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1984-06-28 第101回国会 衆議院 内閣委員会 第17号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十九年六月二十八日(木曜日)     午前十時三十二分開議 出席委員   委員長 片岡 清一君    理事 池田 行彦君 理事 戸塚 進也君    理事 深谷 隆司君 理事 小川 仁一君    理事 松浦 利尚君 理事 市川 雄一君    理事 和田 一仁君       石原健太郎君    内海 英男君       大島 理森君    奥田 幹生君       鍵田忠三郎君    菊池福治郎君       塩川正十郎君    月原 茂晧君       二階 俊博君    林  大幹君       松田 九郎君    山本 幸雄君       上原 康助君    角屋堅次郎君       佐藤 徳雄君    嶋崎  譲君       中西 績介君    渡部 行雄君       鈴切 康雄君    田中 慶秋君       柴田 睦夫君    三浦  久君  出席国務大臣         文 部 大 臣 森  喜朗君         国 務 大 臣 藤波 孝生君         (内閣官房長官)  出席政府委員         内閣法制局第二         部長      関   守君         人事院務総務局         任用局長    鹿兒島重治君         文部大臣官房長 西崎 清久君         文部大臣官房審         議官      齊藤 尚夫君         兼内閣審議官         文部大臣官房会         計課長     國分 正明君         文部省初等中等         教育局長    高石 邦男君         文部省大学局長 宮地 貫一君         文部省管理局長 阿部 充夫君  委員外出席者         防衛庁防衛局運         用第一課長   江間 清二君         厚生省援護局業         務第一課長   森山喜久雄君         労務省職業安定         局業務指導課長 鹿野  茂君         内閣委員会調査         室長      石川 健一君     ――――――――――――― 委員の異動 六月二十八日  辞任         補欠選任   奥田 幹生君     松田 九郎君   嶋崎  譲君     中西 績介君   元信  堯君     佐藤 徳雄君 同日  辞任         補欠選任   松田 九郎君     奥田 幹生君   佐藤 徳雄君     元信  堯君   中西 績介君     嶋崎  譲君     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  臨時教育審議会設置法案内閣提出第四七号)      ――――◇―――――
  2. 片岡清一

    片岡委員長 これより会議を開きます。  内閣提出臨時教育審議会設置法案を議題といたします。  この際、去る二十六日の松浦利尚君の質疑関連して、高石初等中等教育局長から発言を求められておりますので、これを許します。
  3. 高石邦男

    高石政府委員 先回、教科書検定についての御意見がございまして、補足して御説明を申し上げます。  教科書検定審査の過程については、これを公にすることは従来から行っていないところでございます。この点につきましては、今回も同様の取り扱いをさせていただきたいと思います。  しかしながら、御指摘教科書検定においては、自衛隊はその予算の面でも装備の面でもアジアで最も有力な軍事力一つである旨の表現について、種々の要素を勘案して判断されなければならない、単純な予算上等の比較のみで判断することはできないのではないかという趣旨意見を付したところでございます。
  4. 片岡清一

    片岡委員長 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。松浦利尚君。
  5. 松浦利尚

    松浦委員 教科書は、何といっても実際の授業において中心となるものであります。したがって、教科書検定の問題は、立法府としても看過し得ない重要な問題だと思っております。にもかかわらず、検定密室で行われており、立法府調査権が入る余地が全くない状態であります。文部省は、検定の公正を期するとともに、教科書調査官の不用意な発言に対しては注意を促してもらいたいと思います。局長の御答弁を求めます。
  6. 高石邦男

    高石政府委員 文部省といたしましては、教科書検定は極めて重要な行政作用でございますので、教科書記述が客観的かつ公正で適切な教育的配慮が施されたものになるようにとの観点から、慎重に行っているところでございます。いろいろな批判疑惑疑念を持たれることのないように、今後努力してまいりたいと思います。
  7. 松浦利尚

    松浦委員 教科書というものは、著作者が自由に執筆してこそ、多様で創意工夫に富んだものができるのだと思っております。したがって、検定というのはあくまでも抑制的でなければならないと私は判断をいたします。特に思想介入にわたる検定は厳に戒めるべきだと私は考えます。この際、文部省考え方を承っておきたいと思います。
  8. 高石邦男

    高石政府委員 教科書検定に際しては、教育一定水準の確保を図り、児童生徒の心身の発達段階対応しているかどうか、誤りや不正確なところはないかどうか、表現は適切であるかなどの観点から検定を行っているところであります。特定の立場に立っての検定を行っているというものではございません。今後とも公正、適正な検定を行うように努力してまいりたいと思います。
  9. 松浦利尚

    松浦委員 今回の土光臨調においても、あるいは大蔵省のシーリングにおいても、教育自体は聖域でない、こう言われております。財政危機が叫ばれている今日、金がかからない方向で実現し得る教育改革というのは、教科書の問題しかないような気がしてなりません。総理がよく、二十一世紀を担う人材を育成することこそ教育改革の主眼に置かれるべきである、こう言っておられるわけであります。そうなれば、当然のようにその教育改革中心は、全国の子供たちが手にとって学ぶ教科書、その内容になってくると思うのであります。先日来指摘をしておりますように、この重要な子供が手にする教科書密室の中でつくり上げられていく、これでは国民疑惑を招くのは当然だと思うのであります。大切な教科書にこういった国民の疑いがいささかなりとも出てこないように、文部省としても厳重な配慮が必要だと思うのであります。この際、文部大臣決意をお聞かせいただきたいと存じます。
  10. 森喜朗

    森国務大臣 松浦さん、いろいろと御指摘をいただきましたように、教科書は、児童生徒教育を進めていく上におきまして大変重要な役割を担っておるものでございます。したがいまして、教科書記述が、先ほど初中局長から申し上げましたように、客観的でかつ公正で、そして適切な教育的な配慮が施されているものになりますように、また、いろいろと御批判疑念が持たれないように、今後ともなお一層努力をしてまいりたい、このように考えております。
  11. 松浦利尚

    松浦委員 仮定の問題で恐縮ですが、先ほど私が指摘いたしましたように、金のかからない教育改革をするということになれば、教科書内容ということになると思うのです。ですから、この問題が、恐らく設置されるであろう教育臨調という枠組みの中で議論をされた場合、あるいは結論が出されようとした場合、文部大臣としては今言われた決意をそういった審議会反映させるという御決意をお持ちかどうか、具体的にお尋ねをしておきたいと思います。
  12. 森喜朗

    森国務大臣 教科書のいわゆる検定を初めといたしまして文部省としての作業につきましては、ただいま申し上げたとおりでございます。  ただいま松浦さんがおっしゃったいわゆる金のかからない教育というのは、具体的にはどのようなことをお指しなのかは定かではございませんが、いわゆる臨調答申の中に民間の力を活用していく云々という指摘もあるわけでございます。そういうことがかねてから御議論をいただいておりますいわゆる教科書有償論というところにまで発展をいたして、またそういう意見もあることも承知をいたしております。私はこの国会を通じて申し上げておりますが、教科書無償継続というのは、やはり私ども教育を進める、教育行政の任にある者として大事なものであるという認識をいたしておりまして、これまでのいろいろな経緯はございますけれども、できれば無償継続していきたいというその願いを私としては持っていることをしばしば表明いたしておるところでございまして、ただいまの御指摘につきましても、義務教育の、いわゆる国が温かく子供たちに手を差し伸べていく教育一つのあらわれでございますので、今後ともそのように努力をしていきたい、このように申し上げておきたいと思います。
  13. 松浦利尚

    松浦委員 さらに質問を進めてまいりますが、今度の臨調第三次答申基本答申、五十七年七月三十日に出されておるわけでありますが、今大臣が言われたように、教育自体民間活力を活用して、公的教育から私学中心教育というものにだんだんウエートをかけていく、そういった発想というものが土光臨調から示されておるわけでありますが、こういった従来の国立なりあるいは公立中心学校教育というものから私学中心へ形を移行していくという、そういう発想についての文部大臣のお考え方をこの際承っておきたいと思います。
  14. 森喜朗

    森国務大臣 臨調の方からは、国公立中心の、公の教育から私学に少しづつ切りかえていくというような、そういう具体的なお考えを示されてはいないと思います。しかし、民間の力を活用していこうという表現は、学校経営する、設置する主体も民間の力をというふうに素直にそのまま判断すると、今先生が御指摘いただいたようなそういう危惧もあろうかと思います。しかし、やはり我が国教育学校制度そのものの今日までの歴史的な経過考えてまいりましても、各国によってもそれぞれの発展的な経過があるわけでございますが、我が国におきましてこれをすべて私学にするというようなことは適当ではないし、そういう方向は必ずしもいい方向であるとは考えられません。  逆に言えば、私立学校の国が助成する措置も、法律ができましてからまだ十年も経ていないというような、どちらかというとまだまだこれからの私学充実策を施していかなければならぬ大事な岐路に立っているというふうに私は考えておるわけでございまして、逆に、今ある日本私学をすべて公がこれを経営運営をしていったときに一体どれだけの金になるのか、考えてみますと膨大になってくるわけでありまして、ある意味私学の果たしている役割も大変大きいし、そういう意味では、国がどのような形でこれを補助をしていくか、助成をしていくかということは、これは教育上とても大事なことだと考えております。  くどいようでございますが、日本の、国が私学経営助成をしていくという制度法律によってとってまいりましたのも、本当にまだ歴史的に浅いわけでございまして、そういう意味からまいりますと、国公立教育機関を逆に私学にしていくというようなことは、私はそういう方向がいいというふうには全く考えておりませんので、今後とも国公立あるいは私立、健全な発達ができるような指導をしていかなければならぬ、こういうふうに考えております。
  15. 松浦利尚

    松浦委員 今文部省所管審議会あるいは文部省における協力者会議等の数字を計算をしてみますと、三十七あるわけですね。長期的なものは所管審議会という形で現在審議がされておりますし、緊急的なものは文部省における主な協力者会議等についてという形で、いろいろな協力者会議というものが現在文部省設置されて議論をされておるわけであります。  そうなりますと、今度設置されると予定をされておるこの審議会で仮に緊急的なものの答申を受けるということも、大臣なりあるいは文部当局からこの委員会でお聞きをしておるのでありますが、現在あるこの三十七の審議会なり協力者会議のうち、はっきり凍結をすると言われておるのは中央教育審議会だけであります。他はすべて機能をしておるのだ、こう思うのでありますが、仮に緊急的なものが審議会で提起され、また一方では現在活動しておる協力者会議等から緊急的なものが文部大臣答申される、そういった状態が出てきたときには、一体どちらにウエートを置いてお考えになる発想なのか。あるいはこの審議会というのは、総理が言っておるように、二十一世紀を担う人材を養成するための機関として設けたのであるから、短期的に必要なものについては現在文部省が活動しておる範囲内で対処していく、長期的なものについてこの審議会でやるのだ、そういうふうに理解をするのか、この二つの点について文部大臣見解を承っておきたいと思います。
  16. 森喜朗

    森国務大臣 しばしば申し上げておりますように、臨時教育審議会はどのような審議の進め方をするか、あるいは長期的あるいは緊急答申というふうに分けることがいいのかどうか、これは私どもが今ここで申し上げる段階ではないわけでこざいまして、新たに発足をさしていただきましたならば、審議会自身でその考え方をお決めいただくことになるかと思います。  ただ、一般的な考え方として、総理も申し上げておられたようでありますし、私も直感的に感じますのは、やはり三年間の間にいろいろ御論議をいただくわけでありますが、先般の内閣委員会で各党の諸先生方からも御意見が出されましたように、国民が緊急的なことについての期待感もやはりあるのではないかというような御意見もございましたように、場合によりましたら、そうした緊急的なお考えがまた答申され得るようなこともあるかもしれません。しかし、先ほど申し上げたように、今この段階で長期的なものがあり、緊急的なものがありというふうに申し上げることは適当ではないというふうに考えております。  今先生から御指摘をいただきましたように、文部省には中教審を初めといたしまして審議会あるいは協力者会議等々が、今日まで文部省固有の事務でございます教育、学術、文化等に関しましてそれぞれの分野での御審議ちょうだいをしては、有益な答申提言ちょうだいをいたしておるわけでございます。臨教審も、今松浦さんが御指摘をされましたように、二十一世紀に向けまして教育及び関連分野の諸施策に関しまして必要な改革を図るための方策につきまして広く総合的な審議をいただきたいというふうに考えておるわけでございます。したがいまして、それぞれの審議会あるいは協力者会議は、文部省教育行政を進めるに当たりまして必要がありましたら引き続き御審議をいただき、あるいは御提言をいただくということになろうかと思いますが、中教審につきましては、性格趣旨は異なっておりますけれども、やはり審議事項等関連ということもございますので、当面これは見合わしていこうということでございます。  もちろん、必要に応じて継続をしていかなければならぬ、あるいは発足していかなければならぬという場合も当然出てくることになろうかと思いますが、あくまでも臨時教育審議会が開かれて、そして審議を進めていただく、またそのプロセスあるいはその方法等が御決定をいただかなければ、今の段階でどうするこうするというようなことは、ここで申し上げることは私はかえって御迷惑をおかけすることになるのではないか、こういうふうに考えておるわけでございます。
  17. 松浦利尚

    松浦委員 審議会協力者会議三十七と申し上げましたが、審議会十六、協力者会議十五の三十一の誤りでありますから、この際、訂正をいたしておきます。  大臣、これも仮定の問題で大変恐縮でございますが、でき上がった臨教審が短期的なものを総理答申する、そうすると具体的に活動しておる協力者会議の方からも答申が出た、そのすり合わせはどういう形で、どちらを優先するのですか。  そういうことが将来あり得るのです。現実に三十一の審議会なり協力者会議というものが活動しておるわけですから、当然のように、短期的なものについては臨教審答申をする、片一方では活動しておる方から答申が出てくる。そのすり合わせ、一体どちらが優先するのですか。これは仮定の問題で大変恐縮ですが、起こり得ることだから、そのときになって混乱をしてしまったのではどうにもなりません。それはどういうふうに措置をなさるのか、文部大臣としての見解を承っておきます。
  18. 森喜朗

    森国務大臣 松浦さん、あくまでも仮定ということで御質問をいただいておりますが、私はたびたび答弁でも申し上げておりますように、審議会がどのような運用をするかということは、本当に私自身も今ここで申し上げるという段階ではございません。ただ、それぞれ今ございます審議会あるいは協力者会議は、文部省教育行政を進めていく上に必要に応じていろんな審議をし、御意見ちょうだいをいたして、それを受けて文部省としては教育行政反映をさせていくということでございますので、今日の教育行政を進めている事柄につきましては、それぞれの審議会あるいは協力者会議は優先をしていくものであるというふうに考えております。  そして臨時教育審議会は、これはくどいようでありますが、どういう方向でやるかということ自体は、まだ私は決める立場ではございませんけれども、広く長期的な立場教育全般の諸制度について御議論をいただくことでございますが、松浦さん御指摘のように、そのことが今の教育行政に具体的に直接すぐかかわりを持つような御答申が、想定の問題というふうにお話しになりましたが、場合によっては出てくることもあり得ることは十分予想できますので、その場合には、当然文部省といたしましては、臨時教育審議会がこういうお考えを示されておる、このことについて、直接審議会協力者会議と一緒になるというような角度のものでございましたならば、さらにそれを具体的に教育行政の中にどのように生かすべきなのか、あるいは採用すべきなのかというようなことを、むしろその固有審議会協力者会議が受けて審議をしていくことになる、このような関係にあるべきだろう、こう私は考えております。
  19. 松浦利尚

    松浦委員 この臨教審法案性格あるいは問題点等考え方については、関連質問中西委員質問をいたしますから、これ以上深く突っ込んで質問はいたしません。  最後に、これは非常に遺憾なことでありますが、大学関係で、昭和五十年度から昭和五十九年度までの間、社会的な事件になったケースが非常に多い。今度問題になりました自治医大あるいは大阪大学、こういったものを含めまして、昭和五十年度から今日まで新聞をにぎわした事件、例えば東大生がオリエンテーションの後でボートに乗って転覆して死亡したというようなことも含めて、国立大学が十九件、私立大学が三十件、四十九件の社会的な事件が起こっておるわけであります。  その中には刑事事件になったものもあるし、あるいは免責されたものもあるわけであります。しかもその中で、私立大学関係内容を見ますと、入学金の問題あるいは裏口入学寄附金の問題、こういった金にまつわる、入学にかかわる問題、あるいは入学試験漏えい問題等が出てきておるわけでありますが、国公立大学の場合は、例えば大阪大学に見られますように、ワープロの納入あるいは医療器具納入、そういった物品売買における不正事件というのが中心をなしておるわけであります。  こういった後を絶たない大学における事件というものに対して、文部省は一体どう判断をし、これからどのような対応をなさろうとするのか、これが一つ。  それからもう一つは、民間活力を引き出すために、私学に対しても助成を強化しながら、さらに強化を図っていくという先ほどの御意見がありましたが、この事件背景等を見ますと、どうも私学においては教育ということよりも経営というものにウエートが置かれておる。いかにして学校経営をうまくするかという利潤追求の場所として大学が利用されておるような気がしてならないわけなんですね。教育よりも経営だ。経営ということになれば当然利潤追求するということにならなければ成り立たないことなのであります。  こうした問題を含めて、最近社会的な批判を受ける大学不正事件についての今後の対応、今申し上げたことに対する文部大臣の御見解を承って、中西委員関連質問に移りたいと思います。
  20. 森喜朗

    森国務大臣 松浦さん、幾つかの例を挙げて御指摘をいただきましたように、私立大学国立大学におきましての不祥事が発生をいたしておることにつきましては、一部ということでございますけれども、これは私立あるいは国立を問わず、大学教育全体に及ぼす影響、あるいは日本教育信頼の上におきましても極めて遺憾なことであるというふうに受けとめているわけでございます。  私立学校につきましては、五十八年七月に事務次官通知をいたしまして運営全般適正化指導をいたしておりますし、さらに本年度からは、予算編成の中にも織り込ませていただきましたが、経営につきましての指導助言に当たっていきたいということで、学校法人運営調査委員、まだ仮称でございますが、この制度を発足させまして、なお一層私学運営適正化努力するように文部省としては努めていきたい、こう考えております。  国立大学につきましては、長年にわたりまして培ってまいりました国立大学の社会的な信頼期待を損なうものであるということにかんがみまして極めて憂慮をいたしておるわけでありますが、従来綱紀粛正適正経理等については指導をしてまいりましたけれども、今後とも不祥事の発生することのないように、心を新たにいたしまして、国立大学のあらゆる機関、あらゆる会議等を通じまして周知徹底を図るように指導をしていきたい、こう考えております。  第二の、私学についてどうも教育よりも経営が優先するのではないかというふうな御指摘でございますが、私は、必ずしも私学経営ということの利潤追求に走っているというふうには解釈をしたくはございませんが、やはり私学が次第次第に充実してまいりますと、逆にまたいろいろな意味で諸経費も高騰いたしますし、学校運営全体に工夫もしていかなければならぬという面でいろいろな不祥事が起きてくることもあるのではないかということで、私立学校助成というものがいろいろな意味議論を生んでおりますときだけに、一、二のそうした不祥事が起きることによって私学全体に対する信頼感あるいは私学助成そのものに対する疑義が生ずるということについては、私は極めて残念なことだと考えております。  これは私の個人的な感想みたいなものでございますが、日本経済が順調に発展をし、高度経済成長時代というものがあり、そして教育を受けたいという国民期待にこたえ、量的な拡大をしていかなければならぬ、そういうことから私学が相次いで設立をされた当時の時代でございます。そういう時代的な反映考えてみますと、もちろん本当に教育を進めていこうというふうにまじめに考えておられたと思いますけれども、その中には、やはり急増的な形で、経営ということにむしろ頭を置かなければならぬというような形の設置責任者としての考え方があったのかもしれませんが、今後そうした考え方を改めていただいて、今松浦さんがおっしゃったように教育を進めていく、しかも高等教育機関であるという大きな役割を担って、お互いの意識は、極めて大事な時期に差しかかっている、私学助成の大変大きな岐路に立っているという今日だけに、私学界全体が改めて教育の原点、私学経営は何なのだということをまず念頭に置いてやっていただきたいなと思うわけでございます。松浦さんの御指摘は極めて大事な点であると私は受けとめさせていただきまして、なお一層私どもとしても私学の健全な発展指導していきたいと考えておるわけでございます。
  21. 松浦利尚

    松浦委員 中西委員関連質問に移ります。
  22. 片岡清一

  23. 中西績介

    中西(績)委員 私は、時間の制約がございますので、設置法の第一条「目的及び設置」、この問題について二、三の点から質問を申し上げ、さらにまた、それとのかかわりで具体的な問題等について一、二質問を申し上げたいと思います。  この「目的及び設置」の中に、「社会の変化及び文化の発展対応する教育の実現の緊要性にかんがみことございますが、今私たちが教育の理念あるいはあり方というものを考える場合に、日本国憲法のもとにおきましては、教育の問題としてとらえるという矮小的な考え方でなくて、広く憲法下における文化の問題としてとらえる必要があると私は思うのでありますけれども、この点はそのように理解をしてよろしいかどうか。特に、教育は文化を構成する重要な分野一つであるだけに、文化の創造、発展に最も強い影響力を持つのが教育でありますから、教育目的はこうしたところにあるということを考えるべきだと思うのでありますけれども、この点でよろしいかどうか。
  24. 森喜朗

    森国務大臣 基本的には中西先生のお考えどおりであろうというように考えております。
  25. 中西績介

    中西(績)委員 そこで私は、文化という問題について二、三の点からお聞きをしたいと思います。  文化は、日本国語大辞典におきましては、「権力や刑罰を用いないで導き教えること。文徳により教化すること。」二つ目に、「世の中が開け進んで、生活内容が高まること。」三番目に、「自然に対して、学問・芸術・道徳・宗教など、人間の精神の働きによってつくり出され、人間生活を高めてゆく上の新しい価値を生み出してゆくもの。」こう規定してあります。  私、これを読んだときに、一番最初出ました「権力や刑罰を用いないで導き教えること。文徳により教化すること。」このことを見まして、なるほど文化に対する憲法の基調と全く一致するものだということを感じました。  そこで、憲法の規定にはこうした文化という文言は出ておりませんけれども、少なくとも広く文化にかかわる個人の精神的活動の自由を保障するという意味で、基本的人権を明確に位置づけしてあります。憲法十九条から二十三条まで、この自由の保障が文化の創造と発展に寄与するということになると思うわけであります。  そこで私はお聞きしますけれども、このような無制約的な保障、言いかえますと、国民個人を文化の創造、発展の担い手とする、この基調から考えますと、私は、個人の精神的文化の形成に国家的干渉、介入はすべきでない、あるいは国家は文化に対して価値中立的立場をとらなくてはならぬと思っておりますけれども、この点はこのように理解をしてよろしいですか。
  26. 森喜朗

    森国務大臣 大変次元の高い御質問でございまして、私自身も文化とは何ぞや、そして文化が権力やあるいは刑罰を用いないで云々というような御議論をここで先生と申し上げるのは、私、それだけの博学ではございません。いろいろな概念、いろいろな見方があるだろうと考えますし、私は広い意味では、先生が先ほど辞典の中から出されました人間生活を高めていく、そういう角度で見るのは、広い意味での文化という考え方をとるものでございます。したがいまして、先生の御指摘にもございましたように、いわゆる文化を創出していくという意味教育が大変大きな役割をしているというふうに考えます。  先生の今指摘されました一つの見方は、政治や国家権力がそれをいろいろな形で導いていくというやり方は好ましいことではないというふうな意味を大体お話しになっておられるのだろうと考えます。しかし、文化を創造し、創出していくというものは教育である、これは教育は大変大きな役割を果たすということでありますが、そういう文化を創造していくような教育の土台といいましょうか、教育の環境といいますか、これをつくり上げていくのはやはり政治の責任だろう。すばらしい文化を沸き上がらせていく、そしてまた文化をつくり上げていくような、文化を展開していけるような環境をつくり上げていく必要がある、それを支えていくものは政治の場所であると考えますので、基本的には私は先生のお考えは正しいと思いますが、そのことが国のかかわり合い、恐らく政治や法律がそこにかぶさってくることは危険性があるという視点を先生はとらえておられるのだろうと思いますが、そこのところは必ずしもそういうふうにとらえるべきものではないと考えます。  もちろん、見方は非常に幅広くいろんな角度から見られるものでございますが、私どものお願いをいたしておりますこの法律に言う文化というのは、人間は学習によって社会から習得をしてまいりました衣食住初め技術や学術や道徳や芸術、そういうものの物質的、精神的な成果の一切を意味するものであろうと考えております。したがって、文化と社会というのは、相互に深く影響を及ぼしながら変化、発展を遂げて、人間の生活環境をつくり上げていくものだろうというふうに私どもは承知をいたしておるわけでございます。
  27. 中西績介

    中西(績)委員 私がこうした意見を申し上げるのも、日本国憲法では、こうした文化という問題、その基調を明確にしておかないといろいろ多くの問題が出てくると思うからです。特に日本国憲法では、そうした意味でこのことは大変重要な意味を持っておると思うのです。というのは、我々は経験をしておるのですけれども、明治憲法におきましては天皇中心の政治的道徳的権威をこれに持たせたわけであります。天皇と国家が正しいとすることすべてが正しかったという、事の正しさはそのこと自体の正しさによらないという状況があったわけでありますから、少なくともこのようにして教育勅語に見られるような、国民個人の内的な面の自由を全部束縛して、天皇の絶対的な権威だとかというものを認めるという形が既にあったわけでありますから、こうしたことにならないためにも、特に文化というものをとらえる場合にこの点を強調しておるわけであります。特に先ほど申し上げました第十九条、権威から完全に解放されて真の自由な個人を認めるということから始まり、二十三条まで規定されておるこうしたものを基底として私たちは文化問題を考えていかなければならぬのではないか、こう考えるからであります。  したがって今、教育環境をつくり上げることが政治だ、こういうことを言われましたけれども、これはまた後、教育基本法問題で具体的に提示をしながら、できればこうした問題についての考え方が余り行政側と我々との間において違いが起こらないようにしていきたいと思っています。  そこで、私は特になぜこのことを指摘したかといいますと、今大臣が言われましたように、こうした政治というものが、政治というよりも国家権力が果たす役割というものをここで明確にしておかなければならぬのではないかと思うのです。個人の文化活動を側面から援助推進することに限定さすべきだし、必要な外的条件の用意と整備、この環境を政治的に整備することが今一番重要であって、内的な面におけるこうした問題について口出しをしたり、あるいは介入をしたりすべきではないと私は思うのです。この点は重ねて言うようでありますけれども、確認しておきたいと思いますが、よろしいですか。
  28. 森喜朗

    森国務大臣 先ほど私も御答弁申し上げました、文化を創造するあるいは創出する、そういう中に教育は大きな役割を果たしていく、それで、その中でその教育、そういう文化を創造する教育の諸条件、環境を整えてあげることがそういう意味で政治の責任であるというふうに私は関係を申し上げたわけでございます。先生にも御理解をいただいているものと思いますが、基本的にそういう政治の役割、責任というものがある。したがって、先生がお話しになりましたように、そうした外からのといいましょうか、そういう条件をつくり上げることに政治は努力していかなければならぬと思いますが、文化の中身をどのように考えていく、どういうものをつくらせていく、どういうふうに個人的に文化を創造していくということについて政治がその中に入っていくということは、先生の御指摘どおり、慎んでいかなければならぬものである、あってはならないと私は考えております。
  29. 中西績介

    中西(績)委員 ですから、国家権力が文化を指導する立場にあるなどという、今言われたように積極的にかかわりを持つということが結局指導する立場にあると錯覚視するような形になったのでは、これはまた明治憲法下における理念と同じようになるわけでありますから、この点だけはぜひ我々、そして行政も十分慎んでいかなければならぬ問題だと思いますので、あえてこのことを指摘したところです。したがって、この目的の第一条にある、文化の発展あるいは創造発展させるということになれば、必然的に個人の文化活動が中心になり、そして今度は必要な外的条件を整える、このことに制約をした中で物を考えておく必要があると私は思いましたので、こうしてあえて時間をいただいて論議をしたつもりです。  そこで、私はもう一つ申し上げたいと思いますが、「緊要性にかんがみ、教育基本法の精神にのっとり」ということがございます。そこで、教育基本法の理念というものをもう一度ここで確かめておきたいと思いますのは、この前から討論をお聞きしておりますと、総理大臣も、教育基本法の精神にのっとるということを何回か答弁されておりますから、この点についての確認をしておきたいと思います。  教育基本法の中で、いろいろありますけれども、前文を見ますと三つに分けられております。そこにありますように、「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」あくまでも日本国憲法に沿って、その理想を実現するためには教育の力にまつべきものであるということがまず第一にある。そして二つ目に、「文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」という、ここが私は二つ目にまた大事だし、そして三つ目に、「新しい日本教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」こういう三つの段階に分けておりますけれども教育という問題を考えた場合に、私は、あらゆる教育はこの前文を受けておると解しておるわけであります。その上に立って、第一条「教育目的」としてそこに書かれてありますように明示されております。ところが、この目的を達成するために今までの、昭和二十二年以降における教育行政なりあるいはその実態がどうであったかということを考えてみなければ、この教育基本法の理念というものが具体的に施策の中なりに実践をされていったかどうかということが大変問題になるだろうと私は考えるわけです。  したがって、私はここで二つだけ質問を申し上げますが、こうした三十数年を経過した現在、この第一条にある「教育目的」、これは達成されたであろうかということを、今私たちはもう一度振り返ってみる必要があるだろうと思うのです。  それともう一つは、そこにあります二条から十一条まで、これらの規定がどう実施されていったのか、その評価なり対策なりがあればお聞かせいただきたいと思います。
  30. 森喜朗

    森国務大臣 中西さんが今御指摘をされました教育基本法に関しまして、三つから成る前文を受けてそれぞれの基本法が進められてきた、それに対して適正に進められてきたかどうかということでありますが、私は全体的に、日本教育の成果というものも今日までしばしばいろいろな角度のとらえ方はできますけれども教育基本法の前文の三つの表現を守りつつ、そして日本教育発展に十分に努力をしてきている、このように考えておるわけでございます。
  31. 中西績介

    中西(績)委員 私は、これは十分に果たされておらない、そこに今出ております「教育の実現の緊要性にかんがみこということが出てきたのではないかと思っております。特に、今問題になっておる教育危機あるいは荒廃と言われる状況というものが、子供が学ぶ意欲なり生きる目当てがゆがめられ失われた状況、あるいは教育基本法、この教育目的そのものを本当に私たちが実行し具現化していったかという、こうしたところに、行政はもちろん私も含めてでありますけれども、不足した部分があったのではないか、そのことがこうした実態というのを生んでいったのではないかということを考えるわけであります。     〔委員長退席、戸塚委員長代理着席〕  そこで私は、教育問題と教育行政関係について明確にしておきたいと思います。そして先ほど出た問題については、後でより具体的に指摘をしていきたいと思います。  そこで、教育教育行政、第十条にございますように、「教育行政」という文言が出てくるのはこの第十条だけてあります。しかも第二項に出てくるにしかすぎません。この点は教育教育行政とを明確に区別をしておると私は考えます。  その点からまいりますと、少なくともそこにありますように、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」という、直接という意味でありますけれども国民の意識と教育が直結しているということであり、国民の意思と教育との間にいかなる意思も介入してはならないという、ここに教育の明確な位置づけがあるし、そして今言う十条二項の場合には、これを受けて教育行政何をなすべきかということが明確に示されておると私は思います。  二項には、「教育行政は、この自覚のもとに、教育目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」ということが明定されておるわけでありますから、こうした点を考えあわしてまいりますと、教育の自主性を要求し、教育権独立ということをここでは明確にしておると思いますけれども、そのように理解してよろしいかどうか。
  32. 森喜朗

    森国務大臣 いろいろと御指摘いただきます先生のお考えの引用は、私はそれなりに、お立場としても多少違った面もございますが、お考えとしては大変参考にさしていただきたい御意見もございます。しかし、教育権が独立をしていくというそれは、私どもは受けとめかねる考え方でございまして、あくまでも三権分立というその枠の中で教育を進めていくことが戦後の日本教育の一番正しいあり方である、教育行政の基本的な進め方である、こういうふうに私どもは理解をしておるわけでございます。
  33. 中西績介

    中西(績)委員 私が指摘をするのは、少なくとも行政責任体制とのかかわりを言っておるわけでありまして、これを読む限りにおきましては、先ほども申し上げましたように、教育は直接に責任を負って行われるべきものだというこうしたことが第一項にありまして、それを受けてこの第二項が成り立っておると私は思うのです。  ということになってまいりますと、教育国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきだということを示しておるわけでありますから、間接的な責任制、行政権あるいは議会を通しての責任という行政責任体制を、むしろここでは否定をしておると私は考えるわけであります。あくまでも教育の自主性あるいはその要求を、そして教育権の独立を保障すべきだということがここでは明定されておるとしか読みようがありません。この点で、今言われるように行政そのものの中ですべてが枠を決められ、その中でしか教育が責任を負うことができないなどということは到底考えられないわけであります。したがって、この点についてもう一度お答えください。
  34. 森喜朗

    森国務大臣 「直接に責任を負って」ということを、中西先生、いろいろの角度から議論を展開されておるわけでありますが、これは、国民から信託されて教育を行うすべての関係者は、国民全体に対して直接責任を負う必要があるというふうに示しておるものでございまして、教育をする者と教育を受ける者との間にいろいろ不当なものが入ってはならない、直接責任を持っておやりなさいよということの姿勢といいましょうか、精神といいましょうか、そういうものを明らかにしたものであろうと考えます。  したがって、その意義をいろいろな条件で整えていく、そのことを法律に従って進めていくわけでございますし、法律をつくるのは国民から選ばれた私ども立場、皆さんのお立場、そういう議論によって法律等をつくるわけでございますから、その法律は不当の支配になるわけでもございませんし、直接の責任の中に介在をすることが不当なものだという考え方を私どもはとるに至らない、こういう考えを持っております。
  35. 中西績介

    中西(績)委員 今大臣が言われました、教育内容にそうしたものが介入をしてはならない、国民の意識と教育が直結をする、こうした中身であるわけですから、あくまでもこのような法律なり、行政関係の皆さんが行政を法律によって施行する場合に、教育の中身の中にそうしたものが介在するということには決してならないという、このことについては認めているわけですから、それをもう一歩広げて、あくまでも教育行政機関そのものが権力的に支配することが絶対にあってはならない。したがって、立法府におきましてもそのように教育内容にまで立ち入るようなやり方については絶対にできないということをこのことは意味しておるし、例えば学校で限定をいたしますと、教員は、憲法、教育基本法、学校教育法、こういうものがあるわけでありますから、これには従うわけですね。しかし、内容について一々これが介入できないというのは、今大臣が言われた面で、そこだけ明確にしておいていただきたいと私は思います。
  36. 森喜朗

    森国務大臣 法律に従いまして、そして国民の総意を受けて国会、立法府でいわゆる条件を整えるためにいろいろな基準を設ける、そのことは当然立法府国民の合意をいただいてお決めをいただくことになるわけでありますから、その基準に従って条件を整えていくことは、いわゆる直接的責任を負うというところに介入するものではないと私どもは理解いたしております。したがいまして、先生から御指摘がありましたように、教育の中身、内容については直接、これはいかなる形でも外から介入するということはあり得ないし、またやってはいけないということになりますが、一つの基準を定める、それを法律によって整える、これは不当な介入にならないというふうな理解を私どもはいたしておるわけであります。
  37. 中西績介

    中西(績)委員 そうなりますと、おとといのここで論議をされました教科書問題ですね。きょうそのことの一応の答弁をいただきましたけれども、私は大変不満ですからまた別のところでやらせていただきますけれども、こうした検定調査官と検定のあり方、あるいは勤務評定、そうしたすべて画一的に枠の中でしか行動できない、それを外れた場合、例えば校長なら校長に対して意見をいろいろ上申しますね、あるいは意見をそこで闘わせる、そうしたことが今度は勤務という中身の中に生かされてくるということになってまいりますと、教育とのかかわりの中でそうした発言の中身あるいはその熱心さ、校長が考えていることとは別の方向、別の面で例えば熱心になったと彼が判断をしたとき、これはあくまでも判断というのは主観的ですから、そうしたときに教育の中身にまで、例えば生徒とのかかわりの中におけるそうした関係を是正をせいとかいろいろなことで立ち入ってくることは必至です。  あるいは、勤評が昭和三十三年ですから、昭和三十六年ですか、中学校における一斉学力テストなどにおけるテストの中身にまで全部介入をしてこれを強行させる。もしそれをしない場合には処分までするというような、こうした学校教育に対する政府あるいは行政の関与、介入、こうしたことは私はたくさんあったと思うのです。  その例は、挙げればまだまだたくさんあるわけでありますけれども、例えば学校管理規則などにつきましても、その学校での教育体系を整えるに当たってこういうことが一番よろしいという考え方を持っておるのに、それに対してそれはだめだという指摘をすると同時に、もしそれに従わない場合にはこれを処分までしていくという状況すらも出ておるわけですね。  それから、研修会の問題についてもそういうことが言えるわけです。例えば今問題になっている非行問題がございますね。そうした問題が地域的に特殊な状況で出てくるということもあるわけです。そうしますと、例えば私だったら福岡県ですから、福岡でそうした研修をやる場合に、生徒の生活指導なり何なりをやるということになれば、必然的に全部の意見を十分聞いて課題を設定し、そこで皆さんの意見を全部集めて、その衝にかかわっておる、担当しておる人たちが集まってきて、そして論議をし、方向性を決めていく、こういう手続上の問題から教員なら教員の主体的なものでやっておったものがすべて、今度は逆に県教委側なら県教委側から、そのことを、テーマについても全部指名する人によってそれがつくり上げられていく、あるいはこのテーマそのものをもともと県教委の方針として出して、そのことによってしか討論をさせないし、出席をさせる者についても全部指名でやってくる。  この研修問題一つをとりましても、教育にかかわる内容的なものに関して研究をしようとするのに、テーマ設定から全部が決められておるということになってまいりますと、これは完全に行政の介入だとしか言いようがないわけであります。したがって、今申し上げるように、あくまでも教育、その体制の中における今文部省なり行政がとっておるこうした措置というものは、まさに介入としか言いようがないわけでありますけれども、この点についてどのように御理解しておりますか。
  38. 森喜朗

    森国務大臣 いろいろとこれまでありましたことの例をとっての御指摘でございますので、私がお答えを申し上げることが誤解を生んでもいけませんので……。  ただ、基本的には公務員はやはり公務員であるということの法律を守る義務というものがございます。あるいは学校運営規則にいたしましても、またそれぞれのいろいろな規則や内規等々も、教育委員会がそれを定めている規則でございます。今最後に例として取り上げられました研修等にいたしましても、教育委員会がどのような研修を行うということを定めるわけでありますから、その教育委員会がどういう内容でやるかということの内容を定めるということについては、教育委員会がその方向でお願いをするということは、これは必ずしも間違っているというふうには、不当な介入――先生、不当とはおっしゃらなかったですけれども、介入ということには当たらないと私は考えるわけであります。  いるいろ例を挙げられましたことにつきましては、現実に行われたこと等でございますから、私の誤りがあってもいけませんので、初中局長から答えさせたいと思います。
  39. 中西績介

    中西(績)委員 私は例えば研修問題一つを挙げましたけれども、研修をするのに規則があるわけじゃないですよ。私がさっきから指摘をしておりましたように、このような教育基本法そのものを実際に守っておらないあるいは具現化しておらないというところに教育の荒廃問題とか危機的な状況というものができる原因があったということを、一つの例として指摘をするのです。例えば非行問題をやる場合に、教育委員会指導主事なら指導主事あるいはその他の県の役人、教育委員会の役人がテーマを決める。  ところが、非行問題について今何が一番大事なのかということをその地域ごとの具体的に知っておる人たちが集まって、一つのテーマなり、二つのテーマなり、三つのテーマなりを決めて、それに向けて多くの人が参加をして討論をしていくわけですね。だから、その地域における問題点が具体的にある中で、それをどのようにより全県的に、全国的に認識していくのか。その形態は幾通りもあるだろう。  そうしたようなことを十分認識し合えるという条件、しかもそれを担当しておる人が参加をしてこのことにかかわる、例えばどういうことがやられておったとしますよ。それがだめになって、県教委が指名する人でなくてはならない、県教委が設定したテーマ以外は討論してはならないということになってまいりますと、私はこれはまさに介入以外にないというのです。  そうした非行問題についても、直接責任を持ってやる人たちがそのように上から枠をはめられ、討論する中身にまで制約を受ける、あるいは出席そのものも制約を受けるということになってくれば、現場の教師たちは、熱心になろうといったってなれるはずはないのです。言ったって、全部そこで決められたこと以外はできぬわけですから、そこで今度いろいろ発言をしておると、その発言に対して制約が加わるわけでしょう。  だから私は、今の教育行政のあり方というのが、今皆さんが大変注目しておる非行問題だとか暴力問題だとかいろいろあるものですから、そういう声がだんだん大きくなってきたところに、途端にこのような臨時教育審議会などを設置して、制度から何から全部考えなければならぬだろうということを言い始めるから、私は言っているわけです。  まずやるべきことがあったのではないかと思うのです。ところが、実際にはそうしたことが文部省では十分把握をされておらない。そして今私が文部省に求めたところが、具体的にこういう答弁が返ってきていますよね。行政として反省すべき点があるのではないかと言ったところが、もう木で鼻をくくったような中身が出てきています。全く答弁にならない答弁になって返ってきています。  ですから私は、そうした点であくまでも教育基本法一条の目的を達成するためには、十条というものが本当に今私が主張するような内容で確認をされておらないと、逆に現場の教師などはそうした意識がだんだん低下をするし、画一化され、そして押し込められていく。それに問題提起をすると、今度は管理強化という形になってやられたら、そこには私は教育というものは成り立たないと思うのですね。ここに「教育基本法の精神にのっとり」ということをわざわざうたったのはそういうところにあるということを理解をしたいから、私はきょうこうして質問をしているのです。  この点は大臣は具体的なことを知らないようでありますから、ほかに例を挙げろと言われればまだたくさん例があります。しかし、きょうは時間が一時間ですから、これを挙げる時間がありませんけれども、今生徒指導の面、非行防止なりそうした面について、研修問題一つをとっても問題が既に出てきておる。これは、私たちの意見なり多くの皆さんの意見をまともに聞いて行政がそうしたことを改めていくということにならぬと、今問題にしておる「文化の発展対応する教育の実現の緊要性にかんがみ、」云々という、こういうことにこたえることにはならぬと私は思っています。  この点は、きょうここで結論を出すことができなければ、また後で十分討論をしていきたいと思いますので、この点についての聞く意思があるかどうか、この点、お聞かせください。
  40. 森喜朗

    森国務大臣 いろいろと御指摘をいただきまして、文部省としても十分に参考にいたしましたり、また現実の問題を直視するという態度は大事なことであろうというふうに考えております。  聞く気持ちはあるのかどうかというお問い合わせでございますと、聞く機会というのがどういう意味をあらわすのかわかりませんが、広くいろいろと御意見を承っていくということは、私どもとしては常にとっておる態度でございますし、私もそのようにしていきたい、こう考えておるところであります。
  41. 中西績介

    中西(績)委員 私が言う聞く気持ちがあるかということは、今まで文部省の場合には、かつてこうした研修問題等についても私は砂田文部大臣のときに討論をいたしました。そしてそのときに、私が前段に申し上げたように民主的な方法でもってやる教員研修というものに対して、研修はかくあるべきだということを文部大臣は答えたわけです。私が言うような研修が正しいということを答えたわけです。ところが、それなら福岡でこういう問題がありますよということで提起をしていったところが、それについてはちょっと待ってくれということになるわけです。そこには聞く耳を持たぬわけですよ。  ですから、そうした具体的な問題について謙虚に今までの行政のあり方がどうであったかということを反省をしながら聞く耳を持てば、こうしたものについては素直に受け取ってもらえると私は思うのです。しかし、そこに一つの壁をつくっておると、もう聞く耳を持たなくなるわけですね。ですから、私が指摘をしておるのは、そうした面での壁を取り除くべきではないかということを言っているわけです。その点で御理解いただければと思うのです。  そこで私は、もう時間が余りありませんから、「教育基本法の精神にのっとり、その実現を期して各般にわたる施策につき必要な改革を図ることにより、」云々ということになっていますが、具体的に予算がどうなっておるかということを一つだけ申し上げてみたいと思うのです。  我が国予算を見ますと、特に今度のこの臨時教育審議会設置法案というのは、大臣などの答弁によりますと、行革の下請的なものでないということを言っています。ところが、私は行革が進められ出してから教育の費用がどのようになってきたかということを見てみたところが、昭和で言いますと五十七年が二・六%の伸びになっています。そして五十八年がマイナス一・一、五十九年が〇・八です。そして国家予算の中に占める割合からいたしますと、昭和三十一年から昭和五十五年までは一〇%を割ることはありませんでした。ところが、五十六年から九・六%、しかも五十七年からは極端に落ちて九・二%になり、五十八、五十九年は九・〇%になっています。これを見ますと国の予算の伸びよりも落ち込んでおるし、こうした実態からすると、この三年間で二・三%しか伸びていないのです。防衛費は、五十七年が七・八%で五十八年が六・五%、五十九年が六・五五%で約二一%の伸びになっております。  こういうようにまさに教育費がどんどん削り込まれて、行革という名のもとにおいて教育の費用というのは、今申し上げたように国の予算の中に占める割合というのは九%です。ところが、三十一年から今までの平均をずっととりますと、予算に占める割合が大体一一%から一二%あるわけです。この九%からいたしますと、二%あるいは三%伸ばすことが可能だということをこのことは意味しています、今までのあれからいたしましても。そうしますと、例えば少なくとも三%伸びたといたしますと、本年の場合一兆五千百九十二億円の伸びになるわけです。これだけのものがあれば、今問題になっている四十人学級にいたしましても、あるいは大規模校問題にいたしましても、私学助成問題にいたしましても、全部こうした中で解決済みになると私は思うのです。  ところが、今やこの中身というのは逆でありまして、この前から文教委員会質問でも、私学助成金は恐らくことしとまた同じように来年も削られるであろう。臨調の方の行政改革委員会答申の中には恐らく、まだ出ておりませんけれども、こうした中身がまた出てくる可能性がある。先ほど問題になっておりました教科書問題についても、必死になってやるとは言っていますけれども、そうした問題等について全部枠がはめられ、削減されていく。施設設備費についても同じです。三年間でマイナス予算千二百億を超えています。さらにまた今度は削減をしていこう、こういう状況というのがあるわけですね。  そうなりますと、今第一条の目的教育基本法の精神にのっとって達成をするということにはなってない。それは何かといったら、先ほど言いましたように、行政改革が上にあって、そこからの答申がありさえすればこれが指示、示達になり、全部これに従っていくという方法が今までとられてきているわけですね。ということになってまいりますと、行革の下請機関になり、そしてこうした目的が達成されないということは、国家財政の中に占める割合からいたしましても明確に私は示されておると思うのです。この点について大臣はどう理解をしておるのか、答えてください。     〔戸塚委員長代理退席、委員長着席〕
  42. 森喜朗

    森国務大臣 先生からお示しをいただきました数字につきましては、一つの見方としてはそういう見方も、これは事実としてはあるだろうと思います。しかしまた、予算上国債費の増大、いろんな形で考えますと、確かに年上昇率あるいはシェアが下がっていくということは、これはまた事実であろうと思います。私もそういう意味では、文部大臣という立場もございますが、文教予算につきまして関心を持ってきました政治家の一人として、教育費が極めて窮屈な財政状態になっておることについては大変心配をいたしておるところでございます。委員会等を通じて申し上げてまいりましたが、教育は聖域であるべきなのか、あるいは公費負担と個人の負担というものの考え方はどのようにあるべきなのか、今後多くの意見を私どもはまた求めていきたいというふうにも考えているわけでございます。  ただ、先生が冒頭に、一つの起点としてお考えになっておられます臨調の中でその下請的に教育改革をしていこう、しているのではないか、そういう御心配については、そういう心配はないということをこの際明らかにしておきたいと思います。私どもといたしましては、教育を大事にしたい、教育を本当に政策の第一に掲げていきたいというのが中曽根内閣の今回の姿勢でございます。ただ、国民の多くの議論教育を全くすべてにおいて優先をしていくべきという考え方を得られるかどうか、そのようなことも今後の議論として十分展開されていくことを私はむしろ期待をいたしたいと考えております。私個人といたしましては、教育は国家の将来における命運を左右するものであるというふうに考えておりますから、財政的な形の中で教育制度がいろいろな意味で揺るがせられている、そういうことについては非常に心配をいたしておるものでございますが、今後とも私どもは、中曽根内閣の最大の政策課題である教育を大事にしていくという基本的なスタンスに立って、充実、振興を進めていきたいというふうに考えているわけでございます。
  43. 中西績介

    中西(績)委員 下請機関では絶対にないということを今言われましたけれども、今大臣は、教育は二十一世紀、いや国家の将来の命運をかけたものだと言われておりますけれども、実際に出てきておる中身はどうかというと、行政改革問題が出てから急速に答申の中身を受けて次々に削減をされていったというこの傾向、一番いい例が四十人学級の問題じゃないでしょうか。三年間凍結をするということも、そこから私は生まれてきたと思うのです。それをはねのけ、本当に行き届いた教育、そして、落ちこぼれという言葉を使いたくありませんけれども、おくれていく子たちをどのように育てていくかというこうしたことを考えたときに、四十人学級すらも実現できてないというこの具体的な事実。じゃ、一体これにどれだけの予算が要るのかということを、より具体的にはじいてみたらいいと私は思うのです。国家の将来を託しておる子供たちということを大臣は言うけれども、片や二一%の伸びを示し、片や二・三%というこの二つを比較してみたら、私は一言で言えると思うのです。  ですから、そういうように大事にするということであれば、これから後、私はほかのことは聞きませんけれども、もう一度四十人学級問題について、この前の文教委員会においては、この問題については八月の概算要求のときに今までの計画について実現をするように、来年になると三カ年の凍結が解けるわけですから、今度は改めて要求するかということを聞いたときに、局長は、調査をしなければまだ数はわからぬからとかなんとか言いましたよ。しかもそれは八月にすると言ったから、私は、七月までにやっておかないとこの前みたいにまた一年ずれ込むためにその日実を使うことになる、こういうことを指摘したのですけれども、この点は、概算要求をする前にそれが実際に使えるように、七月末なりにちゃんと集めるように私が質問した以降に各県教委なり何なりに指摘をしましたか。どうですか。
  44. 高石邦男

    高石政府委員 御指摘のように、来年度の概算要求をする基礎データとして必要でございますので、既に調査の依頼を行いまして一応の各県からの報告を受けておりまして、それを今整理中でございます。したがいまして、来年度の概算要求に間に合う基礎データの整理を完了したいというふうに思っております。
  45. 中西績介

    中西(績)委員 間に合うようになれば、計画に基づく数とはある程度は違ったとしても、残る期間七年間でこれを実施をする、その初年度の来年はこのことを要求していくということの決意をなさいましたか。
  46. 高石邦男

    高石政府委員 昭和六十年度の予算要求の作業はこれから始まるわけでございまして、全体的な予算の枠であるとか要求の問題については、これから種々検討を行った上で対応するわけでございますので、今の段階で中身をどういう態度でいくということを申し上げる段階にまだ来ていないわけでございます。
  47. 中西績介

    中西(績)委員 私が聞いておるのは、この前はそういうことが全部あれして国家財政を考えてとかいう話になっておったので、そうでなくて、さっき言うように、この計画、調査をしておるなら、全体的な数字の上ではある程度の差は出てくるだろう、少なくなるだろうということを言っていましたから、例えば少なくなったとしても、この七年間における、六十六年までに解消するという具体的な第一年次の計算をして、これをちゃんと要求するかどうかということを聞いておるわけです。
  48. 高石邦男

    高石政府委員 大臣もしばしば答弁申し上げておりますように、昭和六十六年度までには四十人学級を完成するという基本的な方針を持っているわけでございまして、したがいまして、そういう方針のもとに作業をしていかなければならないと思っております。
  49. 中西績介

    中西(績)委員 それはこの前討論済みなんですよ、そのことは。というのは、六十五年まで財政再建が続くわけですからね。もしそこを少しでも、最初のうち、例えば来年を削ったりなんかすると、それ全部削り込むわけですから、六十六年までに実現すると言うけれども、その可能性というのは、むしろ来年から具体的にそういうものをやっていった方がより具体的なんです。  こうした点がこの前から全然進んでおらないところを見ると、まさにまたこれは財政上ということを理由づけ、行革ということを言いさえすれば来年もこれをしないということになる。そして、ほかの私学の問題から全部削り込まれてくれば、この表にある、六十年度は国家財政の中に占める割合というのは、今九%まで来ているわけですね。この九%を今度さらに割るということになる。片や軍事費だけはまたどんどん伸びていくわけですから、倍々ゲームでしょう。伸びたものに今度はまた上積みしているわけです。片一方は、削ったものに今度はまた削り込むわけですからね。この格差たるや大変なものになってくるということを十分認識してください。  こう申し上げる間に時間が参りましたのでやめますけれども、いずれにしてもこの中身というのは、少なくとも第一条の目的、もう一度申し上げますけれども、社会の変化及び文化の発展、創造と発展対応する教育、それは教育基本法の精神にのっとるというその中身は、先ほど私が主張いたしましたように、あくまでも行政は行政としての責任を果たすというそのことがまず第一になくてはならぬし、そうでなければ、予算面におきましてはさらにマイナス予算になってくることは必至です。したがって、そうしたことをさせないためにも、私は、まずやるべきことはこうした具体的な施策を充実をさせるということが前提にならないと、何を改革をしていくかということを言わざるを得ません。  したがって、そうしたことがきょうは十分出ませんでしたので、この臨時教育審議会設置法、これについて、今大臣期待をするような賛成をするわけにはいきません。その点をまず明確に、これから後同僚議員がやりますので、そこで明らかにしていただきたいということを要請をいたしまして、終わります。
  50. 片岡清一

    片岡委員長 午後一時から再開することとし、この際、休憩いたします。     午後零時五分休憩      ――――◇―――――     午後一時五分開議
  51. 片岡清一

    片岡委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  質疑を続行いたします。田中慶秋君。
  52. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 学歴社会に対する教育のあり方等について文部大臣見解をお伺いしたいと思うのです。  臨教審に絡んで文部大臣は、二十一世紀を担う青少年にとってどういう制度がいいか、文部大臣としての立場でこういう諮問をしたいということも過去に述べられました。臨教審設置に当たっての考え方にはそれぞれいろいろな問題ありますけれども、例えば、教育の最終課程が、私たちの社会全体の受け入れ体制として少なくとも老後の暮しやあるいは充実した人生を送るため、こういうことも教育の一翼であるのではなかろうかと思います。そのときに当たって、現在の社会風潮がどうしても一流大学志向といいますか、頂点とする大学出身者を社会全体が望んでいるような傾向にあるわけであります。例えば、先般も発表されました一流企業で一流大学をどのくらい望んでいるかというと四割方、民間企業の調査の中で明らかになっているわけであります。  こういう問題やら、国家公務員の上級職を見ても、五十七年度の合格者の中を見てまいりますと、東大出身が五百六十三人、京都大学が百九十一人、大臣の出身であります早稲田が五十一人、こういう形で、それぞれ一流大学出身が圧倒的に多い社会環境になっている。つまり学歴偏重の社会であるということは、これを見ても明らかだと思います。こういうことがそれぞれの受験戦争あるいは受験の競争ということをつくっている社会環境ではなかろうかと思います。  こういう実態について大臣はどのようにお考えになっているのか、所感をお伺いしたいと思います。
  53. 森喜朗

    森国務大臣 今例示として田中さんもお取り上げになりましたけれども、試験の結果特定の大学に合格者が集中する、それをもってそこが一流大学であるというふうに私は必ずしも見ていないのです。  たまたま例示に早稲田を今おっしゃいましたが、私は自分の母校を考えてみて、公務員を志望する学生がたくさんいることそのものは悪いことじゃありませんが、早稲田大学から公務員になろうという希望者がたくさんいること自体が早稲田の建学の精神、反逆の精神がどこか忘れ去られたな、建学の精神を忘れ去られた大学は必ずしも私は一流大学だとは思わない、多少情緒的観念論ですが、私はそういうふうに思っているわけでございます。  一般的には企業の指定校制でありますとか、今の公務員採用の際特定の大学に合格者が集中するということは、学力を評価をした結果であるわけでございまして、学力がすばらしいからといって一流大学だとは私は思えない。昔の早稲田なんというのは、どこの大学にも行けなくて早稲田に行った、そういう人たちがむしろ世の中に出て大活躍をした、そのことが評価として、一流かどうかわかりませんが、大学の評価を上げているものだというふうに思うのです。  私は、社会的な風潮が学歴を中心にして人の評価をするという今の基準のあり方が教育に及ぼす影響はとても深刻なものだと考えていかなければならぬ、そういう意味でその是正を図ることは教育の正常化を進める上において大変大事な課題だというふうに考えておりますので、この辺の是正をどうするか、どういう取り組み方をするかということは、やはりこれは文部省中心として社会全体の諸制度にも考え方のよりどころがあるわけでございますので、どのように取り組むかということについては、そういう意味でこれから審議会でぜひ御論議をいただきたい期待の一番大事なところである、こういうふうに考えておるわけでございます。
  54. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 一流大学云々という問題は私が言っているのではなく、そのようにマスコミとして報道されているわけでありまして、それぞれ自分たちの母校やら、あるいはまた、そこで学んだ人、青春を謳歌した人たちは、キャンパスを含めて思い出があり、自分たちで評価をされていると思うのです。しかし、現実の社会風潮というものがそうなっている以上、そういう表現で申し上げながら、例えば国家公務員の中で課長さん以上の問題をとらえても、極端なことを言って東京大学出身者が三六・六%を占めている、その他の多くの国立大学を含めて三一%、こういう実態であります。私学は約七%程度。こういうそれぞれの実態から見て申し上げているわけでございますので、これは、公務員の実力なりあるいはまた公務員のそれぞれの人柄云々ということは別にしてこういう数字が出ているわけであります。こういうことを考えてまいりますと、どうしても自分の子供を少しでも、そういうことも含めて、この風潮というのは将来とも消せないと思うのです。子を持つ親として一流企業なり公務員なりこういうところを望むのは当たり前だろう、そういう結果が今の教育地獄といいますか、受験地獄といいますか、こういう問題を醸し出しているのではないか、こういうふうに思うわけであります。  そういう点で私たちは、今大臣からもお話がありましたけれども、もっともっと文部省サイドにおいてこういう実態というものを深刻にとらえながら、今度の臨教審の中であらゆる角度で騒然たる教育の問題の検討をしていただきたいと私は思うのですけれども、この辺について大臣どう思いますか。
  55. 森喜朗

    森国務大臣 幾つが御指摘がございましたけれども文部省といたしましては、そういう排他的といいましょうか、そういう指定校制の是正については、労働省などとも十分協力をしながら企業側の自粛を要請をいたしております。昭和五十三年の調査によりますと、ちょっと古いのでありますが、指定校制をとる企業は減少をいたしております。そういう傾向を示しておりますけれども先生から御指摘がございましたように、なお解消したとは言えないというように考えております。  学歴偏重の社会的風潮の一因として、企業の指定校制、あるいは今お話がございましたような官庁の採用方法にも問題があるということの指摘もございます。おのおのの能力の資質、これが正当に評価されるという資格制度あるいは雇用のあり方等については、十分今後検討すべき課題であろうというふうに考えておりますので、そういう意味ですべての物のとらまえ方、人の評価の仕方、そういうことについてこれからどう取り組んでいくか、これはある意味では審議会の大きな課題になるであろう、こういうふうに私は考えておるところであります。
  56. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 そこで、今文部大臣からも、労働省の方とそれぞれ連携をするというお話があったわけでありますが、この学歴社会の偏重に対し是正を求められている民間企業のあり方、あるいはまた指定校制度等々の問題が今なおこういう形で続いているわけでありまして、今文部省大臣としてのそれぞれ連携を密にした中で、労働省はそれを受けでどのような立場で検討されているか、あるいはまたこれからどのような形でこれに取り組んでいくのか、その辺について考え方を伺いたいと思います。
  57. 鹿野茂

    ○鹿野説明員 最近の新しく学校を卒業して就職戦線に加わる子供たちの状況を見ますと、大体毎年百三十万人ほど新規労働力が労働市場に出てくるわけでございますが、その中で大学卒業者が三十万人、短大卒業者が十二万人、合わせて四十二万人、そのほか高卒者五十二万人、中卒者五万人、専修学校卒業生二十万人と、高学歴化が非常に著しくなっているわけでございます。  したがいまして、当然大学卒業生の就職分野も大きく変化をしておるわけでございますが、そういう状況の中で、先生から御指摘ございましたように、一部の大企業におきましては依然として、これはやむを得ない面もあるかもしれませんけれども、ある程度募集人員に見合った応募数に抑えたいために特定の大学を指定せざるを得ない、そういう募集技術上の問題もあるかもしれませんが、特定の大学からしか応募を認めないという企業が、先ほど文部大臣からもお答えがありましたように、約一〇%近くまだあるわけでございます。したがいまして、私ども労働省としましても、適性と能力に応じた採用選考をしていただきたいということで、文部省とも協力をし、各企業にそういう要請活動を行っているところでございます。  また、具体的には、大学卒業生にできるだけ多くの情報というものを提供することが必要ではないか。特にUターン学生のように、なかなか就職機会あるいは情報の機会に恵まれ狂い学生に対して何らかの情報を提供したいということで、現在労働省におきましては、全国六カ所でございますが、学生職業センターという大学生専用の総合的なセンターを設置いたしまして、Uターン学生に対する情報であるとかあるいは就職機会に恵まれない女子学生であるとかあるいはまた身体障害者の学生に対する特別の情報提供等を行っているところでございます。  いずれにしましても、先生指摘のように、特定の大学からしか採用しないといういわゆる指定校制度の廃止につきましては、今後とも文部省とも協力しながら強力な指導を行ってまいりたいと思っているわけでございます。
  58. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 現在の労働市場なりあるいはまた日本経済のあり方を考えてみてもおわかりのように、まさしく国際化時代の波に乗っておりますし、あるいはまた先端技術を初めとして、高学歴化の問題というものが日本のあらゆる産業に与えている影響というのは大きく評価をされていると思うのです。そういう中で、学歴偏重、指定校制度とか、そういうことによってその人の一生なりいろいろなことが決まるということに対しては不公平だろう、こういうふうに思いますし、今労働省から決意が述べられておりますけれども、これからもぜひそういう不公平のないように、機会均等といいますか、そんな形の中で、自分たちが学んだことや自分たちの能力に合う形でそれぞれの将来を目指せるような希望というものを当然与えていただきたい、こういうことをぜひ要望しておきたいと思います。  そこで、今労働省に質問させていただきましたけれども、続いて公務員関係でございますけれども、先ほどの数字でも明らかなように、国家公務員、確かに実力があってあるいはまたそれぞれの関門を突破した形で公務員になられた方だと思いますけれども、ただ、なられた後の問題というのは、それぞれエスカレート式ではないと私は信じておりますけれども、現実問題として、結果からおわかりのように課長さん以上を見ても東大出が三六・六%、他の国立大が三一%、その他私立大学が七%、こういう格好になっているわけであります。こういうことについて、偏見ではありませんけれども、この数字を見て、率直に人事院としてどういうふうな判断をなされるのか。
  59. 鹿兒島重治

    ○鹿兒島政府委員 当委員会におきまして既に私どもの総裁よりもお答え申し上げておりますが、公務員の試験自体はあくまでも平等、公開でございまして、これまでの受験者を見てみましても、四割強というものは私大の出身者の方々であります。結果として、お話がございましたように、東京大学中心とする国立大学出身者が多数を占めているということでございます。  私どもとしましては、平等、公開の原則ということもございますので、できる限り多様な人材を確保したいという気持ちは持っております。そういう意味で実は私どもなりに工夫はしているわけでございまして、採用試験の記述式と申しますか論文の試験委員につきましては、現在上級職については二十七名委嘱いたしておりますけれども、そのうち東京大学の教授はただ一名でございまして、各大学のバラエティーを持たすということはやっているわけでございます。  いずれにいたしましてもそういう結果が出ていることは事実でございますので、多年の伝統でありますとかこれまでのいきさつとかいろいろあろうかと思いますが、私どももできる限り多様な人材を確保するという方向で今後とも真剣に検討させていただきたい、かように考えております。
  60. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 いずれにしても、国家公務員としてあるいは国民のシンボルとしてそれぞれ皆さんは奉職されているわけですから、それぞれの職場で活躍はしていると思います。ただ、そういう結果を見て、一流大学志向が国家公務員にまで出ておるということであってはいけないと私は思いますので、ぜひこれから改善その他の策に努めながら、公平な形で、それぞれの職場で希望を持った形で仕事のできるようにしていただきたい、こういうふうに思います。  次に、私は、家庭教育並びに教育環境等々の問題を含めながら若干大臣質問をしたいと思っております。  教育は、もちろん大臣が今でも言われていたように、知徳体という問題から体徳知という問題、いろいろ含めて大臣考え方もあったと思います。しかし、そういう中で実は現在一番要求されている問題は、道徳、しつけの問題ということが最近の世論調査で明らかになったわけであります。要するに青少年の非行あるいはまた教育の荒廃等々の関連の中で今度の臨教審問題も出てきたと思います。そういう中で、日ごろのしつけの問題、道徳教育という問題について今の社会風潮の中で強化を望むという圧倒的な声があるわけであります。これらに対して大臣はどういうふうにお考えになっているのでしょうか。
  61. 森喜朗

    森国務大臣 先生が今参考としてお取り上げになりました神奈川新聞社、これは共同通信の世論調査でございますが、拝見をいたしております。そして学校教育改革すべき課題という中の三つまでを選択するような問いかけでございますが、道徳やしつけに対する改革をすべきだというのが五一・一%あるということで、道徳教育に寄せる国民期待は大変大きなものだというふうに私自身は理解をいたしております。  ただ、私は予算委員会のときにも申し上げたのですが、確かに今の子供たちあるいは子供たちからもう少し上のゼネレーション、若い世代の人たち、ナウいなんという言葉がはやっておりますが、ナウいという言葉は明治生まれの皆さんには何となく合わない言葉であります。では合わないからといってナウいというのは全くいけないことなのかとも必ずしも言い切れるものではない。一口で言えば価値観の多様性という言葉で言いあらわすことが政治家の中ではよくあるわけでありますが、世代世代によって日本の社会の変化、そしていつも申し上げておりますし、午前中にも中西さんとの議論に出ましたように、文化の進展といいますか、そういう変化によって人間それぞれ価値観が違ってくる、そういうところの価値観の違い、ある意味では世代間の違いが端的に言えば、昔で言えばこれは道徳、しつけできちっとやるべきであるという考え方もあるかもしれませんが、若い世代から見ればそれはナウくて新しい生き方なんだという見方もあると思います。そういうこともいろいろございますし、世代間のあらわれというのが、教育の上で道徳をもっと明確にきちっとやるべきではないかという国民的な要望となって出てきておる、そういう背景も考えておかなければならぬだろう、私はこう思っております。  しかし、いずれにいたしましても、文部省としては全国のすべての公立小中学校の道徳教育の実施状況の調査を行ってみたわけでございますが、その状況を調査の上、本年度は従来の施策に加えましてなお一層このことについては十分に留意した教育をしていかなければならぬだろう。学校・家庭連携推進校の指定をいたしますとか、校長等を対象とした中央研修の開設をいたしますとか、道徳教育用郷土資料の研究や開発という新規事業を進めていくとかいろいろなことを進め、なお一層、さっき申し上げたように価値観の多様といいましょうか世代間の考え方のずれといいましょうか開き、そういう中で先般三月には児童の日常生活に関する調査を行ったわけであります。木登りができるかとかリンゴの皮がむけるかとか、新聞に出ておったので先生も御承知をいただけると思いますが、私ども子供時代に学んだことを今の子供たちは全くできないという面がある。例えば鉛筆削りそのものだって同じようなことも言えるわけでございます。  そういう意味で、道徳あるいはしつけということに、学校教育の中で十分留意を加えていくことが大事だという考え方を、文部省としてはこれから進めていかなければならぬ、こう思っているところでございます。
  62. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 文部省として道徳、しつけの問題を積極的に取り入れていただけるということでありますが、中でも、今世代間の話が出ましたけれども、私は道徳すなわち物に対する常識の判断であろう、こんなふうに思うのです。  例えば、現在の社会環境の中で子供たちに与えている環境といいますか、例えば教科書に出てくる環境と現実に過密の中における社会環境を考えたときに、全然違っている。例えば小川のせせらぎといったところで、都会において小川のせせらぎというのは現実にないわけです。こういう問題があって、文部省あたりでも恐らくそういう観点から、自然教室とかいろいろなことで体験教室の中へ取り入れられたと思っておりますけれども、そういう子供たちが想像するに余りある今の教育環境の崩壊というものも考えられるわけでありますので、そういう点ではやはり現状を直視しながら環境整備というものを当然やっていかなければいけないのじゃないか。それも私は常識の一つだと思う。そういう中でいろいろなものがあらわれてくるのではないか、こんなふうに思うのです。  そういう点で、少なくとも政府がことし、体験教育、自然教育等を進められたということは大変すばらしいことだと思うのです。ただ、全国で進めようとしている四泊五日の研修も圧倒的に人気があるといいますか、そういう点では非常に応募者が多いというようなこと、しかし、それはそれだけ要求されているものですから、もっともっと幅を拡大するとか、そういうことをしてぜひやっていただくようにお願い申し上げたいと思うのですが、その辺についての考え方を聞かせていただきたいと思います。
  63. 森喜朗

    森国務大臣 学校教育はもちろん学問を進めていかなければならぬということが第一義でございましょうが、今先生から御指摘がございましたように、人間として一番基本に何を心構えとして持っていくのか、そうした基本的なことをやはり十二分に子供たちに繰り返し繰り返し教えていくことが大事だろう。  先ほど道徳教育のお話がございましたし、文部省でも調査をした結果を見てみますと、道徳教育文部省としても積極的に進めて指導いたしておるわけでございますが、いろいろ調査をしてみるともう既に学校先生方自身が新しい世代になってきておられる。先生方自身が道徳教育というものに学校時代にどう取り組んでこられたかというようなことにも若干――今日の道徳教育そのもの、しつけを子供たちにどのように教えていくかということを教える先生自身がどう教えられてきたのか。教育というのはやはり繰り返し繰り返してありますし、教育というものの成果というのは、ある意味では五十年、百年という見方もできますが、現状のような世の中の進歩から見ると十年、十五年、二十年で一つの形が出てきておるのじゃないかな、そういう感じを私は持つわけでございます。  そういう意味で、しつけというのは、ただ単に厳しくこれをしなさい、これをしてはいけないと言うことではなくて、先生に今お取り上げをいただきました自然教室のような、自然の仕組み、人間としての交流のあり方、約束事、自然と人間との関係、そうした基本的なことをこれからも子供たち学校教育の中で自然な形で体得でき得るように、今推進いたしておりますような考え方はさらになお一層拡大をしていきたい。そういう意味では地方の教育委員会あるいはまた学校、皆さんの協力を得てこうしたことを進めていかなければならぬ、こう思っておるわけであります。
  64. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 大臣も御案内のように、今自然との触れ合いを大切にするということでありますが、残念ながら最近、自然感というのが非常に薄れてきているという問題もあります。例えば農業問題一つをとっても、生鮮食料野菜を見ても一年じゅうあります。キュウリを食べたければキュウリが一年じゅうある。トマトもそういう形になっている。現在四季の感覚がわからない。自然の感覚すらそういう形でおかしくなってくる。片方においては、農業政策の一環でお米の生産が過剰だということで減反をされている。そういう減反を利用した形の中で体験教育でもっともっと自然というものに対して取り組む、そういうことに教育課程の中で取り組む必要があるだろう。  こういうことを含めながら、今多く問題を指摘されている教育環境といいますか、今度の教育改革臨教審の中でそういう実例を調査しながらもっともっと取り入れていただきたい、こんな気がするわけですけれども、この辺について大臣としてのお考えをお聞かせいただきたいと思います。
  65. 森喜朗

    森国務大臣 御指摘をいただきましたようなことなども含めながら、文部省としては、できる限り学校教育の中で人間としての大事な基本的な決まりを会得できる、体得できるような、そうした教育内容にしていかなければならぬだろう、こう考えております。  ただ、例として私もたびたびいろいろな機会に申し上げてまいりましたが、ゆとりある教育ということを、詰め込み教育はよくないんだ、教科書は薄くかばんは軽くということで、私たちも当時党の立場で唱えてまいりました。文部省もその方に取り組んでおりますが、現実の社会の目といいますか見方といいますか、逆に言えば、親の立場からいうともっと勉強させてほしい、ホームルームや修学旅行や自然教室でキャンプをするよりも英語や数学をもっと教えてくれないと上の学校に進めないのです、こういうことを趣旨にした請願書なども国会にたくさん出ておることは、先生も御承知だと思うのです。  私どもはむしろ今先生がおっしゃいますようにゆとりある教育を進めていきたいと考えておりますが、世の中がなかなかそう理解をしてくれない面もあるわけでありまして、そういう意味で、今度の臨時教育審議会は単に教育の一部分的なものを改善するということであっては、一つは功をおさめるかもしれませんが、別の角度から見ればこれは不満になってあらわれるということで、教育制度というのはある意味では最大公約数を得るということは非常に難しい仕組みだろう、こう私は考えます。そういう意味で、教育全体の問題を教育審議会議論をしていただきたい。そして、いろいろな各行政部に関連をいたしますものでございますから、そういう意味で幅広く教育全体を一度考えてみたいというのが今度の審議会のねらいでございまして、当然、今先生指摘をされ、希望をされましたことなどをできるだけ積極的に進める上において教育制度はどうあるべきだというようなことなども観点に置くべきだろうというように考えるわけであります。
  66. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 今大臣から、ゆとりのある教育等々を含めながら述べられておりますけれども、現実に今の子供たち教育実態、荒廃とかいろいろなこと、その実態は高学年からだんだん低学年に来ていることは事実であります。例えば、校内暴力、家庭内暴力あるいは暴走行為があった人たちが、高校、それが中学に移り、小学生までがその予備軍、こんな形で考えられているわけであります。そういう中で、義務教育の中でいろいろな形の要望がされてきているわけであります。  例えば、それぞれ地方自治体の文部省に対する請願、陳情、これはもう数限りない形の中で山積されている。しかしその中にもやはり特筆すべきもの、例えば、先日もこの席上から議論のあった大規模校なんていうのもその一つだと思うのです。その実態、神奈川だけでも大規模校と言われる三十一学級以上ですか、これが二百校以上あるわけでありますし、四十人学級の問題も含めてそれぞれ要望が来ている。現実に六十年時限立法のような形になってまいりますと、そういう要望についてなかなか受け答えができない、こういうことでありますけれども、小中学校義務教育、これはどうしても予算を食うものがたくさんあるわけであります。ところが、現実問題として文部省は、それは地方の県教委なりあるいは市教委の立場で、こんな形で、肝心なことになってまいりますとすれ違いが出てくる。  私は、一貫した教育といいますか大臣が望んでいるような本当にゆとりのある教育、それは教育指針だけじゃなく名実ともにそうあるべきであろう。そこにはどうしても予算がついてくるわけであります。そんなことを考えてまいりますと、このシーリングの問題を含めて、やはり教育予算というのはカットすべきじゃない、こういうふうに考えているし、文部大臣も恐らくそんな考え方を持っていると思います。ところが、今申し上げたような実態というものを踏まえて、臨教審の問題、あるいは中教審でも、これが完全に、本当にいい形の中で答申が出たものであってもなかなか予算措置ができない、こんなことを承っているわけでありますけれども、これらの因果関係なり、また現実問題として全国から請願、陳情を含めたくさん来ている問題等について、まさしくこの義務教育の実態というものに対して、やればやるほど予算がかかる、いろいろなことを含めて、教育改革立場予算的な立場両面で現場の先生方を初め地方自治に当たっている人たちも大変悩みを持っていると私は思うのです。こういうことについてどのように解消され、あるいはまたどのように御検討されているのか、お伺いしたいと思います。
  67. 森喜朗

    森国務大臣 私は、教育に国として投資をする、教育にかける経費というのは基本的には惜しむべきではない、教育の成果は、先ほども中西さんの御質問の際にも申し上げましたが、まさに日本の国の将来の命運を左右する、それぐらい大きな事業である、また敬けんなものでなければならぬというように考えております。しかし、政府が行政をそれぞれの部門で進めていく上において一つの財政の中でこれに取り組んでいく、これもまた基本的な形でなければならぬと思っております。  ただ、今の先生のお話の中にもございましたけれども教育にかける公費といいましょうか、教育費というものは聖域なんだというふうに考えるべきであるかどうかということについては、国民意見にさまざまなものがあろうと私は思いますが、必ずしもそれはまだ集約されていないだろう、こう私は思うのです。私も例えば教科書問題などで党の中でも随分苦労してきた一人でございますが、選挙区に帰ってみましていろいろな人の意見を聞いてみますと、小中高それぞれ違いますが、たかだか一年間三千円から五千円、それぐらいのことをどうして取り上げるんだ、それぐらいのことは国でやるべきだという意見もあるし、逆に言えば三千円や五千円の負担ぐらいは、これは子供教育に対するある意味での親の気持ちをあらわす意味で親が買ってやってもいい、そういう時代ではないのかなという意見もあるわけであります。非常にここは難しいところだと思います。そういうふうに、教育にかける経費というものの見方というのは聖域でいくべきなのかどうかということについては、まだこれからやはり国民の多くの議論をまとめていかなければならぬ段階だろう、私はこう思うわけでございます。しかし、現実の問題といたしましては、今非常に財政が厳しくて、教育行政を進める上において大変難しい時点に立っているという判断は、今までの短い経験でございますけれども、私なりに党の立場教育行政のお手伝いをしてきて、今大変な時期に来ているなどいう感じは私は持っております。  そういう意味で、よく議論に出てくることでございますが、教育にかかる経費は国がどう負担し、個人がどの程度の負担をするのかというようなことについても、教育制度をこれから考えていく上において臨時教育審議会ではそうしたことなども御論議をいただくことが多いのではないか。また、でき得ればそうしたこともぜひ論議をしていただきたいな、そういう中に、臨時教育審議会とともに、総理も幅広く国民のすそ野の広い論議をしていきたい、またそれを求めたい、こういうふうに言っておりますように、国民全体がそうした観点からも教育の論議を深めていっていただけるのではないか、そういうふうに私自身期待をいたしておる、こうお答えを申し上げておきたいと思います。
  68. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 文部大臣からそれぞれの基本的な考え方をお伺いしましたけれども、そこで、私学助成のあり方について、文部大臣にこの辺の基本的な見解をお伺いしたいのです。  今まで私学教育に果たした役割、例えば高校は義務化したと言っておりますけれども、大体私立高校は全体の四〇%近いわけですし、大学になると八〇%ぐらいが私学であります。その評価はさまざまだと思うのですけれども、財政的なことになってまいりますと、そこには必ず補助、助成とかという、そういう言葉がこの予算書にも出ているわけですね。しかし、教育というものが、補助、助成という表現でいいかどうか、私はお互い役割分担ではないかというような気がするわけです。そういう点では、文部省という立場で、助成というよりはむしろ教育機関としての委託のような形であるべきで、教育の公平という考え方からすると、助成ということはおかしいのではないか、この私学の建学の精神なり教育の独自性、そういうものをもっともっと大切にしなければいけないと思うのですけれども、そんな精神があるから、例えば臨調答申が出る、五十八年度では七十億カット、五十九年度では一二%もいろいろな形で私学の補助金がカットされている。そういうところに、発想の問題点があるのではないか。  昔は、例えば教育費の公立、私立考え方というのは一対一・二ぐらいであったそうであります。しかし現在では、例えば医学系でありますと、国立の医大に入りますと約二十五万ぐらいでありますが、私学へ入りますと約一千万近い。こんな差が出てきているのが実態ですね。そういう、それぞれの教育の結果社会に果たす役割というのが非常に多いわけですけれども、現実には負担の考え方をすると公平ではない。むしろ私立がそういう中でこの財政的なカットをされるということ自体がやはりおかしいのではないか、こんなふうに思うのですけれども、この辺、文部大臣いかがでしょう。
  69. 森喜朗

    森国務大臣 私立学校が幼稚園から高等教育機関まで日本教育において大変大きな役割を果たしている。特に就学前の幼児教育、そして教育のいわゆる完成といいましょうか高等教育機関が、今田中さんがおっしゃったとおり、八割近くが私学にむしろおぶさっている。そういう意味で、私学日本教育の今日の繁栄の中に大きな役割を果たしてきた、私どもはそのように承知をいたしておるわけであります。  そういう中で、私立学校助成費というものを法律に基づいて実施をするようになってきたわけでございます。法律の精神は経常費の二分の一を一つのめどという形で、その以内でというふうに法律は書いてございますが、私どもは、二分の一を一つの目標ということで今日まで私学助成努力をしてきたわけでございます。  先ほどの御質問の際と同じようでございまして、これも財政全体から言えば、シーリングというものがかけられる。教育費は聖域でシーリングにかけるべきではないという国民的な判断が出れば、これはまた別な話でありますが、現時点では、やはり財政の中にあっての各行政で教育行政は進められていくものである。こういうふうに考えてまいりますと、このシーリングをどうやって少しでもはみ出すか、あるいはシーリングの枠を少しでも伸ばすかということが、私どもが今日まで努力してきたところでございます。したがいまして、昨年は一律政策経費は一〇%というふうにかけられたわけでございますので、その中で最大限として努力はいたしましたものの、御指摘のような数字になりましたということについてはまことに残念だと考えなければなりません。ただ、それではこれから財政が好転をして、さらになお一層大きく日本経済が豊かに伸びていくであろうというようなことは、これはそう期待はできないということでもございます。しかし、我々は法律趣旨に基づいて私学というものをなお一層また伸ばしていかなければならぬということもございます。  そういうふうに考えてまいりますと、やはり単に一律的に、今私学助成をいわゆる人件費とかその他の要因で積算をして進めていくことが本当にいいのかどうか。一方においては、本当に数少ないことで、本当にこの人たちのために思うと残念でしょうがないのでありますが、不祥事が出てくる。また、その不祥事が大きく世論を喚起させるようになる。そうして、私学経営者の実態を見ておると、どうも私学助成というものをどう理解をしておられるのかなあというふうに首をかしげたくなるようなケースも非常に多い。そういうことがやはりなかなか国民の御賛同を得ないところであろうかというふうに考えますが、そのためにまじめに一生懸命努力している私学が大変な苦労をするということになっては、これは全く意味のないことでございますから、私学側も中心になり、また文部省もいろいろな意味私学助成のあり方等については少し一工夫も二工夫も必要ではないだろうか。そうして、本当にまじめに、今田中さんがお話をされているように、日本教育をなお一層充実し、そして進めておられる方々には、本当に国が御助成をでき得るように、そういう形を何とかしてとれるような方策はないだろうか、今後そういうことが最大の検討の課題だろうというふうに考えております。しかしながら、そういう枠の中にありましても、私学法の精神は私どもは大事に守って、なお一層私学助成については文部省としてもやはり大きな重点の項目として努力をしていきたい、こう考えているわけでございます。
  70. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 いずれにしても、来年度以降の問題、財政が大変厳しいからといって、私学役割というものを重視しながら、財政的な問題について余りしわ寄せにならぬようにぜひ努力をしていただきたいと思います。  そこで、今お話にも出ましたように、法的な措置云々という問題もあるわけですけれども、確かに教育は、教育基本法の問題もあるわけであります。そういう点で実は先般もこの席で、臨教審から現在の教育基本法、特に義務教育と中高教育等々の見直し等について答申があった場合、その精神に触れなければ改善してもいいのじゃないかと私は質疑をしたわけであります。総理大臣あるいはまた文部大臣答弁は、「教育基本法の精神にのっとりこという形で臨教審に書いてあるから今の制度は改める意思がない、こんな話が出たわけでありますけれども、先ほど新聞でも御案内のように、日本世論調査会が行った中で、教育基本法について、改めてよいという考え方が全体の過半数、五四%も占めている、こういう実態は私は見逃せないと思うのです。また、この制度を改めてよいと慎重に改革に取り組むべきだを含めますと、約六〇%の人たちがこの六・三・三・四について制度改革はしてもいい、こういう数字のとらえ方ができるわけであります。しかし、それについて文部省あるいはまた当局の皆さんは変える意思はない、こんな形で述べられているわけです。  特に中高の問題を大臣も述べられていたわけですけれども、まさしく受験戦争という形の中で、今の義務教育九年、これにこだわっていると当然そこには高校進学の問題あるいはまた大学問題等々。いずれにしても、全体的な改革をしてもいいという世論、こういう裏づけに基づきながら、やはりそういうことを含めて改革するというのが今度の臨教審考え方でもあるのではないかと私は思うのです。国民のコンセンサスというもの、国民が望んでいるものにこたえるのが真の教育だと私は思うわけです。この辺について大臣は今までの考え方を変える意思はないのかどうか、お伺いしたいと思います。
  71. 森喜朗

    森国務大臣 基本的には私も総理も、いわゆる修学年限、今九年と定められている義務教育の年限を私どもとしては変える必要はないというふうに考えております。  ただ、いつもここのところでおしかりをいただくのでありますが、義務教育の九年というものは絶対なのかというようなことは、これは御専門の皆さんでお考えいただくことがとても大事なことだと思うのです。今先生が参考として取り上げられた世論調査の数字は大変興味深く見ておりますが、これは細かく設問がしてないからそれぞれ答えられた世論というのはどういうものかわかりませんが、試験が余りにも厳しい、試験というものに対する教育の弊害というのが前に出過ぎている、だから中三、高三というのはどうもよくないのではないかということにもなる。あるいは小学校六年という数字と中学三年の連結をもう少し変えてみたらどうかという意見もある。  さっき試験のことで申し上げましたが、先生も今一貫教育と言われるように、中三、高三というものを六年続けてしまった方がいいのではないか。現実の問題としては、教育内容等についてはその辺は既に一貫教育考え方をとって具体的に進めている教育もありますが、制度としてはそれを全部六年というふうにはオープンにはしていないわけでございますから、やはり問題は、年限を短くする長くするという議論はまた別途の問題として、その間の中の区切りの仕方ということにこれから工夫があっていいところではないだろうか。  外国の例などでも幾つかあるわけで、大体義務教育は九年、アメリカあるいはイギリス十一年、フランス十年、ドイツ九年、ソビエト十年というふうにございますが、この区切りの仕方が非常に多様な形になっております。アメリカなどは州政府が、行政が全部教育権限を持って進めておるようでありますが、州によってはいろいろな取り方をしておるようでございます。そういう意味で、この義務教育の年限というのは私は大変大事な課題だと考えております。今試験が何回もあるとか、そんなところだけから見て変えた方がいいのではないかとか、一貫教育をさらにやった方がいいのではないかという国民の御意見として、数字としては高く出てくるのではないかというふうに考えます。  いずれにいたしましても、この義務教育年限と中等教育における学校段階の区切り方というのは、必ずしも一致しなければならぬというふうには私ども考えておりません。そういう意味でこれからはさらに工夫の余地があるのではないか、方法等を多様的に見出してもいいのではないかというふうに考えております。いずれにいたしましても中等教育はとても大事な教育段階でございますから、今後十分こうしたことを検討していく大事な課題であるというふうに私は考えております。
  72. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 総理からこれに対していろいろな角度でお答えもいただいているわけですが、大臣も、今この辺については大切な問題であるという前提であるわけですけれども、私は、国民というのはそうばかじゃないと思うのです。こういう数字が出ているのは試験だけの問題じゃないと思うのです。今私も高三の子供を持っておりますし、一生懸命大学を目指して頑張っている、そういう実態もあります。現実問題として、例えば中学校は三年ありますけれども、神奈川なら神奈川方式になると、二年後半でアテストがある。三年は現実にはもう受験勉強だけなんです。高校もそうです。もう高校三年になるとまさしく部活なんというのはほとんどやってない。これが現実なんですから、そういう実態を見て、子供たち教育というものについてもっともっと本当にゆとりのある、そして子供達に伸び伸びと教育ができるような環境というものを制度の中でつくるんだったらやっていかなければいかぬだろう、こんなふうに思うわけで、その辺について、もう一度しつこいようでありますけれども大臣考え方をお伺いしたいと思います。
  73. 森喜朗

    森国務大臣 先ほども申し上げましたように、細かく区切るということと、もう一つは受験というものといかに取り組むか、試験をどうクリアをするかということにどうしても教育の姿勢といいましょうかウエートがかかってくるところに、今日いろいろな教育における病理現象というものが出てくるんだろうと思います。そういう意味で、先ほど申し上げましたように年限は年限、これは大変厳しい状況の中で戦後義務教育を三年延長して九年というものを求めたわけでございますから、このことを基本的には大切にしながらさまざまな工夫を講じていくという、多様なやり方というものが私はこれからとるべき方向ではないか、こういうふうに考えます。
  74. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 恐らく、制度改革も含めて財政的なことも私はその裏にあるのではないかと思うのです。例えば六・三・三・四の問題を一つとっても、総理を初め自民党の皆さんでもその辺の改革という問題について出されたと思うのです。一時はそういう形で燃えていた。そして今の教育荒廃という問題についてどこからメスを入れていくか、そういう形でそれぞれ模索をしたんだろう、こんなふうに思います。しかし結果的には、中教審を全部実施しますと七十二兆円もお金がかかる問題もありました。あるいはいろいろなことも含めて、現在の財政事情ということを大臣からよく言われるように、こういう問題を含めて制度改革をすれば財政的な裏づけという問題にどうしても来てしまう、そんなことも含めて私は思い切った改革ができないのではないか、どちらかというとそんな見方をしているわけであります。  今、戦後この制度が続いてきて、見直しすべきときには見直しをする、こういう時期だろうと思うし、もう一つ、今大臣から大変感心すべき発言があったのは、臨教審で検討してもらう、そしてその中でまた結論が出たらということでありますから、私は、これからもこういう制度の問題については当然臨教審の中で大いに議論をしてもらって、そして現在の義務教育制度を含めてその制度がいいかどうか、改革すべきものがあれば改革をしてもらう必要があるだろう、こんなふうに思うのですけれども、その辺について再度大臣考え方をお伺いしたいと思います。
  75. 森喜朗

    森国務大臣 基本的には諸制度を含め幅広くいろいろなことを御議論をいただく。また教育全体に対します識者の御意見をぜひ幅広く求めたい。幅広い御論議を私は希望いたしておるところであります。
  76. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 私どもこの臨教審の問題については、この前申し上げましたように、教育改革を含めて大変関心もあり、そしてまた今教育の荒廃があり、二十一世紀をまさしく担う子供たちのための教育改革をしなければいけない、こんな立場に立っているわけでありまして、そういう点では先般も申し上げましたように、国民のコンセンサスというものが教育にはどうしても必要だろう。こういうことを含めて、いろんな形のアンケートの中で教育の荒廃という問題についてみんな憂えていることも事実であります。そういう点では、それぞれの制度あるいはまた臨教審設置された場合においてはあらゆる論議をしていただくメンバーの人たち、臨教審委員の人たちは、何といっても国民のコンセンサスを得る、その民主主義のルールというのは国会の承認ではなかろうか、こんなふうに思うわけであります。同時に、その中で論議をされたものはこれからの子供たち教育、そして長い間の日本教育改革を行う基礎づくりだというふうに考えてまいりますと、そこに答申というものが当然出てまいりますが、その答申というものを国会に報告する。先般もこの席上で私どもは、こういうことを含めて今の臨教審制度改革に賛意を申し上げてまいりました。  私は、この二点というのは今の民主主義のルールとして当然必要であろうと思いますし、これからもまた、こういう形で教育国民のためにまた子供たちのために考えてまいりますと、いろんな形で想定される委員先生方、あるいはそこの中で検討された事柄については報告なり承認というようなことは当然あってしかるべきではないか、こんなふうに思うのですけれども大臣見解を述べていただきたいと思うのです。
  77. 森喜朗

    森国務大臣 幅広く国民的な御論議をいただくという観点から、私が先ほど申し上げました考え方、それは今田中さんのお話の中にもよく含まれていることでございまして、いろんな工夫を凝らしながら国民の合意を得るということが臨時教育審議会の大事なスタンスでなければならぬと考えております。  ただ、再度今御指摘がございましたように、委員の任命の国会同意につきましては、審議会委員を選任するときに当たりまして一人一人その適不適を個別に御判断をされるということになるのではないかと予想もできます。そういう意味で、委員候補者の立場というものも私ども考えますと、あえて規定を設けなかったわけでございます。  答申の国会報告につきましては、行政府の審議会で国会の報告を義務づけておりますものは極めて限られておるわけでございます。教育問題に関しましては、国会を通じましていろんな場所でいろんな委員会で御論議を深めていただいて、国政の重要な課題として国政の場で議論もいただいておるところでございますので、このことなども考えますとこれもあえて規定として設けなかったわけでございまして、私どもとしては、今田中さんから御指摘ありましたようなことなども含めながらいろんな角度で検討いたしました結果、今国会に提出させていただいております法案が最上のものである、こういう判断で御論議をいただいているわけでございます。  先生の御意見は私どもも十分承知をいたしておりますし、また、あえて今ここで御指摘いただきましたことについては、謙虚に私どもはその意見意見として十分承らしていただきたいというふうに考えておりますが、いずれにいたしましても今、国会での御論議をお願いをいたしておるところでございますので、その御判断は国会で皆様方がまたとっていただくことになるものであろうというふうにも私ども考えているところでございます。
  78. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 民社党は、教育問題について先般、二十一世紀はまさしく教育時代である、こんなことを申し上げました。あるいはまた、今の教育制度考えてまいりますと、三権分立じゃなくして四権くらいに教育そのものを重要視しながら考えている政党の一つとして、国会という少なくとも選挙を通じた民主主義のルール、そしてその場で国民のコンセンサスということでいろんな形で論ずることを含めて、国会の承認ということは重要なことであるから私どもは国会の承認は当然である、あるいはまた国会に報告をしていただきたい、こういう形で申し上げているわけであります。  いろんな事例もあろうと思います。ただ私は、今それぞれの過程で論議をさせていただいたように、国民ひとしく関心のあることであり、二十一世紀はまさしく教育であるという前提でこの臨教審という問題について取り組み、そしてまた考えているわけでございますので、今大臣からこういう問題を含めて国会の場でというお話もあるわけでございますので、いろんな趣旨はわかりますし、これがよりベターでありベストであるということもわかりますけれども、お互いに話し合いの場を持ってという精神を含めて多くの意見教育の中に反映させていただく、これが必要であろう、こんなふうに思う次第でございますので、その辺の所見を申し上げながら、私も時間が参りましたので、最後にもう一度私ども考えているところをよく踏まえていただけるように大臣にお願い申し上げたい、こんなふうに思う次第でございます。
  79. 森喜朗

    森国務大臣 民社党の皆さんが御熱心に教育問題を御論議いただいて、総理も当委員会であるいはまた国会のいろいろな委員会等におきまして民社党さんのそうした教育改革に対する御熱意に接し、総理自身が進めてまいりました教育に対する考え方に意を強くして今度の臨時教育審議会法案をお願いいたしておる次第でございます。  先生の御意見も十分承らせていただきまして、私どもとしましてはいろいろな角度から、再度申し上げますが、最上のものであるという考え方でお願いをしておるわけでありますが、やはり国会で今御審議いただき、国会で御判断をいただくということが大事なところでございますので、先生方の御論議も私ども十分踏まえて進めていきたい、こういうふうに考えております。
  80. 田中慶秋

    ○田中(慶)委員 ありがとうございました。時間が参りましたので、以上で終わります。
  81. 片岡清一

    片岡委員長 柴田睦夫君。     〔委員長退席、深谷委員長代理着席〕
  82. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 きょうは私、一時間半の持ち時間ですが、重要な教育改革の問題でありますので、きょうは一時間半で終わりますが、とても一時間半内で全部言い尽くせないということをまず申し上げておきたいと思います。そして、きょうの質疑で第一に教育改革の基本方向、第二に教育改革臨調行革との関係、第三に法案の持つ問題点、こうしたものを柱として質問いたします。  まず第一の教育改革の基本方向について伺いますが、中曽根総理は施政方針演説で、二十一世紀に向かっての新しい軌道をつくらなければならない、その目標は「たくましい文化と福祉の国」づくりであり、平和を志向する国際国家日本への前進であると語られました。このために行政改革、財政改革に加えて教育改革を断行すべきことを説かれました。そして、今日の教育制度は画一的な制度性格が強いということ、教育学校教育にのみ依存し、家庭、社会教育などの総合的教育の重視という考え方が弱いということを批判されて、総合的、人間的な教育のあり方、国際国家日本国民にふさわしい教育の国際化を探求すると言われました。この中で幾つかの問題について具体的に伺いますが、まず教育の画一化の問題です。  総理教育制度が画一的な制度性格が強かったと言っておりますが、文部大臣は具体的にはどういう点が画一的であると考えておられますか。
  83. 森喜朗

    森国務大臣 たびたび申し上げてまいりましたが、日本教育は、国民教育に対する大変大きな関心によりまして量的にも拡大をいたしましたし、また質的にも世界的な水準に至っております。そういうように教育発展をいたしてまいりましたし、またその教育の成果によって今日の繁栄した日本をつくり上げることができたと考えているわけでございます。  ただ、先ほどからのいろいろな御議論の中にも出ておりましたように、学校に学んで、そして教育基本法に求められておりますように人格の完成を目指してということが教育の最大の目標でなければならぬということでございますが、えてして、社会的な風潮等もございまして、それぞれの将来に、自分自身の進み方、求める道のために教育があるのではないか、そういう傾向が今日見られていることは事実だろうと思うのです。そういう意味で、先ほどから私も申し上げておりますように、人間の見方といいましょうか評価の仕方というものは、もっと多様な角度で見ていかなければならぬと私は基本的には考えているわけでございます。  そういうように量的にもふくれ上がり、また質的にも高いレベルになりました日本教育でございますが、社会がどんどん変化をいたしております。あるいは文化というものも、いろいろな角度で、幅広くいろいろな意味を持つようにもなってきております。したがって、今の制度そのものがいつまでもすべて最上のものだというふうに考えられないわけでございまして、変化に対応でき得るようにしていかなければならぬと考えております。そういう意味で私ども教育の画一化に対しまして多様化あるいは弾力化というようなことを申し上げておりますが、要は、児童生徒の能力、適性等に応ずることができるように教育内容や方法や制度等に工夫改善を加えることであるというふうに考えております。その方向を目指して具体的にどうあるべきであるかという方策について臨時教育審議会で御検討をいただきたいという希望をいたしておるわけであります。
  84. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 憲法、教育基本法にのっとる教育は、すべての生徒を共通に必要な最小限の水準に到達させる、そうしながら個性と能力を開発させなければならないわけです。このためには、個別指導と集団学習の結合などいろいろありますが、個人差にも応じられる多様な行き届いた教育活動が必要です。  ところが、このような教育を保障する教職員の増員だとか教育諸条件の整備は十分でないわけです。社会の変化、発展対応する教育行政が今日まで行われなかったということであります。例えば教育条件や学費負担、就職などの条件で大学間の大きな格差がありますし、学歴社会とも言われております。そういう中で大学進学率が四割になる、個性と能力を生かす多彩な教育課程も準備していない高校に対して進学率が九割以上にもなるという状況です。こういう状況の中で受験競争は激しくなって、受験本位の詰め込み教育で進路指導は偏差値中心でやる、こうして教育の画一化が生み出されております。  教育基本法の原則がしっかり守られておれば画一教育という批判は生じなかったというように考えるわけです。教育の画一化が問題になるようになったことについて、今までの文教行政の中で反省する点はないか、この点をお伺いします。
  85. 森喜朗

    森国務大臣 幾つが御指摘がございましたけれども、私どもといたしましては、教育の諸条件は国民努力によってさまざまな形で行き届いてきておるというふうに考えております。今御指摘がございましたような事柄について、まだ努力しなければならぬ面ももちろんたくさんございます。それも、すべてを全く画一的によくしていくというようなことはなかなか、財政のことも考慮していくことがまた行政の責任でもございます。そういう意味ではプライオリティーの問題であろうというふうにも私ども考えておりますが、定数にいたしましても、改善計画全体を明らかにいたしながら改善に努力しておるというふうにも私ども考えておるわけでございます。  いろいろと御指摘をいただく点、私どもとしては反省しながらなお充実していかなければならぬと考えておりますが、教育の条件が今大変不的確な状況には必ずしもなっていないというふうに私ども考えております。
  86. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 自民党政府の文教行政が教育内容の統制と画一化を図ってきたことは否定できないと思うのです。学習指導要領が強制されております。教科書検定文部省見解が押しつけられております。勤評、主任制度、官製研修、いろいろあります。政府が教育条件の整備に力を尽くして、国民的合意の得られないような教育の統制、画一化をやらないで、学校現場の自由と創造の推進、教職員の一致協力体制づくりを応援する行政を行ったならば、学校現場はもっと生き生きとしたものになり、自由で創造的な多彩な教育が行われたと思うのですが、この点についてはどうお考えですか。
  87. 森喜朗

    森国務大臣 学習指導要領は国が基準を決めてそれに基づいて行われておるものでございまして、教育子供たちに適切に進めていく上におきまして当然国として教育の責任を持っておるわけでございますから、その基準を定めることについては、これが画一性になって教育の主体性を損なっているなどという考え方は私どもは持っていないわけでございます。  指導要領と法的な拘束力とにつきましては、技術的な問題でございますので、必要がございましたならば政府委員から答弁させます。
  88. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 画一化の典型とも言うべきいわゆる管理主義教育ですが、この点では、東の千葉、西の愛知と言われておりますように、私がおります千葉県は非常に有名であります。この特徴は細かい規則と厳しい体罰で子供を管理するもので、推進者は特定教師団体と文部省です。  千葉県の教育行政を見てみますと、まず、昭和四十六年以降の県教育次長が全部一貫して文部省の出向者が占めているということが目立ちます。それから、ここに中学校の生徒手帳がありますが、この中には生徒心得が何と八十八項目書いてあるわけです。例えば「学校のある市の外に出るときは制服を着用する」、こうなっております。  こうした管理主義教育が徹底されるとどういうことになるかというと、これは実際にあったのですが、家族で潮干狩りに出かけようということになりますと、子供が制服を着ていくということを言い出します。これはどうしてかというと、心得に違反すると実名入りで校内放送が行われるからであります。また、ある小学校の事例ですが、忘れ物を重ねますと「私は忘れ物のチャンピオンです」と書いた札をぶら下げて登下校させるということをやっております。まさに規則と体罰で子供の自主制を抑えるやり方であるわけで、管理教育を強める方針の中で教育現場にはこのような事態さえ生まれております。  管理教育をやめて条件整備を十分にし、教育統制をやめていくことが教育の画一化を改めることになるのではないかと私は主張しておりますが、この点についての見解を伺います。
  89. 森喜朗

    森国務大臣 今柴田さんがお述べになりましたその心得というのは、具体的にどこでどういうふうにされて一いるのか承知をいたしておりませんが、やはり人間の社会というのはいろいろな意味での制約や法律、また約束事というのがあります。そのことを学校教育においても子供たちが体で会得するということも教育として大事なことだと思うのです。どういう心得があり、どういう基本的な指導方法がとられているかは私は定かに承知はいたしておりませんけれども、もちろん先生判断、あるいはまたそれぞれの教育委員会、あるいは学校におき良しては校長の判断、そういう多様な判断をしながら子供たちを学ばせていくということが大事だろうと私は思うのです。制約が全くなされずに自由奔放にさせていくということも教育一つかもしれませんけれども子供たちにこれから社会に生きていただく意味においては、やはりある期間、一つの約束事の中で学んでいくということも、子供たちの将来にとって大事なことなのではないでしょうか、私どもはそういうように考える。もちろん行き過ぎがあってはならぬと思います。そういう中で、学校では校長先生あるいはまた先生がそれぞれの立場、それぞれの条件、それぞれの目標に応じて、多様な考え方指導をされていくということでなければならぬというふうに思います。
  90. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 もちろん行き過ぎた管理教育、このことを指摘しているわけです。  次に、教育改革の視点として取り上げられております教育内容の多様化、弾力化ということについてです。  現在の高校について聞きますと、高校を決めるのに個性や能力で決めるのではなくて、偏差値で決められております。職業高校も多くは同じように偏差値で決められるという現状です。こうして高校が事実上、上層からだんだんと下層へと分けられておりますが、これは高校の多様化、多層化が、偏差値というもので決める、こうしたことでの画一化と表裏一体となっているわけです。教育の多様化、弾力化ということで、最小限の水準にも達しないいわゆる落ちこぼれというものを放置するという土台で生徒を選別して、これを適性、能力に応じた教育だと言っている、そういう学校体系をつくるということは絶対にあってはならないと考えております。  政府が言う多様化、弾力化の考え方と、学校教育にも複線化あるいは複々線化をやるのか、その構想は一体どういう内容のものであるか、伺いたいと思います。
  91. 森喜朗

    森国務大臣 私や総理がしばしば申し上げております多様化、弾力化ということは、それぞれ子供たちの適性、能力、個性、それを伸ばしてあげることが教育に一番大事なことだというように考えます。そういう意味では、先生から今御指摘をいただきました、御設問の冒頭に申されました事々は極めて大事なことだというふうに考えております。  例としては余りよくありませんけれども、やはり子供たちが社会に出ていくその過程において、学校や社会や家庭で、先生も親もそして社会の私どももみんなで、子供たちが将来社会人として立派に日本の国を構成してくれる国民として、そしてまた人格も形成していっていただきたい、こういう気持ちで教育を大事に考えているわけでございます。したがいまして、社会に出ていくのに、乗り物に例えるというのはいいことかどうかわかりませんけれども、「ひかり」に乗る人もあるでしょうし、「こだま」に乗る人もあるでしょうし、「やまびこ」もあるでしょうし、歩いていく人があってもいいし、自転車であってもいいし、オートバイでもいいし、「ひかり」で行くからすべてこれが評価されるという世の中であってはいけないので、いろいろな方法を選んで社会に出ていく、その評価の仕方を多様な面でしてあげられる、そういう制度考えていかなければならぬ。えてして特急列車で一番いいところに乗り込んでしまう。これがすべて社会で求められている一番いい方法なんだというふうに、どうも社会の傾向はその方向に行く、そのことが学歴偏重という形になってあらわれてきているということでございますから、今先生から御指摘をいただきましたような点なども十分踏まえながら、どういう制度がいいのか、具体的に、今御指摘のありました複線あるいは複々線等、いろいろなやり方があろうと思います、そういう多様にわたったやり方の方策をぜひ臨時教育審議会で御検討いただき、そして御答申を賜りたいというのが、私どもの今回の臨時教育審議会をお願いをしておる一番大事な点でございます。
  92. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 次に、政府の方針として公式に提起されたのは初めてだと思っておりますが、施政方針演説で出てまいりました「教育を受ける側の選択の自由の拡大」ということに移ります。  これはどういうことかということですが、施政方針演説と同じ日に、中曽根ブレーン会議で「二十一世紀のための教育改革五原則」という文書が提出されました。この五原則は、施政方針演説にもうたわれております教育の国際化、自由化、多様化、情報化、人格主義という原則です。  教育の自由化につきましては、その提言が説明しているところを見ますと、「しかし、行政全体が行政改革を必要とする時代となっているように、教育行政もまた従来の許認可行政、補助金行政の体質の全面的見直しを厳しく求められる時代となっており、教育分野における規制緩和(デレギュレーション)が教育の活性化のために不可欠な時代となってきている。こうして教育分野における公共部門中心の固定観念を破り、教育の領域にも民間教育産業の活力の積極的参入を図るよう制度の開放と自由化を進めることが極めて重要となってきている。このような教育の自由化の推進は、教育の世界にいきいきとした競争原理を導入する」、こういうことが書いてあるわけです。  要するに、行政改革に従って国の支出を少なくする、民間教育産業を活用して教育の自由化を図る、こう言っているわけですけれども総理の言う教育を受ける側の選択の拡大はこういうことも含んでいるのですか、お伺いします。
  93. 森喜朗

    森国務大臣 今柴田さんがお取り上げをいただきました例示は、一人の学者でありましょうか、考え方であろうと思います。その考え方が、これからの日本の目指す教育にすべてそのことが合致するとは考えられておりません。もちろん、先ほどから御論議をいただいておりますように、多様的にあるいは弾力的に、そしてまた国際社会の中の日本教育のあり方というものは当然これから志向していかなければならぬということでございますが、例えば今例示として挙げられました自由化などといって何事も全部自由にやればいいというものでもございませんし、民間の活力ということを一つ考え方としては検討してみる必要もございましょうが、やはり学校教育は公が責任を持つということが大事な性質でございます。そのことの基本的な方向はきちっと定めていく。当然そういう意味の中で民間の協力を得るということ、あるいは民間の力を活用するということも一つの方途であろうというふうに考えますが、基本的にはやはり国の責任において公の事業であるということの認識がもちろん大事なところであろうというふうに考えます。     〔深谷委員長代理退席、委員長着席〕
  94. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 例えば松下幸之助氏の京都座会からも「学校教育活性化のための七つの提言」が出ておりまして、その中にも学校設立の多様化や学校選択の自由の拡大などを小中学校に関して提言しております。  また、文部大臣が自民党の文教部会長をやっておられたとき、「心の教育を推進するための提案」という報告が出ております。その中に「米国で実験的に行われているバウチャー制度(父母が学校を選択する制度)には、父母の願いが反映されている側面がある。親の学校や教師に対する希望や意向等を反映する方策を検討すべきである」、こう言っていますが、こうしたバウチャー制度、これを我が国に取り入れたいというような考え方はありますか。
  95. 森喜朗

    森国務大臣 具体的にどのような制度を取り入れるかについては、私は今文部大臣という立場で申し上げる段階ではございません。たびたび申し上げ」ておりますように、審議会審議会の諸先生方が御議論をいただくことになろうかと思います。  選択制ということを私は一つの例えとして当時党の部会長時代に講演をしたことを記憶はいたしております。選択というのは、当然選択する能力というものが個人にできて考えていかなければならぬということがやはり大前提に入るだろうと思うのです。まだ心身の発達が進んでいない小さな子供たちで自分の将来を選択していくということは不可能なことでございますし、選択というのはあくまでも個人がその能力に応じて、そのことができ得る範囲でやっていくべきであろうというふうに考えているわけでございます。また、諸外国でも利用している面もあるわけでございますので、一つ考え方として、例示として申し上げたのではないかというふうに記憶をいたしております。     〔委員長退席、池田(行)委員長代理着席〕
  96. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 次は教育の国際化の問題について伺います。  中曽根総理教育改革の柱として「国際国家日本国民にふさわしい教育の国際化の追求」ということを掲げております。この委員会総理は、国際国家日本について、一つは西側一員としての役割を積極的に果たす、さらにアジアの一員として積極的に政治的経済的協力を進める、三番目に経済大国として発展途上国を積極的に支援する日本、これが国際国家日本であると言われましたが、文部大臣が構想をされます国際国家日本総理と同じ考え方でありますか、お伺いします。
  97. 森喜朗

    森国務大臣 日本は世界に対しまして平和憲法を掲げ、そして平和を最も大事にする国民であるというふうに世界の中で私どもは胸を張って宣伝をしているわけであります。何と言いましても資源のない日本でございますから、これから日本の国が海洋国家あるいは貿易立国としての一番大事な条件というのは、やはり諸外国から協力を得るということが一番大事なところだというふうに考えます。そういう意味で、これから日本経済の面から見ましても社会の面から見ましても、いろいろな面から見まして、やはり日本人として国際社会の中に参加をしていく、そういう傾向がさらに二十一世紀になって強まってきます。あるいはまた、日本人が世界の国々をある意味ではリードをしていくというようなことも出てくるだろうというふうに考えます。  日本はまさに島国でございます。また、かつての歴史的な経過を見ましても、やはり東洋の中に西洋とのいろいろな意味で文化の選択の幅というものもいろいろな対応の面で違っている面もございます。そういう中で、国際社会の中で本当に各国を理解をして、そしてその理解の中で各国から日本人がまた理解をされていく。そういうことを前提に置いて、将来国際協力を十分に得られるように国際社会の中で日本がどのようなことを果たすことができるだろうか、あるいはまた国際社会の多くの人々が日本教育にどのように対応ができるだろうか、あるいは日本教育が逆にまた世界の繁栄のためにどのようにこれを生かしていくことができるであろうかというようなことなども考えて、いわゆる国際化ということを十分に頭に置いた教育考えていかなければならぬだろう、私はこういうふうに申し上げているわけでございます。
  98. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 政府が言っております国際国家日本というのは、臨調が行革の基本理念、「行政の目指すべき目標」として掲げました「国際社会に対する積極的貢献」と基本的に同じだと思うわけです。臨調の「国際社会に対する積極的貢献」という基本理念は、基本答申に向けての臨調の第二部会報告が言っておりますように、「近年アメリカの優位は動揺し、国際秩序は不安定の度を強めている。他方、我が国経済・通商活動は全世界的に拡大し、諸外国との相互依存関係はとみに深まり、内政と外政とは多元的かつ不可分に結合するに至った。したがって、自由で安定した国際秩序の維持発展我が国がより大きな役割を果たすことは、我が国の安全と繁栄にとって不可欠であるばかりでなく、経済大国日本の国際的責任として、諸外国から強く要請されるようになった。」こういう情勢認識の上に立って打ち出されているわけです。さらに臨調は、この理念を補強する見地から「安心と安全の確保」ということを基本理念に次ぐ大目標として掲げておりまして、ここでは、「高度成長による物的福祉の向上が余り期待できず、むしろこれまでに達成した福祉や豊かさのレベルの維持自体が問題となることも予想される状況の下では、」云々とあって、「安心と安全の確保という側面が重要となる。その場合、近年の複雑化した国際社会において我が国社会の安心と安全を確保していくためには、貿易、国際金融、経済協力、防衛等を総合的に考慮し、政府一体となって多面的な対外政策を展開していくことが必要である。」こう言っているわけです。  これは結局はアメリカの軍事力経済力を中心にしてやってきた西側陣営、その中で、今日の状況で政治的、経済的秩序が動揺している。これを回避するために経済大国日本がその国力にふさわしく西側一員の見地から政治的、経済的、軍事的役割を果たす方向を目指しているものと言わなければなりませんが、こうした方向臨調が打ち出しているということはお認めいただけますか。
  99. 森喜朗

    森国務大臣 今柴田さんから臨調答申でしょうか審議内容でしょうか、お述べになったわけでありまして、そのまま全部私も記憶をいたしておりませんので、先生がお述べになりましたのが臨調の述べたそのままであるとするならば、それは臨調が出したものであるというふうに私は認めなければならぬと思います。しかし、今私ども臨時教育審議会にお願いをして教育改革をしようということは、これは臨調指摘があったので教育改革をする、そういうとらえ方をしていただいては私どもは困るわけでございます。行政改革は、日本の国の長い間の行政の仕組みを、足らざるを補い、そして既に要らなくなったものをある程度きれいに、身ぎれいにして、そして活性化を図っていこう、あるいは、でき得るものは民間にお願いをして民間の活力を利用していこう、財政も健全なものにしていこうということ。このことは、このまますべてそのことを起点にして教育も切り飛ばしていくのだ、そのほかの制度も崩していくのだということではないのでありまして、逆に言えば、身軽になって、財政も健全にして、なお一層二十一世紀への飛躍を図っていかなければならぬ。その飛躍を図るための大きな一つの命題はやはり教育にあるだろう。  教育はまさに将来の国の命運を左右するものであるということをしばしば申し上げておりますように、身軽になって、財政が豊かになって、健全になって、そして、まず日本人としてやっていくことは、二十一世紀を担ってくれる子供たちの将来のことを考えるということが現世に生きる大人、そしてまた政治家の一番大事な哲学でなければならぬというふうに私は考えるわけでございます。したがいまして、柴田さんのお話の中に随所にあらわれておりましたが、西側諸国とアメリカの云々というようなことと私どものこの教育改革ということとは全く関係のないことでございます。しかし、安全な国を運営をするということは、これは政治家の務めでございます。あるいは将来にとって安心を持たせるということ、国民に安心を持ってもらうということは大事なことでありまして、安全ということと将来の安心ということに対して政治家がいろいろな工夫をしながらそのための大きな努力を払うということは、極めて政治家にとって大切なことであるというふうに私は考えます。
  100. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 ではちょっと角度を変えますが、今の国際国家日本という問題について自民党は、「昭和五十九年党運動方針の基調」の第二に「平和と協調の国際国家」ということを掲げております。この情勢認識は、「戦後三十九年、世界の平和と繁栄を支えた基本秩序は、米国の力の相対的な低下と近年におけるソ連の軍事力の増強等によって、いまや厳しい挑戦をうけており、世界の情勢は激動と混迷に直面している。」こういう情勢認識があるわけです。そういう中で、「われわれは今後、世界の平和と繁栄を確実に保持していくため、西側諸国との間の結束をさらに固め、緊密な連帯と協調のもと、積極的な平和外交を推進する」「とくに米国との友好協力関係はわが国外交の基軸である。今後とも米国との間の日米安保条約による防衛、経済問題の懸案解決に努力するとともに、世界的な視野に立った友好協力関係発展させる。 また、アジア諸国をはじめとする開発途上国の安定と発展への貢献」ということがありますし、「西側主要国の一員として、まず自らの国は自らの手で必ず守るとの気概のもと、経済力に応じた着実かつ的確な防衛努力を重ねていく」「世界の平和に貢献していくもの」というように書いてあるわけです。これは西側の一員としての政治的、経済的、軍事的役割をより積極的に果たす方向を目指している、ちょうど臨調の国際国家と同じような趣旨考え方である、こう思うわけです。  そういう国際国家日本というものに向かっていくわけですから、やはり教育というものが、そうした国家に向かって進む日本にふさわしい人材づくりだ、そのために必要な教育改革であって、西側の一員として能動的に役割分担を担う日本にふさわしい人材づくりということになると思うのですが、御見解を伺います。
  101. 森喜朗

    森国務大臣 日本の国は友好国との関係を深めながら、なおまたそれらの体制国家の協力も当然ちょうだいしなければなりません。  先ほど申し上げましたように、日本の国は島国でございます。また、無資源国でもございます。多くの国の国際的な協力をいただきながら、将来繁栄の方向を目指していかなければなりません。そういう意味で、子供たちも国際社会の中で生きていけるように、そしてまた国際社会の中で大きな役割を果たし得るように、子供たちの人格形成、そして学問、すべての面で人間教育のために国家は責任を果たしていかなければならぬというふうに考えているわけでございます。  御指摘がございましたように西側友好国の軍事的あるいは経済的な役割を担うために子供たちを育てるというような一つのとらまえ方は先生のとらまえ方であろうと思いますが、やはり日本子供たちは、将来国際社会の中でいかなる国とも仲よく、そしていかなる国の皆さんからも信頼を集め得るようなそういう国際人として大きく成長してくれることを期待しながら私ども教育の責任に当たっていきたい、こう考えているわけでございます。
  102. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 もう一つですが、六月十一日に中曽根総理はロンドンの国際戦略問題研究所で講演をされました。そこで言っておられることを見ますと、世界の情勢には「大きな変化が起こりました。そして、それまで格段の優位にあった米国の経済力と軍事力は、相対的に低下を見るようになってきた」「世界の構造的な変革の中で、日本としては、従来の如く状況の変化に受動的に対応するのではなくて、世界の平和と繁栄のために能動的に役割を果すべき立場にあることが明らかになってきました。」「日本はグローバルな平和の維持という観点からも、自らの防衛のために、より積極的な役割を果すべきであると指摘がなされるとともに、今や卓越した経済力を保有する日本は、開発途上国に対する経済協力の強化を通じ、世界の平和と繁栄に貢献すべきであるとの意見が国際的に急激に高まってきました。」「したがって、私は政権に就くと同時に、国際的な重荷をその国力にふさわしく分担する「国際国家」日本へと前進すべきこと、」「すなわち、対応追随型から積極的行動型に転換すべきことを強調した」「我々は、国内的に幾多の困難をかかえつつも、この道をさらに歩みつづけるつもりであります。」と述べておられますし、この見地から今後の我が国の選択として、「第一は、自由主義、民主主義という価値観を同じくする米欧日の三極の政治的・経済的連携と連帯の上に、平和で安定した社会制度を堅持していくことを国策として推進するという選択であります。」それから、「第二は、アジア・太平洋地域の一員としての日本の未来への選択であります。」こうした五つの選択方向を明らかにされております。  これは臨調が言っております「国際社会に対する積極的貢献」の理念に沿ったものでもありますし、また自民党運動方針の基調にあります「平和と協調の国際国家」、この同一路線上のものであって、西側の一員としてその国力にふさわしい政治的、経済的、軍事的役割を能動的に、より積極的に果たす方向を目指したものであるわけです。そういう国家の方向に進んでいくということですから、その国民というものが国際国家にふさわしい日本人になるそういう人材づくりということ、今、憲法の考え方に従った教育ということを言われましたけれども、いろいろな最近の状況というものが憲法を離れてまさに世界の一方に特に偏った方向で進んでいる状況から、教育もそういう方向を目指しているのじゃないかということを疑問に思って、このことを再びお伺いします。
  103. 森喜朗

    森国務大臣 日本の国は戦争による大きな反省の中から自由と民主主義、そして平和を大切にする国民として今日繁栄をしてまいりました。それは当然諸外国の多くの協力をちょうだいしながら今日の日本の繁栄が成り立っているわけでございます。  そういう意味で今後とも、自由主義、民主主義を基調とするそれぞれの国と十分に友好を深めつつ、アジアに位置する日本、どちらかと言えばいろいろな意味で、資源にも乏しい、そして気候の条件も厳しい、人口も多い、そういうアジアの一員として日本はなお一層この経済的な大きな力でアジアの皆さんに対してもできる限り貢献をしていかなければならない、そういう位置づけを、民主主義、自由主義を基調として、またアジア・太平洋の一員としての役割というようなことを総理がお話をされたのだろうと思います。このことは日本の将来においても、二十一世紀になりましても当然大事にしていかなければならぬ姿勢だというように私は考えます。  しかし、そのこととたまたま臨調指摘したことが軌を同じにするということは、ある意味では日本の生きていく進路をあえて求めればどのような方々もそのような考え方を述べられるであろう、こう私は思うのであります。日本の国は、これから国際社会の中で繁栄をしていくということになれば今以上に国際社会での役割は求められるでありましょうし、同時にまた国際社会への貢献を図っていかなければなりませんし、二十一世紀子供たちは恐らく世界の中で活躍する場面が今以上に広がりを見せるだろうし、今以上に深くなっていくだろう。それだけに日本人としての信頼日本人としての資質を国際社会が大きく見ていく時代に入っていくのだろうというふうに考えるわけでございまして、臨調指摘やそうした総理の今お述べになりましたような講演の一部の内容によって日本教育を進めるということではなくて、日本の将来を子供たちがしっかり背負って、国際社会の中で世界の一員として頑張ってくれるであろうということを期待しながら子供たち教育に当たっていきたいというのが私ども教育行政を進めていく文部省役割でございます。その方向としてどういう新しい考え方がいいだろうか、国際社会の中に役割を果たしていく子供たちのためにどのような教育の諸制度が必要なのであろうかというようなことを臨時教育審議会にぜひ御議論をいただきたい、こう期待をいたしておるわけでございます。
  104. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 西側一員論ということに関連しまして我が党の三浦議員が質問したときに、総理は、日米安保条約をストレートに謳歌させようとは思っていないと言われました。文部大臣も同じ考えであり、また教育行政においてはその姿勢を貫くということであろうと思います。  ところが、現実を見てみますと、一昨日もきょうも教科書検定問題がこの委員会で取り上げられました。日米安保条約や自衛隊の記述はことしの検定でも妙な事例があります。実教出版の高校「現代社会」改訂版ですけれども、その中の問題です。この原稿本によりますと、安保条約について「この条約が、日本の安全を守ることになるのか、アメリカの軍事行動によって日本を戦場にするのではないか、などということをめぐって、国民のあいだにはげしい論議をよんでいる。」という原稿に対して、検定意見は、「「しかしこの条約が……論議をよんでいる」について。朝日新聞の世論調査などによれば、アメリカが本気で日本を守ってくれるかどうかという点については若干の疑義・疑問をもっているむきがあるのは確かだ。また、総理府の世論調査などによれば、安保条約があるから戦争に巻きこまれる危険がある、とする者はきわめて少ない。こうした点を勘案すると、前段についてはいろんな意見があるかもしれない。しかし後段については、世論調査からみても、「国民のあいだにはげしい論議をよんでいる」とはいえないようだ。前段を残して「守るのかということをめぐって、国民のあいだに……」という言い方にしてもらいたい。」ということで、この隣に書いてありますように、「しかしこの条約によって日本の安全が守られることになるのかどうか、ということをめぐって、国民のあいだにはさまざまな論議がある。」このようにして作成者の考え方を薄めさせるということをやっております。     〔池田(行)委員長代理退席、委員長着席〕  それから一橋出版の高校「現代社会」二番目の方ですが、「自衛隊は、その後、数次の防衛力整備計画をへて、質量とも強化され世界有数の実力をもつ組織体に成長した。」これに対して、これはちょうどおととい問題になった調査官ですが「ほんとうか、なにを根拠にそのようなことがいえるのか」「やってみなければわからない」「韓国とやっても負けるといわれる」「ベトナムや北朝鮮の方が強い」こういう意見が出て、「世界有数の実力をもつ」というのを「アジア有数の実力をもつ組織体に成長した。」こういうことにしているわけです。こういう事例があるわけです。この検定意見というのはおかしいと思うのです。  NHKの世論調査でも、アメリカの戦争に日本が巻き込まれる危険を指摘しているのが七八%に及んでおります。また、自衛隊の軍事力について言うならば、ストックホルム国際平和問題研究所、ここは非常に権威のあるところですが、このSIPRIによりますと日本の軍事支出は世界第五位である。またアメリカ国防省の「共同防衛への同盟国の貢献度に関する報告」では、NATO加盟国と日本を合わせて十五カ国の中で、日本軍事力の分担比率と貢献順位は、兵員で日本が八位、装甲兵力は五位、艦隊トン数が五位、戦術空軍機が五位、こうなっておりまして、アメリカ国防省がNATOと比べても遜色がないと言っているわけです。  こういう資料があるにもかかわらず、文部省見解教科書に書き込ませているというのが検定の実態であるわけです。これは検定基準を逸脱する行為をして、安保条約や自衛隊の問題を正当化する方向追求しているということが言えると思うのです。総理答弁のとおり謳歌するようなことをしないということであるならば、このような検定行政は改めなくちゃならないと思うのです。もちろん私は検定内容は問題のあるものは必要に応じて更改されなければならないと考えるわけでありますけれども、少なくともこういう検定行政はおかしい。こういう検定行政は改めるということを明言すべきではないかと思いますが、いかがですか。
  105. 森喜朗

    森国務大臣 教科書検定制度は、教科書の著作、編集を民間にゆだねることによりまして著作者創意工夫期待をいたしますとともに、検定を行うことによりまして適切な教科書の確保をするということがねらいでございます。したがいまして、この制度趣旨から検定基準に創意工夫の項目を設けまして、学習指導要領に示す目標を達成する上において教科書用図書として適切な創意工夫が認められるかどうかについて審査をいたしておるわけでございます。  先ほど先生が例示として幾つかお述べになりましたけれども、いずれも適切公正、そして客観的な立場表現をされているか、そして特に教育でございますので、子供たちの心身の発達程度において十分そのことが理解ができるということが極めて大事なことでございます。そうした教育的な配慮を十分に基準の中に定めまして、それに基づいて検定をさせていただいているわけでございます。
  106. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 そう言われますのでこういう具体的な事例を出したのですが、別な世論調査もあるし、また入江調査官のような間違った検定意見、こうしたものでやられている検定行政は改めなければ、文部省の片一方の資料だけによって押しつけるものだ、こういうことになるわけです。これは今後とも追及すべき問題であると考えております。  次に教育基本法の問題ですが、政府は教育基本法を改正しない、審議会答申は会長が教育基本法の精神にのっとり取りまとめをすることを期待している、こう答弁されました。  しかし、朝日新聞連載の「教育改革 この人に聞く」というレポートがずっと出ておりますが、その中で海部元文部大臣教育基本法の問題につきまして、文教部会と文教制度調査会の合同部会のことを話しております。「教育基本法を変えようという発想で取り組んでいるわけではありません。ただ、これは自民党の審議会ではないわけですから、委員の中からはいろんな意見が出て来ると思うんですよ。審議していく中で、教育制度の根幹に触れるような議論まで行くかもしれない。」こういうことを言っておられます。この点は、森文部大臣も同じレポートで「審議会で戦後教育全体を見直しましょうとなったときに教育行政教育委員会制度にさわらないでできるか。文部大臣ではなく一人の政治家としていえば、そんなことも議論してほしいなあ。避けて通ろうということはよくないと思う」、教育行政教育委員会制度ということも語っておられるわけです。また、文部大臣は別の機会に、国が教育の権利を持っていないことを嘆くような発言をしておられます。  それらの発言というものは、基本法の改革を含む答申意見が出されることがあるということを示唆して、またそれを期待しておられるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
  107. 森喜朗

    森国務大臣 まさに、二十一世紀を目指しまして日本教育を一度見直してみよう、こういう基本的な考え方から教育改革をお願いするわけでございます。したがいまして、制度改革する、また新しい将来の目標を設定するということになれば、当然反省の上に立って新しいものが醸成されていくようになる、これは何も教育だけではない、政治、経済すべてだろうというように私は考えます。したがいまして、今度の教育改革は、総理も、私が申し上げておりますように、教育基本法というものの精神を大事に守って教育改革をしたいということを再三申し上げております。それから、御審議をいただきます委員の皆様方にも教育基本法の精神を大事にして御論議をし、おまとめをいただきたいという期待もいたしております。  しかし、冒頭に申し上げましたように、いろいろな制度考えてまいりますときに、過去の反省というものも当然ありましょう。そしてまた、具体的に教育でいえば、戦前だからすべてはだめだとも言い切れるわけじゃありません。失った戦前のものにもよきものもあるかもしれません。戦後得た新しきよきもの、またこれは日本の国の実情にそぐわなかったという面もあるかもしれません。そういうことを幅広く自由に御論議いただくということが本当の教育論議をする大事なところであろうと思うのです。  私ども自由民主党でございますから柴田さんの政党とはいささか立場が違いまして、自由濶達な御論議は我が党の中にございます。我が党の中には、憲法を改正しよう、教育基本法を変えようという人たちもたくさんおられます。しかし、今の方向で行くべきだという人もおられます。我が党は自由な政党でありますから、自由な論議はあってしかるべきであります。私も自由民主党に所属する政治家でございますから、今多くの国民の中からいろいろ戦後の教育についての評価もございますし、ある意味では矛盾点もございましょう。そういう中では今の教育基本法がどうもよくないのだという意見もあります。あるいはまた、今の日本文部省教育を持つ権利についてもさまざまな意見がございます。そういうさまざまな意見があるということを私はいろいろな機会に申し上げているわけでございます。  しかし文部大臣といたしまして、教育改革教育基本法の精神にのっとってやるべきである、また審議会としてはぜひそのことの枠の中で御論議をしていただきたいということは期待をいたしておるということを常に申し上げておるところでございまして、そこには何ら矛盾がないと思います。幅広く、そして本当に自由な御論議をしていただいて、日本がこれから二十一世紀に生きていく子供たちのためのいい教育制度になるということでありましたならば、いろいろな論議がいろいろな角度からあってしかるべきであろうと私は考えます。  教育基本法あるいは教育委員会そのものがいろいろな意味で弊害だという人たちにとっても、この御論議によって今の教育委員会制度がやっぱりすばらしいものだという論議が出ることならば、なおそうした教育委員会がおかしいのだという言い方、意見は、そのことによってひょっとしたらもう消えてしまうかもしれない。かえっていい結果を生むのではないか、そういうことの論議を避けて通ることはよくないということを私は期待として申し上げたわけでございます。
  108. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 同じレポートで奥野元文部大臣が、要するに昭和三十年に保守合同したときの政策の中に、教育基本法の改正も意味していた、自分は教育基本法を改正した方が好ましい、しかし今は変えようとは言わない、中曽根総理は彼なりに戦略、戦術を使ったのでしょう、そう思いますね、こういう発言があります。  そして我が党と自民党との政策協議の席で藤尾政調会長が「占領下にあたえられた憲法、教育基本法の見直し、三十九年間ひっぱられた教育環境の見直しにあるのではないかと考えている。たんに入試制度とかというなら中教審、専門家がやってきている。それをこえた原点、根本にメスを入れるということだろう」、こういうことを言われました。  臨教審審議には枠はない、それから政府の方は今度の教育改革に当たっては教育基本法は変えないということでありますが、伺いたいのは、自民党自身教育基本法の改正という目標を持っておられるのかということ。  それから、今の臨教審審議に基本法の枠がないということからすれば、審議会答申が基本法の改定方向を打ち出すことによって、答申自身が基本法の改定を促すことになることもあり得るのじゃないかと考えますが、いかがですか。
  109. 森喜朗

    森国務大臣 今柴田さんが申されましたのは、いろいろの想定ということでお話をされたのだと思います。どういう革案といいましょうか答申をおまとめになるかということは、私が今この立場で申し上げることは適当ではございません。審議会の皆様方が御意見としておまとめになることであろうと思います。ただ、先ほども申し上げましたように、審議会教育基本法の精神をもとにぜひおまとめをいただきたい、そういう答申をしていただきたいということを私どもとしては期待をいたしております。  そしてまた、政府は今度の教育改革につきましては教育基本法の精神を大事にして、そのもとで改定をしたいということは、しばしば国会でも御答弁をさせていただいているわけであります。  自由民主党はいろいろな考え方を持つというのは、自民党は幅の広い政党でございまして、いろいろな意見を出し合ったり、それぞれの立場でいろいろなことをお話しになることは、これは決して過ちではないわけでありまして、審議会すべてにそのことがかかわってくるのだというふうには私ども考えておりません。政府の姿勢はたびたび申し上げているとおりでございます。
  110. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 法制局にまとめて伺いますが、この法案によりますと、教育基本法の精神にのっとり、教育施策全般の必要な改革を図って、教育目的を達成するために審議会を置く、こういう条文になっているわけですが、教育基本法の精神にのっとらなければならないとしたその対象が何であるかということが一つ。  それから、審議会答申意見があるわけですが、これは教育基本法を改正するようなことを求めるような、あるいは当然改正しなければできないような、そういう内容になってもいいのだということに法律上はなっているのかどうかということ。  それから三つ目に、法案は施行後三年たちますと失効するということになりますが、そのときに存在してまだ実行されていない答申臨教審意見の実行につきましては、法律上政府を拘束する根拠はどこに求められるかという、この三つの点についてまとめてお伺いします。
  111. 森喜朗

    森国務大臣 法律の技術的なことでございますので、法制局からお答えをさせます。
  112. 関守

    ○関(守)政府委員 第一点の御質問は、たしかこの法案臨時教育審議会設置する目的として「教育基本法の精神にのっとり」と書いてあるが、それはいかなる対象であるかというお話だと思いますが、この法案に「教育基本法の精神にのっとり、その実現を期して各般にわたる施策につき必要な改革を図ることによりこと書いてございますとおり、この臨時教育審議会設置して、そこで調査審議をしていただく、その対象となる必要な改革を図っていくということにつきましては教育基本法の精神にのっとってやらなければいけない、こういうことでございます。  それから第二点の、この審議会教育基本法を改正するような答申を出したらどうか、こういうお話だと思いますけれども、これは先ほど大臣からもお話がございましたように、審議会の所掌事務につきましては第二条に書いてございまして、直接そこには教育基本法云々ということはうたってはおりませんけれども、先ほど申しましたような設置目的の規定においてそういうことをうたっているわけでございますので、審議会が調査審議する場合におきましても、この審議会設置目的に従ってこれを行うという意味におきまして、教育基本法の精神にのっとった審議が行われることが期待されているというふうに考えられます。  それから第三点は、この法案が失効した後、審議会の結果については政府はどういう対応をすることになるのかということでございますが、この法案が失効されましても、そこで審議された結果は残るわけでございますので、政府としては当然それを尊重していくということになろうかと思います。  以上でございます。
  113. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 要するに、この法律によって、教育改革内容教育基本法の精神にのっとらなければならない、それから法律失効後もその答申を政府は尊重しなければならない、こういうことになるわけですね。  それでは次に、第二点目の臨調行革と教育改革との関係についてお伺いします。  中曽根総理は、機構とかあるいは予算とかそういうものに関するものは行革の分野でございますし、行革については聖域を設けないでやる、教育内容につきましては、これからできる新しい機関の御意見を我々は尊重してやっていくべきであると思います、こう答弁しておられます。矛盾しないという答弁です。そのとき後藤田行管庁長官も、教育審議会も行政改革のこの意見書というものを頭に置きながら私は適切な御審議、そして適切な御答申があるものと、別段この枠をとっ外さなければ審議ができないというような問題でもないのではないかと理解している、こう御答弁されております。要するに、臨調の行革路線と教育改革とは矛盾はないのだ、別次元のものであるのだ、両立するのだ、こう答えておられるわけですが、文部大臣もこの考えであるわけですか。
  114. 森喜朗

    森国務大臣 私は午前中もたしか申し上げたと思いますが、臨調答申は、変化に対応いたしました適正かつ合理的な行政の実現を目指しまして、行政各分野にわたりまして多くの指摘ちょうだいをいたしておるものでございます。その中で、文教に関する行政施策の基本方向というのは、第一には、学校教育の多様化、弾力化の推進、二番目には、高等教育の質的な充実、三番目には、費用負担の適正化等というふうに指摘を受けているわけであります。  私どもが今お願いをいたしております臨時教育審議会におきます教育改革は、たびたび申し上げて恐縮でありますが、二十一世紀我が国を担うにふさわしい青少年を育成すべく、教育の諸機能全般にわたりまして総合的な検討を行うものでございます。臨調答申をいたして示しております行政改革とは、まさに審議の視点や検討の角度が異なっておるということは言うまでもないわけであります。したがいまして、教育改革を進めるに当たりましては、臨時行政調査会で示されました行政改革趣旨は当然踏まえて、教育自体にかかわる視点や角度から実施することが必要であろうという認識は持っておるわけでございますが、しかし、教育改革方向性につきましては、新しいこの機関において今後検討いたすべきものでございまして、そういう意味で、私としては、我が国教育をめぐりましてさまざまな問題が指摘をされているということなども考えまして、教育制度教育内容の多様化、弾力化を推進するとともに、先ほどからも申し上げておりますように、国際化時代にふさわしい日本人の育成を図ることが大事だというふうに考えているわけでございます。
  115. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 対象が異なる、視点が異なるから離して考えることができるということのようですが、育英奨学金制度あるいは六・三・三・四制度のような教育制度の問題は行革か教育改革かということを見てみますと、臨調は、「国の機構、制度及び政策の全般について幅広く見直しを行い、中長期的な展望に立って行政の在るべき姿、今後の行政改革の基本的な方策を提示」する、こうした上で、結局、教育のあらゆる分野で本当に冷酷な切り捨てを要求しております。教育制度が行革の対象になっているわけです。  臨調は、財政の面から四十人学級計画の中止や私学助成の削減といったことをうたいましたが、これは財政にかかわる行革の対象であって教育改革の対象ではない、つまり、教育内容とはかかわり合いがないということにはならないと思うのです。四十人学級などはそれこそまず最初にやらなければならない教育改革であるわけです。教育制度教育改革の対象になるもので、学級の編制問題は教育内容かかわりを持っております。臨調行革と中曽根内閣の教育改革というものは切り離せないように結びついているものではありませんか。いかがですか。
  116. 森喜朗

    森国務大臣 教育の諸条件を行き届いたものにするということは大事なことであるというふうに私ども考えております。しかし、今柴田さんから、教育の条件をすべて具備、完備していくことが教育改革だというふうに御指摘いただきましたが、私はそのような立場はとらないものでございます。今お願いをしておる教育改革は、あくまでも今ある制度を改善するあるいは条件を整えるということではなくて、たびたび申し上げておりますように、新しい二十一世紀を迎えて、それを担ってくれる子供たちに対してどういう教育のあり方がいいのかということをさまざまな分野からいろいろな方々の御議論をいただいて、新しい制度をつくり上げていきたいというふうに考えているわけでございます。もちろん、現在ある教育をある意味では改善もし、あるいは大きく充実をさせていくということも部分においては出てくるのだろうということも考えられますけれども、諸条件をよくしていくことが教育改革だという今の柴田さんのお考えは私はどうもとりかねるものでございます。  しかし、たびたび申し上げておりますように、四十人学級、先生方からよくお話に出てまいります大規模校の解消あるいはまた私学の充実、教科書問題等については、私どもは現在の制度をできるだけ充実していきたい、そういうことで努力を続けてまいりましたし、これからも文部省の大事な行政の仕事というふうに考えて、なお一層の充実を図るように努力をしたい、こういうふうに申し上げているわけでございます。
  117. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 臨調答申は最大限尊重して実行するという閣議決定があります。ですから、政府の教育改革というものもこの決定をやはり前提になさると思うわけです。臨調行革路線を前提として進める教育改革ということでありますと、六・三制などのように臨調答申を出さなかった事項あるいは幼保一元化のように答申で取り上げてはいるけれども改革の方策を具体的に示していない事項、そのほか臨調の中に出てきていない教育かかわりのあるもの全部、こうしたことは臨調答申の線と矛盾することはできないと思うので、その線に沿って具体化していく、そういう教育改革になると思うのです。今言いました後藤田長官の予算委員会における答弁というものがまさにそのような趣旨であると思うのですが、文部大臣臨調行革との関係はそのような考え方でよろしいでしょうか。
  118. 森喜朗

    森国務大臣 臨調は、時代の変化に対応できるように適正かつ合理的な行政をねらいといたしまして答申をいたしておるわけでございます。先ほど少し具体的に申し上げましたように、足らざるところは補わなければならぬ面ももちろんありましょうが、要らなくなったものはある程度削除していくという面も大事であろうと思います。いろいろな意味で躍動的に、二十一世紀に備えて日本の行政が多様な動き方ができていくように、そういうことが今度の行政改革のねらいであったというように私どもは理解をいたしておりますから、そういう精神を踏まえて教育議論も行うべきであろうというふうに恐らく後藤田長官は申されたものであろうと思います。  教育改革につきましては、もちろんそうした考え方を踏まえるということは総理も御答弁申し上げておりますが、必要なことは必要なこととして当然考えていかなければならぬという面も、予算委員会総理は確かに答えられている。そのことは私もそばにおりましたので今でも記憶をいたしておるわけでございます。そういう意味で、常々申し上げておりますように、教育の費用というものは公でどうあるべきなのか、個人でどうあるべきなのか、そうしたさまざまな教育に対する公費のあり方等についてももちろん議論は出てくるものであろうというふうに予想はできるわけでございます。  私どもとしては、二十一世紀は躍動的な社会でありますように、その実現を期して、子供たち教育にもそのことを十分配慮して進めていかなければならぬ、こう考えているわけでございます。
  119. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 先ほどから国際国家の問題などについて話しましたが、これは臨調日本の国際国家としてのあり方をちゃんと決定しているわけです。そして自民党の政策にもありますし、中曽根総理発言の中にもある。そういう国家規定、こうしたものまで教育の国際化ということになれば当然触れられなければならないと思いますけれども、そういう線と全然別の次元の国際国家というものが教育の中に出てくるはずはないと思うわけですね。臨調行革路線と別次元という形で進むということですけれども、実際はそれと対立する形で進むということにはならないと考えます。  そうしますと、この場合、今国民が求めております教育改革、これは総理指摘されるように、まさに教育改革については国民の要求が非常に強いわけですが、その要求とどういう関係があるかということを見てみますと、臨調基本答申が、教育も含めた国民生活分野から行政はできるだけ手を引き財政支出を縮減する方向を打ち出しております。一連の答申では教育にかかわるものが、四十人学級凍結、小中学校建設費二年間で七十七億削除、国立大学の授業料値上げなど、五十項目を超えているわけです。これを全部見てみましても、国民が求めております教育改革方向とは相入れない内容のものであるわけです。臨調路線とつかず離れず、これが前提になるというように私たちは判断しているのですけれども、そういう教育改革国民期待する教育改革にはなり得ないというように考えます。  先ほど文部大臣は、憲法の精神に従って、国際的に通用する国民をつくるのだ、こういうことを言われましたけれども日本の政治の方向、それから臨調などで打ち出している方向ということから考えてみますと、今国民が求めている要求というのは、臨調のようなやり方をやらないでくれ、そして反対に、今解決しなければならない非行などの問題がある、試験制度の問題がある、こういうものを解決をしてくれということだと思うのですが、その国民の要求、期待と政府の教育改革の理念、これはどういう関係だと思いますか。
  120. 森喜朗

    森国務大臣 たびたび同じようなお答えを申し上げて恐縮でございますが、行政改革は、あくまでも長い間日本の国の繁栄の基礎となってまいりました行政のいろいろなあり方が、不備になったものあるいはまた要らなくなったもの、総理の言葉をそのまま引用すれば、うみがたまったりあかがたまったりというような表現もございましたけれども、適切であるかどうかは別といたしまして、そういう意味で少し身ぎれいにして、そして二十一世紀に備えてなお一層躍動的なたくましい日本をつくっていきたい、こういうことでございます。そのためには、財政もきちっと計画的にしていかなければならぬだろう。昔のような高度経済成長をつくり出すような、そういう国際的な環境でもないということから考えまして、財政を健全にして、そして健康な体で次への飛躍をぜひ願いたいということが今度の教育改革でございまして、確かに財政再建あるいは財政改革、行政改革、そして教育改革というこの三本立てのような感じに見られるわけでございますが、教育改革はあくまでも行政改革、財政改革の上に立って期待される二十一世紀をつくり上げるという、むしろこれはアクションを起こす極めて能動的なものであるというふうに私は考えておるわけでございます。  そういう意味で決して矛盾はないわけでございますし、なお一層日本が将来ともに国際社会の中で縦横無尽の活躍ができるような素地をつくるためへのいろいろな意味での改革、見直してありますし、その上になお一層教育を新たに制度として見直しをして、新しい教育はどのようなものであるかということを御議論いただくことによって二十一世紀が確かなものであるというふうにしていきたいというのが私どもの願いであるわけでございます。
  121. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 まだ抽象的な議論の範囲で、具体的な問題について行革、臨調との関連どもやりたいわけでありますが、きょうの持ち時間が非常に迫っておりますので、きょうは省略させていただきます。  なお、行革審の小委員会の報告も六月中に出されるやに聞いておりまして、素案なども見ておりますが、素案などの中から見ましても、これが出されたらまた大いに議論しなければならない問題がたくさんある、避けて通れない問題だというふうに考えます。  きょうの残り時間が少ないものですから次に移りますが、教育改革のためには、教育の持つ特性から考えてみますと、実施主体、地方自治体の方から、もちろん国もありますが、それらの実施主体の方からの論議を基礎にしてその成果を国がまとめるという、いわゆるボトムアップ方式がふさわしいと思うのです。中曽根総理がこの委員会でもたびたび取り上げられましたような、行革が失敗したならば教育改革もできなくなるのだとか、あるいは臨調答申は最高裁判所の判決のように国民がこれに服するように持っていかなければならないとか、臨調をつくって行革をやる方式がいろいろな問題を前進させていくのだ、そういう政治の手法が今必要になっているのだ、あるいは行革のような仕事はトップダウンで決めないと決まるものじゃない、言行録を見ておりますといろいろな重大な発言が出ております。  今回の教育改革の手法というのは、方法論的には行革における臨調方式と同じ手法をとろうとされるのか、この点をお伺いします。
  122. 森喜朗

    森国務大臣 審議会がどのような運営をなされていくのか、どういう方法で運営をしていくのか、これは私どもが申し上げることではございませんで、審議会自身でお決めいただくことでございます。  ただ、今先生が例としてお取り上げになりましたように、地方自治体の意見ども、むしろそこから組み立てていくものではないかというお話もございましたが、地方の意見を聞くなどいろいろな工夫は、これから審議会自身がお考えになることであろうと思います。地方の意見を聞く方法については、またそれなりの工夫がいろいろな形でなされるものではないだろうか、こういうふうに期待をいたすところでございます。
  123. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 法案に即する問題はたくさんあるわけですけれども一つこの審議会の公開問題についてお伺いします。  政府は、要するに自由濶達に論議してもらうために会議は非公開にするのだ、こういう答弁ですが、教育改革国民的規模で行うには、可能な限り生の形で素材が提供される、これが吸収されるということが重要であると思うのです。そのためには会議の公開というのは欠くべからざることであって、密室で論議する機関、これではとても国民的論議をする機関とは言えないと思います。  教育改革論議を行う会議を非公開にするということは、これは行政改革の論議を非公開にするということとは違った内容があるわけです。というのは、戦後教育権が国家から国民に移ったという点から、教育改革の論議を国民参加、国民注視のもとで行うことが特に重要であります。だから、戦後、教育委員会が公選制のときに、会議は一週間前に告示され、すべて公開の席で会議が行われていたわけです。  現在でも公開で堂々と論議している教育委員会があります。これは文部省が嫌っている教育委員会で、中野区の教育委員会です。ここでは会議は毎週金曜日午前十時から行われます。そして、毎月第一金曜は教育委員と傍聴者と意見交換を行って、これまで三回ほど、昼傍聴に来れない人などのために夜開かれております。最近では、児童の出席停止問題について教育委員会で六、七回論議したのですが、結論が出なかった。区民から広く意見を聞こうということで、五月二十五日の夜教育委員会を開いて、傍聴者や委員が濶達に意見を述べ合って論議が深まったということでありました。会議が公開されているために委員が脅迫されて自由濶達な論議が阻害されたということはないと思っております。区と国という違いはあっても、教育問題を論ずるという点では同じであります。同じ教育問題を論議するのに、政府の教育論議の場合には公開では何が不都合なのかという問題です。要するに子供の将来にかかわる重大問題を国民の目から隠れたところで、二十五人より多くない、少数の委員でこそこそと論議するような運営では国民的論議にはほど遠いと思います。そしてまた、公開の場で意見を言えないような人が教育に関する学識、人格ともにすぐれた人と言えるのかどうか、こういう問題があります。  それで、公開では何が不都合なのか、この点をお伺いします。
  124. 森喜朗

    森国務大臣 これも先ほど申し上げましたように、臨教審審議のプロセスにおきまして広く国民各界各層の意見反映されるように、その理解と協力が得られるように配慮していくということは極めて大事なことでございます。しかし、臨時教育審議会審議を公開するかどうかについては、これは審議会において決定すべき事柄でございます。  しかし、今先生の御指摘の中にもありましたように、私どもといたしましては、公開をいたしますことはある意味では民主的運営にもとれますけれども、やはり一面におきましては委員が自由に発言するということを制約することになると思うのです。先生のお話の中に、生のままでと、こうおっしゃいましたけれども、やはりいろいろな方が聞いておられたら生のままで話ができないことも出てくると思うのです。オブラートに包むようなこともあり得ると思います。中野区の例をお取り上げになりましたが、傍聴者が来れるようにということの配慮も大変大事なことでございますが、傍聴者のために会議を行うということではないわけでありまして、やはりよりいい制度、いい内容をその委員の皆さんが自由に御議論をされるということが大事なわけでございます。  そういう意味で、私どもとしては基本的には審議を公開するという考え方はむしろとらない方がいいという判断をいたしております。しかし、審議経過の概要は適宜公表をしていくとか、地方の公聴会を開催いたしますとか、アンケートの調査をいたしますとか論文なども募集いたしたいというようなことで、幅広く国民の理解や協力や意見を十分に吸収できるような方策は審議会自身でぜひお考えいただきたいというふうに考えておるところでございます。
  125. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 きょうの時間では非常に不十分な質疑でありますが、この重要な教育改革、ここで申し上げますと、何といっても臨調路線、臨調行革のパターンがこの問題においても法案自体からもあらわれてくるわけです。臨調行革というあのパターンは、結局は審議会の本来の制度、そうしたものの枠を超えてしまって、国家機構まで、方策まで決める、国会のやるべきことまで事実上決めるということになっております。例えば人事院勧告の凍結、値切りというような憲法にかかわる問題も提案する、そして国会はこれに対して是正の措置もできなかった、こういう結果になっているわけです。そういう点から、この教育改革ということによってまさに日本国民をどこに持っていこうとするのか、この点について重大な疑念があるということを最後に述べておきます。
  126. 片岡清一

    片岡委員長 上原康助君。
  127. 上原康助

    ○上原委員 質問の順序としては、法案なり教育基本法のかかわりからお尋ねをしたいわけですが、官房長官がどうしても時間的制約があるということでございますので、また、お忙しいと思いますから、先に官房長官に二、三点お尋ねをさせていただきたいと存じます。  御承知のように、この臨時教育審議会設置法についてある程度の審議がなされてきているわけですが、できれば文部大臣にも、これは冒頭御要望ですが、もう少し建前論じゃなくして、ひとつ本音のことをぜひお願いしたいと思うのです。これまでの議論を聞いておると、文部大臣、確かに国会答弁は優等生であられるようで定評があるわけですが、非常に国民受けするようなことだけお答えになって、本質にまだ触れていらっしゃらない。私は、森さんという文部大臣はそういうタイプの政治家ではないと思うのですね。もう少し本音を言っていただいて、私の質問にも、私は素人ですが、ぜひ聞かしていただきたいと思います。  そこで、まず官房長官にお尋ねいたします。  私は、後ほど教科書検定問題について具体例を挙げながらいろいろお尋ねをしてみたいと思うわけですが、特に一昨年、教科書検定問題をめぐって我が国の歴史教科書あるいは社会科の教科書が、中国、朝鮮、韓国、東南アジアを含めて相当国際的な問題になりました。その背景については多く申し上げませんが、当時、例えば五十七年八月二十三日には鈴木首相の教科書問題に関する見解が記者会見で出ております。また、その後に官房長官談話が出ておるわけです。  ここで言われていることは非常に重要なことでございまして、教科書問題が国際問題に発展をしたという経緯を踏まえて、政府としてはそのことを正しく是正をしていくということが言われているわけですね。このことについて現内閣としてはどういう御見解を持っておられるのか、まずお聞かせをいただきたいと思います。
  128. 藤波孝生

    ○藤波国務大臣 いわゆる教科書問題として一昨年、五十七年に先生指摘のようにいろいろ問題が起こりまして、それを受けて当時の宮澤官房長官から談話を発表いたしまして、政府としても国際的な立場も十分頭に置いて教科書の問題に取り組む、是正をしていく、こういう談話になって発表が行われまして、その後、その談話を受けて誠実にこの問題の是正に努められてきて今日に至っておるわけでございます。  したがいまして、外交的には、官房長官の当時の談話で収拾を見た、その後、政府が誠実に教科書問題の後フォローをしてまいりまして、それが今日に至っておる、こういう理解に立っておるところでございます。宮澤官房長官談話に示されました精神は現内閣におきましても引き継がれて今日に至っておる、このように考えておる次第でございます。
  129. 上原康助

    ○上原委員 確かにそれは対外的に内閣の御見解として出されたわけですから、それを尊重し、誠実に実行といいますか守ることは当然であり、また内閣は中曽根内閣にかわったとはいっても責任継承の原則だと思うので、お答えとしては今長官おっしゃるとおりだと思うのです。しかし、できれば官房長官も時間があって私が後ほど指摘をする問題等にも議論に加わっていただけばより明らかになっていくかと思うのですが、要するに中国あるいは韓国、南朝鮮からの批判については政府の責任において是正をするということを言ってきたわけであります。確かに、表現を侵略を進出に直した、そのことは改められたように思うわけですが、その歴史的な記述、事実ということについてはむしろ検定を強化していく、あるいは薄めていくということがなされていないのかどうか。こういうことについては、いよいよことしも検定がなされて、来年使う教科書文部省見解ども近いうちに出るようですが、そういう中で再び関係諸国から物言いが出る可能性はないのかどうか、非常に懸念をされる向きが現にあるわけです。進出を侵略に直したというだけで事済まない問題があると私は思う。こういうことについて果たしてどう御認識をしておられるのか。これは官房長官と文部大臣お二人から見解を聞いておきたいと思います。
  130. 藤波孝生

    ○藤波国務大臣 当時の宮澤官房長官の談話を受けて、具体的には十一月に教科用図書検定基準が改正されまして、「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。」という規定を新たに追加いたしまして、その基準に基づいて教科書検定が行われてきておる、このように私ども理解をいたしておるところでございます。  五十八年度の検定につきましても、先生御高承のように教科書の独特の検定の仕組みがございますので、それぞれ教科書著作者から申請があるのに対して文部省指導が加えられるということで検定が進んでいくことになるかと思うのでございますが、その中で今加えられました一項の精神を大事に生かされまして検定が行われてきておる、このように確信をいたしておる次第でございますので、一昨年に起こりましたような教科書問題、国境を越えて非常に不幸な指摘があったわけで、これに対して誠実に是正をしなければならぬ、こういう角度で取り組まれて今日に至っておりますので、先生の御指摘のような御心配はないのではないか、近隣諸国にも十分御理解をいただけるような教科書になって五十八年度の検定も終わっておるもの、このように私ども考えておる次第でございます。
  131. 森喜朗

    森国務大臣 ただいま官房長官からも申し上げましたように、文部省といたしましても、今先生から御指摘をいただきましたそうしたことが起きないように、そして新たな規定を追加いたしましたそのことに基づきまして教科書検定をいたして、昨年もそのようにいたしましたし、また今年度もそのような検定の作業を今日までいたしてきたわけでございます。
  132. 上原康助

    ○上原委員 私もそのようなことが再び起こらないことを期待をしている一人であるわけですが、今官房長官が御引用なさいましたように、教科用図書の内容とその取り扱いについて、確かに教科書検定基準の一部を改正をして、おっしゃったようなことがとられております。  そこで、じゃもう一つ聞いておきたいわけですが、これは後ほどの議論とも関連しますが、例えば中国における南京大虐殺の問題等については、官房長官はどういう御認識を持っておられるのか、あるいは朝鮮に対する併合政策、日本の植民地政策についてはどういう御認識を持っておるのか。これは、今あなたが御答弁なされば、そういう内容になっているかどうかはこれから私が具体例を挙げて議論をしていきたいと思いますので、お答えいただきたいと思います。  それともう一つは、国内問題として、きょうも後で議論になりますけれども、例えば非核三原則の問題等予算委員会、本委員会、外務委員会などで何度か取り上げられていますね。アメリカ政府はきょう、既に核巡航ミサイル、トマホークは第七艦隊の艦艇に実戦配備がなされたと、はっきりした見解を明らかにしておるわけです。私は非核三原則というのは日本の国是と理解をしているわけですが、官房長官もそのように理解をしておられるのかどうか、国内問題としてこの二点を明確にしていただきたいと思います。
  133. 藤波孝生

    ○藤波国務大臣 中曽根内閣は、出発をいたしましたときから非核三原則を遵守して進むという方針を国会でも明らかにいたしておるところでございますし、その方針を貫いて今日に至っておるところでございます。今後とも非核三原則を大事にして進んでまいりたい、このように考えております。  それから、南京大虐殺とかあるいは朝鮮半島に対する我が国のいろいろな行為等につきまして、非常に残念な事件、非常に反省すべき行動などが多々ございまして、それらが今日なお非常に私どもの負い目になっているということをいつも私も思うのでございます。そのことをいつも謙虚に反省をしながら国の営みを進めていくようにしなければならぬ、こんなふうに考えて、例えば中国とも日中不戦の誓いといったようなことを両国首脳間で話し合いますとか、あるいは朝鮮半島の問題につきましても大きな関心を持って進んでいくというような態度をとって今日に至っておるところでございます。  そういった御指摘がございましたので、教科書を是正をするというふうに鈴木内閣のもとで方針が打ち出されまして、それを受けて教科書検定が進められて今日に至っておる、こういうふうに考えておりますので、そのことでぜひ態度につきまして考え方を御理解をいただきたい、こう考えるのでございます。
  134. 上原康助

    ○上原委員 できるだけ官房長官のお時間を長くとりたくないのですが、遵守するということと国是としてそれを遵守していくということと若干違いますよ。私は、一般的に、国民も国是として理解をしていると思うし、国会決議等も含めて考えれば政府としてもそのようにお認めになっているものと思うのですが、その点改めて御見解をいただきたい。  それともう一つ、この教科書検定の中身の問題で、対外的には確かにいろいろありましたが、きょう私は後ほど具体例を挙げて取り上げますが、沖縄の教科書改ざん問題については、政府は対外的に遺憾の意を表明したことに引きかえ、全くなかったですね、当時の鈴木内閣も、今に至るまで。なぜこれはやらなかったのか。  沖縄の日本軍が県民を惨殺、殺害をしていった、そういうことも実際問題として書きかえられたわけですよね、これは後で具体例を挙げますが。中国や朝鮮に対してそういう遺憾の意を表するのであるならば、国内で起きた問題についても当然何らかの政府の謝罪というか遺憾の意というか、そういう御発言があってしかるべきだというのが県民の受けとめなんだが、このことについてはいまだに私は聞いた覚えがない、私の記憶に関しては。これはどうしてだったのか、あわせてお答えをいただきたいと思いますし、もう一つは、朝鮮半島というときには、今確かに我が国は朝鮮民主主義人民共和国との国交関係はないわけなんだが、単に政府が言う謝罪の意というものは韓国だけについてでないと思うのですが、そのこともひとつコメントがあればやっていただきたいと思います。
  135. 藤波孝生

    ○藤波国務大臣 幾つが御指摘がございましたので順次お答えをいたしたいと思いますが、まず国是であるかどうかという問題、申しわけありませんが、私は余り法律の知識はありませんので、国是というのが、法律でどこでどういうふうな規定になっておるので国是と言うのかということについてつまびらかにいたしませんので、自分の頭の中で大変そこのところがはっきりしないので、どうも国是と申し上げてはいかぬな、こう思いまして国是とははっきり申し上げなかったのでございますが、政府が非核三原則ということを明らかにしており、国会もそのように御意思を持っておられ、そして非常に国民の強い支持がその政策についであるという場合に、ほとんど国民と一緒に一つの政策が固まっている、こういうふうに理解をする場合に国是と言うのであるならば、非核三原則というのはそれにほとんど近いものになっておるのではないかというふうに思いますので、国民と一緒に政府、国会、国民、非核三原則ということについては随分固まった原則になっておる、こういう理解に立っておるというふうにお答えを申し上げておきたいと存じます。  沖縄県の問題につきましては、教科書問題が起こりましたときに、当時の小川文部大臣から、沖縄の問題は、一つは今御指摘がございました国内の問題であるということ、したがいまして、当然日本国政府としていろいろな問題を勘案しながら教科書検定を行ってきておりますということは一つあると思いますし、もう一つは、文部大臣が国会で答弁をされております中に、沖縄県民のお気持ちを十分受けとめさせていただいてこの教科書づくりの仕事に当たりたいという答弁をしておられますので、そのことによりまして、その後の教科書検定の中にそのお気持ちは生かされてきておる、このように考えておる次第でございます。政府のみならずひとしく国民が、沖縄県民の皆さん方には大変な御不幸な御負担をかけてきた、こういう感じは一様に皆持っておるわけでございまして、当然沖縄県民のお気持ちを十分酌み取って教科書づくりが行われなければなるまい、こう考えておる次第でございまして、今日におきましても、森文部大臣中心としてそのお気持ちが生かされておるものであるというふうに考えておる次第でございます。  朝鮮半島の具体的なお話がございましたけれども、あのときに官房長官の談話として出されましたのは、具体的に中国あるいは韓国からの指摘があって教科書問題というのが浮かび上がって、これを是正するという方向に向かったのでございましたが、談話の中に生かされておるものは、アジア近隣諸国という表現の中にすべて包含をされておるのではないかというふうに考えておりまして、先ほど先生からお話がございましたように、具体的には韓国、中国の申し入れがあったわけでございますけれども、アジア諸国におきましても一様にこの問題に対しての懸念があったというふうに、当時、森文部大臣もそうですし、私どももみんな一様に教科書問題のときに心配した仲間でございます。そんな受けとめ方で、当時、教科書の是正に当たったというふうに私ども考えてきておるということを申し上げておきたいと存じます。
  136. 上原康助

    ○上原委員 十分というか、私が納得のいくほどの御回答ではないわけですが、時間の約束がありますから、以上のことを一つの前提としてこれからの議論文部大臣関係者の皆さんとやってまいりたいと思いますが、特に教育改革といろいろ言ってみたって、なかなかそう簡単にいく問題でもないような感じもいたします。  官房長官は政府・与党きっての、言うところの文教族の指導者のようでございますから、この臨教審答申が出るまで中曽根内閣が続いているのかどうかよくわかりませんが、十分我々が指摘をしたことも踏まえて御努力をいただきたいことを強く要望して、一応官房長官御退席をしていただいていいと思います。ありがとうございました。  そこで、冒頭も申し上げましたように、ちょっと入り口が逆になりましたので、質問をまたもとに戻しますが、まず最初に、これまでも同僚の先生方からいろいろ御質問があり、御指摘もあったようですが、もう一度、臨教審設置法の幾つかの問題点と教育基本法の関係についてお尋ねをさせていただきたいと思うのです。  最初に、改めて文部大臣にお聞きをしておきたいわけですが、従来の中教審にかわる新しい審議会設置をしなければいけなかった理由ですね。我々、中教審そのものを是とするわけじゃありませんが、また反面、そこで答申されるものとか議論されているものすべてを否定しているわけでもありませんし、問題は、教育基本法の精神あるいは憲法の理念というものがどう学校現場、教育行政教育政策に反映をされてきたかということが一番の根本であって、枝葉末節のことを私も申し上げたくはないわけです。  そういう意味で、当初はこの臨教審設置をすることには文部省そのものが相当抵抗を示したということも報道なされたわけですね。しかし中曽根さんはごらんのようにひらめきの専門家のようですから、教育教育だと言うと、すぐ教育改革ということに飛びつく。みんなが国鉄だ何だと言って行政改革だ、そういうようなことを言うと、すぐ行政改革に飛びつく。がん対策に今国民が一番関心を持っていると言うと、今度は選挙のスローガンにがんだ、がんだと言う。こういうような要するに思いつき、はったりだけで教育問題を議論されては、ますます混迷を深めていくし、国民的コンセンサスも得にくいのじゃないかという感じがしてならないわけですね。  そういう背景があっただけに、文部行政、文部政策を預る担当大臣として、なぜこの臨教審を今の段階設置をしなければいけなかったのか、改めて御見解を聞いておきたいと思うのです。
  137. 森喜朗

    森国務大臣 今の教育に対する、いろいろな意味でいいものもございますし、いろいろとまたこれに対する批判もあるわけでございます。恐らく上原先生の所属なさいます社会党さんもそうでありましょうし、ここにいらっしゃいますそれぞれ各委員の皆さんの会派も、教育の問題を政策の課題として大きく取り上げておられない政党はない。いかなる議論の中にも、それこそ町の居酒屋あるいはおでん屋さんの話し合いの中にも、また学者間の話の中にも、教育の問題というものは常にさまざまな問題を提起しておるというふうに私どもは承知をいたしております。  そういう中で、やはり日本教育はこのままでいいという考え方を持つという方々は、私は、日本には今はそう多くいらっしゃらないと思う。やはり何らかの形で今の教育を、いろいろな視点で見ていかなければなりませんけれども、何とかしなければならぬという声は多いのだろうというふうに思います。そういう意味総理は、もちろん最初に総理になりましたときには私は閣僚でございませんので、党員という立場で見ておりまして、教育を大きく政策の課題といたしまして国民教育改革をぜひ進めていきたいという呼びかけをなさいました。私が文部大臣に就任をいたします際も、ぜひ教育改革を進めたい、そういう意味でぜひ検討してほしいということを入閣の際に総理から発言をいただきました。  御承知のように、先ほど上原さんからも御指摘がありましたように、私も、藤波さんともどもに、自民党の文教政策の仕事を今日まで主に政治的な課題としてやってまいりました立場でございます。そういう中で、教育改革を進めていく上において今国民の皆さんが考えておられるのは、例えば受験の問題でありますとか社会におきますいろいろな問題児行動、そういうものを何とかしろという声もございますが、やはり原因というのはいろいろあるわけでありまして、一つの事柄だけを取り上げても教育はなかなか正しい方向には進まない。私も、党の政策を進めてきた経験の中でも、一つのことだけを取り上げてそこだけを改善をいたしましてもなかなかそのことすべてが完全になるというものではない。そういう意味から考えまして、教育全体を一度思い切りいろいろ角度を変えてあるいはいろいろな視点を変えて考えてみることが大事なのではないか、こういうふうに私も大臣に就任をいたしましてから私なりの考えに至ったわけでございます。  御指摘をいただきましたように、中教審でなぜいけなかったのかということでございますが、中教審は、文部省固有の事務でございます学術、文化、教育の面につきましていろいろな御審議をいただき、そして御提言をいただく。そのことを求めながらその御答申をいただき、そのことを中心にして日本教育の行政の改善を進めて今日まで私どもは参ったわけでございます。しかしながら、先ほど申し上げましたように、教育は各行政に関連をいたします部門も非常に多いわけでございますし、それから一中教審という文部省固有の事務だけで考えていくという範囲を超えた、もっと広い問題というものも多いであろうということから、そしてまた、教育改革の御答申をいただいたといたしましても、内閣全体でそれを受けとめていくという、そうした責任というものも必要であろうというようなことから考えまして、また私自身といたしましても党の中で教育の政策の課題を幾つか考えてまいりました際に、これは内閣全体で受けとめていただいた方がより前進的に進むのではないかというふうな判断も私はいたしたわけでございます。そういう中で、ぜひ国民全体のすそ野の広い問題といたしまして、そして内閣全体として長期的な展望に立って、今ある制度をどう改善するということではなくて、二十一世紀を担う子供たちにとってどのような教育が必要なのかということを幅広く御議論をいただくということから、いわゆる総理大臣の諮問機関として臨時教育審議会をお願いをすることになったわけでございます。
  138. 上原康助

    ○上原委員 これまでも大体同趣旨の御答弁がなされておるので、大臣おっしゃるように、それも一理だとは思うのですね。しかし、私は文教問題というのは全く素人なのでよくわかりませんから、お門違いのお尋ねになったりあるいは間違ったことを言うかもしれませんが、それは御理解をいただきたいわけですが、今教育行政教育問題がなぜこれだけ国民的課題になってきたかという基本を、原点というものを私は忘れてはいけないという気がしてならないわけですね。  それは何といっても憲法であり、教育基本法だと思うのです。憲法の理念を受けて教育基本法が制定された。ある意味では、三権分立といっても、教育の自主性、独立性からいうと教育の問題というのは四権分立にすべきだという意見さえあったくらいなんですね。要するに、国家権力の不当な介入というものを受けないでどう教育の中立性なり自主性、独立性というものを確立をしていくか、あるいはまた人間形成の面からしても、本当に自主濶達の教育環境を社会的にもつくって初等、中等、高等教育を進めていくかあるいは社会教育を進めていくかというのが教育の基本であり、目標だと私は思うのですね。わかりやすく言うと、あくまでも真実を教え、恒久的に真理を探求していくことだと思うのです、個人的な面、学問の分野で言うと。しかし、これがゆがめられてきているのが今日の事態であって、これにはいろいろな御意見があり、またいろいろな問題指摘があることも私はある程度は知っております。  それは民主主義社会ですから、それぞれが選択をするということも大事ですが、しかし憲法の解釈がどんどん変な格好になっていき、教育基本法も、普通の法律には前文なんて余りないですよね、あえて前文を打ったというところにも、戦前教育の深い反省の上に立って教育基本法というのができたと私は思うのですが、憲法がだんだん形骸化されたと同様に、教育基本法の精神というものが生かされていないところに私は最大のネックがあるのじゃないかという感じがしてならないわけです。  そこで、この臨教審設置法のまず第一条なんですが、「目的及び設置」の方で、「社会の変化及び文化の発展対応する教育の実現の緊要性にかんがみこというわけですね。あくまで、社会の変化と文化の発展対応していく人間形成というか、教育の緊要性にかんがみ云々となっている。そして二次的に、「教育基本法の精神にのっとり」となっているわけですよ。もし私なりに言わせれば、教育基本法の精神に基づいて、社会の変化及び文化の発展対応する教育の実現の緊要性にかんがみ、かくかくのため総理府に臨時教育審議会を置くということであるなら、教育基本法というものが生かされてくるわけなんだが、なぜこういう文の打ち方にしたのかということ、ここにやはり教育理念、目標というものが逆さまになっていはせぬのか。  それと、法制局も来ていただきましたので、「精神にのっとり」というのは、まさか教育基本法の精神をみんな乗っ取ってしまって骨抜きにするという意味じゃないと思うのだが、どうもそうしか読めないのですね。なぜ、基づいてにしなかったのか、このことをぜひ明らかにしておいていただきたいと思うのです。
  139. 森喜朗

    森国務大臣 法律の技術的なことは法制局にお答えをいただきたいと思いますが、今上原さん御指摘の点につきましては、私もよく理解はいたします。  しかし、第一条になぜ「精神にのっとり」を先に書かなかったのか。「精神にのっとり」というのを先に書くと、また先生流に言えば全部乗っ取ってしまうということになってしまうわけですが、そういうふうな理解は、これはジョークでありますが、この法律目的の一番大事なところは、教育改革したいということでございます。したがいまして、第一条のところの最初は、いわゆる社会、文化の発展対応する教育の実現の緊要性にがんがみまして教育改革したいのですということがやはり法律の一番主眼でございます。  そして、当然ここでそのまま連続いたしまして「教育基本法の精神にのっとり」ということでございますので、先生のおっしゃるとおり、ここのところは非常に大事にした、両方ともきちっとした表現だろうというふうに――本音で言えということですから、本音で私は申し上げると、ここは、どちらを光とか役とかということでそれを大事にするとかしないということではない、法律を改正することはあくまでも教育改革をするということが法律の一番目的でございますので、そういう意味でそこを先にしたのだろうというふうに私は考えますが、技術的なことでございますので、担当から答えさせたいと思います。
  140. 関守

    ○関(守)政府委員 御指摘の要点は、基本法の精神にのっとりというのと基づきというのとどう違うかということだろうと思いますので、その点についてお答え申し上げます。  「教育基本法の精神にのっとり」としておりますのは、今回政府が教育改革を行うに当たりまして教育基本法の精神に従ってその改革を図っていくという意味合いでございまして、その従ってという点につきましては、仮に教育基本法の精神に基づきという場合でも同じだろうと思います。ただ、教育基本法の精神に基づきという、基づきという言葉を用いますのは、通常その前に書いてある言葉、この場合ですと教育基本法の精神ということになりますが、それを根拠として、あるいはそれを一つの原因としてというような意味合いが強く出る場合にそういう用い方をするんじゃないかと思います。  この場合には、改革を図っていく、その図り方は教育基本法の精神に従って図っていくんだ、改革を図っていくんだ、そういう意味合いで「精神にのっとり」としてあるというふうに考えております。
  141. 上原康助

    ○上原委員 私も法律は全く詳しくないので、そう言われればそうかなと思わざるを得ませんが、それはかなり苦しい答弁です。  では、そういうふうに教育基本法の精神に基づいてと直したらどうですか。直す御意思ありますか。
  142. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 法案関係のことでございますので、私から御答弁させていただきます。  先ほど法制局からも答弁ございましたように、今回の教育改革を行います場合に教育基本法の精神に基づきというふうに書かなかった理由は、今回の教育改革が、教育基本法制定当時に各法律をつくるというような場合と異なりまして、教育基本法を根拠としてあるいは原因として行われるものではなくて、冒頭に書いてございますように、社会の変化及び文化の発展対応する教育を実現する、この目的を原因といたしまして教育改革を行うわけでございますので、そういう観点でのっとりという方が立法技術上適当であるという判断でこのようにいたしたわけでございます。変える考えはございません。
  143. 上原康助

    ○上原委員 それはやはり社会の変化、文化の発展ということが先で、人間は後にしているという感じを受けざるを得ない。あくまで、教育基本法の精神に基づくとかあるいは従うというのであれば、基本法そのものをもっと前面に出すべきだというのが私たちの主張であるということを言っておきたいと思いますし、単なる立法技術上の問題としてこれは見落すわけにはいかない問題。それから出てくる答申なり、またその答申を受けたいろいろな教育行政、政策というものが、総理文部大臣も、教育基本法まで変えるという意思は持っていないんだと再三おっしゃっているのですが、しかし、それも本音じゃないような感じがしてならないのですね。特に総理の場合はすきあらば変えたいと……。  「教育基本法の精神にのっとりことか、それに従ってというのであるならば、では逆に聞きましょう。そうしますと、この臨教審教育基本法の精神、教育基本法の範囲内のことを審議するという枠がありますか。それはまた、ないのでしょう。そこはどうですか。
  144. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 教育基本法にのっとり教育改革を政府として進めるわけでございます。したがいまして、法の趣旨として、今回政府が教育改革を推進する観点教育基本法にのっとっていくということでございます。その政府が行います教育改革のために審議会を設けるわけでございますから、審議につきましては教育基本法にのっとった審議期待している、先ほど来文部大臣答弁したとおりでございます。
  145. 上原康助

    ○上原委員 教育基本法の精神にのっとった審議をし得ることを期待している。期待するだけで、結果がそうでない場合どうするんですか。それは文部大臣から聞きましょう。そこは若干、若干というか、かなり基本的な理解の仕方が違っているという点は私は指摘をしておきたいと思う。  第二条の「所掌事務」では、「審議会は、内閣総理大臣の諮問に応じ、教育及びこれに関連する分野に係る諸施策に関し、広く、かつ、総合的に検討を加え、必要な改革を図るための方策に関する基本的事項について調査審議する。」これも日本語の文章としてはなかなかねじれていますよね。「諸施策に関し、広く、かつ、総合的に」そして「方策に関する基本的事項」。  ここの審議の所掌というものは、教育基本法の範囲内のことじゃないんじゃないですか。どうなんですか、大臣、それははっきりしておいてくださいよ。じゃ、例えば教育基本法もそろそろ改定というか改めるようなことを考えてみたらどうですかという答申をこの審議会がやった場合どうするのか。そういう権限もありますか。
  146. 森喜朗

    森国務大臣 私も総理も、教育基本法を変えるという考えは持っておりませんということを、まず基本的に国会でたびたび申し上げております。また、私は午前中も、また午後の審議の際にもそういうことを申し上げております。したがいまして、今度の教育改革教育基本法のこの精神を大事にしながら改革を図りたいということでございます。そして、今ほど審議官からも申し上げましたように、御審議をいただく皆様方にもこの教育基本法の精神を大事にして御論議をいただきたい、こういうふうにお願いをいたしております。  今の第二条の「広く、かつ、総合的に検討を加え、」云々というところは、それならここに教育基本法の精神云々を書いてないじゃないかということでございますが、私も法律的には専門家ではございませんが、第一条のところにこのことを明記いたしておるわけでございますから、当然この法律全体についてこの精神が及んでいくものだというふうに私は理解をいたしております。
  147. 上原康助

    ○上原委員 そこにまで書けという意味じゃなくして、基本法は変えないとは言いながら、この臨教審では基本法なんかにはかかわりなくいろいろ意見を出してもらいたいということを期待しているような感じがしてならない。  といいますのは、けさの何新聞だったか、臨教審に注文するといっていろいろ書いてありますね。真っ先に挙げているのは、教育基本法を改正しなさい、あんなもの生言わんばかりのことを指摘している。日教組の活動についてもっと規制しなさい、教科書検定を強化しなさい、この三つの柱が抜けていることを盛んにある学者は指摘している。  後で本も出しますけれども、いろいろなことが指摘されているわけですね。私たちは、いろいろな意見があるということは、それは民主主義社会ですから否定はしません。だが、教育基本法の精神に基づくとか、従うとか、のっとるとかいう表現であるならば、まさに教育基本法の精神を丸乗っ取り、ハイジャックするような審議会になっちゃいかぬという、そのことだけは強く注文をつけておかざるを得ないわけです。この点はぜひ御理解をいただきたいと思いますし、御配慮を願いたいと思うのです。  そこで、委員の人数の問題とか選任基準等については過般議論がなされたようでありますから割愛いたしますが、委員を「人格識見共に優れた者」、専門委員は「学識経験のある者」と、両方区別した理由は一体どういうことなのかということです。  それと、委員のことですから重ねてお尋ねしておきたいのですが、委員を国会承認事項とこの案ではしなかった理由。しかし、いろいろ審議の過程において国会承認事項にしたのがいいということになれば、政府は国会承認事項にするのかどうか、これが二点目。  そして、先ほども審議会審議は公開にしないというのが原則だということですが、私たちはやはり原則はあくまで公開にすべきだという立場をとるわけで、公開といっても傍聴人云々の問題等ありましたが、今だって、あらゆる公開の原則をとっている委員会だって制限しているじゃありませんか。それは無制限にやれというわけじゃないですよ。密室でやるから問題が起きるんだ、教科書検定を含めて。だから、原則はあくまで公開にし、その委員の三分の二であるとかあるいは大多数がこの審議については一定の時間は非公開にした方が望ましいということであれば、それは民主的運営によってできないはずはないのです。まずはそういう民主的なルールを確立をしないで、ますます教育審議内容とか教育問題がどう議論されているのかということを、国民と溝をつくったり距離をつくったりするところに、教育改革がなかなか国民的コンセンサスの上に立って、要するに教育基本法の精神に基づいたものになっていない今日の事態があると私は思うのです。  この三点について改めて御見解を聞いておきたいと思います。
  148. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 委員と専門委員の違いについてのお尋ねがまずございました。  「教育は、人格の完成をめざし、」教育基本法の第一条の目的に掲げられておるところでございますが、そういうものでございますから、委員といたしましては、まず人格がすぐれているということが条件になろう。それから同時に、単に教育のみならず社会や経済の変化等を含めて広く我が国の将来に関して的確な判断をしていただく、そういう意味で識見を有する者ということにいたしたわけでございます。教育のみならず広く社会、人間その他について識見のある方というお願いをしたわけでございます。  専門委員につきましては、具体の審議が行われ、そして専門的な事項についての知識が必要になるという時点になりまして改めてお願いするわけでございますので、その専門の事項について識見を有する者ということにいたしたわけでございます。  それから、国会同意のことにつきましては、先ほど来大臣から御答弁を申し上げているわけでございますが、確かに国民全体の意思を確認するという意味で、国会の同意を求めるというのも一つのお考えであろうということは重々承知しておるわけでございますが、事教育の問題でございますし、各党からの御判断委員さん個々にその適否を御判断いただくということが委員さんのお立場にとって果たしていかがなものであろうか、そういうことを両者総合して考えまして、規定をいたさないことがベターであるという判断をいたしたわけでございます。  公開につきましても、先ほど来大臣が御答弁申し上げておりますように、審議の過程をそのままの形で公開をするということはやはり個々の委員さんの発言に制約を加えるおそれがある、審議に影響を与えるのではないかという心配がございますので、そのままの形での公開はいたさない方が適当ではないか。もとよりこれは審議会が御判断いただく課題ではございますが、私どもはそういうふうに考えておるわけでございます。国民の声をできるだけ反映する、あるいはその理解と協力を求めるということは、いろいろなほかの手だてによりましてやっていきたい、そのように審議会にもお願いしたいというのが立場でございます。
  149. 上原康助

    ○上原委員 今のこの専門委員委員のあれは、官房審議官ですか、お答えもいいんだが、あとのことは大臣がお答えにならなければいかぬですよ。  法制局、まだいらっしゃいますか。こだわるようですが、のっとりと基づいてというのは、これは表現上の問題であって意味は同じと理解していいかどうか。これを確認してからあなたはお帰りになっていいですから。
  150. 関守

    ○関(守)政府委員 先ほども申し上げましたように、繰り返しになって恐縮でございますけれども、基づいてと申しますのは、それを根拠としてとか原因としてという意味合いで用いられる場合が多いわけでございます。この場合は、そういう意味合いではなくて、必要な改革を図るというのに、その図る範囲と申しますか、態様と申しますか、方法と申しますか、それは教育基本法の精神にのっとってやるのだ、従ってやるのだ、そういうことでございます。同じ従ってということでございますが、若干意味合いの違いがあるように思います。
  151. 上原康助

    ○上原委員 文部大臣、どうですか。この委員の国会承認のことと審議の公開を原則とするということは、これは政治判断ですよ。これは単なる条文を書く側の手続的な問題ではないわけです。何か一説によると修正案にも応ずる用意ありという話もあるので、実際は政府の態度、文部省の態度はどうなのか、ここで明確にしていただきたいと思うのです。
  152. 森喜朗

    森国務大臣 国会同意につきましては、これもたびたび申し上げて同じことを繰り返すようで恐縮でございますが、お一人お一人の委員のお立場というものを私ども考えまして、いわゆるいろいろな審議会というのがございますし、いろいろな審議機関のそれぞれのお立場委員というのもございますが、事は教育でございますし、いろいろと幅広く本当に自由に御論議をいただいた方がいいという私ども判断をいたし、そういう意味でお一人お一人の委員のお立場というものを考えて、国会同意でない方がいいという判断をして私どもはこの法案をまとめさせていただいたわけでございます。  しかし、たびたび申し上げておりますように、私どもとしては委員一人一人のお立場考えてという判断でございまして、そういう意味でこれが最上の判断であるというふうにいたしておるわけでございますが、国会の皆様方の御判断というものがやはり大事なところだというふうにも私ども考えておるわけでございます。  公開の原則につきましても、今余計なことだったかもしれませんが審議官がお答えをいたしまして、私もたびたび申し上げておりますが、やはりこれもお一人お一人の委員の御自由な御論議というものを私どもは保障することが大事だというふうに思うのです。公開をして人が見ておってしゃべれないというのはおかしいじゃないか、そういう御意見もあることはありますし、上原先生初め多くの皆さんのそういう御意見も、私どもは十分そのことは理解はできます。  しかし、ちょっと上原さん、長くなって恐縮ですが、私は例えば幼保の問題を一元化した方がいいという態度を予算委員会で表明いたしました。国会の論議ですからテレビで見ておられた方もあったと思いますが、私がそれだけ言っただけで大変な反対の手紙や陳情が来るのです。端的に言えば選挙区までから、保育団体の皆さんがもうその発言はやめろと言うんですね。それを言ったら選挙を応援しないぞとまでは言いませんけれども、政治をやっていますと、そのことを非常に身の危険だと感ずるぐらいやはり発言をすることについていろいろな意見が参ります。  やはり今日は、日本の国はいろいろな立場で右も左もおります。これは先生自身もそういう御経験があると思うのですね。一つ意見が申されると、それについて賛否両論の意見が来ます。それぐらい日本の政治といいますかそういう面は、民主的にそういう意味では非常に高まっておるのだという見方もできるかもしれませんが、我々政治家ですと、いろいろな立場で制約を受けたりいろいろなおどかしが仮にあったとしても、我々は政治家ですから何をという気持ちでやります。しかし、こういうお立場の方々というのは、私が先日申し上げましたように、先生の代表もあるかもしれませんし、親の立場もあるかもしれません、あるいは経済界のいろいろなお立場の方があるわけですから、政治家の我々のように何を言うかという形にはなかなかならない面がある。一つ意見を言われると、そのことについて終始いろいろな形で、それはだめなんだ、そういう意見を言ったらただじゃ済まぬぞというような意見が入ってくると、やはり意見そのものを吐くことにいろいろちゅうちょされる面というのは出てくるだろうというふうに私は考えるのです。ですから、公開はいけないというのではないけれども、やはり御自由な論議をしていただくということはとても大事なことだから、それをみんなで担保して保障してあげるということだろうというふうに思うのです。  しかし、密室的であってはならぬ。一切議論のあったことを外に出してはいかぬという態度をとるわけではありませんから、やはり審議経過の概要等については適宜いろいろな形で外に御披露申し上げていく、そしてそのことによって国民のいろいろな意味での理解をちょうだいをする、また意見を求めることができる。○○委員がこう言った、○○委員がそれについてどういう反対をした、こういう議論がそのまま外へ出ていったら、その意見が本当にこれから広く広がりを持って建設的な形でまとまらないだろう。ここは私は、上原先生、本音の話です。  だから、そういうふうに考えますと、やはり適宜公表するなどほかの方法で、この公開というものは国民の前にはっきりと明確にわかるような形を、これは審議会自身が御判断をいただくことがより適切ではないかというような考え方を政府といたしまして判断をいたしてこの法案をお願いをいたしておるわけでございまして、私どもとしてはこの法案を何としても、いろいろな角度から検討した結果でございますので、ぜひこのまま成立をさしていただければ大変ありがたいというふうに考えておりますので、どうぞひとつ御理解をいただきたいと切にお願いを申し上げる次第であります。
  153. 上原康助

    ○上原委員 私は、今文部大臣お述べになったことは大変重要な意味を含んでいると思うのですね。それは後段の部分ですが、日本の戦後四十年たって、一応民主主義社会ですよね。言論の自由、結社の自由、表現の自由というのは憲法で保障されている。だから、こういう国会も公開の場でやりとりができるわけなんです。本来は、表現の自由という建前からしますと、AさんであろうがBさんであろうが、どういう思想を持っておろうが、自己主張については堂々と公開の場でできるというのが民主主義社会の健全なあり方じゃないでしょうかね、文部大臣。それが自己規制をせざるを得ないというところに私たちは非常に、ある意味ではこれからの日本の将来の民主主義の構造というのがどうなっていくのか、表現、思想、結社、学問の自由というものがどうなっていくのか、まさに問われているのはここだと私は思うのです、今あなたはいみじくもおっしゃいましたが。  仮にこの審議委員になられる皆さんに、そういった公開の原則というもので自己主張をやったからといって脅迫まがいのことがあるとか不当な支配があるならば、堂々とそれをはね返していく社会をみんなでつくるというのが教育改革よりも先じゃないですか。社会改革だよ、これは。そういう自己規制が始まっているところに今日のいろいろな国民の不安なり不満というか、日本の将来、二十一世紀、二十一世紀と盛んに言うけれども、問題があるという点を私は指摘をせざるを得ませんね。  それはありますよ、確かに。私だっていろいろなことはある。あわや命を落とすかということだってあった、沖縄の場合なんか。しかし、そうだからといって、自己規制が始まってみんなが体制におもねりにいったらどうなりますか。そういうことをやったから大政翼賛もできたのでしょう。戦前のようなああいう軍国主義社会になったのでしょう、ファシズム社会に。これから議論しますが。  そこは文部大臣、私は冒頭申し上げましたように、あなたは本音を言う方だと思ったのでそう言いましたが、文部大臣やった方で総理大臣になったのは鳩山さんお一人だとか聞いたのだが、それくらいの方だと私は思うのです。それくらいの方ならもう少し、今おっしゃるような自己規制をしている学者や代表がおるなら、そうせしめないような政治のあり方、社会のあり方を形成をしていくというのがまさに国会の責任じゃないですか。だから、そういう意味でも密室でやるとますます問題が陰うつになってしまって、疑心暗鬼で複雑になっていく、信頼関係ができないということになりますので、そこは篤とお考えになっていただきたいということを強く要望しておきたいと思いますね。後ほど御見解があればお聞かせいただきたいのですが、まさに今そのことが問われているということを指摘せざるを得ませんね。一度提案をすれば、それがベストというかベターな法律だと思って出したので、通すというのは、それは与党や担当省庁の当然のお気持ちでしょう。だが、これだけいろいろ問題点が指摘をされた中では、やはり野党の言うことも率直に受けとめていくという姿勢もなければいけないですよ、多数与党だからといって。  そもそも教育改革が出たのは、八〇年のダブル選挙で自民党が予想外に勝ったから、教育教育だとあなたが先頭になったんだよ。この間また二百五十、過半数に足りなかったものだから、やれ不沈空母だか憲法改正やりませんなんて中曽根さんも口に少しチャックをはめているけれども、あれ、勝ってしまうと本当にまた何をやるか知らぬ。そういう意味で今まさに重要な段階にあるということを指摘をしておきたいと思うのです。  それで、ではこの教育臨調臨教審に対して、学校現場の方々、教師の方々がどれだけ苦労しているのか、これはいろいろ言い方があるでしょう。あるでしょうが、しかし、現に日本教育を支えているのは学校で教壇に立っている皆さんですよ、大学にしても高校にしても中学、小学校にしても。その方々の意向を無視しては教育改革というものはあり得ないと私は思うのです。そういう方々の意向はこれにどう反映させるのか、この点についてもあわせてお聞かせいただきたい。
  154. 森喜朗

    森国務大臣 先ほどの前段のことでございますが、意見があれば言えということでございましたが、私どもや上原さん、特に上原さんは沖縄の復帰問題に対しまして大変御努力されましたこと、私も当時沖縄特別委員の一人で一緒に那覇まで参りましたから、大変なお立場であったということも承知いたしておりますし、法案を進めようという自民党の私どももあの当時ちょっと那覇で一人で歩けないというくらい、いろいろな騒然とした御意見があったことを承知をいたしております。私や先生は政治家ですから、どんな立場があっても不屈な気持ちで自分たちの信念は吐露していかなければならぬ、当然だろうと思うのです。しかし、この審議会にお願いする方々は政治家ではないわけでございまして、確かにそういう社会であってはならぬということは当然です。  そのことは私は先生と同じ考えですが、現実の問題として対応していかなければなりませんので、現実としては、自由に議論ができるという雰囲気をつくる社会というのは当然大事なことでございますけれども、やはり執拗に、先ほどちょっと私は自分の例を申し上げたのは適当であったかどうかわかりませんが、端的に申し上げると、執拗に、保育所をつぶすなとか幼保元化するというのはおまえはけしからぬというような、これは本当に、執拗に参りますと、もう面倒くさくなってくるのですね、一々申し上げておることが。そうすると、もういいや、この話はもう適当にぼかしておこうかなという気持ちについつい、あってはならぬことでありますが、やはり人間でありますから、その都度そうではないのですよ、子供たち立場で、幼稚園、保育所、同じような形で両方が繁栄するような形を考えようというのが私の考え方ですよと、それこそトーキングマシンのように何回も何回も説明したり、はがきや手紙が来ると丁寧に丁寧に私どもも返事をさしているわけでありますが、しかし、それでも面倒くさくなるくらいでございます。面倒くさいという言葉はよくないのでありますが、それくらい執拗にやはりいろいろな声というのが国会に届くということで、私はこれはまたある意味ではいいことだと考えます。  しかし、さっき申し上げましたように、委員にお願いをする方々はやはり政治家の専門ではございませんし、そういうことに対していつまでも論議をするという立場の方ではありませんから、御自分が深いかかわり合いを持ち、また経験を持った識見から御判断をなさることでございまして、その委員が直接の利害を云々されるという立場でないからこそそういう御発言をいただけるわけでございますが、えてしてそのことに関連した方々についてはいろいろな意見をまた求めるということになりますと、だんだん発言に制約が出てくることになったのでは、やはりこれはよくないことだ。だからといって密室にしてしまえということじゃないわけでありまして、適宜総体的な意見の概要がその都度示されるような方法は、これは審議会自身がお考えをいただくことだというふうに私は考えるわけであります。しかし、いずれにいたしましても、公開にするかしないかということは審議会自身が御判断をなさることでございますので、私がこの審議会を公開すべきではない云々ということを申し上げるということは適当でないというふうに考えるわけでございます。  なお、第二の問題でございましたように、一番教育の現場、そして教育を大事にしていっていただかなければならぬ直接の責任を持ってくださる方は教師であることは言うまでもございません。そういう意味で、まだ具体的な人選につきましては、国会の御論議を十分踏まえながら、今先生からもいろいろ御指摘いただきましたようなことも十分踏まえながら、法案成立後に検討いたすことでございますが、先般鈴切さんの御質問の際にも申し上げましたように、広く国民各界各層の意見反映されるように配慮をしたいということでございますので、当然幾つかの分野考えていかなければなりません。その分野の中に教師あるいは父母の代表というような方がお入りになることは最も大事なことである、このことを十分配慮していかなければならぬというふうに考えております。
  155. 上原康助

    ○上原委員 各界各層の意見という場合にどういう構成になるかということが大事でありまして、さらに公開の問題にしましても、それは審議会設置されたら、その関係者、委員がお決めになればということなんだが、しかし政府が公開の原則はやらぬと言えば公開にならないのは常識であって、そのことも依然問題が解明できたとは残念ながら理解できません。  そこで、次に進みたいと思います。もう一点、教育基本法ということを盛んに強調なさいますので、その教育基本法の第十条、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」さっきも少し指摘をしましたが、一体文部大臣は、その「教育は、不当な支配に服することなくこということをどう理解しているのか、あるいは教育の中立性の確保というものはどのように理解をされ、現状はどうなっていると思っておられるのか、御見解があれば聞いておきたいと思います。
  156. 森喜朗

    森国務大臣 今御指摘がございました教育基本法の第十条による「不当な支配」というのは、国民全体の意思を代表するとは言えない社会的な勢力というふうに私ども判断をいたしております。したがいまして、例えば政党、労働組合あるいは宗教団体などによる党派的な支配というのは、国民全体の意思を代表するということは言えないだろうというふうに考えるわけでございます。
  157. 上原康助

    ○上原委員 なかなか意味深ですね。全体の意思を代表する者が不当な支配をしていないかどうかはどうなんですか。――それは後ほど具体的な例の中でお尋ねしていきます。  中立性のことについてはコメントいただけませんでしたが、またお尋ねの中でやっていただくとして、そこでもう一点は、この法案とのかかわりもあるわけですが、教育改革と行革との関連ですね、特に財政面において。今教育改革改革と盛んに言っておるので。  私もこれでも四人のおやじですよ。確かにいろいろ親子の断絶というか、小学生の高学年になったり、特に中学後半は難しいですね、高校にしても。そういう経験をみずからもやったし、また我々が教育を受けた時代の環境とは大分違いますので、幾ら戦争の話やら、まあ戦争の話には少し耳を傾けたりするのですが、昔は物不足でどうだった、ああだったと言ったって、あのときはあのときで、そんなこと言ったっておやじ始まらぬよとしか言わない向きもなきにしもあらずですね。だが、学校暴力の問題とか親子の関係とか社会環境とか、いろいろ非行問題というのはあるわけですが、それは個人差もあるでしょうし、個人で自助努力をしていかなければならぬ問題もあるでしょうし、家庭で直さなければいけない問題、学校教育していかなければいけない問題、いろいろあると思うのです。私は、相対的な面でしか本当の教育改革はできないと思うのです。だが、教育改革改革と言いながら、ある面では緊急課題についてはなかなか手をつけようとしていないんじゃないですか、政府は。まさに学校現場で苦労しておられる方々なり、父兄というのは、そういった教育の緊急課題についても、どう改革をするというか、充実させていくのか、手をつけていくかということに、より緊急性があるんじゃないのか。そのことを後回しにして、精神訓話だけやろうといったって、これはなかなかできないと思いますよ、文部大臣。  私は中曽根さんの施政方針演説とかいろいろなことを聞いていると、あの人はやはり精神論者ですよ、旧海軍の精神が抜け切れない。精神論だけで教育改革しようということは、やはり戦後の総決算なのかな、戦前復古への回帰なのかな。だから、教育勅語がまた出てきはせぬのか、そういうものが社会史とか日本史とか、そういうものにどんどんちりばめられてきているわけでしょう、実際問題として。そういうことだけにウエートを置いて、当面の緊急課題について、例えば行革だ行革だと言うのだが、じゃ行革の中で教育改革を進めて、教育財政というものについてはどういう御認識を持ちますか。この間も、できれば文部省予算は聖域であってもらいたいと言ったか、そういう表現をなさっていましたが、行革と教育改革予算問題、緊急課題についてはどう手をつけていかれようとするのか、まず基本を聞いて、具体的な問題を二、三点お尋ねします。
  158. 森喜朗

    森国務大臣 緊急課題というふうに御指摘がございましたが、緊急課題というのはどういうところを指していらっしゃるのか、ちょっと具体的には判断に苦しんでいるわけでございますが、例えば問題児だとかあるいは校内暴力等々ということも緊急課題、あるいは受験や塾問題、進学問題、そうしたことも当然緊急的な問題だろうと思います。  今行政改革を引用されて先生からお話があるということになれば、緊急問題というのは恐らく、教育の諸条件をもっと充実しろ、そのことがむしろ喫緊の課題ではないかというようなことが先生のお尋ねであろうというふうに私は考えさせていただきますが、そういう意味では私どもとしては、教育の条件を整えるということ、現場を大切にしていくということは、これは文部省としても努めて果たしてきたつもりでございますし、私もそのことに一番情熱を傾けてきた一人でございます。行政改革は、先ほど柴田委員の際にもたびたび申し上げましたけれども、やはり日本教育行政制度が、いろいろな意味で不備な面も出てきているでありましょうし、社会の変革に対応できなかった面もあるでありましょう。総理の言葉をそのまま使って恐縮でありますが、ある意味ではあかもたまったという表現総理は確かにしておられましたが、そういう意味で、やはりより少し活動的にする、なお一層躍動的に前進するのだという意味で行政改革を進めているわけでございます。  そういう意味で、適正にかつ合理的な行政の実現をしたいということでいろいろな指摘があるわけでございます。そういう中には、教育関係予算につきましても、やはり指摘が幾つかございます。もちろんその中には、財政の見地から見て非常に窮屈に考えなければならぬ面もあるかもしれません。しかし、先ほど先生からもちょっとそのことを引用されましたけれども、私としては教育予算というものはすべて聖域にあるべきなのかどうかということもとても大事な課題であろうと思います。それはやはり多くの国民の合意を得るということも大事であろうというふうに考えますので、教育を新しい制度に見直していく場合には、やはり大きな予算を伴うということも場合によったら出てくるわけでございましょう。それは当然総理も答えておりましたように、必要があるということであればこれはやっていかなければならぬという面もありますし、あるいは適正かつ合理的にということを考えてまいりますと、場合によれば大きな新しい制度を生み出すということになれば縮減ができる面も出てくるのかもしれませんし、また、長い間にある制度の中で現実の問題として二十一世紀にはその制度そのものがもう不要だという面も出てくるのかもしれません。そういう面でまた財政的なゆとりが、逆に言えば出てくる面もあるかもしれません。  そういう意味で幅広く、今日の前にある教育云々ということではなくて、臨時教育審議会はやはり二十一世紀の少なくとも前半から中期あたりを展望して、日本教育制度はこのようにあったらいいだろうということのいろいろな分野を御検討いただくということになるわけでございまして、緊急の課題であります諸条件を整備していくことについては、文部省はなお一層努力をしていかなければならぬということは当然のことでございます。しかしながら、たびたび申し上げておりますように、中曽根内閣としては教育を大事にするという考え方総理が打ち出しておられますから、そのことも、文部大臣という立場では総理考え期待をいたしたい。そういう中で教育を本当に大事にするという諸制度を進めていくということについては、私どもとしても一層の努力を図っていきたいというふうに考えておるわけでございます。
  159. 上原康助

    ○上原委員 もちろん緊急といってもいろいろあるでしょう。それは入試の問題であるとか塾の問題であるとか偏差値の問題であるとか校内のいろんなトラブルであるとか、家庭教育を含めてあるでしょうが、それをやっていくにもやはり教育環境の整備ということは大事なんですね。  例えば四十人学級。何名かの方々がお触れになりました。御指摘、そのとおりです。どなたでもいいのですが、先進諸国と比較をした文教予算というものは今一体どうなっているのか。  それと、国際的に見ても、四十人学級問題という六十六年の実現に向けたあれは、文部省としては変えないんだということを盛んに強調していますが、それはなかなか容易じゃないと思いますよ。だから財政緊急措置ということで凍結されている問題については、私たちは文部行政という面で考えると緊急課題だと思うので、そういうことについてどうするのかということを私は具体的に聞きたかったわけですよ。それをまずお答えいただきたいと思います。
  160. 森喜朗

    森国務大臣 外国との比較等につきましては後ほど政府委員からお答えをさせますが、たびたび申し上げておりますように、四十人学級を含みます第五次教員定数改善計画を策定いたしましたのはもちろん文部省でありますが、党として責任を持って進めたのが当時部会長をいたしておりました私でございますので、我が子のように考えております。  四十人が本当に適当であるかどうかということは、いろんな意見があると思います。少ない方がいいという意見もございます。いや多くの中ではぐくんだ方がいいんだという意見もございます。上原先生は小学校、中学校のときは何人くらいの教室だったかわかりませんが、私どものときは五十人以上のところでございました。だから余り勉強しない私になったのかもしれませんが、またある意味では自分は大変質実剛健になったと考えております。  四十人というのを一つの目標として、今日のようないろんな複雑な社会の環境、文化文明というものが入っておりますから、先生方の心のこもった、行き届いた教育をするには四十人程度が一番いいだろう、諸外国、先進国の例を見習ってもそれがいいだろうという判断を当時私どもはいたしました。また、社会党の皆さん方からもいろいろとこのことについては御指導もいただき、また応援もしていただいたということについては、私どももそういう意味で大変感謝をいたしておるわけであります。四十人になればまた三十五、三十がいいという意見が遠い将来は出てくるのかもしれませんが、そのことは別といたしまして、私といたしましてはこの六十六年最終年度計画というものはとても大事に考えておりますので、何とかいろんな角度で最大限の努力をして、ぜひこれを実現するように一歩一歩でも近づけていきたい、今もそう願っておりますし、これからもそのことに努力をしたいと考えております。  なお外国との比較等につきましては、政府委員に答えさせます。
  161. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 先生のお尋ねは、国家財政に占める教育予算の割合という御趣旨であったと思いますが、各国の財政の構造等にかなり違いがございます。私どもの資料は、国と地方を通じた公財政支出の諸外国との比較というデータを今持っているわけでございます。  それで見ますと、国と地方を通じました公財政支出の総額に占める教育費の割合でございますが、日本の場合には約二〇%ということでございます。アメリカとフランスは約一五%、西ドイツ、イギリスは一四%というぐあいになっております。  それからもう一点、GNPに占める教育費の割合のデータもございますが、これで見ますと、日本は五・九%、アメリカが五・六%、イギリスが六・五%、西ドイツが四・七%、フランスが三・七%というような数字になっております。決算ベースでございますので、約三年ほど前の数字でございます。
  162. 上原康助

    ○上原委員 それはもちろん、公財政の場合、今おっしゃるようにいろいろとり方があるので、国と地方を含めると、あたかも多いような指摘でしたが、教育費の対GNP比というのは、アメリカがたしか六・五、ソ連が七・二、カナダが七・七。あなたは低いところだけ言うが、スウェーデンなんか九・一ですよ。しかもよく引用されるように、文教・科学振興費というのは、全体額からいうとことしは四兆八千六百六十五億。これの対GNP比は五・八、五・九程度だと思うのです。だが、予算全体の中ではわずか一・〇の伸びですよ。一方の防衛費の伸び率は六・五五。  こういうふうに、教育費というものがどんどん切り詰められてきているのは数字的に見てもはっきりしているし、諸外国との比較においてもだんだん落ち込みが出てきているということは指摘できると思うのです。ですから、こういうことも踏まえて教育改革というものをどうしていくかということをお考えにならないと、国の財政が厳しいから我慢しろ我慢しろと言うだけでは国の教育改革問題は総体としてはなかなか前進しないのじゃないですか。そのことを指摘をしておきたいと思うのです。  もう一点。四十人学級について御努力なさる、我が子のようにその方針は大事になさるということですから、ぜひ実現をしていただきたいし、六十五年、六十六年といわずにもっと早目にやっていただきたい、やらなければいかぬと思うのですが、学級編制というのは国際的にはどうなっているのですか。おわかりですか。
  163. 高石邦男

    高石政府委員 国際的な比較はいろいろなとり方がございますが、一つは、一クラスの人数が四十人であるか四十五人であるかというようなこと、それから教員一人当たりで受け持っている児童生徒数が何ぼであるかというようなこと。それから、学校には事務職員とか養護教諭とか学校栄養職員、そういう職種が諸外国でどうなっているか、そういういろいろな比較の上で論じなければ正確な条件の比較というのは難しいわけでございます。  ただ、一クラスの編制についてどうかという御質問でございますが、大体四十人から三十五人というのが先進諸国の実態でございます。
  164. 上原康助

    ○上原委員 それにしても日本は多いわけだ。しかしあなた方は、何かちょっと都合の悪いことになると、やれ数字のとり方がどうのこうのとすぐおっしゃる。初中教育局長というのはそういう人でないと勤まらぬのかなと思ったりもするんだが……。  日本は四十五人でしょう。さっき文部大臣は、私のところは何人でしたかと言われたが、僕なんかのときは五十名に余りますよ。だからこんなに力量がなくなっている。失礼ですが、あなたは五十名の中でも、勉強しないでも文部大臣にまでなれたら結構じゃないですか。  日本は四十五人。アメリカは二十五人から三十人ですよ。ソ連は四十人、カナダが二十八人から三十人、スウェーデンが二十人から二十一人。大体、OECD加盟十八カ国は、トルコ以外は全部四十人以下ですよ。あなた方がいつも何か目のかたきみたいに言うアフガニスタンだって四十人ですよ。何かといえばソ連の侵攻だとか脅威論を言っているアフガニスタンも四十人ですよ、国際比較すると。日本より多いところはボリビアだ。だから、世界第二位の経済大国だと言って、世界に冠たることでいろいろやるというのに、こういった学校教育予算については、これまでは確かにボリュームは大きかったでしょうが、行革だという中で大変に教育予算というものが切り詰められてきている。だから学校の施設というものも十分になされない。  けさの読売新聞の論説のところにもありますよね。特殊教育の問題が載っている。「障害児教育もっと温かく」、健常児と一緒の統合教育を求めていてもなかなかできないという解説記事がちゃんと出ているじゃないですか。文部大臣、こういうものは恐らくいろいろな面で金がかかるからなんですね。人手もかかる。教育内容もいろんな面で苦労なさる。だからそういうところにもっと光を当てるべきだ、教育行政教育政策というものの的を射てやらないといけないということを学校先生方指摘をしておられるんじゃないですか。  そういった緊急性の問題、また当然公的にやらなければいけない問題等については、行政改革だからということで凍結をするとか後回しにするとか、あるいは現状維持でしかできないということではいかぬと私は思うのですね。改めて文部大臣の御見解を聞いておきたいと思います。
  165. 森喜朗

    森国務大臣 数字のとり方はいろいろございますけれども先生から今御指摘をいただきましたように、日本教育行政を進めていく上において財政的には極めて厳しい状況になっておるということは、私も率直にそのように受けとめているわけでございます。  もちろん、文部省教育の諸制度を充実したいということは、私以下との政府委員も皆そのことを願っているわけでございますが、内閣全体といたしましては、従来、教育は聖域にあるという考え方はとらずに、すべての行政各部はその範囲の中で、財政の基本方針の中で予算をつくってきたわけでございます。そういう意味で各分野にわたりまして大変窮屈な面になっておりますし、逆に言えば、科学技術を初めとして、むしろ日本の将来に対しても求めていかなければならない面もたくさんあるということでもございます。もちろん教育条件によっては他と比較をいたしまして足らざる点も出てくるかもしれませんが、すべてそういう見方ができるわけではございませんで、逆にまた諸外国に比して非常に大きいウエートを持っておるという面もあるわけで、バランスのとれた今日までの教育の諸制度あるいは諸条件を整えるように苦心をいたしてきたというふうに私どもは承知をしているわけでございます。  したがいまして、こうした厳しい情勢の中にありまして初めて、教育予算というものは聖域であるべきかあるべきでないかというような議論もさまざま今出てきておるわけでございまして、将来にわたる教育論議を高めていくということになりましたならば、臨時教育審議会などでも国がかかわり合いを持つ公費ということについての論議も当然出てくるものであろうというふうに期待ができるわけでございます。  私どもといたしましては、緊急の問題ということになりますれば、六十年の予算編成の概算を目前にいたしまして当然来年度の予算の充実というものは考えていかなければなりませんが、基本的な財政の考え方というのは現実においてはまだ定められておりませんので、でき得る限り教育については大きな配慮をしていただけるものであるということの希望を持ちながらこの作業に取りかかっていかなければならぬ、こういうふうに考えております。苦しい状況であるということを認めつつ、私どもとしては最大の努力をしていく、こうお答えを申し上げておきたいと思います。
  166. 上原康助

    ○上原委員 そこで、最後、教育財政の問題で結びとして申し上げておきたいわけですが、日教組の教育改革に対するいろいろな意見、要望などを見てみますと、教育財政の確立は、緊急課題、さっき言った問題等を含めまして、公財政支出である教育費というものをせめて昭和四十年度――四十年度は大体一二・三%。さっき二〇%と言ったんだが、何かそれは数字のとり方だと思うのだ。五十八年度は一〇・六%。それで四十年度の一三・三%くらいに持っていけば、緊急の問題については改善されるのだという指摘さえあるわけだ。ですから、障害児教育の問題にしても、あるいは社会教育にしましても、さっき言った学級編制にしましても、教育改革だと大上段に、大上段と言ったら失礼かもしれませんが、構える割には、実際に緊急な課題というか、当面する重要問題が意識的に落とされているような感じもしないでもないということを指摘して、努力なさるということですから、そこいらのことも含めて、ぜひ御努力を賜りたいと思います。  次に、教科書問題について何点かお尋ねをさせていただきたいと思います。  さっきの官房長官の御答弁も一応踏まえてお尋ねするわけですが、最初に、一九八二年の、中国、韓国を初めアジア諸国より確かに厳しい批判が寄せられたことは御承知のとおりです。いま一度振り返ってみて、当時何が問題であって、それがどのように解決されてきたのかをお尋ねしたいわけです。  政府は、当時の中国、韓国及びアジア諸国から批判されたことについて、さっきもございましたが、それをどう受けとめたかということ。なるほど、ああいうふうに書きかえたり、あるいはいろいろ表現を、これは物によっては和らげにゃいけないところもありますよね、文章ですから。また事実関係についてはできるだけ事実に近い記述をしなければいけないということ、それは私もそういう立場をとりますよ。しかし事実を歪曲したり、余りに凄惨だからあるいは悪い感じを与えるからとかいうようなことで、事実を曲げたりいろいろなことを改ざんしていくということはいかがかと思うのですね。  さっき官房長官の談話も引用いたしましたが、文部大臣、進出を侵略にしただけでこの種の問題が本当に解決されたという御認識をとっておられるのか。教科書検定というのは、調査官がその基準に基づいていろいろやっているにしても、最終決定権はあなたなんですよね。文部大臣なんです。最終的な権限が問われるのは文部大臣だと私は思う。今まで私が言ったことについてどういう御認識なのか、どういう御見解なのか、まずお聞かせください。
  167. 森喜朗

    森国務大臣 先ほど官房長官からもお答えを申し上げましたように、不幸な事件が当時起きまして、極めて残念なことではございましたが、しかし、そのことによってアジアの近隣諸国とのいわゆる関係を十分配慮するという新たなる検定の基準ができたわけでございまして、よりよき教科書を求め得るようなそうした条件がそれによってなお備わったというふうに私ども考え、不幸な事件は不幸な事件として深く反省しながら、なお今後ともより適切な教科書をつくっていくということを私どもは基本的な考え方として持っているわけでございます。  基本的には、たびたび申し上げておりますが、記述が客観的であること、そして、より公正に行われ教育的な配慮が十分になされておる、そして改善意見あるいは修正意見等々につきましては、十分検定審の議を経て検定を実施しておるということでございます。そうした反省を踏まえながら、なお一層よい教科書をつくっていくように文部省としては努力をしていかなければならぬ、こういうふうに考えております。
  168. 上原康助

    ○上原委員 ところが、文部省の「文部時報」五十七年十二月号なんかによりますと、誤っていたことを認めたがらないのです。教科書検定課がまとめたこの文章によると、侵略を進出にしたこと、南京事件の原因があいまいにされていることなどは「それぞれしかるべき理由があって検定された結果である。」こう書いてある。  南京の大虐殺というのは認めますか。「検定において、日本の「侵略」行為を極力薄めたり、歴史を改ざんしようとするようなことはありえないことである。」こう言っていながら、そういう事実については認めたがっていないわけです。だからそういう面からすると、政府の責任で是正をすると言ったことが一体どういう意味を持っているのか、改めて疑わざるを得ないといいますか、質問せざるを得ないわけです。  それと、昨年六月に出た中教審答申を見ましても、そういった侵略行為についてとか、韓国、中国、東南アジア諸国から受けた教科書検定のあり方については全く触れてはいないのです。抽象的に六ページの五の後段で「これらの検定審査の過程を一般に明らかにすることは適当でないと考える。しかし、教科書検定について広く理解を求めるとの観点から、検定の結果について、必要に応じ、主要な論点等を明らかにするようなことを検討すること。」こういう答申をしているわけです。だが、著作者がどういう本をつくったか、あるいはそれがどうなったのか、調査官がどういう検定をなされたのか、そのことについては一切不間にしている。検定をやった過程については一切明らかにしないで、最初の著作者のものなどは一切伏せて、白表紙とその結果正本になったものだけしか明らかにしないということになっているわけですね。だからここで言っていることさえも、「検定の結果について、必要に応じ、主要な論点等を明らかにするようなことを検討すること。」というこの中教審答申さえも、今の検定では事実がはっきりしていないという解釈しかとれないのです。なぜそこまで不問にしなければいかないのか、これから二、三具体的に聞きますが、文部省としてはどう理解しているのですか、これは。一体、検定をする調査官というのはどれだけの権限を持っているのか、お答えをいただきたいと思います。
  169. 高石邦男

    高石政府委員 まず、検定の仕組みについて御説明申し上げますと、具体的に著者から申請が出されますと、それをもとにして内部でいろいろ議論されて、そして検定審議会にかけられまして、出された内容についてどういう意見をつけるか、その意見に二つありまして、修正意見を求める場合と改善意見を求める場合、この二つがあるわけでございます。その決められた審議会の議を経まして、具体的に著者に直接教科書調査官が説明をするということで、本を書いた人とこれについて意見をつける立場の人たちは十分に話し合いをしながら、少なくとも両当事者の間では、どういう意見が出されているか、その意見は改善意見であるか修正意見であるかということが明らかになるようになっているわけでございます。  そこで問題は、一般に当事者以外の人にその内容を、一々プロセスのことを説明することは適当でないという見解をとってきておりまして、少なくとも当事者間においてはそのやりとりが十分にわかるように、直接お目にかかって話をするということになっているわけでございます。  それから、でき上がりました教科書の結果につきましては、これは一般にどういう内容であるか、採択する以前に教育関係者が十分わかるように、展示するための施設で必要な展示をやる、そしてどういう内容教科書であるかを教職員が十分に調べて、そして最終的な採択ができる、こういう仕掛けにしておりますので、でき上がっていくまでの過程については先ほど申し上げたような形でやっているわけでございまして、少なくとも両当事者の間には十分な話し合いが行われるというふうに理解しているわけでございます。
  170. 上原康助

    ○上原委員 両当事者の間に十分な話し合いがされても、教科書というのは両当事者だけが使うのじゃないのですよ。学校現場の先生がそれを教科書として教えるわけでしょう。だから、社会的にどういう評価を受けるかというのが問題なんです。  じゃ、具体的にお尋ねしますが、例えば家永教授の教科書裁判の問題は、有名で言うまでもないというか、周知のとおりですね。今度また問題になっているわけでしょう。それで、新たな訴訟まで起こしておられる。  検定例の一として、一つは「ハルビン郊外に七三一部隊と称する細菌部隊を設け、数千人の中国人を主とする外国人を捕らえて生体実験を加えて殺すような残虐な作業をソ連の開戦にいたるまで数年にわたってつづけた。」これは新聞に報道されている。検定の結果は、これを削除しなさいと言っているわけです。  これは事実と違うのですか。なぜこういうことを削除しなければいかないのか。検定官が言っている理由等は、現時点では学問的な著作が発表されておらず時期尚早、削除しよう。そうしますと、しからばその学問的著作というのはどういうものなんですか、その定義を明らかにしていただきたいと思う。中国において、七三一部隊のこういうことはなかったということですか。最近は毒ガスまで使ったというあれが次から次と出てきているじゃありませんか。中国戦線で大量にその裏づけ資料も出ている。なぜ、こういった事実関係について、いろいろな書物、そういうので明らかに出ているのにこれが検定の中で落とされていかなければいかぬのか、御見解を聞きたいと思うのです。
  171. 高石邦男

    高石政府委員 家永さんの件につきましては、現在、審議会の決定について不服申し立てがあり、それについての文部省側の見解を明らかにしておりますし、また具体的なこの内容については裁判で争うというような形になるわけでございますので、係争の事件になっていることについてこの段階で申し上げることは適当でなかろうと思います。  ただ、一般論として申し上げられますことは、まず教科書記述が客観的、公正であるということと、それから教育的配慮が行われている。その場合に、その発達段階に応じて、中学生ないしは高校生の段階でそういうことを十分に内容として教えることが適切な教材であるかどうかという判断もあるわけでございます。というのは、学問的なことは大学に行って勉強するというような形でもっと真実を明らかにするというようなこともございますので、そういう観点で、教育的な配慮、そしてここまで事細かに教えることが妥当かどうかというようないろいろなことを総合的に判断をして決めるわけでございまして、特定な立場に立って、特定なイデオロギーに立って検定をするということはないのでございます。
  172. 上原康助

    ○上原委員 あなた、これは教育的配慮ということだけで片づけられる問題じゃないのです。そういう事実があったかどうか、どういう御認識ですか。事実関係を私は聞いている。
  173. 高石邦男

    高石政府委員 そういう学説、そういう考え方を持ってその意見を述べられる方が存在することは承知しております。
  174. 上原康助

    ○上原委員 大臣はどういう御認識ですか。
  175. 森喜朗

    森国務大臣 事実関係というのはどちらのことでしょうか。家永さんが検定に対しましてそういうやりとりがあったということの事実でしょうか。それとも七三一部隊云々のことでしょうか。(上原委員「そうです」と呼ぶ)  私は、その当時のことは、子供でもございますし、承知をいたしておりまぜんが、そういういろいろな意見といいましょうかそういう事実といいましょうか、そういうことを申される方々もあります。  ただ、今局長が申しましたように、日本は戦争を反省して今日の新しい日本教育、そしてまた憲法というものがあるわけでございます。戦争というものの悲惨なものに対する反省というのは当然していかなければなりませんけれども子供たちにとってはそのことの理解度というのは非常に難しい問題だろう、こう考えます。  戦争を行ったということに対する反省はしていかなければなりませんけれども、そういういろいろな具体的なことなどにつきまして子供たちに適切な指導教育的な上でしていかなければならぬということは、当然配慮していかなければならぬことだというふうに私は考えております。
  176. 上原康助

    ○上原委員 反省の視点あるいは基準というか、起点が問題だと思うのですが、本当に侵略戦争というもの、あるいは中国大陸や朝鮮で日本帝国軍隊がやった残虐行為というものを反省すれば、反省するという国民的ざんげ心があるならば、事実や実際にあったことを教えることからスタートしなければいけないわけでしょう、大臣。それは反省はするけれども教育的配慮からそういうことを教えてはいかぬというところは歴史の改ざんじゃないですか。そのことを問題にしているわけですよ。それと、裁判中だから、係争中になったのでそのことについてはとやかく言いたくない、そんな言い方がありますか。  これはもう一つの例です。南京大虐殺、さっきも出ましたが、原稿では「日本軍は南京占領のさい、多数の中国軍民を殺害し、日本軍将校のなかには中国婦人をはずかしめたりするものが少なくなかった、」結果は「日本軍は南京占領のさい、多数の中国軍民を殺害し、日本軍将兵のなかには暴行や略奪などをおこなうものが少なくなかった。」こういうふうに改めなさいと。  南京大虐殺について政府はどういう認識を持っておられるのか。確かに、婦女暴行とか婦人を辱める云々のことについては、教育上の表現の問題、いろいろあるかもしらぬが、しかし本当に中国大陸でやった無残な中国人民、大衆に対する行動というものの反省があるならば、これこそ真実を教えなければいけないと私は思うのです。そういうことについてはどういう御認識ですか。
  177. 高石邦男

    高石政府委員 南京事件につきましては、いろいろ著者の方で教科書に書いてみえるわけですが、その際に具体的にこちらが申し上げているのは、犠牲者の数字についていろいろな学説があるので、そういう数字を取り上げて書かれる場合には客観的な資料、そういうことをもとにして書いてほしいということでございまして、南京事件そのものを取り扱うことが適当でないとか、そういうことを申し上げているわけではないわけでございます。
  178. 上原康助

    ○上原委員 あなた、数字は間違いというわけですか。例えば二十万とか三十万というものもありますね。あなたはそれが事実でないという立証ができるのですか。どれだけ殺されたかわからないのが戦争なんですよ、後で沖縄の例を言いますけれども。数字が間違いだ、教育的配慮だということで、そういった残虐行為を教えていかぬということにはならないわけでしょう。数字の間違いだとは書いてないじゃないですか。そういうことを記述することが教育上よくないから、教育的配慮で削除しなさい、こういう検定の仕方、こういう教科書の編集の仕方があるのか。それが今問題になっているのですよ。
  179. 高石邦男

    高石政府委員 南京事件そのものについて取り上げてはいけない、そういう記述をしていけないということは一切言ってないわけでございます。ただ、犠牲者について数字を出される場合については、一般的に公的な機関ないしは権威ある学術書等に根拠を持っているもので明らかにしてほしい。したがって、単なる推定というものを取り上げて子供に教えることは適当でないということでございますので、公的な機関ないしは権威ある学術書等によって明らかな場合においては、その数字はそのまま検定でパスしているわけでございまして、ただ推認で何ぼ何ぼというような形のものは非常に不安定でございますから、そういう数字は載せないでほしいということになるわけでございます。
  180. 上原康助

    ○上原委員 権威ある学術書とはどういうものですか。
  181. 高石邦男

    高石政府委員 学界で例えば通説になっているような論文、それによって発表されたもの、そういうものでございます。
  182. 上原康助

    ○上原委員 そうしますと、家永先生の場合は「太平洋戦争」という戦史ですか戦争史、こういうのは翻訳もされて、学界では認知されているはずですよ。そういう著書に出てくるものがなぜ否定されるのですか。特定の人々が権威あると認めなければそれは認めないというのが、今の文部省立場じゃないの。そこに問題があると言うのです。  それだけではない。数字のつじつま合わせの問題じゃないのです、初中教育局長文部大臣。問題は、そういった残虐行為があったかどうかをどう正しく後世に伝えていって再びそういう戦争をするような世の中にしないかという、教育の原点を私は言っているのです。それをだんだん、記述をするな、写真も載せるな、こういうことでは、人間というのはだんだん記憶も薄れていきますよ。だれだって過去の古い傷をいつまでもずっと言われるのは耐えがたいことである。だが、そのことをないがしろにしたり、特に教育の場でそのことを規制していく、特定の考え方で除外をしていく、削除をさせられていくというところに、さっきいみじくも大臣言いましたが、いろいろな見解の人がいるからだんだん自由に物が言えなくなる社会が怖い、とまではおっしゃらなかったのだが、そういった自己規制が今マスコミを含めて日本の民主主義社会で始まっているのじゃないですか。それはそういったところから問題が発生してきているのですよ。  それで、あなた、今のことについてそういった数字だけの問題じゃないと言うが、私はかつて中国へ行ったときに――委員長、ここに当時の写真があるのです。この写真を見ると、本当に日本軍が中国でどういうことをやったか。例えば平頂山の問題にしたって、丸々一部落三千人ですよ。私たちはその現場へも行ってみた。あるいは撫順の炭鉱ではどうだったの。後で沖縄の集団自決の問題も言いますが、赤子が自決できますか。この写真を見てください。いかに残虐であったかということ。中国はちゃんとこういう写真を保管しているのですよ、旧日本軍の残虐行為というものを。これを見るならば、なぜこういう事実に基づいた教育をやって再びこういう行為が起こらないことを一それが憲法の前文であり、九条の精神であり、教育基本法の精神じゃないのかというのが我々の指摘なんですよ。  ちょっとこれを大臣に見せてください。――本当にそれは否定できない生々しい写真ですよ。沖縄戦だってそうなんだ。そういう事実があったということを否定するわけにはいかないわけですよ。こういうふうに改ざんして。それは事実なんだ。  そして、今中国でのことを二、三出しましたけれども、もう一つ具体例を挙げますが、皆さんベトナム戦争のことについても記述を変えなさいと言っているわけでしょう。大臣、これをごらんになってどう思うのか。ベトナム戦争でアメリカ軍が行った枯れ葉作戦は子供たちの身体を破壊し云々。身体の破壊が目的ではないし、奇形児との因果関係も明らかでない、だからやめなさいという意味ですね。これは今国際問題になっているのですよ、大臣。  これも、枯れ葉剤というのは沖縄の基地からみんな行ったんだ、まいたんだ。これを見てください。これは枯れ葉剤を散布しているアメリカの飛行機です。まるで原爆が落ちたような状況ですよ。これもうそじゃないのだ。全部事実です。ベトナムというのは今、防毒マスクをかぶってしか仕事をしないのです。大変な事態になっている。だから、生まれている子供さんたちも健常でない。社会的な大変な国際問題になっている。だから毒ガス使用というのはまさに殺人行為以上の問題、こういう状態なんですよ。  こういう事実を歴史にしてもっと社会科の中で教えるのが本当の教育じゃないですか。こういうことに対しても、子供たちの身体を破壊することが目的じゃなかったのだから書き改めなさい、因果関係云々なんて言えたはずじゃないのですよ。教育に対する不当な支配が今ここまで入っているのですよ、文部大臣。だから我々は検定のあり方というのを問題にしているのです。しかもそれが、密室の中で一対一でやって結果しか国民には知らせない、こういうことについて、私たちはやはり検定内容を改めねばいかぬと思うし、今私が指摘した問題について大臣の御見解を聞きたいと思います。
  183. 森喜朗

    森国務大臣 私は先ほども申し上げましたし、また局長も申し上げておりますように、過去のいろいろな不幸な戦争というものを否定しているものでもございません。そのこと自体について、教科書の中で記述されることをいけないとか書き改めるということを申し上げているのではありません。  ただ、今写真も見せていただきました。私は今初めて見るわけでありません。そうした写真もいろいろ見ておりますし、何も昔の戦争だけではなくて、今も現実に世界のどこかでこうしたことが行われている。そんなことも私ども見て、戦争というものはいかに悲惨な、残虐なものか、人間と人間の戦いの残忍性といいますか、そういうことは当然私たちも承知もし、また、子供たちにはそういう具体的なものを見せなくても、戦争というものは決してしてはいけないものだということは、十分教育の中で丁寧に繰り返ししていかなければならぬことは当然だろうと思うのです。  ただ、数字的な上で、何十万どうしたとかということは、そういう数字の面の論拠というのは完全にぴしっとしたものが出ているわけではないと思うのです。そこのところは、当然子供の心身の発達度合いにもよりますけれども、そういうことに対してやはり適切な教育的な配慮がなされることは、戦争を否定したり昔の歴史を全部ごまかしてしまうことにはならないと私は思うのです。  今の写真を見ておりましても、正視できないものもたくさんございます。仮にそういう写真を全部教科書に載せて子供たちに見せることも、また一つ教育なのかもしれませんが、しかし、そういうことを子供たちがじっと見ておって、そういうことで戦争がいけないとか悪いものだという教え方をしなくても、教育というのは、教科書そのものを教えるのではなくて、歴史の場合などは教科書中心にして、教師がいろいろな意味で物事を公正に客観的に、主観を交えないで教えていくことが大事なのでありまして、戦争そのものは、日本が今日まで反省をしているわけでありますし、戦争の記述そのものは決して否定をしてないわけでありますから、そういう戦争を中心にし、悲惨な事件がいろいろある、残忍な過去の記録があるということを、先生が口頭で子供たちに教えることにむしろ私は教育的な配慮があるというふうに考えるわけであります。  私の方が先生より若干年齢が若いだろうと思いますが、私が生まれたのはちょうど支那事変の勃発したときでございまして、私の父も戦争に行っておりまして、満州の牡丹江におりまして、最後はトラック島に行って、帰ってまいりまして今も元気でおりますが、戦争当時の満州の話あるいはいろいろな事件があるたびに、自分の父親はどうだったろうかなということを考えます。そして、私の父は戦争の中でどういう態度をとってきただろうか。私の父の場合は将校でございましたから、当然小隊長、中隊長と言われたことも子供心に覚えておりますから、そういうときにどういう判断をしてきたのかなということを、やはり自分の心の中に痛みを感じます。  戦争というものは、いろいろな形でそれぞれの日本人の重い胸の中にいろいろな反省を残していると思うわけでありますが、例えば逆に、現世の子供たちは当然昔のことはよくわからないわけですから、そのことが忘れ去られてはいけないんだ、生涯ともにそのことをしっかり心の傷として持てという上原先生のお考え、私はそれは必ずしもいかぬとは思いません、しかし子供の中には、おじいちゃん、またその上のおじいちゃんが南京にいたかもしれない、その他いろいろなところにいたかもしれない、その子供たちに一体どういう感じを与えるのだろうか。例えば森君のおじいちゃんは昔南京にいたので、やはりそういうことをしたのかということが子供たちの中で話題になったときに、その子供は一体どういう感じを持つのだろうか。戦争の否定はしなければならぬ、反省はしなければならぬ、そして日本人がそのことについて常に重い責任を持っていかなければならぬ、そのことは生涯ともに日本人は持っていくべきだと私は考えます。しかし現実の問題として、そういう表現等々については、子供たち立場考えていかなければならぬ、それが教育的配慮だというふうに局長は申し上げておるんだろうと思いますし、私もそういう見解を持つわけでございます。  どうぞそういう意味で、いろいろ難しい問題もございますし、先生のおっしゃるとおり、特に先生は沖縄でいらっしゃいましたから、いろいろな戦争に対しての苦しい当時の思い山もたくさん持っておられることを私はよく承知をいたしております。だからこそ日本人は不戦の誓いを中国との間に交わしたことも、先ほど官房長官から申し上げたとおり。だからといって、過去のことは全部消してしまえというようなことを私どもは申し上げているわけではございません。教育的配慮というのは、いろいろな角度から十分にそのことを考え教科書の中に記述をしていかなければならぬと私は考えているわけでございます。  所感はどうかということでございますから、先生の御意見も踏まえながら申し上げさせていただきました。
  184. 上原康助

    ○上原委員 それは特定をした立場で私は言っているわけじゃないのですよ。そういう教育的配慮というのは納得しかねますよ。そういった戦争のむごさということについての事実を、もっと教科書の中なり、それは教え方にはいろいろあるでしょう。しかし、それをだんだん薄めてきているのは事実でしょう、今二、三の例を挙げても。ベトナム戦争の問題だってそうですよ。非核三原則だってそうなんだ。(発言する者あり)
  185. 片岡清一

    片岡委員長 この際申し上げます。  委員発言中の不規則発言は議事の妨げとなりますので、御静粛に願います。
  186. 上原康助

    ○上原委員 そういうのは病気だからしょうがないですよ。  そういった特定などか、あるいは非常に矮小化といったら失礼な言い方かもしれませんが、狭めてお考えになってはいかぬ。社会的にどうそれを理解し、歴史教育というものを誤らしめないかということを問題にしている。  これは私だけが言っているわけじゃなくして国際的に見ても、「アジアの戦争」という本がある。エドガー・スノーという方は、戦前からの、中国問題に非常に詳しい方です。この人が書いているのには、日本の軍隊の教育は殺人教育だとはっきり言っているわけです。まさに戦前の教育は殺人教育ですよ。だから、ああいうことができたわけです。目の前で人を殺すことが何でもない、そう教えたから。これは教育なんですよ。  ここで、たくさんは引用できませんが、この中にこういうことが書いてある。「いかなる人種も戦争に際しては野蛮性に立ち帰りやすいものであろう。しかし、以上のことは認めることができても、この世界のいずこにおいても日本の軍隊ほど人間の堕落した姿を念入りに、そして全く組織的に暴露しているものはないということは、否定しようにもすることのできぬ事実なのである。」こういう指摘をしているわけですよ。  なぜ私たちがこういう二、三の問題を挙げるかといいますと、戦前教育内容教育のあり方というものが国家統制、そして天皇のため、国のため死ぬのが男の生きざまなんだ、そういうふうに教え込まれたんですよ。まさに精神訓話ですよね。だから、今までは何とかお互いの良識が働き、あるいは日本が民主主義国家であるということも国民の良識とか、そういういろいろなことによって何とか食いとめているわけなんだが、こういう事実関係教科書なり社会的にだんだん規制されていくと、文部大臣、またこういう教育に戻らないとも限らないのですよ。それを私たちは指摘しているわけです。  さっきも言いましたが、あなた方は教育的配慮からと言いますが、ここに一つ例を持ってきましたが、高等学校の「現代社会」、これが白表紙で、これで一応文部省にお伺いを立てるんでしょうね。結果として、これが正本になったものです。もう時間もたくさんはありませんので、一つだけ例を挙げますが、それは大変な規制をされてきているわけですよ。  例えば中国、上海占領というところで、この白表紙では、さっきお見せしたようなこういう写真が載っているんですね。日中平和友好条約の写真と両方入れてあるんです。過去はこういうこともあったけれども、いろいろな友好条約を結んで、今はこういうふうに仲よく平和になったと。これは、歴史の対象としては、こういうことをしてはいかぬなということで、この方が子供さんにしてもわかりよいと私は思う。しかしこれも、こんな写真を入れると子供教育的配慮によくないから、写真を入れかえて、正本ではこういうふうになっている。「シャンハイを占領した日本軍」、どういうふうにしたのか、どういう行為をやったかは全然書いてない。これが歴史の改ざんでなくて何ですか。  このほかにも、裁判官の問題にしても天皇の問題にしても、「現代社会」の中にたくさんあるのです。大臣、一事が万事、たくさんあるんです。こういう状態です。  さらに、こういうことをやりながら、一方においては「これが正しい小・中学校教科書だ」ということで、私は相当苦労してざあっと目を通してみたのですが、これなんかには「ウソだらけの教科書記述」とか「南京「大虐殺」のデッチあげ」と書いてある。こういうことが社会的にだんだんまかり通るようになりつつあるのですよ、大臣。あたかもこれが教科書検定の基準だというようなことになりつつある。皆さん否定なさるかもしらぬが、これは何も文部省と書いてない、出版の自由だから、表現の自由だからというかもしらないけれども、しかし今の検定をやる調査官の頭の中には、少なくともこういうことを基準にして教科書検定していこうという思想なり考え方なり、我々流に言うと、政治性というかそういうものが浸透しつつあると見なければならない。それが今日の検定問題として凝縮した形で、今二、三の例を挙げましたが、出てきていると私は思うのです。  こういうことは何も、あなたが社会党だから、私は与党だからという、見解の相違として片づけられる問題ではないのですよ、大臣。だから私たちも真剣になって、日本の民主教育というもの、民主主義体制というものをどう確立するか、それは基本的に言っても教育です。  後で沖縄の問題も言いますが、私なんかも国民学校三年生から竹やりを持たされて、学校なんかありはせぬですよ。私たちの学校というのはみんな日本軍が入り込んで、我々はどうしたかというと、裏の山へ行って勉強させられた。紙も鉛筆も十分でない。地面の上に字を書いたことさえあります。それは、わからぬ方々はうそと思うかもしらぬが、私たちはそういう体験をしてきたのです、正直申し上げて。  小学校三年のころから、私は大日本帝国青少年団の一員なりといって軍隊教練されたのです。私なんか鼻垂れ小僧で、鼻垂れもとれないころだった。体育の先生としてそのころは学校にみんな配属将校がおったが、すっ飛んできて、三メートルぐらい足払いで吹っ飛ばしおった。それでも我慢して、鬼畜米英とか言っていた。毎朝学校に行くと、ちりを拾わされて宮城遥拝、束の方向に向かって、天皇陛下は向こうに住んでいるから全部最敬礼です。今度教室に行ったら、天皇の写真が飾ってあるから御真影に向かってまた最敬礼、これが戦前の教育じゃないですか。そういう教育をしたからこそ、日本軍隊は中国大陸や朝鮮やアジア諸国でああいう残虐行為をやったんだ。  また同じようなことを繰り返そうとしているのが今の教科書検定内容なんです。まだそこまではいってないにしても、だれかが警鐘を鳴らさぬとそうなりかねない問題があるということを私たちは見抜かざるを得ないのです。大臣どうですか、このことについて。
  187. 森喜朗

    森国務大臣 先生の体験に基づきますいろいろなお話は、私は私なりによく理解ができます。私は子供のころそういう大日本帝国少年団であったかどうか、どうもはっきり覚えておりませんが、私ども比較的戦禍を免れた石川県でございましたので、先生の沖縄のような厳しさはなかったかもしれませんけれども、やはり戦時体制は厳しく、ノートも鉛筆もないという時代でございましたから、私どももそれなりに承知をいたしております。  だからこそ私たちの年代は、戦争というものを二度と繰り返してはいけない、そういう反省の上に立って今の憲法をつくり、憲法の意思を教育の中に展開できるように新しい教育基本法を守ってやっているわけでございますから、私どもはそのこと自体は否定するものではない。当然に私たちの心の大きな傷として、戦争を繰り返してはならないということ、戦争をしてはならないということは、子々孫々に残していく大事な教えであろうというふうに私は考えております。  しかし、教科書のつくり方というものについては、先ほどから局長が申し上げておりますように公正適切、そしてより客観的に。同時にまた、教育という立場をごまかすことが配慮ということじゃないわけでありまして、教育的配慮というのは、いろいろな意味で行き届いたことを、教育の現場、子供たちの心身の発達、そうしたことを十分に考える、数字等につきましては、当然より客観的な数字というものが必要でございますから、そういうところについて改善を求めたりあるいは修正を求めたりということは検定基準の中で行われておるわけでございます。それも一人の検定官が修正したり改善をするというのではなくて、改善意見や修正意見は、検定の議、皆さんの議にかけて、皆さんの議論の結果そのことを申し上げるわけでございます。  そういう意味では極めて民主的なルールの中で行われているわけでございまして、歴史を改ざんしたり事実を曲げたり、そういう考え方教科書検定いたしておるのではないということをぜひ御理解いただきたいと思うわけでございます。
  188. 上原康助

    ○上原委員 事実はそうなっていないので、これは実際、いろいろな制約があるわけですね。改善意見にしても結果的には限りない修正意見なんです。展示期間を短くする、あるいは出版社や学者にしても、筆を折るか続けるか、こういうことが積み重なってきているわけですよ、大臣。それは学校現場に対しても。だから教育出版会社にしても、中小企業はどんどん狭められてきている。あげくは、我々が今これを議論して何とか食いとめていかなければ国定になりますよ。今まさに準国定じゃないですか。教科書出版会社にしたって、場合によっては二、三の独占企業になりますよ。大臣、国会での議論ではそういう御答弁ができるかもしれませんがね。実際になぜこういう絵をかえる必要があるのですか、挿絵をかえなければいかぬのですか。そういう御認識ではいささかどうかと思いますよ。  次に、沖縄関係教科書問題に移ります。  さっき沖縄についても文部大臣は云々と言いましたが、沖縄の日本史の出版問題ではひどいですよね。  まず具体的に教科書検定過程からしますと、高校用の「日本史」、「六月までつづいた戦闘で、戦闘員約十万人、民間人約二十万人が死んだ。鉄血勤皇隊・ひめゆり部隊などに編成された少年少女も犠牲となった。また、戦闘のじゃまになるなどの理由で、約八百人の沖縄県民が日本軍の手で殺害された。」  これに対して内閣本では「また、スパイ行為をしたなどの理由で、日本軍の手で殺害された例もあった。」第二次修正では「また、混乱をきわめた戦場では、友軍による犠牲者も少なくなかった。」第三次修正では「なお「沖縄県史」では、戦場の混乱の中で、日本軍によって犠牲者となった県民の例もあげられている。」第四次修正、実に四回も行ったり来たりしているのですが、「六月までつづいた戦闘で、軍人・軍属約九万四千人(うち沖縄県出身者約二万八千人)、戦闘に協力した住民(鉄血勤皇隊・ひめゆり部隊などに編成された少年少女をふくむ)約五万五千人が死亡したほか、戦闘にまきこまれた一般住民約三万九千人が犠牲となった。県民の死亡総数」云々。こういうふうにたび重なる修正をやれということです。日本軍による県民殺害についての八百人の根拠がないからということなんですね。  それで、沖縄戦で一体どのくらい死んだのか、どこが把握しているのですか。それと、八百人の数字については沖縄県史を利用したと言ったら、沖縄県史は体験談を集めたもので一級の資料ではないと検定官は言った。一級の資料とは一体どこにあるのですか。県史さえも認めぬという権限が検定官にあるのですか。これはどうなんですか。
  189. 森山喜久雄

    ○森山説明員 先生がただいま最初の方におっしゃいました死没者の数でございますが、私どもで沖縄戦に参加いたしました兵力と申しますか軍人軍属の数を把握をしておりまして、これは総数十四万一千五百でございます。それから亡くなった人の数は約九万ですが、八万九千四百という数字が出ております。  これは、私ども厚生省で保管しております沖縄戦に参加した部隊の二十年当初の名簿などがございまして、そういった資料をもとにいたしまして推計した数でございまして、絶対に正確だということは申し上げられませんけれども、厚生省としては一応こういう数字を把握しているわけでございます。
  190. 上原康助

    ○上原委員 文部省はどういう数字を把握しているのですか。
  191. 高石邦男

    高石政府委員 文部省が事実関係文部省立場で把握するということはないわけでございます。あくまで著者が書いてこられた際に、その事実が客観的であるかどうかという判定をするわけでございます。  したがいまして、その際に、そういう八百であるとかいう数字が出された場合に、八百とお書きになったその根拠の資料は何から得られたのであるかということを確認し、その根拠の資料が一般的に公的機関から発表されたものないしは学術関係で学界等で通説になっているような資料、そういうものに基づいて書かれた資料だということが明らかになれば、それは検定でパスをする、こういう仕掛けで検定作業を進めているわけでございます。
  192. 上原康助

    ○上原委員 そこに問題があるのです。あなた、事実関係の数字の把握もしないのに、それは事実でないとか、否定できるはずないんじゃないですか。  では、当時沖縄で何名死んだの。今厚生省が言ったのは沖縄戦に参加をした軍人軍属の数なんだよ。あとの非戦闘員、沖縄県民がどれだけ死んだか、政府はだれも知らない。そういうのは沖縄県史とか、そういう沖縄県で収集した資料しか利用できないんじゃないですか。八百名の数字にしたって少ないとさえ言われているわけですよ、集団自決を入れて。  集団自決ということに対しても、いろいろ言い分、問題あるのですよ。赤子が集団自決、自決できないでしょう。親が子を殺し、子が親を殺す、そういう阿修羅の場となったのが慶良間の集団自決なんですよ。そして、あちこちの沖縄戦における日本軍の殺害なんですよ。久米島でそういった事実があったのは、私はきょうもう時間がないからあれですが、鹿山事件というのがあったのは、これは沖特の記録にいろいろと出ている。二十名以上惨殺されている。あるいはある学校の校長なんかも、親類がアメリカにいるということだけで日本軍にスパイだスパイだといって追っかけ回されて、とうとう銃殺されたじゃないですか、お名前は申し上げませんが。  そういう悲劇は幾らだってあるのですよ。なぜそういうことまで教科書に書くことを具体的に否定しようとするの。そして、最近に至っては、集団自決を先に書いて、日本軍に殺害されたというのは後ろに書けなんて。後ろに書こうが前に書こうが、やった行為そのものの中身を問題にするのですよ。  ここまで手を加えておってもなお数字の根拠がどうのこうの。しかも、沖縄県史は一級資料じゃないなんてさ。どこに一級資料がある。では文部省出しなさい。これが沖縄戦における戦死者の記録であり、何名日本軍に殺され、何名自決をしてという確実な数字が逆に文部省から出せるなら納得しましょう。出せないなら、沖縄県史で利用されているものを使用する以外にないじゃないですか。  文部大臣、さっきの話もありましたが、これまで沖縄に対しては文部大臣が気の毒だとかなんとか言っただけで、こういうやり方については納得できませんよ。改めて文部大臣の、少なくとも沖縄県史に盛られていることとか――さっきの数字は沖縄戦に参加をした軍人軍属の数ですよ。どうですか。
  193. 高石邦男

    高石政府委員 先ほども答弁申し上げておりますように、文部省自身が具体的な数字を一々把握して、その尺度で検定をするというような仕組みで作業をしていないわけでございます。したがいまして、教科書に著者が具体的な数字を書いてきた場合に、その出典が公の機関で発表したものないしは学界等で通説になっているようなものをもとにして書かれているかどうかということでございます。  八百人の問題は、既に現在の教科書検定の中で数字として載せられておりまして、それについて修正意見を求めるとか改善意見を求めるというようなことをしていないわけでございます。  したがいまして、今おっしゃいましたように、沖縄県史による資料、そして最も新しい資料としては沖縄史料編集所で出されたもの、そういういろいろな数字が年々歳々歴史の調査によって深まっていく、そういう客観的な事実で具体的な数字が固まっていけば、それが教科書の中に載せられるということはあると思うのですが、途中の段階で非常に不確定なものを著者が書いてきてもそのまま認めるべきであるということになりますと、そこはやはりいろいろな問題を残すかと思います。  それから、戦争に関する記述につきましては、最近の教科書ではふえていると思います。したがって、そういうことに対して薄めて検定をするというような状況でないことは、教科書全体の記述内容を見ていただくと御承知いただけると思います。
  194. 上原康助

    ○上原委員 後で大臣からもう少しまとめてお答えいただきたいのですが、確かに八百人の問題については沖縄県内で相当反響が出て、また我々も国会でも問題にして、やっとそれは皆さん認めざるを得ない。  そこで、確認しておきますが、沖縄県史あるいは今言う公的機関の収集した資料等については、文部省としては認めるわけですね。
  195. 高石邦男

    高石政府委員 現在の検定では貴重な資料として認めております。
  196. 上原康助

    ○上原委員 そうは言うのだが、こういう報道もまたなされているわけです。  例えば、女学生や中学生が戦死や自決を強いられたという趣旨の原稿本については、教科書調査官は「みずから望んで死んだ面もあったはず、強いられてというのは表現が強過ぎる、修正が望ましい。」こういう意見を出しているわけですね。  「みずから望んで死んだ面もあったはずこれがあのうら若い女学生や、ひめゆりの塔や健児の塔に祭られている人に言う言葉ですか。強いられたんだよ。本当にみずから望んでだれが死にますか。そういう教育とそういう軍隊の政策によって犠牲を受けたんですよ。あなたは兵隊に行ったかどうか知らぬが、あなたなら前に向かぬで後ろを向いておったんじゃないか。どうしてこういうことまで検定をしなければいけないのですか。これは事実なのかどうか。こういうことは改めてもらいたいです。  「県民に集団自決を強要したり、軍の行動を妨げるとして県民を殺害したりする事件も起き、」だから妨げたとか、そういうことはなかったということを言わせたいわけですよ。赤子は妨げになるから早く親に殺せ。防空ごうに入っておって子供が泣くと、その子供も親も出ていけなんですよ。出てい付どころか、住民が入っている防空ごうに日本軍は銃剣を突きつけ、自分たちはのこのこと入って、艦砲射撃が飛んでくる中に住民が追っ払われたのが沖縄戦の実態なんだよ。そういった事実関係もわかっておりながら、みずから望んで死んでいった者もいるはず、強いられたというのはおかしいとか強過ぎるとか、この点は文部大臣、はっきりさせていただきたいと思うのです。少なくとも国内においてもそういう事実があったことをお認めになっていただいて、そこまで検定をし、改善しなさい、修正しなさいと言うことは、それはむしろ逆に酷だよ。  この点については、文部大臣からまとめてひとつ御見解を承っておきたいと思います。
  197. 森喜朗

    森国務大臣 沖縄の問題につきましては、事実であるとかないとかということよりも、上原先生が沖縄の御出身でありますし、そういう沖縄の戦時情勢の中で大変厳しいそういう御体験あるいはまたそうした事実を十分承知の方々の御意見を踏まえての御発言でございますから、先生の御発言は事実であるとかないとか、そんなことを私から申し上げる必要はないというふうに考えます。  ただ、検定に際しましては、一昨年の事件がございまして、特にそういう意味では、沖縄での旧日本軍に対します住民虐殺等に関する記述につきましては、十分に沖縄県民の感情を配慮しつつ客観的な記述となるように検定において必要な配慮を求めているというふうに指導をいたしておるわけでございます。また、これは国会におきましても当時小川文部大臣が、沖縄の問題につきましても、沖縄県民の感情ということにつきましては十分の配慮をして今後検定に臨むつもりであります、こういう御答弁を申し上げているわけでございまして、そうした事実を客観的に記述をするように配慮をしていかなければならぬということは言うまでもないと思います。  今御指摘をいただきました事柄につきましては、直接私ども検定の作業を見ているわけでもございません。しかし、たびたび申し上げますように、改善意見、修正意見は一人の検定官の意見そのものを反映させるということではなくて、いわゆる検定の議を皆さんの中で求めて、そしてそれを改善あるいは修正として検定に改善をするようにお願いをしているわけでございます。御指摘をいただきました点などにつきましては、その事実関係というのは私自身も承知をいたしておりませんが、先ほど申し上げましたように沖縄の当時の悲惨な状況、そしてそのことについては日本人の痛い気持ちとして生涯ともに記憶をしていかなければならぬということであることは、十分承知をいたしておるわけでございます。  今後ともそうした検定につきましては、先生から御指摘をいただくまでもなく沖縄の皆さんの気持ちを十分配慮して検討を進めていかなければならぬものだというふうに、私は考えを申し述べろということであれば申し上げておきたいと思います。
  198. 上原康助

    ○上原委員 教科書の中で具体的にどうなってくるか、おおよそ察しがつきますが、少なくとも私が指摘をしたこと、あるいは沖縄県史を一級資料でないのだとか、逆にそれを立証できないくせにそういうことがあってはいけないと思いますし、みずから死んでいった者もおったはずとか、そういうことでは納得できないということを改めて申し上げておきたいと思います。  時間も来たようですが、あとしばらくお尋ねをさしていただきたいと思います。  こういうこととのかかわりで、琉大の問題についてちょっとだけお尋ねをさしていただきたいと思いますが、戦前の日本政府の沖縄に対する高等教育がどうであったかということについても若干触れたかったのですが、時間がなくなりましたので要点だけ申し上げます。  キャンパスが首里から西原に移転をして、相当意欲を持って関係者は努力をしておられるわけですが、今後の沖縄の人材育成というか、いろいろな面を考えますと、その地理的条件をどう生かしていくかということは見逃せないことだと私は思うのです。そういう立場で今後の琉大の充実強化というものをどう図っていくかということですが、一つは亜熱帯に位置しているということ、あるいは周囲が海にもちろん囲まれている離島県であるということ、こういう条件等を考慮した場合には、例えば亜熱帯の医療や農業研究機関を充実をしていく。あるいはまた水産学科の新設ですね。農学部に林学科はあるようですが、水産学科がまだ設置をされていないようです。こういう面から考えても、関係者はこのことを要望している。また建設学部ですか、理学部、工学部にしてももう少し充実強化をする必要があるという指摘もございます。  まとめて申し上げます。こういうことについてどのようにお考えになり、今後どうしていかれようとするのか。  さらには、東南アジア諸国との交流あるいは文化的関係が非常に深いことは御案内のとおりです。一九八五年にオープンされる国際センターとの関連等を考えても、そういった地理的条件を生かした琉大の育成、充実化は非常に大事だし、総合大学としての位置づけ等々を含めてどのようにお考えになっているか、この際関係者と大臣の御所見を聞いておきたいと思います。
  199. 宮地貫一

    ○宮地政府委員 琉球大学の整備についてのお尋ねでございますが、昭和四十七年国に移管されまして、法文、教育、理工、保健、農学の五学部と短期大学を擁する国立大学として設置されたわけでございます。  文部省といたしましては、琉球大学を地方における総合大学として発展させるべく、理工学部の理学部、工学部への分離改組の問題、医学部設置大学院の新設等その整備充実には十分配慮をしてきたところでございます。また、沖縄県が亜熱帯地域にあるという特有の地域性に着目をしまして、国立大学では唯一の海洋学科の設置でございますとか、熱帯海洋科学センターの設置など、地域性をいかした特色ある発展に意を用いてきたところでございます。  今後とも琉球大学の総合大学としての整備と地域性を生かした特色ある発展のためには、もちろん大学自体での整備の要求に応じて対応しなければならないわけでございますが、それらの点は十分配慮をしなければならない点だというふうに考えております。ただ、ただいまのところ置かれております財政状況も非常に厳しいということは御存じのとおりでございまして、国立大学の整備についてはそれぞれ御要望もいろいろといただいておるわけでございますが、全体的になお厳しい状況にあるということもございますけれども、私ども琉球大学からの概算要求を待ちまして今後とも大学と十分協議をしてまいりたい、かように考えております。
  200. 森喜朗

    森国務大臣 具体的な事柄につきましては今局長が申し上げたとおりでございます。琉大がいわゆる国立大学という形で県立大学から移管されました際、当時私どもも党の立場におりまして、琉大が本当にその地域の特殊性に合った大学として発展することを願ってきたわけでございます。  これはまだ事務当局に話もいたしてないことでございますが、ある学者の方から、琉球大学がそういう地域の特殊性を生かした大学になってないのじゃないだろうか、もっとそういう方向にすることが当初の目的であったはずだ、これは私が言うのではなくてある学者、お名前は申し上げない方がいいと思いますが、大変琉球大学のことを心配した学者さんでありまして、それを本土にあるような各県にある大学と同じようにしてしまうということはおかしい、そういう御指摘もございまして、確かに先生からお話もありましたように亜熱帯の地域であること、あるいはその地域性の交通のことから考えましても、東南アジア全体を見て、アジア全体の学問を進めていく上において大変大事なポイントになるということを考えれば、それをどんどん伸ばし特殊性のある大学にしていくことは私は大事だと思います。  ただ問題は、沖縄はやはり本土とかなり遠隔の地にあるわけでございますから、日本にございます既存の国立大学とある程度同じような体制は整えておきませんと、教育学部あるいは経済、法文学部等々はある程度そろえておきませんと、沖縄の県民の学生さんもそうした学問をやりたいときに一々遠い本土に行かなければならぬということにもなる。こういうハンディキャップもあるわけでありますから、やはり総合的なものを整えなければならぬという理屈もあるだろうと思います。  今後そうした体制を整えると同時に、特殊性を生かしていくことが琉球大学の大事な将来への計画ではないかと私は承知をいたしておるわけでございます。御指摘をいただきました点の御意見が那辺にありやということは私も十分承知をいたしておりますので、今後ともまた事務当局に、大学当局と十分詰めて将来の計画を進めるように指導をしていきたい、このように考えておるわけでございます。
  201. 上原康助

    ○上原委員 ぜひひとつ特段の御努力をお願い申し上げておきます。  私は、まだ三時間になってないと思ったのですが、あと一点だけ。委員長、これは大変申しわけないのですが、どうしてもきょう聞いてくれというあれがありまして、教育とは直接関係ないのですがお許しをいただいて、内閣委員会なので聞くことも悪くはないと思います。  自衛隊のC1輸送機の離着陸訓練問題ですが、実は、大災害の場合に避難措置であるとかいろいろなことで立川基地の一部を自衛隊が利用していく、これが大変問題になっているわけです。  事もあろうに、十分地域住民の意向なども聞かずに、きょうから自衛隊のジェット輸送機C1が立川基地において離着陸訓練を強行するということなんですが、これは市長がオーケーしたから訓練をやるということになったようです。しかも、二十五日に決定をして二十六日に通告をしてきょうから、これじゃ対応できないですね。余りにも抜き打ちじゃないかという感じがしてならない。なぜこうなったのか、できるだけ短い時間でやりますから、防衛庁、お答えいただきたいと思う。
  202. 江間清二

    ○江間説明員 御説明申し上げます。  立川基地につきましては、先生既に御案内のとおり、広域防災基地ということで従来から整備を進めてきたわけでございますけれども、五十七年の三月に新滑走路の整備というようなことも終わりまして、飛行運用体制というものが整ったということで、これは防災基地ということになりますと、災害時におきましては人員あるいは物資といったものの大量の輸送というものが必要になるということで、立川にそういう際にC1の輸送機をもって対処する必要があるということから、C1につきましての経験飛行ということを防衛庁としてはかねてから要望しておったところでございます。  そこで、経験飛行ということをやるためにはローアプローチと実際の離着陸、そういう訓練が必要になるわけでありますけれども、立川市との御相談の結果、五十七年十月から基本的には御了解をいただきまして、今日までおおむね十八回、月一回程度でございますけれども、ローアプローチによる訓練を行ってきたところでございます。  そこで、本来経験飛行というためには実際に離着陸をすることがどうしても必要不可欠でございますので、立川市の方とも、できるだけ地元の御了解を得て実施したいということで、五十七年十月の時点で既に基本的には御了解をいただいておりましたけれども、さらに協議を重ねまして、たしかこの三月に防衛施設庁の東京防衛施設局長から、この四月以降離着陸訓練を行いたいということで依頼をいたしまして、その結果、先般十一日でございますけれども、基本的に了解をするという御返事をいただいたところであります。  したがって、かねてからできるだけ早く実施したいということで進めてまいったことでございますので、従来実際に飛ぶ場合の大体三日程度前に御通知を申し上げておりますけれども、去る二十五日だったと思いますが、本日離着陸訓練を行いたいということで通知をした次第でございます。  そういう経緯でございます。
  203. 上原康助

    ○上原委員 きょう実施したのかどうかも。  それと、きょうはこういうことですから余り時間はとれませんので、後ほどまたどこかで詳しいことはやるとして、C1というのは非常に問題の多い飛行機であるということ。日ごろは基地周辺の住民の御理解を得つつと言いながら、市長が渋々オーケーしたら強行するというのは、これは言っていることとやっていることは全く違う。これもだんだん昔の軍隊の本質になりつつある。  しかも、立川周辺というのは文字どおり住宅密集地ですよね。そういう過密都市の周辺でジェット輸送機を離着陸訓練するというのは余りにも神経がどうかと思うのです。万一事故でも起きたらどうするのですか。皆さんはいつも事故のないことと言うが、沖縄でもこの間落っこちて、今大問題になっている、これはC1じゃないけれども。  それで、騒音対策とか、あるいは高さの規制をされている建造物、建築物などが二十七カ所もある、こういう問題についてどうするのか。少なくともこの種の問題等も十分地域住民と協議の上でやるべきだと思うのですが、このことについてひとつ御見解を聞いておきたいと思うのです。
  204. 江間清二

    ○江間説明員 御説明申し上げます。  まず第一点でございますけれども、本日実施したかどうかということでございますが、ちょうど私、きょう飛ぶ予定になっておりました三時過ぎにこちらの方に参っておりますので、先ほどとった連絡では、立川の飛行場周辺で約十ノットの風があるということで、やはり飛行安全には万全を期すということから本日予定しておりました離着陸の訓練は中止をいたしまして、ローアプローチだけによって今回飛行したというふうな報告を受けております。  それから、安全面あるいは騒音の問題でございますけれども、この点につきましては私どもも十分配慮をいたしておるつもりでございまして、C一の離着陸等の訓練につきましては立川市の方ともかねてより御相談をして、年間二十回以内ということ、また、一回一機で行う、それから夜間あるいは早朝、日曜祝日といったようなときには訓練を行わない、また、連続離着陸といいますか、タッチ・アンド・ゴーと通常言われておることは行わないということで、騒音面については配慮をいたしております。  また、飛行場周辺におきます障害物件の点でございますけれども、確かに先生指摘のような障害物件等が進入表面あるいは転移表面といったようなところに存在をいたしております。しかし、C1の離着陸は、その各進入表面、転移表面等に出ておる高さ以上の角度、大体三度ぐらいの角度で入ってまいりますので、それほど運航には支障がないと申しますか、安全は確保できるというふうに考えております。  また、訓練に当たりましては当然、本日もまさにそうだったわけですけれども、気象条件等を十分勘案いたしまして実施をすることといたしておりますので、安全面については私どもとしては十分配慮をいたしておるというふうに考えております。
  205. 上原康助

    ○上原委員 これでこの点については終えますが、いずれにしても非常に問題があるということと、地域住民の強い反対があるということも踏まえて対処していただきたいし、即刻やめるべきであるということを注文をつけておきたいと思います。  大分時間になりましたが、文部大臣、きょうは大変きついことも申し上げました。しかし、私が本音で議論をすべきだと冒頭申し上げたことも、いろいろな意見なり教育に対する考え方はあるにしましても、教育の自主性、中立性というものが侵されて、時の権力がこれに一々注文をつけたり教科書内容が統一化されていく、国定化されていくということになると、やはり国民には幸福はもたらさないという基本的な認識を我々は持っているわけです、みずからの体験と現在の社会情勢あるいは過去の歴史を見まして。そういう面で申し上げましたので、文部行政、文部政策を預かる大臣として、きょう私が申し上げたことあるいは野党の各先生方がおっしゃるようなこと等についても十分聞くべきは聞いていただいて、そうせぬとそれは議論はかみ合いませんよ。あなたは社会党だから、おれは与党だからというだけではこの種の問題は解決しません。十分ではなくても、少なくともその三分の一か半分ぐらいはやはり取り入れた方が、日本のこれからの教育改革をしていく上においては益に、プラスになると私は思う。  まだこれから与党自民党、日本を背負っていく文部大臣ですから、そういう面でひとつ受けとめるところは率直、謙虚に受けとめてやっていただきたいということを要望申し上げて、このことについて改めて決意を伺って、質問を閉じたいと思います。
  206. 森喜朗

    森国務大臣 いろいろと御意見ちょうだいをいたしまして感謝を申し上げる次第であります。先生が強いことを申し上げたというふうにおっしゃってくださって大変恐縮をいたしておりますが、私もかなり本音のところを申し上げて、先生意見は十分かみ合いながら大変実りの多い議論であったというふうに私は承知をいたしておるわけでございます。  もちろん、聞くだけではなくて、今後の文教行政には十二分にこれを反映をさせていかなければならぬことは当然のことでございますが、お互いに同じような世代でありますから、日本の国が平和で、豊かで、そして本当に国際社会の中で十二分に今後とも役割を果たしていく、文化、平和国家として生きていけるように、そういうことを将来の子供たちに託したいという気持ちで、それぞれ立場は違いますけれども、お互いにそのことを念じつつ、こうして国会の場で議論をいたしておるわけでございます。より健全、建設的なお互いの議論を踏まえながら、日本教育がより憲法と教育基本法を大事にしながら今後とも本当のいい意味で進展をしていくように私たちも努力をいたしますし、どうぞまたいろいろな意味で御指導賜りますようにお願いを申し上げまして、私の率直な先生に対する感想を申し上げる次第であります。ありがとうございました。
  207. 上原康助

    ○上原委員 これで終えます。
  208. 片岡清一

    片岡委員長 次回は、来る七月三日火曜日午前九時五十分理事会、午前十時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後六時四十二分散会