運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1984-04-26 第101回国会 参議院 文教委員会 第9号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十九年四月二十六日(木曜日)    午前十時八分開会     ―――――――――――――   出席者は左のとおり。     委員長         長谷川 信君     理 事                 杉山 令肇君                 田沢 智治君                 久保  亘君                 吉川 春子君     委 員                 井上  裕君                 大島 友治君                 藏内 修治君                 山東 昭子君                 世耕 政隆君                 仲川 幸男君                 林 健太郎君                 柳川 覺治君                 粕谷 照美君                 中村  哲君                 安永 英雄君                 高木健太郎君                 小西 博行君                 美濃部亮吉君    国務大臣        文 部 大 臣  森  喜朗君    政府委員        文部大臣官房長  西崎 清久君        文部大臣官房審        議官        兼内閣審議官   齊藤 尚夫君        文部省初等中等        教育局長     高石 邦男君        文部省大学局長  宮地 貫一君        文部省学術国際        局長       大崎  仁君        文部省社会教育        局長       宮野 禮一君        文部省体育局長  古村 澄一君    事務局側        常任委員会専門        員        佐々木定典君    説明員        青少年対策本部        参事官      梅沢 五郎君        警察庁刑事局保        安部少年課長   山田 晋作君        厚生省医務局医        事課長      横尾 和子君     ―――――――――――――   本日の会議に付した案件 ○教育文化及び学術に関する調査  (文教行政基本施策に関する件)     ―――――――――――――
  2. 長谷川信

    委員長長谷川信君) ただいまから文教委員会を開会いたします。  教育文化及び学術に関する調査のうち、文教行政基本施策に関する件を議題といたします。  これより質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言を願います。
  3. 高木健太郎

    高木健太郎君 臨教審のことをお聞きしようと思っておりましたけれども、まだ機会があるということでございますので、きょうはこの点は省略いたしまして、早速、個別の問題に入りたいと思っております。  文化教育に関する懇談会というのが三月の二十二日にまとめて中曽根総理報告をされました。非常に中曽根さんは評価できると、学制改革に対しては消極的であるけれども、今後の新機関の参考にしたいと、そういうことを言われておりますが、その中に幾つ項目が分けられると思います。その中の幾つかの、その言われた幾つかの項目につきまして、きょうは御質問をしたいと思っております。  最初は、この懇談会におきまして提言されました第二番目と申してもよいと思いますが、現在までの教育は個性を無視した詰め込み型であって、画一の教育が行われてきたと。これは人並み意識や、あるいは平等指向と複合して一般化してきたためによくなかったのではないかというようなことがございます。また、自由な教育は重大ではあるけれども、義務と責任を忘れた、そういう社会風潮によって教育が曲げられてきたのではないか。その次には、幼児期のしつけが重要であると。これまでの教育には、家庭教育が軽視されておったので、その点も是正していきたいと、こういう三つがございます。  そのほか七項目ぐらいございますが、具体的な問題としまして、大学での一般教育専門教育との再編成をしたらどうであろうかというようなことも言われております。また最後には、教育は今後国際化方向に向かっておるからして、その国際化社会に対応して、外人教師の積極的な活用あるいは外国人への日本語の教育充実と、こういうことをやらなければならないのではないかと。以上の、私、この抽出しました問題につきまして、これから個々にお尋ね申し上げたいと存じます。  まず最初に、教育荒廃ということがよく言われるわけでございます。そのことについてお聞きしたいと思いますが、終戦時には、アメリカの指導で制定されました現在の教育制度でございますが、四十年後の今、中曽根首相は戦後の総決算の一環として教育を見直そうと、こういうふうに言われているわけです。  そこで、大臣にお尋ねいたしますが、戦前教育と比較して、現在までの教育、いわゆる四十年この方の教育のどこがよくてどこが悪かったのであろうか、あるいはどの点が悪いと思われるか、どの点が悪いから教育荒廃と言われているのであろうかと、こういうことについてお考えをまずお聞きしたいと存じます。
  4. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 大変高次元で、しかも広範囲な御質問でございますから、文部省を代表する文部大臣という立場で申し上げることがいいか、今、大変こう頭を痛めてお答えを申し上げるというのが率直なところでございますが、先生からごらんになった私というのは、私は、昭和十二年生まれ、小学校二年生で終戦、そして戦後の教育の中で育ってきたと、こういう一青年でもありませんけれども、戦後教育を受けた人間として、後輩、先生から見れば教え子になるかもしれませんが、そういうひとつ関係としてお聞きをいただければというふうに私は思います。  私は、人間というのは、これは先生にむしろお問いかけることの方が正しいかと思いますが、人間というのは、感情の動物でございますし、それから、あえて、きざっぽいんですが、カントの言葉を取り入れれば、人間教育によって人間になると、こういうふうな言葉は私は大変正しい、私は適切な言葉だろうと、こう思っているわけです。ですから、人間というのは、欲望もあるし感情もありますし、もう少し簡単に言えば、わがままなものである。ですから、人間の、自分の心を律していくものの何か背景が必要だと思う。お互いに好き勝手なことをやっておったら、人間社会というのは成り立たないわけでありますから、そういう意味人間の心の一つの基盤というのは一体何なのであろうか。それが私は、基本的には宗教心から来るもんじゃないかなと、こう思うんです。私は、レーガン大統領でもそうですが、外国大統領や、あるいは首脳がお見えになりますと、演説の中に、神に対してとか、神とともにというような言葉をよく言われます。アメリカ映画などを見ておりますと、例えば西部劇を見ても、ギャングの映画を見ましても、ところどころに神様という言葉が出てくるんですね。そういう神、宗教的なものが、人間の心の一つの、何といいましょうか、支えどころになっている。ここまでやっていいか悪いか、ここのところの判断の基準というところが、神様という一つ考え方があると思うんです。  もちろん、これは唯物史観、唯神論という、そういうものの分かれ方で考え方が違えばまた別な話でございますけれども、私は、人間というのは、そういう一つの心の支えがなかったら、人間のいわゆる社会というのは成り立たないと、こういうふうに思うんです。私は、そういう意味で、戦後教育の中で、もちろん学問の問題やあるいは荒廃の問題や、あるいは今おっしゃったような画一的な問題や、自由と責任だ平等だ、いろんなことがそれぞれの多角的な角度から取り上げられることはできると思いますけれども、戦前は私たちが、少なくとも私の生い立ちから、自分が生きてきた半生をこう見てまいりますと、戦前教育というのは、そうした人間の心の律し方というものを、家庭の中でも、学校の中でも、私は、ある程度先生自信を持って教えておられたような気がするんです。人間として最低限このことだけは守ろうじゃないかというようなことが私はあったのではないか。  そういう意味で、戦後、私は一番もし誤っておるとするならば、これは戦争に負けた一つのショックもあったでしょう。私たちはその体験者でありますから、年齢的に。ですから、アメリカ教育使節団が日本に報告をした。そしてこういう教育制度でということで提言をされた。そのことの解釈の仕方が、私はいささか間違った解釈をしておられたのではないか。いや、むしろある意味では、人によっては、意識的にそこを変えられたのかもしれない。  例えば宗教教育についても、宗教はとても大事なことだと。したがって、どんな宗教も大事にしなければならぬ。そこで、信教の自由というものは憲法でも保障されている。しかし、現実にはそういうことを先生方がさわりにくくなってきている。確かに特定の宗教の布教に対する教育はできないということになっておりますから、そこのところがはっきり言えば、先生自信持って教えにくい。親鸞上人お話をすると、ほかから文句が出る。キリストのお話をすれば、ほかの宗教から文句が出る。そこにむしろ先生がちゅうちょをされて、そういうところは全くさわらないままに終えられてしまっているような気もする。一番大事な小学校の課程などでは、そういうことをもう少し基本的にしっかり、人間は神の子である-こういう考え方がいいのかどうかわかりませんが、そういう考え方というものがやはり出てくれば、例えば性教育一つにしても、性というものは人間の生命、神秘的なものとかかわりがあるものだということが基本的に教えられて、だから、そういうようなことが教えられてないところに、今日的な私は性不純行為等もあるんだろうと、こう思うんですね。  ですから、そういうことが、私はいろんな角度から申し上げられることができると思いますが、きょうは、できるだけ政府の答弁は短くしろという理事会のお達してございますから、そうは言いながらも長くなって恐縮でございますが、あえて私は基本的に人間の生きざまとして、戦前と戦後の教育の、どこがどう間違っているかなということを、一政治家森喜朗感想としてお聞きをいただければ、大変ありがたいと思います。
  5. 高木健太郎

    高木健太郎君 大変立派なお答えをいただきました。後でそのことについてもお尋ねしようとは思っておりましたが、今度の臨教審のやられるに際しましても、いろいろ学制改革であるとか、あるいは入試の問題であるとか、そういう個々の問題がたくさん挙がっているわけです。また、中曽根首相も七つの言葉を挙げておられますけれども、今のようなお言葉がなかったというのが私実際はさびしいわけです。何か改革をされようと思う場合に、何かしんになるものが要る。いわゆる心を律するものがあってもらいたいということを今文部大臣言われました。まさに私そのとおりだと思いますが、このことについては、また、いつかお聞きするとしまして、非常に大事なことであろうと思います。精神のない改革をやっても、それは改革にはならないのではないかと思うので申し上げるわけでございます。  ところで、今、私がお聞きしました、こういう改革論が起こってきましたもとはと言えば、何か悪いところがあったということが反省の一つの契機になっているんだと思います。それをいろいろのアンケートを新聞なんかで見ますというと、戦前教育に比較して今の方がよいというのが八%、どちらかといえばよいというのが一九%、合わせて二七%、悪くなったという人が九%、どちらかといえば悪くなったという人が二五%でありまして、合わせて三四%、これは誤差の範囲じゃないかなと思うわけなんですけれども、大した違いはないけれども、とにかく悪くなったという人がおられるわけで、悪くなったともよくなったとも言えないという人が三三%、流動しているといいますか、何も悪いと言い切っている人は余りないようにも、これから見ると思えるわけですが、それじゃ現在の教育のどこが悪いとお考えですかと、こういう問いに対しまして、教師の質の向上というのを求める人が五八%、それから道徳教育充実という人が四八%、大学入試の改善というのが四六%、その他いろいろございますけれども、ここいらが一番大きな原因になっているわけでございます。このうち、大学入試の件につきましては、先回、大臣にお尋ねしましたし、私の意見も申し上げたわけでございます。  ところで、教師の質の向上ということを、このアンケートだけではなくて、ほかのいろいろのアンケートにおきましても、そういう返事が返ってきておるわけでございますが、この第一の、教師の質の向上ということをどういうふうに思っておられるのか、それの対応策としては、いろいろございましょうけれども、どういうような対応策考えておられるか、初中局長でも結構でございますが、ひとつ、お答え願いたいと思います。
  6. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 一つは、教員養成大学において、教師としてふさわしい学習形態を十分にやってきているかどうかという問題があろうと思います。もう一つは、採用段階で、本当に教師としての情熱を持って子供教育に当たりたいという人が的確に採用されているかどうかという問題があろうと思います。第三番目は、採用された後にそういう先生方に対する研修をどう展開していくかという問題があろうと思います。  したがいまして、採用段階ではいろんな工夫が行われておりまして、従来、筆記試験一辺倒であったのが、面接を導入するとか、実技を伴うものについては実技を訳せるというようなことをやる、そういう採用上についてのいろんな工夫が行われているわけでございます。  それから研修につきましては、採用後、できるだけ早い機会研修充実していこうということで、新任教師に対する研修、これは実際上の実技を含めまして十日程度の実習を展開しているわけでございます。また五年目の研修というようなこととか、主任クラス研修、そういう実際上の教師になった後にもろもろの研修を強化していくということで、研修強化については相当今日まで力を入れてきているわけでございます。
  7. 高木健太郎

    高木健太郎君 割と具体的なお話でございましたが、実際は一般の人が希望しているのは、教師として信念に乏しいということを第一番目に指摘しているわけでして、それが先ほど文部大臣も言われましたように、何か教師なら教師を律する気持ちが、心棒がないということが信念に乏しいということになるんじゃないか。だから、研修だとかいろいろのことを言われますけれども、何を大体研修するのか、その心がまず一番大事ではなかったんじゃないかと思います。教師としての信念に乏しいという人が六二%もあると、それから人間的魅力に乏しいということが五四%、そして生徒への思いやりとか愛情に乏しいという人が三一%ある。これを合わせてみますと、何も、先生がよくできるできないというような問題ではなくて、先生の心の問題の方が多いというような私は気がするわけです。これがどうも、生徒がその先生にくっついていかないというような一番大きな原因じゃないかなというふうに思います。私は先生が悪い、あるいは先生の質が悪いということは、これは非常に厳しい一つの批判でございまして、ほかの職業でも、その職業を愛して打ち込んでいる人というのは、そう多くはないんじゃないか、やむを得ず打ち込んでいるという人はあるかもしれませんが、本当に打ち込んで働いている人は少ないんじゃないかと思いますから、教師だけにこういうことを言うのは非常に酷だとは思いますけれども、教師という職業柄、こういうことは非常に重要なものでありまして、免許制度を変えるとか、そういうことより先に、何か問題があるのじゃないかというふうに思うわけでございます。  それから、そういうことの一つとしてよく言われておりますのは、このごろインターンをやるというような話もございますし、免許段階を設けるという話もそろそろ出ているようでございます。そのもう一つ方法としては年齢や職歴を問わないで広く人材を集めるということがよく言われますけれども、これもぜひその中の一つに加えていただいたらどうかなというふうに思っております。  例えば、ある職業を一生懸命にやった人、それはやはり教師としても必ずいい教師になるんじゃないかというふうに私は思いますので、何か免許がなければだめだという、型にはまったことをすると型にはまった人間しかできてこないというふうな気もするわけでございまして、この点もひとつお考えいただいたらありがたいと、こう思います。  それから次は、四八・三%で道徳充実ということがございますし、これは総理道徳教育充実ということを言っておられます。これはだれしも、そう思っておりますが、そういうことは実は荒廃荒廃という言葉が出てきたのは、このことからではないかなと私は思うわけです。それは御存じのように暴力がある、あるいは非行がある、登校拒否がある、自殺がある、いじめっ子の問題があるというふうにいろいろ言われております。これはどこに原因があるかということです。もちろん一つじゃないとか、いろいろ今日までも論議はされておりますけれども、どういうところに一番大きな原因があるとお考えだろうかということについて、御感想をひとつ文部大臣からお聞きしたい。
  8. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) これは、私文部大臣になりましてから、直接、教員養成の長であります宮地大学局長と少しやりとりしたところもあるんですが、大学に進むための高校、中学、小学校という教育が、下へずっとおりていくと、同じように、学校先生も、どうも勉強しなければ学校先生になれないという面が私はあると思うんです。今の先生採用する一つ基準といいましょうか、やり方というのは、学問をよく進めて、知力といいましょうか、知育といいましょうか、その方がある程度完全でないと先生になれないという、これは無理もないと思うんです。しかし、私は初等教育あたりのところは、先生はむしろ人間的な深み、教養の広さを持った先生と触れ合いながら人格形成をしていくということ、上に進むにつれ、やはり能力に応じながら、専門的知識を身につけていくということである方が私はむしろ望ましい方向ではないかと。そういうふうに考えますと、いろいろ、このいじめっ子を初めとして、今、先生が御指摘になりましたような、現在的荒廃のいろんな要素というのは、これは私はいろんな条件はたくさんあると思います。これも常々予算委員会やこの委員会でもそこを申し上げてまいりましたが、要は、先生自信を持って子供たちを掌握していくということのすべです。あえて言えば術といいましょうか。すべ、方法が、どうも先生自身がおわかりにならないんじゃないかというような感じがするんです。恐らく、昔も今も、先生の体格も、生徒は確かに大きくなりましたけれども、そう大きな、日本人である限り違いはないわけで、要は、先生が中・高・大学と、こう自分が学んできた、教育を受けてきた過程の中で、人間との触れ合い、あるいは人と人との関係、そうしたことの体験が全くない、ほとんど学問中心にやってこられて、先生試験をパスしてこられていると、私はそこにどうも原因があると。いじめっ子があると、できるだけむしろそれは避けてしまいたいという気持ちがある。その中に入っていって、子供たちをどう掌握していくかということがなかなかできない。ですから、かつて京都の伏見工業ラグビー部の山口さんという監督、あれはもう全くどうにも手に負えない不良の高校生が多かった、これを上手にああやって日本一のラグビー部に仕上げてしまう。池田高校蔦監督もそうかと思いますし、スポーツの場合は一つ目的意識がございますから、上手に子供たちを指導して束ねていける。これはスポーツをやっている一つの私は体験から来ておるものだろうと、こう思うんです。そういう意味で、いろんな理由は、それは社会もございますし、マスコミもございますし、いろんな理屈はあるだろうと思いますけれども、一番、私は基本的には、いじめっ子やあるいは自殺が出てきたり、あるいは自閉症状が出てきたり、これは先天的なものもございますけれども、そういう学校教育にかかわる、この荒廃現象みたいなものを上手に束ねていくという、そういうことに対しての先生が、能力とかそういうことじゃなくて、体験に乏しいのではないかと。私はそれが一つ原因のかなり大きなものを占めているような感じがしておるわけでございます。
  9. 高木健太郎

    高木健太郎君 確かに私、大事なことであると思いますが、何かその、こういう子供非行暴力というようなものの起こった原因を、よく六三制の教育制度にあるというような考え方を言われる人がかなり多いわけなんですね。そういう意味では、今度臨調でいろいろお考えになりますでしょうけれども、これを直せばこっちが直るというふうにお考えに、それもあるかもしれませんけれども、今、私は、文部大臣が言われたように、人間そのもの関係にあるということの方を重点に置かれる方が将来教育はうまくいくんじゃないかなと、形だけ変えたところで、そううまくいかないんじゃないかなと、こう思いましたので、その点、私はお聞きしたわけでございます。また、文部省からは登校拒否だとか、あるいは、その他いじめとかということに対しては、指導的の手引書というのを出しておられるようで、また非常に適切だと思いますけれども、ぜひ、そういう手引書をお書きになるときにでも、今の、一番最初人間としての精神を、そこに何とかにじませていただくように、単に箇条書きにしてああやれ、こうやれというよりもさきにそれがあるんじゃないかと。これがまた、口で言っても、そう教えられるものじゃないかもしれませんけれども、何となくそういうことを注意して、今後はそういう手引書もおつくりいただいたらどうであろうかと、こういうふうに思うわけです。  ところで、暴力の方は、きのう判決がありましたけれども、ああいう悲惨な、バットで親を殴るというようなこともありましたし、いろいろ悲惨なことがございました。そういうこともございますが、ちょっとその中で忘れられているのがセックスの面じゃないかなと、こう思うわけです。  それで、私が実はセックスの方をそんなに言いますのは、同僚といいますか、教え子といいますか、そういう者の中に婦人科医者もたくさんおるわけですけれども、そういう人の話を聞きますというと、小さい子が、十四、五歳の子がいわゆる中絶に来ているわけですね。それで、私がちょうど行った日はかなり多くって、町の一開業医にすぎませんけれども、四人も来ていると。十分か十五分、ちょっとやってもらって、その医者は私のところへまた戻ってくるわけですが、きょうは四人やりましたと、こういうわけなんです。親がついてきているのか友達がついてきているのか、そういうところまで私は聞きませんでしたけれども、ちょっと愕然としたわけなんです。  そこで、それをちょっと調べてみますと、人工妊娠中絶というのは、これは各都道府県に、これ衛生局でしょうか、どこかに届けるようになっております。それを見ますというと、昭和五十年ぐらいに、二十歳未満で人工中絶をしたという人が昭和五十年に一万二千百二十三件あります。それが、毎年ずっとふえていきまして、五十七年には二万四千四百七十八と、約倍にふえているわけです。これがすべてそういう未婚の子女の中絶とは私は思いません。その中には結婚している人もあるとは思いますけれども、しかし、このうちの非常に大きな部分を、いわゆる未婚の、まだ勉学中の子供が占めているのではないかなというふうに思うわけです。また、この数字は届け出をしたものだけでございますからして、自由診療でございますから、届け出をしないという人も私はあるんじゃないかと。そうしますと、ここに出ている二万四千という数は、これよりも少ないというんじゃなくて、かえって多いかもしれない、そういう気さえするわけです。これは、数の上からいえば、全就学児童の数からいえば問題にならない数かもしれませんけれども、しかし、結果として中絶をするというふうになる前の状態を考えると、さらに大きな数字になるんじゃないかなと、こう思いまして、そういうセックスの乱れというものがかなり広がっているというように私は思わざるを得ないわけでございます。これについては、文部省としては何かお手を打っておられるのかどうか、それをまずお聞きしておきますが、もう一つは、最近これを政治、我々国会の方でも少し問題になりまして、いろいろのポルノの雑誌の取り締まりということをやったらどうかという話も出ているわけでございます。そういうことで、そういう雑誌その他のものをどういうように今後していかれるのか、あるいは家庭あるいは学校ではこれに対してどのような教育をしておられるのか、そういうことをお聞きしたいと思います。
  10. 古村澄一

    政府委員(古村澄一君) 御指摘のとおり、子供の性非行というのは、だんだん低年齢化しているというのが、警察庁の調べでもそういう状況になっておりますことは大変憂慮すべきことだと思います。  具体的に学校での性教育はどうふうにやっているかということでございますが、いわゆる性に関する科学的知識というものについて、それぞれ小学校、中学校、高等学校子供の発達段階に応じて性知識を教えるということが一つ、それから健全な異性観を持って男と女の関係を保っていく、あるいは全体の家族計画をどういうふうにやっていったらいいかというふうなことは高等学校でもやりますが、そういった点から、保健体育あるいは道徳とかあるいは特別活動ということを学校教育全体を通じて指導いたしておるのが現状でございます。今後とも十分指導を強化しなければならぬ問題だろうというふうに思っております。
  11. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 大変、高木先生、失礼でございましたが、あえて局長最初に答弁をしていただいたんですが、文部省からいえば、この程度のことしか言えないわけです。それは私は当然だろうと思うんです。  今、先生が御指摘ありましたように、不純性行為をし、そして妊娠中絶をしていくような子供たちだけをとらまえていけば、もう今のような、古村さんのようなやり方では間に合わないんですね。しかし、一方においては、学校教育では健全な子供たちもいらっしゃるわけです。その人たちに対して、それ以上余り前に進んで、こういう形でもっと性に対してはこうしなさい、あるいはどうせそうするならちゃんとその前に予防の方法がありますよというようなことを学校先生としては、これは教育の現場の中では言えない。それじゃ個々に相談しなさい、ちょっと言葉は、教育を語る委員会のやりとりとしてはよくないんですけれども、先生から御提言あったことですから、そういうふうに、どうしても困った場合とか、その前にどうしても誘われて断り切れない状況にある人は先生のところに相談にいらっしゃい、教員室でよく教えてあげましょうと言えるものでもないんじゃないでしょうか、学校教育においては。そこで、私は家庭の問題がまず基本的にあると思うんですね。私は、さっき本当に先生に生意気なことを申し上げたのは、宗教的な、何といいましょうか、ベースから、考え方から、生命の尊厳、神秘、そういうところから、幼いころから子供がそのことをしっかり親やあるいは先生から教えられていく、そのことが基本的に欠けているというこの辺を、どうやって学校教育の中で私は教えていけるのかどうかということだと思います。  もう一つは、日本の住宅方式というのは、最近は随分洋風化いたしましたけれども、外国と違うのは、外国はさっき申し上げたように、大統領が演説にも神にという言葉を言うくらい、宗教的な基盤をヨーロッパは持っておると思うんですね。そういう中で家庭の住まいの、何といいましょうか、しきたりといいましょうか、子供たちがみんな個室にいて、親たちの生活とは全く夜になると隔絶されていく。ですから、アメリカ人の夫婦関係見ておっても、大人の社会見ると、我々ちょっと考えつかないような、日本もだんだん洋風化してしまいましたけれども、セックスとか、そういうものに対して大人は割とフリーに話し合っている、しかし、そこには子供がいない。日本の家庭はふすま一つ、障子一枚で夫婦の寝室と子供が隣り合っているケースもある。最近は少しずつ変わってますが、日本は狭い国土ですから、住宅が必ずしもアメリカスタイル、ヨーロッパスタイルにはなってない。そういうふうに全く基盤的なものが違うのに、だんだんそういうところが西洋も日本も変わらないようなセックス意識になってきている。そういうところに子供たちが、むしろ学校で教えてもらう雌しべ、雄しべ、初潮の教えよりも、もっと進んだものが実際には社会から受けてしまっている。ですから、幾ら性教育をしたって、片方の方がむしろそういういろんな雑誌やいろんな社会のところから教えられているものは、むしろエンジョイする、楽しいことなんだ、まさにセックスは楽しいものなんだということが子供たちに先に入ってしまう。私はそこに根本的な問題がある。したがって、私はこれはどんなに文部省にしっかりしなさいと言われても、精いっぱい学校でやれる教育というのは、今、古村局長が言ったことが限度だろう、こう思います。そこのところをどう呼応して、そういうものに対して対応していくかというのは大変大事な問題でございまして、現時点で文部省でどうすべきかなあというようなことは、なかなか今私どもとしても考えが出てこないところでございます。あえて私も局長に追加をして、かばうわけではございませんが、文部大臣としてはそういう考えを持っておるところでございます。
  12. 高木健太郎

    高木健太郎君 それは言いにくいこともあろうと思いますが、そしてまた学校教育には似つかわしくないところも非常に多いと思います。体育だとかそういうところで教えるということでございましたが、私はこれは人間を特別に考えるのではない、余り人間を特別に考え過ぎるんじゃないか。これは生物学の中でこういうことをひとつ教えていくようにしたらどうか。結局、生物ということは、生まれて、食べて、死ぬということになりますから、そういうものであるということをのみ込ませるというような生物学的な教え方は一つ残っていると思います。それからもう一つは、自分の家なり友人なり、どこかに動物とかそういうものを見るということじゃないかと思うんですね。要するに、子供が産まれるとか、あるいはその動物が死んでいくというようなことを、そこの現実を見るということが私はかなり大きな子供精神的の糧になるのではないか。一番、私、文明が進んだ状態で悪いのは、このごろ我々はもう畳の上といいますか、自宅では死ねないということなんですね。病院で産まれて病院で死んでいくということでありまして、近親者が親なり、あるいは、おじいさんなり、おばあさんなりの死を自分の目ではもう見られなくなった。また、産まれたというのも、自分の妹が産まれても、自分の弟が産まれても、それを自分の目で確かめて産まれているわけではなくて、それは病院で産まれたものとして自分たちの仲間の中へ入ってくる。こういうことから、生死というものの瞬間を全然我々は、子供は今もう見られなくなっている。昔は隣の部屋でお母さんがお産をしたのを子供は聞くわけですね、少なくとも。産婆さんからそういうものを見せてもらう。あるいは、亡くなるときにはみんな一人ずつで死に水をとるというように、生と死の瞬間に我々は立ち会うことができたんですけれども、最近はそういうことがなくなった。それを補うものとして、さっき言いましたように、動物というようなことはないものだろうかということを私は考えているわけです。そのところに本当の意味の生命の尊厳というのが、口ではなくて、実感として私は子供に出てくるのではないか。先進国でもこういうところがうまくいかないというのは、そういう人間らしい、いわゆる生物らしいところが全部取り除かれた、そして本当に物としてそこへ出てくるというところに問題があるんじゃないかなと、こういうふうに私は考えるわけです。  それじゃ、次に移らしていただきますが、しつけというのをよく言われます。これはしつけが非常に大事だということを言われますが、大臣は、しつけというものはどういうふうに定義をされておられますか、えらい変なことを聞きますけれども。
  13. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 人間が生きていく上において基本的な約束事といいましょうか、そういうふうに考えております。
  14. 高木健太郎

    高木健太郎君 まあ、そうだと、普通もそう言われますが、身を美しくするというようなことで、あるいはしつけ糸と言いますから、そういうふうに考えられているのは当然だと思います。私は生理学者でございますけれども、私はそういう形の上からではなくて、しつけというものは生理的に脳が――自分たちいろいろ欲望があるわけなんですけれども、先ほども欲望ということを言われましたが、人間が動物と違うところは、そういういろんな欲望を自分自身で制御していく力である、こういうように思うわけです。それで、しつけというのは、そういう制御力という、自分自分を制御するという力を養っていくことがしつけであると思います。ただ単なる行儀作法を教えたり、あるいは礼儀だとか作法を教えるということでは私はないと思うんです。それも一つの形ではございますけれども、形の上からそれは制御法を教えるということであって、根本は制御作用を訓練していくということであろうと思うわけです。これは我々生理学者だけじゃなくて、お医者さんの中でも日野原さんなんかは、人間の脳は創造する働きを営む器官であると同時に自己を抑制する器官でもある、こういうふうに言っておられているのは、私もそうだと思っております。こういう意味で、私はこのごろちょっとびっくりしました事件がございました。それはこの四月二十四日の新聞で御存じのように、トラックのリンゴがそこらのおかみさんにみんなとられちゃったんですね。それで、販売主がちょっと外した間にわあっと寄ってきて、大阪の造幣局のあの桜通り抜けというところがございますが、そこでみんなリンゴをとられちゃったんです。青森から持ってきたリンゴなんですけれども、一人が初めとり始めたんですね。みんなとっちゃった。危ない、押すな、押すな、おれにもくれといってみんな寄ってたかってそれをとってしまった。トラックのリンゴは空っぽになってしまったわけです。その荷主さんは、返ってくるわけじゃないし、とっていた人が余りたくさんで、それにしても大阪の人は怖いと、こういうことをその人は言っているわけなんです。これよりか前にもう一度大阪であったんじゃないか。それは衣服かなんかの展示会のときに女の方が来てみんなそれを持っていっちゃったんですね、バッグの中へ入れて。そのときにモデルの服まで展示してあったわけですが、それも持っていっちゃった。それで、損害がどれくらいとか書いてございましたが、これがお母さんとして家にいるわけなんですね。それが私ちょっと怖いと、こう思ったわけですね。こういう人たちは個人個人に会えば、私はそんなに悪い人ではないと思いますし、まさかとっていくようなことはしないと思いますけれども、それが集まると、そういうことをやる。これでは、何か子供教育がこういうお母さんに本当に預けられるのかなあという怖さを私は感じたわけなんです。日本の教育が非常に画一教育である。あるいは、赤信号みんなで渡れば怖くないとか、そういうことを言われる。あるいは、人並み意識である。あるいは、これを群集心理だという人もございますけれども、どうも個人が確立していないというところが、団体として何か行動することは、非常に私日本としてはいいところだとは思いますけれども、個人として確立してないからして、団体が悪い方向へ行くというと、みんなが悪い方向へ行ってしまうと。これは非常に危険な一つの日本的風調ではないかというふうに思うわけです。そういう意味では、ぜひ、しつけといいますか、いわゆる個人で自分自身を制御していくというような気持ちを、今後十分教育で養う必要があるだろう。こうすれば、いわゆる暴走族ということも起こらないんじゃないか。それが、一人がやるとみんなでやるというようなのは、私は十分まだ教育効果が上がってない証拠ではないかなあと思いますので、今度、教育改革をされる場合には、あくまで個人というものをまず完成させるということをお考えいただいたらどうであろうかと思います。  非常にたくさん私いろいろ申し上げたいと思ったんですが、時間がだんだん来ましたので次に進ましていただきます。  次は、この間三月の十九日から二十二日に中曽根首相が提唱をされまして、ウィリアムズバーグで約束されましたことだと思いますが、箱根で「生命科学と人間の会議」というものが開かれました。これは世界じゅうからいろいろの学者あるいは哲学者、宗教家あるいは自然科学者等が集まりまして、いろいろの問題、生命科学について論議をされたわけでございます。  私、全部の全文を入手しておりませんのでわかりませんが、そのうちの抄録を見まして、新聞社に発表されたのを拝見さしていただきました。これは、その中の第三セッションというところで「生命科学の個人にとっての意味」というのがございます。それは、最近いろいろの自然科学が発達してきまして、医学にもいろいろの機械、器具が取り込まれてまいりました。いろいろな実験的なことが行われているということですね。それの危険性をまず指摘をしておられるようです。  その次には、ある程度の規範というものが必要ではないかということを言っておられますが、それはまだ十分結論が出なかったというように報告をされております。私は、御存じのように、最近は、体外受精ということもございまして、体外受精が妙なぐあいに進みますというと、夫婦関係というものは壊れますし、家族関係も非常に妙なものになるだろうと想像されます。私が計算しますと、体外受精やっていろんな組み合わせをしますというと、二十何通り組み合わせができるわけです。だれの子供やらさっぱりわからないというような形になると思います。そういう問題が一つありまして、このことにつきましては、各大学において倫理規定というものを設けているのは大臣も御存じのとおりでございます。ただ、そのほかに、例えば脳死の問題がございまして、一方では、その臓器があれば自分は助かるという人が一方におるわけでございまして、一方では死んでいくと。そのときにその臓器をその人に上げるということは、上げようという自分の意思であれば、非常にこれはとうとい行為であると思いますけれども、そこの間に妙な人が狭まりますというと、死んでもいないうちに、その臓器を取るということが起こり得るというようなことも心配されているわけでございます。あるいはまた、安楽死であるとか、先ほど申し上げました中絶の問題とかというようなことは、医学の中で今までになかったようなことが起こってきつつあるということだと私は思うわけです。欧米では脳死に関しましても、安楽死に関しましても、ある程度の規範といいますか、そういう基準をつくってるわけです。日本でもある程度ございますが、まだ全体としては決まってない。脳死につきましては大統領報告があるわけでして、もうアメリカのほとんどの州が脳死というものを認めるという法律をつくっているところまで行っているわけです。  そこで、学校教育、特に医学教育の中でバイオエシックス、医学の倫理というようなものをどこかで教育をしておいた方がいいのではないかと私は思うわけです。大学先生に二、三お聞きしますと、いや、いろんなところで、そういうことはしゃべっているから、特に設けなくてもいいと思うというようなことも言われますけれども、個々ばらばらの見解であっては、ケース・バイ・ケース、あるいは個人個人の見解で、こういうことが処理されていくということは非常に危険もあるのではないかと。学生も迷うんじゃないか。先輩として、あるいは経験者として、こういうふうに、こういう場合はやるべきであるというような基準というのは、一応あった方がいいのではないかというように思うんですけれども、これに対するお考えをひとつお聞きしておきたいと思います。文部省としての見解をお聞きしておきたい。
  15. 大崎仁

    政府委員(大崎仁君) 生命科学が非常な進展を、先生おっしゃいますように、遂げつつある反面、特に医学等に関連をいたしまして、人間の尊厳とのかかわりというのが非常に出ておるわけでございまして、それは御指摘のとおりでございます。それぞれの専門の研究者も、学会その他を通じましての御検討が深められているというふうにも承知をいたしておりますし、また、各大学でも努力がなされているというふうにも承知をいたしておる次第でございます。学術研究という観点からは、私どもも学術審議会の中にライフサイエンス部会というのを設けまして、DNAの組みかえの問題ということが一番具体的には形を整えているわけでございますけれども、ライフサイエンス全般の推進のあり方と同時に、推進をするに当たっての御注意をいただきましたような点についての検討というのをお願いをしておるわけでございます。ただ、それらの諸問題につきまして、何らかのガイドラインと申しますか、基準を設けるということは非常に難しいところがございまして、先生、ただいまお話いただきましたような、先般の箱根の会議でも、特定の規範についての合意を直ちに求めるということは難しいのではないかというようなお話し合いの結果だったというふうにも承知をしておるわけでございます。先生、お挙げになられました例の中には、学術研究という点のみならず、医療という関係からのガイドラインということも御指摘の中にあったようにも存じまして、また、その角度からまた別の判断もあり得るかと思いますけれども、現状では、その問題の重要性というものを認識して、できるだけ研究者の意見を集約するという方向で私どもとしては努力を今いたしておるというのが現状でございます。
  16. 高木健太郎

    高木健太郎君 私、講座にしろとか、アメリカでは講座のところもございます、バイオエシックスとしての。しかし、講座にしろというようなことは、私は早過ぎるかと思いますけれども、例えば非行とか暴力に対しては手引書を出されているように、例えば大学の中で、そういう医学倫理の懇談会というようなものをつくるようなある程度の指導、というのはおかしいでしょうけれども、そういうことも少しずつやっていったらどうだというようなことは言われてもいいんじゃないか。あるいは、学会に対してそういうことをお勧めになるというようなことでもいいんじゃないか。とにかく、何にもしないというよりも、何かしておくべきじゃないかなあと思います。  もう一つは、夕べですか、きのうの新聞だと思いますけれども、日本における患者と医師との関係が、実は明治時代に大学ができたときには、外国から先生呼びまして、その大学が施療院であって、そして患者というのは施療を受ける、ただである、それは研究のマテリアルであるというような形で患者というものは見られておったわけです。それが現在の大学まで生きているとは思いませんけれども、何か、そういうなごりが大学病院というようなところにあるのじゃないか。その大学病院で修業を受けた医者は、そうすると、外へ出て開業したときにやはりその感じを持つのではないか。だから、民主化とは言いますけれども、医師と患者の間には本当の民主化があるのかなということを私は憂えているわけなんです。安楽死という本を松田道雄さんが書いておられますけれども、お読みになったと思いますけれども、そういうことで、医師と患者の間の対等な関係というものを今後持つような教育を学生の間からしておくということは非常に重要なことではないか。例えば、世界医師会でつくりましたリスボン宣言であるとか、あるいはフランスの病人憲章というのがございますし、米国には患者の権利章典というのがあります。フランスなんかは、大学病院の壁にぴたっと大きくその患者の憲章が張ってあるわけですね。あなたは気に入らないお医者だと思ったらいつ退院してもいいですよ。あなたはあなたのカルテを請求することができますとか、そういうことが書いてありまして、患者の地位がかなり高いわけです。そういう気持ちを持つことが、患者に対して、いわゆる人間の、患者の尊厳を重んずる本当の医療ができていくのではないか。これも、だからバイオエシックスの中に入るのではないか。そういうふうに学生のときから大学病院の中で教育されておるということが、私、将来の医師としていい医師をつくる非常に大事なことではないかと思うので、ひとつ、その点も同時にお考えおきを願いたいと思います。  大分時間が来ましたので、最後にもう少しお聞きしておきたいことがございますが、これは実は厚生省に関係があるのか文部省関係があるのかわかりませんが、文部省で医師を養成して、厚生省でその医師を今度は管理するというふうに今のところなっていますけれども、それが一本になった方が私はいいと思いますけれども、何となく、ここのところ離れていて、非常に物が言いにくいわけなんですけれども。御存じのように、東洋医学というものが非常に最近はやっておりまして、はりだとか、漢方というのが非常に多くの人がやっておられます。先般、中曽根総理が中国を訪問されまして胡耀邦と会われたわけですが、そのときに胡耀邦に、はりをしてあげようかというような、はり談義というのが三月二十六日の新聞に載っておりました。また、胡耀邦がそのときに、漢方の開発あるいは進展のためには、日本の漢方医を中国へ呼んで実地講習をする場をつくってもよい、つくろうというような話もそのときにされたということでございます。漢方は、御存じのように、現在もう五百億ぐらいの売り上げといいますか、そういうものがありまして、かなり多くの人が漢方というものになじんでおりますし、はりにしてもそうだと思います。ところが、大学の中では、医学部教育課程の中では全然教えられていない、同好の会はございますけれども、教えられていない。何かこれについては文部省としてはお考えがございますでしょうか。また、厚生省としては文部省に対して何か御注文というふうなものがございますでしょうか。
  17. 宮地貫一

    政府委員宮地貫一君) 御指摘の東洋医学というような、医学教育におきまして、そういう分野に関する教育充実ということを考えなければならないという点は御指摘のとおりであろうかと思っております。  医科大学における状況でございますけれども、東洋医学等の新しい分野に関する授業科目を設けたり、あるいは、関係しております講座、授業科目の中でこれらに関する教育を含めるというようなことで、具体的には内容的に充実を努めておるということでございます。例えば、具体的に若干申し上げますと、医学教育に関する授業の実施状況、例えば国立大学の場合で申し上げますと、弘前大学では、はりなり漢方薬による疾病の治療、これを麻酔学の中で実習をしておりますとか、あるいは群馬大学でございますと、神経内科学の中で神経疾患の治療における東洋医学の応用というようなこと、富山医科薬科大学の場合には、特にはり治療、漢方薬の講義実習というような点に相当重点を置いた講義内容になっておるというような事柄がございます。具体的にはそのような取り組みをしておるわけでございまして、先生御案内のとおり、医学部の教育課程の基準も弾力化を図りまして、各大学教育研究方針で創意工夫を生かし得るような余地があるわけでございます。もちろん、国立大学については予算上の制約というようなこともあるわけでございますが、先生、御指摘の東洋医学等の重要性ということは私ども十分認識をしておるわけでございまして、個々の医科大学、医学部等で、それらの課題について積極的に取り組んでいくことを、私どもとしても、条件整備というようなことについては今後とも努力をしてまいりたい、かように考えております。
  18. 高木健太郎

    高木健太郎君 私、いきなり講座をつくれとは申しませんけれども、東洋医学と西洋医学は考え方の上で非常に違うところがあるわけです。西洋医学は非常に個々の器官、個々の組織というところをねらって治療が施されているわけですけれども、東洋医学というのは全体をながめて治療をする、人間全体を一つの機能として見ていくというようなところが非常に大きな違いじゃないかと思うわけです。こういう考え方というのは東洋に生まれた一つ考え方でありまして、日本人もそういう考え方を持っている、こう思うわけです。外国からおいでになる方は、日本に来れば、そういう東洋医学のメッカであって、西洋医学も進んでいる日本で、最もよくこれが勉強できるんじゃないかと思って、何人かはおいでになっているわけなんですけれども、来てみるというと、日本では、やっているのはお医者さんではなくて、はり医者であった、英語もわからないというような、ちょっと話相手にならないと言う。世界では、もう鍼灸の方でも世界学会というのをつくっておりますし、東洋医学の方でもそういうことが進んでおる。また、中国では、中日友好病院というのも日本がお金を出してつくったわけでして、日本のお医者さんもそこにおいでになるんだろうと思います。こういう状況ですから、これを文部省の側から大学へつくれというようなことはできないわけなんですから、非常にやりにくいことではあろうと思いますけれども、それが発展するように、ひとつ側面的に御援助を願えたら私は非常にいい、これは物の考え方にも非常に大きな効果があるのではないか、こういうように思います。そんなことで、私ちょっとこれを、バイオエシックスには似合いませんでしたけれども、お願いをしたわけでございます。  まだ時間ありますか。――それじゃ、たくさんございますからその中からひとつ抜いてお話ししたいと思いますが、医師の数が非常にふえている。お聞きしますというと、今、大体十万人対百五十人ぐらいになっておりますが、それが、二〇四〇年でしたか三〇年ぐらいには三百人とか三百五十人になるという話でございまして、この間、予算委員会ではなかったかと思いますが、厚生大臣が、医師の数は少し多過ぎるだろうから、今後それを削減する方向考えていきたい、というような話がございました。文部省の方としてはどういうふうにこれをお考えか、厚生省としてはどういうお考えでおられるのか、ちょっとお聞きしておきたいと思うんです。
  19. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 今、お尋ねの問題はしばしば、この国会が始まりましてから、予算委員会、衆参両院でも出てきた問題でございますので、私が申し上げておりましたことを、もう一度、文部省としての考え方を申し述べさしていただきます。  今、御指摘のとおり、人口十万人当たり百五十人、大体、六十年を目途としてお立てになっているんですが、六十年を待たずして、もうこれは到達することは間違いないことでございます。そういう意味ではお医者さんたちのお立場から見ると、お医者さんが多いんじゃないかという一つの意見が出ていることも事実でございますが、しかし、人口が大変高齢化いたしておりますし、医療の需要というものも多様で、また複雑にもなっております。医療医学が高度化している面もございます。それから、特にお医者さんが多いということは、よくお医者さんの世界から聞くことですが、我々政治の立場から見ますと、地域的、領域的にちょっとおかしいなという面が随分ありまして、山間僻地、離島などに行けば、お医者さんは足りないし、そういう僻地、山間だけではなくても、現実に自治体病院などでは、本当にお医者さんが足りない足りないと、設置責任者である町長さんなどからいつもそういう話を伺って、なかなか大学から医者を派遣してくれないんですよということがよくございますので、そういう面では、果たしてお医者さんが本当に過剰なのか足りないのか、私はこのバランスがとれてないんだろうなあと、こういうふうに思っているわけでございますが、そういう意味で、私どもとしては、お医者さんの養成計画を、医師養成を文部省としては担当いたしておるわけでございますので、これからどれだけの適正なお医者さんが必要なのかということは、これは厚生省にお考えをいただかなきゃならぬことでございますので、厚生省としてお答えがあると思いますが、何かそういう機関をつくって検討されるそうでございますので、その厚生省の適正医師数の御検討ということがまず先決問題である、こういうふうに文部省としては考えています。  ただ、文部省といたしましては、適正な数字ということにつきましては、いわゆる入学定員の見直しというようなことで、いろいろとまた文部省については御意見も多々あるところでございますが、それにつきましても、先ほど申し上げましたように、厚生省の適正な数字というものを出していただいてから検討していくことが正しい、こういうふうに考えております。
  20. 横尾和子

    説明員(横尾和子君) 厚生省が近く医師数についての検討会を発足させるに至りました経緯を御説明申し上げますと、ちょうど昭和四十五年でございますが、厚生省医務局長文部省の当時の大学学術局長あてに、医師の養成をふやしてほしいという依頼の文書を出したことがございました。昭和四十五年と申しますのは、国民の医療保険が行き渡りまして、非常に受療率が高まってきたときでございまして、大変、医療の現場で患者が込んで、十分な診療が受けられないという混乱の事態が背景にありまして、そういう依頼の文書を出したことがございます。そういったことを契機に、文部省としてもいろいろ御検討いただいて、今日のような医育機関の増設という姿になっているわけでございますが、その四十五年の依頼の文書の中で、厚生省は、非常に雑駁な推計ではございますけれども、昭和六十年までには、少なくとも最高限度の必要数として、人口十万当たり百五十人の医師が必要だと思う、それに見合うような医師養成をしてほしいという内容でございます。既にこの百五十人が達成されましたから、その目標値が、申し上げましたように、最小限度の昭和六十年までという限定つきの目標値でございますので、百五十人を一人超えたから、それで過剰だというような認識でお話を持っているわけではございません。しかしながら、先ほど来お話がございましたように、大変、医師数全体としてふえてまいります。そのときに、六十年以降の医療需要等を勘案したときに、一体、日本の社会はどのくらいの医師を必要とするのか、そういうことを見通すことは必要なのではないか、そういう観点で検討会を持つわけでございます。もちろん、その場合には総数としての医師数だけが問題になるのではなく、その医師がどういう分野で、あるいはどういう地域で働くのか、あるいはそういう働く意欲を持つ医師が養成できるのかどうか。その点では医学教育の内容とも密接に関連するものと思われますので、文部省とも十分御相談をしながら検討を進めていきたいというふうに思っております。
  21. 高木健太郎

    高木健太郎君 私、こういう養成機関であるのか、医師養成機関というふうに医学をとらえるのか、そうではなくて、やはり大学という一つのものとして人格を磨くところだと考えているのかわかりませんけれども、もしも大学人間の完成を期するところであるとなれば、何も私は絞る必要もないのだというようにも思うわけですね。ほかの職業は私、どうか知りませんけれども、お医者さんのときは非常にこれやかましく言われるわけですが、ほかの例えばいろんな経済とかそういうものは、定員というものを社会の方で、いやふやせ、あるいは増減というものが、そういうところからコントロールされるものなんでしょうかね。自由競争というものは、そういうところはどういうふうになるんでしょうか。どういうふうに考えて、要請があるというのは込んだから要請があるのか、もうからなくなったからそれは多過ぎるのかとか、そういうふうにして計算するのか、僕はちょっと経済が苦手なものだからわかりませんがね。何か特別に考えて、何というかな、そういうところでも自由競争というのがあっても悪くないんじゃないかという気もするんです。自由競争があれば選別ということも出てくるわけですね。そうすると、いい者が出てくるということも起こり得るわけですから。余り数ばっかりこだわらぬ方がいいんじゃないんかという――こんなことを言うと怒られるかもしれませんけれども、そういう気さえするというわけです。何が基準なんだということなんですね、結局。そういうことをお聞きしたいのです。
  22. 横尾和子

    説明員(横尾和子君) 医師数の問題でいろいろ論議がありますときに、非常に乱暴な整理をさせていただきますと、三つほどお話が常に上ってくるように思います。  一つは医療を受ける側という観点でございまして、先ほど厚生省が増員を求めましたのも患者の側から大変不便であったというようなことでございますから、その患者にとって便利かどうか、これは言ってみれば、その僻地に行くお医者さんが確保できるかということも含めて患者の側からの要請であろうと思います。  もう一つは、やはり医療経済というような観点でございまして、現実に、現在の医療保険を見ますと、人口当たりの医師数の多いところほど医療費が余計かかる、ベッド数が多い県ほど在院日数が長くなる、こういう傾向がございます。その傾向をもってして、医師の行動そのものであるというふうに判断することは非常に乱暴かと思いますけれども、やはり、若干、供給が需要を生むということは、医療というサービスの内容を決定するのが医師自身であるという点において、そういう側面があることも否めないのではないか。  それから、もう一つは、医師養成にかかるコストと、それに医学部に行かれる学生さんの将来的な進路の問題、これは両方でございますが、医師の養成というのは他の学部に比べれば相当経費がかかります。これは国費であろうと、私的な負担であろうと、経費がかかりますから、医学部を卒業して医師にならないというような、あるいは医師になる道が閉ざされるということは、六年間勉強をしてきた学生さん御自身のお気持ち、あるいはそれに費やした経費という観点から、そうそうむだにはできないのではないか。おおよそその三点のような御議論があるのではないかと私ども考えております。
  23. 高木健太郎

    高木健太郎君 大変ありがとうございました。  私は、需要と供給とか、そういう問題は何も医師だけじゃないと思うわけです。例えば、ほかの学部の者に対してもあります。特に理学部なんかのOD問題、オーバードクターの問題なんかは特にそういうことなんで、もう五千人もオーバーフローしているわけなんですね。それじゃ、国費をそこに費やしたじゃないかという、一番最後のやつは、まさに国費をむだにしているということになるわけなんです。  だから、私、余り窮屈に考えないで、お医者さんもどこか行けるようにするとか、ODも何かもっと枝道を多くしておく、要するに風穴をもっと社会があけてやる、そういう者でも抱擁してやるというような、社会のそういう抱擁力といいますか、そういうものも必要なんじゃないか。これはこれだけしか使えない。例えば理学部を出た人は、理学部で博士課程をとった人は、もう理学部だから、あいつは生物だから全然使えないと、そういうふうなことをしておけば必ずオーバーフローがどこかへ出てきて、それをきちっと計算どおり合わせるなんということは、将来とも僕はできないと思うんですね。足りなかったり多かったりしょっちゅうする。だから、もっと教育課程を多様化しておいて、そして世の中の多様なニーズに応じられるようにしておかないと、大学がそういうふうになっていきますというと、今度は下の方の教育にまで及んでくるというようなことになるんだから、私は、課程をつくるときに、もっと弾力性を持たせた課程を、普通の大学教育の中にも、あるいは博士課程の中にもつくっておくべきじゃないかなというふうに思います。  時間が来ましたので、これで質問を終わらせていただきます。  どうもありがとうございました。
  24. 小西博行

    ○小西博行君 大臣の所信表明を勉強さしていただきましたが、文部大臣、これはやるべきことがえらいたくさんありますね。私は、きょう、この一つ一つについて質問しようかなと思ったんですが、余りにも盛りだくさんで、しかも、もう時間が大分経過しておりますので、きょうは青少年の非行問題というところに焦点を絞って質問をしていきたいと思います。高木先生の方からも非常にいい御質問がございましたし、むしろ、私自身も大変勉強さしていただいているという感じがございます。きょうは、まず、青少年の非行、校内暴力問題について、まず現状の調査からお聞きしたいと思います。  これは警察庁だと思いますが、五十八年度の警察白書にいろいろこれは出ております。そして、去年の実績をそのまま報告していただくんじゃなくて、むしろ、今までと多少違っているその特徴といいますか、そういうものに力点を置いて簡明に御説明願いたいと思います。
  25. 山田晋作

    説明員(山田晋作君) お尋ねのございました昭和五十八年中の少年非行の現状でございますが、ただいま戦後における第三の少年非行のピーク形成期にある、こういうふうに言われておるわけでございますけれども、昭和五十八年中の刑法犯で補導された少年、これは十四歳以上二十歳未満の少年でございますが、これは正確に申し上げますと、十九万六千七百八十三人、約二十万人弱ということでございますが、この数は十年前に比較いたしますと一・八倍に増加しております。年々増加しておるというふうなことで、昭和五十五年以来、四年連続して、毎年戦後最高という状態が続いてきたわけでございます。  それから、内容的に見ますと、大きな特徴としましては、低年齢化の傾向が著しいということ、なかんずく中学生による非行が十年前と比べますと二・五倍というふうに激増をしておるというふうなことでございます。また、女子少年、少女の非行の増加も非常に著しゅうございまして、十年前と比較いたしますと約三倍に激増しておるというふうなことで、現在、刑法犯少年の五人に一人は少女ということになってございます。  さらに、学校先生方に対する暴力事件を含めました校内暴力事件、これが昨年中は、警察で取り扱いましたものだけで年間約二千百件ばかりでございます。この犯行内容でも凶悪粗暴なものが発生しておるということでございます。  そのほか、有害な環境の影響を受けましたショッキングな少年非行事件、こういったようなものとか、社会風俗環境の悪化と関連すると見られる少女の性非行とか、少女売春等の少年の福祉を害する犯罪、こういったようなものも増加しております。  すべてこういった状況を見ますと、今後の少年非行情勢というものは予断を許さないというふうに考えております。
  26. 小西博行

    ○小西博行君 詳しく教えていただきましたが、その特徴ですね。十年前と現在という比較じゃなくて、ごく最近の、急増しておりますね。四年連続急増、戦後最悪というふうに言われておりますから、そういう何か特徴的なものはございませんか、従来に比べて。
  27. 山田晋作

    説明員(山田晋作君) 私ども、先ほど御指摘ございました警察白書の中でも、いろいろと少年非行について分析はしてございますけれども、少年の非行を大きく分けまして、校内暴力とか暴走族とか地域粗暴集団等による暴力非行などをひっくるめた、いわゆる暴力型の非行というもの、それから万引きとか自転車泥棒といったような、犯行の手段が簡単で動機も単純といったような、私ども言っております初発型の非行というふうなもの、それから、シンナーなどの薬物の乱用とか女子の性非行といったような好奇心型の非行、こういうふうなものに大きく三つに分けられると思いますけれども、それについてちょっと申し上げたいと思いますが、最初暴力非行につきましては、昭和五十三、四年以降、粗暴犯、暴行とか傷害とかいったような粗暴犯が非常にふえてまいりまして、校内暴力事件もそれに伴ってふえるというふうな状況でございまして、大きな社会問題になりましたけれども、昨年の二月でございましたか、横浜市内で浮浪者の襲撃事件というのがございましたし、また都内の町田市で中学校先生生徒を刺傷するという事件もございました。ああいった事件を契機といたしまして、各種の暴力非行対策といったようなものが非常に強化をされました。この結果、昭和五十八年中には粗暴犯で補導されました少年の数は約三万五千人というふうなことで、前年と比べますと約三・五%ばかり減少した。校内暴力事件につきましても、前年中、先ほど申し上げましたように、年間通しましては二千百件ばかりでございましたけれども、上半期と比較いたしますと、下半期は横ばい、あるいはやや減少というふうな傾向に転じておるというふうなことでございます。こういったことから、暴力非行につきましては増加にやや歯どめがかかったのかなというふうな気配も見えるわけでございますけれども、相変わらず凶悪あるいは粗暴な事件というふうなものが発生してございますし、それから、少年の暴力非行集団といったようなものも数多く存在してございますので、今後とも予断を許さない、こういうふうに考えております。  それから二つ目の初発型非行でございますが、これも五十八年中に警察の方で補導しました少年は約十二万三千人余りでございますが、前年と比べますと五・六%ばかり増加しておるというふうなことで、過去十年間ずっと一貫して増加してございます。なお、この初発型非行というのは、動機も単純、形も非常に簡単ということでございますけれども、悪質な非行への入り口になるおそれが高いというふうなことから、警察といたしましては、こういったものをふやしてはならないというふうなことで、万引きとか自転車盗といったようなものを行いやすくしている環境とか条件、こういったようなものの改善とか整備ということにつきまして、関係の業界とか、あるいは地方自治体とか、こういった方面にいろいろと働きかけまして、その未然防止対策を積極的に講じておるという状況でございます。  それから、最後の好奇心型の非行でございますが、まず、シンナー等の乱用で補導した少年は、昨年五万一千人ばかりでありますが、昭和四十七年に毒物劇物取締法の一部改正でシンナーの乱用が規制されまして以来、最高の数字ということでございます。また、女子の性非行でございますが、これも昭和五十二年以来一貫してずっと増加を続けてまいりまして、昨年補導いたしました数は約一万人近いということでございます。これ過去の最高の数字でございますが、こういった性非行は、享楽的な風潮に流され、ちょっとした好奇心から性非行に走るわけでございますけれども、女子、少女の性の過ちといいますのは、得てして全人格的な非行に陥りがちであり、つながりがちでありますし、また少年の福祉を害する犯罪、売春とかみだらな性非行といったようなものでございますけれども、こういった犯罪の犠牲者となるおそれが高いというふうなことから、真剣に対処すべきものと考えでございます。私どもとしましては、有害環境の浄化とか、それからこういった少女たちを有害環境に近づけないという意味での補導活動と、こういったようなものを強化している段階でございます。
  28. 小西博行

    ○小西博行君 今、大臣お話のとおりなんですね。こういうデータにつきましては、もう皆さんも十分御承知のとおりなんですけれども、問題は、文部省も、できるだけ非行問題というのは少なくしたいという努力を当然されていると思います。警察の方でもいろいろな取り締まりを含めまして、やっておられるんだけれども、しかし、なおかつふえていくという、そこが実は私は大きな問題じゃないかと思うんです。  そこで、せめて四、五年ぐらい、文部省として具体的に、当然都道府県の教育委員会だとかそういうところへ通達を出し、いろいろな指導はされていると思うんですけれども、実際どういうことをやっておられるのかということを一度お聞きしたいと思います。
  29. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 数字のことは先ほどお話があったとおりでございますが、若干つけ加えますと、最近の半年、五十八年度の下半期の状況を見ますと減少傾向を示していると、特に卒業式等における警察官の導入というのも半減しているというような状況で、一昨年の町田、横浜における事件を契機にいたしまして、非常に世間的な関心を呼んだこと、そしてそれに対する対応は、教育問題だけではなくして、一つ社会問題として、また、家庭における問題として取り上げられてきたというような傾向がございますので、そういう対応が総合的に行われた結果、漸次減少の傾向を示してきているというふうに思うわけでございます。  そこで、まず文部省の今日までとってきた対応でございますが、何といっても校内暴力の発生の要因が非常に複雑でございます。ただ、学校における教育上のあり方だけではなくして、もっと地域社会の状況、それから家庭における環境、そういうものが非常に入り組んでくるわけでございます。したがいまして、そういう原因に対しての適用、対応というものを考えていかなきゃ効果が上がらないというのを基本的に思っているわけでございます。  そこで、まず学校における対応でございますが、学校における対応としては、そういう問題の子供たちをまず的確に把握するということから出発すると思います。そして、その際にそれに対する指導が学校全体で取り組まれていくということが基本的に必要でございます。その場合に、校長、教頭を中心にいたしまして、教職員の一致協力体制によって取り組んでいる学校は、大きな問題にならない前に、いろいろな事件が防止されるというようなことがございますので、そういう面での校内における体制の整備ということを徹底的にやる必要があるということで、一昨年、緊急対策といたしまして、点検項目を指示いたしまして、全部そのチェックをしてもらうということをしたわけでございます。  それから、そういうまず基本的な対応の姿勢ができ上がってきた。でき上がるわけでございますが、次に具体的にそういう子供たちをどう指導していったらいいかと、どう対応していったらいいかという対応の仕方が問題になってくるわけでございます。そこで、そういうことについての教育相談事業ということを一方において整備していくということで、専門家の助言を聞き得るような相談事業を実施していく、またアドバイザーのような方々を派遣してそういうものについての対応を進めていくというようなことが必要であろうと。それからもう一つは、問題が出てきて問題をあいまいに処理する、警察の方にも知らせないと、そして学校の対応も的確でないということが、より大きな問題を惹起するというようなことから、登校拒否の問題児に対する指導のあり方とか、それから出席停止の正しい運用というようなことも指導してきているわけでございます。  それから、長期的には、何といいましても、子供たち学校生活がおもしろくないというようなところもございますので、子供たち教育指導上の配慮、工夫ということを徹底していかなきゃならない。また、学習面だけではなくて、先ほど来論議がありましたように、しつけ教育であるとか、道徳教育、そういうものにもっと力を入れるべきであるということで、五十九年度では道徳教育充実のための施策をいろいろ講じていこうと、こういう対応をとってきているわけでございます。
  30. 小西博行

    ○小西博行君 結局、問題が起きてからいろいろな対応してやっていくという、警察の方は特に取り締まりということが中心になろうかと思うんで、多分、そういう格好になろうと思うんですが、さっき高木先生がおっしゃった子供さんの教育というのは、一番基本理念に立ってやらなきゃいかぬという、私自身も、子供さんの教育というのは、経営工学の分野からいきますと、行動科学というのがありまして、これはビヘービアサイエンスと言うんですが、子供さんが何か喜びを持って、自信を持てるようなチャンスを与えるというのが教育の私は基本だというように考えているわけですね。ですから、怒ってしまうとか、あれはどうも様子が悪いから、それに対してこういう対応をしていくというやり方だけではなかなか減らないんじゃないか、そういう感じがしておりまして、特にこの青少年の非行に走らせる原因、さっき大臣からもお答えがありましたけれども、たくさんの原因があるんだけれども、具体的には、総理府あたりからいろいろなデータを出して調査をしていると、警察の方からは結果についてはっきり出ていると。そういう調査に基づいて具体的な対策をとらなきゃいかぬ、こういうことになろうかと思うんですね。  そこで、きょう総理府は来ていただいておりますでしょうか。――総理府の方が出しておられますね。「非行集団の特性に関する研究調査」、これを実際にまとめられて、そうして自分たちはここが実は問題なんだと、これが原因なんだと、こういう分析は具体的に出ていますか。  長々とは結構でございますから、具体的にあれば。
  31. 梅沢五郎

    説明員(梅沢五郎君) ただいま御指摘の「非行集団の特性に関する研究調査」におきましては、校内暴力、暴走族、万引きなど十類型、百二十三グループを対象に調査してあるわけでございますけれども、それによりますと、それぞれの集団別に特性といいますか、特徴が見られると、こういうところでございます。  例えば、暴走族につきましては、その構成が有職、無職の少年が中心であるということ、それから一集団の人数が多いといったこと、それから非行内容が多方面に及ぶといったことなどがその特徴と、こういうふうになっております。したがいまして、これは当然のことではございますが、それぞれの特性を踏まえた非行対策が必要であろうというふうに認識しておるわけでございます。いずれにいたしましても、非行集団が少年に与えます影響につきましては、仲間意識が犯罪の敢行を容易にさせるという群集心理的な影響、それから皆一緒だから責任が軽いといいますか、そういった罪悪感の希薄化といいますか、それから仲間同士によります犯行の手段、手口の学習といいますか、こういったことなど種々看過しがたいような問題点というのが、これは従来から指摘されておるところであると思います。そういうことでございまして、非行集団の存在自体が非行少年及び少年非行の増加につながっておると、つながるおそれが非常に強いと、こう考えられますので、その解体補導を徹底的にする必要があると、こういうふうに考えておりまして、そういった観点から先ほど、昨年横浜市におきます中学生等の集団グループによります浮浪者殺傷事件、こういった事件など非常にショッキングな事件が多発した。これに伴いまして、総理府におきまして総務長官を議長とします非行防止対策の推進連絡会議を開きまして、当面とるべき措置というのを幾つか掲げたわけでございますけれども、その一つとして暴力非行集団の解体補導の徹底、これを掲げまして、警察庁など関係省庁が緊密な連絡をとりながらその推進を図っておる、こういうところでございます。
  32. 小西博行

    ○小西博行君 文部大臣、今お聞きのとおりなんですね。私は、文部省でできる範囲のことというのは当然その中にあろうかと思うんですね。それが、大臣がこれから非行問題をどうやって少なくしていこうかという一つの大きなテーマだというふうに私は考えておるわけですが、大臣はどのような方法で、従来になかった大臣独特なものを含めて、何か特徴的なものがあったら教えていただきたい。
  33. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 私も、今までになかった新しいもの、こう求められましても、すぐ即座にこういう方法がベターであろう、ベストであろうというようなことはなかなか今言い切れるものではございません。しかし、いろんな原因がたくさんございますが、一番大事なことは、人物をどのように多様的に評価する世の中をつくるかということが、まず私は一番最大の教育改革の中でも正しい行き方じゃないかと思っておるんです。この子たちというのは一番エネルギーが余っているときでもありますし、よく私は申し上げるんですが、学校が楽しくあるべきである、ですから、その楽しかるべき学校がつまらないから学校に行かないことにもなり、あるいは突っ張りにもなってくる、また先生にも反発するという形になってくる。もう少し逆に言えば、何か認められたい。さっき私は高木先生お話の中に伏見工業のラグビーの話をしましたが、彼らはもう先生がみんなあきらめてたんだけれども、日体大を出た山口さんが入って、一人一人、先生家庭訪問をしてみて子供たちと話し合ってみた。親はもう先生に任すと、親もどうしようもないんで、もうどうでもいいんだと、変な話で、死んでくれたらいいと思ってるんだという親までいたという。死んでいいと思う息子ならおれに預けるかと言ったら、預けますと、こういうことから、子供たちとよく話し合ってみると、エネルギーのはけ口を求めているということがわかった。もう一つは、格好よさを求める今の子供たち。テレビなんか見ていると、テレビのマッチーとかいろいろいる、この連中と自分と同じくらいに感覚あるんですね、仲間みたいな。ですから、女の子からちやほやキャーキャー言ってもらいたい、こういう気持ちもいっぱいある。だから、学校へ行けば勉強できる子だけがスター扱いをされる、自分たちも認められたいけれども勉強では追っつかない、だから、だんだんおもしろくなくなってくる。先生は勉強できる者を相手にするという感じになる。だから、そういうところに、これは私は山口さんのやり方の本を読んでみたんですけれども、結局、子供たちが一番女の子にキャーキャー言われて人気者になるにはどうしたらいいか、しかも、一番エネルギーが集まって、何かやらした方がいいと思って、そしてもう一つは、殴り合いをしたりけんかをしたい。殴り合わすにはボクシングがいいかもしれないが、どうもチームワークがとれない。よし、それじゃひとつと言ってラグビー部をつくったというんですね。とってもおもしろい先生の行き方だなと思って、不良学生たちがいつの間にか日本一の学校になって、優勝のときテレビで私も見ていましたけれども、先生の肩に取りすがってみんなおいおい泣いているんですね。だから、この子たちは、これからどういう人生を歩んでいくのかわかりませんが、それがすべてじゃありませんけれども、ですから、そういうエネルギーのはけ口、そして学校がおもしろくあること、そして勉強が中心だという学校に行っているつまらなさ、その中にもっといろんな別の面を引き出してあげる。教育というのは、もともと、そういうふうに引き出すという意味があるわけですから、引き出してあげる。その引き出した結果が社会であり、評価され得るような社会にしていかなければならないというようなことを考えてまいりますと、今日までの日本の教育のあり方というのは、どうしても知徳体とは、こう言いますけれども、学校教育は知育偏重であったということは、これは否めない事実だと思うんですね。しかし、私は政治家だからこれ言えるわけですが、これを引き出すと高石さん怒られるんですけれども、私も高石局長といつもやり合うんですが、文部省なんだから、教育がちゃんと整然と行われて、学問が進められていくということを大臣認識として持ってもらわなきゃ困りますなんて局長は私に言うんですが、私は政治家だから、教育を進めることも大事だけれども、私は、もっと別の角度から考えることも政治家責任だ、こう言っていつもやりとりもしておるわけでありますが、一体、そういうことを考えますと、社会全体の風潮といいますか、そのことを改めて、学校教育全体がどうあるべきなのか、こういうことを考えますと、新しい教育改革の中で、多くの経験をされてきた方、あるいは現実の問題として教育の任にあった方々、そういう方々からいろんな角度で御検討いただくということが、何も不良や暴力、こういう事態を文部省で手に負えないから新しい教育改革にお願いをする、こういう意味じゃございませんが、基本的なそうした教育環境全体も、国民全体の物の考え方も変えない限りは、これは一つつまんだって、今の総理府や、警察庁の皆さんの御苦労だけしか残らないというような感じがいたします。  長くなって恐縮ですが、第二点は、先ほどもちょっと申し上げましたが、僕は、教育というのは、教科書を教えていることじゃないと思うんですね。ですから、先生の広い教養、人生体験、そして人が人を教えるんだという一つ教育の敬けんさといいますか、尊厳、あるいは人が人を教えることによる恐れ、私は、そういうことから考えて出てくる使命感、そういう先生との人間関係の触れ合いの中で子供たちが育ってくるんだろうと思うんですね。  しかし、今は学校先生にはお気の毒で、人と触れ合ってゆっくりと話し合う――大変失礼ですが、小西さんという学生さんがいれば、小西君とよく話し合って、人生的なことも、いろんなことを話し合っているだけの学校先生にゆとりはないし、もう一つは、そんなことをやっていたら、別な親の方から文句が出てくる。もっと勉強させてください、大学に行けなくなるじゃありませんかという。何でもいいから、みんなを学校、どこでもいいから送り込んでしまわなければ、先生の使命が果たされないと先生は思っておられる。そういうふうに考えますと、先生にもうちょっとゆとりを持ってもらうことも大事だろうと思いますが、先生にゆとりを持ってもらうことも大事かもしれませんが、もう一つには、先生体験が乏しいということも指摘されるんじゃないかなという感じも私は持っておるわけでございまして、お話し長くなって恐縮でございましたけれども、幅広くいろんな角度から、こうした教育全体の問題を考え直していく私は大事な時期に来ておる。そのことも、またこうした問題、児童、子供たちのテーマヘの解決の糸口にもなるのではないか、こんなふうにも考えているところです。
  34. 小西博行

    ○小西博行君 非行問題を解決するために、私は、まず一つの柱としては、学校教育における非行対策、こういうものを挙げておるわけです。  その第一点は、教育内容について、これから先、どのように考えていくのかというのが一点なんです。  それから、もう一点はカリキュラムですね。道徳というお話も出ておりますけれども、そういうカリキュラムをどういうふうに編成していくかという、これは一つの大きな問題だと思うんです。  それから三つ目は、学校現場の体制といいますか、私は、この中に校長さんの指導力であるとか、あるいは先生の役割、それから四十人学級というのも当然入ると思いますけれども、そういう学校現場の体制づくりといいますか、こういう三つの大きな柱を実は考えておるわけですが、まず第一点目の教育内容についてどのように考えているか。  例えば、教科書の問題であるとか、子供に教える場合に、大体、何点ぐらいとれればそれで十分なのか、教える方法論になると思うんですね。それから、道徳教育の必要性と実際の実施時の状態、こういうようなことを考えておるんですが、こういう教育内容についてはどのようにお考えなんでしょうか。
  35. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) まず、日本の教育内容は小・中・高等学校大学とそれぞれ違いますが、少なくとも高等学校までは一定の教育水準を維持していくということから学習指導要領の基準を決めて、そしてそれをもとにして教科書をつくっているわけでございます。  そこで、その内容をつくる際には、時代の進展というものを考えていかなければならないということで、今までもそうでございましたが、十年に一回ぐらいは教育内容の改善を教育課程審議会等にかけてやってきたわけでございます。したがいまして、十年前、五十年前と今と同じような教育を教えるということはできない。ある意味では、時代の進展に対応する弾力的な内容を考えていかなきゃならない。それから世界的な教育の水準というようなことも常に配慮していかなけりゃならない。何といっても、日本は人的資源が我が国の唯一の資源であると言われているわけですから、そういう意味での教育の一定の水準が維持されていくということは、世界の中に生きていく場合に必要なことであろうと思うんです。そういう意味で小・中・高等学校を通じましては、他の国々よりもかなり水準の高い内容のものを今日まで教えてきたということは言えるかと思うんです。  ところが、一方、そういうような教育の仕組みにいたしますと、そこで必然的に出てくるのが落ちこぼれの問題、教育についていけない子供の問題、それがまた一つの病理現象としていろんな問題を生み出しているような現象があるわけでございます。したがいまして、そういう現象を除去するために、内容を引き下げて対応していくのか、それはそれなりに対応の仕方を考えていくのかというのが、今後の教育政策をとる場合の重要なポイントになると思います。  そこで、そういう落ちこぼれとか、学習についていけない子供たちの対応というものを、またこれは、世界各国がそうでございますが、非常に苦しんでいるわけでございます。日本もその例外ではないのでございます。そこで、そういうついていけない子供に対する対応を一体どう展開するかというのを相当研究していかなきゃならないというふうに思うわけでございます。  そこで、小中学校においては個別指導であるとか、補充指導であるとか、グループ指導、そういうものを徹底して、少し手間暇をかけながら、一般の水準まで引き上げていくという教育の手法を教育の現場でとるべきではないかということで、そういうための手引をつくるとか、いろんな研究をしていくということを真剣に考えていっているわけでございます。  一方、高等学校段階では、習熟度別学級編制ということで、子供たちの到達度に応じて地道に内容を消化していくというような学習の展開ということが必要であろうという対応も考えているわけでございます。したがいまして、二刀流使いで今後の教育内容についての対応を考えていかなきゃならない。  それからもう一つは、画一的に、すべての子供たちに、同じ内容で平等の分野を教えていくということをもう少し考え直して多様化していく、弾力化していくという意味では、高等学校、中学校における選択制の導入というものをもう少しできるようにしていかなきゃならない、そういうふうに考えて今後の研究をしていかなきゃならないと思っているわけでございます。
  36. 小西博行

    ○小西博行君 文部大臣、特に私は小学校の三年か四年ぐらいまでが非常に大事なんじゃないかと思うんですよ。というのは、九九がわからないとか、高等学校へ行くのに、分数がわからないということは、どうしてなんだろうかと思うわけですね。大臣とか私らの年代というのは、終戦後ですから、大して勉強もしないで走り回ってたと思うんですよね。しかし、九九とか分数ぐらいはできたような気もするんですが、何かカリキュラム見ても忙しいんですね。今、一足す一というのがわかればすぐ十のけたになっていくとかというような、忙しくやっていくわけですね。三角関数なんかでも、中学でちょっと出てくる。急にまたばんと出る、こういうようなことで何か教育全体が、特に小学校教育のカリキュラムといいますか、やり方が非常に先を急いでいるんですね。先生方もそれを教えなければどうしようもないということでやってしまう。だから繰り返し性が非常に少ないような感じがするわけです。だから、私、小学校の、特に低学年、三年か四年ぐらいまでは、もっと繰り返しトレーニングできるような、そういう教育体制に持っていけば、現在の落ちこぼれというのはもっと少なくなっていくんじゃないか、そういう持論を持っているわけですが、大臣どうですか。
  37. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 私も小西さんと基本的には同じ考えなんです。人間というのは、一体、じゃ、どれだけ学問しなきゃいけないのかということなんですがね。中村先生や美濃部先生や林先生学問の粋をきわめられた方、いらっしゃる。美濃部先生なんかも相当勉強なさいましたか、昔は。私はよくわからないのですけれども、だけれども、みんな学者にするわけじゃないし、みんなすばらしい技術者にするわけじゃない。人間として最低限生きていくものを教えることでいいのだろうと、こう思うんですね。ですから、できれば学校へ入って僕はこの程度でいいのです。私はお医者さんになりたいから、僕は技術屋さんになりたいから、こういうふうに勉強していくのだというふうに、もうちょっと選択できないだろうか、多様化して。どうも何から何まで、これだけ教えなければだめなんだと、親もこれだけ教えてください。こうなるから、先生も本当に大変だと思います。私なんか、見ておって、娘はやっと高校一年になりましたが、中学ころのもう数学だって絶対わからないんです。小学校六年生で僕よくわかりません。こんなことが本当に必要なんだろうか、これも局長とやり合った一つなんですが、ピタゴラスの定理も、コサインも、タンセントも習ったけれども、今は卒業してから、高校を出てから一遍も使ったことがないんです。ああいう学問があったということは承知しておりますけれども、果たして社会にとって必要なんだろうかな、今の自分が進んできた道から見ましてね。ですから、私はそういう意味で少し全体的に、先ほどちょっと、高木さんのときにも、やりとりをいたしましたが、小学校の低学年においては、もうちょっと人間的なことを、それから人間が生きていく上においての最低限ぎりぎりのことを身につけられるような、その中で国語も、あるいは数学も、自然的な形で理科もという形で身につけていく、その中で個人の能力というのは、これ、しようがない、神様が与えられたものですから、その能力に応じてさらに進んでいく、これは憲法にもそういうことを書いてあるから、そういうふうな義務教育でいいんじゃないかという感じを持っているのです。しかし、現実にはいつも言うことでございますが、社会の評価、それから大学という一つの大きなハードルがある。そのハードルを越えなければ社会に入れないのだということになりますから、私は、そこのところをもう少しハードル下げてくださいと言うと、大学先生方怒るから、私も、それもだめなのかなと、本当は下げてもいいと思うのですけれども、入れてやったらいいと思うのです、素質がある者は。どんどん伸びていくわけですから。だけれども、下げることがいかぬなら入り口を多様化したらどうだろうか、それで、今、国立大学協会にも、あるいは私立大学関係者にも、そこのところを検討してくださいと、今、こうお願いしている。そうして社会全体から見て、人物の評価を、さっき言ったように、もうちょっといろいろな形で多様的に変化しているような世の中をつくる。それが、今世紀が間に合わなくても、少なくとも二十一世紀はそういう人間的な、総理言葉をかりるわけじゃありませんが、人間的な、私は、もうちょっと教育の現場といいますか、社会。そういうものをつくるために努力をしてみたい。そのことが今度の教育改革に、いろいろこれから御審議をいただくことになるんでしょうが、一番一つのテーマになってほしいということを実は期待もいたしておるところであります。
  38. 小西博行

    ○小西博行君 ぜひ、そのように頼みたいと思います。  次に移りますが、これ、非行対策なんですが、家庭における非行対策についてどう考えるか。しつけの問題はもちろんございますね。それから親子関係とか、そういう家庭でのしつけに対して行政はどういうスタンスで対応していく、あるいは臨んでいくか、こういう問題が一つあると思います。それから二番目は、地方自治体あるいは学校は、家庭教育にどうかかわっていくか。それから三番目は、PTA活動のあり方についてどう考えるか。四番目に、父兄に教育への関心をどう持たせるべきか。こういうような一つのテーマがあろうかと思うんですが、これに対して文部省はどういうふうにお考えでしょうか。簡潔にひとつお願いします。
  39. 宮野禮一

    政府委員(宮野禮一君) 簡潔に申し上げたいと存じます。  最近のように、非行問題の原因としまして、家庭のしつけが十分でないんじゃなかろうかという御心配がそれぞれ指摘されているわけでございます。家庭で両親が子供をしつけするということは、本質的にはそれぞれのプライベートな家庭の問題でございますけれども、子供を立派な社会人として育てるということは、それぞれの両親の公的な、何というか、社会的な責任でもあるわけでございまして、文部省といたしましては、公的な立場からは、それぞれの親が自分たち子供教育したり、しつけたりすることに対するいろいろなやり方なり、機会なりがあるわけでありますが、そういったことをできるだけ助けていくというのが基本的なスタンスであろうというふうに思うわけであります。  そこで現実の施策といたしましては、市町村で家庭教育学級というのをたくさんやっております。そういったものを援助する。それから、市町村でやります家庭教育学級を基本としまして、都道府県の段階で、市町村でできないような家庭教育に関するいろいろな事業というのをやっておりますが、それらを援助する。例えば、それは指導者の研修事業のようなものでありますとか、あるいはテレビ放送みたいなものもございます。本年度は、特に、昭和五十九年度から家庭教育総合推進事業というのを設けまして、指導者の研究協議会とか指導資料の作成とか、それから一般家庭から電話ででも相談ができるような電話相談事業などというものも一部の府県でやってみていただけないかという予算を用意しております。そのように、私どもといたしましては、家庭の親を援助するために、市町村ないし都道府県にいろいろな事業をお願いするというか、奨励しているわけでございます。  それから、そのPTAの問題が出てまいりましたが、PTAは申すまでもなく親と教師とが協力して子供教育に当たるという自主的な団体でありまして、小西先生御承知のように、各学校単位に結成されている。学校単位に形成されているのを単位PTAと言っておりますが、この単位PTAが各学校ごとにございます。そして、それらの組織が連合しまして郡単位あるいは都道府県単位、さらに全国で言いますと、日本の全国組織というのがあるわけでありまして、私どもといたしましては、それぞれそういうPTAの事業というものは学校家庭を結ぶものでありますので、家庭の親が学校教育というものをどう理解しているか。それから、自分たち家庭でどういうふうに考えていくかというのを考える、あるいは知る機会にもなり、非常に有意義な事業であるというふうに考えておりますので、PTA活動を全国的に奨励するという立場をとっております。  それぞれの単位PTAそのものは全国の都道府県ないし市町村の社会教育部局でいろいろ援助をしていくわけでありますが、私どもといたしましては、全国団体の全日本のPTAの連絡協議会に対しまして、全国活動について助成すると、援助をいたすということをやっていると。最近では、それぞれ日本PTA全国協議会でいろいろなPTA活動の事例集というのを五十七年度と、それから五十八年度には、そのうち特に非行問題に焦点を絞って非行問題をどう解決していくべきかというその事例集などを出しましたが、これら私どもが何か日本のPTA活動のために全国団体がやる事業として奨励しているものであります。そういう意味で、これからも家庭教育と並んでPTA活動の奨励に努めてまいりたいというふうに思うわけでございます。
  40. 小西博行

    ○小西博行君 さっきの大臣のラグビーの話じゃありませんけれども、東京にも蓬莱中学という非常に成功をおさめた事例があるわけですから、そういうものを、十分、私は横の連絡として活用していかないと、恐らく、そういう苦しみを持っていらっしゃる学校というのはたくさんあるんじゃないかという感じがするわけです。せっかく、そういうような貴重な体験があるわけですから、それをできるだけ導入してやっていくという考え方が非常に大切じゃないかというように考えております。    〔委員長退席、理事田沢智治君着席〕  あとまだこれ幾つかあるわけですが、時間が大分迫ってまいりました。できるだけ早くやめという感じでございますけれども、あとしばらくひとつお願いしたいんですが、結局、社会制度とか行政のひずみというのが私はこの非行問題にも大きく関係すると思うんですね。それをさっきからお話、いろいろ聞いておりましても、どうしても受験戦争というものは否定できないと。これは、受け入れする、いわゆる一般社会がどこそこの大学からぜひ入れたいとか、そういうことになりますから、どうしてもそうなりますのでね。ですから、それぞれの例えば大学入試だとか高校入試だとかいうところにたくさんの私はひずみが出ているんじゃないかと思うんですね。そこが私は非常に大きな問題じゃないかと考えているわけです。ですから、こういう制度についてももう抜本的に全体で考えないと、ただ高校入試だけを考えたら解決できるという問題ではないというふうに私は考えるわけでして、その問題もよく検討していただきたいというふうに思います。  私は、さっきの大臣お話じゃないけれども、大学入試なんかでも、できるだけたくさん入れて、そして非常に厳しく教育していく、なかなか単位が取れないと、そういう形の方が実は本当じゃないかなと。あとは教室とか先生の問題があるわけですね。これ、私自身も経験がありますがね。たくさん落としますと、次の年いっぱいまたそれが入ってきましてね。教室入れないわけですね。あるいは試験のときだけうわっと来ると。こういう問題が現実にありまして、特に、恐らく文科系なんかになりますと、何百人という学生の面倒を見なきゃいかぬという、こういう問題もございますけれども、原則的には、そういう形にすればいいんじゃないかなという感じがします。  ただ、社会的な、一般社会、会社の方の受け入れ態勢というのはまだまだ大変厳しいんじゃないかな。現在でも、恐らく夜間大学へ途中から行く場合には大学の認定しないという会社が相当あると思いますね。一部上場あたりの企業では途中から二部の大学へ行ってもそれを認めない、いわゆる資格を認めない、こういうような会社というのは結構多いんですね。だから、そういうような問題も含めて解決しなければ、なかなか入学試験だけの問題では解決できないんじゃないか、そのように考えております。  最後に一点だけ、これ提案という格好で申し上げたいんですが、今までの問題とは多少違います。  実は、この間、定時制高校の問題で質問をさしていただきました。これはいろいろ考えてみますと、当然、これは全国の定時制高校の問題だと思うんですね。ですから、私は、できれば全日制高校と一緒になるような格好ですね。つまり、昼でも授業受けられると、夜でも授業受けられると、単位を取れば卒業はできると。現在は定時制高校四年制になっておりますね。ですから、単位さえ十分取れれば、これは三年でも卒業できるという、新しいひとつの改革をされた高等学校というものを考えていってもいいんじゃないだろうか。今までのような状態で、ずっと定時制高校、東京に百七十もありますけれども、どうも先生の異動なんか、聞いてみましても、全日制へはほとんどかわれないというようなことがあるんですね。ですから、私は、そういう格差というのは、だんだんなくしていった方がいいんではないか、そういう感じがいたしまして、先生のそういう異動の問題も、今、申し上げたような、定時制という特別に言葉をつけないでやれば、卒業した場合でも、ああ定時制出たのかということでなしに、どこそこ高等学校卒業という形で考えていってもらえないだろうか。このようにこれ提案でございますけれども、ぜひ考えていただきたいというように思います。  以上でございます。  その辺の問題は、恐らく全国のいろんなかかわりがあると思いますので、十分実態調査をされて、子供さんが頑張っていけると、卒業したときにも定時制だというようなハンディのないような、そういうことにしてもらいたい。これをひとつ提案さしていただきたい。  相当、文部省でも、いろいろ勉強していただいておるというふうに聞いておりますので、ぜひ考えていただきたい。  以上で終わります。
  41. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 先般、小西さんから向丘高校のことからお話がございまして、その後、また衆議院の方でも同じような御質問もございました。いろんな意見がさまざま寄せられておりますが、定時制高校全体について発足当初の目標と大分変わってきたという面もございますし、それから、今、先生おっしゃったように、各県によって非常にいろいろ多種多様でございますから、近く文部省で検討会議をぜひ設けて、そして、もう少し検討してみたい、制度上、すべて。場合によりましたら、こういう定時制高校、また高等学校全体の問題も含めまして、教育全般の問題になってまいりますと、あるいはまた臨時教育審議会等で御意見等も賜るような、そういうようなこともまた期待ができるのではないかと、こんなふうにも考えておりますが、文部省として一生懸命対応をしていきたいと考えております。
  42. 田沢智治

    ○理事(田沢智治君) 午前の質疑はこの程度とし、午後一時十分まで休憩いたします。    午後零時八分休憩      ―――――・―――――    午後一時十一分開会
  43. 長谷川信

    委員長長谷川信君) ただいまから文教委員会を再開いたします。  休憩前に引き続き、教育文化及び学術に関する調査のうち、文教行政基本施策に関する件を議題として質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言願います。
  44. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 大分もう大臣もお疲れでございましょうし、私も知事を十年間務めまして、委員会のつらさはよくわかっておりますんで、できるだけお互いに簡潔にいたしたいと思います。それでございますから、もう簡単に答弁の要領だけしていただければ結構でございますから。  第一の質問は、私は、今の教育の問題の中において一番重要なのは、いわゆる教育荒廃と言われている現象であると思うんです。これは、これから将来の日本を担う人たち子供たちの将来に関する問題であって、これらの人々が、将来、日本を担ってくれるわけなんですけれども、彼らにとって一番重要なのは子供のころの教育であって、その教育荒廃しているということは非常に大きな問題であって、今、我々の文教委員会で討論する教育の問題の中においても、最も重要なものであると思いますけれども、大臣はどうお考えでしょうか。
  45. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 美濃部先生御指摘どおり、教育制度そのもの、あるいは現在の日本の教育は、先生のように御専門的なお立場で見られたら、どうかまた別問題といたしましても、一応量的にも質的にも私はかなり行き届いて、完備していると思いますが、その反面、教育原因社会的ないろんな荒廃現象がある。そのところに今一番思いをいたさなければならない、こういうふうに私も考えております。
  46. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 私、長い間、大学先生をしておりましたけれども、教育には全く専門家ではないんで、大臣の方が教育についてはいろいろむしろ専門家であると思っておりますので、そのつもりでおいで願いたいと思うんですが、教育荒廃と申しましても、いろんな現象があります。ちょっと概略言ってみましても、教育一般につきましては、教科書をどうするか、教育方法をどうするか、教育制度がどうなっているか、あるいは教師暴力という問題がある。それからマンモス学級がある。それから先生の質が問題になっておりますし、それから教育委員会がどうあるべきかというのが、中野などの例もあって非常な問題になっている。それから、いわゆる業者テスト、ここでもたびたび問題になりました業者テストの問題、それに関係して偏差値、それから共通一次試験とか、あるいは校内暴力生徒非行、それから落ちこぼれ、それから家庭内の暴力、それから登校拒否、こんなのはほんの一例でございますけれども、このほか非常に多くの荒廃の現象があらわれていると思うんです。  そこで、教育をどうしたらば正常-正常と申しましても意味が不明瞭でございますけれども、正常な状態に戻すことができるか。荒廃というのは、結局、正常を前提にして、その正常の状態が保たれないということが荒廃だと思うんですけれども、そう考えまして、正常の状態に戻すためにはどういうふうにしたらばいいかということは、私は、今申し述べましたような荒廃の現象を一つ一つよく追跡し、研究し、分析し、そうしてこれらの現象の間にも、相互に、互いに関連し合っておりますので、その関連がどうなっているかということを研究をして、そうして、なぜ、こういうふうな荒廃の現象が起こっているかということを確かめて、そうしてその原因をなくす。そのための政策を立てる。そしてまたその政策に従って実行するという、割合に、演繹的というよりもむしろ帰納的な方法をとって進むべきではないか。もちろんそれに、演繹的な方法はだめだというわけじゃないんで、演繹的な方法も重要ではあるけれども、さしあたりは帰納的な、その荒廃の現象の分析、究明ということから入っていくのがいいのではないか、そう考えますけれども、いかがでございましょう。
  47. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 大変難しい御質問で、何か入学試験の面接を受けているような気で-確かに、追跡をし、分析もし、研究もしなければならぬということはよくわかりますが、今先生がお挙げになりました、正常な状態でないもの、つまり、それが荒廃というふうに-その荒廃というのは、教員の質の問題、非行だ、落ちこぼれだ、登校拒否だ、いろいろ挙げられました。確かにそれは全部イレギュラーなものだと思うんですが、さあ、それを分析し、あるいは研究をして一つ一つ直していくといっても、一つのものを直しても、私はそれはなかなか直り切れるものではない、それで全部教育荒廃が直るかといったら、そうでもない、私はそう思うんです。ですから、今日まで、例えば入試制度が、あるいは受験地獄、あるいは難問奇間というような形で出てきた。これも一種の荒廃状況ですね。それを手直しをしたけれども結果的にはまたほかのものにこう出ていくということで、なかなか、一つのものをとらまえて、それを改善してもすべてがうまくこうつながっていくとは限らない。人間社会人間の生きていく中の難しさ。ましてそれぞれ考えの違う人たちをワンパッケージにして物を教えていこうとするわけですから、そこに大変難しさが出てきても当然だろうと思うんです。これは私自身個人的にこう思うんですが、先生とこういうやりとりができることに、政治家になったまた一つの私は大変喜びを今感ずるんですけれどもね。そういう意味で、またお教えもいただきたいと思いますが、一つには教育をする――何で勉強するんだ、何でこの子たちを育て上げるんだ、教育を受ける立場から見れば、なぜ勉強するのかというそこの目標、教育に対する目標みたいなものがないからなんじゃないかなあという感じを私は持つんです。なぜ、育て上げるんだ、国家に有為な人材をという。こういう言葉が出てきますけれども、今なら大して抵抗ないのかもしれませんが、例えば国家に有為な人材をというと、敗戦の中のずっと僕たちの学生時代の道程を見てみると、国家に有為な人材というのは、国家に捧げる人間をつくり上げるのか、また戦前志向のあの悪い時代と、こういうふうに結びつけて、国家に有為な人材をなんという言葉は吐いちゃいけないような雰囲気があったと思うんですね。今は、国のためにみんなが一人一人日本人として頑張るんだというふうな言い方ができるのかもしれませんけれども、どうも自分の立身出世のための勉強なのか、この子を育て、学校へ行って、親としての責任を果たすのは、この子に将来出世してもらう、そのためにはいい学校へ行ってもらうんだと、これが目標だというところに、私は今日的な荒廃のどうも遠因みたいなものがあるんではないか。だから、そういう意味で、教育をする方も教育を施す方も、なぜ教育をするのかということの理念みたいなものがつかまえられてない、どうも定かにされない。戦後のずうっと歴史の中で、そういう日本全体が命模索したり迷ったりしているという、そういう私は時期も一つ個々のこうしたイレギュラーのものもございますが、全体的なそういうゆがみみたいなものが出ているような、そんな感じがいたすんです。率直な気持ちを申し上げたわけです。
  48. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 今、大臣のおっしゃったことはもちろん大切ですけれども、しかし、私の言いますのは、今の大臣はやや演繹的に教育の目標とは何かというふうな、つまり抽象的なものを想定して、それと現状とがどう格差があるかと。そういう点で私の帰納的と言ったのは、その教育の目標それ自体を、やはり荒廃の現象を分析していくことによって相対的にあらわす、探っていくという両方必要だと思うんです。  しかし、それはもうここでどんなに議論をしても意見の相違であって非常に違いますから、私の考えどおりに荒廃一つ一つの現象を分析、究明して、そうして我々が考えるというよりも、子供たち考え教育の目標はどういうものだろうかということを探っていくのがいいと思うんですけれども、そのうちの一つといたしまして、そして今申し上げました荒廃の現象の一つとして教科書の画一化、つまり国定教科書的な傾向をたどって一元化しようという傾向が見られると言われております。それで私は、この点では大臣がまだ小学生にもなったかならずだと思いますが、昭和二十八年からずっと現在まで教科書を書いております。それで、その間のいわゆる検定ですね。検定の変遷その他も身をもって経験をしておりますので、この教科書を画一的にするという傾向がだんだん強化されているという点を第一に取り上げて分析をしてみたいと思うのでございますが、いかがでございましょう。
  49. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 今のお尋ねは、先生がそういうふうに一つ一つ分析して究明、検討していきたいというお考えを述べられたということなら、私もそういう分析の仕方は大変結構だと思いますので、個別に御指導をいただきたいと思います。ただ、教科書が画一で、検定制度が画一だと思う、それについてそれは大臣どうだと思うか、というと、ちょっとまた答えが違ってくるのですが、前段のところについて。
  50. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 また結論の点で私の意見も述べますし、それから大臣の御意見も伺いたいと思っております。  それで教科書の執筆、我々みんな執筆者なんですけれども、執筆に当たっては、学習指導要領というものがございまして、これがいわば教科書執筆の憲法と申しましょうか、原則と申しましょうか、それを定めたものでございまして、これは僕はどうもはっきりしたいんですけれども、文部省の組織令の中から出てきているものであると思いますが、文部大臣がほぼ十年ごとに教育課程審議会というものを招集されて、その審議によってこの学習指導要領というものがつくられるんだというふうに思うのですが、いかがでございましょう。
  51. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 学習指導要領を決める根拠は学校教育法にありまして、学校教育法の二十条で、例えば小学校の場合は、小学校の教科に関する事項は、監督庁が定める。そして、それを受けまして学校教育法施行規則で「小学校教育課程については、この節に定めるもののほか、教育課程の基準として文部大臣が別に告示する小学校学習指導要領によるものとする。」、こういうふうな決め方を制度上しているわけでございます。  こういう決め方をしております理由は、小・中の義務教育それから高等学校も普通教育としてとらえまして、東京の子供であろうと鹿児島の子供であろうと北海道の子供であろうと、義務教育を修了するまでには一定水準の教育を与えられる、それから教育内容も一定内容が与えられる、こういう保障をしていきたい。その保障を具体的にするのはだれかということになりますと、国の行政機関の教育をつかさどる主務大臣である文部大臣がそういう内容を決めなければだれも決める人がいないということから、今申し上げたような法律上の立て方をしているわけでございます。
  52. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 わかりました。今ここでそういう決め方が妥当であるかどうかという議論は一切省きます。文部省の意見に従いまして、そういうふうになっているということを前提にいたしましてお話しするんでございますけれども、それで、このほかに、先ほど申しました教育課程審議会によって学習指導要領が決定されるんだと思いますけれども、そこで、その審議会の検定基準というものがありまして、これは教科書の基準として、一般的な原則として、つくらるべき教科書の内容は学習指導要領に示す教科の目標に一致していなければならないと、そして検定で一致しているかどうかということが認められて、その上で教科書というものが、何といいますか、本当の教科書になるんだと、大体そういうふうに決められていると思われるんですけれども、いかがでございましょう。
  53. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 学習指導要領を作成するに当たりましては、教育課程審議会に諮問をし、その答申を受けまして、そして文部大臣が定めるという手続をとります。それから、その学習指導要領に従いまして文部省が教科書の検定をするわけでございます。その検定をする際に、教科用図書検定規則というのがありまして、検定するに当たっての基準を決めているわけでございます。その基準の運用で、客観的に、合理的に、具体的に申請された教科書を検定していくと、こういう仕事をしているわけでございます。
  54. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 大体、私の申しましたことでそう間違いはないと思うんです。  それで、この学習指導要領というのが、何といいますか、一般の原則であって、これは昭和二十二年ですね。二十二年からたしか小・中学校に学習指導要領の制度ができて、高校は二十三年に実施されている。それから三十二年にこれが変わりまして、国の、何といいますか、基準性というか、基準を決めるということが非常に強化されまして、法的拘束力が強化されたと。それから後は四十三年から一時、詰め込み主義といいますか、小学校で集合、関数などもやるということが決められまして、それから五十二年からは君が代を斉唱するとか、あるいは教育基本法という文句が総則の中から消えたとか、やや国家主義的な方向が強化されたというふうに変化をしてまいりましたけれども、これはもちろん異論がございましょうけれども、私は僕自身の初めの昭和二十八年からの指導要領に従っていろいろ文部省との談判をして、そういう経験から見て大体においてそうであって、そして私が一番初めに書きました教科書は全く自由でございまして、指導要領というのはございましたけれども、これは誤字とかあるいは本の体裁とかいう技術的なことだけであって、内容はほとんど干渉されませんでした。そうしてさらに重要なことは、教科書を採用するのは各学校の自由に任されておりまして、広域化、つまり市町村とか県とか、あるいは、そういうふうに広域化がだんだんと進んできたということでございますけれども、そういう事実は認められますか。
  55. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 流れが、そういう節目節目があるということは事実でございますが、ただ、ちょっと申し上げておかなければならないと思いますのは、戦後、日本の教育をどう展開するかということで、戦後から三十年に至るころまでは、やや日本の教育界も動乱期であったと思います。要するに模索の段階であったと思うのです。戦前の国定教科書を改めまして検定教科書制度に切りかえたということで、一気に自由化されていった、戦後の教育として。そのままで日本の学校教育はいいかといういろんな反省があって、もう少し日本国民として一定の水準が保障されるような教育の仕組みにしなければおかしいのではないかというので、昭和三十三年の学習指導要領の改定に当たって法的拘束力ということを少し強めていって水準の維持を保障していこうと、こういう流れがあったことは事実でございます。そして四十三年ぐらいまでは日本の産業が発達していく、理科教育、産業教育の振興ということが非常に叫ばれて、いわば教育水準の質的向上のために算数その他においてかなり難しい内容が積極的に取り入れられていったという傾向があることも事実でございます。そして、四十三年の改定の際も、ややその傾向が続きまして、五十二年の改定の際に、やや詰め込み主義、少し内容が詰め込み主義になっているのではないかと、もう少しゆとりを持たしていく改正が必要であろうというので、五十二年の教育課程では、そういう改定の流れになりまして、あわせて三十三年当時法的拘束力というのをかなり事細かに拘束していたものを、もう少し自由化し、弾力化していこうと、こういう流れが五十二年の教育課程改定の流れとしてあるわけでございまして、教育に対する統制を強めていったという、そういう方向での道筋というよりも、教育の変化としては、そういうような変化としてとらえているわけでございます。
  56. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 それはそれといたしまして、教育課程審議会の検定基準というものがございまして、これは原則的な、先ほど申しましたけれども、条件としては学習指導要領に示す教科の内容に教科書というものは一致しなければならない、そうでなければ検定で教科書とは認められないという総論的なものがございます。それから各教科ごとの教科書として検定に合格する必要条件としては、学習指導要領で示した内容を取り上げるということと、それから、学習指導要領の示す内容に照らして不必要なものを取り上げないということ、これは、その指導要領の全体を取り上げなければならないということと、余計なものを取り上げてはならないということと、つまり、結局、結論は指導要領どおりにしろということであると思うんですが、この点いかがでございましょう。
  57. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 原則的には御指摘のとおりでございますが、学習指導要領というものの性格は何かという議論に対する共通理解、認識がないと、なかなかそれから先の話がかみ合わないと思うんです。  学習指導要領というのは、先ほども申し上げておりますように、小・中学校教育の内容、水準を保障していく具体的な仕掛けが学習指導要領である。その仕掛けがなければ、先生によって地域によってばらばらな教育が展開される。それは国家という、日本国という立場で言えば、やはり国が義務教育として親たちに強制している教育の担保、保障の仕組みがないじゃないかということで、学習指導要領というのが制定されているわけでございます。そうなりますと、その内容に適合した教科書がつくられていくということが必要であろうということで、それに準拠することが必要である。  それから、もう一つは、じゃ、それ以外の内容を盛りだくさんで教科書に書きますと、いよいよ学校は過密ダイヤになる。だから、基本的なものを精選して教えるという内容と逆行していくので、できるだけ教育内容の基礎、基本をしっかり身につけさせるという観点では、義務教育とか高等学校段階では余り余計なものをたくさん教科書に載せられると、教育が混乱をするというところから、御指摘のような内容の規制をしているわけでございます。
  58. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 今、ここでは学習指導要領の内容がいいか悪いかという議論は一切いたしません。また、これは別の機会に、あるいはきょうの結論として申し上げることになるかもしれませんけれども、その点について議論をするというつもりは全くないんです。  そして、検定というものがございます。検定というのは各書店のつくった教科書の原稿が、学習指導要領で決められた原則に合致するものであるかどうか、それを実際に調べることというふうに考えていいでございましょうか。
  59. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 全くと申しますか、学習指導要領で書いてある内容に準拠して教科書がつくられているかどうか、それを調べることでございます。  ただ、学習指導要領では、いろんな、例えば歴史の事象に関する事細かな内容を決めていないわけでございますので、そういうものを教科書で取り扱われている際に、それは客観点な事実かどうかというような意味での、観点での審査もするわけでございます。したがいまして、内容と水準につきましては学習指導要領に合致するということが必要であると、こういうふうに考えるわけでございます。
  60. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 そこで、つまり、教科書が教科書として合格するか不合格であるかということを決定するのは、前に述べた審議会でございますけれども、それを検定する、実際に照らし合わせてどう思うかという意見を述べる、その意見が非常に重要なものになるわけでございますけれども、その意見を述べる機関は教科用図書検定審議会というものであると考えていいでございましょうか。
  61. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) そのとおりでございます。
  62. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 そうすると、この審議会は委員は最近八十四名とか、八十――若干は違うかもしれませんけれども、委員が八十四名で、それから委員会の下部機構というか、下部機構というのがいいか悪いか、多少問題ではございますけれども、実際に原稿に当たって原則として学習指導要領と合っているかどうか、従っているかどうか、その検定をする、いわゆる調査官というものが数百人いるということになって、これも事実でございますか。
  63. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 教科用図書検定調査審議会の委員は八十五名でございます。それから、具体的にそこに内容を上げていくための教科書調査官、これが五十名おります。そのほかに調査員という外部の方に委嘱をしている方々、これが六百から七百程度の人がいるわけでございます。
  64. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 そうすると、大体私の調べと間違っていないということがわかりました。  そうすると、新しい指導要領が出ますと、今度は採点ですね。通知表と言われているそうでございますけれども、点数でもって通知表をつくるのが調査官の仕事でございますが、その原則の検定基準、それをどういう原則に従って点数をつけたらばいいであろうかということを相談する協力者会議と、これは通称かもしれません、本当の、公の名前じゃないかもしれませんけれども、通称、協力者会議、ただ、そこで基準が決まりますから、非常な重要な会議になるんだと思いますけれども、ここで、メンバーは教科書の執筆者、それから編集者、それから学識経験者、それから調査官が集まって、つまり、これから調査官が白表紙本といいますか、原稿本と、それから学習指導要領との総合調整をするわけですけれども、そのときに基準、新しい指導要領ではどんな記述内容が予想されるかということを決めるというのだそうでございます。そして、ここでは、例えば自衛官は法律に基づいて設置されたものだということを教科書としては書かなきゃならないとか、北方領土は我が国領土であるということを明記しなければならないとか、そのほかたくさんあるんですけれども、そういうふうな基準がこの協力者会議で決められるということを聞いたんでございますけれども、いかがでございましょうか。
  65. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) ちょっと認識が違いまして、協力者会議というのは別にないわけでございます。
  66. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 それは公にはないんですよ、公式の会議としては。
  67. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) いや、非公式の会議としてもないわけでございまして、ただ五十四年に高等学校の教科書を改訂する際に、現場の教職員とか学識経験者、教科書発行者等の協力を得て、教科用図書検定基準改善のための調査研究会というものが設けられまして、検定基準の改善についての調査研究が行われたことは事実でございますけれども、それぞれの個々の教科書を検定するに当たって、この組織が動くということはないわけでございます。  具体的に申請された教科書を検定する際には、先ほど申し上げましたように、教科書調査官が具体的な内容を調べまして、そして、その際に調査員を三名程度一教科について委嘱をしているわけですから、その人たちの意見も聞きながら、例えば社会科でありますと数人の教科書調査官がおりますから、その人たちがいろいろ討議をした上で、そして一定の基準に従って、これが何点の教科書になるかというものを点数化して、そしてその案を審議会にかけまして、最終的には審議会の決定が行われる、こういう仕掛けになっているわけでございます。
  68. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 そういう基準を決めるのに、外部からの意見を一応徴する、執筆者とかなんとかいう人たちの、編集者とかいう人の意見も徴するということが行われて、これはなかなか民主主義的だなと思ったんですけれども、そういうことがないそうでございますから、つまり調査官の考え方というのがもっと大切になってくるということだと思うんです。  それで、調査官は、調査員の意見、それから原稿本をほかの調査官も見る場合もございますから、そういうほかの調査官が検討した意見などを参考といたしまして、この検討基準に照らして妥当かどうかということを判断をするわけですけれども、そのときの検定の基準となるものは教育基本法、教育法の目的に一致しているかどうかということ、それから学習指導要領の目標に一致しているかどうかということ、それから政治、宗教の取り扱いが公正かどうかということ、こういうことを基準にして、それに違反しないかどうかということを決めて検定をするということを聞いたんでございますけれども、いかがでございましょう。
  69. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) まず、検定するに当たりまして基本条件というのがあります。基本条件は、今お話しのありましたような内容でございます。そのほかに必要条件というのがあるわけでございます。この必要条件は、例えば範囲はどうか、それから程度、選択・扱い、組織・配列・分量、正確性、表記・表現、それが正しく行われているかどうか、教科用図書としての体裁、創意工夫がどういうふうに行われているか、そういうようないわば必要条件という条項もございまして、そういうものが総合的に評価されて最終判定が行われるという形になっているわけでございます。
  70. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 そういたしまして、非常に複雑でございますから、なかなかこれだけお話しできるのにも容易なことではなかったわけでございますが、そこで、調査官が調査員、それからほかの調査官の意見などを参考にして、しかし、あくまで調査官の意見というもので意見書を決める。そうしてその意見書には修正意見と改善意見とがある。修正意見というのは、その記述に欠陥があって、そうして訂正、削除、追加、それらが必要であると、それから改善意見というのは、改正した方が教科書がもっとよくなるというものであるということだそうですけれども、それは間違いございませんか。
  71. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) そのとおりでございます。
  72. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 初めて合格しました。  そうして今度は、なかなか難しいんです。調査官が意見書としては出さないで、意見書も出しますけれども、それを点数化する、つまり全体の点数が何点になるかということを決めるそうで、それが、これは間違っているかもしれません。千五十点満点で、そうして八百五十点以上とったものが合格であると、そうしてこれを普通は通知表と言うということですけれども、これはいかがでございましょう。
  73. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 点数は千五十点が満点でございまして、合格するのには八百点以上、八百五十点じゃなくて八百点以上を合格ラインにしているわけでございます。これは調査員が判定表という資料をつくりまして、そして、そこでずっと、先ほど申し上げました基本条件、必要条件のそれぞれの条項について評価をしていくわけでございます。それを最終的に調査官が総合的に点数が何点であるかというのを審議会にかけるわけでございます。そして、審議会はそれをもとにしていろいろまた審議をしていくという形になるわけでございます。
  74. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 そこで、いよいよ最終的な教科用図書検定調査審議会、これはもちろんいろいろな参考資料が出ますけれども、今の通知表というのが非常に大切な役割を演ずるのだと思います。そうしてこの審議会は合格、不合格を決めるんですけれども、ほとんど全部の原稿本が条件つき合格ということで決まるということでございます。これは確かにそうですか。
  75. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 大部分がそうでございます。
  76. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 そこで、この条件つき合格というのは、調査官それから審議会の委員が指摘した箇所が指摘どおり書き直されれば合格になる、要するに修正意見に従って修正されることが条件で合格されると。それから改善意見というものは、教科書がそれを改善されればよりよくなるということでありますけれども、なお修正意見と同じように修正を相当強く求められるということでございますけれども、その辺はいかがでございましょう。
  77. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 条件つき合格処分の中で修正意見を求める場合があるわけでございます。その修正意見を求められた場合には、その内容を修正してもらうということがないとできない。それから、改善意見というのは、修正しなければ合格する合格しないという合否には関係しないけれども、こういうふうに改めた方がより立派な教科書になるであろうという意味での改善意見があるわけでございます。したがいまして、修正意見は、修正してもらわなければ困る、改善意見は、法的拘束力はそこまでないけれども、改善されることが望ましいというものでございます。
  78. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 改善意見につきましては、表面はそうでありますけれども、実質的にはお受けしないと合格しないということがあるということは家永裁判でも容認をされているということでございますが、それは大したことじゃございません。改善意見は、おっしゃるとおり、修正しないでも、それが直ればもっとよくなるということだということでも結構でございます、そう大した問題ではございませんから。ただ、そこで、その段階で我々が登場するわけでございまして、その審議会で決められた修正意見、それに対しまして我々はできるだけ反抗をすると。実際、今でも独占価格というのはよくないとか、それからマルキシズムという名前はできるだけ使わないようにとか、いろいろ言われました。それで甲論乙駁で夜中になることもあるというわけでございます。しかし、そんなことはそれでいいんですけれども、そうして、それの検定でつけられました修正意見に従って書き直した本ですね。これを内閣本と言うのでございます。それで調査官はその内閣本。つまり本屋が意見に従って修正をして、そしてまた書き直したものを印刷して、そして内閣本をつくって調査官に見せると。そして調査官はいろいろ調べてみて、本当に直っているのかどうかを決定をすると。直したかどうかを、何といいますか、判断をすると。しかしながら、なかなかそこでも内閣調整とか申して、調査官の意に満たない場合が非常にあると。これを内閣調整と言うのだそうでございます。私はそういう経験はなかったと思いますけれども。そうしてとにかく教科書の原稿が合格して、そうして初めて見本本というものができるわけでございます。まあ、若干私の調べたところと違ったところがございますけれども、大体において、それがどういう意向でやられるか、やられないかということは別にいたしまして、大体の検定の流れというものはそういうことであるというふうに考えていいわけでございますね。
  79. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 大体の流れは今のお話のとおりでございまして、教科用図書検定規則でそういう流れを一般の人がわかるように明らかに決めているわけでございます。
  80. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 私は、最後の結論でございますけれども、こういう検定は憲法二十一条二項及び教育基本法十条に違反しているのではないだろうかという考えを持っております。二十一条というのは、「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と、それから二項目には、「検閲は、これをしてはならない。」というのが憲法二十一条でございます。それから教育基本法第十条は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」と、この二つに違反するのではないだろうかと思っております。そうして、家永裁判におきまして、第一審の杉本判決及び第二審の判決、その両判決ともに憲法違反、教育基本法違反かどうかということには正面からは答えておりません。しかしながら、家永君が挙げました各箇条については、これは法律違反の疑いがあるということを言っておりますし、これは杉本判決ですけれども、現行の教科書検定制度はそれ自体違憲とまでは言えないが、殊に検定基準内の運用を誤るときは、表現の自由を侵すおそれが多分にあるという文句が判決の中に出ております。裁判官の意見というのは非常に客観的なものであると思いますから、私もこの判決のあれに従いまして、違憲とまでは言えないけれども、しかしながら、これが運用次第では検定が表現の自由を侵すおそれが十分にあるのではないだろうか。その点において文部省は非常に慎重な態度をとっていただきたいということをくれぐれもお願いをいたしまして、私の質問を終わります。
  81. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 本日の調査はこの程度とし、これにて散会をいたします。    午後二時九分散会      ―――――・―――――