派な医師なり歯科医師なりになる、そういうことを考え教育をやっている大学は私は多いと思いますけれども、ただ、今の司法試験も直接人の利害に関係することでして、人の一生に関係することでもございますけれども、医科歯科の場合は特に命というというものがあるものですし、だんだんこれから国民の医療に対する意識が高くなりますからして、医師のやったことに対しておかしいじゃないかというようなことを考えている。現在医師に対する信頼度というのはかなり低いわけですね。そういうことから考えても、より大学における教育、それから国家試験あり方あるいは大学の修業年限、あるいはインターンシップをどう取り扱うかというようなことをもう少し考えておかないとますます医師に対する信頼度が落ちていくということになるのじゃないか、こう思って御質問申し上げたわけです。  そこで、医師歯科医師の数のことですけれども、今歯科系大学が二十九校ですか、そして定員が三千三百八十人ぐらい、人口十万当たり五十人ということが適正の数ではないかというふうに厚生省ではお考えのようです。ところが、この数は大体五十五年にはもう達成されております。現在は、一人の医師当たり二千人の国民だったわけですけれども、今は千八百人ぐらいになっておりますし、大都会では恐らく千人を割っているんじゃないかというふうに私は考えているわけです。このままふえますと、昭和百年ぐらいには現在の二倍ぐらいになるんじゃないか、密度が。そこで、厚生省でもこのことをいろいろ憂慮されて、それは少し多過ぎるというふうに考えられたんでしょうが、大体五十人に決めたという、五十人ぐらいというのは大まかな数字でしょうけれども、そう大した根拠があるような数字ではないと私は思いますが、しかしながら余りにも、二倍になるというようなことはこれは考えなきゃならぬことですからして、厚生省の諮問機関で将来の歯科医師需給に関する検討委員会というのをおつくりになっているようですが、そこで今現在、どういうふうな計画を持っておられるか、そのことをまずお聞きしたいと思います。
  22. 佐野利昭

    説明員佐野利昭君) 先生指摘のように、医師並びに歯科医師につきましては、厚生省が当面の目標といたしておりました、医師につきましては人口十万単位で百五十あるいは歯科医師につきましては人口十万単位で五十という数字を既にオーバーいたしております。このまま推移いたしますと、確かに今もお話ございましたように、昭和百年には倍の数になるということでございますので、医師数に関する検討委員会あるいは歯科医師数に関する検討委員会と、それぞれ検討委員会を設けまして検討を進めております。  これらにつきましては中間意見が先般出されておりまして、中間意見におきましては、とりあえずのところでございますけれども医師につきましては昭和七十年を目途として新規参入を一〇%削減をするような方策を講ずるように、また歯科医師数につきましては同じく昭和七十年を目途としまして二〇%を削減すべきであるという中間意見が出ております。  しかしながら、その具体的な方策につきましてはこれは厚生省だけでは講じられない問題でもございますし、関係各省と相談し合いながら何らかの方策を講じなければなりません。したがいまして、厚生省ではこの提言を受けまして、将来の医師歯科医師数の削減について、文部省を初めといたしました関係御当局にその具体的な方策につきましても協議をし、進めてまいりたいということで御相談を申し上げているところでございます。
  23. 高木健太郎

    高木健太郎君 文部省にお尋ねしますけれども、今お聞きのように厚生省はそういう計画を持っておられる。文部省はこれに対応していかなきゃならないわけですけれども文部省としてはこれに対してどのように対応なさるおつもりですか。
  24. 大崎仁

    政府委員大崎仁君) ただいま厚生省の方から御答弁がございましたように、医師歯科医師の需給状況につきましての中間的な報告がなされまして、私どももそれを検討を十分いたしておるところでございます。  ただ、なお中間段階の御意見でもあり、かつ種種の検討すべき要因もあって引き続き検討がなされつつあるということでもございますので、私どもといたしましては、現時点におきましては、当面、そういう大きな過剰基調ということを念頭に置きながら、各大学医学教育状況あるいは条件の充実というようなこともあわせ考えて、個別の対応というものをいたしておるわけでございます。  具体的に申しますと、明年度の概算要求におきましては、医学で二学部各二十人を、国立大学でございますが減ずる、あるいは歯で二十名を減ずるというようなことで、一応の対応はしておるわけでございます。  ただ、全般の需給を見通しましての計画的な対応ということにつきましては、なお厚生省の御検討がさらに熟するということを期待をいたしますとともに、並行して厚生省その他関係方面と十分緊密な連携、協議を重ねて、今後、全体的な考え方というのを整理をしなければならないというふうに考えておるわけでございまして、その際に、医学教育あるいは歯学教育の目的、あり方というものも含めて包括的に検討すべき課題ではないかというふうに考えておるわけでございます。
  25. 高木健太郎

    高木健太郎君 そこで、二つばかり御注文をというか、私、要望を申し上げたいと思うんです。国立ては、たとえ医科系で一〇%、あるいは歯科系で二〇%減りましても、やや学生一人当たりの積算値が、積算校費が下がるというぐらいで、大きな私、ダメージはないと思います。しかし、私立大学におきましては、歯科大学では六年ですか、一人三千万ぐらいかかるんじゃないかと思うんですね。それが二〇%減るということになりますと、百人のところが二十人減る、大体それくらいになりますね。そうすると六億の収入減になるということになるわけです。そういうことで、その六億を今度は残った八十人の人から徴収しなければ経営がやっていけない。というのは、教官や事務員の数を学生が減ったからといってそう減らすわけにもいかないでしょう。設備がそううんと減るわけでもない。となると、残りの八十人の方に授業料の値上げという形でいくのではないかと私は思っておるんですが、その点いかがでしょうか。もしもそういうことになるならば、私学助成金を希望している私立大学に対してはある程度の補助を出してやるべきじゃないかというふうに私は思うわけです。この点について文部大臣の御見解をお聞きしたいと思います。  それからもう一つは、お医者さんの場合ですけれども医師の場合も同様のことが言い得るわけですけれども、今のように助成金を幾らか上げていくと。そっくりとは言わないまでも幾らか上げないというと、また経営難から来るいろいろの問題がここで起こってくる。  それからもう一つは、医師の場合、現在でも実は基礎系医師というものは非常に少ないわけでして、特に解剖とかその他余り医学と直接関係のないところは八〇%から六〇%は他学部の出身。例えば農学部、理学部等の卒業生あるいはODあたりが助手等になっているわけですね。そして、それは医学を全然学んでない人が解剖学なんかやりますから、学生に解剖実習をするといっても経験がないわけなんですね。そういう意味では適正でない助手ができていると。その人たちが将来は指導者となり、解剖の教授となっていかなきゃならない人なんですけれども、それを教授にするのは非常に困難であるというような形にあるだろうと思うんですね。それで、学生を削減しますと、ただでさえ少ない卒業生の中で、ほとんど全部が臨床系の学科に入りまして、基礎系へ行く人物がどんどん減っていくんじゃないか。そうすると、基礎医学振興という意味では非常にゆゆしい問題じゃないか。将来の日本医学の進歩に対して非常に重要な、重大な影響を与えるのではないか、こう思いますので、今の定員削減につきましては、外向き、社会的にはそうですけれども大学の内部から考えるというと、残りの人の負担増、それと基礎系の学科の衰微ということにつながりはしないか、こういう心配をしているわけですが、その点について文部大臣の御所見を承りたいと思います。
  26. 大崎仁

    政府委員大崎仁君) 医学部教育というものが臨床医師の養成ということだけで行われるという考え方を必ずしもとらずに、一つ基礎医学、あるいは、さらに発展しつつあります広い意味での生物化学の研究者というものの養成もあわせ行っているというふうに理解した場合に、医学部の定員をどう考えていくかということも先生指摘のように検討すべき重要な課題ではないかというふうに考えているわけでございます。  ただ、いずれにいたしましても、将来何らかの意味医学部の定員の調整の必要性ということがはっきりいたしました場合には、やはり国公私立を通じての対応ということが必要になってまいろうかと存じます。  私学につきましては、現在も私立医科大学協会等におきましていろいろその点についての御検討もされておるというふうに承知をしておるわけでございますが、やはり特に私立大学の場合にはこの問題が経営問題に及ぼす影響ということは十分考えていかなければならないというふうには意識をいたしておるわけでございます。ただ、現時点ではどのような対応をすべきかという具体の検討にはまだ現在入っていないというのが実情でございます。
  27. 高木健太郎

    高木健太郎君 今の件も、定員削減というときに外ばかり見ないで中を見て、しかも将来を眺めて定員削減というものを考えていただきたい、こう思います。  それからもう一つは、理学部その他でもそうですが、ああいう理学系のところは若い人が新しい創造的な研究をする可能性が非常に強いわけです。ところが、現在、理学部等の学部では非常に研究者が老齢化していまして、というのはほかにはけない。これはこの前もお聞きしましたように、ODがいっぱいもういるわけです。五千人ぐらいOD、いわゆる博士号を取った人が、オーバードクターが五千人ぐらいもうおるわけです。古い人が残っているという格好になっていて、人事がうまく動いていないということが私非常に大きな原因だと思う。これは日本の将来のサイエンスの振興にとりまして非常に私憂慮すべきことであろうと思います。特にそういう理科系の場合は若くなければいけないということがあるんじゃないか、こう思います。  そういう意味では大学、これは一般的に全部考えまして、大学の教官というものは教育公務員でございまして、それで公務員でございますから、いわゆる定年制がしかれておるということで動きがとれなくなっている。要するにリジッドである、人事がリジヅドである。だからして任用が硬直化しているということがあるんじゃないか。これがまた国際的にも非常に閉鎖的な状況を生み出して、例えば留学生なり外国から来ている人で立派な人がいるといっても、それがなかなかそこへ入り込むすきがない。若い人が入り込めないと同じように外国の優秀な人をそこへ採ってくることができない、こういうことになっているんじゃないかと。これ、何かお考えになったことがございますか。いわゆる、教育公務員というのは普通の公務員と少し違った採用の仕方というようなものは考えられないかということなんです。
  28. 大崎仁

    政府委員大崎仁君) 先生、御指摘のように最近の財政状況からの厳しい定員事情等もございまして、研究者が高齢化しつつあるというのが一つ我が国大学教育研究体制の上で問題になっておるわけでございます。  それで、私どもといたしましては、基本的にはできるだけ研究者の流動性を高めるということが一つは必要ではなかろうかということで、関係者いろいろ話し合いもいたしておるわけでございますが、ただ、一つ考え方といたしまして、これは先般の行政改革審議会における、答申における科学技術関係指摘にもございましたように、短期の任用制度というものを導入をするということによりまして外部との人事交流ということに一つの道が開けるのではないかというようなことも、まだ全く検討の段階ではございますけれども、そういうようなことも考えております。また、学術国際関係でいろいろ研究員、フェローシップの活用というようなこともあわせて努力はしつつあるというのが現状でございます。
  29. 高木健太郎

    高木健太郎君 短期任用制度とかあるいは今のようにフェローシップをもっと拡大していくというようなこと、これは非常に私いいことだと思いますので、ぜひ進めていただきたい、こう思います。  もう一つは、文部省から出ている科学研究費がございます。あれは消耗品だとか設備費とかそういうものに使うことができますけれども、人件費にはあれは使えないんですね。外国ではファンドとかグラントをもらいますとそのうちの幾らかは、二分の一か三分の一か知りませんけれども、ほとんどそれは人件費に使うことができるわけです。そのために、諸外国にこれだと思う人に募集をしまして、いい人を集めて自分のところで研究をやらせるというようなことをやっているわけです。もちろんフェローシップもありますけれども、それ以外に自分自身のもらった金でそういうことをすることができるということなんですね。民間から出ている、財団とかから出ているお金ならばあるいはそれはできるかもしれませんけれども、それでは少し不安定である。そこで、科学研究費の中で、一人幾らになるかわかりませんけれども、そういう科学研究費を人件費に一部を充てることができるというようなことができないかどうか、それをひとつ御検討いただけませんでしょうか。そんなことをお考えになったことがあるでしょうか。  そうして、そうすれば、日本の理学部なんか出たODの人も予備校とかそういうところの先生になったり奥さんが看護婦で働いたりして、せっかく国家が養った立派な才能がそこにむざむざ消えていくわけですけれども、そういうことでなくて、その人の好きなことあるいはその人の得意なこと、そして日本の科学振興というものに私は十分役に立つのではないか、そういうことをもうひとつお考え――短期任用以外に科学研究費あるいは助成金というようなものをそれに流用できるような制度をひとつお考えいただきたいと思いますが、いかがでしょう。
  30. 植木浩

    政府委員(植木浩君) ただいま先生から御指摘ございましたように、研究費の中で特に科学研究費補助金につきまして人件費を支出することができないものだろうかということでございます。これは諸外国の例などもございまして、私どもとしても従来からいろいろと検討をしてまいったわけでございますが、やはり正式な雇用関係というものが生ずるようなことになりますと、いろいろと労働基準法等の適用を受けることになったり、あるいは各種の保険を支払わなければならないとか、人件費を給与あるいは手当、そういった形で支給することについてはなおいろいろな問題がございまして、その議論の過程におきましてもまだ十分円滑に人件費を支出して科研費が機能するというところまでいってないわけでございます。これは我が国の雇用慣行等の絡みでございますが、しかしながら、実際に科学研究費補助金を使う場合に、例えば資料を集めるとかそれから実験の補助を行うとか、そういった短期のサービスの提供、労務の提供という必要がございますが、これにつきましては給与、手当等ということではなくて謝金ということになりますので、そういった短期の労務提供につきましては科学研究費の中からも謝金を支出することができる、こういう取り扱いになっておるわけでございます。  なお、先生が今御指摘ございました若手の研究者についての制度をもっと充実できないかという点につきましては、先ほどもお話ございました今年度から文部省といたしましては本格的な若手研究者育成のためのフェローシップをスタートさせたということで及ばずながら努力を始めているところでございます。
  31. 高木健太郎

    高木健太郎君 お考えいただいておけばいいわけなんでして、しかし余りリジヅドに労働基準法とかなんとかと言うからできにくいんですね。だから、私立大学なんかはかえってやりやすいところもある。後でまた問題起こすからというので御心配になるんでしょうけれども、何とかもっと、研究というのはそんなにやかましく言う、労働基準とか何とかというようなものじゃないわけなんで、そこら辺はもう少し融通無碍に考えていただけぬかなというふうに思います。だから、大学がいつまでもリジッドで、外のそういう才能を集められない。だから国立大学どもっと厳しくなっちゃって、外からも来ないし、中はからっと固まってしまって、それでは新しい研究はできないんじゃないか、こういうふうに思うわけです。  それから、これは方面が違いますが、ちょっと順序が違ってきましたけれども、これは人文系でもあるいは理科系でも同じだと思いますけれども、何か自分の仕事をすればそれを一つの単行本として学術書として出したいというふうに思うわけですが、それがそういう学術書というのは本屋に出しても売れる物じゃないわけなんですね。しかし、マイルストーンとして自分はきちっとそれをまとめたいということがございます。それにはかなりの金がかかるし、売れないような本は出版社は引き受けないということになる。しかし、その人の業績としてきちんとしたいというものは絶対いいものならばあると思うんですが、それについても文部省は刊行助成費として出しておられるんじゃないかと思います。  もう一つは、特に理科系では、外国の雑誌に自分の論文を載せなければ世界に認められないということがございますので、外国の雑誌に投稿するわけですけれども、それが昔はそうでもなかったんですけれども、最近はやはり掲載料というのがかなり高くなってきました。こういう掲載料というのは科学研究費の方からどんどん払ってもいいものでございますか。
  32. 植木浩

    政府委員(植木浩君) 先生お話しのように、研究成果の刊行費補助金というものがございまして、この充実にも年々努めておるわけでございますが、特に後段おっしゃいました外国へのいろいろな雑誌等への投稿について経費を科学研究費で見ることができるがという点につきましては、確かに日本学術水準も上がってまいりまして、外国でこれを発表するということが大変重要でございますので、現在、科学研究費補助金の中で当該投稿論文の内容が科学研究費交付の対象となった研究にかかるものにつきましては、これを科学研究費の中から支出しても差し支えないという取り扱いにいたしております。
  33. 高木健太郎

    高木健太郎君 どうぞ厚生省の方御退席していただいて結構でございます。  それからそれでは、御存じのように、一般でもそうでございますけれども医科系歯科系、看護系というようなところでは、生命のとうとさということが教えられなければならないと思います。現在までは各指導者あるいは先生、教官が自分自身の個人的な意見をそこで述べておった程度でございまして、生命倫理という一つの講座で教えるというようなことはなかったわけです。しかしながら、御存じのように、非常に医学なりあるいはそれの関連の科学が進んでまいりましたために、倫理的の考え方を昔とは変えなければならないような時期になっているわけでございまして、個人が単に自分の経験だけではこれを処理し切れないような状況になっているということはもう文部大臣もよく御存じのとおりでございます。  米国では、訳はいろいろございますけれども、バイオエシックスという名前で講座を持っている大学もかなり多くなってきておるわけでございますが、日本でこれを設置しろと言ったところで文部省の方で命令して設置するわけにはいかないわけでしょうけれども大学自体は倫理委員会という委員会をつくりましてそこで討議はしておりますけれども学生そのものにあるいは医師になる人に教えるというような機会がないわけです。これについては何か文部省考えでございますか。
  34. 大崎仁

    政府委員大崎仁君) 医学教育基本といたしまして、かねてから医の倫理の重要性ということは関係先生方非常に強く意識をされまして、医学部教育に当たっておられるというふうに承知をいたしております。ただ、先生指摘のように、最近いわば人間の尊厳と医療行為とが非常に深い問題としてあらわれております事柄が増大をいたしておりまして、それに対する対応というのが重要な課題になっておるわけでございますが、文部省といたしましては、一つ医学教育に関する基準というのを先般御承知のように緩和をいたしまして、各大学におけるいろいろな御工夫ということが医学教育の中で十分できるような姿にはしておるわけでございまして、私ども承知しておりますところでは、幾つかの大学で例えば医学概論というような講義の中でそういうものも取り上げておるというふうに聞いておるわけでございます。ただ、これを一つの、専らバイオエシックスを担当する講座を設けるということになりますと、やはり我が国の現状ではいわば学問としてのどういう性格づけをするか、あるいはその講座の担当者というものがどういういわば科学的な、あるいは学問的な背景ということを想定をするかという、いろいろまた難しい状況にあるのではないかというふうに考えておるわけでございます。ただ、それぞれの大学での十分な御検討を経てそのような課題が提起をされました場合には、私どもといたしましても真剣に検討をしてまいりたいというふうに考えているところでございます。
  35. 高木健太郎

    高木健太郎君 ぜひ将来お考えいただきたい、大学側と御相談の上お考えいただきたいと思います。  それで、これは初中教育におきましても生命のとうとさを教えていく必要があるだろう。学校内の暴力もありますし、殺人ということを余り強く考えていないような子供がいるというようなことで、初中教育における先生方も教官も、このことについては頭を悩まされているわけでございます。  それで、現在はどこでどのような形で生命とか死だとかというような問題を初中教育では触れられているのかということをお尋ねしたいわけですが、十月十六日の朝日新聞に豚を食べる授業というのがあるわけなんです。それは、中野区の桃園第二小学校の鳥山敏子さんという先生が「授業からだといのちと食べものと」という題で映画をつくられたわけですね。ここに写真がありますが、屠殺した豚を持ってきまして、あなたたちがここで豚を食べている、しかしその豚というのはここの肉を食べているんだよ、それで豚があなたたちに命を上げているんだというふうにして命のとうとさを感じさせようとしているわけですね。ペットを飼うということによって子供の情操を養おうというような試みは家庭でも学校でも行われているわけですけれども、豚という大きなものを持ってきて、そこの肉をとって、それをいろんな料理にして食べるというようなことでいわゆる生命のとうとさを教えるということを見まして、私びっくりしたわけです。そして、その子供に感想文を書かせたりしているわけですけれども、その感想文はどうも先生が教えたんじゃないかなというような感想文しか書いていないわけです。私は医者ですからして、死体解剖をやったわけでございますけれども、死体解剖は医学部専門課程に入るとすぐやるわけなんですね、最初に。それは構造を知って臨床を学べばいいというようなことでやっているんでしょうけれども、ある大学ではかえって最初から解剖させない方がいい、生の人間をさわらして、そして病気で苦しむ人を見て、それから解剖に入らす方が生命尊厳という意味では、かえっていい。初めから解剖を見せることは、単に初めは畏敬の念を持っている人間の死体も、遺体も、切ったり、だんだんほざいていくわけですが、そうすると遺体というよりも物という感じがだんだん強くなって、その物というものになれてしまって、人間を見るときも物の感じになっていくのじゃないかということを心配して、初学年から教えないで高学年になって教えた方がいいと言う人もあるくらいでございます。  だからして、こういう豚を先生が切り裂いて、それを見せるというようなことを子供に見せたらどんなものかと。これは文部省、ごらんになっていろいろ御感想があると思うんですけれども、ここで「私の息子もブタをみて泣いた子のひとり。私にはショックというより、わが子の涙に子どもの優しい一面を見ました。」と、これは優しいかどうか知りませんが、「豚の内臓も脳みそも人間とそっくりなことに目をみはり、」というけれども、私は人間の脳みそやら内臓をそのお母さんが見たとは思えないわけですね。そういうことを書いておられて、さあ、これが生命尊厳の、いわゆる生命倫理の教育になるんだろうか、こうちょっと疑問を持った。ただし、この先生が何とかして命のとうとさを子供に教えてやりたいという、その意思には私は非常に敬意を表するものでございますが、こういう教育はいいかどうか。そして最初にお尋ねしたように、生命尊厳というものを初中教育においてはどういう形で、いつ行おうとしておられるのかということをお聞きしたいわけです。
  36. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 一つは、小学校の例で申し上げますと、小学校では道徳という時間がございます。その中で生命をたっとび、健康を増進し、安全の保持に努めるというような内容がございまして、それでそれぞれ道徳の指導資料等で人間の命というような指導案をつくって教えるというのが一つと、もう一つは、今お話がございました理科生命について取り扱う際に、生命の尊重ということが大切であるということを教えているわけでございます。  そこで中野区の場合でございますけれども、これは土曜日の午後、希望者の児童と父兄を集めて行ったと聞いておりまして、正規の授業中ではなかったというので、そういう意味での配慮は若干あったようでございます。ただ、これを行いました人は、生命の尊重ということを強調する教材としてやったとこう言いますけれども、果たして小学校段階でこういう豚の解剖までやって生命の尊重を教えることが適切であったかどうかという点についてはいろいろ問題があろうと考えております。
  37. 高木健太郎

    高木健太郎君 先ほども私申し上げましたように、解剖というのは死んでいるものでして、死んだものであって、それを切り刻むということはかなり勇気の要ることですし、それからだんだんやって、これになれますと物体視する、物視するということにつながっていくので、かえって生命尊厳という意味からは離れていくのじゃないかという気がするわけです。その点で将来、そういうことを子供に教えようというときには、何か文部省としてもお考えになっておいた方がいいのじゃないかと思うのですね。  それから今、生命尊厳ということは、理科の方では生命ということで、生物でお教えになるんですけれども、もう一つは何でございましたか、私は忘れましたが、生命がなぜとうといかというようなことを理科やなんかでは私はわからないと思うのです。幾ら探っても、そこからはとうといというものは私は出てこない。これはまた午後の臨教審の方でもあると思いますけれども、今の小中学校あるいは高等学校でもそうですけれども、さっきから何遍も言いますように、ペーパーテストでやりまして、それに通ればいいうまいことやればいいという、そういう格好になるわけですからして、どうしても合理的、能率的というようなことで、計算づくのことばかりが出てくるわけですね。計算づくでそれにうまく当たる子、知っている子、知識のある子という子が優秀な生徒になる。しかし非常に優しい子、思いやりのある子で勉強のできない子というのはやっぱりだめなんですね。しかし私は、人間としてはそういう情操面とそれから理性的な面と、両方があって私は人間だと思っているわけですけれども余りに今の学校教育の中では合理的な面が強調されちまって、情操面が薄くなっているんじゃないか、そういう感じがしているわけです。だから、この先生のおやりになったことはわかりますけれども、あるいは理科で教えるということもいいですけれども、そこからは私は生命のとうとさというようなことは出てこないんじゃないか。これは別にお考えにならなきゃいかぬのじゃないかと思いますが、いかがでございましょう。
  38. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 御意見のとおりかと思います。したがいまして、道徳教育ということでそれを中心にして展開しているわけでございますが、そういう情操、心の教育というものは、今後の教育でもっと重視されなければならないと思っております。
  39. 高木健太郎

    高木健太郎君 ありがとうございました。  大体これで普通の質問を終わりますが、ちょっと生臭い話で、私も余り聞きにくいことなんですけれども先ほどから何回も申し上げましたように、大学に対する指導とか助言というものは、どういうところまで可能なんでしょうか。  大学は強い自治あるいは自主的、自主というものを持っておりまして、それは研究を進める上に、あるいは言論というものの自由を確保するため、あるいは思想の自由というようなことが大学では守られておりまして、その意味では自主的な運営が行われている、それによって大学が社会に与えた影響、あるいは人間の幸せなり進歩に与えた影響は非常に私大きいものがあると固く信じております。しかし一方におきまして、大学自治というものを余りに強く考えますために、大学が聖域化されたという面もないではないわけでして、内部的にそういう意味では大学責任を持って自分の官治を守り、自分自身を開発し、あるいは自分自身改革していくという、そういうことが大学に義務づけられていると思うわけです。ただ、国立や公立の場合は、経理、財政についてはこれを政府が補助しておりますので、これを監査する権利を持っておるということは私も存じております。  そこでお聞きしたいわけですけれども、しかし教官人事、研究については、これは全く大学に委任をしているという状態で経営されているわけで、国民の税金を使っておっても、それは大学責任においてこれは運営されているということでございます。私立大学は全く政府からの補助金、助成金をもらわなければもう何をやってもいいということに、逆に言いますとそういうことになるわけなんですけれども、確かに大学自分自身で何か建学の精神を持っておられて、自主的にその大学を経営しておられるという立派な大学がある、しかも助成金をもらいませんという大学もあるわけで、私はこれは非常に将来どういうふうになっていくか、楽しみにしておるわけですが、もう一つ大学が、中に入って調べたわけではございませんけれども、何だかいろいろのうわさが飛び交う大学があるわけですね。それに対して、今まで文部省が助成金を与えておったのを停止された大学が幾つかあると聞いておりますが、それ幾つぐらいありますでしょうか。
  40. 國分正明

    政府委員(國分正明君) 最後の補助金を停止されている私立大学の問題からお答え申し上げたいと思いますが、昭和五十八年度から管理運営が著しく適正を欠いている学校法人等につきましては、補助目的を有効に達成することが困難であるという判断をいたしまして、そのような事態が生じた場合に原則として五年間補助金を交付しないという、いわば制裁措置をとったわけでございますが、現在、この制裁措置を講じているものは、学校法人数で五つ、設置する学校で申しますと大学六校、短大六校というふうになっております。それから、私立大学におきまして、いろいろ問題等の事案ができました際には、私ども基本的にはまず大学自治ということもございますし、御指摘がございましたように私学の場合、自主性の尊重という要請等もございますので、その問題の解決に当たりましては、まず大学自身、私学自身の努力によって解決していくということを基本考えておりまして、私どもがいろいろ指導助言申し上げますのも大学自身の、私学自身の自主的努力を促すあるいはお助けするという観点から必要なアドバイスは申し上げる、こういうスタンスで臨んでいるところでございます。
  41. 高木健太郎

    高木健太郎君 そういう助成交付を停止された、制裁措置として停止されたと言うんですが、その五つ、六つですか、その理由としては大体幾つかに分けられますか、パターンが。管理運営が不適切であるという、大まかに言えばそうですけれども、もっとその中身を詳しく知らせていただければいいですが。
  42. 國分正明

    政府委員(國分正明君) 法人数で五つでございますが、一言で言えば管理運営不適切ということになるわけでございますけれども、その内容は、例えば経理が紊乱しておる、中には不正な手段で補助金を申請し、それを受給を受けたというようなものもございます。あるいは法人の管理運営がどう見てもその規程もないし、理事会あるいは評議員会も機能してないというようなものもございますし、あるいはまた理事者間で争いが生じておりまして、だれが代表の理事長であるかわからないというようなケース等もございまして、またそれらが複数の要因としてあるというようなものもございます。
  43. 高木健太郎

    高木健太郎君 よくわかりました。  ただ、問題は補助金を、助成金をもらわないということになりますと、文部省としてはそれを全く、経理はなおわからなくなるわけですね、報告がもらえないわけですから。そうすると、その学校学校として存在しておりながら経理も乱脈であるし、だんだんそういうものが学校全体に広がっていきますと、教育そのものも乱脈である、しかしだれからもおとがめがない、法律的には何でもないということでは、要するに何の拘束も受けなくて、自分勝手にやられるというような状況になる。しかも、そこを受験する学生は、これは学校法人であって、文部省が認可した学校であるということで、助成金を切られたなんというようなことは余り、新聞で見てもよほど気をつけている人でなければわからないことですから、ますます乱脈になっていく、迷惑するのは学生じゃないか、こう思いますが、その点はどうなさいますか、そういう場合。
  44. 國分正明

    政府委員(國分正明君) 補助金が停止されている五法人について、若干ニュアンス、程度の差はございますけれども、現在まで私どもが把握しております限りにおきましては、できればできるだけ早く補助金を復活し、もらいたいという気持ちも背景にあろうかと思いますけれども、それぞれの大学において自主的な改善に向けての努力というものが若干個々の学校によって事情は違いますけれども、全体としてはそういうふうな方向にあると。また、私どもも求めに応じて必要なアドバイスはずっと続けていくという状況にございます。
  45. 高木健太郎

    高木健太郎君 今部長からお話しになった理事長と理事会というような問題でもめている学校一つに東和大学というのがあるのは御存じのとおりで、文部省も大変これにはお骨折り願っているということを私は承知しております。  これは御兄弟でやっておられるわけですけれども、この東和大学をお建てになったのは違いますが、学長になられて理事長になられたのは福田昌子さんでして、元衆議院議員で例の優生保護法をおつくりになったときに参画された方だという非常に立派な方が東和大学関係をしておられたわけです。その方が亡くなりまして、それでその弟の敏南さんという方がそこの理事長、学長におつきになった、簡単に申し上げるとそうなんですけれども。  で、それは純子さんというお姉さんが、昌子さんの妹さんですが、お姉さんが理事長をやっておられたんですけれども、体が弱いと、将来は敏南さんにぜひやっていただきたいというそういう気持ちで敏南さんに譲られたところが、それから少しおかしくなりまして、それで勝手に学校を担保に入れてお金を借りるとか、あるいは学校を勝手につくるとか、そういうことになっていったわけです。それで理事会にも語らないでそういうことをどんどんお進めになったということでございます。  そこで、五十八年の二月に理事会が開かれまして、その敏南という弟さんですけれども理事長を解任されて、そして純子さんが、お姉さんが理事長につかれたということは、これは文部省が承認しましたし、福岡の法務局にもこれが登記してあるというんですね。ところが、だからもう理事長は敏南さんではなかったわけですけれども、その後純子という理事長が理事長室に入ろうとした場合に、御存じのように傷害事件が起こりまして、それで大学のしかも理事長室でたたきかかろうとしたとかいろいろ傷害事件が新聞にも載っておりました。それで、そのときにとめに入った小宅とという事務局長が倒れて、そして医師の診断書ではいわゆる傷害のための死亡であるという診断書がついていたわけですが、そういう事件が起こったというわけです。これも学校の将来のためを思って純子さんは余り大きくは言われなかったと。その間にますますひどくなるので何年か、一年ぐらいの後にこれが外に出てきたということも聞いております。  その後、いわゆる卒業式をやりまして、卒業証書を出されていると。これが敏南さんの名前で出されておりますが、敏南さんはそのときには理事長ではなかったわけですね。また、五十八年の六月には理事も解任をされました。その後しかもやはり卒業式をやり卒業証書を交付されているということなんです。そうすると、これは学校に全然無関係の人が卒業証書を出したと、法律上はそうなるわけです。そうしてこの大学の目玉学部である電気工学科の平野という教授が解雇されたというようなことが起こりました。これは御存じでしょうか。間違いあったらひとつ。
  46. 國分正明

    政府委員(國分正明君) ただいま福田学園につきましていろいろなお話があったわけでございますが、私どももこの学校法人につきましては、御指摘がございましたように、五十八年ごろから姉と弟の間でいわば理事長争いと申しますか、というものが発生いたしまして、当事者の申し立てにそれぞれニュアンスの差がございますので、何が客観的事実であるかというのはなかなか難しいわけでございますけれども、五十八年の二月に、理事長でございます敏南氏が、理事長とそれから学長を解任され、またその後理事も解任されるという事実はあるわけでございます。  もちろん、これにつきましては、解任された敏南氏は、理事会が正当に召集されておられないというようなことを理由といたしまして訴訟に持ち込んでおりまして、本訴の結論はまだでございますが、先般地方裁判所の仮処分決定におきましては、この解任処分は無効であるということで、敏南氏は理事長にいわば復帰するという形になっているわけでございます。  それから、具体の事実関係でございますが、解任された福田敏南学長の名前で卒業証書等を出しているということは事実でございますが、この問題は、理事長あるいは学長の解任の効力、有効性ということ自体を争っているわけでございまして、その間、福田敏南学長名で卒業証書を授与するということも、これは最終的にどちらが正しい理事長であり学長であるかということはわからないわけでございますが、当面やむを得ない措置ではないだろうかというふうに考えております。なお、卒業の認定に当たりましては、学内の教授会等の議を経て行っているという所定の手続は経ているようでございます。  また、御指摘の平野教授の解任の件でございますが、五十九年の三月の開催の教授会におきまして、平野教授を除名、解任するという決議が教授会で行われたわけでございまして、理事長から平野氏に退職勧告の予告等が行われたわけでございますが、平野教授はこれを不服としまして福団地裁に解雇無効仮処分申請という申し立てを行いましたが、その後、五十九年の十一月に入りまして本人から和解の申し入れがございまして、十一月の末に和解が成立して同日付で依願退職という形になったというふうに聞いているところでございます。
  47. 高木健太郎

    高木健太郎君 よくわかりましたが、もう一つお聞きしたいのは、いわゆる経理のことでございますけれども、四十八年から御存じのように電気工学科というのが始まったわけですね。そしてそこの、平野さんがおいでになったわけですが、教授でおられたんでしょうが、そこでIBMのⅡ型というんですか、そういうコンピューターを購入されました。そのために文部省から五十六年と五十七年にそれぞれ三千万円の科学費の助成金を受けたわけです。それで、五十八年に決算報告がなされたかどうか、これに対して監査がなされたかどうか、あるいは会計検査から何かこれに対して報告があったかどうかということをまずお尋ねします。
  48. 國分正明

    政府委員(國分正明君) 御指摘のコンピューター関係の購入経費といたしまして、研究設備費補助金というのが昭和五十六年度に二千七百四十五万、それから昭和五十七年度に二千九百万、両年度で五千六百四十五万という補助金が文部省から福田学園に対して支出されておるわけでございますが、それぞれ補助金の目的に従いまして当該年度内に機器の納入あるいは支払いということが行われております。  なお、この決算等でございますが、評議員会にも報告し、公認会計士の監査も終わっておるというふうに聞いておるところでございます。
  49. 高木健太郎

    高木健太郎君 会計検査院の方はどうでございましたか。会計検査院の検査はございましたか。
  50. 國分正明

    政府委員(國分正明君) 会計検査院の検査につきましては昭和五十七年度に実施されておるわけでございますが、その際、会計検査院から同学園にかかわります検査結果について、例えばこの件はどうなっておるかという照会、あるいはさらには御指摘というものは特に受けていないところでございます。五十七年度以降につきましては検査は実施されておらないという状況でございます。
  51. 高木健太郎

    高木健太郎君 それはやっぱり検査はやるべきじゃないでしょうかね、その後。あるいは文部省へ会計検査院の方から何か話がございましたか、五十八年以降。  もう一つついでにお聞きしますけれども、このIBMのコンピューターに対しましてプログラムを、いわゆるソフトウエアの開発をしなければならぬ、それをジャパンシステム株式会社というところへ頼んで、そしてそれに約八百万ぐらいの金がかかったわけですけれども、それが未払いだというので差し押さえられて、そしてこれが東京の地方裁判所に支払いの請求が出ているわけなんですが、それは御存じでしょうか。それはその後どうなったでしょうか。
  52. 國分正明

    政府委員(國分正明君) ソフト仕様の契約をめぐりましてジャパンシステムといろんなトラブルがあったということは承知いたしております。五十八年の二月にジャパンシステムとソフト作成契約というものが先ほどお話の平野教授の仲介で福田純子氏との間で締結されたということでございますが、これは大学側と申しますか、福田敏南氏のサイドにおきましてはそういう契約が存在していたことを全く知らなかったということでございまして、請求書が来て初めてそういうものを知ったということのようでございます。ということで、それの支払いには応じられないということで訴訟になりました。東京地裁におきまして福田学園理事長福田純子氏に対して支払い命令が出されたということでございます。大学側といたしましては、そういうものではあるけれども、新たな紛争はできるだけ避けたいという観点から、判決に従いまして本年の三月二十日に八百七十万余りをジャパンシステムに支払いましてこの問題は解決したというふうに聞いております。
  53. 高木健太郎

    高木健太郎君 その間機械が使えない、差し押さえられているというようなことがありました。  それからもう一つは、平野教授に関係のある何人かの教官あるいは事務員が解雇されたというふうなことがありまして、学生が非常に動揺したんじゃないかと私は思うわけですね。そのために授業がうまくできない。それで平野氏の、あるいはその教官の後任としまして資格のないような人が教官に、あるいは教授になっているんじゃないかという話も聞いているわけです。こういうことが広がりまして、企業におきまして卒業生の就職が非常に妨げられているという話も聞いております。それはいかがですか。
  54. 國分正明

    政府委員(國分正明君) 確かに一時期、平野教授がやめたというような事情も背景に、あろうかと思いますが、電算機の利用に支障が生じたというような事実関係はあるようでございますが、現在のところ、学生に対します情報処理教育の実施でございますとか、それから研究、あるいは事務関係では給与計算あるいは学籍管理、成績管理等にフルに利用されておるということでございます。  それから教員の任用の問題でございますけれども、電算室関係を中心に職員が退職した事実はございますが、その後、後任を補充しておるということでございます。  また、資格の問題でございますけれども、同大学の教員人事の仕組みといたしましては、まず学科主任からなる主任会議において事前協議を行いました後に、教授会に諮り、資格審査をも含めて審議を行った後決定するという手続をとっているようでございまして、最近の大事につきましても、この手続にのっとって行われており、特に問題はないというふうに考えております。  それから就職の状況でございますが、まあ、就職状況がいいか悪いかというのはなかなか難しいわけでございますが、就職率という観点から申し上げますと、五十九年度卒業者は就職が一〇〇%ということでございまして、明春の就職希望者のうち現在まで八〇%は内定しているということで、特に就職に支障を来しているという状況にはないという報告を受けているところでございます。
  55. 高木健太郎

    高木健太郎君 いずれにしましても、理事会のない理事長だけの学校でございまして、理事会が開かれないまま理事長だけでいろんなことを決めているというふうなことは、私は全く異常だと思わざるを得ない。教授会のことも、これは文部省が介入できないことでございますからわかりませんけれども、しかし、そういううわさを聞くと、我々は何かあるんじゃないかという疑心を持たざるを得ないわけでございまして、先ほども言いましたように、迷惑をこうむるのは学生である、一般の人々は、文部省の公認をしておる学校である、だから大丈夫であるというんで、それに、頼って入っているわけですから、そこへ入った学生は非常に迷惑するということも考えなきゃいけない。  私がこういうことを聞きましたのは、一番初めから申し上げましたように、小・中・高までの教育というのは外国に比べて非常に立派な教育をしているという、あるいはアメリカなんかはそれを見習って教育をしようとしているわけですね。大学というところは、自治を守って、あるいは自治を尊重して文部省はそういう拘束というのは一切しない、その人の責任に任せているということがあるわけです。ところが、こういう十五校の私立大学に制裁措置として助成金を出さないということになっても、これがなかなかおさまらない。これはもうかなり長い間のわけですね。そして、理事会と理事長が分かれて、きょうだいけんかしてやっているというような状況はまことに悲しむべき教育界の事情だと、こういうふうに私思います。しかも、これが大学ということで文部省は何の手段も講じられない。だれが一体これをそれでは解決していくのか。学校が何とかなるまで我々はお世話をしますが、介入はしませんというようなことで、何かあっても知らない。要するに、設置する場合は大学設置審議会なんかにかけて十分に教官なんかを審査される、設備も審査される、それから財政も審査される。そうして法人として、学校として、大学として認めた。赤ん坊を生んでしまったらもう全く自分は知らないんだ、どうぞ御随意にと。御随意になるような青年ならいいですよ。それだけの立派な人間ならいいんですけれども、立派でない人間のように見えるわけです、この大学。それを何の手もつけられないというのは、私どうも解せない。これをどうかしなきゃならぬのじゃないかと思うんですけれども、しかし、いやどうもできませんと、こうおっしゃれば私としても何とかせいというわけにはいかぬ。法律でできないとおっしゃるのはどうしようもないですけれども、しかしこれは国民に多大の迷惑をかけているし、大学の品位を全体として落としているということも、これは見逃すことはできない、こう思います。そういう意味では、もっと厳然とした、毅然とした態度で大学の改善、改革あるいは処置というようなものを文部省は勧告すべきじゃないかと思います。このような大学については今後どのようなふうにされますか。これをお聞きしまして私の質問を終わりたいと思います。
  56. 國分正明

    政府委員(國分正明君) 御指摘のように現行制度におきましては、大学を設置する際の認可ということがあり、それから最終的には、極端な場合には学校の閉鎖命令とか、あるいは法人の解散とかという極端な措置があるわけでございますが、その途中の過程におきましては、大学自治あるいは私学の自主性に留意しながら指導、助言するというのが現行の私学制度あるいは大学制度であるわけでございます。  本福田学園につきましても、五十八年ごろから御指摘のような状態になったわけでございまして、私どもも何とか話し合いによって事態を解決できないかということをしばしば指導をしておりますし、また地元の福岡県におきましても私学担当局あるいは私学協会等が中に立ちましていろいろなあっせん案等も出したようでございますが、これも不調に終わる。それから、また今裁判係属中でございますが、裁判所におきましても和解のあっせんといいますか、示唆もあったようでございますが、両当事者がなかなか受け入れない、こういう状況にございまして、大変遺憾な状況が今日もなお続いてるわけでございますので、私どもといたしましても現行制度上許される範囲において粘り強く指導をして、できるだけ早く解決に向かうよう今後とも努力を重ねてまいりたい、かように考えております。
  57. 高木健太郎

    高木健太郎君 終わります。
  58. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 久しぶりに文教委員会へ参りましたので、あるいは私の質問、前に質問されたことと重複する点があるかもしれませんけれども、あらかじめ御了承願いたいと思います。  まず最初に、大学入学資格検定試験のことについてお尋ねしたいと思います。  最初に事実関係をお聞きしたいんですが、先般の新聞発表によりますと、六十年度千八百七十九人、合格者の中で高等学校中退者が約六〇%、それから十七歳未満の者が百十六人であるというふうに新聞に発表されておりました。過去十年ぐらい、大体の趨勢で結構なんですけれども、この大学入学資格検定試験受験者、それから合格者、その中で十八歳未満、十七歳以下の人たちの数がどういうふうに変化してきているか、事実関係についてお尋ねしたいと思います。
  59. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) まず受験者でございますが、五十年度から六十年度の傾向を見ますと全体的に非常にふえているわけでございます。  そこで、そのふえている中で、合格者の内訳で年齢別に見ますと、まず十八歳未満の者、これが五十年当時は〇・六%、ずっと二%前後で推移したのが五十八年まででございます。五十九年が四・三%、六十年が六・三%、要するに十八歳未満の合格者の数がまた比例してふえているという状況でございます。これを十六歳、十七歳で分けてみますと、十六歳の者が六十年度でいいますと一・二%、十七歳の者が五・一%というような状況で、大検制度による受験者数はここ十年来ふえ続けていると。しかも、その合格者の低年齢化というのが一方においてまた高まっておるという状況でございます。
  60. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 大学入学資格検定規程の第八条のただし書きに、資格検定合格者のうちで「ただし、その者が十八才に達していないときは、その者は、十八才に達した日の翌日から資格検定合格者となるものとする」ということになっておりますけれども、この年齢を制限された根拠はどういう点にございますか。
  61. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 大検制度は、諸般の事情により、高等学校教育を受けられない勤労青少年に対して大学教育を受ける機会を与えるという趣旨でつくられたものでございます。したがいまして、本来高等学校を卒業していく者は十八歳に達していると正規の学校制度の中で進学し、大学受験資格が得られるのは十八歳に達した場合でございます。こうしたことから、例えば十六歳、十七歳で合格した者を大学入学資格を認めるということになりますといろんな弊害も出てくるということから、現行の入試制度のバランスの関係で十八歳という年齢制限をしているわけでございます。
  62. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 いろんな弊害が出てくるとおっしゃいましたけれども、どういう弊害考えておられますか。
  63. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 一つは、高等学校に進学しなくて専門予備校とか学習塾そういうところで受験勉強一本やりで、十六歳で合格して早道に年齢を若くして大学に進学するというような傾向がここ一、二年も指摘されておりますが、そういういわば受験競争の激化ということに拍車をかけるという傾向心配されるわけでございます。
  64. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 塾なんかの受験競争を激化するということは現在でも十八歳以上で卒業した人たちの中でも顕著に見られる現象でありまして、なぜこの年齢制限を訳せているのか私にはよく理解できない。先般、NHKのテレビで合格者、若い十八歳未満の者だったと思いますけど、映しておりました。いろいろ質問に答えておりましたけれども、なかなか利口な子供で、十分大学に入れていいんじゃないか。つまり余り画一的に、十八歳というふうな考え方が私はやはり現在の教育の画一化をもたらしている一つの原因ではないかと思う。イギリスの功利主義の哲学者でジェレミー・ベンサムという人がいますけれども、あの人は十二歳でオックスフォード大学入学しております。もっとも余り年齢が若く入ったものですから、年の上の人たちから酒を買ってこいとかなんとかいじめられたらしい、今の言うところのいわゆるいじめを受けたらしいんですけれども、しかしそのいじめに耐えて、あれだけの大学者、在学中既にブラックストンなんという法学者の講義を片っ端から批判していたそうですけれども、    〔委員長退席、理事杉山令肇君着席〕  そういった天才なんかもいるわけでありまして、私はむしろそういった、例えば十五歳であり十六歳、まあ義務教育は終わってなくちゃいけないと思いますけれども、十六歳ぐらいでも合格できるような才能を持った人間というのは、非常に私は優秀な人間じゃないかと思うんです。そういうのを一年、二年遊ばしておく、十八歳になるまで得たしておくということはむだじゃないか、ウェーストじゃないかと思うんですけれども、この問題、再検討される考えはございませんですか。
  65. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) まずいろいろな問題がありますが、一つは飛び級、正規の学校に行っている子供で非常にできる者は飛び級の制度を小・中・高等学校段階に認めるという、制度全体のものと並行してそういう年齢撤廃というか、そういうことで検討されなきゃならないということが一つあるわけでございます。したがいまして、現在の学校制度で卒業する者は、どうしても十八歳を超えられないという制度を一方において持ちながら、大検制度の場合だけその年齢制限を撤廃するということになりますと、これは制度全体のバランスを保持した受験制度でないということが一つであります。もう一つは、大検の試験問題でございまして、この試験問題はある意味では非常に易しくしてあるわけであります。要するに九四%の子供が高等学校に進学しているということに着眼して試験問題は著しく易しいと、十六歳で合格した者はほとんど高校浪人、中学校を卒業して一流の高等学校に進学できないその人間が大検を受けたらほとんど合格したということで、試験レベルの問題、この二つの問題がありますので、そういうことをあわせて検討していかなければならないというふうに思っているわけでございます。
  66. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 ちょっと後の方にありました試験レベルの問題というのは、今の試験非常に易しいから合格しているんであって、もっと引き上げるべきだという御意見ですか。
  67. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) そういうところまで考えているわけじゃありませんが、試験問題が非常に易しいと、したがって合格しやすいと、高校浪人でも一年で全部の教科が受けられる、合格するという程度になっておりますので、本質的に大学の授業を受けてちゃんとこなしていけるようなレッテル、保証というにはちょっと内容的にはそこまでいってないということを申し上げたので、したがって、その内容を高くするようにした方がいいか、やっぱり勤労青少年への対応ということでございますと、九四%の子供たちが行っているんで、そう余り難しくしないでその資格だけの道を与えていくというふうにした方がいいか、これは今後の検討課題であろうと思っております。
  68. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 この検定試験の問題が非常に易しいので、それをパスしただけで大学の授業を受けられるかどうかという話でしたけれども、これは資格試験でしょう、大学に入るためには別の入学試験受けるわけでしょう。それをパスしないようであれば初めから大学入学する資格はないんであって、もしこういう十八歳未満で大学に行けるような制度を認めると、そういうのがだんだんふえてきて、正規の高等学校に行かなくなる者が増大するではないかというふうな御心配であれば、それは現在の高等学校に対する一種の不信任をあらわしているんであって、高等学校の方がむしろ反省すべき問題で、高等学校改革のための一つの刺激材料にでもなるんではないかと思います。したがって、この問題十分検討していただきたいというふうに思っております。  次は、子供の非行の問題、特に学校における児童の非行の問題あるいはいじめの問題、これしばしばこの委員会でも取り上げられました。最近は、何か悪いことが起こるとすべて教育者が悪いんだというふうな風潮があって、家庭の責任なんかほっぽり出して、すべて学校であるとか教育者にしりを持ってくるような風潮があります。その点は政治家も同じなんですけれども、何か悪いことがあると、それは日本の政治家が悪いからだと。さらに最近はそれにつけ加わりまして、新聞が悪いからだと。つまり、記者と教員と国会議員というのは諸悪の根源、三Kだそうでありますけれども、まあそれはそれだけにこういう職業というのが非常に大きな期待、    〔理事杉山令肇君退席、委員長着席〕 普通の職業と違って大きな期待をかけられている。そして、自粛の念で受け取るべきではないかというふうに私は考えておりますが、この教員の問題、ここでは教員だけを取り上げますけれども、この非行の問題、学校にいろんな責任を負わして――確かに私は、学校としてもいろいろ対策を講じなくてはならないことがあると思っております。しかし、どうも学校教育に何か水を差すような考え方が私はかなり世間で多いんではないかと。  その一つの例として、最近、日本弁護士連合会というところから十月十九日付で「学校生活と子どもの人権に関する宣言」というのが発表されまして、新聞もかなり大きく報道いたしました。この中にはかなり学校教育に対する批判、警察に対する批判なんというのもございますけれども、まず学校教育に対する批判がいろいろ書いてございますが、これを文部省の方としてはどういうふうに受け取られておられますか。大臣、お読みでございましたならば、大臣は同時に弁護士の資格もお持ちだと思いますけれども、お伺いしたいと思います。
  69. 松永光

    国務大臣松永光君) 日本弁護士連合会でいろいろ勉強されて出された宣言であると思いますので、私がかれこれ批判する立場ではありません。ただ、子供の人権を適切に守っていくということは大事なことだと思っておりますが、ただ、最近のこの非行の問題あるいはいじめの問題等についての分析の仕方はやや一面的ではないかというふうに私はとりました。というのは、この宣言の書き方によりますと、「教育内容への統制の強化」とか、あるいは「詳細極まる校則」とか、そういったことがいじめや登校拒否、非行などを深刻な事態に追い込んでいるというような分析のようでありますが、そもそも非行とかいじめとか、ひどい場合には、犯罪等々が起こる場合には、外部の方における誘発的な要因は大体の場合にあるわけでありますが、同時に一つ問題にしなきゃならぬのは、その行為者側の抑制的な力あるいは抑制的な要因がどれだけ働いておったのか、これは両面から見ていかにゃならぬわけであります。  一般的には、最近の非行やいじめ等について誘発的な要因だけを取り上げて、そしてその誘発的な要因があったからいじめが起こり非行があったんだと、こういう分析の仕方をしております。しかし、それではいつまでたっても非行をし、あるいは犯罪を犯した者は立ち直るチャンスはなかろう。人の行為の中には常に誘発的な要因があっても、本人自身が良心がある、道徳的な判断力がある、そして道徳的な判断に基づいて行為する能力を持った人間の場合には、誘発的な要因があっても非行とか犯罪とかいじめには走らぬわけであります。  そういう意味で、物事を分析する場合には誘発的な要因と抑制的な要因、両方あわせて分析をしなきゃならぬのだと私は思っております。最近におけるいじめとか非行とか、あるいはいじめの中には重大な犯罪行為、刑罰法令に触れる行為が行われている例もあるわけでありますけれども、その例を見ますというと、多くの場合が誘発的な要因が強いからというよりも、本人自身の道徳的な能力、判断力、その道徳的な判断力に基づいて行動し得る能力、こういった抑制的な要因が弱いところにむしろ問題の本質があるというふうに私は見ておるわけであります。もし、教育条件の整備がおくれているということが主たる要因であるならば、教育的な条件という物的な条件を整備するだけで問題が解決するならば、むしろそれは易しいことだ。そうじゃなくて、その子供自身の、先ほど先生も御指摘のありました、生まれてから小学校、中学校に達するまでの間に家庭や学校やその他で集団生活を行う場合の基本的な規律とか、規範とか、そういったものがしっかり身についていない、そこらあたりが一番の問題点ではないかと、自分権利は主張するが他人の生命、身体、基本的人権を尊重していくという心がまだ十分その子供に植えつけられていない、そこらあたりが私は基本的な問題じゃないかというふうに思っておるわけであります。そういうことでありますので、別にこの日本弁護士連合会の宣言について批判する気持ちはさらさらありませんが、勉強された結果の宣言であると思いますし、また子供の人権を守ることは大事なことでありますから、子供の人権を守ることは十分我々もこれからも考えていかなければならぬ。子供の人権というのは非行をした人の人権もあるわけでありますが、最も大事なのは、非行あるいはいじめによってその人の適正な発達を阻害された、被害を受けたその子供の人権こそまず守らなければならぬというふうに思うわけでありまして、そういう立場で私どもはこの問題の正常化のために今後とも努力をしていかなきゃならぬと考えているわけであります。
  70. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 警察の方、見えていますか。  この中には、警察に対する批判もいろいろ書かれております。基本的には警察に対する学校の依存関係を非難しているわけですけれども、警察の方で今まで昭和五十七年の五月二十七日に、少年非行総合対策要綱なんかを発表して、これに従ってから警察の少年非行の問題なんかに対する働きかけが非常に激しくなってきているというふうなことが書かれております。少年非行総合対策要綱というのを全部の必要はございませんけれども、そのポイントだけを、どういうことをねらっておられるのか。
  71. 根本芳雄

    説明員(根本芳雄君) 今お尋ねの少年非行総合対策要綱、大分大きなものでございますけれども、これは今まで警察がやっておりました各種の施策を取りまとめて、特に五十五年に、昭和三十九年の一番大きかった、最大だったピークを超えて大変少年非行が問題化した、こういうことで今までやっておりました施策を取りまとめて、これを全部をやらなきゃいけない、そういうことで、広報啓発活動あるいは特に文部省を初め、学校を初め、関係機関、関係団体との連携を強化すること、それから社会環境浄化対策の推進、それから少年の社会参加活動等、さらに総理府総務庁等が中心になっております国民運動の展開、こういうものに積極的に参加して、少年の非行対策を推進して減らしていく、こういうことでつくったものでございます。
  72. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 それから、まだこの中には、警察の方で非行に全く関係のない子供に対しても規範意識を持たせるための指導が必要として、人づくり活動に乗り出しているというようなことが批判的に書いてございますけれども、どういう活動をやっておられるんですか、人づくり活動というのは。
  73. 根本芳雄

    説明員(根本芳雄君) 今お尋ねの問題は、多分警察でやっております少年柔剣道活動とか、あるいは社会清掃活動ですね、こういうものだろうと思います。これは要するに最近の非行が路上で自転車を乗り逃げしたりする、あるいは簡単に万引きしてしまうというような規範意識の欠如、これに原因のある、人目に隠れてやるような、そういうものが非常に多くなっている。それからもう一つは、少年の福祉を害する犯罪の被害、家出なんかをしてすぐその日に被害に遭う、女子の性非行が一貫して増加して、その背後には要するに不良グループに簡単に入ったり、酒やたばこ、深夜うろちょろして歩くと、そういったことがございますので、そういうものを放置しておけば非行に陥ったりあるいはそういった悪質な福祉犯罪の被害者になってしまう。そういうことで、これをいい方向にしむけることが大変大事なことじゃないかと、こういうふうに認識しております。それで関係機関、地域社会とよく連携をとりまして、そういった問題にも積極的に働きかける必要があるということで、特に警察としては少年柔剣道活動、こういったものに力を入れております。
  74. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 実は私の孫も警察で柔道を教えてもらって感謝しているんですけれども、聞きますと、道着なんか買えない子供に対しては警察の方から支給までしてやっておられるということで、私は非常にこれは結構なことじゃないか。これはなぜ非難の対象になるのか、どうも私にはこれは理解できないんですけれども、警察の方として、この中に書かれている警察に対する批判的な言葉かなりございますけれども、どういうふうに受け取っておられますか。反論すべき点があれば反論していただきたいと思います。
  75. 根本芳雄

    説明員(根本芳雄君) 先ほど大臣が御指摘のように、よくいろいろ検討なさって書かれたものでございますので、批判というようなことではございませんが、ただ、今の非行の実態が、数字で簡単に申し上げますと、約四〇%が中学生でございますし、三〇%が高校生と、要するに非常に学校の生徒が多いと、こういうことでございます。ですから、非行をなくすと、そして健全育成を図るということになりますと、どうしても学校との協力関係、これを深めていく必要が非常にある。最近の例えばいじめの問題をめぐりましても、これはやはり学校といろいろな知恵を出し合ってなくしていくと、こういうことが非常に大事だと思います。ですから、こういった考え方では私どもちょっと違うんじゃないかという認識はしております。ただ警察としては、我々が手に入れましたいろんな事案あるいは事件、こういったもので教訓、こういうものを学校先生方にも提供し、御両親にも提供する。他方で学校先生方の限度、能力を超えたといいますと失礼ですけれども、非常に繰り返されて犯罪行為が続くとか、そういうことになりましたら、警察の手で補導して被害者の保護も図り、いい方向に向きますように子供を補導していくと、こういうことが大事だろうと思います。そういうことで、さらに私ども学校と協力をして非行の防止と健全育成に努めていくと、こういうことを考えております。
  76. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 私もこういう批判にめげずに今までどおりに非行少年の補導でありますとかあるいは非行でない普通の少年の人づくりなんかを大いにやっていただきたいと思っております。ただし、やっぱり教育の主体は学校であって、警察はあくまでそれを助ける、補助するという意味で十分協力してやっていただきたい、行き過ぎがないようにしていただきたいというふうに考えております。警察の方結構です。  私は、これはいろいろ研究して書かれたんだと思うんですけれども一つの先入主といいますか、あるいは根本をなしているフィロンフィーといいますか、これは私は間違っていると思います、ここに書かれていることは。子供に人権があるのは当然でございますけれども、子供はその権利の正しい行使ができませんので、したがってそういう権利の行使が正確にできるような大人にしむけていくのが教育であって、何かこれを見ますと、子供は生まれつき立派な人間であるんだ、それを外部からいろんな規制を加えたりなんかするから非行が生まれたりあるいはいじめなんか起こってくるんだ、そういうフィロンフィーに立っているように私は思うんですけれども、私は子供は決して天使でも何でもないと思う。生まれたばかりの子供というのは生物学的なヒトではありますけれども、決して人間ではないわけでありまして、それを人間にしていくのが教育の任務である。どうもこの考え方を進めていきますと、例えばいろんな規則なんかを、これは規則がすべて悪いというふうにも書いてないんですけれども、しかし何か規則なんかを決めていくことは子供の精神的な自由、憲法十三条から導かれるプライバシーの権利その他、いかに生きるかをみずから決定する権利云々を侵害する危険性が極めて高いというふうに書いてございますが、私はもちろん余り細かな規定をつくることは反対でございますし、また余り時代おくれのような規則なんかをつくることもかえって逆効果であると思いますけれども、子供、低学年であればあるほどむしろ厳しいしつけをしていく、伝統的な文化によって伝わってきているところの生き方、規範、基本的な生き方、それをやはり子供のときにたたき込んでおく。そういう強制を加えられた子供が大きくなってその強制を破ろうとして自由を求めてくるんだと思うんです。初めからこういう型を押しつけられない子供というのはいわば型なしであります。型破りの人間が出てくることもできないわけであります。むしろ低学年であればそういう厳しいしつけをしなくてはいけない。これはむしろ家庭において私はやるべきことだと思いますけれども学校においても低学年においてはやはりある程度の規則は必要であると思います。殊に最近の家庭なんかでは学校にしつけをいろいろ依頼してくる。本当は家庭でやるべきことまで学校に依頼してくるような親が多いような社会ですから。もちろん、非常に価値観が多様化しておりますので家庭のやり方学校やり方と違う、そういう矛盾が生じてきて子供が困るというふうなことも私はあるだろうと思いますが、やはり最小限度の社会規範というふうなものはこれは守るように子供のときから、これも最小限であるべきだと私は思いますけれども、やはり規則は制定することはやむを得ない。本当であるならば規則なんかなしに親や教師の権威によって自然に子供がそういった生活の型を覚え込んでいくのが一番いいんですけれども、最近の社会というのは何でもかんでも法律で決めなくちゃいけない、法律にさえ触れなければ何をやってもいいんだというふうな法律万能の社会になりつつあるし、学校でもそういう影響を受けて、やはりある程度の規則は必要だというふうに考えます。その意味から、この中には確かにいいことも書いてございます、大規模校の解消でありますとか少人数学級の実現でありますとか、私の賛成する面もあるんですけれども、どうも基本的な考え方が間違っているんじゃないか。こういうふうな考え方が、かえって現在の教育界を毒しているというふうに私は考えております。したがって、こういう文書に余り惑わされずに学校教育はどしどしやっていただきたいというふうに希望しておきます。  何か御意見があればお伺いいたしますけれども、賛成であれば次に進みたいと思います、
  77. 松永光

    国務大臣松永光君) 先生の御所論、大体において私は賛成であります。というのは、日本にも昔から三つ子の魂百までということわざがあるわけですけれども、やはり基本的に大事な規範あるいは守るべき道徳律というものはできるだけ幼いときに仕込め、幼いときに曲がったものはなかなか後では直らぬと。これはフランスにも同じようなことわざがあるそうでありまして、幼いときに曲がった枝は後では曲がりっ放しでなかなかもとに戻らぬと、世界共通にそういうことわざがあるわけであります。したがいまして、先生指摘のように、幼いときにこそ基本的な規律あるいは道徳律といったものは子供に教えていく必要がある。日本の場合にはどちらかというと乳児期、幼児期はある意味ではそういうしつけとか教えをしないで、やや大きくなってから、十四にも十五にもなってからそれをしようとするところに問題がある。西欧等の場合には二歳、三歳ぐらいまでの間に基本的なしつけはやってしまう、そして十三、十四ともなってくれば相当自由を認め、かつその人の自己責任において行われるというふうになっているそうでありますが、日本の場合には幼児期等における基本的なしつけとか規律の教え込みが不十分という感じがいたします。  また、世の中を自由で平和でお互いに暮らしていくためには当然守らなきゃならぬ規律、規範というのはあるわけでありまして、その規律、規範が今どちらかというと問題校等の場合には乱れておるという点に問題の根源があるように思われるわけであります。自由も大事でありますが、みんなが自由を享受していくためには守らなきゃならぬ規律、規範というものはあるわけでありまして、その規律、規範の意識というものはきちっと守られるような状態にしなきゃならぬというふうに思います。もっとも、先生指摘のとおりでありまして、聖人君子になればそれは要らぬのでしょう、孔子さんの、おのれの欲するところに従えどもなおのりを越えずというみたいになってしまえばいいんでしょうけれども、子供にはそんなことはあるはずないわけでありまして、その基本的なのりを教え込んでいくのが幼児期あるいは小学校、中学校等の教育においては大事ではないかというふうに思っておるわけであります。
  78. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 誤解ないように言っておきますけれども、私はやはりある程度の規則、校則というふうなものは必要だと思いますけれども学校によっては余りに細かな規則を制定して、しかもその違反者を多くの生徒の前でそれこそ子供の人格を無視したようなやり方で強制する、あるいは体罰を加える、そういう学校もあるやに聞いております。そういう学校に対する批判としてならば私はこれはもっともな点がありますけれども、やはりそういった校則あるいは規則というふうなものは、教育委員会の方とも相談するし、あるいはPTAの方の意見も聞くし、守れるような規則でなければいけないんであって、大部分の人が守れる、少数の人は守らない――何か余りに、何というんですか、前垂れの髪を何センチに決めるとか、それを超過すると先生がいきなりはさみで切ってしまうんだというふうな学校の話も聞きましたけれども余りに細かな規則は私はやはりかえって逆効果を生む、そのことは申し添えておきたいと思います。  次の問題に移りまして、次は、小学校、中学校、高等学校に進むに従って繰り返しの教育が多いんではないかということを私感じております。  ほかの科目についてはよくわかりませんので社会科を取り上げますけれども、社会科の教科書を見ましてもどうも繰り返しが多い。これは私は子供に対する学習意欲を失わせている一つの原因ではないかというふうに考えております。例えば小学校の六年で日本史のごく概略を社会科の授業として習っております。それから、中学でもそれをさらに若干詳しくした授業をやっております。それから、高等学校でも日本史及び世界史、それをさらに詳しく教えているわけであります。公民といいますか、政治経済といいますか、そういった科目についても同じであります。やはり小学校、中学校、高等学校――高等学校では現代社会という科目ですけれども繰り返し教えております。こういう教育課程を組まれたのはそれぞれの考え方があっての話だろうと思うんですけれども、どうも知識が細切れに教えられていて、体系的に物事を考えるという習慣がこれではそがれるんではないか。中学までは義務教育でございますからすべての児童が行くと考えていいわけですけれども、例えば歴史なら歴史を小学校、中学校繰り返してやるんではなしに、中学校で系統的に一年なり二年なりのときに教えて、公民的な授業も小学校よりもむしろ中学校あたりでまとめて体系的に教えていく。その余った時間はむしろ国語でありますとか算数でありますとか芸術であるとか、幼年時においてやっておくべき基礎の科目、これを小学校で重点を置いてやった方がいいんじゃないか。それから、高等学校、中学校の間においても重複があるわけでありまして、私立学校で、中学校、高等学校一貫して教えている学校の話を聞きますと、中学校、高等学校一貫して大体五年間で、公立の学校が三年、三年の六年間で教えていることはやってしまうんだそうであります。最後の六年目は受験勉強をやっている。そういう私立の六年制の学校が多いという話を聞きましたけれども、これなんかやっぱりそれでやれる。五年間でやろうと思えばやれるわけであって、繰り返しがあるからある意味で時間の浪費ということにもつながってきているんじゃないか。もし、どうしても小学校、中学校、高等学校で繰り返して教える必要があるというんでありますならば、内容を大いに変えて、例えば小学校では人物、人間中心の歴史を教える、それで中学校あたりで、今小学校、中学校同じように教えております生活史といいますか文化史といいますか、そちらの方を教える。  どうも私、最近の大学に入ってくる学生を見ますと、歴史に対する関心を失っている、興味を失っている学生が非常に多い。しかし、いやしくも人文科学、社会科学をやろうと思う者が歴史の授業をまじめにやらなくてやれるはずはないんであって、私はよくそういう大学に入ってきた学生に、まず大学生になったら、人文系、社会科学系をやりたいと思うんだったらば司馬遼太郎の小説を読みたまえ、歴史小説を読みたまえ、あれはもちろん小説ですけれども、あの中に、例えば指導者がどういう時代にどういう判断をしたかというふうなことが非常におもしろく書かれている、そういう人間の動きが大事なんだ、人間がいろいろ悪戦苦闘してきている、その跡をたどることが歴史なんだ――ここに歴史の大家であられる林健太郎さんがおられますので、詳しいことは林さんからお聞きした方がいいかもしれませんけれども。私は、もちろん生活史、文化史というのは重要だと思います。しかし同時に、やはり人物をもっと中心にした歴史を低学年あたりで、もし繰り返してやるんならば、そうした方がいいんじゃないかというふうに考えるんですけれども文部省のお考えいかがですか。
  79. 松永光

    国務大臣松永光君) 我が国の社会科教育に関する御意見だと思うんでありますけれども先生よく御承知のとおり、これは私の個人的な考え方も入りますけれども日本の社会科という教科は特殊な状況下で創設された教科であるというふうに私は思っております。すなわち昭和二十年十二月三十一印の日本歴史、地理教育停止のGHQ指令に始まりまして、翌二十一年の十月にCIEが社会科を創設の示唆をする。その翌年の二十二年四月から社会科の実施を通達をし、その年の九月から社会科の授業が始まった、こういう歴史があるわけであります。その後、何回かにわたって社会科の教育の改善措置はなされてまいりましたけれども先生が今御指摘のような有力な御意見や御指摘があることを私も承知いたしております。特に歴史教育などについては、先生指摘のように系統学習というのが私は大事なことだと思うのでありますけれども、それが必ずしも十分とは言いがたい面があるように思われます。また、人物によって歴史がつくられてきた。ということも実はあるわけでありまして、そういう人物などの点について、小中学校等の歴史関係の教科書等の中にはほとんどそういったものがないという点の指摘もあるわけでありますが、それももっともと思われる点がございます。  いずれにいたしましても、系統的に学習していくということが大事なことだと私は思うのでありますが、これらの点につきましては、小学校、中学校、高等学校教育課程について現在教育課程審議会で審議をお願いをしておるところでございまして、先生の御意見、御指摘、こういったものも踏まえて社会科教育あり方については検討がなされるものだというふうに思いますし、それを私は期待をしておるわけであります。
  80. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 教育課程審議会にぜひ諮問していただきたいもう一つのことがございます。  それは、つまり高等学校における現代社会それから政治経済、倫理社会です。現代社会は大体必修だと思います。政治経済、倫理社会が選択で、二年、三年で選択するんじゃないかと思うんですけれども、現代社会と政治経済、倫理社会の教科書を比べてみますと、後者の方が多少詳しくはなっておりますけれども、大体同じようなことが書かれているわけであります。だから、大学受験する場合に現代社会を――来年、再来年ぐらいからなくなるという話も聞いたんですけれども、今まででは現代社会と政治経済を選択で、二科目選択ですから、受けるというふうな学生がふえているという話を聞いたんですけれども、こういう学生というのは、つまり歴史は全然やらずに来るわけです。私は、やはり政治経済なんかを詳しくやるよりも、もっと歴史をやってきてもらいたい。殊に政治経済なんかに書かれていることを見ますと、これをマスターできればもう大学に来る必要はないんじゃないかと思うくらい程度の高いことが書いてあります。恐らくその意味内容はわからずに、ただ言葉だけを覚えてくるんじゃないかと思うんですけれども、もしそうであるならば、私はむしろ弊害――かえって大学に来て、あっそれはもうわかっているというふうにまじめに聞かなくなってくる、かえって教育上マイナスじゃないかと思うんです。私に言わせますと、高等学校で教えているような政経の科目というふうなものは、現代社会がある限りは不必要じゃないか。もちろん高等学校の人が全部大学に進むわけじゃございませんから、そのまま社会に出る人がございますので、私はやはり現代社会程度の公民的な知識は私は必要だというふうに考えておりますけれども、それ以上のことを高等学校で果たして教える必要があるかどうか、教育課程の方に御諮問なっていただきたいというふうに思います。  それから最後に、もう時間がなくなりましたので、これ去年の内閣委員会、臨教審が設置されるときの内閣委員会で私取り上げた問題ですけれども、中学校私立及び国立の中学校入学試験の問題がとても小学校の教科書で教えていることをやっただけでは答えられないような問題がある。去年の内閣委員会で森文部大臣でしたけれども、そのときに筑波大学の中学校入学試験問題、これをできますかと森文部大臣に聞きましたら、私はできません、大臣でさえ答えられない、私も答えられなかった。恐らく並みいる文教委員の人たち一人も答えられないような問題でないかと思うんですけれども、それはつまり新聞をよく読んでなくちゃいけないし、しかもその問題が日本と発展途上国との経済援助の問題についての問題でしたけれども、ある国、ある時代については言えるようなことを何か一般的に答えるというふうなことは、これはとても大学生でも答えられない、私も答えられないと思ったんですけれども、そういう非常に難しい問題がありますし、それからここに国私立中学入試問題集というのを持ってまいりましたけれども、これを見ましても小学校で習った知識だけではとても答えられない。もちろん、私立に対して文部省がどれだけ介入できるか、これは非常に問題で、じゃ自分のところは暗記力の強い学生を集める、そういう趣旨でやっているんだから、暗記さえできればそれでいいんだ、それで入学させるんだという学校の設立の趣旨であれば、また何をか言わんやですけれども、どうも試験問題が難しくて塾に行かなければ答えられない、塾で受験用の教育を受けなければ答えられないような問題が出ている。これもやはり私は私立学校に対して反省を求めたい。折に触れ文部省の方でもそういう意見私立の方にも伝えていただきたいということを感じております。これは私の意見でございますので、もし御意見があればお伺いしまして、なければ結構でございます。
  81. 松永光

    国務大臣松永光君) 私も先生と同意見でございます。一部の私立の中学校等の入学試験が小学校勉強した、教科書だけではとてもじゃないけれども歯が立たないなどという試験問題が出たりするものですから、あるいは出ることが多いものですから、そこで進学塾が盛んになるという実は結果になっているように思います。塾に行って勉強することを一概に悪いとは言いませんけれども、やはり小学校時代などは学校では勉強とそれからスポーツ、家に帰ってくれば地域の子供たちとやはりスポーツなどをするということで知育、徳育、体育の調和のとれた発達がなさるべきだと思うんでありますけれども、それが進学塾が盛んになるなどということのために知育偏重になりかけてきておると。これを根本的に直していくためには、一つは今先生指摘のような一部の私立の中学校等の入学試験試験問題、これに少なからず問題があるというふうに私も思っております。この点では文部省もかねてから私立の中学校を所轄しておる知事に対して適切なものになるよう指導してきておるわけでありますが、まだ十分そういう指導が徹底していないと思われますので、今後ともそういう点は十分徹底したことがなされるように努力をしていきたいと考えております。
  82. 林寛子

    委員長林寛子君) 午前の質疑はこの程度とし、午後一時三十分まで休憩いたします。    午後零時三十六分休憩      ―――――・―――――    午後一時三十分開会
  83. 林寛子

    委員長林寛子君) ただいまから文教委員会を再開いたします。  教育文化及び学術に関する調査のうち、臨時教育審議会における審議状況に関する件を議題といたします。  本日は、参考人として、臨時教育審議会会長岡本道雄君、同審議会第一部会長天谷直弘君及び同審議会第四部会長飯島宗一君の御出席を願っております。  この際、参考人の方々に一言ごあいさつ申し上げます。  本日は、御多忙中のところ本委員会に御出席いただきましてまことにありがとうございました。  議事の進め方といたしましては、臨時教育審議会における審議状況につきまして二時間四十分程度各委員の質疑にお答えいただきたいと存じます。どうぞよろしくお願い申し上げます。  それでは、これより質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言願います。
  84. 久保亘

    ○久保亘君 最初に、岡本会長にお尋ねいたしますが、臨教審の第一次答申には明確に教育基本法の精神にのっとって審議を進めたと、こう書かれてございますし、そしてまた臨教審の設置そのものも教育基本法の精神にのっとって審議をすることで設置をされているのでございますが、基本答申をいよいよ検討するに当たって、という会長の――ここへ、「臨教審だより」ナンバーテンの中にお言葉がございまして、「いよいよ基本答申をという秋を控えて、「教育基本法の精神」をこそしっかり理解・納得していなくてはと思って、本夏は万事を放擲して基本法制定の経緯から本文の逐条までゆっくり勉強した。その経緯にもいろいろと感慨があるが、年齢のせいもあろうかと思うが、」――非常に謙遜なさっておりますけれども、「本文は何とも読みづらいという感を持った。」と、こういうことが書かれてございます。また、天谷部会長も衆議院において同じようなことを述べておられるようでありますが、教育基本法の本文が読みづらいというのはどういう意味なのか。それから、教育基本法が教育の目標を明確にしていないという考え方は、この基本法をどうお読みになれば出てくるのか。そして、そういうお立場でもって一次答申を教育基本法の精神にのっとって審議をしたという答申をお出しになったのはどういうことなのか。その辺からお聞きしたいと思うんです。
  85. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) この第一次答申のときからこの審議会はそもそも教育基本法の精神にのっとりということでございますから、一次答申は改革の方向から出ておりますけれども、やはり教育基本法をしっかり読んで、そしてその精神を納得して、そして改革の方向というものが出るものであります。そういうふうな努力は私としていたしましたわけでございますが、これは審議会としてもそういう経過をたどっておるわけでございまして、実際例えば先生方御記憶の自由化論のときも、やはりその中で自由化できるできないは教育基本法の条項に照らしてというような操作もやっておるわけですね。それで、一次答申というものは改革の方向というので出ておりますけれども、このたび基本答申を出すということにつきましては、私自身としましては一次答申のときよりさらに詳しくあれを読んだということでございます。  それで、極めて率直な感想としましては、大変読みづらかったということは年のせいもあると思いますけれども、一般的な文章としては私は大変読みづらいと思いました。それで、あそこにも書いておきましたけれども、法律の文章というのはこういうものかと思って努力して読んだわけでございます。例えば教育の目的などに関しましては、あれを一々人格の完成という大目的を立てまして、それから個人的な資質とそれから国民としての資質というふうに二つに分けまして、そして私は私なりにこれを理解いたしまして、そしてこれが現在では勉強した内容は、方々のいろいろなものも読みまして、現在ほぼ世の中でこれでもっていけるというふうなコンセンサスも得られておるというふうなことも感じておりまして、その点衆議院でもそういうふうに申し上げておる次第でございます。
  86. 久保亘

    ○久保亘君 教育基本法というのは、私は日本のいろいろな法律の中では非常に読みやすい法律だと思っております。それで、これは日本の戦後の教育を進めるに当たって宣言的な意味も持ったと思うんでありますけれども、この教育基本法の前文並びに十一条しかありませんこの条文を見て、読みづらいというのはどこなんでしょうか。それを私はお聞かせいただきたいと思うんです。  それから、そういう読みづらいとか、あるいは一部会長が言われたと聞いております教育の目標が不明確であり、今日的解釈をしなきゃいかぬとかいうようなそういう考え方というのは、やっぱりこの教育基本法はもう変えられなければならぬという考え方が根底にあってのことではないんでしょうか。私はこの教育基本法を読みづらいと考える国民がそんなにいるんだろうか、読みづらい人とか今日的解釈を加えなければこれでは教育の目的が不明確だとか、そういう考え方の人たちが集まって今日の教育改革を論議されるということについて大変危惧を持つものでありますが、どこが読みづらいんでしょうか。
  87. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) これはよく注意して読みますと、「教育は、人格の完成をめざし、」と、これが最終のゴールであるということははっきりわかります。それからその次に「平和的な国家及び社会の形成者として、」と、こういうふうに言っているわけですがね。ここらが私は最前申したように、この点はこれは国民としての、最終の全体のゴールは人格の完成を目指したけれども、これは国民としてというので、それから個人としては心身ともに健康な国民というふうな読み方でここへたどりましたけれども、しかしこの文章を読んですぐそこまでいくのには大変この文章は難しいんですよね。その意味で私は英語の文章の方がまだいいと思ったくらい大変読みづらかったんです。それはもう私個人のことですから、率直に読みづらかったと申し上げるより仕方がないんです。何もこれに対して特に偏見を持っておるわけではないんでして、それでもこれは私は文章として大変読みづらかったということを申し上げておるわけです。
  88. 久保亘

    ○久保亘君 そうすると、会長がおっしゃいます教育基本法の法律が非常に読みづらいということは、この基本法の精神というものが理解できないということではありませんね。それで教育基本法のこの理念というのは、会長としてはこの臨教審の審議を通じて変わらず尊重をしてお考えになると、こういうことでよろしゅうございますか。
  89. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) それで、この審議会は、「教育基本法の精神にのっとり、」ということでございますので、私は自分の感想で読みにくくても、これからこの精神を読み取ることがまず第一なんですね。その意味で、私は私なりに努力をして読みまして、そして今のところ、この中から精神というものを読み取り得ると感じたわけです。それで、このことは第一次答申のときも同じでございまして、そして夏休みにしっかり読んでみても、やはりこれから精神というものは読み得ると考えたわけです。  それで、その精神というものはどういうものかといいますと、やはりこの本文と、それから制定の経緯だとか、それから立案者の考え方とか、それから文部省の訓令とか、それから学校教育法とかいろんなものがございますが、そういうものを夏休み中にしっかり読みまして、この教育基本法の精神というものは私なりに第一次答申のときと同じように今後もこれを堅持していきたい、そういうふうに考えております。
  90. 久保亘

    ○久保亘君 この委員会には初めておいでいただきましたので、天谷部会長にお尋ねいたしますが、衆議院で言われたと報道されております「教育基本法の表現は抽象的、主観的で読みづらい。時代は変わっているのだから、」解釈についても「どこにアクセントを置くか、」「今日的解釈が必要だ」とおっしゃったと報道されておりますが、これは違っておりましたら訂正してください。教育基本法の表現が抽象的、まあ、これは抽象的と言えば抽象的と言えるところもありましょう。しかし、主観的で読みづらいというのはどういうことですか。
  91. 天谷直弘

    参考人(天谷直弘君) 主観的という表現を使ったかどうか、今正確に記憶しておりませんけれども、抽象的で、そして今の現実に照らしてそれが具体的にどういうことを意味しているのか余り客観的に明らかでないと申しますか、理解しにくい点がある、そういうような趣旨で申し上げておりました。
  92. 久保亘

    ○久保亘君 それでは、部会長教育基本法は書き改められなければならぬとお考えになっておりますか。
  93. 天谷直弘

    参考人(天谷直弘君) 昨年、中国に参りましたときに、中国の方々が今の中国ではマルクスの現代的解釈に大変苦心をしているというお話がございました。それは、マルクスは十九世紀に生きており、マルクスが見たのは十九世紀のイギリス資本主義でございました。ところが、二十世紀の中国はその十九世紀のイギリスとは大分違っておりますので、したがってマルクスの精神を今生かすためにはどう解釈すればいいか苦心をしているということでございました。  昭和二十二年に教育基本法は制定されておりますが、そのとき食うや食わずの時代でございましたが、今は非常に豊かな時代になっております。さらに、第一部会が受けております審議事項、これは二十一世紀を展望する教育改革ということでございまして、二十一世紀と一九四七年とは随分現実は違っていると考えられるわけでございます。  そういうわけで、そういう現実の変化に対応いたしまして、教育基本法のどこにアクセントを置いて読んでいくかというようなことを考えて、第一部会としては審議をしておる次第でございます。
  94. 久保亘

    ○久保亘君 そういうことが必要だとあなたが考えておられるのは、この戦後教育基本になってきた教育基本法の理念というものに対して今変えなければならない状況があるとあなたがお考えになっているのであり、いわゆる教育改革とは違って、日本教育の根底に立つべき理念そのものに対して違ったお考えをお持ちになっているのではないかと私思われてならぬ。十九世紀のマルクス主義を、百年以上たった今日、どういうふうに適応させていくかという問題と、戦後、日本の古い体制を変えて、戦後、民主的な文化国家を目指していく、この教育基本法に基づいて日本教育が四十年間進んできたこの問題を、それを同じような、比喩でしょうけれども考え方でとらえておられるということは、教育基本法の理念に、対してあなたはやっぱり正しい解釈という言葉で実際は納得のできない問題をお持ちになっているんじゃないですか。
  95. 天谷直弘

    参考人(天谷直弘君) 私は教育基本法の基本的な理念に関しまして賛成でございます。ただ、今の日本教育の現実を見ますと、例えば教育基本法の豊かな個性とか個人の尊重とかいうような理念が果たして生かされているのかどうかということにつきましては、かなり疑問を覚えざるを得ない。したがいまして、理念がそのまま現実に反映されていないのではなかろうかという気持ちを持っております。
  96. 久保亘

    ○久保亘君 それは教育基本法の解釈を今日的に変えなければいかぬということではなくて、教育基本法の理念が今日まだ完全に実現されていないということなんじゃないですか。そこは非常に違うんですよ、はっきりしておいてもらわないと。教育基本法の理念を今日読みかえなければならぬという立場と、教育基本法の理念が日本教育の中にいまだ十分に生かされていないから、ここでその生かされていない問題を我々は分析して、生かされるようにしなければならぬということとは全然違うんです。それは、あなたは今私が聞いていることに正面からお答えになっていないと思うんですが、どうなんですか。
  97. 天谷直弘

    参考人(天谷直弘君) 私は理念を読みかえなければならないと申し上げたことはございません。
  98. 久保亘

    ○久保亘君 それでは、何か教育基本法を改める、もしくは今までの解釈の仕方が何か間違っておったような言い方で、教育基本法の正しい解釈が必要だというような誤解を生む発言は、臨教審の責任ある立場にいらっしゃる方が不用意にお使いにならない方がよいのじゃないでしょうか。教育基本法の理念は生かされなければならぬとお考えになっているんなら、教育基本法の理念が今日完全に生かされていない点を我々はどのように生かしていくかということを考えるのだということで明確に言ってもらわないと、非常に私どもは、あなたの今言われたことを聞くとわかるんですが、誤解を生むんです。そのような表現をお使いになっていることはやっぱりどうもぐあいが悪いとはお考えになりませんか。
  99. 天谷直弘

    参考人(天谷直弘君) バイブルでも、マルクスの資本論でも、あるいは憲法でも、教育基本法でも、解釈がここでとまるということは、私は人間が思想の自由を持っている限り、あり得ないことであると考えております。時代が変われば解釈は変わるはずでございます。それは時代の現実に照らしまして教育基本法の理念のどこにアクセントを置くかというようなところから、そういうアクセントの置き方は私は時代とともに変わっておかしくない。それは臨時教育審議会であろうと、あるいは一国民であろうと、皆教育基本法の読み方の自由というものを持っているというふうに考えております。
  100. 久保亘

    ○久保亘君 時間が短いので、もう余りこのことで議論しようと思いませんが、私は国民が教育基本法を読む自由というものを持っているというのは、それはそれでよろしい。しかし、今のあなたのお立場というのは教育基本法の精神にのっとって日本教育改革審議をする審議会の委員であり、その部会長なんです。だから、あなた流の読み方が何でも通用するんだということで、部会長という立場でいろいろおっしゃることは私は問題があると思います。その点は、会長がおっしゃっていることは大変私は率直だと、正直な言い方だと思いますよ。そういう点についてここで議論をしても、またあなたも反論がありましょうから、これ以上は申し上げませんけれども教育基本法の考え方について、理念そのものが間違っていると思わない、教育基本法の精神をどう生かすかということが教育改革だということについては御同意をなさったようですから、それでまた次の機会にこの問題についてはお尋ねしたいと思います。  次に私は、今日本教育制度にかかわって行財政改革の立場から、非常に重要な問題が提起されつつあることについて、臨教審はどのように受けとめておられるかということをお聞きしたいのであります。  それは、義務教育費国庫負担制度の改革といいますか、この制度をだんだん削減していこうということが政府によって考えられておるのでありまして、特に本年度の予算編成に当たっては、高率補助金の一律削減というそのどさくさにまぎれて、長年教育制度の根幹として存在した教材費や旅費の国庫負担をカットいたしました。それだけではなくて、最近は学校教職員の人件費の国庫負担制度に手をつけようという動きがあります。この問題については文部大臣は、これは日本の義務教育の根幹にかかわる問題であるから、文部省としては絶対に譲れない、こういう御発言を再三にわたってなさっているのでありますが、義務教育の根幹に触れる制度が、今その財政上の理由で揺らごうとしているときに、臨教審がこの問題について全く無関心でいらっしゃるわけはない、こう思いますので、この問題に対してひとつ会長の御所見や、それから臨教審において御論議になったことがあれば、その経過についてお話しいただきたいと思います。
  101. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 財政の問題は、私が今までここで申しておりますことは、臨調と教育審議会は本来立場が違うということでございますが、しかし第一次答申にも申しましたように、国の財政というものを無視してはあり得ないとも思っております。ですけれども、今おっしゃいましたように教育財政の問題というのは大変重要な問題でございますので、我々はこの主要課題の中に「教育行財政の見直し」というものを挙げておりまして、その内容としては、「教育に関する経費負担、財政に関し、官民分担のあるべき姿、各種補助金、父母の教育費負担などについて検討する。」という次第を挙げておりますけれども、現在は審議状況としては各方面からヒアリングを行っておると、大変慎重に審議するためにヒアリングを行っておるということでございまして、今後の重大な課題として取り上げる方針でございます。
  102. 久保亘

    ○久保亘君 いじめの問題などについて、臨教審が審議の予定になかったものを取り上げて、非常に緊急に対応されようと努力をされました。きょうは時間の関係もありますから、この問題を詳細論議できませんけれども、義務教育費国庫負担制度というものが変えられるということは、これは一つのマイナスの教育改革だと私は思っているんですよ。教育の推進に逆行する教育改革を財政上の理由でやろうとしていることだと思っている。この問題について文部大臣が公式の場で、これは日本教育の根幹にかかわる問題だから絶対に文部省としては譲れない、ここまで言っていらっしゃるような問題について、臨教審は、それは行財政の問題で、文部省のやっておることじゃということで余り御関心がないとすれば、私は大変問題だと思うんですよ。こういう問題についてこそ臨教審は義務教育の制度の根幹に触れるような問題について、財政上の理由でここに手をつけることは、教育改革審議している立場の者としては認められない。それぐらいのことは臨教審としておっしゃってもいい時期なんじゃないでしょうか。
  103. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) おっしゃる趣旨はよくわかりますから、今後生かしてまいりたいと思っておりますけれども、現在、審議状況としては、最前私が申し上げました状況であるということより申し上げられない。
  104. 久保亘

    ○久保亘君 これは、来年になりまして基本答申の中でお述べになりましても、もうそのときは手おくれかもしれないです。そのときには臨教審に対して私どもは少し物を申さにゃならぬようになるんですよ。したがいまして、少なくともそのときそのときにおいて必要な課題については逐次答申を行うということを言っておられるんです。だから、答申の形をとるかどうかは別にして、臨教審として義務教育費国庫負担制度の問題についてどう考えるという所見をお述べになる時期は今なんじゃないんでしょうか。だから、その問題について臨教審としてお取り組みいただけるかどうか、会長の御意見をいただきたいと思うんです。
  105. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 今おっしゃった教育財政の問題自体をどこまでということにつきましては、全体としていつまでというなにははっきりなにしておりません。ただ、一つ、ここでもたびたび御注意をいただいておりますように、財政の問題を抜きにしては実現というものは難しいんだから、個々の具体的な改革案に対して、財政問題からその見通しというか、そういうものをやれということは強く御指摘いただいておりますので、現在はその方針で個々の問題に関連して、そういう問題は逐次指摘していきたい、そういうふうに考えております。
  106. 久保亘

    ○久保亘君 それでは次に、今、国大協を中心に非常に大きな問題となっております大学入試改善について、きょうは四部会長もお見えになっておりますからお尋ねいたします。  国立大学協会は、六十二年度から共通一次を五教科五科目に減らして、そして受験機会を複数化するという方針を御決定になったと聞いておりますが、これは臨教審の一次答申の方向とどういう関係になりましょうか。国大協の決定は臨教審の答申の方向に沿うものである、こういうふうにお考えになっておりましょうか。
  107. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 国大協が今取り組んでおります国立大学入学試験改革の方向は、私どもが第一次答申で提案をいたしました大学入試改革の方向と基本的には同じ方向にあるものであるという認識を持っております。
  108. 久保亘

    ○久保亘君 それでは、国大協としても六十二年度から五教科五科目に変更されましても、これは六十四年度にはもう終結して、六十四年度からは共通テストに変えられる、これは国大協もそのことで合意なさっているわけでしょう。
  109. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 共通テストを取り入れました臨時教育審議会改革の方向につきましては、現在、文部省で国公私立大学関係者から構成をされる大学入試改革協議会というものがつくられておりまして、そこには国大協の代表も、それから私学関係の団体の代表の方もお入りでございますが、そこで私どものおよそ提案をいたしました共通テストを具体的にどう実施をするかという具体案を現在詰めている段階でございます。恐らく国大協もその具体案が詰められました段階で、それを具体に六十四年度以降どう取り組むかという協議に入るだろうと思っております。したがって、今の段階で国大協がどういう態度を決定しているということはまだございませんけれども、当面六十二年度からの大学入試改革とそれから入試機会の複数化ということに取り組んでいきたい。その協議会での経過を見て六十四年度以降のさらに改革の進展を図る、そういう構えであるというふうに存じております。
  110. 久保亘

    ○久保亘君 臨教審が言われている共通テストというのは、私ちょっとわからないところもあるんですが、中曽根さんもあんまりおわかりになっていないようなんだけれども、えらく元気よく、私は共通一次を廃止するために臨教審をつくったんだと、だから答申でそう書いてあるから共通テストにもう六十二年度から変えるんだと街頭演説されておりまして、これは六十四年度ということに文部省の方もなったようですけれども。しかしどうなんですか、共通テストというものの考え方というのは臨教審ははっきりしておるんでしょうか。というのは、私が思いますのは、何か共通テストにすると、教科も科目も受験生の側の自由な選択になるような印象を受験生の側には与えております。ところが、入学試験を実施する大学の側は、自分大学の側で、自主的にこの教科、科目を今度は選択するわけでしょう。そうなった場合には非常に受験生並びに高校の教育というものの中には共通テストというのは複雑な要素を提供して混乱をする可能性はないのかな、こういう点で疑問を持っているんですが、臨教審では共通テストというものの性格については相当御議論になって何か方針をお持ちなんでしょうか。
  111. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) もちろん共通テストの提案をいたしました背景には、この種の問題については私どもとしてはできるだけの検討はいたしました。今御指摘の点で、実は共通テストの教科、科目の選択は受験生の側の自由ではございません。これは大学側の指定であるということでございます。  それから、確かに混乱も予想されるかもしれませんけれども、私どもの問題の焦点は、国公立大学共通一次試験というものを全く廃止をして各大学の自由な入学試験体制だけということになりますと共通一次試験導入以前の状態に戻るわけでございますが、その戻る状態というものをもって現在の入学試験にまつわるさまざまな問題点の解決に資し得るかということを検討いたしますと、私どもはそれは見通しかないと思います。したがいまして、共通テストについてはおわかりにくい点があると思いますが、基本的には私ども考えでは国公立大学が七年間行った共通一次テストの経験というものとそのあり方というものは共通テスト基本に踏まえるべきものであるというふうに考えております。そして世上言われたところの国公立大学共通一次にまつわるさまざまの問題点というものは思い切って新しい共通テスト段階改革をいたしますけれども、しかし高等学校での教育の達成度の水準をある程度見るとか、あるいは各大学が自由な入試を開発する、多彩な入試を開発するゆとりを生ぜしむるための共通テストの存在の意味というものはこれを評価いたしまして、そしてそれを新しい形のテストとして位置づけたい、こういう趣旨でございます。
  112. 久保亘

    ○久保亘君 では、もう基本的には共通一次の少し変形したものという形になって、受験生の側はやっぱり全教科受けておかないと大学側が全教科要求するところがありますから受験できないと、こういうことになりますし、だから、そうすると共通一次にかえてというのは共通一次を少し改革して共通テストにすると、こういうことなんだと思いますね。それでただ一つ大きく変わるとすれば、この答申の中にもあります、共通テスト大学入学資格試験とすることも検討しなければならぬということがございますが、大学入学資格試験とするということについても共通テストの性格を決めていく場合の課題としてこれから検討すべきだとお考えになっているんでしょうか。
  113. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 私どもの答申の範囲では、共通テストを資格試験化するという考えは含まれておりません。
  114. 久保亘

    ○久保亘君 そんなことはございませんですね。これは答申でございますよ。たしか共通テストについて資格試験的な取り扱いというのも項目に入っておりまして、そういうこともこれから検討すべき課題として答申に述べられているんじゃないでしょうか。
  115. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) そこは大変言葉が混乱をいたしますけれども、共通テストを資格試験にするということは、私ども理解では全面的に資格試験として共通テストを取り扱うということは私ども考えておらないということなんです。ただ、大学がその共通テストを利用する場合に、ある大学がそれをある資格試験的な利用をする、言いかえれば、資格試験的というのは足切りということなんです、簡単に言えば。この点に到達し得れば資格を与えるけれども、この点数に到達しなければ資格がないというのが資格試験ですから、したがって、大学によってはそういう取り扱いをなさるという自由もそれは考えられますということを申し上げているわけです。
  116. 久保亘

    ○久保亘君 臨教審のおっしゃった意味はわかりました。  そうなりますと、今度国大協がお決めになりました受験機会の複数化は、受験生が一・五倍ぐらいになりましょうね、大学にとってみれば。そうすると、この共通テストが足切りの材料に使われるという可能性がうんと高まっていくということが一つ私問題だと思うんです。  それから、受験機会の複数化ということについて、今度は国大協の方も大変慎重に各大学学部の自由で自主的な判断を尊重するとなっておりますから、これは共通一次をつくるときの一期校、二期校の制度を廃止することと一体のものとしておやりになったあのことから考えてまいりますと一体どういう結果になるんだろうか。そして臨教審や国大協が期待されておるような受験機会の複数化という成果が本当に残るんだろうかという疑問もあるんですが、私の時間が参りましたので、この点について、私はひとつ、こういうことが考えられるかどうかを部会長にお聞きしたいんですが、今言われております受験機会の複数化は、やっぱり一期、二期そしてプラス三期と、こういうような考え方でございますね。だから、私立大学でおやりになっているように、国立の各大学学部が一カ月なら一カ月の期間の中で自由に試験期日を選択され、それを公示される、そして受験生の方には受験する大学の数に一定の制限を置く、こういうことで選択の幅をもっと広げて、そして大学の自由で自主的な判断が生きるというようなことはこれは不可能なことなのかどうか。今のようなことでやりますと、一期校と二期校に分かれる、それに今度はプラス三期校が出てくる。かつて弊害とされたものがまたそのまま返ってくるんじゃないか、こういう危惧がありますが、私が申し上げましたようなことでやりますと受験たちはかなり自由な選択の幅があるんじゃないかな。こういうことを考えるんですが、いかがでしょうか。
  117. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 御指摘の方法も一つ考え方だと思います。  今国大協は、御心配がありましたけれども、とにかく今度の複数化については、それが実際の効力があるような形のものに極力努力をしようということを申しております。  それから、旧来の一期校、二期校の再現を避けるための諸般の努力をするという方針を決めておりますので、御意見もまた参考にいたしまして国大協の中でも十分検討いたしたいと思っております。
  118. 本岡昭次

    ○本岡昭次君 私は、二十分という短い時間ですので、主として岡本会長に伺います。  先ほど久保委員の方からもお話が、あるいは質問がありました。私もこの「臨教審だより」の十月号ですか、これを読んだわけであります。会長が第二次答申に向けて教育基本法をしっかり勉強した、夏はすべてのことをやめてこれに集中したとお書きになっておられるんで、私も大変興味を持ち関心を持ちました。  それで、きょうは二十分程度の時間なので、この教育基本法の問題を中心に、岡本会長がしっかり勉強なされたそのことについてお伺いしたい、こう思います。  それで、まず第一点ですが、今なぜ教育改革を必要とする現実があるのか、つまり、それは教育の荒廃と言われるような状況が現実にあって、国民も、あるいはみんなが何とかしなければならぬということになっているのでありますが、なぜそのようなことになったのかという根本的な理由を考えて見ますと、私は次のように思うんです。  戦後の日本教育の問題について、教育基本法という立派な教育の指針、教育憲法と言われるものを持ちながら、昭和三十一年以降歴代の政府が教育基本法を意識的に軽視して、さらに空洞化をも進めてきた教育政策の結果が、言ってみれば今日の教育の荒廃と言われるいろんな状況をつくり出してきたんではないかという結論に達します。だとすれば、今必要な教育改革は、岡本会長も夏すべてのことをやめて教育基本法の勉強に没頭したとおっしゃるように、やはり教育基本法の意味と価値というものを改めてお互いに認めて、それが示し求めている教育の方法と内容は何であったのかということで現在の教育を再構築していくことではないかというふうに私は思うんですが、岡本会長勉強をされたその結論として、私が今思っていることに対してどういうふうなお考えをお持ちですか。
  119. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 現在、なぜ今日教育改革かということに関しまして、やはり教育の荒廃ということで国民がこのまま放置できないという気持ちだ、そういう認識は確かでございます。その際に、私は、それが政府のやり方が画一的であったというだけにとどまって、それで払いつも申しますのは、今日の状態教育改革が必要だということは皆認めておるんですが、それに対しては、今日に来た理由として、今日まで教育に対して力を及ぼしたもの、それはやはり、国、文部省でございます。それから教育の現場、これは教職員組合も含めて。それから大学、特殊な自治を主張している。それからそれを許した国民。こういう四者がそれぞれ全部反省をして改革に取り組むということが必要なんで、この際、ここにも申しておりますように、「「お前が悪かった」「いやお前だ」といったことではなく、まず、それぞれ自らの中に変革を求めることから始めて立場の違いを越えて一致団結、国民の熱意に応えるのが誠意というもの」だ、こういう気持ちでおります。したがって、その次に、私が夏すべてを放てきして――まあこれはちょっと何ですが、勉強いたしました結果、最前お答え申しましたように、理念と申しますか、その基本的なものにおいてはこれは変わらない不易な大切なものを持っておる、そういう認識に達しておるわけです。それを具体的に申しますと、「個人の価値と尊厳との認識に基き、人間の具えるあらゆる能力を、できるかぎり、しかも調和的に発展せしめる」視点からというようなことです。そういう基本的なものにおいてはこれでいいと、そういうふうに認識したということであります。
  120. 本岡昭次

    ○本岡昭次君 今のお話ですが、やはり教育基本法ですね、それが古いもので現実に役に立たないんだということではなくて、ここ戦後四十年、教育基本法の理念を本当に実現するために教育行政も国民も挙げて努力してきたかというと、そうでない結果が今日の現実をもたらしているんだ。そういう意味で、私は、教育基本法というものを改めて認識し、その価値というものを見直すということを臨教審に大切にしてもらいたい、こう思うんですが、その点いかがですか。
  121. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 本審議会は教育基本法の精神にのっとりということが大前提でございますので、私がずっともうお答えしておりますように、その点は変わりありません。
  122. 本岡昭次

    ○本岡昭次君 それで、教育基本法の第十条でありますが、これは教育自主性と民主主義、そして教育行政の任務は教育条件整備にあるというふうに定めた極めて重要な中身を持っているんですが、この教育基本法の十条をやはり具体化し、それを実践課題としていく最大のものが戦後つくられた教育委員会というものであったと私は思っております。したがって、教育委員会が本当にこうした教育の目的を遂行していく教育行政機関としてその機能を発揮したのかどうかという検証は極めて大事だというふうに私は考えております。そういう意味で、戦後、公選制の教育委員会があり、昭和三十一年からはそれが任命制の教育委員会に変わりという変遷を遂げております。その功罪をここで論じる時間はありませんが、教育基本法の理念を最も忠実に具現した教育行政の組織というのは公選制の教育委員会ではなかったか、こう私は考えるんでありますが、教育改革ということの中で、極めて重要な教育行政のあり方の問題として、公選制の教育委員会という問題を、臨教審の中で重要な課題として論議する必要があると考えますが、岡本会長はどうお思いですか。
  123. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 教育委員会のあり方につきましては、主要課題の中に「教育行財政の見直し」というものがございまして、その一環として第一部会を中心に審議されるところでございます。  それで、特に第一次答申におきましては、「教育委員会については、とくに市町村教育委員会の権限と責任を再確立するという観点から、その充実と役割の明確化などを検討する。」ということになっておりますが、特に最近、御存じの「教員の資質向上」につきましても、適格審査委員会というようなものの論ぜられる際にも、やはり教育委員会というものの機能を今しっかり見直そうということで、この点には十分注意いたしておるわけでございます。  今後公選制の問題も論じられるときがあると思いますけれども、現在は、これは教育基本法十条からでございますが、これにつきましては、教育委員会の今日までの経過の上でいろいろな問題があって今日の状態になっておるというふうに私は理解しております。いずれにしましても、今後臨教審としても種々論議が行われるものであるというふうに理解しております。
  124. 本岡昭次

    ○本岡昭次君 今会長のお話にありましたように、教育の、いわゆるそれぞれ各地域でもって責任を持ってやっていくという教育自治、あるいは地方自治の本旨に従って、教育の地方分権化というような問題も大いに臨教審の中で論議をされているようであります。私は極めて重要な問題だと考えています。  そこで、今教育行政の中で重要な役割を握っております教育長の問題なんですが、この都道府県の教育長は文部省の承認を、市町村の教育長は県教育委員会の承認を受けるという承認制度があるんですね。私はこれを行政改革特別委員会のときに、当時の文部大臣に質問したんですが、文部大臣は、これは教育行政のくさびとして必要だという答弁が返ってきたんでありまして、私は極めて不穏当な言葉ではないかと申し上げましたが、今会長の答弁を聞きましたら、やはり教育長のこの承認制度というもの、文部省が都道府県の教育長を、あるいは都道府県の教育委員会が市町村の教育長を承認をしなければならぬという、そういうことが臨教審が盛んに言っておられる教育の硬直化、画一化というようなものにも結んでいきますし、個性豊かな教育というものがそれぞれのところに行われないということにもなるわけで、これは都道府県知事なんかも挙げてこういうことはやめてもらいたい、地方自治の立場から、と言ってるものが依然として続いているんでありますが、この問題は非常に重要な問題として臨教審で取り上げて、ぜひとも改革していただきたいと思うんですが、いかがですか。
  125. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) この問題につきましては、主要課題の、最前申しました「教育行財政の見直し」のところで今後審議されるというふうに考えております。  かつて第一次臨調でも廃止の指摘があったけれども、種々検討の結果、必要なものとして存続したという事実もございまして、それでいろいろ教育長の承認制の功、メリットとしては、国、都道府県、市町村の連絡、協力を図るためとか、それから教育行政に関する専門知識、経験のみならず、行政的な識見、能力をも含めて広く適材を得るためとか、いろいろございますんですけれども、いずれにしましても、過去にもそういう検討が行われたことでございますし、このたび臨教審としても、改めて「教育行財政の見直し」のところでしっかり検討いたしたい、そういうふうに思っています。
  126. 本岡昭次

    ○本岡昭次君 臨教審は今深刻になって社会問題化している学校における子供たちのいじめの問題とか、あるいは非行、さらにそれが高じて自殺に追い込まれていく子供、また教師の体罰あるいは登校拒否児が年々増加して、昭和五十年と現在を比べると三・五倍、二万六千人も登校拒否児がいる。あるいはまた高校の中途退学が、これも年々ふえて十一万一千人もいる。極めて憂うべき状態が今あるんであります。それを臨教審が重大事だと言って、会長の談話というんですか、臨教審の声明のようなものを出されて、それが問題の解決になるというようなことは絶対にないんであります。  やはりこの中の基本、二つありまして、一つはこうした学校のいろんな状況が起こっていることにかかわって、一体教育委員会という仕組みがどうかかわるかということなんです。それぞれの市町村には教育委員という人がいるわけなんですが、それではその学校に非常にそういういじめがあって、親が我が子がいじめられて困る、あるいはまた非行に走っている問題児があって、地域の人はいろいろ関心を持っている、その地域の教育委員にそのことを持ち込んで、あなたは教育委員でしょう、何とかしてくださいというふうなことになるのかならぬのか、ほとんどそういうことには僕はならぬと思う。教育委員会もそういうことについて等閑視していると私言いませんけれども、切実な問題として受けとめられないような状態教育委員会が存在しているということに重要な私は問題があると見ております。つまり地域の住民や父母や子供や教職員との関係というものがほとんどないんですね。公選制であればそういう人から選ばれた、支持されたということになりますから、絶えずその教育委員の注意、関心は父母や子供たちや地域のことに向いていきます。しかし、今は任命制の教育委員会でありますから、首長に任命されるんでありますから、結局、そこのところは間接的になってしまって、そして現実に起こっている教育荒廃が自分責任であると、僕は教育委員の責任だと思うんですよ。そういう自覚すら起こっていない、こういうことで五人もずっといても。だからやはり教育委員会を地域住民、親、子供たちともっと血の通った行政機関、組織とするための抜本的な対策というものを臨教審が打ち出していかなければ、幾らああいう声明を出されてもどうにもならぬ、そういう意味で私は公選制という問題の、その持つ重要さというものを痛感をしているのが一つであります。  いま一つは、やはり学校というものが非常に安易にそうした子供たちを切り捨てていくことから登校拒否が起こる、中途退学が起こる、こういうことが今現象としてあります。なぜ学校の教師がそれじゃ切り捨てていくのかという問題でありますが、そのことにかかわって臨教審が問題教師というものを摘発して、適格審査会にかけてそれを排除すればいいという排除の論理の中で、あるいはまた研修をやってそういうことを起こさない教師をつくればいいというふうな、極めて管理主義的な形の中での対応をやろうとしております。僕は絶対これはだめだと思う。問題はやはり教育改革をどう進めるかという、あるいは学校の今起こっている現状にどう対応するかということについて、教職員がやっぱり自主性、自発的精神というものをどのように高揚させるのか、向上させるのかという問題についての対策、対応というものを臨教審が出すことが結局学校のいじめとか非行とかという問題に対する基本的な解決だと思うんです。この十月号の最後の「編集後記」に香山さんがそういうふうなことを書いてあります。ここに「教師を管理や取締り、動員の対象のように考えることではなく、自由、自律、自己責任の原則を確立し、教師の個性、創意工夫の努力、責任感、自主的精神などが十分に発揮できるよう」そうした条件整備をしなければいかぬと、こう書いておられますが、私は文字どおり香山さんのここの部分だけ、ほかは私はたくさん反対の部分いっぱいあるんですが、文字どおり、ここは教師の自主性、自発性、それもどう喚起するかということを抜きにして僕は解決の道はないと、こう思うんです。ところが、今の臨教審のやっていることは、逆に教師の自発性とか自主的精神、そういうふうなものをしぼませていくような、萎縮させていくような形にばっかり、こう持っていくんですね。だから問題はいよいよ僕は深刻になっていく。そのあげくの果てが精神病院へ子供をほうり込んだらこれで済むんだというふうな本当に嘆かわしいことが今起こり始めているんであります。子供たちだって人間ですよ。教育基本法の第一条に、会長が言われたように「個人の価値をたっとび」なんてなことはかけらもないようなことが今学校で行われているという状況を私は考えると、臨教審の皆さんの間違いのない対応をしていただきたいと、こう思うんです。  それで岡本会長、今の教員の資質向上策とかあるいはまた教育委員会のあり方とかというふうなことについてどのように岡本会長が真剣に考えておられるのか。そして最後に言いましたけれども、一番末端の中でもうどうしようもなくなった子供が安易に精神病院へ送られていくような状況、そうした問題にもしっかり目を向けて、臨教審が現在の教育の底の方を救い上げて、改革する方向に出てもらわなければ国民は臨教審なんてもう何ら期待しなくなるし、かえって教育にとって有害だと、私は思うんですが、どうですか。
  127. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 教育委員会に関しましては、おっしゃいますように、いじめの問題だとか、そういう生徒の方の問題もございますし、それから教員の資質向上という問題もございまして、やはり、このものがしっかりせぬといかぬということで、これをひとつ焦点にして検討していこうということになっておる点は先生の御指摘のとおりでございます。  それから、いろいろ教員の資質向上については研修、採用いろいろ方法はございますけれども、大事なのは現職教員の研修でございますが、それを他動的にといいますか、よそから命ぜられてというんじゃなしに、やはり現職教員その人たちがみずから進んで研修を受けようという気持ちを起こさないとだめであるというふうに総会でも指摘されて、その方向に検討が行われるはずでございます。現在それがとうしたらいいということについては今後の検討の結果を待つということでございます。
  128. 仲川幸男

    ○仲川幸男君 大変お仕事もそれぞれに持っておられる中で御苦労さんでございます。  実は個々の問題につきましてはたくさんあるのですが、時間がありませんので、これからお尋ねをいたします問題は、会長であれ、部会長であれ、臨教審の中枢におられる方々でございますから、お三人からそれぞれに私が質問をすることにお答えをいただきたいと思います。  質問の要点だけ先に申し上げておきます。  まず、臨教審の運営の問題であります。内部の運営について私たちがとやかく言うわけではありませんが、周辺に問題があり、結果をこなしていかなければならない、処理をしていかなければならない問題でありますから、当然内部の運営の中から果実が得られるものについても我々は大変影響を受けます。そういうことで、運営の問題についてもお尋ねをいたしておきたいと思うわけであります。  もう一つは、不易な問題と未来像の問題というものが内部で確と御決定がなされておらないままに移行をしておるものがあるのではないだろうか、そういうことの中から先ほどからのような御質問もあったりはするのではなかろうか、まあ、こう思うことが一つございます。  もう一つは、いろいろいじめの問題も、もろもろの問題が、今道徳が、まあ道徳がと一口に言ってどうかと思いますが、道徳的要素が欠けておるがために起こっておるとは、私は国民全部が感じておるのじゃないかと。そこで、道徳の教科を独立をするということについてどうお考えでございますか、この三点であります。  大変、実は「臨教審だより」を皆さんお使いになるので、実はこれあえて今から使うわけなんで、私も印をつけてきておるんですが、なぜこれを読み上げますかというと、一番物がよくわかりますので、ちょっとここを読みます。その第一の問題でありますが、これは二号であります。二号であって、会長代理である中山さんの――要らないところを省略をいたしますが、「教育改革については、今までに中教審をはじめいろいろな機関で立派な意見が数多く出ています。臨教審はそういった貴重な意見の集積を、十分に吸収して、その上で審議を進めていかなければならないと思います。また、審議を進めて行く過程において、国民一人ひとりが教育について持っている意見をどれだけ吸収するかということも大事なわけです。審議会だけが、教育改革を唱えながら独り歩きするようなことを絶対すべきでないということを基本考えています。」、まあこの後があるわけでございますが、お答えをいただいたら、公聴会も開いております、いろいろなものもやっておりますというお答えになって返ってくるのではないかと思うのですけれども、私は先生方が自分の仕事を持たれて、短い時間で効率的に成果を上げていこうとしておられるものでございますから、私は、一人一人のことも大変大事でございますが、私たち自由民主党の中には、実は教育関係に、文教部会も含めますと現在四つの大きな、教育を議論をし、そしてそこから集約をして、あるいは法律に施策を及ぼしている会が、海部さんの会長、森さんの会長、奥野さんの会長、青木さんの部会長、そういうもので昨年でも七十七回やっておるんですよ、この会を一年に。本年でももう六十何回。そのほかに六つの議連があって、そういう集約の中で日本の文教政策がどうあるべきだということをこなしておりますので、一人一人からお話を聞くということも大変大事なことでございますけれども、十分そのあたりの、私たち責任政党でありますから、今は私は自民党のことを申しておりますけれども、社会党さんでも皆さんそれぞれにやっておられるわけなんです。ところが、私の方は責任政党でございますから、それを文部省に渡して、文部省からもらってやりとりをしながら法律化して現地へおろさなきゃならない責任と義務があるわけであります。そのあたりのことについての会長以下御三人の参考人の、その接触についてどう思われますか。文部省の問題もありましょう。まあ文教委員会はこうしてお越しを願っていろいろな意見を聞いていただいたり、お尋ねをしていただいておるからいいわけでありますが、その他の問題についてはいかがでございましょうか、お考えをお一人一人ひとつお聞かせを願いたい、こう思います。
  129. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 先生、運営につきまして各方面の意見をどういうふうにしておるかということでございますが、これは繰り返し前から申しておりますように、教育という問題は本当に国民の皆の関心事でございますので、できるだけ広く聞くことにいたしておりますが、この処理につきまして、仰せのようにまあ忙しいということもございますけれども、これにつきましては事務局の方でこの各方面からの意見を全部収束してもらいまして、それを全部私どもはもらって、それを読んでおります。  それと、今度課題別にその各方面の意見をまた並べ直しまして、できるだけ各方面からの御意見が我々にしっかり達し、有効に使い得るような努力もいたしておるというのが実際でございます。今後もそういう方向でまいりたいと思っておりますので、これは実際の運営の問題としてそういう方法をとって、できるだけ各方面の御意見を流していただきたいと思っております。しかし、ある意味において国会からやはり委託を受けておる審議会でございますので、これは責任を持って各方面の御意見をいただきながら我々としてまとめてまいりたいと、こういうふうに考えておるわけでございます。
  130. 仲川幸男

    ○仲川幸男君 ちょっと、そうしたら、そこで。  お話はよくわかるんですが、その接触が非常に密にやっていただいておりますと余分なものが出るかもわかりませんから、それは整理をいただかないといけないんですが、御承知のような、まあ自由化から個性化へ変わった当時の突出した問題、また十一月十四日でしょうか朝日新聞で、「仰天した委員たち」云々という、ああいう特別な中での、部会長が委員にもお諮りしないでコピーがマスコミヘ配られたというような問題は、今会長が言っているような、事前にいろいろ問題があれば――もちろん会長責任を私は言っておるのでございませんで、あえて御三人の幹部の皆さん方から御意見を聞きたいというのはそういう意味でございますから、皆さんが心得ておいてくださいよという意味でございますから、そういう意味でお聞き取りを願いたいのですが、そういう、もう私が十一月の十四日の記事と言ったらおわかりいただけると思いますが、そういうものが外向いて出ることはないはずなのでありますが、そういうことも含めてあとお二人からお答えをいただきたい。
  131. 天谷直弘

    参考人(天谷直弘君) 運営に関しましては今会長がおっしゃいましたことにそれほどつけ加えることはございません。マスコミとの関係の問題でございますが、臨教審でどういう議論をしているかということは、国民の皆様が深い関心をお持ちでございますので、密室の審議にならないように、できるだけ情報を公開するということが基本的には大切だと思っております。ところが、その新聞等への出方が何か臨教審で決定したかのごときな印象を与える出方をすることがしばしばございますので、これは臨教審の側でもそういうような出方にならないような発表の仕方なり説明の仕方なりということをするように、注意深く今後とも注意をする必要があるということを常々感じております。  それから教育の理念の問題、不易なものとかあるいは時代に応じて変わるものとか……
  132. 仲川幸男

    ○仲川幸男君 いや、それはまだお尋ねをしておりませんので。
  133. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) もちろん臨教審の委員の数は非常に限られておりますので、たとえ私ども第四部会で高等教育のことを考えますためにも、いろんな個人の方々はもちろんのことでありますけれども、高等教育関係の諸団体、それから文部省、あるいは関係省庁あるいは各政党等でお考えのこと等につきましては、私どもの希望としてもできるだけ門を開いて御意見を十分承りたいという方向で今まで努力をしてまいりましたし、今後もそれに努めたいと思っております。  それから、マスコミ関係のことは、私どもは母川国民の前に開かれた臨教審という御趣旨でありますから、それぞれの部会について部会長責任を持って記者会見を行って、具体的な内容については御報告をしておりますが、その他の問題については今天谷さんおっしゃいましたように、私どもとしても十分に留意をいたしたいと思っております。
  134. 仲川幸男

    ○仲川幸男君 お答えをいただきかけておりました不易なものと未来像の問題については、これは私の方から希望を申し上げておいて、後ほど時間がございましたらお答えをいただくことにいたしたいと思います。  これは石川先生がお話しになった中で、それをはっきり分離をして焦点を合わしておかないと、たくさんの人が寄り集まるのだから審議ができにくいであろうという話をしたことを記憶をいたしております。私は、教育の中にはどうしても不易なものがございますから、御承知りとおりでありますが、何かこの問題については、動かしてはならないというところに少しでも手をつけますと問題が起こるということであろうと思いますし、未来像はそれぞれの先生方、権威ある先生方ですから、未来像を特別に持っていらっしゃるでしょうけれども、それはある程度最大公約数を先に求めておかないと、大変広い、もう限りないほどの教育の世界でありますから、私は難しいんではないか、こういうことを私が申し上げておるわけでございますから、お聞き取りをいただいておきたいと思うわけであります。  私は、大変、会長は先般のちょっと立ち話の中で、私が申し上げたことについてもすぐお聞き取りを、お聞き取りというか御理解をいただきまして、十分そのいろいろなことに御反映をした内容も承りまして、大変敬意を表します。私は、天谷参考人も私たちも、評論家とか政治家というのは、自分が言って向こうの反応をなかなか見ながら後で物を言ったり――まことに申しわけございませんが、そういう性格がございますが、その点大変先般のごくごくの立ち話の中でできましたことはきょうは質問をしないといたしますが、大変敬意を払っております。  さて、最後の道徳の教科書を独立をすることにどう思われますかというお尋ねをいたしたい。このことは、先ほどちょっと初めに述べましたように、恐らく道徳教育が不足をしておるんではないかというのは、教育関係者ばかりじゃなしに、今、全国民がそう思っておるんではないでしょうかね、文部省おいでになるでしょうが、あれは現在二単位であろうと思うんですが、小学校、中学は。もうここで道徳の教科書をつくって道徳という教科を独立するということは、これが何か戦争にでもつながるか、朕思うでもあるかというような感じを受けるところもあり、そういう議論もあったりするんですが、私は素直にやはり道徳というものをここで教科を別にして、人間の本当の善というものを教えなければならないのではないだろうか、愛というものを教えなければならないのではないだろうか。私はやはりいじめの問題の基本をなすものは愛の欠陥だと思うんですよ。先般も文部省へ特殊学級があるところと、ないところとのいじめの発生率を調べてくださいと申し上げております。私は、特殊学校で校長が、このクラスはこのような障害者であるからみんなが大事にしましょうというのはどこの特殊学校でも教育をしているわけなんですよ。その教育の中にあるいじめと、全然そういうもののないところのいじめというものに私は大変な差が起きておるのではないだろうか。それは愛の欠陥だというふうに考える。善であり愛でありというものの集約的なものを道徳教育の中に求めてはどうなのか。道徳という教科書をつくって道徳科を独立をさしてやっていってはどうであろうか。その方法はいろいろありましょうが、もうその時期ではないか。このあたりが臨教審が打ち出す最も大きな課題ではないかと期待をいたしておるわけであります。  つけ加えましてここで申し上げておきますと、美術とか音楽とか体育とかいう問題が少々現在進学も含めて軽んぜられていろいろな問題が起ころうといたしております。私は、やはり今の健全な子供たちを育成するのには、この美術とか音楽とか体育とかというものこそ一番の特効薬だと、こういうふうに考えておるわけであります。含めまして、道徳教科の独立という問題についての御意見を承っておきたいと思います。
  135. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) この徳育に関しましては特に重要だということで第二次答申に向けての主要な課題でございます。その中に初等中等教育の充実、多様化という項目がございます。その中の大きな重要課題であるということで、特別に分科会をつくりまして目下検討をいたしております。  それで、過日総会で第一回の説明がございましたが、現在のところ今整理してこれに取っかかっておるところでございますので、今先生がおっしゃいました教科書の問題も今後どういうふうに出てまいりますか、それによってお答えができると思っております。ただ、私が特に道徳教育ということは大事だということを痛感いたしておりますのは、この教育の目的、教育基本法の教育の目的の内容もまさにこれは道徳教育の内容を多く持っておりまして、先生が最前おっしゃいました不易なものとか、私は、時代とともに変わるもの、不易なものというのは余りそう明確にはできない部分もあると思いますけれども、そういう教育基本法に示されておるようなものは、この中に大変多くの道徳的な部分も入っておりまして、今後の教育にこれを十分生かすということであれば、道徳教育ということはしっかりやらなければならぬ、そういうふうに考えておる次第であります。
  136. 天谷直弘

    参考人(天谷直弘君) 今日の教育が知育偏重に走り、偏差値が猛威を振るっているという状況、これは極めて好ましくない状況であるというふうに思います。やはり人間を人間たらしめる究極のものは、知育の量ではなくて、徳があるかどうかということではないかと思いますが、ところが、学校教育におきましてこの道徳の問題が重んじられていないということは非常に大きな問題点ではなかろうかというふうに考えております。ただし方法論として、正しい道徳教育を行うためにはどうすればよろしいのか、道徳という科目を独立させた方がいいのかどうか、そういう方法論につきましてはまだ検討中でございまして、今申し上げるような議論を持っておりません。
  137. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 岡本先生それから天谷先生のお答えになったところでほぼ尽きていると思いますけれども、私も現在の教育状況、社会状況の中で人間の精神の問題あるいは心の問題ということがもっと重視されなければならないということについては全く同感でございます。それにつきましては、学校の中での教育ということももちろん基本でありますけれども、社会においてそれをどう支えるか、あるいは家庭においてそれをどう支えていくかという点についての配慮も臨教審の中でもいろいろ御議論がありますけれども、重要なことではないかと思っております。それから私どもの高等教育関係で申しますと、したがいまして一般教育の問題あるいは人文社会の学問ないしは研究あり方の問題、それからさらには伝統的な文化をどのように継承するかという問題、その辺も含めて広く検討させていただきたい、こう思っております。
  138. 仲川幸男

    ○仲川幸男君 飯島参考人にこのことも今お答えをいただきました。大学の中で教員養成の中での道徳の問題の取り上げ方というものは、私が先ほど質問をした以前の一番大切なところでございまして、ここに物事の源があるわけでありますから、この源をはっきりしておきませんと現場ではなかなか難しいということでございます。結局、自分を愛しないし周辺を愛しない、自然と親兄弟も愛しない、郷土も愛しない、日本も愛しない、そういう形のものが出た中で道徳の教育といっても私はあり得ないと思うんですよ。  それでこれからの問題で、なかなか教科書独立の問題をきょうで御確約をいただくとも私も思っておらないわけでありますけれども、世の中の流れというのはそういうことになっておるんではないでしょうか。それからもう一つここで整理をしていただきたいのは、道徳教育というものを道徳という教科書をつくって道徳教科を独立して小・中・高の中でやっていくということに抵抗のある部門を一度まないたの上へ乗せてもらって、それに当然の御意見もある、私たちが耳を傾けるべき御意見もあるんですから、そのものを除外をしたものの中で道徳教育を組み立てていくと、こういうことで、きょうおいでいただいた成果として道徳教育の分離、独立というのを御確認をいただければありがたいと思うわけでありますが、いずれにいたしましてもこれで私の質問を終わりますので、最後に岡本会長にもお答えをいただきたいと思いますが、その前に飯島参考人に、大学でどうすればいいか、道徳教育をこれからどうすればいいかということを少してきましたら単位の問題も含めまして、何か私たち考えると大学でやっておるのかどうかわからないという感じがするんですが、お答えを願ったらありがたいと思います。
  139. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 大学でやっているかどうかわからないとおっしゃるのは大変恐縮でございまして、私どもはそうではないと思っております。しかし先ほど申しましたように、今の青年諸君にもう少し人生を深く考えるとか、あるいは社会を広く考えるとか、あるいは歴史の流れを十分に受容をして自分の社会的な立場、歴史的な立場というものをしっかりつかまえさせる。つまり道徳ということを教えるさらに基本になる人間像の形成というものについては、私は大学教育も非常に大きな責任を持っておりまして、その点について今何単位というお話を申し上げるわけにはいきませんけれども、努力をいたしたいし、検討を要すると思っております。
  140. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 教員の資質向上に関連しまして、まず第一に養成ということと、採用ということと、研修、この三つ。養成に関しましては大学教育ということになりますので、やはり道徳教育が教職に大事ならそこから教えなきゃならぬということは仰せのとおりでございますが、これがなかなか現在の開放制のすべての大学に教職課程を置くということで十分にいっておらないというようなこともよく認識いたしておりまして、その点は。それで例えば初任者研修というようなものもそれを補うものとしてまた機能するというふうにも考えております。御承知のとおりこれはよく教職を踏まえた、道徳も踏まえた先輩が一年一緒に教えるということでございますので、そういうふうないろいろな方法を尽くして教員が道徳というものをしっかり踏まえていくようにという努力を今後もしてまいりたい、そういうふうに思っております。
  141. 高木健太郎

    高木健太郎君 お仕事の忙しい中大変御苦労さまでございます。  先般、大分古いんですけれども、三月ごろなんですけれどもある新聞の世論調査がございまして、その中に教育改革についての世論調査がございます。一つ学校教育についてどう思うか、それから臨教審への関心度というのがあるわけです。まず岡本会長にお尋ねいたしますが、学校教育への満足度ということについて、満足している人というのが五・六%、それからどちらかといえば満足というのが二二%で、合わせて二八%が学校教育に対して満足している。ところが、不満であるとか、どちらかといえば不満だというのを合わせますというと六〇%あるということですね。不満の方がはるかに多いわけでございますけれども、どうして不満なのか原因を調べているわけですが、校内暴力とかそれから教師の質、あるいは道徳教育がなっていないとか、あるいは詰め込み教育であるとか、それから偏差値教育であるとか、こういうものに対して不満を持っておるということでございまして、大学入試に対しては一三%、上に挙げましたものはみんな三〇%以上という、そのような学校教育に対する不満度があるわけでございます。これは少し古いわけですから現在はどうかわかりませんけれども、これについて岡本会長はどういうふうにお思いになるか。どういうわけで学校教育に対してこんなに不満があるのか。教育そのものというよりも、その中にある暴力だとかそういうものに対してかえって不満があるわけですね。それに対して岡本会長自身はどのようにお考えかちょっと御意見を伺いたいんです。
  142. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 仰せのように、私も時々――時々というよりこのたびはなおさら教育現場というものをしっかり見ることが大事だと思いまして参るわけでございますが、なかなか教育そのものにつきましては私ども学校のときよりもいろいろ考慮されてよくやられておる。それから、外国のも見てまいりましたが、外国自身日本の、初中でございますけれども、大変評価しておる点はあると思うんです。ただ、おっしゃるように、学内暴力だとかいろいろな非行な問題がございますので、それに関連してやはり強く学校教育に不満だという欠点は大きく意識されておると思います。それで、このことがこのたびの教育改革が始まりました大きな動機でもあるというふうに思っておりますので、この点教育そのものには確実性やいろんなものがありますけれども、かって我々の時代よりもそれはよく考慮されて行われておるというふうに私は考えておりますが、その周囲のいろいろな問題が大変学校教育に対して大きな不満というか、そういうものも醸成しておるというふうに考えております。
  143. 高木健太郎

    高木健太郎君 次に、臨教審に対しての関心度なんですけど、関心があるという人が一四%、そして無関心という人たちが三四%、それから多少関心があるという人は三五%で、全く関心がないという人は一一%、両方合わせますと、いわゆる関心がある方は四九%で、ない方が四五%。せっかくおやりになっているのに半分ぐらいしか関心がない。ほかの人は無関心だと。いろいろお回りになって公聴会なんかもお開きになっているし、いろいろまた話し合いの機会も持たれている。そういうときに先生方が受けられる感じですね。あそこに集まってくる人はみんな関心のある人なんでしょうけれども、集まってこない人の対応を知ることはちょっと難しいですけれども、一方では学校教育は何とかと言って、それを何とかしようとして臨教審があるのにそれに対して関心が余りないというのは私非常におかしいことじゃないか。何か先生としてはお考えでございますか、これについて。
  144. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 私は臨教審の当事者としまして、やはり身に感じるものは国民の大変な強い関心だと思っておりまして、むしろその関心度に激励されてといいますか、努力しておるというのが実態でございますが、こうして表にはっきり出ますと半分近い人が関心がないということでありますが、それはやはり問題意識というか、それを持たない人もあるということで、私はこれを即臨教審に対する期待のなさであるとすぐはとらないというような気持ちでおります。
  145. 高木健太郎

    高木健太郎君 それで、臨教審に対する期待というのもアンケート取っているわけですけれども、大いに期待しているとか、多少期待している人合わせますと四〇%ぐらいですね。余り期待していないとか全く期待していないというのを合わせると四六%なんですね。だから、何かやっぱり期待していないという人の方がどちらかといえば多いということですね。  それは私も何度かどういうわけだろうと考えるわけなんですけれども、臨教審ができたときに私は非常にみんな期待したんじゃないかと思うんですね。ところが、実際にこういうふうに調査してみると、それが余りなかったということは、一部の人の意見ではあると思います。参考人もお聞きになったんじゃないかと思いますけれどもね。何か臨教審というものは教育改革というものをより根本的に、あるいは教育の理念というようなものを根本的に掘り下げて考えていくところではないかと、こういうように期待しておったんじゃないかと思うんですね。それからまた、学校教育そのものを学校だけでいいのか、そのほかもっと学校というふうなものじゃなくって、教育全体というものを国民のものにする。いわゆる形の上の学校というようなものも排除した何か根本的な改革というものを国民は望んでおったんではないか。そういうものがここにあらわれて学校教育には期待しない、それから満足しない、それから臨教審にも余り期待しないと。だから、何か望んでおったものとできてきたものが少し食い違ったというようなそういう気持ちを国民は抱いたんじゃないかなというふうに思うんですね。  その一つは、私も一応そういう気がしますけれども、何か教育理念とか根本理念というようなものが余り論じられないで、第一部会では論じておられるわけですけれども、それよりもどっちかというといろんな制度をいじっていると。そういうことならば、文部省には悪いですけれども文部省でもできたんじゃないか。あるいは、できることじゃないか。もっともっと臨教審に対する期待がもっと大きかったんじゃないかなと、こういうことがこの世論調査にあらわれているんじゃないかなとも思うわけですね。だから、それについてもう初めから教育基本法なら基本法に従ってもうやりますと、もうそこはさわらないと。そして、そのとおりに、今までのある学校を一貫教育であるとか、入試だとか、その他小さな――小さなじゃないですが、制度だけをいじっていると、こういうところに不満があるんじゃないか。いわゆる期待外れがあったんじゃないか、こういうふうに考えるんですが、それについては岡本会長いかがお考えですか。
  146. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 臨教審に対する期待でございますけれども先生おっしゃいますように、私の耳に入りますものはその両方がございます。もっと理念をやるんだろう思っておったら、どうかというのがありますし、理念をやっておるんでは、山の手の方の議論ばっかりして、そういうものをこの両方がいつでもございますんですね。それで、この点は私自身の性格から言いますと、どちらかというと理念の方が好きなんです。ですけどね、やっぱり臨教審が生まれました。国民の期待というものの中にはやはり現実のものを直してもらいたいというものも強いわけですね。したがって、臨教審としては、基本的にはその背後にある病気といいますかね、そういうものに目を注いでやるんだと申しておりますけれども、現実のものにもやはりしっかり対策を行うというか、そういう立場をとっておるのが現実でございます。
  147. 高木健太郎

    高木健太郎君 道徳というようなお話も先ほど仲川委員からお話ございましたが、それからしつけという問題もよく言われるんです。私生理学をやっておりましたので、しつけなんというようなものはもう子供のときにできちゃうんじゃないかと、こう思うわけですね。岡本会長も脳の解剖をやっておられますからよく御存じのことですが、学校へ来てからそれをやるとかということではだめなんで、家庭そのものが大事、あるいは母親の教育の方がもっと大事だというふうにも思うわけです。それを学校教育の方だけがこうさわられているように見えるという、いわば根本的に人間というものをさわるならば、もっと生まれたときすぐからの教育というものを全体としてみるというような態度でなきゃいけないのじゃないか、こういうふうにも思うんですけれども、そちらの方も何か今後検討される予定がございますか。
  148. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) しつけの問題に関しましては先生も御専門でございますけど、私自身も脳の研究から大変関心を持っておりまして、まさにその適当なときがございまして、いつやってもいいというものではございません。やはりおっしゃるように幼児、親の手元におるときが大事だというように考えております。したがって、臨教審でもこの点を大変重視しまして、小児科の専門家もおられますので、特にそのための分科会をつくりまして、家庭それから社会、学校教育の連携というような分科会をつくりまして、そこで徹底的に検討するという体制になっております。ただ、問題は家庭というものの中に行政がどこまで入り込み得るかというような問題もございますので、その点はひとつ慎重にやろうというようなことを申し合わせております。
  149. 高木健太郎

    高木健太郎君 教育理念のことについてちょっとお伺い申し上げます。  これは天谷参考人、どちらでも結構でございますからお伺いしたいわけです。教育基本法の中に、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に」というように、こう書いてあるわけでして、非常に私美辞麗句だと、こう思うんですね。先ほど内容のお話がございましたが、なかなかよくわかりにくいところもあるというのは、言葉というのはきれいには見えますけれども、内容を深く考えていくと一つ一つが非常に難しい、これは定義が人によっても違うこともあるということで解釈が難しいというようなことを会長も言われておったし、天谷参考人もそういうことを言われたんじゃないかと思うんです。  ただ、これは非常にきれいですけれども、私ふっと考えますと、何か――一つは個人ということが出てくるわけです。もう一つは人類という言葉が出てくるわけですね。その間にある国という言葉がこの中にないわけなんですが、あるいは民族とか共同体であるとか、あるいは民族の伝統的文化であるとか、こういう言葉があってもよさそうだと思うんですけれども、それが抜けているというところが私ちょっと――もしも入れるならばそういうものを入れたらどうだ、そうすると見直すということになりますからこれは非常にまた重大な問題になるのかもしれませんけれども、国というものについては会長か天谷参考人どちらでも結構でございますが、愛国心とか国というものはどういうふうにお考えでございますか。もしも教育基本法を、精神をたっとんでいくというときに、教育基本法の中の精神の中にそれがどこかに含まれているとお考えですか。
  150. 天谷直弘

    参考人(天谷直弘君) 難しい御指摘でございますが、私は個人はアトミスティックな個人、原子論的な個人ではないと考えております。アリストテレスをまつまでもなく、人間は社会的動物であるという側面を持っております。そこで、個人として自我を確立し充実すると同時に、社会的動物としてあるいは社会的存在として責任を負えるような存在になっていかなければならない、社会的存在としての、社会的動物としての人間は、よい社会を構成するような理想と道徳と資質というものを持っていなければいけないと考えております。社会には家族という社会もあればあるいは印とか村とかいう社会もあれば、あるいは会社員の場合には自分の会社という社会もあるでございましょうし、それから国という社会もございます。  このうちで、国という社会は国民の安全を最終的には保障しているという意味におきまして非常に大きな重い役割を持っている。現実の国際社会におきましては国と国との間の相互依存関係は日増しに強くはなっておりますけれども、しかし国際社会を構成する最終の単位は国でございます。そういうわけで、立派な国を離れて立派な個人は存在することはできない、逆もまた真であろうかと存じます。そういうわけで、国をどう考えるかということは私は教育の中で極めて重要な要素だというふうに考えております。教育基本法の中には平和な国家の形成者としてという言葉が入っておりまして、教育基本法が国家を無視しているとは考えておりません。
  151. 高木健太郎

    高木健太郎君 昔の教育勅語にはもう国家、国家ということが出てきているわけですけれども、それに比べますとこの教育基本法というのは非常に少ないわけですね。昔は「義勇公ニ奉シ」とか、こういうもの、忠君愛国というのが柱になっておったわけですが、これには非常に少ないわけです。それで、愛国心ということは中曽根総理もよく口にされるわけですし、一般の人たちもよく言っていますが、愛国心ということを言うことそのことが何か妙にとられやすいというような、最近そういう傾向があるように思うんですね。それで、そういう意味では何か教育の理念というときに愛国心というものをどのような愛国心としてとらえていくかというようなことをやはり押さえておいた方がいいんじゃないか、あるいは臨教の方で愛国心とはこういうものですというようなことを出しておかないと、それはやっぱりいつまででもすっぽり抜けてしまうという感じもするわけです。何もこれ教育基本法を変えなくっても、今おっしゃったように、平和な国家を築くと、それだけで十分いけると、こう考えればそれでもいいですが、しかし、もう少し具体的にはこれを臨教審としてはどう考えるというようなことも入れておかれることの方が私はよりベターだというふうに思うんですが、その点はいかがでしょうか。
  152. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) おっしゃるとおりでございまして、私も教育基本法の読み方で、個人としては心身ともに健康な国民、それから国民としては平和的な国家と、そういうところに焦点を置いておりますので、その点教育基本法で読み得ると考えておるわけでございます。  それから、国を考えますときに、私は本当に国際社会における日本というものは変わったと思うんですね。今は大きくもう国際社会に出ていった、この事実は全く日本が変わったわけですね。それで、この変わった原因がやはり率直に言って経済の力ですよね、国際社会に日本のこの位置を占めたのは。ところが、経済というものだけで国が国際社会に永遠に信頼と尊敬を得るということはできないと思うんですね。それで、この際にやはり日本が本当に信頼と尊敬を得る国になるのにはどうしたらいいかということがあると思うんです。それで、私は常に科学技術というものに寄りかかるなにはございますけれども、やはり基礎科学の振興とかそれから現在の科学技術と人間との問題について日本的な物の考え方という東洋的なものもございますから、そういうものもしっかり持つということが大事だと思っています。いずれにしても、この国のアイデンティティーというか、我が国文化、社会の個性、そういうものをしっかり持つことは大事なことは、これはもう先生も御承知のあのベルツが明治九年にはっきり言っておるわけですね。日本人がそれを持たないで、どうして国際社会に信頼を得られるかということを申しておりますので、その点私も全く先生と同感でございます。そういう内容を思ってそういう国にするということが愛国心であるというふうに私自身考えております。これもまた審議しておりませんので、私の考えでございますけれども、絶えずそんなことを考えておる次第でございます。
  153. 高木健太郎

    高木健太郎君 今、アイデンティティーということを言われたわけですが、私も教育基本法には非常にきれいにありますから、平和を愛して、どこから見てもこれは理想的な国民であり、民族であり、個人であるというふうに思いますが、国のアイデンティティーというのにはちょっと具体性に欠けるんじゃないかと、いわゆる日本というのはどういう国なんだと、あるいはどうありたいと思っているのかということが外から見た場合にはっきりしないというような気持ちがしているわけですね。それで、それがなくって私は、教育というものはやはり具体性を持ったものですからうまくいかないんじゃないかなと、こういう考えがございますので、まあ基本法の見直しというといろいろひっかかりもあるんですからして、解釈というか、それの具体性を持たせるために何か臨教として目標をお掲げになる、そういうことを私は希望しておきます。  それからもう一つは、愛国心とか個人の尊重というような言葉がよく出てくるわけですけれども、これは理屈ではなかなか私わからない言葉じゃないかと、理屈ではいかない、要するに情操的なものである、こう思うわけです、いわゆる感性のものである、感情的なものであると思うわけです。そういうバックには情操教育だとか、あるいは宗教的な教育であるとか、そういうものが必要じゃないかなと思うわけです。それにしては現在の学校というのは余りに理論的という言葉は悪いと思いますが、理屈的な教育が多くて情操的な教育がどこか欠けている、だからして草稿の教育基本法には、初めには宗教的情操の寛容は教育上重視しなければならない、ただし公立学校では特定の宗教的教育及び活動をしてはならない。こういうふうに書いてあったのを、これを取りまして、そして「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。」というふうに書き直されたというふうに聞いております。そういう意味で、私は国のアイデンティティーだとか愛国心とかというようなものに対しましては、やはり宗教的情緒的な教育あるいは情操の寛容、そういうことが少し重視されなければ今後やっていけないんじゃないかというふうに考えますので、この点もひとつ検討をしていただきたいと思います。時間がございませんので、しかし誤解のないように申し上げますけれども、特定の宗教の教育をしろと、こういう意味では決してございません。宗教的情操を寛容することが大事じゃないか、こういう意味で申し上げているわけです。  最後に飯島参考人にお伺いしますが、大学入試の改善では先ほど久保委員からもいろいろ御質問がございました。まだ途中でございましてどのような結論になるか、国立大学協会の方ともいろいろこれ詰め合わせて今後改革に向かっていかれる、こう思います。これはだから、もしお答え願えれば、大体どうなっているか、そしてどういうふうに向かっているのかということをお答えいただければいいんですが、もう一つの問題は、大学というのは非常に大学の内部の改革というのは私は極めて大事なことじゃないかと思うんですね。これは問題挙げれば切りがないわけですけれども、時代がどんどん進んでいる、あるいは変わっているといった方がいいんですけれども、変わっている。それにしては大学というのは昭和の初めから大正の初めにできないわゆる講座制をそのまま守って、そして何か外から見るとリゾットである、しかも外からそれをさわるということはできないような、いわゆる聖域化している部分がある。これは文部省に午前中質問しましたけど、文部省では何ともならないところですね、ここは。じゃ臨教審でできるかと、臨教審でどこまでできるか、これも非常に問題のところであるとは思いますけれども大学のそういう教育改革というものについては飯島参考人はどういうふうにお考えか、それが可能なのか、どういうふうにしたらいいとお考えなのか、この二つについてお伺いしたいと思います。
  154. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 大学入試のことは先ほどもちょっとお答えいたしましたけれども、私ども基本的な考え方はなかなか難しい問題ですから一挙に物を解決してしまうということはできないと思いますが、私ども基本的に提案をしておりますのは、一つは中高等学校で進路指導、それを受験一本やりではなくて、いい人生をつくるにはどうすればいいかという形での進路指導を充実をさせたい、それには学校先生だけにお願いをするのは限界がありますから、大学も社会も協力をし、家庭も協力をして子供たちの志を伸ばすという方向で進路指導を抜本的に変えていく努力をしようと、それから、各大学は画一的ではなくてそれぞれの個性、教育目的に従った多彩な入試をやってもらおう、ただそれだけではばらばらになりますから、共通的なテストというものをつくって、そして高等学校教育の到達、それから各大学試験体制にゆとりをつけようと、もう一つ重大なことは、それを一つの核にして大学入試センターを少し活性化して、大学入試の問題というのは一遍改革をすればそれで済むという問題ではありませんから、絶えず毎年各大学を中心に高等学校も加わってレビューを行って、そしてそこで研究を行って幾らかでもベターなものについては休みなしに改革を進めていった方がいいであろうと、その四つの柱のことを臨教審としては提案をしております。これが果たして効果を上げるか上げないかということは私は今即断できませんけれども、私どもの希望としてはそういう方向で大学のみならず高等学校もあるいは社会の応援もその方向に集中をしていけば、少なくとも現在のいろいろな問題点というものは改善の方向に向かい得るはずであるというふうに思っております。  それから、大学改革について希望を持っているかという御質問ですが、そもそも希望を持たなければ第四部会長なんていう仕事をお引き受け初めからいたさないつもりでございます。いろいろ議論はありますけれども、私は、やはり大学というのはそれだけの頭脳の人の集まった集団でありまして、それ自体がちゃんとした考え方を進めていってくれるということを信頼しなければ日本の将来はないと思っておりますし、それは私どもの先輩から築いてくださった日本大学の中身というものは決して軽いものではない、それは信頼するに足りるものであると思います。  ただ文部省はどうにもならないという話であったということでございますけれども、今もし私どもが集中してやるとすれば、大学設置基準の問題とかあるいは大学設置の取り扱いの問題とかいう問題については、各大学考えるところをもっと自主的に自由に伸ばせるようなそういう条件設定というものは、少なくともこの臨教審という場で多くの方に御議論いただいて、ある程度達成することが可能ではないか。  それから、もう一つは、大学がもう少しひとり歩きをするという習慣を強めるという諸条件、これは学問を大事にし大学に大いに投資をしていただくことは必要ですけれども大学自体が自己評価をし、責任感じ、なおかつ自分考えたところは自分責任で歩いてみるというひとり歩きの習慣というものを日本大学全体としてはもう少し足腰を強くつけてもらいたい。ざっと申しますと私どもとしてはそういう願いと、それは必ず可能であるという期待のもとに合せっかく勉強させていただいておるというのが現況でございます。大変抽象的で申しわけありません。
  155. 高木健太郎

    高木健太郎君 結構です。ありがとうございました。  制度をいろいろ改革しようとして努力しておられるのは敬意を表しますが、学校教育の制度をいじるということは余り大きく変えると大変な混乱が起こるだろうと今飯島参考人が言われたように、入試にしろ何にしろ制度をいじるというのは余り慌てないでゆっくりとステップ・バイ・ステップで少しずつ変えていくという、そしてそれが長きにわたっても教育のことですから私はいいと思うんですね。それを何かやったぞということが見えるために余り派手にやられるとかえって混乱するというふうに思いますので、その点だけひとつ考えてやっていただきたい、こう思っております。  じゃ質問を終わります。
  156. 吉川春子

    ○吉川春子君 それでは憲法、教育基本法に対する見解をまずお伺いをいたします。  岡本参考人がよく御存じの世界平和教授アカデミー編の「国際化時代と日本」という本で憲法について次のように述べております。  これは前に資料をお渡ししてありますが、「日本においては「平和憲法」とか「民主憲法」とか絶讃され、「神聖にして侵すべからざるもの」として礼拝されている日本憲法という事業が、民主主義圧殺の悪魔である。」云々。教育基本法については「教育基本法はヒューマニズムの世界観を前提とし、ヒューマニズムは人間の本能に立脚しているから強固であり、このイデオロギーに巣食う利害関係者はきわめて多く、かつ有力であり、事あるごとに教育基本法を楯にしてその利益を防衛しようとする。教育基本法の存在を許している限り、いかなる改革案も不徹底なものに終り、」云々というふうに述べています。  八四年の十二月にこの平和教授アカデミーで岡本先生は講演されたわけですが、こういう考えにあなたは御賛同されているんでしょうか。
  157. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 賛同しておりません。  これは今お読みいただきまして、私も資料をもらっておるので、こういうことには全く賛同いたしておりません。
  158. 吉川春子

    ○吉川春子君 岡本参考人は今月の二十九日に財団法人神戸市民大学講座の主催する講座に講師として出席なさるそうですけれども、この団体は、今申し上げました平和教授アカデミーと同様に、文鮮明を教祖にいただく勝共連合、統一協会と密接なつながりのある組織であります。文鮮明は昨年七月、アメリカで脱税容疑で起訴された件で懲役十八カ月、罰金二万五千ドルの判決があったと。これは六月の外務委員会で政府が答弁しております。  また、統一協会員は、高いニンジン濃縮液等販売で、薬事法違反で最高裁で有罪判決を受けるとか、集団結婚式、派手な街頭活動など、社会のひんしゅくを買う活動をしながら勢力を広めようとしておりますけれども、こういう団体と関係のあるところだということを御存じの上でこれに出席、講演なさるんですね。
  159. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) それも全く知りませんね。  これは市民大学で、私は神戸の病院を持っておりますので、市民のお役に立つことならできるだけと思って、忙しくてなかなか時間が割けないんですけれども、無理に頼まれて、ひとつ市民のためになるんならと引き受けておる次第です。ほかに何もありません。今おっしゃったようなことは全然知りませんり。
  160. 吉川春子

    ○吉川春子君 わかったら、それなら取りやめるんですか。
  161. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) それは考えなんですけれども、そういう団体上いうことはまた全く知らなかったですね。あの市民講座というのはそんなもんですか、これは。ひとつまあこれはこっちから聞いてもだめですから。
  162. 吉川春子

    ○吉川春子君 御存じないということですので私の方で申し上げますと、神戸市民大学講座などと一般受けする名称を使っておりますけれども、これは非常に勝共連合と関係がある団体で、    〔委員長退席、理事粕谷照美君着席〕 例えばこの講座の学長の尾上正男神戸学院大学学長は勝共連合兵庫県代表世話人です。それから世界平和教授アカデミーの会員です。そのほか勝共連合と深いつながりを持つ肩書、活動などをしているわけです。それで勝共連合、統一協会の教祖文鮮明がその創始者である国際文化財団の助成であのアカデミーというのは成立した団体です。それから、運営委員の笠原正明氏は勝共連合の関西教授講師団の理事、世界平和アカデミーの関西地区の理事です。また、同じく運営委員の丹羽春喜というんでしょうか、京都産業大学教授は勝井関西教授講師団理事、世界平和アカデミー理事。それから、神戸市民大学講座後援会の瀧川勝二兵庫トヨタ自動車会長は勝共連合兵庫県世話人。さらにこの市民講座の後行われる懇談会、一、二泊の合宿ゼミは、統一協会の教会や修練所が利用されています。例えばその一つの統一協会宝塚修練所では、開設に先立って文鮮明が聖別式にも出席したと言われていますが、この修練所は強烈な洗脳で人間性が一変させられてしまうことは原理運動被害者父母の会によってたびたび指摘されているわけですが、臨教審の会長ともあろうお方がこういうところに出るのは全くふさわしくないと思いますが、いかがですか。
  163. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 先ほど申しましたように神戸の市民病院長もいたしておりますので、市民のためになることならということ以外に何もございません。    〔理事粕谷照美君退席、委員長着席〕  ただ、今お聞きすると大変なところですから、よくひとつ調査をいたしてみたいと思っております。
  164. 吉川春子

    ○吉川春子君 私は、調査されて、出席を見合わせるように勧告いたしますが、市民大学講座にしても世界平和教授アカデミーとかカウサにしても、統一協会や勝共連合との関係を知らずに参加している学者も多いんですけれども、まあ、そういう者も取り込んでやっているわけですが、天谷参考人にお伺いいたしますが、天谷参考人は、同じく統一協会と国際勝共連合の創始者文鮮明提唱のカウサ第三回会議に講演者として予定されておりましたが、新聞報道によると、出席を取りやめられたということでありますが、その理由は何ですか。
  165. 天谷直弘

    参考人(天谷直弘君) スケジュールの都合がつかなかったからでございます。
  166. 吉川春子

    ○吉川春子君 臨教審のメンバーの二十五名の中で九名の委員が、また専門委員のうち九名が勝共連合との関係を持つということは全く異常であると思うんです。それで、反社会的な行為に加えて、宗教的政治的な過激な活動をしている団体に対してやはり協力している。知らないでいる人もいるし、積極的に協力されている方もおられるわけですけれども、国民のコンセンサスを得て教育改革を進めるという立場に臨教審が立っているとすれば、本当にそういう姿勢で改革を行おうとしているのかどうか疑わざるを得ない、こういうことを私は強く指摘して、こういういかがわしい団体とは縁を切られる方がよろしいのではないかと思います。  それで、その問題はその程度にして、次の問題は、教育改革に関する第一次答申の中で高等教育機関の組織・運営に関してこのように書いてあります。「大学などの社会的位置付けならびに大学教員の教育研究活動の評価、教授会を含む大学の組織・運営、設置形態や財政の在り方について基本的な検討を加える必要がある。」と。  これは飯島参考人に伺いますが、公立大学の法人化を含めて検討する、そういうことなんでしょうか。
  167. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 私どもの今の考え方は、大学にはいろいろたくさんの問題があると思います。その中には設置形態の問題も、管理、運営の問題も、あるいはより基本的な問題としては財政の問題も含まれておるので、高等教育の問題を取り扱って議論をするに当たって、それらの問題を避けては通れない、したがって十分検討審議の対象にしたいということでございます。  ただ、私どもの立場は、あらかじめ法人化をすべきであるとか、あるいは特殊法人にすべきであるとかというその一つの前提を踏まえて議論をしようという考えは全くございません。大学がその本来のあり方というものに即して、それからまた大学がこれからよりよい充実をした活動をするためにどういう設置、社会的形態を与え、それからどういう管理、運営をなすべきであるかと。その点にもしさまざまな御批判があるように問題があるとすれば、そのどこを改めるべきであるか、あるいはどの点を大切にすべきであるかという基本姿勢でこの問題を課題として取り扱うという考えでございまして、現在の段階、第四部会の審議ではまだその問題には立ち入っておりません。
  168. 吉川春子

    ○吉川春子君 これから審議なさるということですが、例えば公立大学を今の私立大学のような法人形態にすると、財政面からいえば国の費用により学校経営が支えられる比率が非常に低くなるということを意味いたします。それで、六十年度の国立学校特別会計予算において一般会計よりの繰入額の占める割合は六六・二%です。これも五十七年度の予算では七〇・三%であったことから見れば、四%も国費の支出は減っているわけです。そういうことも念頭に置きながら、しかし三分の二は今の国立大学は国費で支えられているわけなんです。一方、私学に対する国庫補助は、年々率も低下して、ことしは経常経費に占める割合が二〇%を割っているわけで、これは国費は五分の一にも満たないということになります。経常経費の二分の一まで私学助成を強めるという目標は遠のくばかりです。いわゆる大学の法人化のねらいというのは、国公立大学に対する国庫からの支出を大幅に減らす結果になるのではないかと思うんですね。それは、これもちょっと勝共連合と関係のある雑誌ですけれども、「東京大学の民営化」などというショッキングな題で政策構想フォーラムが載っていますけれども、ここにもはっきりそういうことのために大学の民営化が必要なんだということが言われているんですけれども先生はそのことについてどうお考えですか。
  169. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) いろんな議論があるということは十分承知をしております。承知をしておりますどころか、これは大学にとっても重要な問題でありますから、絶えず注意をして検討をしております。それから、高等教育経費、それに対する公共の投資という点から見ますと、これは私の個人的意見も多分に入っておりますが、現在の日本では初等、中等教育に対する投資は少なくとも国際レベルから言って水準に達していると思いますけれども、高等教育に対する、あるいは基礎研究に対する日本の公共的投資というものは諸先進国に比べても決して豊かとは申せません。したがって、この点はむしろ今後各方面の御理解を得て、ぜひ増強すべきものであるというふうに私ども考えております。  先ほど指摘のように。国立大学特別会計に対する一般財政からの繰り入れも実はもう少し前は八〇%あったわけです。それが今は六十何%ということで落ち込んでおりまして、この点についても十分な検討をしたいと思っております。したがって、設置形態の問題、それから管理、運営の問題というのは、決して私どもの取り扱う観点は財政節約という点で取り扱おうという考え全くございません。むしろ先ほど申しましたように、大学が生き生きした仕事を進めていくためには、では今の国立という形のどこに問題があるか、あるいは私立という形のどこに問題があるかと。それにふさわしい形態、よりよき形態を追求をしてみたいというのが、この課題の本来の趣旨でございます。
  170. 吉川春子

    ○吉川春子君 それが六十一年度の概算要求を見ると、さらに一般会計よりの繰入率は減って六五・一%にとどまっているんです。この間、逆に国立大学入学金、授業料の推移を見ますと、五十七年度は三十一万六千円であったものが、六十一年度は四十三万八千円となって、三〇%以上の値上がりになっています。だから、国公立大学の法人化ということは、財政面からとらえれば学生にとっては大幅な授業料の値上げということが行われるということが明らかだというふうに思うわけです。  財政面からの問題はそういうことですが、もう一つ、では機構面、その他の面ではどうかといいますと、第一次答申では大学の責務は基礎研究の推進にあるとしながら、学術研究の推進上大学が産官及び種々の研究所などの協力関係を密にすることを重要な課題としています。しかし、従来から産学協同では当面企業の利益に結びつく研究が優先して、基礎研究がおろそかになるということが指摘されています。特定の企業の利益に大学が奉仕していいのかという問題があります。産学協同の要望は財界からも、また研究不足に悩む一部学者側からもあるわけですけれども、法人化は産学官、あるいはこれに軍も加えて、こういう共同研究に道を開くような体制づくりにつながらないか、その点はいかがですか。
  171. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 法人化の問題についての私どもの現在の姿勢は先ほど申し上げたとおりでございます。  それから、産業とそれから国とそれから大学間における学問研究の連携ということは私は本来はあるべきことだと思っております。ただ、その場合には決して特定企業の利益に結びついた研究を行うというのではなくて、社会一般の科学技術の活性というものをいかに大きくするかという点について大学もまた一部の責任を担うという、その意味があると私ども考えております。したがって、いわゆる産学協同というものの考えについては、大学側も大いに考える必要があると思いますが、それを希望するところの企業側の考え方というものについてもいろいろ検討をして進歩をしていただかなければならない、このように考えております。
  172. 吉川春子

    ○吉川春子君 教育改革の理念として自由化が言われたときに、国民の間から大きな批判があり、臨教審は言葉を個性重視というふうに変えました。しかし、自由化の要望は財界などから根強くあり、高等教育の自由化をもって義務教育への自由化の突破口としようとする考え方もあります。これはさっき示しました法人会員十数社が支える政策構想フォーラムの「学校教育行政の行革提言」でも明らかです。臨教審の第一次答申の高等教育機関の多様化、個性化の方向も義務教育の自由化への突破口を切り開くものであるのかどうか、その点飯島先生と岡本会長に伺います。
  173. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 自由化に関しましては、初中教育といいますか初等教育、義務教育、これに関してはそういうものは実行できない部分がありますし、それから、できないということ以上にすべきでないという意見もある。ただ、大学に関しては大いに自由化の方向を追求していい、そういうふうに言われておると、そういうふうに思います。
  174. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 自由化という一つ言葉でいろんな議論が中に入っているわけでございます。それで自由経済、経済競争の意味での自由化というところに重点のある自由化論もございますし、それから本来教育というものは自由であるべきである、そのためには余りに制約的要素が多過ぎるから、もっと教育現場の自由を尊重すべきであるという意味の自由化もございます。したがって、自由化論の中には大変幅が広いものが含まれていると思われますけれども、私ども大学について申しますと、大学は本来自治基本とし、学問研究というものは自由であらねばならぬという建前から申しますと、もし現在の日本大学に諸制度上その自由な活動、あるいはそれぞれの大学がそれぞれの教育理念、あるいは学問理念に従って展開するところのものを制約をして画一化しているような要素があれば、それは先ほどもちょっとお答え申しましたように、設置基準の問題その他を台かてより自由な弾力的な雰囲気をつくる条件をつくらなければならない。その意味においては、会長おっしゃいましたように、大学についてはより自由な大学活動を確保するような方策を考えるという意味で私ども大学の自由化ということを受けとめております。
  175. 吉川春子

    ○吉川春子君 今の飯島参考人の御発言では、義務教育に対する突破口に使うということではなさそうですが、そういう懸念もまあ抜きがたくあるわけです。大学のいわゆる法人化の問題というのは、国庫支出を減らしていくわけですから、結局は学生から取るか企業からもらうか、それが学費の値上げ、あるいは産学協同、そういうところにつながっていくという懸念があるわけです。大学自治との関係、教授会の権限の弱小化とか、あるいは国費の支出減による父母、学生負担の増大、そして産学協同への道を開く、こういう非常に大変な中身を持った問題ですから、臨教審において、こういう大学の法人化というものについても、企業やら、そういうところからの要望に属するということではないんでしょうけれども、そういうような形ではなくて、本当に学問の自由を守り、教育研究の場としてふさわしいそういう大学にするような改革をこそ進めていくべきではないか。そのためにやっぱりさっき先生がおっしゃったように国費をもっともっと出させるということも一つの方法であると思うんですけれども、そういう方向でやはり大学改革を進めるならやっていただきたいと思いますが、最後にそのことの御返事をいただいて私終わりたいと思います。
  176. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 御意見は十分承りました。私ども教育改革というのは教育基本だと思っております。何かほかのことのために教育を道具に使うという方向の問題ではなくて、教育をどんなに大事にして豊かにしていくかということが結局は国民のためであり、あるいは社会のためであるという考えで徹しておるところでございますから、いろいろ御注意があれば承りたいと思います。
  177. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 きょうは岡本会長以下、お忙しいところ御出席いただきましてありがとうございました。  民社党は戦後の教育を大いに、改革すべきであるという立場から、総理大臣直属の臨教審設置を推進してきた立場でございますので、むしろ皆さんたちの仕事を援助する意味でいろいろ意見を述べてみたいと思っております。いずれ基本答申を出されるだろうと思います。その答申に対してはいろんな各方面からの批判、反論が出るだろうと思いますが、そういった反論なんかにこたえ得るような論理的な一貫性のある報告書を出していただきたい、その点から質問申し上げたいと思っております。  質問と申しますよりも、時間が非常に限られておりますので、一問一答をやっておりますと私の持ち時間二十分でございますから、時間が不足いたしますので、私が一方的にしゃべることが多いんじゃないかと思いますが、後でそれについて反対意見があれば述べていただきたいというふうに考えております。  まず最初は、「臨教審だより」、こういった「臨教審だより」でありますとか第一次答申の審議経過なんかを読みますと、まず最初に二十一世紀に向けての教育あり方ということが議論されているように思います。そして教育基本法の問題は今後大いに議論していきたいというふうに述べておられますけれども、私は議論の進め方が逆じゃないかというふうに考えるわけであります。先ほど岡本会長からお話がありましたように、そういった理念の問題よりも今の制度をどうするか、それに対する期待が非常に大きいので、その問題を最初に取り上げたんだというふうなお話がございました。その意見、わからないではありませんですけれども、私は余り世論に流されないで教育の問題は腰を落ち着けて議論していただきたい。  私はなぜ、議論が逆ではないかと申しましたのは、私は教育基本的な理念というのは普遍的なものであって、二十世紀であろうと二十一世紀であろうと変わらないんじゃないかと思う。その普遍的な理念を二十世紀と違う二十一世紀、いろんな技術変化、情報化社会、いろんな違った点があらわれできますけれども、その違った社会にどういうふうに適用するか、応用の問題が二十一世紀の問題ではないかと思うので、まず最初にその普遍的な理念を議論しておいて、それから変動する二十一世紀に対してその理念をどのように適用していくかということを議論されるのが私は筋道ではないかと思う。それが逆になりましたために、例えば自由化論という、私は自由化というのは一つの手段、その理念を達成するための手段あるいは方法じゃないかと思うんですけれども、その自由化論が一躍表に出まして、かなり混乱した議論がある、しかもその報道がかなり一方的な報道もありまして、かなり誤解を生んで不必要な議論がなされたんではないかというふうに思います。私は自由化というのはある意味では賛成ですけれども、経済の自由化と同じような意味の、そういう考え方を教育に適用されることは私は反対でございます。経済の原理と教育の原理というのは私ははっきりと区別してもらいたい。自由化ということは結局撤回されまして、個性主義というふうな言葉になりましたけれども、その個性主義、個性の尊重ということだろうと思いますが、これも私は必ずしもよくわかった概念ではないんじゃないか、つまり個性を尊重する、個性のある人間というのは、例えば石川五右衛門でありますとかヒトラーでありますとか、あるいは先ほど話が出ておりました文鮮明なんというのもある意味では非常に個性のある人間でございますけれども、そういう個性をそのまま尊重していくということではないんじゃないかと思う。私はやはり個性主義ということは人格の完成という教育の目的を達成する一つの方法であり、人格の完成といいましても抽象的な人間なんかいるはずはございませんから、普遍は個を通してあらわれてくるわけですから、いろんな人格の完成の方法があるわけで、そういった個性をたっとんで人格を完成するというんだったらわかりますけれども、あるがままの人間の個性をそれをそのまま尊重するというんだったならば私は教育じゃない、否定になるんじゃないかということを考えております。  したがって、個性の尊重ということと、人格の完成ということとをどのように結びつけられるのか、そのことをきょう急に答弁は求めませんですけれども、十分に検討していただきたいというふうに考えます。  それから教育の目的としての人格の完成ということは教育基本法に書いてあります。先ほど岡本会長、これは非常に読みづらいということを言われました。私も本当に読んでこれは読みづらくて、二、三度繰り返して読んだんですけれども、よくわからない。例えば第一条の「教育の目的」は、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」、英語の翻訳を見るとよくわかるわけです。英語の翻訳を見ると、「人格の完成」ということと、それからいろんな形容詞がありまして、最後に「健康な国民の育成を期して」ということと二つがアイ・エヌ・ジーで結びついているんですけれども、これの方が私ははるかにすらっと頭に入りました。しかし、それでもなお問題は、「人格の完成」ということと、それからそれ以降、「平和的な」云々というふうなことの、「国民の育成を期して」ということとはどういう関係にあるのか。「人格の完成」をハラフレイズして言っているのか、あるいは「人格の完成」と並んだ目的であるのか、これは英語の方を読んでもわからない。日本語を読んではなおさらわからない。その意味においてやはり「人格の完成」というのはどういうことであるか、これを私はまず最初に十分に議論していただきたいと思う。  この問題につきましては、例えば、日教組は最近、教育基本法を守るんだというふうなことを言っておりますけれども、倫理綱領、その解説なんかを読みますと、「日本教育基本法という法律は、「人格の完成」というきわめて抽象的な原理宣言を公けにしているが、それでは教育の目的は明らかにならないのだ。」ということを言って、それで、その後で教育の目的としてインプライしていることは、階級的な自覚に目覚めて、そして階級闘争によって社会を変えていく、そういうのが教育の目的であるかのようにこの解説を読むと見えるわけであります。最近、日教組その考え方を改めたようでございますから、その点は私大いに評価しますけれども、しかしなおその日教組の人たちが人格の完成と言っている場合に何を考えているのか、恐らく私は臨教審の人たち考えておられる人格の完成というのと違うのではないかと思う。私は人格の完成ということはやはり人間の使命、その使命を達成する、そういった一種の理想主義的な哲学からでなければ生まれてこないと思うんです。果たして日教組の人たちがそういった理想主義の哲学をとっておられるのかどうか、少なくとも倫理綱領解説を読む限りにおいてはそれと逆の哲学の上に立っておられるんじゃないかというふうなことを感じますので、なおさら臨教審の方々は自分たちは人格の完成というのはどういうふうに考えているのか、それをはっきりして、そして各論に入っていっていただきたい、そのことをまず第一にお願いしておきます。  それから二番目に、私はやはり教員の養成を非常に重視していただきたいと思う。教育基本法第六条二項では、「教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。」。全体の奉仕者であるということは、これは公務員についてすべて言えることでありますけれども、特に教育者にとっては、教育者としての自己の使命は何であるか、それを自覚することが私は大事ではないか、単なる労働者ではないんだ、やはり人間をつくるという非常に神聖な仕事に従事しているのが教育者なんだ、その使命を自覚する、技術論の前にそういった使命の自覚が私は必要ではないかというふうに考えております。  今度、臨教審の方では、教員になるために一定の研修期間を設けるというふうな意見も出ているやに承っております。私もやはり、司法官についても一定の研修期間が必要であるし、医者については、けさほど、今までインターンがあったのが大学紛争以来やめちゃった、しかしインターン制を復活したらどうかというふうな、再検討をしてはどうかというふうな御意見もありましたけれども、私もやはり教育医者の仕事と同じように、医者の仕事は人間の生命に関する仕事でありますけれども教育の仕事は人間の精神に関する非常に重要な仕事であります。単なる労働者の意識でもってこれに当たられたらとんでもないことであります。したがって、研修期間に教育技術を教えることはもちろん必要ですけれども、やはり教員の使命は一体何なのか、それを自覚するような指導教育が行われるような、そういう意味研修をやっていただきたい、これが第二点であります。  第三点もありますけれども、ちょっと第一点と第二点につきまして何か御意見があればお伺いいたしたいと思います。
  178. 岡本道雄

    参考人(岡本道雄君) 第一点と申しますか、人格の完成ということが教育基本法の精神の中の中核でございますので、したがって私ども教育基本法の精神にのっとるということでございますので、まず人格の完成ということにつきましては、十分しっかり精緻にこれを深く理解しまして、それが現実の教育に行われるように努力する、そういうことでございます。  次の教員の養成につきまして、使命の自覚ということでございますが、自己の使命の自覚、これは当然教育の目的に関連した使命でございますので、そういう使命をよく自覚するように、それで初任者研修を一年に延ばしたという、あの間には単に技術的な問題に限らず、先輩の老練な教育者によって使命に対する自覚をよく体得させるというようなことを論じております。
  179. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 天谷さん、何か御意見ございましたならば。
  180. 天谷直弘

    参考人(天谷直弘君) 人格の完成に関しましては私なりに考え方がございますけれども、時間がございませんので……。
  181. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 結構です。  時間が極めて制限されているんですけれども、臨教審の第一次答申の中に、「学校教育の活性化」の中で、「教育内容の精選」をするということがございます。私も賛成です。これはけさの午前の文教委員会でも申し述べたんですけれども、小学校、中学校、高等学校において、例えば社会科、公民ないし歴史、同じことの繰り返しをやっているわけですね。これは私は単に時間の浪費であるのみならず、こういうことが行われることがかえって学習意欲をそいでしまうことじゃないかと思う。私はもっと科目の整理をして、例えば小学校の一年から社会科というのを習っております。私の孫が小学校におりますので教科書見たんですけれども、果たしてこんなことを学校で教えることが必要かと思うようなことを、しかも教科書を使って教えている。教科書会社は喜ぶかもしれませんけれども、子供は毎日たくさんの教科書を肩に背負って通っていますけれども、一、二、三年生くらいで社会科という授業は必要ないんじゃないか。むしろ、読み方、国語あるいは算数、情操教育、体育、そういったものを集中してやる、そのことが必要ではないか。小学校、中学校、高等学校で歴史を教えるにしても、その内容を違ったものを教える、あるいは教え方を変える、そういうふうなことを希望しておきます。  それから、ますます時間がなくなりましたけれども、飯島先生が見えておりますので、大学教育改革のことについてちょっと触れておきたいと思います。私自身大学教授でありながら一向に改革しなかったわけですけれども改革しないでおいて何を言うかと言われるとそれまでの話ですが、大学と国会ぐらい保守的なところはない、自己改革が絶対に行われないと言っても過言ではないぐらい非常に保守的なところであります。国会の問題は我々内部で議論する問題ですけれども教育の問題、殊に大学大学で一般教育がございますね、これのあり方を検討していただきたい。一般教育はそもそも必要なのかどうか。これは高等学校の方との関係もございます。高等学校でもっと徹底して教えれば大学の教養課程で必要ないということもございますが、もし一般教育が必要であるとしましても、その科目の整理、三十六単位、これは二十四単位まで減らすこともできるということになっていて、大学の中で工夫すればいいんですけれども、しかしこれを改革するということは、それぞれの先生のベステッドインタレストに関係するので実際問題としては非常に難しい。例えば第二外国語なんというのは、私は大部分の学生にとっては時間の浪費ではないかと思うんです。やるんであるならばもっと徹底的に毎日毎日でもやれば一年間で私は終わると思う。やらないんであるならば選択にして、本当にやりたい者だけがそれをやる。これはやろうと思えばできるはずです、今の大学設置基準の内部でも。しかし、これはドイツ語、フランス語の先生が猛烈に反対するのでなかなかできませんでした。まあ一般教育必要としましても、今教えているような高等学校で教えていることの繰り返してはなしに、例えば今言いましたような第二外国語も、徹底的にやりたい学生はそれをやるとか、あるいは日本語の作文――アメリカ大学なんかに行きますとイングリッシュコンポジションという科目がございますけれども、私は最初何のために必要かと思っていましたら、最近の日本学生考えますと、私は日本語の作文をやはり徹底的に教える必要があるんじゃないかということを感ずる次第ですけれども、そういった日本語の作文でありますとか、あるいは哲学史なり文学史なりというふうなものを教えればそれは教養課程に対して学生が興味を持ってくるんではないかと思う。どうも今までの教養課程というのは時間の浪費じゃないか、この時代に大学教育に対する学習意欲を非常に失ってしまうんじゃないかということを考えております。そういった、これは一例でございます。そのほかにもたくさん大学改革すべきことはありますけれども、その大学教育改革について飯島先生から何か御意見があればお伺いしたいと思います。
  182. 飯島宗一

    参考人(飯島宗一君) 一般教育改革が必要であるということについては私ども全く同感でございます。  それで、現在、一般教育の今までの習慣的な中身をあのままで守るということではなくて、もっと高等教育にふさわしい基礎的な人間素養なり、あるいは学問に対する態度をしっかりつけさせるということに焦点を置いて、一般教育あり方を全面的に検討するということに取りかかっております。  それから、大学改革の問題は、申し上げればもう切りがありませんから省略をいたしますが、先生、長いこと大学におられて、大学は保守的であって、到底見込みがないような御感想のようですけれども、私は学問を守るところはある意味で安定して保守的な要素がなければならないと思いますが、改めるべきところは果敢に改めていかなければならない。それについては、私はまだ希望を持っております。それをぜひ努力をしてみたいと思います。
  183. 関嘉彦

    ○関嘉彦君 大いに頑張っていただきたいと思います。  質問を終わります。どうもありがとうございました。
  184. 林寛子

    委員長林寛子君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたします。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  参考人の方々には、御多忙中にもかかわらず本委員会に御出席いただき、貴重な御意見をお述べいただきましてまことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。     ―――――――――――――
  185. 林寛子

    委員長林寛子君) 次に、日本体育学校健康センター法案を議題といたします。  まず、政府から趣旨説明を聴取いたします。松永文部大臣。
  186. 松永光

    国務大臣松永光君) このたび政府から提出いたしました日本体育学校健康センター法案につきまして、その提案の理由及び内容の概要を御説明申し上げます。  この法律案は、臨時行政調査会の答申に沿って、特殊法人の整理合理化を図るため、国立競技場と日本学校健康会を統合し、日本体育学校健康センターを設立しようとするものであります。その統合の趣旨は、両法人の業務について見ますと、国立競技場は、その設置する体育施設の運営に関する業務を、日本学校健康会は、学校安全及び学校給食に関する業務をそれぞれ行ってきており、その業務の対象に国民一般と児童、生徒等との違いはありますが、広く国民の体力の向上や健康の保持増進の面で密接な関係を有するものであることにかんがみ、両法人を統合しようとするものであります。  この法律案におきましては、日本体育学校健康センターに関し、その目的、組織、業務、財務、会計、監督等につきまして所要の規定を設けるとともに、従来の両法人の解散等につきまして規定することといたしております。  その内容の概要は、次のとおりであります。  まず第一に、日本体育学校健康センターは、体育の振興と児童、生徒等の健康の保持増進を図るため、体育施設の運営、児童、生徒等の災害に関する必要な給付、学校給食用物資の供給等を行い、もって国民の心身の健全な発達に寄与することを目的とするものであります。  第二に、日本体育学校健康センターは、法人といたしますとともに、役員として、理事長一人、理事五人以内及び監事二人以内並びに非常勤の理事三人以内を置き、理事長及び監事は文部大臣が、理事は文部大臣の認可を受けて理事長が、それぞれ任命することとし、その任期はいずれも二年としております。なお、役員数につきましては、行政改革の趣旨に沿って統合の前に比べその数を縮減いたしております。また法人運営の適正を期するため、理事長の諮問機関として運営審議会を置くこととし、業務の運営に関する重要事項について審議することといたしております。  第三に、日本体育学校健康センターの業務につきましては、従来の両法人の業務を承継して、  (一) その設置する体育施設及び附属施設の運営並びにこれらの施設を利用しての体育の振興のための必要な業務  (二) 義務教育学校等の管理下における児童、生徒等の災害に関する災害共済給付  (三) 学校給食用物資の買い入れ、売り渡しその他供給に関する業務  (四) 体育、学校安全及び学校給食に関する調査研究並びに資料の収集及び提供その他の体育、学校安全及び学校給食の普及充実に関する業務を行うことといたしております。また、この法人は、以上のほか、文部大臣の認可を受けてその目的を達成するため必要な業務を行うことができることとするとともに、これらの業務の遂行に支障のない限り、その設置する体育施設及び附属施設を一般の利用に供することができることといたしております。  なお、災害共済給付事業につきましては、災害共済給付契約、共済掛金、給付基準、学校の管理下における児童、生徒等の災害の範囲、学校の設置者の損害賠償責任に関する免責の特約等に関し、また、学校給食用物資の供給に関する業務につきましては、売渡価格、供給の制限等に関し、従前と同様の規定を設けることといたしております。  第四に、日本体育学校健康センターの財務、会計、監督等につきまして、一般の特殊法人の例にならい所要の規定を設けることといたしております。  第五に、従来と同様に保育所の管理下における児童の災害につきましても災害共済給付を行うことができる規定を設けることといたしております。その他日本体育学校健康センターの設立、国立競技場及び日本学校健康会の解散等につきまして所要の規定を設けることといたしております。  以上が、この法律案を提出いたしました理由及びその内容の概要であります。  何とぞ、慎重御審議の上、速やかに御賛成くださるようお願いいたします。
  187. 林寛子

    委員長林寛子君) 以上で趣旨説明の聴取は終わりました。  本案に対する質疑は後日に譲ることといたします。  本日はこれにて散会いたします。    午後辺時十八分散会      ―――――・―――――