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坂井委員 きょう細かい内容には触れませんが、どうかひとつ文部省、学校別に細かくお調べください。学校によってはバイクを許可し、そして交通安全教育を徹底して行う。バイクの乗り方、安全な運転の仕方、技能等々も身につけさせる。そういう学校においては
交通事故が減っておる。
事故も減っておる。そういう例がある。また一方、片やこの三ない運動を徹底しておる、しかし交通安全教育をやらない、そういう学校において
事故が続発しておる。そういう実態というものをつぶさに把握していただきたい。
高校生が免許を取って何で悪いのか。この素朴な疑問に対して的確にだれも答えようとしない。真っ正面から答えようとしないですね。私は非常に残念なことだと思うのですが、高校時代というものは体力にしましても運動神経にしましても感情にしても、これはピークの時代、疾風怒濤の時代だ、こうも言われますが、そういう内部から噴き上げてくるものがある。そういうものを抑え込む、三ない運動で。そういうことだけで
事故がなくなる、これが安全だ、そう思ったらとんでもない。そういうような抑えつけて高校生が納得をして、ああなるほどそうか、わかりました、じゃ我々自体からこういう決まりに対しては積極的に
推進していきましょうなんということになろうはずはありませんね。論理においても欠けておる。実態、実情においても全くそれを無視した、最初言いましたような、周辺の勝手な
考え方というものがこの問題についてはまかり通っておる。
まあ、時にはバイクというものは、今の高校教育が持っている
能力主義とか選別主義、そういう中からこぼれた生徒のある種のはけ口になっている。お互いに仲間意識、そういうものを育てる場、ほっとする場、そういうことにもなっているというような話も聞きました。
ある県の交通安全実施
計画を見ますと、次のように書いております。「高等学校にあっては一般的に二輪車は本来不要なものであることを理解させ」云々。二輪車が不要というんだったら、世界じゅう、
日本じゆうから二輪車をなくしたらどうですか。そういう指導をやっているのですか。「高校生活にバイクは不要」こうも書いてある。これは何かバイクを持たせると暴走する、バイクイコール暴走イコール暴力、こういうみそもくそも一緒にしたようなむちゃくちゃな
考え方が根っこにあるのじゃありませんか。だから高校生をバイクに近づけない、近づけなければ
事故は起こらない、非行にも走らない、これはどう
考えてもおかしいですね。だから、今の「一般的に二輪車は本来不要なものであることを理解させ」これは私はさっぱりわからないので、本当はこの
意味も総務庁に解説をしていただきたいと思ったのですが、そんな時間の余裕もないようでございます。むしろ本日は、ある小学校における積極的な交通安全教育の取り組みについて御披露だけ申し上げておきたい。
これは、和歌山県橋本市の恋野小学校における例でございます。「歩く免許証」というのです。歩行者の免許。それから「自転車運転免許証」というのがあるのです。小学校で歩行者としての歩き方を実地に教育する、安全教育も施す、それでパスした人には歩行者の免許証。歩行者のマナー、ルール。それから次には自転車。自転車の運転技能、安全な運転の仕方、安全教育、それにパスした人には「自転車運転免許証」を交付する。子供たちは喜々として誇りを持って、自信を持って、この免許証を持って自転車で学校に通っている。これが教育ではありませんか。この結果どうなったか。この小学校で五十七年に四十六件あった
交通事故が五十八年には三十件。十六件も
事故が少なくなった。効果があったということですね。
しかも、これはだれがやり出したか。自転車クラブというのがあるのですが、この自転車クラブは、読みますと、子供たちが自転車クラブを
先生つくってくださいと言って、子供たちの要望でできた。その自転車クラブの子供たちの発想でこういうことになっていった。私が
先ほど申し上げた高校においては、高校生という主人公が不在で、
周囲の親だ教師だ学校の関係者だ、取り締まる側だ、そういう者の勝手で高校生の
考え方を全く無視して規制だ禁止だ、これは交通安全教育ではないということを私は申し上げたいわけであります。
本当の教育というのは、今言ったように、小学校においてもこういうことが行われている。立派じゃありませんか。こういう小学生が中学生、そして高校、大学、社会人、それは、いわゆる車社会、交通社会の中の立派な交通人として、そのルール、モラル、安全ということをしっかり身につけた交通社会人として、この社会の中で
事故をなくしていこう、自分の命も大事にする、他人の今も大事にする、お互いに譲り合う互譲の精神、そういうものが培われていくのじゃありませんか。
高校の時代だけ取り上げる、三
年間我慢しなさい、三
年間我慢したら、高校を出たらバイクに乗って走りなさい、これは暴走しろということを教えているにも等しいですよ。三
年間我慢しろという物の
考え方は、私をして言わしめればまさに自己破壊的な思想ですね。その間自己がないのですよ、高校生は。だから、どうですか、こういうことでボイコット運動まで起こった学校があるじゃありませんか。これはまことに残念ながら私の方に嫁する学校でありますので、校名を言うのはつらくて言いたくない。しかし、なぜ授業ボイコット運動まで高校生たちがやったかという彼らの気持ちは、私はわかるような気がするのですね。こんなばかばかしいことをなぜ今日なお押しつけているのでしょうかね。
事故が少なくなった、これは一時的じゃありませんか。皮相的ですよ。もう少し長い目で、長期にわたって、交通社会人としてこの車社会の中でという物の
考え方があれば、高校の時代だけ三
年間これを取り上げてしまおうなんというようなむちゃくちゃな
考え方は出ないと私は思うのです。それは
事故をなくしたい。高校生がバイクに乗って暴走して
事故を起こす、けがをさせる、あるいは非行化というところにも結びつかないでもない。親もそれで困る、そういう事情があることはわかりますよ。わかるけれ
ども、それは極めて一時的、皮相的だ。教育の本質というものはそうじゃないでしょう。そういうことに対してもっと教育が積極的に参加していく。しかも、その主人公はあくまでも生徒たちだ、そういう意思なり意見というものを尊重しながら、
周囲が温かくそれを見守り、いい
方向にその芽を伸ばしていくというのが、社会人として巣立っていくそういう生徒、高校生たちに対する教育者の立場でなければならぬと思うし、また、そういうことであってこそ初めて真の交通安全教育がなされていく、その結果
交通事故というものが
減少の
方向に向かっていく、実は私はそう思うわけでございます。
例えばアメリカなんかでは、ある州では、免許を一年ないし三年早く与えましょう、しかしそのかわりに、高校、中学でこの交通教育をしっかり受けてくださいよと受けさせる、そういうことを
条件にして一年ないし三年早く免許取得の資格を与える、そういう州がありますね。これは当然だと思います。物の道理ですよ。例えばテキサス州、カリフォルニア州、ノースカロライナ州、これは運転教育を受ければ、免許資格が十八歳ですが、十六歳で資格を取ることができる。モンタナ州、ニューメキシコ州、それらについては、同じく十八歳でありますが、交通安全教育、技能訓練等を中学、高校で受ければ三年早めて十五歳で免許を与える、こういう仕組みですね。これは当たり前だと思う、現にかなっています。
交通教育というのは交通人の教育でありまして、単に安全であったらいいというような、そういう皮相的なものでもない、もっとそういう高いモラルの水準にまでわたって教育するというのが交通安全教育だろう、こういうふうに私は思っておりまして、自分さえよければよい、そういう自己中心の物の
考え方では世の中をだめにしてしまう。社会全体の中で生活をしているんだということを教えて、そして、
先ほど言いましたような、互いに譲り合う、そういう精神もこの交通安全教育の中で培っていくということが極めて大事な教育の大きな課題であろう、教育に対する一番大事な視点というのはそこにあるだろう、実は私はこう思っているわけでございます。
最後にお尋ねをいたしますが、したがって今のようなことで、三ない運動、こういうことに見られる交通社会から隔離するような管理主義あるいは無責任、責任の転嫁、事なかれ主義、こういうものは排して、そういうことであったのでは長期的に見て
事故防止の効果は期待できない、むしろ今申しましたような積極的な運転者教育、交通安全教育を行って、安全を確保できるような人づくりを高等学校においてもやるべきである、そう私は思うわけでございまして、この三ない運動はそうした観点からも見直すべきである、こう思っております。文部省、総務庁、警察等々関係省庁の率直な御見解を承って、
質問を終わりたいと思います。