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1984-06-21 第101回国会 衆議院 内閣委員会 第15号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十九年六月二十一日(木曜日)     午前十時三十二分開議 出席委員   委員長 片岡 清一君    理事 池田 行彦君 理事 戸塚 進也君    理事 深谷 隆司君 理事 宮下 創平君    理事 小川 仁一君 理事 松浦 利尚君    理事 市川 雄一君 理事 和田 一仁君       石原健太郎君    内海 英男君       大島 理森君    奥田 幹生君       鍵田忠三郎君    菊池福治郎君       塩川正十郎君    月原 茂皓君       二階 俊博君    林  大幹君       山本 幸雄君    上原 康助君       角屋堅次郎君    木間  章君       佐藤 徳雄君    嶋崎  譲君       水田  稔君    元信  秦君       渡部 行雄君    鈴切 康雄君       山田 英介君    三浦  隆君       柴田 睦夫君    三浦  久君  出席国務大臣         文 部 大 臣 森  喜朗君         国 務 大 臣         (内閣官房長官)藤波 孝生君  出席政府委員         人事院総裁   内海  倫君         人事院事務総局         任用局長    鹿兒島重治君         総理府賞勲局長 柳川 成顕君         文部政務次官  中村  靖君         文部大臣官房長 西崎 清久君         文部大臣官房審         議官内閣審議         官       齊藤 尚夫君         文部省初等中等         教育局長    高石 邦男君         文部省大学局長 宮地 貫一君         文部省学術国際         局長      大崎  仁君         文部省管理局長 阿部 充夫君  委員外出席者         行政管理庁行政         管理局管理官  新野  博君         参  考  人         (前中央教育審         議会会長)   高村 象平君         内閣委員会調査         室長      緒方 良光君     ――――――――――――― 委員の異動 六月二十日  辞任       補欠選任   田中 慶秋君   永江 一仁君 同日  辞任       補欠選任   永江 一仁君   田中 慶秋君 同月二十一日  辞任       補欠選任   上原 康助君   水田  稔君   嶋崎  譲君   佐藤 徳雄君   渡部 行雄君   木間  章君   田中 慶秋君   三浦  隆君 同日  辞任       補欠選任   木間  章君   渡部 行雄君   佐藤 徳雄君   嶋崎  譲君   水田  稔君   上原 康助君   三浦  隆君   田中 慶秋君     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  臨時教育審議会設置法案内閣提出第四七号)      ――――◇―――――
  2. 片岡清一

    片岡委員長 これより会議を開きます。  内閣提出臨時教育審議会設置法案を議題といたします。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。角屋堅次郎君。
  3. 角屋堅次郎

    角屋委員 一昨日、中曽根総理出席を求め、私を初め各党から、常任委員会としては異例の総理出席のもとでの審議が開始されたわけでございます。私、二日間にわたって質問するというのは初めての経験でございまして、第一日目に総括的に何をやるか、きょうの第二日目にそれを受けて何をやるか、分断審議という実は非常にやりにくい経験をしたわけでございますが、しかし、教育は非常に重要な問題でございまして、党の御相談の結果、引き続き私が質問いたすことになったわけでございます。  きょうは、第六期以降中央教育審議会委員を務められ、最近では中央教育審議会会長として、約二十年にわたっていわゆる中教審審議答申を通じていろいろ日本教育の問題について大変御努力をされてまいりました高村象先生を、委員長並びに各党理事の御承認を得てお呼びすることに相なりました。  これは委員会先生方にも御了解を得たいわけでありますが、これから慎重審議の中で参考人招致があったりあるいは公聴会の開催があったりするわけでございますが、きょう高村先生をお呼びしたのは、従来教育改革問題を文部大臣諮問機関として審議してまいりました中教審から、我々の賛否は別として、総理直属臨時教育審議会に切りかえようということでありますので、審議に当たっては、従来審議会委員をやられ、今日会長責任者であった高村先生にやはり御出席を求めて若干の点についてお伺いしたい、こういう経緯でございまして、これはこれからの委員会審議における参考人招致あるいは公聴会等とは別の、スタートの問題として御理解をいただいておきたいと思うのであります。  そこでまず、一昨日に引き続きまして、これは今次国会の本会議予算委員会文教委員会、一昨日来の審議を通じてでももう既に明らかなことでありますが、中央教育審議会高村先生おいでになっておりますので、この際、森文部大臣から、いわゆる中央教育審議会から本年の一月中旬以降急浮上してまいりました総理直属審議会といったような点についての経過を簡潔に御答弁を願いたい、こういうふうに思います。
  4. 森喜朗

    森国務大臣 今角屋先生からお話がございましたように、中央教育審議会は、文部省固有所掌事務でございます教育学術文化等につきましていろいろな御審議をいただき、御提言をいただいてきたわけでございます。特に第十三期の教育内容等委員会審議経過報告は、主として時代の変化に対応する初等中等教育の基本的な課題等についてそれまでの審議をまとめるとともに、今後とも制度弾力化の進め方や学校体系のあり方の問題について継続して十分な検討を重ねる必要がある旨を報告していただいておるわけでございます。  しかしながら、第二次中曽根内閣発足に当たりまして、教育を重要な国民的な要請の中でどう改革を進めていくのか、教育の幅広い論議を、あるいはまたいろいろな御意見国民の中からも私ども聴取してみますと、やはり幅広く各行政諸部にすべて関連のあることでもございます。そういう意味で、政府全体の問題としてこの問題を検討していくことがやはり最も国民要請にこたえることになるのではないか。  もう一つは、国民全体が生涯を通じて、まさにゼロ歳から生涯教育を受けるというこうした基本的な考え方を大事にするためには、やはり文部省以外の行政各部の施策との関連も含め、広く総合的に進めていきたい。政府全体の問題としてこの問題に取り組む、こういうふうに考えた場合に、総理諮問機関として臨時教育審議会を設置しよう、そのことがより緊急に、また長期的な問題等も含めて国民要請にこたえることになる、このように判断をいたしたものでございます。
  5. 角屋堅次郎

    角屋委員 今の森文部大臣の、中教審から臨教審への切りかえの経緯という点については、高村先生おいでになってこれからお伺いをすることに関連しますので、お互い十分知っているわけでありますが、まずお聞きしたわけでございます。  そこで、本日は高村先生、本当にお忙しいところどうも御苦労さんでした。先ほど冒頭に申し上げましたように、きょう高村先生をお呼びしましたのは、第十三期の中央教育審議会会長であられた。そうして十一月十五日におきます教育内容等委員会審議経過報告、こういう報告段階で第十三期の教育審議会任期が終わったわけでございます。高村先生の場合は、中央教育審議会は御承知のように昭和二十七年六月六日の日に文部省設置法の一部改正によって設置された審議会でありますが、それから十年を経た三十八年から、第六期委員から審議会委員になられた。先般、高村先生にお会いしましたら、大学紛争のとき、慶応義塾の大学関係等もあって一時委員をやめられたけれども、その後また再び委員をやられて今日まで来たというお話等もお伺いをいたしました。  まず、冒頭にお伺いしたいのは、中央教育審議会委員として教育問題をいろいろやられ、そして最近は中央教育審議会会長として審議会責任を持ってやってこられた。この約二十年間におきます中央教育審議会を通じて教育改革に取り組んでこられた先生の、いわば教育問題に対する考え方感慨といいますか、これは単に中央教育審議会委員あるいは会長という立場も離れて、教育者立場ということも含めて、まず高村先生の方から御感慨をお伺いしたい、こういうふうに思います。
  6. 高村象平

    高村参考人 角屋さんのお尋ねに対してお答えいたします。  私、いつの間にか二十年もの間、中央教育審議会に関与しておりましたし、それから最後の六年間は会長という地位におりまして、いろいろのことを審議したりしておりました。  その間、何が一番感銘に残っているかというお尋ねでございますけれども、すぐとっさに思い浮かびますことは、あれは十二期でしたかの答申の中にありますが、生涯教育についての答申がございますが、これをつくりましたときのいろいろの問題がいまだに頭の中にこびりついております。  と申しますのは、生涯教育ないしは生涯学習というものは、その言葉どおりパーマネントに学んでいかなければならないということなんでありますけれども、それにはつまり何でもかんでも学べばいいということではないので、学び方というものがあるわけであります。したがって、またそれの裏になります考え方というものがなければならない。これを小さいときから仕込んでおくということが必要だと私ども考えておりまして、その具体的な形が生涯学習なり生涯教育なりというものになるのだ。ですから、初等教育段階で物を学ぶ学び方というものをはっきりつかまえさせておくということが必要なんだということを私ども考えておりまして、またそれを答申の文案に述べていたわけでございます。それまでにもそういうことについての発想は幾らか出てきてはおりましたけれども、中央教育審議会として発言いたしましたのはあのときが最初のように思いますので、これが私として一番感慨の深いことということになります。  なおそのほかは、私は最初のうちは、今の六・三・三・四制というものを何か改めていく必要があるのではないか、ということは、学校段階の区切りというものを改めることによって多少救われるものができてくるのではないかというふうに思っておりました。しかし、それが何年かの審議をして経験しております間に、これはやや思い上がった考え方だということに気がつきました。  と申しますのは、まず第一に、費用の点でも大変なことであるし、もう一つは、人事の問題で大きな支障というものが当然起きてくるだろうし、それを切り抜けるのに、今までのような官民の体制でそれが可能かどうかということになると、少々心もとないように思われまして、そこで、それよりももっと先にやるべきことがないかと考えますと、それがある。何がそれになっているかと申しますと、それぞれの教科内容の中身が非常に多いということであります。過多であるということ、これがために理解も十分ないうちに年度だけは上がっていって、結局学校から押し出されていくというような卒業生ができてきてしまう。それよりも、身につくような内容のものにして、それをまた懇切に教え込むということが必要なんだ。したがって、教科内容の改善ということが最も簡単に、しかも行われ得ることだというふうに考え直してきたわけでございます。  これがまた十四期というようなことがありました場合には、それを力説した形の答申を出したいものだなというふうに考えておりましたが、十四期のことはいつの間にやら幻になってしまいまして今日に至っているわけでございますので、まあ二十年という、考えてみれば長い月日でありますが、その長い月日の間に何か自分の今すぐとっさに思いつく思い出があるかとおっしゃった、そのことに対してのお答えは以上のようなことでございます。
  7. 角屋堅次郎

    角屋委員 高村先生に次にお伺いしたいのでございますが、一つは、昨年の十一月十五日に中央教育審議会から、今先生も触れられましたけれども、教育内容等委員会審議経過報告、こういうものを任期の終わりにいたしまして、第十四期の発足ということが通常予想されたわけであります。当時、六十万の教育集団である日教組は、第十四期の中央教育審議会には参加する希望を述べておった時代でございます。同時に、中曽根総理並びに新進気鋭森文部大臣は、いわゆる第十四期中央教育審議会について語っておられたわけであります。それが各位御承知のとおり、本年の一月中旬以降急転して臨教審という、我々が基本的に反対をしておる、戦前五回、戦後の民主教育議論をする中央教育刷新委員会、それの引き継ぎの審議会ということとは全く性格の異なる新たな審議会をつくろう、こういう段階になったわけです。  そこで、先生にまずお伺いしたいのは、こういった問題について、約二十年間にわたって中央教育審議会委員または会長として御努力をされてきた、第十三期の会長であった先生に、新しいそういうものに切りかえるということについて、何か文部省から、大臣あるいは次官その他から、こういうことで今進んでおりますとか、こういうことを検討しておりますとかいうお話がございましたでしょうか。
  8. 高村象平

    高村参考人 ただいまのお尋ねに対してお答えいたしますが、何らございませんでした。それだけでございます。
  9. 角屋堅次郎

    角屋委員 森文部大臣にお伺いをしたいのでありますけれども、過去二十年近く中央教育審議会委員をやられ、そして第十三期の会長として、昨年の十一月十五日のいわゆる小委員会審議会報告を出されるまで重要な役目を果たし、新たな総理直属審議会に切りかえるというときに、会長であった人に対して何ら一言の、こういうことで今進んでおりますとか、こういう検討をいたしておりますとかいうことなしに、新たな機関への切りかえを考える。つまり、文部大臣初め文部官僚というものの今日的体質というものがここに具体的にあらわれているのじゃないか。人の問題、道徳教育の問題を言われる文部大臣を初め文部省自身の、二十年近くやってこられた第十三期の高村会長は全然相談を受けていない、あるいはお話を受けていない、こういうところにも、私はこの制度が極めて猪突的であり、そしてまた政府の、中曽根総理のイニシアによる急変的な態度の中でこういうものをやろうとした点があらわれておると思うのであります。森文部大臣からその点について御答弁を願いたい。
  10. 森喜朗

    森国務大臣 人それぞれの考え方の違いというものもございますが、新たに臨時教育審議会を設置しようという考え方判断をいたします。その際に、中央教育審議会として大変な御努力をいただいた高村先生初め関係者皆様方と御相談を申し上げることが、その先生方に対してお答えをちょうだいすることがある意味では適当なのかどうか、これは私の判断でございますが、私自身も迷ったことも事実でございます。  余計なことを言うなと言われるかもしれませんが、学生時代から高村先生を私はよく存じ上げておりますし、当時慶応大学弁論部長として、私も直接ではございませんが早稲田の弁論部という立場でも御指導いただいてまいりまして、ずっと御尊敬は申し上げておりました。いろんな場面でもお目にかかり、お話やまた先生のお考え方もちょうだいすることもしばしばございますし、そういう意味では、だれよりも私は一番先生を崇拝していると申し上げていいと思います。  したがいまして、個人的に御尊敬を申し上げることと、今度の問題で中教審委員会長を御経験なさった先生にこういうふうにいたしたいと思いますがということを御相談することは、かえって先生の御迷惑になるのではないか、これは私ども政治家として、また内閣の任にある者として判断をしていくことが正しい、こういうふうに私自身判断をいたしました。  なお、文部省といたしましては、事務的にはいろんな経過報告先生にしておるものでございまして、この件につきまして先生に御相談をして、そして臨時教育審議会に切りかえようというようなことを申し上げることはかえって先生に御迷惑をかけることになる、国会で御審議をいただいて、そして審議会法案が成立をしてスタートをさしていただくという国会での御判断をいただいたら当然先生方にも御相談を申し上げていきたい、私はこういうふうに考えていました。  なお、予算委員会文教委員会等を通じまして中教審の今日までの御提言をいただいた議論、またいろんな意味での御意見を十分踏まえて、ゼロからのスタートではなくて、中教審の御答申の上に立って臨時教育審議会というものを進めていきたい、このようにも国会で御答弁を申し上げているところでございます。
  11. 角屋堅次郎

    角屋委員 今の森文部大臣答弁は、我々の常識あるいは国民常識から見てもまことに苦しい言いわけにすぎない。しかも、昭和二十七年以来中央教育審議会は、我々は中教審路線といって厳しい批判を持っているけれども、よかれあしかれ日本教育の問題をどうすべきかについて真剣に議論をされ答申をされ、そして政府はそれを受けて法案になるべきものは出してこられる、そういう問題については、我々社会党の場合で言えば、教科書法案の問題にしろ、あるいは教育委員会の従来の公選制から任命制に切りかえる問題にせよ、その他各般の問題について、戦後の憲法、教育基本法に基づく平和、民主主義を大きく変質させる問題については強く反対をしてまいりました。  それはそれとして、少なくとも今日まで審議会委員であり、しかも十三期の会長であった高村先生に対して――私は、数日前に先生にお伺いした際には、事によったら十四期ではまたお願いをしなければならぬというふうなことも考えておりますという話が森さんからあったというふうにお伺いしましたが、それは昨年のことでありました。それから一度も何の話もなかったというのは、これは世間の常識に反する、我々の常識にも反する、こういうふうに率直に思わざる得ない。私は、もし文部大臣の職責にあったとするならば、実はこういう関係でこういうふうに進んでおります、いろいろ検討しております――何も中央教育審議会にそういう制度に切りかえることについて意見を求めよと言っているんじゃない。新しい制度に切りかえることについてこういうふうな関係でこういうふうにしたいと思っておりますという報告、連絡だけは私はすべきものと思うのであります。  しかも、私がさらに言いたいのは、中曽根総理行政改革財政改革、それに次いで第三の改革として教育改革をやりたい、その教育改革をやる入れ物として戦前五回、戦後わずか一回しかない総理直属臨時教育審議会をつくってやろうというのである。だとするならば、従来からやってまいりましたそういう中央教育審議会会長あるいはその他の方に対しても、こういうことでという礼を尽くすということは当然のことである、こういうことを強く申し上げておきたいと思います。その中に今日の文部省の体質を含め、文部大臣の姿勢に基本的に問題があるということを私は指摘しておきたいと思うのであります。  そこで、高村先生に、二、三先ほど御感慨を触れられましたけれども、先生に私から聞くのは、いずれまた参考人等の問題が出るときに各党からというケースもあると思いますので、私一人が先生にいろんなことをお伺いすることは慎みたいと思います。  一つは、昨年の教育内容等委員会審議経過報告の中で、中学校にまで習熟度別学習をおろすといったふうなことを含んだ、まだ全体がありますけれども、経過報告が出た。先生新聞記者会見に出たときに、そんなばかなことをと。ということは、教育者立場として言われたのだと思います。そういう報道が私も手元に持っておりますが出ております。その問題は、既に高校の点については中央教育審議会議論、あるいはそれを受けて文部省がいわゆる習熟度別の学級の問題については進めておる。しかし、義務教育である小学校中学校、特に中学校について習熟度別学習を入れてくるということは私は基本的に反対でありますし、そういうものを内容とする小委員会審議経過報告の中に基本的な問題点を含んでおると思うのでありますが、この中学習熟度別学習を持ち込んでくることに対する教育者としての高村先生のお考えを率直に聞きたい。  それから、今新しい臨教審の問題について公開制という問題を我々の側からも議論しておる。この臨教審賛否は別として、こういうものをつくる場合に、教育は広く国民全体にかかわっておる、また、教育基本法の精神から見ても教育国民の手によって基本的には推進されなければならぬ、国民的基盤において推進されなければならない、こういう性格を持っております。そこで、従来会長として中央教育審議会審議経過というようなものを対外的にはどういう御配慮でやってこられたのか、こういう点が第二点であります。  それから、第三点といたしましては、御案内のとおり中央教育審議会は、いわゆる正委員と言っては恐縮でございますけれども、正委員と必要に応じて臨時委員を置くことができることになっておりまして、第一期から第十三期までの正委員がどういう方々であったか、臨時委員がどういう方々であったかは、私は手持ちにしております「中央教育審議会答申総覧」で十分承知しております。高村先生が二十年やっておられる中に、正委員として任命されてくる方、必要に応じて専門的な分野で臨時委員として来られる方々、そういうことも含めた運営で審議をし、答申を出してきた。そこで、こういう重要な問題については必要に応じて臨時委員というふうなものも、専門委員は別にございますけれども、考える必要があるというふうに経験上思われるのか、やはり正委員で本来ずっとやるべきだというふうに考えられるのか。これは先生自身が御経験されておることですから、我々にはわかりませんが、そういう点についてもどういうふうにお考えかをお伺いしたいと思います。
  12. 高村象平

    高村参考人 三点ばかりお尋ねがございましたが、最初習熟度別学習義務教育段階に設けていいかどうかというお話でございます。  今角屋委員も私が記者会見のときに発言したことについて御承知でありますので、とやかく申し上げるわけでもございませんが、私はこれは固定したらいけないと思うのです。ただ、例えば中学でありますと英語が必修科目みたいに実際のところございます。あるいは算数とか数学とかというもの、つまり普通の子供が苦手とする教科があります。その教科についていろいろでこぼこができてしまっているわけなんですが、それについてあるレベルで統一されたものを一つクラス編制にしておいたら、その時間だけはその新しいクラスへ入って、それが終わったならばもとのクラスに復帰する、そういう式の一時的な習熟度別学習ということがあってもいいのじゃないか、私はそうは考えておりました。ただ、これを固定化してしまうことは何か区別をつけるような気がいたしますので、あながちこれは賛成できないと考えておりましたので、新聞記者諸君に対しての私の発言なんかもそのような形が出たものというふうに御理解いただきたいと思うのであります。  それから、中教審審議公開の問題でありますが、これは中教審の内規の中に非公開公開はしないというのを原則にするということがたしか出ております。それに従って行っていたわけでありますが、しかし、文部省詰め記者諸君などの要望もありまして、その打開策とでもいいますか、それは各会議が終わりました後でみんなの意見を代表する形で私一人が文部省詰め記者諸君の質問に対して答える、それできょうは大体こういうことをやったんだということをお話しする、いわばぬえ的なやり方でありますけれども、そういう形をとりました。この後も、もし十四期というものがありましたら、恐らくそれを続けていっただろうと思いますが、これは架空の問題でありますから、ただそういうふうになったのじゃないかということを申し上げるにとどめておきます。  それから、正委員臨時委員専門委員の区別でありますけれども、これはどうも私が任命するのではないので、文部当局が任命するのですから、だれが正委員になり、臨時委員になるか、わかりません。  ただ、正委員臨時委員との間は、法で決まっておりますわずか二十名という枠がありますから、それに入り切れない人が臨時委員になったくらいに私は考えておりまして、扱いは全然同じにしておりました。大体申しますならば、臨時委員はちょうど専門委員にやや似ておりまして、それぞれの問題についての専門的な知識を持っていらっしゃる方が任命されることが多い、そんなふうに考えておりますので、その点につきましては私の気持ちはいまだに変わっておりません。恐らく枠がもっと拡大していたら、全部正委員にしてもいいのじゃないかと思います。ただ、余り数が多くなるとやりにくうございます。会長としては余り多くない方を望ましく思っております。それだけつけ加えておきます。
  13. 角屋堅次郎

    角屋委員 高村先生は慶応義塾大学の教授として、また塾長として、そして中央教育審議会委員としては約二十年、そういう点で幅広い教育の分野と、それから大学教授としての経験と、大学紛争の当時等も含めて塾長としての経験もあるわけでありますが、戦前大学教育、それから戦後、従来からありました旧制帝国大学あるいは一般の大学、そして専門学校等も含めて新制の大学昇格といった形で今日高等教育が行われておるわけでありますけれども、そういった戦前戦後を通じての高等教育、特に大学教育、そしてそれは国公立が大学では二割程度しかカバーしていない、八割は私学教育でやっておる。先生自身は私学の方になるわけでありますが、そういった点で我々は国公立の関係についてももっとふやしていって、いわゆる国民に対する生涯教育の一環としての高等教育を受けたいという問題、あるいは高等学校から大学へ行く問題、そういった諸要請にこたえていくといった点で国公立の大学等の整備も重要な問題である。  殊に、過般文部省の別の審議会の小委員会の方で、十八歳の生徒がピークになります数年後に備えて八万六千名から増員していかなければならぬという問題がございまして、それに対してどうしていくかは後ほど文部大臣にお伺いするわけですが、そういった問題もこれから控えておるわけでありまして、大学教授として、私学の塾長として、あるいは教育審議会委員会長としてやってこられた関係から、大学教育というものに対してどういう御感慨を持ち、これからに希望を持たれるかといった点、これは教育者立場で結構でありますからお答え願いたい。
  14. 高村象平

    高村参考人 非常にお答えにくいものをお尋ねくださいました。簡単に一言で言ってしまえば、昨今の大学教育というのは何か性根がないような気がいたします。と申しますのは、本当に大学教育を受けたくてそれぞれの大学に入ったのかどうか、これが非常に怪しい学生が多いということであります。むしろ、ある資格を取らんがために入ってきたというのが多くなっているということがその原因ではないかというふうに私は推察しております。  でございますから、セミナーなどで厳しくやりますといつの間にか姿を消してしまうという言語道断な者が相当いるわけであります。別にそれを追っかけてまた引き戻してやろうということまでの親切心は出ておりませんけれども、とにかくそのように何か遊び半分というような気持ちの者が多くなってきているなというふうに考えます。これは明治生まれの私の考えかもしれませんが、恐らくほかの大学教授にお尋ねになっても似たような返事をするのではないかというふうに思います。  もっと真剣味を持たなければいけないのではないか。ということは、つまりいろいろの学校を出ますとそこで与えられる資格というものを問題にしている。資格というのはおのずとできてくるものであって、それを目標にして勉強するなんて言語道断だと私は思うのでありますが、その言語道断なのが今横行濶歩しているというのが現状だろうと思います。それは甚だ嘆かわしいことであります。が、同時に、それを幸いにして甘いような教え方、甘いような採点の仕方というようなことがあってはならないものだというふうに思いますが、中にはそれに外れたような教え方をする人もいるということが実際の姿だろうと思います。余りやかましく言いますと仲間から外れてしまうという、これは実際の問題としてございます。  これは何も私立大学の問題だけでなく、恐らく国公立の場合でも似たようなものがあるのではないか。もちろん、厳しくすればするだけ余計に慕わしくやってまいりますかわいい子もうんといるわけなのですが、一般の情勢としてはそのようなことを感じておりますので、お答えいたします。
  15. 角屋堅次郎

    角屋委員 きょうは冒頭委員先生方にも私のお呼びした趣旨を申し上げましたように、本来、中教審から臨教審への切りかえという問題の経過文部大臣の御説明を受けて、高村委員の方には、やはり二十年間中教審委員として、そして最後は会長としてやってこられた、このバトンタッチという形の問題と、それから中央教育審議会の中において本委員会でこれからもいろいろ議論が進められる公開制の問題、あるいはまた昨年の十一月十五日の審議会経過報告の点とも関連しますけれども、習熟度別義務教育中学校に持ってこようとする一、二点の問題についてお伺いをいたしました。先生には、教育者立場からいえば共通一次問題とかいろいろな問題についてお伺いしたい点はやまやまございますけれども、これは本来の審議の時間の私の手持ちもありますので、この程度にいたしたいと思います。  本日は、先生、大変お忙しいところ御出席をいただきましてありがとうございました。そのまま時間までおられても結構でございますけれども、時間というのは一時間というふうにお聞きしておりますが、先生に対する質問は以上でもって終わらしていただきます。ありがとうございました。
  16. 高村象平

    高村参考人 退席してよろしいですか。
  17. 角屋堅次郎

    角屋委員 どうぞ。
  18. 高村象平

    高村参考人 では退席させていただきます。ありがとうございました。(拍手)
  19. 角屋堅次郎

    角屋委員 それでは、これから本論に入らしていただきます。     〔委員長退席、深谷委員長代理着席〕  私は一昨日、中曽根総理と、いわば戦後平和、民主教育の原点というふうなものに基本を置いて、政府・自民党が戦後三十八年にわたってやってまいりました教育改革の路線というものは――中教審が今日までやってまいりました点についても、高村先生、大切なお客さんでありまして、あそこで中教審路線の厳しい批判を前提にしてお聞きするわけにいきませんから、礼を尽くして私の聞きたい数点についてお伺いしましたが、やはり戦後教育のこれまでの変遷の中では、臨教審法案の第一条で「教育基本法の精神にのっとり、」と言っておるけれども、これは戦後の三十数年の間にだんだんと浸食をし、そして切りかえてきておる。空洞化と言っていいのかあるいは変質と言っていいのか、そういう形を基本的に持っておると思います。私は、そういう歴史的な問題について引き続き触れることは、具体的な問題を持っておりますので、それはいたしませんけれども、森文部大臣はその点について、戦後教育の憲法、教育基本法に基づく教育理念、また教育方針というものは今日までも受け継がれ、守られてきたというふうにお考えでしょうか、そういう点についてお伺いいたします。
  20. 森喜朗

    森国務大臣 角屋先生お尋ねに結論から申し上げれば、戦後の教育基本法の精神を大事にして、そして平和的な国家をつくるための人間教育、人間形成、その社会を構成する国民教育をしている、私はそのように信じておりますし、今もそのことは変わってない、こういうふうに考えております。  今さら先生に申し上げることはかえって失礼かと思いますが、教育基本法は憲法の精神に基づいた我が国の教育制度全体に通ずる教育理念でございまして、その原則を明示をいたしておるものだというふうに私は理解をいたしております。その精神は、第一条で「教育の目的」として、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、」「心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」ということがうたわれておるわけでありまして、そこに戦争の反省というところから新しい教育の位置づけがある、私はそのように信じておりますし、その方向で今日も教育行政がなされている、こう理解をいたしております。
  21. 角屋堅次郎

    角屋委員 文部大臣は、最近発刊された本でありますので読んでおられるかどうかわかりませんけれども、つい最近まで日教組の委員長をやっておられました槇枝元文さんが、「文部大臣は何をしたか 私の目で捉えた戦後教育史」というのをつい最近出しておられます。私、これを全部勉強させていただきました。こういう本は、いわゆる文部省サイドからの戦後史という見方があるでしょう。それから、例えば六十万の教育集団である日教組の責任者の地位に相当長きにわたってあった槇枝さんの戦後教育史というものもまた最近出されておる。そういうものを総体的にとらまえるところに、これから教育改革考えていく場合の共通の広場というものが生まれると私は思う。  政府・自民党は日教組を敵視する。そういう形の中では、いわゆる教育の荒廃から日本教育を救うということはできない。諸外国の教育改革のいろいろな歴史というようなものについて余り深くひもとくいとまはありませんでしたけれども、そういった諸外国の教育改革に当たっての基本的な考え方の中に、大きな教育改革をやろうとする場合は政治的な合意が必要である、国民的な合意が必要である、これなくして教育改革をやっても教育改革の成果は上がらないというふうに教育改革をやってまいりました。  数年前に社会党が教育改革の国際シンポジウムというものをやりました。それに全部目を通した中に、それぞれの各国における教育改革、そこで言われておることは、やはり教育基本法でも示しておることでありますけれども、大きな教育改革を、何をどうするかは別として、やっていこうという場合は、政治的な合意と国民的なコンセンサスというものを抜きにしては真に実のある教育改革はできない、こういうふうにも思うのでありまして、ぜひその点は、既にお読みかどうかわかりませんけれども、槇枝さんの本などもこれから教育の問題を考えていく場合に、文部省の――先ほど私は高村さんの点でちょっと親が子をしかるようなことを言いましたけれども、これは私はそう考えたからそういうふうに言ったのであって、一事が万事、文部省はすべていかぬというふうに言ったつもりはないのでありまして、こういうところにあらわれておる姿の中に文部官僚考えていかなければならぬ体質があると私は考えておるからであります。  その点で、森文部大臣は戦後の大臣としては四十三代目、人としては三十九人目。これは、亡くなられた松村先生が二回やられ、そして今御健在でございます灘尾先生が四回やられたということもありまして、森文部大臣は第四十三代。在職期間を平均してみますと、大体十一カ月で文部大臣がかわっておるということであります。教育は、政党から出すにしろ――戦後はしばらくの間、御承知のように文人文部大臣、民間から出られた文部大臣がやられておる時期が相当ありました。そういうことの是非については意見はございますけれども、とにかく猫の目のように大臣がかわる、これにも基本的にはやはり問題があるだろう。  我々の党の教育の専門家が、文部大臣は、国会に出てこられてから文教一筋とは言いませんけれども、その中心になってやってこられた人で、森文部大臣に対する客観的な評価はどの程度か、私は別のセクションで多くやっておりましたからわかりませんけれども、見たところ、中曽根総理よりは教育の問題を考えるのが地についておるのじゃないかと私は思うのです。そういう点で、ものの半年や一年やあるいは一年半でかわる、長くやってくれといっても総理を目指す人としてはそういうわけにいかぬかもしらぬが、そういうことは別として、文部大臣が猫の目のようにかわるというところにも問題がある。  この臨教審の問題をどうさばくか、この議論を通じて結論をつけていかなければならぬという問題であろうと思いますけれども、そういう点で戦後教育の歴史というものを客観的にどう見るか。我々は、憲法、教育基本法の中で教育基本法というものの精神が空洞化しつつある、変質しつつあるという認識を持っております。今回の、一昨日の議論も含めて私をして端的に言わしめれば、臨教審の第一条で「教育基本法の精神にのっとりこと書いているけれども、この「のっとり」は、教育基本法を守るという「のっとり」で法文上出ております。これは極端な表現として受けとめられればお許しをいただきたいと思いますが、この「のっとり」というのは、中曽根さんの政治的な理念や体質からいくと、ハイジャックの「乗っ取り」を改憲への地ならしとしてやろうとしているのじゃないかというふうな危惧の念を持っているのが、率直に言って私の実感であります。そういうことを私は実感として持っておる。  しかし、本会議委員会その他の議事録の総理初め森文部大臣のものを全部読ませていただきましたが、森文部大臣の方が、さすが戦後教育を受けただけあって地についておるというふうに思っておりますが、私が先ほど言ったように、教育改革をこれから進めようという場合には、政治的な合意、国民的な合意ということを基盤にしなければ教育改革の実は上がらない。一方を味方とし、一方を敵とし、そして対決の中で思うような教育の方向に持っていこうとすることがもしありとするならば、日本の国自身の進路を誤ると私は思っておるのでありますが、そういった点について第四十三代目の文部大臣としてひとつお答え願いたい。
  22. 森喜朗

    森国務大臣 角屋さんから私に対する御質問も含めて、むしろ御激励をいただいたものであるというふうに受けとめさせていただきます。ここにも肖像画が飾ってありますように大先輩、農民運動、労働運動を通じて、先ほど先生がおっしゃったように国会での同じセクションでは余り御議論することはございませんでしたが、先生のお人柄や今日までの政治家としての大きな足跡、私も大変尊敬を申し上げておるわけでございます。そういう大先輩から激励をいただいたものである、こういうふうに私は受けとめさせていただきます。  確かに、先生がおっしゃるとおり、教育は幅広く多くの皆さんの、また端的に言えばいろいろなお立場方々の御意見を伺うということがとても大事なことだと考えております。そういう意味で、先ほどもちょっと先生におしかりをいただいたところもございますが、臨時教育審議会にいたしましたのは、むしろ幅広く、そして各行政、あるいは国際性あるいはまた労働性あるいは雇用の問題、すべての問題を幅広く考えて、そういう中で日本教育全体を考えてみなければならぬ、そういう段階に今来ていると私は思うのです。  もちろん、文部省も今日まで、固有の所掌事務でございます学術や文化や教育の中でいろいろと改善をいたしてまいりましたけれども、やはり量的にも大変大きな膨らみを見せておりますし、またいわゆるレベルは大変高いものになっております。しかし、今世の中に行われておるいろいろな現象や事象というものは、教育が原因ではないだろうかということが非常に多過ぎる。政治家全体として全く看過できない問題がたくさんあると思うのです。  私も大臣になりましてから、教育者の皆さんともいろいろな御議論をいたしたことがございますが、学者の皆さんは、やはり学問を進め、研究を深めていこうということに大きな使命感を持っておられる。そのこと自体は私は正しいと思うのですが、そのために、世の中全体にいろいろな、どうも教育が原因ではなかろうかという病弊、病理現象というものが起きてきている。これを政治家としての立場で全く見逃しておいていいという、そんな事態ではない、私どもはこのように考えております。  そして、これは先生、私の考え方ですから、ちょっとお気持ちに触れるかもしれませんが、今の日本はいろいろな意味で、さっきの高村さんのように明治生まれの方もおられますし、全く民主教育の、新しい教育理念のもとに出てきた人、むしろそういう方々をお父さんやお母さんに持っておられるお子さんまでが今世の中の構成をしておられる。こういう時代であればあるほど、そういう政治的な対立やあるいはイデオロギーの議論の中で教育を論ずるのではなくて、本当にこれから二十一世紀の日本の国を背負ってくれる、あるいは二十一世紀の国際社会の中で堂々と生きていってくれるような青少年のために、教育の諸条件あるいは諸制度あるいは教育内容等がどういうふうになっていくのかということを、いろいろな方々で御議論いただくことが今とても大事ではなかろうか。  そういう意味で、幅広く内閣全体の責任で行えるようにこの臨時教育審議会総理諮問機関としてお願いをいたしておるものでございまして、私は、むしろ先生方のそうした御意見国会での御論議、そういうものを踏まえてこの審議会が恐らくすばらしい御議論を展開して、日本の将来にとってふさわしい教育制度を示してくれるものではないだろうか、こういう期待を実は持っておるところでございます。
  23. 角屋堅次郎

    角屋委員 幾つかのお聞きしたい問題を持っておりますので、この間の中曽根総理出席の際は、私も自分がしゃべる時間が多くて、中曽根総理もしゃべる時間が多くて、幾つかの問題を残すということになりましたが、きょうは、これからはお聞きをするという立場で、若干私の意見も入りますけれども、進めていきたいと思います。  先ほど高村先生にもおいでをいただきましたが、高等教育問題であります。ここで問題になるのは、いわゆる入試制度の問題、高等教育の共通一次試験、ここをどうすべきか。きのう国立大学協会が総会を持たれまして、いろいろ報道でも出ております。そして、例の五教科七科目の問題を、私学の慶応、早稲田等を初め、多くのところでどういう入試科目でやっておるかということについても、私は主要なところについては資料を全部手元にいただいておりますけれども、同じ大学を受けるにいたしましても、国公立の大学という場合と私学の場合とそれぞれ科目が違っておる。これは文部大臣委員会答弁等でもお答えになっております。  そこで、いわゆるアラカルト方式というものも含めて、総理自身も一昨日お答えになりましたように、来年は、共通一次試験についてはもう生徒自身がそれで準備しておるわけであって、五教科七科目についてああするこうする、アラカルト方式で切りかえるというようなことはとてもできません。したがって、来年は実施時期をずらすということを基本にしてやられることは御案内のとおりであります。  その場合に、来年度に間に合わせるファクターというのはあり得るのかどうかという問題と、基本的に共通一次試験をどうするかという問題になりますと、共通一次試験というのは、先ほど御出席高村先生がこの問題を聞かれると、あれはやめた方がいいというようなことを言われる可能性もあるかもわかりませんが、そういう可能性もあるということは、これから共通一次問題を考える場合に、私自身がきょうお呼びした点で、非常に影響の大きい御答弁があってもいけない、どういうふうにお答えになるかわかりませんけれども。そういうことで、その点の御質問は避けたわけでございますが、要するに、我々もこれにかわるべき方法ということを提示せずしては、共通一次試験をやめたらよろしいということは、政党あるいは政治家の立場でも言えないわけでありまして、この問題は既に来年は実施時期をずらすということであれしておりますけれども、国公立の大学の入学試験をどうすべきかということは重要な問題だろうと思います。  大体、この共通一次試験というものが行われることの反作用として、総理自身も言ういわゆる偏差値教育の改善、これは裏腹の関係を持っておるというふうに私は見るのでありまして、そういう点でも、この点は今後の問題として重要な入学試験の問題の一つである。  それから、文部大臣は敗者復活戦があったらいい、こういう敗者復活という言葉を使われた。いずれにしても、私は資料を手元にいたしておりますが、国公立の大学において二次募集をやっておるというところがある程度ございます。これはさらに広めるべきものというふうにお考えなのか、あるいは各大学大学の自治の問題がございますから、国公立の大学でお考えを願う、その実態に即して大学自身でやってもらうというお考えなのか。私の母校の大学の農学部でも二次募集というのをやっているのですけれども、この場合は成果としてはあるというふうに聞いておるわけであります。ただ、二次募集のときに席を占めて、そして本来行きたかったところを次に受けてかわっていくというケースも、ある程度のパーセンテージがありまして、そのことは別にいたしましても、いわゆる二次募集というものは、今国公立でやられておるのをさらに拡大をするというのが文部省考え方であるのか、あるいはそれぞれの大学の自治に任せるというお考えであるのか。  それから、推薦入学というのが御承知のように行われております。これは私学の場合も行われておりまして、中曽根総理は拓大総長をやっておる御経験もあるものだから、拓大では三割ぐらいは母校出身者の推薦で、それを受けてやっておるというようなことも含めて、推薦入学問題について御答弁されておりました。  こういった推薦入学という問題は、塾だとか進学塾だとかいろいろなことで過熱してきておりますけれども、私自身としては、学校教育の中でじっくり学力を身につけて、学校からもそういう評価を受けるというある程度の者には自分の希望する学校が道をあけておるとすれば、そこに推薦入学で行くということは、当然制度としてあっていいというのが私自身考え方であります。  そういう推薦入学の問題は、いわゆる臨教審議論の中でも、高等学校では普通科ではまだやられているところは数少ないということでもあろうけれども、いわゆる職業教育関係、職業高校の関係では、御承知のように高校教育の活性化といったような立場から、推薦入学というものをある程度入れておる。中教審答申等との関連で言えば、これを普通高校にも伸ばすべきだという意味の発言も出ておりますけれども、そういった推薦入学問題。  それから、昭和四十六年答申というのは、当時朝日とか毎日とか読売とかいろいろな報道が――総理やあれが高い評価を持たれたり、あるいはこれをたたき台にして臨教審でと言っているけれども、あの当時、中教審答申が出た当時の主要なマスコミ報道というものをもう一回見直してごらんになれば、これは厳しい批判が報道として出ておる。政府や財界はこれを一生懸命にやりたいと考えておるかもしらぬけれども、しかし、この答申内容というものは基本的に問題を持っておる。私の手持ちの資料の中にも、当時文部省審議官が関係の数人と座談会をやっておる記事等もありますが、時間の関係上触れませんけれども、いずれにしても共通一次問題、二次募集の問題、推薦入学の問題。  四六答申の中では、学士とか博士等の学位の再検討問題というのが提起されております。私は、この再検討問題をどうするかというよりも、後ほど触れる、外国から日本に来る留学生に聞いてみると、学位を得て、そして自分の母国に帰ったときにそういうタイトルも持っていろいろやっていきたいというのに、日本は学位が取りにくいといったようなことが留学生問題の中で指摘されておる。そういうことも含めて、今の三点お答えを願いたい。
  24. 森喜朗

    森国務大臣 一口に三点とおっしゃいましたが、とても幅広い先生の御意見でございましたので、時間も余りとってはかえって御無礼でありますから、簡単に申し上げまして、もしまた御不審でございましたら、再度お尋ねをいただければと思います。  最初に共通一次の問題でありますが、基本的には、私は臨時教育審議会と入試の改善とは別問題だと考えております。入試の改善は文部省固有のものでありますから、これは臨教審があろうとなかろうと、中教審であろうとなかろうと、文部省として一生懸命に、今の入試に関連する社会のいろいろな現象を考えてまいりましても、また先ほど高村さんがおっしゃったように、一体大学に何をしに来たのだろうか、よくいろいろなアンケートの調査なんかを見ておると、せっかくすばらしい国立大学の技術系の大学に入った学生さんに、何で入ったのだと聞いたのだけれども、目的を持っているのは少なかったという、これはたしか名古屋大学の工学部のアンケートが出ておりました。理由は、親が行けと言ったというのと学校先生が行けと言ったというのが圧倒的に多かったという。  この間、春にちょうど東大と京都大学、国立大学の入学試験の発表があった日に、たまたま夜テレビを見ておりました。そうしたら、東大をおっこちた学生が、残念である、じゃ、あなたは浪人かとアナウンサーが聞いたら、いや、僕は早稲田へ入った、でも来年また東大を目指して、そっちへ入ったらそっちへ移る。これを聞いたときに、私は何とも言えない気持ちがしました。したがって、大学というものは一体何なのかということをやはり御論議いただくということが大事だ、こういうことを私は臨時教育審議会などで十分に高等教育機関というものについて、その役割や存在というものは制度として考えてもらいたいなという気持ちがございます。  文部省といたしましては、今共通一次につきまして二つの点だけは明確に申し上げておかなければなりませんが、大学の入試に関する決定、いわゆる学生を入れるか出すか、進級させるか、これは大学の自治で、大学の固有の権限でございますから、文部省といえどむこのことについてはさわるわけではございません。これが第一。  それから第二の、今の制度としては、共通一次ができました背景は今さら私は申し上げません。ただ、この共通一次が今の社会の子供たちにとってかなり苦痛だと思われるような方向にひとり歩きしていることは事実だと考えます。したがって、やはり共通一次をもとにした改善を考えていくことが大事だ。この二つでございます。  したがって、これは高等学校の校長会などの要望がございましたので、来年はとりあえず一週間ずらすことにいたしました。もう少し延ばしたらどうかなという意見もございますが、私立大学の試験の日との関連もございまして、この程度が限度であろうということでございました。  ほかにつきましては、今国大協のいわゆる入試改善懇談会等で検討いただいておりますが、受験生に迷惑がかかってはいけませんので、来年度の中で共通一次そのものを改めて見直すということは、来年の試験を受ける方は今はもう既にその目標で進められておるわけでありますから、幅広く考えましても、少なくとも高等学校に学ぶ人たちに、今の教科に影響があるようなことであってはならぬので、今いろいろ共通一次の改善をお考えいただくといたしましても、実施段階はもう少し先のことになるのではないか、希望としてもそう私は感じております。  むしろ私は、共通一次の弊害というのは、端的に言えばそれぞれの大学が持っております二次試験との組み合わせのところに問題があるような気がいたしました。当時僕たちとしては――僕たちというのは自由民主党が文教政策の中でこのことを提言をした際は、共通一次は、高等学校で文化活動やクラブ活動なども楽しくやりながら、その中で学問を到達した程度を見てあげるというのが共通一次の問題であって、クラブ活動もやめなさい、何もやめなさい、もう学問だけ、受験教育だけやりなさいということじゃ高校生が余りにもかわいそうじゃないかということから、難問奇問というような問題はできるだけ排さなければならないということから、これがスタートしているわけであります。  したがいまして、二次試験はもう少し大学独自で、面接を中心にするとか、高等学校生活の学業以外の面をできるだけ見てあげる、そういうことを私どもとしては提案もいたしておりましたが、現実の問題としては大学先生方がお考えになることでございますので、我々が考えるような方向にはならなかったことは事実であります。  共通一次のハードルを越え、なおその上にまた大学固有の第二次試験のハードルを越えるということを今の高等学校の生徒がとても苦痛に感じているということでございますので、もし早急にやれるということであれば、この二次試験のところはそれぞれの大学でぜひ考えていただきたいな、こういうふうに文部大臣としては要望いたしておるところでございます。  その他職業教育等を含めての推薦入学、あるいは私はたまたま敗者復活というような言い方をいたしましたが、二次募集の面、こういうことについてはもう少し枠の拡大をお願いいたしております。現状では全体で、いわゆる二次募集が大体一・六%なんです。ですから、せめてこれは一割くらいは二次募集の枠を広げて、いわゆる海外の学生でありますとかあるいは海外からの帰国子女でありますとか、そういうことにもう少し枠を広げていただいたらなという感じも持っております。  それから推薦制度も、国立大学の場合は大体二・五%くらいの数字でございますので、これなどももう少し拡大をするような方向でぜひ国大協で御努力をいただきたいな、こう考えております。したがって、先生が大変御熱心に問題として持っておられますいわゆる商業あるいは工業、農業、こうした高等学校教育を受けた皆さんにも大学進学の機会をできるだけ幅広く受け入れてあげるというようなことは、ぜひ国立大学協会もあるいは私立大学も推薦制度というものをもう少し多面的に活用していただきたいな、こういうふうに私も希望し、そのように政府側としても指導いたしておるところでございます。  学士、博士の再検討というような問題も今御指摘がございましたが、専門的分野になりますので、必要がありましたら政府委員から答弁をさせたいと思います。
  25. 角屋堅次郎

    角屋委員 恐らくこれからも他の委員からの御質問で出ることだと思いますけれども、国際化ということが盛んに言われてまいる。現実に日本が、戦後のお互いの血と汗の結晶によって、敗戦から今日、経済では世界GNPの約一割を占めるというところまで来たわけでありますが、それは日本が国内的にそれだけの経済的な力を持ち、また国際的にもそういう経済活動がある。そこに、経済活動としては経済摩擦を含めた我々が是正していかなければならない問題を含んでおるけれども、国際化時代を迎えておることだけは、これはもう間違いがない。そういう中で、海外子女教育、帰国される子女教育、それから先ほどちょっと触れました日本から外国へ行く留学、それから外国から日本にいらっしゃる外国の留学生といった問題について、私は少しく触れたいと思います。  御承知のように、帰国子女は約一万ということになっております。これはさらにふえる傾向に当然なるわけですし、外に出ておりますいわゆる海外子女の場合は、日本政府としては日本学校や補習授業校、そういうことで海外で働いておる御両親等が子女の教育について御心配ないように、できるだけそれをやっていこう。ただこれは、努力されておりますけれども、さらに強化をしていかなければならぬということでございます。  また、帰ってまいります約一万名というのはもう少しふえると思いますけれども、これの受け入れ態勢。他国に行っておりますから、英語を身につけておる人もあれば、フランス語、ドイツ語を身につけておる人もある。外国におけるそういう経験というものが生かされた形の中で母国の学校に入り、そういう点の経験を伸ばして、将来社会で活躍をしていく、こういう面の受け入れの問題についても文部省としてそれなりな形はやっておられますけれども、やはり外国に行っておる場合の海外子女、日本に帰ってまいります帰国子女の点については、関係者から見れば、安心して外国へ行ける、また、任務を終わって、子供の教育については安心してちゃんとできるという態勢には必ずしもない。国際化時代の中で、これからさらにこういう関係者がふえていくということでありますので、これらはより整備をしていかなければならぬ問題であるというふうに思います。  それから、日本からの留学生問題。これは一万五千二百九名という数字を持っておりますけれども、いずれにしても一万五千台。アメリカが一万台で一番多数であって、次にヨーロッパが三千四百台というふうなことであります。学校教育との関係で言えば、いわゆる現職教員というものが英語や社会やそういういろいろなことを児童生徒に教えることとも関連して、そういう面の海外留学あるいは海外の経験を得てくるという点も積極的に伸ばすべきことだと思います。     〔深谷委員長代理退席、委員長着席〕  それから、外国から来ておる人々の問題でありますが、これは今のところ、台湾を含む中国が大体半数であって、あと韓国やアメリカ、タイ、ブラジル、マレーシア、インドネシア、香港、フィリピンといったようなところが大体日本の留学生として来るわけでありますけれども、この際、ブラジルとかアメリカとか、日本の二世が相当おられるところから日本の留学生として受け入れるといったような問題も含めて――私が手にいたしております資料の一つで「二十一世紀への留学生政策に関する提言」、これは「昭和五十八年八月三十一日 二十一世紀への留学生政策懇談会」という形の資料を手にし、それに目を通しましたが、そこでは、アメリカが三十一万台外国からの留学生を受けておる。あるいはイギリス、西独は五万台の留学生を受けておる。フランスは十一万台の留学生を受けておる。今日本は大体八千台である。そういう状態の中で、せめて二十一世紀の初頭にはフランス並みの十万台、十一万台にいきたいというような提言が出ておるわけです。  そういうふうに受け入れられるような諸条件の整備ができるかどうかは別だけれども、やはり日本の技術が進んでおる、あるいは文化をいろいろ勉強してもらいたいというふうなこと等も含めて、特に中国を含む東南アジア等に目を注ぎながら、海外留学生の受け入れ、そういうことをやることがアジアの一員という立場における長い目で見ての非常に役立つ施策の一つであるというふうに思うわけでありますけれども、そういった点について、森文部大臣としての基本的な考え方についてお伺いしたいと思います。
  26. 森喜朗

    森国務大臣 今お願いをいたしております教育改革、そして臨時教育審議会は、まさにたびたび申し上げておりますように、日本の国を取り巻く国際社会もどんどん変わってきておりまして、今先生からいろいろと数字を挙げての御指摘をいただきましたように、日本への留学生、また日本から外国に学ぼうという希望者、あるいはこれからいよいよ経済的にも国際社会の中で日本の国が果たし得る役割は大きくなってまいりますから当然海外からの帰国子女、とにかく、もう日本教育日本の国のことだけでの教育であってはならぬという時代が来ております。そういう意味で、いろいろな社会の変化、文化の進展という言葉で申し上げましたが、その幾つかの中の大きなファクターとしては、やはり国際性、国際化というものが大きい役割を果たしておると私は思います。そういう意味で、これからの日本教育が、もちろん二十一世紀の日本の国を担う青少年のための教育でありますと同時に、日本教育が国際社会の中にどんな役割を果たしていくか、あるいは国際社会での若き人たちが日本でどういう教育をこれから受けられるか、こういうことも幅広く検討してもらわなきゃならぬ大事な課題だというふうに私自身考えて、そうしたことの御議論をいただきたいという期待を現在のところ持っておるわけでございます。  今御指摘ございました留学生教育あるいは海外の子女教育等につきましては、文部省といたしましても苦しい予算の中でいろいろな施策を講じてまいりました。事細かくここで申し上げることはかえって先生に御無礼だろうと私は思いますので、省かしていただきます。今後ともなお一層こうした先生から御指摘をいただきましたような観点で施策の充実を図るように努力をしてまいりたい、こう考えておるわけでございます。  それから、いわゆる十万人計画というのは、先生の今御指摘いただきました資料の数のとおりでございまして、二十一世紀までに十万人ということで、今の一万人から見ますととてつもないというような感じはいたしますが、それでも年率にしてまいりますと、大体年平均一四%ずつアップしていきますと大体十万になる。これまでも大体一四、五%の割で伸びておりますので、そういう率でいけば必ずしも達成でき得ない目標ではない。むしろ国際社会の中の日本という立場考えたら、こういう目的で進むことがより日本のためにもなるというふうに考えておるところでございますが、どういう受け入れをするかというのは、これは非常に難しい問題がたくさんございます。  高等教育機関そのものの協力ももちろん必要でございますが、例えばいわゆる学生寮、下宿なども、最近は外国の学生が日本に来られて学生生活、いわゆる下宿生活、寮生活、そういう面でかなりいろんな意味での問題も出てきておるというようにも聞いておりますので、そうしたことも含めながら、長期的な見通し、方策につきまして政府では検討会議を設けて、今検討をいたしておるところでございます。
  27. 角屋堅次郎

    角屋委員 いわゆる学校制度の基本になります義務教育、あるいは高等学校教育、こういう問題について少しく触れてお尋ねをいたしたいと思います。  一つは、戦後六・三・三・四制ということで、従来の複線型から単線型に学校制度としては切りかえたわけであります。これはやはり大変な苦労と努力が要ったわけであります。いずれにしても、戦後は敗戦の廃墟の中でありますから、青空教室からバラック教室から、そういうところで戦後の教育が始まりました。そういう中から戦後の平和、民主教育スタートしたわけでありますが、今日この学校の六・三・三・四制の問題について、学校制度としてどうこれからすべきかということを検討したいというのが政府の姿勢だろうと思うのであります。中曽根総理は、総選挙のときにおける七つの教育改革の構想の中の第一点にもそのことを触れておることは、私も承知をいたしております。また、施政方針演説で総理が述べられた教育改革の中にも、それは触れられておるわけであります。  そこで、まず六・三・三・四というこの制度、特に六・三の義務教育段階制度、これは私の一昨日の質問の後他の同僚議員から質問された際に、総理は、義務教育教育基本法に定められた九年、これは守るというふうに明言をされておるわけでありますが、そこの六・三の問題については、六・三という形を基本にするのか、あるいは四十六年答申の中では、先導的試行という中で別の年限の点が御承知のように出ておるわけです。そういうふうな問題について文部省自身としては、私は教育制度としては継続性がなければいかぬし、安定性がなければいかぬという問題で、基本として六・三の問題についてはこれを基本とすべきであるというふうに考えておりますけれども、その点、いかがですか。
  28. 森喜朗

    森国務大臣 私よりも角屋先生の方が御経験が深いわけで、当時の経緯は一番よく御存じだと思いますが、日本の戦後教育の一番すばらしかったことというのは、戦争の大きな犠牲による反省の中で、平和あるいは民主主義、自由、平等というようなことが日本教育や社会の全体の中に行き届いてきたということで、大きな犠牲を伴っただけに、私は日本国民が得た大きな価値だろう、こう思っております。  もう一つは、やはり六年の義務教育を三年延長して九年にしたこと。先般お亡くなりになりました森戸先生が当時文部大臣で、恐らく財政的に一番つらいときに三年間の義務教育を延長するということは、これは本当に日本国民にとって大変なことだったろう、こう思いますが、そのことが今日多くの教育の中にいろんな成果となってあらわれてきた、私はそういうふうに考えておりますので、この義務教育の九年というのは、総理も申し上げたように大事なものとして守っていきたい、私はこういうふうに考えております。  ただ、世の中全体が大きく変わってきております。これも予算委員会で私は答弁してまいりましたが、例えば人生五十年という一つの目安で、ある程度の諸制度考えられておりますが、今日ではほぼ七十年、八十年という時代だというふうに考えてもいい。そういうときに、いわゆる就学する年齢が今のようでいいのかどうかという問題も考えてみなければなりません。昔のようにおじいちゃん、おばあちゃんのいらっしゃったような家族の中で就学前の幼児教育ができた時代と、今日のように核家族になっている時代、そして御婦人の社会に進出する度合いが急テンポで進んでいる中で、就学前教育というのは今のようでいいのかどうかということも検討の課題になるのではないか、そういうことをいろいろ考えて、幅広く、九年の義務教育にそうこだわることなく御議論をしていただいた方がいいという意見を私は持っているわけでございます。  しかし、教育改革を進めるに当たっては、義務教育を含めて教育基本法は改正をしないでやりたいという総理の気持ちもございますし、当然このことも法律にうたって私ども守っていきたい、こう考えております。したがいまして、この九年の中で、例えばよく新聞や報道関係で入ってくる情報では、高等学校を含めて三・三と区切るのはかわいそうじゃないか、あるいは六年のところをもうちょっと短くするとか、いや、もっと延ばしてあげるべきだとか、逆に言えば五・四制でありますとか、いろんな意見がさまざまに出ておりますから、これは私はそれぞれ傾聴に値する意見だろうと思いますし、年限をどういう刻み方をするかということは、それなりの論拠を持ってそれぞれの専門の皆さんが提言をされておることであろうと思いますので、文部省といたしましては、義務教育の九年のこの成果は大きなものでありますし、これは大事に守っていかなければなりませんが、その中の刻み方等については、さまざまな御意見の中でぜひ御議論をいただきたいことであろう、こういうふうに私どもは考えているところであります。
  29. 角屋堅次郎

    角屋委員 六・三・三・四の段階の問題を考える場合に、幼稚園と小学校の低学年のところ、それから小学校の高学年と中学校の接点、あるいは中学校と高等学校との関係の一貫教育をどうするかといったようなことで、就学前の保育所、幼稚園問題は、きょうは厚生大臣をお呼びしていませんから、そういう点では予算委員会において渡部さんが答弁され、あなたが答弁され、どういう方針でおられたか、これは両省にまたがる問題を一元化する、我々は幼保一元化ということを基本的に考えておりまして、そういう方向の中で、特に就学前の幼児の四、五歳という年齢のところの入園が、もっときちっと希望者が全員入園できるような態勢をとる。  大臣も御承知のように、今日幼稚園、それにその機能と若干関連をしております保育所も含めて、五歳児は九五%入園しておるという状態であります。したがって、就学前のところの幼保一元化も含め、今言ったような点については公的な保育所等の整備等も含めてきちっとやっていくことが、教育基本法十条との関連でも文部省として配慮すべきことだと思います。  問題は、今の中学校義務教育の完結の教育としてとらえるのか。もう高等学校自身が、普通高校に行くか職業高校に行くか、あるいは総合的な職業的な科目も入れた普通高校に行くかという形になって、その進学率は九五%という段階に来ておるわけですから、我々は、従来からの教育方針として、いわゆる地域総合高等学校という形で、小学校卒業の者を中学、高等学校というのを総合的にとらまえて、そういう形で教育を落ちついてやっていく。そして、そういう場合の試験等については、今日の進学の状況から見ても、いわゆる偏差値教育の中で、昼間は学校、夜は進学塾といったような関係で落ちついて親との触れ合いもできない、友達とのつき合いも十分できない。  この間、大臣が言われた東大のテレビのときも、私、見ておりましたけれども、東大に通ったある学生は、家と駅と学校との間を行っておるだけであって、何が隣にあるのかも知らずにしゃにむにとにかく東大を目指してやってきて通ってきた、通ってきたら、一体東大とは何であったのかというようなことも含めて、今五月病とか言われるようなことに襲われている。そしてそのテレビで、統計的に正確であるかどうかは別として、学生が一番目指しておるはずの東大で、三分の一近くの者が留年があるという状態が出ておる。病める東大の一面もあるということが出ておる。  そういうふうな関係等も含めて考えてまいりますと、中等教育段階を今まであった制度を包括した形で、そこを人間的な面の教育大臣が言われますように、我々の時代は勉強もしたけれども運動もやった、あるいは友達と一緒にどこかへ行こうということで旅行もした。さっきの東大の受験生は極端でしょうけれども、とにかく全体としては受験戦争、そして受験産業の異常なにぎわい。過般も大阪での進学校の過熱性、灘中に入っていくときの塾が、個人塾から進学塾から出ておって、私もびっくりしたのですけれども、あれは教育ではない。  そういった問題を含めて考えてまいりますと、六・三・三の三・三のところ、我々は地域総合高等学校という構想で、試験は基本的に言えばなくした中で落ちついた教育をやろうということを考えておるわけですけれども、これから文部省として、大臣として、高校については義務制に前進させるというのが私どもの考え方であり、党関係の資料では義務制と言っておりますし、あるいは義務化ということから段階的に入るということを言っております。四十六年の中教審答申の中では、高校全入問題についても触れておることは御承知のとおりであります。その趣旨を生かして実現を図っていくことが先決であるという結びにしておりますけれども、こういった中学、高等学校を含めた三・三の中等教育のところ、それは基本的にはどういうお考えでしょうか。
  30. 森喜朗

    森国務大臣 今度の臨時教育審議会でさまざまな御議論をいただけるものであろうという期待をいたしております中の最大のものは、大学、高等教育機関のあり方だろうと思うのです。さっき高村先生自身お話ししておられましたように、大学というのは一体何のために学ぶのだろうかというようなことも含めて、そして世の中すべて大学を目指す、その大学のために、高等学校あるいはそれに連なってまいります最初段階になります中学や小学校までの教育がいろいろな形で弊害を持ってしまっておる。そういう意味で私は、高等教育機関というもののあり方等を含めて、ぜひ御議論をいただきたいと願っておるところでございます。  しかし、それに連なってまいります高等学校教育というのも、年齢がちょうど十五から十八という、まさに人間の完成をさせていく大事な青春期、この時期がまさに灰色の状態になってしまっている。その灰色になってしまうものを救うために、逆に言えば今先生がおっしゃったように、高等学校の進学率が九五%もいっている、したがって、入らなかった人たちが暗い人生を、何かそこでレッテルを張られてしまう、だから、これを全部、高等学校まで含めて義務化したらどうかという御意見も、一つの御意見であろうというふうに私はわかりますが、しかし、果たして義務教育としてそこまで全部進めることがいいのかどうか。  たまたま先生が言葉の例えとしておっしゃったと思いますが、仮に高等学校も義務化ということになれば、義務教育の年限が延長されるということになってきて、当然教育基本法に触れてくるわけでございます。しかし、それは言葉の例えであって、例えば全入というやり方もあるではないかということになりますが、果たして子供たちはそこまで行ってそこまでの学問を学ばなければならぬのかどうかということも、基本的に御専門の皆さんで考えていただく必要がある、諸外国の義務教育学校の年限もある程度対比をしてみる必要がある、こういうふうに思っているわけであります。  今先生から具体的な御提言がございました中高一貫教育というものの観点からのいわゆる地域総合高校構想、私は一つ考え方であろう、これは十分勉強もしてみなければならぬと思っております。現時点の問題から考えますと、中等教育の多様化、弾力化につきましては、先ほど申し上げました臨時教育審議会で十分に議論をしていただきたいと考えておりますが、今地域総合高校という形で各地域に限定して置いてまいりますと、財政的な面からいっても大変な話にもなってまいりますし、そういう高等学校をつくりますと、子供たちがどの方向に進んでいくのか、初めからその学校中学と高等学校を連結してしまってそこにしか行けないということになってくると、もっと自分たちの別の希望がやはりあるだろう。その子をそこの中で、狭いところに入れてしまって果たしていいのだろうか。いや、その高校の中にいろいろなセクションを設ければいいじゃないかということになりますと、今度はこれは先生も用意しなければならぬ。いろいろな意味でそれだけの財政的負担が物すごく伴う。逆に言えば、要らなくなった場合どうするのか。せっかくそういうものを用意をしても、その学問に進む人が少なかった場合には一体どうなってくるのかというようなことも出てまいりますので、一つの御意見としては傾聴に値する御意見ではございますが、今文部省としてはそういう方向はとれない。  むしろ、先ほどちょっと中教審提言お話もございましたが、できるだけ高等学校教育の諸条件を整備をしなさいというのは、提言の中の状況も整えるようにしなさいということも含まれているわけでございますので、根本的には私は、最初に申し上げたように、大学と高等学校のあり方、そしてその年限、そういうものをこの臨時教育審議会で社会全体との機能の関係から考えて再度検討をしてみるということが大事ではないか、先生お話お話として承りながら、そんなことを私としては申し上げておきたい、こう思います。
  31. 角屋堅次郎

    角屋委員 本来、義務教育あるいは高等学校教育の点では、今日起こっておる登校拒否やあるいは校内暴力や家庭内暴力、あるいはいろいろな教育の荒廃と言われる、広く言えば教育だけれども、我々が戦前教育を受ける時代に余り社会問題にならなかったようなそういう種々さまざまの問題、少年非行の問題も含めて、かつては大学紛争というのが大きく国民の注目を浴びたけれども、大学はこのごろはそういう激しい行動としての問題が報道されるようなことは少なくなって、非行その他校内暴力とか家庭内暴力という問題が高等学校から中学へ、まかり間違えば小学校というようなところまで伸びてきておる。  そういう問題について、私は例えば「親と子の教育相談室から」というのが毎日新聞から出されておる、こういうものの中身を見たり、大臣承知のように、今度の芥川賞の女性作家の受賞作というのは、高等学校の家庭環境のいい女性生徒、それから酒乱の母親を持つ別のちょっと崩れた方の女性生徒というものをテーマにしたそういう作品が芥川賞の受賞作として受けた。こういうところにもやはり今日の学校教育の憂慮しなければならぬいろいろな諸問題があろうと私は思うのです。  ただ、そういう中で高等学校の中退が年間十万人になってきておる。これは退学させられた者がおるかわからぬ、経済事情の者もおるかわからぬ、あるいは学校のあり方に反発をしてみずからやめていくという者もおるだろう、あるいは本来のいわゆる偏差値教育の選別の中で行くべき希望のないところへ行って、行ってみて幻滅を感じ、それでやめていくという人たちもおるだろうと思う。そういう中で高校の中退というのは年間十万。そして、日本の高校教育というのは、元来出ていく人もおるけれども、いらっしゃいという受け入れ態勢をやらない。一たん出たらドロップアウトである、こういうことでございますから、そういう高校中退の問題をどう考えるのか。  あるいはこれと関連をして、大検の試験。いわゆる高等学校を卒業しない、そういう人たちが大学入試のための資格を取る、一般に言っておる大検という問題がある。これはこのごろ受験者が非常に多くなっておる。その中に高等学校の中退者が相当おる。そして、受験産業というのは、私は言葉としても嫌いたし、そういう感覚で塾や進学塾があってはならないと思うのですけれども、いわゆる高校中退者で大検の資格を取りたい者に対して、昨年あたりからそれを受け入れる専門コースというのができておる。  そうなってくると、受験産業との関係で言えば、一体学校とは何ぞや、そういうことも問われておる感じが率直に見てしなくもない。特にそういう点で大検の変質。これは経済事情で高校を途中でやめた、そういう人が苦労をしながら自学自習で、そしてチャンスをもらう、条件が整ったので行って資格を取って大学へ入る。昔で言う苦学生、これは当然我々も賛成する趣旨でスタートしたのですけれども、今言った変質が起こっておる。そういうものの専門コースの壁もできてきておるといったことも踏まえて、森文部大臣としてどうとらまえ、どう考えていかれるのか、お伺いしたいと思います。
  32. 森喜朗

    森国務大臣 大検コースは、私も最近の新聞等で承知をいたしております。先生が御指摘でございましたように、家庭の事情等によって高等学校に行けなかったりあるいはやめたり、そういう方々が事情に応じて大学に進みたい、そういう人たちに受験の資格を与えるという制度でございますから、それなりにそのこと自体は大変結構なことだと私は考えております。また、そういう高等学校を完全に終えることができなかった青年に対して希望を与える方法として、これは大事なことだと私は思っております。  ただ、最近、高等学校にいながら、いわゆる受験産業の一環のような形で、予備校の中にむしろこのことを積極的にPRをして、わかりやすい言葉で言えば、高等学校に行って学ぶよりは大検コースの予備校へ来た方が大学に入れますよということなんであって、これは非常に悲しい現象だというふうに言わざるを得ないと思います。  ただ、高等学校教育は、さっきもちょっと触れましたように、十五から十八歳という人間の形成の中で最も大事な年齢でありまして、高等学校は学問だけ学ぶところではないはず。知徳体という言葉は僕は余り好きでないのです。徳体知ぐらいに言いたいのでありますが、まさに知徳体の三つがバランスのとれたそういう人間形成を目指す大事な教育課程であるというふうに考えておりますだけに、この子供が高等学校教育をないがしろにして、そして大検コースのみを頼って将来大学に入る、恐らくその大学に入ることは可能であったとしても、その子の人生にとって決していい人間形成の要素はできないだろうと思って、私はそういう方々にとっては悲しいことだなというふうに申し上げざるを得ないわけです。しかし、現実には高等学校を無視してそちらを好むということがあるということ自体は、高等学校教育関係者文部省も含めてこれは反省もしなければならぬことだというふうに思っております。  しかし、大学に進むテクニックといいましょうか、受験のためだけの教育をしてほしいというような考え方をもし高等学校の生徒が持っておるとするならば、これは私は、高等学校制度全体を変えてみなければならぬということを先ほどちょっと申し上げた。それは原因は、直接には大学というものがあって、大学は試験科目によって高等学校教育の中身まで引っ張っていくというようなことがあるのなら、これはどちらが先でどちらが後かということは非常に難しい議論だと私は思いますけれども、やはり大学全体も考えなければならぬし、簡単に言えば、さっきも先生から共通一次のときにも御質問があった際申し上げたように、学問だけで見る評価ではなくて、高等学校の中でいわゆる徳あるいは体、そういう面でどのように学んだのか、こういうことを問いかける、あるいはこの辺をよく評価する、そういう選抜制度に高等教育機関、つまり大学先生方自体がそのことにもう少しウエートをかけて問いかけてくださったらこうした問題はできないんじゃないだろうかというふうに思うだけに、大学のあり方、大学のいわゆる学修制度そのものについてもこの臨時教育審議会でよくお考えをいただく。  なぜ大学がそういうふうになるかと言えば、社会全体がもしそういうことを求めておるということであるとするならば、やはり文部省だけで議論ができる問題ではない、社会全体で考えていかなければならぬ問題である、こういうふうに考えますので、ここのところもとても大事な問題として、私は新たなる臨時教育審議会でぜひ御検討いただきたいところだというふうに考えております。  くどいようでございますが、大検コースを希望するようなそういう高等学校の生徒がもし現実におられるとするならば、これは文部省も含めて、教育関係者として十分に反省しなければならぬ問題だと受けとめております。
  33. 角屋堅次郎

    角屋委員 御相談の時間が近づいてまいりましたので、幾つかの問題をまだ予定しておりますが、この際、私学振興の問題についてお伺いをいたしたいと思います。  森文部大臣自身は早稲田でありますから、戦後教育の中で私学を出られた、私は国立の方の関係ということに戦前教育としてはなるわけですけれども、それは別として、大臣も十分御承知のように、昭和五十七年五月一日現在の私立学校学校教育全体の中でのウエートを見てみますと、大学等の学生の七六・五%、約百六十八万というのが私学である、高等学校生徒の場合で言えば二七・八%で約百二十八万でありますけれども、先ほどちょっと触れました幼稚園児というところへまいりますと七四・一%、約百六十五万、これは昭和五十七年の数字でありますから若干の変動はありますけれども、いずれにしても、我が国教育の中において幼稚園から大学に至るまで、私学が果たしておる役割が極めて大きいことは厳然たる事実であります。  そこで、新年度予算の中では、私が承知しておるところでは、私学助成を一二%くらい削ったのではないかと思うのですけれども、御承知のように私学振興財団というのがございまして、文部省はこれができるときには、助成すべき対象について二分の一、ここへこれから五年の間に持っていこうということで言っておられた。現実は、今大学や高等学校では達成率はどの程度の段階にあるのか、あるいはそういった問題についてこれからきちっとしていくということがいつ可能になるのか。  それから、幼稚園の問題で考えてまいりますと、このごろ幼児が減ってまいりまして、これで経営が大変苦しい、あるいは幼稚園児を確保するのに難しいという私立幼稚園の悩みの問題がございます。  また、私立高等学校で過疎地にあるようなところでは、生徒を確保するのにも大変難しくなっておるというふうなことで、ここでは過疎地帯の私立高校等の場合は過疎特別助成というのがプラスされておる点が、今度の予算のことや来年度の予算を考えると、だんだんと切り捨てられる危険性が出てくるのじゃないか。  こういったような問題等も含めて、私学振興問題、最初高村先生のときに触れました、これから十八歳のピーク時を前提にして八万六千名から大学進学の受け入れ態勢をつくらなければならぬ。その場合に、今日国公立が大体二割ちょっと、それから先ほども言ったように私立大学関係で大体八割近く、こういう比率をそのまま引き伸ばして私立に八万六千名の大半を転嫁して、国公立関係でちゃんとした態勢をみずからもつくりながら私学関係大学関係者にも協力を求めるという姿勢でなくて、これで糊塗しようとしているのじゃないか。  これからの問題であって、これから検討されることですけれども、そういった問題も含めて、私学振興という問題について、文部省として抱えておる諸問題をきちっと見ながら、これからどういうふうにしていこうとするのか、この点について大臣からの御答弁を得たいと思うのです。
  34. 森喜朗

    森国務大臣 教育全体の中での私立学校の役割は、今先生から御指摘のとおり大変大事なものだと考えております。今日の日本教育の成果はまさに、大学あるいは幼稚園の数字だけではなくて、私立学校に負うところが極めて大きいわけでございます。  当時、私立学校振興助成法を私ども自由民主党で議員立法で提案いたしましたのが今日の骨子でございまして、この法案を作成し、そして国会で成立をいただきますまでには私も大変苦労した一人でございます。そのときに、こんなことを大臣立場で言うべきじゃありませんが、やはり日本の国は官学優先だなとつくづく感じました。もう今ではそんな方は文部省に一人もおられませんが、当時は、大蔵省だけじゃなくて文部省の高官の方でも、国が私学に金を出すのを法律でやることがいいのかなと言われた方も現実におられたのは事実でありまして、こういう中で、私ども党の立場制度的に私学助成をするということには大変な苦労をいたしました。  その中で、当初は二分の一ときちっと明記をいたしたわけでありますが、もちろんこれは党内でのいろいろな議論を踏まえまして、また関係の財政当局、文部省、自治省等も含めて検討いたしました結果、二分の一をめどとするということになったのは先生承知のとおりであります。この点については社会党さんからも当時は随分おしかりをいただいたこともございまして、今の官房長官の藤波さんがちょうどその責任をしておりましたものですから、全部脱いでしまって真っ裸になった、それでも私学に国できちっと制度として予算をつけることは大事なことなんだと言った言葉を私、今でも覚えておるわけでございます。その精神はこれからも大事にしていかなければならぬと考えております。  国家の政策の進め方も当然財政があってくるわけでございますので、昨年は全体的にシーリングの枠がはめられましたので、私学もこれと同じような形に入れられたわけでありまして、現実的には経常費の二一・五%になっております。ただ、御指摘がございました過疎なども含めた高等学校以下につきましては、これは地域との密着性もございますし、しかも設置しております責任は県や市町村にあるわけでございますので、ここにはできるだけシーリングで御苦労をかけないようにということで交付税の方で一層の配慮をしていただきまして、結果的に数字から見ますと三〇・一%の国の補助ということになっておりますので、今日までの私学の補助の体制は何とかまだ残されていると考えているわけでございます。  したがいまして、財政全体を見ましてもこれから大変難しいことでございますし、まして今先生が大変大事なところを御指摘いただきました六十七年度を控えて、いわゆる十八歳人口二百五万人時代、これが果たして全部今のような数字で大学に進むかどうかということはまだわからないことでありますが、経済状態もこういう形で推移すると考えてのいわゆる試みの一つの数字をはじき出した結果が、大体二百五万が高等教育機関に進むだろうという想定でいろいろ設置審で御議論いただいて、先般その考え方も出しているわけです。  これはいろいろな考え方があると思いますが、それを全部私学におぶさってしまうのはどうなんだということになりますが、逆に言えば、これを国公立て受けて、そのことによる人員をまた大きくこれは国の財政として公務員を抱えていくことになる、あるいは設備を膨らましていくことになる。逆にその後にすぐ今度は百五十万近くまで十八歳人口が激減をする、そのときにそうした設備や人員的なものは一体どうするのかという問題になってくる。いや、だからといって私学だからそれをやればいいじゃないかというものではないとは思いますが、私学にとってやはり柔軟な対応ができるということもある程度、国の財政全体から考えても、この方向が、やはり本来教育は私学でやるということが、そういう意味では義務教育でない限りはいいのではないかという基本的な考え方もございます。そういう意味で、私どもはこれから目標五〇%。  私学の助成については、いろいろな問題がやはり現実の問題としては社会に起きておるわけでございまして、国民全体から見ると、私学に国の補助をしろという合意はなかなか得にくい面も今日やはりあるわけでありまして、ただ一部の不祥事が起きたということだけで私学を全体的に見るということは全く危険な見方でございますけれども、やはり私学の助成のあり方については少し考えてみる必要があるのではないか、こういうことで私学の皆さんにもお考えをいただいておりますし、文部省としても私学助成のあり方はもう一度検討してみる必要があるというふうに思っておりますが、全体的な問題として、これは私が今ここで申し上げることは文部省当局もちょっと面食らうかもしれませんが、臨時教育審議会が今後の日本教育のあり方、諸制度全体を幅広く検討すれば、私学問題ということもやはり触れざるを得ないだろうと私は思います。  そういう中で、よく議論に出てくることでありますが、私学はやはり私学独自でやるべきであって、国がそういうものに助成として経費の面でかかわりを持つべきではないという意見も結構出ております。あるいはそういう論調もございます。しかし、やはり先ほどから先生お話しのとおり、私もそういう面では同じ考えを持っておりますが、日本教育にこれだけの役割を果たしてきた私学を、日本の国の今日の状態から見て、全く国がかかわりを持たないで、金は出さないでおけという議論は、私は、これは私自身も認めるわけにはいきません。  そういうことも含めながら、私学助成全体、私学の制度も、先ほどの高等教育機関制度のあり方ということも含めながら、やはりこういうことも臨時教育審議会の中で議論になってくるのではないかなというふうな想定も私はいたしておるところでございまして、今後とも、そういう面も含めながら、私学の充実を私どもは一層強力に進めてまいりたい、こういうふうに先生に申し上げておきたいと思います。
  35. 角屋堅次郎

    角屋委員 時間が参りましたので、これで私の質問を終わらせていただきたいと思いますが、片岡委員長を初め理事の皆様には、本日特別に中央教育審議会会長高村象先生の参考人としての招致につきまして御配慮をいただきましたことを、質問者の私として心からお礼を申し上げます。  これからの教育改革というのは、一昨日の質問、本日の質問を通じて、政治家としての私の教育改革に対する構え方、考え方、そういうものを党の方針も十分踏まえながらしてまいったつもりでございます。同僚議員の熱心な議論が続けられておりますので、本法案審議については十分な議論を尽くしていくという立場で、私も内閣会長でございますので、党の立場ではやっていきたいと思っております。  本日の質問はこれで終わらしていただきます。ありがとうございました。
  36. 片岡清一

    片岡委員長 この際、暫時休憩いたします。     午後零時三十二分休憩      ――――◇―――――     午後一時十九分開議
  37. 片岡清一

    片岡委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  質疑を続行いたします。鈴切康雄君。
  38. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 きょうは文部大臣に、臨時教育審議会の設置法案について具体的にお聞きをしたいと思うわけであります。  この臨時教育審議会というのは要は器でありまして、中身についてはいろいろ専門家の文教委員先生方もおられますから、中身というよりもこの器がより立派な器であるようにという願いを込めて御質問をするわけでございます。さきに中曽根総理大臣がこの場所に来られてスタートを切られたわけでございますので、そういうことから、なるべく重複を避けながら御質問を申し上げたいと思っております。  私は、今日ほど教育改革の必要性が叫ばれているときはない、そのように思っております。昭和二十二年に教育基本法が制定されて既に三十七年になりますが、教育が戦後果たした役割というものを評価するについては決してやぶさかなものではございません。しかしその反面、ひずみの累積というものは教育に大変な荒廃を来しているということもまた事実であります。  近年、受験戦争を初めとして青少年の非行問題あるいは校内暴力あるいは家庭内暴力、登校拒否あるいはまた子供の仲間の弱い者いじめ等々の問題、あるいは大学を出たからといっても書けない学生、そしてまた英語もしゃべれない、そういうひずみが起きております。こういう問題等が社会問題となり、今ほど教育に対する国民の関心が非常に高くなっているときはないと私は思っております。  しかし、これらの問題について実際に政府の対応が今日まで非常におくれていたということによって、教育政策に対する国民の不信感というものもまたぬぐい切れないものがあろうかと思います。こういう状況の中にあって、政府は今回、総理大臣諮問機関として総理府に臨時教育審議会を設置することを決められまして教育改革を行おうとされております。  そこで、なぜ今臨時教育審議会総理諮問機関として設置して教育改革を行おうとしているのか、政府あるいはまた文部大臣の認識についてお伺いをいたします。
  39. 森喜朗

    森国務大臣 今鈴切さんの御質問の中でお話をちょうだいいたしましたように、今ほど国民がいろんな意味教育というものに関心を持っておられるときはないと思います。私ども自由民主党を初めといたしまして各政党も、政策の中にもあるいは選挙の際にも、教育問題というのは大きく政策の中心課題として据えておられるときでもございます。御指摘のように日本教育は量的に大変大きく拡大をいたしまして、だれでも、いつでも、どこででも学べるという体制はかなり充実をしておる、私はこう思います。一方、学問のレベルといいましょうか水準も非常にハイレベルになっておりまして、いわゆるバイオサイエンスを初めとして宇宙工学、いろんな意味日本の学問というのはすべての専門においてかなり世界的に高い水準を持っておる。諸外国のそれぞれの政治家あるいはまた教育の任にある方々日本教育に大変大きく注目をいたしておるところでありまして、この春私が大臣に就任をいたしましてからも、ドイツやイタリア、フランスあるいは中国、アメリカの教育担当大臣を初めとして政府高官がお見えになりますときには、必ず日本教育に大変大きな関心と注目を持っておられるわけであります。  そういうふうに量的にも膨れ上がっておりますし拡大もいたしておりますし水準も上がっておりますが、社会全体に、どうも教育が原因ではないだろうかというような社会の荒廃現象というのは今先生が挙げられた例のとおりでありまして、そうした状況があるということは、社会の進展あるいは文化の発達、そうしたことに制度がなかなか柔軟に対応していけなくなってきているのではないか。こういう一つ考え方から、先般総理からここで申し上げましたように、二十一世紀に向けて、二十一世紀を担う青少年、日本の国のみならず国際社会の中で活躍をしてくれるであろう日本の子供たちのために教育制度を一遍根本的に考え直してみる、そういう子供たちのためにどのような教育制度がいいのか、そしてまた、単に文部省のみならず行政の各部にみんな関係のあることでございますので、そういう面から見まして政府全体の問題としてこれに取り組むべきであろう、こういう考え方総理諮問機関として臨時教育審議会を設置して、そしてこの審議委員皆様方で、鈴切さんが先ほどおっしゃったとおりでありましてまさに入れ物といいましょうか、まず審議会を皆様に御理解をいただいてつくらしていただいて、その中でぜひ幅広く多くの議論をしていただきたい、こんなふうに考えてこの法案の成立をお願いいたしておるところでございます。
  40. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 昭和二十二年に教育基本法が制定されました。それは憲法を基本とするということは先ほど文部大臣が言われたとおりでありますが、そういう意味からいいますと教育基本法というものはやはり教育の原点でなくてはならないと思いますが、今回設置しようとしておりますところの臨時教育審議会はその教育基本法をどのように位置づけられようとしておられましょうか。
  41. 森喜朗

    森国務大臣 先ほども申し上げましたが、政府は基本法の精神にのっとって社会及び文化の発展に対応する教育の実現を期して各般の施策につきまして必要な改革を図っていきたい、そのようなことに資するための措置である、このように御理解をいただきたいと思うわけでございます。具体的な審議事項等につきましては審議会自体でお決めをいただくわけでございますが、審議会が調査、審議する場合には、この設置目的に従って行うという意味で基本法の精神にのっとって行うということを期待をいたしておるわけでございます。
  42. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 そうなりますと、臨時教育審議会設置法の中で第一条の「目的及び設置」という問題は、大変に重要な問題になってくるわけでございます。その臨時教育審議会の設置法の第一条の「目的及び設置」には、「社会の変化及び文化の発展に対応する教育の実現の緊要性にかんがみここうあるわけでありますが、この文言は、明治以来いわゆる欧米先進国に追いつけあるいは追い越せとしてきた我が国の近代化路線の弊害と言われている産業社会の要請する人をつくることになってしまうのじゃないかという心配を私はいたします。だからこそ生じた受験体制あるいは画一教育等の弊害を是正しなければならないわけでありまして、二十一世紀を展望した教育改革を行おうとする臨教審の本来の趣旨からいうならば、文化の発展はいいのですが、社会の変化に対応する教育の実現ということになりますと私は大変問題があるのじゃないかと思うのです。その点はどうなんでしょうか。
  43. 森喜朗

    森国務大臣 条文を法制局と関係省庁と検討いたしました政府委員から、もし詳細でございましたら御説明させたいと思いますが、社会の変化というのは、鈴切先生にこんなことを申し上げることはかえって失礼かと思いますが、今先生から御指摘ありましたように、明治以来日本教育はまさに近代日本への大きな飛躍の原動力になった。追いつけ追い越せ型、欧米先進国に負けないような国にしなければならぬという意味では大変大きな役割を果たしてきた。戦後教育はさらに義務教育年限を延長して、そして先ほどもちょっと角屋先生のとき申し上げましたが、平和、民主主義、平等というような基本理念を大事にしながら世界に仲間入りができた。そして人を生かす教育、そして人の和を求めて、そして今日の日本の国の繁栄に大きな原動力となったものだと考えるのです。そういう日本学校教育制度はすばらしい制度であったと思うし、そして日本学術はどんどん進みましたし、また量的にも、どのような方々も、どのような立場でも勉強できるように受け皿もきちっとそろえてきたわけです。ただ問題は、社会の変化というのが、例えば高学歴化社会になってきました。昔は学校先生が大変高い水準の勉強をしておられましたけれども、今やお父さん、お母さんも皆大学を出ておられるというケースが非常に多い。あるいは現実には高齢化社会というのが出てまいりました。あるいは先ほどもちょっと議論になりましたが、家庭の中におきましては核家族化時代になりまして、就学前はおじいちゃん、おばあちゃんに人間の生活にとって大事な、学問と言えますかどうかわかりませんが人間として大事なところをある程度教えてもらえましたが、今ではほとんどそういうことはなくなってまいりました。あるいはこれも先ほどの議論に出ましたが、国際的に大変大きく日本の役割が広がってまいりました。そういうふうに社会全体が大きく変化をしたという意味でございます。  そういう変化に対応できる柔軟な制度でないと、どうもそういうところからついつい、今先生から御指摘ありましたように、単に学歴偏重、学問偏重、そしてもう少し具体的に先生から御指摘いただきましたように、受験本位というようなことになってまいりますと、結果的に子供たちが受験のためへの学問ということになってくる。そして、今申し上げたような社会の変化がどんどん進んでいるのに、その社会の変化に対応できないような人間像ができ上がってくる。こういうことに私たちは思いをいたして、そして、もっと多面的な人間の価値を求められ得るように、社会全体がそういうふうにしてあげなければ、子供たちはやはり特定の乗り物に乗ろうということにだけ急いでくるわけでございますので、そういう意味で社会の変化に対応してというふうに申し上げているわけでございます。
  44. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 社会の変化ということなんですけれども、社会の変化というものについては過去、現在、未来これからという三つに分かれると実は思います。過去においては、敗戦後、先進諸国に追いつけ追い越せという社会の変化がありました。そしてまた現在は、先進国の仲間入りをいたしました。これから後の二十一世紀にはもっともっと違う社会ができるでしょう。その中にあって、社会の変化に、例えば経済至上主義という問題がある、あるいはまた経済界と企業に役立つ人を求めておったということも言えます。となりますと、学歴偏重とか、あるいはまた私立よりも国公立というような、そういうものが求められてしまってきている。そのために受験戦争が激化し、あるいはまた数字によってのみ判断されるという悪弊が実は出たわけであります。これもやはり社会の変化に、むしろ迎合したという言葉の方が正しいのじゃないか。教育本来の人間形成というものを忘れてしまって、むしろ社会の変化に迎合してしまったためにこういうひずみが出てきたということを考えたときに、これからもまた再び社会の変化に迎合するような教育ということがもし目的の中にあるとするならば、それは大変に大きな問題を起こすのじゃないだろうかと私は思うのです。  現在までに、社会の変化に対応してきたことによって何が起こったか。人間疎外という問題が起こりました。あるいは人格形成というよりも学歴偏重という問題が起こりました。社会の全体観というよりも自己中心という問題にもなりました。思いやりということが失われてしまった。人間形成というものが成り立たない。そういう問題の中に埋没してしまったというよりも、そういう風潮の中に巻き込まれてしまったわけです。となりますと、これからどういうふうな社会になるかと言いますと、あなたがおっしゃったとおりに、恐らく先進諸国におきますところの経済の競争というものはますます激化するでありましょう、あるいはまたコンピューター時代というものも出てくるでしょう、あるいはまた企業間の熾烈な競争はこれからも続くでしょう、あるいは科学の発達ということになってくるでしょうし、あるいは省力化という問題が起こってくる。となると、社会の変化ということだけに頭がいってしまう、あるいはまた、この設置法の目的ということになりますと、これは一歩間違えばまた再び現在の二の舞を踏むというような状況になってしまう。  だから、社会の変化に対応してということを真っ先にここに挙げられたわけですけれども、先ほど図らずも文部大臣教育基本法の精神にのっとりということを先におっしゃったでしょう。私はそれは正しいと思うのです。社会の変化とかあるいは文化、それは文化の発展も大切でしょう、しかし、教育基本法というのは憲法の基本を受けてつくられたものであるから、それにやはりのっとらなくちゃならない。社会がこれから変わっていく、そういうことに言うならば教育が迎合する、あるいはそれに押し流されてしまうということになると、そこに大きな問題が出てくるのじゃないかということで、私は、この「目的及び設置」がこういう形で出てきたということについては非常に不満なんです。むしろ、これを一歩間違えれば大変に大きな問題になってくるだろう。こういう人間尊重、生命尊厳という、やはりどうしても教育の中で教えなければならない、あるいは教育でなければそういうことがはぐくまれないという、その問題よりも、むしろ社会の変化にというような行き方については、私はちょっと、この目的を一歩間違えればまた大変なことになるだろうと思うのですが、その点いかがでしょう。
  45. 森喜朗

    森国務大臣 私は、鈴切さんの今お話しになっておりますこと、基本的には軌を同じにしていると思うのです。社会がいろいろな形で変化をしてくるであろう。今先生から御指摘がありましたように、私どもも、例えば高齢化社会になるでしょう、あるいは国際化社会になるでしょう、またコンピューター等を含めたいわゆる新しい科学技術の時代に入るでしょう、社会や文化というのはどんどん変わってくる。それに対して教育も多様になっていかなきゃならない、そういう意味で申し上げているわけで、今先生がいままでの面を御指摘されましたが、社会の変化にむしろ迎合をして、そして同じようなことをみんながやり過ぎてきた、その中で人間教育という大事なものが、本来は教育は知徳体、こういう言葉で言いあらわされるように、教育基本法に書いてありますように人間形成を目指すものでなければならぬのに、学術が優先し学問が優先して、そして大学に進学するということがあたかも教育の至上命令のようになってしまった。そこがいわゆる社会に迎合したことだ、先生はこういう御指摘でございましょう。  私どももそういう意味で、そういう一つの社会の方向に教育が全部いってしまうということをむしろ恐れるわけですから、もっと柔軟な多様的な学問、教育の体制をつくるべきであろう。そういう意味で、社会の変化がいろいろあると思いますから、そのいろいろな多様な社会の変化に応じて教育も多様な方向を目指さなきゃならぬだろう。そういうことをぜひ識者の皆さんで御議論をいただいて、どういう多様な教育制度を後世の青少年に残しておくことが大事なのか、こういうふうに私どもは考えて社会の変化に対応というふうに申し上げているわけでございます。
  46. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 私は文部大臣の言っておられることはわからないわけではないのですね。だから、これは要するに二面性があるということ。今までの弊害というのは私が言ったその弊害から起こってきている問題だから、そういうことから考えますと、ただこれを書いた場合に二面性がある、その二面性のとり方によっては大変に問題を起こすだろう、私はそれを申し上げておかなきゃならないということなんですね。  私は、やはり教育基本法、その教育基本法の「教育の目的」、これは「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」これは短いのですけれども、この中に含まれたような人間形成を教育が目指しておったならば、私は今のような弊害は起こらなかったろう、こう思うのですよ。だからこそ、今の社会の変化に対応するという問題については一つ問題点として、ここに目的としている以上、私は、やはり教育基本法の精神にのっとりとか教育基本法に基づきというふうにまず書かれるべきではなかったかと申し上げたいわけでございます。  そこで、第一条に「教育基本法の精神にのっとり、」というふうにありますけれども、当初、教育基本法の精神に基づきというふうに、ほとんどそういう形で文部省の方も考えておられたわけでありますけれども、のっとりと基づきではちょっと意味合いが違うだろう。それじゃ、のっとりと基づきというものについてどういうふうにこれを解釈されているのでしょうか。
  47. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 「教育基本法の精神にのっとり、」ということは、政府は今回の教育改革を行うに当たりまして教育基本法の精神に従って行うという意味でございます。したがいまして、先ほど大臣答弁されましたように、審議会自身も調査審議に当たって教育基本法の精神にのっとって審議していただくということが期待をされているわけでございます。  先生から教育基本法の精神に基づきとしてはどうかというお話でございますが、法の精神に基づきというふうに規定する場合には、主として根拠ないし原因としてその法の精神に従うという場合に用いられるわけでございます。今回の教育改革は、先ほど来御指摘もございますように、社会の変化及び文化の発展に対応する教育を実現するということを目指して行うわけでございますので、その際に、教育基本法の精神に従うという意味で「のっとり」という文言を用いたわけでございます。
  48. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 文部省のお役人さんに私があえてこの解釈について申し上げる見識はないわけでございますけれども、のっとるということは字引を引いてみますと模範とするということです。だから、教育基本法の精神を模範とするということです。基づくというのは基礎にするということです。だから、教育基本法の精神を基礎とするというのはそれを原点とするということで、要はのっとると基づくとでは大分違うのです。そこがとりもなおさず、この間からのいろいろの審議の過程の中で出てきた問題がございます。  それは、教育基本法の改正はあり得るかという質問をされたときに、総理教育基本法は変えないというふうに言われた。それで文部大臣は、政府として精神にのっとって変わることはないけれども、論議をするには、初めから拘束すると問題が結果的には起こるからということなんです。だから、総理文部大臣との言うならばニュアンスはそこで違うわけです。違うことについて私はあえて詰めようとは思いませんけれども、そうした場合、論議の結果、教育基本法の一部手直しという答申が出たらそれに従うということになるのでしょうか。
  49. 森喜朗

    森国務大臣 今御指摘をいただきました点は、予算委員会の御議論でございましたし、また文教委員会でも、たしか鈴切さんの政党の有島先生だったと思いますが、そういう御質問がございました。  一番大事なところは義務教育の年限について私は申し上げたわけでございまして、それですべてなのかもしれませんが、先ほども角屋先生の御質問の際にいろいろと御意見がございましたように、教育制度全体のことを考えてまいりますと、例えば高等学校を全入にしろという意見もあります。高等学校を全入にするということと義務化とは別だという考え方もできますが、これを全入にするということは、行きたい人はみんな行きなさいということになれば、子供の気持ちとしてはみんな入りたいということになれば、ある意味では義務ということになるのかもしれません。そういうことになれば、当然今の九年が延びてくることになりますので、教育基本法に触れざるを得ないということにもなってまいります。あるいは、この教育改革に対しましてはいろいろな各界の御意見がございますが、その中に学校の設立をもっと自由にさせたらどうなんだという御意見もございます。学校学校教育法に基づく学校法人でやらなければならぬわけでありますから、これを自由にするというようなことを仮に採用するとするならば、当然教育基本法にもまたさわらざるを得なくなってくる。どういう表現をしたらいいかわかりませんが、そういう制度的なものだけを、初めから教育基本法にはさわらないのだ、さわっちゃいけないのだというふうに決めてしまいますと、論議をされる先生方はもっと幅広く、いろいろな意味で将来の日本のことを考え議論をしていただくわけでございますから、初めから制約をかけてしまうのはいかがなものかなという気持ちを私は申し上げたわけであります。  しかし、今審議官も法の解釈上も申し上げたように、法律は教育基本法の精神を体認してこの精神のもとでやっていきたい、教育改革教育基本法一つ考えのよりどころとしてやっていきたいということでございますから、これは政府はそういう考え方でおりますよということを法律の中ではっきりと決めているわけでございます。教育基本法の法に触れる、枠の外の話に仮になれば、当然この取りまとめをなさる会長がどのように御判断なさるかということでございましょうし、仮にそれがそういう枠を超えて総理の方に答申されたとしても、それを政府としてどう受けるか、あるいはそのことによってそれを施策として進めていきます場合には法改正という問題も国会で御論議をいただくことになるわけでございますので、そういう幾つかのネックみたいなものが当然出てくるわけでございます。  政府としては、教育基本法は現在のままにして、そしてその中でよりよき改革をしていきたいという考え方を法の中にしっかりと定めておきたいと考えたわけでありまして、私はちょっと余計なことを言ったのかもしれませんが、これから審議機関に入っていただく先生方のお立場考えて、幅広い自由闊達な御論議をいただくことがより日本教育改革になるだろう、こういう希望を持って申し上げたわけでございます。
  50. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 教育改革である以上は学校制度そのものに手を触れないわけにはいかないだろう、それは文部大臣が言われるとおりだと思う。教育基本法の中には小中については六・三ということになっているわけですから、そういう意味からいいますと、学校制度改革ということになればその部分はまた考えざるを得ない問題が出てくる、だから柔軟にという気持ちはわかるわけですけれども、臨教審設置法の所掌事務等の二条二項において「審議会は、前項に規定する事項に関して、内閣総理大臣意見を述べることができる。」として、総理大臣の諮問以外にも審議会独自の意見を提出できるようになっております。先ほどもおっしゃったとおり。その独自の意見については、教育基本法の範囲を超えたりあるいはさらに教育基本法の改正にまで踏み込んだ意見が出されることも当然考えられるわけであります。その場合、次の第三条では諮問に対する答申または意見に対し総理大臣に尊重義務を負わしているわけでありますが、答申意見とその尊重義務との関係をどのように考えておられるか、その点についてお伺いします。
  51. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 先ほど大臣からお答え申し上げましたように、審議会答申あるいは意見につきましては、政府が行う教育改革の実効を期するためにお願いをいたすわけでございますので、教育基本法の精神にのっとった答申あるいは意見が出されることを期待いたしておるわけでございます。もちろん三条の規定は単なる努力規定ではなくて、総理としてその答申ないしは意見を尊重していくという義務を負っておるものでございます。  先生御提示の、仮にもしこれと抵触する意見教育基本法の精神に抵触する意見が出された場合にはどうなるかということでございますが、第一条のこの法律の設立の目的に従いましてその規定が法律上働かないというふうに理解をいたしておるわけでございます。
  52. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 三条は「尊重しなければならない。」と書いてあります。そうなりますと、総理大臣に出された諮問に対する答申または意見に対しては、それは尊重義務規定なのか、あるいは尊重義務を課せられた努力規定なのか、その点についてはどうでしょうか。
  53. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 明確に「尊重しなければならない。」というふうに規定してございますので、単なる努力規定ではなくて、義務規定であるというふうに解釈しております。
  54. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 尊重義務規定ということになりますと、やはり先ほど言われました、言うならば教育基本法の精神をある程度逸脱したような形のものが万が一出たときに、それを尊重しなければならないということはちょっと困るわけでして、そういう点についてはやはり厳重に教育基本法の精神というものにのっとってやっていただかなければならないというふうに私は思います。  教育改革に当たって最も重要なことは、いかなる教育理念のもとにいかなる改革を推し進めるかということであると思います。言いかえれば、教育改革によってどんな人間をつくろうとしているのか明らかにする必要があると私は思うわけでありますが、政府考えている教育改革の理念というのはいかなるものであるか。  これは、総理大臣が二十一世紀を目指した世界的人間をつくるとか、あるいはまたよき人間、人格主義、理想主義、人間主義、こういうことを言ったわけですけれども、まことに抽象的でよくわからない。二十一世紀を目指した世界的人間をつくるなんて、どういう人間なのかというと、なかなか頭に浮かんでこない。だから、やはり文部大臣はもう少し具体的にこういうことを目指しているのだということについて御答弁をいただかなければいけないのではないかと思います。
  55. 森喜朗

    森国務大臣 基本的な教育観といいましょうか、どういう理念の人間像をということになりますと、そのことをやはり多くの識者の皆さんに御議論をしていただきたいわけでございまして、どのような制度、そしてどのような人間像、どのような教育観、こうしたことを臨時教育審議会委員の皆さんで御議論をいただくということが私どもの一番お願いをしたいところでございます。  ただ、今鈴切さんもおっしゃったように、私よりもある意味では先輩になる鈴切さんもどうかなと思われるぐらいなかなか難しい問題でございまして、私どもは、それが簡単にこういう人間像で、こういう人間をつくるためにということでやれるならば、審議会委員にお願いする必要はないのかもしれません。  しかし、総理も先般の委員会総理のお考え方を申しておられますが、私も、この法案審議最初にしていただきました際に同僚の深谷議員のやはり同様の御質問をいただきましたので、そのとき私は申し上げました。私としては、これからのいろいろな意味で、先ほど申し上げたような議論、いわゆる社会の変化あるいは国際社会、そういう中で生き抜く二十一世紀を担うにふさわしい日本の青少年、やはり基本的には人間形成の基礎を確実に身につける、先ほど先生の御質問の中に幾つかおっしゃっておられましたが、そうした人間形成の基礎を確実に身につけるということと、一人一人の個性を伸ばしてあげることができるということ、それからもう一つは、ゼロ歳から生涯にわたる学習の機会を充実をするということ、私としてはこの三つがやはり基本的な視点ではないかな、こういうふうに考えているところであります。
  56. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 これは当然審議会で一番先に、二十一世紀に向かってどういうふうな教育をすべきであるかということは審議会ができればそのことがまず論議されなければならない問題だろう。それと同時に、緊急必要であるという問題等も私は当然あると思いますけれども、私は私の考え方を言いますと、少なくとも二十一世紀を目指した世界的人間をつくるという総理が言われた中には、やはり人間を原点とする教育というものは必要であろう。それから、あるいは文化的、科学的、技術的創造性の重視というものは、欠かすことはできない問題だろう。あるいは、日本文化の継承、発展と新しい型の国際人の育成という問題もあるだろう。あるいは、活力とたくましさを踏まえた自己教育というもの、あるいは生涯教育というもの、こういうものはやはり必要な要素ではないだろうかというふうに思うわけですが、その点について文部大臣はどのようにお考えでしょうか。
  57. 森喜朗

    森国務大臣 今、先生のお考えとしての二十一世紀に向けて日本人の期待される人間像といいましょうか、人間観のお話、私もそのとおりだと思うのです。教育、学問が重視されるために人間として一番大事な社会に生きていく上の決まり、そうしたことがややもすれば最近は失われがちであるということは事実でありまして、そういう意味で、高齢化社会になることはもうはっきりしている今日の中で、もちろん社会福祉を充実していくことが政治としての最大の目標でありますけれども、やはり他人への思いやりや自助努力で自分でしっかり伸びていこうという気持ちがないと、この新しい高齢化社会で生きるということは非常に難しいだろうし、あるいは、今先生は創造性あるいは人間性の重視とおっしゃいましたが、コンピューター化がどんどん進みますと、コンピューターに使われる二十一世紀なのか、やはり機械を駆使する人間でなければならぬ、こういう意味では、先生の今御指摘になられたことはまさに一番大事なところではないだろうか。  この間も仙台の小学校総理と視察に行ったのですが、小学校一年生の机の上にテレビゲームがございまして、一生懸命にそれに取り組んでおられる。ワープロなどはもう簡単に取り組める子供たちも大事だけれども、ボタンを押すことの重要性やボタンを押すための判断力というものをやはりもっと確実に身につけさせる基礎教育というのは大事なんだなというような感じを私は持って帰ってきたのですが、今先生がおっしゃった人間性重視というのはまさにこういうことではないか。  ある意味では、バイオサイエンス、試験管の中で精子と卵子とが一緒になって受精卵ができてそして母親の胎内に入る。いわゆる不妊症の人たちにとってはすばらしい科学の発達だろうと思うけれども、逆に言えばとても恐ろしい時代に入ってくる。こういうように考えると、まさに先生がおっしゃった人間性、そして日本文化の継承、やはり人間と動物の違いというのは文化を継承して後世へ残していくということ、それがやはり文化の最も大事なところ、人間の最も崇高なところだろうと思いますので、何か評論みたいなことを言って恐縮でありましたが、先生の御指摘されました点は、まさに私が先ほど申し上げたことをむしろ具体的にわかりやすく先生から御説明をいただいたものだと思って感謝をいたす次第であります。
  58. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 二十一世紀を目指す教育ということでございますけれども、二十一世紀といいますと、よく世間で不確実の時代とかあるいはまた不透明の時代だというように言われております。しかし予測されるところにおいては、科学技術の進歩というものの著しい社会になるであろう、あるいは先ほど言われましたように高齢化社会であるとか、あるいは国際的に我が国の果たす責務の増大だとか、あるいは科学技術の進歩等による人間の疎外あるいは人間の機械化ということで、自己主義になったり、思いやりとか慈しみとか忍耐とか、こういうものが必然的に欠けてくるだろう、こういうように私は思うわけです。  実は、文部大臣はテレビを余りごらんにならないのかどうかわかりませんけれども、NHKのドラマの「おしん」、これは視聴率が非常に高かったわけでありますけれども、国民に関心のある内容だから高いと言えるのではないかと私は思います。また、これは現在でも海外で大変に評判になって、まあ「おしん」版といいましょうか、放映されている。これはやはり国民も今の教育を見たときに、おしんがたくましく生き抜いたその体験の中に真の生きた教育というものを見出し、今の教育の物足りなさあるいはまた弱々しさを感じ、自分の子供もよい点は見習ってもらいたいなというやはり同感はあったのだろうと実は私は思うわけです。  そこで、文部大臣は、ドラマの「おしん」を通じて、何が今の社会や教育に足りないかということについて、率直に感想で結構ですが、お聞かせ願いたいと思います。
  59. 森喜朗

    森国務大臣 先日、総理と私とで小中高の先生方とテレビで座談会をいたしました。まだ放映はされてないだろうと思いますが、そのときに小学校先生、まあ高等学校先生中学校先生も共通におっしゃっておられたことでありますが、その中で小学校先生は永田町の時任先生という女性の方で、年齢的にはちょうど私どものような年齢だったと思いますが、その方が現場での子供たちを見て一番率直に感ずるのは何かということをおっしゃっておられました。やはり先生も先ほどからおっしゃっておられましたが、忍耐力、集中力、こうしたものが今の子供たちにない、そのことを自分たちの昔にすべて並べてはいけないと思いつつも、この子たちが育っていく二十一世紀というのはどうなるのかということを教師としてとても心配でしたというお話をされておられました。  今「おしん」のテレビのお話もございました。私もずっと見たくてもなかなか、ちょうど八時十五分というのは我々にとって一番忙しいときで全部は見れませんでしたが、やはり大変国民の共感を覚えだというのは、物質がない大変厳しい時代、そういう中に一人の女性として生きていくことに、ちょうど今の我々の世代といいますか、やはり共通した戦時態勢の中で、戦前、戦中、戦後をくぐり抜けてきたわけですから、非常に共感を覚えるものがたくさんあった。それと同時に、それに比べ、今日物質が豊かになったこの中で子供たちがそういう忍耐力、我慢、そしてチャレンジ精神、希望に燃えて進んでいくということがどうも今の子供たちを見ておって想像できない。そういうことにやはり非常に関心を持って、現代の子供たちに不足しているものは何だろうということ、そんなことを番組で再認識をさしてくれた。そういうことが私はやはりこの「おしん」が大変なブームが起きた一つの理由でもあると思います。  もう一つ、やはり振り返ってみてお互いに、鈴切先生の世代と私と若干違いますが、やはりあの当時の日本というのは暗かったな、それに引きかえ今の世の中は本当にいい世の中になったなという、そういう共感もテレビを見て私は感じた。ということは、同時に、今のように平和で豊かないい世の中をやはり二十一世紀まで子供たちに大事に残してあげなければならぬ、それを今度はしっかり子供たちが支えてくれなければならぬ、こういうことを政治家として私はとても大事な教訓だと思って、テレビのドラマを時折見さしていただきました。
  60. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 審議会の構成についてちょっとお伺いいたしますけれども、第二臨調の場合は委員九名、専門委員二十一名、顧問六名、参与五十六名、事務局職員が百四名と大変大がかりなものになったわけでありますけれども、臨教審委員が本法律案では二十五名となっていることから考えると、第二臨調よりさらに膨大な組織になることが予想をされるわけであります。  そこで、委員とかあるいは専門委員はこれは法律事項になっておりますけれども、顧問とか参与については事実上審議会が決める問題だというふうに思うわけでありますが、そういう意味で、顧問とか参与なんか置かれるのかどうか。  それから、これに対して事務局体制ですね、総理諮問機関としてやっていくためにはやはり強力な事務局体制がないといけないと私は思いますけれども、そういう点についてどういうように考えておられるか。
  61. 森喜朗

    森国務大臣 どのような専門委員を置くか、どのような議論がこれから行われるかということによって審議会自身で御判断をいただくことになろうかと思いますが、当然政府としては想定をある程度しておかなければならぬと考えますので、どういう形で専門委員が必要になってくるか、事務局はどのように構えておかなければならぬだろうか、これは技術的なことでございますので、政府委員から答弁をさしたいと思います。
  62. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 まず専門委員でございますが、専門委員は法律上「置くことができる。」という規定になっておるわけでございます。大臣も繰り返し答弁しておりますように、審議事項につきましては審議会自体が議論した上で御決定をいただくという運びでございますので、その上に立って、必要な専門的事項が生じました場合に専門委員をお願いをする、こういう段取りになるわけでございます。  それから顧問の件でございますが、顧問は通常の場合、会長の求めに応じて審議会の運営について助言をするという役割かと承知しております。長年にわたります豊かな人生経験と人間社会に対します深い洞察力に基づく助言をいただくということは有意義なことだというふうに判断をいたしまして、これは審議会でお決めいただくことでございますが、前向きに考えてまいりたいというふうに考えております。  ただ、参与につきましては、通常の場合、特定の事項につきまして御審議に参加をしていただくということでございましょうが、審議会委員が二十五名、それに専門委員が加わるということでございますので、現段階では考えておらないところでございます。  事務局の体制につきましては、法案が成立しましたら政令事項でこれを整備することになりますので、その段階までに鋭意検討していきたいというふうに考えております。
  63. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 参与については置かないというお話でございますからこういう心配はないだろうと思いますけれども、実は第二臨調のとき、運営上の問題として参与、専門委員立場の不明確さという問題がありました。そのために、専門委員は非常勤の国家公務員という明確な区別があったわけでありますから、おのずと活動における制約があった。実際の運営はほとんど区別されないで活動したために入り乱れてしまって、参与が部会長的な機能を果たしたり、あるいは合議機関の規律とかあるいは倫理面においても、顧問、参与、専門委員とそれぞれおのずと制約があってもいいのにもかかわらず、実はこれが第二臨調の場合においては大変に混乱をした、そういうことを私は知っているだけに、こういうことの二の舞を踏まないような臨時教育審議会というものをつくらなくてはいけないのじゃないか、私はそう思うのですが、いかがでしょうか。
  64. 森喜朗

    森国務大臣 審議の仕方、運営の仕方は、たびたびで恐縮ですが、審議会自身でお決めをいただきますが、今先生から御指摘をいただいたのはまさにそのとおりでありまして、幾つかの役職をつくるということは余りいいことにはならぬと私は思います。したがって、この臨時教育審議会は基本的には総会中心で進めていただく、そういう御議論の中から出てくる具体的な項目について専門委員にお願いをして専門委員で御検討をいただく、こういう形がいいのではないか。もちろんこのことも私の希望でありまして、会長が十分そのことを判断してお考えになることであろうというふうに思いますが、基本的には今の先生の御指摘どおりだろうと思います。
  65. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 審議会委員についてお伺いいたしますが、当初文部省の案では委員の数を十五人ぐらいと考えていたようでありますけれども、法案については「二十五人以内で組織する。」ということになっております。委員の数については、昭和四十二年十月十一日の閣議口頭了解及び四十四年七月十一日の閣議決定において委員の数は原則として二十人以内とするということになっておるにもかかわらず委員を二十五人にしたという理由はどういうことでしょうか。
  66. 森喜朗

    森国務大臣 今申し上げましたように総会中心で御論議をいただくということが適当ではないかというように考えておりますので、委員の数は、皆さんで御論議をいただくという懇談の形式でいくということのノーハウから見ると、何か学問的にもあるそうでありまして、ちょっと名前は忘れましたが、まあ十五人から二十人ぐらいが一番いいのだそうであります。余り大きな数字になりますとどうしても議長を指名をして選んでみたり、お話しをするのが非常にかた苦しくなるというような、そんなことも何か学説的にあるようでありまして、そういう意味からいいますと、今先生から御指摘がありましたように少人数がいいのかなというふうに当初私どもも考えていました。しかし、非常に幅広い御論議をいただく、そしてかなりの各行政の部門にもかかわり合いのあることでありますし、そしてまた先ほどからいろいろと御議論をいただいておりますように、極めて政府全体の問題としてまた長期的な問題として考えていくということになりますと、かなり幅広くいろいろな方面から委員を御選考しなければならぬのではないか、こういうふうに考えましたので、今法案に書かせていただいたように、二十五名以内というふうに最終的には決定をいたしたわけでございます。
  67. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 これは行管庁にちょっとお伺いいたしますけれども、現在二十名以上の委員を擁している審議会はどれだけありましょうか。また、当時二十名以上あった審議会を閣議決定とか閣議口頭了解等で二十名以内にした実績というものはどうなっているか。それに対しての審議会の数とか委員の減った数とか、そういうものについてどのようになっていましょうか。
  68. 新野博

    ○新野説明員 五十九年の五月現在、当方で把握しておりますのでは、委員数が、現員ベースでございますけれども、二十人を超えておる審議会等は九十二ございます。  それで、かつて委員数が二十人を超えている審議会等の数がどれぐらいあったかということでございますが、四十二年現在で百二十七。このときには定数ベースでございますが、その後、御承知のように、二十人を超える審議会等について、二十人を超える部分について原則三割の凍結を行うというような措置をとってきております関係で、現在は現員ベースで見ますと、九十二にその数が減っておるということでございます。また、そうしたような凍結等を含めまして、五十三年、五十四年の改革におきまして審議会等の委員を約一千人減じております。
  69. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 二十五人の委員の人選については、もちろんより広範な国民各界各層から人選されるというふうに私は思いますけれども、具体的にはどんな分野の人から選ばれるのかということです。決してだれだれを選ぶとか、そんなことを今ここで私は答弁を願うなんという気持ちは毛頭もございません。しかし、総理が各界各層の意見が反映されるように配慮したいとか、文部大臣が教師や父母等を含めた幅広い分野のというようなことしか言っていないわけでして、これでは国民の皆さん方、この審議会をつくるについて、少なくとも各界各層といえばこういうふうなところからやはり選ばれるのだなということになるわけですから、その点は具体的にどういうふうにお考えでしょう。
  70. 森喜朗

    森国務大臣 大変大事なところだということを十分御承知先生の御質問をいただいたものでありまして、もちろん、ただいま国会で御論議をいただいている法案でございますから、それぞれの各先生方の御意見国会審議の状況を十分踏まえて判断をしなければならぬということは言うまでもないことでございます。したがいまして、法案が成立をいたしましてから検討いたしたいというふうに考えておりますが、総理も申し上げておりますように、私も常々申し上げましたように、国民全体にかかわり、我が国の将来を左右する重要な課題であるというふうに考えまして、各界各層の意見をぜひ反映されるように配慮をしたい、こういうふうに考えております。  したがって、これだけのお答えではまたいつもと同じでありまして、おしかりをいただきますが、私自身が今検討する一つの大事な課題として考えておりますのは、例えば子供の成長に直接かかわる父母や、学校教育に携わっている教師、またはその経験者というのがまず第一に考えられると思います。それから、人間の発達や社会の発展について識見を有する学者や研究者、学術教育、文化あるいは産業構造、雇用問題等に識見を有する方々、あるいは作家、芸術家というような部門からも考えてみる必要もあるのじゃないか。  それから、これは先生の御質問にもございましたように、忍耐力とかそうしたことも考える、いわゆる人間の徳育、体育という面から考えましても、社会教育、体育、スポーツの実践者あるいはまたこれに精通しておられる方々大学の問題になってまいりますれば、大学の管理、私立学校あるいは国公立も含めてそうしたことに対する見識をお持ちの方。あるいは、教育の問題でございますので当然地方教育委員会との関係もございますから、地方公共団体の関係者というようなこと。  まだまだもう少し、幾つかの点はこれからも先生方の御意見もいただきながら考えなければならぬと思いますが、今私がある程度考えまして、あえて申し上げればこういう視点で各界の方々をお選びをしなければならぬな、こういうふうに考えておるわけでございます。
  71. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 大分輪郭は明らかになって、そういうことで本当に各界各層の人を網羅する一つの陣容をお考えだなということはわかったわけでございますけれども、さらに国民の皆さん方から御意見を聞きながらその二十五名以内の委員の人選には当たっていただきたいなと思います。  そこで、この間総理大臣が、特定の団体からの委員は好ましくないと言われたわけですけれども、これはどういうことなんでしょうか。
  72. 森喜朗

    森国務大臣 その辺の具体的な問題について総理とはまた意見を交換しておりませんので、それがどういうお考えで申されたのかわかりませんが、何か団体の代表という形でお選びすることになりますと、例えば小学校長会から選びなさい、じゃ教頭会からも出しなさい、じゃ中学校長会からも出なさい、大学で言えば、国立大学協会の会長さんというか、その立場でお出になれば、じゃ私大側、私大連盟なのか私大協会なのか、短大も、ということになってくる。こういうふうに団体の代表という形でセレクトすると、どうしてもバランスをとらなければならないことになって、本来の教育改革、私どもが願っております制度改革の御議論在いただくということにならなくて、結果的には自分たちの団体の利害の意見をどうしても中心に、前面に出さざるを得ない。これは予想ですが、そういう弊害が予想できるのではないかということも考えます。  そういう意味で、団体の代表という形で選ばない方がいいのではないか、私もそう思っておりますし、恐らく総理もそういうお考えであろう。人物中心に、それからさっき言いましたような幾つかの視点がありますから、そういう中からお選びして、結果的にはどこどこの協会の長になることもあるかもしれませんが、選び方の基準として団体から選ぶということはしないでおいた方がいい、こういうふうに考えているわけです。
  73. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 例えて言うならば、財界ということになりますと、これは幅広く財界といえばわかるわけですけれども、その中で実はいろいろの団体がありますね。日経連だの経済同友会だの経団連、そういう特定の団体といいますか、あるわけですね。だからそこの代表を選ぶというのではなくして、財界なら財界全般、そういう中において識見並びに人格のすぐれた方というふうに選ぶわけであって、たまたまその人が確かにどこどこの団体に入っていようとも、それは二の次である。要は個人的の問題と、もう一つは、これはお返事をいただきたいわけでありますけれども、全般的な大きな網をかけたときの一つの分野というふうな考え方でおやりになるということであれば、それはすべて、組合だのあるいはまた特定のところにおいても、やはりその原則というものは考えておられる、こういうことでしょうか。
  74. 森喜朗

    森国務大臣 先ほど申し上げましたように、やはりお選びするのはその人個人を一つの基本に考えなければならぬと思います。したがってそういう意味で、今おっしゃるように、例えば財界というように考えます、あるいは言論界ということも考えられます。そうしますと、それは新聞の代表でいくのかテレビ代表でいくのかというようなことにもなってしまいますけれども、そういうこともすべて含めて学識経験というふうに申し上げていると思いますが、学識経験というような考え方でお選びをする。あくまでも、先ほど申し上げた幾つかの視点はある程度最初に定めなければなりませんから、そういう定めた中で、人物を中心として、これまでのいろいろな御経験あるいはまた教育に関するいろいろなお考え方、そういうものもお持ちでございましょうし、またいろいろなところで世の中に出ているでありましょうし、そういうことを参考にさせていただいて御人選を申し上げたいというふうにも考えます。  まあ学界と仮に言いましても、学識経験に入るのかもしれませんが、その学問の範疇によってはいろいろ言えるわけでありますが、やはり二十一世紀を志向するということになれば経済あるいは社会学あるいは当然情報や自然科学やということにもなってくるでしょうし、あるいは哲学や心理学や医学という面からも考えてみなければならぬ面もあろうかというふうに思いますが、できる限り、先ほど申し上げましたように、幅の広い層からぜひ御人選をさせていただきたい、こういうふうに思うわけであります。
  75. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 中教審については一時お休みになるのかあるいはまた引き続いて個別的におやりになるのか、それは別問題といたしまして、これも御答弁願いたいわけでありますけれども、中教審の場合、四六答申、これはかなり重要な示唆に富んだ内容を出された答申なんですね。そうなってきますと、この中教審委員さんなんかも非常に見識もあるわけですし、そういう意味において今までいろいろ御努力をされてきた方々でありますから、その整合性とか、そういうもの等も考えるとなれば、ある程度そういう方々なんかも頭の中にあるんじゃないかと思うのですが、その点はどうなんでしょうね。
  76. 森喜朗

    森国務大臣 中教審方々からお選びをするというそういう形ではなくて、やはり先ほど申し上げたような幾つかの範疇といいましょうか、そういう中で個人中心にお選びをする。その結果、当然中教審に今日まで御参加をいただいて御論議をいただき御提言をいただいた先生方が入ることもあり得るというふうにも考えます。  なお、午前中角屋先生の御質問の中で、角屋先生にも大分おしかりをいただきましたが、再三私も国会で申し上げているように中教審を全く無視しているわけではありません、中教審議論を踏まえてそこからぜひスタートさせていきたいということも申し上げているわけでありますし、それから、中教審をこれで全部なくして、そして中教審から臨教審に切りかえたというようなことをちょっと角屋先生から御注意をいただきましたが、そういうことではございません。性格やその物のとらえ方の視点や角度は若干違ってまいりますが、かなり共通した部分もあろうと思いますので当面見合わせたい、こういうことでございます。
  77. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 人選の基準ですけれども、「文部大臣意見を聴いて、内閣総理大臣が任命する。」こととなっておりますけれども、他の審議会にはないスタイルをとっておられるわけですが、このような形になったのはどういうわけでしょう。
  78. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 先生御案内のように、今度の審議会総理府に設けることになりまして、教育に関する施策だけではなくて、これに関連する他の行政各部の施策についても御審議をいただくということではございますけれども、何といっても教育が中心でございます。そういう意味で、国の教育行政に責任を持つ文部大臣意見を聞くということで、手続を慎重にいたしたということでございます。
  79. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 近年つくられた第二臨調にしても臨時行政改革推進審議会にしてもあるいは国鉄再建監理委員会にしても、委員の任命に際しては両院の同意を得て内閣総理大臣が任命しているのに、臨教審だけは文部大臣意見を聞いて内閣総理大臣が任命するということになっております。聞くところによると、官邸と文部省との綱引きがあったというようなことも言われておりますけれども、委員任命を両院の同意を得てという形にしなかったのはどういうわけですか。
  80. 森喜朗

    森国務大臣 国会の同意を得るということもとても大事な手続の一つであるということは私も認識をいたしております。しかし、国会で御同意をいただくということになりますと、各党会派の皆さんにお一人お一人の先生方のよしあしといいますか是非というものをお願いをしなければならぬということにもなって、個別的にあの人はいいとかこの人はどうもとかいうことが各党の中から出てくると、その委員に御人選を申し上げた政府としましてはやはりその方々に非常に個人的に御迷惑をおかけすることにもなってまいります。したがいまして、そういう意味国会で同意をしていただくということは私どもとしてはその方向をとらないでおこう、こういう考え方をいたしたわけでございます。  しかし、そうした同意をやるべきであるという声は国会を通じて非常に議論が出ております。もちろん先生もそういうお考えの上に立ってのお尋ねではないかというように愚考いたしておりますが、そういう意味では一つの御意見として十分考えなければならぬなというふうには思っております。
  81. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 国会同意大事については、あなたのおっしゃるように意見の一致ということは理想でありますけれども、現実にはそんなことは不可能なことなんです。しかし、だからといって、賛成、反対とかいうことがあるのは当たり前のことであり、国民の代表である以上、国会においてその点について同意を求めるのはむしろ自然の形だと私は思うのですね。それが実際には民主主義のルールなんですよ。文部大臣がこちょこちょと決めてそれを総理大臣に進言して、総理大臣がそれでよかろうなんというそんなものではない。人事というものはもっともっと国民の合意を得ながらやらなければならないだろう。賛成される方もいるでしょう、あるいはまた反対される方もいる。国民の各界各層の考え方があるわけです。例えば大変に右寄りの考えを持っている方が反対をされたということについて、反対をされれば、おれは少し右寄りなんだからもう少し中立的な考えにならなくちゃならぬなというふうな反省の機会を与える上においても必要なことだと実は私は思うのですよ。  ですから、国会同意人事が中立性を損なうなんということには全くならない。その同意大事についても、これは確かに議運の問題ではあります。しかし、そのことについて、例えば賛成については賛成、あるいは賛成多数については賛成多数でいいじゃないですか。なぜ国会人事を逃げようとして国会を軽視するようなことをあえてするのでしょうか。私は、国民の目の前において堂々とこの同意人事をすべきである、こういうように思うのですが、大臣、どうでしょう。あなたもやはり政治家なんですよ。
  82. 森喜朗

    森国務大臣 この臨時教育審議会法案国会にお願いいたしまして、この国会で、予算委員会からずっと今日まで、この教育改革問題で各党の諸先生方から大変建設的な、またある意味では私どもに対していろいろな御指導もちょうだいをしております。人選に当たりましては、法律の建前からいいますと総理大臣が選ぶわけですが、そこに「文部大臣意見を聴いてこというふうに、文部省といいましょうか、教育ということに関しての強い意見が反映でき得るように、今先生から御指摘いただいたように、文部大臣ということをあえて書かしていただいたのです。  そこで、私もこの論議をずっとさせていただいて、各党先生方がどのような御意見を言っておられましたか、あるいは新聞やテレビ等を通じて国民がどのような考え方を持っておるか、私なりに熟知をしたつもりでございまして、そういう意味で、生意気なことを言うようでありますが、大筋においてそう間違った人選をするはずもございませんし、またでき得るものでもない、こういうふうに私自身考えております。  そして、先ほど申し上げたように、お一人お一人が国会でよしあしといいましょうか是非を問われるということになると、お選びした先生方に個人的に大変御迷惑をかけるなというような感じを私はそのとき持ったわけでありまして、本会議でも総理答弁をいたしておりますように、中立性を損なうとか国会を軽視するという意味ではないわけであります。あくまでも先生方の個人の主義主張というもの、今先生がたまたまおっしゃいましたが、やや右寄りだから反省を求めていいじゃないかということになりますが、やはり物事に対する考え方は個人の自由でありますから、そういう意味で、逆に言えばそういうことでまた制約をしてしまうということがいかがなものかなというふうに感ずる面もあるわけであります。そのためにいいのだという意見を今鈴切先生おっしゃいましたが、逆に言えば個人個人の考えをそこで通すためにある程度制約をかけてしまうということになるのも、自由な表現、自由な思想、考え方を基調としている日本の今日の政治形態の中でかえっていかがなものかなというような感じを持ったわけでございます。  しかし、先ほども申し上げましたように、先生のそうした御意見がありますということは十分私は拝聴いたしたいと考えておりますし、総理も柔軟な考え方を持っているように私も承知をいたしておるところであります。
  83. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 文部大臣意見意見なのですけれども、実際に私どもは同意人事は必要だろうという考え方に立っているわけですが、この法律案では同意人事を求めるように実はなっていないわけなのですね。その点についてはどうなのでしょう。
  84. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 先ほど来大臣から御答弁申し上げておりますとおりでございます。確かに先生のおっしゃいますように、委員の人事について国会の同意を得る、多数決によってこれを国民の意思として認めるという形をとることも一つのお考えであろうとは思うわけでございますが、事教育に関します問題につきまして御審議をいただくわけでございますので、しかも、教育改革の問題につきましては国民各界各層すべての方々の御参加、御協力をいただくという観点で議論していただきたいと考えますので、その両者を勘案いたしまして同意人事としないという規定の方がベターであるというふうに考えたわけでございます。そういう意味でその法案に同意規定を設けなかったということでございます。
  85. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 ただ、同意人事をするということになれば、この法案ではできないということですから、当然何らか話し合いがなされなければならないというふうに私は判断しているのですけれども、文部大臣、この点はどうでしょうか。
  86. 森喜朗

    森国務大臣 政府といたしましては、国会に御提案申し上げました法律はいろいろな角度から検討して最善のものである、最高のものであるというふうに考え国会に御論議をお願いしているわけであります。しかし、鈴切先生からお尋ねのような御意見も多々ございまして、その法案の規定のところはそうできないではないか、そこのところはどうするのか、どう考えるのかということについては国会で、院でお考えいただくことではないか。私どもといたしましては最善、最高の法案としていろいろな角度から考えて提案をしたものであるというふうにどうぞ御理解をいただきたい。ぜひとも法案どおり御審議、御成立をさせていただきたい、こういうふうにお願いをいたしておきます。
  87. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 この点で柔軟な対処をしていく考え方総理は言われているわけですから、これからいろいろ話し合われていく過程というものは僕はあると思うのですね。あった場合において、少なくとも一つの一致点というものを見た場合は、今文部大臣が言われたように、どうしても文部省はこれが最善だということにとらわれるということは、私はどうかと思うのです。やはりそれは尊重していただきたいなと思うのですが、その点はどうでしょう。
  88. 森喜朗

    森国務大臣 国会国民の意思を決定する最高の決議機関であると私は承知をいたしております。
  89. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 現在の受験戦争や画一の詰め込み教育、そして非行や校内暴力等に象徴されるように、教育はこのままであってはなりません。何らかの改革を行うべきだという国民の声は広く共通しておりますが、教育改革に当たっての改革の手順、方向性についていまだに合意が成立しているとは言えません。今後教育改革を進める上で国民合意の形成は不可欠だと私は思いますが、国民合意の形成について政府は具体的にはどういう形ができれば国民合意の形成になるとお考えになっているか、またどういう形で国民合意の形成をなされようと考えておられるのか、その点についてお伺いいたします。
  90. 森喜朗

    森国務大臣 教育改革をぜひしていきたい、こういうことを趣旨としてこの法案国会にお願いしているわけでございまして、この設置法案国会で御決定をいただくその過程の中でも、こうしてこの委員会も含め、予算委員会あるいは文教委員会等各党のまた各先生方の御意見をいただいております。こうしたことも当然国民合意を得る一つの大事なところだと考えております。そして先ほど申し上げましたように幅広く多くの方々の御審議をいただく、新委員をお選びして御論議をいただく、このことも各界各層いろいろな立場から識者が御参加をいただくことになるわけであります。これもまた国民合意を得る一つの方法だろうというふうにも考えます。  そしてこれからどういう御論議をいただくか、また審議の進め方、運営の方法は当然審議会でお考えをいただくことでございますが、これだけ多くの国民が関心を持ち、また国会議論をいただいております法案でございますだけに、選ばれるでありましょう会長を含め委員の皆さんは、今日までの国会経緯また多くの政党の皆さんの御意見、こういうものは当然十分しんしゃくされて論議をなさることであろうというふうに思いますので、そういう論議の進め方も当然また国民の合意を得る方法につながっていくことになろう、こう思います。具体的な運営の仕方等は、先ほども申し上げたように委員の皆さんが御自身でお考えになることでございますが、今後ともさまざまな工夫を凝らして国民の合意の形成がなり得るように、いろいろな方向をぜひ期待をしたいものだというふうに考えております。
  91. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 国民合意の形成というのは、言うことは簡単に言えるのですけれども、それじゃ具体的に何かということになると、これを考えるのも実はなかなか大変なことだと私は思います。  しかし、教育に関して申し上げれば、一つ委員の人選の問題で、先ほど私が申し上げましたような国会において国民各層の皆さん方のもとに人選をするというのも、国民の合意の形成の一つであろう。あるいはまた委員国民の各界各層の幅広い分野から選ぶということもそうだろう。あるいは開かれた審議会になるために、国民に何らかの形で報告して、国民の声を吸収し反映させるということも国民合意の形成の一つでしょう。あるいは中央地方の公聴会を行い、多くの国民意見を聞くということもそうでしょう。あるいは地方自治体を初め教師、父母の意見を聞く、あるいは中教審を初めとする教育改革に対する提言を参考にする、あるいは審議会で方向性が決まったらパイロット方式で実験をしてみる、そしてその上に立って是非を検討する。あるいはまたアンケート調査、論文の募集をする、そしてその上に立って中立性の確保をしなければならない。こういうような問題を着実にこなしていかなければなかなか国民合意の形成ということにはならないだろうと、私は私の意見を申し上げたわけですが、その点について何かございましたら……。
  92. 森喜朗

    森国務大臣 今、鈴切先生から具体的な運営、さまざまな工夫の一つ考え方をお示しいただきまして、私もそのとおりだと思います。私は越権になってはいけませんから御遠慮申し上げながらお話をしているわけでありますが、当然審議会でお決めをいただくことでありますが、今おっしゃったような論文を募集するとかアンケート方式をとるとか地方で公聴会をするとか、そうしたさまざまな工夫をぜひ審議会の皆さんが決めていただいて、本当に多くの国民意見を吸収でき得るような、そして国民合意の形を立派に果たし得るような運営の仕方をぜひ期待をいたしておるわけでございます。
  93. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 今申し上げました国民合意の形成の一つとして、開かれた審議会ということが重要な課題になってくるわけでありますけれども、開かれた審議会というものはどういうものであるか、あるいはまた開かれた審議会にするための方策としてはどういうふうにしたらいいか、政府はどのようにお考えになっているのでしょうか。  実は総理大臣から審議会審議公開という問題についてこの間ちょっと御答弁がありました。一区切りがついた段階審議状況を報告することはあるが、その都度発言者、その内容を明らかにするのは危険性があるという御答弁もなさっているわけでございますけれども、この審議会におきますところの報告あるいはまた審議の過程等について一々、この方はどういうふうなことを言ったというふうなことをなかなか明らかにできない問題があるでしょうけれども、その都度その都度国民の前に明らかにしていかなければ、国民方々も大変にこの問題についての御意見も持っておられるわけでありまして、そういうふうなことになれば、国民の皆さんの中から必ずそれはどうのこうのといういろいろな意見が出てくる。そういうことを私は尊重しなければならないというように思うのですけれども、その点についてはどうでしょうか。
  94. 森喜朗

    森国務大臣 この国会を通じまして、審議公開ということにつきましてはいろいろとお尋ねやら御質問、またそうした建議もございます。しかし、総理も同様な意見を述べておられるようでございますが、審議会意見のすべてをそのまま外に公開をするということは、かえって委員の皆さんのお考えが、先ほど国会同意の際にもちょっと申し上げましたが、それぞれの御意見がむしろ制約をされてしまうのではないか、こういうふうに私は考えます。したがいまして、これも会長がお考えになることですから、私はひとつ希望としか申し上げられませんが、その都度適宜な方法で審議の概要を経過として国民の前に公表されるということは私は大変大事なことではないかというように考えております。
  95. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 会長考え方だけで発表をするというよりも、それは第二臨調のときに、実は「所掌事務」の第二条第三項の中に「調査会は、前項の意見又は答申を、内閣総理大臣から国会報告するように、内閣総理大臣に申し出ることができる。」というふうに、この点が明確になっておるのですね。それに基づいて、言うならば部会報告あるいは第一次、第二次、第三次というような形で中間報告がなされ、最終答申がなされるという形になっているのは、これが所掌事務に盛られているからなっているわけでして、会長だけの考え方で、会長がどうもやりたくないと言えばそれでおしまいになるということではいけないのじゃないだろうか。やはりそういう点は国民の皆さん方も非常に注目をしておる問題でありますから、当然、こういうふうな審議経過になりましたとか、あるいは経過報告をやりますとか中間報告をやりますとか、あるいは最終的にはこうなりましたという形を明確にしないとそこはいけないのじゃないか。お任せっ放しというのでなくして、こういう問題についてはやはり明確にしなければならないというように思うのですが、大臣どうでしょうか。
  96. 森喜朗

    森国務大臣 私は、会長報告というのは一つの方法ということを申し上げたわけで、たまたま先ほど角屋さんの御質問で、高村先生の、会長がその都度報告しておられたというお答えがたまたま耳に残ったものですから会長と申し上げたのですが、その都度審議の概要を外にどういう形で国民の前に明らかにするか。これは審議会でお決めいただくことで、必ずしも会長とは限りませんし、事務局長もおりますし、あるいはその都度アナウンスメントをするそうした担当があってもいいなというふうにも思います。それから当然、ここまで持ってきたと、今先生がおっしゃったような、お示しをいただいたような経過措置でいろいろとその都度国民の前に明らかにする方法というのは、いろいろな方法で考えていくべきであろうというふうに私自身考えております。
  97. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 諮問の内容なんですけれども、当面する教育改革の主要課題としては、学校暴力とか入試制度とか学校教育制度とか、あるいは幼保教育とか、広範な分野にわたるものというふうに私は思いますけれども、政府はどのような諮問内容考えておられますか。教育改革の最優先課題は何だと認識されているか。あるいはまた、中長期的にこれを立て分けたときにはどういうふうな形になるのでしょうか。その点について政府のお考え方というものは、これから臨教審ができ上がって人選が成りますともちろん真っ先にこれを諮問しなければならないわけでございますから、当然、そういうことについての御構想を明らかにされておいた方が何かにつけて、やはり国民方々は非常に関心を持っているだけに、必要じゃないかと思うのですが、中長期的な考え方、諮問の内容はどういうふうになりますか。
  98. 森喜朗

    森国務大臣 これは、先ほど社会の変化に対応というところで少し先生から御意見もいただきましたけれども、臨時教育審議会におきましては、二十一世紀に向けて、我が国の社会の変化等に対応する教育の実現を期し、教育改革を図るための方策についてその意見を求めるわけでございまして、どのようなことを御審議いただくということを政府が初めから項目を立てるということは私はとるべきではない。むしろ委員皆様方に幅広く御論議をいただいて、そしてどういう教育をつくり上げたらいいのかということをむしろお尋ねをすることが正しいのではないかというふうに考えます。当然諮問案はつくらなければなりませんが、これは国会のこの論議を受けて、そして法律によって目的や所掌事務等も、国会で御決定をいただいた上で私と総理とで十分相談をしながら考えなければならぬことでございますが、全体的には、二十一世紀を担う青少年にふさわしい日本教育はどのようにあるべきか、幅広く、もちろん学校教育のみならず、社会も家庭も含めた全体的な生涯に通ずる教育全般に対してぜひお考えを示していただきたい、こういうふうにお願いをするということが、ある程度今の立場で想定できるわけでございます。
  99. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 教育というのは、総理諮問機関であるという以上は、全内閣で取り組む問題であるというふうに私は思います。その諮問事項の決定なんかについては、総理の一存だけで決めるべきではないだろう。少なくとも教育閣僚会議ぐらいは設置していろいろ諮問事項等を検討した上で、さらに内閣としてそれを検討するというふうな形をとる、教育閣僚会議というものの設置はぜひ必要ではないかと思うのですが、その点はどうお考えでしょうか。
  100. 森喜朗

    森国務大臣 諮問事項につきましては、先ほども申し上げましたように、これまでの国会議論、あるいはまたこれから御審議をいただきます。そういう審議内容を十分に踏まえて、そしてまた各方面の意見も十分に参考としながら決定をいたしたい。そして総理と御相談申し上げて、総理から諮問いたしたいと考えております。したがいまして、諮問事項をどのようにするかということについて、今改めて教育関係閣僚会議というものを設ける考えはございません。  ただ、今後審議会から答申をいただいて、それを政府としてどのように対応して具体的な政策として進めていくか。それはまた、審議会の中で御提言をいただきましたその審議内容によってはそうしたことも将来は考えられるのかもしれませんが、そうしたことは今の時点で全く考えておりません。
  101. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 諮問を受けた審議会では、答申を出すことについてはこれは一義的には当然審議会が決める問題でありますけれども、政府としても、いつごろまでにはという期待がやはり私はあると思うのですね。なぜかというならば、実は審議会の設置が三年間という大変に制約された中にあって、政府としてもいつまでも手をこまねいておるわけにはいかないだろう。そうなれば、審議会政府とは当然話し合いながら、期待というものについては政府の意向を伝えるということになると思うのですけれども、あるいはまた、政府はそれを審議会に任せたら任せっ放したというふうにおっしゃるのか、その点についてはどうなんでしょうか。
  102. 森喜朗

    森国務大臣 事柄が教育でございますので、今日までのそうした審議会は大体二年ぐらいを一つの目途といたしておりますが、かなり幅広い、しかも長期的な問題でございますので三年を一つの期限と法律に書かしていただいたわけであります。もちろんどういうペースで、いつごろどのような目標で意見を取りまとめていただくかについては、当然審議会の皆さん御自身でお決めをいただくことでございますから、私どもとして今の時点でいつまでにこのようなことを出せというようなことは申し上げるべきではないと思います。ただ、現実の問題として、ある程度おまとめをいただいた事柄が国民の前に公表されて国民の多くの皆さんから期待を受けるようなことでございましたならば、当然実行でき得るものは政府として十分に参考にさせていただき、具体的に施策として取り組んでいくということもあり得るかもしれませんが、今の段階といたしましては、いつごろまでにどうしてどのような形で出せというようなことを申し上げることは適当ではないのではないかと考えております。
  103. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 答申が出された場合の実施処置についてお伺いしたいわけであります。  第二臨調の実施処置については、行革大綱とか新行革大綱とか五九行革といったように、閣議決定によって実施に移されているわけでありますけれども、臨教審の場合は行革とはちょっと違うだろうと私は思っております。臨教審答申が出された場合、その実施についてはどのように対応されようとお考えになっていましょうか。
  104. 森喜朗

    森国務大臣 御審議をいただいております法案の第三条におきまして、答申がなされた場合には総理大臣はこれを尊重すべき旨を定めているわけでございます。したがいまして、この場合、通常総理は、答申の趣旨を実現するために、必要に応じまして閣議に諮るなどをいたしまして施策を策定することになるだろうと考えております。そして関係省庁におきましては、この方針のもとで具体的な施策の推進に努力をするということになるのではないかと思います。
  105. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 教育というものは、理論上の問題と実際の教育の現場とはなかなか一致しない点が出てくる場合が実はあるわけです。ですから、余り短兵急に結論を急いでしまってそれを実施に移すということは、ちょっと難しい問題があるだろう。場合によってはパイロットスクール的な方式によって、ある一部分、ある学校等に実際にやってもらう、やってもらった結果をもう一度持ち寄って、それによって検討を加えて、これはこういうことで間違いないという形になりませんと、教育というものは一度方針を打ち出してやり始めますともう全く後戻りはできない問題だけに、その点については文部大臣はどうお考えなのでしょうか。
  106. 森喜朗

    森国務大臣 ただいま御指摘をいただきましたような点については、審議会の中でそういう御論議が出ることもあると思いますし、また政府としてその答申をちょうだいして、政府自身、特に事は教育でございますので文部省自身がそれを進めるときに、そういう方向をとることが適当であるということがあれば当然その方向も考えなければならぬと思います。  いずれにいたしましても、パイロットスクールという言葉が今鈴切先生から出ましたけれども、公明党の皆さんが政策研究をなさいました中で、私どもも御本をいただいて拝見をいたしましたが、やはり急激な変化をすることによって取り返しがつかないということになってはならぬわけでございますから、そういう意味で、公明党さんがお考えになっておられますパイロット方式というものも、とても大事な今後の一つの施策の進め方の参考になる意見であろうと私どもも受けとめているわけでございます。
  107. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 中教審の四六答申は、明治五年の学制頒布及び第二次大戦後の学校教育法の制定の大改革に次ぐ第三の教育改革と言われ、幼児教育から高等教育までに関する学校教育の全般にわたる改革と拡充整備の基本的な方向を示したわけでありますけれども、四六答申の実施状況はどのようになっているのでしょうか。
  108. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 昭和四十六年の中央教育審議会答申につきましては、その趣旨等先生御指摘いただいたとおりでございます。  実施いたしました主なものといたしましては、教育内容、方法の改善とか、あるいは学級編制、教職員定数の改善でありますとか、あるいは幼稚園教育、特殊教育の拡充整備でありますとか、教職員の待遇改善でありますとか、高等教育の計画的な整備でありますとか、多々あるわけでございます。  また、中にはいまだ実施されておらないものもあるわけでございますが、一般的によく指摘されますものといたしましては、新たな学校体系開発のための先導的試行の問題、それから市町村に対しまして幼稚園の設置義務を課すという問題、公立と私立の学校に関します地方教育行政の一元化の問題などがよく指摘される問題点でございます。
  109. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 四六答申の未実施事項としては、人間の発達過程に応じた学校体系の開発とか幼稚園教育の積極的な普及充実、そして学校内の管理組織と行政体制の整備の三点が未実施となっているわけでありますが、これが実施に移されなかった理由は何でしょう。
  110. 齊藤尚夫

    ○齊藤(尚)政府委員 まず、先導的試行についてでございますが、先導的試行は、それ自体が現行の学校体系の特例といたしまして法律改正を必要とするものでございます。当時、学校体系の案につきまして国民的なコンセンサスも得られていないという状況にございましたので、文部省としては直ちにこれに着手することを避けることといたしました。ただ、先導的試行のための準備段階といたしまして、さまざまな研究は進めてきているわけでございます。  幼稚園の設置義務につきましては、幼稚園と保育所との関連もございますし、直ちに設置義務を課するということよりも、施設費の補助であるとかその他の財政的な援助を行うことによりまして幼稚園の計画的整備を図る、そういうことによって所期の目標を達成することが適当である、そういう意味で、十年計画で幼稚園振興計画を実施いたしたというわけでございます。  それから、最後に御指摘になりました公立と私立の学校に関する地方教育行政の一元化の問題でございますが、私立学校に関します事務は、私学の独自性と自主性を考慮して、教育委員会の所管外とされているわけでございます。公私立学校に関します地方行政の一元化の問題につきましては、私学関係者の十分な理解が得られておらないというような事情もありまして、今日まで実施されておらないということでございます。
  111. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 文部大臣、器ができたと仮定して、それから諮問内容が決まり、いろいろ御論議願って答申を受けるということになった場合、その提言内容のあり方については、これは文部省を初め他省庁にまたがる事項等も当然答申に出てくると思うのですね。そうした場合、提言内容が確実に実行に移されるための具体的な方法論まで答申に盛り込まれるようにしてもらうべきだと私は思うのですよ。これは非常に重要な問題だと思いますね、方法論まで。ただ答申の中にそのまま書かれたのではなくして、方法論まで盛り込まれるようにすべきだと私は思うのですね。そうしないと、縦割り行政の中にあって、なかなか今まで文部大臣もお困りになっておった問題でしょうし、今回の臨教審政府全体で取り上げるというふうになったのもそういう観点があると私は思うので、この答申を実効あらしめるため、砂上の楼閣にならないように、やはりこの審議会については答申される提言内容には方法論まで盛り込んでもらいたいという文部大臣のお考え方をある程度示すべきではないかと思うのですが、その点のお考え方はどうでしょう。
  112. 森喜朗

    森国務大臣 確かに、今日までの中教審答申等の報告等から、先生のそうしたお考え一つのお考えとしては私は十分うなずけるものがございます。しかし、これを進めることが他省庁との縦割り行政といいますか、そういう中で難しいものであったとは必ずしも私は考えておりません。しかし、先ほど申し上げたように、教育改革をし、これから新しい教育制度のあり方を問うということであれば、行政各部にいろいろな意味関係のあるものもございます。そういう意味で、総理大臣諮問機関としてあえて八条機関でお願いをいたしましたのは、ちょうだいいたします。その御論議は各省にまたがるものも十分あるであろうということを想定いたしますから、あえて総理大臣諮問機関ということにいたしておるわけでございますので、答申を受けた内閣全体でこれを検討するわけでございますから、それに関する行政各部はこのことを具体的に政策に移していくということは当然なことかと考えます。したがいまして、一つのお考えではございますが、実施方法まで臨時教育審議会にお願いするということになりますと、行政を進めていく、あるいは施策を打ち立てていく、これに基づいて政策をつくり上げるということはやはり政治の範疇になるわけでございまして、そういう意味で私どもは、そこまでは審議会に明記をしてもらうということはとらない方が賢明であると考えております。
  113. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 一つの例を申し上げますと、幼保一元化の問題でも、厚生省と文部省の綱引きばかりで、実際にはこの問題がなかなか進まなかったという現実に私は目をそらすわけにはいかないと実は思うのです。そういうことから考えて、私は老婆心ながらそれを申し上げることは、これからいろいろと必要になってくる問題であろうと思うから申し上げるわけであって、それはそれでいいと思います。  さて、やはり義務教育教科書無償の問題なんです。これは、憲法第二十六条に「義務教育は、これを無償とする。」こうあるわけであります。もちろんこの義務教育の範疇の中には、授業料とかあるいは教材とか施設設備、こういう問題等々があるでしょうけれども、少なくとも憲法の第二十六条から、義務教育教科書の無償というものについてはこれは育てていかなければならない問題である。少なくとも、今財政が非常に窮屈であるからそれに対して手直しを云々というふうに一部言われることはございますけれども、無償の方向で努力をしていくのは、憲法の精神にのっとり、今日まで教育が大変に評価された一つの大きな問題だろうと私は思うのです。だから、そういうことから考えまして、文部大臣も、義務教育教科書の無償は、昨年の予算編成の際、概算要求時に検討することになっている、文部大臣としてはあくまで無償措置を継続したい、こういうふうに新聞にも報道されていますから、私は森文部大臣の明確なこの御答弁を高く評価をいたしているわけでありますけれども、この教科書無償について、これからあらゆる外部的な圧力といいますかそういうものがある中、文部大臣としてはどういうふうにこれをやっていかれるか、御決意を伺いたい。
  114. 森喜朗

    森国務大臣 今お示しをいただきました憲法第二十六条に掲げます義務教育無償の精神、これをより広く実現する一つの施策として教科書無償制度が今日まで続けられてきておるわけでございます。したがいまして、今後とも私どもはこの精神はさらに広く行き渡るようにしていくことが文教行政を預かるものとしては大事なところだというふうに私自身考えておるところでございますが、ただ、この制度のあり方につきまして臨時行政調査会からの廃止等を含め検討するという答申もございました。しかし、その後中央教育審議会におきましては、教科書のあり方等につきましてまた御建議もいただいた。そして、五十九年度のこの予算につきましては、引き続き無償を継続するということで措置をさせていただきましたが、今後の取り扱いにつきましては、各方面の意見に耳を傾けなければならぬ、そういう事態になっております。私自身といたしましては、先般も国会で申し上げましたように、この無償の精神というものを大事に掲げていくという立場からは、これを引き続き継続でき得るように最善の努力を払っていきたい、こう考えておりますが、いずれにいたしましても、いろいろなさまざまな意見がある中でもございますので、こうした各界の意見に十分に耳を傾けて、そして適切な対処をぜひしていきたい、こう考えておるところであります。
  115. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 審議会の予算が五十九年度二百二十三万円計上されておるわけでありますけれども、二百二十三万円ではどこまで充実した審議ができるか非常に疑問であります。審議会の予算についてはどう考えているか。  それから、六十年度予算に反映したいというふうに意欲的に考えております、この臨教審答申が出されるならばやはり六十年度の予算に反映したいと言われておりますけれども、少なくともこれから臨教審の設置あるいは人選ということになりますと、審議会としては実際には概算要求である八月までにその答申が出されるということはまず物理的に難しいだろうと思いますし、審議会としても、唐突に出されても実は整合性という問題等もあるわけです。  そうなってまいりますと、まず六十年度において予算を確保するということは、政府の予算決定のときまでにそういう形が出れば、それはそれなりに対処する、しかし、実際には六十一年度から本番になってくるのではないかというふうに、私はこれからの審議経過等も考えますとそう思えてならぬのですが、その点については文部大臣はどうお考えでしょう。
  116. 森喜朗

    森国務大臣 私も法案の成立を一日も早くお願いをしたい、こう期待をいたしておるわけでございまして、法案が成立になりましたら速やかに審議会発足をさせたいと考えております。ただ、具体的にいつまで、どのような時間をかけてどのように審議をするかということは、今の段階で私から申し上げることは越権でございまして、審議会自身で御判断をいただくことが適当であろうというふうに考えます。したがいまして、現段階で来年度の予算の概算要求あるいは来年度の予算の編成について審議をどのように反映するかということについては、今の時点で私から申し上げることはやはり困難なことであろうというふうに考えております。  ただ、教育の予算について御議論をいただくという審議会ではないわけでございまして、結果的にはそうした問題にもある程度論議が深められていくことは、これは審議会の皆さんのお考えになることでございます。したがいまして、私の今の立場から言えば、このことを来年度の予算にどうこうするというようなことについての言及は差し控えたい、こう考えております。
  117. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 人事院総裁、どうも長い間待たせて済みません。  官僚組織というものは、学閥とか学歴とかそういうものの偏重の代名詞のように実は言われているわけです。国家公務員の就職には、学校別に見ますと偏った傾向がずっと出ている。なかんずく、東大とか京大という線でなければ官僚としての出世は見込めないとまで実は言われております。  そこで、現在、各省庁における局長級以上の職員の国公立、私立別の人数はどのようになっていましょうか。
  118. 鹿兒島重治

    ○鹿兒島政府委員 お尋ねの人数についてお答え申し上げます。  本年一月一日現在で、人事院が選考の対象としております本省庁の局長級以上の官職の在職者でございますけれども、総数二百名おりまして、その二百名のうち国立大学の出身者が百九十一名、私立大学の出身者が三名、その他が六名ということになっております。なお、国立大学出身者百九十一名のうち、東京大学出身者が百五十七名、京都大学出身者が十一名、以上でございます。
  119. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 それは、例えば東大とか京大は、今ちょっと人数を言われたわけでありますけれども、この全体に占める割合というのはどうなりましょうか。
  120. 鹿兒島重治

    ○鹿兒島政府委員 二百名に占めます東京大学出身者の割合が七八・五%、京都大学出身者が五・五%でございます。
  121. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 国家公務員の就職がある特定の学閥とか学歴によって占められているところに現在の受験戦争の起因があり、その助長をしているというふうに私は思います。そのために、親というのは、子供が国公立に入ることが子供の人生を決めることであるとともに、親として子供に対する期待が過重になっているというふうにも考えられます。国自体が就職に対してこの弊害を取り除かなければならないというふうに思いますけれども、これについては当然上級試験とか中級試験あるいは初級試験があります。ありますけれども、結局は、結論から申し上げれば、東大とか京大がほとんど局長以上を占めてしまっている。だから、各省庁で採用するときには不思議とそういうふうな形で、どんどん出世するのはこういうふうな国立、なかんずく東大、京大というところになってしまう。中には私立て非常に優秀な人がいて、この次は必ず局長になるだろうと思っておったところが、案外と東大の人がその上を越していくというような、そういう官僚組織というものに対しては非常に問題がある、そういう点を痛切に感じます。  なかんずく文部大臣の早稲田、これを見ましてもちょっと何も書いてありません。大臣になられる、そういうすばらしい政治家が生まれるところですから、当然官僚等においてもそれなりの優秀な方もおられるでしょうけれども、例えて言うならば、早稲田でそういう上級試験を通ったって人脈がない、そのために結局は、課長ぐらいまではいくけれども局長まではいかない、そういうのが現実なんですよ。だから、そういう問題について、これは人事院としては、私の方は上級、中級、初級の試験だけやるのだからそれでいいとおっしゃるかもしれないけれども、こういう弊害が出てきている以上、やはり人事院としても具体的に何か言わなければならぬだろうと私は実は思うのです。  その証拠に、「潮流」という囲みの中に、今回通産省で小長啓一さんが事務次官になったということ、東大出身者が占めてきたいすにかわってということは、これは同省の歴史始まって以来の大変な異色人事である、こうまで言われたのでは学歴偏重、学閥偏重だと言わざるを得ない。この弊害を取り除かなければ、結局、受験戦争とか東大に入れなければ官僚として出世しないという、そういうものになってしまうだろうと思うけれども、それについて人事院総裁、あなたの方としては、試験をすればそれでいいというようなお考え方でなくして、やはり物を申すところは第三者機関として物を申してもらいたいと思うのですが、いかがでしょう。
  122. 内海倫

    内海政府委員 御所見は私も大変同感するのでございます。そしてまた、公務員の勤務する、とりわけ国家行政の組織の中で、その上級の幹部が一つ大学によって多数を占めていくということは、元来からいうと決して望ましいこととは考えられないので、できればバラエティーに富んだ各大学出身の優秀な人がそういう職についていただくということが一番望ましいと思います。  さて、それではどういうふうにすればそういうふうな道が開けるか、これは必ずしもきのうきょうの問題でなく、かなり長い間にいろいろ考えられた問題であろうと思いますけれども、なかなかいい答えが出ておらないと思います。人事院の行っております試験は、先刻御存じのように公開で、能力の競争試験でございますので、試験を通して大学を制約するということはすべきことでもございませんし、またなし得ることでもない、こう思います。したがって、採用後の各省においての人事管理をどう行うかということも一つの大事な問題であろうと思いますが、同時に、その試験に来る以前の大学というものの管理というふうな面で、余り集中することのないようないい方策がとられてはどうかな。といって私、今直ちにどういうふうにすればいいかというそれの具体策を持ちませんけれども、要するに、人事院の試験の以前の大学の問題というものがもっと深刻に考えられていく必要があるのではなかろうか、こう思います。  いずれにいたしましても、お説の点につきましては、人事行政を対象としております私どもも、今後さらに本当に、それはいろいろ研究していかなければならないものと思います。
  123. 鈴切康雄

    ○鈴切委員 時間になりましたので、本当はもっと御質問申し上げたいわけですけれども、これで終わりたいと思います。大変御苦労さまでございます。
  124. 片岡清一

    片岡委員長 三浦隆君。
  125. 三浦隆

    三浦(隆)委員 臨時教育審議会設置法案について二、三お尋ねをしたいと思います。  初めに、大変限られた時間でございますので、私たちの民社党の立場としましては、委員の人事の問題あるいは審議会報告の問題、そうしたことを除きますと、基本的に臨教審の設置には賛成でございます。そこで、我が党がなぜこれに賛成であるかといった、まず党の見解を初めに述べさせていただきながら、質問に入らせていただきたいと思います。  最近でいいますと、昨年の六月十一日に教育臨調設置に関する提言を党として行いました。また、同年十二月十三日、教育改革についての民社党の提案を出させていただきました。こうしたことに基づきまして五十九年一月十七日、本年早々でございますが、佐々木委員長が党首会談に臨みまして教育臨調設置を首相に提案をいたしました。そうしたことが今日の法案提出へと実ってきたのだろうと考えております。そして、三月十四日に教育に関する提言というものを出させていただいております。     〔委員長退席、池田(行)委員長代理着席〕  ここでは、なぜ民社党がこれまで教育臨調を設置すべきだと主張してきたのか、そしてまた、こうした審議会ができたならばどういうことを審議してほしいかということ、また審議会の構成と運営はかくあってほしいというふうな願いを込めまして文書をまとめて、ございます。  読ませていただきたいと思います。昭和五十九年三月十四日付です。     教育改革に関する提言   民社党は結党以来、教育を重視し、「教育国家の建設」の提唱など、常に努力してきたところである。特に、最近の教育の荒廃、青少年をとりまく社会環境の悪化などを考えるとき、教育改革は急を要する国民的課題となった。  この見地から民社党は、本年一月の党首会談において、教育改革国民の総意を結集してとりくむため、いわゆる「教育臨調」の設置を提唱した。  われわれは、中曽根総理がわが党の主張を容れ、教育改革を推進する新機関の設置を決めたことを評価するものであるが、それが真の教育改革に直結するよう、この機会にあらためて新機関性格審議内容等のあり方について、提言するものである。  1.いわゆる「教育臨調」を設置すべき理由教育の荒廃、青少年非行の激増、社会環境の悪化などの問題は、単なる一時的な現象ではなく、教育現場はもとより、利己的な風潮、学歴社会、都市問題といった今日の社会のあり方にかかわる幅の広い、根の深い問題である。したがって、国民の叡知と総力を結集して、その改革に緊急、かつ積極的に取り組まなければならない。  これまで、教育改革については、昭和四十六年の中教審答申をはじめ、注目すべき提案があった。しかし、文部省の無気力、日教組等の抵抗などにより、改革は殆んど実行されず、教育の荒廃をそのまま放置する結果となった。これは、教育文部省、日教組および教育関係者という狭い枠の中で取り扱われ、国民のコンセンサスの上に立脚して、政府を挙げて取り組む体制がなかったことに基本的原因がある。中教審の限界もまさにここにあったと言わざるを得ない。  したがって問題解決のためには、いまや、文部省中教審といった既存のタテ割り行政の枠組みを超えた、全国民的視点で「教育」をとらえ直すことが不可欠となっている。  民社党は、このような観点から、総理大臣諮問機関として、「臨時教育改革調査会(仮称)」の設置が必要だと考える。  なお、調査会の設置にあたっては政治的中立性を確保するとともに、その意見答申については政府がこれを尊重し、実行をはかるものとする。  2.審議内容  憲法及び教育基本法の精神をふまえ、教育改革にかかわる事項を調査審議するものとする。特に、教育制度面の改革のみならず、青少年の健全な育成を確保するための社会のあり方や、各省庁の枠を超えた幅広い問題等を重点的に審議するものとする。  審議の柱は次のようなものとする。  ① 教育理念  教育基本法にもられている教育理念の一層の具体化、及びその具体的指針としての教育憲章等の検討。  ② 教育制度  六・三・三・四制を中心とした入試、偏差値、中高一貫教育大学制度、幼児教育のあり方、教員養成、私学振興等の検討。  ③ 教育内容  学習指導要領(勤労体験、道徳などを含む)、教育課程、教科書及び教育器材等の検討。  ④ 教育行財政  第四権的教育機関(中央教育委員会)の  検討、国と地方の役割分担、教育委員会のあり方、教育費の父兄負担、育英奨学制度等の検討。  ⑤ 青少年をとりまく社会環境  学歴偏重社会の是正、マスコミ等を含む精神文化、都市問題、家庭教育、社会教育、生涯教育、矯正教育等の検討。  ⑥ 国際化への対応  留学生の派遣と受入れ、外国語教育の充実、海外子女教育、外国人教師の採用拡大、海外研修等の検討。  3.構成と運営  ① 教育改革についての国民的合意をつくり出すため、委員の人選については教育界のみならず、経済界、労働界、言論界など、各界の代表を選ぶ。  ② 設置期間は三年程度とする。事務局長教育行政の中心をなす文部省から選任することとし、事務局は各省庁から幅広い協力体制を確立する。  ③ 審議にあたっては、短期的に結論が得られるもの、中長期の審議を要するものに分け、合意できた部分は逐次答申を出して実行にうつす。なお、必要に応じて中間報告を発表するとともに、中央・地方の公聴会等を通じて教育改革に対する国民意見が反映できるようにする。  民社党の見解でございます。こういうことで、我が党は基本的にこの臨教審の設置に賛成でございます。  そこで、官房長官お見えでございますので、時間の制約があるようでございますので、初めに官房長官にお尋ねをしたいと思います。  所掌事務等に関連しての問題でございますが、初めに法案第二条、諮問と諮問への要望についてであります。そして、その一は諮問事項の決め方についてです。法二条の規定によりますと、審議会内閣総理大臣の諮問に応じてその諮問事項を審議する、こうあります。したがって、どのような諮問が行われるかによって審議会の活動範囲及びその存在意義が変わってまいります。このような重大な諮問事項を総理大臣はどのようにして決めるのか、その手順、手続過程はどうなっているのか、お尋ねをいたしたいと思います。
  126. 藤波孝生

    ○藤波国務大臣 臨教審の設置法の御審議をお進めいただいておりまして、心から感謝を申し上げたいと思います。  今お話しのございました諮問につきましては、この設置法案の御審議が進められてまいります国会でのいろいろな御論議なども十分参考にさせていただき、かつ各方面の御意見も十分承らせていただいて諮問をしていくようにいたしたい、このように考えておる次第でございますが、既に総理大臣あるいは文部大臣から御答弁申し上げておるかと思うのでございますけれども、よくこういう審議会の場合に、諮問文の中に非常にコンクリートに、こういうことを御審議いただきたい、それにはこういうふうに政府の方は考えておるのだけれども、それに対してどんなふうにお考えになりますか御答申をいただきたい、というふうな形で諮問をする場合もございます。しかし、今回の臨時教育審議会の場合には、教育の今日置かれております状況にかんがみましていろいろな問題点を御指摘もいただき、かつ、それを是正していくにはどうしたらよいかというようなことについて積極的に御意見を述べていただく、できる限り広い国民的な広場をつくって、そこで各方面の御意見を承っていくことにしたいというのが気持ちでございます。したがいまして、言葉がいいかどうかと思いますけれども、審議会の方で伸び伸びと御論議をいただくというところに力点があるように思います。そういう意味では、余り固まった、中身にまで立ち至るようなそういう諮問の仕方でなくて、むしろ今日のこの状況の中で教育をどのように進めたらよろしゅうございましょうかというようなことを御諮問申し上げてお答えを願うというような方に力点があるのではないかというふうに考えております。  それにいたしましても、その中身につきましては、国会の御論議等を十分踏まえさせていただきましてこれを決めていくというふうな運びにいたしたい、こう考えておる次第でございます。
  127. 三浦隆

    三浦(隆)委員 実はどういう諮問を行うかといったテーマをお尋ねしたのではないのでありまして、だれがどういう手順でどういう手続過程を経て諮問の内容が決まってくるのだろうかということなんです。実は次の質問とも関連がございます。  審議会にいかなる諮問を行うか、それは今の御答弁にもありますように、現在のところ不明でございます。このため審議会は、総理大臣の諮問いかんによってどのような方向にも針路を決め得る船のようなもの、またどのような色にも染め得る白い布地のようなものだ、こうも考えられます。審議会をこのようなあいまいさを残したままに見切り発車させることに、人によりましては戦前的な右寄りに逆行するのではないだろうかといった不安を感じている方もいらっしゃるようでございます。そこで、政府はこのような国民の不安に対してどのような対応策をお考えなのでしょうかということであります。
  128. 藤波孝生

    ○藤波国務大臣 手続といたしましては、まだ明確に定めておるわけではございませんけれども、当然この問題の中心に立っていただいております文部大臣、それから臨教審の事務局の責任者になるべき文部事務次官等の御意見も十分踏まえ御相談を申し上げつつ、総理大臣から審議会出発の際に、こういうふうな考えでこの審議会を設置した、どうぞひとつ国民を代表するというお立場で広い角度から教育のあり方について調査、審議をお願いしたい、こういうふうに申し上げるという形で述べられるというふうに思っております。まだ明確に固めておるわけではございませんけれども、手続といたしましてはそんな感じになるかな、こう思っておる次第でございます。  それから、その諮問の中身がはっきりしないと、この法案が成立をして審議会が出発をして、そしてそこで今申し上げたように総理大臣から諮問が出るということで、後からそれが出てくるということではこの法案審議について行き届かぬところがあるではないかという意味の恐らく御質問であろうかと思うのでございます。  そのことにつきましては、今御答弁を申し上げましたように、先生大学で教鞭もおとりをいただいておりますので釈迦に説法でございますけれども、教育が非常に充実をして、今日教育水準も高まってきた。その上に立って児童生徒にはいろいろ問題行動もあるし、あるいは非常に過熱した受験競争といったような部分も見られる。そういう中で知徳体のバランスのとれた立派な日本人を育成していくという教育を目指してどんなふうに進めていったらいいだろうかという、今の教育を見る場合のおおよその問題の指摘というのはあると思うのです。そういうのを総理が諮問を申し上げるというようなことになりまして、それに対して、二十五人以内で御論議をいただきます委員方々に積極的にいろいろな意見を述べていただいて、そしてこういうところに問題があるよ、こういうところはこう改革すべきだよというような御意見をどんどんと出していただく、それがまとめられていくというところに実は主眼がある、こういうふうに考えておりまして、それには、民社党から御提案もいただいておりますけれども、二十五人以内の方というのは、広く各界、まさに国民を代表するというような立場での御委嘱を申し上げることが非常に大事だよと言っております。そのことをやはり忠実に実行させていただいて、そしてまさに国民の代表の方々に御参加いただいて国民的論議の中でこの方向を見出していただく。  先入観として中曽根内閣がやるなら右向いていくのではないかとか、あるいは中曽根流の教育哲学を押しつけるのではないかとかいったような御批判を一部に聞かせていただくのでございますけれども、むしろそういうことではなくて、皆さんの御意見を聞かせていただいて、ひとつ一緒に論議をさせていただきたい、その御意見を伺って政府としても文部省を中心として改革の仕事を進めていくようにいたしたい、こういうところに力点があるということをどうか御理解いただきたいと思うのでございます。
  129. 三浦隆

    三浦(隆)委員 諮問を総理大臣がお決めになるわけですけれども、今御答弁いただきましたように、例えば世論調査や何かで教育改革国民がどういうことを望んでいるのかとか、文教委員会審議を通じながらどういうことが諮問していただくのにふさわしいであろうかとか、あるいは各党派ごとにいろいろな問題があろうかと思います。また、教育全般といえば、知育、徳育、体育ということもあるでしょうけれども、限られた時間で限られた人数の方が審議されますというと、あらゆるものにはどうしても手が回りかねる。場合によっては、大臣の御発想かと思いますが、体育、徳育、知育の順番というのもあり得るかもしれないというふうなことも踏まえまして、ひとつ柔軟な姿勢で諮問をお考えいただければいいなと思っております。  たまたま昨年十二月の総選挙をきっかけとしまして総理の「教育改革七つの構想」というのが新聞に載せられてございます。それを見ますと、一つには六・三・三・四制の学校体系の見直し、二つ目に高校入試の多様化、弾力化と業者テストによる偏差値依存の進路指導の是正、三番目に共通一次試験を含む大学入試の改善と高等教育の質的充実、四番目に社会奉仕活動や集団宿泊訓練の重視、五番目に地域ぐるみによるしつけなど基本的生活習慣の形成や情操教育道徳教育、体育の充実、六番目に留学生の受け入れの拡充など大学の国際化の推進、七番目に教員の資質向上を図るための教員養成制度改善、採用方法の多様化、研修制度の充実というふうなことが挙げられておりますが、この七つの構想と諮問との関係はどうお考えでございましょうか。
  130. 藤波孝生

    ○藤波国務大臣 国民皆様方の各方面から、教育改革を進めるべきである、それには政府自身考え方もあろうけれども各方面の御意見をよく聞いて、そして意見をまとめてその方向に向かって改革をするというような手順で進めたらどうか、そういうふうないろいろな御提案や御意見をお寄せいただく向きが多うございまして、そんな中で今教育の現状はどうなっているのか、改革するとするればどういうところに問題点があるのか、盛んに何回も何回も総理大臣文部省文部大臣や文部事務次官を初め皆さん方の御意見も聞くというような機会がございまして、そんな中で、特に問題とするところというので今御朗読になりました「教育改革七つの構想」といったものがまとめられたのでございます。  しかし、それは今申し上げましたように、こういうところに特に問題があるかなというふうにまとめたものでございまして、これが今度の審議会の中でどれだけの意味になっていくのか、むしろいろいろ御論議をいただく場合に一つの参考資料としてこれらの点についてもよくお考えもいただき、あるいはこれらの意見について御批判もいただくというようなことで御論議が深まっていけばいいが、こう思っておるわけでございます。  何回も申し上げますように、諮問の中身につきましては、今後の国会の御論議等もよく参考にさせていただきまして、さらにこの七つの構想についてもいろいろ思いをめぐらせまして、文部大臣の御意見を特によくお聞きもいたしながら、諮問をする場合にどれだけこの中で物を言っていくことになるかということについても検討されていくことになる、こう思うのでございます。そんなにコンクリートに決定をしたことではありませんで、総理が手元でまとめて発表したという形のものでございますので、あくまでもこれを参考にしていただきながら進んでいけばと考えておる次第でございます。
  131. 三浦隆

    三浦(隆)委員 この七つの構想は、国民の世論調査によりましても、かなり多くの人が望んでいる問題点だとは思います。ただ、一つ大きな問題が欠けていたように思えるのです。といいますのは、この七つの構想にはいわゆる非行、校内暴力問題が欠けているということであります。  最近の新聞の世論調査では、どの新聞でも同じような答えが出ておりますが、教育改革が必要だとする国民の声が大変に高くなっております。では具体的にどういうことを教育改革でしていただきたいかといった国民の願いは、例えば毎日新聞によりますと、第一は入試制度だ、第二は非行、校内暴力問題ということで、大変大きなパーセンテージを占めております。以下ぐっとパーセンテージが下がりまして、教員の資質、教育内容、落ちこぼれ、画一教育等が挙げられております。これに対して、首相の七つの構想の第一に挙げられております六・三・三・四制の学制見直しの意見は大変少数意見でございます。  そこで、この世論調査というものをもし尊重していただけるならば、諮問事項として非行、校内暴力問題に関連して、学校教育とも深くかかわります少年院等での矯正教育の問題についてもいかにあるべきか、ぜひともお取り上げいただきたい、こう思うのでございますがいかがでしょうか。お考えのほどを……。
  132. 藤波孝生

    ○藤波国務大臣 先ほどお答えを申し上げましたように、教育改革をしていかなければいかぬという認識を持つに至っております非常に大きな理由として、一方で過当な受験競争ということから来るいろいろな弊害などが挙げられますのと同じように、校内暴力とか非行青少年の問題、この問題をどう考えるか、この対策をどうするかというようなところが、教育は今のままでいいのかということを考えるに当たりましての非常に直接的な動機になっている、こう思うのでございます。  したがいまして、これを解決していかなければいかぬわけでございますけれども、その解決の手法は文部省を中心としていろいろ御検討いただいてきておりますが、直接的には、例えば校内の暴力事件に対して、その生徒を補導していろいろな注意を与えるとか、あるいは学校外でいろいろと問題を起こしていることについて厳重にこれを指導するとかといったような対策も当然あるわけでございますけれども、教育改革としてとらえました場合には、むしろ情操教育道徳教育を重視するとか、あるいは学校内のいろいろな共同の生活を大事にして、その中で友人関係先生と生徒との関係をもっと正しいものにしていくとか、いろいろ教育的な立場での取り組みが大事だ、こういうふうに文部省もお考えになりまして、今申し上げたような意味では、直接的にそのことに触れていないというのはそういうところに理由があるかと思うのでございます。  お話がございますように、そういった事件が非常に頻発をいたしておりまして、そこでいろいろと補導をされる生徒児童の問題というのはもう看過できない非常に大きな問題だと思います。そしてまた、その子供たちをどう矯正していくかということは、実にまたその子供たちにとって大きな問題である、こういうふうに考えるわけでございますので、当然いろいろな角度から御審議をいただきます中でそういったことが話題として大きく浮かび上がってきて、そのための対策をどうしたらいいだろうかというような御論議が恐らく行われるであろうというふうに思うのでございます。諮問ということの中にそのことを直接入れるかどうかということはまた今後の問題といたしましても、十分私どもも頭の中にそのことを置いてこの審議会での御論議が深まり広まっていくことに期待を申し上げつつ、見守らせていただきたい、こんなふうに思う次第でございます。
  133. 三浦隆

    三浦(隆)委員 実は大人でも犯罪を犯して刑務所に一度でも入りますと、いわゆるムショ帰りというふうなレッテルがついて、なかなか社会でよく認めていただけません。せっかく更生を誓って出ながら、また再びそのために逆行してしまうということがあり得るわけであります。いわんや、小さい子供が何事かをなすというのは紙一重だと言ってもよかろうと思います。たまたま教える先生なり文部省の偉い皆さん方は、そうした非行なりそういう体験を持たれないですんなりこう上がってきた皆さん方でありますが、そういう点ではかえってそうした落ちこぼれたというか非行に立ち至った子供さんたちの気持ちが場合によるとつかみがたいのではないかと思うのです。  私が恐れますのは、現実に教える先生方がほとんど少年院の実態を知っておりません。あるいは学校の子供たちももちろん知りません。そこでテレビで、例えば子供たちがよく漫画で見ます「あしたのジョー」というのがございます。その「あしたのジョー」に見る少年院というのは、そこに入ると重い鉄の扉がギイッと音を立ててガチャンと閉まる。社会とは隔離された姿がそこに出てまいります。あるいは、その閉ざされた少年院の中ではボクシングで乱暴することも放任されていることが映されているわけであります。実際の少年院を知らない人が「あしたのジョー」を見て、少年院はかくかくのものだという誤ったイメージを持つかもしれません。  事実、学校で乱暴ろうぜきを働いたからこそ鑑別所、少年院に入っているとしますと、先生にとってはやれ厄介払いができたかなと思い、またそれが学校へ戻るとまた学校はえらいことになっちゃうのかなという不安をもし感ずるとするならば――少年院というのは大変に開放的に、職員の人も一生懸命よくやっていただいておりますし、そしてまた、文部省ともタイアップしながらそこで勉強した人たちはそれなりの卒業のかわるべき証書も取ることができるように実際なっているわけでありますけれでも、知らないということはその点で大変に誤解を招きやすいと思います。私自身、教員生活は長いのですが、これまで矯正教育の実情というものを全く知りませんでした。たまたま横浜の十人の野毛浮浪者襲撃事件というのがございまして、私は、非行の実情や更生の実情を知りたいものと思い、横浜の少年鑑別所から二、三の少年院を見て回った経験を持っております。学校先生方もそこを訪ねてみれば、恐らくこれまで先生方が知らない全く違った子供の素顔、一生懸命立ち直ろうとしている素顔を見ることができるだろうと思うのであります。しかし、多くの先生方は矯正教育の実情を知りません。このため、矯正教育を受けて立ち直ろうとしている子供たちの心情を理解できず、非行を犯した生徒がかつての学校に戻りますと、あいつは乱暴したんだというイメージがどうしても消えません。また、人間によくあることですが、先生とも相性が悪いかもしれないのです。せめて義務教育ですから同じ学校先生をかえる、クラスをかえることができないか、あるいは学校をかえて近所のほかの中学に移ることができないだろうか、こう思うので、こう質問したところ、それはだめだという答えを文部省からいただいております。  私は、六・三・三・四制の問題という大きな学制の変更を語る前に、現行の学制のもとでも非行に走った子供を立ち直らせる方法というものは工夫すれば幾らでもあり得るんじゃなかろうかということを踏まえまして、ぜひともこの矯正教育の問題を避けることなく真っ正面にとらえて、これはもう片手間ではなくて本当に全力を挙げて御研究いただいていい課題であろう、こう思っているわけでございます。質問の途中ではございますが、文部大臣からもこれに関連して一言御意見を聞かせていただければ幸いだと思います。
  134. 森喜朗

    森国務大臣 矯正教育先生のお考え方、大変私も参考になる御意見で、またかつて一緒に文教委員会の中でそこにいらっしゃる嶋崎先生や皆さんと教育問題を議論してまいりました。その都度先生からこうしたお考えを示されまして、大変私自身も敬意を表しておるところでございます。  もちろん矯正教育なども御論議の中に加えることになるのかなということも、先ほど官房長官も申しましたように、どのような事柄を臨時教育審議会の皆さんで御論議をいただくかということは審議会自身でお決めをいただきますが、当然国会で御論議をいただいたような事々、またマスコミ等を通じて教育問題に対する各界の御意見、こうしたことを踏まえて論議をされることになろうかと思います。  たまたま今、総理の七つの構想について、先生から非行の問題等が入っていないではないかということでもございましたが、六・三・三・四制の中で、あるいは高校入試の問題や偏差値の問題や共通一次の問題をある程度改善することによって、むしろ子供たちが本当の意味での使命感を持ってくれて、そして知徳体三つがバランスがとれた人格形成がなし得るような教育的環境をつくり上げるということでございまして、青少年非行の問題に触れていないということについては、すべての事柄に関係することであって、むしろ子供たちが健全に大きく成長してくれることを願って、そのためへの幾つかの、今問題行動となってまいりますようなこうした教育の現状の問題等についてある程度考え、改めていくということが目下一番喫緊の国民要請であろう、私はこういうふうに考えておるわけでございます。
  135. 三浦隆

    三浦(隆)委員 いろいろな諮問がなされ、いろいろな答申がなされ、それが具体化に移されて、そしてそれであってもなおかつ非行の問題がすぐ解決するというものではないのだろうと思うのです。現に今多くの本人が、親が、地域の人が悩んでいることでありますので、まずとりあえずできることは、今言ったように義務教育の枠内で学校をかえることができるか、都市なんかでは幾らでも学校はあるわけでございますから。あるいはクラスをかえることができるかということです。これはもちろん先生方にとっては一種の人気投票をされるようなことかもしれませんが、むしろ一般の自由社会は、商売その他はみんな自由競争なのでありまして、それがなされないところにむしろ教員の甘えもあるかもしれない。本当に子供にとっての教育はいかにあるべきか。ちょっと非行の問題が出たらおろおろして体を壊した、食欲不振だ、やめたくなった、あるいは手がつけられなくなったらひっぱたきつけた、そんなような意気地のない教員、そんなところではこの問題は解決つかない。また同時に、それだけじゃない、先生と子供の人間としての相性の問題みたいなものもあろうかと思いますので、ぜひとも引き続き御検討いただきたいと思います。  官房長官にもう一問だけ。  この審議会発足しまして、諮問にこたえての答申が出されますと相当それなりの予算が必要だと思うのです。一方、大変文教予算も切り詰められてまいりますけれども、そうしたときの予算処置というのはどのようにお考えなんでございましょうか。
  136. 藤波孝生

    ○藤波国務大臣 設置法案の御審議をお願いして成立をさせていただきまして、この審議会が出発をする。今のところ三年という期限で御論議をいただいていくわけでございまして、その間にどんなふうな形で答申が出るかというのは、いろいろ審議会自身の御意見の中でまとめられていくことになろうかと思うのでございますが、大所高所から教育はいかにあるべきかという御論議をいただきます中で具体的にはどんなふうにまとめられていくかは今後の問題でございますので、これはお金を伴うものもあれば、制度の問題として検討されなければならぬ問題もありましょうし、あるいは別の形で、地域とか家庭とかがもっと話し合うというようなことで解決していかなければならぬというような御提言がある場合もありましょうし、今からこの審議会答申を予測することはなかなか難しゅうございますので、今の段階で、ではそれに要する予算はどうするかという御質問に対しましては、いずれ御答申の結果を見ましてから、こう申し上げる以外にないと思うのでございます。  ただ、今日いろいろな国政の分野があります中で教育という仕事が非常に大事である、特に、二十一世紀に向かって進んでいく日本にとって今日教育がいかにあるべきかというこの課題にどうこたえるかということは、実に大きな問題であるという認識に立ちまして教育改革を進めていかなければいかぬ、それには各方面の皆さん方のお知恵、御意見をいただいて改革案をまとめていただくことにしょう、こういう認識に立ちまして審議会が出発をしていくことになるわけでございます。これは本当にお金が伴うものになるのか、金がなくても知恵を出せということでまとめられるのか、中身はわかりませんが、教育を重視するという政府の姿勢は今後とも最も大事にして進んでいかなければならぬ、そんなふうに考えておりますので、答申が出てまいりましたならばその考え方を大事にして取り組んでいくというこの姿勢だけ申し上げておきたいと思うのでございます。
  137. 三浦隆

    三浦(隆)委員 現状の教育を守る、それだけでもかなりの予算が必要なんだと思うのです。それを現状を変えるとなりますと、これは相当それなりの予算がかかってくることだろう。これは答申をいただかなくでもおよそ予想されると思います。同時に、教育については余り惜しまないで、とにかく未来の大きな問題がかかっておりますので、文部大臣とも御相談いただきまして積極的に予算を確保していただきたいと思います。  官房長官、大変お忙しいところありがとうございました。まだいろいろとお尋ねしたいことがありますが、貴重なお時間のようですのでこれで質問を終わらせていただきます。どうも御苦労さまでございました。  森文部大臣の方にお尋ねをしたいと思います。  臨教審法案の提案理由に関連してですが、提案理由で先ほども御質問がありましたが、「二十一世紀の我が国を担うにふさわしい青少年の育成を目指して教育全般にわたる改革を推進していく」、こうあります。抽象的な言葉のやりとりですとどうもわかりづらいものですから、具体的に一問一答的な形でお返事をいただければありがたいと思います。  まず初めに、現在のままの教育ではどこがどのように悪いのか、また、現在の青少年のふさわしくない点は何なのか、この点についてお答えをお願いします。
  138. 森喜朗

    森国務大臣 今の青少年がだめであるとか今の青少年のどこが悪いんだということを文部大臣という教育の任にある長が申し上げるということは、これはどのようにお答えをしていいのか、私自身も非常に困っているところでございます。ただ午前中、また鈴切さんの御質問の中でも私は再三申し上げてまいりましたように、日本教育はある意味では大変大きな成果をおさめたと思うのです。それが今日、世界の中でこれだけのすばらしい隆盛をきわめるようになった。これは量的にもまた質的にもお認めをいただけるだろうと思います。  しかし、現実の問題として、どうも教育が理由となって社会の荒廃現象が幾つか起きてきている。こうしたことを私どもは大事に考えて――先ほど民社党の政策提言もございました。私も極めて敬意を表するすばらしい御提言であると常々拝見をさせていただいておるところでございますが、具体的に申し上げれば、例えば受験競争などが一つの原因になる、そしてそのことが問題行動になる。すべての問題行動がその原因だとは言えませんが、問題行動等がある。そういういろいろな御意見や御指摘があるということから考えて、学校教育の現状は能力、適性が多様化している実態に十分な対応ができないようになっているのではないか。すばらしい制度といえども、世の中が変化をしていけばそれに対応でき得るような状態をつくっておかなければならぬ。抽象的と今御指摘をいただきましたけれども、そういうような考え方教育改革の一番大事なところである、そういう基本的な考え方を持つものでございます。  したがいまして、あえて先生から現在の青少年のどこが問題だろうかということになれば、幾つかの問題はあろうかと思いますが、やはり物質的な豊かさ、そして過保護など、そしてもう一つ、文明というのが非常に進み過ぎている。例えばコンピューターあるいは電気機器等が発展していけばいくほど、逆に言えば人間の一番大事な触れ合いという面がおろそかになっていくわけでございますので、そういう面から考えますと心身ともにひ弱であるということ、あるいは忍耐力が欠如していくというようなこと、どちらかといいますと受け身であって、挑戦をしていくといいましょうか、自主的である、自発的であるというようなことが乏しくなってきているのではないか、こんなふうに考えるわけでございます。
  139. 三浦隆

    三浦(隆)委員 私も、戦後の日本教育というのは大きな目で見れば世界的にも成功しているのだろうと思っております。ただ、それにもかかわらず、なぜ今中教審では飽き足らないで臨教審へと移ったかといえば、このままではどうもいけないのだろうという何かがあったわけでありまして、それが具体的に例えば今の子供たちがひ弱なんだとか何々だというふうにわかれば――今の子供たちはまた私たちの子供のころと違った別な面でいい面もたくさんあるわけでして、よかった教育面あるいは子供のよい点は時間の都合上あえて割愛したのでございまして、その中でもよりよくということで、どうしたらもっとよい教育へ、どうしたらもっとよい子供になってくれるだろうかということで、具体的にまずい点を挙げることによってさらによりよいものが生まれてくるだろうという趣旨の質問でございました。  そこで、青少年の理想像に絡みまして、大臣は青少年の理想的人間像としてどのようにあってほしいと考えるか。今の答えの裏返しかと思いますが、どのようであってほしいと思うのか。
  140. 森喜朗

    森国務大臣 これは先ほど申し上げたこととまさに裏腹のことになるのかと思いますが、個人としての自立精神を持つということが大事だと思いますし、創造性も持ってもらいたいと思います。それから特に、高齢化社会を迎えるという目前の日本の状況を考えてまいりますと、社会に対する連帯性あるいは協調心、それからもう一つ、国際社会の中における日本の地位が政治的にも社会的にも非常に大きな問題になってまいりますだけに、日本人としての自覚と国際的感覚を持ってくれること、こうしたことがこれから求められていく理想的な青年像というふうに私は私なりの、狭いかもしれませんが、個人的な考えとして申し上げておきたいと思います。
  141. 三浦隆

    三浦(隆)委員 それでは、具体的にどのようにしたらその理想像に到達し得るものでしょうか。
  142. 森喜朗

    森国務大臣 教育を受ける立場といいましょうか、あるいは教育を求めるという気持ちは非常に多様的になっておりますし、幅の広いものでございます。そして、学術研究の面も非常に幅広くなってまいります。しょせん、人間が期限を定められた中で教育を受けるには、ある程度限度があるわけでございます。そういう意味で、日本教育の仕組みや制度や年限、そうしたことがどのようにあるべきであろうか、こうしたことをお問いかけをし、この審議機関で専門家の皆様方からぜひ御検討いただきたいということが教育改革一つのねらいでもあるわけでございます。  そういうふうに考えますと、この間深谷さんの御質問のときにも私はお答え申し上げたわけですが、人間的な面といいましょうか、人間としての基礎的な面、あるいは学術研究を進めるにいたしましてももう少し基本的な面、そういうようなことをもう一遍教育の原点という形で考え直してみるべきではないか、私はこんなふうに考えます。
  143. 三浦隆

    三浦(隆)委員 先ほどの、今の子供たちはどうもひ弱だ、自立心が乏しいというのであれば、その裏返しとしては、そのひ弱さをどういう教育をしたら直すことができるのか、どうしたら自立心を持った子供に育っていくことができるのかということだと思いますし、まさにそのことで、場合によってはそれが諮問の内容にも入って答えが出てくるものと思います。  そこで、その理想像に近いと思われる人物、どなたか一人を挙げていただけないでしょうか。私たちの子供のころは例えば二宮金次郎あるいは楠正成が努力目標であったのですが、今大臣は子供たちに具体的にどういう人になってほしいと思うのか。例えば松田聖子のような歌手になってみたいとか田原俊彦のようになってみたい、華やかだし金はもうかるし、いいのじゃないか、そう希望している子供たちもあるいはいるかもしれぬのでありまして、これに対して大臣としては、挙げるならば子供たちにどういうふうな理想像を、大臣の子供たちに対しておまえらこういう人になってほしいよと挙げられるか。真っ先に御自分を挙げられるかと思うのですが、ひとつよろしく御答弁をお願いしたいと思います。
  144. 森喜朗

    森国務大臣 今ここで具体的にどのような方を理想像として挙げるかということは非常に難しい問題だと思います。政治家の立場ではそれぞれの立場で、例えば福田赳夫がいいとか中曽根康弘がいいとか、あるいは田中角榮さんを尊敬するという立場も、いろいろあるのだろうと思います。ですから、今ここであえて――三浦さんも随分意地悪い言い方だなと思いました。  しかし、今、自分の子供に対してこんな人間を模範とするのだよということになれば、さっき鈴切さんでしたか、おしんという話が出ました。果たしておしんは理想像として求めることができるか、そういう環境ではないはずだ。今日、文明がこれだけ発達して、そしてこれだけすばらしい環境にある日本だということになる。そういうことを考えて、逆に今度は人間像として、広い原野なり身なり海などに真っ裸で置かれた場合に人間としてどういう生き方をしていくのかというようなことを考えてみると、もし自分の子供だったらそういうふうに言ってみたいなと私は思うのです。ですから、具体的な人間を挙げるということは、大変恐縮でございますが、この場ではお許しをいただきたいのですが、あえて今の環境、今の日本の状況ということから言えば、そして先ほどから言っている理想像、求める人間像というものを考えれば、実際にあった存在かどうかは別問題にして、例えばロビンソン・クルーソーみたいな、何もない社会の中で人間としてどうやって生きてきたのか、これは人間の生き方の一つの模範として考えてみる必要がある、私はそんなふうにあえてお答えを申し上げておきたいと思います。
  145. 三浦隆

    三浦(隆)委員 ロビンソン・クルーソーが理想的人物であるというお答えでございましたが、さて、同じような質問を、子供、青少年育成に大変大きなかかわりを持ちます親、現在の親のいい点、悪い点がありますが、今の親がどこが悪いのか、あるいはどうしたらよりよい親になるのかというふうな問題点、そうしたことを今と同じような形でお答えいただければ本当は一番ありがたい、同じように、子供たちの教育にとって大きなかかわり合いを持つのは学校先生でありますので、大変すばらしい先生方が多いけれども、その中でももし悪いとするならば今の先生のどこが悪いのか、同時に、その先生の理想像としてどういうふうに到達し得るものか、あるいは理想的な先生像というのは具体的にだれを挙げたらいいのかというようなこともお尋ねしたいと思ったのですが、時間の制限もあるようですので、これはまたいずれかの機会にかえさせていただきたいと思います。  次は、教育改革の理念の問題についてであります。  教育基本法の理念は、この教育基本法の前文あるいは第一条のところを読んでみますと、一般的に「人間」「人類」「個人」といった普遍的な言い回しと、もう一つ国民」といった日本特殊限定的な言い回し方を並列的に述べているようであります。  例えば前文と一条だけに限って見ますと、「人類の福祉」「個人の尊厳」「人間の育成」「人格の完成」「個人の価値」、これはいわゆる日本国民とは限りません普遍的、世界的な発想でもございます。これに対して、「日本国憲法を確定し」「国家を建設し」あるいは「日本国憲法の精神に則り、」あるいは「平和的な国家及び社会の形成者」という流れに従った「国民の育成」という表現がございます。日本に生まれ日本に育ったというか、日本国民というこれは極めて限定的なものであります。数えてみますと、こうした普遍的な概念と特殊限定的な概念が、偶然かもしれませんが、全く同じ数を数えることができるわけであります。そこに今日の教育基本法の国籍性がどうであるかこうであるかというふうな御意見も出てくるのではないかな、こう思っております。実は今の共産主義国家群の教育は、あるいは戦前日本教育といった場合には、普遍的な概念よりも個々の国家の国民ということを大変強く訴えてまいったわけであります。これに対して、こう変わったことが偏狭な国家主義や軍国主義及び封建的徳目からの決別を告げるものだ、あるいはそれとは違った点を明確にしたいということから、教育基本法スタートを切ったわけでありまして、そのこと自体は十分に意義のあったことだと思うのです。  しかし、これまでの歩みを振り返ってみますと、世界的、普偏的概念としての人間の育成や個の自由及び権利の主張は教科書などで教えることが多いのに反して、日本という特殊的限定的概念としての国民の育成や個の責任及び義務の主張は教科書などで余り教えられることがなかったと思います。そんなことから、日本に生まれ育ったことの喜び、日本人としての生きがい、誇り、民族の独立心、祖国愛、親孝行、夫婦愛などの家族愛が軽んじられ過ぎてきたのではないだろうか、こう思うのですが、大臣、いかがでしょうか。
  146. 森喜朗

    森国務大臣 今の教育基本法は、戦争を体験したその敗戦の反省という中から新しい憲法を制定をした、そしてその憲法の精神を大事にしながら教育のあり方を明確にあらわしたもの、これが教育基本法であるというふうに私は考えております。したがいまして、よく議論に出るところでございますが、やはり法律であろうともあるいは諸制度であろうとも、その当時の社会の状況あるいはまたその社会を構成する人間の価値観、そのことによってかなりいろいろな形で解釈され得るのだろう、こう私は思うのです。  私は、ちょうど戦争が終わりましたときが小学校の二年生でございました。したがいまして、私どもは自分の体を通して日本の戦後の教育を体験してきたわけでございます。したがって、その当時の昭和二十一年以後の日本教育の理念と今のものとは全く違っていないわけであります。しかしながら、今思い起こしてみると、当時は戦争に負けたという茫然自失ということもあったと思いますし、まさか負けるとは思わなかった、そういう神国的日本という考え方を持った人もあったでありましょうし、あるいは敗戦の中で日本の国は全く荒廃となってしまった、そういう中で人々の心も、憲法や基本法やあるいはまた教育の諸制度についての理解というものはいろいろな意味で変わってきたというふうに思うのです。現に私自身も子供の体験を思い出してみると、今であっては当たり前のようなことでも、今三浦さんから御指摘ありましたような愛国心でありますとかあるいは連帯社会でありますとか、人間として最も基本的に大事なことなども、当時の教職にある人たちは、教室で教えることそのものが何か悪いのではないか、そんなおそれと、どちらかというと自信喪失の中で、私は学校を通ってきた、そんな思い出を持つものでございまして、そういう意味で、日本人の喜び、そして敗戦の中から立ち上がった日本の平和というものに対する意識、そしてすばらしい社会をつくり上げる構成員としての人格を形成すると同時に世界の平和、人類の繁栄のために役立つのだ、こういうふうにいろいろな形で明記してある今の教育基本法というのは、それなりに、解釈の仕方はいろいろあろうかと思いますが、そのこと自体は私はそんなに大きな問題があろうとは考えていないわけでありまして、問題は、そのことをどのように理解をし、教育者たちが子供たちに対して指導あるいは教育をどのように施していくのか、基本的にはそういうところにまつべきものがあるのではないか、私はこんなふうに理解をいたしております。
  147. 三浦隆

    三浦(隆)委員 教育基本法の理念そのもの、これはもちろんすばらしいものだと私は思っております。  今質問したのは実は若干違うのでありまして、教育基本法には、戦前教育への反省を踏まえましてそうした普遍的な概念の言葉が出てきた。それともう一つ日本国の教育ということで「国民の育成」という言葉が出てきた。ほとんど並列的に取り扱ってきて、実際の教科書、実際の教育現場では、国民という概念よりもどちらかといえば普遍的概念の方に重きがあったであろうというふうなことのために、当然前提としてあるべきはずであった国の問題、家庭の問題等が軽視されてきたのじゃないだろうか。このことを語ることは、決して教育理念に反することでも何でもないことでありますから、むしろ今後もっと自信を持って語られてよいのじゃないだろうかということであります。そのことと並んで、教育基本法だけでは少し抽象的過ぎますので、これから具体的に今の子供たちにも親にもわかりやすい言葉の的確な文章が何か考えられぬだろうか、そういう気も実はしております。  といいますのも、明治五年の「学制序文(学事奨励に関する被仰出書)」というものがございますが、戦前教育というとすぐに軍国主義と言いやすいのですが、これは全く違うのでありまして、逆に、国家のための学問をむしろ「沿襲の習弊」というような表現でそれを拒否しておりまして、逆に、個々の個人がどうやったら生活していくことができるのか、生きていくためには教育が必要ではないか、生きていくためには読み書きそろばんが必要ではないかというふうなことをむしろこの「学制序文」は全面的に出しているわけであります。学問というのは、そういう格好いい人格形成とか国家のため、そんなことは二の次でありまして、これから時代が変わるぞ、士農工商などという古いことを言っておられぬぞ、一人一人みんなどうやって生きていくのか、生きていくためにはまさに業を習い、もって知能を啓発していかなければならぬ、そういうふうな素朴な発想が読み書きそろばんをしろというふうにここでは訴えているわけであります。  それがたまたま明治十二年の「教学聖旨」のあたりになりますというと、いわゆる儒教道徳的なことがかなり前面に出てまいります。そして明治二十三年の教育勅語で、まさにそうした明治五年あるいは明治十二年のそれとあわせて、新しい「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」といったような忠君愛国的な教えがそこで出てきたわけであります。そして同時に、戦争がだんだん深まるに従って画一的な軍国主義教育へと入っていったわけでありますが、言うならば、これらには、よきにつけあしきにつけまして、教育とは具体的にかくあるものだという具体的なことが述べられているわけであります。  これに対すると、教育基本法は、かくあってほしいというふうなそうしたことであって、いわゆる具体性が欠けているということであります。ですから、我が党としては、教育憲章とでもいうようなものをつくって、子供たちにも親にも教員にも学校へ行くたびにひとつ読んでもらって、そらんじられるような文章で、これだけは最低限度守ってほしいというふうなことをむしろやった方がいいのではないか。決して教育基本法の路線に外れるということではありませんで、それこそ超党派で先生方とも相談させていただくとか、あるいはそれこそ諮問事項の一つにもお加えいただくとかというふうな形の中で、教育基本法の路線をそのままに生かしながらそれをより具体化するもの、いわゆる少年非行に走りやすい子供たちにもああこういう言葉があったかと言われるようなことをお考えいただくということもいいのではないかということなんですが、そういう教育憲章的な発想について、大臣、いかがお考えでしょう。
  148. 森喜朗

    森国務大臣 先生は学者でいらっしゃいますから、非常に学術用語で御質問をいただくものですから、軽輩、博学ではない私は時々間違えて御答弁申し上げて非常に恐縮に存じておりますが、先ほど申し上げたことは、要は、確かに先生のおっしゃるように、かくあらねばならないということよりも、こうあってほしいという期待感みたいなものを盛られている。これはやはり敗戦の中からきた、日本一つの反省の中から出てきたものであろうと思います。要は、どのような表現であっても教える立場の者がどのような使命感に燃えて教えるのかということが大事だ、私はこう思っているわけでございます。そういう意味では、確かに今の教育基本法に書かれている事柄などもどちらかといえば、平易なこともございますが、ある意味ではかくあってほしいなという期待感のようなものにもなっているということは御指摘のとおりだろう、こう思います。  しかし、どういう、例えば今具体的に教育憲章のようなものを三浦さん、また民社党さんとして御提言をいただいたということはかつても私は新聞等でも承知をしておりますが、どのようなことを国民教育の課題として、また日本人として国際社会の中に生きていく人間としてどのようなことをしっかり身につけていかなければならぬのか、こうしたことをどのような目標に進めるかということについては、具体的に今ここで申し上げることはこれは私は適当ではないと考えます。臨時教育審議会審議される皆様方がそういうことなども御論議なさることも予想をされるわけでございますし、また、今三浦先生がおっしゃったようなことがやはり一つのきっかけとして審議会の中で御議論をまた起こすことも、これは私は予想できることでございます。しかし、政府といたしましては、そうした教育憲章的なもの、あるいは教育を受ける者はかくあらねばならぬというようなことを憲章的に考えておるということは、今の段階では私自身もまたないと申し上げておきたいと思います。
  149. 三浦隆

    三浦(隆)委員 教育基本法の第一条は、よく読んでみますと、「平和的な国家及び社会の形成者として」の国民を対象としておりまして、そこに教育目的の実現を図ろうとしている、こう読めると思います。したがって、教育対象としての国民にとっては国家及び社会の存在することは当然の前提だと思うのです。また、その国家及び社会は、アメリカや英、独、仏などと同じ自由主義体制を我が国はとっているのでありまして、国家の安全を保持するため特にアメリカとは日米安保体制を組むパートナー関係にあります。同じようなことが日韓関係にも言えるわけです。したがって国家論としましては、日米及び日韓関係は、国交未回復かつ共産主義体制下の日ソ及び日朝関係とは決して並立あるいは等距離ではないと私は思うのです。とするならば、こうしたことも教育を通じて国民に明確にする必要があるのではないか、こう考えますが、いかがでしょうか。
  150. 森喜朗

    森国務大臣 日本の国と諸外国との関係というものは、これはやはりその当時の政治の判断で行うべきものであろうというふうに考えます。したがいまして、現在の日本の国と例えばアメリカとの関係あるいはソ連との関係、これはそれぞれ先生方がどのように説明されていくか、やはり教師の判断にまつべきものであろうというふうに考えます。
  151. 三浦隆

    三浦(隆)委員 諮問への一つのお願いになるかとも思いますが、教科書についてであります。  教科書検定の検定手続の法的整備などの形式面、教科書の偏向是正などの実質面の検討を含めて、よりよい教科書とすべく教科書問題というのをぜひとも諮問に加えていただければいいな、こう思います。  そして、これは私の希望も入りますが、これからの教科書としては、現在の反米親ソ的あるいは反資本主義親社会主義的な行き過ぎが目立つような記述はこれを是正し、あわせてソ連による日ソ不可侵条約の一方的廃棄、北方領土の不法占拠、日本人のシベリア抑留などの事実及びアフガンや東南アジアなど共産主義支配下の難民問題なども、史実に基づき、教育を通じて子供たちあるいは国民一般に明確にすべきではないか、こう思いますが、大臣、いかがでしょう。
  152. 森喜朗

    森国務大臣 ただいま三浦先生から御指摘ありましたようなことなども、これは、それぞれの教育の現場を通じてどのような御判断をされるかは、やはり教師の自主性にまつべきだろうと私は考えております。しかしながら、こうした政治的な課題というものの判断はやはり心身の発達程度の度合いに応じて考えていかなければならぬ。子供たちにとってやはりそのことが極めて自然な形で理解ができるような、そういう状況の中で考えられるべきものであろうというふうにも私は考えるわけです。日本教科書の検定制度というものは、民間の創意と工夫、その中からよき教科書を選んで子供たちに教科書として与えるという制度をとっておるわけでございまして、私どもとしてはこの制度が一番民主的でいい方法であろうというような考え方を今日まで抱いておるわけでございます。  ただ、今先生から御指摘がありましたように、こうした事柄なども諮問にということについては、その考えは全くないと、こう申し上げておかざるを得ません。先ほどからも何回も申し上げるように、包括的な基本的な日本教育の諸制度はどのようにあるべきか、こういうことを議論をお願いをすることがやはり今度の教育改革の諮問の大きな本旨でございます。しかし、当然教育の諸制度をいろいろと御議論をされる中で審議委員皆様方教科書の問題についてお触れになることもこれはあろうかと思いますし、そのことを別にこちらから規制をすることも必要はなかろうというふうに考えるわけでございます。
  153. 三浦隆

    三浦(隆)委員 次に、法案関連してお尋ねしますが、その第一は、放送大学との関係でございます。  明年四月から放送大学発足する。その放送大学開校に向けましての準備状況と開校の見通しについてお尋ねしたいと思います。
  154. 森喜朗

    森国務大臣 具体的なことでありますので、政府委員から答弁をさせます。
  155. 宮地貫一

    ○宮地政府委員 放送大学につきましては、昭和六十年四月の学生受け入れに向けまして、放送教材、印刷教材の作成、放送図書資料棟、学習センターの建設、放送局の開局のための施設の整備など、現在その準備を進めているところでございまして、学生募集につきましては、この七月に学生募集の大綱、十一月に学生募集要項を発表し、十二月から学生募集を開始して入学者を決定することにいたしているところでございます。  放送局につきましては、東京局は十一月に、群馬県送信所につきましては昭和六十年一月に開局を予定し、それぞれ大学入学案内、教員紹介及び授業科目ガイドなどの予告放送を行うというようなことなどについて準備を進めているところでございます。
  156. 三浦隆

    三浦(隆)委員 この放送大学は新時代大学教育を行うところである、また、開かれた通信制大学として発足するものだというふうに言われました。今後放送大学開校を契機としまして、これまでの大学間では予想もされなかったような大学相互の交流が行われると思うのです。  そこで、既存の大学や新設の大学との間で行われる、こうした予想される大学交流というふうなものに対して、文部省はどのような対応をお考えでしょうか。
  157. 宮地貫一

    ○宮地政府委員 御指摘のように、放送大学を通じまして、大学間の交流というようなことが従来考えられていなかったような点についても大いに行われるということを私どもとしても期待もいたしておるところでございます。もとより放送大学自体にいたしましても、既存の国公私立大学の大変幅広い連携協力のもとに放送を効果的に利用して大学教育を実施することにしているわけでございますので、具体的には、例えば他の大学におきまして放送大学の開発した放送教材が授業に導入活用されるというようなこと、さらに放送大学と既存の大学との単位の互換が積極的に活用されるというようなこと、また教員の交流が促進されるというようなことを通じまして大学間の交流がより深められるということが期待をされるわけでございます。  そのほか、もちろん放送大学はその意味ではいわゆる開かれた大学といたしまして一般社会人その他の視聴があるわけでございまして、そういうことを通じまして既存の大学の授業内容そのものに対しても、従来ややともすれば非常にマンネリズムと申しますか、そういうことで行われておりました事柄に対して、こういう放送大学の授業形態というものが既存の大学に対して一つのインパクトを与えるというようなことが私どもとしては期待をいたしている点の一つでございまして、そういうことを契機といたしまして従来の大学教育内容が改善されていくことも期待をしているわけでございます。  さらに突っ込んで申し上げれば、例えば放送大学において行われる教育を一般教育として既存の大学が活用していくということなども望ましい活用の仕方の一つというぐあいに考えております。
  158. 三浦隆

    三浦(隆)委員 今御答弁ございましたように、放送大学と既存の大学で例えば一般教養なんかの単位の相互交換、仮にそうしたことを考えるとしますと、当然学校では教員の配置の人数の問題だとかその他大学設置基準そのものにもかなりの大きなかかわり方を将来持ってくるだろう、こう思います。そうした設置基準というふうなものは、こうしたことが具体化されるような時点になって当然見直されていくものだと思いますけれども、いかがでしょうか。
  159. 宮地貫一

    ○宮地政府委員 御指摘のような事柄について将来大学の設置基準の改正ということも、この放送大学の授業が実際に行われることになり、かつ、そういう事態について検討課題に上ってまいります際には、私どもとしては十分検討しなければならない課題というぐあいに考えております。
  160. 三浦隆

    三浦(隆)委員 次に、五十七年でありますけれども、韓国等から日本教科書についていろいろと問題を指摘されたことがございました。その韓国等から指摘されました歴史教科書の改訂状況、現在どのようになっているのでしょうか、お尋ねしたいと思います。
  161. 高石邦男

    ○高石政府委員 現在検定を進めている段階でございまして、最終段階に来ておりますが、まだ最終的な結果を御報告する段階に至っておりません。ただ、あの事件が起きまして官房長官の談話が出されまして、近隣アジア地域における友好親善、こういう観点で教科書の検定を進めるという基本的な態度で、公正に、友好親善の内容が崩れないようにという形で慎重な検定が進められている段階でございます。
  162. 三浦隆

    三浦(隆)委員 文部省もそれなりの対応をされているものと思います。  ただ、最近の新聞でありますけれども、朝鮮日報の記事が掲載されております。それによりますと、「事実を隠したり、歪曲を強要したりする基本姿勢はこれまでと変わりない」というふうな批判的な記事が載っております。また、「直すと約束した歴史の歪曲は、ほとんど一つも直らないまま今また新しく出てきた」、こういう表現もございます。私は、恐らく問題が指摘された後、文部省もそれなりの対応をされてきたと思いますし、この記事がそのとおり正しいとも思えないのですが、文部省としてはどうお考えなんでしょうか。
  163. 高石邦男

    ○高石政府委員 日本の新聞に伝えられている記事の内容は、民間の出版労連等の発表された内容をもとにして、まだ検定の段階における最終結論でない内容について報道されているわけでございます。したがいまして、その報道は必ずしも最終的な結論を的確に伝えているというふうには思っていないわけでございます。近く文部省としても検定の最終結果を明らかにするというふうな段階が参りますので、その段階では、今御指摘になられたようなことについては十分な配慮を加えながら検定作業を進めておりますので、少なくとも日韓における友好親善が基本的にそのことでまずくなるとか、そういうことのないよう十分な配慮を加えているところでございます。
  164. 三浦隆

    三浦(隆)委員 五十七年八月二十六日の歴史教科書についての官房長官談話によりますと、「我が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府責任において是正する。」という言葉があります。また、五十七年十一月二十四日の歴史教科書についての文部大臣談話によりますと、「これらの諸国の国民感情等にも今後一層配慮する必要があるとし、このため、検定の基準に国際理解と国際協調に係る事項を加える必要がある」このように述べております。そして、五十七年の文部省告示百五十一号によりますところの高等学校教科用図書検定基準の改定がされて今日に来たわけでして、間もなくこの改訂の結果が明らかになろうかと思いますけれども、こうした政府の見解でございますので、この整合性の問題ですね、政府としても十分御検討をいただきたい、また対処していただきたいというふうに思います。  また事実、先日の首相の答弁にもございました。日本が侵略を行ったか否かというふうな質問に対して、侵略を受けた国から見れば土足で踏みにじられたんだからそう思うだろうという御指摘でありましたけれども、日本教科書もまた、日本自身で書いた教科書としてそういう表現を用うるに至ったわけです。  この場合に、今度は日本人ではなくて、韓国併合以来の朝鮮の人に対しては、明治四十四年に朝鮮教育令が公布されております。日本教育勅語そのままというか、そうした路線でありますし、また大正五年の一月四日には教員心得という、教員規制の問題などが出ております。そして、戦争になると日本と同じようにしていわゆる戦争の協力をお願いしてきたいきさつがございます。また、台湾に対しましても台湾教育令を公布し、戦局の進むに従って昭和十六年にはその改正を図り、さらに昭和二十年には朝鮮も台湾も含めて戦時教育令という中で全く日本と同じようなことを相手の国に対して行ってきたわけであります。  そういう意味ではむしろ、日本人が日本教育を受け日本の戦争に参加することは当たり前のことかもしれませんで、外国の人であった者が無理やり日本の国籍となり、日本人となり、日本教育を受け、そして戦争に協力をされた、そのため大変に痛い、苦い思い出を持っている人が少なくないといった、そういう国民感情もあわせて改めて理解を図りながら、文部省努力によって、両国の一層の友好親善を図るためにも、この整合性の問題にひとつ御努力をお願いしたいと思います。  これに関連しまして最後に、かかわり合いを持たれました森文部大臣から、この教科書問題についてのお考え方をお述べいただければ幸いだと思います。
  165. 森喜朗

    森国務大臣 韓国や中国から日本教科書について当時いろいろな意見が出されたのは承知をいたしております。今初中局長からお答えを申し上げましたように、いわゆる近隣の友好国のそうした国民感情というものを十分に配慮するということ、これからの国の外交のあり方、また国と国との協力の関係等考えまして、十分に配慮をいたそう、こういうことで五十七年の八月に官房長官の談話が出されたわけでございます。  したがいまして、具体的にこのような事柄を諸外国からいろいろと注意を受けたということではなくて、近隣諸国の友好を十分配慮していく、そして国際的理解と国際協調の見地から配慮をしていかなければならぬ、こういう立場の中で、日本の国のいわゆる教科書検定基準を新たに設けたわけでございまして、それに基づいて今鋭意検定を実施いたしておるというところでございます。具体的にはまだ公表できる段階ではないし、私自身もまだ承知をいたしておりませんので、そうした官房長官談話あるいはまた文部大臣の談話等を含めて、友好親善を一層進める上で教科書の記述が適切なものになっていくであろう、このように期待をいたしておるところであります。
  166. 三浦隆

    三浦(隆)委員 戦前のいわゆる軍国主義的な考え方は今はもう多くの国民のだれも持ち得ないことですし、その反省の上に立って戦後の教育がなされている、こう思います。それにあっても、なおかつそうした痛みを忘れ得ない人がまだいるということですから、いささかでもそうした昔に戻るようなイメージというか、そうしたことは避けなければならないだろうと思います。  ただ、それにしましても、日本人として当然に日本の国を誇りに思うこと、あるいはある家庭に生まれた喜びを感ずることというのは当たり前のことだろうと思うのです。そういうことがあいまいになると、本当に日本人なのか外国人なのかわけがわからないような、無国籍な発想に立ってしまうし、そしてまた同時に、少年非行その他にもつながるような家庭崩壊の現象も出てくるのだろうと思います。ですから、戦前的な徳目であっても、時代とともに装いを新たにしましてよい徳目であるならば、私たちは勇気を持ってこれをまた復活させていかなければならぬのじゃないかというふうな気がいたします。そうしたことと関連しまして、褒章制度の問題で賞勲局の方にお尋ねをしたいと思います。  最近の社会問題となっているものに、校内暴力の根源とも考える子供の家庭内暴力、子の親殺し、離婚の増大など、家庭のきずなの崩壊といったものが多発しております。この問題の根底には、夫婦共同して家庭を守り子供を教導していく協力、連帯の精神や、子供は親に尽くすといった親孝行の精神を、古く封建的なものと考えて、あえて守り育ててなかった戦後の風潮も影響しているものと思います。この際、こういった家族協調、連帯の精神や親孝行といった、人間の本性に基づき社会の基礎単位である家庭を大切にする精神をさらに醸成していく必要があると思います。こういった意味で、こういう親孝行その他、世のため人のための徳行をみずから実践した人を広く顕彰することも大変重要なことだ、こう思います。  そこで総理府の賞勲局にお伺いするわけですが、こういった人に栄典を授与することは制度上どうなっているのでしょうか。また、実施の現状はどうなっているのでしょうか、お尋ねしたいと思います。
  167. 柳川成顕

    ○柳川政府委員 先生御指摘の点についての栄典制度上の該当するものは緑綬褒章でございまして、「孝子順孫節婦義僕ノ類ニシテ徳行卓絶ナル者ニ賜フ」というように規定してございます。  褒章条例は明治十四年に制定されましたが、現在までの徳行卓絶として授与された者は百五十二名でございます。戦後は三名のみでございまして、昭和二十八年以降は授与の例はございません。
  168. 三浦隆

    三浦(隆)委員 今御答弁いただいたわけですが、なるほどこの褒章条例の規定にあります「孝子順孫節婦義僕」という言葉はいかにも古めかしい言葉だと思います。ただし、これは徳行の項目を例示しているものでありまして、本来の趣旨は「徳行卓絶ナル者」にある、こう考えられるわけです。より時代に即応した内容に改めましてもっと実施すべきだろう、こう思います。ただ、このことは本来立法府での議論も深めていかなければならない問題だと思いますし、要望しておくにとどめたいと思います。  しかし、現行の運用としましても、徳行卓絶した者として、子供も大人も男も女もひとしく、非常な苦境を切り抜けて特段にすぐれた家庭を築き、地域社会の模範となる夫婦、親子を拾い上げて積極的に顕彰していくということこそがむしろ賞典制度が広く国民に支持されるゆえんだ、こう思うのですが、いかがでしょうか。  また、区役所や市役所が直接こういった判定をするのは困難という事情もあることでしょうけれども、学校教育委員会等の助力を受けるなどの工夫をしまして、地域社会の中で特段にすぐれた家庭といったものも多数あると思いますので、こうしたことを表彰する道を賞勲局としてもお考えいただければと思いますが、いかがでしょう。
  169. 柳川成顕

    ○柳川政府委員 先生御指摘のような、選考についての難しい事情もあるかもしれませんが、褒章条例の規定は現在生きておるわけでございますので、徳行卓絶な立派なケースが各省庁から御推薦があれば、十分に審査してまいりたいと思います。
  170. 三浦隆

    三浦(隆)委員 諸先生方もそうだと思いますが、我々よく、黄綬褒章、藍綬褒章あるいは勲何等何々章というふうな御受章をされた、本当に御年配の、先輩のお祝いの会に何回も呼ばれることがあります。これは本当に功成り名を遂げたという感じで、それ自体、大変お祝いに値することではあると思うのですが、私はむしろ各学校長に推薦権を与えて、学校ごとに毎年のように、この学校では一人とかどこの学校でまた出てきたというふうに、年をとったとか何の功績とかと関係なく、たくさんのよい子を積極的に表彰していく。たまたま学校の勉強はふできであるけれども大変に親孝行な子であったというならば、むしろその子を褒めてあげる。これは大人でも褒められればうれしいわけですから、子供にとっても褒められる機会をもっと積極的に広めていくということがいいのじゃないかというふうに私は思います。子供への喜びの機会をふやしていくということです。  と同時に、こういう表彰というか褒章制度をより民主主義的にというのですか、一部の特権的な人でなくて、多くの人々が享有できるような発想へと賞勲局も変わっていっていただいた方がいいような気がしますが、もう一言御答弁いただけるでしょうか。
  171. 柳川成顕

    ○柳川政府委員 緑綬褒章の実際の活用例を見ますと、大体十年、二十年、あるいは三十年孝養を尽くしたとか義僕であったとかいうことでございまして、そういう若い例というのはないわけでございますが、各種の表彰制度などとの絡みも考えながら検討してまいりたいと思います。
  172. 三浦隆

    三浦(隆)委員 時間のようでございますので、最後に文部大臣お尋ねをしたいと思います。  今教職員免許法の改正案がかかっております。教員がいかにあるべきかということは、この臨教審法案が通れば恐らく諮問事項として最有力の一つになり得るだろう、こう思うのです。このときに、まだ諮問もされない、答申も出てない時点で、教員養成の問題だけが先行して法律で出てしまうということは、臨教審というせっかくのすばらしいものが今できようとしているとき、大きな諮問事項が一つ抜けることになるだろう、このように思いますので、今文教委員会の方に出されているようでありますが、これは今国会見送りがいいのではないか、そう思います。  もう一つは、この委員の任命を国会の同意事項とすること、それから審議会答申国会への報告事項とするようぜひともお願いをしたい、こう思います。  このことは、戦前教育にもし誤りあったとするならば、立法、行政、司法と言いたいところですが、行政権が大変に強かった、仮に善意であったとしても、国民の声とは遊離した形で教育が走り過ぎてしまった、そうした間違いもあったかと思います。そして、この過ちは教育だけではなかった。そこで行政権優位の思想を改めようということから、立法権、行政権、司法権といった三権分立制度を今日強く持っているわけでして、特に国会は、四十一条に基づきます国権の最高機関としての位置づけを持っているわけであります。そんなことから、行政府だけの委員人事ではなくて、立法府としての国会のかかわり合いを持たすということはこれからの臨教審発足に当たっても祝福される臨教審となり得るのではないかと考えておりますが、大臣いかがでございましょうか。
  173. 森喜朗

    森国務大臣 二点御質問がございましたが、教育職員免許法の改正法案につきましては、ただいま国会でぜひ成立をお願いをしたい、提出をさせていただいておるわけでございます。提案をいたしております法案は、現下の急務でございます教員の資質向上について、昨年の秘教養審の答申をいただきまして、十分な検討を得て提出をいたしたものでございます。  教育改革は、たびたび申し上げておりますように、長期的展望に立ちまして、幅広い、各行政職との関連も含めての教育のあり方を御審議をいただくということでございますので、直接免許法との関連での矛盾はないと私どもは考えておるところでございまして、何といいましても教員の資質向上ということが今国民的な大きな関心を持たれているところである、私どもはこのように考え国会に提案をいたしております。  なお、臨教審におきまして今後とも教員養成の問題につきましては当然御論議をいただくことが予想をされるわけでございますが、その都度そうした具体的なことにつきましてはもちろん文部省としては必要な改善を図っていきたい、このように考えておるところでございまして、ただいま御提案申し上げております免許法につきましては、御審議をお願いしてぜひ成立をさせていただきたい、こう思う次第であります。  なお、第二の問題でございますいわゆる人事同意につきまして、また国会への報告の義務につきましては、たびたび申し上げておりますように私どもとしては最善の法案であるという考え方で御提案申し上げておるわけでございますが、今先生から御指摘をいただきましたような御意見もありますということも、鈴切さんの際も申し上げましたが、十分そうした御意見があるということを受けとめさしていただきたいと思うわけでございます。
  174. 三浦隆

    三浦(隆)委員 時間でございますが、教員の資質向上はだれしもが願うところであります。ただ、大学院を出た者が資質向上されて、よい教員となり得るかどうかというのは別問題だろうと思います。幼稚園の子供たちにとって、大学院出の特修免許を持った先生よりも、短大出の女性の先生でも、子供たちと一緒になって遊んで動き回ることのできる体力のある方が場合によっては要求されると思うし、あるいは中学先生にしても、子供たちと一緒になってつき合えるくらいの先生は必ずしも大学院を出た者がふさわしいかどうかは一律に言いがたい。また、やり方いかんによっては、私学の四年制なり私学の短大というものは免許状取得が困難になるかもしれないことなど、まだまだ問題点はいろいろあると私は思います。  それから、委員の大事に対する国会同意あるいは審議会で決まったことの国会報告は、法律は仮にこうであっても逆に国会に諮ってはいけないという規定もないことでありまして、極端に言えば、こうしたことは国会の同意を得る、国会報告するということを慣例的に確立していく、あるいは慣習法的に確立していくということも一つの手段としてはあり得るだろうということを述べさせていただいて、質問を終わらせていただきます。
  175. 片岡清一

    片岡委員長 三浦久君。
  176. 三浦久

    三浦(久)委員 まず文部大臣お尋ねをいたします。  中曽根総理は、今回の教育改革では教育基本法は改正をしない、こういうように言明をされておられます。文部大臣もこの総理大臣と全く同じ考え方なのかどうかをまず最初お尋ねいたします。
  177. 森喜朗

    森国務大臣 同じ考えでございます。
  178. 三浦久

    三浦(久)委員 この問題に関する森文部大臣の発言というのは大変わかりにくい点がある、歯切れの悪い点があるのですね。具体的には後で御指摘を申し上げますけれども、私は、そういう森文部大臣の揺れ動く態度というのは現在の自民党の状況を反映しているのじゃないかというふうに考えているわけであります。  例えば自民党の中には、今回の改正で教育基本法を改正した方がいいのだ、こういう意見を持っておられる方がたくさんおられますね。例えば藤尾政調会長は、四月二十四日に我が党とのいわゆる教育問題での協議で、教育改革の根本問題は占領下に与えられた憲法や教育基本法の見直したということをはっきり言われておるわけであります。また奥野元文部大臣、また元法務大臣でもありますが、六月十四日付の朝日新聞の「教育改革  この人に聞く」というインタビュー記事でこう言っています。中曽根総理、森文相は国会答弁教育基本法まで見直す必要はない、こういうように答弁しているがと聞かれまして、「本心からそう思ってる、とは思わないな。」「彼は彼なりに戦略、戦術を使ったんでしょ。」こう言っています。そして「公明党なんかにも賛成してもらいたいから。いっぺんに自分の理想をぶつける必要はない。戦略と考えていい。」こう言っているんですね。他党を抱き込むための戦略だ、こういうように奥野さんは言っているわけであります。  また海部さんも、これは現職の自民党の文教制度調査会会長であります。同じインタビューで「自民党というのは右から左まで幅が広いですからねえ。教育基本法についてもいろいろな意見を持つ人がいます。文教部会と文教制度調査会の合同部会で、教育基本法を変えるべきだという声も出ました。しかし全体としては、教育基本法の精神にのっとってやるんだということで、合意をしたわけです。」こう述べています。また続けて海部さんは、「ただ、これは自民党の審議会ではないわけですから、委員の中からはいろんな意見が出て来ると思うんですよ。」「教育制度の根幹に触れるような議論まで行くかもしれない。」こう言っておりますね。そうすると、このことは教育基本法の改正を示唆した発言だというふうにも受け取られるわけであります。  また海部氏は、臨教審はすべてから自由なのかというふうに聞かれまして、「党の今日までの文教政策、それに中教審が出して来たデザイン、さらに文教議員のデザイン。こうしたものを、重ね絵のように合わせて常識的な議論をしていけば、どこに欠陥があるのかという点では、合意出来る面がたくさんあると思います。」こういうように述べています。これは自民党が自民党の文教政策を土台として臨教審での論議をしていく、こういうことを明らかにしていることだと思うのです。これは幅広く国民的な合意を形成してもらうのだと表向きは言っておりますけれども、そういう表向きの理由とは別に、臨教審への自民党の文教政策の押しつけた、こういうことを私はあらわしているのではないかと思うのです。  では、自民党の政策というのは何かというと、ここに「三十七回総選挙 わが党の公約」というものを持ってきておりますが、ここでは文教政策のトップに六・三・三・四制の根本的な見直しということを挙げている。そうすると、これもまた教育基本法の改正を示唆したというふうに受け取れるわけですね。  また森文部大臣自身も、六月十九日の同じこのインタビュー記事の中で、教育基本法は変えないと中曽根総理国会で答えているがと問われて、「私は総理のようにはいっていない。義務教育の年限の短縮や延長なども実現しようとすれば教育基本法を変えなくてはならない。」こういうように言っております。またきょうの同じインタビュー記事ですけれども、「宗教学をもっと教えるべきだ。宗教教育も憲法の規定があるから、先生もおっかなびっくりでこれまでさわっていないが、どっかで教えなきゃならん。神話は神話として話せばいい。」こういうように述べています。  憲法二十条第三項は、国及びその機関は宗教的な活動はしてはならないというふうに書いてあります。教育基本法の第九条二項は「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」というふうに規定しています。この規定は、国が特定の宗教と結びついて他の宗教を圧迫する、そういうことをしないように信教の自由を保障する規定である。ですから我々は大変必要な規定だというように思っておりますけれども、今私が紹介した文部大臣の発言というのは、これを改正するというようなことまで示唆しているというふうに受け取れるわけであります。ですから中曽根総理がこの国会審議を通じて、教育基本法を改正しないんだ、こういうように繰り返し言明されておりますけれども、今私が挙げた自民党のいわゆる文教関係の幹部の人々の発言を見ますと、国民は、果たして中曽根総理の言明が本当なのかどうかということに深い疑惑の念を抱かざるを得ないと思うのです。  それで、私はもう一度念を押して聞きますけれども、文部大臣は、今回の教育改革では教育基本法の改正はしないのですか、どうでしょうか。
  179. 森喜朗

    森国務大臣 先ほども御答弁申し上げましたし、またこの内閣委員会でもたびたび角屋先生を初めとして多くの方々から御質問をいただいておりますから、教育基本法について改正をするという考えはございませんと私は明言をいたしております。別にそう揺れ動いておるというわけじゃございません。私自身教育改革はとても幅広い論議を必要といたしますので、いろいろな方々の御意見を伺ったりして、いろいろな方々の御意見は、それはそれなりとして一つの御意見だなあというふうに感動することもあるわけでございます。今三浦さんがおっしゃったことも、すべてではございませんが、なるほどなあというところもあるわけでございまして、そういう場面場面を取り上げて揺れ動いておるということではなくて、むしろ柔軟な対応ができる政治家であるというふうに自分は自分を位置づけておるわけでございます。  それからもう一つは、よく間違えられることでございますが、御論議をいただく委員皆様方には、教育基本法にのっとった改革であるということは設置法で明記をいたしておりますけれども、やはり自由な論議をしていただくことが少なくとも教育制度上の問題では私はいいのではないかというふうに思うのです。ただ、そのことを会長自身がどのように取りまとめをされるかというところが大事なのであって、論議というものは、やはりできるだけ自由濶達な論議をいただくことの方が――さっき官房長官も三浦さんの御質問に対して、表現がいいかどうか、悪いかというようなことを言っておりました、私は大変いい表現だと思いましたが、伸び伸びと御自由に論議をということでありますから、私は余り制約をさせないことの方がむしろいい案が出てくるのではないかと思うのです。  お名前を挙げるとしかられるかもしれませんが、先ほどの鈴切さんからも義務教育の年限のお話がございましたし、たしかNHKの国会討論会でおたくの党の山原先生も高等学校の全入制のことに触れられました。そのことを義務ということで考えるならば当然教育基本法に触れるじゃありませんかと私は山原先生に申し上げたことを今配慮をいたしておりますが、そのように各党皆さん、それぞれいろいろな考え方を持っておられると思いますので、そのことを余り束縛した議論というものは、せっかくこうした国民的な大きな課題に取り組むわけでございますから、そういう意味で、論議をしていただくことについてはそれなりに、教育基本法を変えないと総理も私も言っておりますから、そのことを大事にしながら十分考えて論議をしていただくことになるであろう、こういう考え方を私は申し上げているわけでございます。しかし、もう一度念を押してお聞きでございますから、教育基本法を変えるという考え方は今私は全く持っておりません、こう申し上げておきます。
  180. 三浦久

    三浦(久)委員 文部大臣、今あなたは自由濶達に委員の方には論議していただく、こう言われましたね。そうすると、その委員先生方には、教育基本法の精神にのっとってやらなくてもいいということなんですか。政府教育基本法の精神にのっとって教育改革をやる、そういう方針を決めておられる。それは今度の設置法の第一条にもぴしっと書かれてあるわけでしょう。そうすると、委員先生方はそういう教育基本法の精神の枠をはみ出して論議してもよろしいと、こういうふうに承ってよろしいのですか。
  181. 森喜朗

    森国務大臣 政府教育改革を進めたい、その教育改革教育基本法にのっとってやりたい、こういうことでございます。御論議をいただく方々は、それぞれ御自分のいろいろな意見をお持ちでございましょうから、御意見は、どうぞ自由伸び伸びとした御意見をいただいた方がより建設的なすばらしい意見があるのではないか、私はこういうふうに申し上げて、その先生方まで教育基本法のところはさわりなさぬなと申し上げる必要もないのではないか、私はこう言っているわけでございます。
  182. 三浦久

    三浦(久)委員 そうすると、政府委員と区別されていますね、この審議会委員先生方を。政府は法律を守るけれども、委員先生方はこの法律は守らなくてもいいと、そういうお考えなんですか。どうなんですか、大臣
  183. 森喜朗

    森国務大臣 政府教育改革を進めるわけです。教育改革を進めるに当たって、教育基本法の精神にのっとってやりたい、こう明言をいたしておるわけです。
  184. 三浦久

    三浦(久)委員 そうすると、委員先生教育基本法の精神にのっとって論議をしなくていいわけですか。それをちょっと端的に聞きたい。
  185. 森喜朗

    森国務大臣 いわゆる義務教育に触れるところは幾つか出てくるだろうと思いますが、この法律全体は当然教育基本法の精神で制約をされているわけであります。しかし、諸制度のところがいろいろ議論をされるときに、教育基本法があるから例えば義務教育の九年間は一切さわらないんだという形で論議をされることは、必ずしもいい答えが出てこないかもしれませんから、そういうところは御自由になさってもいいのではないか、私はこのように申し上げているわけです。
  186. 三浦久

    三浦(久)委員 ですから、そういう文部大臣お答えですと、政府教育基本法の精神にのっとって教育改革をやるが、臨教審委員先生方はそういう枠に縛られないで自由にやってもよろしいと、そういうように聞こえるじゃありませんか。そうすると、委員先生方は、この臨教審設置法の第一条の適用を全然受けないんだというふうに聞こえるのですよね。これは私はおかしいと思うのです。どうですか、大臣
  187. 森喜朗

    森国務大臣 三浦さんのお立場からいえば、何か戦前回帰の教育に戻すのではないかというようなこともある程度懸念をされて、想像の中でおっしゃるわけでございます。私は、先ほどからたびたび申し上げておりますように、義務教育の年限などもとても大事なテーマだろう、こう思いますから、まあそんなことを法律の中で書くわけにはいきませんけれども、たびたび私は前提を挙げて申し上げておるわけでありますが、教育年限のところなどはかなり自由な御論議をいただいた方がよろしいのではないか、私はこういうふうに申し上げております。国会答弁でも、予算委員会等でも何度も申し上げましたが、答申は当然教育基本法にのっとったものを期待しておるわけでございますから、先ほどもちょっと申し上げたが、そういう考え方を基調にして会長がおまとめになることでありますから、そういう中で、教育基本法の精神、理念というものは十分考え会長がお取りまとめになるだろうということを私は期待もいたしておるわけでございます。
  188. 三浦久

    三浦(久)委員 私は、それは会長に期待するというような問題ではなくて、この臨教審設置法の第一条を政府委員も守るのかどうか、そういう問題だと思うのですよ。  それで、今義務教育年限の問題が出ましたので、それに関連してお尋ねしますけれども、自由な論議をして、そして、義務教育年限は今九年ですけれども、それを六年にした方がいいんだ、そういうような議論になりまして、答申がそういうふうに出たとしますね。どうするのですか。そうすると、その答申政府は尊重しなければならない義務を第三条で負っていますね。政府自身は、いや、義務教育年限は動かさないんだ、変えないんだ、こう言っておられるわけでしょう。教育基本法も変えないんだ、こうおっしゃっておられるでしょう。そうすると、変えないという答弁を優先させるのか、または尊重するというその立場を優先させるのか、どっちになるんですか。それは私は非常に気になることなんですよ。
  189. 森喜朗

    森国務大臣 第一条で「教育基本法の精神にのっとり」というふうに明記をいたしておるわけでございますから、そしてまた、総理も私もいわゆる教育基本法を改正する意思はありませんと、こう申し上げておりますから、当然そのことが一番大事なこの法律の、また教育改革の理念に通ずると私は思っております。
  190. 三浦久

    三浦(久)委員 そうすると、法律に答申意見は尊重するとあるけれども、その答申教育基本法の精神にのっとっていないというふうに政府判断をした場合には、尊重する義務は免除されるといいますか、適用にならない、改正しないという方をとる、こういうお立場でしょう。そうすると、臨教審答申というのは教育基本法の精神に反したようなものは出してはならないということになるのじゃありませんか。どうでしょうか。
  191. 森喜朗

    森国務大臣 ですから、たびたび申し上げておりますように、教育基本法のいわゆる精神にのっとって政府改革をしたい、こういうことでございますから、いろいろな御議論はあるにいたしましても、政府教育を変えていくということについては教育基本法を大切に守っていきたい、こう申し上げておるわけでございます。
  192. 三浦久

    三浦(久)委員 いや、それはもう何回も聞いているからわかっているのです。臨教審答申教育基本法の精神にのっとっていなければならないのではないですかと聞いているのです。
  193. 森喜朗

    森国務大臣 答申は当然教育基本法にのっとっておまとめをいただきたい、そういう答申をいただきたいということを政府は期待をしておるわけでございます。今例え話で先生が御指摘なさいましたけれども、そのことが本当に正しいものであるかどうかということについては、政府は当然尊重する義務はございますけれども、政府の部内で施策を進めていく場合には当然また政府の部内で検討していかなければならぬということにもなるかと思います。
  194. 三浦久

    三浦(久)委員 そうすると、臨教審委員が論議をしたり答申を出す場合に、「教育基本法の精神にのっとり」というのは、何にもその拘束がない、そういうものから自由だということにはならないのですね。少なくとも私は、この臨教審というのは教育基本法の精神にのっとり、教育基本法に規定する教育の目的の達成に資するために置かれているわけでありますから、臨教審答申意見というのは教育基本法の基本的な改正を行う内容のものにならないことが法律上期待されていると思いますが、文部大臣いかがですか。
  195. 森喜朗

    森国務大臣 そのとおりであります。
  196. 三浦久

    三浦(久)委員 そうすると、委員の人選は、やはり憲法や教育基本法の改正論者は任命しないというのが政府の態度でなければならないと私は思うのですが、どういうおつもりですか。
  197. 森喜朗

    森国務大臣 人選につきましては、まだ私は今の立場政府として申し上げるという段階ではないと思います。たびたび申し上げておりますように、国会のいろいろな御論議、あるいはまた法律が国会を通過成立をさせていただいた時点で、目的や所掌事務国会で合意をいただきましたことを一つの大きな柱として考えていかなければならぬと思いますが、いわゆる審議をお願いする委員の皆さんにいろいろな制約をつけるということは適当ではないと私は考えております。
  198. 三浦久

    三浦(久)委員 私は、だれを、どういう人を選ぶのかということを聞いているのじゃなくて、教育基本法の精神にのっとって審議をし、そしてそういう答申を出すことが期待されている臨教審委員なんですから、当然教育基本法を改正しますというようなことを公然と言っているような先生方委員にすべきではないのではないかとお聞きしているのですが、いかがでございましょうか。
  199. 森喜朗

    森国務大臣 そういう制約を設ける考えはございません。
  200. 三浦久

    三浦(久)委員 それでは私は何となく首尾一貫しないという気がいたしますけれども、しかし文部大臣がはっきりそういうふうに御答弁になりますので、そういうふうに承っておきましょう。  もう一つ文部大臣、六月十九日の「教育改革 この人に聞く」のインタビュー記事ですが、教育基本法は変えないと中曽根首相は国会で答えたが、どうですかと聞かれて、「私は総理のようにはいっていない。義務教育の年限の短縮や延長なども実現しようとすれば教育基本法を変えなくてはならない。」こういうふうにもおっしゃっていますが、そうするとこれは訂正されますか。
  201. 森喜朗

    森国務大臣 今のは朝日新聞のものではないかと思いますが、私も読んでみまして、初めから終わりまで速記をとってそのまま全部を掲載しているものではございません。長いいわゆる対談といいますか、何人かの記者さんがお見えになって、そういう中で一時間ぐらいのお話を申し上げて、いろいろな条項の中には例え話もございますし、前段の話もございます。そのエキスのところをある程度お書きになったわけですから、私は、それはそれなりに間違っているとは申し上げでおりませんが、いろいろな前提やらいろいろな説明がついておりますが、そういうところは省かれているわけでございます。  したがいまして、私はそこにも具体的に申し上げておりますように、そうしたいわゆる義務教育の年限のような制度上のことで仮にかなりそういう意見が出てきたということであれば、これは十分に論議をしていかなければならぬことではないだろうか、こういう考え方を持っておるというふうに申し上げているわけです。  総理がいわゆる教育基本法は変えない、こう申されたということで、そういう義務教育の年限のようなことというのは、六・三・三・四制の問題を含めて、教育改革については各党の御意見というのは非常に多くあるわけです。現にとにかく、全入と義務とは必ずしも同一ではないという御意見はあろうと思いますが、けさほどの御意見の中でも鈴切先生もそういうお話がございますし、さっきちょっと触れて大変御無礼であったかもしれませんが、NHKの放送討論会のときも、山原先生も高等学校については全入とすべきではないかという御意見もおっしゃったことがあるのです。ですから、そういうことに話が言及していけば、そこのところはどうしても触れることになると思うのです。  だからといって、先生方の御心配なされておられるいわゆる戦前回帰の、昔の日本教育にするのだということをもしお考えで御心配とするならば、そんなことは私ども望んでいることでもなければ求めていることでもないけれども、本当に子供たちにとってすばらしい新しい教育制度の年限という御意見が仮に総意としてまとまってくるものであるならば、そういうことは教育基本法に触れるから全くだめなんだと今から申し上げることは必ずしも適当ではないのではないか、私はそういう考え方を申し上げておるわけであります。
  202. 三浦久

    三浦(久)委員 次に、六十年度の予算編成についてお尋ねいたしたいと思います。  六十年度予算編成について今検討を進めております臨時行政改革推進審議会の行財政改革委員会、これは六月の二十五日には小委員会報告を行いまして、七月の上旬にも正式な意見を提出することになっております。その検討項目というのは三十七項目にも及んでおりまして、教育関係の問題も多数含まれておりますね。例えば、行革審では文教関係について七項目が検討対象になっております。具体的に申し上げますと、まず第一に四十人学級の凍結期限の延長の問題、育英奨学金の全面有利子化の問題、また教科書無償制度の見直しの問題、私学助成の削減の問題、公立文教施設費の削減の問題等々であります。  この行革審の意見が出された場合には、政府はまた、これを尊重する義務を負うということになっておるわけですね。そうすると、そういう規定に従って、政府としてはこの行革審の意見を尊重し、それを実行するという立場をとられるのでしょうか、どうでしょうか。
  203. 森喜朗

    森国務大臣 行革審では、二つの小委員会におきまして議論を進められておるということは承知をいたしております。ただ、政府部内の私の立場といたしましては、まだどのようなことが具体的に決められたか、どのような審議が進められているかということは、もちろん新聞等での予想記事は承知をいたしておりますけれども、具体的な考え方がまとまっていないわけでございますので、現時点で私からあえてそのことに対する発言は差し控えたい、こう思っております。
  204. 三浦久

    三浦(久)委員 今までの行革審の審議、また臨調の答申、こういうものを見てみますと、私が今言ったように、いわゆる四十人学級の凍結期限の延長をやれとか、私学助成金の削減をやれとかいう内容が出てくるというふうに私はかなり強く予想できると思うのですよ。そういたしますと、これは大変な事態になるのじゃないかと私は思うのです。  私、文部大臣お尋ねしますけれども、こういう四十人学級の凍結とか私学助成費の削減というものが、落ちこぼれというものの解消を困難にするとか、また受験地獄の解消を困難にするというふうな御認識はあおりになっているのでしょうか、どうでしょうか。
  205. 森喜朗

    森国務大臣 今先生から御指摘ありました落ちこぼれあるいは受験地獄について、今おっしゃられた四十人でありますとか私学助成でありますとか、そのことが原因のすべてだと私どもは考えておりません。教育を進める上に当たって文部大臣として、四十人学級はぜひ実現をしたいし、私学の助成も、私学法の精神を私たちは何とか具体的に実現していきたい、こういう気持ちを持っておりますことは皆さんのお気持ちとちっとも変わっておりません。ただ、そのことが今の教育の荒廃のすべての原因だと言われることについては、私どもは賛成できかねる次第であります。
  206. 三浦久

    三浦(久)委員 私は、そのことがすべての原因だと言ってはおりませんよ。教育荒廃の一つの要因になっているということは当然のことじゃありませんか。四十人学級というものは、行き届いた教育を行うために必要でしょう。ですからそれは、当然落ちこぼれをなくすために必要な措置だというのはだれもが認めているのじゃないですか。ですから文部大臣自身も、四十人学級の実現は私どもも強く希望しておると今言われたばかりですね。それは、そういう落ちこぼれをなくすために一つの大きな効果があるとお考えになっているからじゃありませんか。また私学助成の問題にしても、国公私立間のいわゆるさまざまな面での格差の解消というものをしていかなければ受験地獄というものもなくならない、そのことが受験地獄をもたらしている一つの大きな要素になっているというのも私ははっきりしていると思うのですよ。それを、私がそれがすべてだと言ったかのように答弁されるというのは、私はちょっといただけないと思いますね。どうなんですか、一つの要因になっているというふうにはお考えですか。
  207. 森喜朗

    森国務大臣 受験地獄あるいはまた落ちこぼれという問題の原因は、いろいろな意味で大変幅も広いし根も深いだろうと私は考えます。四十人学級でなければ落ちこぼれは解消しないというふうにも私は考えませんが、しかし、これだけ複雑なこういう人間社会にもなっておりますすし、子供たちもいろいろな意味で多様な社会に生きていくということも考えますし、人間を教室の枠の中に置くのはどの人数が一番いいのかという絶対的なものの指標はありません。しかし、欧米先進国の行き方を見ておりましたりすれば、大体四十人ぐらいが一番いいだろうという考え方に基づいておるものであります。仮に四十人が実現するということであれば、今度はまた三十人、三十五人という意見も出てくるのかもしれません。しかし私どもは、当面六十六年までに何とか四十人学級を実現したいと考え努力をいたしたい、こう思っているわけでございます。  ではしからば、昔の数が多かった私のころなどは、五十人以上のときもあったような気がいたしますし、大変大きいときもございましたが、私どもの時代に必ずしも落ちこぼれがそういたとも考えられませんし、多いからそういうものが出る、少ないからそういうものが出ない、こういうことではないと思うのです。確かに、一つの原因に挙げられるということを言えば一つのそういう要因ということも数えられるだろうというふうに、先生がそうおっしゃればそういうような考え方もできると思います。
  208. 三浦久

    三浦(久)委員 私学助成の問題にしても、四十人学級の問題にしても、大規模校の解消の問題にしても、そのネックになっているのは何かといいますと、財政上の問題なんですね。そうすると、例えば大蔵との協議ができないからしょうがないんだとか、いや今百二十兆円の国債の発行残高があるからこれを解消するまではしょうがないんだとか、そういうような考え方文部省教育問題に対処するとすれば、私は文部省は要らないのじゃないかと思うのです。  本当に子供のための教育を行うためにはどうしたらいいのかということを真剣に考える役所というのは、文部省しかないのじゃないですか。ですから、財政上の問題でいろいろ大蔵から言われても、それをはね返して、今のこういう劣悪な教育環境、子供にはやはり最良の教育環境が与えられなければならないということが児童憲章にも書いてあるわけですから、そのために文部省が奮闘しなければいけないと私は思うのです。ですから私は、今の教育改革を阻んでいる大きなガンは臨調答申であり行革審だと思うのです。ですから私は、教育改革を進めるに当たっては臨調答申を凍結する、また行革審の審議を中止する、こういうことをやって根本的な見直しを行っていかなければ、教育諸条件を向上させる、教育改革を行うということはできないと思うのですけれども、大臣のお考えをちょっとお尋ねしたいと思います。
  209. 森喜朗

    森国務大臣 こういう劣悪な教育環境と言われると、私もちょっと賛成できないわけでございます。少なくとも日本教育環境は、国民努力、そしてまた国会でのいろいろな議論を踏まえて、各党各会派皆さん方のいろいろな御提言もあり、私はかなり行き届いた教育環境になっておると思っております。文部省といたしましても、文部省は要らないなんて言われたのではまことに遺憾でございまして、こういう厳しい財政状況の中でも、それこそ本当に血の出るような努力文部省の役人のみんなもやっておるわけだし、私も与党・政府の一員として現実に文教政策を担当してきましたから、まあ一々中身ややってきた経過をこんなところで申し上げる必要はないと思いますが、それはそれこそ、今日まで教育の諸条件が整うように涙が出るような努力をしてきたわけでございます。  しかし、今日の財政状況を一切そんなことは考えずに教育だけを進めろというものではないわけで、やはり国あってということが基本的に一番大事なことで、こういう教育の条件の中で、例えば教科書の問題も論議があるんだよということを子供たちが知ることも私はとてもいいことだろうと思うのです。もちろん小学校の一年生の子にそんなことを勉強してもらうということは適切ではないと思いますけれども、例えば教科書のお金が高等学校年額五千円だ、この五千円というお金はとてもとうといものなんだ、そういうことを高等学校の生徒などが勉強するのは教育的に非常にいいと思うのです。  そういう意味で、もちろん私どもはそれをどうこうするというのではなくて、むしろさらに継続の努力をしていくということは私も明言をいたしておるわけでございますから、私どもは一生懸命努力し、文部省も一丸となって努力をいたしておりますが、ただ、今日の政府全体の考えとして、文部省だけは、教育だけは聖域であっていい、そういう大きな意見にはならないわけでございます。ただ私自身といたしましては、教育にぜいたくはない、教育にできる限りの、国家の命運をかける大事な問題でありますから、少なくともこのことは聖域にしてもいいのではないかという気持ちは私自身持っておるということをあえて申し上げさせていただきたいと思うのです。
  210. 三浦久

    三浦(久)委員 文部大臣と私は教育現場に対する認識が違いますね。私はおとといも総理質問で大規模校の問題を申し上げました。三十一学級以上の、まさに分離をしなければならないそういうマンモス校で教育を受けている人が三百万人いるんです。それで、いわゆる二十五学級以上の児童生徒ですと、これはその倍になりますよ。六百万人の人々がそういう適正規模でないような学校教育を受けているという事実、こういう問題が解決しなければ教育改革なんということはあり得ないと私は思うのです。いや、非常にいい環境で教育は受けている、行き届いた教育を行っている、こう言われますけれども、現実はそうなっていないということです。ですからこそ私は、大規模校の問題にしても、また私学助成の問題にしても四十人学級の問題にしても、やはり政府がそれこそ全力を挙げて解決のために努力しなければならない問題だと思うのです。  私は、自民党の昨年の総選挙での公約を持ってきましたけれども、ここでもちゃんと、このマンモス校の解消の問題も四十人学級の問題も私立助成の問題にしても、あなたたちは公約をされているんですね。そうするとあなたたちは、そういう国民に対する公約、主権者に対する公約、こういうものと行革審の意見と、どっちを尊重するのか、私はちょっと政治家である文部大臣お尋ねしたいと思います。
  211. 森喜朗

    森国務大臣 行革審、臨調の答申はいろいろございまして、当然それは遵守していかなければならぬというふうに私どもは考えております。  そういう中にありまして、一々細かいことを申し上げるとせっかくの貴重な時間、先生に御迷惑をかけますから、私学助成についても、シーリングは全体的にかかっておりますが、その中でなお一層そのシーリングの枠いっぱいのところまでは引き上げるように努力もしてきたわけでございますし、高等学校以下につきましては、特に先生が御指摘のように、小さな子供たちを初めとして地方の教育行政に直接かかわりのある義務教育の諸学校の問題との関連もあるわけでございますから、交付税等で十分な措置もいたし、そうした補助率についても十分考え方を加味しながら予算措置をいたしておるわけでございまして、その中で十分な努力をしてきているわけでございます。  臨時教育審議会が行われますことは、日本教育全体がどのように位置づけられていくか、そして今先生お話しになりました予算との関連はどうなるのかというようなことは、今私どもがそういうことも御議論をいただきたいと申し上げることは越権ではございますが、当然日本教育の今日までも反省しながら、なおこれから日本教育がまさに日本の国家の命運を左右するということであるとするならば、審議会委員皆様方も財政上国が公費として教育のいわゆる負担というものをどのように考えるべきであるかというようなことの御議論も当然なさるのではないかなと私は予想をいたしているわけでございます。  そういう意味で、今日はやはり、行政改革をし財政改革をやるということは決してすべてをぶった切るということではないわけで、これは総理国会答弁をいたしておりますように、できるだけぜい肉を落として、要らなくなったものはそぎ落として、身軽になってもう一度新しく躍動的な日本の国家を建設しようということが行政改革でございますから、教育もまたそういう意味でさらになお一層教育の諸条件を整えて、本当に日本の国を背負ってくれる子供たちのためにいい教育諸条件になるように私たちも最大の努力を政治家としてやっていきたい、こういう希望に燃えて私も今の問題に取り組んでいるわけであります。
  212. 三浦久

    三浦(久)委員 教育環境や教育諸条件の整備なくして今日の状況における教育改革はあり得ないということを私は強く申し上げて、次の質問に移ります。  ことしの三月と四月、福岡県の教育委員会は県立学校の全教職員を対象にいたしまして、卒業式また入学式で「君が代」を斉唱していたかどうか、このことを校長にチェックさせておるのですね。そして、チェックさせただけじゃなくて、それを県教委に報告させております。  ここに県教委が作成した報告用の用紙がございます。これは表題は何というのでしょうか、儀式と書いて、その次に括弧があります。そして昭和何年何月何日における教職員の動態、こういう表題になっておる。その下に一人一人の先生を全部名前を書くようになっている。そしてその右に、式典に参列したかどうかということ、その中で正常だったか、異常だったか、未確認か、こういうような欄があるわけであります。こういうものを各学校の校長先生に渡して、卒業式や入学式のときに「君が代」を歌ったかどうかというチェックをさせているわけですね。  私が調査に行きましたところ、久留米の明善高校、ここでは式典の最中に一人一人の先生の面前でもって写真を撮って確認をしている、こういう教育現場にあるまじきようなことが行われているわけです。  県教委は、私どもの調査に対して、起立して「君が代」を歌った者が正常だ、起立していなかった者が異常だ、こういう扱いにしているんだ、こう言うのですね。私は、こういう考え方が異常だと思うのです。というのは、その「君が代」というのは国民的なコンセンサスも得られていないのです。「君が代」が国歌かどうかということについて国民的なコンセンサスは得られておりませんよ。また、教育現場でもコンセンサスを得られておりません。  例えば、私調べてみましたら、小倉南高校では四百五十人の卒業生がおりました。うち生徒の半分が座ったままで、「君が代」を歌っていないのです。先生の半分も起立いたしておりません。父母も一部は、その式典に参加しておりますけれども、立っていないのです、歌っていないのです。だから、先生も生徒も父母の一部も、「君が代」を斉唱してはいないわけであります。  また、小倉工業高校では午前十時から卒業式がありました。これを三分早めてやった。何で三分早めたかと申しますと、生徒が「君が代」を歌わないところを父母に見られたくないからだ、こう言うのです。父母が来る前に、三分間早めてさっと――式典の最初に「君が代」を斉唱しますね。そういうことまでやっている。この小倉工業高校では卒業生二百七十人のうち八割が座ったままです。生徒の八割が「君が代」を歌っていないのです、座ったままなんです。先生も二十名が座ったまま「君が代」の斉唱をボイコットしている。福岡県の県教委も、数人が起立していなかった学校も入れると半分以上の学校がボイコットしている、こういうふうに言っているのです。  ですから、こういう国民的なコンセンサスを得られていない「君が代」の斉唱を、歌ったら正常だ、歌わないのが異常だ、そういう判断をして、しかも、今私が言ったように式場で写真などを撮りながら確認作業を行って、そしてその結果を県教委に報告させる。こういうやり方は私はすべきではないと思うのですけれども、文部省はこういうやり方を是認されるのかどうか。また、今後こういうものを全国的に推進していくおつもりなのかどうか。また、「君が代」を歌わなかった教師に処分のおどしをかけているという事例もあります。このような処分を文部省は肯定されるのかどうか。この点を大臣お尋ねをいたしたいというふうに思います。
  213. 森喜朗

    森国務大臣 次代を担っていく子供たち、また、この臨時教育審議会の設置をお願いいたしまして国会でもいろいろな議論が出ておりますが、国際社会の中で日本人がこれから生きていかなければならぬ、とりわけ子供たちが好むと好まざるとにかかわらず国際社会の中で生きていかなければならない、そういう中にあって、尊敬され信頼される日本人になるためには、やはり相手の国を理解し尊重しなければならぬ。そして、そのあらわれといたしております。その国の国旗や国歌というものを尊重するということは、これはやはり国際的な慣行であろうというふうに思うのです。国旗に対する敬意の表し方等、いろいろな過去の歴史を見てまいりましても、とても大事なことであろうというふうに思います。  私自身も昔、まだ国会に出る前に青少年活動もいろいろやってまいりましたけれども、国際社会の各国の子供たちと日本人の子供たちのいわゆる交流なども見ておりますと、やはり日本人の青少年の国旗や国歌に対する態度というのは世界の国々から見て少し変わった態度であるということは、私自身も自分の目で見て判断をしてきているわけでございます。  そういうために、私たち日本の次代を担ってくれる子供たちには、まず我が国の国旗や国歌というものを大切にするという態度を身につけさせることが極めて大事なことでございまして、そういう意味で、学校教育におきましても国旗や国歌につきまして十分な指導をいたしておるところでございます。学習指導要領におきましても、社会、音楽、特別活動等で、適切な機会をとらえましてこうした指導をいたしておることでございます。小、中、高等学校の特別活動では、国民の祝日などにおいて儀式などを行う場合には、児童生徒に対してこれらの祝日などの意義を理解させるとともに、国旗を掲揚し国歌を斉唱させることが望ましい、こう定めているわけでございます。したがいまして、各学年を通じまして、児童の発達程度に即しまして指導するものとする、こう定めているところでございます。  したがいまして、ただいま三浦さんから御指摘をいただきました福岡県教育委員会のとったこの措置につきましては、国歌斉唱について指導の徹底を図るために、本年春に各県立学校で行われた卒業式及び入学式における教職員の国歌斉唱の状況について調査を行ったというふうに聞いておるわけでございます。学校で行われる儀式におきまして国歌を斉唱する、こういうふうに児童生徒に指導する立場の者が一緒に斉唱することは教育的に当然なことでありまして、子供たちにそういう指導をする立場の教師が歌わないということは、これは大変子供たちにとって理解に苦しむということが当然出てくるのではないか、私はこういうふうに考えるわけでございまして、福岡県教育委員会としてはまずその実態を把握したい、こういう趣旨で調査を行ったものである、こういうふうに理解をいたしておるわけでございます。
  214. 三浦久

    三浦(久)委員 「君が代」が国歌だということ、このことは何か法律上の根拠でもあるのですか。人に歌うことを強制するというのであれば、何らかの法律上の根拠がなければできないことだと思うのですよね。大臣、どうですか。
  215. 高石邦男

    ○高石政府委員 法律上「君が代」を歌わなければならないというような法律上の根拠はないわけでございます。  ただし、学校ではやはり日の丸を国旗、「君が代」を国歌としてすべての子供たちに徹底して教育をしていくというのは必要なことであるという教育政策の判断から、学習指導要領でそういう位置づけをして、指導の徹底を図っているというのが現状でございます。
  216. 三浦久

    三浦(久)委員 ですから法律上の根拠は何もないのですよ。  それで、戦後の話ですが、昭和二十一年十月九日に、文部省令三十一号で国民学校令施行規則の一部改正というのが行われております。ここではどういうように書かれているかといいますと、「国民学校令施行規則の一部を次のやうに改正する 第四十七条第一項中「左」を「祝賀」に改め、第一号乃至第五号を削る」こうなっているのですね。  これはどういうことかといいますと、この施行規則の第四十七条「紀元節、天長節、明治節及一月一日ニ於テハ職員及児童学校ニ参集シテ左ノ式ヲ行フベシ」、そして一号というのは「職員及児童「君が代」ヲ合唱ス」、二号が「職員及児童ハ 天皇陛下 皇后陛下ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行フ」、三号は「学校長ハ教育ニ関スル勅語ヲ奉読ス」、四号は「学校長ハ教育ニ関スル勅語ニ基キ聖旨ノ在ル所ヲ」これは何と読むのですかな、まあ教えるという意味なんでしょうな。ちょっと私読めません、余り古い手なので。それから五号が「職員及児童ハ其ノ祝日ニ相当スル唱歌ヲ合唱ス」、こうなっていますね。これは削除されている。  それで、この削除された、改正された国民学校令施行規則第四十七条はどういうふうになるかというと、「紀元節、天長節、明治節及一月一日ニ於テハ職員及児童学校ニ参集シテ祝賀ノ式ヲ行フベシ」、それだけに変わっているのです。ですから、「君が代」を合唱しろということはもう削除されたわけですね。これはどうして削除されたのですか。
  217. 高石邦男

    ○高石政府委員 戦後、国家についてのいろいろな考え方があって、戦前のような形で国が教育内容について全部国の基準で取り決めるという方式をまず変えて、戦後は、それぞれの地方自治ということから教育の地方分権というのを図ったわけでございます。そういう一貫の流れから、教育内容に対する取り扱いとか。教育内容についてのいろいろな変遷が行われたわけでございます。  その際に、「君が代」の問題については、そういうような経緯の中で、ここまで国の法令で規定することは適当でないということで法体系全体が変わったわけでございます。そして新しく登場したのが、戦後における学校教育法に基づく学習指導要領の基準というものをつくったわけです。そして、その学習指導要領の基準をもとにして民間の力による教科書をつくって、検定制度の中で教育をしていくというような形にしたわけでございます。ですから、ストレートな表現でいろいろ書いていたものは、そういう制度の仕組みによっておのずから制度上変えざるを得ないというのが一つあるわけでございます。  「君が代」に対するいろいろな見方、考え方、それについての戦後の混乱もあったと思います。しかし、それが落ちついた段階で、日の丸を国旗として、「君が代」を国歌とするということについては、国民の多くの人々はそういう方向でいくべきではないかというのが現在の国民感情であるということをとらえまして、先ほど申し上げているような学習指導要領の基準で、そういう祝祭日においては国旗を掲揚し国歌を斉唱することが望ましいという方針を現在とっているわけでございます。
  218. 三浦久

    三浦(久)委員 結局、戦後の「君が代」に対する混乱もあっただろうとおっしゃいましたけれども、「君が代」というのは戦前どういうふうに教えておりましたか。「君が代」というのは、天皇が治める御代が未来永劫に続きますようにと、そういう歌なんだ。これは戦前教科書にはっきり書いてあります。それは、戦後の主権在民の思想、そういうものと全くそぐわない、そういうことからこういう改正が行われたのだというふうに私は思いますね。そしてまた、その「君が代」というのが、あの侵略戦争に国民を駆り立てる、そういう道具に使われていたということも紛れもない事実なんです。  そして、今局長は多くの人が国歌と思っているというようなことを言われましたけれども、確かに、世論調査をすれば七十数%の人が「君が代」は国歌だと思っています。しかし、それは思っているというだけなんであって、多くの人が思っているからそれは法的に国歌だということは言えないわけです。そしてまた、世論調査を総理府がやっておりますけれども、「君が代」を法制化すべきであるという意見を述べておる人は全体の二〇%です。ですから、「君が代」を国歌として法制化しろというのはわずか二〇%しかいないということですよ。そうすると、法的な根拠のない「君が代」を国歌にする、そしてそのことを先生に強要するというようなことはできない相談だと私は思うのです。法的根拠を欠きます。  学習指導要領の中にそういうことを規定したとしても、学習指導要領については法的拘束力があるかないかということは、今までいろいろな裁判で争われてきたことですね。文部省はあると言いますけれども、仮に文部省立場をとって学習指導要領に法的拘束力があるとしても、その中で「君が代」は国歌だ、だから歌うことが望ましいといったって、「君が代」は法律的に国歌ではないのだから、そういうものを勝手に国歌だといってもそれは根拠を欠くわけですから、私は、その点に関する指導要領というのは法的拘束力はないというふうに言わざるを得ないわけですね。  ですから、多くの人々が、七〇%以上の人々が国歌だと思うことは自由であります。しかし二十数%の人は国歌だと思っていないのだから、そしてそのことは法的な根拠がないのだから、二十数%の人が国歌じゃないというふうに思って歌わないということも自由ではありませんか。歌わせるというのであれば、それ相応の法的根拠をはっきり見つけなければいけない問題じゃないですか。文部大臣、どうですか。
  219. 高石邦男

    ○高石政府委員 一般の国民を対象にして国民に強制するというような論理のときには、御指摘のような論理があると思うのです。しかし、およそ学校教育学校という場では、学校教育目標、方針というのを決めるわけでございます。したがいまして、学校教育目標、方針として、当校においては卒業式、入学式のときに「君が代」を斉唱するということが決められた以上は、そこで働く教職員はその方針に従って教育を展開していくということが公務員関係における当然の義務でございます。  したがいまして、学校でいろいろな論議の過程を経て決めると思いますが、そして子供たちに「君が代」を歌わせる、そして先生方も歌ってもらうという教育方針をとった以上は、全職員がその方針のもとに協力していかなければ学校教育というのは展開できないわけでございます。まさに学校教育の体系はそういう形で展開されているわけでございますので、学校の方針として「君が代」を歌わせる、それに従わないのは学校の方針に反するというようなことになると思います。
  220. 三浦久

    三浦(久)委員 冗談じゃないと思うのですね、私は。教育方針だと言うけれども、そしてまた学校でいろいろ論議をして決めたと言うけれども、だれが決めたのですか。職員会議で決めていないでしょう。職員会議先生はみんな反対なのですよ。校長が勝手に決めてやっていることでしょう。いろいろ論議をして決めたなんて、何か学校の総意で決めたみたいなことを言いますけれども、そういうところは一校もありませんよ。今、職員室というのはみんなで討議する場所になっていないじゃないですか。校長が自分の決めたことをただ伝達するというような機関になって、職員全体のコンセンサスを得るというような場になっていないというのはもうはっきりしているじゃありませんか。  局長、入学式とか卒業式を一体何と心得ているのです。ここは単純な儀式じゃないでしょう。一番最初の授業でしょう。一番最後の授業じゃありませんか。そういうところで、生徒も歌わない、先生も歌わない、父兄の一部も歌わない、そういう「君が代」を強引に歌わせるというのは一体何事ですか。そして教育現場にいたずらに混乱を持ち込んでいるじゃありませんか。局長大臣、ある学校ではだれも歌わないので歌詞入りの「君が代」のレコードを流している、そんなこともあるのですよ。そんなことまでして生徒に、また学校先生に歌わせなければならない問題ですか。あなたたちは教育というものを一体何と心得ているのですか。私は、本来公教育というのは国民的な合意、コンセンサス、そういうものに基づいて行われなければならない問題だと思います。そういう意味では、この「君が代」の斉唱を強要するということはそういう公教育の原則というものに反していると私は思いますが、大臣、どう思いますか。
  221. 森喜朗

    森国務大臣 私は、それぞれの国が国歌と国旗を大事にするということは子供たちを教育する上においてとても大事なことだと考えておるのです。国会のやりとりでおしかりをいただくかもしれませんが、逆に、国旗や国歌を知らないあるいは歌わない、敬意を表さないというままに育ってきた子供たちというのはとても不幸だと思うのです。逆に言えば、「君が代」や日本の日の丸が国歌や国旗ではないのだ、これを教えなくても歌わせなくてもいいのだと、仮に三浦先生がそういう立場をおとりになるとするならば、子供たちには国旗や国歌というものは全く関心を持たずに育ってもいい、大きく成長してもいいと先生が思っておられるのだとすると私はとても悲しいことだと思うのです。  したがって、当然いろいろな意見がございますから、私も政治家ですからいろいろな意見は聞いておりますが、新しい国旗や国歌をつくれというような意見もございます。しかし、先ほど先生もみずから御発言にございましたように、「君が代」は七〇%以上の人たちがこれを国歌というふうに認識しておられるということでございますから、確かに先生がさっき例えの中でお話しになりましたように、昔の軍国主義あるいは天皇が戦争に駆り出させたその道具となったというようなお話先生からなさいましたけれども、そうしたことの反省をいたすのは我々世代から上の皆さんであろうと思うのです。今の子供たちにとっては、そのことが全く昔の軍国主義やそのことを引き出すそういう道具ではないと私は思っております。  「君が代」の君というのも、天皇だと今三浦さんはおっしゃった。しかし、天皇は昔の天皇ではないわけで、憲法に国民統合の象徴として定めて、そして国民が憲法をひとしく守るように、我々はお互いにそのことを主張しているわけでございます。したがって、国民統合の象徴としております天皇を持つ日本の国が永遠に平和であってほしいという歌でございますから、そういう意味国民の皆さんもそのことを十分理解をしておられる、こう思うのです。  ただ、先生が今指摘されたように、学校で歌われていないじゃないかとか、そのことを改めて法律でつくれという意見が二〇%しかないというような数字を挙げられましたけれども、国歌や国旗に対してそれぞれ今いる日本の大人たちはいろいろな思い出を持っていることは事実だと思います。ですから、そういうことを考えますと、改めて国歌を法律で制定することはないというような意見を持っている人たちは私ども自由民主党の中にもかなりおられると思います。しかし、今日本の国で一番これを親しみ、そして国旗や国歌としてある程度国民が認識しておるという数字は、三浦さんもお認めになったとおりでございます。したがいまして、私どもが国旗や国歌というものを通じて平和であるということのとうとさ、そしてかつての戦争ということを二度と繰り返してはならぬというお互いの気持ちの戒めになるというふうに、私自身はむしろそういうふうに受けとめておるわけでございます。  学校で歌わないじゃないか、生徒も歌わないじゃないか、これは先生が歌わせないようにすれば生徒が歌わないのは当たり前のことでございまして、私はそう思っております。生徒がみずから先生に反して歌ったりするということは学校教育上あり得ないことでございます。ですから、学校先生がそういう方向でなければ生徒だって歌わないというのは当然でありまして、そういう事象だけをとらえて、子供も歌っていない、先生も歌っていない、だから国歌として認められないのだという考え方は、先生のお考えとして私は否定はいたしませんけれども、それはそれなりのお考えであるというふうに私は承知をいたしておきたい、こう思います。
  222. 三浦久

    三浦(久)委員 私は国歌を一般論として否定しているのじゃありませんよ。「君が代」というものを国歌として、そしてその斉唱を強要するということを否定しているわけです。今あなたは、新しい憲法になった、象徴天皇のシンボルとしてこの国歌があるのだ、こう言われましたね。ですから、歌詞は同じであっても新しい憲法のもとではその意味内容は変わってきているのだ、そういうことをおっしゃりたいのだろうと思うのですけれども、それであれば、憲法第一条というのは天皇の象徴ということを規定したのじゃないのです。その本旨は、象徴としての天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づくという、まさに国民主権そのものを規定したものだというのははっきりしていることでしょう。  ですから、そういうことであればいわゆる国民主権にふさわしい国歌を制定させるとか制定するとか、そういう方向で論議を進めていくというのであれば結構だと思う。しかし、いわゆる国民的なコンセンサスも得られていないような、いわゆる天皇主権を謳歌するような歌詞を持った「君が代」というものを先生方に斉唱を強要するということは、私はどんなことがあっても認められないことだと思います。ですから、これを自民党がしゃにむに強要するということは、むしろこれは天皇を――憲法改正して天皇を元首化しようなんて、そんな動きも自民党の中にありますね。そういうものを押しつける、まさに党派的ないわゆる偏向教育の典型的なものじゃないかと思うのですよ。  私はこれ以上議論は続けませんけれども、はっきりしておくことは、文部大臣、この「君が代」が国歌であるということは何らの法的な根拠もない、したがってこれをいわゆる行政が法的な根拠もなく他人に強要するということはできないと思います。いわゆる行政は法定主義でありますから、法的な根拠がなければできないことになっております。ですから、そういうことも念頭に置いて今後の学校運営に当たっていただくことを強く要望して、次の質問に移りたいと思います。  一つは、学級編制の問題でお尋ねします。  現在、文部省は小学校中学校の児童生徒数を五月一日で確定しています。そして、クラスの数を定めているわけですね。つまり、四月の入学時に仮にその学年が九十人であるといたしますと、二クラスで入学式のときはスタートするわけです。ところが、五月一日現在で九十一名ないしは九十二名にふえたといたしますと、その時点でまた学級をばらしまして、そして三クラスに編制し直すわけですね。こうしたやり方は学校現場に大変混乱を持ち込んでいるわけです。  北九州のある小学校の四年生の場合ですけれども、去年までは三年生だったわけですね。それで三年生のときは四クラスだったわけです。ところが、ことしの三月の末に児童が減少いたしまして、四月の始業式には百三十五人しかいない。それでちょうど三クラススタートしたわけです。ところが、その後五月一日までの間に二名ふえました。そうすると、せっかく新学期でもって三クラススタートしたのに、二名ふえたものですから、今度は五月一日の段階で編制がえを行って四クラスにしたわけです。今まで四クラスで来たのが三クラスになり、そしてまた四クラスになるという、一月もない間に大変慌ただしく学級の編制がえが行われているわけであります。  そういたしますとどういう障害が起きてくるかといいますと、学校当局、また父母、この人々にとりまして、四月に三クラススタートはしたのだけれどもどうも五月になるとふえるかもしらぬ、こういう一抹の不安があるわけです。ふえるとクラスの編制がえをしなければならないな、こういうことになります。ですから落ちつかないのです。学籍簿も仮のものしかつくらないのです。それから児童の名札も、四年生という名札はつけますけれども、四年何組という組はつけないで、そのまま始業式を始めて授業をやっているということです。  それから、家庭訪問をしようと思っても、またクラスがばらされちゃって自分の担任じゃなくなっちゃうかもしれないというようなことがありますから、学校先生は家庭訪問もできない。そういたしますと、そのクラスだけやらないというわけにいきませんから、学校全体が家庭訪問を延期せざるを得なくなってくる。また生徒にいたしますと、果たしてこの先生がこれから一年間担任してくれるのかどうかということもわからないものですから、その期間は勉強に身が入らない、そういう状態が続くそうです。  それからまたクラスの編制ができないと学校先生は言っておられましたが、それはなぜかというとリーダーをつくることができないというのです。ですから、そういう意味では、四月の二十日間ぐらいというのは先生も生徒も父母も大変不安な状態に陥っているということが言われております。  ですから、できれば新学期に学級編制をするとそのままずっと一年間通した方が教育上はいいのじゃないか、こういうことを現場の先生はおっしゃっておられるわけです。例えば、我々でも一月一日というのは気持ちを新たにいたしますけれども、児童生徒も新しい学期になりますと非常に新しい抱負を持って学校に来るそうです。例えば今まではどうもおれはいたずらをした、学校先生にいろいろ怒られてきた、しかしことしこそはひとつ心を入れかえてしっかり勉強しようとか、スポーツに専念しようとかまじめにやろうとか、そういうような気持ちを持って来る。ところが、今までの先生にはおれの悪事は知られているからほかの先生に当たらないかな、そういう気持ちも持つそうですね。そうすると、四月のスタートのときに今までの先生と違った先生に当たった、喜んで、さあこれから一生懸命やろうというふうに思っているときに、がらっとクラスの編制がえが行われてまたもとの先生に当たってしまった。そこで生徒のことしこそはという新しい抱負ががたがたっと崩れてしまう、そういうこともあるそうです。これは学校の現場の先生から聞いたことであります。  こういうことが何で起きるのかということです。これはレアケースだと言いますけれども、その学年の生徒たちにとってはいわゆるボーダーラインの層ですから、小学校で言えば一年から六年まで同じような状態が毎年ずっと続いていくわけですね。ですから、レアケースであるけれども、その生徒たちにとっては大変な問題だということが言えるわけであります。何でこういう状況が出てくるかというと、学級編制を四十五人単位という硬直した、まさに弾力性のないやり方でやるために発生しているのじゃないかと思うのです。ですから、例えば四月段階で四十五人を若干下回った、そういう場合でも、五月一日現在で四十五人を超えるのじゃないかと予想されるようなときは、その見込み数を基準として学級編制を行うという弾力的な運用を行ってやる必要があるのではないかと私は思うのですけれども、大臣、その点いかがでございましょうか。
  223. 高石邦男

    ○高石政府委員 学級編制の基準を四月一日にした方がいいか、五月一日にした方がいいか、実は一長一短あるわけでございます。一般的な傾向としては、四月には子供の出入りが激しいという実績から、五月一日という日を児童生徒数の学級編制をやる基準日に決めているわけでございます。したがいまして、このとり方は一長一短があって、一般的に言いますと五月一日の時点でとった方がより確実な安定した児童生徒数の把握ができるという発想に立っているわけでございます。  それから、実際上、この学級編制を基準といたしまして教職員の定数を積算をし、国の負担の限度を決めるわけでございます。したがいまして、各県はその枠内でそれぞれの学校に対する教員配当を行うわけでございます。したがいまして、標準法に書いてあるとおりに執行しているとは限らないわけでございます。県によって、教員の配当についてはある意味での弾力性を持って対応しているというのが実態であろうかと思います。したがいまして、別に標準法に決めたとおりしゃくし定規にやらなければならないという制限をとっているわけではない。ただ、ある地域で有利に教員配当をして、ある地域で標準法で定めているより以下の教員配当をしたということになるといろいろ問題が起きますので、大部分の県では標準法に定めているような方式で実際上学校に配当しているというのが現実の姿でございます。  それから、なお五月一日を基準日として決めておりますけれども、四月の当初にもう明らかに五月一日にこの学校は何人がふえるということが確実であるものは、四月の当初から二クラスなら二クラスに分けて学級編制をするという運用上の措置はとっているわけでございます。
  224. 三浦久

    三浦(久)委員 それでは次に、図書司書の問題についてお尋ねをいたします。  学校図書館法第五条によりますと「学校には、学校図書館の専門的職務を掌らせるため、司書教諭を置かなければならない。」というふうになっておりますが、この配置状況はどうなっておるでしょうか。
  225. 高石邦男

    ○高石政府委員 司書教諭の配置率は、司書教諭として発令されているのは非常に少ないわけでございます。小学校を例にとりますと全体の〇・五%、中学校が一・一%でございますが、実際上は学校の校務分担で学校図書館の担当教員という分担を命じているわけでございます。司書教諭という発令はしておりませんけれども、その実態の分析をいたしますと、小学校で九七・九%、中学校で九八・八%、高等学校で九九・八%の人が、先生のだれかが図書館関係の仕事を分担するというような形になっているわけでございます。
  226. 三浦久

    三浦(久)委員 その九七・九%というのは、それは全く校務分掌で司書教諭の資格のない人たちがやっていることでしょう、そういうものも含まっているわけですね。ですから司書教諭として発令しているのは小学校で〇・五%、中学校で一・一%というお話ですけれども、この法律が施行されてから三十年以上たっているのですよ。何でこんな低い達成率なんですか。
  227. 高石邦男

    ○高石政府委員 学校図書館法では本則で司書教諭を置くということになっておりますけれども、附則のところで「当分の間、置かないことができる。」制度上はそうなっていることが一つと、司書教諭の資格を有している人たちが必ずしも全部の学校に得にくい、司書教諭になるためには一定の資格、単位その他を取らなければなりませんので、そういう先生が現実的に配置されていないというのが一つの原因です。  それからもう一つの原因は、これは学校現場の先生方の意識の問題があるようでございまして、図書館の司書教諭として専任の発令になることについていろいろな抵抗があるようでございます。やはり図書館業務というのは、学校の教職員が全体的に仕事を分担して利用していく、活用していくという体制をとった方がいいというような潜在的な現場の感覚がある、そういうところから校務分担という形での仕事の割り当てにしているというふうに分析しております。
  228. 三浦久

    三浦(久)委員 学校図書館法第一条は「学校図書館が、学校教育において欠くことのできない基礎的な設備であることにかんがみ、」云々、こうなっていますね。ですから、図書館活動というのは学校教育に対して非常に重要な位置を占めているのだと思うのです。そのために「専門的職務を掌らせるため、司書教諭を置かなければならない。」となっている。  今局長制度上の問題で、附則で「当分の間、置かないことができる。」と書いてあると。当分の間というのは何十年を言うのですか。当分の間といって、もう三十一年ですか、たっているのですよ。そうすると、小学校で〇・五%、中学校で一・一%、この例で言うとあと何百年かかるのかなという感じがするのです。ですから、「当分の間、置かないことができる。」というその当分の間というのはどのくらいのことをめどにしてお考えになっておられるのか、ちょっとお尋ねしたいと思います。
  229. 高石邦男

    ○高石政府委員 戦後いろいろな法律がつくられて、一つの理想の実現として本則ではそういう職員を置かなければならないという規定を書いた、しかし現実的にはそこまでいくのには相当な隘路があるということで、当分の間置かないことができるというような附則の形態の法律がこの法律以外にもかなりあるわけでございます。したがいまして、当分の間がどれくらいかというのはなかなかお答えしにくいわけでございますが、法律で書いてある場合にはかなり長い期間を予想して書かれておるし、現実的に運用されているということで、私の方といたしましては、司書教諭に対してのいろいろな講習会その他を積極的に実施していまして、そして、できるだけ資格のある先生がまず絶対数としてふえなければいけないということで、その研修を一方において積極的に進めているわけです。  それから一方において、都道府県の教育委員会等に対しては司書教諭の発令を一層やってほしいということを毎年通達で出しておりますけれども、それが先ほど申し上げたような事情で十分期待される状況にないというのが現状でございます。
  230. 三浦久

    三浦(久)委員 相当な期間とおっしゃいますけれども、例えば達成率の多い中学校の場合をとっても一・一%でしょう。三十年で一・一%の進捗率ということになりますと、一〇〇%いくのにこの調子でいったら、三十年の百倍だと三千年かかるということになりますよ。これは文部省が図書館教育というものを軽視していることのあらわれじゃないかと私は思います。  文部省お尋ねいたしますと、学校図書館法の第五条の「司書教諭を置かなければならない。」というのは、これは何も専任の人を置かなくてもいいんだ、要するに司書教諭の資格を持った人をいわゆる標準定数として配置しておけばいいんだ、校務分掌としてその先生にやってもらえればそれでもうこの第五条の要件は満たすんだ、こう言われているわけですね。そういたしますと、結局、この学校図書館法に言う司書教諭というものを置いただけでは、まあ置いてもいないんだけれども、学校図書館の運用というのは十分にいかないわけですね、文部省考え方で言うと。何しろそれに専念はしないわけですから。そうすると、これを校務分掌の一つとして学校先生が扱うということになりますと、本当に行き届いた図書館の運営というのはできないのです。  というのは、教科を担当している先生というのは、それはいろいろ仕事がありますね。教科自身の研究もあります。また学校行事の準備もあります。また校内暴力とか非行が発生するとその対策へうんと時間をとられてしまうとか、学級事務もあります。また児童の健康状態がどうかとか、そんなこともやらなければいけません。ですから、そういうことに追われて図書館の運用に十分の時間を割く暇がないというのが現状なんです。  そして、もともとこの図書館の仕事というのは片手間にできる仕事ではありませんですね。私も三つ四つ、この学校図書館の運用の状況を調査してまいりました。まず本の受け入れがありますね。本を買って、そしてあの図書館の本棚に並ぶまでにどのくらいの手間暇がかかるかということです。本を受け入れる、それをぴしっとした分類法に基づいて分類しなければなりません。その分類をするのには中身を読まなければわからないという場合もあるわけですから、本を読まなければならないという場合が出てきますね。カードを作製しなければならない。カードは一枚じゃありませんね。三枚ぐらいカードをつくりますよ。それから貸し出しをしなければいけない。それから集計作業がありますね。それから読書指導がありますね。例えば児童が来てもどこにどういう本があるかわかりませんから、その本だったらあそこに行って探していらっしゃいとか、そういう指導をちゃんとしなければ本の貸し出しというのはできません。それから本の紹介もあります。カウンター業務がありますね。返本の整理がありますよ。そのほかにも、もっとサービスをよくしようと思えば、新聞の発行、読書感想文のコンクールもやらなければならないとか、いろいろありますね。また、学校の生徒でつくっている図書委員会の指導というようなものもやらなければいけない。ですから、学級を担任している先生教科を担任している先生がこういう図書の係になるということは相当なオーバーワークになるということで、聞いてみると、もう校務分掌でもって図書係になるというのは嫌だと言う先生が非常に多いわけです。  そういう中で北九州の場合をちょっと御紹介いたしますと、北九州では五市合併の昭和三十八年の十月に、PTA雇用であった図書司書さんを市が一般事務職員として採用しているわけです。そしてそれを学校に配置したわけです。校務分掌としてそういう図書司書さんは図書司書の仕事に専念させてきました。その数は合併当時八十六名おりました。これは大変いいことです。その後だんだん減ってきまして、ことしの三月には二十四名になったわけですね。この二十四名の人々は、学校で校務分掌として図書司書の仕事に専念してきました。  ところがことしの四月から、あらゆる学校にいた臨時職員、この臨時職員というものを市が全部廃止してしまったのです。そのために二十四名の図書司書さんも一般の事務をやらなければならなくなったのですね。今までは一般の事務は臨時職員がやってくれました。ですから図書司書に専念できました。ところが一般事務も今度はやらなければならないというようになってしまいまして、ことしの四月からは専任者がゼロになったわけであります。そして、その二十四名の三分の二の人が図書室と一般事務のかけ持ちです。三分の一の人、これは八名になりますが、これは一般事務の仕事だけしかしないというふうになってしまいました。  ところが、ちょっと調べてみましたら、この専門の図書司書さんがいる学校図書館といない学校図書館では、子供の読書量が非常に違うということなんです。例えば小学校ではどのくらい違うかといいますと、二・五倍違うのです。中学校では十倍違うのです。こういう結果が市教委の調査で明らかになっております。これは、どんなことを専任の図書司書さんがやっておられるかといいますと、図書司書の職員は、私の調べたある学校ですが、八百五十五人の生徒さんがおります。この人たち一人一人の貸し出し年月日を全部記載していますね。それでどういう本を読んだかも記載している。それで、例えばPTAがあると、それを学校先生に渡して、学校先生がそれに基づいて子供一人一人の読書傾向などを説明する。そういう資料にもなっています。また、子供の読書欲をわかせるために大変かわいらしい表彰状なんかをつくって、そして励ましていますね。ここへ持ってきましたけれども、例えばこれがそうです。これは「読書賞」というんですね。「あなたはこの一年間たくさんの本を読んで個人カードが何枚めになりました。大へんよくがんばりましたね。これから先もしっかり読んでください。」こういうものを学期末にやるんですね。これも同じものです。色が違うのは、男の児童と女の児童の違いだと思います。こういう非常に児童心理をつかんだ、きめの細かい指導までしているわけですね。ですから子供たちは、これをもらいたいというだけじゃありませんけれども、また図書司書の先生からこの「読書賞」をもらおうというので、また一生懸命本を読むというようなことにもなっているわけですね。こういういわゆるきめの細かい仕事というのは、専任の司書がいないとできないんですね。  ですから今北九州市では、ことしから全部臨時職員がなくなっちゃって、さっき言ったように専任の図書司書がいないということになりましたので、学校先生だけではなくて、父母の皆さん方にも大変大きな衝撃を与えているわけですね。それで今北九州では、図書司書の専任を置けというので請願運動が起こっているわけであります。  文部大臣も、子供にたくさん本を読ませるというのは教育上非常に大きな効果があるということは、もう十分に御理解をいただいていることだというふうに思います。ですから、本の好きな子供を育てる、そういう教育改革をやるというのであれば、文部省は、今行革特例法でもってストップしているいわゆる事務職員増大十二カ年計画ですね、これはあるのですが、行革特例法でもってストップになっている。これを再スタートさせる、そしてまたそのスピードをさらにアップする、またさらにそれを充実させる、やはりこういうことをすべきだと思うんですね。そして、図書司書さんが図書司書の仕事に専念できるような環境条件をつくってやることが大事だと思いますが、大臣の御見解をお聞きいたしたいというふうに思います。
  231. 森喜朗

    森国務大臣 子供たちが本を読むということは、これは単に教育上だけではなくて、やはり文化というものを振興させる意味においても大変大事なことだというふうに考えます。そういう意味では、三浦さんがいろいろと例を挙げて御指摘をいただきました、子供たちが本に親しむ、そういう教育環境をつくるということは極めて大事なことだと私も考えております。  しかし、司書教諭につきましての考え方は、今日まで努力はしてまいりましたが、初等中等教育局長から申し上げましたとおり、現実の問題としてはやはり定数全体の問題でもございます。やはり私ども今日、文化教委員もいたしましたり、また党の文教の仕事をしてまいりまして、結局どれを優先させていくかということが非常に大事なところだと思うのです。何も教職員のいわゆる定数に関することに全く努力をしないというわけではないわけで、いわゆる産休代替でありますとか、今、四十人学級はわずかでございましたけれども、その方向にも一応着手をしたわけでございますし、いろいろなところで学校教育現場に対する、教員に対するいろいろな施策は、皆さんから見れば御不満な点も多いかと思いますが、それなりに努力をしているということでございます。第五次定数改善計画につきましては、今御指摘もございました事務職の問題等も含めて、着実にその方向で努力するように私どもも検討を加えておるわけでございますし、今後とも努力をしてまいりたいと考えておりますが、要は、やはりプライオリティーの問題、どちらを優先させていくかということで、おくれている面も確かにございますけれども、それはそのかわり、学校現場にあずかる先生方の他のプラスの面も出てきているわけでございますから、そうした先生方がお互いに協力し合うことによって学校図書館が円滑に子供たちに展開をされていくように、また先生方の自発的な御協力もお願いをして、現実の問題としてそれを処理をしているということでございます。  先生お話しされておりますことは、これは全く間違ったことではないわけでありますし、そういう方向で私どもも、図書、本というものを大事にする、読書というものを大事にするということについては、そういう方向でさらに教育を充実していかなければならぬと思っておりますが、今後ともいわゆる定数改善の問題、そしてその完成年度、そういうところに主眼を置いて、なお一層の努力、改善をしていきたい、こういうふうにまた政府当局も指導していきたい、こう思っております。
  232. 三浦久

    三浦(久)委員 時間が参りましたので質問をやめますけれども、私は、何を優先させるのかといえば、この前の新聞の世論調査でも、これ以上の軍備の拡大は望まないという人々が八〇%以上超えているわけです。ですから来年度予算の編成に当たっても、軍備の拡大というようなことはこれはしないで、そうしてやはり教育環境、教育条件の改善のために全力を尽くす、そのことが教育改革の本旨だというふうに思います。このことを強く要望して、私の質問を終わりたいと思います。
  233. 片岡清一

    片岡委員長 この際、御報告申し上げます。  去る十九日、大阪府に委員派遣を行うことに決定し、派遣日時、派遣委員の人選等につきましては、委員長に御一任願うことになっておりましたが、委員長は、派遣日時は、来る七月三日から二日間、派遣委員は       池田 行彦君    戸塚 進也君       深谷 隆司君    宮下 創平君       小川 仁一君    松浦 利尚君       市川 雄一君    和田 一仁君       柴田 睦夫君及び私の十名といたします。  次回は、来る二十六日火曜日午前十時理事会、午前十時三十分委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後六時二十九分散会