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1984-02-28 第101回国会 参議院 文教委員会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十九年二月二十八日(火曜日)    午後一時二分開会     —————————————    委員異動  一月十二日     辞任         補欠選任      秦野  章君     井上  裕君  二月二十三日     辞任         補欠選任      杉山 令肇君     梶木 又三君  二月二十四日     辞任         補欠選任      梶木 又三君     杉山 令肇君  二月二十七日     辞任         補欠選任      小西 博行君     関  嘉彦君     —————————————   出席者は左のとおり。     委員長         長谷川 信君     理 事                 杉山 令肇君                 田沢 智治君                 久保  亘君                 吉川 春子君     委 員                 井上  裕君                 藏内 修治君                 山東 昭子君                 世耕 政隆君                 仲川 幸男君                 林 健太郎君                 柳川 覺治君                 粕谷 照美君                 中村  哲君                 安永 英雄君                 高木健太郎君                 高桑 栄松君                 関  嘉彦君                 美濃部亮吉君    事務局側        常任委員会専門        員        佐々木定典君    参考人        国立大学協会理        事        (名古屋大学学        長)       飯島 宗一君        日本私立大学連        盟会長        (慶應義塾長)  石川 忠雄君        全国高等学校長        協会会長        (東京都立墨田        川高等学校長)  増田  信君        信州大学学長   北條 舒正君        京都市立芸術大        学教授      佐藤 雅彦君     —————————————   本日の会議に付した案件 ○理事補欠選任の件 ○参考人出席要求に関する件 ○教育文化及び学術に関する調査大学入試制  度の改善に関する件)     —————————————
  2. 長谷川信

    委員長長谷川信君) ただいまから文教委員会を開会いたします。  まず、委員異動について御報告いたします。  昨二十七日、小西博行君が委員辞任され、その補欠として関嘉彦君が選任されました。     —————————————
  3. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 次に、理事選任についてお諮りいたします。  委員異動に伴い現在理事が一名欠員となっておりますので、その補欠選任を行いたいと存じます。  理事選任につきましては、先例により、委員長の指名に御一任を願いたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  4. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 御異議ないものと認めます。  それでは、理事杉山令肇君を指名いたします。     —————————————
  5. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 次に、参考人出席要求に関する件についてお諮りいたします。  教育文化及び学術に関する調査のうち大学入試制度改善に関する件について、本日の委員会にお手元の名簿の五名の方を参考人として出席を求め、その意見を聴取いたしたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  6. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 御異議ないものと認め、さよう決定をいたします。     —————————————
  7. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 教育文化及び学術に関する調査のうち大学入試制度改善に関する件を議題といたします。  本日は、ただいまお決めいただきました参考人の御出席を願っております。  この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。  皆様には御多忙中のところ当委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。  当委員会は、教育文化及び学術に関する調査を進めているところでございますが、本日は、皆様方から大学入試制度改善につきましてそれぞれ忌憚のない御意見を承りまして、本調査参考にいたしたいと存じますので、どうかよろしくお願いを申し上げます。  つきましては、議事の進行上、名簿の順でお一人二十分程度意見をお述べいただき、その後、委員の質疑にお答え願いたいと存じます。  それでは、まず飯島参考人からお願いいたします。飯島参考人
  8. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) きょうは大学入試制度改善に関する件について意見を申し述べよという御要求でございますが、私は現在国立大学協会に在籍をしておりますので、国立大学は、御承知のように、いわゆる共通一次試験ということを行いまして、それと二次試験との組み合わせ入学者選抜を行っております。改善お話に入る前に、この共通一次試験国立大学協会として導入をいたしました経緯、その後の推移等について若干申し上げたいと思います。  この共通一次試験導入されたのは昭和五十四年でありますが、それに先立って、昭和四十六年前後から入学試験改善の問題が起こってまいりました。当時は、現在と同じようにやはり国立大学中心とする入学試験の問題についての世論が大変沸騰いたしまして、国立大学もそれに対応して入試制度改善することを決めたわけでありますが、その背景といたしましては、一つには大学進学率が急に上昇したことが挙げられます。御案内のように、昭和三十年には大学進学率は約一〇%でありましたけれども、四十一年には約一六%、五十一年には三八%というふうに上昇いたしまして、大学入試機会に関する一般社会関心が急速に上昇すると同時に、入学試験困難性あるいはその問題点等関心を引くようになりました。あわせていわゆる第一次ベビーブームのピークが昭和四十一年でございまして、この当時大学への合格率はそれまで七〇%程度であったものが急激に六二%まで低下をいたしました。  これに対応して国公私立大学とも入学定員の拡大を図ったのでありますけれども昭和三十年と昭和五十年とを比べますと、私学においてはこの二十年間に入学定員三十万人から約百三十万人に、つまり百万人の入学定員増加があったのに対して、国立大学では十八万人から三十五万人まで、つまり十七万人の増加があったにとどまりましたので、この大学入試機会に関する社会関心の高揚の中で、特に国立大学入学試験の問題というのはさまざまな議論の対象になり、難問奇問の問題、高等学校教育に与える影響の問題、あるいは受験生のロードの問題等が今日同様にさまざまに議論されたわけであります。  それと並行いたしまして、それまで国立大学では一期校、二期校という制度がございまして、そして入学試験を二期に分けて行っておりました。ところが、御承知のように一期、二期校の間には学校あるいは学部別かなり強いアンバランスがございまして、一期校に対して二期校は、多くの場合、入学予定者の十倍、二十倍あるいは学部によっては四十倍の志願者を処理しなければならない、しかもそれも短期間に限られた時間の中で選抜を行わなければならないという事情がございまして、特に二期校においては一期、二期校に区別をして従来行ってきた大学入試の問題の改善を望む声が強かったのでございます。また、社会的には何となく一期校の方が一流の大学であって、二期校の方がそれよりも少し格の落ちる大学であるというような、真実からはやや外れた見方がございまして、そのために二期校当事者としては苦労するところが甚だ多く、したがって国立大学協会の中では、共通一次を含めた大学入試改善検討に入る以前に、長期にわたって一期校、二期校問題の合理的解決のために、さまざまの検討を加えてきたのでありますけれども、なかなかその合理的な解決が見つからないという背景の中で、今申し上げたような進学率の急上昇に伴う大学入試改革を迫られるようにたったわけでございます。  そこで国立大学協会では、この問題のための特別委員会を組織をいたしまして、入学試験制度いかにあるべきかということを討議したのでございますが、結局のところそのときの議論では、大学入学試験はなるべく多面的な方法、多面的な要素によって志願者を選考することが望ましいということで、学力の問題、内申書の問題、推薦制度の問題、あるいは学力試験によらない口頭試問小論文等形式等がつぶさに検討されたわけであります。その結果、大学入学試験方法をなるべく多様化し、入学試験にゆとりをつけるための一つ方法として、諸外国で行っている方法あるいは日本でも以前に能検テスト、さまざまな類似の試みがありますけれども、その結果をも参照して、現在の共通第一次試験、それを終わった後で各大学が二次試験を行うというシステム導入することに踏み切ったわけであります。この踏み切るに当たって技術的にはいろんな問題が議論されました。  その第一は、共通第一次試験をいつ実施するかという実施の時期の問題であります。二次試験組み合わせ、あるいは私学入学試験との関連を考えますと、問題は十二月の終わりないしは一月の初めという高等学校教育にとっては余り好ましくない時期を選ばざるを得ないわけでありますが、その時期をどこに決めるかという問題。  それから、受験生の数が非常に大きくなりますので、共通一次試験ではマークシート方式コンピューターによって入学試験成績を処理することが可能であるかどうか、この方法によるところのテスト筆記試験その他の方法と比べて長短いかなる問題点があるかということが討議をされました。  それから、第三番目には、もちろんこの問題を行うためには、従来の難問、奇問を排して適正な問題を作成しなければなりませんけれども、その適正な問題を作成するシステムはいかにあるべきかということが議論され、第四番目には、これを機会に、かねて懸案であった一期校、二期校の問題を解消して、国立大学入試を一期に定めようということが議論をされました。  また、共通一次試験入試科目をどうするかという問題については、共通一次試験性格をどうするか、二次試験との関連をどう見るかということによって決まってまいりますので、先ほど申し上げました共通第一次試験の目標を国立大学が多面的な方法志願者を選考し得るための方法として用いるといたしますと、一次試験というのはなるべく一般的であって、適正な高等学校における正常な学習を終了すればある程度の解答ができ得るような、つまり高等学校における学習達成度を確かめるような性格のものであることが望ましいということになりまして、そのためには、高等学校側ともいろいろお話し合いをいたしまして、高等学校における教育目標教育内容というものを阻害しないように、高等学校で行われておる五教科科目学科科目共通一次試験科目として導入をするということが決められたのであります。  それから、受験回数を一回に減らすということに伴って、共通一次試験の結果について受験生自己採点が可能であるように終了後ある時期にそのときの試験平均点等について公表をして、受験回数が一回になったことの欠を補うという制度がとられたわけであります。  そのほか、例えば足切りの問題とか、あるいは私学との関連とか、あるいはむしろこの試験は資格試験化すべきではないかとかいろんなことが議論されたわけでありますけれども、以上のような趣旨で共通一次試験実施に踏み切りまして現在に至っておるわけでございます。  その実施の当初には共通一次試験というものを定着させるために共通一次試験をなるべく重視をする。そして二次試験に関しては、でき得れば共通一次試験で出題されないような科目について試験を行う、あるいは仮に共通一次に出る科目について試験を行うにしても、第一次試験コンピューター処理マーク処理方式という一定の規格がございますので、第二次試験ではその欠を補うようなさまざまな方法工夫して二次試験を行う。この一次と二次の比率をどう見るかということは各大学の任意に任されたわけでありますけれども、およそ多くの大学は五〇対五〇あるいはそれに類した若干の出入りのある比率でスタートしたわけであります。しかし、その後、二次試験ウエートをもっと重く見るべきである、各大学個性あるいは教育目標のところに従っての自由度を増すべきであるという議論が行われまして、現在、国大協の中では、一次試験評価科目の点数の評価につきましては、かなりまで学科によって自由に各大学が判断をして、そして二次試験ウエートを重からしめることの可能なような方策がとられておるのでございます。  以上のような方法で、当時、非常に問題になりました国立大学入学試験改善の第一歩を進めたものと私どもは考えておったのでありますけれども、御案内のように、その後、共通一次の問題についてさまざまな批判あるいはさまざまな問題点が出てまいりました。その一つは、各国立大学においてもいわゆる輪切り現象が進んで、そして比較的入学試験成績の均一化した集団が各大学に振り分けられる。しかもその間に国立大学大学間における序列化が明白化し、あるいはそれに乗じてと申しますか、それに応じて、情報技術進歩によって予備校等中心共通一次成績によるところの学校の志望、選定というふうなことが当初予想をいたしましたよりももっと強くあらわれてまいりまして、そこで今日いろいろ御議論のあるような事柄が気づかれるようになったのであります。これらの状況について国立大学協会としてはこれを放置しておくことができないという認識でありまして、昨年から再び入学試験特別委員会を開いて、共通一次試験中心とする諸問題についての改善方について鋭意協議を進めております。  この国立大学入学試験改善の問題については、当面問題になる改善の問題と、それからさらに長期を見通して最も理想的な状態を達成するための新しい方法の開拓と二つの側面があると思いますけれども、しかし、非常に努力をし、苦労をし、検討を重ねて第一次試験導入したのでありますから、当面はこの問題についてもし欠陥があるとすればそれを改定するという方向で、現在国立大学協会改善の当面の課題として取り組んでおりますことは、一つ五教科科目という入学試験科目数の問題をどうするかということでございます。これについては、五教科科目受験生にとって過大な負担であるという声が非常に強いわけでありますが、私どもは、高等学校教育を正常に果たすという立場、それから大学入学してから後いわゆる一般教育を健全に進めて大学教育体系を責任持って遂行するという立場から申しますと、現在の日本の若い諸君で大学教育に進もうという人にとって五教科科目程度学習をある一定到達度で果たしておくということは必要なことであるというふうに考えております。また、それが過大である、負担であると申しますのは、単に科目数の問題なのか、それとも科目数を減らしても競争は依然として残るわけでありますから、果たして科目数を減らすことによってその負担感というものが解消するかどうかということについては慎重な検討を要すると思っております。  ただ、問題になるとすれば、この国立大学共通一次試験というのは、諸事情で専ら国立大学入学試験中心に考えられたシステムでありますけれども私学受験との関連の問題ということを考えますと、科目数の問題についても積極的に弾力化を図るという方向も当然検討に値することであると考えておりますし、それから各大学のそれぞれ個性を持った学生をとるという立場をより強く貫くとすれば、いわゆるアラカルト方式その他でこの五教科科目という必須科目システムを改めなければならないのではないかということは議題になっております。  それから、第二の問題は実施時期の問題でありまして、当面、昭和六十年度は一月の下旬にこれを繰り下げて、なるべく高等学校教育を完結し得る時間をとるように配慮をいたしましたが、なおこの実施時期の問題をどこに持っていくかということは、私学試験関連その他も含めて現在検討を継続しておるところでございます。  一番大きな問題は受験回数の制限という問題でありまして、今日、共通一次の弊害として指摘されることの中の多くの部分は、実はむしろ国立学校受験回数が今申し上げたような事情で一回に限定されてしまったというところにおるように考えられますので、この受験回数をふやして、そして受験生に対して国立大学入学を志願し、それに挑戦をする機会を増すということは当然検討されていくことであります。しかしながら、一期校、二期校というシステムが過去において非常な問題を提供いたしましたので、恐らく単純に過去の一期校、二期校の状態に返るということは困難でありましょう。したがって、そのほかにたとえば二次募集の制度をもう少し確立をするとか、あるいはさらにその他の方法受験回数増加の問題を考慮するとかということが必要でありまして、現在その問題に国大協としては取り組んでおるところでございます。もちろん、さらに遠い将来を考える、あるいは当面の対策を超えた将来を考えれば、もともと日本受験生とそれから大学の収容の率というものを考えますと、大ざっぱに申しまして受験生一・三に対して高等教育の受け入れる可能性キャパシティーは一・○ぐらいのものでありますから、この数字だけから見れば、そこに非常に激烈な競争が発生をするということは考えられない。問題は、やはり大学の中にいろいろな性質の大学がありまして、そして受験生の多くの人がいわゆるよりよき大学を目指す、このよりよきという内容がいかなるものであるかということはいろいろ子細に見る必要がありますが、少なくともそういう意味で実は入学試験競争の激化の一つの問題は、高等学校から高等教育へ移るバリアというよりも、大学集団の中で受験生をどう分配するかというアロケーションの中での競争である部分がありますので、したがって、これは日本大学をどうするか、でき得ればそれぞれの大学個性的な立場確立をして、そして個性的大学がお互いに交流を、流動性交流性を活発にすることによって漸次その競争の不要な部分の解消というものを図っていく必要があるだろうと考えられます。それから、社会大学卒業生に対する受け入れの姿勢、あるいは社会大学に対する評価の問題もまた非常に重要な因子でありまして、これは一朝一夕に言うべきことではありませんけれども、われわれ日本社会高等学校卒業生というものをどのような立場で受け入れ、また大学性格をどのように受けとめて、どの大学からどういうものをとるかということに関する基本的な部分について考え方進歩がなければ、終局的な意味での入学試験改革ということは大変困難であろうと思われます。もちろん、その過程の中で、国立大学といたしましては、一次試験を今申し上げたような方法改革をすると同時に、二次試験工夫をもっと進めることを各大学とも努力をしております。学業式績だけによらないで、人間その他のいろいろなキャパシティーを配慮して受験生選抜するということは理想論として大変望ましいことであります。そのために推薦制度とか、あるいは小論文面接制度とか、あるいは内申書重視とか、あるいは学業試験以外の二次試験科目工夫とかということは、実は目立たないようでありますけれども、この間、国立大学としてはそれぞれかなり工夫を凝らしております。しかしながら、人間によって合否を決定する、あるいは人間的活動によって合否を決定するという事柄につきましても、これは理想論としては大変好ましいことでありますけれども、技術的にはかなりまだ慎重に検討しなければならないこともありますし、また国立大学の経験では大幅な二次試験改善を行った結果、それが思わしくないというので、また若干もとへ後退したというような経緯もございますので、私どもとしては積極的に二次試験改善に取り組むという方向で、これらの問題をも慎重に、しかし積極的に改善を図ってまいりたいというふうに思っているところでございます。  大体与えられた時間が終わったように思われますので、大変不十分な陳述で申しわけありませんけれども国立大学共通一次の導入経緯、その俊の推移、現在考えられておる改善方向等について概略を申し述べさしていただいた次第でございます。以上です。
  9. 長谷川信

    委員長長谷川信君) どうもありがとうございました。  次に、石川参考人にお願いいたします。
  10. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) それでは私の考え方を申し上げたいと思います。実は今飯島先生お話を承っておりまして、重複する部分というのもあるかと思いますけれども、それをあえて省みず、できるだけ簡単に申し上げたいと思います。  入学試験方法そのものに触れる前に一つ二つ前置きを申さしていただきたいと思います。  この一つのことは、入試方法改善あるいは改革ということは現在起こっておりますいわゆる入学試験に絡まるいろいろの問題、この問題を解決するための決して万能薬ではないということであります。なぜそういうことが言えるのか。つまり入試方法改革だけで入試に絡まるいろいろな問題が解決されるというわけではない。それは一つには御承知のように、現在日本社会の中にはいわゆる学歴社会というイメージがございます。大学を卒業しなければ、しかも世の中一般にいいと言われている大学を卒業しなければ、それは世の中で十分に働けないんだというような式の学歴社会考え方がある、これが一つ問題であります。  それからもう一つは、これは飯島先生も言われましたけれども、いわゆる大学の中にやはりいい大学とか、あるいはそれほどでもないとかというような識別をするようなイメージ一般社会の中にあるわけであります。これは実態が必ずしもそれに即しているわけではないけれども、そういうような考え方がある。したがって、親はあるいは子供は一般にいいと言われている、そういう印象づけられている大学に入ろうと努力する、こういうことがございますので、そのことも実は非常に大きな問題になっている。   それからもう一つは、やはり高度経済成長以後、日本社会というのは豊かになりました。したがって、多少の犠牲を払ってでも、学費の高い大学でも、俗にいいといわれればそこへ行こうと、こういうようなことに耐えられるような状況になってきた。そのために、大学へ進む人もふえたし、またその競争も激しくなってくる、そういうようなことがございます。それだけに、この入試方法だけを改善してみても、そこには一定の限界がやはりあるのであって、こういった問題との関連の中で入試の問題というものも考えなければならないだろうと、これが第一点でございます。  それからもう一つは、御承知のように大学というのは確かにそこで人間形成をやる場でもありますが、同時に学問をやる場でもある。その高等教育にたえ得るだけの学力ということは、これはどうしても必要なのであります。したがって、その意味では全部が全部、希望する人が大学に進めるという、そういうことにはならない、必ずしもならない。したがって、その意味では競争の問題というのはこれは避けて通れないし、また競争ということ自体が我々にとって悪いわけではないということであります。これは入試問題を考える場合には、どうしても前提として考えておかなければいけないことであろう。それならば、そういった制約の中で現在の入試のあり方というものがさまざまな弊害を起こしているわけでありますから、それを、その弊害を取り除くための方法というのは、じゃ、そういう前提のもとではないのかといえば、それはないわけではない。やはり、それには幾つかの方法が私は考えられるのではないかというふうに思っております。  私は、私立大学立場を代弁して申し上げるわけでありますけれども、私立大学と申しましても、現在いろいろな性格の私立大学がございます。決してこれは一色というわけにはいかない。その中には、教育に、特に人間教育に力点を置いて考えている私立大学もございます。これはそれぞれ建学の精神というものがありますから、したがって、その建学の考え方に基づいて人間教育ということを非常に重要視している大学もある。しかし、それと同時に、人間的な教育ということと並んで、あるいはそれ以上に、例えば研究者とか学者とか、そういうものをつくり出すことを考えている大学もあるわけであります。それはさまざまだと思います。したがって、私立大学がさまざまである以上、実はその私立大学が望む学生像というのは、これまたさまざまになるわけであります。したがって、そういった私立大学が自分たちの建学の考え方に照らして、あるいは自分たちが目標とする教育の理念に照らしてどういう学生を選ぶか、これが問題になるわけであります。そういう意味では、必ずしも国立大学の場合のように五教科科目試験をやらなければならないというふうには私立大学の場合には考えないということがございます。  私、まあ、これは個人の考え方かもしれませんが、私立大学というのはできるだけ多様な資質を持った人を入れて、そしてその多様な資質を持った人がお互いに刺激をし合って、その中で自分たちの人間形成をやっていくということが非常に大事だと思っております。したがって、その意味ではそういうような、もちろん大学によって個々個々に目標は違いますけれども一般的に言って私立大学の場合にはそういうことが大事だということになりますと、一体そういう多様な資質を持った学生をどうやってとるかということが問題になってまいります。  それには二つ方法があるというふうに考えるのでありまして、一つ入試方法つまり何と申しますか、入試内容と言った方がいいかもしれませんが、そういうものをできるだけ多様化するという方法一つございます。これは、例えば学力だけではとらないと。そのほかにも、例えば体育の状況がどうであるとか、あるいは日常の生活態度がどうであるとか、あるいはそれ以外に、例えばどういうようなすぐれた才能を持っているかとか、これは学問とは違うんですが、そういうようなことを見てみるということで、つまり、そういうやり方で入試内容を多様化する。つまり、これは評価の仕方を多様化するわけであります。評価の項目を多様化すると、こう言った方がいいかもしれません。こういうやり方が私は一つあるだろうというふうに思います。  それから、もう一つ方法は、これは同じ目的でありますけれども、しかし、入試の窓口を多様化するという方法だろうというふうに思うんです。例えば、これは慶應義塾の例を申し上げますと、慶應義塾には幼稚舎から高等学校までの学校がありまして、そこから上がってくる学生、これは入学試験というものの経験を全く持っていない、そういう学生がとにかく大学に入ってくる。これが一つの窓口であります。それから学力試験をやって入ってくる学生がありまして、これも一つの窓口であります。しかし同時に、推薦制度というようなものによって入ってくる学生がいる。これは先ほど申したように、一定学力は必要でありますから、高等学校成績が四ということを基準にしますが、しかし、そのほかに体育とか、スポーツの選手であるとか、あるいは何と申しますか、生徒会の会長とか、あるいはいろいろな学問の研究班の班長とか、そういうことをやったということをつまり推薦の基準の中に入れて推薦をしてもらう、こういう形で入ってくる学生もおります。それからさらに帰国子女とか、そういうような窓口もあるというようなことで、窓口を多様化することによって、多様な資質を持った人をとにかく入れるように努力をしよう。こういう二つ方法が私はあると思うんです。  どちらの方法を採用するか。あるいはその一つ方法の中で、一体どんなものをどんなふうに組み合わせ評価をするか。これは私は大学自身が考えるべき問題であろうというふうに思うわけでありますが、そういう二つ方法がある。そして、かなりの私立大学の中には、そういう方向に沿っていろいろと工夫をし、努力をしている現状もあるんだということを御認識いただきたい、こう思います。  それからもう一つ、今飯島先生が言われた共通一次の問題でありますが、これにはいろいろ御苦心があって、こういうやり方をしたということであります。私もそれにはもちろん敬意を表しますが、それが行われた後でさまざま問題が出てきた。したがって、現在御検討中である、こういうことでありますが、もし、この共通一次を私学が利用できるというようなことを考えるとすれば、これは私学の全大学が別にそれに参加するとかなんとかいうことを言っているのではございませんけれども、もし利用できるように改善されるということであるとすれば、私はそれはいわゆる五教科科目のうちそれぞれの私学要求している科目を選択的にとるということを可能にするということ以外にはないと思っております。  つまり飯島先生が言われたアラカルト方式というのは多分これになると思いますけれども、それをやることによって私学を受ける学生も自由に自分の希望する大学要求している科目をとることができる。これは確かにそれぞれの私学にとって非常に何といいますか、有用でありまして、二次試験私学自身の試験として何をやるかは別として、非常に参考になる結果になるだろうというふうに思いますので、もしこのアラカルト方式というようなものが考えられるということであれば、それは私学にとっても非常に関心の大きな問題になってくるであろう。現行のままでは恐らくこの共通一次に参加していく私学というものはほとんど全くないと言ってもよろしいのではないか、そう思います。  今簡単に考えたことを申し上げましたが、もし詳しいことで御質問があれば承りたいと思いますけれども、要するに私が申し上げたいと思ったことは、この入試改革というのはそれなりに意味があることであることはもちろんであるけれども、決して入学試験に伴って起こってきているさまざまな問題を解決できも唯一の万能薬ではないんだ、したがって、そういう問題をつくり出している学歴社会の問題とか、あるいは大学間にあるさまざまないわゆる格付の問題とか、あるいは現在の社会の豊かさと、こういったようなことをやはり頭の中に置いてこの問題を多角的に解決の道を探らないと、これ一つで事が足りるというふうには考えないでいただきたい、こういうことを申し上げたかった、その意味ではやはりこういう問題が片づいていくのには時間を必要とするということを申し上げたかったわけであります。  どうもありがとうございました。
  11. 長谷川信

    委員長長谷川信君) どうもありがとうございました。  次に、増田参考人にお願いいたします。
  12. 増田信

    参考人(増田信君) 私は高校の立場から御意見を申させていただきます。  私たちが預っております高校生というのは十五歳から十八歳までの年齢帯の子供たちでございます。この時期は人間の成長の時期の中で極めて成長の旺盛な時期で、自我が確立し、そして自分の将来についても一つ目標を立てて進路を決めていこうと悩む時期でございます。こういう時期でございますので、人生いずれの時期においてもそれぞれ将来を考えるということがあるけれども、わけても高校の段階というのは進路決定の時期であるというふうに私たちは認識し、それだけに子供たちがどういう大学に、どういう専門にあるいは就職に道を開いていくかということについては、教師の立場でこれは深刻な問題であるというふうに受けとめるわけでございます。  きょうは大学入試についてのことでございますが、大学入試大学の方にとっていただくという生徒の立場を私たちは後ろ盾になっているということでございます。  そこで、ただいままで大学の先生方からのお話もございましたが、大学の方でこういう子供が欲しいと、こういうやり方で子供の合否を判定したいということであれば、ある程度私たちはそれに受け身といいますか、受動的に対応していくということでございます。そういう意味におきまして、私たちはこの大学入試制度というのが安定していることを望むわけでございますが、なかなかごの大学入試制度というのがいつも動揺しているような状態で、そしてこれに私たちが対応しなければいけないと、子供たちのためにやはり賢明な進路指導をしてやらなければいけないというようなことがございますので、そういう点で高校教師の悩みもその面において深いということを御理解いただければと思うわけでございますが、最近は特にまたこの大学入試が話題になるにつけましても、子供たちの心理に対する反応もまた敏感にあらわれてきている面があるということで、私たちも心を痛めるということがあるわけでございます。  それで、きょうは三つの点につきまして、高校の立場意見を申し述べさせていただきたいと思います。  その第一は、正常な高校教育の確保という観点でございます。  これは共通一次が実施される以前においても、そして共通一次が実施され、また今日のいろいろの問題提起がなされている際においても、同じように言われている私たちにとっては古くて新しい問題でございます。高校教育が正常に運転して、そしてそれが順当に大学受験に結びつくということを願うわけでございます。  先ほどの飯島先生お話に重複するかと思いますが、高校の立場で重複することを御了解いただきたいと思いますが、この共通一次が発足するまでのところで、私たちの校長会の先輩でございますが、お願いしておりましたことは、一つは複数のデータで合否を判定するというような仕掛けをお願いしたい。それからもう一つは、高校の学習を踏まえた試験問題をつくっていただきたいということ。そしてまた、一回限りの勝負ではなくて複数の受験のチャンスが得られたらということでございます。そういう意味におきまして、このペーパーテスト入学試験だけというのは、どうしてもデータとしては非常に限られてくる。もっと学校学習活動があるじゃないか、あるいは高校生活の活動があるじゃないか、あるいはまた特技が別にあるじゃないかというようなことについて、それを大学教育に結びつけていただきたいということがあったわけでございます。  それからもう一つは、個々の大学試験問題を作成していただいて、これに対して共通一次が施行されるまで、毎年のように全国高校長協会では試験問題批判の冊子を出しておりました。試験が終わりますとその試験問題をいただいて、そして高校教育に結びつけて適切であるかどうかということを御批判申し上げるというようなことでございます。非常に偏った、とても高校教育はこれでは対応できないというような問題もあったりいたしまして、もっと洗練された良間の大学入試をお願いいたしたいというようなことが非常に共通した私たちの教育界のお願いでありました。そういうことが先ほど飯島先生お話のいろいろのことと結びつきまして、特に大学のきっと一期校、二期校の解消という、大学の皆さん方の御要請とも一致するというようなことで、この共通一次がスタートしたというようなふうにも私たちは理解いたしておるわけでございます。そういう意味で、この共通一次が今日問題になっておりますけれども、私たちは共通一次と二次と両方をセットにして国公立の大学入試制度がどうなのかというふうに考えたいわけでございます。  もちろん、この共通一次の中に、いわゆるマークシート方式とか、あるいはコンピューター導入されたための非常に精巧な数値の分析とかいうような問題が別の問題としてございますけれども、この共通一次が施行されて、試験問題について穏当を欠くというような声はなくなったわけでございます。いわゆる難問奇問というようなものはなくて、高校教育がこれに対応できる問題になった。それから、この共通一次そのものでも、それから二次の学科試験の場合でも、大学の出題される関係者の先生方が非常によく高校の教科書をごらんいただいて、そして高校の教師とも話し合う、各地域で今地域大学とそれから地域の高校の進路関係の先生方がお話し合いをなさるというような場ができておりますが、こういうことで私たちは非常にいい面があるというふうに評価いたしております。  ただ、私たちが複数のデータで合否をやってもらいたいということにつきまして、それに関連いたしまして、第二次試験が十分に機能していないのではないか。これは先ほどの飯島先生お話のように、大学の方でも十分私たちの気持ちと合うようなお考えをいただいたわけでございますが、ふたをあけますと、この二次試験でもって、大学の特色、そして生徒のまた別の角度からのいい面を見てとっていただくということがなかなかうまく機能していない。この二つをあわせるときに初めて——今回の大学入試制度があるにもかかわらず、その半面が機能していないがために、共通一次の方の問題も特にまた大きくクローズアップされるというようなことになってきていはしないだろうかというふうなことを感ずるわけでございます。  それから、高校の正常化ということと関連いたしますが、教育課程が新しくなりまして、この昭和五十九年度で教育課程が完成するわけでございます。この新しい教育課程の科目の立て方が古い方と変わってきましたために、各校別、二次の科目数がふえる形になってくる。単位数においてはほとんど同じであるけれども科目数においてふえるとか、あるいは二次においてもう少し知的なものをというようなことでもって二次の科目数がふえる傾向を持っている。これは、先ほど来申し上げているように、ますますもってこの制度を当初の趣旨から遠ざかるものにしてしまう。そういう意味で、ぜひとも当初の趣旨に返って、二次を機能させるような御工夫をそれぞれの大学にお願いしたいものだということがございます。  それから、これは非常に構造的な問題と言えるかと思いますが、高等学校までの段階は小学校、中学校高等学校指導要領があり、それに基づいて教育課程が組まれる、そして学校教育実施されていくわけですが、この小学校から中学校、高校へというのは、これは逐年に、波状的にだんだんと新しい制度に移行するというような形でもって制度の改変が行われるわけでございます。それで、今日よく言われますゆとりある教育というようなことで、中学あたりでもたとえば四時間やっていい英語を三時間で仕上げるというような形が、特に公立の場合は一般化しているわけでございます。こういうものを受けて、こういう学力程度を受けて高等学校教育が、また普及した形の教育が行われていくということでありますが、この学習指導要領の大きな体系は小中高の三つの学校種別に限られるわけで、大学の場合にはこの学習指導要領あるいは新教育課程というようなこととは一応切り離されているわけであります。そしてまた、大学は、大学教育を授けるにふさわしい学力を持った者をとりたいという、それなりに、十分に御理解申し上げることのできるお考えで学力試験を行おうとなさる。そこで、結局、この高等学校大学の間の間隙といいますか、格差といいますか、落差といいますか、そういうものが起こってまいりますと、そこに受験準備の過熱というようなことが起こってくる、あるいは受験産業というものが出てくるということになるかと思います。  そしてまた、私たちの方ではこんなふうに考えるわけですが、小学校の方から——たとえばでございますが、たとえば右回しにずっとねじを巻いてくる、そしてだんだんと中学に及び、高校に及んで、だんだんとかたくねじが締まっていく。それなりの普通教育教育の趣旨を貫いていこうとする。  そうすると、大学の方からもし逆回しのねじが回されてくるというと、さしあたってよじれてくるのが高校教育である。そして、よじれて、その力強いねじが相手を押していくということであれば、大学、高校からさらに中学に及んでいき、小学校に及んでいくというようなことになる。  ここでどうしても高校教育大学教育との結びつきを、入学試験を通じる結びつきを順接と申しますか、順当な結びつきにしていただかないといけない。ここに大学の御期待と私たちの願いとの若干のずれというのがあるかと思いますけれども、ここのところの御工夫がぜひともお願いしたいところであるということでございます。  それから、後でもう一つ触れさせていただきたいと思いますが、期日について、高校教育の確保という点、これは非常に重要な意味を持っていると思います。  特に三年生につきまして、三年生の授業時間を三学期はせめて一月いっぱいは安定的に確保したいというようなことでございますが、現在は一月十五日、成人の日を中心にしている。そして、来年度については一月の末というような御決定が大学の方であったわけでございますが、後でこれにもまたちょっと触れさせていただきますが、そういうようなことで、正常な高校教育を確保するという観点が、決してこれは高校だけの立場ということではなくて、ぜひともこの大学入試の中で考えていただかなければならない点であるということでございます。  それからもう一つが、高校教育の多様化と大学入試との関係ということでございます。  御承知のように、いわゆる九四%の高校進学率というふうに言われておるわけでございます。そのために、いまや高校は非常に多種多様な、資質、能力、進路について非常に多様な子供たちを抱え込んでいるということであります。これに対応するように、現在、指導要領が改められて、新しい教育課程が三年目に入ろうとしている。その趣旨といたしますところは、いろいろの教育課程を用意してやろうじゃないか、つまり教育課程の多様化、それからその教育課程の運用についてできるだけ弾力的に運用してやろうじゃないか、そしてそういうものを学校ごとにそれぞれの特色というものを出していくということでつくっていこうじゃないかというようなことで、教育課程の多様化、あるいは教育課程運用の弾力化、あるいは特色ある学校づくりというようなことが各都道府県の公立高校あたりで特に盛んに、会議を設けたり、工夫をしたり、実践しているというのが現在の段階でございます。  ところが、大学入試というのにこの高校教育が集約されていくということから起こってくる問題でございますが、これは伝統的と申しますか、戦前からいわゆる受験科目というのは英、数、国があり、理科、社会、昔は国漢というようなことで——英、数、国、理、社と今言いますが、昔ならば英、数、国漢、理科、社会というような言い方もしたりいたしましたけれども、これが伝統的な受験科目ということであります。  ところが、すでに今日でも高校教育自体が、普通科のほかに、職業課程が農、工、南とあります。それから、農、工、商、水産、看護というように職業課程もふえております。それから、専門課程という、芸術科とか、あるいは体育科とか、あるいは理数科というような専門課程制の高校もあるわけでございますが、そういう高校からもまた大学に結びついていくという場合に、どういうふうな大学入試がお願いできるだろうかということでございます。  それで、石川先生のお話、私などもうなずくところが大変多かったわけでございますが、いまや非常に多様な高校があって、その多様な高校が大学に結びついていくということで、大学もまた多様な大学があるということであるならば、必ずしも大学入試のパターンというものを一つに限らないで、いろいろの大学入試工夫をお願いできないだろうかということでございます。  ですから、今日の国公立の共通一次試験というような、共通一次、二次というような大通りが一つある、それから私学における学部ごとの科目制があるということがありますが、さらに推薦枠を拡大していただくとか、特に職業課程の高校、これ、英、数、国、社というような、少なくとも英、数、国においては時間数も少ないのでハンディキャップがあるということがありますので、こういうのにつきましては、ある直結したような何か推薦制ができないだろうかとか、あるいはまた内申書、あるいは本人の特技が入試合否の資料に利用されるというようなことをいろいろと御工夫をお願いして、一本の大通りだけではなくて、幾つものバイパスがあって大学に結びついていくということがお願いできればということが、この高校の多様化と大学入試との関連ということでお願いしたいと思うわけであります。  それから第三の問題ですが、この大学入試というのは、百万を超える青年の人口移動が極めて限られた時期に行われる非常に大きな国民的な行事みたいなイベントになっているんじゃないかと思います。こういうものについて、それぞれの学校の独自性によってやや個々ばらばらに行われているというような面がありはしないだろうか。  実はこれは、昨秋、国公立の共通一次の時期の繰り下げにつきまして、国大協委員会の方で昭和六十年度以降一月の二十四、五日以降の一月いっぱい、土・日にしたいというようなお話がありまして、私たちは、高校の正常な授業を確保し、特に三年生の安定した授業を確保するためには一月いっぱい授業したいんですということで、共通一次を繰り下げるのならば二月初旬以降にお願いしたい。これにつきましては、一つ試験問題の処理能力というような物理的な問題と、もう一つは既に置かれている、決められている私学試験日との競合がある。国大の方ではそれをどけとは言えない、高校の側ではこの受験のチャンスが狭められることについてもよろしいですかというようなお話がありまして、それで私たちの方では、主として大きく競合する関西の大学にお伺いしてお話を伺いました。こちらはこちらで御理解を示してくださいますとともに、また、国立大学とのそういう話し合うパイプというのは特にないし、自分の方はそんなお話でもあれば受けて立つような形になる、ということで御理解をいただいて、そういう場には応ずる姿勢をお示しいただいたけれども、そういう常置的な場がないわけでございます。  そういうことで、文部省に参上して大学局の方にはそんな実情は御報告申し上げたわけでありますが、これは期日について、高校教育立場からのことでありますが、いろいろあるんじゃないだろうか。そういうことについて、現在、文部省に改善会議があり、それから入試センターがありますので、そういうものの機能の中でまた生かし得る、実現し得るということであればそれもいいかと思いますが、何かそういうことについて国公立、私学、そして高校で一つのテーブルの上で形式的ではなくて、実質的な協議ができるような場がひとつ今後できたらありがたいというふうなことを考えるわけでございます。  以上三点、高校の立場から申し上げました。
  13. 長谷川信

    委員長長谷川信君) どうもありがとうございました。  次に、北條参考人にお願いいたします。
  14. 北條舒正

    参考人(北條舒正君) ただいままで三人の参考人の御意見、私も承っておりましたが、きょう五人出席されておりまして、私以外はそれぞれの立場をある意味で代表されて出ていると思いますけれども、私はそういう意味ではないと思ってかなり自由な意見を述べさせていただきたいと思います。  最初に私の専攻を申し上げますと、私は化学でございまして、自然科学の分野でございます。したがって、この分野に学生を送り出すときにどういうことを考えなくてはいけないかということで、私自身が従来考えておりますことを中心に述べさせていただきます。  また、本日出席の原因の一つは、経済学部が特殊なやり方をやっているということで、これについての御質問は後で出るかもわかりませんけれども、そういったことについて簡単に触れさせていただきたい。と思います。  まず、いろいろ入学試験の問題について議論がされておりますが、できればてんなものはないにししたしとないわけでございます。しかし、入学試験をやるというには、それなりの理由があるわけでございまして、例えば大学ですと、大学教育にどのような資質の人を入れれば将来非常に国家的に役に立つ、そういう人材になるという見通しのもとで入学試験がやられるわけでございます。  当然中学あるいは高等学校でそのまま卒業する方もあるわけですから、先ほどの高等学校側の御意見にございましたように、正常な教育を確保する、これは私は絶対必要なことだと思います。その正常な教育を確保できない理由が大学入試にあるとすれば、これはどうすべきかということをまた考えていかなくちゃいけないと思います。  それで、問題は大学入試でございますので、大学入試をやる場合に、先ほど申し上げましたように、大学教育を受けようというのは、卒業してから社会に出て三十年、四十年活躍できるいろんな資質を養成したいというのが、受験生の本当の希望ではないかと思うわけでございます。大学側もそういった意味での教育をやっていかなくちゃいけない、そう思うわけでございますが、そうしますと、それは何かという問題になります。それからまた、卒業して五年、十年は非常にいい教育をしてくれたけれども、十年過ぎたら大学で学んだことは全く役に立たない、こういうことではいけないわけでございまして、我々はできるだけ息の長い、また応用のきく基礎的なものを大学時代に養成するというのがその目標にあると思っております。  卒業後の社会で云々という場合には、その卒業した時点から三十年、四十年の社会がどうなるかという見通しを持たなくてはいけないかと思うわけでございますが、これはその判断は非常にむずかしいわけで、単に我が国の将来だけではなしに、世界の国々がどういうふうに変わっていくかということも予知しておく必要があるわけでございます。  これは適当な表現ではございませんけれども、かつて中学卒あるいは高等学校卒というのは金の卵で、企業が非常に求人を求めたんでございますけれども、この二、三年はその様子が非常に変わってまいりました。この理由はいろいろあるかと思いますけれども、私は、ロボットとかあるいはコンピューターが非常に進んでまいりまして、そういった分野の仕事をする人は余り必要なくなったというような意味ではないかと思うわけです。もしそうでありますと、やがてこの波は大学卒に対しても及んでくるわけでございまして、ただ大学を出たからそれでいいというわけにはいかないと思います。そういう意味で、常にその教育について、我々は当然大学人間として考えていく必要があると思います。  また同時に、同じ教育をしても、それぞれの高等学校までの勉学過程によって、同じ努力でも非常に成果が上がる場合と成果の上がらない場合があるわけでございまして、入学試験というのは、そういったものを何とか区別したい、そして選択したいというのが大学側の希望ではないか、こういうふうに思っております。  コンピューターはますます進歩してまいりますから、これに対して人間が太刀打ちするためには、いわゆるコンピューターの及ばない分野、コンピューターの不得意な分野で才能をつける、教育をする、そういうことが必要ではないかと思います、これは、ある意味では創造的な分野、また既成のいろいろな概念にとらわれないような考え方、こういったことを養成しなくてはいけないと思いますが、表現をかえますと、あるいは個性的と言えるのかもわかりません。  また、大学というのは、私は、考え方を学ぶところであって、単にいろいろな基礎知識とか原理を詰め込むところではない、こう思っております。毎年入学式になりますと、私は、大学考え方を学ぶところであって、考え方というのは自分でやらない限り身につくものではない、したがって、大学というのはみずから学ぶところであって、決して先生が無理して押し込んでくれるところではないということを言っております。  この創造性という問題について私は、もう二十数年前だと思いますけれども、ある脳のサイエンスの本を見ておりまして、これは素人向きに書いてございますし、私にはこの創造性という問題を考えるには都合がよかったので私なりの解釈をしておりますけれども、例えばいろいろな記憶とか思考をつかさどる脳の部分、これは大脳の一部だと思いますが、その中でこういった問題をつかさどるのを一〇〇といたしますと、まとまった原理とか思想、これを系統的に入れることができるのは約一〇%前後というふうに書いてあったように思っております。そうしますと、いわゆる学校教育で入れるのは、この一〇%前後のところで一生懸命やっているわけで、もし学校成績云々とすれば、我々は実際その一〇〇の中で一〇のところの成績でもっていろいろ評価をしているのではないかという気がいたすわけでございます。むしろ、あとの九〇%の非常に雑然として入っています何も意味のない点の集合、これをいかに組み合わせ一つの考えを持ち出すか、これが創造につながるんではないか、これは私の勝手な考えでございますけれども、そういうふうに思って学生の指導をやってきたわけでございます。  また、これもやはり二十数年前あるいは三十年ぐらい前かと思いますけれども、自然科学をやっている人たちの一生の中で最もすぐれた仕事をした年齢というのが統計で出されておりまして、これを見ますと、これは学問分野によって違いますけれども、例えば数学とか物理、この分野では、その人の一生のうちで一番すぐれた仕事をやった年齢というのが二十歳前後でございます。それから、化学になりますと、これは少し実験技術というのが必要になりますから、その技術を習得する年限がかかります。これでも約三十歳前でございます。そうしますと、これは統計だけの問題ですから一概に言えることはできませんけれども、なぜ二十前後でそういうようなすぐれた考えが出てくるかというと、私は余り既成の概念を押し込まれていないということと、考え方が非常に柔軟な年齢であるということ、そういうことに原因しているのではないか、こう思っております。そういった意味から現代の学校教育がどうかということもやはりお考えいただかなくてはならないんではないかと思っております。  それから学問として、例えば自然科学と人文社会系とでは、物を考える、それは変わりないと思います、考え方としては。ただ、ベースになっているものが若干違うんじゃないか、そういう気がいたします。例えば自然科学の場合ですと、自然科学のいろいろなルールを勉強するのが自然科学の学問でございます。これは人間の都合よくできているわけじゃございません。地球が発生して今日に至っておりますけれども、それは自然の勝手でいろんなルールで動いておるわけでございまして、人間の都合よくできていないわけでございます。だから私は、学生あるいは弟子たちに、僕の考えにこだわるな、こんなものは無視しろということを常に言っておるわけでございまして、これは既成概念にとらわれないということの中からいろいろなすぐれた発想が出てくるものと思っております。人文社会系がそうでないといえばおしかりを受けるかもわかりませんけれども、それよりも極端ではないかという気がいたします。  このように大学教育を考える際に、もし高等学校までの教育が、先ほど御指摘にございましたような本来の学校教育教育が確保できておれば問題ないと思いますけれども、もし入学試験でそれらがゆがめられているということになりますと、これをどうするのかということも考えていく必要があると思います。  時間の関係ございますのでいろいろ申し上げることはできませんが、そういったことで今度信州大学個性派学生云々ということがございますけれども、これは私が指示してやれと言ったわけでございませんで、経済学部の先生がみずから検討して進めたものでございます。しかし、私もそれよりも前に違ったやり方でそういうことをやった経験がございますので、それらを含めてちょっと御報告いたしますが、信州大学の経済学部が発足して、これはまだ時間がちょっとたっておりませんけれども、発足当初は非常に志願者が多かったんですけれども、だんだん減ってまいりました。今回のようなやり方をやったのが五十八年度でございますが、五十七年度は志願者が一・六倍、しかもその中で三十数名が辞退をしているということで非常にショックを受けまして、先生方は何とかしなくてはいけないということから思い切ったやり方を始めたと思います。それが新聞紙上等でいろいろ言われておりますけれども、私としてはこれはそっとしておいていただきたいというのが本心でございます。ということは、あのやり方が絶対にいいということは言えるはずはございませんし、また我々としては不安な気持ちでやっている面がたくさんございます。そういう点で、非常にいろいろなところで報じられまして実は戸惑っているわけでございまして、国大協の中では、私は、そっとしておいてほしい、これがいいということがわかりましたらまた御報告申し上げますから、ひとつそっとしておいていただきたいということで、国大協の中では余り議論はされておりません。  これは簡単に申し上げますと、先ほどちょっと個性個性的ということを申し上げましたが、入学生の半分を従来の方式で合格者を決める、それからあとの半分は何らかの形で、ある特殊な分野にすぐれた能力があればそれを採用しようというのがその骨子でございます。少なくとも五十八年度は、その後の経過を見ておりますと、やや我々の目標とした学生が採用できたという気がいたしますけれども、これはこのままのパターンを続けますと必ずまたひずみが出てまいります。来年度といいますか、五十九年度は五十八年度と同じやり方をやっておりますけれども、というのは、高等学校で信州大学の経済学部に入るにはこれだけやればいいというふうな勉強をされた者を入れたといたしますと、これは非常な問題が起こるわけでございます。例えば、御存じと思いますが、教養部というのがございまして、教養部というのは学部と全く関係ないわけです。教養部の方はある程度まんべんなく習得してもらわないと上に上げないわけで、経済学部の先生がいかに頑張っても、これは教養部を出さないと言われたらしまいでございます。少なくとも五十八年度の試験については、ある程度まんべんなく勉強した人の中から採用することができたわけでございまして、これが経済学部向けに受験勉強やられますと、ちょっと困るわけでございます。先ほど来いろいろ意見が出ておりますが、私は入学試験というのはこれはもう永遠のテーマであって、決して永続する理想的な案というのはあり得ないと思っております。それからまた、こういう表現は適当でないかもわかりませんけれども、高校生と大学側と綱引きをしているみたいなもので、少し悪い表現になりますと、まあ闘っている。で、受験生の側には高等学校の先生方が、それから強力な受験産業というのがありまして、もう大学の裏表を全部知り尽くして、こうやれば入るというような方向を御指導されているんじゃないかと思いますが、ところが大学側はそういう対応ができないわけでございます。国立大学の場合ですと、三年前にこういう試験をやるということを明らかにしなくてはいけないわけです。そうしますと、手の内はそれを読んでちゃんとこういう対応をされるわけで、だから入学試験というのは常に受験生大学側との競合である、そう思っております。ですから、一つ方法がいつまでもいいということは考えることはできないと思いまして、その時期その時期に合ったやり方をやらざるを得ない、それができるのはやはり二次試験であるというふうに思うわけでございます。  それで、ちょっと信州大学のほかの試みを申し上げます。先ほどちょっと私申し上げましたが、実は私は学長になる前は、一番国立大学の中で不人気ナンバーワンということになっております信州大学の繊維学部学部長をずっとやっておりました。それで、先ほど私が申し上げましたように、自然科学をやるにはこういう人でないと困る、こういう人も必要じゃないかということから、学部長になってすぐ推薦入学を始めました。これは五十一年でございます。これは、高等学校教育受験に偏っているということは申し上げませんけれども、しかし、そういう面もやはりあるんじゃないか。それにある程度影響を受けない人を何とか入れてみたら違った人材が養成できるんじゃないがという気持ちでスタートしたわけでございます。  これも実は、経済学部は半分と言いましたが、私も実は半分採りたかったわけです。ところが、学部の教授会は、いや半分は多過ぎる、しかし一〇%ぐらい採ったのではあとの九〇%の中にいつの間にか入ってしまってその特色が出ないんじゃないか、だから特色を出せる程度集団にしなくてはいけないというので、三分の一を予定いたしました。これは三三%でございます。五十一年からやっておりますけれども、この三年間、これは最初は、当初二学科から始めまして、現在大学科ございますけれども、全部六学科もうその制度を採用しております。五十七年、五十八年、五十九年の志願者等見ていきますと、五十七年が百七十二名です。これは実は、新聞紙上で信州大学繊維学部はワーストワンで〇・六と言っておりますけれども、この推薦入学だけですでにそれを超しているわけです。この数は出ておりません。ですから、共通一次云々の中で——何も私は繊維学部を弁護するつもりはございませんけれども、百七十二名受けておりますし、その次の年は二百名です。ことしは二百四十八名。ほとんど推薦入学で定員いっぱいになるだけ受験生が来ているわけです。この連中は三分の一しか入りませんから、残りはどこへ行くかというと——残りの約二割ぐらいしか繊維学部を受けません。私は、その八割はほとんど私立大学の方に行くんじゃないかという気がいたします。  それから、採用してしばらくしまして、いわゆる個性派云々という例も感じまして、よかったなとは思っておりますが、一方、同じように農学部でも推薦制をやっておりますが、これは学科の数が三つで、入学定員の合計が百十五名で、しかも一割ということでございますから、最高十二名しか入学できないわけでございます。この受験生を見ますと五名、四名、一番多いときで十一名、こういう数でございまして、こちらの方は共通一次を課しているということから、共通一次に対して受験生が余り好まないのだなということは言えるかもわかりません。  私は、一番大事に思っておりますことは、そのほかにこれは入試には関係ございませんけれども大学の実態ということをぜひ理解いただきたいという中でいろいろ申し上げたいことがございます。  私は、戦争中に学生でございまして、戦争中にすでに日本で石炭の液化というのはできたわけでございます。これはドイツのいろいろな技術を導入して日本で液化やったわけでございますが、あれから四十年もたって、なおる炭の液化が世界中でできないというこの事実は、やはりわれわれは考える必要があると思うんです。  一番問題なのは、そういう自然科学というのは、何か本に書いているのをだれでもやればできる、こう思っておりますけれども、そうじゃなしに、どうしても先生から弟子に体で伝えていく、そういう分野がございます。  また、もう一つは、石炭液化の研究者がいないわけです。根が絶えている。こういうことは国家的に見て非常に私はゆゆしき問題だろうと思うんです。  ですから、一般の人の社会常識と大学考え方とを——もちろん大学一般の人たちの意見を聞く必要はない、そういうことは思っておりませんけれども一般の常識でもって大学を規制してしまうということだけはひとつ考えていただきたいと、そう思うわけでございます。  いろいろございますけれども、時間がちょうどぐらいでございますのでこれで終わらせていただきます。  ありがとうございました。
  15. 長谷川信

    委員長長谷川信君) どうもありがとうございました。  次に、佐藤参考人にお願いいたします。
  16. 佐藤雅彦

    参考人(佐藤雅彦君) 私は、公立大学の代表という形ではございませんで、恐らく大学教育の現在の中では一番変わった大学であろうと思われる芸術系大学のスタッフとしてきょう参考人として招かれたんだと存じます。  現在、公立大学というのは全国の都道府県、市町村によって設置されている大学三十四校から成り立っておりまして、これは国立の大学あるいは私立の大学に比べまして非常に数が少ない。数が少ないゆえの悩みといったようなものがございますんですが、きょうはその話ではございませんで、そういう公立大学の中で芸術系の学問を——学問といいますか、アートを教えている大学が三校ございますが、その三校の集約的な入試制度お話をするということで参ったわけでございます。  その三校と申しますのは、愛知県立芸術大学、これは県の大学でございます。それから金沢美術工芸大学、これは金沢市のミュニシパルユニバーシティーでございます。それから私ども京都市立芸術大学、これもミュニシパルでございます。その三校がございまして、愛知県と私ども京都の方は美術と音楽の二学部から成っております。金沢市の美術工芸大学は美術学部だけの単学部大学でございます。そういうふうに多少違いはございますけれども、それぞれ地方自治体の設置による大学で、芸術系の技術その他を教えているという点では共通しているわけでございます。ちなみに申しますと、こういう芸術系の大学というのは、国立ては東京の芸術大学ただ一校でございまして、公立がそれに次いで三校、そして私立が全国にかなりな数ございますけれども、そういう立場にある大学だということでございます。  そういう特殊な、大変毛色の変わった大学ですから、いろいろと入試制度なんかにもおもしろいことがあるだろうという御期待で参考人として呼ばれたと思いますんですが、結論から先に申しますと、全く申し上げることがない。ですから参考人としては大変不向きだということになってしまうと存じます。端的に言えば、共通第一次学力試験というのはわれわれにとっては大変ありがたい制度で、これを改善するというふうなことはさらさら考えもしていないというふうなところがございますので、その点はいささか期待外れになろうかと思いますのでお許しを願いたいと思います。  その芸術系の大学で現在やっております入試制度のあらましをまず申し上げておいた方がよろしいかと存じます。  その入学試験制度というのは、一つ学力試験でございまして、それからもう一つは実技の試験でございます。  学力試験というのは、これはもう御存じのとおり共通第一次学力試験を非常に重く用いた学科試験を第一次として課しております。つまり、三大学とも共通第一次学力試験を受けた学生でないと受験資格がないということになりますので、共通第一次学力試験というのを必ず受けて次の関門を迎えてもらうというふうなことになるわけでございます。この共通第一次学力試験かなり重く用いると申しますが、これは各大学学部によりまして多少の違いがございますけれども、身びいきではございませんが、かなり重く用いているというのは最も当たっている表現だと存じますので、その点はお断り申し上げておきます。  それから第二番目の実技の試験でございますけれども、これはそれぞれの大学、それぞれの学部が長年にわたって積み上げてきた、工夫工夫を重ねたあげくの試験方法をとっておりまして、これに関しましては、細部では幾分訂正したりあるいはまた改めたりというふうな試行錯誤がございますけれども、大筋としてはほぼ順当な試験方法であろうとそれぞれが思って自信を持って実施しているということになります。  そういう二つ試験にふりまして、その総合判定で最終合格者を決めるというのが現在の行き方になっております。  こういうふうな入試のあり方につきまして、いまのところ公立大学、芸術系大学の内部では特に指摘されているような問題点というのは皆無だと言っていいと思います。第一次学力試験、これは共通第一次学力試験をそのまま受けてしているわけでございますが、五教科科目のこの第一次学力試験をそのまま額面どおり使っている場合はちょっとないかもしれません。しかし、かなり重くということは、たとえば五教科科目つまり理科、社会という選択を含んでいる科目につきましては、そのうちの一科目どれという指定ではなくて、具体的に申しますと、点数の高い方というふうな言い方をしておりますが、そういう選択の仕方によって、つまり倫社は得意じゃないけれども、政経ならいけるとか、あるいは世界史ならいけるというふうな受験生はそのものだけをとる、片方は名前だけ書くというふうなやり方で済むというふうにしておりまして、そういうふうなことで、五教科科目全部をということはないと思いますが、五教科科目、あるいはその程度の配点といいますか、選択の仕方で、この共通第一次学力試験を、非常に重い学科のいわば資格試験というふうな形で採用をしているというのが実情だと存じます。  ちょうどいま各大学とも試験を控えている時期でございまして、愛知、金沢の各大学へもいろいろ問い合わせをいたしましたんですが、なかなかデリケートなところは教えてくださいませんで、その点につきましては、私も舌足らずにならざるを得ませんのでお察しを願いたいと思いますが、共通第一次学力試験の使い方につきましては、そういうふうなところであろうというふうに申し上げておきます。  そして、学部によりますけれども、この共通第一次学力試験足切りに使っている場合、それから資格試験として使っている場合、そういうふうなケースがございます。その点は、国立大学なんかとはかなり様子が違っておりまして、共通第一次学力試験を利用させてもらっているという言い方が一番当たっていようかと存じます。  我々は、昭和五十四年にこの共通第一次学力試験実施されるときに、公立大学を挙げてこの制度に参入いたしまして、現在までずっとそれを続けてきております。その理由といいますか、これはまず第一に、公立大学国立大学一般と違って、大変世帯が貧弱であるということに根差しておりまして、五十四年以前は我々がそれぞれの大学学科試験の問題を作成し、そしてそれを採点するという作業を行っておりましたけれども、実は公立大学における一般学科の教員というのは、特にこういう芸術系であるとかあるいは農学系、医学系というふうな場合には大変少のうございます。例を申しますと、愛知芸術大学では七十一人の教員のうち、学科の教員は十四名にすぎませんし、私どもの京都市立芸術大学でも八十九人中二十一人の学科教員を抱えているだけでございます。  そういう世帯ではたとえば十五教科科目学科試験の問題作成をするということ自体大変な作業でありますし、御存じのように、いまのようにゼロックスシステムのような複写装置が余り発達していない時代におきましては、町の印刷屋の夜間の作業員を確保して、我々が徹夜で立ち合って問題の印刷をするというふうなことまでしておりまして、この学科試験に伴う労力、それから気遣いというのは大変なものでございました。  そういう意味からいいましても、この共通第一次学力試験という制度ができたときには、大変公立大学の我々は助かったという思いを強くしたことを覚えております。  そして現在あのマークシート方式の問題は、思考力は要らないで、単に選択力さえあればいいんじゃないか、それで高校の学習度が見られるかというふうな指摘があることは重々存じております  けれども、しかし、我々の側からいたしますと、芸術を勉強する子供にとって、物理の点が仮に七十点取れないとだめだというふうなことはおかしいのでありまして、高校の教育課程をごく普通に通り過ぎていて、ある程度その知識を頭の中に保留してさえいれば、それがあのマークシート方式に反映されて出てくる。その程度学習度があれば芸術をするのに別にそう不都合なことはないという考え方から、この共通第一次学力試験というものが、我々の芸術系大学にとっては大変ぐあいのいい性格を持っているというふうに受けとめている次第でございます。  また、現に我々がもしあのかわりに昔と同じような学力試験方式を考えて、その労をいとわずにやったといたしましても、今日の共通第一次学力試験に出題されているように、非常に範囲の広い、そしてよく煮詰めた問題の作成をする自信はございません。  甚だ悲しいことなんですけれども、我々の世帯であれだけの問題を作成するということはまず金輪際不可能だと思っております。  そういう点からいいまして、この共通第一次学力試験というのは大変いい方法だというふうに思っているわけでございます。  そして、先ほども申し上げましたように、芸術大学というふうな特殊な大学におきましては、五教科科目というものを非常に厳しく要求された場合にはいろいろ問題が出てまいりますけれども、そういうことがなくて柔軟な配点でこちら側のアラカルト方式というふうなことが事実上、現在は容認されていないわけでございますが、そういうことが許されればこれを足切りあるいは資格試験として用いるときに大変我々にとったはいい制度であるというふうに考えざるを得ないわけでございます。  六十年度以降この共通第一次学力試験というのは、恐らく今よりもさらに易しくなっていくだろうと。これはいろいろな面で指摘されているわけでございますが、そういうふうなことになった場合でも、我々の芸術系大学ではその学習度を見るという資格審査の面では格別な支障はないと考えておりまして、したがいまして、これ以降もこの制度を大いに活用していきたいというふうに望んでいるわけでございます。  それから、これはまあ言わなくてもいいようなことなんでございますが、先ほどもちょっと出ておりましたように、現在ではこの共通第一次学力試験の追跡調査によりまして、どこの大学は何点以上取ってなければ入れないとか、あそこの大学入学率は平均何点だというふうな共通第一次試験成績によるランクづけというのが受験産業によって大変細かに正確にできております。ところが、私どもの芸術系大学というのは、あのランクづけからは全く外れてしまうわけでございます。というのは、国立大学の場合ですと、第二次試験にも学力試験ということになりまして、いろいろ苦心して性格は変えるにいたしましても、学科試験であるという点においては全く変わらないわけで、その点で共通一次試験の点というのがその大学のランクを決める非常に大きなポイントになるということはもう間違いないわけですが、第二次試験に全く学科と関係のない実技の試験を課している我々の大学におきましては残念ながら受験産業の標的にはなり得ない、大変幸せな大学であるというふうに思っております。そんなようなことから言いましても、この共通一次入試というのが芸術系大学にとっては受験産業によるスポイルをこうむらない大変ぐあいのいい制度だというふうに言って差し支えないかと思っております。そして、第二次の実技の試験というのは、これは美術は大体においてデッサン、色彩、そして立体構成といったようなアート、美術に関するいろいろな能力を確めるための試験をほぼ一科目六時間平均ぐらいで課しております。ですから、具体的に申しますと三月の四、五、六の三日間毎日六時間ずつの科目テストをして、その能力を判定する点数と、共通第一次学力試験の点数とを総合判定して最終合格者を決めるというのが大筋の方向でございます。  また、音楽学部につきましては、これは多少違いがあると思いますけれども、まず実技の試験、例えばピアノを志望する学生ならばピアノの課題曲というのを前年の十一月ぐらいに出しておきまして、例えばJ・S・バッハのトッカータの何番を弾きなさいというふうに問題を与えておきます。で、それを弾かせる。それとは別に、当日試験場側で用意した全く知らされていない新しい曲を一つ提示して、それを弾かせる。これは初見で弾がないといけないわけですが、そういうふうな実技の試験を受ける。この実技の試験というのは、ピアノはピアノ、バイオリンはバイオリン、ビオラはビオラというふうに、それぞれの科ごとに二日間ぐらいずついたします。かなり厳しいというふうに思われるかもしれませんが、何しろこの試験は一遍に並べてできませんので、一人ずつになります。したがって時間的にどうしても二日間ぐらいはとらないと受験者全員のテストができないということになるわけですね。そういうふうな実技の試験をまず課しまして、これによってほとんど順位を決めてしまいます。そうしておいて今度は第二次の実技の試験というのをいたします。第二次というのは、これはただ弾くというのではなくて、音楽の通論、概論のようなものがございますけれども、その楽典の知識が十分にあるかどうか、つまり対位法というのはどういうものであるとか、あるいはソ・ド・ミのコードはどういうふうな響きを持っているんだとか、そういうふうなことがございますが、そういう楽理の知識をまず見ることと、それから耳で聞いた音をすぐ五線紙の上に書きあらわしていく聴音書き取りというのがございますが、そういうふうなもの。それから新しい曲を、五線紙で見ながらすぐその場で歌う。その場合には、これは絶対音感がないといけないわけで、ハ長調の曲をロ長調で歌っては困るんで、そういう音感があるかということがまず見れますし、譜を読む力がどの程度あるかということもすぐわかるわけで、そういうふうな実技に関連する課題を何項目か挙げまして、その試験をして大体順位を決めます。そして先ほどの第一次の実技の試験と第二次の実技の試験の点数の総合並びに最終的には共通第一次学力試験の点数の総合というふうなところまでいって初めて最終合格者が決まるというふうなことになりまして、かなり厳しい実技の試験を課しているということですが、それにしても、共通第一次学力試験の点数というのは総合判定で、どの大学、どの学部もすべて最後の最後まで絡んでまいりますので、学科試験を決して重視しないのではなくて、重視しながら実技の力を十分に見ていくという総合方式をとっております。こういう点からいきまして、我々芸術系大学の場を受験される学生諸君に対して、できればもう少し準備期間、つまり、中学、高校における得意な学習課程というふうなものが考えられないかというふうに思います。東京の国立芸術大学では附属高校を持っておりますが、それと似たようなシステムが芸術系大学の場合にはあってしかるべきなのではないか。それでないと音楽なんかの場合には、本当に高校生のときからピアノを習い始めましたというふうな生徒は絶対に入れません。そういうことを考えますと、芸術系の道を志望する子供にとってはもう少し今とは違ったシステムが幼児教育から小中学教育あたりへかけてもっと濃密に考えられていいんじゃないかというふうな気がいたします。  私がしゃべるべきことはその程度のことかと思いますが、また後ほど御質問があればお答えしたいと思います。
  17. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 以上で参考人からの意見の聴取は終わりました。  これより質疑を行います。  なお、参考人皆様に申し上げます。各委員の質疑時間が限られておりますので、恐れ入りますが、お答えをできるだけ簡潔にお願いいたします。  それでは質疑のある方は順次御発言を願います。
  18. 久保亘

    ○久保亘君 最初に飯島先生にお尋ねいたしますが、国大協入試改善に関するテーマは、先生のお話でよくわかりました。  しかし、受験生にとってはどう変わるのかということと同時に、いつから変わるのかというのが大変重要なことでございますが、国大協入試改革検討は何年度を改革のめどとして、時期的には何年度をめどにおいて検討されているのでしょうか、その点をお聞かせいただきたいと思います。
  19. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) 大学入学試験改革の問題は先ほど申し上げましたように、検討を開始しておりますが、諸般の問題についていつからどう変えるという明確な期日を今予定しているわけではございません。  それで現在の作業のスケジュールといたしましては、入学試験特別委員会で基本的な議論をいたしまして、その大体まとまった中間の案をことしの六月の国大協総会で議論をし、それから国立大学協会の場合は各加盟大学のそれぞれの自主性がございますので、十分各大学での御討議を経た上でものを決めるという習慣になっておりますから、その御回答をいただいて、この秋には特別委員会としての改善方向に関する中間報告が出せるという予定でございます。そうして、でき得れば来年度年度末までに特別委員会としての中間報告に対する御意見をさらに承って考え方を固めるということで今のところ進んでおりますが、御承知のように、入学試験制度を変える場合には、実は現在既に高等学校に入って勉強しておる学生諸君への影響がございますので、もし入試科目その他のことを変えるといたしますと、共通一次の場合もそうでありましたけれども、満二年前に大体こういう方向で変えるということの予告をする習慣になっております。したがって仮に今年度末までに成案がまとまり、そしてそれを実行するということになりましても、その実施というのは基本的な部分については二、三年後になるであろうと。ただ、その予告期間を待たないで処置できるようなことがございます。例えば入試期日の変更をするとか、あるいは二次募集枠を多くするとか、あるいは受験チャンスの問題について改善をするというふうなことは受験の学業的準備に直接関係がございませんので、必ずしも満二年間の予告を置かなくてもいいと。そういう事情でございますから、合意のでき方あるいはそれに附属するところの対策の進み方によって時間にはずれがあると思いますけれども、およそ六十一年度以降、順次、可能な範囲で、しかも合意できた部分について実現を図っていくということになるだろうと思われます。
  20. 久保亘

    ○久保亘君 あとは座って質問さしていただきます。  今、そういうことお尋ねいたしましたのは、文部省の方では五教科科目科目の選定について大学に自主的な選択を認める方向で、六十年度以降そういうことで運営したいという方針を国会で述べられておりますし、また文部省として具体的な改革方法について五十八年度中に結論を出すと説明をされたこともございます。これは、もうここまでまいりますと実際には不可能なことだと、こういうふうに思います。今、先生のお話で、国大協のめどとされているところは大体わかりますが、それならば五教科科目の選定について、大学の自主的な選択を認める方向でと文部省が言われておりますことについて、大学の自主的な選択をやっていくことが共通一次において国大協の側としては可能でありますか。
  21. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) 御質問の焦点、あるいはよく理解していないかもしれませんが、五教科科目について大学が指定をして選択をするということは可能であると思います。ただ、その方式をとるかどうかということについては、まだ全大学が合意をするというところまでは議論が煮詰まっておりませんので、その方向で、先ほど申し上げましたように、ことしの夏までには極力議論を詰めたいというふうに思っております。
  22. 久保亘

    ○久保亘君 石川先生にお尋ねいたしますが、もし共通一次試験がそれぞれの大学において五教科科目の選択について自主的に決めてよい、こういうことならば私大連盟の側としてもこれに関心を示して、参加を検討してもよい、こういうことなんでございましょうか。
  23. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) 私が先ほど申し上げたのは、もし共通一次に私大が参加するとすれば、その条件は今のままではとても無理であると。つまり、それにはそれぞれの学校が望むような、そういうような科目を選択して受けられる、そういう条件がまず第一条件であろう、こういうふうに申し上げたわけで、御承知のように私立大学というのは——私立学校と言ってもよろしいんですが、それはもうそれぞれ独立の存在でありますから、したがって私大連盟として、例えばすべての私大連盟所属の大学は、こういうことで入学試験をやらなければいけないということは、これは決めるわけにはまいらないと。しかしながら、そういうふうに共通一次が変わってくるということになりますと、私立大学連盟としても、御承知のように学長会議とか、そういうのがございますから、そういうところでひとつ私大としてはどういう対応をしようか、こういうことで話し合いができることになる、こういうことだろうと思います。
  24. 久保亘

    ○久保亘君 増田先生、今のような大学側の自主的な選択を認めるということにその制度が変わっていきます場合に、高等学校の側としては高校教育の上でこのことは容易に受け入れられることでございますか、何か問題がございますか。
  25. 増田信

    参考人(増田信君) 今のお話をもう少し具体的に伺いませんと、ちょっと私の方でもお答えしにくいなというふうな感じがいたします。  と申しますのは、自主的に選択するというのが五教科ございます。それから、七科目でも六科目でも五科目でも、さらには三科目でもというような意味で広く大学の自主的な選択というようなことになりますと、これは高校側としましてはかなり重要な、議論をしなければいけない問題になるというふうに思います。
  26. 久保亘

    ○久保亘君 それでは次に、複数受験のチャンスについてお尋ねいたしますが、今私どもが時々聞きますのは、前は、例えば国立大学二回受験できたが、今は受験機会は一回しかないが試験だけは二回になったと。こういうことでかえって負担が重くなったという声も聞こえるんです。その場合に、複数受験のチャンスを復活させる場合には、学校格差の問題などと絡んで従来弊害もあったということなんでございますが、例えば一期校、二期校をつくります場合に、一期校、二期校を年度によって入れかえて固定しない、こういうようなやり方がとれればある程度学校格差というような弊害が防げるのではないかという意見もございますが、国大協の側としては、この一期校、二期校をつくります場合に、学校を年度ごとに入れかえていくというようなことは可能なんでございましょうか。
  27. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) 今御指摘のような意見はありますが、ただ、それが実際上どういう影響を与えるか、可能であるかということについては、先ほど来申し上げましたように、国大協としてもあるいは各大学としても、もう少し検討を深める必要がある。例えば、その一期校、二期校というのは、単に受験の時期の前後だけで毎年交代すればいいではないかという御指摘ですが、例えば、その一期校として受験をする場合と二期校として試験を引き受ける場合とでは、例えば受験生の数が大幅に変わるだろうということがまず予想されます。かつての一期校、二期校ですと、先ほど申し上げたように、一期校は大体マキシマム二倍ないし三倍程度の倍率で試験が行われていたものが、二期校ということになりますと殺到をして、三十倍、四十倍という試験を引き受けなければならない。それが年度によって交代するということになりますと、これは一つ大学としてそれをやる場合に、毎年毎年その受験の準備、受験システム等についてかなり大幅な変更を行わなければならないということになりまして、それらのことが実行可能であるか、あるいはそれがどういう効果を持つかという問題については、先ほど申しましたように、国大協の中にもそういうことも一案として検討したらどうかという御意見ありますので、我々は十分検討したいと思いますが、今の私の考えの段階で必ずそれは実行可能でございますという御返事を申し上げるところまでには至っておりません。
  28. 久保亘

    ○久保亘君 それでは三番目の問題ですね。大学入試実施時期について、高等学校の側として、私立大学受験の問題とか国公立大学の場合の入試の処理の問題とか、そういうものを一応念頭に置かないとした場合、純粋に高等学校教育を十分なものにしていく、充実したものにしていくという立場に立った場合に、共通一次試験の時期というのはいつごろが一番望ましいとお考えでしょうか。
  29. 増田信

    参考人(増田信君) 今のお話のように、他の条件を考えないということで、現在の高等教育の実態の上に立ちますと、二月十日のあたりから二、三日、中旬までというあたりが一番よかろうかというふうに考えております。
  30. 久保亘

    ○久保亘君 飯島先生、そうすると、大学側としては高等学校側が望むような受験の時期というのは入試の処理の上からは大変困難な時期でございますか。
  31. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) いえ、そうではありません。  一つは、先ほども申し上げたように、入試時期の下限と申しますか、二月以降に食い込むということについては、私立大学入学試験が二月の初めから始まりますので、我々の方としては、受験生のためも配慮すると、私学入学試験を余り大幅に妨げる時期は採用できないということが一つあります。  それから技術的な問題としては、今のシステム共通第一次試験を行っておりますと、御承知のように一遍共通一次試験をやりまして、そして採点をいたしまして、大体ことしの共通一次試験はそれぞれの科目については平均点ほどのくらいであったという発表をいたしまして、受験生自己採点の結果とその発表の結果とを見定めた上で第二次の学校を志望するというシステムをとっております。第二次試験の募集は現在のところ二月の上旬に一応募集をいたしまして、そして三月の初めに二次試験を行っておりますので、もし二月の八日ということになりますと、共通一次試験成績を十分に採点をした上で平均点を出して、そして学生がそれを参考にして志望を決めるための期間としては短くなります。少し短くなって、そこには何らかの他の便法を考えていかないと今の方法をそのまま踏襲することはできなくなるだろうと思いますが、これは技術的に検討して可能であるかどうかということを調べなければなりませんけれども、絶対的に不可能なことであるということではないと思います。
  32. 久保亘

    ○久保亘君 時間が余りございませんので、その次は国大協にもう一つお聞きしておきたいのは、先日共通一次の制度をつくるときに文部大臣として責任をお持ちになりました永井道雄さんが参議院の予算委員会に御出席になりまして、共通一次の問題について意見を述べられました。そのときに共通一次の制度だけが悪いのではなくて、今日改革が叫ばれるようになったのは、共通一次の制度をつくるときに国大協がおまとめになった報告の中身のとおりに大学入学試験が実行されていない。特に二次試験について、共通一次制度をつくるときに国大協がみずから報告でまとめられたような形で二次試験が行われていないのではないか、このことが共通一次の改革が今日主張されるようになった一つの大きな原因であるという趣旨のお話がございました。この点については、国大協として共通一次の制度を発足させるときの本来の趣旨が二次試験に生かされていないという指摘についてはどういうふうにお考えでしょうか。
  33. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) 私はそうは思っておりません。永井さんの主観に私が論評を加えるあれはありませんけれども、各国立大学としては第二次試験のために例えば小論文、面接、あるいは実技、推薦制度その他の方法を極力導入しようと努力をしておりますし、それから試験問題の内容も、共通一次試験によって基礎学力の検定ができるために第二次試験の問題というのはそれ以前に比べるとはるかに改善されておりまして、目に見えるような効果というのはなかなかこれは上げにくいことでありますけれども、私は永井さんの意見と全く反対でありまして、国立大学はそれぞれ二次試験について努力もしておりますし、また今後もそれをさらに強化して進めたい、こう思っております。
  34. 久保亘

    ○久保亘君 最後に、これは国大協、私大連盟、高等学校長会のそれぞれ代表をなさる皆様方でございますので、お一言ずつでお答えいただきたいのですが、大学入試センターがございますが、入試制度改善等について、大学入試センターと国大協大学入試センターと私大連盟、高校長会などとの話し合いというのはどの程度持たれているものでございましょうか。
  35. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) 国立大学についてまずお答えいたしますと、入試センターは国立大学共同利用機関という性格を持っておりますので非常に密接な関係で仕事をしておるというふうに一言で言えばお答えできると思います。
  36. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) 私立大学につきましては、私が知るところではそんなに話し合いがあるとは思えない。我々はこれから先少し入試センターとの接触も頻繁にやってみようかという、そういう段階でございます。
  37. 増田信

    参考人(増田信君) 高等学校は、私も入っていますが、そのほか、各地域の高等学校長、それから職業別の高等学校長の代表が入っておりまして、総合部会というのに参加いたしております。これは国大協の代表の方、それから教育委員会の代表の方、それから入試センターで構成されるわけですが、これは、問題があることに御相談をいただいたりあるいは御報告、御連絡をいただいたりして、年によって違いますが、年に一—三回ぐらいはお招きをいただきます。
  38. 久保亘

    ○久保亘君 どうもありがとうございました。
  39. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 次に粕谷照美君。
  40. 粕谷照美

    ○粕谷照美君 先ほど北條参考人がおっしゃった言葉の中に、高等学校における正常な教育を確保することができないとすればというようなことが私は非常にひっかかったわけなんですね。今の入試制度高等学校教育を正常なものにしていないというふうな判断をなさっているのか、あるいは正常であるというふうな判断をなさっているのかということでございますが、北條参考人及び増田参考人飯島参考人にお伺いいたします。
  41. 北條舒正

    参考人(北條舒正君) 最初に私の名前が出ておりましたので私から申し上げたいと思いますけれども、何が正常かということは、これは非常に問題があると思います。それから、もし正常でないとすれば、その原因がどこにあるのか。これは、単に大学とか、高等学校とか、それだけの問題ではないと思います。これは一般の国民が学校教育がどうあるべきかということを理解いただかないと、例えば大学に入るため、それが目標であるということになりますと、私どもが一番困っているのは大学に入った途端に勉強しないとか、これが非常に困るわけです。というのは、それは恐らく大学入学試験に通ればいいんだというのが目標であればまさにそのとおりであるわけですから、むしろ高等教育を受ける目標は何か。先ほど私が申し上げましたように、社会で活躍できる、その資質を養うためだということの、目標がそちらに移らないと、これはちょっと解決できないのではないか。そういうふうに思っておりますが、ちょっと今のようなことが起こっているというふうに言えるだけのあれは私は持っておりませんけれども、その点が心配あるとすればと思って実は推薦入学等もやったわけでございまして、それがあるというふうにはちょっと私は言い切れないと思います。よくそれは知りませんので。
  42. 増田信

    参考人(増田信君) もろ刃の剣のような面があるかなという感じがいたします。最初に私が申し上げましたように、高校は人生の中でわけても進路決定の時期でありますので、大学と結びつくという意味で、大学受験——決して高等学校受験準備の学校にするという意味ではなくて、大学受験ときちんと結びつくという割合が高等学校教育の中にかなり高い割合を占めております。そして高等学校教育大学受験というものが偽らないところで一つ学習の緊張をもたらし、それで学習の進度を進め成果を上げるという面を持つわけです。と同時に、それが行き過ぎる場合にいわゆる受験準備の弊害とか、あるいは無理な進路指導のために個人の進路を損なうとかというようなことがあるということで、一概に大学受験高等学校を毒しているとか毒していないとかということは言えなくて、これは、私たちは、大学受験高等学校にとって極めて親近な関係にあるということで、その意味でもろ刃の剣的なものがあると思いますね。
  43. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) 入学試験制度高等学校教育にどういう影響を与えているかということを考える場合に、入学試験制度というのをどこまでの範囲で見ているかということによっても影響があると思います。たとえば、学歴社会が存在をして、そして競争社会が存在をして、そしてバイアーエデュケーションに行く人の数と資質がある程度限られているという状況がある限り、入学試験の技術的な問題というのを多少いろいろ動かしてみてもその基本的な問題というのはそう簡単に解決できないという意味においては、高等学校大学とのつながり合いないしはその境目のところの問題を契機に高等学校が影響を受けるということはあり得るだろうと思います。  それから、現在の入学試験制度の具体的、技術的側面について申しますと、たとえばかつてこの共通一次試験導入する前にも、大学高等学校教育を乱しているという御批判が非常に多かったわけでありますから、そこで先ほどもちょっと申し上げたように、たとえば難問奇問という形で高等学校で正常に学習していては到底解答できないような問題を排除する努力をしようということで、これは共通一次の導入を契機に漸次改善されているように思います。  それから、先ほど来御議論五教科科目というものも、単に伝統的に入試科目ということであったというので採用しただけではなくて、五教科科目というものを基本的な高等学校達成度において試験をする科目として取り上げなければ、高等学校の側において試験に必要なことだけは生徒が勉強するけれども試験に出てこない科目については、これをまじめに学習しないというような効果があらわれると、高等学校側教育にはさらに過重な困難を与えるという意味がありまして、当時高等学校長会とも数次にわたってお話し合いをしたのでありますけれども高等学校教育目標達成度を見る、また高等学校教育を乱さないという意味においては、五教科科目というバランスがとれたシステムをとるべきであろうということで採用した経緯がございます。  しかし、これも先ほどのようにそれ自体がいろいろ問題が出ているということになりますと、そういう技術的な面で高等学校への好ましからぬ影響というものを排除するように大学側としても努力をするということは、漸次努めていくべきであるというふうに思っております。
  44. 長谷川信

    委員長長谷川信君) ちょっとお願いでございますが、議事の記録はとる関係がございますので、質問をする先生方もだれだれに質問いたします、それから参考人の方も御発言の際にちょっと挙手をしてお願いをいたしたいということであります。
  45. 粕谷照美

    ○粕谷照美君 今の高等学校教育及び私は小中学校にまでこの学歴社会というところからくる入試問題が非常に大きな影響を与えて学校の中に大変な状況を引き起こしているという認識がどうも参考人の御意見の中からはよくうかがえなかったわけであります。  それで飯島参考人にお伺いいたしますけれども、これは一昨々年の九月十日の毎日新聞の社説の中にあるのですが、国立大学の教授にアンケートをとったというのであります。そうしましたら、国立大学の教授が共通一次に強い不満を持って、その七割までが入試改善の目的を達していない、つまりいまの共通一次入試がね、こういうことを回答しているというのでございます。先ほど、永井文部大臣が個人的にと飯島参考人おっしゃったけれども、多分こういうアンケートの結果をもってまたお話もなさっているのではないかなというふうに思っていたわけですが、この共通一次が入試改善の目的を達していないと大学の先生方が思っていらっしゃるということは非常に大事なことなんですが、国大協としては一体これをどのように受けとめていらっしゃいますか。
  46. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) 学歴社会教育に対する圧迫の状態とか影響の状態を認識していないというふうに御指摘があるのは心外でございまして、先ほど申し上げたように、入学試験制度ということを広くとれば、根本は学歴社会制度の問題に帰すると。その面では教育に対していろんな影響を与えているということは、私ども十分認識しております。その範囲の中で、たとえば共通一次試験の技術的な問題について限定して、高等学校への影響というものを改善しようという面でいろんな努力をしているということを申し上げたわけであります。  それから毎日新聞の社説のことでありますけれども、もちろん国大協大学の総合体でありますからいろんな議論が中でございまして、それをベースに今国大協自身としても改善の認識で検討を進めているわけでございます。それで、大学の教員にアンケート調査をなさってそういうことが出たという断片的な社説でありますけれども大学教員がどういう角度でどういう問題について不満を持っているかということも私どもはつぶさに立ち入って検討しております。  その多くの不満の一つは、いわゆる輪切り現象が起こって、そして、自分の学校へは共通一次前にはおもしろい男が入ってきたけれども、今は均等な者しか入ってこないというような不満が国立大学の教官の中には一番多い不満でございます。しかしこれは、共通一次試験を行ったということよりも、むしろ二回の受験のチャンスを一回にして各大学における受験生の分配の点について問題を生じてきたということと、それから私ども共通一次試験というのはあくまで、国立大学というものは大体均等な、均質的な集団大学であると、その中において成り立つという前提で話を始めておりますけれども、御案内のように実際問題としては、格差と申しますか、いろんなアンバランスが存在をしておる。これは学校自体の性質によることもありますけれども社会評価が非常に大きな作用をしておると。そういう中で、たとえば情報社会が発達いたしましたから点数によって物を決めるということが一層正確に進んできていると。この情報化の強度の進歩というのは実は共通第一次試験導入した時期には私どもも余り注意をいたしませんで、むしろ入学試験そのものとしてできるだけいい入学試験を行おうということの観点でこのシステム導入したわけでありますけれども、先ほどから申し上げているように、いろんな問題が出てきたのが現在の状況でございますから、国大協としては、それらの意見は十分に踏まえて現在改善検討をしておる段階であるということでございます。
  47. 粕谷照美

    ○粕谷照美君 石川参考人にお伺いしますけれども、私大がそれぞれの建学の精神に合わせて学生を採りたい、だから共通一次を利用しなくても十分にやっていける、こういうお考えはわかりましたが、私たち国民の側からいたしますと、特に医学部、歯学部ですね、新聞報道なんかにも出てまいりましたように、数学だったらもう本当に一の位しか点数が取れないような人が入学をしているとかなんとかありますね。果たしてこれで医学にたえるんだろうかという心配を持っていたわけですけれども、最低限医学部だとか歯学部なんというものはこの共通一次はやった方がよろしいというようなことをお考えになりませんですか。
  48. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) 医学部とか歯学部でそういう最低点の学生が大学の中に入り得るという事態は、実はこれは異常でございまして、それはむしろ大学自身の私は自戒にまたなきゃいかぬと思います。それからさらに、そういった問題というものについては、やはり私立大学のそういった組織の中でも、そういった問題が起こらないようなそういう努力をやはりしなきゃいけないというふうに思っております。  医学部とか歯学部が最低共通一次を受けるべきだという、これは私は一つ方法だとは思いますけれども、しかし先ほど来申しましたように、私立大学というのはそれぞれが独立の存在でありますから、したがって、我々が私立大学に対して、歯学部、医学部に対してこうこうしなければならないということを命ずるわけにはこれはいかないわけですね。ですから、そこに我々の立場としては限界がありますけれども、そういう異常な状態が起こるということは何としても避けなければいけない。それはそう思います。  それからもう一つは、そういった点数を持った人間が仮にいたといたしまして、そのときに、じゃそういう人間が医師になれるかというと、実際にはそのためには国家試験があるわけですね。その国家試験を通るとは私は到底思えない。したがって、その面ではそこでもってチェックされているということはあり得るんじゃないかというふうに思います。  それから、そういうことで問題を起こした幾つかの私立の医科大学ないしは——医学部はなかったと思いますが、医科大学でしょうね、それはあったかと思いますけれども、それは御承知のように、今日ではほとんどその全部が私は体制を整え直してきちんとやっていると思います。名前はちょっと避けますけれどもそういう状況にあると、そう思います。
  49. 粕谷照美

    ○粕谷照美君 佐藤参考人にお伺いします。  共通一次は大変ありがたいと、こういうふうにおっしゃられましたけれども、芸術系の大学にとって共通一次というものの比重は大体その半分ぐらいとか三分の一ぐらいとか、そういう見方というのはどんなふうにお考えでしょうか。デリケートなところは教えていただけないと、こうおっしゃいましたけれどもね。
  50. 佐藤雅彦

    参考人(佐藤雅彦君) 具体的にどうというふうに決めつけて物を言うことが大変難しゅうございますけれども、我々が感じている範囲で申しますと、芸術系大学における学力試験ウエートというのはざっと三五%から四五%ぐらいの重みと、それであとが実技の配点というふうに、これは学部によって違うところがあると思いますし、すべてを尽くしているとは申せないと思いますが、目安としてはそういうところだろうと思います。ただ、もう少し低く見てもいいんじゃないかとか、我々の大学内部でもいろいろな意見がございますけれども、大勢としてはいまそれぐらいの比重でやっているのが公立系三芸術大学だと思います。
  51. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) 先ほどの粕谷議員のことに追加してちょっとお答えいたしておきますが、私立大学の医学部、歯学部ともにやはりそれぞれの大学でそれぞれの必要な学力試験をやるわけですね。したがって、共通一次を利用しようということであっても、その場合の共通一次は現在の共通一次ではない。それは利用している学校一つありますが、それよりも、先ほど来申しているように、アラカルト方式ならより利用しやすくなると、そのことは申し上げておきたいと思います。
  52. 粕谷照美

    ○粕谷照美君 終わります。
  53. 田沢智治

    ○田沢智治君 各参考人に本音の部分をひとつ聞かしてもらいたいと思います。  まず、飯島参考人に二、三お伺い申し上げます。  共通一次試験制度実施された直後、これで受験地獄が解消され、受験生に開かれた大学入学者選抜制度確立がなされ、多くの国民は希望と期待を持って迎えたのではないかと私は思っておるんです。しかし、実施されて六年たった今日どうかといえば、先ほど先生方も申されたように、学力による大学格差の序列化受験産業による学校教育の支配、模擬試験ラッシュというようなさまざまな現象が出てきちゃって、特定の国公立大学への受験者が集中して地方大学への受験者が余りふえぬと。能力、適性、進路希望などに合った大学選びすらできないで受験地獄の激化を進めているという現実がさまざまな教育の荒廃を招いておる要因であると、こう言われておるわけです。  そこで、ことしも三十四万人の多種多様な個性と能力を持った受験生五教科科目の画一化した試験科目実施して、共通一次の得点数によって足切りをしたり、自己採点による第二次試験受験生に選はしたりする制度、潜在的な能力、個性、豊かなる人間性というものを発掘して国家社会発展のために尽くさせようというのが大学入試の基本であると思うんですが、こういうような現実を先生方がどう考えられるか。  特に私は、足切りがある限り学力による大学格差の序列化というものは絶対に解消されないんじゃないだろうかというふうに思うんですが、この足切りの実態というものについて、もう今後一次、二次、総合判断でやるんだと、一次の足切りはしないというような方向性は協会の中にございますか。
  54. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) 私は終始本音を申し上げているつもりなんですが、足切りの問題といまの御質問は、私はいろんな事象を、大変失礼ですが、短絡してごちゃまぜにしてお話しになっているんで、私としては本音を言おうにも大変難しいということがまず第一にあります。  入学試験の問題というのは、もう少し物事をやっぱりきめ細かく順次押さえて、現象の把握についても十分慎重の上で議論を進めていただくということをぜひ国会にもお願いしたいというのは、これまさに本音の本音です。まず第一。  それから第二に、足切りというのは、現在実際としては足切りを行われている学校のパーセンテージは非常に低いんです。これは共通一次の導入の初めから、非常に議論の対象になりましたけれども、私ども共通一次試験に関する認識は、共通一次試験というのは各大学の行う入学試験の一部を共通に行っているというにすぎないわけでありまして、したがって、共通一次試験というのは各大学入学試験から離れて存在をするものではない。足切りという言葉を使いますと、非常に印象が悪いわけですが、入学試験の第一次試験導入した目標は、第一次試験によって高等学校の基礎進達学力を見ると。画一的とおっしゃいますけれども、現在、高等学校ではこの教科科目をこのレベルまで勉強させようということは高等学校教育の基本目標になっているわけですね。その基本目標になっている範囲のことを共通一次で確かめて、それで出た時間のゆとりやその他を使って第二次試験の場面で、先ほど御批判はありましたけれども、できるだけ多面的な方法導入しようというのが趣旨でありますから、私はその共通一次試験がちゃんとした形で行われるならば、御心配のようなことは漸次解消していくべきはずのことであるというふうに思っております。  ただ、先ほど申し上げました第二次試験のチャンスの問題とかその他の問題でいろいろ改善を要することのあることは重々承知をしております。  それから、世に資格試験ということがよく言われますけれども、資格試験というものこそまさに足切りなんですね。私どもの認識では、共通一次試験は二次試験とあわせて各大学の行う入学試験であるから、各大学が両者をあわせて最も適正な方法入学者選抜をなさる。その一つ方法として第二次試験を十分に行う場合に人数が非常に多過ぎて、そして十分な手当てができないという場合のケースについては足切りと言われている措置をとるということもまたやむを得ないと思っております。悪だというふうには思っておりません。
  55. 田沢智治

    ○田沢智治君 そこで問題は、各学校大学の平均点というんですか、うちの学校はこの辺までの人を第二次で受験資格的なものを認めますよというようなニュアンスがあるだろうと思うんですが、もしあるとするならば、その平均点、標準点といいますか、その近い下の受験生の道をある程度願ざすというところに問題があるんじゃないかと、私は思うんです。その辺のところはいかがお考えですか。
  56. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) いま足切りとして一般に行われているのは点数で切っているわけではないんですね。  例えば、ある学部の第二次募集が三倍を超えた場合、あるいは四倍を超えた場合、これは第二次試験を十分に行うのに人員的な点で問題があるので人員を制限をしたいということだけでありますから、だから必ずしも何百点で足を切っているということではない。三倍以上になればそれについて十分な入学試験、二次試験を行うために数の上で切っているというだけのことであります。
  57. 田沢智治

    ○田沢智治君 そこで、受験生の多くに、ある新聞社が調査したところ、やはり五教科科目を減らしてくれという希望が四人のうち三人ぐらいはそういう希望であるというような話がずいぶんあるわけです。そこで、英、国、数を基本教科として共通一次を行って、二次前に第二回目の科目アラカルト方式を採用してやったらどうだろうかというような意見も聞いておるのでございますが、その点いかがお考えですか。
  58. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) 先ほど申しましたように、教科科目の数の取り扱いとその弾力化の問題はいろんなケースが考えられますので、現在国立大学協会としては、いずれの考え方も取り上げて、そして鋭意検討しておりますから、今、議員のおっしゃったようなことも一つのケースとしてあり得るだろうと思います。今の段階はその段階でございます。
  59. 田沢智治

    ○田沢智治君 そこで、極端な意見もあるわけですが、三十四万だ、五万だというような大量の受験生共通第一次に参画するというようなことで豊かな能力、個性というものを適正に評価するには画一化した共通一次では抗し切れぬじゃないかと。それならば第一次共通試験をもう廃止しちゃって、各大学独自に入試をしたらいいのではないかと、まあ昔に戻すという意味ですか、そういうような多種多様なる受験方法というものを各大学の独自性なり各大学性格に合わして施行した方がより親切ではないかというような意見かなり出ておるんですが、こういう意見に対してどうお考えですか。
  60. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) 私どもは、共通一次試験方法が絶対的であるとは思っておらないわけでございます。もともと四十六年当時国大協入試の問題に取り組みました時点でも、入学試験を行うというのは、言葉は少し悪いんですが、やむを得ざる悪であると。しかしその弊害はなるべく減らすように努力をしようというのが私ども共通の認識点の出発でございますから、したがって、共通第一次試験が絶対的な方法であって、それ以外のものを全部拒絶するという姿勢で検討しているわけではありません。ただ問題は、今、議員のおっしゃるように、共通試験をやめてもとへ戻してしまうといいますけれども、例えば受験生の数、進学者の数がもう二十年前と今とは完全に違っておりますし、それから社会の組織の高度化あるいは生産状況、労働状況、すべてのことが変わっておりますから、シミュレーションの問題として一遍もとへ戻して、どんな事態が起こるかということは十分検討してみる価値があると思いますが、私は今の共通一次の弊害が今おっしゃったような方法によってたちまち解消してみんながにこにこするということはまず考えられない。むしろ新しい問題点、不平不満、弊害が今よりより多く出てくる可能性があるので、その共通一次を批判するのは、私自身も批判的に考えておりますけれども、やはり積極的な代案というものがなくてはならない。もとへ戻してみるというのは私非常におもしろい方法だと思いまして、国民の全部が我慢をして受験生も我慢をして、十年ぐらいどんなことが起こってもいいよと、とにかく一遍実験やってみようというのでごちゃごちゃになさるということを国会でもお決めになるというなら我々も喜んでそれをやってみたいと思います。
  61. 田沢智治

    ○田沢智治君 もう一つ学歴化社会、確かにそうです。ある程度は構築された社会情勢だろうと思うんですが、現在、多少取りざたされているように大学入学時期を九月にしたらどうだろうかというような検討もどうだろうかという意見もあります。こういう問題についていかがお考えでございますか。
  62. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) この九月にやる試験説というのも、実を申せば共通一次試験導入のそもそもの初めから御議論のあるところでございまして、私はこの導入の当初に衆議院の文教委員会で同じようにいろいろ御議論を承ったことがありますが、そのときにも九月を考えたらどうだという御意見ございました。国立大学協会は、その当時も九月説には注意を払いましたけれども、それを結局踏み切れなかったのは、国立大学だけが九月卒業ということでいいかどうか問題があります。私学もそれに賛成しなければならない、それから大学だけが九月ということの基準を決めるということが、例えば社会の就職採用のシステムにどういう影響を与えるか、高等学校は三月で大学卒は九月であるということでいいかどうか。それから高等学校を卒業してから、三年終えてから九月まで六カ月の時間というものを置くことがいいかどうか。それから、その場合に大学は、例えば四年の大学制度を三年半で三月に出すのか、九月に出すのか。三年半にするとすれば、これは大学制度かなり根本的な改革でありますから考えなければなりませんし、九月に延ばすとすれば国民は一般に今の制度でこれまでで大学教育が終わるということを期待しているわけでありますけれども、いわば半年を過重に教育のために割くことをお願いしなければならない、そういうことが果たしていいかどうか。それから国際的に九月入学をやっているというところもありますけれども、大勢としては四月が多い。会計年度の関係はどうなるかといういろいろなことを考えますと、とても私ども国立大学協会の中だけで九月なら九月に踏み切るということを決定すべき事柄ではないであろうというので、これはむしろ広い社会的な御検討を待つ問題であろうと思います。一つのアイデアであることは確かでありますし、検討に値することであると思います。
  63. 田沢智治

    ○田沢智治君 ありがとうございます。  次に、石川先生にお伺いしたいんですが、将来共通一次に私立学校が参加するとすればアラカルト方式検討してもらうことが一つの条件である、こう申されましたが、その他の改革条件というもの、こうしてもらえばなおいいんだというような点がその他ございますか。
  64. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) 私は、現在考えておりますことは、つまりアラカルト方式を採用したときに、私立大学がそれに全部参加するという保証はこれはないのであります。しかし、参加しやすくなるということは、これはあり得ると思うのです。ですから、そういう意味ではまずその問題が片づかなければほかの問題をやってみてもこれは意味がないというふうに考えますので、その問題をまず一番必要なものとして提起しておきたい、こういうことでございます。
  65. 田沢智治

    ○田沢智治君 その次に石川参考人にお聞きしたいのは、高等教育機関のうち私学が占める割合というのは八〇%に近いと、こう言われておるのです。ですから、私学自身が入学選抜方式をかく変えるのだという一つの基本的条件を社会に提起したとすれば大変な改革への道を切り開くことができるのじゃないだろうか。私立学校はそういう意味では建学の精神、そして教育方針あるいは創造的な教育内容をみずからの力でできるようになっておるわけです。ところが、国公立に追従したような形で、私立学校が今日入試問題についても何か国民的期待にこたえていくという前向きの姿勢で、うちの私立学校は皆で総合的に検討した結果こういう選抜方式を例えば来年からとりますよというような改革試案というのをひとつまとめて出していく、先ほど先生が窓口の多様化、こういうような方式も私はすばらしいことであると思うのですが、そういう意味で全私連において入学選抜基準というものを各私立学校は変えていくぞというような試案を検討し、世の中に発表していくという意欲的な姿勢はございますか。
  66. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) 田沢議員のお話でありますけれども、私ども私学は別に国立大学に追随をしているという気持ちは全くない、それはまず申し上げておかなければならない。それから、入学試験の多様化という問題については、これは国立大学より私立大学の方がはるかに進んでいると私は思います。それは全体として、たとえば、私学の団体として、こういうようなつまり改革をやりますよということは言わなくても、現実に学長会議を開いたり、あるいは総会の中でそういう問題をもちろん議論はしております。したがって、そこに出席していた各私立大学の学長は、そこの議論の中から自分たちの学校は一体どうしようかということを酌み取っていって、そして自分たちの学校の、何と申しますか、入試改革をやっている。例えば例を挙げますと、今しきりに問題になっています推薦制の問題にしても最も広範に取り上げているのは私は私学だと思います。帰国子女の問題でも統一的にこれを取り上げたのは私学であります。さらに加えて言いますと、入学の中で、例えば格別な特技を重視するというような意味での改革をやっている学校私学が初めであります。  ですから、私どもは先ほど来しきりに申し上げておりますように、私立大学ないしは私立の学校というのはそれぞれ独立の存在でありますから、したがって、それが構成している団体が学事の問題に対してこうすべきであるというような立ち入った命令はできない。それは私学団体というものの私は性格だろうというふうに思います。しかしながら、こういった問題が非常に厳しく取り上げられている状況の中では、もちろんその団体においても、そういった問題の改善はどこを志向すべきかということは考えておりまして議論をしております。したがって、その影響を受けた私立大学が私はいろいろな意味でそれぞれの考え方でそれを受け入れてやっていると、こういうふうに申し上げたいと、こう思います。
  67. 田沢智治

    ○田沢智治君 大変結構だと思います。大いにそういう方向で頑張っていただきたいと存じます。  なお、先ほど飯島参考人にもお聞きいたしましたが、九月入学の問題について、私立大学の方はいかがお考えでございますか。
  68. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) 私も、九月の問題というのはデメリットばかりではないんですね、確かに。例えば学生が留学をするときでも、あるいは教授が外国へ行くときでも、いろいろな意味で九月というのは便利であるというようなところはやはりあると思うんです。しかし、これも先ほど来お話が出ましたように、例えば国の会計年度との関係一体どうするのかとか、さまざまな問題があるわけで、そういった問題についての解決が図られてこないと、私学としても九月がいいし、あるいは九月を実現しようという結論にはなかなかならないということであろうと思います。
  69. 田沢智治

    ○田沢智治君 増田参考人にもう時間がございませんので一つだけ。  増田参考人は、全国の高等学校の校長先生の方の協会の会長だと聞いておりますが、高等学校を代表するということになると、第一次共通試験実施されるについても、高校三年生の三学期の授業が正常にできるように配慮してほしいとか、あるいは高校生はこういうことを望んでおるんだと、入試についてはこうしてほしいとかということを、もっともっと協会として大学側に主張なさればなさっただけ私は効果が出てくるんじゃないだろうか、少し御遠慮されている向きがあるのではないかという話も私のところへ来ておりますけれども、そういうことはないと私は思います。きょうの話を聞きましてよく理解いたしましたが、そういう意味で、高校生全体の利益代表、高等学校教育を守り、発展させていく責任の任を担っているんだということによって、各大学に対してこういう点をこうしてほしいという希望があれば一言お聞かせをいただきたいと存じますが。
  70. 増田信

    参考人(増田信君) それを申し上げる前に、委員ちょっと触れられました前段の点でございますが、先ほども申し上げましたように、私たちの願いとそれから大学側の考え方とが一致して、そして共通一次を中心にする国公立の大学入試制度が始まったということで、私たちもこれを育てるといいますか、よりよい方向に持っていくということで御協力を申し上げてきているということでございます。  それで、最近になりまして、いろいろの御批判があり、私たちの間でもいろいろの議論が出ているというようなことで、国大協委員の先生と文部省が仲介してくださいまして、お話し合いをし、希望を申し上げ、私たちの意を酌んでいただいております。それで、先ほども申し上げましたけれども、これを育てていきたいと。私たちは先ほどのお話のように、やめたらどうだというような発想は、実務家といいますか、実際携わっているというようなことで代案もなしに軽々なことを言えるわけでもないし、そしてこれを改善工夫していくということを考えておりますので、そういう意味で、この趣旨の本来の、もともとの当初に文ち返った形で一次と二次とがうまくマッチして一つのセットとして機能するようにと、先ほど佐藤先生のお話伺いまして、特別の学部であるということもあるけれども、なるほど私たちが考えていたセットの一つの理想像のような形が描けたような感じがいたしました。そんなことで、セットで生きていくことをお願いしているということでございます。
  71. 田沢智治

    ○田沢智治君 私もまことにそれは大賛成です。やっぱり共通一次、二次、総合点においてその人を評価してやるというような道を強力に推進していただきたいことを御主張していただきたいです、私たちも議会で徹底的にそういうことを主張しますから。  私は終わり。
  72. 林健太郎

    ○林健太郎君 私は国大協のOBでありまして、殊にこの共通一次とは大変縁が深うございます。国大協共通一次を決めたのは私が国大協の会長をしているときでありまして、それまで飯島先生と一緒に大いにこの実現のために努力してきた人間であります。したがって、その後も私は参議院議員になるまでは大学入試センターの評議員をしておりましたので、この共通一次と大変縁があるわけであります。ですから、当然共通一次には愛着を持っております。しかし、だからといって、それ以後、それまで予期しなかった事態とかあるいは考え及ばなかったようなことなんかが出てきますればさらに改善を加えるということのために努力するのは当然であります。  しかし、それにしましても、最近になりまして、現在、教育改革ということの一環といたしまして大学入試改革、特にこの共通一次の改革ということが突如として出てまいりましたのには私は非常に理解できないものがあるんです。それで、大体余り物を知らないで言っている議論が多過ぎる、そう思います。例えば五教科科目が多いというようなことがもうアプリオリに前提されておりまして、これを減らせ、減らせというようなことが盛んに言われておりますけれども、これも今までたびたび御説明ありましたように——これは質問じゃなくて——十分理由があってやったわけですから、これは非常におかしいと思うんですね。それから、これを減らしさえすれば受験生が楽になる、あるいは大学に楽に入れるとか、そういうことはあり得ないわけでして、これは減らせばわずかな科目の中でまた非常に競争が行われますし、それから高等学校教育の正常な教育を乱すということになりますれば、これは今でも私立大学は少ないわけですけれども——それは別に何も私立大学をふやさなきゃいかぬということを決して思いませんが、しかし、国立大学も私立大学と同じに全く三科目とかだけに試験科目がなってしまいましたらば、これはもう高等学校教育を乱すこと甚だしいものがありまして、めちゃくちゃになってしまうと思います。  それからまた輪切りの問題ですが、あるいは足切りの問題ですが、これは私が前におりました東京大学では、この共通一次をやる前から足切りをやっているんです。第一次大験をやりまして、それで足を切りまして、それで合格した者が第二次をやっておったわけでしてね。共通一次ができたから足切りができたわけでも何でもないんです。  それからまた、この共通一次やりましてから私立大学の非常に、何といいますか、内容が上がりまして、それで慶應大学とか早稲田大学へ入るのは東大へ入ると同じぐらい難しいと言われております。したがって、予備校の輪切りというのと別に私立大学の輪切りもあるわけです、早稲田へ入るには何点以上でなきゃ入れないということがですね。ですから、科目を減らせば輪切りがなくなるなんていうことはないわけでしてですね。そんなことばっかり言っていると質問ができませんが……  それで質問は、にもかかわらず、それはいろいろと批判もある以上は改善を考えておられるということで、まずあれですね、アラカルト方式ですね、これについてもうちょっと伺いたいと思います。  石川先生のおっしゃったアラカルトというのと、それからちょっと言われているアラカルト、例えば森文部大臣が言っておられるアラカルトとちょっと違うように思うんですがね。国大協としてはこのアラカルトをどういうふうに考えていらっしゃるんでしょうか。飯島先生お願いします。
  73. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) いま御指摘のように、アラカルトという言葉は一般化しておりますけれども、その具体的内容はどういうものであるかということについては各理解がかなりばらばらでございますので、私どもが今、入試特別委員会ではアラカルトということを具体的に展開すればどういう可能性とどういうパターンがあり得るかということを検討しております。それで、ですから別に国大協としてこの問題について結論が出ているわけではなくて、なお検討中でありますが、私どもが了解しておりますのは、五教科科目という出題自体は行うと、ただ各大学学部等で、うちの大学の二次試験を出願をする者については五教科科目全部をとってくる必要はない、例えば三教科科目だけをとっておけばそれでよろしいということを各大学の自主性の範囲で選ばせる弾力性をつけるということをまず考えております。  ただ、先ほどお話もありましたように、教科単位で選択をさせるのか、あるいは科目単位で選択の幅を広げるのか、これは入学試験の実務上から申しますとかなり大きな違いがあるものですから、その点にも踏み込んで検討をしているということで、受験生が自分の思うままにある部分だけをとるという意味でのアラカルトを現在考えておるわけではございません。
  74. 林健太郎

    ○林健太郎君 それではもう一つ受験機会を一回きりじゃなくて二回与えるということですが、さっき久保委員一期校と二期校を復活させるようなことをちょっとお考えのように伺いましたけれども、そうじゃないんじゃないでしょうか。私の考えるところでは、それはもうほとんど不可能であって、いわゆる何といいますか、定員留保といいますか、定員を少し、わずかにとっておいて、それから第二次でもってまたさらにとると、そういう方式じゃないかと思うんですが、いかがでしょうか。
  75. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) よろしゅうございますか。  この入試期を、回数をふやす問題についても二期ないしは三期の復活と申しますか、その問題も含めてなお検討しております。ただ、現時的な問題として最も弊害なくしかも受験回数をふやすという方法で達成可能であると思われますのはおっしゃいますように、各大学が二次募集定員を保留して、そして各大学について二回の二次試験のチャンスをつくるということが適切のように思われます。ただ、その他の方法についても含めてなお検討を進めておるということでございます。
  76. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) 先ほどのアラカルト方式ということですけれども、私が考えてますのも実は飯島先生のとほとんど同じなんです。  それはどういうことかと申しますと、それぞれ私立大学がこうあって、その私立大学はこういう科目について試験をやりたい、あるいはこういう教科について試験をやりたいと、こう考えますと、そういうふうに決めますと、学生はその大学入試要項を見まして、自分はこの大学へ行きたいと、そういうふうに考えたときに、その大学要求する科目教科をその学生が五教科科目じゃなくてそれを受ける、それがそのそれぞれの大学へ結果として行く、こういうことだと思うのです。ですから、大学によっては例えば、本当は二科目試験をやればいいんだけれども、しかしこの科目についても参考的な意見はとっておきたいということになればそれは受ける科目の中に追加することも可能である。学生の方が選ぶのでないということはもうはっきりいたしておりますので、そういうふうにお考えいただきたいと思います。
  77. 林健太郎

    ○林健太郎君 時間が参りましたが、じゃ最後にちょっと北條先生、今度は経済学部で新しい方式をおやりになりましたが、その追跡調査のようなことはまだおやりになっていませんでしょうか。
  78. 北條舒正

    参考人(北條舒正君) 追跡調査を実際やっております。これはまだ集計は全部終わっておりませんので正確なことを申し上げられませんけれども、例えば、私どもがねらっておったのは個性派ということでございまして、その人たちがその前年度までに入ってきた学生とどこが違うかということ、これは数の上で出しておりますけれども、例えば非常に授業に出席がいいとか、それから積極的に本を読むとか、そういうのがふえているということで、今の段階は信州大学としてはいいんじゃないかと思っておりますけれども、これはなお中間発表でございます。十ページばかりのごく簡単にまとめてございますけれども、そういうものはつくってございます。    〔委員長退席、理事田沢智治君着席〕
  79. 林健太郎

    ○林健太郎君 それじゃ質問を終わりますが、とにかく先生方のお話を伺いまして、大変綿密によくやっていらっしゃるので、大いにその調子で頑張ってくださいと激励いたします。
  80. 田沢智治

    理事(田沢智治君) じゃ続きまして、高桑君。
  81. 高桑栄松

    ○高桑栄松君 それじゃ質問をさせていただきます。  私も、林先生ほど大先輩ではございませんが、OBでございますので、何となく先生方のお話を伺っていると一々ごもっともなんで、ちょっと困っているところでございますが、しかし一応入試というものを改革すべきであろうという世論的なものがございますし、北條先生がおっしゃったんですね、入試は永遠のテーマだと。確かに。新しい制度をつくると、よかれと思ったことが何らかの形で欠点が出てくる、これは当然なことでございますので、時に応じて改革を少しずつでも進めていくというのが本来のあるべき人間社会進歩の姿かと思うんです。  それで、ちょっと伺いたいと思うんですが、教育の利点というのは自由と平等が根底にある。つまり、平等というのは貧富にかかわらず教育を受ける権利が公平である。これは洋の東西を問わない、古今を問わないわけでございますし、それから自由というのはやっぱり競争の原理がここに働いている。その二つがやはりあってこそ教育があるのではないかと、こう思うんです。それで、大学があるから入試がある。入試があるから高校教育がそこに影響を受ける。それに対して中学も受ける。小学校も受ける。教育ママさんも受ける。こういうことになるわけで、ですから、この問題というのは教育制度改革全般にかかわる問題だろうと思うんですけれども、きょうは入学制度のことだけですので、限ってお伺いしたいと思うんです。  まず第一に、共通一次試験のことが出ておりますが、共通一次試験の今の五教科科目ということから発して、国公立大学と私立大学との間でどっちを目指すかということで、もう勉強方法高等学校の生徒の間で変わっている。つまりはっきりグループ化されていく。それがそれでいいのかという問題がやっぱりあるわけで、もう一つは、これが受験生の数が非常に多いということからマークシート方式が採用された。これもまことにもっともだと思います。しかし、マークシート方式は非常にテクニカルに走るおそれがあって、果たして人間形成教育ということを含んでいるかどうかというのは非常に問題になっているわけです。    〔理事田沢智治君退席、委員長着席〕 そういうことで、さっき飯島先生が、これは資格試験ではないんだとおっしゃったんですけれども一つ考え方として、共通一次の試験のレベルをぐっと下げてというか、試験問題をもっと下げていって、そしてこの試験で、例えばABCDという程度のクラスにして、それを一つの資格試験的なものにして、その次にアラカルト方式で二次試験をがっちりやる、そうすると受験生負担がもう少し共通一次に対しては緩くなって、そして自分の得意とする科目に集中できるのではないか、こんなふうに私はちょっと考えてみたんですが、これは飯島先生、それから石川先生、いかがでしょうか。
  82. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) 一番初めに、高桑議員のおっしゃった教育制度の問題に根幹があるということは私もそう思います。それで、高等教育というものを今後どう考えていくか、それから生涯教育というものをどう考えていくか、その高等教育とそれから生涯教育のフレームの中で大学というものはどういう部分を受け持っていくかということが現状よりもさらに将来に向かっては進歩をするだろうと思われますし、そのことを念頭に置いて我々も考えていかなければならないということは同感でございます。  それから第二に、資格試験でないということを申し上げておるのは、資格試験ということになりますと、これはむしろ大学が行うものではなくて、高等学校が行うべきものだと私は思います。それからもう一つ、資格試験制度というのは、やはり入学定員制度とは全く対立する概念であって、それは西ドイツの経験がよく御承知のとおりでありますが、大学入学資格を与えるということは、同時に国としては大学に入って勉強するチャンスを保障しなければなりませんね。したがって、この入学定員制ということと資格試験制ということとは基本的には両立をしないし、またその西ドイツのアビツアーとか、フランスのバカロレアがそれ自体いろんな問題を起こしているところがあることは御承知のとおりですので、私どもは安易に資格試験という言葉は使わないと。もし使うとすれば、そういう基本的問題を踏まえて物を考えていかなければならない。仮にこれを実行したとしますと、今度は、これは一つの予想でありますからそうならないことが望ましいわけですが、全国の高等学校に序列ができる可能性があるかもしれません、事によると。したがって、資格試験ということを安易に議論されますけれども、私どもとしてはもう少し根本に入って議論する必要があると思っております。  それから第三番目の問題は、共通一次試験つまり平均点をもう少し上げるような努力をしたらどうかということは検討に値することでありまして、これは現在入試センターとも連絡をしながら、国大協の中でも、今現在出している問題のレベルというのは、受験生を対象にしますと、大体そのピークが六十点のところへくるということを目標にして、これは非常にきれいなカーブが出ておりまして、毎年異同がありません。このピークを例えば七十点のところに持っていく、あるいは八十点とか百点満点ということが可能でありますが、そういうことが一体どういう効果を及ぼすかということを現在検討中でございます。  共通一次試験というのは実は二重性格を持っておりまして、一つ高等学校教育達成度を見るという意味があります。そのことから、受験生が大体六十点のところへ最も多数の人が集中するというレベルの問題で、しかもその高等学校で教えられたことの中から出題をするという方針でやっているわけでありますが、そのことのために、同時に共通一次というのは選択機能を持っております。この二つの機能のかみ合わせの中で今の問題をどうするかというのは検討に値するので、これは現在検討中でございます。  それから第四番目の問題は、現在五教科科目というのは重圧であるということの中に、私は、今、村議員もおっしゃったように、そのこと自体が重圧であるかどうか非常に問題でありますが、ただ、国立大学と私立大学とをあわせて受験をしようという人にとっては一つのギャップになっていることは事実でありますから。したがって、先ほども申し上げましたけれども、私立大学も含めて私立大学との渡りの問題をどうするかというのは検討に値することであるので、これも検討の課題の中に入れて進めておるという状況でございます。
  83. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) 私の御質問に対する意見も大体飯島参考人と同じような考え方です。ですから、特別につけ加えることはないんですけれども、ただ共通一次を資格認定試験にしようということは、これは非常に難しい問題を伴うと。それは第一に、つまりその認定試験に外れた人間はとにかく全部大学受験はできないということを決めるわけでありますから、したがって、そのことに対する国民の感情という問題はもちろん一つ出てくると思います、それから国がもし資格認定をやるということになりますと、認定された人間については大学へ行くことを保障しなければいけません。これは非常に大変なことだろうというふうに思いますので、一つ考え方だとは思うんですけれども、どうも資格認定試験というふうに定義づけることは難しい問題を呼び起こすんじゃないか、そういう感じがいたします。
  84. 高桑栄松

    ○高桑栄松君 それでは次の質問ですけれども入学試験の多様化ということが論議されておりますが、言葉としては非常にきれいでうまくいきそうに思いますが、かなり抽象的なものでございまして、私も北海道大学入試の全体の委員長をしたことがありますけれども、一点を争うというのがいかにも一見極めて平等、公平であると、異議申し立てがないということを言っていまして、ですから、いろいろな多様化というときに、それに対して受験者例から異議申し立てがないのだろうかということが、つまり質の違うものを同じ評価の物差しではかるとすれば問題が起きやしないんだろうかと。先ほど飯島先生が言われたように、西独のボンなんかでは何かくじ引きか何かでやって訴訟を起こされているということがあるようですが、これはやはり石川先生あるいは佐藤先生のお話を伺いたいと思います。
  85. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) 私は日本の明治以来の教育制度を見ておりますと、義務教育は画一化なんですね。しかし、高等教育については能力主義という建前が貫かれてきた。ところが、それが戦争が終わって後になりまして、さらに能力主義というのがつまり客観主義と猛烈に強く結びついたわけですね。それで客観主義というのは結局一番客観的に表示できるのは点数である。点数が一番客観的に表示できるとなれば、それは学力が一番客観化できると、点数化できると、こういうことで、いまの日本社会の中では要するに学力というか、入学試験の点が点数化される。これがまさに唯一の基準であるそれを外れたら、もうそれは公平ではなくなると、こういうような考え方が非常に強いんだと思うんですね。したがって、おっしゃるとおり、多様化をするということになりますと、実はそういう成績の点数化のような客観化というのはなかなか難しいものが出てくると思います。例えば高等学校についてもいろいろな高等学校があります。その高等学校で例えば何らかの点の学力以外のものについて例えば4という数字がついたときに、ほかの高等学校の一体4という数字とそれはどういうふうに関係するのかという問題もある。それから例えば面接をやろうといったときに、面接の評価というのは、これは本来的に主観的な判断が入るわけですね。で、教師の判断を我々は信用しなければそれはでき広いわけです。ですから、そういう意味で今の、つまり客観主義イコール点数主義、それ以外は全部悪であると、こういうように仮に考えますと、そういう考え方の上に立ったら、多様化ということはこれは非常に難しくなる。ですから我々は、全人格的に、例えば私学にとって、自分の学校にとってふさわしい人間をとろうということをもし考えるとすれば、それはできるだけいろいろな項目について、でき得る客観化はしなきゃいけませんけれども、しかし、そこに主観的な判断が入ってくるということはこれはもう避けられない、そのことをやはり覚悟しませんと、これはなかなかやれない。私は、そういう意味で、入学試験の中での多様化というのが非常に難しいから、したがって、窓口の多様化をもってそれにかえよう、こういうふうに考えたわけです。
  86. 佐藤雅彦

    参考人(佐藤雅彦君) 今、石川先生のおっしゃいましたメジャーの問題で、学科試験ですと、一問が何点、それでここの間違いは何点引くというような計算がぱっぱとできますから、点としてちゃんと表へ出てまいりますけれども、我々の方でやっております実技の試験の場合にはこれは相対点で、絶対点が出ません。それでメジャーの問題というのは非常に困難なことになるわけでございますが、美術の方に関しても、音楽に関しましても、そのメジャーの不正確さをある程度補うものとしては、メジャーをたくさんそろえるということを一応しております。  つまり、スケッチ、デッサンといったような科目の採点をするときに、昔は三人ぐらいで見ていたんですけれども、近ごろでは大体十人近くの審査員がすべて一人一人目を通していく。そしてそれをA、B、C、それでその上の特A、特Cというふうに分けて、それでふるっていくわけですが、一番上と一番下というのはこれはもう簡単に切れます。しかし、真ん中のA、B、Cの三クラスというのは非常に峻別することが難しゅうございまして、どうしてもそこへまたピークが集まりますので、大変難しい採点になりますけれども、今の段階としては、そういうふうに採点者をふやして、できるだけメジャーのすり合わせを濃密に行うということで逃れるより仕方がないと思います。  それから、音楽の方に関しましても、もちろんそういうふうに審査官を、現在は各科とも六人から七人ぐらいでしておりまして、それも今弾いているのがだれだということは全くわからないというやり方でしております。そして、もうとにかく最初弾き出せばすぐわかりますので、ひどいのは、もう全曲弾かないでも途中でお引き取り願うというふうな切り方でしていきまして、それでもやっぱり七人なり六人の審査員の点数がかなり集中するところと非常に開くところとありますけれども、それについて、もし後ほど異議申し立てというふうなことが出てきた場合一これは現実にございます。私は非常に正確に弾いたはずなのに、なぜこんなに点が悪いのかという申し入れを受けたことが再々ございますけれども、そのために必ず録音テープをとるようにしておりまして、何か問題があればそれを、完全な公開とは言えませんけれども、ある程度参考人の公開の席で公表して聞いてもらうというふうなことも備えております。  以上でございます。
  87. 高桑栄松

    ○高桑栄松君 それでは次の質問ですが、日本大学入試が大変厳しくて、卒業は全部追い出されるということが言われているし、実際それに近いんじゃないかと思うんですが、戦前に物理学校というのがございましたね、今、理科大学。今どうしておられるかわかりませんが、何か入学が定員の二倍くらい入れて卒業のときには定員だけ出ていく、そういう方式をとっておられて、非常に教育効果を上げているように聞いておりましたけれども入試を緩くして、これはよく施設の問題もいろいろあっての問題ですが、例えば三割だけ定員以上にとると、その三割についてはそれこそ多様化したとり方をとると、そして定員まで絞るぞということでやるとかという方式、つまり卒業するときに資格をきちっとしていくという方式ということを考えられないかどうかということなんですが、これはやっぱりどうも飯島先生石川先生に集中するようですが、北條先生もひとつ御一緒にと思います。
  88. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) 今、高桑議員のおっしゃったようなことは、お隣の韓国が最近そのシステム導入した経験を持っております。それで韓国の場合には、私どもの聞いておるところでは、おっしゃるように、入学定員の三〇%増入学させて卒業は必ず三分の二しかしないということで、それについてはいろいろ問題があるように聞いておりますから、高桑議員がもし御関心があればその韓国の成り行きがどうであったかお調べになるといいと思います。  私どもはその考えも一概に否定できないと思いますが、言われているほど今の日本国立大学入学者がそのままストレートに卒業しているわけではありません。パーセンテージで言えばかなりのパーセソテージのものがやはり脱落をしております。ただ、日本の場合には、できるだけ手塩をかけても卒業させてやろうというところに日本教育一つの特質があります。  問題はおっしゃるように、大量の大学中退者を出した場合に、社会がそれをどう受け取るか、気持ちの上でどう受け取るかということと同時に、大学中退者というものが例えばアメリカ等ではそういうふうにして出された人はランクの次の大学に入るチャンスを持っておりますが、日本ではどうなるのか、それがストレートにいった場合に大学中退者というものは社会の中で、あるいは労働の世界の中でどういう扱いを受けるのかという新たな問題が、もし一斉にやるとすれば派生してくるように思われます。  戦前、物理学校一校だけがそういうことやっておったので、それは大変特異であったと、ただこれを全国にゼネライズした場合に、例えば今OB問題、その他の問題がありますけれども大学中退者というものの分が毎年十万人も何人も出てくるという状態が果たしていいかどうか等も十分検討する必要があると私は思っております。
  89. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) 私も、その考え方はやっぱり一つ考え方としてあると思うんです。いろいろな、施設その他物理的な困難とかなんとかいう問題はまた別にいたしまして、そういう考え方一つ考え方としてあり得る。ただしかし、今の私立大学について申しますと、私立大学もいろいろございますけれども、しかし平均が定員の一・四なんですね、今。ですから、高桑議員の言われる一・三よりも既に一つ多いということになります。  ところが現実に、ほかの大学の例は知りませんので、私の大学の例を申しますと、大体例えば法学部が法律学科と政治学科あわせて定員が千二百名である、入ってくる人間は千三百名ぐらい入ってくる。しかし、卒業までに落第、留年——今は落第と言わないんですけれども、留年その他でどのくらいの数が減るかというと二百から二百五十は減るんです。ですから、卒業するときは千五十ぐらいしかいないというような形で、大学へ入って勉強しないこともあるのかもしれませんけれどもかなり卒業するまでの過程がそんなに楽だとは言えない。  ただ、よくそういう議論が出るところで言われることですが、現在の大学はレジャーランド化したと、こういうふうに言われます。そのレジャーランド化というのが実際に何を意味しているのか問題でありますけれども、私どもはやっぱり私立大学の場合には人間形成といいますか、独特の気風の中で人間をつくる、そういった側面がかなり強く意識されているわけです。そういたしますと、課外活動というのは実は非常に重要なんです。決してただ教室へ行って講義を聞いたりセミナーやったりするだけではない、課外活動をしっかりやるということが、先生に接し、先輩に接し、同僚と接するという上で非常に意味がある。そういうところにかなり教育の力点というのがありますから、あるいはそれがレジャーランド化に映るのかもしれないというような気もしているわけで、お考えはお考えとして私どもも考えてはみたいと思っています。
  90. 北條舒正

    参考人(北條舒正君) ただいまのことでございますけれども、私二十数年前アメリカの大学におったときに、そこの大学はやはりそういう方式をとっておりました。その背景は、よく見ますと、教養課程というのはかなり一般的な講義をやりますから、自分が選ぶ道が将来どうかということはよくわからないで大学入っているのが多いわけなんです。その人たちの中で、例えば化学の場合ですと、自分が化学を、こんな嫌いなものを一生涯やるのは大変だというわけでみずからどんどん変わっていくわけです。私は、それは社会がただ学歴だけじゃなしに、本当にその人の力量というものを評価するから、自分の不得意なものを一生やるというのは、これは不利だということでどんどん変わってきたと思うんですね。それが社会的な背景だろうと思うんですが、日本でそれをやれるかとなると、まず最初に入れるというのは、許容がもういっぱいでございますし、物理的に非常に不可能な点があると思うんです。しかし、考えとしては私はだんだんそういうようなことも考えざるを得ないんじゃないかな、むしろ卒業のときの定員だというようなことにあるいは文部省でもなれば、これはやらざるを得ないんじゃないかという気がいたしますけれども
  91. 高桑栄松

    ○高桑栄松君 ありがとうございました。それじゃ時間ですので…。
  92. 吉川春子

    ○吉川春子君 五人の参考人の方にすべて伺いたいんですけれども、私も時間の制限がありまして、国公立・私立高校という順序でお一人二問ずつまとめて伺いますのでよろしくお願いします。  最初に、一番時間の制約がおありと聞いておりますので、石川先生に私立大学の問題について伺いたいんですけれども、いま私立大学が大体三科目程度試験選抜しておりまして、それが高校教育に反映して私立大学の志望者が初めから偏った学習しかしないという事実があるわけですけれども、高校教育を真に正常化する、そういう努力にあわせて試験科目を是正することが望ましいのではないかと思います。これは共通一次に参加するかどうかという問題はさておきまして、その点について伺いたいわけです。  それからもう一つは、共通一次になってから私学に非常にたくさん優秀な人材が集まっているなんということをおっしゃる方もおりますけれども共通一次が私学に特に入ってくる学生にどういう影響を与えたのかなという点と、それから私学入試制度を抜本的に改革して特色ある大学を進める上で、もし行政に要望すべき点がありましたらお聞かせいただきたいと思います。
  93. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) 全部お聞きになられてからあれいたしますか。
  94. 吉川春子

    ○吉川春子君 全部まとめて答えてください。
  95. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) 第一の問題ですけれども、私立大学がそれぞれ自分たちの入学試験科目を決める、これは恐らくその学校考え方あるいは歴史、それから自分たちが教育しようと思っているときの重点の置き方、そういったようなものを私は考えて決めているんだろうというふうに思います。先ほど来、私立大学というふうに一括して言われてしまいますと、なかなか私も一括して答えるというのは非常に難しいんですけれども、基本的にはそういうことだろうというふうに思います。確かにそのことが高校教育に影響を与えているという面はあるかと思いますけれども、しかし、それならば私立大学がそういう科目を決めることについて自分たちなりの合理性を持っていないのかというと、そういうことではないと思うんですね。ですから、この問題はこういうことに一つは関係してくると思います。先ほど来しきりに出ていました議論の中に学歴社会の問題というのがありますね。そうしてその学歴社会ともう一つは、余りこういう言葉は使いたくないんですけれども大学間格差という問題がある。そうしますと、どうしてもその高校教育を万全にやるよりは、とにかくいい大学へ入れたいというのが父兄の側にあるわけです。それがつまり子供たちを駆り立てて、逆に何といいますか、高校教育を十分にやらせないということの私は原因になっているんだというふうに思います。私立大学の側の問題もありますけれども、同時にそういった問題がつまり背景にあって、こういうような高校教育が十分に行われないという現象も出てきているんだということも御理解いただきたいと思うんです。私立大学、今、高校協会の問題もございましたけれども、増田先生のところでは国立大学協会とはお話し合いがあるようですけれども、私立大学の組織とはお話し合いがほとんど今ないわけで、こういう機会にそういう問題も少し考えてみた方がいいんじゃないかというふうな気が私はいたします。  それから第二番目の問題は何でございましたかね。
  96. 吉川春子

    ○吉川春子君 共通一次が導入されて私学はどういう影響を受けましたか。
  97. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) その意味ですけれども、例えばお聞きになっておられることが、私学に入ってくる学生が、つまり学力的に高くなったかならないのかという御質問ならば、私は概して言えばやっぱり高くなったというふうに思います。  ただ、その高くなったということは、果たして私学として本当にいい学生をとったのかということになりますと、これは必ずしもそうは言えない。よく言われることですけれども私学というのの生命の一つはその学校の持っている独特の気風にあるわけですね。その中で若い人が人間形成をやるということが非常に大事なわけです。そういう観点から考えてよくある議論の中に、その学校に入りたいと言ってきた人間をとるのが私学の独自性をあるいは建学の精神を維持する方法ではないか、こういう議論がありますけれども、しかし、それが必ずしもそうではないんですね。確かにそういう一面があることも事実ですけれども、やはり私学にはそれなりに歴史的につくり上げられた独特の気風というものが既にあるわけでありますから、したがって、入ってきた学生がその中で生活することによって卒業するときにはそういった気持ちを、気風を身につけて出ていく、こういうこともやはりあり得るわけですね。ですから、私どもとしてはいつまでも例えばある大学に対するコンプレックスを持ちながら生活しないように、そういう連中を、何といいますか、気風の中で学生生活を送らせるように努力しなくちゃいかぬ、そう思っております。
  98. 吉川春子

    ○吉川春子君 それでは時間の関係で高校の問題についてお伺いしますが、増田先生に伺いますが、共通一次が取り入れられていろんな影響を受けたと思うんですが、進路指導について特にどういうふうに変わったかという点について伺います。特に高校一年生でもう既に私学へ行くか国立へ行くかというコースに分けてクラス編制を行って指導しているというような話も聞くんですけれども、高校に入りたての段階で自分の将来の志望を決めるということが果たして可能なのかどうか、そういう問題についていかがお考えでしょうか。  それからもう一つは、高校側から入試出題委員を出すべきであるという考え方があるわけですけれども、技術的に可能なのか、高校側からお出しになれば、その出題が改善されるのかどうか、その点について伺います。
  99. 増田信

    参考人(増田信君) 共通一次が始まってから高校の進路指導にどういう変化があったかという御質問でございますが、一つは、一年生の段階から云々はちょっとおかせていただきまして、一つは、共通一次の前にも高校にはこの受験準備のためのいろいろの問題がございまして、そういう点では、高校から大学に進学するということについては、高校が抱えている一つの課題であり、子供たちを遂げさしてやりたいという高校の教師の念願でございます。  そういうことで進路指導というのが成り立っているわけですが、共通一次で非常に大きなそれ以前とそれ以後の特徴は、共通一次が非常に大きく社会的にと申しますか、マスコミに取り上げられまして、そしてその刺激を受けるということでございますね。特に、これが三年くらいの経過の中においては、共通一次に一つの夢があって、そしてこれを育てていくというようなことでありましたけれども、四年目、五年目になりますと、いろいろの御議論が「声」欄だとか、それからその他の立派な方の御意見だとかというようなことが出てまいりまして、これが一番最初に私申し上げましたけれども入試制度の安定ということが、私たちが高校教育を遂行していく上で願っているんだけれども、そういう点が大変乱、遺憾な点で、高校の進路指導の教師はそれで苦労している面がございます。  端的に最近の状況一つ例を申し上げますと、三年生の生徒は来年度、六十年度の共通一次を受けるわけでございますが、昨今の新聞などに伝えられていることから、先生、来年はもう三科目になるかねというふうな希望的なことになると、また自分の受験勉強の予定も変わってくるし、楽にもなるだろうというようなことで、そんな笑い話を教員が雑談の中でしておりましたけれども、これはそういう点で、私たちの立場からは、社会全体またマスコミなどでも御配慮いただきたいなという点でございます。進路指導のそういう点で、いろいろ気を使う面があるということでございます。  それから、高校の一年のときから過熱した進路指導をやるということは、実際問題としてはそんなにできる話でもないんですね。先ほどは石川先生、私学と一口にくくってもなかなか言いにくいんだというようなお話もございましたけれども、私の場合も、高校と一口にくくってもなかなが言いにくい面がございます。それで、共通一次に半数なり六割なりが受けに行く学校と、共通一次はもう全然関係のない、どこ吹く風という学校とあるわけでございます。  そういう点で、進路指導についての立ち上がりの段階がどの辺であるかというようなことになりますと、一年の段階においては、もちろん三年後に進学があるということで気を引き締めなければいけない。授業が大事だぞということを教師も言うし生徒もやっていくということがありますけれども学習指導要領それから教育課程の考え方から、一年のところでは基本的な学力を充実させるというようなことで、それは具体的には進路指導で生徒にハッパをかけるというようなのは二年の二学期ぐらいからというようなことが実態でございますので、そういう点ではそんなに高校教育受験勉強で大変な始末になっているというふうに、私たちはその中にいてそんなに、もっと勉強してほしいなというような面も一面においてはあるくらいのことで、いらいらするようなことではないように思っております。  それから、入試の出題につきましては、一番最初に申し上げましたけれども、私たちは受け身でございますので、大学に採っていただくということで、大学の方で高校教育を大事にお考えいただいていることは、従来からでございますが、今後とも高校教育に御配慮いただいて、大学の方で問題をおつくりいただくということがやっぱり一番適切ではないだろうかというふうに思っております。
  100. 吉川春子

    ○吉川春子君 国立大学の問題を飯島先生にお伺いいたします。  五十二年四月二十一日の参議院文教委員会の附帯決議で、「この入試制度改善措置については、その実施結果を踏まえた見直しのため、適当な時期に国会に報告すること。」、こういうふうになっておりますので、いつごろその報告が国会にしていただけるかという点なんです。  大学入試センターの管理事業部門に研究部門があって、そして情報処理、追跡評価部門、こういうところでそれぞれの仕事をするようになっておりますけれども、これらの部門での研究がどの程度いま進んでおられるのか、その点をお願いいたします。
  101. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) 第一の御質問は、私はちょっとお答えする立場にないので、存じません。  それで、もしそういう附帯決議があって、国大協なりあるいは文部省なりが適当な御回答をするべきであるということであれば、それはまた協議をして適切な時期にお答えをするということになるだろうと思いますが、私としては存じておりませんのでお答えができません。  それから、第二の問題は、入試センターの発足のときに、そもそも入試センターは、入試共通一次の実務を行うと同時に、大学入試試験改善のための研究を強力に行ってもらいたい。その研究成果は入試制度改善に役立てていこうという約束でスタートしたわけでございますから、我々もその研究部門がいい研究を進めてくれることを期待しております。  ただ現実問題としては、入学試験の研究を専門的に行うという人材を確保することは、発足以来なかなか困難でありまして、最近に至ってようやく研究部門が充実してまいりましたので、我々も国大協の方で入試センターの研究部門の成果というものを踏まえて、両者で十分に成果を酌み取って進めていこうということを決めております。  それから研究部門のレポートの中には、従来、入学試験に関する問題はいろんな社会的影響もあるので秘密を要するというような感覚がかなり強く支配しておりまして、そのためになかなか率直ないろんなデータの公表ということについては受験生への影響あるいは学校への影響等を考えてややセーブをされるという形跡もないわけではありませんが、私どもとしてはできるだけ率直な研究報告を研究部の部門の方で出してもらいたい。それは我々も入試改善を考えていく上の重要な指針にしたいと思っておりますし、もちろん私は入試センターの評議員を務めておりますけれども入試センターにおける研究成果について公表すべきものがあればどんどん公表して一般の御理解を得るということも非常に大事なことであるというふうに思っておりまして、現在幾つかのレポートはまとまっておるように聞いております。
  102. 関嘉彦

    関嘉彦君 きょうはどうもお忙しいところありがとうございました。石川先生、時間の制約があるそうでございますから、先に質問させていただきます。  慶應義塾では、先ほどお話がありましたように、窓口を広げて普通の入学試験で入ってくるのと、それから内申書による推薦と、それから幼稚舎あたりから無試験で入ってくるのと、三通りの学生を入れておられる、かなり前からやっておられるように伺っておるんですが、その結果、成績がどうであるかということについて追跡調査をされたことがあるかどうか。  それから、慶應以外にも私立て同じような試験方法をとっているところがありますけれども、ほかの大学でそういった追跡調査なんかをやったことがあるかどうか。もしなければ何か大体の感じでもいいんですけれども、その比較を、どういう学生が一番よかったか、それをお話しいただければありがたいと思います。
  103. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) 追跡調査はやっております。その結果は、私が聞いておりますところでは、慶應義塾の場合は成績が四、あと先ほど申したようにさまざまな特色を持っている者、こういうことで高等学校から——これは決まった高等学校ですけれども、それはしかし三年とか五年ごとに変えていきますけれども、そこから、そういうことで校長から推薦された者は面接だけで採る、試験は一切しない、そういう建前でありますが、しかし、結果は非常によろしいようであります。  こういうことを一般化して言うことはできませんけれども、概して言いますと、やっぱり卒業生の中のトップのクラスというのは下から来た学生、子供に多い……
  104. 関嘉彦

    関嘉彦君 幼稚舎で。
  105. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) はい。幼稚舎とか高等学校、中学、それは多いんです。推薦制度で来た者とそれから入学試験の子供というのは重なるところがありますけれども、しかし、四年間の結果を見てみますと、どうも推薦制で来た子供の方が概していいと。どうも入学試験の結果と、学生になってから卒業するまでの成績とか、そういうものとの間には余り強い相関関係はないんですね。むしろ高等学校のときによかったという学生と、それから入学後の成績との方が相関関係は若干強いというのがどうも結果のようであります。
  106. 関嘉彦

    関嘉彦君 もう一つ今のに関連しまして、私も早稲田大学にいたんですけれども、早稲田大学でも高等学院からスムーズに入ってくる学生がいるんですが、おっしゃったように非常に優秀な学生がおります。入学試験を受けずに入ってきた学生、試験勉強でゆがめられてない。しかし、同時に棒にもはしにもかからないと思うような学生もいて、その両極端が非常に甚だしいんですけれども
  107. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) それは慶應でも同じでございます。
  108. 関嘉彦

    関嘉彦君 そうですか。
  109. 長谷川信

    委員長長谷川信君) この際、石川参考人に申し上げます。  御都合がおありとのことでございますので、どうぞ御退席ください。長時間にわたりまして貴重な御意見をお聞かせいただき、まことにありがとうございました。
  110. 石川忠雄

    参考人石川忠雄君) ありがとうございました。
  111. 関嘉彦

    関嘉彦君 増田参考人にお伺いいたしたいと思いますが、先ほどちょっと私聞き間違いかもしれませんですけれども共通一次で、二次試験科目がふえる傾向にあって二次試験が十分機能していないんではないかというふうな御意見があったんですけれども、具体的にどういうことが言えるのかということが第一問。  それから第二問は、小中学校で例えば右巻きなら右巻きにねじかけられているのが大学に行って左巻きになると、その間に立つ高等学校がねじれちゃってしまうというお話たつたんですけれ、ども、具体的にそれどういう例があるのか。そのことを、あるいは大学の先生たちに遠慮されて抽象的に言われたのかと思うんですけれども、お知らせ願いたいと思います。
  112. 増田信

    参考人(増田信君) 初めの方でございますけれども、私たちが発足の当初において一次でもって五教科科目になったわけでございますが、科目試験をやっていただいて、そして二次はできるだけ実技、面接、論文、小論文などをお願いする。そして、もし学部の必要性でもって科目試験で科するということであった場合にはせいぜい一、二科目のところでひとつお願いしたいというようなことを希望しております。これは、つまり現在そういう心理があると思いますが、共通一次で学科試験が一たん終わりましても、学科の呪縛というと大げさですけれども、縛りみたいなものがまだ三月の初旬までに続くというようなひとつのそういう知的試験の心理的な圧迫があるわけでございますが、これをできるだけ、学部の必要性からやむを得ないということは理解できますので、少なくしてほしいということでありましたが、東京大学の場合は東京大学の従来からの一次と二次の、これにひとつ乗っかったような形でもってなさっております。それから、全体として平均で二・八科目というような形になっておりますから、三科目に近いというようなことでございます。  それからもう一つは、今度新しく学習指導要領が変わりますと科目が細分化されまして、単位の総数においては例えば四単位ならいい、五単位ということになるけれども、その科目自体が例えば数1という科目であったものが解析、統計、確率というようなそれぞれの科目に分かれますと、そうするとその科目ごとに一冊ずつの参考書ができ上がるということになりまして、単に学校での単位数にとどまらない科目負担憾というものが出てくる。同時にもう一つは、最近になって、どういうんでしょうか、いろいろユニークな二次を試みておられた学校がそれなりの欠点があったり、それから御反省になった点があるんでしょうけれども、また学科の方に戻ってくるような傾向があると。そういうようなことで一次と二次と決して全く同じことを二度やるということではないにしても、科目の知的な試験が一カ月余の間でもって二回続くということでございます。そういう意味で二次試験をもう少しそういう心理的な圧迫や時間的な拘束から解放するような工夫をお願いできたらと、これが第一番でございます。  それから第二番は、ちょっと先ほども申し上げましたけれども、ゆとりある教育でもって、例えば中学は標準単位が三時間で四時間やってもいいというようなことで、大体中学は四時間英語をやっておりましたですね。それが今度三時間だというようなことになりまして、中学は三時間の英語で、これ公立の場合非常に行政指導でよく徹底して三時間になっています。三時間と四時間と、特に語学の場合は量的と、それから頻度ということでもって語学の力にそれだけの開きができてくるわけです。そういうことも我々は受け入れていくわけです。ところが、やはり大学の方ではまた大学のお立場から言えば当然の御認識になると思いますけれども大学の方では大学教育にたええ得るというか、大学教育をこなせるような学力が欲しいというようなことで、こんな力の低い英語じゃだめじゃないかというようなことが当然大学試験問題の中にあらわれてくるというようなことになりますと、高校の場合は高校もまた四時間ないし五時間の標準単位を六時間やったりすると。それから、聞きますところでは、中学あたりで余り教育委員会の拘束の及ばないような私学なんかの場合にはさらに英語を充実してやるというようなこともあるやに聞いたりいたしております。そういう意味でございます。
  113. 関嘉彦

    関嘉彦君 わかりました。  飯島さんにお伺いいたしたいと思いますが、これは非常に難しい問題で明確にはわからない問題だと思いますけれども、先ほど石川慶應義塾塾長から共通一次を実行するようになってから私学の方、特にこれは慶應とか早稲田だろうと思い壊すけれども、学生の資質が上がった、成績が上がったというようなことを言われほしたけれども、とすると国立の方は逆に下がったということが言えますでしょうか、学力が。
  114. 飯島宗一

    参考人飯島宗君) 私は必ずしもそうは言えないと思っております。私ども大学でも関係するところでも国立大学の学生の学力共通一次で私学にいわばとられたために下がったということは明確ではございません。ただ、先ほどちょっと申し上げたかと思いますが、国立大学と私立大学の中で、今、大体全体で申しますと、国立大学の占める全学生に対するシェアが大体二〇%でございますね。ところが、学部学科によってそのシェアは違います。例えば教育学部等はもう四十何%が教員養成は国立大学、それから回しように二〇%を超えるシェアで多い方から申しますと教育学部、農学部、理学部、工学部というのはいずれも二〇%以上のシェアですが、その中では工学部が大体二五、六%で一番低い。それから文科系で申しますと、人文系とか社会系は国立大学の占めるシェアは大体六%から七%でございますから、そこで、そういう点から申しますと、教員になろうとか、あるいは農学部をやろう、理学部をやろうという学生は、どうしても私立大学にないわけですから、国立大学に入ってこようとする。ところが、国立大学のシェアが割合に低い人文、社会等及び工学部の一部ではやはり私学とのコンペティションといいますか、非常に強くなる。したがって、恐らく国立大学全体として見たときに、一部の国立大学の例えば経済学部とか、法学部は圧倒的に国立大学の方が多いんですが、経済学部とか、あるいは工学部の一部等では、当然かってであればそこへ入った学生が私学の人文社会系に流れたということがあって、それがいわゆるレベルダウンとか輪切り感という印象を一部の特に地方国立大学のそれらの学部の教員に与えているということはあると思います。けれども、全体としてひどく国立大学がレベルダウンしたというふうに思いませんで、これは見方によれば、何も国立大学が非常にいい方が結構で、石川さんおられなくなりましたが、私学はもっとレベルの悪い人でもいいということは全くないわけですから、日本大学全体として見ると、非常にいいバランスにだんだんになっているというふうに見ることもできます。私はそう思っておりますが。
  115. 関嘉彦

    関嘉彦君 どうもありがとうございました。終わります。
  116. 長谷川信

    委員長長谷川信君) それでは、美濃部君。
  117. 美濃部亮吉

    美濃部亮吉君 大分時間もたちまして、私は、一つ質問をいたしまして、皆さん方に御返答いただきたいと思うんです。  それで、いまの日本教育大学を含めまして一番の問題は、いわゆる教育の荒廃と言われている問題であって、大学は余り問題はないと思いますけれども高等学校以下、あるいは偏差値の問題であるとか、あるいは落ちこぼれの問題であるとか、あるいは校内暴力、家庭暴力の問題とか、あるいは非行とか、登校拒否とか、それから先生が、私たちのときにはほとんど全くなかったのが、体罰がもう普遍化しているとか、あるいは教科書の問題とか、数えてみれば確かに荒廃をしていると言っても間違いではないような状態だと思うんです。  私、もちろん自分の目で見たわけではございませんで、すべて新聞なり著書なり、あるいは論文なりで読んだ知識でございますから、果たしてこれが正確なのかどうかはわからないけれども、しかしながら、とにかく高校以下め荒廃というものがある程度はあるということは事実ではないかと思うんです。  それで、こういう状況になったのは、大学においてはこういう形の荒廃は起こっていないであろうと思われるんですけれども大学教育のあり方とか、それから試験のや力方とか、そういうことと関係があるのかないのか。私はやはり関連があるのでは食いだろうかと。先ほどからたびたび出ておりました学歴社会というものと、それからそれに対する学歴社会を望む供給とそれから需要と、両者の間のアンバランスの問題とか、それは大学教育の問題ではないにしろ大学関連する問題であって、そういうことが、ひいてはつまり高校の、あるいは中学のあるいは小学の荒廃を呼んでいる原因になっているのではないだろうか、そう考えられるんです。  それで、私は質問いたしたいんでございますけれども、そういうふうな関連を認められるのかどうか、そういう関連はないと言い切れるのかどうか。もし関連があるとすればどういう筋道を通じて関連が生じているのか、そういうことを、私にもよくわかりませんで、ぜひともここにいらした四人の先生方に御意見を伺わしていただきたいと思います。それでは、飯島参考人に。
  118. 飯島宗一

    参考人飯島宗一君) 大変難しい御質問ですから、急にお答えができませんけれども関連があるということを言い切るだけの具体的なデータはないと思いますが、逆にまた全く無関係であるということは言えないと思います。それは私も別に中学、高等学校教育荒廃の現場を体験しているわけではありませんから、具体的にどのようなことが起こっているかということは、議員と同じように間接的に承知をしているわけですが、やはり日本社会全体として、例えば地域社会とか一次産業の後退とかですね、あるいは組織化が一方で進むと。あるいは一方では経済的なゆとりが出てくるというふうなさまざまな社会的事象が全く無関係であるとは言えないと思いますし、したがって、大学がその中に存在しているわけでありますから、大学とも無関係であるとは言えないように思います。  大学としては、先ほどもちょっと申しましたけれども大学の使命は何であるかということをもう少しはっきり自覚をする必要がありますし、それからハイアーエデュケーションをむしろポストセカンダリーエデュケーションとして広く見まして、大学及び大学に相当する高等教育機関の可能性というものはどこまであって、それを用いることによって多くの人々がその志を遂げることができる方法はどうであるか、それからリカレントエデュケーションあるいは生涯教育考え方で、もう少しこう画一的でなく各人がその能力、志を伸べるような機会を与える工夫はどうであるか、その中で専門的な研究、教育というものを受け持つ大学はどうであるかということは、これは絶えず私どもとしては、無関連なこととしてではなくて、大学のあり方の問題として追求していく必要があると思っております。  それから、大学は、少し口幅ったいようですが、やはりそういう社会状況から、人類社会日本の未来を含めての問題が、つまり大学というところで英知を結集して研究をし、それから次の世代を育てていくことの大きな目標でありますから、したがって、御指摘のような事態は、大学自体としても大変大きな研究の課題であるということは否定できないと思います。  それから、第三番目には、やはり大学が現在教員養成の多くの場を受け持っておりますから、したがって、その教員養成を通じての今の小・中・高等学校の事態というものに対してはそれだけの研究をして、それだけの応答を大学としてはする義務があるだろうというふうに思っております。  それから、学生諸君について申しますと、不思議なことにと申しますか、今の大学の学生は、数年前の大学紛争の時代と比べますと、大変静かでございます。まあ平均して申しますと、大変物わかりがよくなりました。それから、礼儀も正しくなりました。ただ、やはり私どもが今学生等のアンケート調査を通じて留意をしておりますのは、何といいますか、潜在的な無気力症あるいは潜在的か対人関係に十分適応できないような軽微な精神上、行動上の障害、それが見かけ上は全くこう平常で、積極的ないい青年のように見えながら、実は内部にそういうものを持っているという学生がふえているという傾向がございますので、大学としてはその学生諸君が静かであるということで安心をしているわけにいきません。むしろ学生の中に反映しておるそういういろいろな問題点大学としては深く探りながら大学教育そのものを進めていく必要があるということを最近特に強く感じておるということがございます。  お答えになりませんけれども、感想だけ申し上げました。
  119. 増田信

    参考人(増田信君) 大変難しい問題でございまして、私自身も明快にお答えを申し上げることできないんでございますが、ただ、教育の荒廃ということでいろいろ新聞紙上をにぎわすようなあきれ返るような事象がございます。これらがやはりそれなりのすそ野を持っているという意味で、どちらの学校にもそういうひどい現象が頻発しているというわけではありませんが、すそ野を持っているということで、我々も戒心しなければいけないというふうに思うわけでございます。ただ、高校の場合に直ちに大学受験と高校のいろいろのそういう生活指導上の問題がストレートに原因結果の関係になるかということになりますとどうかなというふうに思います。というのは、高校が九四%の進学率であるということで私たちもひそかにみずからの覚悟として思っているわけでありますけれども、かつての二割ぐらいが旧制中学に入ってきたころから見るならば、学校の外で起こっていた青年の諸事象が学校の中に入ってきたと、それでいろいろの事柄を起こす子供が十五歳から十八歳であるならばこれは高校生であるというふうになってきていると、そういう状況の中に我々の仕事場があるんだというふうに承知しています。それで、高校の場合昭和四十四、五年ごろにいわゆる高校紛争がありまして、それであれが非常に強い抵抗の形でもって生徒の指導の問題に手をやいたわけでございますが、その後においては、最近では中学の方にそういう形があって、高校の場合はそういう抵抗の形で指導上の問題というようなことも、いろいろ高校ございますからないわけでもありませんけれども、そういうことよりも、いろいろ内面的な問題とかあるいは今お話があったような無気力とかいうようなことがあるわけでございます。これを私自身も考えますと、むしろ、だから大学入試の原因結果というようなことあるいはその他のこと、いろいろ複合的であるけれども、いわば日本の文明の現段階の事象であるというふうな感じを持ちますですね。ですから、そういうのが家庭に責めを帰するような議論の立て方もできるし、学校の下のランクあるいは地域社会あるいは大学受験、そういうもの全体に責めを帰するような議論はそれなりにできるけれども、こう絡まり合って一つの丸い現段階の日本の文明現象というようなことを考えると、それなりのつながりがないといえば、飯島先生お話なんですが、ないといえばうそになるし、あるというふうにも直接に道筋はたどれないんじゃないかと、そんなふうに考えます。
  120. 北條舒正

    参考人(北條舒正君) 私もちょっとこの問題については正確な回答もちろんできるはずございませんけれども、若干自分の経験を照らしてみますと、かつて各大学はそれぞれ紛争を経験したわけでございますが、最近は恐らくどこの大学もないと思います。これは、学生に対応する場合に一番問題点は何かというと、やっぱり教官の姿勢だと思うんです。ですから、ある問題が起こったら彼らだけの問題ということでなしに、学部なら学部全体の問題として教官が力を合わせて対応していくと、そういう姿勢を早くからとったわけですから、そういうふうにやったところはもう起こりませんし、現在何か起こってもまずつぼみの段階からそういうのは防げるという状態だったと思うんです。  先ほどの経済学部入試でことし変わった学生が入ってきております。これが実は入試だけではなしに、大学としては教育も変えていかなくちゃいけないということでいろいろな試みをやっているわけですが、これに対して新しく入ってきた連中はかなり食いついてくるわけです。しかしこれは話せば十分理解できますし、私はむしろそういう学生の方がいいんじゃないかという気がいたしますが、ちょっと話からそれますけれども、例えば自然科学系ですと、四年生になりますと卒業研究といって一対一でやるわけですが、僕ら大学に来て最初のころですと、なかなか先生がこういう研究をやれと言ってもやらないですね。自分はこれがやりたいというような学生が非常に多かったんですが、最近は自分でやれと言ってもなかなかやらないです。それで僕は最後、学者になったら学生持てませんけれども、最後の年はもう絶対僕はテーマを与えないということで辛抱していたんですが、三カ月たってもどうしてもやらない。そういうのは無気力か何かわかりませんけれども、こういうのは私は先ほど来申し上げているように、やっぱり既成の概念を打ち壊していくようなものを育てなくちゃいけないという姿勢からいって非常に残念に思っています。これがどこのあたりで起こっているかよくわかりませんが。大学入試と今の中学あたりのあれと余り関係ないように思うんですが、私が一番考えておりますのは、さっき飯島先生と言われましたけれども、教員の養成の場で、今の教員免許制度の中では、私はただ授業をとったり単位をとったらそれでいいというような制度、それだけじゃないと思いますけれども、それも考えていかないと問題はやはり教官の素質の問題だろうと思います。それから生徒に向かってやっぱりいいことはいい、悪いことは悪いということをはっきり示してやらなくちゃいけない。こんなことを言ったら何ですが、私も昔は元気よかったんですが、先生を殴ったことはございませんけれども、先生から大いに殴られましたが、しかし当然殴られるという、そういうことで殴られた先生に対しては一切そういう感じがないんですけれども、何かわけのわからないことで殴られていつまでたってもあれが残るわけで、やっぱり中学生あたりですと、よくわからないわけですから、はっきり先生が態度を示すということも大事じゃないかと、そういうふうに思います。
  121. 佐藤雅彦

    参考人(佐藤雅彦君) もう時間がございませんようですのでごく簡単に申し上げますが、私どもの方では、これは恐らく共通一次入試になってからの事象だと思いますが、暴れる学生というのはこれは美術の制作の面でなんですが、暴れん坊の学生というものが極端に少なくなってまいりました。大変おとなしいまじめな画学生になったというふうに申し上げたらいいかと思います。昔は教室じゅうに油絵を塗りたくってその教室が一つの作品だというふうにうそぶいた学生もおりますんですけれども、近ごろそういうおもしろいのが出てこなくなりました。  実は私ども大学昭和五十五年に新しいキャンパスにもう完全に移転いたしまして今熊野のおんぼろ校舎は捨てたわけでございますが、その新しいキャンパスに移ったのが五十五年、つまり共通一次が始まった明くる年になるわけですが、その新しいキャンパスの汚れ方というのが大変少ない。もとの校舎のことを知っている人間にとってはびっくりするくらい汚れないんですね。何もこちらが極端に指導をしているというふうなことではございませんのですが、ともかくきれいに使ってみんな快適に制作しているというふうな状況がずっと今日まできておりまして、このさま変わりというのは、何かやはりその入試制度かそういったようなところに多少原因があるのかなというふうに思っておりまして、芸術家を育てるという我々の立場からすればいささか物足りないということはございますんですが、現象としてはそういうことがあるということでございます。
  122. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 他に御発言もなければ、参考人の方々に対する質疑はこれにて終了いたします。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  参考人の方々には、長時間にわたり貴重な御意見をお聞かせくださいまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。  ありがとうございました。     —————————————
  123. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 次に、参考人出席要求に関する件についてお諮りいたします。  教育文化及び学術に関する調査のうち我が国における留学生受け入れの在り方に関する件について参考人出席を求め、その意見を聴取することにいたしたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  124. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 御異議ないものと認めます。  なお、その日時及び人選等につきましては、これを委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  125. 長谷川信

    委員長長谷川信君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。  本日はこれにて散会いたします。    午後五時九分散会      —————・—————