○三輪
参考人 千葉大学教育学部の三輪でございます。
教育行財政学、
教育法学を専攻しております。
私は、本
法案に
反対の
立場から若干の所見をあらかじめ述べさせていただきます。
私の専門は
教育財政、したがいまして
奨学金問題は当然研究上の重要なテーマでございますが、また、
大学の教師として日常
学生たちに接しております。また、
学生部長として全学的にこの問題を扱った経験もございます。さらには、私
自身が
高校から
大学院までの十二年間、
奨学金のお世話になっております。
さて、この
法案でございますが、結論的に申しますと、
奨学金制度というのは
教育制度の根幹でございます。したがいまして、
教育改革の最大の課題として今後十分慎重に検討されるべきでございます。特に、今日、
教育論議が
国民の中でも高まっている折でありますので、多面的に長期の
観点から慎重に検討されるべきだと思いますので、今国会で拙速に審議、採決を行うことはぜひ避けていただきたい、このことをくれぐれもお願いしておきたいと思うわけであります。
まず、
法案の主な
問題点の第一は、この
法律の名称や第一条の目的規定に代表され、また本法全体を貫く英才主義という
立場の問題でございます。特に、これと憲法、
教育基本法の精神との関係であります。
まず、
法律の名称には「育英」という言葉がありますし、一条に定める目的は「優れた
学生及び生徒」を対象に「
国家及び
社会に有為な人材の育成に資する」ということが主とされているわけであります。この「育英」という言葉は、例えば広辞苑に「英才を
教育すること。」と解説されてもおりますように、
一般にエリートを選別して育成することを
意味いたします。したがって、憲法十四条に定める法のもとの平等とか、二十六条の定める、すべて
国民はひとしく
教育を受ける
権利の精神とも、また
教育基本法が定める第三条の「
教育の
機会均等」とか、すべての
子供の「人格の完成」、「心身ともに健康な
国民の育成」という第一条に掲げる「
教育の目的」の規定など、平等かつ人権保障的な
教育理念とはこの
考え方は明らかに離反するものと言わざるを得ません。
もっとも、現行法には「育英上必要ナル業務ヲ行ヒ以テ
国家有用ノ人材ヲ育成スル」という露骨な英才主義の表現があります。また、片仮名の文語調であります。これをこのように平仮名の口語調に改めた点などは評価されると思いますけれども、なお大いに改める余地がございます。
そもそもこの
法律は、当初の大
日本育英会法、五十三年までの名称でございますが、この名称とかあるいは戦時下の一九四四年に制定されたいきさつに見られますように、当時の戦勝、戦争に勝つという
国家目的遂行に必要なエリート育成を目指し、軍国主義、
国家主義、能力主義を原理として制定されたものでございますので、戦後の憲法、
教育基本法制下の平和主義、民主主義、平等主義の
教育理念とは異質のものを含んでいることは否めないわけであります。
戦後初期の四十六年十一月には、
教育刷新
委員会が
教育基本
法案要綱案を作成いたしました。そのときには「育英の
方法」という表現があったのですが、これが新しい
教育理念のもとではなじまないということで「奨学の
方法」という言葉に改められた立法の経過もございますので、「育英」という表現は今日の
法律用語としてふさわしくない、このように思います。同様に、一条の「優れた
学生」云々とか、「
国家及び
社会に有為な人材の育成」という用語も、平等に
国民の
教育を保障するという
立場から、不適切と言わざるを得ないかと思います。
今日の
大学生約二百万人、
進学率三六%の
国民を対象とする大衆的な
奨学事業の原理は、
教育の
機会均等の実現を重視して、学力基準による選抜ではなくて、低
所得家庭への援助、経済的
負担の軽減を重点にした
制度へと、原理を転換させる必要があるかと思います。特に
高等学校の
奨学金は、義務
教育における
教育扶助やあるいは就学援助の一環に組み込むのがふさわしいように思います。
なお、学術の発展を目的とした
奨学金は、
大学院生を対象に別途その整備を図るべきだというふうに考えます。
この英才主義を克服いたしませんと、「経済的理由により修学に困難があるもの」が実は優秀という基準で極端に制限、厳選されて、「
教育の
機会均等に寄与する」といいましても、事実上これは空文に等しくなるわけでございます。
現行育英奨学
制度下で、学資
貸与者が
高校二%台、
大学が一一%台と極端に少ないのもその結果であろうと思います。対象は、少なくとも
学生で
奨学金を希望する者の割合は、この十年来五〇%前後でありますが、その
程度まで枠を広げるべきでありますし、それには英才主義という考えが大きな桎梏になっているように思います。
第二の問題は、
法案の第二十一条以下に定めてある
育英会の業務についてでございます。つまり、学資の給与という重要な業務がなくて、現行
制度にもない
利子つきの学
資金、第二種学
資金が
導入されたということで、本法の最大の
問題点かと思います。
この点につきましては、
育英奨学事業に関する
調査研究会報告も、「先進諸
外国の公的
育英奨学事業が給与制を基本としていること」と認識しておられます。
国際人権規約十三条の定める
無償制と並んで、
奨学金の
貸与制から給与制へと転換を図ることが国際的な動向でもありますし、同時に
歴史の発展に沿うものでありまして、行政
改革、
教育改革の名に値するものだと思います。
続いて、なお、今回の
奨学金の
制度改正の背景に、臨時行政
調査会の
答申、その背景にある
考え方が伏在していることは御存じのとおりでございます。この点につきまして
臨調専門
委員の公文俊平東大教授が一
臨調の
文教政策をめぐって——私の主張したかったこと」という論文で次のように述べておられることも大変残念だと思います。
奨学金は「当然
利子付き、しかも通常の
利子率のものでなければならない。そうでなしに、特別低利で貸すとすれば、どんなことが起るか。誰もが
奨学金を貰い、定額貯金や定期貯金にしておくことになりはしないか。それで確実に利鞘が稼げるからである。」こういう思想が根底に
流れていたということは、大変残念なことでございます。
さて、第二十二条二、三項によりますと、無
利子の学
資金、つまり第一種の学
資金は、特に優れた
学生等で著しく修学に困難な者に
貸与するとされ、例外的
奨学金の性格が強く、
利子つき学
資金が
一般的
奨学金という規定になっております。そうなりますと、その
拡大とともに、かなりの低
所得者まで
利子つき
奨学金を借りることになるわけです。そういたしますれば、当然、その借入が心理的、経済的な
負担となることは言うまでもなく、卒業後は低
所得者は多額の借金返済を余儀なくされ、無借入の余裕ある階層の者との間に新しい格差や差別が生ずることになります。
例えば、政府案どおりに
国立大学、自宅外通学の
学生が月額二万八千円を借りるとしますと、その卒業後十四年間にわたって毎年十万円から十四万円、
私立大学の理科系
学生ならば、四万七千円借りますれば、二十年間に毎年十一万から十八万円の返済が必要になるとされております。
大学卒の初任給平均十三万円
程度にとりまして、当然これが過重な額であることは自明であります。家計の補助はおろか、結婚
資金の貯蓄さえ大きく阻まれることになるのではないでしょうか。卒業後も、低
所得家庭に出生じたことによるハンディがつきまとうということになります。
このほかの
問題点といたしまして、二十二条の四項によりまして学
資金の月額は政令に委任されることになっております。これも
法律事項として、例えば
学生生活費の二分の一以上とかというように明記する必要があるのではないでしょうか。また、月額が、自宅、自宅外とか設置者別のランクはございますけれども、家庭の経済能力別あるいは地域別等のランクがないわけであります。中にはほとんど仕送りの期待できない
学生もいるわけで、そういう者には全額を支給するというような、
実態に即した
制度をきめ細かく考えていかなくてはならないと思います。現状では、奨
学生でさえ、
奨学金は収入全体の三〇%にすぎません。諸
外国では
所得別ランクの設定が普通でございます。
また、二十四条の規定によりまして、第一種学
資金の
貸与者のみが
教育職あるいは研究職についたときに
返還免除されるというように、この
制度が制限されていることも問題でございます。
なお、
奨学事業といいますのは、単に経費を支出するだけではなく、その執行に当たる職員の方々の意欲や協力が大変大事であります。今回、この問題では当の
育英会の職員がこぞって
反対をしておられるという点も、この
制度改革に大きな無理があることのあらわれではないかというふうに思っております。
一般に、奨
学生はよく勉強し、卒業後も
社会的使命を持って働く者が多いと言われております。それは、そういう能力の
学生を選んだという一面も確かにあるでしょうけれども、事実上借金なのですが、形の上では
奨学金をもらうということがそうした自覚を促していると考えられるわけでございます。したがいまして、文字どおり
奨学金をもらう、つまり給与
奨学金にいたしますならば、その
教育的な作用は一層大きくなることが期待されます。つまり、公費の
負担という形で自分
たちの学習を支えてくれる無数の働く
国民の利益に、
学生達が学習や学歴の成果を還元するという気持ちが強められるわけですし、それが本当に正しく学び、働く基本的な動機づけであろうと思います。学んだ成果を
社会に生かしてもらうということであって、
奨学金の返済という現金の返済を要求することではないだろうと思います。給与の
奨学金にそのような
教育的な意義があるとすれば、それは単なる一部の優秀なる
学生だけではなくて、すべての
学生に広く開放することが
社会的な配慮だろうと思います。
このように
奨学金制度を発展的に考えることは、
子供や青年というものを、親の経済力に左右される単なる親の附属物ではなくて、すべての者を平等に、いわば
社会の宝として処遇をし、その発達にだれもが責任を負うということでございますし、したがいまして、私
たちの
子供観あるいは
教育責任観そのものの変革や
拡大を必要とする問題でもあろうと思います。そして、このような大人の若い世代に対する配慮や愛情を
教育制度として表現することによって、逆に若い世代の主観者としての自覚や
社会への貢献心がおのずとはぐくまれ、また、そうした能力が
社会の利益に役立つ
方向で最大限に引き出されるように思います。
これに対して、
有利子奨学金の発想というのは、学習や学歴を私的な利益追求あるいは金もうけや立身出世の手段にする、それを前提として
返還金を求めるという発想に立つわけですから、
人間形成上もさまざまな影響を及ぼす
制度措置だというふうに思います。こうした
制度が広がるならば、恐らく
国民大衆の願いの理解できない冷たいエリートや利己主義が多数育つことになり、せっかくの公的な
資金がかえって
教育と
社会の混迷に拍車をかけることになりかねないと思います。現在、発達した
資本主義国では、校内暴力特に対教師暴力に象徴される
教育の荒廃や混迷が
指摘されております。その背景には、いわゆる
教育の自由化とか商品化の進展がございます。政府が公然と
教育を商品化する、あるいはローン化するというこの
有利子奨学金の
導入が、単に
大学教育だけではなくて、
公教育全体に悪影響を及ぼすおそれもあるわけでございます。
なお、財政上の問題でございますが、敗戦直後のような
財政事情のもとならともかく、今日では、財政的な困難にもかかわらず、給与
奨学金を漸進的に
導入、
拡大することは十分可能だろうと思います。また、
教育費を聖域として守るという姿勢の中でこそ真に財政再建も可能であろうというふうに思います、
以上のような諸点から、今国会で
法案を無理に審議、採決することについては
反対でございますので、御三者いただきたいと思います。