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1985-02-12 第102回国会 衆議院 予算委員会公聴会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和六十年二月十二日(火曜日)     午前十時一分開議 出席委員   委員長 天野 光晴君    理事 大西 正男君 理事 小泉純一郎君    理事 橋本龍太郎君 理事 原田昇左右君    理事 三原 朝雄君 理事 稲葉 誠一君    理事 岡田 利春君 理事 二見 伸明君    理事 吉田 之久君       伊藤宗一郎君    石原慎太郎君       大村 襄治君    小杉  隆君       自見庄三郎君    田中 龍夫君       月原 茂皓君    葉梨 信行君       原田  憲君    村山 達雄君       上田  哲君    大出  俊君       川俣健二郎君    佐藤 観樹君       渋沢 利久君    松浦 利尚君       矢山 有作君    池田 克也君       近江巳記夫君    神崎 武法君       木下敬之助君    小平  忠君       梅田  勝君    瀬崎 博義君  出席公述人         昭和女子大学教         授       加藤 地三君         東洋大学経済学         部教授     八巻 節夫君         北海道大学教授 木村  汎君         名古屋大学教授 水野 正一君         演劇製作者・こ         まつ座主宰   井上 好子君         医事評論家   水野  肇君  出席政府委員         総務政務次官  岸田 文武君         北海道開発政務         次官      上草 義輝君         防衛政務次官  村上 正邦君         経済企画政務次         官       中西 啓介君         法務政務次官  村上 茂利君         大蔵政務次官  中村正三郎君         大蔵省主計局次         長       的場 順三君         大蔵省主計局次         長       保田  博君         文部政務次官  鳩山 邦夫君         厚生政務次官  高橋 辰夫君         農林水産政務次         官       近藤 元次君         通商産業政務次         官       与謝野 馨君         運輸政務次官  小里 貞利君         郵政政務次官  畑 英次郎君         労働政務次官  浜野  剛君         建設政務次官  谷  洋一君  委員外出席者         予算委員会調査         室長      大内  宏君     ————————————— 委員の異動 二月十二日  辞任         補欠選任   上村千一郎君     自見庄三郎君   山下 元利君     月原 茂皓君   井上 一成君     渋沢 利久君   山原健二郎君     梅田  勝君 同日  辞任         補欠選任   自見庄三郎君     上村千一郎君   月原 茂皓君     山下 元利君   渋沢 利久君     井上 一成君     ————————————— 本日の公聴会意見を聞いた案件  昭和六十年度一般会計予算  昭和六十年度特別会計予算  昭和六十年度政府関係機関予算      ————◇—————
  2. 天野光晴

    天野委員長 これより会議を開きます。  昭和六十年度一般会計予算昭和六十年度特別会計予算昭和六十年度政府関係機関予算、以上三案について公聴会を開きます。  この際、御出席公述人各位に一言ごあいさつを申し上げます。  公述人各位におかれましては、御多用中にもかかわらず御出席を賜りまして、まことにありがとうございました。昭和六十年度総予算に対する御意見を拝聴し、予算審議の参考にいたしたいと存じますので、忌憚のない御意見をお述べいただくようお願い申し上げます。  なお、御意見を承る順序といたしましては、まず加藤公述人、次に八巻公述人、続いて木村公述人順序で、一人二十分程度ずつ一通り御意見をお述べいただきまして、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。  それでは、加藤公述人にお願いをいたします。
  3. 加藤地三

    加藤公述人 加藤でございます。  本日、私は、六十年度の予算のうち、文教関係予算について私の意見を申し述べたいと思います。  言うまでもなく、ただいま教育の問題は非常にたくさんな問題を抱えておりまして、大きな深刻な問題は、現在臨教審の場で論議されております。こういった非常に深刻な教育問題を抱えていながら、国の財政が大変厳しいという中で、一体文教予算はどうなるものか注視しておりましたけれども、四兆五千七百四十一億円という、前年度よりもちょっと増額された形で政府原案が決まったことを大変喜ばしいと思います。  文教予算を細かく見ますと、例えば、三年間ストップしておりました四十人学級計画が再開されたこと、教科書の無償制度が継続されたこと、私学助成が一応確保されて前年並みになったこと、それから学術研究振興に一層意を用いたこと、あるいは留学生事業が拡充の方向に向かっていることなど、全体として大変め張りのきいた予算になっております。  臨教審が設置されまして、教育改革の機運が高まっている折からでもありますので、今後とも、国家百年の計という観点に立って、教育学術、文化の充実振興のためたゆまぬ努力が必要だと思いますので、そのためにも、文教予算の着実な充実を願うものであります。  国の一般歳出に占める文教予算割合は、ここ七、八年間ずっと一四%程度でございまして、六十年度も一四%でございます。しかし、文教予算構造を見ますと、全体の五三・二%が義務教育費国庫負担金でございます。これが二兆四千三百億円、それから国立学校特別会計への繰り入れという国立大学予算がございますが、これが一兆円ちょっとでございまして、この義務教育費国庫負担金国立学校特別会計というのは、小中高、それから大学先生給与でございます人件費が、文教予算全体の七二・八%を占めております。  こういった文教予算構造を見ますと、今後、文教予算全体の伸びのいかんにもかかわりますけれども、人件費が毎年人事院勧告に従って膨らみ、総枠が締めつけられるという状況が長く続きますと、政策経費が勢い抑えられてくるという問題が起こってくると思われます。また、十八歳人口が、六十年度はひのえうま生まれの子供が少なかったために百五十万人台になっていたのですが、来年度から急激にふくらみまして、特に首都圏では三十万人ぐらいふくらむということで、高等教育関係公財政支出をもっとたくさん出していただかなければ、進学率伸びにも大変関連してくると思われますので、高等教育関係予算の一層の充実を期待しているところでございます。  戦前昭和十五年の小学校から大学までのすべての学校児童生徒学生数というのは、大体千七百二十二万人でございました。それに約八億円の経費をかけていたわけでございます。しかし、その当時の高等教育機関、これは戦後短大等に昇格したものをすべて入れた高等教育機関学生数は二十九万人でございました。それにかけていた経費が約一億三千万円だったわけでございます。その割合を見ますと、全学校学生生徒数に占める高等教育機関学生数は一・七%にすぎなかったのでございますが、経費は一六・三%をかけていたわけでございます。ところが、昭和五十七年のすべての学校児童生徒学生数は二千六百六十四万人、それにかけた経費が十六兆でございます。高等教育機関学生数二百十六万人、それから高等教育機関にかけた経費が約三兆円でございます。これを割合で見ますと、高等教育機関にかけられた経費というのは二一・二%、しかし学生生徒数は八・一%になっております。  戦前のわずか一・七%の学生のときには一六%も経費をかけていたのに、学生数が八・一%になったにもかかわらず、高等教育にかけた経費は二一%だった、つまり学生生徒数割合は四・七倍になったにもかかわらず、経費は一・三倍にしかならないということでおわかりのように、高等教育機関にもう少し投資しないと、大学短大高専等教育内容は低下するということになりかねないと思います。  実は、昭和四十六年に出されました中教審の例の四六答申のときに、特別委員会が設けられまして、「教育費の効果的な配分と適正な負担区分」という報告書が出ております。この報告書には、小学校中学校義務教育の方の教育予算国民所得伸びに従って適当な割で伸びているけれども、高等教育に関する公財政支出というのは義務教育に比べると伸びが非常に鈍いという報告をしておりますが、現在でもこのままいっているのだと思います。我が国高等教育機関というのは大変数が多いわけでございますが、この経費の面で見ますと、数が多いけれども質的な面で問題があるとヨーロッパの諸国から言われているのは、こういった教育投資配分に問題があるからではないかと思います。こういう点、今後検討を要する問題だと思います。  四十人学級実施が再開されまして、六十六年度までの計画予定どおりお進めになるということですが、これは大変結構だと思います。ぜひ六十六年度までの期間中に達成して、ほかのきめ細かな対策とあわせて、行き届いた教育指導に当たり、心身ともに健やかな子供たちの育成を願うものでありますが、この四十人学級実施と同時に、もう一歩踏み込んで考えていただきたいのは、例えば外国語授業等では、四十人ではなお多過ぎるので、その際はクラスを半分に割って授業をするというような配慮が必要ではないか。ヨーロッパ、特に東欧圏では、ちゃんと、外国語とそれから数学授業のときにはクラスのサイズを二つに割れというような指示があるわけでございますが、我が国ではそういった規定はございませんので、四十人学級がもし実現した暁には、そういったきめ細かな措置も同時に必要ではないかと思います。  しかし、まだ、四十人学級が実現したといたしましても、ほかの各国に比べましたら一学級人数が多い方でございます。例えばイギリスあたりでは、小学校は二十六人、中学校は二十一人というようなことで、三十人以下というのが常識になっているという点を見ましても、まだ四十人学級が実現されても十分ではないということをお含みおき願いたいと思います。  先生方お読みになったかと思いますが、黒柳徹子さんの「窓ぎわのトットちゃん」というのがございますが、あれが何かベストセラーになりまして、四百万も売れたということでございます。恐らく一千万近い国民が読んだと思いますが、トットちゃんで私が感銘を受けましたのは、一学級人数が大変少ないということと、教育者が一人一人の子供によく目を据えて教育しているということでございました。とりわけ、トットちゃんがトモエ学園という学校に入っていった入学の前に、小林宗作という校長先生が、トットちゃんという、大変おしゃべりだったのだと思いますけれども、この子をつかまえて四時間も話したということです。私、この点が一番感銘したところでございます。  今、先生が大変忙しくなっております。全国校長先生の中で、一人の子供をつかまえて四時間も時間を割くという校長先生はいないのではなかろうかというふうに私は思うわけでございますが、これも四十人学級との絡みで、先生人数が多いと大変忙しくなるわけでございます。四十人を超え、五十人、六十人とだんだん人数が多くなりますと、児童生徒一つの固まりとしてしか教師には映らないけれども、だんだん人数が減ってくると、一人一人の性格、顔が見えてくるわけでございます。ぜひ一学級人数をなるべく少なくしてほしいわけでございます。  日本教師は、明治以来どちらかというと多人数教育になれておりまして、五十人、六十人の子供がいないと何か授業の気勢が上がらない。「わかったか」なんと言いますと、大勢の手がたくさん挙がって、「はい、はい」という声が多いと先生は満足するという形になる。  東京大学教授で私の友人が、アメリカを旅行して、ある中学校に行きましたら、その校長先生が、何か人口増のために一学級三十人以上のクラス編制をせざるを得なくなったということで大変嘆いておりまして、これではいい教育ができないということを訴えたのだそうでありますが、この教授日本に帰ってきまして、文京区のある小学校に行きましたら、だんだんドーナツ現象子供の数が減りまして、とうとう一学級四十人のクラスになってしまった、こう数が少ないといい授業ができないと言って、教師がぼやいたそうであります。  日本教師は、明治の初めから五、六十人の子供を相手にした大変卓越した教育技術を持っておりまして、特に読み方の先生とか国語の先生にはすぐれた先生がいて、全国をずっと教授して回り、授業あり方を教えて歩くような専門家もいたそうでありますけれども、日本教師は、そういったクラス全体の一斉授業に大変な能力があるけれども、個々の子供にどう指導していったらいいかということになると、経験もないし方法論も確立していないということで、大変弱いわけでございます。  これも、私の友人ドイツマックス・プランク研究所客員教授で呼ばれていったときに、自分のお嬢さんを向こうに連れていって向こうの公立の小学校に入れたそうでございますが、わからないときに手を挙げると、先生がやってまいりまして、わからないところはどこだと言って、丁寧に教えてくれたそうであります。お父さんが物理学先生であった関係数学が大変よくできるお子さんだったのですが、二年ばかり向こうにいまして、東京の学校に帰ってきて、ドイツ学校と同じような調子で手を挙げた。ところが、一回や二回は先生が喜んで来て、どこがわからないのかと言って、丁寧に教えてくれたそうでありますが、再々手を挙げると、とうとう先生の方が怒り始めまして、おまえはうるさいから黙っておれというようなことになって、それ以来手を挙げたらいけないのだということになって、わからないところがだんだん多くなって学力も下がってきたというようなことを聞いたわけでございます。  ヨーロッパアメリカ教育日本教育の違いというのは、一人一人の個性とか人格を認めた教育をするのと、日本は十把一からげに一斉授業をするのとの差でございます。ちょうど今、臨教審でそういう問題が論議されているようでございますけれども、四十人学級実施を再開され、六十六年度までに計画が完成するのをきっかけにいたしまして、できるならばそういった一人一人に目の届く授業教育が実現できることを私、強く希望いたします。  私学助成でございますが、これは五十七年度は前年度同額で、五十八年度、五十九年度は減額の憂き目に遭いましたが、やっと今度、減額傾向に一応歯どめがかかったということを私学人の一人として大変うれしく思います。  我が国高等教育において、私学というのは学生数の七五%、八割近くの学生を引き受けているのでございまして、社会的に果たしている役割というものも国立大学と全く変わりないわけでございます。非常にラフな数字で申し上げますと、百校足らずの国立大学に約一兆円の支出をしているにもかかわらず、三百に余る私立大学のためには、今般の予算では二千四百三十九億円が支出されているわけでございます。こういった格差を少しでも縮めていくのがこれからの文教行政ではないかと思います。  時間がないのであと一つだけ申し上げますが、留学生事業というのは、二十一世紀の初頭までに欧米先進国に負けない留学生を引き受ける、今は一万二千人程度ですが、これを十万人程度にしたいという中曽根総理の提唱から、国費留学生を毎年二百三十人ずつふやすという計画が六十年度予算に盛られております。我が国先進国でありますけれども、ほかの先進国に比べると留学生の数が少ないというのは、日本語の問題もありますけれども、留学生を迎えるための受け入れ態勢が確立していないということもあるわけでございます。  私どもの女子大学にも現在留学生が十数名おります。中国留学生は、大変日本語が上手な留学生が、中国日本語の勉強をして日本にやってまいります。その中国留学生が私の部屋に訪ねてまいりまして、どうして日本の大学生は勉強しないのか、ということを真剣なまなざしで私に迫ってきたことがあります。中国だと退校処分になるような学生ばかりではないかというような指摘を受けまして、なるほどそういうこともあるかなと思いました。そういった非常にまじめなお隣の国から来ておる留学生が、日本学生諸君に与えている影響というのは大変なものがあるかと思います。  これは私の大学ではありませんけれども、もっと大きな共学の私立大学に、タイからまじめな女子学生が参りました。教室は一番前から座るものだと思って一番前に座っておりまして、授業が始まって気がついてみたら周りにだれ一人もいない、後ろの方を見たら、後ろの方にずっと並んでいて、前の方はだれもいなかったということでびっくりしまして、どうして日本学生後ろの席から座っていくのだろうか、というようなことを留学生が集まった会合で指摘されたことがありました。  留学生をたくさん迎えるということは日本教育を国際化することにもなると思いますので、十万人計画というのをぜひ実現していかれるよう御努力をお願いいたします。  以上で、私の発言を終わります。(拍手)
  4. 天野光晴

    天野委員長 どうもありがとうございました。  次に、八巻公述人にお願いいたします。
  5. 八巻節夫

    ○八巻公述人 ただいま御紹介にあずかりました八巻と申します。本日は、国会の場で意見発表の機会を与えていただきまして、ありがとうございます。  昭和六十年度の予算案につきまして、主として一般会計に的を絞りまして、全体の感想を初めに述べまして、次いで問題点を指摘して、その中で幾つかの提案をさせていただきます。  まず、今回の予算案を通観して感じたことでございますが、財政再建二年目の正念場予算として期待されていた割には、機械的削減が目立つ予算という印象を免れません。  この昭和六十年度予算は、言うまでもなく、財政再建目標年である昭和六十五年までの、ここ数年間の予算運営あり方を決するいわば方位決定予算であると思います。その場合、将来の日本をにらみながら、大きく三つの道が選択できると思います。  まず第一は、「増税なき財政再建」の目標を外す道です。つまり機械的な赤字削減をやめて、国民の種々の要求に柔軟に対応していくという道です。これは、公債残高GNPのある枠内にコントロールできさえすれば公債の増加それ自体を問題にしないという、いわば持続的経済成長路線だと思いますが、これが第一の道だと思います。  第二には、今回の予算案に近い姿かと思いますが、目標年次を厳守して、将来への増税含みはありますけれども、機械的な削減方式だけに再建の道を見出す方法であります。確かに機械的一律削減方式というのは、めり張りをつけた予算削減というのは政治的に非常に難しいことでありますので、そういった意味で、行政改革あるいは財政再建への不退転の姿勢を示すという意味では最善の方法だと思いますけれども、しかし、方法が機械的なだけに、長期的にさまざまなゆがみをもたらしはしないかという懸念が残ります。また、安定的な経済成長の実現を危うくさせて、かえって再建をおくらせるという危険も考えられます。  私は、以上の第一でもない、第二でもない、第三の中間的な道として、「増税なき財政再建」の目標はあくまで守りながら、その枠内で思い切った弾力的運用ができないものかどうかと考えまして、以下三点に絞りまして、問題点を指摘したいと思います。  まず第一点ですけれども、昭和六十年度の経済成長政府見通しは、名目六・一%、実質四・六%、それを内需主導で実現させるということを目指しているわけですけれども、一体それを何によって実現させようとしているのか、いま一つ浮かび上がってこないという点であります。昨年は、アメリカ経済拡大に支えられて、外需の寄与率実質成長率五・三%のうち一・三と大きかったわけですけれども、今回は〇・五と低く見積もっております。その分だけ内需に比重がかかるわけですけれども、そうしたねらいが予算のどこにあらわれているのか、探してみても積極的なものが見当たらないという点であります。私は、景気回復の兆しが見えてきた今こそ、日本経済内需主導型に転換する絶好のチャンスだと思うのです。  日本財政規模は、財政支出や税収の対GNP比を見ても、他国と比較してそんなに大き過ぎるということはございません。したがって、小さな政府それ自体を目指す必要はないと思います。ただ、その中身が非常に非弾力的、硬直的になっておるわけですね。それから不公平にもなっております。そして、日本はほかの国と比べて財政支出規模拡大テンポがかなり急速であること、さらに将来の高齢化社会を予想すると、肥大化する危険が確かにあります。したがって、今からそういった肥大化の芽を摘んでおくことが必要であろうかと思います。こういったところが財政再建の本来の意義かと存じます。  こうした体質改善から生まれた財源を一体どうするかということですけれども、今までそれはすべて公債削減に回してきたわけですけれども、それだけではなくて、民間の手に返すという行革減税も考えられてよいのではないか。景気拡大という観点からも、所得税住民税中心とする減税は決して財政再建をおくらせるものではないと思うのです。これはまた、行革とか景気という観点ばかりではなくて、昭和五十二年以来の納税人口が九百四十六万人も増加しておりますし、財政収入に占める所得税比率の急上昇、また課税最低限上昇率物価上昇率との格差給与上昇率に対して約二倍の上昇率であった租税負担率など、どの指標を見ても、これが実質増税であることは疑いようのない事実であります。しかも、目に見えない形でこのような増税が進んで我々がそれに巻き込まれるということは、国民にとってたえがたいことであります。負担体系にもまたバイアスをもたらすものであることに気づかなければならないと思うのです。したがって、サラリーマンの租税抵抗を和らげるためにも、私は、物価調整減税ぐらいは当然の権利として主張したいと思います。  もし、景気浮揚の点で所得税減税が期待できないとすれば、その何分の一かは、中小企業中心とする投資減税を考えるのも一案かと思います。現下の日本経済のように急速なテンポ技術が進んでいる状況では、陳腐化というものは極めて速く進むものと考えます。極端な話、六年ぐらいで税法上減価償却が考えられている場合でも、一年で陳腐化してしまえば企業は大打撃です。こうした事態がたくさん起こっているとすれば、減税形態はいろいろあろうかと思いますけれども、投資減税景気効果というものは大きいのではないかと思います。  次に、予算構成比の変化ですけれども、中でもダントツな国債費昭和五十年から六十年の十年間の平均伸び率は二五・七%と、まさに驚異的であります。こうした公債利払いのための経費予算のトップを占めて、そのために、なされなければならない重要施策犠牲にされているという姿は、財政学の理論の上からも最悪の予算の組み方になっていると思うのです。したがって、その解消は急務であり、最優先事項であります。  他方、その犠牲になった方に目を転じてみると、一般歳出の中でそれが大きかったのは中小企業対策費文教及び科学振興費公共事業関係費です。中小企業対策費を別にすれば、これらの文教及び科学振興費公共事業関係費は、社会保障関係費とか防衛関係費消費的支出に対して、いわゆる将来的効果を持つ支出です。この将来的支出というのは、西ドイツ学術諮問委員会の見解によると、個人や経済全体の発展条件を長期的観。点から下支えする重要な支出であります。西ドイツに限らずヨーロッパ全体に言えることですけれども、教育や住環境の豊かさに、日本など比べものにならない長い歴史と国民の強い共同体意識があります。中でも、特に公共事業関係費昭和五十五年から伸び率ゼロとかマイナスで来ているわけですから、そんなに長い間放置しておいてよいものかどうか、短期的な予算運営観点だけで縮小させてはならないのではないかと思うのです。これは将来にわたっても内需拡大の一大要因となると思われますが、財源難の折から、今年度は、特にその中でも投資効率の高いものに重点配分をして、生活関連の公共事業関係費をぜひとも増加させてほしいと思います。  やや技術的なことになりますけれども、地方への高率補助金の一律削減とか行革特例法の延長、減債基金への定率繰り入れ停止などによる地方や将来へのいわゆるツケ回しですけれども、苦しい財政事情の中での苦肉の策とは存じますけれども、やはり、特に後年度に対しては一体いかなる返済方法を持つのか明示すべきだと思います。また、後年度負担が一体どのぐらいになるのか、これは防衛関係費の国庫債務負担行為とか、それから継続費も含めてでありますけれども、国民によくわかる形で予算の表に出してほしいと思います。  以上、主として歳出面に関して見てきたわけですけれども、大蔵省主導のこれまでのシーリング方式から要求基準方式へ転換して、党主導のもとで予算を組んだわけですけれども、結果的に公債発行額を一兆円減額し、公債依存度も二二・二%と、昭和五十年度以来の最低水準まで押し下げることができたその努力というものは、大変であったろうと評価いたします。大蔵省の方もまた、やれやれと安堵の胸をなでおろされたんじゃないかと推察いたしますけれども、それにしても、もう少し観点を変えて味つけできなかったかというふうに思いまして、以上、問題点を指摘したわけです。  次に第二番目でありますが、予算委員会の国会質問の大きな焦点にもなりました直間比率見直しの問題であります。  まず初めに、定義の問題ですけれども、直接税と間接税の境界はそれほど明確ではないということです。例えば法人税というのは、定義の上では直接税になっているわけですけれども、その転嫁は明白ではありません。したがって仮説を立ててその負担を推測するほかはないのですけれども、どの仮説をとっても、一〇〇%法人利潤から負担するというものはありません。むしろ、商品価格に転嫁されて消費者が負担する割合が大きいと主張する学者が多いわけであります。ひどい場合には二四%も消費者に転嫁されるというのです。つまり、法人税を課するとその税金の一・三四倍だけ値上げされて、企業に課税したつもりでも、それが逆にそれを上回って消費者に回ってくるということを主張する学者もおります。こうしたわけで、法人税は実質効果の面では決して直接税ではありません。例えば、仮に法人税の半分を間接税として計算し直すと、六十年度の直接税四五・九%、間接税四四・二%になります。これは西ドイツのケースとそれほど変わりなくなってしまいます。他方、地方の事業税でありますが、これは収益課税ではなくて所得課税であるとする考え方があり、現にOECDの統計でありますと、昨年から日本の事業税は所得課税に分類されるようになりました。このように、直間比率という言葉そのものはその実質を失っているものと考えられます。  そこで、OECDの統計のように課税標準に注目して、所得課税中心か財・サービス課税中心かといった分類に統一する方法が考えられます。そのOECD統計を見てみますと、国税と地方税を合わせた国民にとっての実質負担で見てみますと、所得課税が全税収の六五%と、二十三カ国中三番目という高さです。日本の統計でのいわゆる直接税の比重も五十年から六・八ポイントも上昇しております。  このように、一つの課税標準をねらい撃ちにしたような姿になってくると、そこここに脱税とか租税回避現象が起こってまいります。外国に逃げたりアングラ化したり、あの手この手を使って高率課税を逃れようとするし、経済そのものの活性化をそぐ結果となり、思ったほどの税収を上げることができなくなる危険があります。このことはトーゴーサンとかタックスイロージョン問題として指摘されているところでありますけれども、しかし、だからといって、それが直ちに直間比率の見直しにつながるのかというと疑問であります。  その場合、最も問題とされるのは、直間比率の見直しは一体何のために必要なのかということです。確かに所得税中心として一般的な消費税を第二の租税とするのが世界の流れのようでありますけれども、それだけではその比率見直しの根拠にはなりません。全体の租税体系が不公平になっているから、それを是正するために直間比率を見直すのか、財源の増徴を図るのに現行所得税、法人税ではもはや限界であるから、新たな財源として大型間接税に注目するのか、この二つの立場は明確に分けて考えなければならないと思います。政府の問題意識はどうやらこの両者にあるようです。  しかし、その場合、強く主張しておかなければならないのは、絶対租税額の増加を図るには、正しい相対額が実現されていることがその大前提であるということです。つまり、現行所得税の不公平をそのままに放置して、新しい税、これも公平でなければなりませんけれども、この新しい税の導入による増税を図ることは許されないということです。  巷間、大型間接税の導入が盛んに論議されておりますけれども、その場合のモデルはEC型の付加価値税でありますが、学者の研究結果によりますと、これが必ずしも大きな逆進ではなくて、軽度の逆進か、せいぜい比例あるいは軽度の累進性さえ認められるとされております。もちろん分母に何をとるかということによって異なりますけれども、こうした主張にはやはり問題が隠されているようであります。つまり、これらは、EC諸国のように既に定着してしまっている付加価値税の負担率を問題にしているのであって、これから新たに導入されることによる従来パターンからの負担率の変化を問題にしているのではないという点であります。  付加価値税が新たに導入されれば、今まで所得税を払っていなかった人たちが、税率ゼロ水準から一挙に付加価値税率に巻き込まれてしまう、そういう重大な逆進部分にやはり考慮を払うべきであると思います。また、新しい税金が公平かどうかというのは、その税金によって得られた財源をどのような支出項目に充当するかという、そういう観点も考慮に入れなければなりません。政府は一般財源としてそれを用いることを考えているような節もあるようですけれども、その場合、正しい財源調達の方法というのは、担税能力を正しく反映したものでなければならず、間接税はその点でどうしても所得税に劣ります。現行所得税体系の累進度が実質的にかなりきつ過ぎる場合ならば、こうした新税導入もそれなりの役割を果たすでしょうけれども、累進度の浸食が問題とされている中で、どちらかというと安定的で硬直的な新税を導入するということは、長期において累進の浸食をさらに拡大する、そしてそれをビルトインしてしまうという、そういう可能性が強いと考えられます。累進性を特色とする現在の所得税をいかにして機能させるかということの方が、現在の直面する財政の本質問題だと考えます。  この所得税の公平化について一言だけ申し述べれば、イギリスの一九七九年の所得税の改革とか、それから今回のアメリカ財務省の改革案と同じように、現在の一〇・五%から七〇%までの十五段階という小刻みの累進の必要性は非常に小さくなっているから、これを思い切って五〇%くらいまでに最高税率を引き下げて、そして四から五段階くらいに簡素化を図ることによって、租税回避がずっと少なくなるのではないかという考えがあります。それが実質的に累進を以前よりも高める作用をもたらすならば、これも大きな方向として考えられてよいと思います。そして同時に、租税特別措置も全廃に近いほどに整理して、すっきりさせることが必要かと思われます。  現行の租税体系につきまして、あと一点述べたいと思います。それは、我が国の個別消費税の比重が他国と比較して高いということであります。個別的な間接税が新たな財源確保の手段として、その領域拡大の傾向が見られるわけですけれども、こうした小税目がふえるということは、租税体系そのものを複雑にして、ゆがめていくものだと思います。体系の簡素化という意味でも、こうした財源あさりはやはり避けるべきだと思います。  最後になりますが、第三点目ですけれども、受益者負担の適正化問題について、簡単に述べさしていただきたいと思います。  受益者負担といっても、公共料金ばかりではなくて、広義には自動車関係税などの目的税、それから社会保険負担金、さらには手数料、使用料、分担金等も含むものでありますが、こうした受益者負担金に財源確保の一つの道を見出すというのは、もちろんある限界内ではありますけれども、私は、財源調達法の一つ方法としてその可能性を考えてしかるべきだと思います。  私は、ここで、十九世紀後半の財政学者エミール・ザックスの言葉を思い起こします。つまり、各種の公共サービスが国民をとらえるとらえ方が異なるのであるから、それに応じて財源調達の方法も異なるべきであるという命題であります。ある公共サービスが他人よりも大きな特別の利益を与える場合に、その財源を、利益を受けない他人をも巻き込むような一般税で調達すれば、それはむしろ不公平であり、納税者の不満が出てまいります。納税者は、自分の負担の絶対額が重いというよりも、他人と比べて不公平だというところに何倍もの不平不満を持つものであります。  西ドイツには補充原則というものがありまして、主として地方財政についてですけれども、財源調達の必要が出てきた場合には、まず初めに受益者負担の可能性を考えます。それが限界だと判断すると、次にようやく一般の租税を考えまして、最後に公債方法を考えるというものであります。  しかし、この場合注意を要するのは、受益者負担といっても限度があるという点であります。生活保護だとか老人福祉というようなそういうものの根幹にかかわるような、必要最低限の所得再分配の聖域まで侵すようなことがあっては決してなりません。受益者負担は、それを超えた部分についてのみ限定すべきであると思います。  以上、三点にわたって述べてまいりましたが、全体的にいって、「増税なき財政再建」を前提にしても、公平化や効率化、さらに景気の面でも改善できる余地がまだ残っているのではないかという観点から、愚考いたしたものであります。一国民としての率直な感想でもありますので、御参考にしていただければ幸いでございます。  以上であります。どうもありがとうございました。(拍手)
  6. 天野光晴

    天野委員長 どうもありがとうございました。  次に、木村公述人にお願いいたします。
  7. 木村汎

    木村公述人 私は、外交、防衛問題に関して、特に防衛費をGNP一%にするのが適当かどうかという一点に絞って、私個人の御意見を申し上げます。  今から二百年も前に出版されたものとはいえ、人類の歴史が生んだ十冊の有名な古典と言われる中に入っておりますアダム・スミスの「国富論」の中に、私のちょうど申し上げたい考えが出ておりましたので、お聞き苦しいと思いますが、まずそれを読ましていただきます。それはたった一行から成る文章でございます。一行ずつ読ましていただきます。  「主権者の第一の義務、すなわちその社会を他の暴力や侵略から保護するという義務は、軍事力によってのみ果たし得る」、これが一行でございます。このアダム・スミスが二百年前に述べたことは、今日も残念ながら否定できないと思います。まず、私ども人間が神や仏でもない不完全な存在に生まれついているということ、と同時に、犬畜生のようなけものではない中間的な存在、つまり、努力すれば神や仏の地位にも近づき得るにもかかわらず、努力しなければ犬畜生にも劣る立場に落ちていくという、すなわち中間的な存在、あるいはもう少し難しい言葉を使いますと、問題的な存在に生まれついている以上、この言葉は否定できないと思います。俗っぽい言葉でございますが、石川五右衛門が「浜の真砂が尽きるとも、世に泥棒の種は尽きず」と言ったことが残念ながら当てはまるわけで、我々自身の中に、嫉妬だとか、人よりもいい生活がしたいとか、人のものをうらやむとかいう気持ちが潜んでいることは否定できません。  問題は、そのような不完全なものに生まれついた人間から構成される国家というものが、この地上に現在百四十存在するわけでございます。しかも、その百四十の国は、民族や宗教やイデオロギーやその他ばらばらのものから成っていて、必ずしも同質的ではございません。しかも、この地球上には国土や資源、エネルギーが限られているわけでございます。したがって、当然ここから争いや紛争やもめごとが生ずるのはいかんともしがたい、これは現実だと思います。  そして、一説によりますと、第二次世界大戦後、我々は二百ぐらいの戦争を数えておると申します。幸い核戦争はございませんが、そのくらいの戦争が起こっておる。ところが、幸い我が国は、戦後三十九年間、直接には少なくともこの戦争にかかわっておりません。それは、一つには我が国の平和憲法、それから国民の決意、それから四囲の状況日本にとってよかった、ラッキーであった、いろいろなことが言えると思いますが、そればかりではなく、やはり自衛隊という自助努力と日米安保条約という二本立ての防衛能力が、外部からの侵略を抑止するという機能を果たしたということはあるかと思います。  我々の分野は人間の関係を研究する学問でございますから、自然科学や理科と違いまして、こうやったらこうなるというふうに実験することはできませんし、許されません。したがっていろいろな説が生ずるわけでございますが、一つの手引といたしましては、過去の歴史から、どういう場合にはどういうことが起こったということを学ぶことができます。そこから若干学んで教訓を酌み上げることができます。そうするならば、例えばソ連という国は日本に完全に脅威を与えないのかということに関しても、やはり過去のソ連の行った行動を参考にせざるを得ません。そうしますと、先ほど私は、日本が戦後、つまり一九四五年の八月十五日に降伏をいたしましてから、日本は幸い戦争に少なくとも直接巻き込まれることはないと申し上げましたが、これはある意味で事実に相違しております。  と申しますのは、その直後であるために戦争中の一部である、あるいは戦後のどさくさと誤解される人もございますが、一九四五年八月十五日の終戦以後、ソ連は八月二十七、八日ごろから、私が住んでおりますところの近くのいわゆる北方領土に侵入、武力進駐してまいりまして、九月二日、三日にそれを完了して、その後その領土を自己のものとして占拠を続けております。つまり戦争終結後、日本が武装解除しました後、完全に武力、自衛力を持たなかった瞬間、そうしてしかも、米国が北方領土に進駐していなかったというために権力の真空が生じて、それを利用してソ連が入ってきたという歴史的な前例がございます。これを極限状況あるいは例外状況を判断するならば、ほとんどの戦争はやはりそういうことに関連した戦争だと言わざるを得なくなります。  こういうわけで、私は、防衛力を日本GNPの〇%にするということには、これは立派な一つの立場だと思いますけれども、私の現実主義的な分析から言いますと納得できません。  では、その次に、日本の防衛費を例えばGNPの何%にすべきかということに入っていきたいと思います。このハウマッチ・イズ・イナッフと英語で言われる問題は、世界の各国が悩んでおり、真剣に討議している問題でございますが、まず最初に、先ほど読み残したもう一行のアダム・スミスの言葉を述べたいと思います。  アダム・スミスは、先ほど述べましたところにちょうど続けまして、「軍事力を平時に準備するための経費、戦時に行使するための経費は、社会のさまざまな状態により、社会のさまざまの時期によって、甚だしく異なってくる」、こういうように述べております。何げない文章でございますが、私は、この問題を少し考えておりましたために、この一文を読みましたときに、はっと思い当たることがございました。  私なりにこのアダム・スミスの言葉をなるべく公平に解釈いたしますと、次の二つのことになります。  まず第一番目に、国際政治学とか政治学とかその他経済学は発達してきておりますが、私の知る限り、一国の軍事費や防衛費をこれこれにすべきだというふうに決める公式といいますか、一国の防衛費を算出する一義的な公式は、まだ発明されておりませんというか見出されておりません。それも当然でございまして、防衛費というのは、そのある国が置かれた国際状況、それからその時代の兵器の発達状況だとか、その国の地政学的な要件、あるいは同盟国にどのくらい依存できるか、あるいは同盟国にどのくらい責任分担すればよいか、あるいは近隣諸国にどのくらい恐怖を与えるであろうかという懸念、あるいはその国の置かれました経済、財政状態といったものの複合から成ります方程式だと思います。したがいまして、単純に、これだからこう、これをインプットすればこういう防衛費であるべきだという、アウトプットが出てくるという単純な計算ではありません。つまり、ダイナミックに総合的にすべてのファクターを考慮して、結局のところはその国の主権者が、これであれば外国からの侵略の脅威がなく、その国の安全が全うできるだろうと最終的には考えるというところ、平凡なことになってくるわけでございます。  第二に、アダム・スミスで思い出しますことは、そのとおり言葉に書いておりますように、第一点と関連しまして、防衛費とは変わるものだということでございます。社会や国家の置かれた状態と時代によって変化するものだということでございます。したがって、ある時代にGNPの一%が適当と判断されましても、私がこれまで述べたこと、アダム・スミスの引用から、事の性質上、それで永遠によいということにはなりません。状況の変化に合わせてふやしたり、また減らしたりする努力も当然あるべき筋合いのものでございます。もしそれを怠りまして、ただGNP一%以内ということを神聖化し、物神崇拝化するということは一種の、ちょっと強い言葉でございますが、自己目的化しておりまして、それは楽ではございますけれども知的な怠慢だと思います。のみならず、これは逆さまの議論だと思います。  GNP一%ということが先に出る議論よりも、我が国をいかに守るかという本来の目的、または前提の議論が十分なされてから、GNP一%以内とかそれ以下とか以上だということが出てくるわけであって、それ以前に議論していただきたいのは、本当に日本の安全保障に対する脅威というものがあるのか、あるいは日本の自助努力と同盟関係による補完的な努力とそれから世界の究極の平和という、この三つの安全保障努力をどのように並立させていくかとか、あるいは隣国に脅威を与えないで、かつ、自国の安全を全うするというジレンマをどう解いたらいいかという、こういうむしろ基本問題、根本問題こそが議論されるべきでございます。したがって、にもかかわらず、GNPの何%が適当であるかということを先に決めて、それで適当であろうというのは一種の妥協でございまして、理論的に言えば逆さまの議論でございます。例えて言うならば、足の長さを先にはかってズボンの長さを決めるべきところを、ズボンの長さを先に決めてそれに合わせて足を切るというような、論理の倒錯だと存じます。  それでは、おまえの専門であるソ連の脅威はどう考えるかということを、残りの時間をちょうだいして一言述べたいと思います。  果たしてソ連は、日本の安全保障にとって脅威でしょうか。普通よく言われますのは、脅威というのは能力と意図から成る、あるいは能力掛ける意図だと言われております。仮にこの通説的な見解に従いますと、能力が増大しているということは何人も疑い得ない事実だと思います。  例えば、アメリカのジョージ・ケナンというソ連問題の最高峰は、最近ハト派に転じておりますが、この方自身も、私どもが英語の雑誌、論文、書物を読む限り、ソ連が軍事増強していることに関しては何の疑いも持っておりません。恐らく、この軍事というハードウエアの方は、最近の技術の発達によって、衛星によって映したりして数えたりしまして、ソ連のICBMとか戦車の数はかなり正確な数がつかめるからだと思います。そして、ソ連自身も軍事増強している事実は隠しておりませんで、例えば今年度、八五年の予算は前年度の国防予算を一一・七八%増大しております。CIAはこれは一一−一三%に日本風に言うとなる、あるいは米国国防省情報局は一四−一六%と言っておることも申し添えます。  問題は意図でございまして、これははっきり言ってだれもわからないわけでございます。私どもの仲間及びどのような研究者に、ソ連の意図はどうであろうかと聞きましても、これは心理的な問題で、わかるはずがない。クレムリンの首脳自身、自分がその次の瞬間にどういう行動に出るかは、極端に言えばわからないわけでございます。  一つには、私はその日本の通説を変形いたしまして、なぜわからないかといいますと、意図というのは状況の関数だからだと思います。状況が変われば意図というのは変わってくるからでございます。状況次第だからだと思います。  そして、ソ連の歴史を振り返ってみますと、ソ連という国がマルクス・レーニン主義だとかそのほかのイデオロギーだとかという大きな目標を持って、それの実現に着々と進んできている国だと解するよりも、事外交問題に関しましては、むしろかなり状況主義的に動いてきた国であるというふうに歴史は証明していると思います。  もう一度言いかえますと、ソ連の外交行動様式のパターンを過去に先例を求めて要約いたしますと、一定のグランドデザイン、大構想やプランに基づいて行動してきているのではなくて、比較的機会主義的、状況主義的な体質の国だと言うことができると思います。したがって、ソ連を一概に防衛的な国であるとか攻撃的な国であると言うのは不毛な議論でございまして、どういうときに防衛的で、どういうときに攻撃的な行為をとったかというきめの細かな分析が必要でございます。  ソ連は、大抵の場合は防衛的な国でございます。用心深い、慎重な体質を持って、費用対効果を考えます。しかしながら、ごくわずかな瞬間でございますが、一たん相手にすきがあったりして自分の領土を拡張できると思いますと、勇猛果敢に攻撃に出る国でもある、攻撃的な国でもあるということは歴史的事実でございます。これはロシアの時代からそうでございまして、ロシアの国はもともとキエフやモスクワの国を中心として発達してきた国でございますが、現在世界で最大の版図を持つ国になったのは最近でございまして、昔はそれほど大きな国ではなかったわけでございます。  そうして、三番目のソ連の特徴というのは、一たん拡張した領土や一たん手に入れた獲得物、社会主義の獲得物は決して手放さないということでございます。ロシア皇帝のニコライ一世という方は、こういうことを述べました。「一たん露国の国旗を立てたる以上、掲げたる以上は、決してこれを撤去すべからず」、これは現在もウラジオストクのゲンナージ・ネヴォリスゴイ、東方地方の探検家の提督の記念碑に刻まれた言葉でございます。  そこで、私は、形容矛盾でございますけれども、ソ連及びロシアの行動様式を防衛的侵略主義と呼んでいるわけでございます。防衛主義だけではおさまり切れない、侵略主義だけではおさまり切れない、一たん侵略したものを既成事実として防衛するということでございます。例えば北方領土占拠の例はこれを示しておると思います。  また、別の例えで申しますと、アメーバ的な膨張を遂げる国だと言うことができます。アメーバというのは、皆様、物理あるいは化学の時間を思い出されると思いますが、ほうっておけば必ず膨張してまいります。ところが、非常に強い抵抗がありますと、その抵抗を乗り越えられるかどうかをしばらくの間試してみます。せめぎ合いが続きます。しかしながら、その抵抗が自分の力を超すと思われるならば、あきらめて別の方向に膨張していく。こういうアメーバ的な膨張というのが、ソ連の対外行動様式を一番よくあらわすものではないかと思います。これはあくまで比喩でございますが……。  それから、現実にも北方領土を占拠した例はすでに述べましたが、大韓航空機撃墜事件などが示しておりますように、みずからは領空侵犯をしておりますが、相手、それ以外の国が領空侵犯した場合は、国内法を国際法に優先させて、問答無用とばかりに力を使うという体質は現在、残念ながら残っていると認めざるを得ないところでございます。これがソ連のまた一つの性質でございます。  もう一つの性格には、米国とは正面対決を避けるという戦後の、あるいはソ連になりましてからの伝統がございます。これは矛盾しているのでも何でもなくて、自分よりも力が弱い国には出ていくけれども、力が強い国、例えば米国とは正面直接対決を避けるということで、キューバの危機のときにあらわれておりますし、最近宇宙兵器をめぐる交渉に乗り出してきたことも、そのことが関係しておると思います。  時間が参りましたので、最後に今までのところをまとめて、終わりたいと思います。  まず、現在の人間の不確実性に基づく世界の現段階においては、完全には争い事は否定できません。そしてなおかつ、現在の世界の発展段階において、世界政府といったものが形成されておりません。また、国際連合というものも力に限界がございます。国際司法裁判所の力も弱うございます。例えば北方領土問題を提訴しようとされましても、相手側のソ連が受訴といいますか、日本と並んで受けて立つ気がなければ、国際司法裁判所は受け付けることができないという状態でございます。また、他方におきましては、世界の国はどの国もやはり自分の国の国益、ナショナルインタレストというものを中心に政治を決めてきております。これはソ連ばかりではございません。アメリカもそうでございますし、日本もそうでございますし、ドイツもイギリスも、世界のどの国もそうだと思います。そして、これは当然なことであると思います。  その次に、ソ連は現状においては残念ながら力の信奉国でございまして、ほとんどの場合は防衛的と言えますが、ごく例外的と見えるかどうかわかりませんが、すきを見せれば、あるいはチャンスを向こうに与えればやはり膨張してくる、襲いかかってくる、躍りかかってくる攻撃的な側面を完全に捨て切ったとは、我々判断できない国でございます。また、他の国とは異なりまして、一たんソ連に既得権益を許してしまいますと、もう話し合いは非常に難しくなる。例えば沖縄返還と北方領土の返還とを比べていただきたいと思います。そして、知らず知らず、その現状維持を固定的にしようと努力する国だと認めざるを得ません。  このように考えてまいりますと、日本の安全保障は、どの国もそうでございますが、これは国際政治学上かなり有名な理論でございます。三つの柱からいかなる国の安全保障も成り立つ。まず自分が守るということ。自分が守る、自助努力が大事。二番目に、自分の力が足りない場合は、主義主張を同じくする国と手を携えて守るという同盟関係をやる。それから三番目には、世界を戦争のない国際秩序に変えるという、この三つの努力がどの国の安全保障をも達成する三本柱でございます。  ところが、一番最後に申しました世界を本当に国際的な平和な秩序に持っていくということは、現状では、努力しておりますが、それだけでは十分でないというわけで、あと二つが問題になります。そうしますと、その次に同盟関係と言われているもの、つまり主義主張、価値概念を共通する国との同盟、これは世界があらゆることで現在までやってきているわけで、ソ連も、ワルシャワ条約機構軍、西側NATOとかいろいろなことでやってきておるわけでございますが、日本の場合、日米安保条約だと存じます。  そうしますと、日米安保条約の有効性がどのくらい全面的に今後も信頼できるかということでございますが、この前提がもし仮に疑念が抱かれるような場合、これは日本の西側の同盟国の一員としての分担といったことが問題になってくると思います。そういうわけで、自助努力と相まちまして、これは自助努力とも密接な関係がありまして、同盟国との関係ということも問題になってきます。  そういうわけで、私は率直に言って、GNPの一%以内にすべきなのか、以下にすべきなのか、以上にすべきなのか、それについて具体的な数字を提起するほど、そのことだけを朝から晩まで研究している研究家ではございませんが、ただし、全体で申し上げましたのは、GNP問題はそのような角度からとらえるのが正しいのではなかろうかという一私見でございます。  どうもありがとうございました。(拍手)
  8. 天野光晴

    天野委員長 どうもありがとうございました。     —————————————
  9. 天野光晴

    天野委員長 これより公述人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。月原茂皓君。
  10. 月原茂皓

    月原委員 それでは、私から始めさせていただきます。  きょうは大変お忙しいところ、またそれぞれの立場から、非常に貴重な御意見をお聞かせいただきまして感謝しております。本当にありがとうございました。  それでは、まず加藤公述人にお尋ねいたします。  加藤先生は私大の先生をされておって、今、私学助成のことについても、これから十八歳人口、ことしは非常に少ないというか維持されておるけれども、来年から三十万人以上ふえていくんだ、このようなお話で、私学日本教育が期待しているところ非常に大きいというお話であります。  今、先生のおっしゃるとおり、現在の文部省の高等教育整備計画を見ましても、将来も三五%の進学率を維持しても八〇%は私学に依存せざるを得ない、このように言われているわけであります。そのことに関してもう少し具体的に、今後、今減額をストップした、これも自民党としては精いっぱいのことでございましたが、政府として精いっぱいのことではございましたが、これからのことを考えた場合に、私学助成についてもっとこういうことを重点的にやるべきだという点があれば、御意見をお伺いしたい、このように思います。
  11. 加藤地三

    加藤公述人 お答えいたします。  私学助成の今後のことでございますが、今は学生数に応じて、あるいはまた教員の数に応じた一律助成でございますけれども、将来はもっと私学の特色をさらに伸ばすという、傾斜をかけた助成の方に行くべきではないかと私は思うわけでございます。現在でも特別な研究のために予算が出ておりますけれども、一律に私学を助成いたしますと、余り助成金が欲しくないような私学にも、またもっと本当に血の出るような思いで援助を待っている私学にも、同じ率に基づく助成しか参りませんという、何といいますか悪平等のようなものがございますので、私学人が集まりまして、これは今文部省ではない第三者機関が審査することになっておりますが、もう少し私学人も入りました公正な審議機関を置きまして、どこにどれだけの規模の助成をするかということを決定するような、私学に対して影響力があるような第三者機関が欲しいということをかねてから思っているわけでございます。  なお、私学の中には大変皆様方に御迷惑をかけるような不心得な者がございますが、これは私学人の中の自浄努力といいますかそういうものによって、国民のひんしゅくを買うような行動をしないようにお互いが監視し合っていく体制というものがこれまでなかったわけでございますが、これからは、協会からの除名その他の方法をもって、自浄努力というものを強く喚起していくべきだと私は信じております。
  12. 月原茂皓

    月原委員 今のお話、配分について私学の方も入れて重点的にやる、そして私学自身も、国民の税金で援助される以上は、監視体制を持って自浄作用を持たなければならない、この意見、もっともだと思います。  次に、先生がお話しになりました四十人学級、これがいよいよ動き出したわけであります。非常に厳しい財政事情の中でこれに踏み切ったわけでございますが、私、昨日、私の郷里の方の文化祭が行われておったので、一、二の学校を見てまいったのですが、その小学校に行きまして、もとの先生が、今加藤先生のおっしゃったような、要するに生徒が余り少なくなってくると元気がなくなる、「はい、はい」という声がなくなるので、やはりある程度数がいないといかぬですなという、これは年とった先生の方でございます。しかしまた、近くの幼稚園に行くと、次に進学するのが十八人だ、そこの学校は一学年一学級のところでございますからそういうふうになってくる。そういうことを考えると、現在の四十人からもっと少なくしていく努力もしなければならない、こういうふうに先生おっしゃっているわけでございますが、先生のところも教員養成の課程を持っておられると思いますが、その教員養成とのバランスの問題が出てくると思うのです。  これからどんどん生徒数が減ってくる。ある一つの水準で学級を維持していくとするならば、教師が余ってくる。教師になれもしないのに教育課程に行くというようなことが起こるのも、これまた高校を出て新しい意欲に燃える人に非常に失礼なことになるんじゃないか。だから、教員養成の今後の課題ということをお尋ねしたいと思います。  そしてまた、その中にあって、今、先生の中にサゼスチョンがあったと思いますが、今までは、多数の生徒を相手にした授業方法、そういうものが教員養成課程において主力であったと思います。今小さい学級になっていけばいくほど、今までのような教育課程の教え方で、果たしていい先生が、それに適した先生ができるのだろうかという疑問も私、また持ったわけでございますが、今後の小中の教員養成課程の規模の問題とそしてその課程の内容について、先生はどのようにお考えになっておるか、お聞かせ願いたい、このように思います。
  13. 加藤地三

    加藤公述人 お答えいたします。  教員養成の問題、大変難しい問題がたくさんございます。今、先生が御指摘になったように、多数の子供を教える技術は持っていても、少数の子供になると戸惑いを受けるからどうするべきかという問題がございます。  これは、今大学で教員養成を受け持っておりますけれども、大学の教員養成の中身を見ますと、すぐれた教師になるための基礎的な知見を蓄積するということは確かにやっておりますけれども、具体的に教壇に立った場合に、黒板にどういう字を書くべきか、どのくらいの大きさの字を書くべきかとか、あるいは黒板をどの程度使用するかとか、そのほかの視聴覚の器材をどのように活用して授業を豊かなものにするかというような、非常にきめの細かな教育というのは残念ながらやってない実情でございますので、今の大学が担当しております、主として中学校、高等学校の教員養成に携わっております大学が多いわけでございますけれども、そういう昔の師範学校で行っていたような、きめの細かな教員養成の中身をやはりこれからの教員養成の中に盛り込んでいかないと、ただ意欲だけ余っていて、教育技術が不足する教員が現実として教壇に立つということにもなるのではないかと思います。  先生、先ほど学校規模のことをおっしゃいましたけれども、日本では大体千人くらいが適正規模ということになっておりますが、イギリスの学校は大体四百人くらいを適正な規模にいたしまして、四百人を超えると新しい小学校をつくるというようなことをやっておるようでございます。つまり、校長先生が全部の子供たちを把握できる数というのは大体三百人から四百人くらいであろうというようなことで、小さな学校をたくさんつくるということをやっておりますが、日本は、戦後大きい学校をつくるという方向で行政を進めてきました。子供が少なくなると学校を合併して、さらにまた中規模、大規模学校をつくるというような方針だったのですけれども、その点を見直して小さな学校になったことはいいことだというようなことで、教育を大切にするという観点を導入するべきだと私は考えておるわけでございます。
  14. 月原茂皓

    月原委員 それでは次に、八巻先生にお尋ねいたします。  先生の現在の財政問題に対する見方は大変鋭く、参考になったわけでございますが、先生自身、率直なところ、国の予算はこれ以上増額しなければならないかどうか。そうなれば当然新しい財源を調達しなければならないことになるわけであります。そしてまた、既に借りた金があるわけでございますから、ことしも十兆円余り返しているわけでございますが、返さなければならない。そういうことを考えたときに、非常に厳しい状況の中でございますが、先生自身、これからの国民の負担、どういう形であるかは別として、一般的に負担はふえる方向にあるのかどうか、その公平とかいろいろな問題があると思いますが、単純にその枠をふやさなければならないかどうかという一点に絞って教えていただきたい、このように思います。
  15. 八巻節夫

    ○八巻公述人 お答えいたします。  今御質問がありましたように、今後日本の将来を踏まえたときに、果たして大きな政府というか、将来の高齢化社会を踏まえまして、財源確保のために増額を図っていかなければいけないのではないか、そこをどういうふうに考えるかということでありますけれども、確かに、先ほど私も述べましたように、日本GNPに占める財政支出あるいはGNPに占める租税収入、いずれをとりましても決して大きくないわけです。しかし、急速な増加の可能性がある、そこをどうするかということでありまして、これは確かに、今後の負担体系を考えたときに、ただ一つ所得額だけに課税標準を求める形が今後正しいかどうかということにかかわる問題だと思うのです。ただ一つだけの課税標準にいった場合、どうしても漏れというかイロージョンが起こってくる。そこで、もっと消費的な、あるいは財産とかそういうものに課税標準を求めるべきである、そこにバランスを図るべきであるというのが大体直間比率の現在の論議だと思うのです。  しかし、その場合大事なのは、公共財という概念がございますけれども、その公共財が、一体今後どのような公共財がふえていくかということにかかわることだと思うのです。その場合に、純粋な公共財というものであれば、これは国民全体に同じような均等の利益を与えて、決して差を設けることができないという、例えば国防であるとか治安の維持であるとかそういう公共財の場合には、確かに一般税としての所得税というのは最も正しい調達方法になると思うのです。昔は確かに、こういう公共財的な、純粋公共財の分野が政府の全体の政策の中で大きかったわけですけれども、しかし、近年だんだんクァジ、準ですね、クァジの公共財の領域がふえている。その場合に、クァジの公共財をどのように調達するかということになりますと、必ずしも一般税が正しいことにならなくなるわけです。そこを受益者、利益を課税標準とした、非常に利益の捕捉が難しいですけれども、間接的に、例えば道路ならば道路の利益を受けているのはマイカーを持っている者であるとか、あるいはマイカーを持っているにしても道路の使用量はガソリンの消費量に比例するとか、そういった間接的なものをそういう形でとらえる、そういうことで、必ずしも、一方的に所得税あるいはそれがだめならば消費を課税標準にすべきであるというような一般税だけの拡大というものは、やはり問題じゃないかというふうに思います。  以上でございます。
  16. 月原茂皓

    月原委員 それでは、木村公述人にお尋ねします。  木村先生はアダム・スミスを引用されて、一%の問題、余り合理的な問題じゃないというお話でございます。私、木村先生に関連してお尋ねしたいのですが、今米ソ交渉が行われておる。ソ連がなぜこのような交渉に出てきたのかということ、そしてまた、これを契機にしてデタントが来るんだというような、非常に希望的な観測が日本に流れておる。この点について、ソ連のいろいろな思想とかを通じての社会構造を研究されておる先生から見て、その点どのようにお考えになっておるか、お教え願いたいと思います。
  17. 木村汎

    木村公述人 お答えいたします。  米ソ交渉に関して二つ御質問があったと存じます。一、なぜソ連が米ソ交渉に出てきたのか。第二、このことによって日本の一部ではデタントが来るかのように期待する向きもあるが、おまえはどう思うか。  私は、まず第一点、ソ連がジュネーブから一応引き揚げましたにもかかわらず再び出てまいりました最大の理由は、やはりソ連の経済が悪い、もっと言うと、ソ連自身が六十七歳で、人間に例えれば少し下り坂になっているところに、指導者が高齢化しておって、いろいろさまざまな諸問題が噴出してきておりまして、ソ連自身が少し病めると言うとおかしいのですが、少し弱ってきておる。その中でも一番弱ってきておる問題は経済の問題、その中でもさらに弱っておる問題は科学技術でございます。  ちょっと御説明が長くなるかもわかりませんが、私の考え方では、ソ連型社会主義というのはイノベーションには向かない体質を本来的に内蔵しておる。もっと言いますならば、これは農業国が工業国へと工業化していく時期にはある程度有効な方法だと思います。つまり、中央で計画を立ててかなり強力に国民を労働へと向けるというような体質は、後進国を一挙に先進工業国にするのには向いていると思いますが、一たん先進国のレベルに到達しましたソ連が、今後、脱工業化社会と申しますか、別の言葉で言うと情報化社会に向かっていくと、情報をコントロールしておりますために、ハイテクノロジーの分野で非常におくれが目立ってくる。  例えて言うと、ソ連というのは重たい物をつくったりするには適当な国でございます、重さで仕事の成績を決めますから。ですから、石炭をどのぐらい掘り出したとか鉄をどのぐらいつくったという一代前の工業化の時代には、資源が豊かということもあって強みを発揮して、ある意味ではすばらしいパフォーマンスをした国でございますが、最近のように軽薄短小といいますか、小さくて軽くて薄くてエネルギーを食わない物をつくろうという点になりますと、あのような、大男総身に知恵が回りかねるといいますか、すべて大きいものほどいいという国では価値観を変えていかなければいけないし、情報を開放しないと、ハードの方は外国から買ってきて習ってもよろしゅうございますけれども、ソフトの方は、これが大事なのでございますが、それを動かすことが国民とか一般に期待できない。そういうわけで、ソ連は科学技術に弱ってまいります。  そうしますと、話が脱線したようでございますが、もとに戻りまして、宇宙兵器の時代になりますと、そういう小さなコンピューターだとか、そういうようなものの兵器に占める割合が圧倒的に多くなって、現在のところ、ソ連はそこにもう手をつけておりますけれども、アメリカに比べますと弱いということで、それが一つ、今度米ソ交渉に出てきたことの最大の原因であると思います。そのほかに、グロムイコ外務大臣の路線が強くなってきたとか、細かいことを申し上げると切りがございませんが、そういうことです。  そこで、二番目の御質問に移りまして、それでは新冷戦と言われたような時代が再び緊張緩和、デタントの時代に戻ると考えていいかというと、私はこの二つの面で特に楽観かることはできないと思います。  まず第一に、アメリカもソ連もこの交渉に出てきましたのは、それぞれの思惑で出てきて、その思惑が一致していないわけですね。これを同床異夢といいますか、わかりやすく言いますと、ソ連の方は宇宙戦争を怖がっている。SDI、アメリカの戦略防衛構想を、今おくれているので、怖がって出てきたわけです。それに対してアメリカは、中断しております中距離核ミサイル交渉、INF交渉、それから戦略ミサイル交渉、START交渉を考えているわけで、この妥協の上に成り立ったわけですね。その妥協点がいわゆるアンブレラ方式という包括交渉、何でも交渉しようということで出てきたわけですが、その出てきたところまではいいんですが、もう少し詰めの交渉が進んでいきますと、それぞれが考えている、重きを置いている兵器交渉の内容が違いますから、これからぎくしゃくしていく。それからまた、アメリカにとりましても、同盟国との相談だとか、例えばSDIになりますと、イギリスやフランスは、アメリカばかり守られてこちらの方は守られるのだろうか、そういうヨーロッパの懸念も出てきますから、西側の方も、アメリカ側も足並みがまとまらないで、その話し合いに時間がとられます。  それからもう一つは、これはちょっと間違っているかもわかりませんが、今までのソ連の交渉から言うと、ソ連はこれで参ったと言って出てくるのじゃなくて、一種の時間稼ぎ、自分たちが宇宙兵器でも追いつくまでに交渉を延ばせば、その間に努力して少し追いつけるのじゃないか、そういう意味でも、早くまとまってしまうと自分に不利な方にまとまりますので、時間を稼ぐということで、これは長工場、残念ですけれども長工場になるという見方をしております。
  18. 月原茂皓

    月原委員 どうも、短い時間で貴重な意見、ありがとうございました。  これで、私の質問を終わります。
  19. 天野光晴

    天野委員長 次に、稲葉誠一君。
  20. 稲葉誠一

    ○稲葉(誠)委員 八巻先生にお尋ねをいたすわけでございますけれども、お話がございました減税の問題で、所得税なり住民税というものについて実質的な増税が進んでおる。これはそのとおりでございまして、殊にまた社会保険料が上がりますし、公共料金もずっとほとんど上がってくるわけですから、特にサラリーマン層にとって非常に大きな影響があるということはそのとおりでございまして、私どもも減税をしなければならないということを強く主張いたしておるわけですけれども、そうすると、その減税の幅の問題ですね、どの程度減税の幅が妥当だというふうにお考えなのでしょうか。そしてまた、それについての財源をどういうふうにしたらいいかというふうにお考えなんでしょうか。お聞かせを願えればと思います。
  21. 八巻節夫

    ○八巻公述人 それではお答えいたします。  所得税住民税減税の幅でございますけれども、これは非常に難しい点でありまして、現在の景気の見通しをどういうふうに見ていくかということにかかわることでございますが、どう見ても、消費の伸びが期待されたほどではないのではないかというふうに思われます。     〔委員長退席、大西委員長代理着席〕  政府の見通しですと、実質四・六%という実質成長率でありますけれども、そのうち外需に〇・五ですね。残りを内需に考えておるわけです。その場合に、一体内需のどこに重点を置いているかということでありますが、それは恐らく投資、民間の設備投資の伸びに期待を抱いているのではないかということで、その消費の伸びについては一体どのくらいかということになると思うのです。その場合に、私の考えですと、四・六%も難しいのではないかというふうに思われます。四%台に乗るか乗らないかというような非常に予測の難しいところでありますが、そんなところで、消費の伸びが非常に悪いであろうということがやはり内需存在を難しくするのではないかというふうに思われます。  そうしますと、減税というものはできるだけ多ければ多いほどよいということになるわけですけれども、しかし、減税の仕方にもかかわることでございますが、例えば教育であるとかあるいは住宅ローンであるとか、サラリーマンの特に中堅層が非常に負担が、これも強制的な負担と同じであります、もう租税に近いわけですけれども、その部分が多くなっていますので、そういったことの減税を考えるか、あるいは課税最低限を引き上げるか、あるいは負担額にバイアスのある六百万とか八百万の年収の方たちに焦点を当てるか、それによって異なりますが、課税最低限を少なくとも一兆円ぐらい減税することの方が幅広い減税になるのではないか。  財源についてはやはり難しいところでありますが、この効果を考えますと、自然増収分と、それから若干の不公平な部分の是正による部分でやるというふうに考えます。  以上です。
  22. 稲葉誠一

    ○稲葉(誠)委員 それから、今の点で議論になっておりますことは、例えば六百万から八百万の層のところに減税の焦点を当てるかどうかという点、それは大蔵省側はむしろ八百万から一千万ぐらいのところを中心にとよく言うのです。私どもはもっと下の層のところを言っているところでして、そこのところがまだ議論が煮詰まっていないところだと思っております。  それから、国債費が非常に多くて、それで一般歳出の中での幅が少なくなっているわけですね。しかし、考えてみると、これは捨金だ借金だという宣伝ばかりされておりますけれども、同時にこれは国民の持っておる資産でもあるわけですから、国債費というものについてそう強く考えなくてもいいじゃないかという意見も近ごろ相当出ているわけですね。貯蓄率が非常に高い、そしてまた、そのことからしてインフレになる可能性も日本の場合は非常に少ないということになれば、国債費の重圧ということをそう重く見なくてもいいのではないかという意見もあるのですけれども、その辺のところについてはどういうふうにお考えでございましょうか。だから、日本の今の財政の中において、国債によって充当するかあるいは税によって充当するかということの比較というか検討をどういうふうに見ていくかというところが一つのポイントになってくるのではないか、こう思うのですけれども、どうなんでしょうか、その点。
  23. 八巻節夫

    ○八巻公述人 それではお答えいたします。  国債費の増加ですけれども、国債費の増加は、これは国債そのものが個人の資産であるので、国民の資産でありますので、そんなに深刻視しなくてもよろしいのではないかという考えがあるということでございますが、この国債費実質的な内容というのはもちろん大半が利子の支払いでありまして、国債利子の支払いというのは、まあほかの形態で貯蓄するか、資産運用するか、国債を買うかということでありますので、どちらかというと貯蓄ができる余裕のある方たちであると思うのですね。その場合に、それが、国民の全般を網羅するような国の税金でもって、そういったどちらかというと高所得という方たちに果たして十兆円に近い所得を移転させていいものかどうかという問題、これはかなり大々的な所得の逆再分配が起こってくるのではないかというふうに思われます。したがって、やはりそういった点からも、国債費の増加は、財政の硬直化はもとよりのこと、やはり問題ではないかと思います。  それから、国債で賄うべきか租税で賄うべきかということの問題については、非常に難しい点でありまして、国債は先ほどの理由からできるだけ引き下げるべきであるというこの方向は、絶対外してはならないと思います。ですから、その歯どめを守った上で、その上で将来の方向としての増税というものは当然考えられてよろしいのではないかと思います。
  24. 稲葉誠一

    ○稲葉(誠)委員 今のあれで、どういう層の人が一体国債を持っているのだろうかということの実証的な分析をやってみてくれないかという話を大蔵省にしたことがあるのです。大蔵省はそれはできないというわけですね。実際に今の状況の中ではできないんだということなんです。  ただ、大蔵省が出しております「日本財政」の中で、今おっしゃった富の再分配ということの議論で、これは国債を買えない人から取り上げた一般の税金で国債を持っている人に払われるわけですから、そこでまた富の再分配というものが行われるんだというようなことが「日本財政」の中でも言っているわけですけれども、常識的にはそう考えられるのですけれども、具体的にどこへどういうふうに移っていくんだろうかという分析がなかなかできないわけなんですよ。しかし、私どもは、それは常識的には今おっしゃったことはよくわかるわけです。     〔大西委員長代理退席、委員長着席〕  それから、お話がありました法人税の転嫁の問題、これは直間比率の見直しの問題で、何が直接税か、何が間接税かというのは確かに難しいわけなんです。では、間接税というものは何かというと、これこれが直接税で、直接税でないものが間接税であるという答えが返ってくるだけでして、殊に法人税の転嫁の問題は非常に難しいので、理論だけではいかないし、これまた実証的な分析というものは絶対といっていいくらいできないわけなんですね。それだものですから、どうも結論がはっきりしないのです。  ところで、ちょっと先生の御意見としてお聞きしたいのは、今申し上げました何のためにやるかということについて、租税体系の見直しのためにやるんだというのは政府税調の考え方ですね、政府税調としてはそれを出すわけですから。それから党の税調としての考え方は、それよりもむしろ、財源取得という考え方から、自民党の税調はそこを中心に考えておるわけですね。  私も前に、一般消費税が五十四年ですか、あのときに失敗しました原因についていろいろここでも聞いたのですけれども、なかなか答えないのですね。そうすると、福田幸弘さんの書いたものの中に出てきているのは、それは財源の調達だ、増収だということを正面に出したために失敗したのと、それから、あのときに、俗に言う国民に十分に知らせることが足りなかったのだ、そのことで失敗したんだからというふうなことが出ておるわけなんですね。  そこから考えられてまいりますのは、いわゆる一般消費税というものは国会決議でやれなくなった。そうすると、それと同じようなものであって、ただインボイスが日本の場合はないものを、EC型の場合はインボイスが多段階であるわけですが、それを今政府側は考えているようなところが出てきているわけですけれども、そのことはもちろんはっきり言わないわけです。  そこで、私がお尋ねをいたしたいのは、そのEC型付加価値税と日本で禁止というかやらないことになりました一般消費税、インボイスがないものですね。これと一体どこが本質的にどう違うのかということなんです。片方が否定されて、それで片方は残って、それが頭の中にある。これを、やるとは言いませんけれども、やりたいというわけです。一般消費税のときの数字を聞きましたら、今だと五%掛けると六兆円入ると言うのです。ですから、そこら辺のところになってきて、そのときにそれをやって、一方において大幅な減税をやって、そこである程度直間比率の見直しという形をそこでもってやろう。これは恐らく、来年選挙がありますから選挙が終わってから具体化してくるというようなことではなかろうかと考えるのですが、私のお聞きしたいのは、今言ったEC型付加価値税と前にあれされました一般消費税と一体どこがどう違うんだろうか、片方が否定されたのに片方が否定されないで残っているのはどうも変なのではなかろうかというのが私の疑問なんですけれども、それが一つです。  それから、EC型付加価値税というものがECでトラブルなしに行われるについては、それ相応な土壌というもの、日本とは違う土壌というものがあったのではなかろうか、こう思うのですけれども、そこら辺をどういうふうに理解をしたらよろしいのでしょうかということをお聞かせ願いたい、こう思うわけであります。
  25. 八巻節夫

    ○八巻公述人 それではお答えいたします。  EC型の付加価値税とそれから日本の五十三年度に答申された一般消費税の根本的な違いはどこにあるかということでありますが、私は、そのEC型付加価値税と日本の一般消費税というのは、インボイスをつけるかつけないかの違いだけであって、実質的には、内容的には前段階税額控除方式でありますので、全く違いがない。ただし、インボイスをつけないとなるといわゆるアカウント方式ということになりますけれども、その場合には個別取引ごとのインボイスがつかないわけですから、その場合には、年間の売上額に対して年間の仕入れ額を差し引いて、その差額に税率を掛けてという形になりますね。そうすると転嫁が明白に証明されないわけですね。そうすると、これは片方ではごまかしがききやすいということと、片方では、今度は中小企業とか弱い企業については転嫁しにくくなるわけですね、これが税金部分だということが明瞭じゃありませんので、証明されませんので。そうしたことで、むしろアカウント方式は、このインボイス方式から比べたらば、欠点のある実質的なEC型付加価値税であると考えます。  それで、また、なぜそのインボイス方式を導入できなかったかということについては、いろんな意見もあるんですけれども、一つは検査税的な、つまり法人所得が幾らであるということが証明されますので、そうすると、今までの逃れていた部分が明らかになるということで反対が起こるという、そのためにインボイスをつけない形での答申をしたというふうに言われておりますが、そうすると、今度導入されようと考えているEC型付加価値税というのは、首相がいろいろあるんだということをおっしゃいましたけれども、しかし、いろいろある中で、要するにインボイスをつけた場合にはますます反対されるのではないかというふうに思います。  それから、ECで行われている付加価値税ですけれども、その土壌ですけれども、EC型付加価値税の場合には、御承知のように従来の全部の段階に累積する累積型の売上税、これが平均四%でかけられていたわけですけれども、それに対して、できるだけこの段階が少なければ少ないほどこの累積部分が少なくなるわけですから、やはり企業統合を呼ぶということで、その弊害をなくすために、現在の形のEC型付加価値税、税額控除をした、累積型じゃないものに変えたわけですね。したがって、西ドイツもそれからオランダも、今までの悪い税金をいい税金に変えただけであって、決して増収をねらったわけじゃないんですね。増収をねらったわけじゃなくて、導入した結果、やはりだんだん増収されていったという経緯があるんです。  以上です。
  26. 稲葉誠一

    ○稲葉(誠)委員 大変貴重な御意見をお聞かせ願いまして、ありがとうございます。  EC型付加価値税にいろいろな型がある。——EC型付加価値税と言っていませんから、いろいろな型というのはちょっと間違いですね。今のは訂正いたします。  もう一つお聞きいたしたいのは、日本の場合、今貯蓄が約四百十九兆ですか、そのぐらいありますね。それで約六割、二百四十五兆が非課税貯蓄なわけですね。これの利子についての取り扱いをどういうふうにしたらいいか。いろいろ調べましたらば、イギリスでもドイツでもアメリカでも、全部総合所得にしているわけですね。ちょっとフランスは違いますけれども。総合所得にしているわけですから、総合所得にするのが一番公平ではなかろうか、こういうふうに考えるのですけれども、これは非課税貯蓄がどうしてこんなに日本の場合多いのか、予算の五倍ぐらいあるわけですからね。それで一体、これに対してどういう扱いをしたら一番公平なのかということですね。政府税調でも非課税貯蓄というのは不公平税制の最たるものだということをはっきり書いてあるわけなんですけれども、ここら辺どういうふうに理解したらよろしいんでしょうか。
  27. 八巻節夫

    ○八巻公述人 大変難しい問題でありまして、これは非常に利害の錯綜する部分でありますし、郵政省との関係もございます。したがって、理想的にはもちろんグリーンカードを導入いたしまして、限度管理を厳しくして、そして総合課税をするというのが、当然不労所得であると考えればそれが最も理想的であります。  しかしながら、そうしますと、果たして利子所得が外国に逃げはしないか、あるいはアングラ化しはしないかという心配がございます。それで、外国に行っている部分については、これはもしそこの部分も国内の利子配当課税と同じようなイコールフッティングな形で課税をするということができればそれは逃げないかもしれないですけれども、しかし逃げない場合に、また四百何兆円というお金が国内に戻ってくるわけですね。戻ってくるというか国内をさまようわけですね。そうすると、運用先を見つけてうろちょろすれば、当然過剰流動性ということになりまして、これは二つの場合が考えられますけれども、運用先がない場合にはこれは不況ですね、不況になるかあるいは過剰流動性を抱えた形でのインフレになるか、いずれにしても国内に対する影響というものはかなり大きいのではないか。だから、そういったことでも問題ですし、とにかくこれについては、もう本当に難しい利害の絡む、経済の影響についても非常に難しい問題であるというふうに思います。
  28. 稲葉誠一

    ○稲葉(誠)委員 木村先生にお伺いいたしたいのですけれども、これは加藤先生にもひとつ……。  実は木村先生、私どもよくモスクワへ参りましていろいろお話しするときに、率直な話、先生のお名前が随分向こう側から出てくるわけですよ。いろんな話が出てくるわけですけれども、お尋ねしたいのは、加藤先生も、例えば東南アジアからソ連へ留学してくる、それが帰るとみんな反ソ、みんなとは言わぬけれども、反ソになってしまうということをよく言われるんです。私もよく聞くんです。それから、日本へ東南アジアその他から留学してくる学生が、向こうへ帰ると反日になっちゃうという話をよく聞くんですよ。だから、そこら辺のところを一体、もちろん全部がそうじゃないですが、よくそういう話を聞くものですから、どうしてそういうふうなことになるんだろうかという点を、これは木村先生加藤先生にちょっとお尋ねしたいというふうに思うのですけれども、あるいは加藤先生の方はそういう事情はないというふうにお答えになるかもわかりませんですけれども、どうですか。木村先生、いかがですか。
  29. 木村汎

    木村公述人 反ソになって帰っていくというのは、ソ連人が日本に来て——いや、日本留学生がソ連に行って反ソになってくる……
  30. 稲葉誠一

    ○稲葉(誠)委員 いや、逆です。外国からソ連へ留学した学生が、モスクワ大学とかその他に入って、それで帰ってから……。
  31. 木村汎

    木村公述人 おっしゃるとおりでございます。私どもも、学生諸君を見ておりましたり、若い仲間を見ておりますと、日本にいますときはソ連型の社会主義というのを本で読んでいまして、現在の資本主義にもいろいろひずみがございますから、それに対するアンチテーゼの青い鳥が海外にいるのではないかということでソ連に行きますと、ソ連もいろいろ現実的にも妥協しておりますし、それからまた社会主義独特のひずみもございますから、全員が全員とは言いませんけれども、かなりの数の人がソ連には失望して帰ってきて、中にははっきり反ソ的に態度を逆転させる方はいらっしゃいます。  それから、これは一言多いのでございますけれども、むしろ先生方のような立派な方が行かれることと少し関係しているのですけれども、向こうのソ連は日本人以上に権威主義的なところがございまして、この人間がその国に帰ったらどの程度利用できるかあるいは発言力があるかと見ますから、先生方が政党の立場にかかわらずやはり日本国民を代表していらっしゃるということで、向こうの飛行場に着くなり赤じゅうたんがずらっと敷かれますので、先生方は、日本における思想的な立場を超えて、ソ連もなかなか行儀正しい、規律のいい国だと思って、逆に感心して、日本の若い者はこのごろたるんでおるというお考えで帰ってこられますが、逆に若い人は、同じ思想を持っているんだから、近い思想を持っているんだから、VIP待遇とまではいかないけれども、もっと親切に同志よというような気持ちで待遇してくれたらいいと思うのに、向こうにしてみれば、ただ一介の大学生だとか助手だとか大学院の学生でございますので、そんなことには手が回らなくて、日本で発言権があれば、右であろうと左であろうと優遇する。  そういうことで、私がおりました二年間の間に具体的に聞きましたのは、モスクワ大学の海外留学生文化交流部というのが夏休みじゅう窓が閉鎖されまして、それは日本からある偉い先生がいらっしゃるからだといって、私の同僚の大学教授が幾ら文句を述べましても、偉い先生のためには我慢してほしいといったことがございますので、先生の観察は当たっていると申し上げます。
  32. 加藤地三

    加藤公述人 先生のおっしゃったような事情は確かにあると思います。事実、東南アジアから日本に来た留学生諸君が、例えば下宿を探そうと思っても皮膚の色で差別されて断られる、結局行くところがなくて留学生会館に入り込むということになりますが、現在ある留学生会館そのものも余り居住環境がよくありませんので、東南アジアから来る留学生がもし大金持ちのお嬢さんなんかが来ますと、とても暮らせるような場所ではないということもあります。そういう意味で、居住環境が非常に悪い中で、かつての日本の苦学生のような生活を強いて当然なんだというような感情があるのが、向こうの留学生諸君に非常に不愉快な感じを与えるところがあるんじゃないかと思います。  逆に、日本の我々の先輩がかつてドイツとかイギリスに留学してきて本当に親英、親独の気持ちになったというのは、向こうに行って家庭から大変温かい扱いを受けたことの感謝だと思いますが、日本の家庭ももう少し門戸を開いて、東南アジア、日本の近隣の諸国から来る留学生たちを温かく泊めてあげるようなことができれば大変いい関係が打ち立てられると思いますけれども、ヨーロッパから来る留学生に対しては泊めてあげるよと言うけれども、どうも近隣諸国の学生に対しては余りいい顔をしないという国民感情のようなものがあるわけでございますので、その辺がマイナスになっておるのではないかと私は思います。
  33. 稲葉誠一

    ○稲葉(誠)委員 木村先生、私の観察が当たっているとかなんとかというんじゃなくて、私がそういう観察をしているというんじゃないんでして、そういう話があるということを私は聞いたものですから、その話を今したわけなんです。  そこで、お話の中にも出てくると思うんですけれども、ソ連に対する見方ですね。これは高島さんのいろんな講演なんかを聞きましても、高島さんとも何回もお話ししましたけれども、今度あれになっちゃったからちょっとぐあい悪いかもわからないけれども、日本人のソ連に対する見方が非常に情緒的だと言うんですよね。合理的に物を見ないで非常に情緒的にソ連を見るというのは、これは日本としても反省すべきではないかというか、考え直さなきゃいけないんじゃないかということを本当に有識者の人がよく言われるんですね。これも少し公平観を失しているじゃないか、エモーショナルに過ぎるんじゃないか、こういうようなことを言われるんです。そこら辺についてどういうふうにお考えでしょうかということが一点。  それから、さっき先生が言われた、ソ連は力の信奉国だというふうに言われました。私もそれを否定はしないんですけれども、それはソ連だけじゃなくて、アメリカも力の信奉国だし、殊にレーガンの場合なんかはその点が非常に強くなっているんだし、これはアメリカもソ連も結局両方とも力の信奉国だ、こういうふうなことになるんじゃないでしょうかと思うんですけれども、その辺のところをお聞かせ願えればと思います。
  34. 木村汎

    木村公述人 お答えいたします。  おっしゃるとおり、日本人のソ連に対する見方は、少しエモーショナルな点があると思います。これはしかし、ソ連に対する見方だけが日本人においてエモーショナルというのでなくて、少し問題を広げますと、明治以来日本人の外国観というのは、やはり島国にいた日本人として、全部全面的に受け入れるか下に見るかということで、今加藤先生から親英、親独という言葉が出ましたが、その当時は日本はレートカマーといいますか、後から先進化しようとした国ですから、イギリスやフランスやドイツのことは全部いいということで、いろいろ教育だとか財政制度だとか政府の制度を取り入れたわけですね。つまり、モデルとして他の国を見るという傾向があると思います。あるいは一列の上に並べて、そこでより進んでいるかよりおくれているか、あるいは縦に並べまして自分たちの上か下か、そういうことで、最近の日本人の旅行者の中には、もう外国から学ぶものはなかったというような、逆に言うと生意気なといいますかおごった態度が、アメリカや北欧やフランスに行っている観光客の中に、これでは銀座で買う方がましだとかそういったふうで、これをジャパン・アズ・ナンバーワン・シンドロームと難しく言うそうですけれども、日本はもう一番になったんだ、これは非常に危険でございます。  それの裏として、日本人は常に上下関係で見る、あるいは一本の線でどこかに並べるということでございますから、かつてはソ連に対しては、これは先ほどのお話の続きになりますけれども、資本主義にないよさを持っている国じゃないかという点で、私の友達や同僚や学生もエモーショナルに、オール・オア・ナッシングで全面的にあれしましたところ、その後ソ連がやることが、チェコスロバキアの侵入だとか中ソ対立だとかということで社会主義に幻滅すると、今度は何もかも、あばたも何もかも憎いということになりまして、反ソ反共になりまして、これは私どもとしては感心しない。  例えば学生さんなんかで、ロシア語を勉強しない。ロシアはどういう国かということを知らないくせに、もう初めから授業をとらないだとか講義に関心を持たないということで、最近日本でロシア語を学ぶ学生数が減ったり、私どものソ連の政治の講座に来る学生数が低くなっているのは残念なことでございます。  しかし、これはソ連に関して日本は特別集中的にあらわれているわけであって、やはりいい意味でも悪い意味でも、日本の今まで追いつき追い越せで来た国民性が一挙には克服できない。それがやはり、失礼ですけれども、東南アジアの方だとかアフリカ、アジアの方には逆にひっくり返しになって、下宿の問題でも少し御苦労をかけるのじゃないかと思います。  それから、力の信奉国というのはどの国もそうじゃないか、特に超大国というのはそうじゃないか、アメリカもレーガンのもとで特にそうじゃないか。これはおっしゃるとおりでございます。しかし、私は、にもかかわらず、残念ながらソ連は特にその傾向が強い。つまり、米ソを同じところで並べるのはみそも何も同じにするという意味で、やはり相対的な差はあると思います。ソ連と日本との間にはやはり話し合いの道はありますし、同じ力を使うにしても、それをどのように使うか、どのような時期に使うかに関しては違いがありますし、その違いは大きくなってくる。それが先ほどお話ししましたように、沖縄の返還と北方領土の返還についてあらわれてきているわけで、これは全く超大国としての特性であるとまでは私は少し言い切れないのじゃないかと思っております。
  35. 稲葉誠一

    ○稲葉(誠)委員 どうもありがとうございました。
  36. 天野光晴

  37. 近江巳記夫

    ○近江委員 きょうは、お忙しいところを先生方にはありがとうございました。  まず、初めに八巻先生にお伺いしたいと思っておりますが、先生は、六十年度予算におきましても所得税減税を初め景気対策を拡充すべきである、こうした御意見をお述べになっていらっしゃるわけでございますが、五十九年度を振り返って、まだ三月いっぱいまであるわけですが、実質経済成長率で五%台が達成できる、このように言われておるわけでございますが、地域間あるいは業種間格差というものが非常に指摘されておるわけでございます。御承知のように、今中小企業の倒産というのは戦後最悪、二万件を突破しましたし、また金額にいたしましても三兆五千億、こういう非常に厳しい状況が続いておるわけでございます。  そこで、六十年度におきましても、財政がきめの細かい景気対策を講ずべきじゃないかと私も考えておるわけでございますが、しかし一方で、景気対策政府実施しない理由といたしまして、財源難を挙げておるわけでございます。並んで、景気浮揚の効果というものがどうかという考えもあるようでございます。  そこで、八巻先生には、この所得税減税あるいはまた公共事業の追加、設備投資減税など、いわゆる景気対策の必要性、また景気の浮揚効果についてどのようにお考えになっていらっしゃるか、それをお伺いしたいと思います。
  38. 八巻節夫

    ○八巻公述人 所得税減税及び中小企業中心とする設備投資の減税あるいは公共事業拡大景気浮揚効果でありますが、最近いろいろな研究の中で、投資乗数が非常に低下しているということが盛んに言われるわけですけれども、確かに公共投資を幾ら増加しても効果が上がらない。したがって、自然増収が少ないために結局借金だけが残る、こういうことが心配されるわけですけれども、しかし、その場合に、公共投資の中身の問題でありますが、大蔵省等の計算でモデルになっているのは、用地取得の割合が二〇%ということで計算されておるようです。その場合、用地取得二〇%で公共投資の乗数効果を考えた場合は確かにそういうふうに浮揚効果は小さいと思いますが、例えば用地を取得しない形での、従来の設備、社会資本を補修するという形での投資も考えられるわけでありまして、その場合は用地取得が少ないわけですので、乗数効果はある程度期待できるのではないかと思います。  それから、中小企業投資減税でありますが、投資減税の場合でも、いわばハイテク減税といいますか、最近はソフト化が進んでおるわけでありまして、これがそのソフト部門を中心中小企業減税を図れば、つまりそういうソフトの機器、設備を導入した企業中心減税を図っていけば、景気浮揚効果はあるのではないかと思われます。  それから、所得税減税については、先ほど説明したとおり、課税最低限の引き上げという形でやった方が——特定部門についてもちろん負担に大変なバイアスがあるわけですけれども、それは租税改革としての部門で別問題でありまして、フィスカルポリシーとしての景気浮揚効果を考えた場合には、やはり課税最低限を引き上げるという形が幅広い景気浮揚効果を持つのではないかと思われます。
  39. 近江巳記夫

    ○近江委員 第二点の問題は、今、国会でも非常に論議されておりますが、大型間接税の導入問題でございます。  これにつきましては、非常にさまざまな問題があるというこうしたお話もあったわけでございますが、先生がいろいろお述べになった意味というのは、いわゆる現行税制の見直し、特に不公平税制の見直し、これを優先すべきじゃないかというように感じたわけでございます。そこで、この不公平税制の是正に関して、先生はどういうような点を特に強調なさりたいお考えをお持ちか、お伺いしたいと思います。
  40. 八巻節夫

    ○八巻公述人 不公平であるかどうかということですけれども、これは、その負担体系だけを見て公平とか不公平とは言えないということが今後やはり配慮していかなければならない部分じゃないかと思います。つまり、どういった財源として使っていくのかという側面、それをあわせ考えながら、負担が公平になっているか、不公平になっているかということを考えていかなければならないと存じます。  したがって、例えば所得税の場合には、先ほども述べましたけれども、一般財源として徴収されているわけですので、一般財源、つまり純粋な公共財として負担を徴収する場合には、それぞれの担税能力が正しく反映されているということが一番重要なポイントであります。そうすると、現在の所得税体系がそういう観点から正しい負担体系になっているかというと、御承知のように非常に大きな問題がある。つまり、かなり所得税そのものの限界が露呈しているというふうに思われるわけです。したがって現実的には——一般財源としての所得税は非常に理想的な税金のあれでありますし、これはいろいろな個人的な事情も配慮できます。したがってそれは理論的には正しい調達の仕方ではありますけれども、やはり現実とのある程度の推移を見ながら所得税の例えば思い切った改革、これも将来の方向として、負担の不公平をなくす方向になるのではないかというふうに思います。  以上です。
  41. 近江巳記夫

    ○近江委員 第三点の問題は、受益者負担の問題でございます。  受益者負担というのは非常にメリット、デメリットというものがあるわけでございますが、この見きわめということが非常に難しいのじゃないか、このように思います。特にこの財政難の時代におきましては、受益者負担の名のもとに国民への負担転嫁というものが拡大される傾向にあるんじゃないか、このように考えるわけです。先生として、この受益者負担につきまして、その最低必要限度、また所得再配分と受益者負担の限界、これについてどのようにお考えでしょうか。
  42. 八巻節夫

    ○八巻公述人 それではお答えいたします。  受益者負担でありますが、これは単に公共料金だけではないということをまずはっきりと確認しておく必要があるのです。つまり、手数料及び分担金、使用料、それから目的税というものも含めて、つまり一般財源としての一般税以外のすべての税金は、これは要するに受益者負担的な要素を持つ部分なんです。  ですから、今取り上げている受益者負担の問題は、そういった観点から幅広い観点で見ていかなければならないわけですけれども、その場合に、一体その受益者負担の可能性というものをどこに線を引くかというこの限度の問題ですが、これはやはり、どんな政治の政策である場合でも、必要最低限というか、聖域というものはどこにでもあると私は思うのです。これは政治の決定することでありますけれども、生命にかかわるような基本的な所得再分配の領域については、これはやはり侵してはならない部分であると思います。そういったものを侵すようであれば、やはり受益者負担というものはそういった意味では限界に来ているものと思いますので、そういった範囲を侵さない程度での、それを上回った負担部分での受益者負担というものを考えていくべきである。  ただ、その場合に、受益者負担の方法というのは具体的にはどういうことかということですけれども、これは、例えば所得制限を設けるとかあるいは差別料金を設定するとかそういった形で、ある程度効率化、市場原理といいますか、そういったものを導入する形になると思います。例えば、国鉄の地域間の差別料金というものはそういった意味では一つの正しい方法ではなかったかと思いますし、それから老人医療の問題、健康保険の問題につきましても、一割負担ということについてはある程度の正しい方向を進んだのではないかということですけれども、しかし、それ以上に行っていいのかどうか、こうなると、これはそこが聖域になるのかどうかという問題になりますので、どんどん拡大していい部分ではない、そこを決定するのはやはり先生方の政治的な決定になると思います。
  43. 近江巳記夫

    ○近江委員 あと時間もわずかしかないわけですが、木村先生にお伺いしたいと思います。  GNP一%問題というのは、今国会におきましても最大の焦点になっておるわけでございます。このGNP一%という問題につきましては、我々としては、平和の歯どめという意味におきまして非常に大きな意義を感じておるわけでございますが、先生は、状況によって必ずしもという御意見でございますけれども、国民のそうした世論調査によりましても、約七、八割の方は、GNP一%というものについては非常に理解を持っておるように思うわけでございます。そういう点で、国民のそうした背景というものにつきまして先生としてどのようにお考えか、それをお伺いしたいと思います。
  44. 木村汎

    木村公述人 私も、GNPの一%以内におさめるという閣議決定でしょうか、それが、先ほどあのように公述いたしましたにもかかわらず、一つのシンボリックなものに膨れ上がってきているというか、日本社会では大きくなっているということは十分認めます。ですから、これを変えるか変えないかということがやはり一つのハードルを超えるか超えないかに、日本の現実社会ではなっているという事実は認めるわけでございます。  ただし、にもかかわらず、理論的に申しますとこれは根拠がない。やはり学者など理詰めで考える者を満足させるものではない。先ほどからお話ししていますように、論理が逆さまである。  それからもう一つ、さらにこの機会に申し上げますと、平和の歯どめになっていたことは現実でございますが、超えたからといって、それでは急に日本の防衛政策が大転換して、軍国主義に行くとも思われません。むしろ、私は、日本国民を本当に信頼し、また、それから選ばれていらっしゃる選良の皆様方を御信頼申し上げるならば、歯どめというのはそういう数字に置くべきでなくて、日本国民の決意と自主的な判断とでも申しますかに求めるべきであって、いかなるその他の数字だとか圧力だとかそういうものに歯どめを求めるべきではないと思います。  そして、一番最後に、国民の七、八割が支持していらっしゃるということですが、私も、世論調査を全部調べたわけではございませんが、日本の自衛隊というのもそのぐらいの支持が事実としてはあるというふうに伺っております。そうするならば、どういうふうに考えていいのか。日本国民のお考えというのは、自衛隊は欲しい、しかし一%以下に抑えていただきたいという、一つの矛盾する心理を世論調査で示していらっしゃるのか。それともそこには、国民は主権者ですからうっかりした言葉を使えませんが、ややおんぶにだっこといいますか、対外的にはちょっと自分本位のと申しますか、都合のいい態度があらわれているのかもしれません。と申しますのも、御存じのようにどの国も、自分たちはしっかりと守ってほしいといいますか、安全保障は欲しい、しかしそのためのコストは払いたくないというのが人間の常でございますから、そういうところが正直にあらわれたのじゃないかと思います。ですから、むしろ先生方が議論をなさって、時にはリーダーシップを発揮されるのも大事なことではないかと思います。
  45. 近江巳記夫

    ○近江委員 終わります。
  46. 天野光晴

    天野委員長 次に、木下敬之助君。
  47. 木下敬之助

    ○木下委員 諸先生方、本日はまことに御苦労さまでございます。民社党を代表して、何点かお伺いをいたします。  まず、八巻先生にお伺いいたしたいと思います。  先ほど、先生から、直間比率の見直し問題に関していろいろ御意見を伺わせていただきました。もう少しお伺いいたしたいと思いますが、直間比率の見直しを言い出しておる政府の真意がどういうことか明確でない、こういうお話だと思いますけれども、まあ政府はなかなか率直には本当のことを言わないでしょうけれども、私どもは、増税の意図がありあり、こんなふうに思います。そういう中で、付加価値税というものが相当に検討されていると思われるのですが、先生は先ほど物価減税ということを言われたと思います。そういう先生の目から見られて、物価への影響が必然である、このように思われます付加価値税に対して、どんなふうに考えておられるか、お伺いいたしたいと思います。
  48. 八巻節夫

    ○八巻公述人 付加価値税を導入しますと物価がどういうふうになるかということでございますが、まず初めに、物価が上昇するから付加価値税に反対であるというのは、ちょっとこの言葉は論理矛盾じゃないかと思うのです。といいますのは、税収を確保しようとして付加価値税を導入した場合には、当然物価がその分上昇して、そして政府の方にそれが入ってくるというのはこれは当然のことでありまして、このことだけをとらえて反対であるというのは、これはやはり論理矛盾じゃないか。そうじゃなくて、税率以上に物価が上昇してインフレ過熱をもたらすのではないかという心配であれば、それは反対である理由になると思いますが、その場合に、外国の、特にEC諸国の例をとりますと、六九年あたりを中心にEC諸国でほとんど同時に導入されたわけですけれども、その例をとりましても、成功したケースと、それからかなり失敗したケースとあります。  西ドイツの場合は成功例であるというふうに言われています。それは物価の上昇率が当時非常に安定していた、そして国民性からも、物価の上昇に対してかなり危惧を抱く国民性でありますので、そういった意味で、導入した段階で決して増収を図ったわけではないのですけれども、物価の上昇率はかなり安定的であった。  ところが、失敗例であるのはオランダなんですけれども、オランダはそれこそ増収を図らないことを前提にしながら、つまり物価が全然上昇しないということを前提にしながら導入したのですけれども、結果的には、物価統制令などを出したのですけれども、それでも七%の物価上昇が結果されています。  したがって、そういったことで考えればこれは危険な部分がある、こういうふうに思います。
  49. 木下敬之助

    ○木下委員 それから、受益者負担ということが先ほどから論議がございまして、受益者負担というのが余りよくわからない部分があるのですが、先生は、その受益者負担の原則というのはどんなふうにお考えになっているか。ちょっと考えると、物品を買う物品税は、買ってその受益するのは本人ですからという感じもあるのですけれども、それから、もっとよく考えると、目的税としてそれの使われ道、目的税みたいなものは、結局その目的によって利益を受ける人が出すべきだというこういう受益者負担、いろいろな考え方があると思いますので、先生の原則みたいなものがありましたら、お聞かせいただきたい。  もう一つは、受益者負担の原則とも時々言われますが、その受益者負担の原則というのは国民的合意なのかな、この辺も考えるのですが、どうお考えでしょうか。
  50. 八巻節夫

    ○八巻公述人 それでは、時間もないので簡単にお答えいたします。  受益者負担の体系の原則ですけれども、それは、目的税の場合と、分担金の場合と、手数料、使用料の場合と、公共料金の場合と、全然違うわけです。  目的税の場合には、先ほどおっしゃいましたように利益を受けるから、例えば道路をつくるときに、その道路を使用する利益を受けるから、それの受益者から徴収をするという形ですね。ところが分担金になりますと、もっと公共政策的な部分、つまり公共的にそれを促進するという部分がずっとふえできます。ですから、その場合には受益者負担の原則が薄れてくるわけです。  それから、手数料、使用料については、これはかなり個別度が高いのです。つまり、手数料や使用料の利益を受けるのはこれは個人個人であるわけです。全く個別化されているわけです。それで個人から徴収するという形で、かなり個別感があるのですけれども、しかし、この場合にまた公共政策の意図が入りまして、例えば法律の保護であるとかそういったことから公共的にそれを促進していかなければいけないという部分が強く入ってくると、たとえ個人的な受益関係はあるかもしれないけれども、料金は、やはりそういう人が受けられなければ政策がだめになりますので、かなり低いところに設定せざるを得ない。  ところが、公共料金になってきますと、これは個別性も高いし、それから、受けるか受けないかということは必ずしも公共的に促進することが余りない。まあ国鉄の場合には安定的な輸送の供給であるとか、あるいは郵便ポストの場合にも安定的な通信の供給であるとかということがありますが、しかし、それは政策的にどんどん手紙を出せとか、どんどん国鉄に乗れとか、そういうことを促進するようなたぐいのものではないと思うのです。したがって、その部分はかなり公共性が薄らぐために、ある程度の市場に近い形での料金体系があっていいのではないかと思います。
  51. 木下敬之助

    ○木下委員 先生、ではもう一点だけ。  税の累進性についても述べられましたので、先生は累進性はどうあるべきだとお考えになっているのか、これも簡単にお話しいただきたいと思います。
  52. 八巻節夫

    ○八巻公述人 累進性については、できるだけ累進的であるということが理想ですけれども、しかし、現実的には非常に浸食されている。だからといって間接税の方に移行すれば、ますます累進性というのは少なくなるわけです。ですから、その辺のバランスの問題だと思います。簡単ですが、そういうことで……。
  53. 木下敬之助

    ○木下委員 木村先生にお伺いいたします。  先生の、信念と結論をお持ちの上に、一方的でない見方に、大変感銘を受けておりますが、その中で、アダム・スミスの話等出されまして、人間の本質みたいなものを言われました。同じように、国というものはどんなものでございましょうか。やはり神のような国はなく、またけもののような国もない、そういう感覚なんでしょうか。国というのはどんなふうなものでしょうか。
  54. 木村汎

    木村公述人 私のある一部が非常に御興味を引いたようでございますが、それに甘えまして述べますならば、人間はもう千差万別でございまして、先ほど私がお話ししたように考えております。国はそれの集まりでございますから、ある程度それはまとまりはつきますけれども、さらに人間以上に千差万別で、指導者がいて、しっかりしてそういうことを抑える、ブルータルといいますか残酷なことを抑える国にもなるという面もございますけれども、逆にそれが、悪い指導者だとか悪い一部のグループの影響を受けますと、それの持つ狂信的な、宗教だとか思想だとか物的な欲望だとかどん欲というのが強く出て、ちょっと例を挙げますと、あの比較的冷静なドイツ国民がヒトラーのもとに戦争を起こしたようなこともあり得ると考えますから、基本的には国も千差万別である。しかし、そこに国益として、比較的平均値としてまとまってくるのは、やはり自分の国の利益をという平均値に収れんしてきますから、似たような国になるという点もある。だから、個人個人の場合には自分一人が聖人になればいいわけですけれども、国の場合は、自分一人が欲望を達成せずに聖人になるということになると国民全体がついてこないし、死に絶えてしまいますから、比較的、国というものは、大体、よその国がやっているような安全を確保するとか、ある程度経済的に利益を追求するということでは、似てくる面もあると思います。  お答えが非常に歯切れ悪いのですけれども、どうもそれ以上は、哲学的なことは考えておりませんので……。
  55. 木下敬之助

    ○木下委員 時間も少なくなりましたので、加藤先生にお伺いいたします。  先生のお話の中で、高等教育と普通教育、こういったものを比べたときの国費の比率が、戦前に比べてずっと減っているといった話をなすったと思います。不勉強で申しわけありませんが、そういうときの高等教育とか普通教育というのは、小中高では、どこでどう分けて、どんなふうになさっているのか、はっきり教えていただいて、これがどういう数字であることが望ましいとお考えになっておるのか、お伺いいたします。
  56. 加藤地三

    加藤公述人 高等教育の公共投資というのは、全体の教育に対する投資の大体二〇%ぐらいが標準だというふうに言われております。義務教育は六〇%、それから後期中等教育といいますか高等学校が二〇%、大体そのような比率がいいというふうに私ども感じております。
  57. 木下敬之助

    ○木下委員 確認させていただくと、小中を普通と言い、あとは高等学校だけを言うわけですか。小中高で、大学は入っていないわけですか。
  58. 加藤地三

    加藤公述人 高等教育というのは大学でございます。大学が二〇、それから高等学校が二〇、それで義務教育が六〇、そういうことでございます。
  59. 木下敬之助

    ○木下委員 そういう考えを置いておきまして、四十人学級とか、また海外ではその半分とか、そういう話もされまして、個人に合わせて授業ができることが望ましい。これは私もそう思うのですが、小中高大と、こういう段階で、より少人数の必要のあるのはどういう段階でございますか。また、大学に行ってもやはり少人数の必要があるとお考えなのかどうか、お伺いいたします。
  60. 加藤地三

    加藤公述人 我が国では、今まで小学校が少人数で、中学や高校は少し大人数でもいいんじゃないかというような考え方がありますが、欧米の場合には逆でございまして、小学校よりも中学校の方が少人数が望ましいということ、大学はさらに少人数が望ましい。まあたくさんの人を集めて講 演のような講義もございますけれども、同時にゼミのような形で十数人の講義というのもあるわけでございまして、大人数の欠陥を是正するために演習のような少人数教育があると思います。だから、教育段階が上に行くに従って少人数教育というのが理想ではないかと思います。
  61. 木下敬之助

    ○木下委員 個人に指導するというのは、どこまでも個人が独立独歩の気構えのある人に対して個人的にするのと、そういうもののない、甘えている人に対して個人的に教えるというのとはおのずと違うと思うのですね。そんな意味で、外国と日本と個人個人の自覚みたいなものに差があるときに、個人を集中的に教えるというのは、ずっとどこまでも続けていくと、甘えの構造みたいなものがとれないままになるような感じも今の教育の中であるんじゃないかという感じもあるし、また外国の大学の話を聞きますと、入学のときはそんなに難しくない、相当大人数入れるけれども、卒業が難しい。日本の場合は、入学の試験で相当絞って、その中でまた落ちこぼれる人もいるでしょうけれども、卒業をある程度簡単にさせる。こういう制度の違いの中で、同じような考えでいいのかなという感じは持つのですが、先生、その辺はどうでしょうか。
  62. 加藤地三

    加藤公述人 確かにおっしゃるとおりでございまして、日本は家庭教育でも、なるべくいつまでも子供を自分の手元に引きつけて置いておこうという考え方があるわけでございますが、外国の家庭は、なるべく早く外に出して自立させて一本立ちにしたいという気持ちがあるわけでございますから、そういった家庭教育の段階から先生の言う意識の相違がありますね。それが学校教育にも反映しているのだと思います。
  63. 木下敬之助

    ○木下委員 大変貴重な御意見、皆さん、ありがとうございました。
  64. 天野光晴

    天野委員長 次に、梅田勝君。
  65. 梅田勝

    梅田委員 日本共産党・革新共同の梅田勝でございます。  きょうは、予算案につきましてそれぞれの立場での御意見をいただきまして、ありがとうございます。時間がございませんので、簡潔にお答えをいただきたいと思います。  まず、加藤公述人にお伺いを申し上げますが、加藤先生は、文教予算につきましていろいろ、私学助成、額としては一応前年度を維持したけれども、実質的には低下しておるし、それから額自体も諸外国と比べて少ない、こういう御意見はもっともだと思います。ただ、義務教育の問題につきましてさらに突っ込んでお伺いしたいのでありますが、四十人学級の凍結解除という一定の評価がございましたけれども、これは生徒数が減っているところだけが適用になりまして、一番問題なところはなお凍結が続いておるわけでございます。来年度もその見通しというものは余り明るくない。こういう点についてどのようにお考えなのか。  それから第二点といたしましては、義務教育費のうちで教科書費、これは削ろう削ろうと大蔵省は考えておるわけでありますが、引き続き維持された。これは評価していいわけであります。しかし、今年度予算におきまして国庫負担法の大きな改悪がございまして、教材費、教職員の旅費、これは単年度三百五十億くらいのものでございますが、これが対象除外になりまして、自治体でやれということにされようとしているわけです。それから施設費の国庫負担比率が三分の二から十分の六というように下がるわけでございますが、全体として今年度は地方自治体に分担を押しつけるという傾向がございますが、これらが教育にどのような影響を与えるか、その点をお伺いいたします。
  66. 加藤地三

    加藤公述人 お答えいたします。  四十人学級実施方法でございますが、人口が自然減の地域から手をつけていくというのは、財政負担をなるべく少なくしていこうという配慮、そのうちにさらに児童生徒数が減ってくるだろうというような見込みから文部省はお立てになったと思いますが、我々国民から申しますと、一番過大学級に悩んでいる地域から手をつけた方が効果的だと私は思うわけでございます。凍結解除になりましたけれども、やはり文部省は従来の方針どおりおやりになりますから、過大学級、過密都市は後まで問題を残すということに結果的にはなろうかと思います。  二番目の問題は、これは経費を縮減するために、予算から外して、交付税の中で処理したいというふうに私は聞いております。
  67. 梅田勝

    梅田委員 実際はほとんど見ないのですね。だから、教育としては予算が全体として削られていくということになりますので、その点も私どもはそのようにならないように努力してまいりたいと思います。  次に、八巻公述人に承りたいと思います。  八巻さんは、予算全般の問題、とりわけ財政再建の問題につきましてお述べになったわけでございますが、御承知のように、ことしの国債費が歳出第一位になって、そして利払いが十兆円だ、それから借金の返済ができないので、国債の借換債を出す。私どもは、これは財政破局の新しい段階を迎えたというように考えておるわけでございます。また、その国債の整理基金勘定に定率繰り入れをやらない、停止したままだというようなことも問題だと思うのですね。  ところが、それだけ厳しいのに軍事費だけがふえておるということは非常に問題だと私は思うわけでございまして、六・九%増、三兆円突破、それから後年度負担のお話もございましたが、これが二兆三千億円ということで非常に重大な問題になっている。  それから経済協力費、これが七・八%ふえておる。先ほど先生は、内需拡大していくための方策、同じ予算を使うにしても中小企業対策なんかに力を入れるべきだというお話がございまして、同感だと思うのでありますが、中小企業対策費は二千百六十一億円、ところが、大企業が海外へ出ていくための一つの手だてとして経済協力費というのが組まれたと思うのでありますが、これが五千八百六十三億円、倍以上なんですね。日本経済の二重構造ということがしばしば言われますが、中小企業対策費がこんなに少ない。しかも臨調、行革によって年々減ってきておるわけですね。こういう傾向についてどのようにお考えになっておるのか。  それから国債の借換債ですね。この発行が日本経済、特にインフレに将来どのような影響を与えようとするか、この二点につきましてお伺いしたいと思います。
  68. 八巻節夫

    ○八巻公述人 それでは、お答えいたします。  初めに、中小企業対策費の部分ですけれども、軍事費と対比されて説明されたわけです。この部分についてはなかなか政治的な決定の部分でありまして、非常にお答えしにくいところでありますが、やはり片方の総合安全保障部分が突出している、それに対して、例えば中小企業対策費はかなり伸び率が鈍いということのバランスの問題については、やはりこれはもう理論的な裏づけというか、難しいわけでありまして、一つ言えることは、少なくともこういう状況でありますので、例えば名目成長率を一応の天井みたいな、それ以上にはどんな重要な施策でも伸ばしてはならないみたいな、そういうことがもしできればですけれども、なかなか難しいことと思いますけれども、そういった形の歯どめということもあろうかと思います。  それから借換債の問題ですけれども、この借換債の問題についても、私ら本当に、財政学の講義なんかやっているときに学生からいろいろ聞かれまして、もう財政破綻ではないのかということをよく言われます。つまり、サラ金を借りてサラ金で返すというそういう形でないのかということですけれども、確かに借換債、年内で償還というより消化ですね、消化できる形でやっていけば、借換債そのものには、つまり償還額という限度があるわけですから、その償還額を出るということはあり得ないわけでありまして、ですからそういった意味でのかっちりとした歯どめはある。それから、日銀引き受けは禁止されているということだと思うのです。ただし、その借換債が、前年度ですけれども、赤字公債についても借換債を認めたということは、これはもう、それも毎年毎年の立法化じゃなくて、ずっと長い間それが是認されたということは、これは非常に問題じゃないかというふうに思います。それから六十年かけて、つまり特例公債を借換債をやった場合に、それも建設国債と同じ六十年償還にするということは、今例えば昭和六十年ですけれども、一番最後のものが返されるのは百二十年になるわけですね。これはもう、ちょっと大丈夫かなというか、ほとんど破綻に近いような状況じゃないかと思います。
  69. 梅田勝

    梅田委員 それから、税制の問題につきましても御意見を伺ったわけでございます。法人税でも、これを引き上げました場合に消費者に転嫁する、そういうお考えでございますが、結局は、今日の資本主義制度におきまして、どんなことをやっても抜け道をつくってやるという点がけしからぬわけでございます。しかしながらいろいろ大企業優遇の税制というものの見直しが叫ばれておるわけでございまして、一つの例でございますが、去年の暮れに摘発されました外国課税特別控除制度、これは年間四千億近くあるわけですね。それを悪用いたしましてさらに脱税をやるということで問題になっておりますが、このような大企業優遇の税制というものは、もっと積極的に改めていくべきだと思うわけでございますが、いかがでしょうか。
  70. 八巻節夫

    ○八巻公述人 大企業優遇税制について非常に不公平になっているのではないかということですが、例えばいろんな租税特別措置を設けましても、それが利用率が、やはり資本がある大企業であればあるほど利用度が高いということについては、非常に不公平であるということは確かだと思います。したがって、そういった形での租税特別措置というものはやはりどんどん縮小して、もう全廃に近いくらいの形でなくしていくべきであるというふうに思います。
  71. 梅田勝

    梅田委員 ありがとうございました。  それでは、最後に木村公述人にお伺いいたします。  防衛問題のお話があったわけでございますが、人間が不完全であり、国土、資源、エネルギーも限りがある。したがって紛争が絶えない。そういう不確実性の社会で防衛力は必要だ、自助努力、同盟関係、世界の秩序、この三点が強調されたと思うわけでございますが、私は、世界で紛争が起こりますのは、他民族を侵略する、つまり民族の自決権というものを尊重しない、そういう考え方が紛争を生む一つの要因だと思っておるわけでございます。  先ほど先生、盛んにソ連の脅威論というものを述べられたわけでございますが、私どもも、確かに北方領土問題あるいはアフガニスタンの侵入問題等々につきましては厳しい批判をいたしております。しかし、ソ連がもうすべて領土拡張で膨張主義を続けておるかというと、そうではなくて、例えばロシア革命の直後、ソビエト政権ができましたときには、かつての帝政ロシア時代に侵略をいたしましたペルシャ、トルコ、アフガニスタンなどなどの国の領土を、奪い取ったところは返しているのですね。そういう例もあるわけでございまして、一たん取ったところは返さないというのはちょっと事実でないのではないかと思うわけでございます。  先生もおっしゃいましたように、ソ連は非常に防衛的だということで、これはアメリカの議会におきましても、ソ連が攻めてくることはまずないという証言がなされておりますし、我が国の国会におきましても、福田元総理大臣は、ソ連が攻めてくることは万々々分の一の可能性もないというぐらいに言われておるわけでございまして、要するに今日の緊張問題、戦争の危険性というものは、どこが攻めてくるか、仮想敵国、こういうものを考えるところに大きな間違いがあるのじゃないか。そういう点で、先生は民族自決権を尊重するという問題についてどのようにお考えか、これが一点でございます。  いま一点は、今一番大事なことは核戦争の脅威なんですね。一たん核戦争が起こりますと、もう吹っ飛んじゃって、攻めた方も地球全体が凍結する事態になれば死滅するわけでありますから、大変な事態になる。アメリカはそういうことはよく知っておりまして、アメリカ議会調査局報告書一つで、「防衛分担——米国の対NATO、対日関係」という報告書の中に、「もし戦争が起きれば、たとえ通常戦であっても、最初に(そして多分唯一)、破壊されるのは同盟国の社会、経済であろうという重要な現実が存在する」ということを述べたことがあるのです。  ですから、先生は同盟関係というのは非常に重要だというようにおっしゃいますけれども、いわゆる日本列島不沈空母化、そういうような問題、日本全土至るところに軍事基地があって、核が持ち込まれているのじゃないかということが言われている。そういう例、そういうこと等々考えますと、そういう恐ろしい核戦争を絶対してはならない。  それからいま一つは、核の攻撃の標的にされるようなアメリカの、外国の軍事基地を国内に持つようなことがあってはならない。外国が戦争をやることによって自動的に戦争に巻き込まれる、そういう危険性があるわけですから。そういった問題につきまして、同盟関係をなくして非同盟中立にしていく、そういう方向のお考えはないのがどうか、ちょっとお伺いしたいと思います。
  72. 木村汎

    木村公述人 お答えいたします。  まず第一問、民族の自決権をどう考えるかでございますが、先生のおっしゃるとおり、最近の戦争の原因の一つとして民族の自決権の問題があると思います。アジア、アフリカの国でいろいろな民族が自決していくことが一つの戦争に導いていることは事実でございますが、それに対しては、もう少し詳しく複雑に見てまいりますと、こういうことも言えるのじゃないでしょうか。  それは必然的なことで、いいことでもあるわけですから、当事者同士に任せるというのもいいのですけれども、ソ連は一九七〇年代の初めに、明らかにグレチコ、ヤシュコフあるいはエピシェフという人々が、ソ連は、自分の国及び同盟国の達成した成果及び安全と平和を維持するのみならず、第三世界における民族解放・反革命運動を支援するためには、地球上のいかなる遠隔地にも軍事的なものを発動する用意があると言って、キューバと並んで自分の国の顧問団を送っておりますし、兵器も送っておりますし、またアフガニスタンにはみずからの軍人を送り込んでいます。これを先生御自身には私は尋ねる権利はないのですが、そういうことも思い出すならば、ソ連自身が民族自決を一方的に解釈して介入していて、逆に戦争の種をつくっているということは事実としてあると思います。  それからさらに、そのことを適用するならば、ソ連という国が百二十の、あるいは百十の民族から成っている多民族国家であるということは言うまでもありません。ソ連邦という国、あるいは十五の共和国から成る場合に、その中にいるソ連の国民、民族に自決権があるでしょうか。憲法上は、ソ連の憲法では認められておりますけれども、本来ならばバルト三国、リトアニアやラトビア、エストニアは独立したいと我々は客観的に解釈しておりますけれども、ソ連領に引き入れられたままになっておりますし、また、国際連合にはソ連は三票の票を持っていることは御存じのとおりで、ソ連自身、ロシア共和国のほかに、ウクライナと白ロシアを持っています。これは戦争後のどさくさの中で得た既得権ですけれども、もしウクライナや白ロシアが独立したいとなったら、ソ連は実際認めるでしょうか。民族自決権というものは平等に適用しなければならないものであると思います。  それからその次に、ソ連の膨張を私は強調したかのようにお受け取りになりましたけれども、一部当たっておりまして、一部間違っております。私が申し上げたいのはもう少し複雑なことで、ソ連は確かに、先生がおっしゃったように、ナポレオンだとかジンギスカンの末裔だとかヒトラーの侵略を受けて、本当に苦汁をなめた国でございます。したがって過剰防衛の傾向があります。それだから、それにとどまってくれたらいいのですけれども、やはりそこにとどまらないで膨張していった事実というのは、どうしてもこれは史実を見る者にはあるわけですね。しかし、先生はそこまでおっしゃらずに、初期のころでございますね。それは私も、レーニンの偉大なる指導力が貫徹したときは、無併合の原則とかいうもので、かなり領土を手放したことがございます。しかし、レーニンは若くして死にましたから、その後五代の政治家がやったことは何かというと、スターリンがやったこと、フルシチョフがやったこと、ブレジネフがやったこと、アンドロポフが継続して、チェルネンコがやって、またポスト・チェルネンコがやっていることは、そういうふうに引き離していくのではなくて、やはり一たん抱え込んだ国はしっかりと握るという、こういう意味で、私は初めに防衛的侵略主義、防衛のように見えるけれども、そのもとをつくった攻撃ということを忘れてはいけない、それを既得権として防衛するんだと言っておるわけでございます。  それから、福田元首相が、攻めてくることはまずまずないとおっしゃったのは、ある意味でのソ連認識として正しいかもわかりませんが、万分の一の可能性もないとおっしゃいましたけれども、やはり万分の一という、あることは認めていらっしゃるわけです。ですから、それに対してどう考えるかということは残ると思いますね。  そして、仮想敵国を考えない方がいいのじゃないか、考える方が云々ということでございますが、これは歴史的事実として少しおかしいのは、第二次世界大戦のときに、ソ連ではございませんけれども、自分の国は非武装中立だと宣言した国がやられているわけでございます。それは北欧の国のフィンランドとかノルウェーでございます。  二番目の質問に答えてよろしゅうございますか。
  73. 天野光晴

    天野委員長 簡単に。
  74. 木村汎

    木村公述人 はい。  第二番目、核戦争の脅威、全人類の死滅、これはおっしゃるとおりでございますが、その場合、先生が米国の書類をお読みになったことが私の言おうとしていることを逆に証明しているわけで、アメリカが、そうなった場合破壊されるのは同盟国の経済と読まれたと記憶しております。それはそのとおりでございます。で、私は強調したい。どの国も自分の国が一番大事なわけで、自分の国を守るためによそと同盟しているわけでございます。しかし、そのことから私は先生と違った結論を出してくるので、だからこそその同盟関係をしっかりして、日本は、もし北海道が一部あっという間に電撃的にやられた場合に、日本の一部をやられた場合に、アメリカに援助して守らせるような価値ある、またそれのしがいのある国に、同盟国にするという論理にはならないでしょうか。つまり、アメリカが見捨てるということは、太平洋戦争の末期、第二次戦争の末期にヤルタで日本を一部売ったというような、言葉、表現はきついですけれども、そういうことで非常にエゴイスティックな国だとわかりますけれども、そういうふうに、国と国との間には絶対的な一〇〇%の安全というのはないわけですから、それだからこそ日本は、アメリカとの関係に一番、同盟国との関係にこそ一番神経を使わなければならない、努力しなければならない。それを、テーク・イット・フォア・グランテッドというか、所与の、与えられたものととるのは間違いである。  それから最後の一言、巻き込まれていくのじゃないか、だから非同盟中立を宣言した方がいいのじゃないかということですが、それに一部お答えしました。  それからもう一つ、最後に述べますのは、事実関係として、ソ連は一度もアメリカの同盟国を攻めていないわけです。攻めてきた国は、東ベルリンの暴動の抑圧、それからチェコスロバキア、ハンガリー、アフガニスタン、すべて、アメリカは恐らくそれに対して報復をしないであろうというふうに、アメリカの同盟国から遠い国、逆に言えば、ソ連の同盟国に一たんなったか、なろうとしかけた国がもう一度反対の方向へ動こうとしたときに入ってきたわけで、歴史的事実を考えるならば、アメリカの同盟国になったがゆえに戦争に巻き込まれたということは事実に反します。
  75. 梅田勝

    梅田委員 終わります。
  76. 天野光晴

    天野委員長 これにて公述人に対する質疑は終了いたしました。  公述人各位におかれましては、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。厚く御礼申し上げます。  午後一時三十分より再開することとし、この際、休憩いたします。     午後零時五十一分休憩      ————◇—————     午後一時三十分開議
  77. 天野光晴

    天野委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  この際、御出席公述人各位に一言ごあいさつを申し上げます。  公述人各位におかれましては、御多用中にもかかわらず御出席を賜りまして、まことにありがとうございました。昭和六十年度総予算に対する御意見を拝聴し、予算審議の参考にいたしたいと存じますので、忌憚のない御意見をお述べいただくようお願い申し上げます。  なお、御意見を承る順序といたしましては、まず水野正一公述人、次に井上公述人、続いて水野公述人順序で、一人二十分程度ずつ一通り御意見をお述べいただきまして、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。  それでは、水野正一公述人にお願いいたします。
  78. 水野正一

    水野(正)公述人 私、名古屋大学水野でございます。ただいまから、昭和六十年度予算案と今後の財政あり方につきまして、私の意見を述べさせていただきたいと思います。  私の申し上げますことは、大きく三つの点であります。第一は、昭和六十年度予算案の評価についてであります。第二に、財政再建を進めていく上におきまして、「増税なき財政再建」はもはや限界に来ているということについてであります。第三に、今後の財政あり方、特に財政再建あり方についてであります。  まず、第一の点から申し上げてみたいと思います。  六十年度予算は、「増税なき財政再建」という制約のもとで、財政当局のさまざまの工夫と懸命の努力によりまして、ともかく財政再建へ向けてさらに歩を進めた予算であると評価することができます。  昭和六十年度の財政は、前年度に比べまして一段と厳しい状況にあります。五十九年度の経済は着実な回復過程をたどりまして、名目で六・五%、実質で五・三%の経済成長率が見込まれますが、六十年度も引き続いて景気拡大を持続し、政府経済見通しによりますと、名目で六・一%、実質で四・六%の経済成長率が予想されております。景気回復を反映して、税収の伸びもここのところ好調でありますが、税収の増加額はほとんど国債費と地方交付税交付金の増加に食われてしまいまして、国債発行額を一兆円程度減額するためには、一般歳出を前年度同額以下に抑えなければならないわけであります。ところが、後年度負担推計によりますと、一般歳出の増加額は約一兆七千億円と見込まれ、これをゼロあるいはマイナスに抑え込まなければならないというのが、六十年度予算編成に当たりまして財政当局が直面した厳しい状況でありました。  さらに、五十九年夏ごろ、景気浮揚あるいは社会資本充実という名目で積極財政論の主張も登場しまして、財政再建の後退が懸念されるに至りました。しかし、政府財政当局におきましては、財政再建の基本方針を堅持し、マイナスシーリング方式、臨調の各答申で指摘されました行政改革の推進、補助金の整理合理化、人件費の抑制等による歳出の厳しい抑制、法人税の強化、税外収入の確保等、できる限りの工夫と努力によりまして、一般歳出を五十八、五十九年度に引き続きまして三年連続で対前年度減額とし、国債発行額を一兆円減額する予算を編成し、財政再建を推進することができました。  歳出抑制の努力につきましては、三年続けてマイナスシーリング方式をとり、概算要求段階で一般歳出を抑え込んだこと、補助金の思い切った整理合理化、国家公務員定員の大幅削減等が注目されました。また、人件費補助の交付金化及び一般財源化、高率補助率の引き下げ等を主内容とする補助金等の整理合理化は、六十年度予算における歳出抑制の目玉であったと言ってもよいと思います。前年度に続きまして、二年連続で補助金総額の対前年度千三百四十四億円の減額を行っております。戦後の歴史におきましても、補助金の減額があったのは、二十六、二十九、三十三年度のわずか三年だけでありましたが、二十六年度を除きますと、いずれも特別会計創設に伴う会計間の移管でありまして、実質的な補助金削減とは言えません。したがって、二年連続の実質的な補助金のカットというものは画期的なことであると言えます。このような補助金の整理合理化は、歳出の抑制に資するとともに、地方公共団体の側におきましても、安易な補助金依存の姿勢を改め、補助事業の効率化に努めるとともに、一般財源化率を高めていく契機にもなるものと期待されます。  また、税制面におきましては、グリーンカード制を廃止することとしまして、この問題に一応の決着をつけ、非課税貯蓄の限度管理の適正化のために、本人確認制度の厳正化、名寄せの効率化等、非課税制度の乱用防止策を講ずることになりました。グリーンカード制度から見ますと大幅な後退ではありますが、適正化に若干でも歩み寄ったことには意義があると存じます。  法人税につきましては、法人企業にのみ負担増加を押しつける嫌いもありますが、財政状況からすればやむを得ない措置であったと存じます。法人税における所得税額控除の控除不足額の還付に関する特例というものは、いわゆる赤字法人課税の一種とも見られまして、巧妙な方法であると考えられます。  また、注目されておりました日本電信電話株式会社と日本たばこ産業株式会社の株式の処理につきましては、定率繰り入れ停止の措置によりまして償還財源が底をつきかけております国債整理基金特別会計に対しまして、このような措置を講ずることは適切であったと言えます。  以上のような歳出と歳入に関する諸措置のほかに、国債の大量償還に備えまして、借換債発行の円滑化のために国債整理基金特別会計制度を改正しまして、年度内に償還される借換債の発行、償還及び借換債の前倒し発行を行うことができるようにしたことは、適切な措置であったと考えられます。  以上述べましたように、六十年度予算は、「増税なき財政再建」の足かせをはめられまして、また厳しい条件のもとで工夫を凝らし、できるだけの努力を傾けて財政再建を推進したものであると評価することができまして、財政当局に対して敬意を表したいと存じます。しかし、これはあくまでも、「増税なき財政再建」という制約のもとでの予算編成であることを考慮した上での評価であることを申し添えておきます。  次に、第二の論点である「増税なき財政再建」の限界について述べます。  六十年度予算は、財政当局の並み並みならぬ決意と努力によりまして、財政再建予算を辛うじて編成することができました。しかし、「増税なき財政再建」に縛られては、予算編成はもう限界でありまして、このままでは財政再建目標の達成は恐らく不可能であると考えられます。また、あくまでも「増税なき財政再建」に固執すれば、歳出と歳入の両面におきまして財政のゆがみをますます増大させ、財政力を救いがたいまでに低下させることになるであろうと考えられます。以下、このことにつきまして、やや詳しく申し上げることにします。  六十年度予算編成を見ますと、「増税なき財政再建」を貫くために随分と無理を重ね、後年度に負担を繰り越すとか、数々の予算的なテクニックを駆使するとかによりまして、つじつま合わせをした点が多く目につきます。例えば、国債費の定率繰り入れ停止の措置は、国債償還のための減債基金制度の基本を揺るがすものであります。しかし、もしこの措置をとらなかったとすれば、約一兆八千億円の財源が必要であり、一兆円の国債発行減額は到底できなかったことであります。見せかけの財政再建予算と言われても仕方がありません。また、六十年度に償還期限の到来する特別国債は二兆二千八百億円に上りますが、これも発行時には、償還期限が到来すれば借りかえしないという取り決めでありました。取り決めどおり償還するとすればそれだけの追加財源が必要でありまして、国債発行一兆円減額どころか、大幅の増額となっていたはずであります。  社会保障関係では、行革関連特例法による厚生年金の国庫負担の繰り延べ措置をさらに一年延長することにし、また、政管健保におきまして、特別会計健康勘定の五十九年度積立金見込み額約九百三十九億円を国庫補助金の額から控除することにしているなどは、後年度への負担繰り延べによる歳出節減であります。  さらに、歳出抑制の有力な武器であるマイナスシーリング方式にしましても、五十八年度から三年続いておりまして、そう何年も続けられるものではありません。補助金等における補助率の引き下げについても同様でありまして、特に高率補助率の一割引き下げの措置は、六十年度限りという約束であります。  歳入面におきましても、法人税に偏ったつまみ食い的増税措置もそろそろ限界でありまして、今後は余り大きい増収措置は望めません。税外収入等におきましても、六十年度予算では、外国為替資金特別会計受入金が三千百億円も計上されておりますが、これは臨時異例の措置であります。  要するに、「増税なき財政再建予算の編成は既に限界に来ておりまして、基本方針の転換が求められていることはだれの目にも明らかであります。  五十年度以降約十年に及びました大量の国債発行が続きまして、国債残高が累増していくために国債費が年々増大いたしまして、六十年度予算では十兆二千二百四十二億円と、一般会計において最大の歳出項目となりまして、財政硬直化の要因となっております。五十五年度以降、一般会計歳出総額の伸びが厳しく抑えられてきている中で、国債費と地方交付税が依然として大きな伸びを続けているため、一般歳出にしわ寄せされまして、その伸びは極めて小さくなっております。このため、社会保障関係費や公共事業費といった、福祉充実や社会資本整備のための歳出が著しく抑制され、財政力は大幅に低下しております。  歳出の抑制にしましても、各省の独自性、縄張り意識が強く、施策を個別的に洗い出し、優先順位を決めて節減合理化を図るといったことが困難であるために、どうしても機械的な一律カット方式をとらざるを得ません。ゼロあるいはマイナスシーリング方式とか補助金の一律カットあるいは高率補助率の一割引き下げといったものは、その典型的な例であります。このため、優先度の高いものまでカットされる反面、非効率なものが温存されるという結果を招きかねません。これが歳出構造をいびつなものにいたします。  このような財政のゆがみ、財政力の低下というものは、「増税なき財政再建」の推進によってさらに拍車がかけられております。また、この財政のゆがみ、財政力の低下は、将来への負担の繰り延べという形で潜在的に進行していることにも注意する必要があります。このまま進んでいけば、財政は取り返しのつかないものになってしまうおそれがあります。  「財政の中期展望」及び「中期的な財政事情の仮定計算例」、特に後者によりますと、六十五年度までに特例国債依存から脱却するためには、一般歳出伸びをゼロにすることを続けなければならないことが明らかにされております。これは、「増税なき財政再建」によって特例国債依存からの脱却を図るためには、さらに五年間もマイナスシーリング方式や補助金カット方式を続けなければならないことを意味します。こうしたことがこのように長期にわたって可能であるとは到底考えられません。仮に強行したとしても、財政は回復不能なまでにダメージを受けることになりましょう。また、「増税なき財政再建」をさらに続けていけば、税制のゆがみはそのまま放置されるばかりか、ますます拡大していくことにもなります。  我が国の現行税制は、戦後、昭和二十五年にシャウプ税制調査団の勧告に基づいてなされました税制改革を基幹とするものであります。今日まで、大小取りまぜてほとんど毎年のように税制改正が行われまして、当初とは多くの点で変貌しておりますが、シャウプ税制の基本的考え方は引き継がれていると見られます。しかし、三十五年の歳月の経過とともに、我が国の社会、経済は大きく変化いたしまして、シャウプ税制を基幹とする税制ではこのような変化に即応しなくなっております。また、今後の高齢化社会の到来を考えると、現行税制のままでは到底対応できないものと考えられます。  特に我が国税制は、先進諸国では既に時代おくれとなっております累進性の極めて高い所得税中心となっておりまして、資産所得の優遇や業種別所得捕捉率の大きな格差によりまして、税の不公平感や給与所得者の間に強い不満を募らせております。他方、間接税は個別消費税であるために、課税対象とか税率の決め方が恣意的でありまして、社会、経済の変化に即応しにくい面もあり、税収の伸長性に欠けるといった基本的な諸問題を抱えております。さらに、「増税なき財政再建」の推進によりまして、現行税体系の枠内で税の増収を図る必要から、ともすれば税の取りやすいところ、比較的抵抗の少ないところをねらう結果ともなりまして、それがさらに税制をゆがめることになっております。  今後の我が国の社会、経済の変化をも展望しまして、税制を抜本的に改革すべき時期に来ていると考えられます。しかし、「増税なき財政再建」の足かせをはめられていたのでは、税制の抜本的改革ができるはずはありません。なぜなら、税制の抜本的改革には増税を含まざるを得ないからであります。「増税なき財政再建」は、極めて困難視されていた義務的当然増経費の抑制、削減を可能にする道を開いたという意味で、財政再建に大きな役割を果たしました。それはまた、多くの人の固定観念を打ち破ることにもなりました。実に静かなる革命であったとも言えます。その点、大いに評価するにやぶさかではありません。しかし、今やそれは財政再建、税制改革にとって桎梏となっております。  最後に第三の、今後の財政あり方について申し上げたいと思います。  我が国にとって、財政再建は残された最大の課題であります。財政が健全性を回復し、財政力を取り戻すということは、我が国経済が安定的成長を持続し、高齢化社会への変化に対応していくための基礎条件であります。このためには、まず「増税なき財政再建」から増税をも含む財政再建への転換を宣言して、歳出と歳入の両面にわたる思い切った方策によって、早急に特例国債発行依存から脱却し、国債依存度を一けた台まで下げていかなければなりません。  ところで、財政再建の基本的方策として次の三つが重要であると考えます。  第一は、財政再建の実現可能な計画を確立することであります。財政再建計画というと、何か大変なものを求めているというふうに受け取られがちでありますが、私の言う財政再建計画というのは、財政再建目標と具体的方策及びそのスケジュールを示すものであればよいわけであります。もっと具体的に申しますと、「財政の中期展望」のように、単に後年度負担推計で要調整額を示すにとどまるといったものではなく、その要調整額をいかなる方法で解決するかの政府の方針を示すものであればよいわけでありまして、そう大変なものではなく、やろうと思えばできることであります。  第二に、増税を含む財政再建は、決して増税のみによる財政再建意味するものではありませんで、歳出の節減合理化の努力はさらに続けるべきことは言うまでもありません。行財政機構の改革による歳出の抑制、削減は、いわばその緒についたばかりであります。ここで手綱を緩めれば、もとのもくあみに終わるおそれがあります。ただ、歳出の節減合理化に当たっては、これまでのような一律のカット方式に安易に依存せず、優先順位に従って不急不要のものからカットしていくのでなければ、真の意味での歳出の効率化は達成できないでありましょう。  第三に、財政再建のためには、歳出の厳しい抑制とともに増税が必要であります。このために、税制の抜本的な改革が必要であります。税制改革よ、財政再建のための増税という観点からのみならず、現行税制が抱える多くのゆがみを是正し、今後の社会、経済の変化に対応し得るためにも必要であります。  税制改革に当たっては、現行税制を全面的に見直し、シャウプ税制改正以来の抜本的改革が必要であります。多くの問題がありますが、特に核心となるのは所得税減税と間接税の強化であります。  所得税につきましては、税率の累進度を緩和し、仕組みを簡素化するとともに、執行面も含めて負担の公平が確保されるようにしなければなりません。  間接税につきましては、これまでのような所得税の補完であるといった位置づけとか、逆進性のために公平の原則にもとるといった性格づけについて再検討する必要があります。間接税の性格づけによっては、所得税に引けをとらない公平な税であり、所得税の補完的地位に甘んずる必要はないと存じます。  間接税強化の基本的方向としては、現行のような個別消費税体系では種々の難点があります。何よりも、税の増収を図るには限界があることにかんがみまして、課税ペースの広い間接税を導入する必要があります。  課税ベースの広い間接税としましては、種々のタイプのものがありますが、その中で製造者売上税とか卸売売上税、小売売上税といった単段階課税方式のものは比較的簡明であり、わかりやすいという利点がありますが、それぞれ重要な欠陥を持っております。これに対しまして、消費型付加価値税は精巧な仕組みの税でありまして、理論的には最もすぐれた税であります。EC諸国を初め、世界の多くの国で実施されておりまして、経験済みのものでもあります。仕組みがやや複雑なため、我が国の秋風土においては受け入れられまいとする見方も強いわけでありますが、初めから欠陥商品とわかっているものを採用するよりも優良品を採用するのが、長い目で見た場合の良策であります。ただ、一般消費税導入の失敗という苦い経験があります。消費型付加価値税の導入に当たりましては、この教訓を生かし、再び失敗することのないよう、周到な配慮が必要であると考えます。  以上で私の意見陳述を終わります。御清聴ありがとうございました。(拍手)
  79. 天野光晴

    天野委員長 どうもありがとうございました。  次に、井上公述人にお願いいたします。
  80. 井上好子

    井上公述人 井上でございます。あんまり難しいことはわかりませんので、今までの私自身の考えから言わせていただきます。  戦後四十年たつわけですけれども、その間に我々がやってきたというか、国がやってきたことに関しては、私は大変疑問を持っております。私だけじゃないと思います。何で疑問を持つかといいますと、その間やってきたことというのは、確かに経済成長だけを追ってきた。つまり、はっきり言ってしまうと、もうからないことには金は出さない、もうからないことはやらないというのが国側の論法にあったような気がいたします。その上で、文化などと今言われると、私は大変びっくり仰天してしまいます。政官財あわせてそんなことを今ごろ口にできるんだろうかという気がしてしまうくらい、痛烈に感じております。  なぜそう思うかということになりますと、これは今先生が経済のことをお話しになりましたけれども、私自身は、経済を追っているうちに日本人が本当に心を育てることというのを忘れてきてしまった、多分これからじゃないか、これから文化とか心という問題に戻ってくるんじゃないかと考えると、今さらこんな国、防衛費なんて多大なお金を使って何を守ろうとしているのか。逆のことを言ってしまえば、防衛ですか、自衛隊なんかの退職金の方が大変なんじゃないですか。それを考えていくと、なぜ文化というものに対してみんながもう少し気を砕いてくれなかったのか、不安に思っております。私たちはアメリカへ行って、よく今日本でブロードウェーなんて言っていますけれども、ブロードウェーに還元されるお金を考えていくと、文化は決してお金にならないことじゃないのです。長い時間かけて人間がつくっていくものというのは誇りにできるものだし、そういうものを持っている国こそ本当に文化国家だという気がするし、そういう国をほかから攻めようなんてだれも思わないんじゃないか、よしんばそういうことを考えていれば、逆に攻められるんじゃないかという気になってしまうのです。  文化というのは、一概に言いますけれども、私がやっている演劇もそうです、映画もそうです、それから芸術、音楽、すべてそうです。ある人間にとっては、政治家の方にもそういう方いらっしゃると思うのですけれども、一生必要のないものです。だけれども、ある人間にとっては、生きているときに絶対に必要なものです。そういうことに関して本当に理解を示していただく人が政治家になり官僚になり、そして逆のことを言うと財界にいてほしいと私はいつも思っていました。でも、その三者一体になってやったことというのは、ほとんど金もうけだけです。それを追い続けていって、確かに日本は経済的には大国になっているかもしれない。でも、心は依然として野蛮国です。  事ごとについて、もう少しきちんとしていただければわかるのですけれども、私は演劇の仕事をしていて初めてびっくりしたのです。なぜかといいますと、まあいろいろやります、裸の芝居ももちろんやります。でも、そんな、これだけ開けた世の中で、国が絡むと差別用語を使うことは何一つできない。裸が出てくるなんてとんでもない。劇場は九時以降は貸せない、なぜならば公務員だから。そういう国が、文化が育つような劇場を持っているということは、本当におかしいんじゃないかというふうな気がするのです。(「社会党に言わなきゃいけない」と呼ぶ者あり)今社会党と言いますけれども、私はどこの層にも属しておりません。だけれども、日本の国家がもしこれから文化という問題を洗おうとするならば、やはりそういうことに反省の目を向けていただきたい。  それから、一番しわ寄せが来ているのは、そういうことにお金を投じるような庶民なんです。皆さん、庶民、庶民、みんなのためにと言っていますけれども、サラリーマンが映画を見に行く、音楽を聞きに行く、図書館に本を見に行くということに使えるお金というのはほとんどないのです。つまり、逆のことを言うと、増税なんかする前に、税をもっと平等化してください。私は、それははっきり言って、あんなにたくさん書類もらって、全部は読めませんでした。きょうは水野先生もいらっしゃっています。実際にマスコミとかいろいろなことを言われますけれども、文化に使われているお金は一兆円ぐらいしかないんじゃないですか。そんなにもないですか。それから逆に、例えば医者とか薬剤に投じているお金というのは何兆と聞きました。こんな不平等な税法の中で、文化、文化なんて絶対言えないと思います。  それで、一番しわ寄せが来るのは、本当に我々働いているサラリーマンのところに来ているんだということをよくわかっていただきたいという気がします。その人たちが何かをやるんだったらば、本当に国を挙げて文化を守りたかったらば、中にいらっしゃる人たちを一人ずつ教育していただきたいと思います。私たちはそのぐらい、どれほど裁かれているかわからない。私は保険を掛けたいなと思いますけれども、いまだに何か河原こじきなんでしょうか、役者とか芸術家にかかわる保険というのは入るものないのです。ここら辺もよく考えていただきたいと思います。国が何かをつくる、劇場をつくるといっても、多目的でつくるために、どうでもいいような小屋が必ずできてくる。その中に入ってくる、官僚から来た人たちというのは、本当に文化に理解がないのです。そういう中で仕事をしているということも、一回考えていただきたいというふうにいつも思っていました。ですから、きょうはとてもいいチャンスだというふうに思ってやってきたのです。細かな数字はよくわかりませんでしたけれども、そういうつくり手、それから受け手、それからもう少し考えていくと、政官財が一体になってもう一度、人間が生きることというのはどういうことなのかということを考える時間が今必要なんじゃないか。  それで、防衛費というのは、防衛費なんかちょっと削れば福祉なんて簡単です。はっきり言えば、飛行機一台分なら全員に車いすが買えます。それから、難病で困っている今これから巣立っていこうという若い子供たちにだって、何だってしてあげることができます。本当はそういうところから手をつけていただくというのが、人間の命をつなげる人の役目じゃないかということを考えています。  私は、政治家というのは余り好きじゃないです。最初から言っています。どうして好きじゃないかというと、最初はいいのに、だんだん横に目を向け、そして庶民がなんて、大きな口をたたいてもらいたいとは思っておりません。本当に苦労して、毎日子供に食べさせることを考えて、何とかその中で余裕を持って暮らしたいと思う人たちに、そういうものの用意が全然ない国の担い手というのは、どうも信用できないのです。ですから、そういうものを考えていくたびに腹が立ってきてしようがないのです。戦後四十年、これからがちょうどいい時期に入っているという気がしております。目を見開いていただくのだったら今しかない。何もこれから巨大な国家なんということは、我々は考えていません。だからといって、ささやかな自分だけの幸せならいいとも考えておりません。本当に人間がこの国を誇りとできるような、それから自分の住んでいる場所を誇れるような、そしてこれが後世にも伝えられるようなもの、何もないところからつくっていけるものにこそ、本当に価値があるのじゃないか。文化も資源の一つです。文化資源というのを掘り起こさなくて、つくり得なくては何もできない。その文化に投資をする姿勢が国にあってこそ、初めて私たちは国を誇れるようになるんじゃないかというふうに思っております。今みたいに、何か国民全員のためになんというふうなことを公に発表する前に、そういうところに目を向けてください。  今、芸術と言われている中でも随分、戦後すぐにできて癒着のまま動いているところがいっぱいあります。新しく何かをしようとする人間たちにとっては、今ぐらいつらい時代はないです。癒着のまま来ているのです。本当に何かをしようと思ったらば、古いよいものを受け継ぐ力と、そして本当に悪いものを切り捨てる努力、勇気というのが必要だというふうに私は考えております。その両方がなくて、古いものはずるずる引きずって、新しいことはばっさり切ってきてという中で、今私たちに文化生活をしろというのは、大変皮肉であり、侮辱だと思っております。何もお金をくれとか優遇しろとか言うために私はここへ来たのじゃなくて、人間が生きるために絶対に必要だ、それから本当にむだな中にこそ、人間のあした生きる喜びみたいなものがあるんだということを皆さんにもう一度考えてほしかったのです。ですから、政治家の方たち、それから官僚でもいいです、財界の方たち、小さな小さな投資を何か目こぼしみたいになさらないで、大きな大きな投資を文化にもしていただきたい。そういうことで、何か一つ手がかりがあればいいんじゃないかということを常々考えております。  何か、私は大きなことを言うつもりで、いろいろ言いたいことは山ほどあったのですけれども、防衛費、軍事費という形がどんどん話題になっておりますけれども、そのことに関しては、大幅に予算がふえることを一番怖がっております。我々が本当にもう戦争は嫌だと言ったのは、どうして嫌かというと、自分たちがたったこれだけ短な一生を終えようとしているのに、それを人工的に自分の人生をちょん切るようなことはしたくないです。そういう国を自分の子供に渡したくないです。少なくとも今より少しはましな世の中にして、そしてできたらば隣の国とも、そしておくれている国とも一生懸命手をつないで仲よくしていくということを、やはりもっと人間の生活を心の中から考えていただく政策をお願いしたいのです。もう飢えた子も世界にはたくさんおります。そして、私たちが幾ら巨大な国になろうといったって、これだけちっぽけな国の中にいるわけですから、資源というのはほとんどないのです。今まで資源というのは、ある物を掘り起こしたりあるいは天然、自然の中から持っていくものと考えていましたけれども、人間も立派に資源ができるんだということにもう一度何とか目を見開いていただきたいということを切にお願いいたします。そのために何とかお力をかしてください。政官財が一体になってもう一度そこに戻れば、この国は必ず人間が誇れるような国になるというふうに考えています。そこら辺のことで、何とか皆さんの御協力を得られないかというふうに考えています。  ニューヨークなんかですと、私たちはニューヨーク、ニューヨークと、日本人みんな行ってお金を落としています。それはもう、国を挙げて文化政策というものをきちんとやっているんです。そのときに私は思いました。幾ら軍拡とおっしゃっても、随分反対運動も出ているはずです。文化をやっているから軍拡をやっていいという考えは絶対あり得ないです。それでは、悪いことをちっとやったっていいじゃないか、いいことやっているんだからというのと同じです。上に立つ人というのは、悪いことやっちゃいけないのです。上に行げば行くほど、悪いことやっちゃいけないのです。これはもう私たちの約束事です。はっきり言うと、こじきをする人間は食べなきゃいけないときは盗みをします。ときどき神様はその人を許します。でも、地位もお金も得た人間が悪いことをしていくことは絶対必要ないです。本当に、そういうふうに恥ずかしい人間になっている人を私たちはなぜ選んでいるんだろう、そういうことをときどき感じるくらい、私は政治に対しては不信感を持っております。本当にそういうことがわかった人にやってほしい。  それで、今も言いますけれども、官僚そのものからいっても、私は、官僚が変わらない限り国なんて絶対変わらない、どんなにタレントの議員が出たって、どんなに有名人が議員になったって、官僚が変わらない限り絶対国なんて変わらないんだというふうに思っているんです。実際に私たちが何かをしようと思って、さっきニューヨークの話があれになりましたけれども、オーストラリアにしてもニューヨークにしても、自分たちと反対のことをやろうとしている人間にだって、ちゃんとお金を出しています。そういう意見を、もう一つの考え、もう一つの行き方というのを謙虚に学ぼうとする姿勢が国側にあるんです。そういうのが、逆に言うと反体制もきちんと意見を聞かせる役目の中に置いておく。あるいは、劇場なんかつぶれますね、そうすると国がまず買い上げて本当に才能に投資をしようなんという情報があるんです。  もちろんそれには、市民の人たちがそういうものを渇望している、望んでいる、理解があるというところがあります。でも、今のように税金が重く取られてしまって、とてもじゃないけれども文化なんか入れることができないなんというときには、そういうことは考えられないです。本を読みたいといっても、図書館が土曜、日曜日休んでいるなんというような国が、果たして文化国家と言えるのでしょうか。人が休んでいるからおれも休みたいなんという人間に、人間の心を養うものを任じておくというのはどこかおかしいんじゃないか。そこら辺のことをもう一度何とか考えていただけるんだったらば、本当にありがたいというふうに私は思っています。  とにもかくにも、軍備を拡大していくなんという国家がいいとはさらさら思っておりません。そのために私たちは、母親が一人一人みんな反戦運動家になっていくというふうに考えていますし、そのことだけは子供の未来に向かっても拒否したいというふうに考えております。  こんなところでお話を終わらしていただきます。(拍手)
  81. 天野光晴

    天野委員長 どうもありがとうございました。  次に、水野公述人にお願いいたします。
  82. 水野肇

    水野(肇)公述人 御紹介いただきました水野でございます。  私は、財政学者ではございませんので、政府予算案全体について財政学的見地から述べるような識見も何も持っておらないわけでございまして、日ごろ私がやっております医学とか医療とか健康とかという立場から見て、六十年度予算案はどうかということについてしゃべらしていただきたいと思うのですが、私は、以下に述べるような理由から、結論として賛成でございます。  と申しますのは、そもそも予算というのは政策を反映したものであることは言うまでもないわけでございますけれども、従来は、ややもすれば額が大きいか小さいかをもって力を入れているとか入れてないという評価だけが非常に出ていたように思うわけであります。ところが、御承知のように、石油ショック以来景気がよかったためしはほとんどないわけでこぎいまして、ほんのわずかよければ非常にいいというふうに言わざるを得ないような状態でございます。かてて加えて、先ほど来お話の出ました赤字国債の問題もございまして、予算そのものは硬直化しているわけであります。そこで私は、この際その予算というものを見る目として、もちろん金額も重要であることは言うまでもございませんけれども、同時に、ただ大きい、額が多いのがいいというふうな見方だけではなくて、どういう政策を展開しているかということから、それが国民の要望にマッチしているかどうか、そういう角度からも見るということも必要なのではないかと思うのであります。  政治というのは、先生方に申し上げるのは失礼かもわかりませんけれども、私は、やはり国民が安心して生活できるということが政治の第一眼目なのではないだろうかと思うのであります。その点からいいますと、今国民が一番要望しておりますのは言うまでもなく健康ということになるわけであります。その中でも、最も今日本にとって重要な問題というのは、やはり私は来るべき本格的な高齢化社会にどう対応するかということなのではないかと思うのでございます。  そこで、一体今の老人というのはどうなっているかということをまず最初に若干、御承知とは思いますけれども申し上げてみたいと思いますのは、御承知のように、日本の老人というのは国民のほぼ一割であります。正確には九・八%ですが、その一割の中の一割というのは、これは寝たきりとか老人痴呆とかリューマチとか難病とか、それから関節がだめになったとかというふうな方で、要するに寝ていられる、ないしは介護がなければ何もでさない、こういう人たちが一割いらっしゃるわけであります。  それからもう一割は、今の医学でどんな検査をしてもどうもないという人たちであります。これは大変幸せな方で、例えば政治家の皆さんというのは、この一割に入っておられる方が大変多いわけであります。それから庶民の方では、大体朝から晩までゲートボールをやっておる、こういうのが多いわけなんでございますが、とにかくどこから見ても健康だという優良老人というのが一割おるわけです。  残りの八割は何かというと、これは現代の医学で検査をしますと、結局どこか悪いという結論になるわけであります。お医者さんの方から言えばあなたは疾病ですということになるわけで、しかし、この八割が全部疾病だという考え方をとるべきかどうかというのが、昨年来国民健康会議で非常に議論されたところでございまして、これは、その程度に問題はあるにしても、やはり一病息災ということでいくべきではないだろうかと思うのであります。一病どころか二病も三病もありましても、大自民党の幹事長をやっておられた方もあるわけであります。そういうふうなところから見て、私どもは、ただ単に医学の検査結果からだけで物を考えるのではなくて、一病息災で元気に生きる、多少血圧が高くてもちゃんと仕事をしているというふうなのが高齢化社会には必要で、そういう施策が今後展開されるべきではなかろうかと私は思うのであります。これについては、御承知のように、若干ではございますが予算もついておるわけでございます。  さて、私どもは、医学の進歩の恩恵によりまして、大体死ぬ病気が決まってきたわけであります。何で死ぬかというと、がんと心臓血管系の病気、つまり脳卒中及び心臓病でありますが、それと事故、この三つであります。事故は予測がつかないので、これはちょっとさておくといたしまして、結局、がんと心臓血管系の病気にできるだけかからないようにする、あるいはかかっても軽い段階で抑え込む、こういう施策を国がとるべきではないかと私は思うのであります。いつも年来主張しておられるように、医療費を減すというのはやはりそれしか方法がないのではないか。ただ、残念ながらそれらの病気のある部分は老化現象であって、結局人間には宿命として取りまとわれているような面もあるわけでございまして、絶対にならないという方法も保証も、それはだれにもないわけであります。そこで、なっても軽い段階におさめる、これが、三十五歳以降の検診という今非常にやかましく言っておられるところが、非常に重要なんではないだろうかというふうに私は思います。  それから三番目には、これはいろいろ言われておりますけれども、要するに健康な規則正しい生活というものがやはりあるだろうと思うのであります。これは非常に難しい問題も抱えておりますけれども、要するにだれでもが御存じの話、例えば毎日七時間眠るとか、それから朝昼晩とちゃんと時刻どおり飯を食うとか、朝飯をコーヒー一杯でやめない、きっちり食ってくるとか、たばこを吸わないとか、酒は飲んでもいつでもやめられるとか、それから太り過ぎないとか、あるいは週に二回何か適当な運動をするとか、そういうようなことをやらない場合、最高寿命を大体二十年縮めるということを言われているわけであります。そういうようなことを国民にやはり周知徹底させるということが重要なので、これは予算の額というよりも、むしろどういうユニークな発想を担当のお役所がおやりになるか、私は、予算案という非常に広いものから見てそういうこともまた考えられるのではないかと思うのであります。  それからもう一点強調したい点は、今の日本で非常に重要なことは心の問題であります。井上さんのおっしゃったのも心の問題かもわかりませんけれども、私の言う心の問題は心の健康であります。今の日本人というのは、心が健康でないとは私は申しませんけれども、徐々に心が健康でない人がふえつつあるという実態はあるわけであります。そこで、それに対してどういう対策を立てるかというのは、今後大変重要な問題になってくるわけであります。  かてて加えて、極めて残念なことながら、例えば先ほどニューヨークの話が出ましたが、アメリカへ行きますと、大きなビルディングがあれば、必ず二人ぐらいはカウンセラーというのが仕事をしているわけであります。しかし日本では、大きなビルへ行きましても、レストランはありますけれどもカウンセラーはまずいることはない。そういうことは、やはり日本の精神科領域の医療のおくれであるわけであります。これはやはり取り戻さないと、日本は最先端のテクニックを持っている国でありますけれども、それだけにテクノストレスというのは、日本が一番もろに受ける危険性を私は持っていると思うのであります。  それはほんの一例でございますけれども、そういった意味から、九〇年代には首から上の医学と首から下の医学がほぼ同等に考えられる時代が来るのではないか。それぐらいやはり精神的な問題というのは、大変重要であるというふうに私は思うわけであります。そういう対策もいろいろ出ているわけでございます。  がん対策についてはいろいろなことが言われておりまして、十カ年計画等も政府でおやりになっておられまして、私も基本的にこれは賛成であります。ただ、がんで非常に重要なことは何かというと、現段階では国民の皆様が御希望になっておられるような、一発の薬でがんが全部治るということはあり得ないわけであります。残念ながら医学というものはそういうものであるわけでございまして、そこで今の段階でとるべき対策というのは、総合戦略であるということにならざるを得ないと私は思うのであります。現在のがん対策というものの基本は、やはり早期発見しかないわけであります。そういうことについて、まあ相当程度力が入れられてきておるということが言えるわけであります。  それからもう一点、私がかねがね思っておりますことでございますが申し上げたいのは、とかく従来の医療政策あるいは公衆衛生対策というのは、何か起きたらやるということが多かったわけであります。それは僕は間違っているとは申しません。しかし、何か起きてからやるのではなくて、生まれてから死ぬまでを一巻の物語と考えて施策を展開するということが非常に重要ではないかと私は思う。  最近、特に今年度予算では、先生方は額が少ないからひょっとしたらお見落としかもわかりませんけれども、例えばB型肝炎の予防費というのが三億一千万円出ております。たったの三億かとおっしゃるなかれと僕は言いたいわけであります。なぜかといいますと、B型肝炎というのは大変恐ろしいビールスでございまして、これに感染いたしますと肝炎から肝硬変、そしてそれの二八%から三二%は肝臓がんになるわけであります。余り世間では言われておりませんが、肝臓がんというのは、男については世界で一番死亡率が高いのは日本であります。それの原因の一つに、これがどうもあるらしいというふうに考えられているわけでございまして、これはウイルスががんの原因であるということを証明した一つのケースとも言えるわけでございますが、そういうものを何とか防げないかという対策費があるわけであります。  実は肝炎というのは、B型肝炎と言われておりますのと、ノンA、ノンBと申しましてA型でもB型でもない、まだよくわからないというのもあるわけではございますけれども、少なくとも今私の申しましたB型肝炎については、これはかなり縦感染をするわけであります。縦感染というのは、母親から子供に感染するという、大変恐ろしいわけであります。これをある程度、ワクチンとかグロブリンを投与することによって防げるということが学問的にはっきりしてまいりましたので、この三億一千万円をつけたわけでありますが、御承知かとは思いますけれども、これは生まれた直後、それから二カ月、三カ月、五カ月に、ワクチンとかグロブリンを投与いたしますことによって免疫をつくるわけであります。  参考までに申しますと、B型肝炎を持っておるのをキャリアというのですが、そのキャリアは大体地球に二億おるのですが、そのうち一億五千万人は東洋にいるわけであります。もちろん、我々日本人も含まれておるわけであります。私は、こういうことがやはり非常にいいのではないかと思うのであります。  もう一つ神経芽細胞腫という、これも厄介な小児がんの問題でございますが、その神経芽細胞腫の検査費というのが一億二千万円出ております。これは、赤ちゃんのおしっこをちょっと見るだけですぐにわかるという新しい方法を京都の研究者が開発いたしまして、既に十数県で試験的に実施して、八七%から九〇%弱はそれで発見できるというかなりユニークな方法でありまして、これを今度取り入れた。  私が今申し上げましたのは、非常に額の少ないものばかりを無理に取り上げたように思われたかもわかりませんけれども、私が申し上げるのはそうではなくて、額は小さくとも国民に大きな影響を与えるものがある、低成長時代というのはやはりこういう発想が要るのではないだろうか。そして生まれてから、あるいはもっとはっきり言いますと、マイナス一歳から亡くなるまでの全部をちゃんと管理していく。管理という言葉がぐあいが悪ければ、よりよき健康な生活を営んでいただくようにしていただくということが私は大変重要であると考えておるのですが、そういう施策がぼつぼつ、少なくとも芽がいろいろとことしの予算には出ておる。細かいのはたくさんあるわけでございますけれども、そういうやり方というのが最終的には国民の健康を守る上においてはプラスになるのではないだろうか。そういうようなことで今回の六十年度予算というのは、それなりに気配りができておるというふうな点において、実は私は評価しておるわけでございます。  もちろん、医療費の問題だとかあるいは年金の問題だとかいろいろございます。いろいろございますけれども、だれが予算編成をやりましても、恐らくこれだけ大蔵省の財政状態が悪ければ、ある程度むだを切り詰めざるを得ないということは、私はやむを得ないと思うのです。したがいまして、昨年の健保改革案も、結局はあきらめ切れぬであきらめたという心境で僕なんかも受けとめたわけでございます。本来は、それは自己負担がない方がいいというのは決まっているわけでありますけれども、どこかでどうにか持たなければならないといったらその程度はやむを得ない。つまり、そういうふうに時代自体も動いてきているのじゃないか、そういう時代の動きの中で無理な負担が国民にかかってはもちろん困るわけでございますけれども、応分の負担という程度で展開される限りにおいてはよろしいのではないだろうか、私はそういうふうに考えておるわけでございます。  ただ、一言申し上げたいのでございますけれども、それは一体、今国民の中でだれが一番困っているのだろうかということでございますが、それは困っている方はたくさんいらっしゃると思う。サラ金に追っかけられている人も、困っている人には違いないわけであります。しかし、私が一番困っていると思いますのは、それは家で寝たきりの方を二人以上抱えているうちというのは大変だと思うのです。そんな寝たきりが二人もいるのかというふうに思われるかもわかりませんけれども、現実にその傾向はだんだん強まってきておる。それはなぜかというと、一人っ子同士が結婚するというケースが大変ふえてきているわけであります。一人っ子同士が結婚したら、その夫婦は四人の親を面倒見なければならないわけであります。そういうふうに考えてまいりますと、政治に優先順位という話が先ほども名古屋大学水野先生から出ておりましたけれども、私は、政治に優先順位があるとすれば、一番困っている人ということになると思うのです。  その意味において、ぼつぼつ厚生省などもおやりになっているわけでございますけれども、やはり特別養護老人ホームというのは事情のいかんにかかわらず、ふやすべきじゃないだろうか。今日、寝たきりというのは、厚生省の調査では三十六万人いるわけであります。それに対して、特別養護老人ホームのベッドは十万しかないわけであります。そうすると、あとの二十六万人というのは、それは病院に入っている人も多分十万ぐらいあると思うのですが、それでも家庭介護をしておられるというのが相当数あるわけであります。こういう人たちに、家庭で介護するのならもっと徹底した訪問看護をやるとか、そこに医療を持ち込む。日本では、病院に入院した方が金はかからなくて済むようになっているわけであります。特別養護老人ホームに入るよりは病院に入った方が、老人の場合にははるかに自己負担は少ないわけであります。だけど、そういうような矛盾をひとつ六十一年度予算あたりからぼつぼつ是正しながら、やはり一番みんなが困っているというところに手を差し伸べていただきたい。  その意味において、もう一点言わしていただきますと、それは老人痴呆の問題でございます。これは今日の医学では、今のところは、そう言うと精神科の先生にしかられるかもわかりませんけれども、実質的にお手上げの状態なんです。どういうことをやってみてもうまくいかないというのが精神科の先生方の結論のようでございますけれども、これはきっちりとしたプロジェクトチームをつくって、何らかの形でどうにかならないだろうか。例えば、自助努力というふうなものというのは、何か残酷のように聞こえるかもわかりませんけれども、老人痴呆がどんどん進んでいく過程というのは、まず第一段階というのは環境が変わるということがある。だから、長年住んでいたところから息子が東京にいるからといって東京へ転居をしてきたりすると、急に老人痴呆は進むわけであります。  そういうことが一つあるのと、もう一つは、手とり足とりということが果たしていいのかということは、今精神科の先生方の間では大変議論の対象になっているわけであります。それは、どうにもならなくなった方はそうしてあげざるを得ないと思いますけれども、そうではなくて、まだ残存能力があるという方についてどうやっていくかということが重要なんで、その意味から今日、医学ではリハビリテーションという考え方こそ重要であるわけであります。リハビリテーションといえば、多分先生方は、あの脳卒中、脳梗塞や脳出血の後遺症で一生懸命体操しながらやっている人のことをお考えになると思うのですけれども、もちろん、あれもリハビリテーションでございますけれども、リハビリテーションというものの本当の意味は、国際的な意味では、残存能力をどう開発して、どう社会に適応させるかということであります。だとすれば、年をとれば補聴器をつけたり、眼鏡をかけたりするのもリハビリテーションであるわけでございまして、そういう意味においてリハビリテーションというのは、非常に大きなウエートを持ってこれからの大きな柱になりつつあるわけであります。  医療というものは、今まではその治療が医療だというふうに考えられておったのでございますけれども、これからはそうではなくて、予防も健康管理もリハビリテーションも、そしてもう一つ、ターミナルケアと言われておるホスピスというのがございますが、そういうものも全部含めたのが医療だ、そういう総合対策というものが打ち立てられるようにならなければいけないのではないかと思うのです。  行政あるいは政治というものは、一遍に何もかにもできるものではないということは、私もよく存じ上げております。しかし、徐々にいろいろな芽が出てきたのをうまくまとめながら推進していく、そういう意味において私は、本年度予算といいうのはその第一歩になってほしいというふうに考えておるわけでございます。  ちょうど時間になりましたので、この程度で終わります。どうもありがとうございました。(拍手)
  83. 天野光晴

    天野委員長 どうもありがとうございました。     —————————————
  84. 天野光晴

    天野委員長 これより公述人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。自見庄三郎君。
  85. 自見庄三郎

    ○自見委員 きょうは公述人の方々におかれましては、本当にお忙しい中おいでいただきまして、大変貴重な御意見を拝聴させていただきまして、深くお礼を申し上げます。  まず、税制につきまして水野教授にお聞きしたいのでございますが、公的負担の問題でございます。  いわゆる国民所得に対する租税負担率及び社会保障負担率の国際比較をやりましても、先生御存じのように日本は三六%、今さっき非常に公的負担が高いんじゃないかというお話もございましたけれども、数字といたしましては日本が三六%でございます。アメリカが三七・三%でございまして、イギリスが五四・四%、西ドイツが五四・一%、フランスに至りましても六割を超えまして、御存じのように六一・一%、スウェーデンに至りましては七割近くでございまして、六八・三%という数字が出ておるわけでございます。  そこで、今、現在は高齢化社会だという話がいろいろな公述人からございました。現在はこの高齢化社会の入り口でございまして、御存じのように日本国、今から二十一世紀の初頭にかけて、歴史上のいかなる国がいかなる時点においても経験しなかったように、急速に非常にカーブが上がりまして高齢化するわけでございます。そういった中で、この国民の負担率が現状よりも上昇していくということは、これはもう避けられないことだと思います。水野先生のお話にもございましたように、医療もお年をとられた方、六十五歳以上の方の医療費というのは非常にかかるわけでございます。年金の問題もございます。しかし、これもまた先生御存じのように、余り負担率、公的な負担を上げますと、どうももう働くよりも、働く活力と申しますか、個人の創意がなくなるのもまた事実じゃないかというふうに私思うわけでございます。ここで、今さっき申し上げましたように、租税負担率と社会保障を足した負担率、この公的負担と申しますか、負担が一体どれくらいだと将来いいんじゃないかというような、先生いろいろな御意見がおありと思いますけれども、その点につきましてまずお聞きいたしたいと思います。
  86. 水野正一

    水野(正)公述人 ただいまの御質問ですが、現在のところでは我が国の公的負担率というのは先進諸国の中では低い方だ、アメリカ我が国よりやや高い程度で、イギリスあるいはヨーロッパ諸国に比べますとずっと低いわけで、もう少し負担を引き上げる余地はあるというふうに思います。思いますし、また、いろいろな財政需要にこたえるためには、引き上げざるを得ないというふうに思います。  ただ、どの程度が適当な限界かということになりますと、ちょっと私よくわかりませんが、恐らくはアメリカとイギリス、ドイツ、こういうところの間ぐらいといいますか、のところまでは行かざるを得ないんじゃないかという気がいたします。  ちょっと正確にお答えができないので申しわけないのですが、その程度でよろしいでしょうか。
  87. 自見庄三郎

    ○自見委員 どうもありがとうございました。  これはもう今から、国としてやはり当然、高齢化社会になって大変大きな問題になってくるだろうと私は思うのです。これはもう当然国民のコンセンサスと申しますか、どういうふうに考える、またどういうふうに国を考えるということに深く立脚するものでございますから。  続きましては、企業税制のことについて私、ちょっと先生の御意見をお聞きさせていただければと思うわけでございます。  先生御存じのように、家計ないし個人の所得に対する税負担は、日本国はかなり低いわけでございます。しかしながら、企業に対する税負担というのは、国際的に比較いたしましても相対的に高い水準にあるわけでございます。企業の実効税率が日本では五二・九二%、アメリカが五一・一八%でございまして、西ドイツでは五六・五二%、イギリスではこれが先生御存じのように四五%でございまして、フランスでは五〇%だということでございます。相対的に高い水準にあります企業税制をこのまま続けていくと、いわゆる企業の活力が失われるのじゃないかという指摘もあるわけでございまして、御存じのように日本の歳入の約三割、十二兆見当は法人税でございます。そういった意味で、今後における企業税制のあり方について先生はどういう御意見をお持ちか、ひとつお聞かせいただきたいと思います。
  88. 水野正一

    水野(正)公述人 おっしゃるとおりだと私は思います。日本企業、特に法人税の負担というのはかなり高いところに行っておりまして、実効税率での比較ではやや高いというところですが、このほかにいわゆる企業の租税特別措置、各種の優遇措置を考慮に入れた上での、これは実質税負担というような呼び方をしている場合もありますが、こういうものを入れますと、これは国によって非常に税制が違いますので簡単に比較はできませんが、国によっては企業の優遇税制というのは十分やっているところもありまして、そういうところと比べると、日本の方はかなり負担が高いという結果になっていると思います。今後は、私は余り法人税の方にばかり税負担を引き上げていくのはよくないというふうに考えておりまして、現行税制の中でやるのでしたら、もっと物品税だとかそのほかの間接税あるいは所得税といったようなところをやるべきで、もう余り法人税ばかりやるというのはよくない。  ただ、私先ほど申しました税制改革で抜本的に税制を見直すという段階では、課税ペースの広い間接税とそれから法人税との関係とか、こういうものはこの際根本的に見直して、法人税とかあるいは課税ペースの広い間接税というのはやはり企業課税の一種とも見られますので、企業課税のあり方という観点からそういうものを含めて検討するいい機会じゃないかというふうに思います。
  89. 自見庄三郎

    ○自見委員 もう一点水野教授にお聞きしたいのですけれども、今さっきのお話にもかなり出ておりましたけれども、いわゆる高齢化社会に向けてどういう税収構造にすればいいか。今、法人税、所得税等々については出たと思うのですけれども、所得税につきましても、御存じのように現行の日本では十五段階でございまして、一〇・五%から七〇%まで、これは地方税を入れますとことしは七八%ぐらいになっているかと思いますけれども、現行のアメリカでも御存じのように十四段階ございまして、一一%から五〇%まで。ところが、先生御存じのように、昨年でございますか、こういった税制を改革しようというような動きがアメリカでも出まして、財務省の改革案ではこれを十四段階を三段階に改める、大変シンプルにする。そして、税率も一五%、二五%、三五%にする、先生御案内のようにこういった改革案が出ておるわりでございます。そういったことを含めまして、高齢化社会に向けての税収構造というのはどういうふうにあるべきか、ひとつ先生の御意見を聞かせていただきたいと思います。
  90. 水野正一

    水野(正)公述人 私は先ほどもちょっと申し上げましたけれども、基本的にはやはり法人税の方はほぼ頭打ちで、これ以上負担をふやすということは避けるべきだと思いますと、あとは、残るのは所得税と間接税であります。  それで、所得税の方につきましては、今お話にありましたとおりでありまして、特に我が国の場合は限界税率の最高のところがべらぼうに高いわけで、こういうふうな強い累進構造というようなものを残しているところというのは先進諸国の中でも最近少なくなっておりまして、アメリカにしろイギリスにしろ、最高の税率のところはかなり低いところに持ってきております。そこで、今後、所得税の方はそういう形で累進構造をもっとなだらかなものにするという方向を考えなければいけませんし、同時にまた、いろいろな所得控除、税額控除その他で複雑な仕組みになっておりますので、もう少しこれを簡素化する、税率の刻みももう少し数を少なくするというふうなことも考えられます。ただ、アメリカのように、これは実現するかどうかわかりませんが、一挙に、トラスチックにやるというのはどうかという気がいたしまして、やはり時間をかけてそういうところは是正していく必要がある。  いずれにしても所得税の方は、こういうものは税の減収につながるわけでありまして、それをカバーする以上の税の増収を図る必要がありまして、これは間接税の増強という形でやらざるを得ないというふうに思います。間接税の増強につきましては、先ほど申し上げましたが、現行の個別消費税ではもう対応し切れないと思います。また、いろいろな矛盾を含んでおりますので、課税ベースの広い間接税を導入すべきであるというふうな考えです。
  91. 自見庄三郎

    ○自見委員 水野教授、どうもありがとうございました。  それでは、水野先生にお聞きをさせていただきたいのですけれども、私も、先生の御意見に本当に強く感服した人間でございます。昭和二十一年の我が国国民の平均寿命はたしか五十一歳だったと思いますけれども、現在は女性が七十九歳、男性が七十四歳まで生きるわけでございまして、人生五十年から人生八十年の時代になったわけでございます。これも西欧諸国は、二百年かかって人生八十年にやってきたわけでございますけれども、我が国はわずか四十年で本当に輝かしき記録と申しますか、世界一の長寿国になったわけでございます。  しかしながらまた、長寿国になったら今度は、先生の言われましたように、以前とは非常に疾病構造の変化もございますし、それに対する社会の側のいろいろな価値観の変化、多様化、国際化、それからまた家族構成の変化、そういったものが複雑に絡み合っておるわけでございます。そういった中で、先生の御意見でいわゆる健康づくりと申しますか、健康増進でございますね。病気になって初めて治療するのでなく、病気になる以前に予防しようということ、それも包括的にやらねばならないという御意見だったと思いますけれども、健康づくりの方法論と申しますか、その基本的な視点と申しますか、そういったことにつきましてお伺いできればというふうな質問でございます。
  92. 水野肇

    水野(肇)公述人 自見先生はお医者さんで御専門家ですから、すべてよく御存じの上でお聞きになっておられるのだろうと思うのですが、私は実は、一番重要なことは、国民の健康に関する意識改革をどういうふうに持っていったらいいかというノーハウが残念ながらまだ日本にはない。それじゃ外国にあるのかというと、外国にもないわけでございまして、結局はどういう意識改革をするかということなんじゃないかと思うのです。  ただ、私は先ほど申しましたように、健康というのはWHOの規定どおりではないんじゃないかと思うのです。WHOの規定どおりでしたら、とにかく何事に対しても前向きの姿勢で取り組めるような精神及び肉体及び社会的適用状態を言うということになっているのですが、それでは恐らく国会議員の先生だって健康だという人はだれもいらっしゃらないということになるわけでして、そこはもう少し幅を持って考えてもいいんだろうと思うのです。  要するに、自分の健康は自分で守るということをどういう言い方をして国民に納得してもらうか。これは言い方を間違えますと、国は何もやらぬのかという批判を受けるわけですから、そこが非常に難しいところであると思うのですが、そのノーハウというのは何かないだろうかというので実は勉強会もやったこともあるのですが、これはという決め手は残念ながら現在のところは出ていない。ただ一つは、繰り返し言うということは意外に効果があるのではないか。それから、マスコミだけではなくてミニコミ、口コミも含めたやり方をする。それから地域でその問題をやっていく。ここらあたりが一つのこれからの検討すべき問題点ではないかというふうに考えております。それでよろしゅうございますか。
  93. 自見庄三郎

    ○自見委員 どうもありがとうございました。
  94. 天野光晴

    天野委員長 次に、上田哲君。
  95. 上田哲

    ○上田(哲)委員 井上さんにお尋ねをいたします。  こういうかた苦しいところへ女性として、また母として、井上ひさし先生の奥様としてあるいはこまつ座のいろいろとなすっていらっしゃるそういうさまざまな立場で、しかも鋭く御意見をいただきまして大変ありがたいと思います。過日は社会党大会にまでおいでいただいたので、心からお礼申し上げておきたいと思います。  お話の中に、庶民とは何だというようなお話とかあるいは文化も資源である、大変感銘を深くお伺いしたわけであります。そしてそのお話の中に、軍拡というような国では困る、防衛費が膨らんでいくことに国民は怖がっているぞ、こういうお話もございました。文化と軍事、防衛という問題についても、大変御警告を鋭く承ったところであります。  そこで伺いたいのでありますが、私どもは今この六十年度予算の審議の中で、防衛費がGNPの一%の枠が、これは長く守ってきたものでありますが、突き崩されるのではないかということに非常に大きい危惧を持っております。私どもが大きな安全保障論争の手がかりといたしますのは、国民が何を考えているか、世論がどう受け取っているか、いろいろな世論調査でこの一%枠は守るべきであるというのが七割から八割を超える姿でありまして、これは一番大事にしなければならないものだと思うのでありますが、中曽根さんは、これは一つの参考資料であるというふうにこの席でも軽く答えられているわけであります。  お伺いしたいのは、決して専門的な立場ではなく、長いことこうした議論が国会で続けられていることなどを見聞きされる、庶民という言葉を使ってよければ一般世論というものの立場で、私どもは、この一%を守るべきだという声が非常に高まっていると思います。それは兵器が一つ幾らにつき、それが一体何%に当たるかなどという数字の問題ではなくて、先ほどもお話があったように、文化こそ国を守るものだという視点に立つ国民の意識が大きくあるんだろうと思うのであります。  私どもは、一%を一円超えれば危険で、一円超えなければ安全だなどという言い方はためにするものだと思っています。一%を守れということは、このことが果てしない軍備増強というものへの歯どめを持てるかあるいは歯どめを外してしまうか、ここに大きな性格上の問題があるというふうに考えて議論しているわけでありまして、どうかひとつそういう意味で、主婦、母あるいは庶民、この感覚の問題として一%を守っていこうとする八割の気持ちはどんなものか、そこらあたりをひとつお話しいただければありがたいと思うわけであります。
  96. 井上好子

    井上公述人 私の主人は「吉里吉里人」という小説の中で、日本は医学立国になった方がいい、ここに来ればどんな病気も治るというふうになれば、この国を攻めたりそれからだめにしたりすることは世界じゅうがしないだろうという理想国家をつくって、独立国家をつくりました。そのときには軍隊は持ちませんでした。  私は、今の質問に関してお答えするとすると、これはアメリカとの約束の中でGNPというのが出てきたということを考えると、これからちょっとでも出るのは大変怖いと思います。安保条約が平和条約ではなくて不平等条約になる可能性も多分に含まれているという点で、これ以上には決してなってほしくないというふうに考えているのは、私だけではきっとないと思います。それしかちょっと今はお答えできないのですけれども、いいでしょうか。
  97. 上田哲

    ○上田(哲)委員 はい、ありがとうございました。
  98. 天野光晴

  99. 川俣健二郎

    ○川俣委員 社会党の川俣健二郎です。御三人、御苦労さんです。社会党の持ち時間で関連して、お三方の御労苦をいやしながらお伺いしたいのでございます。  水野先生、筆先生ですが、しばらくぶりで予算委員会においでくださったんですが、何回もこの予算委員会で、特に医療問題、専門でございますので、あるいは予算だけではなくて私たちの社労関係にも、健保の事あるごとに、もめるごとに大変に水野先生の識見を伺ってまいったのですが、それは後で、テーマは心臓移植と脳死の問題、死の判定に脳死が入るかどうかという論争になっているのですが、これはこの予算委員会でも何回か出ましたので、その辺を後ほど講義調でひとつゆっくり、持ち時間で聞かしてもらいたいと思いますので、先に質問を通告しておきたいと思います。  そこで、井上好子さんにいろいろと御意見を承ったのですが、私は政治家は嫌いだと。私も政治家の一人なのでショックであったのですが、ちょうど今中央公論に、皆さんもお読みになったんだろうけれども「利益誘導の政治経済学」、こういうので、いろいろと社労族その他固有名詞を挙げていろいろと書いておるのですが、ずっと読んでいると、先生のお話の一貫したものによう似ておるなと思って、それなりに感銘しておったのです。ただ、きょうは、六十年度の予算委員会の御参考人で公述していただいておるので、やはり政治家は嫌いだと言うだけではなくて、こういう政治家は嫌いだともっと具体的に、文化人側の最たる有名人でございますのですが、やはりこういうようなものになってほしいなというようなことを、いい機会なので、もう少し提言願えれば大変に参考になるのじゃないかなと思っておりまして、あえて、先生のお話はずっと一貫しておりますが、その辺をもう少しお話を承れればありがたいなと思っておるのでございます。
  100. 井上好子

    井上公述人 私は国会議員ではありませんので、やじにはなれておりません。余りやじを飛ばさないでください。もう上がってしまいます。  予算を、実は私、これはあの膨大な資料を細かく見てくることができなくて、大変申しわけなかったと思います。それで、とにかく希望を述べろということだったものですからそういうことになったんですけれども、非常に具体的なお話を今しろということだったのですけれども、まず、手前勝手なことを言わせていただければ、公共団体がおつくりになる会館あるいは多目的を目的とする会館に関して言えば、多目的ホールというのは、実のことを言ますと、何にも使いようがないというホールのことなんです。中新田ですかにバッハ・ホールというのができましたけれども、あそこは、私たちが外国に行ったときに真っ先に音楽家に聞かれるホールなんです。私の方が知らなくて、はあっというふうに問いかけて聞きました。それは、そこで音楽を、本当にきれいな音楽を聞くための小屋としてできているわけです。そういうふうに、やはり専門的なことはそこでなら確実だというふうなことというのが、実はお金の使い方の一番正しい使い方じゃないか。何でもできますよというのは、逆に言うと何にも合わないということになるんじゃないか。国がつくる劇場を見てみますと、大体、ひどいところは二千人なんというのがあるのです。二千人の劇場、それは体育館じゃありませんから、そんなところで音楽を聞いたり演劇を見るということは全く不可能です。でも、どこの都道府県へ行きましても、そういう小屋をみんな建設中ということで愕然とすることがあります。  私たちは、もうコンピューターとかあるいは機械化とかというのがどんどん進んでいるかわりに、それとは逆に、反対の方向をもっともっと渇望している時代に入ってしまいました。それはもう先に行きますと、水野先生は医者の立場から、精神医療が必要になってきた、国がそれほど複雑化、多様化、高齢化してくればくるほど、人間の心を養う場所というのが大切です。広場をたくさんつくってほしい、そしてそういう場所に、どうか人間の心が宿るような小屋をまずつくっていただきたいということを一番最初にお願いしたいと思います。  そういうことも一つ一つ挙げていくと切りがないのですけれども、答弁を簡略にお願いしますと目の前に書いてございますので、まず一つとってそれだけでもお願いできればというふうに思っております。(「政治家の話は」と呼ぶ者あり)  政治家の好き嫌いですか。これは大変難しい問題で、一言で嫌いだということは言えませんけれども、政治そのものがころころ変わりますから、そういうところにいてカメレオンみたいにならないでいただきたい。とにもかくにも、こういう国はこんな国になってほしいという理想を持った政治家になっていただきたいという希望をしたいのです。  何でもやることには、私は芝居ですから、この間石橋さんにもお会いしたときに申し上げましたけれども、こういう国になってほしい、その国で自分はこういう政治家になりたいという理想の像がない限り、人間は演技はできないというふうに思っております。ですから、本当はしゃれ心、芝居っ気というのは人間にとって一番大切なんです。なぜ大切かというと、そういう理想に近づく演技をしているうちに、人間はだんだんそういうふうな姿になってくるというふうに思っております。  ですから、こういう政治家になりたいということをまず皆さんにお聞きしたいと思います、私の方から反対に。そのことから、私はこういう国家でありたい、こんなふうな国の政治家でありたいという理想がある人はいい政治家になれると思いますけれども、全然そんなことがなくて、どこかの県から推されてやっとなって何か出てくるという政治家の方は嫌いですということを申し上げたかっただけです。
  101. 川俣健二郎

    ○川俣委員 ありがとうございました。  やはりころころ変わらない人がいいと。風向きのままに変わらない、非常にだれかに聞かせたいのですが……。  さらに、具体的なホールの話が出ましたが、私は文化庁なら文化庁のためにある程度弁護してやりたくなるのは、文化人の人力がこういうものをやってほしいという結集の予算でないんだな、きっと。だけれども、文部省は一生懸命にマイナスシーリングの中で取っていると言うのですよ。防衛庁は防衛庁で一生懸命汗だくで取っているように、文部省は文部省で取っているが、これなら満足じゃないんだろうけれども、喜ばれるに違いないと言うけれども、全然もう、具体的に入ると内容もその他も、せっかくの文化人がああよかったなというようなことになっていないというところに問題があるんで、これはやはり非常に政治家は聞いておく必要があったので、あえて……。  それから水野先生、私たちが、おととしでしたか、予算委員会が始まろうとしたら、ある官立大学の助教授先生から、うちの家内が、まだ三十前後でございましたが、もう間もなく、がんで死の宣告を受けた、しかしどうせだめならこの薬を使わしてほしい、こういう血の出るような投書が、中曽根総理大臣以下全員に、この予算委員会をある程度意識したと思うのですが、正月を前後して出てきた。そこでがん対策というのをここで大きく取り上げましたのですが、やはり先生は医療に明るい人ですから、いろいろと考えて、この予算が窮屈な中でそれなりに評価できるということの論評から、もう少し先生は物書きに書いてあるからここで聞いてみたいのは、やはり難病、奇病とか、老人のぼけだってそうだと思うんだけれども、健康づくりというものよりも、そういう大変な局面に入っているというのは、例えばさっきのがんのようにこの薬を使わしてくれといったって、ちゃんと医療関係法があるものですから、すなわち法律であるものだから投薬はできない、注射はできない。ところが、今非常ににぎやかになってきたのは、心臓病の研究費に一億円、初めて日本の国の予算に登壇したわけですね。膵臓でも腎臓でも、この間筑波大学の三人の先生が東大グループに告発されたわけですが、起訴にはまだなっていませんが、この問題なんか取り上げてみると、家族というか、本人も含めてか知らぬが、安楽死まで私は話を発展させませんが、もう少し医療をめぐる法律が国民サイドから出てもいいんじゃないか。脳死を死の判定に入れていいかどうかという論争までする気持ちは私はないのでございますが、心臓の移植、日本人のある方は海外に行ってその手術を受けてくるというのが大分ふえてきただけに、日本の国内法の規制のために日本ではできないということになっておるが、その件を少し、まだ私の時間ありますから、七、八分、講義調で先生その辺を、物の本では読んでいますけれども、生の声をひとつ聞かしてくれませんか。
  102. 水野肇

    水野(肇)公述人 私は、国会の先生方がそういう問題に関心を持たれるようになったということにぜひひとつ敬意を表したい、まずそう思うわけであります。僕らだけが言っていたんじゃやはりだめなんで、大いに援軍を得たような気がするわけでございます。  その問題、どういう角度からどう考えるかというのは大変難しいのですけれども、まあ私はこういうふうに考えているということでしかないわけですが、脳死というのは、今日の医学のレベルからいうと、従来は心臓の停止と脈拍の停止と瞳孔反射の停止の三つで死と判定していたわけなんですね。それが、脳が死んだことによってこれは不可逆的である、つまりもう戻ることはないということになってきたということについては、私は医学的に事実であると思います。特に杏林の竹内教授なんかが主宰しておられる会がお決めになりましたあの六つの項目というのは、これは私は、今日の医学的に見て、ほとんどアインヴァントの入れようはないのではないかという気がするわけであります。現にその後、脳死の判定をしたもので生き返った例は、アメリカでは三例あるのですが、日本ではないわけであります。それはなぜないかというと、というか、なぜアメリカはあったかというと、アメリカは中毒及び水死を中に入れているわけです。日本はそれを除外している。だから、これが戻るかもわからぬということであるわけであります。  そういう意味から、私はそれは一つの医学の進歩だと思うのでございますけれども、それがそのまま進んでいくとすれば、そうさして社会問題にはならないと思う。なぜ川俣先生がおっしゃるように非常に関心を持たれるようになったかというのは、脳死の状態で心臓なり、まあ腎臓もそうでございますが、臓器を取り出さなければ、少なくとも心臓移植ではもう脳死の状態以外ではだめだということになっているわけであります。そこが問題なんでございまして、本来、死の判定をどうするかということだけが議論をされている限りにおいては、私はさして問題にはならないと思います。ところが、現在一番脳死の判定に積極的であるのは、実は移植をおやりになる外科医のグループであるわけなんです。そこで、外科医の先生方としてみたら、どっちみち移植するのにうまくいかないのでは困る。これは私は医者として、当然そうお思いになるのは無理もないと思うのです。そこが実は国民のコンセンサスがとれてないところなんです。  現に脳死の段階で、幾つかの大学で、つまりあなたの御主人だとかお父さんは今脳死の段階になりましたからこれで亡くなりましたと言っても、やはり遺族はじっと心電図を見ているわけですね。そうすると、心電図は動いているわけですよ。そこで生きているじゃないか、こういうことになるので、結局は脳死の判定をしても、心臓がとまるまでは大体治療を続けるということを現実には各病院や大学ではやっておりわけなんですね。  そこで、じゃ、この問題をどう考えていくか、国会の問題になるのかならないのかはともかくとしまして、私は基本的には、まずすべてのお医者さんが脳死の概念についてやはりコンセンサスをお医者さんの間でおとりになるべきではないかと思うのです。それはなぜかと申しますと、死の判定、つまり死亡診断書を書くことが許されているのはお医者さんだけなんです。弁護士でもだめなわけです。そこでやはり医者のライセンスを持っている者は、今杏林の竹内先生らがおっしゃっている六項目の診断が可能でないといけないわけです。ところが、現在の技術のレベルからいうと、それは中には可能な先生もいらっしゃると思いますけれども、あれは、多くは脳外科ないしは神経内科の専門医ないしはそれに近いレベルの先生でないとちょっと診断がつきにくいし、またそれだけの医療機械を持ってない先生もたくさんあるわけであります。  そこで私は、やはりまずお医者さんの中でそういうことをお決めになるということが第一段階で、そうしてみんなが、うん、やはり脳が死んだら死んだのかということになったときに移植、こういうふうに順番としてはいくというのが物の筋ではないだろうか。ところが、医学の進歩というのを世界の角度で見ると、そんなことを言っていたら間に合わぬわけなんですね、実際問題としては。試験管ベビーだって同じなんです。とにかく、できるというのはやってみるという人が必ず出てくるわけですね、世界じゅうのどこかで。これは大体、日本は先端を切ってやるという方は少ないのですけれども、一周おくれてトップになりたいと思う先生日本には多いわけですから、そういう意味では、やはり非常に競争心はあるわけです。そこで日本でもやるというふうなことに、あらゆる医療技術でそうなってくるわけなんです。  これを法律で規制するかどうかという問題については、これは私はやはり国会の先生方一つの見識だと思いますよ。法律で規制するという手があるということは、もちろん私もよくわかっております。しかし、法律でやった方がいいのかやらない方がいいのかというのは、だれが決めるのかというと、私はやはり、それは国民全体のコンセンサスなんではないかと思うのですね。ところが、なかなかお医者さんの側も、国民のコンセンサスをおとりになることは難しいわけです。それはいろいろな意見がありますし、賛否両論ということになるわけでございますので、そういう点が大変難しいのですけれども、これはひとつ、予算委員会のテーマというよりはむしろ先生方の検討項目として、私どもと一緒に勉強していただくというのが一番いい結論ではないかと思います。
  103. 川俣健二郎

    ○川俣委員 どうもありがとうございました。
  104. 天野光晴

    天野委員長 次に、池田克也君。
  105. 池田克也

    ○池田(克)委員 公明党の池田克也でございます。お忙しいところ、貴重な御意見を承りましてありがとうございます。  最初に、水野先生にお伺いをしたいのでございますが、お医者様のモラルの問題でございます。  私、文教関係委員会に所属をしておりまして、今年度の予算編成でもお医者様の養成について国の予算、特に文教関係予算でございますが、いろいろと議論があったわけでございます。  最初に端的にお伺いしたいのですが、先生からごらんになって、お医者様のモラルは今の状況で満足すべきものであるかどうか。国民の間にもいろいろとございます。お医者様の金銭感覚という面もございましょうし、また治療あるいは生死さらにまた老人に対するお医者様のお考え、非常に広い分野にわたってございますが、どの分野を切り取ってお答えいただいても結構なのでございますが、お医者様のモラルについて先生のお考えを伺わせていただきたいと思います。
  106. 水野肇

    水野(肇)公述人 お答えします。  どの分野から見ましても、私は今のお医者さんのモラルというのが十分だとは思っておりませんけれども、ただ世の中全般を見まして、お医者さんだけが特にモラルが悪くて、ほかの例えば政治家とか弁護士とかは皆特別にモラルがいいのかということになれば、これはまたいささか僕も疑問があるということにもなるわけでございます。私ども、先生方もそうだと思うのですけれども、本来、日本には学校先生とかお医者さんとかという、いわゆる先生と言われる人たちは悪いことをなさらないという前提で物を見るということが、もう明治以来身にしみついておるのではないかと思うのです。それで、先生ともあろう者がということに結局はなるわけでございますが、これは果たしてこういう世の中になってきたときにそういうふうに考えて正しいのかどうか。別の言い方をすると、先生も労働者であるという意見もありますし、同時にまた、医者だけが特別ではないという意見もあるわけであります。しかし、私はお医者さんに求めるモラルというのは何かというと、やはりこれはヒューマニズムという一点についてはそうではないかと思うのです。その点から見まして、今日のお医者さんというのは、もちろんヒューマニズムに横溢した方もたくさんいらっしゃいますけれども、いささか足らないのではないかと思われるようなケースが時々出てくるということが僕はあると思うのですね。  それは、なぜそういうふうになってきたのかというのは、一つは世の中がそういうふうになってきておる。人生万事金次第みたいなところが、そうは言ってもあるということもあると思います。しかし、一番大きな理由は、医学部に入学する学生というものがやはり昔の方が——昔というか、僕の言う昔というのは戦前という程度の昔でございますが、戦前の方がやはりヒューマニズムに燃えた人がより医学部へ行ったことは事実のようなのです。今はどうかというと、より秀才が医学部へ行っておる。私はそのより秀才というものが、すべての点においてオールマイティーなのであるかどうかということが、やはり今日ちょっと問われなければならないことなのではなかろうかと思うのです。そういう角度から見て、例えばうちの高校の卒業生が何人医学部へ入ったというふうなことが今日の教育の場では、高校の教師あたりの間では言われるわけですね。そういうことが問題なので、わしはどうしても医者になりたいという人がお医者さんになられるというのがまず第一番ではないだろうか。  それからもう一つは、医学教育の中で、それはもう少し何とかならないかという意見がいつも出るわけでございますけれども、医学教育というのは実はなかなか難しいものでございまして、高校を出て入ってくる人間、大抵はあれは浪人せぬと入れませんから、十九か二十になる、それに倫理だ何だ言ってみても、もうやはり性格形成はできているわけですから、大変難しいわけなんですね。そういう点で、私は、やはり小さいときからの問題というふうなものも考えなければいけないのじゃないかというふうに思いますけれども、私は今のお医者さんのモラルというのを相対的に見た場合には、やはり昔よりも低下しておるし、もう少し向上していただきたいというふうに思います。
  107. 池田克也

    ○池田(克)委員 ありがとうございました。  今のお話の中で、なりたい人がなるのが一番いい、こういう御指摘がございましたが、現実に先生もお気づきだと思いますが、医師養成の機関に、つまり大学に入るについて非常に費用がかかるわけでございます。最低は千五百万、高いところでは七千万ぐらい寄附を要求される。平均でも大体三、四千万のそうした寄附を入学時に学校が要求をする、またそれでなければやっていけない、こういうふうな現状でございまして、なりたい人がなれない。本当に自分の身辺に生命にかかわる重大な事件が発生して、どうしても自分は医学を志して世のため国のために尽くそうという若い青年が、そのとおりの志を果たせない。むしろそうした資産があって、後継ぎと申しましょうか、そういう状況の中で医学への道を進むという人の方により門が広いという、こういう状況が今日ある。これはいろいろなところで議論されてきております。この問題をどうごらんになるか。  先ほど、若干お答えも伺ったようにも思いますが、もう一つは、お医者様は学校先生等と並んで、我が国計画養成をしてまいりました。人口十万に対して百二十人、百三十人、百四十人。今日ではその目標を二年早く達成いたしまして、国はかなりの補助をつぎ込んできたわけでございますが、このまま進めば、七十年代には人口十万に対して二百七十人、場合によっては三百人というふうな医師過剰時代を迎える、したがって国の予算を、貴重な予算でございますので、そこに振り向けるのはいかがなものか、こういう議論があるわけでございます。  したがって、私お伺いしたい問題は、二番目の問題として、過剰になれば過剰になったで激しい競争の中でお医者様の淘汰が行われる。これまた国民から見ていいことかもしれません。しかし、反面、それに費やす国費あるいはその他の費用というものも莫大でございます。一体どの辺が最も適切なお医者様の数であるか、この問題について。最初は非常にお金のかかるという問題についてと、それからお医者様の国策としての数の適正という問題について、二点だけ、時間もございませんので、かいつまんでお答えいただきたいと思います。
  108. 水野肇

    水野(肇)公述人 お答えします。  最初おっしゃいましたのは、私立の大学のいわゆる入学金ないしはそれに絡む寄附というお話であろうと思うのですけれども、私の個人的な意見では、大学というのは、医学部は何も私立だけしかないわけではないわけで、国立も公立もあるわけでございまして、そこはやはりある程度以上の成績の人であれば入れるわけなので、問題はその私立の場合でございますけれども、これは大学側に聞きましても、大学側の言い分もやはり御承知のようにあるわけなんです。東京大学でも、大体一人の学生をつくるのに、三千六百万円ぐらいは少なくともかかるというのですね。一年間六百万円の割であります。だから、当然私立だってそれ以上の金が要るのだから、そいつを入学のときにいただくのだというのが私立の側の言い分なわけですね。ただ、私は、入りたいという人が入ったらいいと申しましたけれども、やはり一定のレベル以上の人がお医者さんになられるのでないと、社会は不安に思うと思うのですね。劣等生ではやはり困るのじゃないか。という意味において、やはり一応門戸は閉ざされているのではなくて、国立大学については開かれているわけでございまして、ということがあるのではないだろうか。しかし、そういう莫大な入学金を取るということについては、私はこれから先もいいとはもちろん思いませんし、何らか別の方法を考えなければいけないということになろうかと思います。  それから二番目の、あなたは医師の適正数をどう思うかというのは、これは世界じゅうで答えられる人はだれもいないテーマだと言われておるのです。したがって、私自身も答えるだけの能力はないのですけれども、ただ、こういうことは言えると思うのです。医師がふえるということは、国民にとっては必ずしもマイナスではないのですね。さっきおっしゃったように淘汰があるし、いい先生が残るという意味においてプラスにはなる。しかし、それにしては養成費がかかり過ぎるではないかということになるわけでして、私は、この養成費がかかり過ぎるではないかという問題は、実はまさに国会の先生方のアイデアを借用し、なければならない問題なのではないだろうかと思うのです。  私は、個人的な意見としては、余り医学部をふやすなということを年来言ってきたわけで、いまだに文部省へ行きますと役人はそう言うわけです。あのとき先生の言われたとおりになりましたとか言って、よく言われるのですが、今言われてもしようがないわけです。ただ、結論的には私は、もうどうしてもおまえ数字を示せと言われたら、大体いいところは百五十人というのがやはり一つの線なのではないか。そもそも医師養成計画も、百五十人を目途にやったことは御承知のとおりであろうと思います。
  109. 池田克也

    ○池田(克)委員 ありがとうございました。  水野教授にお伺いしたいのですが、この増税なき再建は限界だという御説でございます。いろいろな御研究の中からそういう答えが出てきたのだと思うのですが、私どもいわゆる庶民感情と申しましょうか、とりわけ教育費の高騰でございます。私は、教育費は一種の税じゃないか。総理はこの場でも、多段階における包括的な、投網を打つような税金はかけないというふうな答弁をしておられたのですが、まさに子供たちの世界におきましては、中学へ入る、高校へ入る、大学へ入る、それぞれの段階で非常な教育的出費がかかる。ある調査によりますと年収の三分の一、約四百万ぐらいの年収の家庭で年間百二十万の経費がかかっている。住宅ローンに追われ、子供教育費に追われ、実際にもうこれ以上は本当に一銭も出せない、こういうふうな国民感情が強いわけでございますね。  先ほど、水野先生が指摘しておられました老人の問題にもそれは絡むのですが、お年寄りの面倒を見たいけれども家計が苦しいので、主婦はパートであれ何であれお金を求めて働きに出なければならない、こういう状態の中でお年寄りも話し相手もいない、お孫さんは学校から帰ってくればすぐ塾へ行ってしまう、家庭の中はこうした状況の中で本当に苦しい毎日を過ごしている。したがって、私ども政治の現場におりまして、選挙で支持をしてくださる方々、選挙区の方々と対話を交わしながら、その声を政治に反映するのを任務としておりまして、したがって「増税なき財政再建」というのは論理ではわかりますけれども、現実には、国民感情としてはとてもこれは受け入れられないという状況なんですね。そういう中で、なおかつ学問的なお立場で一体いかなる方策が、最善ではなくても次善の策としてとり得るのか、この席でお聞かせいただければと思うのです。
  110. 水野正一

    水野(正)公述人 お答えいたします。  おっしゃるように、「増税なき財政再建」を外して増税をするというのは、国民感情としては受け入れられがたいというのはそのとおりかもしれません。しかし一方では、財政の現状、それから今後の社会、経済の変化、特に高齢化への対応というのを考えますと、先ほどからもいろいろと医療費の問題なり老人対策なり、そういう方へのまずまずのいろいろ手当てをしようと思いますと、かなり財政需要というものが増大せざるを得ないわけでありまして、増税というのはだれしも、これをよろしいと好んでやる者はいないと思うのですけれども、現実問題として、やはり私どう考えてもやむを得ないんじゃないかというような気がするのですね。  それから、教育費の問題にしましても、私は子供がいないのでちょっと言う資格がないかもしれませんけれども、そのかわりに冷静な見方ができるのですけれども、教育費が大変だと今おっしゃるのですけれども、よく見ておると何か余計な教育費を使っておるような気がするわけですね。といいますのは、学校教育で本当はきちんとやればいいのに、塾だとか予備校だとかそういうところにはどんどん金を使う、普通の、正規の学校教育には、授業料を上げるとかなんか言うと嫌な顔をするとか、そういうところが私にはちょっと理解できないところもありまして、本当に教育費というので家計を苦しめて困っているのかなというふうな疑問も感ずるわけですね。  そういう点で私はちょっと思うわけですけれども、よく税について、大衆課税というのを避けるべきだというのが一種の公理のような形で言われるわけですね。そうすると、だれしもそのとおりだというふうに感ずるのですけれども、この考え方も、私よく考えてみるとおかしいという気がするのです、個人的に。といいますのは、こういう考え方、私もさっき申しましたような戦後のシャウプ税制の一つの遺物じゃないか。結局、あの当時の非常に所得水準の低いところで、国民の大半がろくに食事もできなかったような、非常に生活に苦しんだ時代、こういう時代には生活必需品だとか、とにかく生活を支える、それを侵すような税というのはこれは絶対避けるべきだ。これは当然でありますけれども、その後所得水準というのは非常に上がりまして、特に我が国では、一部には高額所得者がおりますけれども、世界的に見ても非常に所得が平準化して、多数の人がいわゆる中間といいますか、中堅階層意識というのを持っている。事実、所得水準から見ても、そういう状態に到達している。  それで税というのは、やはりそういう人たち、すなわち大衆が税を負担しなければだれが負担するのだという気がするのです。大衆課税というか、そういうものを避ければ、ではどこに税をかけるのか。金持ちだといったってそうたくさんはいないわけで、そうすると企業課税とか、個人が直接痛まないところにかけてしまうという形、これも先ほどもありましたように、企業の競争力とか企業活力という問題からすると非常にゆゆしい問題です。やはり個人がもっと、所得水準がお互いに向上して、そういう意味で私生活の余裕というのは私はないとは言えないと思うので、そういう中で応分な税負担をやっていって、そして財政をまともなものにして将来に対応をつけるというのが、やはり私は国民一つの責務じゃないかというような気がするわけです。  以上です。
  111. 池田克也

    ○池田(克)委員 ありがとうございました。終わります。
  112. 天野光晴

    天野委員長 次に、木下敬之助君。
  113. 木下敬之助

    ○木下委員 三名の先生方、本日は御苦労さまでございます。民社党を代表して質問をさせていただきます。  まず、水野正一先生にお伺いいたします。  先生の先ほどのお話をお伺いしておったのですが、六十年度予算を「増税なき財政再建」の足かせのもとに財政再建を推進する、このように評価なさっておる、こういう御意見でございました。そういう見方もあるのでしょうが、六十五年度までに赤字国債脱却という、こういう大きな目標があるとはいえ、それに至る具体的な方策を何も明らかにしていない、そういう今年度予算というのは問題を先送りしただけの予算だと私は思うのですが、先生、どうでしょうか。
  114. 水野正一

    水野(正)公述人 お答えいたします。  おっしゃるように「増税なき財政再建」という厳しい足かせを入れられておりまして、歳入面の方での手段というのを封じられておりますので、そういう中で国債発行額一兆円減額していくということのためにはいろいろな無理を重ねているわけでありまして、その中にはおっしゃるような将来に負担を先送りするといいますか、ツケを将来に持ち越しているという、こういう面もかなりあるということは確かだと思います。しかしこれは、こういう「増税なき財政再建」という旗印でやっている以上はどうしてもやむを得ない、これをもって予算編成あるいは財政当局を責めるのは酷であるというふうに考えております。
  115. 木下敬之助

    ○木下委員 そういう中で、先生はかんぬきを外されるべきだというふうな御意見にお伺いした。政府の方は、このかんぬきをどうするのかという質問等も過去ずっと行ってきた中に、臨調の答申に「増税なき財政再建」、これはかんぬきであって外さない、こういうふうに言ってきておられます。これを外すとすると、やはり臨調というものの性格から、当然国民的な何か手続が要ると思うのです。先生は、そういった手続をどんなふうに考えておられますか。
  116. 水野正一

    水野(正)公述人 お答えいたします。  これはやはり政治家の方の決断と責任でやるべきことであって、私はそういうのを強く希望する立場でありまして、どういうふうな手続とか、こういうものでやればいいかというのは、政治の世界をよくわかりませんので十分お答えできませんが、政治家の方々の方で、さっき私申しましたような決意でもって、そういうところにぜひ踏み出していただきたいというのが強い希望です。
  117. 木下敬之助

    ○木下委員 先生どう考えておられるかというのをお聞きしたので、先生の御意見がというわけじゃないのですけれども、ただ、私どもは政府の姿勢を見ていますと、税の見直しをして、その結果増税になったものは増税と見ないような、こういう臨調できちっと枠があり、そのかんぬきを絶対外さないと言いながらも、そこには手を触れないままなし崩しにこういうふうになっていく、そういうふうな流れのようなものを何となく感じて、その危機感に対処していきたいと思っておる。そのときに、先生のように、きちっと「増税なき財政再建」ということを言ったからには、この予算は評価する。ところが、それをなし崩しにしてまた増税をやれば、それはそれで評価なさる。こういう形に国民の方にとられると、非常にそのけじめがつけにくいところがございます。そういった意味で、私が自分の考えを申し上げたわけでございます。ちゃんと、国民のはっきり信頼の得られるような方向で政府にやってもらいたいと私どもは考えております。また機会がありましたら、御意見を聞かしてください。  次に、井上先生にお伺いいたしたいと思います。  先生の文化に対する情熱とか政治に対する怒りのようなものは非常によく伝わってまいりまして、何か我々も一緒にしかられたような感じを持って、どの辺をしかられたのかなあと考えておるところでございます。ただ、ちょっと具体的にどういったことを求められておるのかが余りはっきり伝わりませんでしたので、何か具体的なことがあったらお伺いしたいのです。例えば、先ほどちびちびしたものに予算を出さなくて大きな投資をやったらどうかとか、こういうことを言われたので、その大きなというのは一体どのくらいの規模のもので、具体的にはどんなことをやると、先生のおっしゃられるような文化に対して理解のある政治だというふうに思っていただけるのかな、このように思いましてお伺いいたします。
  118. 井上好子

    井上公述人 さっき私、劇場のことを申し上げたのですけれども、あれも一つではあったわけです。それから、私の場合は芝居をやっておりますので、演劇という問題からもちょっと考えてみたいと思っているのです。  これは、全く具体的な話になって申しわけございませんが、日本に今よくミュージカルと呼ばれているものが来るんですけれども、これはほとんど各企業が何らかの形を出してやっているというケースです。文化庁や何かにも、私たちはどういう形でこれが来るのかということを何度も聞きに行ったことがございますけれども、無難なものを国は呼びたい、余り刺激的なものは呼びたくないということだったので、どの程度のお金が出ているかということまでは聞き出すことはできませんでした。  ここに一つ資料があるんですけれども、これは私たちが今自分たちで計画しているミュージカルの仕事なんです。まず日本では考えられないんですけれども、既にこの作品をつくるときに、市なら市が何らかの形で関与しよう、とにかく若い芸術家あるいはその芸術家にひとつかけてみようじゃないかというふうなときに、市がある程度までの投資というのですか、そんなこともちゃんとやっているというふうなケースも見られます。一株以上——一株が幾らになるかというのはわからないのですけれども、二百株まず入れる。それについて、まず基本金としては二百セントだけから出発しているというふうな場合のときもあります。それは交渉するときに、もう日本では考えられないのですけれども、これは外国との交渉の中なんですけれども、半々の交渉なんという中にちゃんと市が入ってきているんですよね。この契約をするときに、私も見せられましたけれども、契約書というのは本当に十センチぐらいあるわけです。これによって芸術家が国からも守られ、税からも守られ、そしてあるいは何度も挑戦することができるような契約というのができるようになっております。なお、それが外国に出てもできる。外国に出て、もう一回お金に換算できるようになるまでとにかく理解を示して、何らかの形でやってみようというふうなこともできております。そのときには、各芸術家に何か事故が起きた場合とか、あるいは突発的に急病なんかでその劇ができないなんというときには保険を掛けるとかという制度もきちっとできています。日本では保険は個人に掛けるものであって、興行に保険を掛けるなどということはとってもあり得ないです。ですから、大きな仕事なんというのも余りできないです。  それから、これは税の問題になってくると思いますけれども、私の主人の場合は、作家なんですけれども、大きな仕事をしたいときの投資というのはほとんど認められない。それで、累進課税ということになりますけれども、がぼっと入ってきたものに対しての税金で、一番その成果が出るのに四年なり五年なりかかる仕事というのをやるだけの芸術家の余裕がなくなっているということもお考えいただきたいと思います。そのときには、今現在入ってきた金額だけで全部評価しますから、一番収入が多いときというのは、逆のことを言うと一番作家が追い詰められたりするというふうになりかねない。こういうことは、ちょっと余り考えられないんじゃないかというふうに私は思っています。  だから、国が公に貸せるものはなるたけ安いお金で、そしていろいろの人に試験的に貸してみるというふうなこともできるんじゃないか。それから、国が投資できるものというのは、これは文化としてというか、人間を資源として考えるようにして便宜を図るとか、そしてあるいは涙をのんで——もうニューヨークなんか新しくできた劇場、さっき言いましたけれども、あれは市長さんが市で一カ月一セントで芸術家に貸した劇場から世界じゅうにミュージカルが生まれているというケースもあるほどなので、これがまた話題を呼んで、みんながまたミュージカルを見に行くというふうなことを生んでおります。必ずいいものは還元できるというふうに考えております。  それから、国が守れるものというのもあるわけで、それから国が広げていくものというふうにあると、無から有を出すものに対するやり方というのは、何かいっぱいあるような気がします。  それから、私たちは狭い小屋で芝居なんかやっていきますけれども、現実にたくさん人を入れたくても消防法や何かで入れることができないというふうなこともあって、余り客を入れることもできないです。何千万とお金を投資してやるんですけれども、いつも行政の目というのが怖くって思い切ってお客も入れられない。それが多分に、行政としては何か事故が起きたときのことを考えるからだめなんだということを言っていますけれども、そんなむちゃな入れ方はしてないんですけれども、意地の悪い人にぶつかると、頭数を数えて、何十人は多いと言われながら出さざるを得ないというふうなこともたくさん出てきています。その割には芸術院とか、それから名の通った人に対する恩遇だけはやたらに盛んで、そういうのはやはり私は若い芸術家が育っていかない原因になっているんじゃないかというふうに思っております。  それから、芸術の選考などというのもありますけれども、もう本当にこれは癒着が激しくて、遺物みたいな方たちがいまだに派閥の中にあって、補助金はこことこことしか出さない、もうそれが長年の慣習になっている。それ以上の枠がないから新しい人間には出せないんだという形で若い人がどんどん切り捨てられている現状もよく知っておりますので、そういうことにはなるたけ細部まで目を届かせてくれたらばどんなによかろうかということを思うことはあります。そういうことでよろしいですか。
  119. 木下敬之助

    ○木下委員 私の方はもう少し具体的に、先生のおっしゃるように、大きな投資と言うからどのくらいの規模のどんなことかと思ったら、劇場をつくるとかそういった範囲のことであるというのがわかっただけで一つは安心しました。私の方は、先生、人間が資源とか言われれば、もうそんなことは当然だと我々思ってやっています。当たり前のことだと思ってやっています。何か先生に言われると、我々そうじゃないように思いますけれども、どんな分野でも皆、人間は資源だと思ってやっています。  それで、文化と言われまして、私は不勉強ながら文化というのはもっと広いものと思ったものですから、医療なんというのも当然文化だろうと思っていたのですが、でも、先生、何かあの予算も文化じゃない、文化はこれだけだと言われている。そして大きな投資をと言われる。そんなふうに言われて、ちょっと私、先生のお考えになっている文化というのがよくわかりませんで、きょうはもっと時間があれば、文化というのはどういうふうに理解すればいいのか、その文化を全く必要としない人がいる中に私も入っているのかどうか、ちょっと考えながらまたやらせていただきたいのですが、残念ながらきょうは時間がございませんで、最後に、水野先生に一口質問させていただいて終わりにさせていただきたいと思います。  先生、時間がなくなりまして申しわけありません。幾つかあったのですが、一つは、一病息災でやっていくということをお勧めになられて、来るべき高齢化社会、どんなふうに対応するか非常に大変な問題だと思います。そして、若い人にとっては健康というのは物すごく大事だけれども、だんだん年をとっていく人に健康が第一だと言われれば、いずれだんだん健康が害されなければならないお年寄りにとっては酷なことだと思いますね。そんな中で一病息災、本当にすばらしいと思いますが、何か先生、具体的にどういったことを考えておられるか、あったら教えていただいて私の質問を終わりたいと思います。
  120. 水野肇

    水野(肇)公述人 簡単に答えた方がいいんだと思いますが、先生はたしか大分ですね。(木下委員「そうでございます」と呼ぶ)大分というのは一村一品運動というのをやっているのですが、それを例に取り上げますと、多少血圧が高くてもカボスをつくることはできる、これが私の言う一病息災でございます。時間がないみたいなので……。
  121. 木下敬之助

    ○木下委員 それではどうもありがとうございました。
  122. 天野光晴

    天野委員長 次に、梅田勝君。
  123. 梅田勝

    梅田委員 日本共産党・革新共同の梅田勝でございます。  きょうは御意見をいただきましてありがとうございます。三人の公述人先生方のお述べになりました順番に従いまして質問させていただきますので、よろしくお願いを申し上げます。  まず、水野先生にお伺いを申し上げますが、先生は「増税なき財政再建」というものは限界に来たということで、今日政府が進めておりますいわゆる臨調路線というものが事実上失敗したというように述べられておりますが、確かに借換債、これは特例公債を出しますときに、そういうことは絶対しないということを言ったにもかかわらず、これをやっているという点におきまして、政府のやってきたことは完全に破綻したというように理解をいたしますが、それでよろしゅうございますか。
  124. 水野正一

    水野(正)公述人 お答えいたします。  「増税なき財政再建」が限界に来たということは、今おっしゃいましたような臨調路線が例えば失敗したとか、あるいは政府の進めてきている財政運営、こういうものが破綻したという、ちょっとそこまでの意はないのです。といいますのは、臨調路線と言われるもの、私さっきちょっと触れましたけれども、やはり重要な役割は果たしたというように評価しているわけですね。これは、やはり高度成長期を通じてだんだん定着してきていた、例えば政府に対する甘えの構造だとか、あるいは行政機構の肥大化だとかいろいろな税金のむだ遣い、こういうものにいろいろ思い切ったメスを入れて、非常にドラスチックにそういう流れを一つ変えていったということは大変なことだと私は思うのです。これは、日本が非常に民主化された社会であるので、こういうふうに穏やかな中でできたわけですけれども、これがもっと違った国であれば、恐らく革命騒ぎになるぐらいな重要な変革をもたらしたものだというふうに評価しているのですね。  ですから、これは財政再建にとっても、やはり財政再建をやる場合にガンになっております義務的な当然増経費というのは、従来はこれはなかなが手がつけられないのだというふうにして、こういうものがどんどん増加していくのを当然のように認めていた。こういうものを、法律制度を思い切って変えていくということで、そういうものまでも削減するんだ、また事実やっているわけですが、こういうような前には考えられなかったようなことをこれでやっている、やれるようになった、道を開いたということ、これは私、非常に大きく評価しているわけです。  ただ、何事にも歴史的な一つの役割といいますかがありまして、一応財政再建を今後やはり進めていって財政をまともな姿に持っていくという点を考えますと、いつまでもこれにとらわれていたのではかえってそれが足かせになる、そういう意味で限界だということを申し上げたわけです。
  125. 梅田勝

    梅田委員 先ほどの御意見の中で、地方自治体に対する補助率を減らすという問題はことしの予算一つの目玉だとおっしゃったわけでございますが、しかし、国と地方自治体の負担割合というものは、例えば地方自治体が独自に計画をしてやるような事業、これに対する補助率、補助金、これを変えるということと、義務教育のように本来国がやらなければならぬ、国が八割、地方自治体が二割、こういう負担割合でやっていたものを今回七割にする、地方自治体を三割にする、五割増なんですね、こういうやり方は、一律に補助金を減らすといいましても、国庫の負担金を減らすというのは重大な性格の変更だと思うのですね。改悪だと思うのですよ。私は、そういう点で、今日地方自治体が財政赤字で困っているということもございますし、それから国の負担でやっている生活保護だとか、そういう非常に重要な施策に対しまして予算カットしていくということになりますと、一番困った立場の人が非常に打撃を受けるのじゃないか。そういうあり方につきましてはどうでしょうか。
  126. 水野正一

    水野(正)公述人 お答えします。  地方財政と国の方の関係でありますが、私、この政府のいろいろな委員会あたりに出ておりますと、案外地方財政というものに対する理解が乏しいと思われる発言が時々あるわけですね。それで、地方自治体というのは、こういう苦しいときに会館をつくったりなにかして、あるいは庁舎を立派なのをつくったりしてむだ遣いをやっている、もっと地方財政に対して厳しい締めつけをして当然だというような意見をよく聞くのですね。しかし、私、これは地方財政あるいは地方自治体の実態をよく知らない方だと思うわけで、財政が苦しくなって以来、やはり国以上に各地方自治体、まともに取り組んでいるところは非常に素早くそういうものに対応しておりますし、言われるほど地方財政、地方自治体、いいかげんにやっているというふうには決して思わないのです。そういう点ではよく理解しているわけですけれども、しかしまた、もう少し大局的な立場に立って考えますと、国と地方との財政状況というのを見ますと、やはりどうしても苦しい状況というのは国の方が大きい。地方の方はそれに比べてまだ、地方もやはり苦しい、また悪化しておりますけれども、程度は国ほどではないという、そういう認識が一つあります。  それから、先ほどの地方に対するいろいろな補助金の、例えば高率補助率の一割カットというような問題にしても、これはやはり本来は国と地方との間の事務分担、それからそれに伴う財源の配分というような問題のあり方をもう少しいろいろ考えた上で、そういう点でのあり方を、線を出した上でやるべきことだというように思うわけですね。そういう点がまだ十分に煮詰まらない段階で、先に補助率をぱっとカットするというようなことは、ある意味では地方に対して非常に厳しいやり方だというような気もするのですが、今回の場合は、それによる地方財政に対する影響というのは、特別交付税なり建設地方債の増発なりで対処するということで、余り地方に対する影響は大きくないようにとどめております。ただ、こういうドラスチックなやり方というのは、一面から考えますと、なかなかそういうふうに本来のあり方という線から詰めていったのでは解決しないような問題が、そういうドラスチックなやり方でかえって道が開けてくるという面もあるのではないかというふうに思っているわけです。
  127. 梅田勝

    梅田委員 今回の補助率の変更によりまして五千八百億円がカットされるわけでございまして、特別の交付といいましても一千億しかしないわけでございますから、あとは借金なんですね。だから、幾ら地方債を認めるといいましても、借金でございますから、後々厳しい影響が出るというように思うわけでございます。  それから、時間がないので御答弁をちょっと簡単にしてほしいのでありますが、財源対策として課税ペースの広い間接税という問題で考えられておるようでございますけれども、これは国会決議におきましては、一般消費者税はやらないということをやっておるわけでございますので、安易にそういう方法はとるべきでないということで、ちょっと簡単にその点で御意見をいただきたいと思います。
  128. 水野正一

    水野(正)公述人 お答えします。  私の個人的な意見からしますと、課税ペースの広い間接税の導入、こういうものを国会の方で導入しないというようにお決めになったとすれば、非常に残念だというふうに思うわけです。それで、やはり本気でシャウプ税制以来の我が国の税制の改革というものに取り組もうとする場合は、課税ペースの広い間接税の導入というものは避けて通れない問題だと私は思うのですね。
  129. 梅田勝

    梅田委員 その御意見はちょっといただけないわけでございますけれども、時間がございません。あとのお二人の方に一括して御質問申し上げますので、御答弁いただきたいと思います。  井上さんにお伺いいたしますが、確かに先生おっしゃいましたように、文化に対する国の予算が少ない。先ほど一兆円というお話がございましたけれども、広く解釈してみますと、文化というのは何ぼでも広く解釈できますのであれだと思いますが、文部省所管の文化関係費といいますのは、六十年度予算におきましてはわずか三百六十三億二千三百万円しか計上されていない。いわゆる芸術文化の振興、文化財の保護充実という名目で組んでおるのは、わずかそれだけしかないわけでございます。その上問題なのは、入場税を我が国は課しているという点で、昨年暮れでしたか、劇場の関係者の人あるいは観客団体の方々が請願を持ってこれを撤廃してほしいというふうにおっしゃいましたが、諸外国の例をもよく御存じのようでございますが、その点でどのようにお考えか。  それから、水野先生の方にお伺いするわけでございますが、がん対策、非常に重要だということで予算を重点的に使うということで、ことしはB型肝炎でありますとか神経芽細胞腫の対策予算がついたのは非常にいい。私も五年ほど前に社会労働委員会で、神経芽細胞腫の問題につきましてはわずかな予算でできるはずだということを質問いたしまして、数年前にこれは検査員の予算がついてやっと全国的に本年度から実施ができる見通しがついたと喜んでおる次第でございますけれども、しかしこれは非常にわずかでございまして、それでもって国の社会保障、福祉対策を評価することはできないわけでございまして、老人医療費を有料にした、健康保険の本人負担を導入した、そして今度は自治体に対する補助率を削る。これで一番被害を受けますのは、先ほど特別養護老人ホームの問題もございましたけれども、老人ホームの建設あるいは保育所の建設ですね。生活保護はもちろんでございますが、そういう福祉の関係が全部打撃を受けるのですね。  そういう点で、政治の優先順位をつけるとするならというお話が先ほどもございましたけれども、私はまさにそういうところこそ優先的に手当てすべきではないか。今の予算あり方を見ますというと、軍事費と大企業優先だというように私ども見ているわけでございますが、そういう点で予算の使い方、これをどのように変えていくか。この二点につきまして、お話を伺いたいと思います。
  130. 井上好子

    井上公述人 さっき文化の定義と言われたのですけれども、文化は暮らしのすべてですから、言葉にも食べ物にも、それから習慣にも全部あります。私が言っているのは、無から有を生じ出す心を養うものという意味で、たまたまお芝居をやってましたから、その点で答えたのです。  それから、入場税撤廃についてなんですけれども、こんなことは当たり前のもので、自分に、自分自身に投資しようというときに、税金が取られるなんていうことは全然あってはおかしいことだと思っています。それで、遅かったくらいで、正直なところ何とも感じてません。大騒ぎしましたけれども、当たり前のことだというふうに思っております。
  131. 水野肇

    水野(肇)公述人 梅田先生のおっしゃるのは、確かにそういう理屈が僕はあると思うのです。私は、まず基本的には先生のおっしゃられることもよくわかるのですけれども、予算というのはどうしても額が大きくなるとむだが出てくるわけですね。これは医療費においてもしかりでございまして、その他いろいろあると思うのでありますが、そのむだを排除しながら、先生のおっしゃるような優先順位をつければかなり上にランクされるのではないだろうかと思われるものを充当していく。ただ、それには若干見解の相違みたいなものも幾らか僕はあると思うのですけれども、私は、今回の予算案がそれなりに努力してある、気配りをしてあるということを申し上げたのは、むしろ先生が前段におっしゃったようなことを、比較的額は少ないけれどもやっておるという点で評価したわけでございます。  ただ、先生のおっしゃった、国の金を地方に負担させるという転換の問題は、これは個人にはさしたる影響は出ないわけでして、むしろ地方自治体の側との問題で、これは僕はまさに政治のテーマなのであって、我々がとやかく言うべき筋合いのものではないであろうと思います。  それからなお、確かに一連の先生が前段におっしゃった、老人医療、健康保険等々は自己負担をふやしてだんだん切り詰めてきたではないかとおっしゃられるのは、まことに私は、その角度から見る限り、そうおっしゃられるのは無理もないと思うんですけれども、私は、それを国の予算がとにかく去年の場合で言えば五千二百億どうしても削減せざるを得ないという立場になった場合には、その状況下のもとでは、あれはやっぱりやむを得ない措置であったんではないだろうか。十分に使おうということであるのなら、これはもう全く税制上別に福祉を特別に取り上げて考えるとか、何かそういう新たな発想がない限り、現行のもとではちょっと難しいんじゃないか。やっぱりある程度みんなが耐えなければならない部分も私はあると思いますし、それが度を過ぎでは問題だと思いますけれども、まあやむを得ない面もあると、私は感覚的にはそういうふうに考えておりますが、個々の細かい問題を言えば先生のおっしゃるような指摘も、それはあるいは出てくるんではないか、そういうふうに思っております。
  132. 梅田勝

    梅田委員 どうもありがとうございました。
  133. 天野光晴

    天野委員長 これにて公述人に対する質疑は終了いたしました。  公述人各位におかれましては、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。厚く御礼を申し上げます。  明日は、本日に引き続き午前十時より公聴会を開催いたします。  本日は、これにて散会いたします。     午後四時一分散会