運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1984-04-07 第101回国会 参議院 文教委員会 第6号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十九年四月七日(土曜日)    午前九時五分開会     —————————————    委員の異動  四月七日     辞任         補欠選任      中村  哲君     大森  昭君     —————————————   出席者は左のとおり。     委員長         長谷川 信君     理 事                 杉山 令肇君                 田沢 智治君                 久保  亘君                 吉川 春子君     委 員                 井上  裕君                 大島 友治君                 藏内 修治君                 山東 昭子君                 仲川 幸男君                 林 健太郎君                 柳川 覺治君                 大森  昭君                 粕谷 照美君                 安永 英雄君                 高木健太郎君                 小西 博行君                 美濃部亮吉君    国務大臣        文 部 大 臣  森  喜朗君    政府委員        文部大臣官房長  西崎 清久君        文部大臣官房審        議官       齊藤 尚夫君        文部大臣官房会        計課長      國分 正明君        文部省初等中等        教育局長     高石 邦男君        文部省大学局長  宮地 貫一君        文部省体育局長  古村 澄一君    事務局側        常任委員会専門        員        佐々木定典君     —————————————   本日の会議に付した案件 ○昭和五十九年度一般会計予算内閣提出、衆議  院送付)、昭和五十九年度特別会計予算内閣  提出衆議院送付)、昭和五十九年度政府関係  機関予算内閣提出衆議院送付)について  (文部省所管) ○国立学校設置法の一部を改正する法律案内閣  提出衆議院送付)     —————————————
  2. 長谷川信

    委員長長谷川信君) ただいまから文教委員会を開会いたします。  昨日に引き続き、予算委員会から審査を委嘱されました昭和五十九年度一般会計予算、同特別会計予算、同政府関係機関予算中、文部省所管を議題とし、質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言を願います。
  3. 高木健太郎

    高木健太郎君 現在、一番問題になっているものの一つ共通一次試験の問題であろうと思います。森文部大臣は、先般も、自分共通一次について文教部会において関係した者の一人であるということも申されました。私も公立大学協会の会長をいたしておりますときに、この共通一次のことを論議いたしたこともございます。ところで、現在は教育の荒廃の根源である、あるいは教育における諸悪の根源であるというふうに言われておりまして、非常に批判の多い問題の一つでございます。しかし、森文部大臣共通一次を最初考えられましたその一人であるわけでございますが、報初意図とは少し違ったというお言葉がでざいましたけれども、この共通一次の最初意図はどのようなものであったか、そのことについて、まず文部大臣の御意見をお伺いしたいと思います。
  4. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 高木高木先生誤解をしていただくと恐縮なんですが、私が考えていたことより、期待がちょっとずれたというのは、当時党の文教政策の仕事をいたしておりました立場から見て、直接、私どもがこういう制度をつくるものじゃございませんし、入学試験制度は当然大学皆さんでおつくりになることであるわけですから、我々にとっては期待ということなんでしょう、そういう立場で申し上げたわけでございまして、文部省として当時考えておりましたことと、どういうことであったかについては、大学局長からでもお聞きをいただきたいと思いますが、私どもとしては、当時、入学試験に絡むいろんな試験地獄あるいは難問奇問、そういうような問題が非常に起きて、健全な高等学校の、何といいますか、もう少し学生生活を楽しみもでき、もうちょっと課外活動もでき、クラブ活動もでき、どうも試験ばかりに追われていて、まあ、すべてだとは言いませんけれどもクラブ活動などやっておりますと、僕たちの時代と違って、今の高校生は、まず親がやめてくれと。親がやめろと言うだけじゃなくて、学校先生までが、三年になったらクラブ活動をやめなさいという指導をしているのが実際ほとんどだと聞いておりますから、そういうふうな高等学校の一番大事な学園生活を、もっと何といいましょうか、愉快に、おおらかにやってもらえるようにするには、入学試験を少し緩和してもらえないかという、そういう気持ちから出たものでございまして、ですから、たびたび申し上げますが、余り難しい、こんなことまで高等学校でクリアしなきゃならぬのかなというふうな問題が確かに当時出ておりました。今だって私ども歯たちませんが、当時、まだまだ少しは頭のやわらかいときでございましたけれども、それでももう全くわからない。こんなことを一体高等学校でなぜやらなきゃならぬのかなという、そういう私どもも疑問を持っておりましたので、できれば高等学校でこの程度という程度、どの程度がいいということは我々専門家じゃありませんのでわかりませんが、そういうような仕組みをやってもらって、あとは少し個人的なクラブ活動のことを評価をしたり、あるいは生徒会やその他ボランティアのことを評価したりというような、人物を中心にするなり、あるいは小論文とか面接などをして入試を決めてあげるというようなことをしてやってもらえないかなと。スポーツ活動をどんどん続けておることがむしろ大学には入りやすいんだと、現実には運動部などの推薦もあるようでありますけれども、そういうようなことを私どもは当時願った。どうもその共通一次がかえって過重になって、そしてその後の二次試験にまでまたこれ大きな負担になるというような形で、どうも僕たちが思ったより違ったというのは、一次と二次との組み合わせのところ、このあたりのところが非常にかえって過重負担になってきておるのではないかということが一つ。もう一つは、よく言われることでありますが、ちょっと科目が多過ぎるのではないかな。私立大学を目指す人と国公立を目指す人とに非常に大きなハンディがあるような感じがいたします。私はそのようなところが、当時、期待をした方向とちょっとやはり違った方向に行ったなというような感想を持つものでございます。  これは私は当時党の関係におりましたという立場でございますから、それでよろしければ、これで終わりますが、文部省としてどう考えておって違ったのかということの御質問でしたら局長からでも答弁させたいと思いますが。
  5. 高木健太郎

    高木健太郎君 私、少し誤解をしておりました。自分期待をしておったものと、実は共通一次がしかれてからのその形は期待とは外れたものになったと、こういうことであったらしいんで、私、誤解をしておりました。  しかし、文部省としましては、これは国大協の第二部会ですか、で、随分練られたと、十年来これはお考えになった一つの案でございますが、それのそれじゃ国大協あたり意見としては、こういう共通一次を施行しようという場合に、その意図あるいは趣旨というものはどういうものであったかということを、それじゃ局長からひとつお伺いいたしたいと思います。
  6. 宮地貫一

    政府委員宮地貫一君) 共通一次の導入の趣旨というようなお尋ねかと思いますけれども、基本的な点で申し上げますと、同一の試験問題で一斉に実施する共通一次ということで、一つには、それまで個々大学入試が非常に激烈化して、難問奇間というようなことで高等学校教育が乱されるということが言われたわけでございますが、適切な試験問題を出題するということによりまして難問奇間を排除するということ、それから高等学校における一般的、基礎的な学習達成度を客観的に評価をし、各大学が行う二次試験によりまして、志望の大学学部内容特色にふさわしい能力、適正を見、さらに調査書内容等も見て総合的に判定をするということで、そういう意味では多角的に受験生の学力を総合的に判定をするというような形でのこの共通一次試験と、それと二次試験とで見るということでございまして、具体的には問題の適正化、あるいは二次試験についても従来の出題科目は減少して、これにかわって面接小論文実技検査実施されるというようなことがあるわけでございます。  ただ、そういう意味では私ども国大協が十分慎重に検討を重ねて実施をしたこの制度については、それなりに私どもとしては評価をされていると考えておるわけでございますが、昨今議論が大変大きい点は、一つ実施期日の繰り下げということが言われて、これは現実に取り組んでおるわけでございます。  それから、ただいま大臣お話がございましたような五教科科目ということが受験生に対して、大学側なりあるいは高等学校そのものから見れば、高等学校でやっておる科目を平均的に、基礎的な、一般的な到達度を見るということであれば、それはそれなり考え方としてわかるけれども受験生立場から見ればやはり五教科科目というのは、特に私立大学試験との絡みから考えれば、共通一次で五教科科目ということは、やや受験生側から見れば過重負担ではないかというような議論が行われておるわけでございます。  さらにもう一つは、従来は一期校、二期校ということでありましたものが、この共通一次によりまして、国立大学受験については、原則的に受験機会が一回ということになった。もちろん、そのために志望校変更というような仕組みについては十分きめ細かく考えておるわけでございますけれども国立大学についてチャンスが少ないではないかということについてどう対応するか、この点については、例えば定員を留保して二次試験を行うというようなことで、受験機会の拡大に対応することを各国立大学でも順次広がってきてはおりますが、入学定員全体から見れば、まだその比率が大変低いというようなこと、いろいろそういうような問題点が言われているわけでございます。  そのほかいわゆる受験産業情報といいますか、情報によりまして受験生が世間で言われる、いわゆる大学のランクづけ、それに伴って受験生が本来入りたいところよりも入れる大学へという、ややその点では進路指導の問題もおろうかと思いますけれども、そういうような事柄が現象としては起こってきておるわけでございまして、私どもとしては、それらの新たな現象に対応して、どう改善していくかということについて、ただいま国大協でも特別委員会を設けて御検討願っているというのが現状でございます。
  7. 高木健太郎

    高木健太郎君 よくわかりました。  こうあってほしいということとは別に問題が起こってきたと、その点を現在また改めていこうとしておられるお気持ちがわかったわけでございますが、今ちょっとお話にございましたように、私は一つ難問奇問出さない、そういうことで苦しまないということでございますが、そういう意味からいいますと、この目的一つ高等学校教育到達度を見てみようということにあるのではないかという、いわば一種資格試験というような形のものであるようにも思います。大学収容人数が限られておるところに大勢の希望者があるという場合には、これは選抜をせざるを得ない。これはもうどこの国もそういうことでございまして、これを避けるわけにはいかない。しかも、社会のためには、できるだけ優秀な人間をピックアップしたいと、どこの大学も重たそう考えている。とすれば、その学校に似合う生徒、優秀な生徒学生をぜひ採用したいというのは、これは当然でございますから、ここに競争が働くということは、これはやむを得ない、そこに落後者が出ることもこれはやむを得ない、そういうように思うわけでございますから、私は試験があるということは、これはしようがないと思いますが、最初お話ししましたように、高校教育到達度を見るということであれば、何もそれそのもの試験成績ということに加えないでもいいのではないか、いわばこれを一種資格試験制度と、資格試験のためのものであるということを考えたらどうであろうか。  こういうことは、もちろん文部省もあるいは国大協もお考えになったことだと思いますが、これに対して、一つ高等学校教育到達度を見るということは、各高等学校卒業免状を与えているわけでございますから、これは明らかに高等学校教育をちゃんと受けたということを高等学校が証明しているということでありますから、今さら、それをもう一度改めてということも妙だというお考えもあるかと思いますし、しかし逆に言いますと、大事医学部卒業しておりまして、あらゆる科目をパスした、にもかかわらず医師国家試験というものが行われている。ということは、これは大学に対して非常に不信であるということでございます。昔は大学医学部を出た着は、大学において医師国家試験のかわりをしているんであるということで、国家試験はなしでしばらくやっておりました。その前には国家試験があったわけですが、いつでしたか、三十年ごろでしたか、国家試験というものがまた復活したわけでございます。そういうことを考えますと、何も高等学校卒業免状をもらったといっても、高校教育到達度をもう一度全体としてながめるということは悪いことではないんじゃないかなという気もいたします。しかも、最近の出題傾向を見ますと、全体として大体六十点とか七十点の範囲におさまればいいと、その程度の問題を出そうというので、自分の方で見るということも考えておられるかもしれませんが、一方では成績によって、こちらの問題の方の性格を変えようと、難易度を変えようというような配慮もなされているということを聞いております。そうなりますと、なおさら到達度ということを見るための資格試験ということであったらよいんじゃないか。そして、そういうふうにいたしますと、一回受けた者は、それをパスした者は二次試験だけを受ければいいと、従来の大学だけの試験を受ければよろしいと、それは現在の二次試験と同じような性格であっても私はいいのではないかと、そして時期もいろいろにずらすことができる。浪人は、最近のようにカリキュラムが変わったり、あるいは非常に世の中が変わってきますと、それをまたやらなきゃならぬ。例えば、現在の医師国家試験を私が受験をしますと、恐らく私は落第するだろうと思うんです、不合格であろうと思います。また、皆さん方でいろいろな司法試験なんかをお受けになった方もあると思いますが、そういう方々も今受ければ落ちるんじゃないかと。それじゃその人は全然だめなのかというとそうではない。一たん取ったものはそれは一生通用しているのが医師国家試験あるいは医師免許証でございますからして、そういう意味では私はこれを資格試験にしてはどうかと、その点につきましてひとつ局長の御意見をお伺いしたいと思います。また、そういうことも多分論議をされたと思いますので、この点についてお考えをお聞きしたいと思います。
  8. 宮地貫一

    政府委員宮地貫一君) 先生資格試験にしてはどうかというお尋ねでございますが、先ほど共通一次試験高等学校一般酌、基礎的な学習到達度を客観的に評価するものだというぐあいに御説明をしたわけでございますが、現行仕組みは基本的には一次試験と二次試験との組み合わせによりまして各大学が行う選抜試験ということが基本的な組み立てでございます。したがって、一次は共通問題で全国一斉に実施し、二次試験はそれぞれ個々大学がその大学なり学部なりの特色に応じた判定をする試験を行うわけでございますが、この一次と二次試験組み合わせによりまして入学者選抜するという仕組みは基本的にあるわけでございまして、そういう意味では、もちろん高等学校学習達成程度を測定するということではございますが、やはり、そういう意味で、何と申しますか、識別をする度合いというものもこの共通一次試験には加味される要素が入ってくるわけでございます。したがって、先生のおっしゃるのは、この共通一次試験そのものはもうすべて資格試験にして、先ほどおっしゃった医師国家試験の場合と同じような形で考えたらどうだと。そういたしますと、基本的には現在高等学校卒業をもって大学入学資格といたしております現行制度を基本的にまず変えることになるわけでございます。高等学校卒業というものをどのように考えるかということが基本にあるわけでございまして、高等学校制度自体の再検討ということが一つ出てまいります。それで、そういう形での資格試験ということにいたしますと、個々大学では、さらに二次試験と申しますか、大学での特色に応じた二次試験実施するということになるわけでございますが、いわばその資格試験というのが、まあ、何と申しますか、現在、一部の大学で行われておりますいわば足切りといいましょうか、そういう資格試験としての作用を果たすというようなことになろうかと思います。したがって、例えば、これを大学入学資格試験とするならば、例えば芸術大学等というような場合で、大変特定分野にすぐれた者を入れる場合にも、その人たちがこの資格試験に受からなければ受けられないというような逆の面での不利と申しますか、マイナスの点も出てまいるわけでございます。  御案内のとおり、現在では傾斜配点でございますとか、あるいは共通一次のウエートの置き方等について相当個々大学でも工夫を凝らしているわけでございまして、現実問題としては、そういう芸術系大学等における配点の問題でございますとか、個六の大学が行う選抜試験ということであれば、一次と二次との組み合わせという形で考えれば、そういう工夫があり得るわけでございますけれども資格試験ということで一律に行って、それで、いわばその後さらに二次試験で各大学実施するということになれば、そういう形のものになるということでございます。  それから、いわば入学者選抜に当たっては多角的に能力を見るということが言われているわけでございまして、そういう意味現行共通一次それから二次の組み合わせあるいは高等学校調査表というような形で総合的に判定をする今の仕組みに対しまして、いわば大学入学資格試験で一回の客観テストによって大学進学の可否をそこで振り分けを決めるということになるわけでございまして、その意味での弊害というようなことも考えなければならない問題ではないかと思います。もちろん、いろいろ入試制度をどのように改善、改革をしていくかということについていろいろ御意見があることは私ども、承知をしておりまして、そういう問題点も含めて広く慎重に検討をお願いをしなければならない課題ではないかと、かように考えます。
  9. 高木健太郎

    高木健太郎君 それはよくわかっておりますが、今のこういう弊害に対して何らかの解決の道を探そうという場合に、こういう資格試験的なことを考えてはどうだろうかという、まあ、法律を変えなきゃならぬとかそういうこともあるかもしれません。あるいは今おっしゃったような、一回受ければということですが、これは何回でも受けられるわけですから、年に二回おやりになってもいいんじゃないかとも思いますし、一度取っておけば、それで各大学試験を受けられるという方が過重負担にはならぬのではないかと、そういうことでございまして、逆に言いますと、各大学においてウエートをかけているとか、あるいは傾斜配点をしているということであるなら、もう初めからそれはどうも形が何かおかしいんじゃないか。教育到達度を見ようというならば、全部それを見るべきじゃないかなあというふうにも思いますし、もともと高等学校教育目的というのが人間性形成とかあるいは一般繁養とかそういうことにあるわけですからして、芸術大学が実際に落としているのは、どっちかといえばおかしいわけでございまして、あれを落とすというときには反対もあったわけです。だから、高等学校卒業した者としては、これだけのことは知っておいてもらいたいということでおるなら資格でもいいんじゃないかなあと。これは一つ提案でございますから、ぜひ、ひとつじっくり考えていただきたい。もしもウエートをつけたり傾斜配分をするというならば、それが学校によって勝手に許されるということであるなら、極端に言いますというと、共通一次は自分のところは全く見ません、おやりになるんなら勝手におやりなさい、私の方はそれはゼロに見ます、ピアノだけ弾かせますというように考えられれば、共通一次やったことは何の意味もないということにもなります。あるいはまた、数学だけは私のところは百にしてあとはゼロにするというような、もう勝手にウエートをつけている、傾斜配分をしているということであるなら、そういうことも行われるわけでありまして、そうなってくると、共通一次というものの最初の意義が薄れちゃうんじゃないか。それならば、いっそ六十点なら六十点、七十点なら七十点取って、これは大体高等学校の平均であるということであるなら、そういうところで、まあ、足切りという言葉は嫌ですけれども、そのような高等学校生徒自分高等学校教育期待をしておる、国は期待をしておるんだというふうにお考えになってはどうであろうかというのが私の趣旨でございました。  現実に、この共通一次のために予備校もやる、それから子供の幼稚園のころから、この試験に向かって突っ走っておる、家庭はそのために必死になっているというような状態でございます。高校教育は、もともとそういうものを暗記する、知的の教えをするという、知的涵養をするということだけではなしに、大事なのは人間形成であるとか、あるいは体力涵養であるとか、そういうもののはずでございました。それらが全くうせていってしまうと、非常に小さくなってしまうと。私はよく、ある部分はできても、ある部分がないと、いわゆる、その人の個性を伸ばしていくというためには、体力のある者は、体力の何か、そういう方面に進ませればいいじゃないかというふうに私は思っておりました。ところが最近は、もう試験に受からないような落ちこぼれの生徒は、知力もないけれども体力もない、意欲もないというような人間が多くなったということも聞いております。これが何も入試のためであるとは申しませんけれども、やはり全体、知力も、体力も、あるいは後ほどお聞きします、いわゆる特技にしましても、全体がそろった人間をつくるということは高等学校の私は最初の眼目であろうと思いますので、そういう意味では、何か、あんまりウエートをつける、傾斜配分をするというならば、最初目的から大分外れちゃうんじゃないかと、そういう意味でひとつお考えをいただきたいと、こう思うわけですが、何か御発言ございましたらお願いします。
  10. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 高木先生の御自身の御経験も踏まえての御意見でございまして、いろいろ私も大変参考になる御意見でございました。  高木先生、私もこういう性格ですから、ざっくばらんに言わしていただくと、高木さんの御提案に対しては、今、宮地局長、これ文部省考え方でしょう。高等学校卒業したら、同時にこれは大学に入学できるということが自動的に資格として与えられるわけですが、そこをもう一回資格試験をやるということになると、高等学校がどうなるのかなという、こういう考え方局長は言っておるわけですが、それも物の考え方を変えれば何でもないことなんですけれども、そういう問題も確かにありますし、その資格試験をどういう試験でやるのか、これ時間かけてやるのか、今のように全国一斉に同じ条件でやるのかということになると、共通一次のような、こういうマークシートのような難しいやり方になるかどうかわからないが、やっぱりある程度マル・バツになるのかもしれない、量的に多いですから。そうすると、共通一次とちょっと変わらぬのじゃないかなと、もちろん問題が若干変わってくると思いますが。そういうようなこともございます。  要は、私は、一番大事なことは、高等学校教育の中において勉強もやってもらわなきゃなりません。しかし、自分能力というものを考えて、スポーツ活動に打ち込むということも大事だと思います。それが、どういう方向を選んでも、どういう進路を選んでも、社会ではそれをすべて正しく評価してあげられるような社会をつくるということだろうと思うんです。ですから、そういう意味で今の高等学校は、今、先生がおっしゃったとおり、受験をクリアするための場所になってしまい、その高等学校はまさに大学受験のための教育になってきている。今度は、その高等学校へ行くのも、また中学でそれを前提としてやらなきゃならぬ、小学校もまたしかり、幼児教育しかり、補完的に塾や予備校というようなものが入ってくる。そこが私どもにとって看過できない問題だろうと、こういうふうに感じておるわけでございます。  したがいまして、私も正直申し上げて、共通一次はこれはやめた方がいいんじゃないかなという考え方大臣になるまで持っておった一人でございますが、いろいろ議論をしてまいりますと、共通一次の誤ったところを正していく、それがある意味では今、高木さんがおっしゃるような資格試験という形じゃないが、そういうような形のニュアンスを持つものにも工夫ができるのではないだろうか。問題は、資格試験を取っても、大学でどうやって今度はとる基準を決めるのか、一切試験をしないのか、あるいはその資格審査の、先生がおっしゃっているように、六十点を超えたところであとは問わないというのか、やっぱり点数で見るのか、そうなれば高等学校全国一律の序列化というものがこれによってできる可能性もあるわけでございますから、要は、そうなれば、どのようなやり方をしてみても、幾つか、いろいろな問題が派生してくるわけでありますから、やはり共通一次をもう少し工夫、改善をしていくことが一番今のところは私はベターではないか。問題は二次試験のところに、もう少し本来あるべき高等学校に学ぶ児童、生徒気持ちをもう少しくんでやってもらえないだろうか。学者という立場から見れば、いろいろな意味能力をどうしても確かめたいということかもしれませんが、問題は大学に入って能力を引き出し、開発してあげるんだということが、いささか今の大学教育の中にちょっと原点として忘れ去られている面が、これはすべてとは言いませんが、私はそういうような感想も実は持っておるわけでございまして、先生のそうした御意見も大変、局長が申し上げたように、十分検討に値する私はテーマだろうと思いますし、今後とも文部省としても、そのことをも含めながら、国大協初め関係者の皆さんに、そうした問題について思い切った改革や工夫、改善ができるようになお一層文部省としてもそういう指導もしてまいりたいし、あるいは国立大学あるいは私立大学関係者にも十二分にそのことを受けとめて勉強してもらいたいなというのが、今、先生からのいろいろな御指摘に対しての私の考えを申し上げる次第であります。
  11. 高木健太郎

    高木健太郎君 ある一つの方法は必ず欠点を持っておりますから、この方法がいいというわけじゃないんで、一番その中で妥当なものを、その中から拾い上げていくという選択があるだろうと思います。  医師国家試験というようなものも、私、大変おかしいことじゃないかと。日本の大学で一生懸命にやってきたのに、卒業したら、また国家試験をやると、それも実技をやらせるというなら別ですけれども、ただ学校で習ったことを、また大学先生が集まって試験問題を出してやらせるということでございますから、逆に言うと、何で免許もらえないんだということになります。また、それは大学教育に対する不信ではないかということも言えるわけでございますからして、それが高等学校の方で通用しないはずはないというふうに私は思ったわけです。これは一つ考え方でございますから、ぜひひとつお考えを願いたいと思います。  もう一つは、入試にいろいろ問題があるからして、それでは入試をやめて、そして大学には全部入れるというようなアメリカなり、あるいはドイツなんかの方式でやってみると、そうして、中で悪ければ落としていくということについてはどういうお考えをお持ちでしょうか。  局長でも大臣でも結構です。
  12. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 基本的には先生のお考えに私も賛成です。  入りたい人は——遊びに行くんじゃない、勉強しに行くんですから、入りたい人は、どんどん入ってもらう。そして大学は大変で難しかったら、やめればいいんだと私は思うんですね。どうも今、入るために予備校入って、塾へ入って、家庭教師つけてやって、入ったら途端に遊ぶわけですから、逆に入る壁を少し低くしてあげて、入って高等教育で学問するということがいかに大変なことなのかということを、むしろみずから、自分が感じて、学問についていくためには、大学に入ってもやっぱり予備校や家庭教師をつけなきゃついていけないという、その方が私は本来あるべき姿だと思います。ただ、問題は量的なものがどういうふうな関係になるのか。確かに今の高等教育、国公私立全体の受け入れる袋といいますか、それと高等学校三年、若干のこれは浪人というのがいますけれども、いずれ解消すると考えて、その数字等の対比はどうなるか。ほぼ大体皆当てはまるんじゃないかと思うんですね。問題は行きたい学校と行きたくない学校、そこのところをどう変えていくか。ここが一番問題だろうと思うんですね。専門的なコース、芸大とか体育大学とか、いろいろなコースの分け方、もちろん医学、歯学もございますが、そういう問題の振り分けもあるんでしょうけれども、やはり大学によって、行きたい大学にはどうしても集中してしまう。今、恐らく高等学校卒業生と受け入れる大学定員とは、そう私は狂いかないと思っております。ほぼ同じぐらいになっているんじゃないかと。それがなぜ入試の問題がこう出てくるのかと言えば、やっぱり行きたい学校に集中する者が多いと、このところだと思います。この辺を逆に先生、どういうふうにうまく操作ができるか、むしろ私は先生にお考えを伺いたいなという気持ちでございます。
  13. 高木健太郎

    高木健太郎君 私は、これは理想的な形だと、できない者はやめなきゃいかぬ。それは将来職業についても、あるいは学者になるにしろ、これは不適切である。これだけできない者はだめなんだと。例えば二回落第したらもう外へ出てもらう。それをどう受け入れようが、あるいはその本人がどう考えようが、それは本人の勝手である。それだけ自律性を自分自身で持つべきであると私は思うし、家族もそうである。ということは、これは非常にドライな、合理的な物の考え方であると思うわけです。これは外国では通用することだと思うんです、私は。ただ、日本は通用せぬのではないか、これが。だから、よく言われますけれども、日本では非常に甘えの社会でございますからして、これは恐らくやろうとしても受け入れられない、あるいは国民のコンセンサスを得ることはできない、あるいは非常に大きな反対が起こるだろう。あるいは入学した、それで一年が終わってみた、そうしたら、おまえはもうだめだ、出なさいと言えば、それはいろいろの問題が学校の中に起こりまして、そして合理性と、それからそういう情緒性とが絡まり合いまして、またいろいろの問題がそこから出てくるだろう。だから私は日本ではこれは不可能である、それが私の結論です。いいことだろうけれども、だめだろうと。  そこで、これは高等学校あるいは大学教育ということにばかりじゃなしに、現在の日本の基本を考えないと、いろんな政策ができないのじゃないか。今言いました甘えの構造というようなものも、実はお母さんが甘えさしている、いや、だれかが甘えさしているということではなくて、そういういわゆる民族性といいますか、あるいは風土といいますか、家族といいますか、家庭というか、そういうものの中に、もう既に潜んでいることではないか。例えば、日本の家というものは玄関はしっかりしておりますけれども、中に入るとオープンであって、中では全然プライバシーがない。その奥にいる者は母親である。母親には何を甘えでもよろしい、そういう形で育てていく。そうしておいて、極めて感覚的に人間が育てられておりまして、その自分の甘えが、今度は外へもそれを持っていきまして、外へも甘えが通ずるものだとしてやっていっているという、日本のいいところでもあるかもしれませんが、一つの大きな欠点を持っているんじゃないか。こういうことに関係があるので、家の構造、今までのしきたりというようなものを少し考え直さないと、ただ制度だけ変えると、必ずこれ失敗するのではないかなというふうに思うわけです。欧米では個人というものが非常に主体性を持っておりますけれども、日本は個人じゃなくて、人間人間の間柄というものを非常に重んじている。いわゆる和というものを重んじておりますからして、これは私は世界に広げる一つのいい倫理観であろうと思いますけれども、一方においてはそれが非常に欠陥になる。いわゆる、まあまあということが外国には通じないわけなんですが、それが日本ではそれで話が何とかつくというところがあるんじゃないか。これが今のように、おまえはできないから、もうそれで退学をさせますと、もしも理事長なり校長なりが言えば、その学校はてんやわんやになるんじゃないかなと私は思いますので、残念ながらそれはできない。となれば、やっぱりもとへ戻らなければいけないのじゃないかというのが私の考え方でございます。  そこで、もう一つ非常に問題なことは、今のと少し関係がございますが、ここの八ページに書いてございます、道徳教育というのがございますが、これはどのようにおやりになるわけでございましょうか。「道徳教育推進校」というのがありまして、いわゆる「道徳教育の充実強化」ということが八ページにございますが、これはどういうことをおやりになるおつもりでございましょうか。
  14. 國分正明

    政府委員(國分正明君) 道徳教育推進校の問題でございますが、従来から、そのお手元の表にございますように、いろいろな資料をつくり、協同推進校をつくるということでやってきておるわけでございますが、五十九年度の(新規)にございます「学校・家庭連携推進校」と申しますのは、道徳教育というものが学校だけではなかなか十分な実現ができないということから、学校と家庭と地域社会が一体となって、学校における道徳教育を充実しよう、こういう趣旨で、いわば研究指定校というものを各県にお願いする、こういう試みの経費でございます。
  15. 高木健太郎

    高木健太郎君 それは形はそうだと思うんですが、一番大事なことは何を教えるかということなんですね。どうするのかと。いわゆる道徳と一言で言っても、その道徳とは何だということが現実にわかっているのか、だれが知っているのかということじゃないかと思うわけです。  日本の家庭は、日本の家庭というよりも日本の社会は、いわゆる宗教というものもございますけれども、欧米の宗教のように、宗教というものが道徳の基本になっているわけではないわけなんですね。日本にあるとすれば、戦後残っているのは、いわゆる教育基本法というようなものが一番大きなものじゃないかと思います。この基本法はあくまで崩さないで今度の臨教審もやっていくのだという、総理並びに文部大臣もそういうふうにお答えになっているので、私は非常にこれは大事なことだと思いますが、その基本の根本はいわゆる人格というものの倫理的形成であるとか、あるいは公民意識の形成である、あるいは職業への適性の養育である、こういうことに教育基本法は尽きると思うわけです。要約すれば、そういうことではないかと思うわけです。  ところで、その一番最初の道徳をしつけるところは私は家庭ではないか。ところが現在の日本の家庭というのは、しつけというのは余りやらないわけですね。やらないと言ってはあれですが、いろいろな本をお読みになって御存じのように、もうそれよりも教育ママである。しつけというものは、もうおばあさんもいませんし、いわゆる核家族化しておりますから、戦後のお母さんが、そういうことを余りよく御存じない。だからして、昔のように親孝行の義務もないし、他人に迷惑をかけないなんというような、そういうこともない。とにかく立派な人間、お金がたくさんもうかるような立派な就職をすればいいというようなふうに家庭では育てている。逆に言いますというと、お母さん方は何を子供にしつけてよいかという、しつけのものを持たない。いかにしつけるかということを知らない。ということは、自信を失っているんじゃないかと。ただ学校に頼って、子供を大事にして、甘い育て方をして、小さいエゴイストをつくって、子供が家庭を占拠している、こういう家庭が現在の日本の家庭ではないか。  我々教育者としましては、道徳をこういうようにいろいろなシステムをおつくりになるのは結構ですけれども、何を基本にして道徳というものを教えられるのか、どういう眼目のものであるのか、その道徳の根本は。それを私ちょっとお聞きしておきたいと思うわけです。何を根本にされるのかということですね。
  16. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 道徳教育については、戦後いろいろな経緯をたどりまして、学校教育実施をしているわけでございますが、まず一つは、その人間が社会に生きていく場合に基本的に守っていかなければならない規範、そういうものを教えていく。その徳目的な並べ方はしておりませんけれども、正直であるとか、それから他人に対する思いやりであるとか、そして社会的な道徳性、そういうものを身につけなければならないということで、幾つかの項目を整理いたしまして、十六項目、小学校では二十八項目、中学校では十六項目にわたりましてその手引をつくりまして教えていく教材にしているわけでございます。
  17. 高木健太郎

    高木健太郎君 私、それまだ見たことございませんが、ぜひ一度私の方にその資料を見せていただきたいと思います。  私は、日本の宗教が欧米のキリスト教のように、ある一つ人間の規範を示してくれるというようなものではないと、そういう役目は果たしていないわけです。じゃ日本では何が規範になっているかというと、教育基本法というのは本当の抽象的な言いあらわし方でありまして、あれからは子供をしつけるというのはなかなか出てこないわけで、どちらかと言えばあの中から権利だけを学ぶ、自由と権利というようなことを学んでおって、義務とか責任というものは薄れているということはよく言われるわけでございますが、日本の道徳の基準というのは私は儒教じゃないかなと思っているわけです。だから、儒教というのは、自分の主張の前に他人に対することを考えるということが私は儒教の精神になっているんじゃないかと思いますので。こういうことをここで申し上げる私は道徳学者でも倫理学者でもございませんからわかりませんが、一番大事なことは、大学でこういうことはもう少しよく研究をされて、そして、今後どのような道徳の基準というものを考えていくか。それはこれまでの日本の伝統もございますし、あるいは中国から入ってきた儒教というものもございますから、そういう道徳、倫理学というものを十分に研究をされて、それが小学校とか中学校先生方に及んでいくような、そういう形をとるのがいいのではないか。もちろんそういうこともお考えになっておると思います。そういう学者が少ないのではないかなというふうにも思いますので、その点をぜひお願いをしておきたいと思います。  道徳といいますと、田中元首相も何か十の何かをお書きになりました。あれなんか私、悪くないと思うんですけれども、非常に批判が多かったわけでございます。  ただ、道徳といいますと、すぐに。音の、国家に、我々が国家に対する尊敬と従順を強要すると、権力に敬意を払わせるという、そういう教育をすぐ考えたがるわけです。親の言うことを聞けというような、そういう従順を強いるという、そういうことを考えがちなので、それは私は、そういうような道徳であってはならない。これは非常に危ない。それはいけないので、あくまで国家主義というものから脱皮して国民の正しい民主主義の形成に役立つと、こういう道徳を教えるべきではないかと、こう思いますので、お考えではございましょうけれども、念のために私から御注文を申し上げておきます。  現在は非常に道徳が乱れておると、家庭のしつけもないというようなことでございますが、それは一言で言いますと、私は生理学者でございますけれども、個人の欲望とかあるいは快楽と、そういうものに対する衝動を抑えることができなくなった、そういうしつけというものを小さいときにやらなかったというようなことが一つの原因ではないかなと思っておりますので、私は小中学校でおやりになるのも結構ですけれども、絶えず子供に接している母親、家庭というものにおける小さいときのしつけが私は非常に大事である。現在は学校に何でも押しつけておりまして、学校教育をするところであって、道徳を教える——道徳を教えるなとは僕は言いませんけれども、道徳を教えて、学校の校門を出ても、学校の教師がその子供はどうしているかということを絶えず見て歩かなきゃならぬ。それは、私は小学校、中学校先生に超能力を押しつけているんじゃないか。そんなことはできっこないんじゃないか。母親、家庭が円より自分の子供に責任を持つような、そういう家庭から見直していくということを私はここで強く要求をしておきたいと思います。  大分時間が迫ってきましたので、またお聞きしたいこともございますけれども、特に我々立法する人間でございますが、立法する者は、法律によって道徳が変わるというわけじゃなくて、立法者にとりましては道徳の基準があって立法できる。それが法律の基準になるものであると思いまして、法律が道徳を変えていくものではないと、こういうことをここで強く主張しておきたいと思うわけでございますので、ぜひ学校と言わずに家庭まで踏み込んで、これは中曽根総理も言っておられたと思うんです、家庭が大事だ。ところが、その家庭の母親が全く自信を喪失している、教育ママになってしまっている。ここに問題の根源の大きな点が一つあると、これをひとつ文部大臣にもお考えいただきまして、文部大臣の、文部省の手に負えることかどうかしりませんけれども、そこが非常に大事であって、古来の伝統が失われ、儒教的な精神が失われているというところに問題があるんじゃないかなと、こう思いますので、自分の感想を申し上げたわけでございまして、ぜひ、この点で御留意をお願いいたしたいと、こう思うわけですが、文部大臣のひとつ御所感をお伺いいたします。
  18. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 大変、先生から見ると、私などは年齢も非常に若うございますので、いろいろとお教えをいただいたという意味で感謝をまず冒頭に申し上げる次第です。  私は、今お話を伺っておりまして一番感ずることは、歴史の経過ということをふっと思うんですね。前も予算委員会の、あちらの本委員会でちょっと御答弁申し上げたことがあるんですが、高石局長からも申し上げたんですが、実際に道徳教育の特設科目をしたのは三十三年からだと聞いておりますが、現実にかなり道徳教育に重点を置いた指導をいたしておりますが、逆に非常に社会が崩れていますし、いろいろ調べてみると、やっぱり先生自身がどう教えていいのか、どのように取り扱っていいのかわからないというデータがかなり報告されているわけです。それを考えてみますと、ちょうど教えるべき立場の今の先生方が私は戦後の教育のずうっと経過の中で、教える先生自身が道徳の問題には割と縁がなく先生になってこられているんじゃないだろうか。これは先生のみならず、私は家庭の父母もそうではないかと思うんです。ちょうど今、子供たちを抱えるお父さん、お母さんというのは、一番、そういう道徳とか、そういうことをむしろ避けてきた、そういう時代に学問を身につけてこられたような気がしてならないんです。  現に、私は小学校二年生で終戦になりました。ですから、それから三年から大体中学までは、一番日本の教育が大きく変えられたときでしたから、端的に言えば、珠算までさわっちゃいかぬというような教え方までされたわけです。当然、柔道、剣道はもとよりのこと、何か古来ある日本の教育は全部だめなんですよということを先生から教えられたことを私は今でも覚えておるんです。ただ、私たちが若干どちらかというと、古い考え方になるのかもしれませんが、現代からいえば。それは私は幼児教育は昔の——幼児教育といっても別に受けておりませんけれども、生まれてから小学校に入るまでは戦前でございましたから、そういう考え方がある程度身についているんだろうと思うんです。これはいいとか悪いという意味ではございません。  ですから、今、つくつく世の中のことをいろいろ考えてみると、歴史の経過というのはこれも大事なこと、今、高木先生がたまたま儒教のお話をなさいましたけれども、総理が儒教というような問題をちょっとどこかの話の中にされたといって結構、あちらこちらから御批判をいただく、私は決して間違っているとは思わないんですね。私も何年か前に韓国の大学先生に会ったら、森さん、韓国では親子では将棋を宿さないんですよと言うんですね。どうしてですかと聞いたら、親子であっても子供が親に勝つことは将棋であってもいけないんだと、これが儒教の教えですと言うんです。それはむちゃな話だなと私は言いましたけれども、やっぱり何か一つの真理があるんですね。例え将棋や碁であっても、お父さんを負かしてはならないんですという、お父さんと子供との関係はそういうものなんですということを、これは非常に危険な思想であるかもしれませんが、一つの哲学を教えているような気がするんです。儒教というそういう教育、宗教ということになれば、いろんな問題が出てくるんだろうと思いますが、私は、教育基本法の中に宗教教育と書いてありますが、宗教を否定しているわけではない。宗教はとても大事なものだから、これをできるだけ多くの皆さんに、宗教大事だという教育を当然しなきゃならぬということだと思うし、ただ、特定の宗教活動や宗教のための宗教教育をしてはいかぬということでございますから、この辺がやはり解釈を先生方自身も間違ってこられたんじゃないかなという感じもいたします。第一条のところを読んでみましても、決して国を愛することや親孝行などということは教えてならないことは何も書いてないわけでございます。  私は米国教育使節団報告書というのを、昭和二十一年三月三十一日のやつをいつも持っておるんですが、この中で見ておりましても、神話を否定してないんですね、当時のアメリカ調査団は。「神話は神話として認め、そうして従前より一そう客観的な見解が教科書や参考書の中に現われるよう、書き直す必要があろう。」と、こう指摘しているわけですが、最近ではそういう見方ができるのかもしれませんが、僕たちの、ちょうど小学校、中学校のころは、こんなことは全くノーなんだと、さわってはいけないんだという教え方を僕らは子供のころ習った記憶がある。そういうふうに戦後の混乱の中で、日本全体が動転をしておりましたし、まして教育者の、教育に携わる皆さんもいろんな意味で反省もありましたし、私はやっぱり混乱の中の教育の経過というものがあったんではないか。その中で育ってきた人たちが、今、大人になって社会を維持している。もう少しの年限が過ぎるともっと新しい感覚の親や先生が出てくるわけですから、そこに価値観の多様性という、非常に言葉で言いあらわすにはちょっともったいない、まあ、どうかなあと思うような言葉になりますけども、物に対する考え方というのは大分違ってくる。そのことから社会の中のいろんな意味のひずみが出てきているんじゃないかなという、そういう私は今、先生お話を承りながら感想を持った次第であります。
  19. 高木健太郎

    高木健太郎君 大変、いろいろお話をお伺いしまして、私は人の意見を聞くのが好きでございますので、いろいろ参考にさしていただきたいと思っております。  私は、一言で言いますと、戦後、権利と自由ということですね、個人の自由あるいは個人の権利というものが非常に強くこれは主張されてきたわけです。ところが、我々がもとから持っておりましたものは、自由というよりも義務とかあるいは服従とかという——服従は悪いですけども、義務、責任ということを非常に、恥の文化と言われるくらいに責任とそれから義務ということを非常に強く我々は教えられてきたわけです。そこに外国のそういう思想が入ってきた。その中である程度私は混乱を起こしていると。この点をはっきり道徳学なら道徳学の根底に置いていただきたいということなんです。それの使い分けといいますか、それをいかに、バランスをいかにとるべきかというところを私はまずよく研究をしていただきたい。  もう一つは、日本人の左の脳は——外国人の左の脳はいわゆるロゴスの脳と言われまして論理的の脳を左に持っていて、右にいわゆるパトス、感情、情緒の脳があると言われております。ところが、日本人に限ってでしょうけれども、中国でもないことらしいんですが、日本人は左の脳の中にパトスとロゴスがまじっていると、いわゆる情緒と論理がまじった国民であると、こういうふうによく我々生理学者でそういうことを言っておるわけです。それもまた日本人の私は一つの特徴であると、悪いなんというようなことじゃなくて、これは一つの特徴であるというふうに私は認めなきゃなりませんが、一般のいわゆる法治国家、法律をもって治めていこうとする、秩序を持っている国家に対しては、ロゴスはいいですけれども、パトスをそこへ持ってこられると非常に混乱を起こすということですね。そういう意味でこの入試の問題も、ロゴスとパトスが一緒になりがちな国民であるということを十分わきまえて、諸策を講じなければならないんじゃないかなと、この二つを私は結論として申し上げておきたいと思います。  なお、いろいろお聞きしたいと思いましたけれども、時間がなくなりましたので、これで大体やめさしていただきますが、ちょうど厚生省の方がお見えになっておりますので、一言言わないと悪いので申し上げますけれども、実は、もう一つ言いたかったのは、最近、御存じのように生死の問題ということが非常に切実に取り上げられておりまして、最近は外国では認められておりますけれども、日本では脳死というのは認められておりません。ところが、現在、我々の倫理は、心臓がとまったときに死んだとしておるわけですが、最近の医学の進歩で、脳が死んだら死んだということにしようじゃないかということになりまして、欧米先進国におきましては脳死をもって死とするという、そういう考え方ができてきたわけですね。ところが、それが法律にならない前に、あるいは国民のコンセンサスを得ない前に、既に、脳死の状態で死んだという宣言をして、そうして腎臓を取り出してほかの人にそれを移植するという例が実はもう三十例もあるわけです。これはおのおの倫理規定を院内に設けましてやっておりますけれども、それは脳死というのは一つのことでございますが、中絶の問題にしろ臓器移植の問題にしろ、いわゆる安楽死の問題にしろ、体外授精の問題にしろ、いわゆる生死に関する問題がこのところ殺到してきているという状態でございまして、今のうちにこのことをしっかり国民のコンセンサスを得ておかないと非常に乱れを生ずるんじゃないかなというふうに思いますので、文部省としましては、厚生省には、そういうことをひとつやってくださいと、はっきり基準をお決めくださいと、一応、悪くっても基準をお決めになるのが大事ですよということを申し上げているわけですが、文部省としましては、これは一つの道徳にかかわるものでございますからして、医の倫理にかかわるものでございますから、バイオエシックスというものを何とかどこかに、これは文部省から押しつけるわけにいかぬでしょうけれども、いわゆる選択科目として置くこともできるぐらいの設置基準の中へでも入れていただきたいなと、こういうことが一つ私の注文でございます。  もう一つは、東洋医学というものが非常に国民の中に浸潤をしておりまして、はりだとか漢方というものは医学教育では学んでいないわけです。お医者さんは知らないわけです。知らないにもかかわらず、お医者さんはその施療をやっておるわけですね。また、内科の教授なんかでも漢方を自分で飲んでおります。亡くなられた武見先生も漢方を飲まれたという文藝春秋に記事が載っておりましたが、ああいうこともありまして、ところが、それは学校では習ってないと。どこかで私は、西洋医学と違った根底に立っておる東洋医学というものを何時間かは教育の中に割かれる、やっていただきたいと、こういうお願いでございます。  時間が来ましたので、これで私の質問を終わりますが、この次にまた時間がございましたら、そのことについてはひとつ十分御説明申し上げたいと思います。どうも失礼しました。終わります。
  20. 吉川春子

    ○吉川春子君 一番初めに、国立学校の三年雇用の導入問題について一言つけ加えます。  私の手元に手紙があるわけですが、学長は、当時の学長は部局長会議の議長であって——学長というのは部局長会議の議長なんですが、当時の学長も部局長会議の議長で、また部局長に確かめているんですが、すべての部局長は会議で了解されていないというふうに言っているわけです。    〔委員長退席、理事田沢智治君着席〕 群馬大学においては実質的に学内のコンセンサスが得られていないという実情があります。こういうことがありますので、三年雇用を大学が決めてきたという理由で強行しないように、このことを強くお願いしておきます。
  21. 西崎清久

    政府委員(西崎清久君) その件でございますが、昨日先生からもお話ございまして、私どもといたしましては大学の意思形成過程に余り立ち入るのはいかがかというふうに考えるわけでございますが、御指摘でもございましたので、若干調べさしていただいたところでございます。  その結果を御報告いたしますと、五十六年一月二十二日の部局長会議は十時三十分から開催されておりまして、畑学長も出席をされております。その記録がやはり残っておりまして、学長も供閲欄にちゃんと判こを押していらっしゃいますので、学長は部局長会議における三年雇用に関する内容は、御記憶が定かでなかったのかもしれませんが、一応形としては了承されておるというふうに私どもは理解をしておるわけでございます。
  22. 吉川春子

    ○吉川春子君 それは、もうきのうもいろいろやりましたので、きょうは立ち入る時間がありませんのでやりませんが、学長が出席した会議だということと、その場所でコンセンサスが得られたということとは別で、その点について学長がそういうことはコンセンサスが得られていないと言っているし、部局長もそうだというふうに言っているので、強行はするべきではないということをとにかく言っておきます。  さて、新学期を迎えまして、子供たちが進級、進学して期待に胸をはずませてスタートを切ったわけですけれども、多くの子供たちが所期の目的を達してほしいと願わないではおられません。しかし、今の学歴社会のもと、激しい受験競争によって、さまざまなしわ寄せを子供たちは受けざるを得ません。経済的にも極めて不安定で、不況などによる家庭崩壊も一方では進み、その結果、非行、校内暴力、落ちこぼれなど好ましくない現象が子供の世界にますます進行しています。日本のあすを担う子供たちが立派に育ってほしいと多くの国民は期待し、これらの問題が解決されるような教育改革をこそ切実に求めているわけです。  この十年間に、学校嫌いによる長期欠席者がどれだけ増加しているか、高校中途退学者がどれだけふえているかお伺いいたします。
  23. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) まず、義務教育関係から申し上げます。  小学校で申し上げますと、四十八年と五十七年、十年間の流れを見てみますと、全体の子供の数、長欠の数は、四十八年が約三万程度、五十七年度は二万二千程度ですから、絶対の数は小学校の場合は減少している。ところが、内容を分析いたしますと、病気というのが四十八年当時は約七七%、それが五十七年度は六八%、逆に学校嫌いというのが一〇・四%であったのが五十七年度は一六%ということで、学校嫌いのパーセンテージがふえているという状況にございます。  それから、中学校で申し上げますと、中学校は絶対の数がふえていまして、四十八年は二万五千程度であったのが五十七年度は三万八千程度に数がふえております。内容を分析いたしますと、病気で休んだのが四十八年度は五五・九%、これが五十七年度は三三・八%、逆に学校嫌いが三一・一%から五二・七%というふうに、中学校の場合は学校嫌いによる長欠者がふえているという傾向を示しております。  それから、高等学校における状況でございますが、高等学校におきましては、五十五、五十六、五十七と三カ年を見てみますと、全体的にパーセンテージが、五十五年度が一・八%、公立の場合です、五十六年度が一・九%、五十七年度が二%というように中途退学者がふえております。私学の場合は三%程度ふえているということで、高等学校の場合は、長期欠席というよりも、むしろ退学をしていくというような形の数がそういうふうにふえているという状況でございます。
  24. 吉川春子

    ○吉川春子君 非常に学校嫌いが数としてふえてきているし、高校では中途退学がふえていっているということは、実に深刻な問題になっていると思うんです。なぜこういう子供がふえていくのかというと、やはり勉強についていけない、先生の話がわからないという低学力が最大の原因になっているのではないか。非行も、校内暴力を起こす子も、大部分は低学力の子である、こういうふうにも言われているわけです。  そこで、伺いますが、宮城県の教育指導課で、昭和五十六年一月から十一月までに中学で校内暴力事件にかかわった生徒四百三十一名について、小学校時代にさかのぼっていろんな調査をしたそうですけれども、この子供たちの小学校時代の学力そして知能指数との関係などについて、簡単で結構ですけれどお答えください。
  25. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 中学校における校内暴力の実態と背景及び問題生徒の小学校在学中の傾向ということで調査が行われておりまして、中学校で問題行動を起こす生徒は、端的に言いますと小学校の低学年から、基本的な生活の習慣、そういうものがしっかり身についていないということが一つと、それから、小学校の三、四年ごろから学習成績の低下傾向が見られるというようなことが指摘されております。
  26. 吉川春子

    ○吉川春子君 今お答えいただいたように、国語、社会、算数が低学年から中学年へ進むにつれて通知表の評価の一、二の比率が非常に高くなっていく。それから、IQ、知能指数が高い子でも成績不振、学習不適応症に陥っている例が非常に多いと、こういうことが言われているわけです。  宮城県の調査で見ても明らかなように、能力のある子供まで落ちこぼしている今の教育問題点はどこにあるかと申しますと、一つは四十人学級とかマンモス校の解消、私学助成の充実など国会決議までなされている教育条件の整備すら怠って、臨調行革のもとに大幅な教育費の削減が行われている。そういう政府にも一つ重大な責任があるということを私は指摘しておきます。  同時に、今の教育が詰め込み教育で、新幹線教育で、そのことが子供たちを落ちこぼしている原因の一つだという批判も多くあるわけです。現場で実際に教えている先生からも、子供が理解できていないだろうと思いつつ教科書を消化するためにスピードを上げなくちゃならない、こういう悩みの声が聞かれます。このことは各教科について言えると思いますが、きょうはとりあえず国語を例にとってお伺いします。  日本語が十分身についているのか。すなわちその国語の力が他の教科のできふできに与える影響は非常に大きいわけです。  文部大臣に新美南吉の「手ぶくろを買いに」という本を読んでいただいたと思うんですけれども、感想をお聞かせください。
  27. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 吉川さんの御注文でございましたが、正直申し上げて、きのう国会が終わって、夜、質問要求が出ておりまして、物理的に読む暇がないんです。けさ参りまして、初めてこういうテーマを与えられていることを承知いたしました。したがって、先ほどコピーを斜め読みをさっといたしました。  先生が、どういうところをお尋ねになりたいのか、むしろ伺って感想を申し上げた方がいいのかもしれませんが、大体ずっと見てみまして、まあ、子供たちはキツネの親子の深い情愛に感銘を受けるであろうということ。それから、子キツネは人間が親切だと考えるようになったと安心をし、そして、子供たちがきっと自分たちも、だれかれとなく差別も区別もしないで親切な人間にならなきゃならぬな、こんなふうに子供たちはこの本を読んで思ってくれるのではないかなという、本当に正直なところ、あわててここへ入る前にさっと読んだ感想でございまして、むしろ先生から、どういう御質問をしていただくのか伺って、また必要があればお答えをいたしたいと思います。
  28. 吉川春子

    ○吉川春子君 お忙しいのに、大変恐縮でした。  この本は、実は全国の七割の子供が使っております「あおぞら」という小学校三年生の教科書に十五ページにわたって載っております。質問は、この新美南吉の原作の方に出てくる漢字が二百八十八字なんです。    〔理事田沢智治君退席、委員長着席〕 この「手ぶくろを買いに」という中に出てくる漢字は二百八十八字です。この教科書にこの本が取り入れられたときに漢字の数が幾つになるか御存じでしょうか。わかんなきゃわかんないでいいですよ。
  29. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 新しく出てくる漢字が七字、それから読みかえ漢字が六字ということでございます。
  30. 吉川春子

    ○吉川春子君 いえ、私は全部の漢字の数を聞いたんですが、実は、この教科書に出てきますと六百四字になるんです。原作の方で二百八十八しか使ってなかった漢字を、この教科書に取り入れるときに、この教科書に載ると、漢字の数が倍以上にふえる。これでは、なぜこういうことが起こるのか、ちょっと文部省に伺います。
  31. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 漢字の問題は、戦後いろんな論議がありまして、むしろ現代の子供たちは漢字を知らないと。もう少し漢字を覚えるように国語教育をしっかりやるべきではないかというのが、いわば戦後から今日までの一つの大きな流れであります。そして、いろんな審議会の答申もそういう方向に従って行われておりまして、小学校の段階では、戦後は八百八十一字程度教えるということにしていたのを、現在は九百九十六字教えるというようなことで、各学年ごとに、どういう漢字を教えたらいいかという配当をしているわけでございます。したがいまして、全体的に漢字の問題は、むしろこれですら少ないんじゃないか、もうちょっとふやすべきじゃないかというのが大方の意見でありますし、各種審議会等での答申の流れでありますので、そういう方向でやってきているわけでございます。
  32. 吉川春子

    ○吉川春子君 この教科書を使っている教師はこういうふうに言っております。こんなにたくさんの漢字が出てきたのでは作品のすぐれた点を理解したり楽しさを子供たちが味わうよりも、漢字を読み覚えることに全精力を割がなくてはならないと。さっき文部大臣がおっしゃられたように、大変心にしみ込むようないいお話なんですね。ところが、小学校三年生というと八歳か九歳ですけれども、原作の倍以上の漢字をわざわざ加えてやることによって、本当にこの作品を教科書に取り上げた目的、子供にこういういい作品を与えるという、理解させるという目的が達せられないのではないかと思いますが、大臣いかがですか。
  33. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 吉川さんにおしかりをいただくかもしれませんが、そこに持っていらっしゃるその本は、一般の市販されている本でしょう。教科書じゃないんでしょう。
  34. 吉川春子

    ○吉川春子君 これは教科書です。
  35. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) いや、原作は…
  36. 吉川春子

    ○吉川春子君 原作は、もちろん作品ですから。
  37. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) そうですね。ですから、その本は三年生と限定せず、一年生の子だってお読みになるわけでしょうし、もっと五年生、六年生がお読みになることもあり得るわけですから、平易に平仮名をたくさん扱った本になったとしても私はおかしいことではない。ただ、教科書にお使いになるのは、これは三年生にしたわけですから、三年生として必要な漢字を覚えていただくという意味で、もちろん、私は国語というのは言葉や漢字を、文字を覚えるということも大事だけれども、「読んで感想をまとめよう」というふうに表題に書いてありますように、中身を読んで理解をするということだと思うんですね。同時に、教育ということですから、その本を読みながら感想もつくりながら、そういう興味あるすばらしい文を読みながら字を覚えていくということも教育なんじゃないでしょうか。そうすれば、原作は確かに平仮名で、漢字が二百字だったけれども、三年生として必要な漢字を六百字になったとしても、これは私は間違っているとは思わないし、ただむやみやたらに漢字を入れるというんじゃなくて、そのことの基準や考え方はさっき高石局長から申し上げたとおりだと私は思うんですが、そういう意味で原作に少なかったのに教科書に漢字が多かった、おかしいというのは、私はちょっと議論としては僕の方もおかしいなという感じを持ちますが。
  38. 吉川春子

    ○吉川春子君 一つは、新美南吉のすぐれた作品を漢字の教材としてとらえるということは問題があると思うんです。要するに、この作品を子供たちに親しませて理解させるという観点で言えば、漢字を二百八十八字でいいものをさらにふやしているということ、そのことが子供にこの話はむずかしいなと、国語の漢字を覚える方に精力を割がなきゃならないということで、非常に問題があるということを私は指摘しておきたいと思うんです。  それと同時に、文学作品なんですから、勝手に原文を、作者が平仮名で書いているところを全部三年生までに出てくる漢字で当てはめて書くということの異常さ、ここも私はびっくりしたわけかんですね。源氏物語なんかも平仮名文ですけれども、あれは全部漢字を当てはめて書いたら全然無味乾燥なものになるし、第一こういうことが許されるんでしょうか。文学作品として発表している作者との関係で許されるんでしょうか。こういうことを検定がスムーズに通るのですか。こういう例はほかにもたくさんあるわけですね。
  39. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 教科書に載せるときには原作の作品を改変していいというのが著作権法の取り扱いで決められているようでございます。
  40. 吉川春子

    ○吉川春子君 私は、その点について漢字をたくさん覚え込ませるというその目的のために、こういう作品が改ざんさせられている。そして、この作者はもう亡くなった方ですから、お墓の中まで相談に行けないのだけれども、現存している作者の物については相当書きかえさせられて文章の最初の形も変わってしまうというようなことも聞くんて、この辺は非常に重大な問題だというふうに思うわけです。  それではその次に伺いますけれども、小学生が覚えなければならない漢字の数が、昭和三十三年の三月までと現在と比べてどのようにふえているのかお伺いします。
  41. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 先ほども申し上げたかと思いますが、昭和三十三年当時は八百八十一、これが小学校での漢字の配当数でございます。
  42. 吉川春子

    ○吉川春子君 九年間ですよ。小学校じゃないでしょう、八百八十一字は。
  43. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 小学校でございます。  それから五十二年の改訂で六年間で覚えなければならない数は九百九十六字でございます。
  44. 吉川春子

    ○吉川春子君 昭和三十三年の三月までは恐らく八百八十一字を九年間で覚えるようにということになっていたと思うんです。三十三年に改訂されまして、それで六年間で八百八十一字ということになりまして、現在は九百九十六字を六年間で覚えると、こういうふうに漢字の数がふえてきているわけです。  さて、それでは小学校の国語の時間数はどういうふうになっておりますか。——指導要領見てください。
  45. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 五十五年度の教育課程によりましては、小学校では国語が一年から四年までは八時間、五年、六年が六時間というふうになっています。
  46. 吉川春子

    ○吉川春子君 年間のトータルでちょっと、言えませんか。
  47. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 六年間の総合トータルは計算しないと出ないわけですが、例えば第一学年では二百七十二時間、これは週八時間ということで、大体四年生まではその程度の時間、五年、六年になりますと二百十時間ということになります。
  48. 吉川春子

    ○吉川春子君 私どもはちょっと計算してみたのですけれども、前回の指導要領まででは千六百三時間ある。現行は千五百三十二時間、七十一時間の減になっているわけなんです。子供たちが覚えるべき漢字の数が、昭和二十年代と現代と比べて、単純に計算してみますと、私も昭和二十年代に小学校卒業した者ですが、年間九十八字覚えればよかった。今は学年にならすと百六十六字子供は漢字を覚えなきゃならない、一年間に。しかも国語の時間が減っているということなんですけれども。  大臣にお伺いしますが、この二十年ないし三十年の間で子供の記憶能力といいますか、そういうものはそんなに成長したものでしょうか、いかがですか。
  49. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 私は学者じゃありませんので、むしろ高木先生の方がそういう面ではお詳しいのじゃないかと思うんですが、人間は変わってないと思います。しかし、人間は環境条件によって脳も発達していくんだろう。漢字が多いか少ないかということの基準は、先ほど局長から申し上げたとおりでございますが、現実の問題として、きのうも国会のこの委員会の御論議の中に、幼稚園の教育内容についてのお話が粕谷先生でしたか、どなたか、ございましたね。子供たちは、現実、家庭にいて、むしろ教科書以上の漢字にぶつかっているんじゃないでしょうか、あるいは英語にもぶっかっているんじゃないでしょうか、今日の社会条件においては。だからといって、それに追随しようということではないと思いますが、やはりある程度能力に応じて、心身の発達条件に応じて社会の中で子供たちが健全に成長していってくれるように願いながら、文部省としてはいろんな考え方をそれぞれの権威者のお話を承りながら定めていくというふうに私は申し上げたいと思います。
  50. 吉川春子

    ○吉川春子君 子供たちが漢字やらいろんな情報にたくさん接しているということは私も否定しないんですけれども、ただ、それをどれだけ消化できる能力があるかということで伺いたいと思うんですが、私は、今のように教育的な配慮を抜きに、子供への漢字の押しつけが子供の漢字嫌いを生み出しているじゃないかというふうに考えるんですが、一九七五年の秋に「教育課程改定のための学力実態調査」、これは日教組国民教育研究所がおやりになったわけですけれども、これは御存じでしょうか。
  51. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 承知しておりません。
  52. 吉川春子

    ○吉川春子君 これは一九七五年の秋に「教育課程改定のための学力実態調査」というものをやって、そして小学校で習得されることになっている学習指導要領に定める九百九十六の学習漢字の読み、書き、ごく簡単な語句の意味と使い方、短文作成に限定して、基本調査を地域、学校規模別に分けて実施しているわけなんです。これは五つの県で約一万人に対してやった大がかりな調査でして、第一には、一般的に問題とされている読み書き能力の低下ないし停滞といった事態が明らかになっている。中学一年の場合に、一九五〇年から五一年にかけて行われた文部省の調査結果、それから六四年から六七年にかけて行われた文化庁調査よりも平均点が低下している。しかも、生徒間の格差が甚だしい。こういう結果が出ています。中学一年の場合に、百語の読みについて見ると、平均七七・二%の正解率であったのが、同じ語の文化庁調査の平均は八三・八%、六・六%低下しているわけです。それから漢字の書き、漢字五十字の書きの調査で、出題した漢字の八割、四十字が小学校四年生までに習い、五年生になればこれらすべてについて書けるようになることが要求されているものですが、これらの漢字は、一九五一年の文部省初等教育課の行ったものと同一の漢字であり、それは、男女の差が少なく、正解率が学年進行に伴い増加し、子供の生活とはかけ離れないものとされた漢字で、常識的に見ても難しいものは少ないわけです。  第二は、学年の進行によって定着度が非常に弱いと、こういう結果が出ているわけなんですね。  それからもう一つですけれども昭和二十八年から三十四年度に八百八十一字の中で七年間連続調査をした国語研究所の結果があるんですけれども、この調査でも驚くほどに学習不可能性が明示されていると。例えば六年生の書きで、二年生の「母」という漢字が書けたのは五〇%台、それから三年生で——ちょっと時間の関係でいろいろあれしますけれども、そういうふうに非常に子供の漢字の能力が八百八十一字のときも低下していたのに、さらにふやしてきたと、こういう経過があるわけですが、文部省は三十三年、一四十二年、五十五年というふうに漢字の数をふやしてきたわけですけれども、どういう根拠に基づいてこの漢字の数をふやしてきたのか。何か漢字をふやしても大丈夫なんだというデータがあったわけですか。
  53. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 戦前のことを申し上げて恐縮でございますが、昭和八年の「サイタ サイタ」の時代の国定教科書では小学校で千三百六十二字教えることになっております。その後、昭和十六年の「アカイ アカイ」という国定教科書でも千三百台の漢字を小学校で教えているということで、戦前の人たちは漢字についてかなりしっかりしたものを義務教育段階で教育を受けてきた、こういう実績があるわけです。ところが、戦後非常に漢字の数を減少させまして、八百八十一という字数にしたわけでございますが、これでは国語の力が落ちていくんではないかということが専門家意見として出されまして、そして各種審議会に諮りまして、もう少し小学校段階で、戦前との対比を考えながらいけば、ふやしていくべきではないかということから、現在の時点では九百九十六字という漢字を教えるという状況になっておりまして、能力的に言いますと戦前の子供も戦後の子供も同じ能力を前提にすれば、むしろ、もっと足りないじゃないかと言われるくらいの傾向があるわけでございます。
  54. 吉川春子

    ○吉川春子君 戦前の例を出されましたけれども、戦前、兵隊検査のときに読み書きの試験をしたわけですね。そして、そのときにどういう結果が出たか、それでは御存じなんですか。
  55. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 承知しておりません。
  56. 吉川春子

    ○吉川春子君 承知していないで戦前はたくさん覚えたのにという言い方は非常に無責任だと思うのです。実は、この兵隊検査のときにやった読み書きの結果、余りにも国民が漢字を知っていないと、基礎学力がないということで非常に深刻な反省がなされたわけです。そのことに基づいて戦後の八百八十一字という漢字が決められたわけですけれども、これは進駐車が入ってきて急にアメリカの力でがっと変わったのではなくて、戦前そういう非常に漢字の能力その他の学力が低いという問題について、一部の学者のこつこつとした研究の成果が戦後の新しい教育の中に取り込まれてきたということなわけです。例えば昭和二十一年の十一月十六日に、吉田茂元首相が訓令・告示を出しているわけなんです。非常に漢字の数が多く難しい、そのことが日常生活を煩雑にしているし、国民の負担にもなっている、学力もついていないということをやって、そういう反省に立って、そして義務教育用漢字立案委員会というものをつくりまして、昭和二十一年の十月から二十二年の八月まで十六名の委員が三十三回の委員会をかけて慎重に検討をしてこの八百八十一字という教育漢字の数が決まっているわけですね。ところが昭和三十三年の指導要領で、文部省はここで漢字をぐっとふやすわけですけれども、国語審議会には語らずやったわけです。それからその後も漢字の数を実質的にふやしてくる、節目節目ごとに十分な検討もせずにやってきたという事実があるんですけれども、それはお認めになりますか。
  57. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 残念ながら先生と見解を異にするわけでございまして、戦後八百八十一字という実態であったわけでございますが、これでは日本語で使われる日常的な漢字が十分に義務教育段階で消化していないというような反省がいろんな角度から出されまして、教育課程審議会で十分な論議を経まして今日の状況にしているわけでございまして、漢字の数が多いか少ないかというのは、少ない方がいいという立場で論ずれば先生のような御意見になろうかと思いますが、もう少し漢字を教えるべきではないかという意見の人は現状でもなお不満であるというような状況が続いているわけでございます。
  58. 吉川春子

    ○吉川春子君 誤解されては困るんですけれども、私は漢字の数が少なければ少ないほどいいという立場から質問しているんじゃありません。必要なものは教えなきゃならない。  文部省に伺いたいのは、それではたくさん教えれば、知っていればいい、そういうことで漢字をふやしてきたということなんですけれども、子供にこの漢字が定着しているかどうか、そういう調査はいつおやりになったんですか。四十年代で例えばいつごろそういう調査をおやりになったんですか。
  59. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) これは今、私の方でもいろんな教科到達度の調査をやっておりますが、その傾向で、まだ発表しておらない中間的な状況でございますけれども一般的には漢字の数を覚えている率が高まっているという状況でございます。したがいまして、漢字を形式的に教えればいいということを考えているわけではなくして、少なくとも日常生活で使われる一般的な漢字につきましては、義務教育段階では十分に身につけ得るということが国民教育として必要なことであるし、そういう面で力を注ぎながら、子供たちがじっくり身につけていくというような教育を展開していかなければならないと思っております。
  60. 吉川春子

    ○吉川春子君 文部省は、漢字が子供に定着しているかどうかなんという本格的なデータは何も持たずにやってきたわけですね。今やっていて、その結果はまだ発表されておりませんけれども、もうこれだけふやしてきちゃった後で、そういう調査をやって——やらないよりはやった方がいいと思うんですけれども、ふやす区切りごとにそういうようないろんな正確なデータを集めたり、子供に定着しているのかどうかということを確かめずにやってきたというのは、非常に乱暴であるというふうに私は指摘したいと思うんです。  それでもう一つ伺いたいんですけれども指導要領をちょっと見ていただけばすぐわかることですが、小学二年生でごんべんのつく漢字はどういうものが出てきますか。
  61. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) ちょっと御質問、もう一回お願いします。
  62. 吉川春子

    ○吉川春子君 小学校の二年生で教えなさいというふうに言っている漢字の中で、ごんべんのつく漢字は幾つありますか。
  63. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 突然のことで、ちょっと調べてみなきゃ返事できません。
  64. 吉川春子

    ○吉川春子君 そうですか。じゃ、ちょっと時間の関係で——これ、調べてみなきゃと言ったって、ぱっと開けばすぐわかることなんですね。  小学校二年生でごんべんの漢字は五つ出てくるんですね、話とか説とか記とか。それで、ごんべんの漢字というのは画数も多いし、子供にとっては非常に難しい漢字なんですけれども、そのごんべんの言という漢字は何年生で出てきますか。目がちらちらしますか、漢字が多過ぎるでしょう。
  65. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) ちょっとそこまで、私も専門家じゃないから、突然——お答えいたしかねるわけでございます。
  66. 吉川春子

    ○吉川春子君 ごんべんの漢字は二年生で五つ出てきて、ごんべんに当たる言という字は三年生にならないと出てこないんですね。さらに話という字のつくりの舌という字は、六年生にならないと出てこないんですね。つまり、最初に難しい字がぱっと出てきて、その後の学年になって言とか舌とかという、そういう字が出てくる、こういうふうに今の漢字の配当表はなっているわけですね。  そこで伺いたいんですけれども、やさしいものから順々に難しいものへ移っていく方が子供は理解しやすいのではないか。こういう立場に立って、例えば言という漢字を先に教えた後、三年生で教えた後にごんべんのつく漢字を教える、こういうようなやり方が今の学習指導要領の中で許されるんですか。
  67. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 専門家でないから、ここでいろいろ御意見を申し上げる自信はございませんが、教育課程審議会で、そういう専門家がいろんな角度から、一年生から六年生まで、どういう漢字をどういう形で教えたら最も効果的であるかということの長い蓄積の上で、今日の小学校一年から六年までの漢字の配当は組み上げられているわけでございます。したがいまして、先生のように、字数の少ないものから教えていった方がいいという考え方もあろうし、そうじゃなくて、子供たちが日常触れる身近な花であるとか、水であるとか、月であるとか、そういうものから教えた方が覚えやすいという見方もあろうし、これは専門家のそれぞれの領域によって最も合理的というような形で積み上げられているものと理解しているわけでございます。
  68. 吉川春子

    ○吉川春子君 また誤解していただいちゃ困るんですね。  やさしいものから順々に教えた方がいいという考え方に立って、先に言という字を教えた後、難しいごんべんの字を教えるというような順序を変えることが今の指導要領の中で許されますか、そういう教科書が検定を通りますかということを一伺っているんです。
  69. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 学習指導要領の基準では各学年別の漢字の配当表が示されておりますので、その配当表に従って教科書がつくられていくということが必要だと思うんです。その理由は、例えば鹿児島県から北海道に転勤すると、鹿児島では教えてもらわなかった、北海道で教えていたということになると、そういう義務教育の水準の維持ができないというようなことから、若干いろんな御意見はございましょうけれども、一年生ではこれだけの漢字は教えてもらいたい、二年生ではこれだけの漢字を教えてもらいたい、こういうような配当をしているわけでございます。したがいまして、その配当の仕方、どういう形で教えたら最も効果的かというのは、先ほど申し上げたような専門家意見によって決めているわけでございます。
  70. 吉川春子

    ○吉川春子君 法的拘束力があるかということを聞いているんですけれども
  71. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 漢字配当については、法的拘束力があると理解しております。
  72. 吉川春子

    ○吉川春子君 それで、どの漢字を先に教えるかということはなかなか難しい問題があると思うんです。私も、画数の少ないのから順々に教えていくべきだ、そういう考え方に立っているわけではないんですね。  ただ、問題は、文部省指導要領の配当もいろいろ今指摘したような不合理な面もあるわけなんですね。それを、法的拘束力を持たせて、そして文部省の決めたとおりの順序で教えなさい、こういう押しつけていることに問題があるのではないか、私はそのことを指摘しているんですけれども、いかがですか。
  73. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 先ほど申し上げたような見解でございますが、例えば第一学年の一学期で教えるのか、二学期で教えるのか、三学期で教えるのか、ここには弾力的な運用ができると思うんです。それが学年を超えできますと、全国的な教育水準の維持という観点で、東京で勉強しても埼玉県で勉強しても、少なくとも二年生の段階ではこれだけの漢字がちゃんと教えられているという前提をとらないと全国的な水準の維持ができないということで、そういう意味で必要最小限度のものを決めているわけでございまして、一学期に必ずこれだけというところまでの法的拘束力を与えているわけではございません。
  74. 吉川春子

    ○吉川春子君 私は学年での弾力性について伺ったんですが、それは、今、法的拘束力があって認められないわけですね。法的拘束力の問題は、漢字に限らず、いろいろと現場の教育に対して硬直化させるいろんな問題を持っていますから、これはもっと時間をかけてお伺いしなきゃならないというふうに思うわけです。  それで、そういう中で文部大臣に伺いますけれども、子供たち能力の範囲についてこういう考え方があるんですね。「人間のあたまはバケツではないのである。どれほど多くのことを注ぎこまれても決してこぼれるといふことはない。すべてあたまの襞に吸ひとられて」いく、こういう考え方についていかがお考えですか。
  75. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 私は、人間能力というのは——これもまた高木さんの御専門みたいで、私もわかりませんが、やはり子供に苦痛を与えないようにして教えてあけるということは大事なことだと思いますが、やはり教育を施すという教師の立場、あるいはまたそれを行政で責任を持つ文部省立場から見れば、それぞれの専門の皆さん方がお考えになった基準というのがあるわけでありまして、確かに先生のおっしゃるとおり言葉にも簡単な、さっき、たまたま言語の言という例を出されました。ごんべんのものを先に教えて二言が後から来るというのはおかしいという矛盾は確かにあるかもしれませんが、私は基本的に。教師は教科書を教えているのではなくて、教科書で教えていくものだと、こう思うんです。ですから、先生の教える一つの、これは技術的なことにもなるんじゃないか、私は先生の経験がないからわからないんですが、例えばごんべんのある字を教えたときに、言葉という、言という字はここにあるんですよということを、その先生が教えられることによってそれは解決するんじゃないかな、そんな感じが私はするんです。ですから、今おっしゃったように、人間の頭はバケツでないからこぼれるとかこぼれないとか、比喩としていろんなとり方はあると思いますけれども、要は、一番大事なことは教師がそうしたことを子供たちにわかりやすく教えていく、その一つの教材なんだろうと私は思うんですね。そういうふうに考えなかったら、すべて同じような形で、人の能力によるわけですから、どんどん吸収する子供もあるでしょうし、全く拒否する子供もあるでしょう。要はその子供の能力を見分けて、先生がそのケース、ケースでいろんな形で教えてあげるということが大事なんだろう。したがって教科書はあくまでも一つの子供に教育を教えていく教材、あくまでも先生本人の問題であろう、私はこんなふうに今、先生お話、とても大事なところを御指摘を受けております。非常に私も勉強になりますが、そんな私は感じを持っております。
  76. 吉川春子

    ○吉川春子君 今、文部大臣の御答弁聞いておりますと、要するに教科書というのはもう少し弾力性を持って、現場の教師が運用できるようにしなきゃならないというような趣旨も含まれていると思うし、これは法的拘束力で一方的に教師にこの内容で教えよという押しつけがあってはならないというふうにも例えたわけで、それは御意見として伺っておきます。  それで、実は今バケツの理論は自民党の政務調査会、文教制度調査会の「国語の諸問題」、こういうパンフレットの中からとったものです。これは坂田道太氏が当時会長をしておられたわけですけれども、四十三年七月に出されて、その結論というところですね、そこにこういう考え方が載っているわけなんです。これは自民党として公式の文書であるわけですが、驚くことにこれはすべて旧仮名遣いで書かれているわけですね。例えば「べル・ホア・アダノといふ小説があった。アダノといふ町に」云々、「まづ第一に何を与へたらよからうかと考へる。」、私が習ったこともないようなこういう旧仮名遣いで書かれているわけです。それでまず一つびっくりしますけれども、「結び」のところに、(イ)として、「当用漢字表及び当用漢子別表(教育漢字)の制限は、思ひきって緩和すべきである。」、「当用漢字字体表」とか、あるいは内「歴史的仮名づかひは、文化の流れに即し伝統的な語法に基いた優れた表記法として、これを尊重すべきである。」、(ニ)「当用漢字音訓表・送り仮名のつけ方」、(ホ)「左横書き」、(ヘ)「漢字と仮名の交ぜ書き、外来語」、(ト)「敬語」、こういうように順を追って書かれています。(イ)の「当用漢字表」を初め、学校教育教科書がこの方向に近づいてきているということも事実としてあるわけですね。このことは、私は大変重要だということを指摘しておきたいと思うんです。この自民党の文書が国語の教育教科書の方向づけをするものなのかどうか、文部大臣のお考えを伺いたいと思います。
  77. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 吉川さんに後でその本を見せていただきたいんですが、そんな本が出ておったかどうか私も知りませんし、今、挙げられた昭和四十何年というのは、私まだ当選してないものですから見ておりませんが、恐らく、それをお書きになった党の職員は、かなり、あのころ、私たちが当選するころは党の職員はかなり高齢の方が多かった気がいたしますから、きっと昔の教育を受けた人がそれをお書きになったんじゃないかなというふうに思います。  ただ御指摘のお尋ねをいただきました、それは党の意見でございまして、その党の意見に従って政府は漢字のデータをつくるという、教科書の中に漢字をどのように扱うかなどということは全く関係のないことでございます。それはあくまでも党のものでございます。
  78. 吉川春子

    ○吉川春子君 先ほど来の文部省の答弁でも明らかなように、どんな漢字をどの程度ふやしたらよいかという実態調査もほとんどせぬままに、明らかに国語の力の定着が弱いという事実も一方ではあるのに、根拠なく漢字をふやしてきた背景に、私は自民党のこういう文書に表現されるような、子供の頭はバケツでないから、どんなにそそぎ込んでも大丈夫なんだと、こういう考え方があったのではないかと懸念するわけなんです。私は漢字は少ないほどよいというふうには考えていないんです。必要なものはもちろんいろんな条件をつくって子供に教えていかなくてはなりません。しかし、子供の頭はバケツではないなどとどんどん詰め込みをやる、この発想はすべての子供の学力を十分に身につけさせるということとは相入れないと思うんです。一部のエリートを育てるエリート英才教育である、こういうふうに思うわけです。多くの子供たちの学力の低下、落ちこぼれということに心を痛めている国民の要望とも、またこの方向は相入れないんじゃないかというふうに思うわけなんです。小学校の低学年の教育の中身を見直すという場合に、やはり大臣、すべての子供に豊かな基礎学力をつけるための改善をするべきであって、一部のエリート養成を目指す改善であってはならないと思いますが、いかがですか。
  79. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) ちょっと大臣の御答弁の前に、何も調査しないということでございますが、そうではなくて、文部省は国語教育というのは非常に重要であるということで国立国語研究所というのを持っているわけでございます。そこの機関で専門的にいろんな調査をやった上で、その実績を見た上で教育課程審議会にそのデータ等も論議されながら改訂をしていくという作業をやっております。  また、国語教育全体については、国語審議会というものを文化庁の機関として持っているということで、日本の国語をどう教えていくかということは非常に教育の重要な柱として取り組んでいるわけでございますので、単に得手勝手にふやしたり減らしたりというような気持ちでやっていないことをちょっと補足して申し上げておきます。
  80. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 私は小学校、特に低学年においては、いわゆる基本的なことを、できる限り繰り返し、繰り返し教えていくということが大事だと思っております。もちろん漢字のみならず、先ほどもお話に出ておりますように、しつけでありますとか、約束事でありますとか、人間として一番大事な基本的なことを小学校の低学年にきちっと教えていくということが大事だと考えます。それが量的にどの程度がいいのか、どの程度のものが必要なのかということについては先ほどから政府委員が答弁いたしておりますように、それぞれの専門の権威者によっていろんな考え方が出ているわけでございますが、繰り返すようでありますが、その教材を先生がどのように生かしていくのかということが、私は教育の一番大事なところだと考えます。
  81. 吉川春子

    ○吉川春子君 いろいろ文部省としても調査や何かやってきたと言うのですけれども、先ほど来私が繰り返し伺っているのに、調査や研究の結果が明らかにされないわけです。だから、そういう裏づけもなしに、ただ研究している、調査しているということだけでは説得力がないと思うんです。  ここに岩手県教育委員会の調査があるわけなんです。これは入学試験で数学の点数が零点から四点で入学をしてきた低学力の生徒八百七十一名に関する調査なんです。高校生でありながら小学四年生の計算問題、例えば、4マイナス(3分の2プラス3分の2)ダッシュこれを正しく答えられる子は二六%しかいない。それから、8分の7マイナス8分の5という非常に簡単な小学校三年生の計算問題、この正解率は三一%にすぎないわけです。こういう生徒を教える先生の苦労というのは大変なものと言わなくてはならないと思うんです。それでも、先生たちは何と言っているかというと、この調査をして八四%の教師が学力がおくれた子でも努力次第では伸びる、このように答えたと指摘しています。そしてまた後々まで影響するような基礎的な計算技能は全員に身につけさせること が子供の指導上の対策とすべきだというふうに述べていますけれども、こういう問題について大臣考えいかがですか。
  82. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 岩手で非常にいろんな調査を行われて、そういう分析がされている内容は大まかなことは承知しておりますが、今おっしゃったように、子供自身が学習意欲を持つようにいろいろ指導方法等工夫していけば、それなりの効果を上げることができるという指摘は大変注目すべきことだと思います。
  83. 吉川春子

    ○吉川春子君 今お答えになりましたけれども、学力が非常に低くても、教え方によっては高校生になってもその子供たちの学力を引き上げることができるということがこの中にも書かれているわけですけれども大臣はいかがですか、こういう考え方について。
  84. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) やはり子供の能力に応じて繰り返して丁寧に教えていくということが教育をする基本的なスタンスだろう、こう思っております。したがって、文部省といたしましても、でき得る限り、そうした指導方法といいましょうか、そうしたものの手引や指導書なども作成をするように今努力をしておるところでございます。時々先生方の研修などについてはいろんな賛否両論あるようでございますけれども、そうしたことを、先生方にもいろんな指導の方法などをしっかり学んでいただくことによって、子供たちに、繰り返し繰り返し基本的なことを教え、指導方法にいろんな工夫をするということが、今政府委員が申し上げましたように、子供たちがまた伸びるようになる、そういう先生方の認識というものも正しいわけでございますから、政府もそういう立場をとっていろんな形で指導の成果が上がるように、さらになおいろんな意味の条件を整えていきたい、こう考えております。
  85. 吉川春子

    ○吉川春子君 中曽根総理が教育改革を叫び、臨教審について当委員会でも昨日も文部大臣のお考えもいろいろ明らかにされてきたわけです。国民の中に強い教育改革に対する願望があることは紛れもない事実だと私も思います。私は申し上げたいわけですけれども、社会を騒がしている暴力や非行の子供たち、それで親や先生を悩ましている落ちこぼれや無気力の子供たち、こういう子供たちが残念ながら少なくない数でいるわけですけれども、でも、私は一番苦しみ悩んでいるのはほかならぬこういう子供たちだと思うんです。そのことを私たちは忘れちゃいけないんじゃないかというふうに思うわけです。競争原理とか遺伝などということを振りかざして、こういう子供たちを切り捨ててはならないんじゃないか、私は強く思うわけなんです。それから人並み志向などと半ばあざ笑うような言葉を投げかけて、一人一人の子供の学力を伸ばしたい、能力を伸ばしたいと願っている国民の、そういう希望を、これを低く見てはならないんじゃないか、こういうふうに思うわけです。そういうふうに考えたときに、行政改革などと言って教育予算を削って、そして教育改革はできないんじゃないかというふうにも思うわけなんです。もし本気になって教育改革をやるというのならば、すべての子供の個性や能力を伸ばすために何をなすべきか、こういう観点から行うべきであり、そのための予算も十分に組む必要があると思うんです。そういう決意でこそ教育改革をやるべきじゃないかと思うんですけれども大臣のこの件についてのお考えを伺いたいと思います。
  86. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 先ほど高木さん、高石先生の名前ばかり出して恐縮なんですが、高木さんとの御議論の中にも出ましたけれども、結果的に教育大学に入るための高等学校の勉強、高等学校に入るための中学校の勉強、そして中学に入るための小学校というふうに、結局受験のための勉強ということにどうしてもなりがちでありますから、そのことが確かに、今、吉川先生御指摘のようについて来れない者は外されてしまうのだ、このことだけは覚えなければ次のランクに進めないのだということになって、確かに子供たちは非常につらい思いをしておられることは事実だと思うのです。教育改革を何としてもなし遂げたいということは、単に一時的なところを改善をしても、先ほども議論が出ましたし、きのうも何回も出ましたが、共通一次がよかれと思って考えたことでも、やってみればまたいろんな盲点が出てくる。いろんな弊害が出てくる。日本の国は教育が進んで量的にも拡大したし、中身もすばらしくなった。これは世界じゅうが認めているけれども、逆にその教育が今のような形になったための社会の病理現象というものが確かに出てきている。ですから、教育の、この諸制度というものは、試行錯誤を繰り返していくということになるのだと思いますが、要は、私は一番大事なことは、学校教育受験のためにあってはならぬのだ、そのためにもっと学校が楽しかるべきところであるというふうに何とか改善をしたい。そういう意味で一番大もとであるところの高等教育のところの諸制度から、少し感覚を、考え方を変えていくことによって全体的な流れがまたスムーズになっていくのではないか、こんなような考え方から、もちろん、そのことだけやるわけじゃありませんけれども、そうしたこともすべて含めて、例えば今教育に非常に現場に詳しい先生からいろんなお話がありましたけれども、総じて今の社会をつくり上げた、今の我々よりもっと大人の先輩と見ていいでしょうか、大学なんか出てない人の方がしっかりやっていらっしゃる。そんなに学問身につけなくたって、立派に社会の中で日本の国の一人一人の人間としての責任を果たしていらっしゃる。そう考えれば、字を覚えたり数学を覚えたり英語を覚えなきゃならぬというようなことの理屈には私はならぬと思うのです。人格を形成人間としての全人格的形成をやることが教育の最大のものだろうと、こう考えておりますので、そういう意味でどうも日本の国の教育の目標が、一つ受験とか高等教育を進んで、いい学校に入ったら社会に出て優遇されるのだという、そういう学歴社会の印象が強過ぎている。こうしたことを改善をするという意味で、新しい教育体制を一度教育仕組みやあり方なども考えてみようというのが今回の臨時教育審議会にゆだねていこうという基本的な考え方でございますので、恐らくいろんな処方や考え方については吉川先生と違っている面もあるかもしれませんが、目的は、そうしてまた学校教育の現場をよくしていきたいということについては吉川先生の極めて現場に即したお話と、私ども考えでいることと、そう私は間違った方へ進んでいるというふうな感じは持たないわけでございす。  もう一つ教育予算を削ってまでと、いろいろおっしゃいましたけれども教育の諸条件を整えることは、私ども政治の責任として大事なことだと思っております。しかし、財政があって全体的な政府全体の方向づけがあって教育もあるわけでありますから、ただ条件だけよくして金だけぽんと与えるから、さあやりなさいと言ったって、家庭に置きかえても、そんなことはできるものでない。本も買いましょう、かばんも買いましょう、何も全部あてがいましょう。条件はすべてよくしますから、さあ高石君勉強して立派な人間になりなさい。そんなものでも私はないと思うし、現に、そんなこと、先生からおしかりいただくかもしれませんが、私たち学校に通った条件などというのは今なんていうものじゃなかった。しかしその中で、私は立派になったと思っていませんけれども、みんなそれなりにそういう与えられた教育の条件の中で、みんなおのれを克服して、今、立派な社会人になっておるというふうに考えて、余計なことを申し上げたかもしれませんが、そういうことを私は意見として申し上げたいのです。
  87. 吉川春子

    ○吉川春子君 もう時間がなくなりましたのでこれで最後にいたします。  予算を削るかどうかという問題については、今のところ並行線でありまして、私は文部大臣のお答えは納得できないのです。それともう一つ私言っておきたいことは、学力の低下が人格の破壊にまでつながっているという事実なんです。だから、学力は全然なくても人間として立派になればいいと、そういうふうに言うことはできないと思うんです。やっぱり学力をしっかり身につけさせる、自分の判断力もつける、そういう子供たちが本当に自由を愛し、民主主義を愛し、平和を愛す、そういう社会をつくっていくわけですから、算数や国語や英語はできなくても人間は立派になるんだと、そういうことではないので、私は学力をすべての子供にしっかりと身につけさせるような、どうしても教育改革をやるならばそういう方向でやっていただきたいということを、これはもう要望ですけれども、申し上げて質問を終わりたいと思います。
  88. 小西博行

    ○小西博行君 先ほどは高木先生から大変高尚なお話がありまして、私もできればできるだけ高木先生に接近したいとふだんから尊敬しているところでございますが、きょうは非常に現実的な問題について、数点についてお伺いしたいと思います。  まず、都立向丘高等学校の定時制の問題でございますが、これにつきましては既に毎日新聞あるいは「月刊現代」、ここでかなり論じられておりますが、この記事につきまして、大臣、ごらんになったかどうか、あるいは感想を述べていただきたいと思います。    〔委員長退席、理事田沢智治君着席〕
  89. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 新聞はこの間さっとちょっと見まして非常に、ただ事実関係というのは完全にまだ把握をいたしておりませんので、私として今ここでコメントを申し上げるということは誤解を生むおそれもございますが、もし事実であるとするならば、教員が一層の資質向上が求められている今日、教師としては、このことが事実であるとするならば、まことに私は遺憾なことだなと、こう思っております。  文部省といたしましても、事務当局に事実関係をよく把握するように、そして都教育委員会に対して適切な指導をするように強く私は要望しておるところであります。
  90. 小西博行

    ○小西博行君 じゃ、文部省の方にお尋ねいたします。  この問題は五十六年にも実は発生しておりますね。そういうことで、もう既に調査という点につきましてはかなり進んでいるんじゃないかという感じがいたしますが、文部省の方はどのように対応しておりますか。
  91. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 都の教育委員会の関係者に来ていただきまして、こういうようなことが報道されているけれども、この事実関係はどうであるかということを調べて報告をしていただきたいということで、目下調査中でございます。
  92. 小西博行

    ○小西博行君 それでは具体的に質問に入りたいと思いますが、まず研修日のあり方ですね。研修というのがあります。特に東京都の場合は週一研修というような名前もございますように、研修日のあり方について何点かについてお伺いいたしたいと思います。  高校教師の研修について法的にはどのように位置づけられているのか、解釈されているのか、この辺からお伺いしたいと思います。
  93. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 教員は、「その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない。」ということで、教育公務員特例法の二十条第二項では、「授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる。」と特例法の規定があるわけでございます。  したがいまして、この規定の運用によりまして、学校で例えば授業が行われない夏休みとか冬休み、そういうものについてはできるだけ研修に従事してほしいと、こういうような基本的な運営をしております。ただ、毎日の授業が行われる場合に、なかなか勤務場所を離れて研修はできませんので、そういうような授業のない日を利用してやってほしいと、こういうことを指導しているわけでございます。
  94. 小西博行

    ○小西博行君 全国附にはこれどのようになっているのか、あるいは延べ時間で現実にどういうふうにやっておられるのかという統計が、あるいは何か資料ございますか。
  95. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 全国的にいろんな形の研修がありますから、それをひっくるめて調査することは非常に難しいわけでございます。通常の教育委員会等が主催する事業に出て研修を受けることもありますし、それからいろんな大学とか民間の機関が行う研修に職先の適用を受けて出かける場合もありますし、それから一般的に夏休み等に自宅研修という形で校長の承認を得て自宅等で研修をやるというような形があるわけでございます。  自宅研修につきましては、大まかな推計でございますけれども、大体、年間十日前後がとられているんじゃないかというふうに思われます。
  96. 小西博行

    ○小西博行君 そういたしますと、校長さんの方で調べれば大体全部把握しているわけですね。具体的な研修の期間とか日時というのはわかるわけですね。  それでは、東京都の場合には週一研修というのがありますね。この制度に対してはどのようにお考えなんでしょうか。あるいは全国的にはこういう事例というのがほかにございますんでしょうか。その辺について。    〔理事田沢智治君退席、委員長着席〕
  97. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 東京都は、かなり前から週一研修ということを行っているようでございますが、これは、ほかの都道府県では余り行われていない仕組みでございます。これにつきましては、従来から文部省としては、形式的に週一回が研修という名目で休めるというような運用はおかしいというふうに指導してきているわけでございます。
  98. 小西博行

    ○小西博行君 大臣もそのようにお考えですか、週一研修、東京都の場合。
  99. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 形式的にそういうあれがあるというふうに、形で取るというのはやっぱりおかしいと思います。
  100. 小西博行

    ○小西博行君 先ほど、教特法の二十条にいう、勤務場所を離れてという項目が入っておるわけですね。これは自宅の、自宅研修といいますかね、そういうものも含まれているんでしょうか、どうでしょうか。
  101. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 法律上の解釈としては自宅研修も含まれております。
  102. 小西博行

    ○小西博行君 その申請願いといいますかね、こういう何か制度というのは承知しておりますか。
  103. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 各都道府県それぞれ取り扱いを決めていると思いますが、一般的には校長がちゃんと承認をして、そしてどういう研修をやるかという内容を承知して、そして承認するという形で処理しているのが一般的だと思います。
  104. 小西博行

    ○小西博行君 それでは、研修日につきまして具体的な事例を挙げながら質問に入りたいと思いますが、参考資料、そちらに行っていますでしょうか。
  105. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) はい。
  106. 小西博行

    ○小西博行君 このように色分けをしております一連の資料でございます。これはまさに手づくりでございまして、一つ一つ赤、青、黄色と、こういうふうに細かく分けておりますので、質問の中にこの表が必要になってまいりますので、よくごらんになっていただきたいと思います。  まず、赤で囲んでる部分であります。これは、研修日ということですね。研修日あるいは研修時間ということになります。一日全部赤で囲んでおりますが、こういうのは一日研修ということになります。  そういうことでございますから、そのように御理解願いたい。それから、夏休み、「夏季休業日」というふうに書いております。これは全部研修ということになります。赤で囲んでおります。  それから青です。この青は、実は出勤して実際に勤務しなければならない日ということになります。  それから黄色の場合、これは主として、例えばクラブ活動であるとか、あるいは生徒が自宅学習している、こういうようなことで色分けをしております。  そして、表は五十八年度の四月から、一ページ目が九月までですね。二ページ目が十月から三月まで、こういうふうになっております。まずこの資料をごらんになっていただきたいと思います。  まず、研修日の実態についてでございますが、現在お見せしました資料の一ページ、二ページですが、これは都立向丘高校の定期制の年間授業日数ですね。こういうものがございます。実は実際にこれは校長の責任におきまして都教委にこれを提出しなきゃいけませんが、その資料は三ページ目にありますが、これはちょっと縮小して二つ載せました。これは一年間分ですね。こういうものを実際に都教委に提出するということですね。もちろん校長さんがそれを了解して都教委の許可を願う、こういう格好になっているわけであります。三ページ目にこれは入っております。ですから、これを見ますと大体年間の授業日数というのが一目瞭然でございます。そしてその中に具体的にいろんな項目が入っております。実際に授業をやらなきゃいけない、あるいはクラブ活動をやる、あるいは試験日である、あるいはその後試験休みであると、このように各項目について、ちょっと字が小さいわけでありますが入っております。だから年間の計画表というふうに考えていただいたら結構かと思います。ところが現実はこのとおりやっておられないというのがございます。  まず第一問でありますが、実際に勤務する時間が勤務を要する時間の三分の一である。つまり、この表を見ていただきましたらわかりますように、赤で囲んでおるのは研修という名目になっておりますので、実際は一時二十五分に出てきまして九時半まで定時制でございますから勤務しなければいけない、こういうことになっておるわけでありますが、五時に出勤する場合は、一時二十五分から五時までは自宅研修あるいは研修ということになっておりますから、ほとんどの先生方は出勤していない、こういう実態でございます。週一研修でありますから、各週に一日は完全に研修ということで学校をお休みになっていると。また、黄色で囲んでいる部分でありますが、いろんなクラブ活動というふうに書いておりますが、これは現実にはやみ休暇と言ってもいいような実態であります。つまり、クラブ活動というのはほとんどやっておりませんから、ほとんど先生方は自宅あるいはどこかへ行っている、こういう形になっておりまして、この実態についてもっともっと勉強していただきたいと思いますが、文部大臣からまず考え方といいますか、感想をひとつ述べていただきたい。
  107. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 大変丁寧な、そして詳しい資料をおつくりになりましてありがとうございます。すぐ感想と、こう言われますと、随分勉強しなくていい時間が多いんだなと、即座にその感想を私はまず持つものです。
  108. 小西博行

    ○小西博行君 問題は、こういう研修時間というのがとられておりますが、この研修は実際に先生方が一生懸命勉強されて、そして授業に備えるとか、あるいは定時制の学生ですから、働きながら学ぶという子供さんが多いわけですから、そういう方にどのように教えればいいかということで勉強されるということであれば私は十分じゃないかと思うんですね。その辺が実は私は大きな問題があるというふうに考えているわけです。資料三、この表でいきますと四ページですね。四ページ、五ページ、六ページというふうに「研修承認願」というのが実はここに入っております。実はこれを見ていただきましたらわかりますように、四ページの左側の表ですが、一年に一回こういうものを提出しなきゃいけません、校長さんに。それを見ますと、春休みあるいは開校記念日、あるいは夏休みというものが一年に全部研修願ということで一回で取り扱われるわけですね。それがすぐおわかりだと思います。で、右側、研修願というふうに書いておりますが、これはバドミントンの研修というふうに書いているわけですね。一年間では左の表で全部計画表に入るわけですね。右側の場合は、これは下の内訳というところを見ていただいたらわかりますように、「毎週水曜日を除く勤務すべき日」と書いていますね。これは研修願なんです。水曜日というのは週一研修で、一日この先生は毎週水曜日は研修ということになるわけですね、一日研修と。こういうことになりますから、それ以外といいますと、月曜日から土曜日まで全部入るということですね。その中で午後一時二十五分から午後五時まで、一時二十五分に出勤しなきゃいけませんから、それから夕方の五時まで、なぜ五時までかといいますと、五時半ぐらいから授業が始まるということでありますから、これはもうそのとおり、いわゆるこの表でいきますと、赤であらわしております研修時間になるわけですね。ただし、木曜日は午後一時二十五分から四時までと、これは四時から何かやらなきゃいかぬことがあるということで、そういうふうに計画立てているわけです。それがおわかりだと思います。それで見ますと、こういう一枚の簡単な用紙で一年間の研修願を出せば、それをもう形どおり許可をすると。そしてさっきの四ページの右側なんかはバドミントンの研修ということになっているわけですね、バドミントンの研修。これは実は数学の先生なんですね。これ具体的名前消しておりますけれども、数学の先生が数学で研修するということならまだわかります。実はバドミントンの研修と、こう書いているわけですね、研修願。この辺についてどのようにお考えなのか、文部省
  109. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 研修承認につきまして、例えば開校記念日であるとか都民の日であるというような、子供たちも来ないというような形で研修をやるというようなことはわかりますけれども、夏休み、春休み、冬休みに七月二十一日から八月三十一日までバドミントンの研修を自分学校でない他の中学校の体育館に出かけてやる、そのための研修だというのは、中学校で大体そんなに体育館もあいているのかどうかもわからないし、これは社会体育の指導者としてバドミントンのことをおやりになるんじゃないかと思いますし、中学校のクラブ指導であれば中学校先生がやるわけでございますから、そういう意味でこの取り扱いは極めてあいまいな不的確な取り扱いをしているというふうに思います。
  110. 小西博行

    ○小西博行君 この研修願というのは、今のは一番最初のやつですがね、後の方もずうっとあるんですね。例えば六ページ目ですね。これは「研修承認願」というふうに書いておりますが、この先生は生物の先生だそうです、生物の先生。それで野鳥観測というんですか、観察というんですか、野鳥及び植物の生態調査と、これも全く一年間ずうっと野鳥と植物の生態調査をすることになっているわけですね。そして本来勤務しなければいけない時間を研修時間に充てているということになるわけですね。私はこの資料は各先生全部集めているわけです、実は。ですから、このお二人の先生だけが問題ではない。全部の先生方がこれをやっている。しかも、校長は十分御存じである。しかも、判こをちゃんとこうやって押して了解している。こういう実態だと思うんです。したがって、時間的に見てみますと、年間のうちで大体千四百時間、百七十五日分、これをこういう研修という形で、一枚の用紙で研修願を出して、あと簡単な報告書と、全くこの願いと同じような非常に簡単な文句で書いております。こういうやり方に対してどういうふうにお考えでしょうか。
  111. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 定時制の教育でございますから、普通の全日制の教育と違っていろんな形の勤務形態の変化があるというふうに思います。したがって、例えば形式上の勤務時間としては一時半から九時とか九時半までというふうに決められておれば、原則でありますれば当然その時間に学校に出て、いろんな教育上の仕事ないしは研修をやるということが原則だろうと思います。ただ、子供たちが来るのが四時とか五時ということになりますと、それを全部学校に出勤して当たらなきゃならぬということも、余りにも形式的過ぎる点があろうかと思うんです。したがって、そういう意味で、本当に先生方が研修のために、たまには図書館に行ったり、自宅にいたりして研修するから学校に来れないというような形態がある ことはわかりますけれども、年間を通じて、もう実質上の勤務時間が四時とか五時となっておるとすれば、これは非常に勤務時間の運用上、適正な運用ではないというふうに思われます。  それから、研修の手続、承認の与え方にいたしましても、もう少しきめの細かい対応をしていかないと、今先生から御指摘を受けているように、いろんな意味で大変おかしな取り扱いではないかという都民の批判を受ける、国民の批判を受けるということになるのではないかと思います。
  112. 小西博行

    ○小西博行君 定時制高等学校というのは東京に何と百七十校あるわけですね。ですから、私は、そんな想像したら悪いんですけれども、案外定時制高校というのはお互いにそういうことをやっているんではないかなという感じが実はするわけなんです。というのは、五十六年にもこういう問題が起こりまして、そして相当の責任者、あるいは先生方が処分された事例があるわけですね。ところが、四カ月ぐらいで四月から学期が始まるわけですが、もうその時点にはもとに返っているという実態があるわけです。つまり、転勤がいろいろ行われますけれども、定時制から全日制へどんどん変わっていくということは余りないそうです。定時制同士でお互いに転勤が行われるということですから、いろんな問題があって、そうして各処罰をして、校長さんもかわったようでありますけれども、そういう形になって、四カ月後に四月を迎えたと、そうしたら全くもとの同じような形態に入っている。ですから、その証拠に現在でもこれでやっているわけでございます。これは五十八年のデータですからね。ですから、そういう問題に対して、何か定時制高校の中だけに、全日制高校はどうか、私まだ調べておりませんから申せませんけれども、定時制高校というのはお互いにそういうことが十分過去のなれ合いで、校長さんも理解して、そしてこれでいいんじゃないかということでやっているのかどうか。その辺の何か実態というのは全然ございませんか、調査したことございませんか。
  113. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 私も地方での経験がございまして、全日制と定時制の先生方の勤務の問題、これは今御指摘にありますように。いろいろ難しい状況がありますので、それをどういう形で、非難を受けないような形で勤務するかということに苦労したことがあります。  それからもう一つは、本当に定時制教育に従事している先生方、大変苦労が多いということで、定通手当も一〇%の手当がついているわけでございます。そういうことと、一般的には定時制の先生には行き手がないという状況があります。したがいまして、全日制、定時制の人事交流というものを積極的にやっていくというようなことで、地方ではかなりまじめに、熱心に全、定の問題を含めて適正な人事交流をやり、そして勤務時間管理についてもいろんな配慮を加えるというような対応をしているわけでございます。  ただ、御指摘のように、東京都につきましては、こういう問題が部か全体に、そういう形で行われているとするならば、大変問題でございますので、そういう実態を、まず東京都の実態については十分調査をし、報告を聞き、正すべきは正すように指導していかなければならないというふうに思っております。東京都の場合は、人事交流の点はどうなっているのかということも含めて考えていかなきゃならないし、それから、定時制教育のあり方自体が非常に形式化している。本来、全日制で教育を受けるべき者が定時制で教育を受けるというような生徒の動向の実態、そういうことも含めて十分調査をした上で考えていかなきゃならないというふうに思います。
  114. 小西博行

    ○小西博行君 大臣よく聞いていただきたいんですよね。私は、今度は教育の改革をしなきゃいかぬということで、いろんな法案も出てくるというように聞いているわけですね。きのうのお話じゃありませんけれども、高桑先生の方からは、改革と改善というのは多少ニュアンスが違うんじゃないかというお話もありましたね。将来の日本の教育はこうあるべきだという、私はそういう面で確かにとらえて教育を大きく改革していかなきゃいかぬ。こういうのは確かにやらなきゃいかぬことだろう。ところが、現実にいろんな問題が現在起きているわけですね。そういう起きている問題は、しかも、東京の中で実は百七十校も定時制があるわけですね。そういう実態については、今お話を聞いたから、じゃあぽつぽつ今から調べて、そしてその対策をとるなんということは、これは私は文部省は大変怠慢だというふうに考えるわけですね。全然関係ないというんだったら別ですね、これは都教委が問題ですと。従来、私はもう当選して四年なんですけど、はや大臣が三人目なんですね。小樽の偏向教育の問題もやりました。結局、大臣は責任はあるんだけども、権限がない、こういうふうにおっしゃったわけです。つまり、教育の行政についてはほとんど何か手出しできないという、過去のお二人の大臣はそういうふうにおっしゃいました。そんなことで教育行政というものがあずかっていけるのかどうか、私は大変疑問に思うんですがね。大臣どうお考えですか。
  115. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 大変、大事な問題を指摘をしていただきましたということについては、私も認識を同じにいたしております。きのうの私学の問題の議論でも出ましたけれど、国士舘といえども、九州産業大学といえども、自主性、大学の自主ということを大事にして文部省は対応してきました。お互いの信頼感だと思うんです。その信頼感を盾にして世間で通用しないことをやるというなら、文部省も相当深刻に受けとめていかなきゃならぬということを申し上げた。  この種の、今、御指摘いただいた問題もそうだと思います、先生なんですから。特に、戦後の日本の教育は、御承知のように、文部省指導、助言、予算の配分というのが大きな仕事でございます。教育に携わる、あえて聖職者と私は言いませんけれども、聖職者的使命感を持って教育に当たっていただかなきゃならぬ。少なくとも、子供たちに範を垂れなきゃならぬ立場でございますから、そういう先生を信頼していろんな取り決めや、いろんなまた恩典の制度もあるんだろうと思いますが、それを逆にこうした形でおやりになるということになれば、これ重大な問題として受けとめていかなければなりませんが、逃げではございませんけども、直接、高等学校の設置の責任は都教育委員会にあるわけでございますから、都教育委員会がこの問題を深刻な問題として受けとめてもらうことがまず第一だと思います。だからといって、文部省は知らぬ顔をしているということではございません。当然指導、助言は続けなきゃならぬと思っておりますが、大変大事な問題を指摘をいただいたというふうに私は受けとめております。
  116. 小西博行

    ○小西博行君 実は、こういう調査をするというのは大変難しいんですね。と申しますのは、校長さんにいろんな事情を聞いても、校長さんはできるだけぼろを出ないようにしたいというのがありますね。先生方も、やみ給与という形で報酬をもらっておるという形になりますと、よほどでないとこういう資料はキャッチできないわけですね。つまり、証拠がとれないというのが、この教育の中のいろんなチェックする場合に私は難しい問題だと思うんですよ。  ですから、紙に書いてきて、これなんかはむしろ公然と表に出すものなんですね、言うなら。その中でもこういう具体的に色分けをして、毎日毎日の承認願を色分けしたらこういうものになっちまうわけですね。ところが、三ページ日あたりを実際は出しているわけでしょう、こういう形で。しかし、この中に私は非常におかしいところを出してるなと思うのがあるんですね。  これは「五十九年度行事計画」とて書いていますでしょう。ここの左上のところに白丸、それから黒丸、それからひし形が書いてあるんです。ちょうど七月のところを見ていただいたらいいと思う、左側の七月のずうっと下を。そうしますと、クラブ活動というので黒丸に塗ってるでしょう。クラブ活動ということで黒丸に、七月のところです。ちょうど真ん中ごろです。上を見ていただいたら、これは生徒が自宅学習と書いているんですね。つまり、計画の中でクラブ活動と書きながら、これは事実上、生徒は自宅でクラブ活動をやるんですよ。そういうことをあらわしているんですね。ですから、これはもう完全に先生は出てこないんですね、自宅学習で。  クラブ活動というのは、本来大臣どういうふうにお考えですか。私は定時制じゃありませんでしたけれども、普通のクラブ活動といえば、学校の中でやるんじゃありませんか。
  117. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 学校教育の条件にもよると思いますが、原則的にはやはり学校の中で、それをまたベースにして行うことがクラブ活動だろうと思います。
  118. 小西博行

    ○小西博行君 そういうことだと思うんですね。だから、私はこれもうもっと上手に書いておけばわからないんですけれども、おかしな書き方しているなど実は思うんですね。正直といえば正直かもしれません。  それで、もう一枚、こういうのがありますね。最後の方ですが、「個人別時間割」というのがあります。「個人別時間割」って、これちょっと上を、名前は全部塗りつぶしておりますが、これは全部個人個人の先生の名前なんですね。その計画をずっと見ていただいたらすぐおわかりのように、週一研修というのがちゃんと入っていますね。一番最初の上に黒塗りにしておりますが、火曜日は完全にその先生は休みですね。だから、これを見ていただきますと、完全に週一研修やっていると。しょっちゅう休んでいる方というのは、これ非常勤講師という形かもわかりません。それ私の方でまだそこまではつかんでおりませんが、多分そうだと思います。こういう状態でありますから、先生方が一堂に会して、皆さん方で例えば生徒指導についてこうやりましょうという、いわゆる職員会議的なもの、こういう連絡をとろうと思っても、みんなこれ週一研修のためにいないわけですね。そろわない。非常にそろいにくいと。一時二十五分から出ていただければそろうと思います。しかし、実際には五時とか四時とかいう計画になっておりますが、自分の授業のあるときだけ出てきて、すぐ帰るというのがもう大半でありますから、一日一時間あるなし。大体週で十時間から十一、二時間までですね、調べてみますと。そういうことでありますから、私はこれは非常に問題があると思うんです。  そういうことでございまして、この問題をさらに個々に掘り下げていきますと、もっと大きな問題が出てきます。各先生方一人一人の、学校へ出てきて実際に教えた時間が何時間かというのは全部わかるわけです。これはなぜかと言いますと、出席簿というのがあるんですね。これは先生ももちろん出席簿つけます。生徒もみずから出席簿をつけるようになっているんですよ。その資料も実は手に入れているわけです。ですから、一人一人の先生方が本来計画で一週間に十一時間の授業があるんだけれども、実はこれ三時間しかやっていないとか、そういう実態が個々にあるわけです。私は何もこの一つ高等学校だけ、一つの定時制だけを問題にして、そしてそこにいらっしゃる先生方を一人一人処分して、その処分することが目的ではないんですね。実は東京だけでも百七十校もある定時制の問題です。これがこういうぐあいななれ合いの形になっているんではないかと思うんですね。これ全国で千百五十四校ありますね。東京が百七十校。もちろん日本の中では一番多いんです。ですから、そういう実態を一回調べていただきたい、こう思います。  それから同時に、さっき森文部大臣は小学校二年で終戦とおっしゃいましたが、私は小学校三年で終戦であります。一級違いだと思いますが、私ども高等学校へ入ったときの定時制というのは大分意味が違っているような気がするんですよ。学校へ行きたいんだけれども、家庭の事情あるいは財政的な事情でなかなか行けない。だから、働きながら勉強するんだというニュアンスが強かったですがね。最近の定時制の実態というのはやや違うんではないか。だから、先生お話の中には、授業に出ても生徒が出てこないんですわ。だから自分も休むんですと、こういう表現もしているわけですね。だから私は、定時制高等学校というのは、これからどうあるべきなのか、時代に沿った定時制高校とは何か、こういう問題について、もう一日も早く検討しなきゃいけないんじゃないか、このように考えるんです。それに対しては、これ大臣局長と両方から御意見いただきたい。
  119. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 大部分の県はこういう状態ではないというふうに思います。というのは、それぞれの府県では高等学校教育をどうするか、そして定時制教育が実態にそぐわないものは漸次急増期等に全日制へ切りかえるというような措置を講ずる等で、いわば本来の定時制の教育を行うに必要な限度内で対応していくというようなことをやっておりまして、それから、勤務時間の問題その他についても、また人事上の交流の問題についても相当意を払いながらやっているというふうに思いますが、これは都道府県教育委員会を通じて、今後、こういう国会で取り上げられたことでもございますので、十分調査をし、注意を喚起していくというようなことについては努めてまいりたいと思います。  それから、本来の定時制教育について今御指摘のありましたように、本来の趣旨と違った形でそのまま残されているというのは問題だと思うんです。やっぱりそれだけの施設を置けばそれだけの人を配置しておかなきゃならないし、しかも、それだけの人が定員割れもしないで、たくさん来ればそれでいいんですけれども定員割れの状態、そういうような状況が続いておるとすれば、いろんな転換を図っていくというようなことを講じていかなければならないと思います。  まあ、東京都については前々からの指摘があり、いろいろ指導はしてきておりますけれども、十分でなかった点もございますので、これを機会にもう少し的確にその実態把握に努めて、そして本来の定時制教育の姿で展開されていないとするならば、適切な指導をしてまいりたいと思います。
  120. 小西博行

    ○小西博行君 ちょっとさきへ返るんですがね、これは大臣の所見で結構ですが、こういう例えば計画そのもの現実とは全然違うわけですね。そういうものを都教委に出して、そしてオーケーもらうと。それによって学校の中でやっていくと。ところが現実に調べてみると全く違うと。この以前の問題は、ここの先生方が随分大勢塾へ教えにアルバイトに行っているという実態があったわけですね。ちょっとした塾ですと、大体五〇%ぐらいはこういう先生方のアルバイトだというふうに言われているんですね。そういう現実もあるわけです。こういう問題を見て、私は一番考えたのは、これはだれの責任だろうかなとまず思ったわけです。まず、一つ学校の中ですから、当然校長さんの管理、監督、指導というんですか、こういう責任には当然入るだろうと。それから、先生一人一人もこれ全く責任ないわけではなくて、当然わかってやっているわけですね。文部省はどのようなかかわり合いになるんでしょうかね、こういうの。知らないからいいということで済むんでしょうか。都教委が責任持ってやるべきだから、おれは関係ないとおっしゃるんでしょうか。私は十分責任はあると思うんですがね、どうでしょうか。
  121. 高石邦男

    政府委員(高石邦男君) 都道府県立の高等学校でございますと、都道府県が設置し管理をするということでございます。したがいまして、任命権、それから服務の監督、教育内容の具体的な展開の仕方、そういうものは全面的に都道府県の教育委員会がその任に当たるわけでございます。ただ、都道府県の委員会も、なかなかそれぞれの学校に分散しますと、的確な、適正な管理ができませんので、いろんな規則とか手続を定めまして、校長に相当な権限を与えながら運営をしていくというような形になるわけでございます。文部省立場は、逃げるわけじゃございませんけれども制度上ストレートにその学校に、こうしろああしろということは言えないし、また、教育委員会に対しても、上下の指揮命令系統ございませんので、 指導、助言、援助というような形での行政指導をしていくというような立場でございます。したがいまして、本来の制度上、学校教育法とかその他の法律に反するような事象が出てくれば、的確な指導はしていかなければならないと。しかも、それはストレートにその校長さんを呼んで文部省が調べるというわけにいかないと、あくまで都の教育委員会を通じて指導、助言をしていかなければならない、こういう制度上の仕組みになっているわけでございます。したがいまして、こういう問題を国会で取り上げられるまでもなく、それぞれの都道府県、市町村ではそれぞれの責任者があるし、それぞれの議会もあるし、そういうところで、当然こういう国会に取り上げられる以前に対応していかなきゃならない問題であろうというふうに思っております。
  122. 小西博行

    ○小西博行君 大臣、私も大臣と同じ考え方だと思うんですね。先生は一人一人立派な人格を持っておるのが当然でありますから、その中で常識の線の中でやっていただきたい、こう思うんですが、現実問題はこうだということははっきりしているわけですね。ですから、私は一日も早くその調査をしていただきたい、できれば全国やっていただきたい、こう思うんです。というのは、一番かわいそうなのは子供さんだと思うんです。いろいろ聞いてみますと、給食の時間は七〇%から八〇%来ているということを言っているんです。実際の授業になりますと、高等学校教科書でやるわけでしょう。ですから、中には九九ができない子供さんもいらっしゃるかもわかりません。先ほどの分数じゃありませんけれども、そういうことは全然できないかもしれません。そういういろんな幅のある子供さんを集めて指導していくということですからね。現在は英語なら英語あるわけですから、当然。それをそのとおりやって終わっていいものかどうか。という、私は子供さんの質の問題もあると思うんですけれども、そういうことも含めて、先生がやる気になれるような、そういう体制もある意味では必要だと思うんですね。その点をぜひお願いしたい。こういう問題は何回も何回も上がってきちゃいかぬわけです。いつも文部省の方は皆さんおっしゃるんだけれども、校内暴力どうだと言ったら、それは教育委員会です、そっちの方へ指示を与えてこうやっておりますと、こうおっしゃるんだけれども現実がよくないという事実ですね。これに対して、文部省専門家が大勢いらっしゃるわけですから、いろんな方策についてもっと具体的な指導をしてあげるべきじゃないかな、このように私は考えるわけです。もう現実にずっとやっているわけですから、あしたからやめるという保証はありません。同じことをやっているかもわかりませんよ。私はそういう意味も含めてぜひ考えていただきたい。ですから、この表は後で大臣も一回じっくり見ていただきたいと思います。試験休みの後でもずっと休んでいると。試験なんか終わったらすぐ出てきて、そして学校の中で採点して、そして、できの悪い子供さんを集めて指導してやるとか、そういうことが必要だと思うんです、ほとんど出てこないという実態があるものですから。そういう個々のものにつきましては全部資料もございます。名前もわかります。だけどもそういうのが本意じゃない。本当は将来いい方向に持っていってもらいたい。そういうことであえてきょう貴重な時間をいただいて質問さしていただきました。これもごく一部でありまして、実は、きょうは出勤日数だけについてお話をしたわけです。あとは勤務時間とか、あるいは職員の給与について、いろんなやみ給与の具体的な事例とかいうのがございます。そういう問題も、これから直らなければ次々と質問に立って解明していきたい、このように考えておりますので、一日も早く解決を望みたい、このことを申し上げまして、所感がありましたらどうぞおっしゃっていただきたいと思います。
  123. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 入手しにくい大変貴重な資料を御提出をいただきましてありがとうございました。  先ほど高石局長からも申し上げたとおり、直接文部省から手を下すということはできないことは先生も御承知のとおりでございますが、さらに東京都教育委員会に十分厳しく指導をしていきたい。また、その実態も私としてもできるだけ速やかに聴取したいなと、こう思っております。  ただ、こういうことがあったからといって、先ほど政府委員からも言いましたように日本じゅうの定時制が背こういう状況になっているとは限らないと思いますし、私ども自分の選挙区で、定時制の方に変わった先生や親しい方がいてあいさつに来られたりすると、大変だろうな、しっかり頑張りなさいよという、普通の全日制よりも勤務条件が厳しくなり、あるいはある意味では不利な面もあるわけでございますから、そういう面に関してのカバーをするいろんな諸条件がそれぞれの立場であるんだろうと思いますが、しかし、世間から見ておかしいなと、このことはきのうの私学の問題でも同じでありまして、世間が納得いくことを、まして教育立場でございますから、やっていくことが大事だと思います。文部省としても十分この問題を重要な問題だとして受けとめさしていただきたい、こう思います。
  124. 小西博行

    ○小西博行君 終わります。
  125. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 大分長い時間討論をいたしまして、私はできるだけ簡潔にいわゆる教育臨調などについて御質問をいたします。  戦後と申しましょうか、教育に関する、教育全般に関する審議会あるいは委員会というふうなものは幾つかできております。その重要なもの、主なものを挙げますと、第一には教育刷新委員会、これは昭和二十一年で、終戦の後、日本が民主主義になり従来とすっかり情勢も変わったと。その中において学校教育をどういうふうにすべきか。それを南原さんや安倍能成さんたちを中心にしてじっくり研究をして、その後の日本の教育というのは大体においてこの答申を基礎にして発展をしてきたと言えると思うんです。そして、それに対して、そういう体制に対していろいろな問題が出てきまして、それを再検討するというふうな機運が昭和四十年ごろから起こってきたように思われます。そこで、昭和四十年以後、つまり再検討の時期に入ってからの全般的な教育問題に関する審議会というものを挙げますと、これは昭和四十二年七月から四十六年の六月、四年間続きまして、中教審ですね、中央教育審議会、これが「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」という諮問を受けまして、それに対して答申をしたわけでございます。それから次には、約十年たちまして昭和五十六年十一月から五十八年十一月、これも二年間たっておりますが、これも中教審の中に教育内容等委員会というものをつくりまして「時代の変化に対応する初等中等教育教育内容などの基本的な在り方について」という諮問を受けまして、それに答申をしております。それから今度はごく最近のことになりまして、五十八年六月から五十九年三月まで九カ月間、中曽根総理大臣の私的懇談会、文化と教育に関する懇談会というものがつくられまして、我が国の文化と教育の今後の方向、あり方についてその基本をどのように考えるべきか検討し所見を述べてほしいということで、この答申も出ております、これは九カ月。それでございますから、再検討と申しましょうか、つまり最近の日本の教育について再検討をし、そして将来どうあるべきかということは、三つの委員会において実に六年九カ月の月日を経て研究、調査そして答申をされたわけでございます。  それで、ただ非常に疑問に思いますのは、最後の文化と教育に関する懇談会が我が国における文化と教育の今後の方向、あり方についてその基本をどういうふうに考えるべきかという非常に重要な基本的な問題についての諮問があったにかかわらず、最初の四年、二年という審議期間に比べましてわずかに九カ月しか討論をしないでそして答申を出されたというふうなことに私は非常な疑問を持ちます。  しかしながら、とにもかくにも六年余りの月日を投じまして日本の教育の現状と将来についての審議をされた、そして答申が出されているということは大臣御承知でございましょうね。
  126. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 美濃部先生から今御指摘がございましたように、政府といたしましてのそれぞれの教育にかかわります審議機関等の報告等は、先生の御指摘のように、承知をいたしております。それぞれの年限もかけておるということも承知をいたしておりますが、今先生からお尋ねがあったということは、総理のいわゆる文化懇談会が非常に短い期間で大事な問題をやっているという点のお尋ねではないかというふうに私は伺っておりましたが、この文化と教育に関する懇談会は総理の私的諮問機関でございまして、本来言えば、先生にこんなことを私から言うのは大変僭越なことですが、私的諮問機関というのは個人個人の先生と総理との間にいろいろな意見を教えていただく、そういうあくまでも私的な懇談だろうと。それを便宜上一緒になって同じ場所でやれと、こういうふうになることではないかな、こういうふうに思いますので、それが短いか長いかということは、これは総理あるいはその先生方がお考えになることだろうと、こう思います。  これが、法律に基づいてそしてきちっとした国の審議機関でございましたならば、今、先生から御指摘がありましたように、ほかのものはきちっと随分長くやっているのにえらいこれは短いじゃないかということは指摘できるのかもしれませんけれども、今度の文化懇は、今申し上げたように、あくまでも総理の私的な御相談、御意見を伺う方方のお集まりである、こういうふうに私は承知をいたしておるわけでございます。
  127. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 その点はこれだけにしておきまして……。  そして、こういう審議会が答申を出します。そうすると、それは政府としては大体において尊重をする、出された答申は無視するということは絶対に言わないで、答申は尊重するということをほとんどすべて、現実に言いますか言外にあるかは別として、そういうことになっていると思うんです。  それで尊重という言葉は、字引を引きますと、とうといものとして重要視するというふうに出ております。そして反対語としては、無視するというのが反対の言葉だと。そう考えますと、尊重するということは、とうといものとして重視して、できるだけ早く実行するということという意味が当然含まれているべきものであると思いますが、これから各委員会の答申のもう少し詳しい内容を言いたいと思いますけれども、この答申に沿って実際に実現された施策というふうなものは、なかなか言えないと思いますけれども、具体的にはどういうものがあると言っていいんでしょうか。
  128. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 今お尋ねは中教審の方ですね、三つすべて……
  129. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 一番目の委員会は別として、三つの委員会が討議の結果答申をしたと、その答申が実際に実現したと、あるいは実行したというものはどういうものがあるんでしょうかというお尋ねです。
  130. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 事務的なことになりますので、審議官から申し上げさしていただきます。
  131. 齊藤尚夫

    政府委員(齊藤尚夫君) 昭和四十六年の中央教育審議会答申につきましては、この答申は幼児期から高等教育までの学校教育全般にわたります改革とその拡充整備の基本方向を示したものでございます。文部省といたしましては、以来、今日まで、この答申の趣旨を尊重しまして、これを指針といたしまして各階各層の御協力を得つつ、答申に盛られた事項の実施に積極的に取り組んでまいったわけでございます。  具体的なもの、主なものを申し上げますと、第一に、小学校から高等学校までの教育内容、方法の改善、これはたびたびこの場でも御指摘ございます新学習指導要領の施行を小学校から高等学校まで、昭和五十五年から五十七年度までで実施を開始をいたしておるわけでございます。  第二は、学級編成と教職員定数の改善でございます。いわゆる四十名学級ということで第五次の教職員定数の改善計画を現在実施中でございます。その前の第四次の改善もこの答申後に行われているわけでございます。  それから第三に、幼稚園教育の普及充実でございます。これにつきましては、昭和四十七年から五十六年度まで、幼稚園振興計画を立てまして、その実行を図って現在に至っているわけでございます。  それから次に、特殊教育の拡充整備でございますが、養護学校教育の義務制の実施を初めといたしまして、特殊教育の各般の拡充整備の方策を実施いたしておるわけでございます。  それから、教職員の資質の向上と待遇改善ということで、いわゆる人確法の実施によりまして、義務教育を中心とします教職員の給与の大幅な改善を実施をいたしたわけでございます。  それから、高等教育の改革とその計画的な充実整備ということで、高等教育に関します整備計画を前期及び後期ということで、後期については現在実施中でございます。  それから、私学助成の拡充でございます。これは、昭和四十五年度から、大学につきまして国が実施を開始をいたしましたが、昭和五十年度には私立学校振興助成法の成立を見まして、高等学校以下の私学についても国が助成をするということを行っているわけでございます。  それから次は、奨学事業の拡充でございますが、昭和四十九年度から私大奨学事業ということで有利子の援助事業も開始をいたしました。今回の法案として提出しておりますものは、それをさらに拡大をするというものになるわけでございます。  それから、大学入学者選抜の改善につきましては、共通一時試験を中心といたしました改善策が行われておるわけでございます。  主なものを申し上げさしていただきました。
  132. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 二重になるかもしれませんけれども、私が各審議会の提出した答申の中から重要だと思われるものを引き抜いてみますと、第一の「今後における学校教育の総合的な拡充整備の基本的施策について」の中教審の答申の、主として初等・中等教育については、まず四、五歳児から小学校の低学年まで、その間の教育の一貫性ですね。つまり保育所、幼稚園と、それから小学校の低学年と、その間には非常な共通性があるんだけれども、それが断絶していると。それについての問題。それから、中等教育である中学校とそれから高等学校、これが分割されていると。これはどういうふうに区切るべきかということが非常な問題なんだということが指摘されております。それから第三に、個人の、生徒生徒が非常に多様性な性格を持っていると。そうすると、それに画一的な教育で対応すべきではないんで、どういうふうな多様的な教育を施すべきかということが問題だと言っております。それから公教育−小学、中学の公教育の質的水準をどういうふうにして向上をしていくか。それから、前に戻りますけれども、幼稚園教育をどうすべきか。それから心身障害児の特殊教育をどうすべきか。その他たくさんございましたけれども、主なものを挙げると−また高等教育に対しても提言がありますけれども、これは今は除きますが、大体においてこういうふうな問題について一応の、何といいますか、具体的な対策というものも挙げて答申をされているわけでございますけれども、その点私の申しましたこと、非常に間違っているところがあるでしょうか。
  133. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 先ほど齊藤審議官が申し上げまして、大体谷中の趣旨に沿いまして実施をいたしましたものというのを御説明申し上げました。今先生がおまとめになりました高等教育などは除いてのものでございますが、大体御指摘の点は私はそのとおりだろうと思います。したがって、その中で先生がおっしゃいました、保育、幼稚園、小学校の前半のところ共通したものがある、ここに教育の一貫性ということを指摘している、中等学校高等学校の分割、これをどのように区切るべきか、そして学校がやっぱり画一であってはいけない。私は先生の御分析どおりだろうと思います。したがって、中教審でほぼ大体その趣旨に沿って実施をいたしておるわけでございますが、最終的にどうしても合意に至らなかった、実施に至らなかったというものは先導的試行というところ、これは先ほど先生の御指摘のところ、もう一つは幼稚園のところ、あるいは幼稚園、公立と私立の学校のいわゆる地方教育行政の一元化の問題、いずれも大体先生が御指摘なさいましたところだけが残っているというふうに我々も解釈をしているわけでございますが、それはそれなりにいろんな当時の社会的な背景あるいは世論形成がそこまで到達し得なかった、そんなことに起因していて、そのまま残っていると、こういうふうに理解していただけたらと思いますが。
  134. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 くどいようですけれども、今度は中教審の教育内容委員会という、これもなかなかいい答申をしておりますんで、重複する……ぼくの言いたいことは、こういう三つの審議会で十分に何年も議論をして、そうして答申をしたと、それ以上に一体今度つくろうという教育審議会で何をおやりになるのか、それをお聞きしたいんで、それ以前にこの各審議会で何が討論されたかということを簡単にまとめておきたいと思うんです。  それで今の教育審議会の教育内容委員会、これは同じようなんですけれども、「時代の変化に対応する初等中等教育教育内容などの基本的あり方について」と、全く前と同じような表現でございますが、しかし、その答申の内容は若干違っておりまして、まず最初に歴史的に、日本の教育の歴史的な回顧と申しましょうか、歴史的な発展の状況を調べて、それで今度は欧米諸国の状況を調べて、そうしてそれと日本とを対比するという方法をとっております。それから具体的には、教育に関する基本的な問題というのは、各教科ごとに国語教育はどうあるべきか、社会教育はどうあるべきか、歴史教育はどうあるべきか、数学教育はどうあるべきか、理科教育はどうあるべきか、道徳教育はどうあるべきか、外国語教育はどうあるべきかというふうに科目別に割合に詳しくどうあるべきかということを言っております。そしてこれは前と同じですけれども、幼稚園を中心とする幼児教育、それから小学校教育、それから中学校教育高等学校教育との連携、これはいずれも問題になっていて、十分に実現……、非常に難しい問題だと思いますけれども、その間の接続性の問題も考えております。それからこれは今度初めて出てきたんですけれども高等学校及び大学の入学選抜制度、これを考慮しなければならないと。それから今度は、このころになりますと新しい問題が出てまいりまして、児童生徒の問題行動、それから過熱した受験競争、それから学校教育の画一化、硬直化等について答申をしております。それから初等・中等教育における教科目の構成をどうしたらいいか、そういう答申がございます。これもまた重要な点で抜けているところもあるかと思いますけれども、そういうところがございませんでしょうか。
  135. 齊藤尚夫

    政府委員(齊藤尚夫君) ただいま第十三期の中央教育審議会の中に設けられました教育内容等委員会の審議経過報告につきましてお話がございました。これは先生御指摘のように、時代の変化に対応します今後の学校教育の中で主として教育内容を中心に検討を行ったものでございますし、またこれは答申の段階に至りませんで、ただ任期二年が終わるという段階で、これまでの審議の経過を公表するというために作成されたものでございまして、まだ答申に至っていないということをまずお含み置きをいただきたいと思います。  さきに御説明いたしました四十六年の答申は、いわば高度経済成長の時期それから拡充整備の時期に学校教育のあり方について検討していただいたものでございますが、その後、時代の変化もございまして状況もかなり変わってきておる、四十六年答申に盛られた事項につきましてもいわば今日的視点に立って検討しなきゃならぬという点もございますので、教育内容中心ではございましたけれども、いわば学校教育のあり方につきましても先生御指摘の当面する諸問題について御議論いただいたという、そういう経緯が報告をされているわけでございまして、まだ中央教育審議会として文部大臣から諮問されたことについての結論が出ているものではないわけでございます。
  136. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 それから最後に、中曽根さんの私的機関である文化と教育に関する懇談会、これは先ほど個人の討論だというふうなお答えでございましたけれども、なかなかそうではなくって、それぞれの非常にいい見解が述べられているように私には思えて、教育問題を考える上において非常な指針になるのではないか。単に首相と委員の間の個人的な談話という域を超えているのではないだろうかというふうに思います。  それで、この懇談会は若干違ってまいりまして生徒たちの非行、暴行、落ちこぼれ等、それに対する教育の立ち遅れというところに問題の焦点がある。それで、この問題は一過性のものではなくって構造的なものであると、私も全くそう思うんです。それでそういう問題が起こってくる原因としては幾つか、四つくらい挙げておりまして、一つ受験体制教育、つまり受験を目標としている教育ですね。それの弊害というのを第一に挙げ、第二に画一教育弊害、つまり画一的な教育とますます多様化する生徒考えとの間の何といいますか、ギャップ、そういうことから生ずる問題、それから社会風潮というのは、つまりそうではなくって、今まで考えたこともないような社会的な雰囲気、その中における学校教育のあり方と、それから、前の問題になりますけれども、それとそれから学生生徒の間のいろいろなギャップがある。それから、ここでもまた出てくるのは幼児期の教育はどうするか。そうして家庭教育とのつながりということが問題とされております。それから、社会教育改革の方向と大きな課題として、これも、これは前から出ております零齢児から幼児の教育をどうするか。それから義務教育——中学、高校の接続の問題ですね、義務教育の意義と内容を再検討する。それから、中等教育は非常に難しい年齢で、非常に難しいにもかかわらず、その中等教育において有名大学への進学志向が非常に強烈である。それから、いわれなき差別教育というのは偏差値による輪切りのことだと思います。それから人並み意識からの平等、画一性、そういう問題がある。それから大学教育については大学相互の間に単位を相互認定すること、それから、入学試験を大切にするよりは、入学後の教育を厳しく考えること、それから一般教育と専門教育を統合した大学教育内容とすると、そういうことを述べております。  これは、この懇談会の答申は、なかなか何といいますか、適切であって、私はこの三つの今ちょっと述べました問題点、これが今我々の当面する教育問題のほとんどすべてを網羅しているのではないだろうかと、それをもう一度繰り返して初めからやり直すというのはむだなことであって、その問題と思われる点はもうある意味においては討論し尽くされたことであって、今後はもう実行と、実行があるだけではないだろうかと、そう思うんですがね。
  137. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 美濃部先生の今の三つの審議会で十分検討ができて、これ以上、大体のことは網羅されているわけだから、新しい審議会の必要がないのではないか、こういうお説であるというふうに受けとめました。  中身といたしましては仰せのとおり一、二、三、この審議会あるいは懇談会、これが一つ教育改革に対する、教育全般に対する見直しといいましょうか、そういう示唆を、方向づけを与えてくれているものと思いますが、二つはもう今さら言うまでもありませんが、国会の答弁ですから確認する意味で、これは国の審議機関として法律の中ででき上がった機関として議論をいただいたものでございますし、最後の文化懇の方は総理の私的諮問機関として行われたものでございます。先ほど、ちょっと先生からおしかりでもございませんでしたけれども、総理との個人的な懇談会で内容は大変立派だ、こうおっしゃいましたが、私は内容のことを触れたのではございませんで、そのシステム、組織上のことを申し上げたわけでございまして、内容は大変貴重な示唆に富むものが大変多い。これは、端的に申し上げると、むしろ前の二つのものよりも現代的である、今日的問題が非常に多くありましただけに大変参考になる資料であるというふうに思います。  そこで、私どもは今この設置法をお願いをいたしております新しい臨時教育審議会は、たびたび国会の御答弁でも申し上げてまいりましたが、今までのものを決して無にいたしておるものではございません。中教審の今まで盛り上げてくださったこうした議論をまず踏まえて、ゼロからのスタートではなくて、そこからスタートさせるということも申し上げてまいりました。そうして、多くのいろんな御意見もたくさんあるでございましょうから、そうした御意見を参考とさしていただく。それはもちろん、審議に加わる先生方がいろいろとお考えになることであるということは言うまでもないことでございます。私どもといたしましては、そういう教育に対する方向づけはいろんな角度から提案をされているわけでございますが、社会の変化に対応して、これから二十一世紀に生きていく子供たちに対する教育のあり方というのは一体どういう制度がいいんだろうか、そういうことをもう少し、単に学校教育だけではなくて、ゼロ歳から生涯教育全般にわたります教育全般に対することを対象としていかなければならぬということが一つ挙げられますし、またそれに伴いまして、例として挙げると、そこだけ取り上げられると、またいろいろと御意見も出てくることでございますが、いろんな行政の各機能とのかかわり合いというものも出てまいりますので、今までのような教育だけのベースで考えるのではなくて、やはり社会全体の構造の中で取り組んでいくということが、今日的な要請にこたえることになるのではないだろうか。もう少し中身に入って申し上げれば、文部省固有の事務だけではなくて、関係の行政各部との施策との関連も十分考慮して総合的に検討していかなきゃならぬということ。  それから、実行段階のことというふうにお話がございましたけれども、やはりこれは長期的な観点に立つことと、政府全体としての責任で行うということも、私は大事な、確かに今先生がおっしゃったとおり、これまでのことを実行段階ということであるならばなおのことそのことを踏まえて、今日的な問題も加えながら、政府全体として受けとめていくということが大事な取り組む姿勢でなければならぬ。こういう意味で新しい審議機関をお願いをしているわけでございまして、全体的な物事の教育全体に対する見方、文化全体に対する見方の検討の角度や審議の視点を少し変えてお考えをいただくということが最も適切ではないか、こういうふうに考えておりますので、これまでの審議機関を無視したり、あるいはそのことが全く無意味だということではないんだというふうにぜひ御理解をいただきたいと思います。
  138. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 それで、今までの審議会で問題になった点、そうしてそれは今我々が当面している日本の教育における問題点だろうと思うんですけれども、そういうふうな問題点を具体的に列挙してみますと、共通一次をどうするか、それから偏差値による切り捨ての問題はどうか、それから、たびたび出ております教育の画一化と硬直化、それからそれと画一化と関連する教科書の検定の問題、これは重大な問題でございますけれども、それから、学校教育における、というよりは学校における統制の強化、これはどういうふうに考えるか、それからマンモス学級の問題、そうして三十人教室の実現はどうなっているか。それから、これは事実どのくらい進んでいるのか私にはわかりませんけれども、教師の暴力、これが相当激しいものだと。私など先生に殴られたなんという覚えは全然ないんですけれども、八十何%が先生に殴られたという子供がいるとか、教師の暴力も問題だ、それから落ちこぼれの問題、これと関連して校内暴力、校外暴力、それから家庭内の暴力、それから登校拒否、そのほかにもあると思うんです。  しかしながら、具体的に個々の問題としては、私は各審議会で相当突っ込んであれするけれども、これらの問題はそれぞれ互いに関連し合っている、密接に関連し合っている。そうして、それが一過性でない構造的なものになっている。それは、これが一つの何といいますか、体系と言うのも変だけれども一つのものになって互いに関連し合って、そうして教育の荒廃化を進めていく。  そこで、個別の研究は相当進んでいるんですけれども、その間がどういうふうに連関しているか、その点になりますとまだまだ分析が足りないんじゃないだろうか。それだから、もし教育臨調をされるとするならば、これを個別的にこういう問題に当たられることも非常に大切であり、また、それが出発点にならなければならないと思うんですけれども、その全体の連関ですね。連関性、これを明白にして、いただきたいということをお願いいたしまして、私の質問を終わります。もし御感想があったらば。
  139. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 大変示唆に富むいろいろと御指摘をいただいたり、また、これまでの審議をちょうだいをしましたそれぞれの先生方の御意見等もおまとめいただきまして、先生のお考えも十分この中に含まれていただきまして、大変私も参考になりました。  ただ、新しい審議機関はどのようなことを審議するかは、新しい諸先生皆さん方で十分御議論をいただくということになりますので、こうした国会での議論やら、社会でのいろんな教育に対する提言、こうしたことを十分にその審議に加わる方々はお酌み取りをいただいて、この種の問題を大事に考えて御討議をいただけるんではないか、そういうふうに期待をいたしまして、ただいまの先先のいろんな御意見を十分に文部大臣としても大事に受けとめていきたいと思います。ありがとうございました。
  140. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 他に御発言もなければ、これをもって昭和五十九年度一般会計予算、同特別会計予算、同政府関係機関予算中、文部省所管についての委嘱審査は終了いたしました。  なお、委嘱審査報告書の作成につきましては、これを委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  141. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。     —————————————
  142. 長谷川信

    委員長長谷川信君) この際、委員の異動について御報告いたします。  ただいま中村哲君が委員を辞任され、その補欠として大森昭君が選任されました。     —————————————
  143. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 次に、国立学校設置法の一部を改正する法律案を議題といたします。  質疑は既に終局いたしておりますので、これより直ちに討論に入ります。−別に御意見もないようですから、直ちに採決に入ります。  国立学校設置法の一部を改正する法律案に賛成の方の挙手を願います。    〔賛成者挙手〕
  144. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 全会一致と認めます。よって、本案は全会一致をもって原案どおり可決すべきものと決定いたしました。  なお、審査報告書の作成につきましては、これを委員長に御一任願いたいと存じますが、御意識ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  145. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。  本日はこれにて散会いたします。    午後零時三十九分散会      —————・—————