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木島委員 大臣、非常に慎重なお答え、ありがとうございました。
とかく、たとえば集団でもってある暴力事件が起こったとしても、その五人なら五人の集団のその行ったことは同じことであっても、そこに至ったところの近因、遠因はおのおのみんな個人的に違うわけですね。そのことを診察して処方せんを書かないとやはり誤ると思うのですから、あなたのいまの慎重な
態度は私はよろしいと思うのですが、しかし、このことで言えることは何かというと、一つは、学校からもあるいは家庭からも疎外されておった、相手にされておらなかった、そういう子供たちですね。一つは、落ちこぼれであります。
落ちこぼれとは一体何か。これは
教科書とも関係するのでありますけれども、入学試験がありますから、そこに合格するためにはむずかしい知識をたくさん詰め込まなければなりません。しかし、それについていけない子供はおのずから落ちこぼれます。しかし、知識だけが人生のすべてではないのでありまして、あるいは何か特徴のある子は、ばかにされたときに、
自分も何か自己顕示欲があるのです。
認めてもらいたいのです。それが
認められないときに逆に出てくる。弱い者が、いつも虐げられておった者が、相手にされなかった者が、その大人に対して、その大人の中の一番無抵抗な、一番弱い者に向かって出たのが今回の事件の一面ではないだろうか。そういう
意味で言うならば、学歴社会、いい有名校、より高い大学を出た者ほどいい社会的地位、経済的地位についている。だから、みんなそこに集中する。そこから落ちこぼれた人たちだとするならば、進学競争の犠牲者であるかもしれません。そういう目でもってこのことを見なければならないのじゃないかと思うのです。
そういう一面と、もう一つ私が感ずることは、人間は本来動物の本能としての残虐性を持っております。これが子供の遊びの中でもって、あるいは餓鬼大将なら餓鬼大将のその下におるという集団の遊びの中でもって、集団の社会的な規範をおのずから覚えてくるのです。そこで、残虐性を本来本能的に持っておるけれども、それが自己コントロールされて大人になっていくのです。
ところが、いま遊び場がない、きょうだいが少ない、家庭でもって相手にされない、めんどうを見てもらえない、学校で遊び友達がいない、そういうことで自己コントロールができなくなってしまって、おもしろいことをやろう、そのおもしろいことをやろうというものが殺人に至る。これはまさに大臣がおっしゃるとおり大変残忍なことであり、大変問題なことだ、まさに重大な問題だと思うのです。ここまでいっている。このことを一体われわれはどう
理解したらいいのだろうか。町田の先生が子供を刺しましたね。あれなんかだって、やはり原爆病だと言ってからかわれたという。内向的で弱い。弱い者に、弱い大人に、痛めつけられておった子供たちがそこにいるものだから、したがって、あの先生が刃物を使わなければならない原因になったのじゃないだろうか。
そうなると、
学校教育全体というものを
考えなければなりませんが、中曽根さんの臨時国会の所信表明の中に、いま物の豊かさの上に心の豊かさを積まねばならない時期だということをおっしゃっております、たくましい文化という中に。大変炯眼だと思うのです。そのことは、昨年私もこの予算
委員会でも申し上げました。われわれはみんな金が欲しい。物が欲しい。物が欲しいから、われわれはその物を買うための金が欲しい。その金が最高の
価値として、いまわれわれの規範になってはいないだろうか。
価値観になってはいないだろうか。金は絶対なものであるかもしれないけれども、しかし、それはしょせん手段であって目的ではない。だのに金が最高の
価値だということは、手段が目的化しておる。逆転していることだと思うのです。そういうために、背後に学歴社会がある。入試の地獄がある。
戦争がある。そこに落ちこぼれがある。落ちこぼされた者がおる。そういう全体というものを
価値観というなら、まさにあなたの、
総理の所信表明の中でおっしゃったそのこと全体を政策の中に、社会全体をどう直すかということを抜きにしてこの横浜の浮浪者の連続殺人事件というものは
考えられないのではないだろうか。
そのことはもう一つ、九州産業大学の問題もそうであります。文部省は、補助金の二十六億円ほどを返せということと
理事長退陣を含む五項目の改善を指示いたしました。ところが
理事長は、二十六億の、五年間の金は返す、けれども
理事長はやめないという返事がありました。そして、それには文部省と根回しができておる、裏工作ができておると言う。私はそのことを信じたくありません。ないだろうと思う。だから、そのことの、そうでないという措置を、対抗措置をとらないと
政治家が迷惑します。
そのことは時間がありませんから言いませんが、ただ、金は返すけれども
理事長はやめないとは一体何か。まさに私学の多くの中にあるところの学校屋の発想だと思うのです。学校屋の理論だと思うのです。
教育という仕事ではなしに、営利の事業なんです。学校屋です。だから、このくらいの、五つの学部があって、大学院を持っている、一万数千人の学生を持っているのでありますから、一年間の数億の補助金がなくたって、それは少し定員をよけいに入れたらすぐにこれは解決しますよ。けれども、
理事長をやめたら学校屋が学校屋でなくなるわけでありますから、やめないということです。それは先ほど、手段と目的が逆になったと言いましたけれども、私学の経営も元来は教学が目的で、そのための経営であるにかかわらず、利潤追求の経営が中心で、そのために教学が犠牲になっているんじゃないのか、そういうものが多いのではないのか。
私は、昨年この
委員会で、音楽界、美術界あるいはスポーツ界、
学校教育の面でもって何か事件が起こると、いつでもそれは特別な事件、特殊な事件としてそれが追われるけれども、そういうものが常識的に常にあるのじゃないか、そういう体質にメスを入れなければいつでもこういう事件が起こる、起こるとそのことに、いつでもその事件その事件と言っているじゃないかと言ったのだが、それからこれまで文部省は一体どういうことをやってきたのだろうか。
しょせん金が最高の
価値だという、
総理が所信表明でおっしゃる物の豊かさの上に心の豊かさをというこの
価値観の問題が、この九州産業大学でも問われているのじゃないのか。これが資本主義というものなのだろうか。私は、必ずしもそうは思っておらないのです。ここのところを、
総理大臣が所信表明でおっしゃったのでありますから、具体的にどうするかということ、このことをまずお聞きしたいと思う。