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星野参考人 御指名によりまして、議題であります
田中角榮議員に対する
辞職勧告決議案につきまして、
憲法研究者の
立場から、また
主権者国民の
立場から
意見を申し上げたいと思います。
結論と申しますか、基本的な
立場でございますが、
日本国憲法前文に示された
人類普遍の
原理としての
国民主権原理、また
政治道徳の法則は普遍的であるというような
原理、その
具体化としての、たとえば
憲法十五条に示された
公務員の選定、
罷免権は
国民固有の
権利である、あるいは四十一条の
国会は国権の
最高機関である、あるいは四十三条の全
国民を
代表する
選挙された
議員、そういう
立場からこの
決議案に基本的に賛成するものでございます。
このような基本的な
立場から、以下四点につきまして私の
意見を申し上げたいと思います。
第一の点は、この
決議案の
法的性質の問題でございます。
これは形式的に見てあくまで
勧告にすぎず、何ら
法的強制力は持たないということでございます。また内容的に見ましても、
田中議員の
刑事責任を追及するのではなくて、
国民主権原理に基づく
政治的道義的責任を問うものであり、しかも
同僚として、その
倫理観に刺激を与えるという
性質のものだろうと思います。したがいまして、三権分立で、この
国会の
決議案は、たとえば
司法権に圧力をかけるとか、
司法権の独立を侵すとかいうものとは全く関係のないことだというふうに思うわけでございます。
ところで、
刑事的責任と
政治的責任について、実は
田中議員自身が明確に述べておられると思います。これは第一回の公判における
被告人陳述の際に次のように述べておられます。
起訴事実の有無にかかわらず、いやしくも
総理大臣在職中の
汚職の容疑で逮捕、拘禁せられ、しかも
起訴に至ったということは、それだけで
総理大臣の栄誉を汚し、
日本国の名誉を損なったこととなり、万死に値するものと考えました。
このように述べております。「
起訴事実の有無にかかわらず、」という、これは要するに
政治的責任の問題でございますが、その後
政治的責任について「万死に値する」と述べている。
さらに、去る八三年一月二十六日に行われました第一審における
検察官の
論告求刑について申します。
そこでは、この
事件としては
最高刑の五年の懲役、しかも戦後の
汚職史上最も極刑を論告しているわけでございますが、
情状論の中では、
本件は、国の行政の
最高責任者である
内閣総理大臣に係る
事件であること、賄賂の額が現金五億円に上る巨額であること、国際的な
犯罪であること、その
犯情は悪質であること、
証拠隠滅工作を行いとか、反省の色は全く見られないなどと厳しく指摘して、
刑事責任について次のように述べております。
右の如き犯行の態様及び
犯情をみると、
田中が永年にわたり国政に参画し、その間、
内閣総理大臣をはじめ、
大蔵大臣、
通商産業大臣等数々の要職を歴任し、
国家社会のため少なからぬ功績を挙げたとしても、その
刑事責任は極めて重かつ大であるといわなければならない。
というふうに述べております。
さらに重要と思われますのは、
田中議員の
政治的道義的責任について次のように指摘している点でございます。
しかして、国政の頂点に立つ者にかかる
本件の如き行為は、職務の公正と廉潔を旨とすべき
公務員一般の綱紀のみならず、
国民全体の
道義の維持に深刻な影響を及ぼし、
わが国の
政治・行政に対する
国民の信頼を著しく低下させるものであり、この
種行為に対する厳正な処断を欠くときは、ひいては、
民主政治の根幹を揺がす虞があるといっても過言ではない。
このように述べております。
もちろんこの
論告求刑は、
刑事事件としては第一審の
論告求刑にすぎませんし、まだ一審の
判決も出ておりません。さらに最高裁で
無罪という
判決が出るかもしれません。それはわかりませんけれども、仮に出たことにおきまして
刑事的責任は一切ないとしましても、先ほど
田中議員自身が述べられたことや、
検察官が指摘された
政治的道義的責任というものは免れるものでは絶対ないと私は考えるわけでございます。
ましてや、いわばごく
下級公務員の
汚職というようなことでなしに、いやしくも一国の
総理大臣の在職中の
事件につきまして、
検察官が逮捕、拘禁したり
起訴するからにはそれだけの
——これは国内問題だけではなくて、国際問題でございます。それだけの十分な自信がなければ、軽々にしなかったはずだと思います。またそれだからこそ、
田中議員が一審の陳述でそのように述べたのだろうと私は思うわけでございます。
このことを
憲法的に申しますと、先ほど申し上げましたような、前文に示された普遍の
原理に違反するのではないか。すなわち
国民主権主義とは
反対に、
主権者国民の厳粛な信託を裏切ったこと、あるいは
国民の
代表としての
資格を欠いている。またその福利は
国民が享受する、こう書いてありますが、それと
反対に、どうも
田中さん
自身が福利を享受したということにおきまして、まさに
憲法前文に示された「そもそも國政は、
國民の嚴粛な信託によるものであって、」以下の
原理に真っ向から違反する、それを否定するものだ。したがいまして、このような
道義的政治的責任を痛感されまして、ちょうどこの問題の相手である
ニクソン大統領は疑いで
辞職されて、政界から引退をされましたが、それと同じように
田中さん
自身が
議員を
辞職し、政界から引退すべきが当然だったのではないかというふうに私は思います。
さらに
田中さんが
総理大臣になったのは、
自由民主党の
総裁公選でなったわけでございますから、
政権政党である
自由民主党の党員や
議員諸公が、
同僚としてそのような総裁を選んで
内閣総理大臣に指名したという
責任を感じて、
同僚として
辞職を
勧告したり、あるいは
除名というようなことをやるべきではなかったかと思いますし、そういうことは、当然
自由民主党党員や
議員さんにも支持されたのではないかというふうに私は思うわけでございます。
次に、第二の点でございます。私は、いま申しましたように、
国民主権の
原理からこの
決議案に基本的に賛成すると申し上げましたが、それと全く逆に、
国民主権主義の
原理に違反するのではないかという御
意見があることでございます。
これは、いわゆる
みそぎ論とか
洗礼論、そういうこともあったが
——数次の
選挙によって、
選挙民から洗礼、みそぎを受けて当選しているではないかということと関係するわけでございますが、
田中議員が
主権者である
選挙民から
選挙によって選出された以上、
選挙以外の方法によって議席を失わせるようなことは慎重でなければならぬ、これは
法的拘束力はないけれども、実質的な
影響力を与えるということにおいて問題だ、こういう消極的な御
意見でございます。
しかし、このような御
意見は、いわゆる
国民代表制の
理論、すなわち
国民代表というのは、
命令委任関係ではないという
理論、あるいはそれの
具体化としての
憲法四十三条に
規定する「全
國民を
代表する選擧された
議員」についての誤った認識と解釈によるものと思われます。
御
承知のように、「全
國民を
代表する」という
規定は、ある
候補者に投票した特定の
選挙区の
選挙民の
意思を
代表するという点で
命令委任ではございません。それと全く逆に、選出された
議員は、個別具体的な
選挙民の
利害や
意見に拘束されることなく
国民全体の
奉仕者、
憲法十五条に言う、
公務員は
国民全体の
奉仕者として全
国民を
代表するものでなければならないということでございます。
命令委任とか
国民代表の
理論というのは、もう古典的な
理論でございますし、いまさらくどくど申し上げる必要はないと思いますけれども、仮に
命令委任ではないという
意見——命令委任だとした場合にさまざまな矛盾が出てくるわけでございます。たとえば
A候補に投票し、
A候補が当選したとしても、その投票した個々の
選挙民は、あるいは私的な、あるいは地域的な
利害を期待して投票したかもしれません。そうでございますから、投票した
人個々人の間に
意見や
利害の対立だってずいぶんあるだろうと思います。それじゃ
A候補に投票しなかった者は
代表されないのか、あるいは棄権した者についてはどうなのかというような問題、さらには
選挙権の
資格について、古くは
財産とか教育とか性別などによる制限がございました。今日でも
年齢制限があるのでございますから、そうしたならば、
命令委任ということになると、その人に投票した者だけしか
代表しないということになる、あるいは一切
代表されないということになる。それでは困るので、全
国民を
代表する、要するに
命令委任ではないという学説が出てきたのだろうと思います。
さらに、
議会政治の問題で、
議員の
資格とか
責任というようなことで、
議員は以前は報酬を当てにしない
名誉職とされておりました。したがって、
政治家というのは井戸塀、要するに
社会公共のために、報酬を期待するどころか私財をなげうって奔走して井戸と塀しか残らなくなったということで、これは
名誉職と考えられておった。あるいは
選挙権について、たとえば
有産者に限ったのは、
財産や一定の税金を支出する者だけが
公共心や愛国心を持つのであって、そのような
財産や税金を払わない者は結局は
私的利益で動くものだから、そういう者には
選挙権を与えないという
考え方、あるいは
選挙権の
性質につきまして、一面
権利だけれども、それは
国民全体の利益、公共の利益に奉仕することであって、一面公務であり義務だという
考え方、あるいはまた、日本の歴史において、
地方政治においては公民と住民を分けて、二十五歳以上の男子で、一戸を構え、直接国税を二円以上納める者を公民として、それに
選挙権、被
選挙権を与え、住民には一切
選挙権を与えなかった、しかもその
理由として、われわれは
無産無知の小民が
地方政治に口を出すことを欲しないというような
市制町村制理由の問題とか、あるいは戦後では、御
承知のように参議院の全国区制の問題、その中から選出された
議員というのは、その選出をした
選挙民の個々的な
利害や
意思を
代表するのではなくて全
国民を
代表するということでございます。したがいまして、先ほどのような
洗礼論というのは根拠がないだろうと思います。
その点で
一つ気になっておりますのは、昨年の八月でしたか、
自由民主党の
憲法調査会が
中間報告を出されましたが、四十三条の
規定から「全
國民を
代表する」というのを削除するというのが出されていることは、私は
大変気になるわけでございます。どうも
田中さんを擁護する
意思があったのではないか。これはげすの勘ぐりでございますが、要するに「全
國民を
代表する」ということは、単なる名目ではなしに、実は
国民代表制、
議会民主制の本質にかかわる問題だということで申し上げます。
さらに第三は、第二と関係するわけでございますが、この
決議案は、
議員の議席を失わせる際の
資格争訟(五十五条)あるいは院内の秩序を乱した
議員の懲戒、
除名(五十八条)などの
議員の
身分保障に違反するのではないか、それに抵触するのではないかという
意見についてでございます。
実は、これらの
規定というのは、
議員の不
逮捕特権を定めた五十条とか、
議員の発言、表決の無
責任を定めた五十一条など、院外からする
議員の
身分保障とは
憲法上の
性質を異にしております。むしろこれは議院の
自律権の
規定と言ってよいと思います。言いかえますと、特権は義務づける、ノーブレスオブリージという言葉がございますように、
議員はさまざまな特権にあぐらをかいて甘んじてはならず、全
国民の
代表者としての
責任を全うするため、自戒自粛するための議院の
自律権と言っていいと思う。相互に懲戒とか
除名とか、
資格争訟の問題はそういうことだと思います。
大学で自治を認められた私には、
同僚の
任免権——私
自身も
懲戒委員会で懲戒したことがございます。あるいは
弁護士会がやはり仲間を懲戒して
除名というような、そういうことと本質的に同じだと思います。したがいまして、この
決議案は
身分保障に違反するのでは毫もないと思います。むしろ
憲法十五条に定める
公務員の選定、
罷免権は
国民の固有の
権利であるとしたそのような
国民主権を、今度の
議会がいわば代行するものと言ってよろしいのではないかというふうに思うわけでございます。
次は第四の点でございますが、この
決議案を採択されますことの
必要性と
緊急性についてでございます。
検察官の
論告求刑後の
世論調査によりますと、
田中議員の
辞職を要求する者は七五%、
自由民主党の
支持者の六九%までがそのことを支持しておられます。また
週刊誌などによりますと、小金井市とかその他の
地方議会で
田中議員の
辞職勧告を支持する
決議がなされてきている状況がございます。さらに
愛国党など右翼の
人たちもどうも
辞職を要求しているようでございますし、また腐敗と
汚職政治を打倒する自衛隊の
クーデター計画など、こういうことも問題になっている状況でございます。
このような状況は、政権を担当する
自由民主党や
中曽根内閣の
政治倫理の確立に対する消極的な態度、あるいは
ロッキード汚職を覆い隠すような文部省の
教科書検定の問題、あるいはまた
田中議員が知事二十七人を支配しているという
週刊誌の指摘など、そういうことに対する
国民のいら立ちと反発を示すものと言ってよいのではないかと私は思います。そして
田中議員の
選挙区においても
選挙ごとに
支持票が少しずつ減少の傾向をたどっているのを見ますと、これはそのような
辞職されることを当然とする世論の反映と見てよいのではないかというふうに思います。
いずれにいたしましても、このような
決議案を支持する
国民の世論は高まっていると思われます。私たちは、民の声は神の声として、この
決議案を速やかに採択されるよう
——自由民主党においても支持され得るものだというふうに私は思います。さらに
政治倫理の確立のために、国権の
最高機関としての
国会が
国政調査権を活用したり新しい立法を制定されて、本当に
国民的な要望である
政治倫理の確立の実を示していただければありがたいと思います。
私の
意見を終わります。