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参考人(北條舒正君) ただいままで三人の
参考人の御
意見、私も承っておりましたが、きょう五人
出席されておりまして、私以外はそれぞれの
立場をある
意味で代表されて出ていると思いますけれ
ども、私はそういう
意味ではないと思って
かなり自由な
意見を述べさせていただきたいと思います。
最初に私の専攻を申し上げますと、私は化学でございまして、自然科学の分野でございます。したがって、この分野に学生を送り出すときにどういうことを考えなくてはいけないかということで、私自身が従来考えておりますことを
中心に述べさせていただきます。
また、本日
出席の原因の
一つは、経済
学部が特殊なやり方をやっているということで、これについての御質問は後で出るかもわかりませんけれ
ども、そういったことについて簡単に触れさせていただきたい。と思います。
まず、いろいろ
入学試験の問題について
議論がされておりますが、できればてんなものはないにししたしとないわけでございます。しかし、
入学試験をやるというには、それなりの理由があるわけでございまして、例えば
大学ですと、
大学教育にどのような資質の人を入れれば将来非常に国家的に役に立つ、そういう人材になるという見通しのもとで
入学試験がやられるわけでございます。
当然中学あるいは
高等学校でそのまま卒業する方もあるわけですから、先ほどの
高等学校側の御
意見にございましたように、正常な
教育を確保する、これは私は絶対必要なことだと思います。その正常な
教育を確保できない理由が
大学入試にあるとすれば、これはどうすべきかということをまた考えていかなくちゃいけないと思います。
それで、問題は
大学入試でございますので、
大学で
入試をやる場合に、先ほど申し上げましたように、
大学教育を受けようというのは、卒業してから
社会に出て三十年、四十年活躍できるいろんな資質を養成したいというのが、
受験生の本当の希望ではないかと思うわけでございます。
大学側もそういった
意味での
教育をやっていかなくちゃいけない、そう思うわけでございますが、そうしますと、それは何かという問題になります。それからまた、卒業して五年、十年は非常にいい
教育をしてくれたけれ
ども、十年過ぎたら
大学で学んだことは全く役に立たない、こういうことではいけないわけでございまして、我々はできるだけ息の長い、また応用のきく基礎的なものを
大学時代に養成するというのがその
目標にあると思っております。
卒業後の
社会で云々という場合には、その卒業した時点から三十年、四十年の
社会がどうなるかという見通しを持たなくてはいけないかと思うわけでございますが、これはその判断は非常にむずかしいわけで、単に我が国の将来だけではなしに、世界の国々がどういうふうに変わっていくかということも予知しておく必要があるわけでございます。
これは適当な表現ではございませんけれ
ども、かつて中学卒あるいは
高等学校卒というのは金の卵で、企業が非常に求人を求めたんでございますけれ
ども、この二、三年はその様子が非常に変わってまいりました。この理由はいろいろあるかと思いますけれ
ども、私は、ロボットとかあるいは
コンピューターが非常に進んでまいりまして、そういった分野の仕事をする人は余り必要なくなったというような
意味ではないかと思うわけです。もしそうでありますと、やがてこの波は
大学卒に対しても及んでくるわけでございまして、ただ
大学を出たからそれでいいというわけにはいかないと思います。そういう
意味で、常にその
教育について、我々は当然
大学の
人間として考えていく必要があると思います。
また同時に、同じ
教育をしても、それぞれの
高等学校までの勉学過程によって、同じ
努力でも非常に成果が上がる場合と成果の上がらない場合があるわけでございまして、
入学試験というのは、そういったものを何とか区別したい、そして選択したいというのが
大学側の希望ではないか、こういうふうに思っております。
コンピューターはますます
進歩してまいりますから、これに対して
人間が太刀打ちするためには、いわゆる
コンピューターの及ばない分野、
コンピューターの不得意な分野で才能をつける、
教育をする、そういうことが必要ではないかと思います、これは、ある
意味では創造的な分野、また既成のいろいろな概念にとらわれないような
考え方、こういったことを養成しなくてはいけないと思いますが、表現をかえますと、あるいは
個性的と言えるのかもわかりません。
また、
大学というのは、私は、
考え方を学ぶところであって、単にいろいろな基礎知識とか原理を詰め込むところではない、こう思っております。毎年
入学式になりますと、私は、
大学は
考え方を学ぶところであって、
考え方というのは自分でやらない限り身につくものではない、したがって、
大学というのはみずから学ぶところであって、決して先生が無理して押し込んでくれるところではないということを言っております。
この創造性という問題について私は、もう二十数年前だと思いますけれ
ども、ある脳のサイエンスの本を見ておりまして、これは素人向きに書いてございますし、私にはこの創造性という問題を考えるには都合がよかったので私なりの解釈をしておりますけれ
ども、例えばいろいろな記憶とか思考をつかさどる脳の
部分、これは大脳の一部だと思いますが、その中でこういった問題をつかさどるのを一〇〇といたしますと、まとまった原理とか思想、これを系統的に入れることができるのは約一〇%前後というふうに書いてあったように思っております。そうしますと、いわゆる
学校教育で入れるのは、この一〇%前後のところで一生懸命やっているわけで、もし
学校の
成績云々とすれば、我々は実際その一〇〇の中で一〇のところの
成績でもっていろいろ
評価をしているのではないかという気がいたすわけでございます。むしろ、あとの九〇%の非常に雑然として入っています何も
意味のない点の集合、これをいかに
組み合わせて
一つの考えを持ち出すか、これが創造につながるんではないか、これは私の勝手な考えでございますけれ
ども、そういうふうに思って学生の指導をやってきたわけでございます。
また、これもやはり二十数年前あるいは三十年ぐらい前かと思いますけれ
ども、自然科学をやっている人たちの一生の中で最もすぐれた仕事をした年齢というのが統計で出されておりまして、これを見ますと、これは学問分野によって違いますけれ
ども、例えば数学とか物理、この分野では、その人の一生のうちで一番すぐれた仕事をやった年齢というのが二十歳前後でございます。それから、化学になりますと、これは少し実験技術というのが必要になりますから、その技術を習得する年限がかかります。これでも約三十歳前でございます。そうしますと、これは統計だけの問題ですから一概に言えることはできませんけれ
ども、なぜ二十前後でそういうようなすぐれた考えが出てくるかというと、私は余り既成の概念を押し込まれていないということと、
考え方が非常に柔軟な年齢であるということ、そういうことに原因しているのではないか、こう思っております。そういった
意味から現代の
学校教育がどうかということもやはりお考えいただかなくてはならないんではないかと思っております。
それから学問として、例えば自然科学と人文
社会系とでは、物を考える、それは変わりないと思います、
考え方としては。ただ、ベースになっているものが若干違うんじゃないか、そういう気がいたします。例えば自然科学の場合ですと、自然科学のいろいろなルールを勉強するのが自然科学の学問でございます。これは
人間の都合よくできているわけじゃございません。地球が発生して今日に至っておりますけれ
ども、それは自然の勝手でいろんなルールで動いておるわけでございまして、
人間の都合よくできていないわけでございます。だから私は、学生あるいは弟子たちに、僕の考えにこだわるな、こんなものは無視しろということを常に言っておるわけでございまして、これは既成概念にとらわれないということの中からいろいろなすぐれた発想が出てくるものと思っております。人文
社会系がそうでないといえばおしかりを受けるかもわかりませんけれ
ども、それよりも極端ではないかという気がいたします。
このように
大学教育を考える際に、もし
高等学校までの
教育が、先ほど御指摘にございましたような本来の
学校教育の
教育が確保できておれば問題ないと思いますけれ
ども、もし
入学試験でそれらがゆがめられているということになりますと、これをどうするのかということも考えていく必要があると思います。
時間の関係ございますのでいろいろ申し上げることはできませんが、そういったことで今度信州
大学で
個性派学生云々ということがございますけれ
ども、これは私が指示してやれと言ったわけでございませんで、経済
学部の先生がみずから
検討して進めたものでございます。しかし、私もそれよりも前に違ったやり方でそういうことをやった経験がございますので、それらを含めてちょっと御報告いたしますが、信州
大学の経済
学部が発足して、これはまだ時間がちょっとたっておりませんけれ
ども、発足当初は非常に
志願者が多かったんですけれ
ども、だんだん減ってまいりました。今回のようなやり方をやったのが五十八年度でございますが、五十七年度は
志願者が一・六倍、しかもその中で三十数名が辞退をしているということで非常にショックを受けまして、先生方は何とかしなくてはいけないということから思い切ったやり方を始めたと思います。それが新聞紙上等でいろいろ言われておりますけれ
ども、私としてはこれはそっとしておいていただきたいというのが本心でございます。ということは、あのやり方が絶対にいいということは言えるはずはございませんし、また我々としては不安な気持ちでやっている面がたくさんございます。そういう点で、非常にいろいろなところで報じられまして実は戸惑っているわけでございまして、
国大協の中では、私は、そっとしておいてほしい、これがいいということがわかりましたらまた御報告申し上げますから、ひとつそっとしておいていただきたいということで、
国大協の中では余り
議論はされておりません。
これは簡単に申し上げますと、先ほどちょっと
個性的
個性的ということを申し上げましたが、
入学生の半分を従来の方式で合格者を決める、それからあとの半分は何らかの形で、ある特殊な分野にすぐれた能力があればそれを採用しようというのがその骨子でございます。少なくとも五十八年度は、その後の経過を見ておりますと、やや我々の
目標とした学生が採用できたという気がいたしますけれ
ども、これはこのままのパターンを続けますと必ずまたひずみが出てまいります。来年度といいますか、五十九年度は五十八年度と同じやり方をやっておりますけれ
ども、というのは、
高等学校で信州
大学の経済
学部に入るにはこれだけやればいいというふうな勉強をされた者を入れたといたしますと、これは非常な問題が起こるわけでございます。例えば、御存じと思いますが、教養部というのがございまして、教養部というのは
学部と全く関係ないわけです。教養部の方はある
程度まんべんなく習得してもらわないと上に上げないわけで、経済
学部の先生がいかに頑張っても、これは教養部を出さないと言われたらしまいでございます。少なくとも五十八年度の
試験については、ある
程度まんべんなく勉強した人の中から採用することができたわけでございまして、これが経済
学部向けに
受験勉強やられますと、ちょっと困るわけでございます。先ほど来いろいろ
意見が出ておりますが、私は
入学試験というのはこれはもう永遠のテーマであって、決して永続する理想的な案というのはあり得ないと思っております。それからまた、こういう表現は適当でないかもわかりませんけれ
ども、高校生と
大学側と綱引きをしているみたいなもので、少し悪い表現になりますと、まあ闘っている。で、
受験生の側には
高等学校の先生方が、それから強力な
受験産業というのがありまして、もう
大学の裏表を全部知り尽くして、こうやれば入るというような
方向を御指導されているんじゃないかと思いますが、ところが
大学側はそういう対応ができないわけでございます。
国立大学の場合ですと、三年前にこういう
試験をやるということを明らかにしなくてはいけないわけです。そうしますと、手の内はそれを読んでちゃんとこういう対応をされるわけで、だから
入学試験というのは常に
受験生と
大学側との競合である、そう思っております。ですから、
一つの
方法がいつまでもいいということは考えることはできないと思いまして、その時期その時期に合ったやり方をやらざるを得ない、それができるのはやはり二次
試験であるというふうに思うわけでございます。
それで、ちょっと信州
大学のほかの試みを申し上げます。先ほどちょっと私申し上げましたが、実は私は学長になる前は、一番
国立大学の中で不人気ナンバーワンということになっております信州
大学の繊維
学部の
学部長をずっとやっておりました。それで、先ほど私が申し上げましたように、自然科学をやるにはこういう人でないと困る、こういう人も必要じゃないかということから、
学部長になってすぐ推薦
入学を始めました。これは五十一年でございます。これは、
高等学校の
教育が
受験に偏っているということは申し上げませんけれ
ども、しかし、そういう面もやはりあるんじゃないか。それにある
程度影響を受けない人を何とか入れてみたら違った人材が養成できるんじゃないがという気持ちでスタートしたわけでございます。
これも実は、経済
学部は半分と言いましたが、私も実は半分採りたかったわけです。ところが、
学部の教授会は、いや半分は多過ぎる、しかし一〇%ぐらい採ったのではあとの九〇%の中にいつの間にか入ってしまってその特色が出ないんじゃないか、だから特色を出せる
程度の
集団にしなくてはいけないというので、三分の一を予定いたしました。これは三三%でございます。五十一年からやっておりますけれ
ども、この三年間、これは最初は、当初二
学科から始めまして、現在
大学科ございますけれ
ども、全部六
学科もうその
制度を採用しております。五十七年、五十八年、五十九年の
志願者等見ていきますと、五十七年が百七十二名です。これは実は、新聞紙上で信州
大学繊維
学部はワーストワンで〇・六と言っておりますけれ
ども、この推薦
入学だけですでにそれを超しているわけです。この数は出ておりません。ですから、
共通一次云々の中で——何も私は繊維
学部を弁護するつもりはございませんけれ
ども、百七十二名受けておりますし、その次の年は二百名です。ことしは二百四十八名。ほとんど推薦
入学で定員いっぱいになるだけ
受験生が来ているわけです。この連中は三分の一しか入りませんから、残りはどこへ行くかというと——残りの約二割ぐらいしか繊維
学部を受けません。私は、その八割はほとんど私立
大学の方に行くんじゃないかという気がいたします。
それから、採用してしばらくしまして、いわゆる
個性派云々という例も感じまして、よかったなとは思っておりますが、一方、同じように農
学部でも推薦制をやっておりますが、これは
学科の数が三つで、
入学定員の合計が百十五名で、しかも一割ということでございますから、最高十二名しか
入学できないわけでございます。この
受験生を見ますと五名、四名、一番多いときで十一名、こういう数でございまして、こちらの方は
共通一次を課しているということから、
共通一次に対して
受験生が余り好まないのだなということは言えるかもわかりません。
私は、一番大事に思っておりますことは、そのほかにこれは
入試には関係ございませんけれ
ども、
大学の実態ということをぜひ理解いただきたいという中でいろいろ申し上げたいことがございます。
私は、戦争中に学生でございまして、戦争中にすでに
日本で石炭の液化というのはできたわけでございます。これはドイツのいろいろな技術を
導入して
日本で液化やったわけでございますが、あれから四十年もたって、なおる炭の液化が世界中でできないというこの事実は、やはりわれわれは考える必要があると思うんです。
一番問題なのは、そういう自然科学というのは、何か本に書いているのをだれでもやればできる、こう思っておりますけれ
ども、そうじゃなしに、どうしても先生から弟子に体で伝えていく、そういう分野がございます。
また、もう
一つは、石炭液化の研究者がいないわけです。根が絶えている。こういうことは国家的に見て非常に私はゆゆしき問題だろうと思うんです。
ですから、
一般の人の
社会常識と
大学の
考え方とを——もちろん
大学は
一般の人たちの
意見を聞く必要はない、そういうことは思っておりませんけれ
ども、
一般の常識でもって
大学を規制してしまうということだけはひとつ考えていただきたいと、そう思うわけでございます。
いろいろございますけれ
ども、時間がちょうどぐらいでございますのでこれで終わらせていただきます。
ありがとうございました。