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1984-07-31 第101回国会 参議院 内閣委員会 第19号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十九年七月三十一日(火曜日)    午前十時五分開会     —————————————    委員異動  七月二十七日     辞任         補欠選任      矢田部 理君     粕谷 照美君  七月二十八日     辞任         補欠選任      峯山 昭範君     高桑 栄松君  七月三十日    辞任          補欠選任     粕谷 照美君      矢田部 理君     高桑 栄松君      高木健太郎君     関  嘉彦君      藤井 恒男君  七月三十一日    辞任          補欠選任     矢田部 理君      粕谷 照美君     高木健太郎君      伏見 康治君     —————————————   出席者は左のとおり。     委員長         高平 公友君     理 事                 亀長 友義君                 坂野 重信君                 小野  明君                 太田 淳夫君     委 員                 板垣  正君                 岡田  広君                 源田  実君                 沢田 一精君                 林  寛子君                 林  ゆう君                 桧垣徳太郎君                 堀江 正夫君                 穐山  篤君                 粕谷 昭美君                 菅野 久光君                 矢田部 理君                 高木健太郎君                 橋本  敦君                 藤井 恒男君                 前島英三郎君    委員以外の議員        発  議  者  久保  亘君    衆議院議員        内閣委員長代理  深谷 隆司君    国務大臣        文 部 大 臣  森  喜朗君        国 務 大 臣        (内閣官房長官) 藤波 孝生君        国 務 大 臣        (総務庁長官)  後藤田正晴君    政府委員        内閣法制局長官  茂串  俊君        総務庁長官官房        審議官      佐々木晴夫君        総務庁行政管理        局長       古橋源六郎君        文部大臣官房長  西崎 清久君        文部大臣官房総        務審議官        兼内閣審議官   齊藤 尚夫君        文部省初等中等        教育局長     高石 邦男君        文部省教育助成        局長       阿部 充夫君        文部省高等教育        局長       宮地 貫一君        文部省学術国際        局長       大崎  仁君        文部省社会教育        局長       宮野 禮一君        文部省体育局長  古村 澄一君    事務局側        常任委員会専門        員        林  利雄君    衆議院法制局側        第 一 部 長  松下 正美君    説明員        内閣官房内閣審        議官       森  正直君        外務省条約局法        規課長      河村 武和君     —————————————   本日の会議に付した案件 ○臨時教育審議会談姓法案内閣提出、衆議院送  付) ○国民教育審議会設置法案久保亘群外二名発議  ) ○連合審査会に関する件     —————————————
  2. 高平公友

    委員長高平公友君) ただいまから内閣委員会を開会いたします。  まず、委員異動について御報告いたします。  昨三十日、高桑栄松君及び関嘉彦君が委員辞任され、その補欠として高木健太郎君及び藤井恒男君が選任されました。     —————————————
  3. 高平公友

    委員長高平公友君) 臨時教育審議会設置法案及び国民教育審議会設置法案の両案を一括議題とし、質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言願います。
  4. 前島英三郎

    前島英三郎君 先日、二十六日の当委員会におきまして、二十三年前の古い本の記述でございますが、それから三年前に文部省が出したメモ、この二つを取り上げまして対比させていただきまして、そこはイントロ部分でございましたから、きょうゆっくりといろいろお話を伺っていきたいと思うんですが、そこに共通する文部省考え方、つまり障害児小中学校に来ると小中学校教育に差し支えるから困るのだという一つ見解なんですけれども、これをお持ちいただきながらやっていただいた方がいいと思うんですが、委員長、お配りしてよろしいでしょうか。
  5. 高平公友

    委員長高平公友君) いいです。    〔資料配付
  6. 前島英三郎

    前島英三郎君 つまり、障害児一般小中学校に来ると小中学校教育に差し支えるから困るのだという障害者差別につながる考え方を若干問題にさせていただいたわけですけれども、高石初等中等教育局長の先日の答弁速記録を念のため見てみたんですけれども、ちょっと納得できない部分がありますから、もう一回繰り返して質問をしてみたいと思うんです。  まず、昭和三十六年の本につきまして、私、先日も申し上げましたように、本の全体的な印象としましては、何とかして障害児教育をよくしようと懸命に取り組んでいた当時の熱意というものがあの本にはにじみ出ていたと思うんです。それはそれなりに私も評価をしたわけなんです。  その本にしてそのような表現記述があるから問題といえば問題なんですけれども、局長答弁は、表現上の強調の仕方であるというようなお話でしたが、決して私はそうではないと思うんです。極めて明確な記述でありまして、「大多数を占める心身に異常のない児童・生徒の教育そのものが、大きな障害を受けずにはいられません。」、こういうぐあいに言っておりまして、「その中から、例外的な心身故障者は除いて、」ということをやっているんですけれども、その後、出しましたもう一つの三年前のメモに移っていくわけなんですが、局長答弁を調べてみますと、「混合教育というような形にするとやはりこういう問題点というのは率直に言って存在するということかと思うわけでございます。」と言っているわけです。この「ということか」というところが実にみそでありまして、局長が現在もそう思っているのか、このメモがそう言っているのじゃないか、こういう説明なのか、この辺についてどちらもとれるような誤解を与えるというようにも思うんですけれども、まず明確に答えていただきたいと思います。
  7. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 障害児に対する教育は、まず基本的に障害児子供の一人一人の適性能力最大限に引き出すための教育の仕組みがどうあったらいいかという観点で基本的に考えていかなければならないと思います。したがいまして、文部省が従来とってまいりました方針は、障害程度種類に応じまして専門的な教育の機関を設けて教育をして、そして障害児の一人一人の子供適性能力最大限に引き出す、そういう施策を講じてきたわけでございます。したがいまして、一般小中学校子供一緒教育をするというのは、そういう観点で必ずしも十分な成果が期待できないということでございます。また、逆にそれを裏返して言いますと、障害児子供普通学級に在学するという結果、普通の子供たちに対する教育に、その障害児子供に対する配慮、手当て対応というようなことから、若干のマイナス面をもたらすというようなことも付随的に出てくるであろう、こういうことを申し上げているわけでございます。
  8. 前島英三郎

    前島英三郎君 わかったようなわからぬような部分なんですけれども。  そこで、三年前のこのメモを順番にちょっと解説をしていただきたいとも思うんですけれども、その二十三年前のこの前御説明した本よりも、この三年前、この三年前というのはいわば国際障害者年の年で、完全参加と平等、障害を持っている人たちが積極的に社会の一員として参加していこうという、国連の決議に基づいた世界的な一つのきっかけの年であったわけですけれども、これはタイトルは、「障害の重い子ども小・中学校教育することの問題点」、こういうタイトルの中で、ますが、「障害の重い子どもに対しては、小・中学校では適切な教育ができない。」。一般小中学校では適切な教育ができないという点について言いますと、昭和三十六年当時は、障害児教育の分野における新鮮な発見あるいは新しい可能性発見というものがその裏にはあったと思うんです。それから二十年たって多くの経験と実績をみんなが積み重ねて、分離教育の中でやられた教育理論とかあるいはまた教育技術というものをいろいろ体験して、そこからまたさらに発展すべきものは何だということで、今度は統合教育という形の中に返していって、さらに高めていくという視点が必要だと私どもは申し上げているつもりなんですけれども、このメモは単なる決めつけになっている、決めつけにすぎない、こういうように私は思うんです。  つまり一の「障害の重い子どもに対しては、小・中学校では適切な教育ができない。」、その(一)「一般教育課程に適応することが困難」である。「一般教育課程に適応することが困難」と言いますけれども、障害の重い子供でも適応できる子は数多く実際にはいるんです。むしろ、その障害を持った子供から学んでいるというケースも大変多い。私は、今、実際、普通学校に重い障害を持った子供が机を同じゅうしながら、本当に子供車いすを押してもらったり押されたり、あるいは一つの難しい答案でもって難解ができたという喜びよりも、むしろ一段の階段をみんなで持ち上げてやったその喜びを分かち合っているというような、体験的な報告を受けているところがいっぱいあるものですから、そういうところも文部省は調査したんですかというようなことを聞いたことが一度あるんですけれども、それは調査するようなつもりはありませんと言いながら、「一般教育課程に適応することが困難」と、こう決めつけられるということ自体が大変問題ではないかというような気がするんです。  一般教育課程というもの、それ自体が今検討の対象とされているわけでありますから、障害に応じた特別指導については、教員施設あるいは設備の分散化によって小中学校において決してできないことではないと私は思うんです。いろんな工夫をすることによって私はこうしたものを克服していく、それがまた今回のこうした臨教審のような一つの私は新たな教育の模索だろうというように思うんですけれども、ただ、いろんなことはこれから考えていくにいたしましても、この中で、「一般教育課程に適応することが困難」であるという決めつけ方は大変問題だと思うんですけれども、この辺は局長はどんなふうに理解しておりますか。
  9. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) この具体的な内容に入ります前に、このメモの性格と申しますか、どういう状況で会議資料にされたかということを若干御説明申し上げた方がいいと思いますので、御説明申し上げます。  昭和五十七年の一月に取りまとめられました中央心身障害者対策協議会の「国内長期行動計画の在り方について」、教育に関する部分について主として国際障害者年特別委員会教育育成部会においていろいろ審議があったわけでございます。その際に、同部会では、今御指摘のありました統合教育論立場に立つ方々の論と、それから現在文部省施策として進めてまいりました特殊教育障害程度種類に応じた学校をつくりながら充実していくという二つ考え方対立がありまして、いろいろ論議が行われたようでございます。その際に、同部会長から、文部省としてこの問題について率直なところのやつを簡単にメモでいいから問題点というかそういうものを出してほしいということでございましたので、その際の論議資料にするために出したのがこの内容でございます。したがいまして、箇条書きになっていまして、このことだけを取り上げると、問題点を中心に取り上げているものですから、やや誤解を受ける点があろうかと思うわけでございます。  そこで、御質問の「一般教育課程に適応することが困難」という中身でございますが、これはあくまで障害程度、それから障害種類に応じてのことでございまして、一般教育をいろいろな配慮を行えば十分に消化できるような人に対してまでこの問題で除外するということではないわけでございます。したがいまして、障害程度の重い子供たちについては、病弱だとか肢体だとかいろんな専門養護学校をつくって、そして教育を展開していかなければ十分な成果が上げられない、そういう子供まで全部一般小中学校に入れて教育を行うということは非常に困難である、そういう意味でこの問題を提起しているわけでございます。
  10. 前島英三郎

    前島英三郎君 それは箇条書きでも中身によって、箇条書きだからといって許されるものだというように私は思わないんです。ここにはいろいろな今までの経過の中での問題点というものが奥深いところにどろどろ漂っているだけに一つ一つクリアにしていかなければいけないというふうに思うんです。  私は、養護学校を否定しているわけじゃありませんで、本当に障害の重い子供にとって医療と教育ということは大切だと思っております。しかし、かねてから文部大臣が言っているように、子供世界的な部分で大きく羽ばたかせていく一つのこれからの新しい教育を模索するときに、障害を持っている子供障害を持っているだけの世界の中で生きていくということになりますと、これは世界へ羽ばたく前に地域の中での羽ばたきさえも許されない、こういう現状があるわけです。入り口を余りにも狭めているがためにそういう現実というものがあるわけですから、その前に一般教育課程に適応することが障害児は困難であるのだという決めつけ方を文部省がしているというところが私は実は問題点だという意識を持っているわけです。  それと、そのメモいきさつを今語られましたけれども、私は、例えばメモの要求をしたときに、出てくるとか出てこないとかじゃなくて、この前、局長の言った答弁は、ひょっとしたら既にこれは八代議員が持っているのかもしらぬ、持っているものだったらむしろ出した方がいいのだみたいな、一つのこのメモを出すことに、あなた自身が部下から要請を受けて検討をして、判断をして出さなければならなかったいきさつみたいなことを、この前二十六日、あなたは語っていたんです。こういうやり方でいいのか、そういう密室的な感覚でいいのかということも、実はいきなりイントロに大変私も愕然とした思いを持ったわけですけれども、さらにその問題は、この中の二と三と四なんですが、ここに流れている思想というのは、障害者社会にとって迷惑だというものがあると私は断ぜざるを得ないと思うんです。  障害者完全参加と平等を議論しているときに、こういう文書が出たということも先ほどから言っているように大変腹が立つわけですけれども、二と三を並列に並べているのも何か論理の矛盾ということをも私は感じております。三で言うところの学校施設の改善あるいは専門教員介助職員の配置がなされるとすれば、二で言うところの担任教員世話に追われるようなことは当然なくなっていくわけでありますから、この辺の矛盾も大変あると思うんです。さらに、事柄が教育の問題であることを忘れてもらっては困ると思うんです。世話をする、あるいは介助する、手助けをする、こうした行為というのは単なる物理的な行為ではないと私は思うんです。人と人との関係、一つコミュニケーションというのはこういう一つ行為だというふうに思うんです。こうしたコミュニケーションを真にコミュニケーションたらしめ、そのことを通して深い意味での教育が成り立つものである、このようにも私は思っているんですけれども、その辺の解釈はあなたはどう持っておられますか。
  11. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 障害を持っていられる方々がその障害を克服し自立をしていくということは、基本的に極めて大切な重要なことでございます。したがいまして、そういう自立への手助け教育の面でどういう形で展開したらいいかというのがこれまた次に重要な問題でございます。  そこで、そういうような自立を助ける教育をしていくためには、どうしてもその障害種類程度に応じたきめ細かな教育の展開なくしては十分な成果が上がらないというのが出発点であろうと思います。したがいまして、そういう意味から、それぞれの障害の重い方々に対する種類程度に応じた養護学校ないしは盲聾学校等をつくって教育をしているわけでございます。したがって、そういうみずからの障害を克服して生きていく、そしてそれだけの力を個人として持つ、そのための教育を積極的に展開していくということをまず学校教育の場では積極的にやることが一番出発点になるのではないか、こういうことでございます。  しかし、障害種類程度に応じましては、そうした一般子供たち交流というものの中で育っていくという障害児もいるわけでございます。そういう者については、そういう交流教育ないしは一般子供たち一緒教育をして十分な教育成果が上げられるという子供に対してはそういう教育の機会を保障していくということも必要であろう。そういう角度で、一面的ではなくて多様な対応でその特殊教育の振興に努めているというのが文部省現状でございます。
  12. 前島英三郎

    前島英三郎君 ですから、そうした人間的な手助けをするとか行為というものは、物理的な部分でさらっと解決していくのじゃなくて、もっとやっぱりコミュニケーションとして育てるということになりますと、助けられる助けるということのお互いのそうした触れ合いがこれからの人間教育の中には大変重要になってくると私は思うんです。その中で、二の(二)の、その中の「(善意手助けのみを当てにできない。)」というとらえ方、これの説明というのが私よくわからないんです。非常に意味が不明だと思うんです。だれが当てにしているのか。それは文部省当てにしているのかということです。恐らく文部省当てにしていると思うんです、この書き方は。それで、私たちにとってみますと、当てにしてはいないんです。むしろ、当てにしていない手助けが得られるから人人の善意というものを強く感じるんです。  そういう一つ解釈がないと、善意手助け当てにできないという、何か突き放した感覚文部省教育の中で持ってしまいますと、あとは人間物質文則の中でがんじがらめのベルトコンベヤーに乗っかっていくしかないということになっていっちゃうような気がするんです。大変僕は恐ろしい発想だと思うんです。むしろ、当てにしていない手助けが得られる、そこに私は人々の温かさがあり、人間価値観というものがおのずとわいてくる。もともと車いすを押したり、そんなことをやるのは本音部分では嫌なのかもしれないけれども、しかしそこにお互いコミュニケーションとして手助けをする、助けたり助けられたりするという心が小さいころから培われていくということが私は教育の中では最も大切な部分だというふうに思うんです。  まだ言いたいことは山ほどあるんですけれども、四について言って、後また大臣見解もちょっと聞いておきたいんですけれども、この四の部分では、「現行の特殊教育制度、ひいては学校教育制度全体の根幹に触れる大きな問題となる。」と、こう書いているんです。短い文ですが、本当はもっとあるんでしょうけれども、しかしこうした文がいずれにしても文部省から出たことは間違いないんです。統合教育のことをいろいろ考えている人たちは、子供たちのために制度を変えなさい、こう言っているわけです。制度全体の根幹を変えてくれ、こういうことを言っているわけです。それに対して、制度根幹に触れるから大問題であるという言い方になりますと、この臨教審もそうですけれども、制度のために子供たちが存在するのであって、子供たちのための制度ではありません、文部省本音ではそう思っているのであるということをこの四では語っていると私は思うんです。違いますか。  このメモ、これ全体について大臣はどのようにお感じになりましたか、ひとつ伺いたいと思うんです。私は、この最後の「特殊教育制度、ひいては学校教育制度全体の根幹に触れる大きな問題となる。」というようなことは、制度というのはだれのためにあるのだろうということを考えてみますと、この書き方はどうも納得できない、理解しがたい、こう思うんですけれども、その辺いかがでしょう。よくわかるように説明していただければ納得できるかもしれませんけれども、いかがでしょうか。
  13. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 障害種類程度に応じ、特に重い障害を持っている子供たちに対しては、そういう専門的な養護学校ないしは盲聾学校、こういうような形の学校制度を充実しながら、しかも義務制を施行しながら文部省としては特殊教育施策の進展を図ってまいったところでございます。  そこで、いろいろなこの特殊教育やり方についての考え方、それから見方対立があることも事実でございます。いわゆる統合教育ということで最大限に普通の小中高等学校教育を展開していく方がいいのだという見方と、今、文部省がとっております障害程度種類に応じではそういう専門学校をつくって教育することがその子供たちにとって幸せになるのだという見方、この二つが実は特殊教育を論ずる場合に常に論点になるわけでございます。  したがいまして、そういう観点でその統合教育原則として推進するということになりますと、今日まで進めてまいりました特殊教育に対するいろいろな諸施策、諸制度の基本的な発想の転換ということを考えていかなければならないということになろうかと思います。したがいまして、そういう意味から統合教育原則とするということを建前としてとる場合には教育制度根幹に触れる問題をはらんでくるという意味で、非常に簡単な言葉でございますが、言葉としてこういう整理をしたわけでございます。
  14. 前島英三郎

    前島英三郎君 大臣、もしお言葉がありますれば伺いたいと思うんですけれども、大臣障害児についての教育をどのような感覚でお持ちになっておられるのか。
  15. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 先般の委員会、そしてきょうまた前島先生初中局長のこの議論を私、承っておりまして、基本的にはこのペーパーの書き方、私は政治家という立場で、今、文部大臣でありますけれども、一政治家として見ておりますと、ちょっとこの書き方については先生から見るとおやっと首をかしげたくなる、あるいは疑問を挟まれる気持ちはよくわかるんです。  しかし、今、局長に確認をいたしましたが、内部資料として、統合教育を進めていくということであればどのような問題点があるであろうかということを内部として幾つかの問題を列記したものだ、そういう意味では先生のようなお立場統合教育を進めていくという、そういう観点に立った書き方ではないわけですから、確かに先生から見るとおしかりをいただき、あるいは疑問を挟まれるのは私は十分これもよくわかります。  しかし、このことを、外に向けてこういうやり方でだめなんですよという言い方をしておるのではなくて、先ほどから局長が申し上げているように、障害種類程度に応じて子供たちの本当の気持ちを理解してあげる。もう一つは、その子供たち気持ちを聞くということはこれは現実的にはなかなか難しいことです、これは先生一番おわかりのように。やはりその子供たちの親御さんを中心とした社会見方がどうであろうかということも十分配慮してやっていかなきゃならぬということから、専門的な教育を進めていかなきゃならぬし、また程度能力あるいはその発達段階によっては一般教育一緒にやっていただけるものならばそうあるべきであろうと思うし、そういうことを私は柔軟にやっていくべきものであろうというふうに思うんです。  すべてが統合で絶対やるべきであるとか、いや、これは別の教育をしていくべきなんだということを、基本的にそういう形を定めることは非常に難しい問題だというふうに私は考えるんです。ですから、文部省という立場も、できるだけ子供たち教育の機会を与える、そしてできる限り子供たちやまた父兄の気持ちを十分考えて教育の中に一緒に学ばしてあげる、そしてその子供たち能力をできるだけ引き出してあげるということ、その気持ち文部省も持っておる。そこのところは、ぜひ先生からも御理解をいただきたいというふうに私は思います。  先生が、この点につきまして、いろいろとおしかりといいますか、私ども政府に対しまして疑念といいましょうか御疑問を挟まれる点も私はよく承っておりますし、先ほど申し上げましたように、この問題点の紙はあくまでも内部でもしやるとするならばどういう問題点があるのだろうかということを、きちっとした言葉調ではなくて、問題点として書いてしまったものですから、これが先生のお目にとまって大変おしかりのお気持ちがあるということを私も十分理解いたしますが、基本的には子供たち立場に立ってこうした教育を進めていかなきゃならぬ、そういうスタンスでおるということはぜひ御理解をいただきたい、こう思います。
  16. 前島英三郎

    前島英三郎君 いずれにしましても、こうした内部資料にしましても、それでなくても統合教育推進諭と、それから分離教育推進諭、養護学校義務化に伴う問題点というのは、今日いろいろ語られている。語られている中で、一つのまた教育制度のこうした臨教審のようなものが出てくるわけですから、教育というのはその時代によって変えていかなきゃなりませんし、また一つ制度の中にがんじがらめに子供を縛りつけてはならない、こういうようなことを感ずるわけです。そういう意味では、文部省内部資料とはいえ配慮が足らない、もっと見出しに事細かに丁寧に、単に一枚のペラにするのじゃなくて、やってほしいというような気が私はいたします。  私の手元に、文部省が出した二枚つづりの資料がございまして、これは昭和五十五年度のものらしいんですけれども、入手経路や年月日がわからなくなりましたので文部省に探してもらったんですが、さっきのメモの前の年のようでございます。これはいわばこの一枚の紙の前の前段的なもので、これはメモ的なものじゃないわけでありますから、これについていろいろ御意見を伺っていきたいと思うんです。  これは「統合教育について」というタイトルで、結論からいうと「統合教育を行うことは極めて困難である」と、こういうことになっているわけです。なぜこの文書を取り上げるかといいますと、「参考」として文部省では幾つかの説明をしているんです。アメリカ、イギリスの統合教育について触れているというところで私、ちょっと質問をしていきたいと思うんです。この文書によりますと、アメリカやイギリスにおいて統合教育考え方が主流となっているものの、よく調べてみると、我が国の特殊教育は「基本的な考え方においても、あるいは実態においても、欧米の動向と大きく隔ってはいないと考える。」と、こう文部省では記述をしているわけです。本当にそうなのかどうか。私は、考え方の面で大きな隔たりがあると思っているんです。改めて、欧米諸国の統合教育考え方現状文部省ではどうとらえているのか、伺いたいと思います。とりあえず、アメリカ、イギリスについてはいかがでございましょうか。
  17. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) アメリカ、イギリスの統合教育の前提として、どういう児童を対象にするかということで、この場合、特にイギリスの場合には六人に一人程度の特別の取り扱いをする子供がいるという前提で、統合教育、こういうものをもっと進めなきゃならない、こういうことが基礎にあるようでございます。そうなりますと、日本の場合には、普通の小中学校に特殊学級として、障害程度の低い子供たち一般学校教育をするという展開をしているわけでございます。  したがって、基本的にこの基礎になる障害児の幅をどう見るかということでございまして、やっぱりイギリス、アメリカにおいても、障害の非常に重い子供を普通の小中学校に入れて教育することは物理的に不可能なことではないかと思います。むしろ、それぞれの専門施設ないしは専門の機関で教育をしていくというのが当然、方向として求められていくべき方向ではないか。そういう意味で、ここはやや大ざっぱにそこをひっくるめて言っておりますので、一面をとらえれば、向こうで言う特殊教育に相当するものまで考えれば統合教育で実現しているというふうに言えるのではないか、こういう論述をしているわけでございます。
  18. 前島英三郎

    前島英三郎君 余り信憑性がないんです、じゃないかなんというような感覚で。一つ統合教育、アメリカの場合、イギリスの場合と、こう判断されるのもちょっと困るんですけれども。  現状における特殊教育、小学校に在籍している児童生徒のパーセンテージというのを出してきても、これは比較するというのはまるで意味がないと私は思っているんです。日本は盲、聾、養護学校在学者は全学齢児童生徒の〇・四%なんですけれども、イギリスは約二%でと、こう書いているんですけれども、障害のカテゴリーも違うし、教育全般に関する考え方もまるで違うわけですから、数字そのもののベースで違ってくるということを考えておかないといけないと思うんです。それに、各国とも改革の途上にあると見なければいけないと思うんです。つまり、十年後にはどのような方向にランニングするかという面も見なければならないと思うのに、軽々に対比したパーセンテージの中で判断をするというのは僕は過ちだというふうに思うんです。そういう意味で、統合を原則とするか、あるいは分離を原則とするのか、ここがやっぱり一番重要だと思うんです。数字を挙げていても、原則の違いによって大きな差がだんだんあらわれてくるのじゃないか、私はそう思っているんです。  そこで、私が今注目したいのは西ドイツの事例なんですけれども、西ドイツは、敗戦、それから高度経済成長、今日の日本と歩み方も非常に似ております。教育的な感覚も似ているんですけれども、西ドイツでは全般的な教育改革の途上にありまして、その中で障害児教育についても統合教育の実現に向けて今や改革の途上に入っている。これは私の調べた範囲ではそういう途上にあります。西ドイツの場合、アメリカ、イギリスに比べて非常に性急なやり方ではなくて、段階を踏んで着実に進めていくやり方をとっているわけなんです。文部省として、西ドイツの例をどのように承知しておられるのか。  日本では、分離か統合か、こういうぐあいになってきますと、分離という原則論、なかなかこの牙城は揺るがしがたいところがあるんですけれども、西ドイツではそういう時期もあった、そういう試行錯誤の中でやっぱり統合なんだという一つの形の中に踏み入っているんです。文部省が先取りをしているわけですけれども、その辺について、西ドイツの例をどのように局長は理解しておられるんですか。
  19. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 西ドイツの教育のシステムは、州単位でいろんなシステムが違うわけでございますが、一九七二年の文部大臣の常設会議障害児学校制度の組織化のための勧告、それから一九七三年の西ドイツ教育審議障害児教育特別委員会障害児並びに障害に陥る危険性のある児童生徒の教育二つの勧告が出されているようでございます。それで障害児と非障害児との協力的学習の方向というものが示されているわけでございます。  この中身を少し分析してみますと、協力学校センターの構想が示されておりますが、普通学校と特殊学校との部分的な統合を図るという考え方のようでございます。その内容といたしましては、普通学校と特殊学校とを同一または近接する敷地に設置をするということでございます。そして、その施設設備の共同利用を図るということで、特殊学校障害児は、その障害程度により、普通学校の授業をもとにして特殊学校教師から障害に即した指導を受ける。要するに、普通の授業を受けれる子供については普通の子供と同じような授業を受けさせる、それから障害程度に応じて特別な指導をしなければならない分野については特殊学校の教師が指導を行う、こういう二面性を持っているようでございます。そして、日常の学校の生活の中では普通の児童生徒との接触、交流ができるだけ行われるようにする、こういうような考え方を示している。いわば部分的な統合教育論とも言ったらいいかと思うんですが、そういう形の方向を示しながら現在いろんな施策の展開を図ろうとしている。こういう状況かと思います。
  20. 前島英三郎

    前島英三郎君 ですから、一遍に階段を五段も十段も上ることは難しいと思うんです、やはり部分的な形の中での統合。正式には西ドイツはドイツ連邦共和国というんですけれども、「西ドイツの障害児教育」という本も出ているんですが、その第一章第一節の「障害児教育の新しい構想」の文言の中では、「だからこの書は、従来有力であった障害児学校的分離に反して、障害児と非障害児学校的統合を主張している。」、こういう解釈をしているんです。障害児教育特別委員会として、これもやっぱり教育審議会の中でこういうものを打ち出しているわけです。今度の臨教審の中でも私は率先してこういう問題を打ち出してもらいたいと思うんですけれども、「新しい構想の基礎づけを、障害児教育特別委員会としては、障害児社会の中へ統合することはすべての民主的国家の緊急な課題のひとつであるという把握においている。」、「障害児学校別に分離することは成人社会における非統合の危険性をももたらすのである。」、こういう言い方をしているんです、その審議会の答申では。この本の刊行は一九七六年でありますから、そしてこの本のもとになった勧告は当然その前に出されているわけです。勧告から約十年、外務省にもその後の進展状況を調べてくれるように実はお願いしてあるんですけれども、来年、一九八五年を一つの目標に勧告に沿って改革を進めているようなんです。ですから、西ドイツはそういう状況のようです。  大臣、この中で、「障害児学校別に分離することは成人社会における非統合の危険性をももたらすのである。」というこの文章は、非常にずしんとくる感じがするんですけれども、私どもも実は戦後七十人ぐらいの学級の中に育った。そのころは、足の不自由な子も知恵おくれの子も三人がけの机の中に並んで、あるいは体操の時間に、鉄棒の片隅で寂しそうに足の不自由な子がいると、みんなで騎馬戦で、馬に我々がなって、騎手になって、そしてまた一緒に遊んだというような体験もあるんですけれども、まさに私はそういうことがこれから障害児にやっぱりかかっていく教育のあり方だというように思うんです。今のように一つの就学指導委員会というものが地方の教育委員会にあって、あなたはこっち、あなたはだめ、親が幾らこの子は体が不自由なだけなんだから普通学校で学ばせてくれと懇願しても、裁判ざたにもなっているところがいっぱいありますけれども、そこでいきなり入り口で判定をして、あなたは普通学校ではだめなんだという形の中に障害児を分類していく分離方向というのは、部分的にはこれからはなるべく健康な子供が近い学校で学べるように、障害を持った子供も近い学校で学んで、そしてそこを登校、下校の中にお互いに手を引いたりあるいは車いすを押したりというところに、新しい人間善意といいますか、心というものが私は育っていくと思うんです。  先般、林委員一つのボランティア活動のことを提唱されておられましたけれども、私もまさしくこれからは人の心という財源を教育の中でも社会全体の中でも育てていくことをやることが大切だというふうにも思うんです。そういう意味では、この「障害児学校別に分離することは成人社会における非統合の危険性をももたらすのである。」というふうな、こういう感覚で統合の中に日本と同じ戦後の歩み方をしている西ドイツが思い切って踏み込んでいく形を、文部省はしっかりと学んでいただきたい、私はこのように思うんです。外国の経験や実績を従来の文教行政の中で学ぶということはなかなか難しいかもしれませんけれども、柔軟に、着実に変革をしていく。そのために、諸外国の経験からも学び取っていく。日本もこれから国際の仲間に入っていくには、がんじがらめの中で文教行政をしていくのではなく、やはりグローバルな視点に立って障害児教育も考えていただきたいというふうにも思うんです。その辺、局長、もし御意見ありましたら伺いたいと思うんですが、いかがですか。
  21. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) アメリカ、イギリス、西ドイツにいたしましても、対象としている出現率を六・六%、かなり高い対象率を障害の対象の子供だと、こう見ているわけでございます。したがいまして、日本の場合は約一%程度でございますから、当然、一般学校教育されているのが大部分である。その障害を持っている一%の中でも特殊教育学級として処理して教育を行っているのが約六割でございます。だから一%の中の四割が盲、聾、養護学校という専門のところでやっている。こういう実態でございますので、諸外国のその背景になっている事実関係、これをもう少し我々としても十分勉強する必要があろうと思います。  そういうことで、一般的に、日本の特殊教育については専門家の意見によりますと、かなり世界の中でもトップレベルの対応をしてきている、こういう評価も一面にあるわけでございます。したがいまして、そういう諸外国の動向、状況、それからこれからの日本の教育の展望、そういうことを考えて、どうあったら本当の障害児のための教育が生きたものになるかということを考えて研究し、対応していかなければならないと思います。
  22. 前島英三郎

    前島英三郎君 先ほど申し上げました、いわゆる統合教育を実施すると「多額の財政負担を強いられる。」という項目がありましたけれども、あれも私は間違いだと思います。例えば、西ドイツの例のような形で統合教育に向けて改革を進めようとするならば、五年とか十年とか中長期的な展望を立てて推進することになるわけでありますから、臨教審ができたとしても、入試の改善等はもっとテンポが速いかもしれませんが、教育制度の改革というものは大体において着手から完了までそれなりの年数、国家百年の計とかいろんな表現がありますけれども、そういう年数が必要だというふうにも思うんです。そして、その中長期の年数の中で、予算とかあるいはマンパワーとか及び施設の振りかえとか切りかえとかということが当然なされるだろうと思うんです。つまり、新たな資源を必要とする部分もあるけれども、実は多くの部分は既存の資源の使い方をちょっと変更するだけで私は済むのじゃないかというような気がします。恐らく、統合教育の推進のために目立って財政的なニーズが増すということがあるとするならば、それはマンパワーにかかわる部分ではないかというふうな僕は気がするんです。  しかし、我が国の場合、今後、児童数は減少の一途をたどっていくわけでありますし、生徒数も中学生はそろそろ峠に差しかかっているわけです。その後は急速に減少していくという見通したと思うんです。こうした点を考えますと、義務教育にかかわるマンパワー、そして恐らくは教育施設の面でも五年後、十年後を考えるとそれなりの余裕が出てくるのは当然のこととして予測できると思うんです。この余裕をうまく統合教育の実現に生かしていくという考え方を持っていただきますと、非常に財政的負担もなくて、私はいい意味での部分的統合から統合教育という実現に向かって歯車が回っていくような考えを持つわけです。そうすれば、二重投資だとかあるいはむだだといった感覚がいかに誤っているか、明確になるはずであります。  児童生徒数の将来の減少傾向に対してどのような見通しと対策を考えているかということを含めまして、私のこの統合教育の締めにしたいと思うんですけれども、私はさっきからまたいろいろ感じていることは、障害児教育をどうして特殊教育という文部省はとらえ方なんだろうということでありまして、このことは幾つか議論されております。障害児教育にした方がいいのじゃないかとか、特殊教育課という窓口の中で障害児教育を何となくぽつんと孤立の中で考えていくのは適切ではないのではないかというふうな意見があるんですけれども、その辺も含めて、ひとつ文部省考え方を伺いたいと思います。
  23. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) まず、盲、聾、養護学校等の学校に対する教職員の配当並びに学級編制の問題でございますが、先生御存じのように、第五次の教職員定数改善計画でこれらの学校についての学級編制基準も改善していこう、そして配当率も上げていこうということで、現在そういう方向で進行しているわけでございます。したがいまして、まずもって、その十二カ年計画による改善計画を特殊教育学校についても実現をしていくというのが先決かと思います。その後、次なる対応としてどういうふうにしていくかというのは、特殊教育を含め、普通の小中学校教育の問題も含めて考えていかなければならない。その際に、次なる段階で十分検討されなければならない課題かと思います。  それから養護の問題でございますが、これはいろんな意見がございまして、一体、特殊教育という言葉がいいのか悪いのか、それにかわる言葉として障害児教育という言葉を使ったらいいのではないかとか、いろんな案がありますけれども、なかなか皆さんのまだ共通理解を得るまでの言葉というのが現在の時点でない。諸外国ではスペシャルエデュケーションという言葉を使っているところもございますけれども、そういう言葉の翻訳として使う道もあるのじゃないかという意見もありますが、それもどうもしっくりしないというような意見がございまして、この問題についてはそれにかわる皆さんの合意と共通理解が得られるようなものがあればそういうことを改めることはやぶさかではございませんけれども、現在、特殊教育という言葉にかわる言葉がないというのが現状がと思っております。
  24. 前島英三郎

    前島英三郎君 障害者ということは、障害者という言葉にかわる言葉がないので障害者なんでありまして、実は障害者という言葉もよく突き詰めていきますといい言葉じゃないんです。でも、ほかにかわる言葉がない。しかし、それも非常にポピュラーになってくると何か愛着を覚えるわけです。しかし、障害児教育でありながら、しかもそれを特殊教育というさらにとらえ方をしていきますと、何かやっぱり障害があるという上に、特殊な形の教育の中でその障害児は存在するのだという二重のハンディキャップをそこに私は感ずるわけです。ですから、むしろ障害児障害児教育とストレートに私は解釈された方がいいのではないか、あるいは盲聾という問題もあるかもしれませんけれども。いろいろ質疑をやりますと、じゃそうなった場合、聴覚障害児教育とか視力障害児教育となりますと、どうも舌をかみそうだとか、いろんな解釈もあるかもしれませんが、そういうまさしく部分的な障害のものは、脳性麻癖があり、筋ジスがあるように、私はその中で考えればいいのではないかという気もするんです。統合教育につきましては、この後二巡目、三巡目で、さらにまた文教委員会などでいろいろと議論をさせていただくことにいたしまして、将来は統合教育に向かうにいたしましても、現在の特殊教育学校教育の質的向上というものもあわせて図っていくことは当然不可欠の要素でありますから、その部分を若干伺ってみたいと思うんです。  まず、「教職員定数及び学級編制の改善等」という項目が「特殊教育振興のための諸施策」の中に掲げられているんですけれども、具体的にこれはどういう努力がなされておりますか、お伺いいたします。
  25. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) まず、学級編制について申し上げますと、小中学校の通常の学級について、一学級現在八人でございますが、八人を七人にする、また重複学級につきましては、一学級五人を三人にそれぞれ引き下げるというような改善を講じております。また、特殊学級につきましては、一学級十二人を十人に引き下げるというような考え方で改善計画を進めているわけでございます。  そのほか、寄宿舎における舎監の定数だとか寮母の定数、それから介助職員の増員というようなことを進めているわけでございます。
  26. 前島英三郎

    前島英三郎君 そこで、この問題に関連して個別の事例にちょっと触れたいんと思うんですけれども、筑波大学附属盲学校のことなんですが、ここでは寄宿舎の寮母の数が少なくて困っていると聞いております。人数が足りないだけでなくて、宿直は制度上はないことになっているけれども、実際には必要だから宿直しているという奇妙な形になっているようでございます。きのう、私ども公聴会で札幌へ行きましたら、やっぱり札幌の国立の大学の先生が、制度上はないのだけれども、臨時でそういう形をとっているところが国立には間々あるというふうな、建前的な部分一つの雇用関係というようなものがありまして現実は奇妙な形になっているということでありますが、そのほか炊事職員の配置がないわけです。実際、寄宿生がいるのだけれども、炊事職員の配置がない。ないものですから、寄宿舎ですから食事が当然これは必要でありますから、臨時職員とパートという形でやっているわけです。この人たちの給料がどこから出るかといいますと、これは校費という形の中から出されているんです。つまり、教育研究のために必要な物品を購入したりする予算を流用しなければならない、こういうことに現実はなっているわけです。  国立の盲学校がその実態において公立の盲学校に比べてずっとお粗末な部分があるというようなことをちらっと聞きまして、非常に残念に思うんですけれども、それは文部省の縦割り行政の弊害があらわれているのじゃなかろうかと私思うんですが、寮母と炊事職員の問題、単に小手先の解決ではなくて、制度上も明確になるように早急に検討したらどうか。そういう意味では、国の文部行政の一つの柱である国立のそうしたところに何かつけ焼き刃的なものでやっているというのは非常に残念でしょうがない。しかも、その筑波盲学校には全国から優秀な教育だというので来て、寄宿舎に入っている。ところが、それは職員の配置がないということでいろんなことを工夫をやっているようですけれども、この辺のこと文部省はどう解釈しておられるのか、伺いたいと思います。
  27. 宮地貫一

    政府委員(宮地貫一君) 御指摘の筑波大学附属盲学校の寮母及び給食業務の要員の経費についてのお尋ねでございます。  特に給食業務の要員の問題は、五十八年度は、実際日々雇用で四十四時間勤務の者が五名、二十四時間勤務の者がパートで三名というような状況でございまして、非常に勤務条件が厳しいというような状況がございます。  そしてまた、経費の点でございますけれども、その給食業務用の経費として積算されておりますものが約二百万あるわけでございますが、実態としてはそれではとても足りないということで、もちろん御指摘のような当たり校費から大学側でさらに二百万ほど出し、盲学校の校費からも相当額を出しているというのは実態として先生御指摘のとおりでございます。この点については、当たり校費というものがそれぞれの学校の経費全体を賄うものとしてあるわけでございますが、当初積算されておりました金額は相当額ございましたが、予算の年々のいろいろ節約でございますとか、いろんな実態がございまして、そのための計上されている経費が非常に減ってきた、したがって盲学校の校費からの持ち出し分が大変多くなってきているというのが実態でございます。  この点の改善策については、私ども五十九年度は、先ほどの給食要員を、先ほど四十四時間が五名、二十四時間が三名と申しましたが、その二十四時間勤務のところについては五名に増員をする措置をいたしておるわけでございます。  さらに、そのための経費として不足額が出てくるわけでございますが、大学全体の方から支出しております経費については、五十九年度はこれは大学側とただいま協議中でございますけれども、その経費を増額することによりまして盲学校の校費が本来の目的に使われるような形、その点の是正については五十九年度取り組みたい、かように考えているわけでございます。  基本的に、国立の附属の御指摘の盲学校の寮母なりあるいは給食業務要員の積算について、公立学校に比べて不十分ではないかという御指摘の点については、私どもも国立学校全体の経費の中で今後改善を要する点があるとすればその点については十分検討させていただきたい、かように考えております。
  28. 前島英三郎

    前島英三郎君 小手先の解決ではなくて、制度上も明確になるようにやってもらいたいと思うんです。けさ三時半までかかって防衛費は七%に落ちついたとかなんとかということが報じられている。その一方で、教育とか福祉というものが何か犠牲を強いられていくというようなことは僕はよくないと思うんです、そういう意味でも。だから、まさに教育というものは、本当にその辺はしっかりと制度の上においても確立をしていく、教育には金は惜しまず使っていくぐらいでないと。  二十一世紀あるいはまたこれからの日本を子々孫々に我々が受け継ぐ中においては、教育が一番最終的な一つのよりどころに、私は人間形成の上からも国家形成の上からも必要になってくるのじゃないかというような気がするんです。私も、これまでいろいろこの委員会大臣答弁を聞いておりまして、非常に誠実に、一生懸命御自分のお考えを述べておられる姿勢に敬意を表しているんですけれども、障害児の問題は、大臣も一年でありますから、深く、率直な御意見は述べられない部分もあるかもしれませんけれども、私も実は当事者になっていろいろ考えていきますと、さまざまな問題を取り上げていくと、究極、本質的な意味で最後に行きつくのがやっぱり教育なんです。どんなに町が立派になっても、何が立派になっても、教育の中で障害児の問題あるいは心という問題が語られていく、その部分がないと本当の福祉というものは育っていかないということを見ますと、いかに教育というものが大切かというのは痛切に感ずるんですけれども、人間が持つ最も美しい面、最もとうとい側面、そういう面をお互いに差し出し合うということでまた人間に対する一つの心というものも育っていくようにも思います。そういう意味で、ぜひ部分統合教育統合教育という方向も、いきなり否定の立場文部省が考えるのじゃなくて、やっぱりその向こうには、健康な子供障害を持った子供も同じ子供なんですという視点に立ってもらいたいと思うんです。  いろいろ文部省特殊教育学校のしおりなんかを見ますと、養護学校には普通学級よりも十倍のお金がかかっているというようなことが書いてあるんです、十倍金がかかっていますと。しかし、十倍かかっているけれども、そこに学んでいる子供社会へ出ていったときに、十倍も二十倍も損をするような義務教育の中の体験であったのでは何のための教育がわからない。社会はアップダウンが非常に厳しい現実があるわけですから、温室のような中で障害児が育ってしまって、社会へ出たときにやっぱり最終的には施設へあるいは家庭へ逆戻りしていくというケースを考えますと、まさに養護学校の義務化からこの五年を経て、今新しい統合教育といいますか、新しい教育障害児部分にも模索する日が着々と目の前にちらついているということを強くお願い申し上げ、私の時間もなくなりましたので、文部大臣のもしお言葉がございましたら伺いたいと思います。  これで私の質問を終わりたいと思います。
  29. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 先生から御指摘がございましたように、幾つかの視点をとらえなが文部省に対しまして御指導をちょうだいいたしております。私も大変感銘深く拝聴をいたしておりました。  先ほども申し上げましたように、初めから障害を持つ子供たちとそうでない子供たちを分け隔てをしようという、そういう視点ではなくて、あくまでも子供たちのその個人の障害種類、また程度、それに応じて行き届いた、子供たちに手厚い教育をしていきたい、こういう考え方文部省は立っておるということをぜひ御理解いただきたいと思います。当然、先生から御指摘をいただきました点につきましては、今後とも改善をしていかなきゃならぬ点もたくさんございます。また、この障害児教育という名称、先ほど先生もお述べになりました。私は単に素人的考え方から見て、障害児教育という言葉は、子供たち障害があるのだというふうに呼称することがいいのかなという気持ちを私自身持っております。だからといって、特殊教育という名前が果たしていいのかどうかということについても確かに疑念がありますが、何となくオブラートに包んだ呼び方の方が障害を持つ子供たちにとってはいいのではないかという気持ちを私は持っております。  その点は、今後とも国民の多くの議論を踏まえながら考えていかなきゃならぬ点でございますが、先生からの御忠告の点というのは文部省も十二分にとらまえておりますが、先ほど御忠告いただきましたように、内部でいろいろ検討していく問題点としてのそうした書き方等についても、これからも配慮を十分していかなきゃならぬということは、私どもとしてはこの先生の御指摘の点で反省をいたしておるところでもございますし、私としても事務当局には再三、細心の注意といいましょうか、そういう配慮をするようにということは指導をしていきたい、こういうふうに考えております。  いずれにいたしましても、教育全体に対する取り組みをこれからしていかなきゃならぬことでございます。恐らく臨時教育審議会といたしましても、国会で成立をさせていただきましたならば、幅広く将来におきます教育の諸制度検討いたすわけでございます。もちろん、どういう事柄をするかということについては審議会が十分考えていただくことではございますが、たびたび申し上げておりますように、こうした国会の論議を踏まえて議論をしていくということは基本的に大事なことでございますので、先生から数々寄せていただきましたいろんな御意見等も、これから臨時教育審議会などでも十分御参考にさせていただく意見というふうに私は考えておりますし、またそんなことも私としましては審議会に要望をしていきたい、こういうふうに考えております。     —————————————
  30. 高平公友

    委員長高平公友君) この際、委員異動について御報告いたします。  ただいま矢田部理君が委員辞任され、その補欠として粕谷照美君が選任されました。     —————————————
  31. 高平公友

    委員長高平公友君) 速記をとめてください。    〔速記中止〕
  32. 高平公友

    委員長高平公友君) 速記を起こしてください。
  33. 粕谷照美

    粕谷照美君 文部大臣にお尋ねいたしますけれども、けさほどのニュースで防衛費が七%で大蔵大臣と防衛庁長官との間で決着がついたということがありました。行革審報告も、防衛費は抑制をすること、こういうふうになっているわけです。そのことと関連をいたしまして、例えば米価につきましても一・四の諮問が二・二になった。極力抑制という言葉がこういう数字になっているわけなんです。防衛庁長官が七%の防衛費増の要求をとったということでありますが、文部大臣としてもやれないことはないと私は思うんですけれども、教育費についても聖域はない、私どもはこう考えておりますが、いかがでしょうか。
  34. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 粕谷さんの御指摘の中の防衛費云々につきましては、同じ政府部内の所管の違うところでございますので、私からそのことについての意見は、この際、差し控えたいと考えております。  しかし、教育の予算につきましては、極めて財政的に厳しい状況であるということ、そしてきょう示されました審議会、そしてまた財政当局の基本的な考え方等を示されまして、極めて厳しいものであるということは十二分に承知をいたしております。私も、もちろん国会の委員会を通じまして、最大限に文教行政を推進していけるように予算につきましてもこれから取り組んでいかなきゃならぬ、こういう考え方は示しておるわけでございます。  けさ、閣議におきましては、事前に大蔵大臣と概算要求に関しましての議論を詰めるというようなことは私は具体的にはいたしませんでしたけれども、閣議におきまして、全閣僚のもとで教育の予算については極めて窮屈である、また国会の予算委員会あるいは内閣委員会、文教委員会等を通じて非常に教育に対する各党各会派の教育制度について行き届いた行政を進めるようにという御意見も極めて大きい、そういう事態を踏まえて最大限の私自身も努力をしたいが、文部省予算、全体的には人件費というものの占めるウエートも非常に大きい、したがって文教行政の政策を進める上においても極めて困難な事態に立ち至っている、私自身もそういう認識を持っておりますので、概算要求、引き続き年末におきます来年度の予算編成について私なりに最大の努力をいたしますが、財政当局も十二分にそのことについて御理解をいただきたい、こういうふうに私はきょう特に発言を求めて、閣議でも総理初め各閣僚に対しましても私の意見を開陳いたしておきました。  私自身も、そういう考え方でございますので、厳しい財政状況の中でございますが、私なりに国会の論議で出ました問題点につきましては最大の努力をしてまいりたい、このように考えております。
  35. 粕谷照美

    粕谷照美君 全体的な予算に占める教育費の割合というのが下がっているわけであります。長いこと自民党の文教委員会の実力者として頑張っていらっしゃった文部大臣のこれからの御健闘を私たち一緒になって応援をしてまいりますので、心からの期待を申し上げたいと思います。  さて、文部大臣、お忙しくいらっしゃるわけですから、日曜日、オリンピックの開会式などテレビをごらんにならなかったのじゃないかと思いますが、いかがでしょう。
  36. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) スポーツ担当をいたしております大臣といたしまして大変関心を持っておりますが、ちょうど開会式の時間帯は、私は残念ながらテレビを見る機会はございませんでした。後で、収録いたしたものや、新聞や、またスポーツニュース等々でできるだけ細かくテレビを見ておりました。開会式を見れなかったのは非常に残念でございますが、いずれ全部まとめたビデオというものがあるのではないか、ゆっくりまた見たい、こう考えております。
  37. 粕谷照美

    粕谷照美君 突然こんな話をして不見識かもしれませんが、私もきょうの質問を一生懸命勉強しているんですけれども、あの時間帯だけはやめまして見ていたんです。そのときに、入場式のときにスタンドの方々が拍手するその音がちゃんと入ってくるんです。何と日本人の選手団に対しては拍手の音が小さいことよ、目立たなかったことよという感じを持ちました。観光客の方で、あのスタンドに入っていらっしゃった方なんでしょう。後でインタビューを受けて、日本が人気がないのでがっくりきたということが出ておりましたけれども、ロンとヤスだけが仲よくても国民が日本に対する関心というものを大きく持っていただかなければならないなということを私自身は感じました。  そういう中で、一九三六年のベルリン大会でオーエンス、陸上競技に金メダルを四個とって、その偉業をなし遂げながら、黒人であるということだけで、帰国してからの歓迎パーティーでしょうか、御苦労さん会なんでしょうか、あのパーティーには出席できなかった、そういう人種差別を受けたそのオーエンスの孫娘が聖火ランナーとしてコロシアムに入ってくる部分を受け持って、また同じ黒人でありますジョンソンに引き継いでいるわけです。あの企画に対するさまざまな批判というものはあると思います。選挙に利用したとか、いろんなことはありますけれども、私は率直に歴史的なことを振り返って評価をしているわけですが、その黒人の人たちの活躍の場面に対するNHKの紹介なんですけれども、非常に気になった部分があるんです。  それは、アフリカから労働のためにやって来た黒人という言葉があるんです。とんでもない話であります。アフリカの人たちは、「ルーツ」でもそうですし、「アンクルトムの小屋」でもそうですけれども、奴隷として連れ去られてきたわけです。そして、売買され、人権などというものは全く認められないままに、今まで闘いの中で自分たちの地位を築き上げてきたというふうに思っておるわけですが、私は公共放送の人がああいう労働のために来たなどというようなことを言うということ、説明をするということ、アメリカに対する気兼ねであるとしたら大変な問題だというふうに思うんです。それは私は、今、南京虐殺事件などを初めとして教科書問題に対する検定などというのが非常に厳しくなっている、報道にそんなことがしかれたのかという感覚を持ったのは少し敏感過ぎるかもしれないんですけれども、文部大臣はごらんになっていらっしゃらないわけですから、私の話でしかおわかりにならないわけですから、後でビデオなどを見ていただいて、企画そのものはすばらしかったと思いますけれども、私この言葉が非常に気になりまして、文部大臣のお考えをお伺いしたいと思いまして、本格的な質問に入る前に質問したわけであります。
  38. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 私も、専門的なそういう知識や、また学問というものを吸収しておるわけではございませんが、やはりアメリカにとっての一番の悩みというのは、昔からの歴史から見て黒人に対する人種的な問題、アメリカ人としてはおおらかな気持ちで、かなりそういうことについての前進は見られたと私は思いますが、歴史的な経過から見て、私も個人的に、アメリカに旅行などしてみましても、まだまだそうしたことがアメリカの悩みの多い、一つの恥部だろうと思うんです。そういう意味で、できるだけ意識的にそうしたことの人種差別がないように、アメリカ人の本当の意味でのおおらかな、明るい国民性というものをできる限り世界の皆さんに理解してもらいたい、そういうことで、ある意味では黒人の皆さんにそういう場面に当たってもらうということは、ある意味では、また逆に言うと意識しておるという面もないわけじゃないんですが、今、粕谷さんのテレビを見ての御感想を含めてのお話を承りますと、いろいろと心配りをしておられるのだなということはよく私にも理解ができるわけでございます。  その中で、NHKのアナウンサーが労働のためにと言ったのはどういう考え方で言ったのか、これは本人でないとわかりませんが、ときたま私は、NHKのみならず、最近のテレビのニュースなどを見ておりますと、どうも若いアナウンサー、キャスター等は、正しい日本語というもの、その背景の意味は全く別として、日本語自体が非常にある意味では昔の感覚からいえば乱れてきているという面もあるかもしれない。そういう面で、何の別に根拠もなく、安易に話されているという面もあるかもしれませんし、このアナウンサーにこういうことを言っちゃいけないよとは恐らく言っているようなことはないと思いますが、逆に言えば、奴隷のために連れてきた黒人がここまでということを言っていいかどうかということの判断を本人がまた考えておられたのかもしれません。そういう意味で、奴隷という言葉よりも労働のためにという言葉をあえてアナウンサーは言ったのかもしれませんが、逆に言えば、先生から見ると、正しいものは正しく言うべきであって、労働のためというのはおかしいといえば確かにおかしいかもしれません。  恐らく私は、国に遠慮をするとか、あるいはまたNHK自体がそういうことに気をつけろと言ったとは私は考えられませんが、これはどちらかというと逓信委員会でまた御議論いただく問題なのかもしれませんが、私はもう少しアナウンサーの気持ちとしては単純に労働のためにという善意で言ったのではないかなどという、実際聞いたトーンも場面もわかりませんので、先生の今のお話から伺って、極めて私は自然な形で労働のためにというふうに言ったのではないかというふうな感じを持ちます。  しかし、それぞれの国の立場、それぞれ国の持っているまた悩み、恥部というのは、どの国にも歴史的にあるわけでございまして、私どもとしては、その国のとってきた態度がどうこうということよりも、自分たちの国が正しく、そして歴史というものをいろんな形で踏まえながら、先人がいろんな形で苦労しながらその歴史の中に成り立って、私たちはまた過去への反省を含めながら次の世代に対して正しい教育を展開していくということが文部省としては大事な、基本的な姿勢でなければならぬ、こういうふうに感じます。  先生の御質問に対して、先生のお考えになっておられる点について私お答えできなかったかもしれませんが、ごく一般論として、感想めいたものとして申し上げさせていただきました。
  39. 粕谷照美

    粕谷照美君 今の問題は原稿なしでしゃべるわけですから、私どももこういうところで五・九と言ったはずが九・五と言ったりいたしますのでそれは了解できるといたしましても、しかし基本的な人種差別に対する問題なんですから、もう少しきちんとしておいてもらいたかったという感想と同時に、NHKがそういうことについて報道管制をしいているとしたならば大変だという気持ちがあったものですから、今私は質問をいたしたわけであります。  さて次に、今回の教育改革をめぐる論議の中で臨教審が急激に浮上してきたというこの背景には、中学校の生徒の校内暴力事件あるいは非行などというものが大きく取り上げられて、これがやっぱり中曽根総理をして何としても早く臨教審を発足させなければならないという考え方を持たせたのではないかというふうに思います。現に、ことしの一月二十五日の決算委員会でも、我が党の久保田真苗議員質問に対して文部大臣は、十四期の中教審を近く発足させて、そのことについて、そのことというのは婦人差別撤廃条約にかかわっての家庭科の問題ですが、審議をいたします、こう答弁していらっしゃるんですから、一月二十五日現在はまだ文部省としては、臨教審なんということを全然考えないで、そして中教審でやっていくという感じがあったのだと思うんです。  その背景になった、一つの非行、暴力の問題で私は私なりにいろんな勉強をしてみましたが、先日、朝日新聞でしょうか、「レポート 教育改革  この人に聞く」というので、広島大学の教育学部長沖原豊さんという方が、六・三・三制を変えていくことで校内暴力がなくせるのかという、こういう表題のもとにいろいろなコメントをしておられます。この沖原さんがおっしゃるのは、学制をさわって非行、暴力がなくなるかといえばこれはノーであるという感じなんです。それは、アメリカは学区が一万以上だ。そして、学区ごとに制度が違っていて、六・三・三制のところがあり、八・四制のところがあり、四・四・四制度のところがある。実にさまざまで自由になっているけれども、しかし暴力なんというのは大変だ。これは映画でも見られるし、資料なんかでも見られますが、日本なんか比べものにならないくらいのものがあるわけです。イギリスやフランスなんかは六・三制ではありませんけれども、やっぱり中学生の校内暴力問題には非常に苦しんでいますし、西ドイツなんかでもそうなんです。私どもはこれを先進国病だというふうに考えているわけでりますが、こういうことに対してフランスあたりでは、教師と生徒との間をもっともっと近づけていく人間的な接触をすることが非常に大事だというので、教育団体が、学校規模は大体中学校は六百人以下だ、高校は八百人以下だというようなことを話しているわけであります。  世間にはいろいろな議論がありまして、日教組があるから暴力が出たなんということを言われまして、私は非常に憤慨にたえないわけですけれども、日教組の組合員がほとんどいない香川県だとか徳島県に文教委員として調査に行きましたけれども、あそこの教育長さんが、生徒の非行、暴力には手を焼いています、こう言って嘆いておりました。一言気に入らないのは、女の先生が余計になったからではないでしょうかなどと言って、粕谷先生には悪いけどなんて言いまして、とんでもない見方をしているものだと思ったんです。  こういう非行、暴力の生徒に対しての対策なんですけれども、六月十九日の何新聞だったか、私もうっかりして新聞名を見なかったんですが、二種類の新聞に載っておりましたが、大臣も総理も非常に熱心に現場を視察されております。私は大変その点では高く評価をするわけですけれども、永田町の小学校で行われたテレビ番組の録画撮りで約一時間にわたって現場の教師らと教育現状について討議をした。その席に、文部大臣と中学、高校、大学の各代表四人が総理のほかに出席をしておったというのですが、その中で総理大臣が、校内暴力などの生徒非行について、学校先生は本当に愛情があればひっぱたいても直してやることが必要だ、教師は内面的にはたくましい強靱なものがなければだめだ、こう注文をつけたという記事が載っているわけです。大臣一緒にいらしたわけですが、このひっぱたくというお話、お聞きになりましたでしょうか。
  40. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 隣におりましたので、聞いております。
  41. 粕谷照美

    粕谷照美君 その言葉を聞かれたときに、大臣としては何か共感のようなものがあったのでしょうか。それは文部大臣として困るなというふうにお考えになったのでしょうか、どうでしょう。
  42. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 基本的には、懲戒として体罰を加えるということは学校教育法によって禁止をされているわけでございます。したがいまして、体罰を加える、ひっぱたくというのは体罰に当たるだろうと思いますが、そうしたことを懲戒の意味先生がなさるということは、これは教育上好ましいことではないと思います。  しかし、人間社会でございます。子供たち先生の関係もやはり人間社会だろうと思います。先生子供たちを愛情を持って指導をしていくというのは、これは基本的に最も先生の持っておられる大事なところだろうと思いますし、また教育基本法では人格の完成を目指すということでございます。もちろん、学術、学問というものを学んでいくと同時に、人間として将来、立派に社会人として立っていけるように、そういうことを先生は願って指導をしておられるということも、これも言うまでもないことでございます。  私は、そういうお話を承りながら、自分の過去のことをやっぱり思い出してみます。私もどちらかというと余り先生の言うことを聞く方でない子供であったものですから、小学校段階では余り殴られませんでしたけれども、中学校では随分ひっぱたかれた思い出がたくさんございます。今静かに考えてみますと、今でも懐かしくお手紙をやりとりしたり、しょっちゅうお会いしたりする先生というのは、何らかのことで一回か二回殴られた先生が多いんです。殴られた方についてちっとも恨みもないし、それから殴られたことに対してなぜ殴られたのかということについては一々私は今わかるんです。小学校のときも一度、教頭先生にぶたれたことがありましたが、なぜぶたれたかもよく私はわかっております。  ですから、そういう意味では、子供の将来にとって、なぜぶたれたのかという理屈、これは子供の心にしっかりと焼きつけられていくものだろうと思うんです。あくまでもそれは愛情があってなさることでございますから、私自身もこうして大人になってみて、殴られたことに対する恨みよりも、いろいろな意味でいい思い出と先生に対する懐かしさというものがむしろ増幅をしているというのが率直なところの気持ちです。  だからといって、ぶっていいよ、殴るべきだというふうには、これは文部大臣という立場で申し上げるわけにはいかぬと思いますが、そこにやっぱり先生と生徒との間に、尊厳といいましょうか、そういう信頼感というようなものがあったと私は思うんです。先生人間なんですから、一生懸命に何回も何回も繰り返して指導していく。それに生徒が従ってくれない。つい先生が手が上がってぶった。それを子供がすぐ親に言う。親がうちの子供をぶったというのですぐ校長に言う、あるいは教育委員会に言う。これでは先生は自信を持って教育に当たれないだろうと思うんです。  私は、学校においては先生を信頼すべきである。親が一々細かく口を出すべきではない。私は、いろいろな個人的な立場でもPTAや親御さんに対してはいつもそういうことを申し上げてきておるんです。だからといって、先生は何をやってもいいということではない。基本的には先生子供たちを正しく、学校教育法その他、それに関連する施行のいろんな規則、学校規則の中で指導していかなければならぬということは言うまでもないことでありますが、やはり先生と生徒、教える者と教えられる者とのこの人間関係というものをより深めていくということからスタートしていかなければならぬというふうに考えております。  したがいまして、文部大臣という立場からいえば、これは学校教育法では体罰を加えてはならぬということでありますから、これはいかなる理由によっても体罰を加えるということはいけないというふうに私は申し上げておきたいと思いますが、しかし先生として愛情を持って子供に接していくことにおいては、先生は責任を持って、理解を持って子供たちに当たるということについて、大人を含めて社会はもっと理解をしてあげるべきだというふうに、中曽根さんのひっぱたくという話を承りながら、あえて先生からどう思うかということについては、そのような考えを私は申し上げておきたいと思います。
  43. 粕谷照美

    粕谷照美君 先生は聖人じゃないんです。だから未熟なんです。その未熟さのゆえに、子供たちとの触れ合いの中で自分自身も向上していくという努力が必要だというふうに思います。そういう努力の姿が見えれば、生徒も親も教師を信頼するであろう。そういう中にいれば、今、文部大臣がおっしゃったようなことがあるだろうと思うんですが、最近はそうではないんです。すぐ校長や教頭やあるいは裁判に訴えていくという例などが随分あるわけでおりまして、教師としては、この点については法律というものがあるわけですから、厳しく法律を守ってもらうという姿勢を総理大臣として私は言っていただかなければならなかったと思うんです。総理そのものが、ひっぱたくのはいいとか、けがしない程度におしりをぼんぽんとやるのはいいなんて、心の底から怒って先生が生徒を直そうとしているのか、けがをしないようにこの辺でいいかなんといってなぐっているのかなんというのはすぐ見抜かれますから、そういう意味では私は総理の発言は非常に不謹慎であったという感じがしてならないわけであります。そういうことを申し添えながら次に入ります。  最初に、「教育基本法の精神にのっとり」という法文上の文言と関連をいたしまして、審議会の審議のあり方についての質問をいたします。  最初に、議事録を見まして、幾つか文部大臣答弁を拾ってみたわけですが、審議に当たっては枠にこだわらず自由濶達にとか、委員の皆さんが教育基本法の精神を大切にしてくれると期待しているというようなことをおっしゃっておりますが、この枠にこだわらず自由濶達にということは、一体どういうことを意味するのでしょうか。
  44. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) たびたび申し上げておりますように、このたびの教育改革に当たりましては、政府は、法律の中にも明記をいたしておりますように、教育基本法の精神を大事にして教育改革に当たりたい、これがまず政府の基本的な姿勢でございます。  したがいまして、審議会でいろいろと御意見を政府がちょうだいをすることになると思いますが、教育改革を進めるに当たっては、政府は教育基本法を大事にして進めるという、まずその姿勢を国民の前に明らかにいたしておるわけであります。したがいまして、臨時教育審議会の人選は国会での成立を待って進めるわけでございますが、この人選を受けていただく委員の皆様方には教育基本法というものを大事にしていただきたい、こういう考え方で、政府は教育基本法は変えないんですよというこの考え方をまず基本に置いて御論議を深めていただきたい、こういうことを政府としては期待をいたしておるわけでございます。  そこで、今、先生から御指摘がございましたように、枠にとらわれずに自由濶達な論議をするということは、これは教育基本法というものを考えずにやれということでおかしいではないかというこの御指摘は、たびたび国会でもちょうだいをいたしました。先ほど申し上げたように、政府は教育基本法の精神を大事にする、そして教育基本法は変えないで教育改革をしたい、こう申し上げておるわけでございますから、まずこのことは国民の前にその姿勢を明らかにしているわけでございます。  ただ、制度的に、先生先ほどの前段のときにもお話がありましたように、例えば義務教育の年限をふやすのかあるいは減らすのかという議論が、教育の諸制度全般を議論するということになると当然出てくるだろうと思います。したがって、そういう制度について、例えば義務教育をもう少しふやすべきではないかという意見、あるいはこれを単に十年にするとか十一年にするのではなくて、今六・三ということですから、さっき先生もちょっと話されましたように、六・六というふうに仮にすれば十二年ということで三年延ばすということになる。そういうことは教育基本法を改正しなければできないということになりますから、そこについてはさわらないでやろうじゃないかということであっては、諸制度についての議論はしにくい面があるのではないか。そういう意味で、基本的には大事にしていただかなきゃなりませんが、制度についての議論をなさるときにおいては私は自由な御論議があってしかるべきであろうというふうに申し上げておるのが先生から今御指摘をされた点であろうというふうに考えております。  しかし、答申をいただく、その答申をおまとめになることについては、会長は、当然この法律の中にございます教育基本法を大事にして、そのことの精神をしっかり守って恐らくお取りまとめをなさることは私も期待ができますし、また、それを受けて政府がそれを実施段階に入りますれば、当然このことが基本的に一番大事なポイントでございますから、十分そのことを配慮して国会の論議のちょうだいをしなきゃならぬということにもなるわけでございますから、そういう意味で、論議をする上においては自由にやっていただいた方がよりすばらしい教育の諸制度についての御意見が私は出てくるのではないか、こういう意味で申し上げているわけであります。
  45. 粕谷照美

    粕谷照美君 そこで、思い出すことがあるわけです。文教委員会で私は質問いたしましたけれども、文教懇の話であります。  この文教懇提言の中にあります、教育基本法や教育に関する特定の見解にとらわれずに論議した。この基本法にとらわれないで論議をしたという部分であります。多分、この懇談会の中で教育基本法に反する内容があったのではないかと思いますが、これを取り仕切った方、その辺はどうですか。
  46. 森正直

    説明員(森正直君) 御説明申し上げます。  文教懇談会では、ソニーの井深名誉会長以下七名の方にお集まりいただきまして、全く自由な立場から御懇談をいただいたわけで、それを示すためにこのような表現をとられたものと承知しております。  なお、教育基本法につきましては、同懇談会において深く議論が行われたというような事実はなかったものと承知しております。
  47. 粕谷照美

    粕谷照美君 教育基本法そのものに深く論議をしたとか云々とかいうことではないんです。私も見ましたけれども、例えば鈴木健二氏なんかは、義務教育を八年制にする、前に延ばして十年というのじゃないんです。一年減らすということを提言していらっしゃるわけでしょう。そして、六・四・三・三制にして、義務は中学は二年生まででいいじゃないか、七歳入学だなどということを報告していらっしゃるわけです。その点は、臨教審でありませんから、いろいろな議論をしたところでそれはそれで構わないというふうに思っているんですけれども、しかし四月十七日の新潟日報なんですけれども、その他の新聞にも載っていたのではないかと思いますが、「個人意見撤回させる  「基本法廃止」に待った」、こういう記事が載っていますが、これは事実あったんですか。
  48. 森正直

    説明員(森正直君) 御説明申し上げます。  文教懇談会は、報告書本体をお読みになったことと思いますけれども、大部分が共通意見という形式になっておりまして、これは七人の方たちが自由に御論議されたところを、おおむね合意されたところを先生方で整理されたものでございまして、仰せの新潟日報あるいは東京タイムズにも出ておりましたけれども、田中美知太郎先生について撤回を迫ったとか、そういった事実はございません。なお、重ねて御自分でおっしゃりたいということが文末の個別意見という形で三人の方があえてお載せになったという形になっております。  以上でございます。
  49. 粕谷照美

    粕谷照美君 私は、本人にも今度確かめてみなきゃならないと思っているんですが、この記事によれば、田中美知太郎氏とちゃんとお話をしているわけです。そして、この記事の中には、田中氏は文教懇事務局に対し個人的意見を出していた。なぜ、三人の意見は出していて、この田中さんの意見は出さないのですか。そのようなファッショ的なやり方が通るんですか。
  50. 森正直

    説明員(森正直君) 内部のことは、お話内容については余り今まで立ち入って先生方に申し上げたことはございませんでしたが、二月から三月にかけまして先生方からペーパーはお出しいただいております。それを先生方でいろいろ取捨選択していただいた中に田中先生のもございまして、その後またさらに重ねて三人の方からこれは個別意見でやってほしい、そういうことがありまして、ああいう形をとったものでございます。
  51. 粕谷照美

    粕谷照美君 私があなたに言っているのは、なぜそのように発言を特定の人に限り否定をしたかということです。これはファッショ的なやり方ではないか、少なくとも文化と教育に関する懇談会などという、そういうもののやるべき筋合いでないのではないか、こういうことを聞いているわけです。
  52. 森正直

    説明員(森正直君) 田中先生個人についてそうやったわけではございませんで、そこら辺は私、恐らく取材をされた方たちが田中先生に何か非常に深くお話をされたのではないかというふうに思っております。例えば、石川忠雄先生、慶応の塾長さんですとか、それから天城勲先生、放送教育開発センターの所長ですとか、いろいろな方からもペーパーをいただいておりまして、そういったことでは先生方並びでお出しいただいているということでございます。決して田中先生をねらい撃ちして撤回していただいたというようなことは全くございません。
  53. 粕谷照美

    粕谷照美君 しかし、それにしましても非常に不明朗な話であります。こんな不明朗な経過が取りざたされている文教懇の報告などというものは臨教審の参考資料にもならない、私はこういうふうに思いますけれども、文部大臣いかがですか。
  54. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 文教懇は、総理が私的に教育に対する考え方、そうしたことについての勉強を進めていかれる、そういう意見を総合的に皆さんが御一緒に議論をされているという、あくまでもそういう私的な諮問機関でございまして、したがってこの文教懇の報告そのものは臨時教育審議会がそれに対してこだわるとか、それにとらわれるということは基本的にはないわけであります。私は、文教懇を今、先生から御指摘をいただきましたが、教育基本法の精神に触れるというような点について、私自身も読んでみておりましたが、直接抵触するというのは、やはり先ほど先生がおっしゃった鈴木さんのところなどはこれは基本法を改正せざるを得ないということになりますから、このところが直接抵触するというような感じがいたします。途中の論議の過程の中でいろいろあったということについては、これは私どもはそのこと自体が今、臨時教育審議会の中で参考にするとか、そういうことではないだろうというふうに考えます。  先ほど申し上げましたように、あくまでも基本法の精神にのっとって行われるということを私ども期待いたしておりますので、文教懇が私的懇談会であるということについて十分留意をしながら、何も文教懇のみならず、いろいろな教育に対する御意見というものは一つの参考の資料になるというふうに私どもは考えておりまして、先生からそのことは臨時教育審議会の参考などにしちゃいかぬとかというような、そういう御意見を必ずしも私どもはそのまま受けとめるということじゃなくて、これは審議会の諸先生方が判断をなさることであろうというふうに私どもは受けとめているわけでございます。
  55. 粕谷照美

    粕谷照美君 そういうことになりますと、私はこれからの委員の任命だとか、あるいは審議のあり方について意見を申し上げなければならないと思います。  それでは、修正案の提案者にお伺いをいたしたいと思いますが、来ておられますか。——答申等の尊重について質問をいたします。  まず、第三条の二項、「内閣総理大臣は、答申等を受けたときは、これを国会に報告するものとする。」と、わざわざ一項目をつけ加えられた、この理由は一体何でしょうか。
  56. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) 恐縮でございますが、突然入ってきたものですから、もう一回質問をお願いします。私の質問に入っているものと思わなかったものですから、恐縮です。
  57. 粕谷照美

    粕谷照美君 失礼しました。  答申等の尊重について伺います。第三条の二項、これには、「内閣総理大臣は、答申等を受けたときは、これを国会に報告するものとする。」と、こうわざわざつけ加えられた理由というものは一体どこにありますか。
  58. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) 私は、教育改革というのは国家百年の大計を決める大変重要なことでありますから、審議会で議論され、その結論が出された事柄について、国民各界各層を代表しております国会議員にきちっと総理大臣が報告をする、つまりそれが国民全体の理解と協力が得られるゆえんであろうと考えまして、あえてつけ加えました。
  59. 粕谷照美

    粕谷照美君 今までいろいろな審議会がありまして、答申だとか意見だとかというのは、大体我我国会議員の手に届くよりも、一日早く報道陣の手に届いているわけです。そうして、翌日の新聞あるいはニュースなどにばあっと出るという、こういう形式をとってきております。そのとき、ちょうど国会が開かれておれば総理大臣からは御報告をいただけるでしょうけれども、もし休会中だったら、はるか数カ月後になってようやく報告をいただく、こんな無意味なことはないわけです。国民は新聞を見ればわかるわけです。これをわざわざつけ加えられたという大きな意味が私には今の御提案ではわからないんですけれども、もう一遍御説明いただきたい。
  60. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) ただいま先生御指摘のように、マスコミの報道が、しばしば具体的に、政府並びにその関係当局が発表していない前から、想像を含めて書かれることは実際あることでございまして、このたびの臨教審の問題でも、衆議院の段階で例えば修正が出るぞというようなことをだれも言っていないうちからそれが事実として報道されるような、そういう感じがありましたことは私は一人の議員として遺憾に思っております。  しかし、その問題とは別に、先ほど申し上げたように、教育改革というのは日本の将来を決する非常に重要な問題であります。そういう重要な問題を、答申が出されて国会の両院に報告しないということはまことに適切でない、こう考えたものでありますから、あくまでも国民の皆さんに理解と協力を得るために、その代表である国会には必ず報告をしなければならない、そういう私たちの考えを明確にするためにあえて加えたものでございます。
  61. 粕谷照美

    粕谷照美君 御熱意はわかります。お気持ちもよくわかるんですけれども、今、休会中だったらどうするか。例えば九月に出て十二月の通常国会の召集日あたりに御報告いただいても、全く昔の証文みたいな感じになっちゃうんです。私は、そのお気持ちがあるのであれば、答申なんかを説明していただくよりは——申し上げますけれども、例えば男女雇用均等法などについてだって、国会議員に出ると同時に新聞社にはちゃんと労働省そのものが報告しているのであって、どこですっぱ抜かれたかというようなこともありましょうけれども、ちゃんと役所はそういうふうに対処しているわけです。その方が国民に対して明確になるという姿勢だというふうに思うんです。私はこのことはいいことだというふうに思うんですが、せっかくそれだけのお気持ちがあるのであれば、答申そのものよりは会議録、議事録、このようなものを出していくということの方が一層、今、先生のおっしゃった意義を高めるものではないでしょうか。
  62. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) 確かに御指摘のように、答申について内閣総理大臣が国会の両院に報告するというときに幸いにも議会が開かれておりましたら、迅速、適切に議論ができるわけでございますが、国会が開かれていない場合には、次に開かれる場所で改めて報告し、そしてそこでは国会の先生方の御議論をいただく、十分に吟味をしていただいてさまざまな御意見を闘わしていただく、そういう意味合いにおいては大変大事なことだろう、こう思っているわけであります。  それから政府答弁でもしばしばございましたように、区切りをつけながらその折々で報告をするということを既に申しているわけでありますから、そういう意味では答申が出るまで全く秘密で何も流されてこない、何も議員の耳に入らないというものではないだろう、そう思っております。
  63. 粕谷照美

    粕谷照美君 私がどうしてもお聞きしたかったこととはちょっとすれ違っているわけでありますが、そういうのを答弁がお上手と言うのかもしれません。  それでは次に、国会同意人事をめぐって第五条の二項に関連してお伺いをいたします。この法案の委員の任命の基準は「人格識見共に優れた者」と、こうされております。これまでつとに評判の悪かったいわゆる学識経験者論をとっているわけですけれども、それも文相の意見を聞いて総理が任命することになっています。だから、行政の恣意が委員人選に及んでいく、これを排除するために国会同意の人事の規定を設けた、こう理解してよろしいですか。
  64. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) 私は、この間、矢田部委員質問の折に、文部大臣が意見を申し上げて、そして内閣総理大臣審議委員を任命するという本来からの政府の原案についても、十分に各界各層から公平な人選がなされて出されたものについては極めて妥当なメンバーがあらわれると期待をしておりますと、そう申し上げておるわけであります。その期待に反する場合があるからということを前提にしているのではありません。しかし、ただいま申し上げましたように、審議委員の顔ぶれによってその議論の中身がかなり左右されるという状態が予想されますので、文部大臣が意見を言い、総理大臣が任命する、その任命の仕方が適切でないとは思いませんが、さらに国会の同意を要することによって国民各層がその選ばれた人々についての理解を増す、そしてそれが公正な人事であると御理解をいただく、そういう意味合いにおいて国会の同意を得るという規定を設けた方がより委員の選定が公平になっていくであろう、そう考えたからであります。
  65. 粕谷照美

    粕谷照美君 私も、そういうふうに思います。国会の意思を委員の任命に反映させるということは非常に大事なことだというふうに考えるんです。  それでは、修正案提案者にお伺いするのはこの同意の手続ですけれども、二十五人一括おやりになるのでしょうか、お一人お一人やられるんでしょうか、あるいは何か異論のあるところがあればそれは別個に、どんな形でおやりになるんですか。
  66. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) 実は、この修正案は、御案内のように、公明党さんと民社党さんと私ども自由民主党と三党で検討いたしたわけでございます。その際に、どういう同意の仕方が妥当であるかという議論についてはいろんな意見が出されました。例えば、一括がいいとか個々がいいとか、いろんな議論が出されましたけれども、私たち修正案をつくり上げる段階において、そのような細かい形まで規定する必要はないのではないか、この修正案が国会で可決されましたら新たな法律として出されるわけでございますから、そのときの同意の仕方については政府の適切な判断に期待したい、そのように思っております。
  67. 粕谷照美

    粕谷照美君 私は、一括で行う場合には、今日の国会や政党の現状からいって、ただ多数党とそれに同調する人だけの考えが表決にあらわれるだけであって、それ以上のものは望めないのではないか、こんな危慎を持っております。政党政治の現状教育を語る審議会にそのまま反映していくのは好ましくない、こういうふうに思いますが、その矛盾を解決するためには、国会が自分たちの力でつくり上げていったこの国会同意基準というようなものの必要性があるのではないかと思いますが、そんなことは御討議にならなかったでしょうか。
  68. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) 私どもは、国会議員は国民の各層から選ばれた責任と自覚を持った人人であると考えますし、同意についてはそういう方々が判断をしてなさるべきだと存じますので、同意の仕方その他細目についての規定は載せなくてもいいのではないか、そういうふうに理解しております。
  69. 粕谷照美

    粕谷照美君 細目を載せる載せないということもあろうかと思いますが、私は考え方の問題だというふうに思っているんです。審議制度というものの本来的な機能は何なのか、政党政治との関係はどうあるべきものなのか、なぜ審議会に国会議員や行政官僚が入るのは一般に好ましくないとされてきたのか、こんなことなども考え合わせてみなければならないと思うのであります。  私は、この同意基準の一つの目安になるのは、第一条の中に、「教育基本法の精神にのっとり、」、こうあるわけですから、この設置目的を踏まえた委員であるということが同意をする基準にならなければならない、最低の基本的な条件だというふうに思いますが、提案者はいかがお考えですか。
  70. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) 教育基本法に基づいて審議会がその議論をしていくということは政府の原案のとおりでありますから、私はその点について特別な意見を持っているものではありません。ただ、この人はこういう考え方をもともと持っていたからだめなんだよとか、こういう立場だから排除すべきだよというようなえり分けをするということが一体いいことだろうか。極端なことを申し上げれば、右と左という言葉は適切ではありませんが、あらゆる層の人々がそれぞれの立場を代表して濶達に議論ができる、そういう人選ということが最も望ましいことでございますから、そういう意味では、ただいま御指摘のありましたように、事前にこういう立場だから云々ということまで規定するのはいかがか、このように私どもは思っています。  ただ、あえてその内容に触れますと、三党のいろんな意見の中に、例えば一人お一人の委員を同意するかしないか、つまりマル・バツ式のやり方というのは最初から委員の色分けを明確にしてしまって、そういう色の人だからこういう意見を言うのはもっともだといったようなことになってはなりませんので、個々の人々についてマルとかバツとかつけるような形はあってほしくないといったような意見も相談の中にはございましたことを申し上げたいと存じます。
  71. 粕谷照美

    粕谷照美君 そういたしますと、この「教育基本法の精神にのっとり、」、会長は精神にのっとって取りまとめをいただく、こういう御答弁をされている文部大臣の意図と違う方が随分入ってくるのではないか、許容していらっしゃるような今の提案者のお考えのように私は思います。  はっきり伺いますけれども、義務教育廃止あるいは教育基本法の見直し、こういうことを言っていらっしゃる方が委員の中に選出されても結構だ、こういうふうにお考えなんですか。
  72. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) この修正案が法律化した段階で、そこらについては政府がお考えを明らかにすべき立場ではないかと思います。私どもといたしましては、とにかく公正な人事が図られる、そしてその公正な人事によるメンバーについて国民を代表する両院の議員が同意をいたす、そういう順調な筋道を期待しているわけでございます。
  73. 粕谷照美

    粕谷照美君 では、文部大臣にお伺いいたします。  今の御答弁の中でおわかりになったと思いますが、私は、任命されるのは文部大臣の意を受けて総理大臣が任命されるわけでありますが、教育基本法を廃止しなさい、あるいは義務教育は廃止しなさい、明確にこの論文などを出していらっしゃる方がこの委員に任命をされるというふうに考えられないんですけれども、いかがですか。
  74. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 審議会の人選につきましては、たびたび申し上げておりますように、国会でこの法案が御可決をちょうだいいたしましてから、私どもで意見を総理に申し上げて、総理に御判断をいただくわけでございます。当然、各界各層の中から幅広く御人選を申し上げたいというのが基本的な考え方でございます。  我が国のいかなる審議会、諸制度においても、我が国はだれもが自由な発言、自由な思想、自由な政治行動は保障されているわけでございまして、考え方がいろいろあった、また今、先生が具体的に例として申し上げられたように、例えば義務教育云々について、あるいは教育基本法についてこうした考え方を持っておる、何らかの形で示された、だからといってそのことは排除条件というふうに私はなり得ない、こう思うんです。  ただ、先ほど申し上げましたように、教育基本法というものを私どもは大事にして、そのことで教育改革をしたい、こういうふうに政府は考えているわけでございますので、また会長もそのことを十分含められて答申をおまとめになるということでございまして、それぞれの委員の方がどういうお考えを持とうと、どういう考え方を過去に示されておられましても、そのことについて初めから排除をしていくという考え方は、私どもは日本の今日のいろんな制度から考えてまいりましても、自由な発言、自由な思想、自由な政治行動、これは私は認められているというふうに考えられます。
  75. 粕谷照美

    粕谷照美君 委員が選挙で選ばれる、こういうことだったら私はどんなに超右翼が出ようと、どんなに超左翼が出ようと構わないと思うんです。文部大臣は、教育改革を教育基本法の精神にのっとってやっていこう。こういう任命をする委員がその教育基本法を否定し廃止しようという考え方を事前から明白にしているような人を選ぶのかどうかということは、今の文部大臣答弁はとても私は納得できません。こんなものの審議できないじゃないですか。
  76. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 人選につきましては、国会の論議というものを十分踏まえるということも、これはたびたび申し上げておるわけでございます。もちろん、総理に任命をしていただくわけでございますが、国会でどういう論議があったかということについては、私から一つの参考の考え方として総理に示すということは、これまた言うまでもないことでございます。ただ、今日の一般論といたしまして、そのことが排除条件になるというようなことであってはならない、こう私は考えております。もちろん、人選に当たりましては、私どもは、十分国会の多くの御意見、あるいはまた各界における御意見、また新聞やテレビ等のマスコミにおける論調、そうしたことを十分踏まえながら人選を進めるということは、これは言うまでもないことでございます。
  77. 粕谷照美

    粕谷照美君 それでは、もっと具体的にお伺いいたします。  「レポート 教育改革 この人に聞く」、これはなかなかいろいろな方々を取り扱っております。  その中で、六月九日、中曽根首相のブレーンと言われ、第二臨調第一、第二部会専門委員として国立大学の授業料引き上げ、育英奨学金の有利子化、私学助成の抑制など、教育費削減を目指す文教政策づくりに大変力があったという、公文俊平といわれるんでしょうか、公文さんを紹介してお乗ります。この記事の中で、「臨調での公文氏の主張は、義務教育不要諭、国立大学廃止諭だった、と当時の文部省幹部はいう。」と、こうあります。  私は、新聞だけでは信用ならぬ、こう思いまして、民主教育協会の月刊誌IDE二百三十四号、一九八二年九・十月号です。「臨調の文教政策をめぐって——私の主張したかったこと」のタイトルで公文氏の書いていらっしゃるものを読んでみました。その中には明確に、長期的には義務教育を廃止する、さしあたりは現行の九年を六年にする、学校は民営を原則とするという日本文化会議竹内靖雄氏の発言を積極的に支持して、「教育の改革には、教育基本法そのものの見直しが実は必要である。」と、こういうふうに述べているわけです。特に、教育基本法第四条、第六条である、こうおっしゃっております。教育基本法の第四条、第六条、皆さん御存じだというふうに思いますけれども、義務教育に関する部分学校教育に関する部分であります。極めて重要な部分です。そこのところを見直ししなさい、こういうことを言っているんです。  また、やはり中曽根総理のブレーンの一人であります青山健一さんという方がいらっしゃいます。この方は、「義務教育はもう廃止していいときに来ている」、こういうことを明確に言っていらっしゃる。それも情報資料三百五号、自由民主党調査局政治資料研究会議の中に書いていらっしゃるわけです。「今のように一定の年齢になった人間を全部、中学校へというやり方は必要ない。私は義務教育はもう廃止していいときに来ていると思っている。」、こういうことを言っているんです。  文部大臣、こういう方が自由な議論の中で教育基本法を廃止しろなんというようなことを臨教審審議の中で許されるわけですか、もしお入りになったらという仮定でありますが。
  78. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) どのような方をお選びするかということについては、仮定の問題でありましても、私から今その方がどういう考え方を持つ方をお入れをする、あるいは排除をするというふうなことを申し上げることは、私は適当ではないと考えております。しかし、今、粕谷さんがお示しになりました方々の御意見は、これは基本的に教育基本法に反するわけでございますから、私どもとしては、教育改革は教育基本法にのっとってやりたい、精神のもとでやりたい、こう明らかに法律の中に明示をいたしているわけでございますから、私どもはそのような考え方はとらない、こういうふうに申し上げているわけであります。
  79. 粕谷照美

    粕谷照美君 それで一つ明確になりました。  委員は、この修正案を見る限りにおいては特別公務員になるわけです。公務員というのは当然、憲法を守っていかなきゃいけない。公務員はいつも誓約書を入れるわけです。そういう意味からは、教育基本法は絶対に尊重していただかなければならないというふうに思っております。特に、今申し上げた方々は総理のブレーンと言われるだけに、先日のこの内閣委員会で、関委員が我が党の久保委員に対して、あなたは中曽根内閣だからいけないのかという質問をされましたけれども、私は中曽根さんがこういうことをおっしゃるから非常な危機感を持っているわけでありまして、基準の一つの大きな柱として考えていくべきだろうというふうに考えております。  ところで、修正案提案者及び内閣法制局に守秘義務をめぐって質問をいたします。  第五条六項及び五項にかかわってであります。この修正されました本法案の守秘義務規定にかかわっては、十九日の本委員会矢田部委員質問をして、その答弁をめぐって審議が保留をされています。そこで、矢田部委員解釈の厳密性を求める質疑は保留して、私にはどうしても理解ができない点がありますので提案者のお考えをただしておきます。  まず、前提として、臨教審には顧問制度を導入するお考えがあるかどうか。これは、文部大臣いかがでしょう。あわせて、参与の制度はいかがですか。
  80. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 顧問を置くかどうかということにつきましては、これは発足をいたしてから審議会で御判断をいただくものでございます。ただ、教育論議というものは、極めて歴史的にも、また社会の諸制度といろいろ関連もいたしております。そういう意味では、日本の教育に関心を持っておられる方、あるいはそれぞれのいろんな分野においていろんな御経験を積まれた方、あるいはまた学識を持っておられる方の意見を顧問という立場で御意見として聴取するということもこれは極めて大事なことではなかろうかというふうに私自身は考えますが、しかし顧問を置くかどうかということについては審議会自身で御判断をいただくものでございます。
  81. 粕谷照美

    粕谷照美君 参与はいかがですか。
  82. 齊藤尚夫

    政府委員(齊藤尚夫君) 審議会に置かれます参与という制度は、通常の場合、特定の事項につきまして審議に参画をしていただくというものであろうかと考えるわけでございます。今度の審議会は二十五人以内という委員がかなりの数でございますし、また専門委員を置くことができるということでございますので、これも臨教審自身で御決定いただくことではございますけれども、消極に考えているところでございます。
  83. 粕谷照美

    粕谷照美君 そうしますと、同じ答弁であっても若干のニュアンスの違いがあります。顧問はどうも置く方向に、許可範囲に入っているような感じ、参与は明確に要らないだろう、こういう感じがいたしますが、何も二十五人も大勢の人たちがいるのに今さら顧問なんというのは必要ないのじゃないか、こういうふうに思います。  それに関連して伺うわけですが、まず法制局。国会同意を得た審議会の委員は、国家公務員法第二条の規定によりまして特別職の公務員になります。一般職についての規定は、第百条に守秘義務が入っておりますが、それに抵触した場合の百九条の罰則規定はどのように考えておりますか。
  84. 松下正美

    ○衆議院法制局参事(松下正美君) お答え申し上げます。  臨時教育審議会の委員は、衆議院における修正によりまして特別職の国家公務員となりましたので、国家公務員法の適用は受けないわけでございます。したがいまして、国家公務員法の第百九条第六号の罰則は関係はないわけでございます。
  85. 粕谷照美

    粕谷照美君 それでは、専門委員はどうですか。
  86. 松下正美

    ○衆議院法制局参事(松下正美君) ただいま第百九条第六号と申し上げましたが、第百九条第十二号でございます。どうも失礼いたしました。  それで、専門委員でございますが、専門委員一般職の国家公務員でございますので、その守秘義務の違反につきましては国家公務員法第百九条第十二号の罰則がかかることになるわけでございます。
  87. 粕谷照美

    粕谷照美君 専門委員は百条及び百九条は適用される、こういうお答えだと思いますが、顧問についてはどのようになりますか。
  88. 松下正美

    ○衆議院法制局参事(松下正美君) 顧問は、国家公務員ではございませんので、国家公務員法の罰則の関係は生じてまいらない、こういうことでございます。
  89. 粕谷照美

  90. 齊藤尚夫

    政府委員(齊藤尚夫君) ただいまお答えがございましたとおりでございますが、顧問につきましては法律上の条文がないものですから、一般論として私からお答えしようかというふうに思いまして手を上げた次第でございます。大変失礼いたしました。
  91. 粕谷照美

    粕谷照美君 そうすると、この顧問は守秘義務はない、知り得たことは何をしゃべっても結構だ、こういうことになりますね。
  92. 齊藤尚夫

    政府委員(齊藤尚夫君) これは審議会自身で顧問を置くかどうかをお決めいただくことでございますが、顧問が置かれた場合には守秘義務の規定の適用はないというふうに考えております。
  93. 粕谷照美

    粕谷照美君 それでは、修正案提案者にお伺いいたしますが、特別職たる委員が第五条第六項、「職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後も同様とする。」という項目に違反をした場合、第五条の職務上の義務違反によって罷免をされる、こう解釈をしてよろしいですか。
  94. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) 修正案では、御案内のように、守秘義務という規定を設けたわけであります。しかし、一般の国家公務員法に基づく罰則規定というのはとりわけないわけでありまして、それが私どもは罷免に当たると存じます。したがいまして、特別職の公務員たる審議会の委員が守秘義務を犯した場合には、もちろんその判断は総理大臣がなさるわけでございますが、私どもはそれに該当する、そう理解します。
  95. 粕谷照美

    粕谷照美君 そうすると、おかしいですね。正規に総理大臣から任命をされた臨教審委員は、守秘義務に反するとこの委員を罷免される、それで終わり。ところが、この専門委員の方は、刑事罰が科されるわけです。どちらが重いとか上だとかということはないと思いますけれども、委員には罷免で、なぜ専門委員には刑事罰が科されるんですか。どうですか。
  96. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) もともと政府の原案でまいりますと、審議会の委員も国家公務員法の百条に該当するという形になっていたわけです。私たちは、先ほど申し上げましたように、国民の皆さんに理解と協力を得るために、選ばれるお人というものの同意は国民を代表する両院の同意を得てというふうに、あえて別扱いにしたわけであります。したがいまして、別扱いにした場合には一般職の公務員のいわゆる国家公務員法に該当いたしませんので、他の従来からの審議会の規約等も参考にいたし、昭和三十年以降いずれの審議会もこのような守秘義務規定を設けておりますので、そういうものに基づいてその文言を付加したわけでございます。
  97. 粕谷照美

    粕谷照美君 確かに、三十年以降、各種審議会との横並びの関係でそのような法律をつくられたかもしれません。しかし、私も立法の関係の方々に何人がお伺いをしたわけですけれども、このような立法上の不整合なんというのはおかしいことだというふうに言うんです。法制局、どうですか。
  98. 松下正美

    ○衆議院法制局参事(松下正美君) お答え申し上げます。  先生御指摘のように、臨時教育審議会の専門委員の守秘義務違反については罰則があるのに、委員の守秘義務違反については罰則がないのは問題ではないかという御批判もあろうかと存じますが、臨時教育審議会の専門委員一般職の国家公務員でありますので、他の一般職の国家公務員との均衡上国家公務員法を適用いたしまして、守秘義務違反については罰則をもって臨むこととせざるを得ないと考えられるわけでございます。  これに対しまして、臨時教育審議会の委員は、衆議院における修正によりまして特別職の国家公務員となりましたので、一般職の国家公務員との均衡を考える必要はないわけでございますし、また臨時教育審議会の性格でありますとか、「委員は、人格識見共に優れた者のうちから」任命することとされていることから判断いたしまして、守秘義務違反については罰則を設けるほどのことはなく、守秘義務の担保といたしましては、その違反に対し罷免をもって対処すれば十分ではないかというふうに考えたわけでございます。
  99. 粕谷照美

    粕谷照美君 そこが不思議なんです。理解がいかないんです。なぜ委員は秘密を漏らしたときにはやめさせるだけで終わって、同じ教育改革の審議を預かる、実質的には専門の分野で大活躍をされるその専門委員は刑事罰が科されるんですか。これは法的には何でもないんですか、こういうことは。文部大臣、どういうふうにお考えになりますか、法律の専門家は横並びのことばかり言っていますけれども、教育改革を行ってもらう委員としてのこの法律上の整合性のないことについて。
  100. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 政府といたしましては、当初、修正をされる前の法案としてお願いをいたして、これも国会には私どもはこれがいろんな角度から検討して最上のものであろうという考え方から政府原案を提出いたしだわけでございます。審議の結果によりまして衆議院でこれが修正をされたわけでございますので、私どもといたしましては、それが修正を加えられたことによってこうした規定が設けられていったというふうに考えざるを得ないわけでございます。法律的な解釈等についての疑問、先生からそういう矛盾という点についての考え方については、これは法律の事務的な、技術的なことでございますので、必要がございましたら政府委員から答弁させていただきます。
  101. 齊藤尚夫

    政府委員(齊藤尚夫君) ただいま大臣から御答弁申し上げましたように、修正案そのものについてお答えできる立場ではないわけでございますが、一般論として申し上げますならば、両議院の同意を得るという審議会につきましては、すべて同様の問題が生ずるわけでございます。委員につきましては特別職の公務員、そして専門委員につきましては一般職の公務員という別々の法制の適用を受けるということになるわけでございます。
  102. 粕谷照美

    粕谷照美君 これは、私どうしても納得がいかないんです、委員長として統一性を求めていただきたいと思いますけれども。これは議員が出してきたのだから政府は知りませんよというような態度じゃないですか。
  103. 高平公友

    委員長高平公友君) 私からお答えしますが、あなたが今、文部大臣にお聞きになり、それから修正者にもお聞きになり、それから法制局からもお聞きになって、その中で判断をいただかぬと。私の方からは、どうするとか、統合した物の考え方はちょっと申し上げかねます。
  104. 粕谷照美

    粕谷照美君 それはおかしい、人ごとのようなことを言っているから。議会が修正してきたのだからという感じじゃないですか。
  105. 高平公友

    委員長高平公友君) これはお聞きの中で御判断をいただきまして、まだまだ審議は続けられるわけですから、午後もあなたの方でお続けになりますから、今後の審議一つ資料としていただきたい。今までの理論展開の中で、前回こういう質問があったからこうだというて意見を展開しておいでになりますから、そういう中で、ここで終わるわけでありませんので、次の方を続けていただきたいと思います。
  106. 粕谷照美

    粕谷照美君 それでは、この点についてはどうしても納得がいきませんので、質問は保留をしておきます。  これについて修正案提案者にお伺いいたしますけれども、この教育改革の審議に当たって秘密を漏らしちゃならないといいますけれども、秘密事項というのは教育改革を審議するに当たってあるのでしょうか。
  107. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) 一般職の国家公務員の場合に、典型的な秘密の例としては、例えば入札価格とかいろいろあります。このたびの審議会の委員に関してはそういうものはございませんけれども、審議の過程の中で、例えば個人のプライバシーを侵害するような具体的な名前が出るとかいうようなケースは十分考えられるのではないでしょうか。私が勝手に想像する事柄で申し上げれば、青少年の非行化の問題あるいは非行化を続出した学校の問題等々議論の中でかなり出てくる、それはわかりませんけど、これは審議会の皆さんがやることですから。そういう中で出てきた例えば学校名、個人名、そういうものがいわゆる一般に流された場合にはどうだろうかというようなことを考えますと、おのずから守らなければならない秘密というものは審議会の過程でも起こってくるように思います。ですから、公共全般の利益に反するようなこと、そのことがつまり個人のプライバシーにかかわること等々、さまざまなことをそれなりに想定してまいりますと、審議会の審議の過程の中で守らなければならない部分というのは出てくるのではないだろうか、そういうふうに思います。
  108. 粕谷照美

    粕谷照美君 その程度のことは私は秘密なんということにならないと思う。文部大臣、どうですか。教育審議に当たって、教育改革を審議しようというときに当たって、文部大臣がこの人こそは人格、識見ともにすぐれた方だと任命される方々がそんな秘密を漏えいするなんということ考えられますか、西山事件じゃあるまいし。どうですか。
  109. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 臨時教育審議会でどのような事項をどのように審議をするかということは、これはまだ明らかではないわけでございまして、その中にどのような秘密が考えられるかというようなことについても、今お答えを申し上げるというのは極めて困難なことだと思います。しかし、一般論として申し上げれば、やはり教育をどう改革するのか、教育をどのような制度に進めていくことがいいのかという議論をすること自体には私は秘密性というものはあり得ないだろう、こういうふうに考えております。
  110. 粕谷照美

    粕谷照美君 秘密がないのにわざわざこんな言葉を入れることもないというふうに思うんですけれども、どうもこの法案は何かおかしいですね。  ところで、この任期中にもし秘密を漏らした、罷免しなければならないというような場合には、当然、本人はどこかの場所で弁明なり、その理由の説明などを求めることができると思いますが、どうですか。
  111. 齊藤尚夫

    政府委員(齊藤尚夫君) 一般職の公務員でございますと不利益処分の審査請求その他の手続があるわけでございますが、特別職につきましてはそのような保障の手続はないわけでございます。
  112. 粕谷照美

    粕谷照美君 だから、必要があるのではないかと言っているわけです。専門委員はそれは認められるわけですね、刑事罰も食わされるわけですけれども。委員はそれがないわけで、その理由を説明してもらう権利、本人の弁明をする権利、これは与えられると思いますが、提案者いかがですか。そんなようなことは、ここに考えているのでしょうか。
  113. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) 私どもは、審議会の委員方々がさまざまに議論される過程の中で、一般的に公開されてはならない事柄というのがいろいろ出てくるであろう。先ほど申し上げたほかに、例えばまだ公開されていない資料が要求されて、それが審議会の審議の材料になる、こういうような場合に、それが漏れてしまったりした場合には公務の適正な運営とか遂行に支障を来すおそれがある、そういう場合には当然守るべき秘密と考えていいのではないだろうか。こういうような規定を設けることによって審議会の皆さん方が守るべき秘密をお守りいただいて、そして議論は十分になされる、そういう状態ができ上がる、こう考えております。
  114. 粕谷照美

    粕谷照美君 私もそうだというふうに思います、本当に人格、識見すぐれた方なんですから。しかし、それにしても、あり得ることがあるから法律をわざわざ入れられたわけですね。そしたら、もしその法律によって罷免をされたというような場合には、当然、本人の弁明なり、そういう理由を聞くというようなことが保障されていなければならないと思うのですが、それが入っていない理由は何かと先ほどからうるさく聞いているのは、ちょっと今の御答弁とは違うんです。
  115. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) 委員は、総理大臣が任命する際に両院の同意を求めることになっておりますが、罷免についても同様でありますから、そういう過程の中でそのお立場を明確にし、自分のお立場を守ることは可能だろうというふうに思います。
  116. 粕谷照美

    粕谷照美君 罷免というのは一方的に首を切るということではないんですか。本人が嫌だと言えば、これは大丈夫なんですか。
  117. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) そういうことではありませんで、第五項に書いてございますが、「委員たるに適しない非行があると認める場合においては、両議院の同意を得て、これを罷免することができる。」と、こういう規定になっておりますから。
  118. 粕谷照美

    粕谷照美君 そうすると、議会の同意を得てということであれば、議会に対して本人の立場説明する、そういうチャンスは与えられるわけですね。我々同意しようにも反対しようにも、おっしゃることがわからなければ、議事録も公開しませんわ、会長の一方的発表だけでその人が罷免されて当たり前ですなんというふうにはちょっと判断しかねるんですが、その辺の保障はどうなっておりますか。
  119. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) これは罷免の案件がどのような形の内容かということの問題等は、やはり議会で決めることであると私どもは判断します。国会で決めることだと思います。
  120. 粕谷照美

    粕谷照美君 これは大変な問題だというふうに思うのです。罷免をされまして黙ってやめていかなければならないなどという、そんなことでは私は人権侵害だというふうに思うんです。この点については、それでは質問を保留いたしまして、後ほど明確な御回答をいただくようにお願いしておきます。  それでは、官房長官との時間が合いませんで、初めに質問する予定でしたのですけれども、前が手間取りまして、大変時間がなくなって質問をすることをお許しいただきたいと思うんです。  第二臨調答申とこの教育改革の関連についてでありますけれども、総理が四月二十五日の衆議院本会議で、「臨時行政調査会の答申は政府は尊重すると申し上げまして、国民的支持をいただいておるのでございまして、教育改革につきましても、今まで行いましたこの臨時行政調査会の答申等につきましては、今後もまた尊重してまいりたいと思っておるところでございます。」と、こう述べていらっしゃるわけです。この総理のお話を、官房長官としてはそのとおりであるというふうに御判断いただいてよろしゅうございますか。
  121. 藤波孝生

    国務大臣(藤波孝生君) いわゆる臨調の答申を受けまして、政府としてはこれを着実に実行していくように努力をしておるところでございます。今度、行革審の方で意見書を出されまして、来年度の予算編成等につきましてもいろいろ意見をいただいてきたところでございます。これらをやはり政治の基本路線と考えまして、着実に前進をさせていこう、そして六十五年度までに赤字公債依存体質からの脱却を図るためのいろんな施策を講じていく、あるいは肥大化した行政を改革いたしまして、そして簡素で効率的な政府をつくっていく、そういう改革を進めていこうとしておるわけでございます。これは基本線でございます。  臨教審が出発をいたしまして、いろんな教育論議がそこで起こってくるわけでございまして、いわゆる教育を改革し、充実していくためのいろんな御論議あるいは答申がまとめられてくるだろう、こう思うのでございますが、全体的な流れとしては行財政改革の路線で参ります。これは一つの政治の大きな流れでありますが、しかし教育を充実していこうという、非常にこの時代の最も大事な政治課題に対応して今度の審議会が出発をして御論議が深められていこうとしておるわけでございますから、そこでは特に矛盾するということではなくて、臨教審の中で出てくる話は決してお金の話だけではないだろうと思いますし、いろいろと社会の変化に対応してどう教育を進めたらいいかという、いろいろな総合的な検討が加えられるのでございましょうから、その御論議を大事にして、答申を受けて政府がこれを実行していく、こういうことで進んでいきます場合に、先ほど総理が申し上げたような意味で、決して矛盾しないで進んでいくことができるのではないか、こんなふうに考えておるわけでございます。
  122. 粕谷照美

    粕谷照美君 私は、その矛盾をしないというのがどうしてもわからないんです。臨教審の答申が臨調基本答申の打ち出したものと相反するという部分があることもあると思うんです、これは想像でしかありませんけれども。そうした場合に、今の官房長官のお話によれば、お金のことばかりではないと思いますしとおっしゃったので、金のかからないことについてはやることができるけれども、金が余りかかることについてはやっぱり臨調の枠の中でやってもらわなきゃ困りますというように受けとめたんですが、どうでしょうか。
  123. 藤波孝生

    国務大臣(藤波孝生君) どういうような臨教審論議が進められるのか、どういうふうに答申が出てくるのか、これは審議会が出発をいたしまして、委員方々の極めて自主的にお決めをいただくことでございますので、今から予測することは難しいと思うんです。ただ、先生が今御指摘になりましたように、その中には臨調路線と比較をして非常にぶつかっていく面が出てくるのではないか、そういうこともあり得るだろう、こういうお話でございますが、それはあり得るだろうと思うんです。教育をどのようにして改革するか、充実していくかという論議の中で、私はその御論議が、さっきは教育基本法の話がありましたけれども、そこで起こる御論議というのが全部今の臨調路線の中ででなければ論議できないなどということではないと思うわけでありますから、そういう意味では自由濶達にいろんな御論議がむしろあっていい、こう思うんです。  ただ、それを答申を受けて実行していきます中で、もちろんその答申を正しく受けとめてこれを尊重して実行していく、そのために諮問をして答申をお願いする審議会を出発させるわけでございますから、当然それを受けて政府はこれを実行していくということになるわけでございますけれども、そこは大きな流れの、政治の大道としての臨調の路線と、そこで個別の問題としてこなしていくべき教育をどういうふうに改革していくかということを実行していく場合に、私はやっぱりそこで実行していくそのときの、というのは三年間かかって御論議をいただくわけでございますから、そのときの政府なり文部省なりというものがその答申を受けとめて、そしてこれを実行していく場合に、十分そこでまた政府部内で論議はしなきゃならぬだろうと思うんです。そして、それをこなして実行に移していくという姿勢が教育をよくしていくという立場から要求されるだろう、このように考えております。  それは、確かに臨調路線というのが一つございますけれども、個別の問題を実行してまいります場合に、例えば今度行革審が臨調答申の線に沿って意見書をまとめられて、それが二十五日に意見書が出まして、それを受けとめてきょうの閣議で概算要求基準が決定されたわけでございます。最後までいろんな省庁が大蔵大臣に対しまして、それはそうだろうけれども我が省にはこういうふうな問題点がある、新しい政策の芽を出したい、こういうことでいろんな要求が出まして、一般的にはそういう基準が大蔵大臣から定められましたけれども、それではどれぐらいに定めていくかということについて、けさの未明までかかりまして、主な大臣はほとんどけさまで寝ておりませんが、そこで論議が交わされて、やっときょうの朝の閣議に間に合った。  きょうの閣議では概算要求基準を決定し、そして行革審の意見書を受けとめて最大限これを尊重して実行していく、こういう態度も決定したのでございますが、それでもなお、決定した後、外務大臣から、ODAの予算についてはこれは最大限配慮をしてもらわないと困る、国際社会の中で日本の非常に大きな責任だという御発言があり、文部大臣から、どうしても教育を充実していこうと思うと文教予算に金がかかる、だから臨調路線はあるけれども文教の予算については十分配慮してもらうようにお願いしたいという御発言がありました。  そんなふうにして、大きな流れはありますけれども、その中で決して新しい政策の芽を全然出しちゃいかぬということを言っておるわけではない。むしろ、変化していく社会にどう対応していくかということが行政の大きな課題でございまして、どのようにいい教育を進めていくかということをお願いする臨教審で御論議いただいて答申をいただくということでございますから、その中で出てくる一つ一つを実行していくということにつきましては、それはその時点その時点、その項目その項目について十分政府部内で論議をしてその課題をこなしていくようにしなきゃならぬ、こんなふうに思っておりまして、どういう答申が出るか今から事前に予測いたしますことはかえって審議会に対して失礼なことになりますので、いずれ答申を受け取った後の政府の態度ということになりますけれども、そこは十分両方矛盾しないようにこなしていくというのが政府の責任になろう、このように考えておる次第でございます。
  124. 粕谷照美

    粕谷照美君 時間が参りましたので私はこれで質問を終わりますが、確かに今、官房長官がおっしゃったように、行革審の七月二十五日の報告書などを見てみますと、七月二日、七月九日と出された各小委員会のよりは微妙な言葉の違いがあるわけです。例えば第五次義務教育学校学級編制、いわゆる四十人学級の問題だとか、あるいは高等学校の生徒がふえるのだけれども先生は余りふやさないようにせよとか、こういうようなことについても七月の六日には厳しく抑制するとあったのが、七月九日にはそれがとれまして、そして極力抑制する、ちょっと微妙な違いがあるわけです。それから縮減するなどというのも、七月二日だったら大幅に縮減するとあったのが、七月の九日、二十五日には大幅が抜けて、単に縮減するになっている。やっぱり臨調行革の締めつけ、締めつけという言葉は悪い、私どもは締めつけと言いますが、そこの枠を超えることができるという私は感じがするわけです。先ほど、米価にしても、けさほどの防衛費の七%の突出にいたしましても、言ったところであります。そういう意味で、文部大臣に最後にお願いをいたしますのは、新しいことをやるのじゃなくて、四十人学級とかあるいは過大学級の解消、こういうことを率先して、これなくして教育改革なんて諮る資格は文部省にはないというぐらいの感じで努力をしていただきたいということを要望して、私の質問を終わります。
  125. 高平公友

    委員長高平公友君) 午前の質疑はこの程度とし、午後二時まで休憩いたします。    午後零時四十三分休憩      —————・—————    午後二時五分開会
  126. 高平公友

    委員長高平公友君) ただいまから内閣委員会を再開いたします。  休憩前に引き続き、臨時教育審議会設置法案及び国民教育審議会設置法案の両案を一括議題とし、質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言願います。
  127. 菅野久光

    ○菅野久光君 私は、昭和二十三年から四十九年まで義務教育学校教員として勤めておりまして、約二十七年間現場で経験をした、そういう立場で今の教育の置かれている状況を考えたときに、本当に戦後の歴史をずっと考えていって、今日、教育改革が叫ばれるようになった原因といいますか、そういったようなことについては私なりにいろいろ考えているところがあるわけであります。  そういう点で、この臨教審の法案を審議するに当たりまして、今までの審議の過程で、大臣はたびたび、この委員会でいろいろ御論議いただいたことを審議会の委員の皆さん方にひとつ参考にしていただいてと、このように申されておるわけですけれども、この委員会審議されたことがこの臨教審委員方々審議に十分参考にしてもらうということについては変わりございませんか。
  128. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 教育改革を進めるに当たりまして、広く国民各界各層の御意見も十分聴取をしなきゃならない。それからまた、論議をいただきまして政府が答申をしていただくことにつきましても、やはり国民の理解と協力を得なければ教育改革は進められるわけではないわけであります。したがいまして、それぞれのいろんな角度から御意見をいただくというのは、いろんな立場審議会が御判断をいただくと思いますが、この臨時教育審議会設置法案を国会で御審議をいただいておるこの過程で、衆議院、参議院、あるいはまた予算委員会等で、各先生方はそれぞれ国民を代表するこれは国権の最高機関におられる代弁者であります。その代弁者の皆様方から設置法案の審議の過程の中で教育に対するいろんな御意見が出ておったということは、やはりこれもまた大変大事な、審議会がいろんな御参考にされる意見として当然これは尊重されるということは私はあって当然のことであろうというふうに考えますし、運用を進めてまいりますこれから事務局の者たちも、当然スタートいたしましてからのことでございますが、国会でどのような問題が論議されて、どのような問題が大変関心が多かったかということなども十分事務当局でこれを取りまとめておくということも極めて大事なことだろうというふうに考えておりますので、今、先生から御質問いただきましたように、今もそのことについては全く考えは変わっておりません、こう申し上げておきたいと思います。
  129. 菅野久光

    ○菅野久光君 大臣のこの委員会審議の初めから変わらない答弁をいただきまして、私も今本当に教育にたくさんの問題がある。そういうことで、特に私は現場にかかわっており、その後も教育にかかわる仕事をしてきた関係から、現場におけるいろんな問題を提起してお互いにこの論議をし合う、そういうことが審議会が発足するとしてもやっぱり大事なことだというふうに思って、実は委員長審議時間が私も六時間ぐらいあるのではないかというふうに思っておりましたが、きょうはとりあえず三時間ということでこれから審議を進めさせていただきたいというふうに思っております。  最初に、何といっても今問題なのは、共通一次の問題ではないかというふうに思うんです。これは大学の入試、それから高校の入試、全部連動してきますので、まず臨教審の法案に先立って、今いろいろ教育の荒廃が叫ばれ、そしてその中で一番大きな問題だというふうに国民が感じているのはこの入試の問題ではないかというふうに思うわけで、法案の審議に先立って、これは文部省の国有事務の一つでもありますので、この改善、再検討について文部省の考えをただしたいというふうに思います。  共通一次テストは、一九七九年に導入されてからことしで六回目を数えたわけですが、早くもその弊害がさまざまに指摘されているわけであります。これを改めようと現在、政府は国大協に検討を依頼しているわけでありますが、その進捗状況をお聞かせいただきたい、このように思います。
  130. 宮地貫一

    政府委員(宮地貫一君) 御案内のとおり、共通一次試験制度につきましては、当時、大学入試について随分議論がございまして、ただいまの制度を取り入れることになったわけでございます。共通一次試験では高等学校での学習の基本的なところを見る、各大学のそれぞれ特性に応じた分野について二次試験でそれぞれ各大学が特色を持たせた試験をするということで実施をされてきたわけでございます。基本的にはそういう考え方で取り入れたわけでございまして、私ども順次この二次試験の改善も進んできておるというぐあいには見て、一応そういう意味でこの改善については評価を得ているものと理解をしておるわけでございますが、ただいま先生御指摘のとおり、今日まで六回の実施を経まして、関係者からいろいろな点について指摘をされている点が出ております。  具体的には、国公立大学を志願いたします者すべてについて五教科七科目を課していることについて、これは画一的で過重ではないかというようなことが言われております。その科目数の削減ということの検討が必要ではないかという点が一つ言われております。それから、これは主として高等学校の授業の問題との関連があるわけでございますが、高等学校の三学期への教育の影響ということを考えて、共通一次試験の実施期日を繰り下げる必要があるのではないかという点が言われております。そのほか、二次試験についてはさらに一層の工夫をするというようなことと、国立大学への受験機会、従来は御案内のとおり一期校、二期校ということでございましたが、それが現在の体制では基本的には一回ということでございますので、受験機会をふやすために、例えば推薦入学でございますとか、あるいは定員を留保した二次募集の拡大というようなことなどがいろいろ意見として出されておるわけでございます。  そこで、それらの意見も受けまして、国立大学協会では改善策の検討を行っていただいておるわけでございまして、国立大学協会の検討の状況でございますけれども、昨年の秋以来、国立大学協会の中に第二常置委員会というのがございまして、そこが検討いたしておるのでございますけれども、特に入試問題について国会等の御論議が随分大きく出てきたことを受けまして、単に試験の技術的な観点ということだけではなくて、基本的なところまで立ち返って検討すべきであるというようなことから入試改善特別委員会というものが設けられまして、ただいま申し上げましたような指摘の点について検討をしているというのが現在までの時点でございます。  先般、国立大学協会の総会がございまして、さらに総会では各大学にアンケート調査を実施するというようなことなど、積極的に取り組んでおるところでございます。  先ほど問題点の中で、六十年度については、とりあえず共通一次試験の実施期日については二週間程度ずらすということで、具体的な日にちは一月二十六、二十七日に行うということが決まっておるわけでございます。それから教科、科目数の問題については、これは非常に影響するところも大きいわけでございますし、各大学の状況などについて、先ほど申しましたようなアンケート調査等も実施をいたしまして、そのことが秋の総会に報告をされることになろうかと思いますが、私どもとしては、この問題についてもなるたけ早急に結論をいただくように、国大協の検討については急いでいただくようにお願いをしているところでございます。  なお、二次試験のあり方については、例えば第二次試験で学力検査を行っていない大学などについても順次年度を追ってふえてきておりまして、そういう点での各大学での改善の努力というものはそれなりに見るべきものがあるのではないかと思っておりますが、いずれにいたしましても、大学の入学試験そのものについては、これは国大協の関係者を中心に御検討をいただかなければならない課題、かように考えております。  以上でございます。
  131. 菅野久光

    ○菅野久光君 そうしますと、共通一次の問題については、今の改善の方向、どのようにやっていくかということは主として国大協側に検討を依頼しておるといいますか、いろいろそこでやってもらっておるということで、受ける側の、高校側の方に対してはどのような文部省としては改善の方向について、働きかけといいますか、調査といいますか、そういったことをやっておられるんでしょうか。
  132. 宮地貫一

    政府委員(宮地貫一君) 文部省の中には入試改善会議という、やはりこれは高等学校側の代表、それから都道府県教育委員会の代表、それから高等学校の現場の先生方、そういう方々に入っていただいております入試改善会議というものを持っております。そこで全体的な問題点検討をしていただきまして、それぞれ関係各方面の方々の代表には入っていただいて、そういうところで具体的な御意見を承るというような仕組みは一応、文部省の中に持っているわけでございます。
  133. 菅野久光

    ○菅野久光君 制度を改革するということについては、現状がどうなっているかということをしっかり把握して、そこにどんな問題が生じ、どこにその原因があるのかということをしっかり把握し、分析をしていかなければ本当の改善ということはできないわけです。そういう意味で、文部省はこの共通一次テストを導入した後、主として高校教育にどんな問題が生じているか、具体的にその調査をしたということはございますか。
  134. 宮地貫一

    政府委員(宮地貫一君) 先生御案内のとおり、共通一次の実施のために入試センターというのが、これは国立大学の共同利用機関という形で置かれているわけでございます。そこで共通一次の評価といいますか、そういうようなことについてもそれぞれ府門家の方々専門委員会をつくっていただきまして、各教科ごとにも評価をし、そういう意味で高校の関係者についても、そういう専門的な分野につきましては入試センターで具体的な取り組みをしていただいておるわけでございます。  しかしながら、その点は、ただいま非常に大きな議論になっております、例えば受験生の負担増についてどう考えるかという基本的な問題、いわば受験生自身の立場に立った検討ということが必要ではないかというぐあいに私ども考えておるわけでございまして、とかく教科を担当している者にとってみますと、例えば高等学校先生方で言いますと、担当している教科が軽んぜられるということについては先生方御自身のいろいろ御意見もあるわけでございます。しかしながら、大学入試そのもの、全体について言えば、今非常に大事なのは受験生の立場に立った検討ということが必要ではないかということが言われておるわけでございまして、私どももそういう観点からの検討、見直しが必要ではないかというぐあいに感じております。  技術的、専門的なことについては、ただいまも御説明しましたような大学入試センター自体でいろいろと専門家のお集まりも持って検討はされているところでございます。
  135. 菅野久光

    ○菅野久光君 入試検討委員会とか、あるいは改善委員会だとか、そういう国でやられる機関には、大体実務をやっておられない校長さんだとか教頭さんという方が出られることが多いんです。そういう意味では、本当に現場の実態というものをなかなか把握し得ない、そういったような状況があろうと思うんです。  では、いろいろ高校の現場のことについて文部省としてどのように把握しておられるのか、以下、若干の問題についてお聞きをしたいと思います。  共通一次のテストを導入した高校の現場では、高校教育の正常化にこの共通一次が役立ったというふうに文部省としてはお考えでしょうか。
  136. 宮地貫一

    政府委員(宮地貫一君) 共通一次が取り入れられました当時、やはり大学入試問題全体が大変いろいろ議論があったわけでございます。そこで、入試がそれぞれの大学で取り組まれておりましたときに、どうしても選抜の方に偏りまして、いわゆる難問、奇問といいますか、そういうものが出されることによりまして高等学校の正常な教育というものが非常に影響を受けるというようなことが、最初この共通一次が取り入れられます当時、そのことが一番議論が出てきたわけでございます。そこで、共通一次という現在の仕組みで取り組むということになったわけでございますが、基本的な点は、先ほども申しましたように、高等学校教育の基礎的、基本的な学力の到達度を見るというのが共通一次の基本的なねらいでございまして、そういう意味ではいわゆる難問、奇問と申しますか、そういうようなものが基本的には排除されることになりまして、いろいろ御指摘はございますけれども、共通一次試験の問題全体から申せば、高等学校教育全体から見れば、それが高等学校の正常な教育という観点から見れば、ただいま取り上げられております共通一次の問題のレベルといいますか、そういうようなものはおおむね評価を得ている中身だというぐあいに私どもは理解しております。
  137. 菅野久光

    ○菅野久光君 テストの中身はそうですが、高校教育全体という形で見た場合に正常化されたというふうに判断されますかどうかというふうにお伺いしているんです。
  138. 宮地貫一

    政府委員(宮地貫一君) 基本的には試験の内容、レベルについては今御説明をしたとおりでございますけれども、一つには、これはむしろ受験生の立場ということになるかと思いますけれども、私立大学の試験でございますと、これが教科数がある程度絞られた形で実施をされておる。国立大学を受験する場合には共通一次で五教科七科目で一応対応しなければいけない。そういたしますと、私立大学だけを志願する受験生にしますと、限られた教科についていわばそこを中心にやるというようなことになりますと、私学だけに対応する者よりも、国立大学を受け、かつ私立大学を受ける者にとっては非常に負担感といいますか、そういうようなものが大きいということが言われているわけでございます。しかしながら、私ども、高等学校のいわば高校長協会の御意見ということになるわけでございますが、五教科七科目という今の共通一次の体制については若干一部の手直しは必要であろうけれども、五教科五科目ぐらいにはぜひしてほしいというような声が基本的には強いわけでございまして、したがって私ども、共通一次の現在の試験の制度そのものが高等学校教育全体について非常にそのこと自身がゆがめる形になっているというぐあいには理解をしていないわけでございます。むしろ、五教科七科目というような形で高等学校である程度基本的な、基礎的なものを修得すべきものについて試験をする今の仕組みそのものは評価されているものというぐあいに考えております。
  139. 菅野久光

    ○菅野久光君 時間がそんなにございませんので、できるだけ簡単にお願いしたいんですが、なかなかすかっと言えないところにいろいろな問題があるのだろうというふうに私は思うんです。受験競争の緩和にそれでは具体的に役立ったかどうか、それはどのようにお考えでしょうか。
  140. 宮地貫一

    政府委員(宮地貫一君) 先ほど申しました個々の大学がそれぞれ試験に取り組んでおりました当時、入試そのものが非常に選抜ということが強く出されて、いわゆる難しい難問で行われたということに対しては、この共通一次試験の仕組みというものは緩和には役立ったものと私どもは評価をしております。
  141. 菅野久光

    ○菅野久光君 それでは、学校内外での模試だとか予備校通い、これについては以前よりもふえたのか減ったのか、その辺は具体的にどのように把握しておられますか。
  142. 宮地貫一

    政府委員(宮地貫一君) 的確な数字を資料として申し上げるだけのものを手元に持っていないわけでございますけれども、浪人の合格率が高まっているというようなことからすれば、やや予備校などが従来よりはよりウェートを持ってきていると申しますか、そういう状況にあるのではなかろうかと想像されるわけでございます。
  143. 菅野久光

    ○菅野久光君 それじゃ、学校行事だとか、生徒会への参加だとか、クラブ活動などの状況、これがどのように変わったのか、あるいは三年生三学期の出欠状況がどうなのかということについては、具体的には調査をしておらないというふうに申し上げてよろしいですか。
  144. 宮地貫一

    政府委員(宮地貫一君) 高校の三年生の、例えば秋の文化祭とかその他の点について、出願期日が従来十月一日から十五日でありました関係上、その点が影響があるのではないかという点が言われまして、これは明年度から出願期日については十一月一日からに出願期日を繰り下げるというようなことで、高校の三年生の秋の学園祭とか、それらの点についてなるたけこのこと自身が影響のないような方向で改善をするというような考え方で出願受け付けの期間は繰り下げたわけでございます。
  145. 菅野久光

    ○菅野久光君 具体的に、教育現場がどうなっているかということを数字で調査したということはないということですね。その辺、簡単に答えてください。
  146. 宮地貫一

    政府委員(宮地貫一君) その点の調査をいたしておりません。
  147. 菅野久光

    ○菅野久光君 例えば高校入試の問題にしても、今度の共通一次の問題にしても、私はその辺に現状認識という点でいろいろ問題があるのではないのかというふうに思うんです。机上の空論とまでは言わなくても、観念的なことで事を処そうとするところに私は根本的な解決といいますか、改善の道を探ることができないのではないかというふうに思うんです。  それで、実は日教組の第三十三次、日高教は第三十次ですが、この教育研究全国集会で、「大学入試改革への提言」という愛知県の高等学校の見崎さんという方のレポートがあります。これは組合がやったとかやらぬとかということではなくて、現場の先生がこの問題に具体的に今の状況を何とか克服しなければならないという熱意の中で行っておるわけですから、そういうことについては謙虚にこのレポートの結果をひとつ受けとめていただきたいというふうに思うわけであります。  このレポートでは、共通一次テストは一九七九年に導入され、今日まで六回を経た。この間、このテストに対する批判がつとに高まり、部分的改善が行われてきてはいる。しかし、部分的改善ではもはやどうにもならないととが実態的に明らかになってきている。ことしの教育研究全国集会に提出された愛知高組の見崎徳弘氏のレポートもその一つだ。見崎レポートは、八二年の四月に実施した東海三県の統一アンケート調査を分析したもので、回収率は百五十九校、普通高校が百十五、職業高校が四十四に及んでいます。その結果、次のような状況が判明した。  共通一次は高校教育の正常化に役立ったかという問いに対して、役立ったが四校、変わらないが四十一校、悪くなったが八十九校。  それから受験競争の緩和に役立ったかという問いに対しては、役立ったが二校、変わらないが六十校、悪くなったが七十四校です。  それから校内外の模試や予備校通いは実施前に比べて減ったが一校、ほぼ同じが三十七校、ふえたが六十五校です。  次は、学校行事や生徒会への参加は、実施前と比べて受験者十から九十九人の高校の二六%、百人以上の高校の四四%が消極的になったと回答しています。  また、三年生三学期の欠席状況は、百人以上受験する高校では、五十五校中三十四校がふえ、十人から九十九人でも三十四校中十九校となっています。  共通一次の導入が高校三年の三学期を大きく変えている、そのようにこのレポートは言っているわけです。このレポートによって、高校教育が共通一次テストの導入で大きな変化をこうむっているということがわかるというふうに思うんです。  問題はまだあるわけです。文部大臣にお聞きしたいわけですが、マークシート方式は高校生の学習活動にどんな影響を及ぼしているとお考えでしょうか。
  148. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 具体的にマークシート方式につきましてお答えを申し上げる前に、先生がいろいろと今数字をもってお示しになりました。私も総理も、教育改革をなぜ政府全体でしなければならぬという考え方になったのか、これはぜひ御理解をいただきたいのでありますが、私も、十五から十八歳という高等学校、これは人生において最も大事な時期だと思うんです。この時期に受験のための技術的な勉強だけをしておるということを、私どもはこれは看過できない、こう考えました。  当時、共通一次の問題が出てまいりました際に、私どもまだ党で文教の仕事をいたしておりましたときに、高等学校でクラブ活動、文化活動でもいい、あるいは生徒会活動でもいい、スポーツ活動でもいい、十二分に青春を謳歌して、そうしたことをやるその傍らというとおしかりをいただくかもしれませんが、もちろんメーンは勉強することであるのは当然でありますが、そういう課外のサークル活動やクラブ活動ができておっても、十二分に高等学校教育の到達程度をはかるそういう試験にしてやってもらえないだろうか。先ほど宮地局長からも申し上げましたように、難問、奇問、大学の先生が解答が書けないような問題を当時出しておる。私は、こんなばかげた高校教育というのはあり得ない。私どもの党の立場は、もちろん社会党さんもそうであったと思いますし、各政党も皆そういう考え方は持っておられたと思いますが、当時、自由民主党の私ども文教部会としても何とかここのところを改善してもらいたい。  しかし、基本的に大事なことは、大学に学生を入学させ、進学をさせ、あるいは退学をさせ、卒業をさせるということは、これは大学の学長の固有の権限であります。総理といえども、文部大臣といえども、このことについてはさわれないということは先生も十分御承知でございます。したがって、何事も国大協に任せるのかという疑問はございますが大学自体でできるだけ改善をしてもらいたいということもあって、そういう高等学校の勉強をしながら、スポーツ活動もしながらそういう学問の到達度を見ようということで、この共通一次はそれなりの役割は一応果たしたと思うんです。  ただ問題は、マークシート方式がどうかということになれば、私は端的に言ってこのことはよくないと思っております、結論から申し上げれば。ただ、わずか決められた期間に、三十数万人の学生を、しかも北海道から沖縄に至るまで、特に一月から三月なんというのは、最も天候の差の激しい、泳げる沖縄があるかと思えば、北海道のような吹雪もある。私どものような北陸も雪が降る。先生のところも旭川で、一番極寒の地帯です。こういうところで一遍に三十五万人の人が、一つ間違っても大変なことになってしまうんです。一枚の用紙が漏れただけでも、これは試験としては無効になる。単に無効だけじゃなくて、その大学へ入る学生はどうなるかという問題まで考えなきゃならぬ。そういうことを技術的にクリアするためには、このマークシート方式しか現実には生み出せ得なかったというふうに私はその点は理解をします、いい、悪いは別といたしまして。  したがって、私は、文部大臣に就任をいたしましてから、現下の問題点はこのところにあるだろう、こう考えまして、国立大学の学長さん方とも数回意見を交わしてみました。しかし、端的に言いますと、五教科七科目は確かに過重だし、受験のためだけにこれがどうも勉強されている嫌いがある。しかし、ここのところを、例えば科目数を減らせと言えば、さっき局長が申しましたように、じゃ、受験をしなくてもいい、試験科目にない科目は不要なものなのか。それぞれ先生方は、自分の持っている科目は最大に大事なものだと思ってやっておられるのに、そこは大学の試験にないよ、こう言ってしまうことがいいのか悪いのか、これは高校教育の体系全体の問題として非常に大事なところだ、こういうように思うんです。ですから、共通一次は共通一次の形としてやって、できれば二次試験のところは学力などは問わないようなやり方はできないだろうかということも、私ども党の立場から随分当時はお願いをいたしましたが、現実には二回目の試験のところがかえって難しい、大学自体がむしろ難しい問題をというような傾向になりがちでございまして、そのことはいけないのだとはなかなか指摘できない文部省立場もあるわけでございます。  そういう中で、大学の関係者とも話し合ってみるといろんな意見がございました。  私は、端的に言って、高等学校で学んだもの、試験のときに学んだもの、勉強したものが、社会で本当にそれが使われておるのかどうかということについてはかなり疑問を持ちます。それぞれの分野においては大事なところもございます。芸術大学に行って絵をやったり、あるいは音楽をやろうとする人たちまで理科、数学を絶対やらなきゃならぬのかということも、これも確かに疑問でございます。現実の問題としては、かなり傾斜配分の採点方式をやっているようでありますが、問題のテーマとしては、子供たちはそのことも、全体を勉強しなきゃならぬというのが現実であります。  ですから、こういうところをやはり何とか、いろんな議論を交わしてみますが、基本的には、五教科七科目が大変だとか難しいのだと言うような子供は国立大学に入ってもらわなくてもいいのだという、そういう極論を話される学者さんたちだってあるんです、現実の問題としては。学者は、やっぱり学問を進めていくということが大事なんだと。私は、余り勉強ばかりさせないようなやり方はできないだろうか、こう言って学長さん方にお願いをすると、そんなことを文部大臣が言って、日本にとって大事な人的資源、学問、研究というものがあなたの文部大臣の時代に学力が下がったら、あなたはどう将来責任をとるのか、こう言われると、私も若干そこのところに立ちどまらざるを得なくなってくる。  そういうふうに考えますと、だれもがいつでも勉強していいんですよ、しかしみんなが学問をやらないとどうも社会で評価されないという今の制度全体に問題がある。やはり高等学校だけで、あるいは中学校だけで世の中に出ても評価してあげられる世の中にしなきゃならぬ。口では評価されているのだと言いつつも、学歴社会というものは現実の問題として存在している。そういうふうに考えれば、親の愛情として、でき得れば子供はできるだけ学校へ出して、将来のいい就職、将来のいい結婚を親としては何とかして保障してやりたい、こう考える。その親の過大な考え方というもの、子供に対する期待度というのが子供たちをそういう方向に押しやっていく。そのために突っ張りになる、学校の登校拒否も出てくる。それじゃ、できる者だけを進めようということになれば能力別ということで、これは平等、差別という問題から見ていいのかというような問題も、この間の関先生のときにも議論が出ておりました。そういうふうに考えますと、どのような分野に進んでも社会では的確に評価をしてあげられるような社会の仕組みをつくっていかなきゃならぬ。  そういうふうに考えますと、先ほど先生いみじくもおっしゃった。共通一次のところを改善して、このことは高等学校全体の教育の現場が改善されたと思いますかと先生おっしゃった。まさにそこだと思うんです。受験の制度を一時的に、部分的に改善いたしましても、結果的には教育全体のつながりというものを考えざるを得ない。幾らゆとりある教育をやれと言っても、ゆとりある教育ということは、受験に対する学問がそれだけ差ができてくるということでありますから、逆に言えば、受験の制度をどうするかということを考えてもらわなきゃならぬ。受験の制度を考えると、受験の大学のところだけで考えても、やはり勉強する者としない者との間に評価の面で差があっては困る、社会に出て。ということを考えますと、学歴社会全体というこの気風そのものを考えて改めていかなきゃならぬ。  そういう角度から、私どもは、教育改革というのは政府全体で長期的に、そして文部省の中にある学問の体系からいっても全体がやらなきゃならぬし、また各行政の各部においてもいろいろ関連がございます。そのことも全部含めてこの改革をいたさなければ、今、菅野さんからいろんな御指摘がありましたような、そうした教育の現場だけをよりよくしていこうというところにはなかなか通じにくい今日的ないろいろのさまざまな問題があるというふうに私どもは受けとめて、政府全体の目で臨時教育審議会という形の中でありとあらゆるいろんな部門の中で教育制度を全体的に検討していただきましょう、こういうことで臨時教育審議会の設置をお願いをいたしておるわけでございます。  マークシート方式がどうかということで答弁が大変長くなって恐縮でございますが、先生局長との議論の中から私自身もまた総理も、これは学者としてはいい学生を得て学問、研究を進めていきたいという学者の気持ちはよくわかる、だからといって受験全体に対しての病理現象、受験体制というものが世の中にいろんな問題を起こしているというこの問題に対して我々政治を担当する者は看過できないのではないか、こういうことで教育全体を見直していく、社会全体が教育に対してどのようなあり方を求めるべきであろうかということを議論しようということになった一番大事な論拠はそこにあるのだというふうにぜひ理解をいただきたい、こう思うわけでございます。
  149. 菅野久光

    ○菅野久光君 大臣の話はうんちくのある話でいいんですが、時間が何せないものですから、もう少し要領よくひとつお願いをいたしたいというふうに思います。  大学の入試については、あくまでも全部大学側にその主体があるといいますか、そういうことで文部大臣といえどもそこには踏み込めないという趣旨のお話があったように思うわけですけれども、私は大学といえども国民の大学だというふうに思うんです。しかも、この大学の入試が高校の入試、そういう受験体制につながっていっているということを考えれば、大学側だけの考え方ですべてをやるなんというようなことは、私は事の本質的な解決にはならないのではないか、これは一貫したものだというふうに私は思うんです。そういう国民の声だとか、受ける高校側の状況だとか、そういうことを判断しないで、大学側だけで私はお考えになるとは思いませんけれども、その辺のところをしっかり踏まえた形でいかないと、本質的な改善にならないのではないでしょうか。そこはいかがでしょうか。
  150. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 私が申し上げたのは、文部大臣という立場でありましても、文部省という立場でありましても、受験生を大学がどう採るか、どうこれを卒業させるか、あるいは進級させるかというようなことは、これは大学の学長の持っておる固有の権限でございます、こう申し上げております。その問題全体について文部省はさわってはならぬということではない、それは私も承知をいたしております。しかし、学問の自由、あるいは大学の自主性、自治ということを考えれば、大学自体で選抜方式のあり方などについては当然、大学が固有として考えてもらうということは私は大事なことであろうというふうに思います。  しかし、今、先生から御指摘ありましたように、大学だけで当然考えているわけじゃありませんで、高等学校側の意見、あるいは受験生の意見も十分吸収をして議論されるということは当然であろうと思いますが、ややもすれば、これは私の感想でありますが、受験生の気持ちを本当に意を体してやってくださっているかということについては若干私も疑念を挟まなければならぬというふうに考えます。私は、これまた長くなるとしかられるんですが、大事なところですので、端的に申し上げてはいるつもりでございますが、大事なところでございますからぜひ御理解をいただきたいわけでありますが、高等学校の現場というのはとても大事な意見だと思いますが、私も時々わからなくなることがあるんです。  この間、これはたまたま朝日新聞に出ておったことでございましたが、高等学校の校長協会の共通一次に対する取り組み方のアンケートが出ておりまして、ちょっと見てがっかりしたんです。もちろん設問の仕方にいろいみ問題があったというふうに校長協会から聞きましたけれども、五教科七科目はいかぬけれども五教科六科目ならいいというのはこれはどうしてなんだろうかと僕はまず思いましたし、できたらアラカルト方式、メニュー方式をやってもらえないかと僕らお願いをしているのに、それに賛成する意見が一七%しかなかったんです。ちょっと驚きました。  理由はいろいろあったと思いますが、やはり進路指導が非常に面倒になるとか、いろんな理屈ありましたが、やはりさっき宮地局長が答えましたように、高等学校の教科の問題に私はいろいろ混乱があるということが先生方が何となくそこのところを心配をされたのではないかというふうに感じました。非常に私は受験制度の改革というのは難しいものだということをつくづく知らされたわけでございますが、だからといって、これは看過できる問題ではないというふうに私自身は受けとめております。
  151. 菅野久光

    ○菅野久光君 今、大臣から高校長協会の話を聞いてがっかりしたというようなお話がありましたが、実際にこれは担当している者でなければ出ないですね。それから形だけで問おうとしても、これは形だけのものしか返ってこない、本当のものというのは出てこないわけです。それで、今本当にみんなで知恵を出し合って今の教育のこういったような状況というものを私は改善していかなければならない、そういうときだというふうに思うんです。  今度、臨教審の法案が審議されて、いわば四十六年の中教審の答申が第三の教育改革ということで喧伝されましたけれども、何かしりすぼみ、今度のやつが第三の改革ということになるのでしょうか、なるとすれば。第二の改革でありました、戦後、敗戦になって日本のいろんな政治のあり方を変えなきゃならぬというのは、陸軍省、海軍省、内務省、そして文部省をなくせ、これがGHQの一番最初の仕事だったわけです。それで、初内局長でありました劔木さんが日教組へ来て、頼むから文部省をひとつ残してくれということで、文部省と日教組が力を合わせてGHQに頼んで、そして文部省を残してもらった、それは歴史としてあるわけであります。  それで、なぜ日教組が文部省を残すかということなんですが、これは中央教育審議会的な考え方が当時のGHQにあったわけであります。しかし、それでは予算をとるにしても何にしても、内閣の一員として我々の代表が文部大臣として入っていないと弱いのじゃないか、そういう思いもあって時の文部省と日教組とが力を合わせて文部省を残すことに成功したわけであります。それが今日なんですが、そんな経過もありまして、学者の文部大臣がずっと続いて、一九五二年ですか、岡野清豪さんが文部大臣になって初めて政党の文部大臣、途中で一回、永井先生文部大臣をやられたことがありまして、後はずっと政党の大臣という、そういう経過になっているわけです。これだけ大きな仕事をしていくときには国民全体が力を合わせられるような、そういう知恵を出し合うような、そういうことがないと私は本当の意味の改革というのはできないのじゃないかというふうに思うのであります。  そういう面で、先ほど申し上げましたけれども、共通一次の問題についても、どうも高校の現場の実態ということについては文部省自体も把握されておらない。そういうことは、改革をしていくという点では非常に手抜かりだと率直に申し上げなきゃならぬというふうに思うんです。やはり現場の実態がどうなるかということをしっかり踏まえた上でこそ本当の改善の道というのが採れるのではないかというふうに思うのであります。そういう意味では、こういったような現場の研究資料が出ているわけですから、日教組がやるから何でもかんでも悪いのだなどという、そういうことではなくて、こういったようなものにもしっかり目を通しながらいろんな方策を立てる参考に謙虚にやはりしていくべきだ、それなくして本当の私は改革というのはできないのじゃないかということを申し上げておきたいというふうに思います。  いわばマークシート方式が広く浅い人間をつくっていってしまった。人生を本当に自分で選択をしていく、深く物を考えていくというようなことではなくて、いかに、要領よく勉強していくか、そして何よりも先に正答を知りたがる、そういったようないわば知育偏重というような状況をつくり出していったことだけは間違いがないし、だれが考えてもそうだなということになるのだろうというふうに思いますが、その辺はいかがでしょうか。
  152. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) これは誤解を受けるとおしかりをいただきますが、先生と私と大体年齢的に共通いたしておりますから、先生は二十三年から教職、私は二十三のときまだ小学校だったんですが、お互いに戦前あるいは戦中、戦後の教育というものをある程度体を通して、先生の方がはるかにその当時から大人として承知をしておられるということは言うまでもないわけですが、私どもはそういう形から見まして、教育の諸制度というのは大変難しいものでもございますし、そしてまた今の子供たち、またこれから学ぶべきであろうという子供たちの将来に対して、それこそ私たちは本当に知育、徳育、体育が三位一体になった形で大きく成長してもらいたいということを願っておるわけであります。  今の制度というのは、私はそれなりに評価をしておりますけれども、ややもすると、文部省がこういう考え方でという指導の方向を定める、あるいは助言をする、それが県の教育委員会へ行く、あるいはまた市町村の教育委員会へ行く、それぞれ教育にかかわり合いを持つ極めて教育に対して識見を有する方々がそれぞれおられますから、どうしても自然に知、徳、体、私は体、徳、知とよく言うんですけれども、三位一体、三位一体といっても、現実に教育を進めていく方々というのは学問をできるだけ進めるというお立場を是としておられる方が多いだろうと思うんです、現実の問題として。やっぱりそのことが、末端という言葉はよくありませんけれども、地方へ行けば行くほど直接子供たちにかかわり合いを持つところは、学問をできるだけ進めるということにどうしてもなりがちなのではないかという感じが私はするんです。そういうことが知育偏重の方向の今日の形を生み出してきたということは、私はこれは否定できないことであろうというふうに思うんです。  さっきの話になって恐縮ですが、この間、その校長協会のアンケートを見たときも私は率直に、たまたまその翌日、校長協会の全国研修会というのがございましたから、私はそこではっきり申し上げたんです。これは本当にあなた方の意見なんですか、それとも校長さんだけの意見なんですか、それをもう一遍学校へ帰って先生方がどう考えておられるか、その意見を一遍集約して聞いてみてください、こう私は強く申し上げたんです。ですから、こうした問題は校長が中心になって教職員の方々、親の立場、全体がこの問題を深く理解していくという大変大事な時期に来ておりますが、しかしそれは教育だけでなかなか解決できるものじゃありません、社会全体の仕組みを、この機会にバックグラウンド全体を変えていかないと。  そうすると、私は、やっぱり本当の子供たちのための教育にならないのではないかという考え方で、ぜひ私は、先生がおっしゃったように、日教組やあるいは日高教の意見、最近こうして教育の現場に対する、あるいはさまざまな問題点に対して大変いろんな御意見を出しておられること、大変私は評価をしておるんです。ですから、そういう意味で、臨時教育審議会も設置をしていろんな意見を提言をしていただいて、本当に日本の将来のため、子供たちのための教育のあり方というものをみんなで幅広く検討したい、こういうふうに政府は考えておりますので、ぜひ御理解をいただきたい、こう思う次第でございます。
  153. 菅野久光

    ○菅野久光君 大臣の話に私も共鳴するところが大分あるんですが、話は話なんですけれども、現実的にそれが行政としていく場合には全く違う方向に行っているのが今の文部行政の大変な問題ではないかというふうに私は思うんです。  具体的な問題はまたいずれ別な機会に申し上げたいというふうに思いますが、きょう文部省のいろんな役員の方々がおいでですから、その大臣のひとつ意思というものが行政の上にしっかり生かされていくように、きょうも午前中、前島先生の話の中にもありましたけれども、本当に国民のための教育をどうつくっていくのだという観点というものを、四角四面といいますか、もちろん行政ですから法律だとか条例だとか規則だとか、そういうものにある程度準拠していかなければならないことはわかりますけれども、余りにもそれが機械的過ぎる。この前、大岡裁きというのがありましたですね、韓国の青年の。ああいうようなことが 生きている我々の社会の中にはあっていいのじゃないかというふうに思うんですが、その辺は余りにもかたくななのが文部省だと、私はこの際あえて指摘をしておきたいというふうに思うんです。非常に私は残念なことだと思いますけれども、きょう時間がちょっとございませんので、今具体的なことは申し上げません。  もうちょっと、この問題についてお聞きしたいと思います。  ところで、進路指導ということは一体何なのか、どういう意味を持っているのだというふうに文部省としてはお考えでしょうか、ひとつ簡単に申し述べていただきたいと思います。
  154. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 子供の持っている適性能力、そして将来に対する希望、そういうものを的確につかんで、それぞれ学校なら学校、それから就職なら就職についての適正な指導をすることだと思います。
  155. 菅野久光

    ○菅野久光君 進路指導については、一般には生徒に職業や上級学校に関する情報を提供し、そして進路についての関心を高揚させ、生徒が適切な進路を選択し、そこにおいて進歩向上するのを援助する継続的な営みだというふうに言われているわけであります。そこで最も大事なことは、生徒が自分自身で自分の人生の進路を選び取っていくといいますか、そういったような力を養うことだというふうに私は思うわけであります。こういった点については文相もたびたび答弁されておりますので、この進路指導についても今のマークシート方式、そういったようなものが、何か自分で本当に考えていく、人間としての創造性だとか、たくましさだとか、そういうものが全く、全体とは言わないまでも、しかし相当喪失されているということは全体的に言えるのではないかというふうに思うんです。共通一次テストの導入後、高校の進路指導についても重大な変化が生じてきているのではないかというふうに思いますが、この点について文部省はどのように把握しておられるか、わかればお伺いをいたしたいと思います。
  156. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) まず、進学について申し上げますと、一般的に、これは本人のこともさることながら、社会的な風潮で有名校に進学させたいという基本的なムードがあるわけでございます。したがいまして、親も子もそういう方向から、高等学校の選定に当たっても有名校志向、大学の進学に当たっても有名校志向というような形が形成されていることが今日の姿であろうと思います。したがいまして、勢い教師が生徒を指導する場合に、できのいい順序からそういう進学のアドバイスをしていくというような結果に陥りがちの弊害をもたらしているということも事実だろうと思います。  したがいまして、そういう状況を是正していくためには、何といっても、単なる学校制度だけでそういう仕組み、考え方を改めるということは非常に難しい。社会全体で学歴とは何かということについての正しい認識、そういうものができ上がらないと、ただ教育行政の分野だけで、それはそれとしてとにかく有名校に集中することはよくない、そしてそこに輪切り指導が行われるのはよくないということだけではなかなか解決ができないであろうと思っております。
  157. 菅野久光

    ○菅野久光君 そうですね。大学間だけではなくて、学部までも見事にランクづけされて、入りたい大学よりも入れる大学への傾向が強まってきている。これと相まって受験産業とのかかわりが出ているわけですが、受験産業の人間を講師などに呼んでいる例がどれほどあるかということについて、文部省では調査をされたことがおありでしょうか。あればある、なければないということでお答えいただきたいと思います。
  158. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 調査したことはございません。
  159. 菅野久光

    ○菅野久光君 そうでしょうね。共通一次テストの改善を言うなら、塾産業、受験産業のこともかなり社会的に問題になっているわけでありますから、調べるということが私は必要なことではないかというふうに思うんです。  私の調査では、山形、宮城、神奈川、愛知、鳥取、広島、福岡、この七県で約六百の高校があるわけですが、普通科、職業科を問わず回答を寄せた高校が三百七十九校、このうち受験産業の人間を講師として生徒を対象の講演会を開いたのが八十校、教職員対象の講演会を開いたのが九校、合わせて二三・四八%、約四分の一に上っています。これは職業科も含んでいるので、普通科のみで統計すればもっと高くなるだろうというふうに思います。地域によっては三五%以上にも上っているわけです。  これに要する費用はどうかというと、講演会を開いた学校のうち十六・四六%が学校予算から、それから三〇・三八%が後援会など他の予算から支出しております。受験産業がサービスで実施するのが半分です。共通一次テストの導入が、学校独自の進路指導を危うくさせて、受験産業の力を増大させているわけです。それはこの数字でもはっきりしているというふうに思いますが、これについて大臣はどのようにお思いになりますか。
  160. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) それぞれさまざまな学校あるいは地域によって、また子供たちの将来の傾向というものは違っておりますので、一律的に物を申し上げることはできないかと思いますが、今、先生がおっしゃった中に、入りたい大学よりも入れる大学というふうに、これが一般的な傾向になりがちでございます。それは、やはり子供はどこか大学に入りたい、親はとにかくどこかの大学へ入れてもらいたい、先生は逆に言えばすべての子供たちをできるだけ大学に進めてあげたい、浪人を出さない先生がいい先生だというふうに何となく世間で見られるという風潮、決していいことではないと思いますが、そういう中で結局、安易に、便宜的に指導せざるを得なくなってくる。  それぞれの高等学校によっては差もいろいろございましょうし、質的な問題もあるでしょうし、それからまた高等学校先生方自身も全国にどのような大学がどのような建学の精神でどういう子供たちを求めて、どのように指導していこうとしているのか、これは高校の先生に把握しろといってもなかなか大変なことだろうと思うんです。結果的に何かに頼らざるを得ないということで、結局、受験産業のいろんなものの資料を参考にせざるを得ないという傾向があるのだと思うんです。  私は、そういう意味で、端的に受験産業の調査をしていないじゃないかという御指摘もあるかもしれませんが、文部省としてはそうしたものをこれは育成しているわけでもありませんし、是認をしているわけじゃないわけで、むしろこういうものは無視してもらいたいと考える。かといって、受験産業がいろんな形で出てくるものを公権力や政府の力でこれをなくしてしまうということはこれは不可能なことでございます。端的に言えば、自然にこうしたものが実質的に有効な機能を果たさないようにしてしまうことが一番いい。  端的に言えば、受験産業などが、あるいは偏差値のようなものが役に立たないようにしてしまうにはどうしたらいいのかということを考えれば、やはり子供たちの評価を手間暇かけてじっくり見てあげる。学校の成績だけで評価しようとするから結果的にはそういう偏差値の点数というものを参考にせざるを得なくなってくるわけですが、もっと別の意味の角度で人物評価をしてあげる。あるいは先ほど高石局長も申したように、本人の適性能力あるいはまた希望、趣味いろいろあると思いますから、そういうものをじっくり丹念に評価してあげる。そして、進路指導に乗ってあげる。また、それを受け入れる大学についても社会にしても、十分に丹念にそのことを吟味できるようなそういう制度にするという、そういう社会的な仕組みにするということが大事だろう。  私は、そのように考えますので、臨時教育審議会は社会全体に通ずる行政各部につながる問題としてぜひこれは内閣全体で考えていかなきゃならぬという問題に帰着いたしたのはそこのところでございまして、私自身としても先生御指摘のように、現状のままで放置していいとは私どもは考えておりませんので、ぜひ新たなる社会の仕組みというものを、学校体系全体、試験のみならず、学校教育制度全体に対してもやはり検討していく大事な機会だというふうに考えておるわけでございます。
  161. 菅野久光

    ○菅野久光君 総務庁長官それから官房長官、何か時間があるということで余り長くやっておれませんが、問題は、受験産業である大手の受験産業が年に五行回も講演会に呼ばれているというようなことなどがあるわけです。  去る五月二十三日にも放映されていました。こういう中で校長さんのあいさつが、「我々だと肩ひじ張って話すが、こういう方面には堪能でなれていらっしゃいますから、非常に有効な話がじかに聞けるわけですから、十分に聞き落とすことのないようにしていただきたい。」、体育館に生徒が集まっている中でそういうふうに校長さんがあいさつをして、そして大手塾の人がOPを使って、ある大学の工学部の例を挙げて、偏差値を駆使して次々に説明していくというような状況で、今度は受験のボーダーラインの会議の様子がテレビに出ておって、アナウンサーが、ボーダーライン会議では十九万を超える自己採点結果と一人一人の合否を追跡した調査結果を使って、学部ごとのボーダーラインを次々に決めでいきます。受験産業の集めた共通一次の自己採点のデータは、受験者三十四万人の二倍の七十万人分にも上っていると言われています。  こんなことがこういう中で出ているわけです。この受験産業に共通一次の自己採点を学校が提供している。そういうことによってまた受験産業との結びつきができてきている。こういうところに問題があるのではないかというふうに思うんです。こうして受験産業はみずからのデータを一層精密にして、それが精密になればなるほど高校はみずからの手で進路指導する力を失っていくわけです。共通一次はこうした構造を生み出しているわけてあります。アラカルト方式など、今考えられている共通一次テストの改善方策で、さきに指摘したマークシートによるマル・バツ思考の助長、そしてみずからの人生を選び取っていく力を養うための進路指導が是正されたり回復したりできるというような状況ではないというふうに思うんです。  時間がございませんので、このような状況なので、私は、大学入試の抜本的な改革を各大学で図ることと同時に、当面、共通一次テストを各大学の選抜に利用することを改める、大学入試に当たっての資格試験とすることとしてこの問題を平易なものにするような、そういう考えはございませんか。
  162. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 基本的には選抜方式の仕組みはもう少し検討を加えていかなければならぬし、またある意味では抜本的な改革も検討していかなければなりません。と同時に、先ほどから申し上げておりますように、社会全体の仕組み、そしてまた端的に言えば、こうした学歴、過熱受験体制ができたというのは、社会一つのそういう仕組みになってしまったということもございますし、それに伴う親の過大な期待というものもあるだろう、こう思うんです。したがって、単に学校教育制度だけを問うのではなくて、社会全体の問題として教育の諸制度全体を考えていくということが非常に重要なことだと申し上げているのはそこに由来いたしておるところでございます。  ただ、今御指摘にございましたように、この制度を改めて資格制度にしたらどうかという御意見も一つ考え方であると思いますが、そのことになりますと、高等学校を卒業した時点においてこれは大学に入る資格があるわけでございますから、そのこととどう関連づけていくのかというこにもなってくると思います。したがいまして、そのことよりも、大学あるいは高等学校、大学選抜方式そのもの、受験選抜方式そのものを改善していく。先ほど御指摘も当初にありましたように、共通一次試験はそれなりに評価すべき点はあったんです。ただ、私どもは、その中にもまた矛盾が出てくるということは、これは人間がつくる制度でございまして、すべてがみんなこれに満足し得るというものはなかなか出てこないということでございますから、この共通一次試験を一つのベースとして、よりいい方向で学生たちを多様に選抜できる仕組みを改善する、私はその考え方が今とるべき文部省として一番大事な方法ではないだろうか、こういうふうに考えているわけでございます。
  163. 菅野久光

    ○菅野久光君 繰り返しになりますけれども、事は青年期の教育にかかわることです。深く物事を探求する青年だとか、みずからの進路をみずからの手で開いていく青年を育てなくてはこれからの日本を築いていくことができない、そのように私は思います。そういう問題であると、ぜひ認識をしてほしい。  そこで、文部省に、最後に要求いたしますけれども、共通一次テストが今日の高校をどのようにゆがめているかということについては先ほど来から申し上げました。こういったような実態を早急にまとめて、国大協など大学関係者に提供してほしいというふうに思います。そういう努力をして、大学入試制度改革の熱意を大学人の中にまず呼び起こしてほしいというふうに思うんです。そして、高校の仕事である進路指導が衰退しないように、受験産業などに対しても何らかの自粛を求めてほしい、この点について申し上げておきたいというふうに思います。  引き続いて実は高校入試の問題もやろうと思ったんですが、総務庁長官と官房長官、ちょっとどうしても日程的なことがあるのでまことに申しわけがないがということで前もって御連絡がありました。きょう委員会の日程が三十分ほどおくれた関係もありますので、順番を変えまして、審議会の公開の問題についてお伺いをいたしたいというふうに思います。  教育改革にかかわって、この改革の理念とか原則などについてこれからやっていくわけでありますが、その前に、きょうは審議会そのものの組織運営原則にかかわってどうしても明確にしておきたい。それは本委員会でもしばしば取り上げられている審議会の公開にかかわることでありますが、あいまいな答弁では私ども判断をするのに非常に困りますので、きちんとした答弁をひとつしてもらいたいというふうに思います。  そこで、まず文相のこれまでの答弁を確認しておきたいというふうに思います。  六月二十八日の衆議院内閣委員会で、大臣は我が党の上原委員質問に答えて、公開制をとることは自由な論議を妨げる云々を説明しながら、最後にこう述べておられます。「しかし、いずれにいたしましても、公開にするかしないかということは審議会自身が御判断をなさることでございますので、私がこの審議会を公開すべきではない云云ということを申し上げるということは適当でないというふうに、考えるわけでございます。」、こう述べておられます。私もこの会議録を持ってきておりますので、このことについては間違いございませんね。
  164. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 審議会は、発足をさせていただきましたならば、たびたび申し上げておるようでありますが、自由な御論議をいただいて、将来の日本の国を背負ってくれる子供たちに対してどのような教育制度がいいのかということを本当に自由なお立場で御論議をいただきたい、これが政府の一番大事なところでございます。したがいまして、最終的には公開をするかしないかといことは、これは審議会自身で御判断をいただくということであるというふうに申し上げておりますが、ただ私どもの政府の立場から見れば自由な論議をしていただきたいということで、やはりそういう意味では公開の方法をとらない方がいいというふうに考えております。こう申し上げておるわけです。
  165. 菅野久光

    ○菅野久光君 会議録の確認だけでいいです。
  166. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) はい、そのとおりです。
  167. 菅野久光

    ○菅野久光君 もう一つ確認しますが、やはり七月五日の衆議院内閣委員会で、大臣は嶋崎委員の情報公開とのかかわりの質問に対し、こう答えておられます。情報公開ということもわからぬわけではないがとした後で、「しかし一面、こうした御論議を続けていただきます委員一人一人のお立場、自由濶達に御論議をいただくというその大きなねらいも国家国民のためである、また教育を幅広く自由に御論議をいただくという見地に立って、自由な論議をしていただくという意味で公開制をとらないというふうに考えておるわけでございます。」、こう述べております。これは会議録の十一ページの三段目にあるわけですので間違いがないというふうに思いますが、間違いがあるかないかということだけお答えいただきたいと思います。
  168. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 嶋崎委員の御質問に対しまして、そのようにお答えを申し上げております。
  169. 菅野久光

    ○菅野久光君 その次のページに、「その人たちのお立場を考えて私どもは非公開という考え方をしていく、こういう基本的なスタンスでございます。」と文相は述べておられます。一段目のことですが、そう述べたことに間違いはないというふうに思いますが、そこも確認をしておきたいと思います。
  170. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 私は、そのように述べております。
  171. 菅野久光

    ○菅野久光君 そこで、大臣にお尋ねいたしますが、審議会を公開にしないというのは基本的な政府のスタンスなのかどうか。ところが、七月五日から一週間ほど前の上原委員質問には、「公開すべきではない云々ということを申し上げるということは適当でない」、そのようにも述べておられるわけです。そこではあくまでも審議会が決めることだと言われているわけであります。その一週間後には非公開が基本的なスタンスだと言われている。本委員会に移って、最近では先日の橋本委員質問に、審議会が決めることとまた言いかえておられるわけですが、政府はこの臨教審の運営原理を非公開という態度で臨むのか、それともそれを含めて審議会が自由に決めるのか、非公開という枠をはめずに政府は臨んでいくのか、答弁上の矛盾がしばしばあるので、何が一体正しいのかということを、この際、明確にひとつ答弁をしていただきたい、このように思います。
  172. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 国会の議論のやりとりでございますので、その前後の経緯がいろいろあるわけでありますから、言葉表現については、先生の御指摘ありましたように、多少のニュアンスが違うのかもしれませんが、基本的には審議の公開をするかしないかということはこれは審議会で御判断をいただくことでございます。そして、そのことについて私どもから今拘束するということはこれは差し控えなければならぬ、こういうふうに私も答弁をしておるんです。  ただ、するのかしないのか、政府はどう考えるのかとお問いかけになるから、それについて答えないわけにいきませんから、政府としては公開しない方がより自由な論議ができるという判断をいたしております、こういうふうに私どもは考えておるわけでございます。その点につきましては、終始一貫、政府としては同じ考え方を持っているわけでございます。
  173. 菅野久光

    ○菅野久光君 政府としての考え方は非公開がスタンスだということで、しかしそれは審議会で決めることだということですね。  そこで、今度は修正案の提案者に、お伺いいたしますが、修正案は、答申、意見を国会に報告するよう義務づけているわけです。これはどうして盛り込まれたのか。審議内容を少しでも明らかにさせるという、こういう趣旨であるのか。こういうことを入れるというふうにお考えになった時点で、審議は公開するかしないかというのは審議会の委員の皆さん方が決めることだというふうに判断をされたのか。それとも政府の最初の、これは総理も非公開ということを言われておるわけです。そういうことを前提に促して考えられたのか。その辺についてお伺いいたしたいと思います。
  174. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) 御案内のように、この修正案は公明党、民社党、我が党と三党共同で出したものであります。その議論の過程の中でいろんな意見がありました。例えば、本来的に言えば公開するかしないかはこれは審議委員のお決めになることでございます。しかし、考え方として、一体公開したらどうだろうか、その場合の弊害は何だろうか、いろいろ議論もしたのであります。おおむね了解点に達しましたのは、やはり二十一世紀の教育を考える大事な教育改革の審議をするそういう場所でありますから、できるだけ議論は自由濶達に、制約されずにやっていただきたい。公開された場合に、例えば断片的な言葉一つ一つを問題にして投書が行ったり、それはけしからぬといったような批判の声などがしばしば出てまいる危険性がある。そうなりますと、それが委員の活発な議論を精神的にも制約してしまうおそれがありはしないか。そういう意味では公開というのは、御意見としては一つの大事な意味をなしてはおりますけれども、実際問題として大変多くの問題点が残るのではないだろうか。そこで、審議会が出しました答申あるいは意見について国会に報告するということをきちんと書き出すことによってその公開に準ずるような効果を上げることができるのではないだろうか。そういう観点に立ちまして、ただいまのような報告しなければならぬという感じの条文を加えてみたわけであります。
  175. 菅野久光

    ○菅野久光君 そうしますと、非公開ということが前提でこの修正案を出されたというふうに理解をしてよろしいですね。
  176. 深谷隆司

    衆議院議員(深谷隆司君) そのとおりであります。
  177. 菅野久光

    ○菅野久光君 そこに、またいろいろな問題が私は出てくるというふうに思うんです。国民の声が強くて、これは公開にしなさい、公開にするべきだという声がたくさん出たときに、そういう非公開を前提にしてこの修正案が出されたその趣旨と全くまた違うような形になるということになれば、そこにまた立法者の意思というものと審議会とのかかわり、これはまたいろんなことが出てくるのではないかというふうに思うわけであります。  そこで、時間がございませんので、時間の関係でちょっとやりづらいんですが、角度を変えて、この審議会は、臨時行政調査会の第五次答申の中でも原則公開ということで決められているわけです。これは私も調べまして、「行政機関は、開かれた行政という考え方に立って、その運営を原則公開に転換させることを基本方針とすべきであり、また、公務に従事する職員にも公開の精神を徹底させることが重要である。」ということで出されているわけであります。しかし、今政府が出されているのは非公開をスタンスにしてというようなことでありますが、これは臨調の方針とは違うのではないか。物によってというようなこと、いろいろありますけれども、事教育というものにかかわってこのことが適切だというふうに大臣はお考えになりますかどうか、その辺をお伺いしたいい思います。
  178. 後藤田正晴

    国務大臣後藤田正晴君) 御質問にございましたように、第五次の最終答申、これは、「審議会等の会議の公開は、それぞれの設置目的、任務等に照らしつつ個別に決定されるべき問題であるが、審議概要の公表を行う等できるだけ公開の精神に沿った措置を講ずる。」、こう書いてございますが、この審議の過程でいろんな議論が出たように私は承知をいたしております。審議会を公開するかどうかというのは、審議会の設置目的、それから性格、任務、こういったようなことがございまするので、それぞれ違っておりますから、どのような運営方法が一番適切であるかということになると、これは個別に審議会御自身で決定をせらるべきもの、私はさように考えるんですが、今御議論をずっと聞いておりますと、あるいは私の理解不足かどうかわかりませんが、私は、審議の概要は会議が終わった後でできる限りは、これも運営方法の一つとして審議会御自身が決定すべき問題で、政府がとやかく言う筋でありませんけれども、それは記者会見を行って、きょうはどういうことを審議したといったようなことはやる方がベターだと私は思うんです。  しかし問題は、御意見を聞いておると、審議会の会議自体を公開にすべしという御議論であるならば、これは教育の問題ということになると、国民一人一人みんな意見があるわけです。それらを踏まえながら委員方々が自由濶達に議論をしていらっしゃるわけです。プレッシャー団体もあるわけですから、だからそれぞれの個々の委員の方の会議体の中においての議論等は、だれが何を言った、あれはこう言ったといったようなことはこれは避けるべきであろう、非公開でしかるべきではないのか、こういうような私は理解をいたしておりまするので、ここでの御議論が会議体それ自身の公開を求めていらっしゃるのであるならば、これは文部大臣の御答弁もそういう御趣旨かどうかわかりませんけれども、私は文部大臣見解に全く賛成でございます。別段、臨調の答申とは反していない、私はさように理解をいたします。
  179. 菅野久光

    ○菅野久光君 大臣、ちょうど時間でございますので。  それじゃ法制局長官にちょっとお尋ねしたいと思いますが、当然のことと言えば当然だというふうには思いますが、一応お尋ねをしておきます。  この審議会とは、行政法や行政組織法上の考えからして行政機関の一つであることに間違いはないというふうに思います。国家行政組織法上は八条機関として設けられ、委員などは一般職あるいは特別職公務員として扱われるというふうに思いますが、この点、間違いはございませんか。
  180. 茂串俊

    政府委員(茂串俊君) ただいま仰せのとおりでございます。
  181. 菅野久光

    ○菅野久光君 この審議会は、行政に対する民主性の確保や利害の調整、専門知識の導入などを目的として、他の行政機関のようなヒエラルキーを欠いていますけれども、これもやっぱり行政機関の一つであるという先ほど答弁で間違いございませんね。
  182. 茂串俊

    政府委員(茂串俊君) 先ほど御指摘がございましたように、このいわゆる臨時教育審議会は国家行政組織法第八条に規定する審議会でございまして、これは第八条にも規定しておりますように、第三条第二項に言う「府、省、委員会及び庁」、これをこの国家行政組織法では行政機関という言葉で呼んでおりますが、そのうちの総理府に置かれる機関であるという意味におきまして、ただいま申し上げたような御答弁になるわけでございます。
  183. 菅野久光

    ○菅野久光君 これは先ほど総務庁長官答弁もありましたが、各省庁だとか行政機関は公開を基本姿勢として確立せよと明確に述べているわけです、臨調の答申で。審議会も、またその行政機関の一つである以上、やはり公開ということが私は基本的なスタンスでなければならないというふうに思うんです。非公開はとるべき原則ではないというふうに思うんですけれども、官房長官いかがですか。
  184. 藤波孝生

    国務大臣(藤波孝生君) 先ほど来、総務庁長官文部大臣からお答えをいたしましたように、やり方があるのではないかというふうに思います。したがって、文部大臣お話しになっておられますように、今度の審議会が出発をするときに、審議会の運営についていろんな御相談があるだろうと思うんです。そのときには、余り政府の方からこんなやり方でしてくださいと言うのじゃなくて、いろいろ御相談申し上げて、どういうふうに進めましょうかというふうに御相談申し上げた際に、全然非公開というのでなく、一回ごとというのか、ある程度まとまったところでというのか、そういうふうなことで会議が動いていく審議の状況などを外に発表するというような形がうまく相談されますと、極めて適切に審議会の方の中で、別に公開するということによって束縛を受けるということも委員の方もなく、かつ、どんなふうに審議が動いていくかということも国民にもおわかりいただけるような方法というのがうまくできてくるのではないだろうか、こんなふうに思います。  今から予測をいたしまして、文部大臣なりあるいは私どもが申し上げることになりますと、審議会が出発して以後御相談いただく委員方々の御相談を前もってこちらから何か押しつけるような形になってもいかぬと思いますので、その点は国会の御論議の御様子などを通じていろいろ勉強させていただいて、できる限り国会で御議論が出たことを審議会の進め方について反映されていくように工夫をしていくようにすればいいのではないだろうか。そんなふうに考えておりますので、少しやわらかみを持って考えていくとこれはうまくいくのではないか、こう思っておるような次第でございます。
  185. 菅野久光

    ○菅野久光君 深谷さん、お忙しい中どうもありがとうございました。結構です。  審議を公開にするのは自由な論議が妨げられるということで先ほど総務庁長官もおっしゃいましたし、それから文部大臣も北海道の不買運動、そのことなどを例に挙げて出されておりますが、しかし、ああいう問題と私は教育の問題というのは性格が違うのじゃないか。この前は幼保一元化ですか、あの問題を言ったら大臣のところに、電話か投書か何かは別にしても、随分いろんなことが来た。しかし、そういういろんな話が来るということが、ある意味でいえば、自分はこうだと思っていたことを、それだけじゃない、こういうこともあるのだという認識を得ることになるのではないか、そのことがより開かれた論議ということになっていくのではないかというふうに思うんです。  どうも非公開ということにしますと、自由濶達な論議ということはいいんですけれども、しかし国民は、これは何回も言われていることですけれども、中曽根首相が提唱したこの教育改革、そのことにやっぱり危険を感じている、そのことだけは間違いがないわけです。だから、いろいろな問題が出てくる。これは教育改革そのものを否定するということじゃないんです。大事なことなんです。だから、みんなが一生懸命になって、こうやってやっているわけです。  中曽根首相がどんなことを言われてきたか。これはいろいろ言われておりますが、第二臨調の後は教育大臨調だということも言われておりますし、それからこのようなことも言われているようです。「この大きな行事(行革)が失敗したならば、教育の改革もできなくなるが、防衛の問題もダメになります。いわんや憲法を作る力はダメになってしまうのであります。したがって行政改革で大そうじをしてお座敷をきれいにして、そして立派な憲法を安置する。これがわれわれのコースであると考えておる」、これは八二年五月三日、生長の家での講演内容です。  そういったようなことを言われまして、いわば六・三・三制も改革するというようなこともあるところで言われているわけです。それから教育基本法を変える、憲法を変えなきゃならぬ、そういう考え方の持ち主だということは国民のだれもがわかっているわけです。ですから、こういう教育という国家百年の大計を中曽根さんにお任せするということはどうも心配でたまらない、どんなことをやるのかと。  しかも、今までの教育改革を含めた中教審のいろんな答申の作成内容などを見ていきますと、あれを文案にしていくのは文部省のお役人なんです。そういう中でつくられていく。それが何か委員の方たち論議しないことまで、あの教育課程審議会とか、何かそういう中ではやられたこともかつてあったようでありますから、それだけに日本の将来にとって、本当に国民のための教育改革というものができるのだろうか、そういう心配が正直なところあるわけです。だから公開でやってもらいたいというふうに国民の多くは要望しておる。きのう札幌で公聴会がありましたが、四人の公述人のどなたも原則的には公開ということがいいのではないだろうかというようなことのお話だったというように私は思うわけであります。  そこで、本当に国民のための、今国民が願っているような教育改革を進めていきたい、進めていかねばならぬ、そういうふうに思うのなら、国民的な合意を取りつけるということが私は何よりも大事だというふうに思うんですが、その点は間違いございませんね。
  186. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 教育論議は、国民の幅広い各界各層の論議、これをまとめていくということが大事だというふうに考えております。決して審議会は秘密を保ってやりたいということではないので、できるだけ委員の皆さんに自由に発言をしてもらいたいというのが基本的な考え方でございます。したがいまして、先ほど官房長官からもお話がございましたように、また私も国会を通じて申し上げておりますように、その都度その都度になりますか、これは会長がお考えいただくことですが、どういうことが議論されたか、このことについてはその都度国民の前に明らかにしていくということが大事だと思います。私は、一番冒頭に、衆議院の予算委員会の際もそのことを申し上げているんです。こういう考え方がまとまった、それを国民に明らかにする、そしてそのことについて国民からいろんな意見がまたフィードバックされてくるだろう、そしてまた議論を進めていく、こういうやり方が私はいいと思うのだ、こういうふうに最初から申し上げておるんです。  ただ、たびたび申し上げておりますように、どうしても公開制で○○さんがこういうことを言った、これについて○○さんがこういうふうに答えたという、その都度のあり方を出すことはよしあしの面があると思うんです。ですから、意識をしないで本当に御自由な御論議をしたいということが教育改革につながるであろうという、そういう期待から申し上げているわけでございまして、決して機密や秘密を保持していこうということではないというふうに私は申し上げておきたいと思います。
  187. 菅野久光

    ○菅野久光君 文部大臣のいろいろ言われることについては、これは私も本当に共鳴するところがあるけれども、それが実際に文教行政として出てくるときには全くそれと違うような方向で出てきてというふうに私は思えてならない。それだけに私は心配をするわけであります。  たまたま、今、大臣答弁の中で、審議会で論議をする、それが国民の中に返っていって、それがまたフィードバックされてくるというお話がありました。私も、そのことについては、きょうこの中でしっかりその確認をしておきたいと思うんですが、やっぱり一つのテーマを持って論議をする、それは国民の論議のたたき台として。中間答申か何かは別にしても、それを国民の前に明らかにする、そして国民各層それぞれの段階で論議をされたものがまた審議会に戻ってきて、審議会はそれを一応踏まえながら本答申をつくっていくというような、そういう手続といいますか、そういうことについては、今の文相の答弁からはそういうふうに私は受け取るんですけれども、ぜひそのようにしてほしいという願いも込めて、大臣考え方をお伺いしたいと思います。
  188. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 中曽根総理も私も、教育論議というのは大変幅広いものでなきゃなりませんし、国民が総参加をしていただくということが大事なことだというふうに考えております。したがって、総理が内閣全体でこの問題をとらまえていこう、あえて総理大臣の諮問機関としたところもここにあるわけでありまして、幅広く多くの皆さんの意見、その御意見が一つのまとまりを見せる。あるいはその中で適宜、いろんな経過の中で国民の前にそのことが明示される。そしてそのことが、先ほど先生がおっしゃったように、先生方の仲間でも、学校でも、地域社会でも、あるいは国会でも、いろんなところでそのことについての御議論をしていただいておまとめをいただければ、またそれを政府に反映をしていただく。あるいは臨時教育審議会そのものにまた意見を反映していただく。またその意見を聴取するには、これも申し上げておりますが、アンケートのとり方もあるでしょうし、また地方でそれぞれ公聴会をやるやり方もあるでしょうし、いろんな形をして一つのテーマが出てくる。そのテーマの論議をまた国民がいろんな角度で議論をしていただいて、それをぜひ返していただく。そして、みんなの意見をまとめながら、本当に将来の日本に不動の美しい教育制度というものをぜひみんなで考えていきたい。これは総理も願っていることでありますし、私もそのことを一番期待をいたしておるところでございまして、そういう見地から、決してこれを秘密性を保っていく、何が論議されているかわからない、そういうことではないわけです。  ただ、これは官房長官にお尋ねいただいた方が的確かもしれませんが、どうも総理の今までの発言やこういうことからこういうことが心配されるのだ、国民は皆心配しているのだ、こう菅野先生はおっしゃいますけれども、何を心配しているのかというと、結果的には戦前回帰につながるのではないか、どうも教育基本法をないがしろにしてしまうのじゃないかということであるとするならば、そのことについては、総理は本会議でも委員会でも、また私も、たびたび教育基本法は大事に守って教育改革をしたいんです、また審議される先生方にも教育基本法の精神を大事にして論議をしてください、こういうふうにはっきりと国会で申し上げておるわけでありますから、総理もいろんなお考えが過去には、政治家ですから、政治家なんというのはいろんな考え方や思想を持って悪いとは私は思っておりません。しかし、少なくとも総理大臣として今何をしようとしているか、総理大臣としての姿勢はこうある、こういう考え方で進めたいということは国会ではっきりと言っておられるわけでありますから、それが何か秘密性で、何か心配事をされてしようがないのだということは私は全然当たらないと思うんですが、ぜひその点について御理解をいただきたい、こう思うんです。
  189. 菅野久光

    ○菅野久光君 文部大臣、一生懸命説明をされておりますが、それは内閣という、そういう立場であれですが、どうも中曽根首相の言動については、これは率直に言ってやっぱり信頼ができない、はっきり言って。きのう言うことと、きょう言うことと、全く違っても平気な顔をしていらっしゃる。そして、あるところへ行けば、うそをつかない子供を云々というようなことをおっしゃっている。どうして国民が信頼できるでしょうか。私は文部大臣を信頼します。そして、文部大臣は、まだお若いからこれからまだ相当長もちしますので、このまさに二十一世紀にふさわしい大臣だと私は思います。  きょうここで論議されたことというのは、私は極めて大事なことだというふうに思うんです。これは会議録にもきちっと残るわけでありますから、それだけに今、大臣答弁されたこと、これをぜひひとつ忘れないで、必ず審議会で論議されたことは一度国民に返して、そしてまたフィードバックしていく、そういうふうな手続をされれば総理大臣がどうであろうと、だれがどうであろうと、国民的な合意というものが私はできていくのじゃないかというふうに思うんです。今までそれがなかったというふうに思うんです。もちろん、中間答申とかなんとかということは文書の上では出されても、それに対する国民の声というものが果たして反映されるようなそういう運営の仕方であったかどうかということになれば、私は極めて問題があったということを、この際、指摘しておかなければならないというふうに思うんです。  そこで、官房長官、概算要求基準というものがいよいよ決まったわけでありますが、これだけ内閣を挙げて取り組むという大事業です。防衛費だとか、それから海外経済協力費だとか、こういったようなことについては、ある程度聖域的に予算増がなされている。午前中、粕谷委員からもそのことについてのお話があったわけでありますけれども、本当に教育改革をしていくという上では、何といってもそれは予算の裏づけがなければできないわけです。予算なくして無手勝流でやれるものもそれは中にはありますけれども、しかしその多くはやっぱり予算を伴うものだ。そこで、防衛費だとか、海外経済協力費だとか、ああいうような形で内閣で取り組むというんですから、その予算の面についての内閣としての決意、これを、総理がおられませんから、官房長官にお尋ねしたいというふうに思います。
  190. 藤波孝生

    国務大臣(藤波孝生君) きょうの閣議で、来年度の予算を編成をするまず概算要求基準を設定いたしまして、八月末に各省庁から大蔵省に対して要求書が出されて、それをもとにして年末にかけて予算編成の作業が進められていくわけでございます。非常に厳しい財政事情の中で、六十五年赤字公債依存体質からの脱却、増税なき財政再建という旗印を掲げて進んでまいりますので、なかなか厳しい仕事ではございますけれども、各省庁に御協力をいただきながら予算編成の作業を進めていかなきゃいかぬ。そういう意味では、特に文教、文部省の予算が突出しておるという形にはなっていないということであれば、それはその立場からの御批判はあろうかと思うのでございます。  問題は、この臨教審審議が進んでいって、どういうふうな形で答申が出されるかというのは、委員が決まって審議会の中で御相談をいただいて運営が進んでいくことになるかと思いますから、一般的に言いますと、例えば緊急答申とか、中間答申とか、本答申とか、いろいろな答申の仕方があるだろうと思うのです。しかし、それは審議会が出発してから会長を中心にしてお決めをいただくことになろうかと思うのですが、いずれにいたしましても、これから答申が出てくるわけです。一番遅い場合は三年かけてということですから三年先ということになりますけれども、中間でも、いろんな答申の形が出るとすれば、もっと早くその答申の一部が出てくる、こう考えていいかと思うのです。非常に厳しい財政事情の中ではありますけれども、今日、日本の政治が果たさなければならない大きな責任、その政治課題として教育の改革の問題を浮かび上がらせて、国会でもいろいろ御論議もちょうだいをし、そして審議会も出発をし、国民の皆さん方からもいろいろとお知恵を出していただいて、この改革案をまとめていくわけでございます。そういう中で、具体的に答申がまとまってまいりましたならば、これは非常に大事な事業としてこれを遂行していく、当然、総理大臣が諮問をして答申を求めるわけでございますから、これを最大限尊重して実行していくということは当然のことでございます。  答申の中身が、お金を伴うものもありましょうし、あるいは制度をいろいろ改革していったらどうかというような案になる場合もありましょうし、これは文部大臣がお答えになっておられますように、教育の万般にわたって、私は教育だけでなしに教育を取り囲む環境まで含めていろんな御論議があっていいと思うんです。そういう中で、お金の要ることもあろうし、お金が要らなくて教育を前進させるようないろいろな御提案もありましょうしいたしますので、それが全部財政問題と結びついてくるかどうかというのはそのときの判断になりますけれども、最善の努力をしていかなければなるまい。そういう意味では、まさに政策優先の順位をつけていくことが政治の責任だろう、このように考えておるわけでございます。一般的には非常に厳しい財政事情の中ではありましても、臨教審というこの審議会の御意見を大事にし、答申をまじめに受けとめて実行していくという姿勢で審議会を出発させていただくようにしなければなるまい、こんなふうに考えておる次第でございます。  こういった点につきましては、政府自身が考えていくだけではなくて、国会のいろいろな御意見というものが非常に大きなウエートを占めるかと思いますが、御協力をいただくようにぜひお願いを申し上げたい、こう考える次第でございます。
  191. 菅野久光

    ○菅野久光君 官房長官も記者会見の御都合がおありだそうでございますから、最後に官房長官に。  総理が、できれば年末までに中間答申的なものをもらいたいという旨の発言をされておりますが、何をそんなに急いでおられるのか、官房長官おわかりでしたら、ひとつお答えいただきたいと思います。
  192. 藤波孝生

    国務大臣(藤波孝生君) 今申し上げましたように、審議会が出発をして、どんなふうに運営していくか、いろいろ御相談をいただくということを大事にしていこうと文部大臣も言っておられるわけでございます。総理もそのように考えております。したがいまして、答申の形はいろいろあるかと思うのですが、従来、文部省の中教審などでも、いろいろ御答申もいただいて、御建議もいただいてきた。あるいは総理府の青少年問題審議会なんかでも、青少年問題のいろいろあり方について御建議もいただいてきている。従来もそういう御答申をいただいて、いろいろ改革のための努力が重ねられてきているわけでございます。しかし、なかなかいろいろな事情もあって改革がもう一つ進まないという部分もあったということについても御高承のとおりでございます。  これから審議会の御論議が進んでいくわけでございますけれども、審議会全体を、三年間を、春夏秋冬といいますか、起承転結といいますか、まず開会の辞から始まって、行儀よく、ずっと総論から順番に、はしがきから最後の終わりに臨んでまでを行儀正しく秩序整然といくのも一つ考え方でございますけれども、大体の流れとしてはそうなるでしょうけれども、今までやらなければならぬとみんなが考えていたけれどもなかなかやれなかったこととか、大体おおよその合意ができてくる部分については早く手をつけないと手おくれになってしまうというような部分とか、それは審議会が出発をしないとわかりませんけれども、あると思うんです。  例えば、例としてまず先に出すのはどうかと思いますけれども、校内の暴力事件が頻発している、それじゃこれをどうするのだ、三年間かかって論議しますからしばらく様子を見ようではこれは済まない話なんで、これは一刻も早くこういった問題を除去するように、校長先生先生方や父兄の方や地域の教育委員会みんなで協力をして、努力をしなきゃならぬことだろうと思うんです。例えば、例がいいかどうかわかりませんけれども、幾つかそんなふうに、さっきもお話がありましたように、何か教育産業でわあっと教育界はみんな、教育界そのものが教育産業という大きな池の中で泳いでおるコイみたいに何かぐうっとうねってしまっておる、それをどうしたらいいのだろうというようなことにしても、手を打つことがあったら早く打つべきこともあるのではないか、そんなふうに思っておるんです。  しかし、それはあくまでも審議会の御意見、運営の仕方によってのことでございまして、総理大臣の個人的な恣意によってそれをどうしようというものではないんですけれども、教育問題だけに、短期的に、中期的に、長期的にいろいろ構えていくべき論議の構え方があるのではないか、こんなふうに考えておりますので、早くいただけるものは答申もいただいて手をつけていきたいと考えておるのではないか、私、総理と話し合ったことがないので推測でございますけれども、大体そんなことを思って話をしたのではないだろうか、こう思う次第でございます。
  193. 菅野久光

    ○菅野久光君 これから何カ月もない中で中間答申でもという、余りにも先を急ぐその意図がちょっと我々にはわからないんです。教育に拙速は禁物だ、にもかかわらず中間答申を求めたいという、さあまた何を考えているのだ、こう勘ぐらざるを得なくなってしまうわけなんです。答申を聞いて、こちらの方で話がありましたが、予算をたくさんつけなきゃならぬということで聞くのであればそれは大いにやってもいいんですが、どうも今の状況ではそれも何か難しいような気がするわけですが、これが一応期間が三年ということで、この三年ということについても本当に国家百年の大計をやるのにいいのかという問題は率直に感想としては持っています。しかし、時間でございますから……。  官房長官、どうもありがとうございました。それから法制局長官も、どうもありがとうございました。  それで、国教審を提案されている久保さんにお尋ねをしたいというふうに思いますけれども、審議会の公開、非公開の問題、それからどう国民の合意を取りつけていくか、教育改革に臨むいわば基本的な姿勢といいますか、そういったようなことについてお考えをお聞かせいだだければと思います。
  194. 久保亘

    委員以外の議員久保亘君) 審議会の公開の問題から申し上げたいと思いますが、私どもが対案として出しております法律案は、審議会は公開を原則といたしております。先ほど政府の側のお考えをそれぞれの方がお述べになりまして、この考え方は一致していないと私はここに座っておって感じたのでございます。特に、古い内務省御出身の先輩の方とお若い文部大臣や官房長官との間にはまた大変考え方に開きがあるように感じてまいりました。特に、後藤田さんは文部大臣考え方を全面的に支持という立場に立ちながら、この審議会の中でだれが何を言ったかというようなことは明らかにされてはならない、こういう立場をお述べになったように私は思います。これでは教育の改革を論議する審議会はその任務を果たし得ないと私は思っております。  私は、本来、教育に関する論議に秘密があってはならないと述べられた森文部大臣考え方に全面的に賛成でございます。しかし、そのような立場に立つならば、それにふさわしい審議会の運営のルールを定めて、そのルールに基づいて委員となることを承諾した人がこの審議会に参加をするのでなければ民主的な会議となり得ない、こう思っております。特に、中曽根さんは国民的合意を得ながらすそ野の広い論議をやりたい、こう言われております。このことはやはり審議会の中で論議をされていること、どなたがどういう意見をお持ちになり、そのことに対してどなたがどういうふうな違った意見をお持ちになったという、その論議の経過もすべて国民が知ることによって、国民はこの教育改革の国民的合意を得ようとなさる政府の試みに参加をすることができる、そうすることによって、すそ野の広い教育改革の論議が成り立つ、私はこう思っているのでございまして、非公開を原則とするが、後、公開にするかどうかは審議会の自由意思で決めたらよいという言い方は、大変ずるい言い方だと私は思っております。もし、会議は非公開とすべきだと臨教審の提案者が考えるのであれば、これは条文の中に非公開を原則とするということをうたうべきであります。そのことを隠しておいて民主主義の装いだけやって、そして会議が自由にお決めになればよいという言い方は大変ずるい民主主義を冒涜するやり方だと私は思っております。  したがって、私どもは会議は公開を原則とする、しかしその会議の実際の運営の中では、例えばプライバシーに属したりあるいは国家の機密に属したりするような問題でやむを得ず非公開とせざるを得ない場合もあろう、そういう場合には審議会がみずから非公開とすることを決定することができる、その自由を私どもはこの法律案の中に明示いたしているのでございます。この点において、政府案と私どもの案は民主主義に対する原則考え方において完全に異なるものでありまして、私どもの案が民主主義を肯定する立場人たちからは支持されなければならぬ、私はこう思っております。  それから教育改革に関するいろいろな考え方について述べてみろということでございましたが、私は何が一番問題かと言えば、日本の場合には行政が統制、支配する、現場が自由や創造的な教育に対する力を失う、このことが日本の教育を一番ゆがめているものだと思っております。この教育と政治や行政との関係というものを憲法や教育基本法の原則に基づいて正しくする、政治や行政は教育を支配せず、教育に対して政治や行政は奉仕することをその任務とするという原則を明確にしてかからなければならぬ、そのことがまずゆがめられておいて教育改革はあり得ない、こう思っております。  それから入学試験の改革の問題とか、いろいろございました。そういう教育技術の問題などございます。しかし、そういうものを超えて何をやらなければならぬか。学歴社会などについて、まず政府がやるべきことがあると思うのであります。私学の出身者が省庁の局長になるとニュースになる、東大以外の出身者が事務次官になったらニュースになる、こういう状態がまず打破されなければならぬことだと私は思っているのであります。そういうことに手を出すことはできずにおいて、教育基本法の解釈はおれの解釈が法律の解釈であるということを述べてみたり、あるいは行革審の答申を受けると総理大臣としてこれを最大限尊重いたしますと言ってしまえば教育改革に関する審議会の論議に大きな制約を加えたことになるということに気づいておやりになっているのか気づかずにおやりになっているのか、これは私は大変問題だと思っているのであります。みずから教育改革を審議させる臨教審審議に行革審の答申を尊重するということによって、これを最大限に尊重するということを主張することによって制約をはめているということが私はむしろ教育改革に対する自由濶達な論議を阻害するものだ、こう考えているのでございます。  そういう意味で、やっぱり教育改革に関する論議は、文部大臣のもとにそれこそ教育にかかわる問題として自由に論議がされ、国民がこれに参加する運営によって行われる、そして出された結論が政府の全体の責任において実行される、こういうことでなければならぬと思うのでありまして、先ほど文部大臣の御答弁を聞いておりましても、私はそのことが総理大臣直属の機関としなければならない理由には少しもなっていないように感じたのでございまして、そういう点で私どもが提案申し上げました国民教育審議会の方が今日、教育改革を国民的立場で論じていくにはふさわしい案ではなかろうかとひそかに自負いたしております。
  195. 菅野久光

    ○菅野久光君 この臨時教育審議会について、これをやるということから国民的に教育改革についての世論というのが非常に高まっているというふうに思うんです。  この臨教審法案が参議院に移った段階で、毎日の社説では次のように言われています。「参院では、臨教審の具体的な目的をはっきりさせるようあらためて求めたい。それこそが、国民の代表としての国会の果たすべき義務だと思うからである。」、この義務を果たすために、この間、穐山委員からいろいろ言われたけれども、何か出てきたでしょうか。「教育改革の具体的な内容は、臨教審それ自体審議にゆだねるべきことだとしても、何を改革するのかという、審議の目的まで臨教審にまかせてよいのだろうか。いまの教育の、どういう現象が問題なのか。それをどのような方向で改革すべきなのか。この基本的な枠組みまで臨教審にまかせるのでは、議会主義は成り立たない。」、こういう社説であります。  臨教審に何を求めるのか、これが何回聞いてもどうもはっきり出てこないんですが、国民の教育改革に対する世論調査では、「あなたは、いま教育改革が必要だと思いますか、思いませんか。」では、これはことしの四月九日の毎日ですが、「必要だと思う」が八三%、「必要だと思わない」が十三%、「その他・無回答」が四%。「(「必要だと思う」と答えた人に)では、いまの教育のどの点を改める必要があると思いますか。(二つまで)」ということで出しましたら、「入試制度」が四六%、「非行・校内暴力」が四〇%、こういったような数字が出ているわけであります。したがって、国民がこの教育改革に何を求めているのかということは、最も今緊急な課題としてこういうことを考えているということがこの世論調査の中でわかると思うんです。  この前の審議の中でも久保さんの方から、短期的、中期的、長期的に今教育の改革に取り組まなければならない、そういう課題を明らかにしてやるのだということを言われておりますが、まさに今そういうことが必要なんじゃないでしょうか。もちろん、二十一世紀を見通す、これは非常に大事なことです。しかし、どうも今までの話では二十一世紀を生き抜く人間をということが余りにも先の方に出ていて、国民には、今何が教育として問題になって、どういうことを政治に求めているのかということがはっきりわからない、そういうことが非常に問題だというふうに思うんです。その辺について、この間、穐山委員の方で若干残している問題ですから、これは次の審議の機会にぜひ明らかにしていただきたいということを私の方からも重ねてお願いを申し上げておきたいというふうに思います。  そこで、先ほど共通一次のときに引き続いて本当はやりたかったわけでありますが、時間の関係がございまして今やらせていただきますが、高校入試の問題です。これは共通一次の問題ともかかわって、今高校入試の問題が非常に大きな問題になっている。この前、「県内・県外全く別の成績表」、「内申書改ざん県境のトリック」という朝日の「真相 深層」、これをごらんになったと思いますが、ごらんになっていますね。これを読んでどのようにお考えでしょうか。
  196. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 正確に記事を見ておりませんので、ちょっと答弁いたしかねるわけでございます。
  197. 菅野久光

    ○菅野久光君 本当に見ていないんでしょうか、重ねてお伺いいたします。
  198. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 正確な記事として読んではおりませんので、ここで答弁するような自信のある形はございませんので、お許しをいただきたいと思います。
  199. 菅野久光

    ○菅野久光君 これは先ほど共通一次のときにも申し上げましたが、教育現場の実態がどうなっているのかというその調査分析、そういうものがあって初めて改善の方法、改善の方策というものが立てられるというふうに思うんです。  それで、内申書の改ざんの問題がありますが、現実的に今高校入試の状況について中学校段階でどのような状況になっているというふうに把握されているか、その点をお伺いいたしたいと思います。
  200. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) まず、中学校の段階で現在、高校への進学率が九四%に達しておりますから、ほとんどの子供たちが高等学校レベルの教育を受けたいという希望を持っている。したがって、学校側といたしましては、その子供たちを浪人させないで学校に進学させたいというのが基本に親と学校側にあるわけでございます。そこで、現実的な傾向としては普通科志向というのが年々歳々高まっておりまして、普通科への進学希望がどうしても第一順位としてあらわれてくる。そこで、学校側としては、普通科の希望についての調整をとりながら進路、進学指導をしている。それから本来は高等学校レベルの職業教育を受けるそのねらい、目的、意図があるわけでございますが、自分が将来そういう職業につきたいからこういう職業高校に進学するという子供ももちろんおりますけれども、そうでない普通校に行けない子供たちが職業高校へ回されるといいますか、そういうところへ進学をしていく、とういうような事態で学校の進路指導を担当する教師も、そしてまたそういうような状況に置かれる子供たちも、いろんな悩みを抱えながら高校選択に苦しんでいるということかと思います。
  201. 菅野久光

    ○菅野久光君 高校入試でいろいろ現場で本当に先生方も親も子供もみんなが悩んでいる、そういう中で必要悪と申しましょうか、県境の中学校では三県の高校に進学ができる。それで、それぞれの県に出すいわばその内申書、これがそれぞれの県ごとに違う内申書。高校の受験の仕組みはおわかりですね。それで、それぞれの県に出す内申書の中身が違っている。そして、それぞれが中学浪人をつくらないためにいろいろつくりかえられているということなんです。こういったような状況というのは、特定のところだというふうにお考えになりましょうか、それとも全国的だというふうにお考えになりましょうか、その辺いかがですか。
  202. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 高校入試の改善の検討会議でもいろいろ論議が行われましたが、中学校の内申書に対する信頼という点についていろいろ問題があるということで、この検討会議でもそういう指摘があるわけでございます。したがいまして、手段、便法として一人でもそれぞれの学校に進学させたいということで、本来、客観的であるべき、そして信頼されるに足る内申書が、ある意味ではそういう手段に使われるというようなことは非常に遺憾であるし、改めていくべきではないかということが検討会議の指摘事項でもあるわけでございます。したがいまして、今御指摘のような事態が当たり前だというふうには思いませんけれども、学校によってそういうような状態にあるということは、まことに遺憾なことであると思います。
  203. 菅野久光

    ○菅野久光君 こういったような内申書改ざん的なことが全国的に行われていると思われるかどうかという点についてはいかがでしょうか。
  204. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 過熱した地域でそういうことはあり得るかもしれぬけれども、全国的にそういうのが当たり前のように改ざんされているとは思っておりません。
  205. 菅野久光

    ○菅野久光君 思っていませんということなのでしょうか、思いたくありませんということなんでしょうか、その辺をひとつ気持ちも含めてはっきり言っていただきたいと思います。
  206. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 思いたくもありませんし、そういうことが大部分平気で行われているとは思っておりません。
  207. 菅野久光

    ○菅野久光君 高等学校の入学者選抜について、高等学校入学者選抜方法の改善に関する検討会議だとか、それからことしの七月二十日に入学者選抜についての通知あるいは通達を出されておられますが、先ほど申し上げましたそれぞれの現場の状況、これは共通一次のときにも申し上げましたけれども、本当に腹を割った現場の実態ということを文部省は把握しておられるのかどうなのか、その辺をひとつはっきりおっしゃっていただきたいと思います。
  208. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) この検討会議には、県、それから中学校、高等学校の校長を初め、かなりそれぞれの各界から参加していただいて、そして率直な意見の交換が行われたわけでございます。特に、内申書の問題については、そういう事実があるという不信感を述べられた方もかなりございまして、そういうことを前提にして是正をしていかなければならないのじゃないかという議論が活発に行われたわけでございます。
  209. 菅野久光

    ○菅野久光君 高校入学率九四%という状況を考えたら、何らかのこういうことをやらなければ九四%という状況にはなり得ないのではないかという推測は間違いでしょうか、間違いでないと言えるんでしょうか。
  210. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 五十八年度九四%の進学率、そして合格率を分析しますと、九九%の合格率ということでございます。したがいまして、本人の必ずしも合致する高等学校にすべての者が進学したというふうに断定はできませんけれども、結果として大部分子供が高等学校へ進学しているという実態ができ上がっていると思うんです。したがいまして、そういう内申書をごまかさなければそういう結果にならないというふうには思っておりませんので、それぞれの学校の選択が適正に行われておれば、九九%の合格率でございますから、ほとんど浪人せずして高等学校へ進学できる状況に現在の高等学校教育はあるというふうに思っております。
  211. 菅野久光

    ○菅野久光君 今、学校では相対評価でやっているわけです。相対評価についての問題点をどのように把握しておられるか、お答えいただきたいと思います。
  212. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 結局、受験ということになりますと、ある程度選別というか選択、選抜という形になるわけでございます。したがいまして、どういう学校であればその子が合格するかということを、ある程度進路指導をする際に当然のこととして考えながら子供たちに対する進路指導をされると思うんです。その前提として、どうしても絶対評価だけでやっていますと他とのバランスというのがなかなか見分けがつかないというようなことで、絶対評価と相対評価を兼ねていろんな評価の方法として採用されている、こういうふうに思っております。
  213. 菅野久光

    ○菅野久光君 相対評価に絶対評価を加味して、学習指導要領の中では何か弾力的にというような言葉でなされているわけですけれども、しかし、現場の実態はそのように弾力的なというのは、例えばあるところで私が調査したところでは、中学の一年生と二年生は多少弾力的にやっている。しかし、中学の三年生はきちっと正常分配曲線に従ってやっているわけです。どうでしょうか。その正常分配曲線ということが相対評価としてはあり得ても、一人一人の子供たちにしてみれば、そのことが正確なその子供に対する評価をあらわしているというふうにお考えでしょうか。
  214. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 学習の到達点から見て、どの程度まで到達をしているかということをあらわすために、絶対評価ということであらわせばどの程度の修得まで学習が進んでいるかということがわかるわけでございます。ただ、相対評価は、多くの子供たちとの客観的にどの地位にあるかということを明らかにするために使われる方法であろうと思うんです。  したがいまして、特に幾つかの学校で進学させる場合に、できるだけその子供の実力、そして適性能力に合う学校を選択していくという際に、絶対評価だけに頼ってはなかなかそこの客観的な的確な進路指導はできないということから相対評価の利用が行われているというふうに思うわけでございます。したがいまして、絶対評価という観点で評価していいものと、それから絶対評価だけではなかなか、進学のような場合にはそれだけで的確な進学指導ができないというような場合に相対評価の利用がとられるということは当然あり得ると思っております。
  215. 菅野久光

    ○菅野久光君 そこのところが問題なんです。今、在学している学校で例えば五、四、三、二、一の三だとしても、その子が別な学校に転校したときにはその子は相対評価でいけば五になるかもしれない。到達度とは別に、相対評価というのはそうなるわけです。それが入学試験のときに、内申の内申点、学習点として出されていくわけでしょう。そこに矛盾を感じられませんか。
  216. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 内申書の取り扱いは非常に難しい問題だと思います。したがいまして、それぞれの中学校における子供たちの実態に差があるというようなことで、全く均一に取り扱えないという悩みが当然あるわけでございます。したがいまして、同じ内申書を五対五で比率として重視するという場合に、高等学校側としては一体それをどう傾斜配分をしながら内申書を評価していくかというのは、これは長い一つの実績を積み重ねて研究されてきていると思うわけでございます。したがいまして、内申書を全く形式的にすべての中学校についての評価は同じであるというレベルでの資料として使ってはいないだろうというふうに思うわけでございます。  今回、そういうようなことがございますので、それぞれの学校で行う選抜のための学力試験と、それから中学校から出される内申書のウエートの置き方については弾力的な対応を積極的に進めてほしいということで、この点の対応については大幅な弾力化、緩和措置を講じてその実態に合うような対応をしてもらうようにお願いをしているところでございます。
  217. 菅野久光

    ○菅野久光君 通達は簡単なんです、言葉でやるわけですから。そうしてくださいと言っても、現場では、内申書の信頼度といいますか、それをやっぱりやるために正常分配曲線で見ざるを得ないというような状況がありまして、ある地域では中学校の一年生と二年生の場合に、は全部の教科の五、四、三、二、一のそれを二倍して、その二倍したものを学習点にし、中学三年生のときには全く正常分配曲線によるパーセンテージでやって、それの三倍を学習点とするということになっているわけです。これは先ほど申し上げましたように、その学校その学校あるいはその年その年の子供たちの状況によって、例えば子供たちの学習の力といいますか、そういったようなものは違うわけです。あるときには五が十人ぐらいいる場合もあるし、ある年は三人ぐらいしか正確に言って到達度ということからいけばいないなというような、その年その年違いますし、学校によって違うわけです。  そういう多くの学校が、ある一つの高校に行くときに、高校を受験するときに、学習点は全くその学校の学習点でいくということでありますから、そこにまた点の差が出てくる。そういう矛盾した問題があって、ここは受験産業ではありませんが、それぞれの中学校では、高校の受験が終わった後、進路指導の先生方が集まって、そして先ほどの塾の話ではありませんけれども、全部その得点を調べて、そしてここの学校は何点、ここの学校は最低何点、全部それは調べていくわけです。そこに到達するための学習点を何点にするかということになれば、先ほども申し上げましたように、こういったようなことがなされなければその子供が中学浪人してしまう。そういうことで、なかなかこういったような実態はつかめない、言ってみれば。それぞれの学校ごとに全部秘密です。どこの学校も出せない。それはそれぞれに何らかの操作をしなければそこまでやれないという苦しみ、そういったようなものがあるのだと思うんです。  それで、問題点として私がざっくばらんにひとつ話をしてくれということで聞いたところでは、評定の低かった生徒が落ちこぼれ意識を持つようになり、学習意欲を失ってしまうことである。このことがすべてとは言えないが、今問題となっている校内暴力や非行の問題の原因に大きくかかわっている。また、点取り虫的な生徒が多くなり、授業そのものを大切にするよりテストの点数のみに頭を置き、塾志向の子供を多くしている。また周囲の生徒の点数ばかりが気になり、真の友情が生まれづらくなっている。評定の低かった生徒の間で悪い意味での友情意識が生まれる。知識理解のみの評定に陥りやすく、観察力、表現力、行動力などの意欲的な面の評定が隠れてしまい、それを重視すると父母が納得しないという問題も抱えている。観点別の評価などと言われているが、何ら入試制度に生かされず、評価の評定が単なる一から五の数字で評定されるために、生徒の個性や特異的な能力が伸びないでしまっている。こういったような問題点を言っております。  内申書に記入されている学習点の実態として次のようなことを聞きました。このことについてはどの先生方も余り明らかにしたくないことである。三年生を担当し、十月、十一月になると、どこの学校は何点の学習点がなかったら入れないから、何ランクの学習点がなければ落ちてしまうという予想を学年会議で立て、その予想がほとんど外れることはない実態です。そのため、四、五点足りないが、入試点では合格するだろうと思われる生徒がかなりいます。また、私立の高校では学習点は何点以上でなければ落ちますと明言してきます。そのような場合、教師としてはぜひ入れてやりたいということで多少の操作をしていることは事実です。一、二年生の点数を操作したり、三年生のときの評定で生徒同士の学習点を操作することもあります。ただし、生徒同士の場合の操作は私立専願で完全に合格する生徒との操作であり、そのことにより一生徒の不利益になっては絶対にいけません。新聞等で以前問題になってからはかなり慎まれているとは言われても、今なおどこの学校でも多少行われていることは否定できないことと思います。これは率直な本当の話を聞かせてくれということで、こういうふうに聞かされているわけです。  本当に教育の現場でこういうことがなされるということは、極めて残念なことと私は言わなければならないわけですが、実質この進学率が九四%というような状況ですから、ある意味では義務制と言ってもいいのではないかというふうに思いますが、文部省として、仮に高校を義務制とした場合に、ざっと見てどのくらいの予算が必要だと試算されたことがおありでしょうか。
  218. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 高校を義務制にするという前提での試算をやったことはございません。
  219. 菅野久光

    ○菅野久光君 これはこれから設置されるであろう臨教審の中であるいは論議されることかもしれませんが、いずれにしろ、こういったようなことについてはある程度試算もしながら、ひとつ国民のこういったような要求にこたえていくべきではないかということを申し上げておきたいというふうに思います。  次に、教科書の問題についてお伺いしますが、外務省おいででしょうか。——ことしもまた、高校の教科書検定の問題が新聞などでも大変問題になっているわけでありますが、特に南京大虐殺の問題についてこれからお伺いしたいと思いますが、お伺いするところでは、大臣はこの国会が終わった後中国に行かれるやの話も、これは真偽のほどはわかりませんけれども聞いておりますので、そういったものも含めて教科書の検定にかかわる問題についてこれから質問をいたしたいと思います。  まず、外務省にお尋ねいたしますが、戦時における文民の保護に関する国際協定にはどんなものがありますか、その効力発生と日本の加入年月日をひとつ示していただきたいというふうに思います。
  220. 河村武和

    説明員(河村武和君) お答え申し上げます。  戦時におきます文民の保護に関します国際的な協定として、現在、有効だと考えられる条約が二つございます。  一つは、「陸戦ノ法規慣例二関スル条約」と言われておりますが、いわゆるヘーグ陸戦規約というものでございまして、この条約自体は明治四十年、一九〇七年十月十八日に作成されまして、我が国は明治四十四年十二月十三日、一九一一年に批准書を寄託しております。  もう一つ、「戦時における文民の保護に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約」という条約がございます。この条約は、その表題にございますとおり、一九四九年、昭和二十四年八月十二日に作成をされまして、我が国は昭和二十八年十月二十一日にこの条約に加入している。  こういう状況でございます。
  221. 菅野久光

    ○菅野久光君 一九〇七年にヘ−グで定められたいわゆるヘーグ陸戦協定の中の「陸戦ノ法規慣例二関スル規則」は、第四十三条で占領地の法律の尊重を定め、第四十七条で略奪の禁止を定めているわけです。このヘーグ協定は一九十二年に我が国も公布しているわけでありますが、文民の保護の精神、略奪などの厳禁を盛り込んだものと考えてよいかどうか、お伺いいたしたいと思います。
  222. 河村武和

    説明員(河村武和君) お答えいたします。  今、先生が挙げられましたまさにヘーグ陸戦規約と申しますのは、国際法上戦争が違法とされていなかった時代に作成されました陸上における戦争の遂行に関連して守られるべき規則を定めたものでございます。  条約自体は九条から成っておりまして、自国の陸軍軍隊に対して条約附属の規則に適合した訓令を発するということを義務づけますとともに、違反の行為がある場合には賠償の責任を負うということ等を規定しております。  さらに、附属にございます規則は五十六条から成っておりまして、交戦者の資格でありますとか、捕虜の人道的な待遇、それから交戦者のとることのできる害敵手段、攻囲とか砲撃とか、こういう点とか、間諜いわゆるスパイでございますとか、軍使、降伏規約、休戦、それから敵国領土の占領というものと占領軍の権限、義務等について規定しているという条約でございまして、先生御指摘の四十七条は、まさに軍人のように直接軍事行動に従事する戦闘員でない一般市民というものは原則として人道的な見地から戦時中においても保護されなければならないという戦時国際法上の基本的な原則を確認している、このように言って差し支えないかと思います。
  223. 菅野久光

    ○菅野久光君 第二次大戦における戦禍、特に総力戦における文民の被害の増大に対して、一九四九年、先ほどお話しのように、ジュネーブで戦時における文民の保護に関する条約が結ばれているわけでありますが、その第二十七条の「被保護者の地位及び取扱」はどんなことを定めておられるでしょうか。その条文をひとつ読んでいただきたいと思います。
  224. 河村武和

    説明員(河村武和君) 今、挙げられました「戦時における文民の保護に、関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約」、第三編、第一部にございます第二十七条の規定を読ませていただきます。  第三編は「被保護者の地位及び取扱」という表題でございまして、第一部、紛争当事国の領域及び占領地域に共通する規定、第二十七条、   被保護者は、すべての場合において、その身体、名誉、家族として有する権利、信仰及び宗教上の行事並びに風俗及び習慣を尊重される権利を有する。それらの者は、常に人道的に待遇しなければならず、特に、すべての暴行又は脅迫並びに侮辱及び公衆の好奇心から保護しなければならない。  女子は、その名誉に対する侵害、特に、強かん、強制売いんその他あらゆる種類のわいせつ行為から特別に保護しなければならない。  被保護者を権力内に有する紛争当事国は、健康状態、年令及び性別に関する規定を害することなく、特に人種、宗教又は政治的意見に基く不利な差別をしないで、すべての被保護者に同一の考慮を払ってこれを待遇しなければならない。  もっとも、紛争当事国は、被保護者に関して、戦争の結果必要とされる統制及び安全の措置を執  ることができる。  以上でございます。
  225. 菅野久光

    ○菅野久光君 聞いてのとおり、国際条約は、戦時における文民の保護に関して、人道上の見地からその内容を発展させているわけです。文部省が行っている教科書検定もそうした国際法の発展を当然考慮し、その立場から行っていると考えてよいかどうか、その点をお伺いしたいと思います。
  226. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 文部省の歴史関係の教科書につきましては、一般的にその内容が客観的であるかどうか、そして公正な記述であるかどうかという観点で行うわけでございます。そしてまた、あわせて適切な教育配慮が行われた内容になっているかどうかということの観点から行っているわけでございまして、そういう歴史的に明々白々な客観的事実として明らかになっているものについては検定上とやかく申し上げるものではないわけでございます。
  227. 菅野久光

    ○菅野久光君 歴史的に明らかになっているものについてはとやかく申し上げるものではないというふうに言われておるわけですけれども、しかしこの文民の保護に関する条約の中で、特に婦女暴行の問題にかかわっては、これは何も日本だけではない、戦争になればとこの国も同じだというような旨の話をされて、特にそこを削除されたというようなことが出ているわけでありますが、そのことについては、そのようなことがあったとは言えないのかもしれませんが、いかがでしょうか。
  228. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) これは、ある著者の歴史の検定についてでございますが、その著者自身が実は他のところで、戦争状態になった際に婦人を辱めるというような行為、これは古代以来の世界的共通慣行例から日本もまた漏れるものではなかったという認識を持っていらっしゃるわけでございます。すなわち、この著者自身が、戦争に付随してそういう婦人を辱めるというような行為は古今東西を通じて一般的な現象として起きた事象であったという前提で書かれているわけでございます。  したがいまして、この南京大虐殺の記述につきましても、そういうような一般的な認識をお持ちであれば、特に日本軍だけがこの南京において婦女子を辱めるというようなことを書くのはバランス上の記述としては適当でない、著者自身が、日本人も外国人も古今東西を通じてそういうことを一般の慣行として共通にやってきたのだということを他の分野の同じ教科書で記述されているわけでございます。そうすると、日本の軍隊だけが南京大虐殺で婦人を辱めるというようなことを取り上げて書くのはバランスの記述として適当でないということを指摘して修正を求めたわけでございます。
  229. 菅野久光

    ○菅野久光君 古今東西そういったようなことが行われていたとあるところで記述して、そういうふうに記述をしているから特段にということで言われましたが、それじゃその記述そのものは、先ほど申し上げましたヘーグ条約だとか、あるいはジュネーブでの戦時における文民の保護に関する条約だとか、そういうことに照らして正しい記述だというふうにお考えでしょうか。
  230. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 今までの戦争に伴ういろいろな軍隊の行動がそういう事実があったということはこの著者自身も見てきていらっしゃるわけですし、一般的にそういうふうに言われているわけでございます。したがいまして、条約との関係でどうこうということをこの教科書の記述で触れられているわけではございませんので、一般的な記述であると思っております。
  231. 菅野久光

    ○菅野久光君 教科書の記述は、社説などにも出ていますけれども、科学的な真実に基づいて、政治的には中立でなければならないということでありますが、特に今回の検定については、やりとりの録音を認めない、内閲段階での口頭指示がふえたため、いわゆる密室検定の度合いが以前より濃くなったというふうに受けとめる声もある、こういったようなことが指摘をされているわけです。  したがって、教育の国際化ということを、今度の臨教審の中でも自由化、国際化ということを盛んに言われておるわけでありますから、そういう教育の国際化というのを目標に挙げる以上、それは単に留学生の受け入れの増大にとどまらずに、過去の偏狭な国家主義だとか軍国主義教育の反省を踏まえて、真の国際理解教育を推進するものというふうにこの教育の国際化ということについては私どもは考えたいわけでありますが、その点については、大臣いかがでしょうか。
  232. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 教育改革をこれから御議論いただくということの、社会の変化、環境というものを考えてまいりますと、その一つには当然、国際社会の中における対応というものを考えていかなきゃならない。それは今、先生から御指摘がございましたように、単に留学生に対するもの、あるいはまた海外の勤務者の子弟が自由に行き来ができる時代が来るでしょうし、そういうことも考えなければなりません。また、もう一つは、日本人のための日本人だけの教育というのは従来、今日まで文部省がとっておった一つ考え方でございましたが、やはりこれからは国際社会に対して日本は教育でどういう貢献がきもだろうか、こうしたことなども国際社会における対応として考えていく幾つかのまた視点の一つだろうというふうに考えられます。  今たまたま教科書のお話がございましたように、正しい国際社会における慣行、そうしたことも子供たちには理解をしてもらうということは大事なことでございますが、先ほど局長からも申し上げましたように、歴史的な教科書等は客観的に、かつ公正に書いてもらわなきゃなりませんが、同時に、子供たちの、これは小学校と高等学校では違うわけでありますから、発達段階に応じて教育的な配慮というのが大事だと思うんです。ですから、例えばそういう世界的慣行という形で戦争に対する記述などがあった場合も、日本のかつて戦時体制の中でいろんなことなどがあった、今御指摘がありましたような南京の事件など、仮にそれを克明に書けということになれば、それでは諸外国の歴史の過程の中でどうであったのだろうか、そういうことをまた書くことがほかの国に対してどのような一体受けとめ方をされるのだろうか、こういうことは私は教育配慮になろうというふうに思うんです。ですから、そういう意味子供たちの年齢あるいは修学の発達の段階に応じて、そのことについては客観的に、また同時に教育配慮というものが常になされなければならぬというふうに考え、このことについて今まで政府委員から御答弁を申し上げたとおりでございます。  しかし、国際社会における対応ということとこの教科書の問題とは直接また関連があると言えばあるし、ないと言えばないわけでありますが、国際社会の中で教科書は何もかもすべて諸外国のことなども事実克明に書けということが果たして適当であるかどうか、これは私は議論をいろいろとしてみなきゃならぬところであろうというふうに思うわけでございます。要は、先ほどから繰り返して申し上げますように、教育的な配慮ということを十分考えて客観的な記述をされるということが大事ではないかというふうに考えております。
  233. 菅野久光

    ○菅野久光君 やはり国際化、そして友好的な国際関係を維持していくということで、今度の教科書関係についても、韓国は全斗煥大統領の来日の問題等があるのでしょうか、静かな論調ということで報道がなされておりますが、中国は依然として教科書検定を批判的に報道あるいは一部、記述に不安を表明、こういったようなこと等があるわけです。そういうお互いの不信感というものを残さないような、そういうことが私は教科書の検定について必要ではないかというふうに思うんです。そういう点で、これは教科書問題が大変な問題になりまして、当時の鈴木首相が中国へ行って、そしてこの問題について一定の解決の方途を見出した。しかし、それから何年かたっているわけでありますけれども、いまだにこういったようなことが中国の方から出されるということは、検定そのものにいろいろな問題があるのではないかというふうに思わざるを得ないわけでありますから、そういうこれからの日本の国際化ということを考えていったときに、こういったような状況をひとつ改めるようにこれは改革をしていかなければならないことの一つではないかというふうに私は指摘をしておきたいというふうに思います。  そこで、あちこちになって申しわけございませんが、文部省の中に審議会だとかあるいは協力者会議あるいは懇談会、そういったようなものが数々あるわけです。そして、そこでそれぞれがいろいろ教育の問題について論議をし、提言をし、あるいは答申をするというような状況がありますが、それらについて、この臨教審とのかかわりは一体どのようになっていくのか、その点についてのお考えをひとつ伺いたいと思います。
  234. 齊藤尚夫

    政府委員(齊藤尚夫君) 文部省には中央教育審議会のほか十六の審議会が設置されておりまして、それぞれ文部省所管の特定分野につきまして調査審議を行っておるわけでございます。そして、時々の課題につきまして必要に応じて答申、提言を行っていただきまして、文教行政の推進に寄与していただいているわけでございます。  臨時教育籍議会は、大臣からもたびたび御答弁申し上げておりますように、将来に向けまして、教育及びこれに関連する分野の施策に関し、必要な改革を図るための方策について、広くかつ総合的に御検討をいただくということでございます。  したがいまして、中央教育審議会以外の審議会につきましては、それぞれの設置目的に基づきまして審議をお願いすることが必要となる場合に、従来どおり審議をお願いし、答申していただくということになろうと考えます。これらの審議会の答申等は、臨時教育審議会における審議の参考となるものと考えておりますし、また臨時教育審議会から答申、意見を受けた場合には、必要に応じまして、その具体化のための方策について関係の審議会等に審議をお願いする場合もある、そういうような関係にあると考えているわけでございます。
  235. 菅野久光

    ○菅野久光君 審議会としては並列的な立場なんでしょうか、それとも一段違ったところにあるというふうに考えていいのでしょうか。
  236. 齊藤尚夫

    政府委員(齊藤尚夫君) 臨時教育審議会は、教育の改革に関します基本的事項について御議論をいただくということでございますので、基本的な部分につきましてはそちらの審議会の意見が優先をするというふうに考えておるわけでございます。
  237. 菅野久光

    ○菅野久光君 基本的な方針という、その基本的なというのはどのようなことでしょうか、具体的にひとつおっしゃっていただきたい。
  238. 齊藤尚夫

    政府委員(齊藤尚夫君) どのような事項につきまして御審議をいただくかは審議会自身で御判断をいただくというのが政府の従来からの一貫した御答弁でございますので、具体の事柄について今ここで御答弁することは困難でございます。
  239. 菅野久光

    ○菅野久光君 そこが問題なんです。臨時教育審議会に対して何を諮問するのかということが明確になっていれば、各種審議会だとか協力者会議だとか、そういうところとはいろいろな関係がはっきりするというふうに思うんです。だから、その辺が明確になっていないところに私は問題があるというふうに思うんです。そういうことで、既に設置されている審議会とのかかわりは先ほどお聞きしたわけですけれども、一方、その辺の交通整理というんですか、その辺がどうもうまくいかないのじゃないかというふうに思いますが、その辺、糸をほぐすようにちゃんとお答えいただきたいと思います。
  240. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 臨時教育審議会には広く教育制度全般に対して御議論をお願いする、これは政府の基本的な考え方でございます。何をどうするのかということで先生からもおしかりを今いただいておるわけでございます。先般、穐山先生にも大分おしかりをいただきました。それは法案を国会で成立させていただいて、そして国会でいろいろございましたこうした先生方の御議論を踏まえながら総理は諮問案を検討する、そういう手続になると思うんです。したがって、今私がそうした御質問に対してお答えをする場合には、やはり細かなことを、例えば六・三制をこうしなさいとか、大学のあり方はこうなんだとか、幼保の問題はこうでありますとかという形でやるには、教育というのは一つの個別個別のことだけを取り上げてやるには余りにも大きな問題であるというふうに考えられますし、先生方から衆議院、参議院を通じていろいろな教育問題について御質問がございました。項目を挙げているだけでも大変な数になるんです。ですから、私はそういう意味で、総合的に、包括的に、基本的な問題という形で総理が諮問することになるであろう、こういうふうに申し上げているわけでございます。  したがいまして、これから御議論をいただいて、その過程の中で、例えば六・三・三制度、あるいは先生方からも議論が出ましたように、例えば高等学校の義務化、これは教育基本法との関連が出てまいりますけれども、制度的な問題でありますからそういう議論があっていいと思うんです。あるいは幼保の問題から、例えば就学年齢というものは果たして今の年齢でいいだろうか。人生が五十年時代につくった就学年齢ですが、今や既に八十年だ、そう考えたとき、今の年齢がいいだろうかという議論も当然出てくるでしょう。そういう議論というのはいろいろさまざまな形でありますが、例えばそういう形で幼保の問題はこうあっていい、あるいは就学年齢はこういうふうにやったらいいという、仮にそういう考え方が中間的に出てくるとします。そういうことを今、審議官が申し上げたように、文部省の中に固有にそういうようなことを議論する審議会なりあるいはまた懇談会等がある、そこで少し専門的にこなしてみてくれませんかということだって出てくると思うんです。それがまたフィードバックされる、そういうようなこともあり得るだろうということですから、決して臨時教育審議会と文部省が固有に持っておりますようなそうした各種の審議会、懇談会とはそう複雑に絡み合うものではないというふうに私は思います。  ただ、審議官から申し上げたように、中教審につきましては、これは事柄などにつきましてはある程度共通点というものがございますから、中教審については十四期についての発足は当面見合わせていきたい、このように申し上げておるのはそこにあるわけでありまして、ほかの審議会やあるいは懇談会というのは必ずしも臨時教育審議会全体と絡まり合うということは私はあり得ないというふうに考えております。
  241. 菅野久光

    ○菅野久光君 文部大臣の中では極めてちゃんと整理ができているようなんですが、文部省の固有の仕事として、今ある審議会で例えば大学入試の問題、あるいは高校入試の問題だとか、そういったようなことはどんどん進めるものは進めておく。しかし、そのことが今度設置されるだろう審議会で話題になったときには、その当該審議会とのかかわりは具体的に言えばどんなような形になりますか。
  242. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) たびたび申し上げていることで、またおしかりをいただいて恐縮なんですが、議論はあってしかるべきだと思いますが、臨時教育審議会の三年は大体長いか短いかという議論はありますが、これは三年間で改革しろというのじゃないのであって、三年間ひとつ議論をしようじゃないか、教育の諸制度全般について、こういうことです。先生もさっき最初の方の御質問の中に、急いではならぬが、例えば改革をしろという意見は八三、しなくていいというのは十三だ、それからその中で、どのことをやれというのかについて、入試の改善をしろというのは四六ある、非行についてもやっぱり過半数近い数字を先生が指摘された。そういうことを三年間、そのことを解消するためにいろいろ議論はされると思いますが、その中から、例えば入試についてはかくあるべし、非行についてはこういうふうに考えたらどうかということは中間答申として出てきたって私はいいと思うんです。そういう考え方を国民が期待をしている面でもあろうと思うんです。  私は、教育改革全体というのは国民の皆さんが大変関心がある。そのほとんどの関心というのは、私もよく選挙区なんかで選挙区の人と議論をしてみたり、いろいろなところでお話をすると、教育改革しっかり頼むよ。その期待は何かというと、難しい受験競争なんかやめてくれよ。私の友人なんか、うちの息子には間に合わないけれども、孫までには何とかしてくれとか、そういう極めて単純というと失礼ですけれども、そういう教育改革への期待度もあります。しかし、部分的なことは、さっきも申し上げたように、部分的に改善をいたしましても、社会全体の仕組み、学歴社会全体というものに対する考え方が一掃されませんと、このことの考え方の一掃というのはそう簡単に半年ぐらいで出てくるものではないだろうと思うんです。そういうことについては三年ぐらいかかっての議論というのは私は必要だろう、こういうふうに思います。  そして、そのことの諸制度についてこういう考え方の答申を仮に得られるとしましても、これはかなりこれから中期的に解決できるものもあるでしょう、短期的に解決できるものもあるでしょう。端的に申し上げたら、二十一世紀近くまで待たなければ解決できない面も出てくるかもしれません。そういうふうに、いろいろ長期的、中期的、短期的に具体的に実施していくという事柄もあると思います。そういう意味で、三年間の論議というのは、私は長いようで案外短いような気もしますし、かといって、やはり緊急に国民的な要請も高まっているし、各政党の皆さんもそれぞれ教育改革に対するいろんな考え方を持っておられるわけです。これに対して、やはり国民に対してそのことに対する答えを出していかなきゃならぬのも、我々政治家全体の責任であろうというふうに考えれば、三年間で議論をしていって、それを国民にその都度その都度いろんな形で公表していく、そしてまた必要に応じて進めていかなきゃならぬ。  しかし、かなり長くなるという面もありますが、文部省としては、日々、教育行政というものに責任を持っていかなきゃならぬ。そのことについては、文部省固有の事務所掌であります教育や学術や文化ということについては、先ほどから申し上げて、先生からも御指摘がありましたような審議会や懇談会等で御議論を得て、いろんな意見を求めて、そして教育の展開をしていかなきゃならぬ、こういう関係にあるというふうに考えておりますので、その点については、私はそう複雑な絡みをしていくというふうにはならないのではないかというふうに考えております。
  243. 菅野久光

    ○菅野久光君 教育というのは非常に幅の広い、まさに奥行きの深い問題でありますから、それだけにこの教育の問題の改革ということに当たっては、本当に国家百年の大計、まさにそういうことで慎重にやっていかなきゃならない。そういう意味で、将来性のある森文部大臣が担当だということは、先ほども申し上げましたけれども、非常に適役といいますか、そういうことだろうというふうに思うんです。  ただ、先ほどのいろいろ教育改革に当たってのフィードバックを含めた国民的な合意をどうつくり上げていくか、ここのところが政治が信頼されるのかどうかということにかかわってきますし、本当に国民に信頼されるようなそういう教育改革に持っていくことができるかという、そこがやっぱりかなめだと思うんです。非公開ということは密室だ、そうすれば国民の手の届かないところでいろいろ論議がされて、そして一つの方向に行くのじゃないかという危惧をなくすためにも、ぜひそのことはひとつやっていただきたいというふうに思います。  障害児教育の問題なんですけれども、この前とそれからきょう前島委員からいろいろお話がありました。  この点については、かつて私ども土曜協議会ということで障害児を持っている親の人たちが集まりまして、文部省の担当の方にも来ていただいていろいろ話をいたしました。そういう中で、どうしても養護学校があるので、そちらに就学をしてもらう。例えば車いす子供、足に障害があって車いすで通っているというような子供養護学校に入るべきだ、こういうことで言われる。しかし、隣近所の子供たちと日常的に車いすで遊び、そして友だちになっている。そして、知能的な発達は全く健常児と同じというようなことで、親は近くの学校へ通わせたい。そういうようなことがあっても、どうしても養護学校に行かなければならないものなのでしょうか。その辺をお伺いしたいと思います。
  244. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 午前中もいろいろ御議論があったところでございますが、現在の考え方は、障害の軽い子供小中学校の特殊学級で教育をする。それから障害の重い子供障害種類程度に応じて盲、聾、養護学校でそれぞれ適切な教育を行う。そして、その具体的な就学に当たりましては、それぞれの市町村教育委員会で十分調査を行いまして、そして客観的な基準に基づいて適正な就学指導をしていく、こういう建前をとっているわけでございます。
  245. 菅野久光

    ○菅野久光君 障害が重いとか軽いとかというのは、どういう観点からなされるんでしょうか。
  246. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 一般的に、普通の小中学校教育の展開で十分教育が可能であるというふうに考えれば、普通の小中学校に入れていくわけでございます。ただ、障害内容によっては、到底そういう教育ではその子の適性能力を引き出すことはできないということで養護学校等で専門的な教育を展開するということでございますので、ちょっと具体的にこうだああだということは申し上げられませんが、考え方としては今申し上げたようなことでございます。
  247. 菅野久光

    ○菅野久光君 これは各市町村にある就学判定委員会といいますか、そういうところでいろいろ論議をされることだというふうに思うんです。しかし、正常な知育的な面の発達があり、ただ足に障害があるということだけで養護学校に行かなければならないというような状況というのは、これは現実的にそういうことがあるわけですが、どうなんでしょうか。
  248. 高石邦男

    政府委員高石邦男君) 肢体不自由児としての障害程度だと思うわけでございます。したがいまして、今どの程度の、これは具体的な事例に当てはめて論じないと適正を欠くかと思うんですが、その子供を普通の小中学校に入れても十分に教育が可能である、そしてより教育効果が高まるということであれば普通の小中学校に入れることは何ら差し支えないと思うわけでございます。
  249. 菅野久光

    ○菅野久光君 しかし、今、局長はそういうふうにおっしゃいますけれども、担当の方たちと話したらそういう答えは返ってこないんです。地域でその親の方が一生懸命、そして地域の人たちもそういうことをぜひ実現させるべきだということで運動して、そしてやっと近間の学校に入るというような状況があっちこっちにあるんですよ、現実的に。ですから、その込もっと、先ほど私は大岡裁きというようなことを言いましたけれども、弾力的に考えていく必要があるというふうに思うんです。  そして、あのメモでもいろいろ手がかかるとかなんとかということがありますけれども、私の教育経験では、クラスにそういう子供が入ったときの方がむしろクラス自体の雰囲気といいますか、そういうものは極めていい状況になっていく。もちろん、そのためには先生はいつもその子供に目をやっていなきゃならない。先生がその子供に目をやるということは、子供たち全体がその子供に目が行くということです。そして、お互いに助け合いをしながら、そしてその子をいたわりながら全体で生きていこう、学校生活をやっていこう、こういったような空気がその中に出てきて、私が幾つか持ったクラスの中で私は二度ほどそういう経験があるわけですけれども、むしろそういう子供がいたときの方が何かしら教室の空気がいいといいますか、みんなで助け合う、励まし合う、そういう友情といいますか、人間らしい心というものをはぐくむことができたという経験を私自身は持っているんです。ですから、障害を持っているからといって、それを排除するようなこと、もちろんそれは排除するという気持ちではないかもしれませんが、実態的にそういったような方向が出ているということは私は本当に残念だと思うんです。  国際障害者年になったときに、ポスターに、ことしは国際障害者年ですと、こう書いてありました。ですから私は、これ間違いじゃないか、ことしから国際障害者年ですと。十年あるわけです。今年はといったら、その年だけのお祭りに終わってしまうのじゃないかということを申し上げたわけでありますけれども、やっぱり教育には血の通った、もっと本当に人間らしい、そういったような心を持った子供を育てていく、そういう観点でこの文教行政というものをしていかなければいけないのじゃないか。そういう面では私は能力主義の問題も大変大きな問題だというふうに思っていますが、五時五分ということで時間でございますので、この分についてはまだ残された時間の中でひとつぜひやらさせていただきたいというふうに思います。  どうもありがとうございました。
  250. 高木健太郎

    高木健太郎君 これは本来、文教委員会で聞くことだったそうですけれども、教育全般にも関係があると思いますので、文部大臣にひとつ御所感をお伺いして私の意見も申し上げたいと思います。  先般来、文部省の中に例の贈収賄の事件がありまして、司直の手が入ったということでございます。教育の管理中枢である文部省に起こったということは、国民の信任を失って、今後非常に影響が大きいのじゃないかと思いまして、まことに残念なことだと思います。このことについて大臣は、これはある個人の問題である、あるいはまた文部省だけに起こった特殊な問題であるとか、あるいは偶然こういう不心得者がおったのだとか、これについて根本的な原因はどういうふうなものであるとお考えか、そして大臣はこういう問題に対しては今後こういうことが起こらないようにするためにはどういうふうなことを考えていかなきゃならぬのかという御意見をお伺いしたいと思います。    〔委員長退席、理事坂野重信若着席〕
  251. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 今回の不祥事で文部本省、そして文化庁、また大阪大学におきまして三人の逮捕者を出したということは、本当に大臣としてこんなに苦痛なことはございませんし、また極めて遺憾でありまして、たびたび申し上げておりますが、国会のこうした議論を通じまして深くおわびを申し上げたい、こう思う次第でございます。特に、先生も国立教育機関の任にあられた方でございまして、先生も大学のそうした御経験が深いだけに、先生からごらんになりましても残念だなというふうに、同じような学問を研究、推進しておられたお立場からも恐らくそういうお気持ちでおありではないかと思いまして、そういう面でも私は大変先生にも申しわけないという感じを持っておるところでございます。  事実関係の把握は警察当局にお願いをして、そちらで進めていくというのはこれは筋だろう、こう思いますが、しかし文部省といたしましても、そのことの結論を待たざるを得ない面もございますけれども、やはり職員のまずモラルあるいは公務員の自覚の欠如ということは断じて許せないということであろうというふうに考えておりまして、この点につきましては司直の判断が出ました段階におきまして、本人、また私ども含めて責任体制をとる者といたしましても、その責任を明確にしなければならぬというふうに考えておるわけでございます。  しかし、事は普通の役所と違いまして、教育全体が国民の注視の極めて深いものでございますだけに、一日も早くこの名誉回復をなし遂げなければなりませんし、それからもう一つは、ほかの省庁と違って予算の留保というような問題、あくまでもこれは研究体制が速やかに上手に進んでいくということを考えて持っておった制度でもございます。あるいはまた、普通の役所と違いまして、同じような出先機関といいましても、大学という、大学の研究を進める、学問を進める、大学の自主性あるいは大学の自治ということも文部省は今日まで常に念頭に置いていた。それだけに、信頼関係が崩されたということは本当に私は残念なことでございまして、このことによってかえって学術、研究を進めていく予算の面で逆に言うと非常に厳しい、ハードな制度をとらざるを得ないということになれば、これは学者全体の私はこれが悲しいことになるのじゃないかというようなことも心配をいたしておるわけでございます。  しかしながら、たびたび申し上げておりますように、事務次官を長といたしまして、そして検討委員会をまず設けておりまして、三つの部会を設けまして、既に予算、事務処理体制あるいは人事、綱紀あるいは契約事務の処理体制、こうしたことについて今一生懸命そのことに対する解明をいたしておりまして、できるだけ早く私は結論を出すように事務次官にも申しておるところでございまして、一日も早く名誉の回復をしたい、そして国民に信頼を持たれるような教育行政の任にある文部省として再スタートしなきゃならぬ、こう考えております。  大変、先生には御心配をおかけいたしておりまして、心からおわびを申し上げます。私の力のある限り何とか早く文部省のこの名誉の回復がなし得るように今事態の解明を急いでおる、こういうことでございます。
  252. 高木健太郎

    高木健太郎君 こういうことが起こりますと、今もちょっと触れられましたように、いろいろの体制の強化ということがやられるのが普通でございます。これはやらなければならないからやむを得ないことでございますが、私も決して好ましいことではないと思います。そのために、今言われたようないわゆる研究の推進ということがこれによって障害を受けるというようなことであれば全くもって残念なことである、こういうふうに思います。  いろいろのチェック機関を設けるということについて、一言ちょっと私が昔感じたことを申し上げますけれども、私がアンデスの方に行きましたときにペルーに参りました。ペルーに途中寄りましたら、電車の走っていないレールがあるわけなんです。これは、ある電車会社が経営しているわけだったんですが、その会社がつぶれたということです。その場合に、なぜつぶれたのかと聞きましたところ、電車の車掌がそこで切符をチェックしていくわけですが、その金を全部車掌がポケットヘ入れるということで、会社の方には余り金が入っていかない。そこで、これはいけないというので、その電車の車掌をチェックするもう一つ上の人間をその電車に時々乗せるということをしました。そしたら、その男もまたポケットに入れるというようなことで、結局その会社がつぶれたということでございます。  これから私考えまして、チェックを厳重にするといっても、一番最終的には人間の問題があるのだということでございまして、それをチェック、チェックと言いますと組織は非常に硬直をいたしまして全く動かなくなる。一番悪い政治になっていくのではないかと私は思いますので、こういうことが起こりましてまことに残念でございますけれども、組織が硬直化しないということを念頭に置いて、そしてこういうことが起こらないような人間をつくっていくというまさに教育の問題であると思いますので、このことを意見として申し上げておきたい、特にこのことをここでお願いをするということでございます。  もう一つ、私この際気がつきましたのは、この人物はなかなか有能な人であったということでございまして、この間、官房長か何かのお話にございました。生き字引というような人がときたまこういう官庁にはいるわけでございまして、特にこの人はいわゆるノンキャリアであった。ノンキャリアでこつこつととにかく勤め上げて、勉強して、その方面においてはいわゆる能吏であったということでございます。どうしてこういう人たちがそういうことをしたのだろうかということでございますが、能吏であるだけにその裏も知っておったということもあるかもしれません。しかし、私はそういうふうに見たくない。私の主観的なことなんですけれども、ノンキャリアは先行きがどうであろうか、文部省ではやはり学歴というようなものを、どこかでそれを優先しておられる人事が行われているのじゃないかという気がしたわけです。もしもそうであれば、文部省自体がそういう学歴というものにとらわれた人事をしておったのではないか。こんなことはないとは思いますけれども、そういう不安がございましたので、それに対して官房長にお聞きいたします。
  253. 西崎清久

    政府委員(西崎清久君) 二点の先生の御指摘で、チェック機関に関しての御指摘、まことに私どもが留意すべきことかと存じまして、その点につきましては今後、契約事務なりあるいは予算事務についてのいろいろな複数の者による判断というふうな要素を入れるにつきまして硬直化しないようにという先生の御指摘は、十分勘案しながら事を進めてまいりたいというふうに思っております。  それから第二点の、いわゆるノンキャリアの人人に関しての文部省の人事の問題でございますが、端的に例を申し上げますと、現在、各国立大学で旧帝大を初め事務局長という方々がおられるわけでございますが、いわゆる上級職試験を合格した者も事務局長になりますし、それから上級職試験を合格していない者、いわゆる先生の御指摘のノンキャリアの方も事務局長になられる、そういう点ではかなり幅広い人事を行っておるというふうな現状もございます。  今回逮捕されました田中文化庁会計課長のポストは、従来キャリアの人がついておったポストでもございます。そういう意味では大変御指摘のように有能な者でございまして、そういう意味では抜てき的な人事であったわけでございますが、一般論といたしまして、私どもも今後の人事の進め方につきましては、先生の御指摘の点も勘案しながら配慮をしてまいりたいというふうに考えております。
  254. 高木健太郎

    高木健太郎君 今後の教育は今度できます臨教審においてその基本方針が決められるということでございますが、日本の教育はアメリカや英国あるいはヨーロッパにおいては高く評価されている。私の会いました教授はみんな、なぜ今、臨教審というような教育改革をやるのだ、立派な教育をやっているじゃないかというような話を私よく聞くわけでございまして、特にアメリカでは、日本からこれだけ先端技術でとにかく追いつかれ、追い越されてしまったということについて、教育水準が下がった、それはアメリカの教育が悪かった、日本の教育が優秀だったのではないかという話もよく聞くわけでございます。そういうところはございますけれども、残念なのはアメリカと少し違って学歴ということが非常に重く見られる。本人の実力よりも学歴である。文部省というその一番大事なところでそうしたことがあるということは、私はもしそういうことがあったとすればよくない、できるだけ実力主義でやっていかれるというようなことを、私は、この際、強く要望をしておきたいと思います。  これと関連しまして、大学の経理の問題がございます。先般来、東京だったと思いますが、一つは国立大学、一つは私立大学であったと思いますけれども、外から入りました資金が通常は大学の経理に入れて使っておりますけれども、それが外に財団のようなものをつくってそこに入れる、その金を使っておった。これが研究費じゃなくて何かほかに使われたとか、それの経理が悪かったというようなことで、一人の先生はおやめになりましたし、一人は何か教授会で調べておられるんですか、そういう問題があるわけです。  そこで、ちょっとお聞きしておきたいんですけれども、これは向坊さんのお話もよく聞いておったんですが、私もそういう経験がございます。それは講座に金が積算校費として来るわけですけれども、その金が普通は年間五百万とか六百万ぐらいあるわけです。それが実際の研究室に入ってくるときには二百万を切る。ひどい場合には百万そこそこであるというようなことです。そこには教授一、助教授一、助手二、そのほかに大学院生あるいは研究生もいる。大学院生の方には細々ながら研究費あるいは指導費というものがついてございます。だから、せっかく五百万という金を文部省がお出しになりましても、現実に研究費あるいは教育費として使えるものは、光熱水料なんかを差し引かれますから百二、三十万しか残らない。それが米国のような場合は、そのような固定した研究費というものが余りないわけなんです。ほとんどがファンドだとかあるいは寄附とかで賄っておりますので、米国のような教授の先生は金を集めるのに必死になっているというようなことで、その点は日本の研究者は恵まれているとは思いますけれども、何分にもその金が非常に少ないということです。    〔理事坂野重信君退席委員長着席〕  そこで、企業から金が入ってくる。それを財団に入れる。すると、これは第一ほとんど制約がない。何に使ってもいいということじゃございませんけれども、制約がない。文部省から来る金は、設備費がどうだ、人件費がどうだ、謝礼はどうだ、非常に細かくその費目が分けてありまして、そこに融通がきかない。例えば必ず見積書をとらなきゃいかぬ。すると、デパートヘ行ったり、そこらの夜店で、これはおもしろいものがあるからこれをひとつ実験に使いたいといっても自由にその金が使えない。夜店に行って請求書を出せ、見積もりを出せと言ったってこれは出せないわけだから、だからして研究費が非常に不自由にしか使えない。そういう意味で、財団というようなところに置けば自分の自由に使える、あるいは研究がスムーズに進むというようなことで、そういうことがあります。もう一つは、事務の方へ入れますというと事務が非常に煩雑になるということもある。さっきのように判こが幾つも要るというようなことになりまして、使えるときには随分時期も外れるというようなことがございます。  こういう意味で、私、ファンドにそういう財団をつくってやったのではなかろうかと思うわけでございますが、現実に私の言ったことが間違いかどうか。例えばどれくらい講座の積算費が来ておって、そして講座研究費が来ておって、そのうち実際の研究者に渡るのはどれぐらいになっているのか、なぜそういうことになるのか、そのことについて御説明願いたいと思います。
  255. 大崎仁

    政府委員(大崎仁君) 大学の予算の配分のいたし方としまして、先生御指摘のように、講座当たりあるいは教官一人当たりの積算校費という形で必要な経費を配分するシステムになっておりまして、この額につきましては、その教科あるいは講座が実験であるか非実験であるか、あるいは大学院等もあわせて担当しているかどうかということで変わっておりますので、先生のおっしゃいますように五百万前後というものももちろんあるわけでございます。  ただ、これは積算の趣旨といたしましては、全額をその教官が直接お使いになれるという趣旨ではございませんで、いわばその中から共通経費、例えば光熱水料でございますとか、その他の共通経費も含めて差し上げであるという趣旨が中にあるわけでございます。その共通経費をどういうような形で支払うかということにつきましては、各大学ごとに方式がそれぞれ変わっておりまして、私、今の時点で大体何%がということを申し上げる準備がないわけでございます。  なお、法人をめぐります問題につきましては、先生御指摘のような点が確かにあるわけでございまして、私どもといたしましても、今回の問題が取り上げられました後で、大臣の御指示を受けまして、この際、そういう外部のいわば民間研究資金の受け入れ方ということにつきまして検討をするということで、内部検討会議を関係局課の担当官をもって構成をいたしたわけでございますが、その検討の視点といたしましては、一つは委任経理制度等、先生御指摘がございましたように、必要以上に不便あるいは煩雑なことになっているという点があれば、やはりそれをこの際改めるべきではないかということが一つと、それから財団法人、その他研究助成、研究振興を目的とする法人の存在意義というものはもちろん十分あるわけでございますので、それと大学との適切なかかわり方ということにつきまして改めて検討を開始いたしたところでございます。
  256. 高木健太郎

    高木健太郎君 とにかく金がおりてくるのが遅いわけなんです。事務が非常に煩雑でして、それで使う方とすれば何か犯罪人扱いされておるような気がするわけです。要するに、最初から事務と教官の方に信頼関係がないようなんです。教官は悪いことをするものだというような顔をして判を押される。そういうことでは私は本当の意味の研究は進まない。さっきからお話ししているように、やはり信頼関係をもう少ししっかり立てなきやいかぬ。  アメリカなんかでは人事でも会計でもインスティチュートになっていますけれども、決して大学というような形でなくて、そのインスティチュートとインスティチュートが、講座、講座が会計も人事も全部やっておるわけです。大学としては、大学に来たものはほとんどそこへ入れてしまう。後は、その教授なら教授の責任において何もかもやる。これだけの人間関係がありますので、決定権がきちっとしているというわけです。  今の国立大学もそうですけれども、私立大学は違うと思いますが、公立大学なんかでは、それは学長というものもあります、教授というものもあるが、実際は決定権は何もないわけなんです。何でもが会議だ、何でもが判こが要る、こういう形になっておりまして、私は非常にこの教育研究を阻害しておるのじゃないか、この点はぜひ改めていただきたい。何かいい工夫があればそれでやっていただきたい。  また、今度の私立大学の先生は宴会か何かをされたというようなことで自分でおやめになったのですが、宴会をやって何で悪いのだろうか、こう思うわけです。我々もよく宴会をやる。議員先生もおやりになる、それに政治献金をお使いになっておるのか、自分でお出しになるのかわかりませんけれども。私は、そういう宴会の中でいろいろやっぱり研究のテーマだとか、いろいろなものをそこで話し合うのだから、そういうことまで一一チェックするということはまことにばかにした話じゃないかというふうに思いますので、私は緩めろとかということじゃなくて、もっと人間関係をしっかりされたらどうですか、お互いに疑いの目をもって見るということはおやめになったらどうですかということを申し上げたい。  それと、企業からは今非常に多くの金が流れているわけです。普通のところではどうか知りませんが、工学部その他の応用化学の講座においてはそういう金がなければやっていけなくなっているんです。すなわち、講座費だけではとても今の研究はやっていけないという状態になっておりまして、科学研究費が来ますけれども、今申し上げたように、いつ回ってくるかわからないというような状況でございますからして、企業はどうしても自分のことをやる。こうなりますと、応用化学の面は進みますけれども、基礎化学の面がお留守になる。こういうことでアメリカのつくったものをこちらの方へ輸入する。いつまでたっても向こうの知識で基礎は固めていくというようなことになっても甚だ残念なことであろうという意味で、このことをちょっとお話し申し上げたわけでございます。  次は、今度は臨教審のことですが、先ほど社会党の皆さん方から公開制の話がございました。そのことについて、私も審議会というのは公開に原則としてすべきじゃないか。これは粕谷さんもお話しになりましたし、先ほどから社会党からも何か対案が出ているということも聞きました。それは公開制を原則とするということでございます。  それは、この間、中西さんが私の文教へ入っていただいて、ちょっとお話しになりましたが、育英会で調査研究会というものができました。そのときに、中西さんもあそこの委員でございまして、私はこの育英会の案には反対である、有利子化には反対である、この私の発言も二様の見方があったということで書いておいてくれと言ったけれども、書いてなかったと。それは中西さんが言われるんですから、後でお調べいただければいいんですが、そういうことじゃ実際困るわけなんです。  それからまた、この間、厚生省で、生命倫理に関する懇談会という会が持たれました。これは脳死であるとか、あるいは体外受精とか、今問題になっておりますいろいろな問題を、学者先生に来ていただいて、何回かにわたって懇談会を開かれまして、こういうような簡単なモノグラフが出ました。これがやはり非公開だったわけです。それで、同じような非公開で、後で報告書というのが出たわけですが、医務局長と厚生大臣お話しになるところには医務局長何々、厚生大臣何々、ちゃんと名前があるんです。それからレクチュアラーがおりまして、レクチュアラーが話したところはちゃんと名前が書いてございます。後の討論の段階のところは全部名前が消してあるわけです。何だかちょっと嫌な感じがするわけです。だれが何を言ったろうということを私たちはやはり知りたいわけですし、どうしてこんなに隠さなければならぬだろうかという気持ちがしました。  同じ問題を、実はアメリカの方でレーガンさんのお声がかりで大統領特別委員会というのができまして、生命倫理委員会という大きな会ができました。今度の臨教審のようなものであろう、こう思いますが、これは全くの公開でございまして、だれが入ってもよろしい、それからそこに座っているだれが発言しでもよろしい、私は非常にオープンでいい、こう思ったんです。だから、そういう意味では、今度の教育というような問題はぜひ原則的には公開にすべきではないか、こう思いました。  じゃ、なぜ日本ではそれができないのだろうかというふうに私は考えてみたわけです。これは、さっき言いましたように、信頼関係がない。例えば公開にすると、あるグループの人たちがやってきて、その審議を邪魔するとか、あるいは発言を求めてそれをストップさせるとかいうように、あるグループの人たちのそれが一つの場になってしまうということを一方では御心配になる。一方の方ではほうっとけばこちらの思うように持っていっちゃう。こういうことで、まだ日本には民主主義が根づいていないのじゃないか、根本的に。だからして、アメリカのようにオープンにできないのじゃないか。これが最初の問題じゃないか。臨時教育審議会といいますけれども、その最初のものがないのじゃないか、もっと、なぜオープンでできないのかというようなことが私は非常に残念でしようがない。  森文部大臣は、私も原則的にはそうだと思うけれども、発言の自由が妨げられてはいかぬとか、プライバシーの侵害になってはいかぬとか、いろいろ御心配もあると思います。あるけれども、アメリカの民主主義はアメリカでできたのでしょうが、そこではできてこちらではできないということは、特に教育の問題についてできないというのはどうも残念で仕方がない。できるだけ今後、その精神だけはひとつお忘れなく。元来は公開であるべきであるが、現在、日本にはそういうまだ土壌がない。言うならば、その土壌をつくるべく教育を改革されるように臨時教育審議会の方にそのこともぜひ根本的にお話しを願っておきたいと思います。そうでなければ真の意味教育改革というものはできないのではないか。これが私、第二番目に申し上げたいことでございますが、先ほどから何回も森文部大臣もお答えになりましたので、この辺に関する御感想は、私、時間もありませんので、はしょらせていただきます。  次にお聞きいたしますのは、これは新聞なんかに言われていることですけれども、今度の臨時教育審議会というのは一種の教育改革の臨調だという言葉が時々出てくるわけです。臨調というのは、御存じのように国の財政の立て直しというのがその眼目でありましょうが、それに伴いまして予算の削減とか政府の事務効率化というものが進められておるわけでして、今国会の政府提出の法案のほとんどすべてが何らかの関係でこの行革と関係があるわけでございます。これはしかも非常に強い強制力を持っておって、これの壁を破ることはできないといってもいいぐらいであろうと思います。  そこで、お聞きしたいことでございますが、臨時教育審議会と臨調とどこが一番大きな性格の違いなのか。やはり臨教審で出した答申の案というものは、先ほど藤波官房長官も言われておりましたが、それを最も尊重して、これは全く崩すことのできない、そういうにしきの御旗的なものであるかどうか。その点についてどのような強制力を持っておるのか、国民に対して。それは法律で決まってしまえばやむを得ませんが、その前においてもその答申がどれくらいの力を持っているのか、その点をひとつお伺いしたいと思います。
  257. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 臨時行政調査会は、先生も十分御承知のとおり、変化に対応いたしまして適正かつ合理的な行政の実現を目指すという、こうした観点から行政の各分野について調査審議をいたしておる機関でございまして、それを政府としてはまた遵守すべきことも法律の中に明記されております。内閣といたしましても、最大限にこのことを生かして政府全体でこれに取り組んでいくということであろうかと思います。  先生の御議論ではございませんが、行革をやって、財政再建をやって、次に教育改革をやって、何かみんなぶった切っていくというような一連のそういう印象によくとらえられている議論があるわけでございますが、私はそう思っていない。むしろ、適正かつ合理的な行政にして、端的に言えば肥大化した行政を少しスリムにして、むしろ柔軟な動きがとれるようにする。あるいは今まで行政の部門だけでやっておったことに対しても、民間の活力を注入することによってもっと多様にしていく面もあるでしょうし、何事もすべて中央官庁で仕切っておったこともできるだけ地方に移管をして中央省庁そのものはやはり政策的な行政機関としてむしろ縦横無尽に動いていくということが大事である、こういう考え方も当然、この臨調の中にあると思うんです。  私は、そういう身軽で動きのとれた、多様化した行政の中で、初めて二十一世紀に対応していく日本のいろんな行政についてこれは遺憾なく展開をしていける体制をつくり得ることだ、その第一番にやることが教育改革であろうというふうに考えておりますので、行政改革、それから財政再建、このことをなし遂げた基盤の上に柔軟な教育の諸制度をつくって、そして二十一世紀に備えるということが教育改革であろうというように私は考えておりますので、臨時教育審議会はそこのところでは行革とは全く視点や検討の角度というのが違うものであるというふうに考えております。  もう一つ、私個人的な考え方でありますから、総理とは必ずしも一致しているかどうか。これからまた私は総理に対して御提言申し上げたい、こう考えておりますが、確かに先生おっしゃるように、臨調は大変強い強制力である、このことについては壁も穴をあけることのできないぐらいの強いものであるというような考え方も私はある意味ではあると思うんです。いわゆる行革という立場、臨調という立場でかなり教育の面についても指摘をしているわけです。それだけで私はいいのだろうかという考え方は持つのです。行政の部門あるいは財政の面だけで教育をとらえることが本当に正しいのだろうかというふうに考えますと、私はそういう意味で中教審が文部省固有のものの改革の審議をするということになれば、先生が今おっしゃったように、強い強制力の中の枠の中に入るものだというふうに考えざるを得ないと思うんです。  そういう意味で、今度は臨時教育審議会で教育という観点の中で諸制度を考えていくということは、行革という制度考え方が国民に示されている以上は、今度は教育という基盤の中で私は教育全体に対して政府全体が取り組んでいくということがまさに大事なことであろうというふうに考えるわけでありまして、そういう意味でどちらが上で、どちらがこれに拘束されるという議論は非常に難しいところでございますが、これは私は念を押して申し上げたように、今個人的な見解で申し上げているわけでありますが、行革はあくまでも財政や行政という仕組みの中でその中の一つとして教育も論じておる、しかし臨時教育審議会はさらにそのことを政府全体で教育という見地で考えていくということは私は正しいことではないだろうか。むしろ、そのことは進めておかないと、先生が今おっしゃった強い強制力というものの中に全く埋没してしまうおそれもあるのではないかというふうな意味から考えますと、臨時教育審議会はそういう意味で、内閣全体でこれを総理の諮問機関としてとらまえていくということは極めて大事なとらえ方ではないかというふうな考え方を持っておるんです。
  258. 高木健太郎

    高木健太郎君 森文部大臣お話、確かに私はそうしていただきたい。  臨調の方はお金の問題でございまして、切ったり張ったり案外簡単であると私は思うんです、考えてみれば。しかし、教育というのは人間でございまして、そんな切ったり張ったりというようなことはできない。そして、非常に個性が違う。だからして、非常に個性を有している人間を切ったり張ったりで、これをこっちにくっつけるとかいうようなことをやられたのでは、これはとてもかなわないと思うんです。特に、臨調のような権限があると考えて、そして何か臨教審の答申がこうやりなさいというような一律な案をもしも出されたら、これは私、日本は非常に危険だと思います。それは社会主義国家であればそういうことは結構です。しかし、そうではなくて、もとより自由であるということが教育の基本的な精神でございますからして、いかに臨教審という立派な人たちがお集まりになって審議されたことであっても、それが万能ではないわけですからして、だから、ぜひ一律のことを出さないで、そしてそれは、国は教育の現場の活動をある程度誘導する、あるいはその答申は誘導する、あるいは奨励する、あるいは応援する、こういう意味の、先ほどお話がありました基本方針というのは私ははっきりわかりませんけれども、もっと概念的な、理念的なものを、ちょうど懇談でお出しになったようなああいう理念的なものの方がいいのではないか。これはこうすべきだなんと言ったら、これは本当に硬直化しまして社会主義国家になる、あるいはそうでなかったら独裁的な色彩を帯びてくる、それを午前中の皆さん方は御心配になっているのだろうと思います。だけれども、発言は自由にされまして、いわゆる自由ということと民主ということと両方を並べて余り硬直化した答申をお出しにならないように、これは文部大臣からおっしゃってもこれはしようがないのかもしれません。審議会そのものがお考えになることかもしれませんけれども、答申の取り扱いについてはそれだけの自由度を我々は持っておるという、それをぜひお願いしたいと思います。  財政の方もいろいろの議論が今までございますけれども、教育につきましては、ここ十年ぐらい、あらゆる角度からいろいろな人の意見が出ておりますし、また内閣委員会もそうですけれども、文教委員会の皆さん方は、本当にそれを自分の専門にしていろいろな本を読み、現場へ行って調べ、いろいろなことをやっておられるわけですから、その人たちの意見というものを、例えば私が今しゃべっていること、午前中にお話のあったこと、そういう公開制のこと、そういうことも全部一応臨教審にそれをお示しいただきまして、こういう議論があったのだということはぜひひとつ臨教審方々にお示しを願って、画一的な案が出ないように、硬直した案が出ないようにひとつお願いをしておきたい、こう思います。  それから五番目になりますけれども、学校教育というものが今非常に大きく取り上げられておりますが、私は、教育は何も学校教育だけではないと思います。すべてが我々に対しては教育者である。自然も、すべての人間も、あるいは我々を取り巻く社会も、すべてが一種の教育者であります。それに影響を受けて我々は成長してきているわけでございます。何だか、臨時教育審議会といいますと、あたかも学制改革というので学校制度をいじくるという、そういう考えが強いように思うんです。最近は、教育を考えますと、個人がその能力あるいは人間形成ということがありまして、それは年齢に応じてだんだんいろいろな教育がそのころ施されなければいけません。いわゆる教育人間形成に沿った一つ教育でなければいけませんが、一方においては今度は社会的の要請というものもあって、その年その年でいろいろの教育が行われなければいけないし、適当に行っていると思うんです。  そこで、私は、文部省学校教育とその他の教育との統合ということについてはどういうふうなお考えを持っておられるのか。例えば、生涯教育というようなものがありまして、六十を定年としますと、今八十まで生きますから二十年間があるわけです。また、会社へ勤めておりましても、土、日が休みであるということになりますとレジャーも非常に多いということです。その間に我々は何か学びたいという人間気持ちがあると、それに対しては学校に行かなくてもどこかで勉強ができるというようなことも考えなきゃいけない。現在は、学校を卒業したということで、その人は何か資格を取るというようなその意識が非常に強いわけです。そうではなくて、もっとフリーに、あの単位を取ればそれで自分はいい、この講義を聞けばこれでよろしい、これも自分は聞きたい、もっとフリーな生涯的な教育というものをお考えいただいたらどうか。余り学校ということを考えると非常に硬直化してしまうのではないかというふうに考えているわけですが、生涯教育とそれから学校教育との関係をどのように今後おやりになるつもりか、あるいは何かお考えがあればそのことをお聞きしたいと思います。
  259. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) この臨時教育審議会を国会で御論議をいただいておりますその過程の中で、もちろん基本的な諮問案につきましてはこれから総理にお考えをいただくということは、基本的にそうしたスタンスをとりますが、文部大臣としてどう考えるかということについての御指摘がよくございまして、私はその中で視点を三つばかり申し上げております。時間がかかりますから省きますが、その中の一つとして、私は人間が生涯いかなるところでも学べるように、生涯教育としてのそうした諸制度を充実させるということも大事な視点である、このように申し上げてきたわけでございます。  そういう中で、私どもこれから諸制度を、単に学制の制度だけではないという先生から御指摘がございましたが、やはりできるだけ柔軟な多様なこれから諸制度というものを考えていかなきゃならぬでしょう。社会人が、高等教育の見地だけから申し上げましても、学びたいときに高等教育に入る、学んでいく、また自由にそのことの単位をいろんな形で互換していく。あるいはこれは総理が予算委員会でも答弁しておりましたけれども、専修学校、そういう専門的なところで学んだ点も、いろんな意味で、またこれを単位としていろいろ使用ができるということの柔軟性も必要でしょう。総理は複線あるいは複々線というようなことも申し上げておったようでございますが、いろんなことで考えていくということが大事だというふうに考えております。  文部省といたしましても、先生も御専門ですからよく御存じだと思いますが、いわゆる職業を持っておられます一般社会人に対しましての高等教育を受ける機会を拡充するということでいろんな制度を考えている。今スタートを目前といたしております放送大学なども、やはりこれはどちらかといえば、私は職業を持って、そしていろんな立場で上の学校に進めなかった人たちにとって、テレビを利用し、あるいは放送を利用して学んでいくことができる。広く教育の機会均等、特に高等教育の面で均等であるということの一つ制度として考えられていくものでもございましょうし、国立大学におきますいわゆる昼夜開講制の制度、あるいはまた推薦入学、あるいは論文や面接等を重視して、いろんな形で社会から大学で学べるような機会をつくる。こういうことについての指導も今日までいたしてきたところでございますが、先生がおっしゃいましたように、社会全体がまだアメリカのような民主主義というか、アメリカの民主主義がすべていいとは限りませんが、やはり先進国という立場、もちろん日本も今では先進国なのかもしれませんが、文化というものを備えたという意味から見れば、まだまだ西洋あるいはアメリカから見れば数百年のおくれをとっておることは事実でございますから、そういう中で学歴社会ということにも、実際に学問を学んでいくということ、そのことを社会でどのように生かしていくのか。また、個人の能力をそこから引き出していくということの見地から教育というものの制度を考えてみる必要が私はそろそろきておる。  そういうことで、この臨時教育審議会で単に諸制度をいじくるということだけではなくて、教育を受ける立場で、社会においてどういうふうに教育を受けることが本人たちにとってプラスになり、また国家にとっても有益になるのかという議論もしていく必要があるのではないか。こういうふうに考えますので、先生からいろいろ御指摘ありました点はまさしく私は大事な点でございまして、国会の論議ということを私は絶えず申し上げておりますのも、こうして国民を代表する先生方、そしてまたその中で教育に対して極めて関心の深い先生方がこうした御論議をしていただくということは、これは臨時教育審議会の諸先生方がこれから審議を進めていかれる過程の中において、大変大事な参考の御意見として私はいろんな角度で御検討を願えるのではないか。また、臨時教育審議会を担当する文部大臣という立場からも、こうした国会の論議を十分に臨時教育審議会の先生方に参考としていただきたいということは申し上げていきたい、こういうふうに考えているところでございます。
  260. 高木健太郎

    高木健太郎君 大変いいことを言っていただきまして私も安心いたしましたが、よく昔から学歴社会をやめようと思えば東大をつぶしたらいいという話も出るわけです。東大をつぶせばまた第二の東大ができるだろうと思います。そういう意味では、向坊さんとか東大の総長なんかもよく言っておられたように、卒業証書というのを出さないようにしたらどうだ、いわゆる大学の卒業証書というのはおかしいじゃないか、各講座の担当の教授あるいは先生方が自分で、おまえはこの科目は立派にやった男である、こういうやつで、どこの大学へ行っても、自分はこちらで工学部の機械を出た、こちらで電気を出たというふうに取っていって、自分はこういう立派な先生からこういう機械学を学んだのだ、あるいは江崎玲於奈のところで自分はエレクトロニクスを学んだのだ、そのサーチィフィケーションの方が私は値打ちがあるのじゃないか、何で学歴というようなものがいいのか、本当の実力じゃないじゃないかという気もするわけです。だから、できればそういう自由にはいれると。単位互換制なんて言いながら全然行われない。だから、今度答申が出ましても、実際にやってみるとあっちこっちつかえちゃってなかなかうまくいかないのじゃないか。公開制ということは原則としていいとわかっていてもなかなかそれが行われない。何かどこかでぎくしゃくしているからうまくいかないのじゃないかなという気がするわけです。しかし、できれば私はそういうふうにしていただきたい。  例えば、落ちこぼれをつくらない。先ほどもいろいろお話がございました、学力の分配曲線とかいろいろなものでとっていっても、あらゆることをいろいろ考えたけれども、なかなかうまくいかない。全部の人間能力を、もしも正確にその人間というもののあらゆる能力を調べて、これが一番だ、二番だ、三番だと言ったら、おしりの方になったやつは人間として生きられないのじゃないかと思うんです。まあまあ学力で私はけつの方だけれども体力で来い、おれはここでいけるのだという、どこか抜け穴があるから我々は安心して生きておられるので、そっくりそのまま神様のような人が、おまえは一番、二番と言ったらだめで、これこそ本当の落ちこぼれになっちゃうだろう。そうじゃなくて、その落ちこぼれというのはどんなにしても、いろんなことをやっても出てくるのじゃないか。そういう意味で、特に年齢的に非常に発達の遅い子供もいるわけなんです。そういういわゆる晩成の子供もいるわけですが、そういう子供は例えば三十になってから東大のどこかの講座へ行く、大阪のどこか講座へ行って目分の勉強したいものを勉強できる、それが一種のサーチィフィケーション、証明になるというようにすれば、少し発達の遅い子供もそれで浮かび上がってくるのじゃないかという気がするわけです。  こういうふうに、森文部大臣も大体私と同じようにお考えいただいておりますようですし、また大臣としては、いつ、どこでも勉強できる、本人の希望によってできるというようなことを、そういう施設なりあるいは人員なりを配備したいというようなお気持ちだと思いますが、そうでございますですね。——議事録に載らなかったからいいですけれども。  最後に、お医者さんがたくさんふえてきた、毎年八千人ぐらいですか、現在十七万人ぐらいいるというようなことでございますが、それだからして、一方では厚生省の方にこういう医師急増対策委員会とかという委員会をおつくりになって検討しておられるということです。何で厚生省でやるのかよくわからないんです。学校をつくったのは文部省じゃないか。それで、厚生省の方から少し医師が多いから、おい学生少し減せよと言ったら今度は減らされる。どういうふうに教育というのは大体考えておるのか。医師をつくるための大学であると私は思わないんです。教育というものは、元来そういうものじゃないわけです。その能力を世間が買うということであり、厚生省がそれを認めようということだけであって、教育というのは、そういうこちらから言われたからこうしますというものじゃ私はないと思う。本人がこうしたいと言うから教育は受けられるものである。何年だか前に、十万人当たりお医者さんを百五十人にする、文部省は各県一つずつ大学をふやせというようなことでわあっとふやした。そしたら、このごろになって多いからちょっとまた減せ。それで、また文部省の方へ言ってこられる。すると、文部省はそれに応ぜられますか。どこからどういうふうに削ろうとお思いになっているんですか。文部省の方針としてはどういうふうにお考えになっているんですか。あるいは厚生省が言ってくればそのとおりお聞きになるんですか。大学設置審議会で決めたことはどうなるんですか、これ一体。その点、お聞きしておきたいです。
  261. 宮地貫一

    政府委員(宮地貫一君) 文教委員会でも先生から医師養成問題についてお尋ねがあったわけでございますが、現在、医学部の新設等に伴いまして、当面の目標数としてきておりました人口十万人当たり医師百五十人という数、それについては目標年度でございます昭和六十年度を待たずに達成できるということになっておるわけでございます。しかしながら、全体的に人口の高齢化、あるいは医療需要の多様化、複雑化、そのほか医学、医療の高度化というようなこともございまして、さらに地域的な、あるいは領域的にはなお医師の確保が困難というようなことも言われておるわけでございます。私ども、医師の養成計画そのものについては、地域医療の動向とか、あるいは社会情勢の変化、そういうようなことを総合的に検討いたしまして、将来を見通した適正な医師数の水準ということを検討することがまず先決であろうかと思っております。  そこで、厚生得では将来の医師需給に関する検討委員会をこの五月に設置して検討を進めておるところでございまして、基本的には医師の養成については厚生省のそういうどれだけの医師を要するかという基本的な検討を経た後において、それに対して私どもとしても対応したいというのが基本的な考え方でございます。  ただ、先生から御指摘いただいておりますように、医学についての大学教育という基本的な考え方は、単に医師の需給についてどうするということだけが先決する話ではないではないかという基本的な御指摘をいただいているわけでございます。まさに、そのとおりかと思います。そういう大学教育そのものの本来の目的といいますか、そういうものをもちろん十分踏まえました上で私ども大学教育というものについて考えていかなければならないのは先生御指摘のとおりかと思います。  ただ、一つには、我が国の医療制度全体からくるいろいろな要請、それから医学部の卒業生については、医師以外のいろいろな道ということももちろん考えられなければならない点かと思いますけれども、医師の養成については、これは国立であれ私立であれ相当多額の経費を要するということ、これは先生御指摘のとおりでございます。それらの点について、私どもとしても適正な医師の養成のための数ということはー応踏まえまして、それで大学教育全体ということを考えなければなりませんが、片や先生の御指摘のような、基本的な大学教育ということを踏まえた上で対応すべしということについても、私どもとしてもこれからの大学行政を進めていく上に非常に大切な、基本的な御指摘かと思います。  それらの点について、十分そういう基本的な点も踏まえながら対応してまいりたい、かように考えております。
  262. 高木健太郎

    高木健太郎君 理学部あるいは人文学部なんというのは、どこへ就職するという当てもないわけなんです、元来。ただ学問をしている、人間を磨いているということなんです。医学ということだけがそういうものであって、社会要請だけでそれが縛られてくるというのは、私、文部省としては余りにも自律性というか自主性がなさ過ぎるのじゃないか。文部省は、医学というものの進歩はぜひ必要であるから、だからこれだけの人間を出してもよいというような形でないと、社会的要請だけに流されてしまうのは余りにどうも文部省としては情けないという気が私はするわけです。  厚生省の方は、それは福祉、厚生というようなことがございまして、それでこれだけのお医者さんをつくってくれとか、ちょっと多いからちょっとやめてくれとかいろいろおっしゃるかもしれませんけれども、文部省としては文部省としての自主的な意見をきちっと持っておかれることが私は大事である。それならば、理学部や人文学部は余り要らないことになっちゃうんです。理学部なんか多過ぎて困っちゃっているんだから、あそこは理学部はうんと減らせなんて言ったら、やっぱり困られるのじゃないでしょうか。だから、そういう意味で、私は文部省として医学教育はいかにあるべきかということをきちっとした政策を立てられるように、ぜひ、この際、決意を持っておかれることが私は大事であると思います。  もしも多いという場合に、これから三百人ぐらいになるそうです。今都市では二百人を超しているところはたくさんございます。というくせに、僻地ではほとんど足りないということで困っていることもわかるんですけれども、だからといって私立大学は減らせとは言えないから、国立は自分の配下と言ってはおかしいけれども、自分の方で金を出しているのだから少し学生を減らせとか、そういうことは私は非常に不経済じゃないか。学生を減らせば今度は人間も削らなければいかぬでしょうし、研究費も減らさなければいかぬ。そんなことじゃ私は困るのじゃないかと思う。せっかくここまでなってきたら、何かそれの使い道をお考えになったらどうか。その点は何かお考えになっておりますか、文部省として。今のままの状態でそれを利用する、それについての文部省は何か方法をお持ちかどうかということです。
  263. 宮地貫一

    政府委員(宮地貫一君) そういう基本的な医師養成数の検討は厚生省の今後の検討にまたねばなりませんし、基本的にさらに大学教育そのものについてのあり方は先生御指摘のとおりかと思います。  現時点での私ども具体的な国立大学の定員の問題について、それそれこれは個別の大学で御検討いただく問題でございますが、一つには新設の医科大学をつくりました際に、第一期の大学については入学定員百二十名ということで対応してきたわけでございます。しかしながら、教育研究条件からすれば百二十名ということでは、臨床教育その他の面から見ても、教育内容としても、臨床実習その他の面でも医学教育そのものとしても十分でないというようなこと、これはむしろ大学自体検討でそういう点が行われておりまして、具体的に六十年度の概算要求に向けて個々の大学でそれぞれ対応しながら入学定員百二十名については百名ということで対応することが医学教育の充実のために必要ではないかという検討は具体的にはされているわけでございます。  それからもう一点は、一つは、そういうことで単に入学定員を減らすというだけの考え方ではなしに、持っておる人員なり組織なり、そういうものを有効に生かす道をむしろ積極的に考えるべきではないかという御指摘と伺うわけでございまして、私ども、もちろんこれからさらに国際化の時代に向かって進むわけでございますし、特に大学教育については、国際交流の問題とか、そういうことももちろん考えなければならない課題の一つであるというぐあいに考えております。現在、具体的なところまでまだ私ども検討を進めているわけではございませんが、そういう広い観点から、先生御指摘のような、持っておる現在の大学の教官組織なり、あるいは施設その他の点を有効に活用するという考え方も念頭に置いて、どういうことが可能か、それらの点も十分積極的な気持ちで私どもも検討させていただきたい、かように考えております。
  264. 高木健太郎

    高木健太郎君 最後に、それでは今のようにひとつ積極的にお考え願いたいと思います。百二十人では多過ぎたのだけれども卒業生は出してしまった、二十人は余り質のよくないやつを出したというようなことになるから、そういう発言は僕はよくないと思うんです。百二十人、それは立派な医者をつくりましたと言っておかぬと、それはちょっとぐあいが悪いのじゃないかと思うんです。だから、少なくとも百二十人はとにかく収容でき、今までもそこで十分な教育をすることができた、今後は百人であればもっといいと言うとぐあいが悪いから、それだけの余裕のあるものはやっぱりそれなりに使っていこうというような積極的な姿勢が私は大事だと思う。  今、国際化ということがございましたけれども、先刻も、この前の文教でもお聞きしましたけれども、アジアの人が皆アメリカヘ行っちゃうんです。その人間があそこで十年なり何年なり勉強しまして、それでアメリカにとどまる人もいるでしょうし、また自分の母国に帰る人もいるわけです。そうすると、英語をしゃべって、向こうの文化に浸って、向こうの民族を知っているその人たちが国に帰ってきますから、そうするとアメリカという国に対して非常に信頼感と親密感を持つわけです。いろんな施設を途上国につくるということはこれはいいことかもしれませんが、それについてもいろいろお話がございまして、日本のものをそっくり向こうへ持っていくと、向こうは全然それが使えないわけなんです。機械なんかちょっと壊れると全然だめなんです。それよりか一番大事なことは、向こうに人間をつくって送り込むということが私、一番大事だと思うんです。国際化の最初にやるべきことじゃないか。我々日本もこれだけ立派になりましたのは、ヨーロッパに行ったりアメリカに洋行したりした人が最初の東京大学なら東京大学の先生になりまして、その人たちが日本の文化というものを盛んにしていったわけです。  だから、そういう意味では、アメリカヘどんどん逃げていくアジアの頭脳、優秀な人がおるわけです。中国なんか非常に立派な人がおるわけです。ノーベル賞を何人ももらっている。東南アジアにも私はいると思うし、インドにもノーベル賞をもらった人はたくさんおります。そういう優秀な頭が全部アメリカヘ行っちゃっている。日本には余りいいのが来ない。また、数も少ない。これじゃ、将来、東洋で日本が親しまれ、そして国際交流を盛んにするということはできない。ここで、そういう余ったならば、その人間を何か使えませんか。アジアの人を呼んできて、教育をして帰すということはできませんでしょうか。これは夢みたいな話かもしれませんけれども、私は人間を育て、人間を親密にするということは国際交流の一番大事なことである。お金を幾らやったってだめなんです、そんなことは。だめだということはないけれども、お金もやりようによりけりだ。それよりも人間を親しくしておくということが、将来、日本の発展のためにも、また途上国の発展のためにもいいことじゃないか、こう思いますが、文部大臣、もし何かお考えがございましたら、私はこういう案を持っているので、むやみにすぐ大学を縮小して、十人、二十人一つの大学から削れなんて、今のようなことは余りおっしゃらないようにお願いしたい、こう思います。
  265. 森喜朗

    国務大臣森喜朗君) 先ほども御答弁の際に申し上げましたように、これまでの日本の教育は、まず近代日本を完成させるために、諸外国に追いつけ、追い越せというのが明治以来今日までの日本の教育であった。これからは国際化ということを十分考えていく。そのような点としては、いわゆる海外で働いておられる方の子弟の問題もあるでしょうし、留学生を迎え入れることもあるでしょうが、やはり基本的には、今、先生がおっしゃったように、日本の教育は今度は国際社会のためにどうあるべきだろうか、世界の人々に対して日本は教育でどういう役割を果たしていくのかということが、国際社会におけるいわゆる平和憲法を大事にしていく日本として、国際社会の中に果たし得る最も大事なこれは安全保障の一つでもあろうというふうに私は考えるのでございます。そういう意味で、先生の御指摘をいただきましたことなどについても、日本の将来の高等教育、あるいは高等教育のみならず教育全体に対して、国際社会でどのような教育を展開するかということも、やはり臨時教育審議会の一つの重要な課題として御議論をいただけるのではないかというふうに私は期待をいたしたいと思うわけでございます。  医師急増対策についての先生の御意見は私も賛成でございまして、端的に言えば、医師会などでどうもお医者さんの数がふえた、競争が何か別の意味で激しくなったというような観点から、いわゆる私どもの文部省の医学教育の養成のことにまでそのことを配慮するというのは、全く私はこれは見当違いだというふうに考えております。当然、自治体病院の面、あるいは地域的、領域的の確保の面もございます。私は、ある意味でも、お医者さんが、どんどん医師養成がふえて、その中でむしろ本当にまじめに努力する人でなければお医者さんになっていけないのだということの方がより大事だと思うし、これは世相的なこともあるのだろうと思いますが、何か医学の道をきわめるとすぐお父さんの後を継いで病院経営をすることがごく当たり前の道行きみたいに考えておられることが、すべてではございませんけれども、どうも最近の傾向としてはあるのじゃないかという感じがして大変心配をいたしております。  もっともっと医学教育に対して、また特に国立大学などでは税金によって医学の道をきわめることができた、これは国家国民にとってどう奉仕をしていくのだろうという考え方があっても私はいいのではないか。制度的には、大学を出た人がしばらくは僻地に行きなさい、あるいはしばらくは離島に行きなさいなんというようなことは、これは日本の今日の制度から義務的に課すことはできないかもしれませんが、むしろ使命感としてそのようなことを考えていくことがあってもいいと思うし、先生は、東南アジアやそうしたところの英知を日本の医学教育で勉強させることも大事だが、日本のそうした医学生が諸外国に出ていって、逆に言えばいろんな意味で人道的な立場からも、また学術を世界の中で大きく広めていくという見地からも諸外国に出ていくということがあってもいいし、これを制度として義務化はできないかもしれませんが、自然な創意の中でそうした工夫がこれから取り入れられていくということも大事な一つの視点ではないかというふうにも考えるわけでございまして、先生から今御指摘をいただきましたことなどは、文部省としてもとても大事なこれからの問題点であるというふうに私は受けとめさせていただきまして、また事務当局もそのように考えて今後とも指導していきたい、このように考えております。  大変いろんな御意見をちょうだいして、私どもとしてはありがたいことだと考えております。
  266. 高木健太郎

    高木健太郎君 最後にちょっと。  医療、医学の問題、大変難しい問題でして、いろいろ事情が絡み合っておりますので一度にこうだというようなことはできませんので、慎重によく厚生省ともお話し合いになる、それから医師会とも話し合うとか、あるいは医学者とも話し合う、大学側とも話し合うというような慎重な態度で、五、六年か七、八年前につくったらもう多過ぎちゃうから今度は切っていこうなんて、そういう過ちを犯さないように慎重にひとつお考えをお願いしたい、こう思います。  終わります。
  267. 高平公友

    委員長高平公友君) 両案についての質疑は、本日はこの程度にとどめます。  およそ三十分間休憩いたします。    午後六時十二分休憩      —————・—————    午後七時二分開会
  268. 高平公友

    委員長高平公友君) ただいまから内閣委員会を再開いたします。  まず、委員異動について御報告いたします。  本日、高木健太郎君が委員辞任され、その補欠として伏見康治君が選任されました。     —————————————
  269. 高平公友

    委員長高平公友君) 次に、連合審査会に関する件についてお諮りいたします。  臨時教育審議会設置法案について文教委員会からの、また、臨時教育審議会設置法案及び国民教育審議会設置法案の両案について社会労働委員会からの連合審査会開会の申し入れを受諾すること、及び今後他の関係委員会から連合審査会開会の申し入れがありました場合は、これを受諾することに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  270. 高平公友

    委員長高平公友君) 御異議なしと認め、さよう決定いたします。  なお、連合審査会開会の日時につきましては、これを委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  271. 高平公友

    委員長高平公友君) 御異議ないと認め、さよう取り計らいます。  本日はこれにて散会いたします。    午後七時四分散会      —————・—————