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秦野章君 どんなに事実を収集し、どんなに専門的に
努力をしても、また別の、専門的に営々と非常に勉強した人が別の歴史をつくる、百人の歴史家が百の歴史書をつくるというのが社会科学の宿命なんですよ。それをここがいいとか悪いとかと言う
立場というものは、これが
検定の
立場なんだが、いかにむずかしいかということを私はひとつ言いたいことと、しかし、いかにむずかしいかというと同時に、絶対いわおのごとく動かないものではないんだと、やっぱり柔軟な対応も必要なんだということを私は言いたいんです。仕組みそのものが——仕組みそのものというか、仕組みの性格が、行政技術というものがそんな不動な不変なものじゃないと。だから簡単に動かせと言っているのじゃないんですよ。動かせと言っているんじゃないんだけれど、どうも大体頭がかたいんだよな。私も役人やっておったけれ
ども、そういうところが役人というものはあるもんだから、みずからの反省を含めて申し上げるんだけれ
ども、そういうものだということを私は申し上げておけばいいんですがね。
そこで、
教科書問題で一つの問題は、アジアにおける日本の、特に最近における事態、最近の
戦争というものから言うと、通俗的に言うと、「
侵略」か「侵攻」かなんていろいろ議論があるんだけれ
ども、それはさておいて、通俗的に言うと、ぶん殴った方が日本で、ぶん殴られた方が
韓国や
中国なんですよ。ところが、人間というものは——国家も人間の集まりだけれ
ども、ぶん殴った方は意外と忘れるけれ
ども、ぶん殴られた方は忘れないんですよ。そういうものなんです、物事というものは。そこにやっぱり心を砕かなきゃならぬという問題があると私はそう思う。具体的なことは私言いませんよ、物の
考え方の問題だから。これ非常に大事なことである。
たとえば安重根の問題言いましょうか。安重根の問題なんかでも、この間何かごちゃごちゃ言った人があるけれ
ども、私は昨年の六月かな、
韓国というところへ開闢以来初めて行った。行きましてね
大臣、私は最初に安重根の墓はないかと聞いた。そうしたら大使も知らないというわけだ。いろいろ調べて、安重根は記念館があるというから記念館へ行ったんです。なぜ私が行ったかというと、私は、自分の考えなんだけれ
ども、安重根というのは何といったって韓
国民族の独立のために命を捨てたんだ、
韓国にとっては最高の烈士なんですよ、英雄なんですよ、
韓国にとっては。私が歴史は社会科学だと言ったのは、国によって国の政治があり、歴史家によって歴史家の歴史書がある。それと同じようにかなり相対的なものなんですよね、相対的なもの。だから
韓国にとって英雄だということは私は当然だと思うんですよ。日本の伊藤博文は日本では非常にすぐれた
総理大臣であったし、日本の近代化にはなくちゃならぬ人であったけれ
ども、伊藤博文は偉いんだ、しかし同時に、それを殺した安重根もみごとなる人物だと、こう評価しませんとね。これは矛盾でも何でもない。これが社会科学のやっぱり学び方というのか、受けとめ方だと私は思う。そういう
意味で、彼が幼少のころから儒学を学び、キリスト教徒であったけれ
ども、とにかく三十二歳で命を捨てたんだが、ハルビンであの伊藤博文を三発の挙銃で殺して従容として縛について、あの死ぬまでの間、日本の裁判長が彼の
姿勢なり人となりを激賞し、刑務所の看守が激賞し、それから伊藤博文のそばにおって同時に撃たれた満鉄の理事をやっておった田中さんという人が語っていることには、りっぱな
態度だった、実にりっぱな
態度だったと言っているんですよね。それで死刑の判決を受けたときには——こんなことはここで言っていいのかどうか私はわかりません。私はこの問題が意外と日本の一つの反省の問題として考えなきゃいかぬと思うからあえて言いますけれ
ども、母親は家門の誉れを汚すなよと言って、一審判決で死刊の判決がおりたときに家族の者を旅順に派遣して、そして控訴なんかしちゃいけない、かねがね死ぬことが自分の心得だったんだと言うんだから控訴なんかしないで死刑に服せ、この際、母より先に死ぬことは不孝ではないとして、安重根はそれは当然だということで、言えば話は長くなりますけれ
ども、これは青森
大学の市川教授が、日韓問題についてかなり専門的な人が書いております。日本の歴史の中で、日本側の歴史は非常に詳しく書くけれ
ども、被害者の方の歴史は書かない、これはどこの国でもそうなんですよ、そんなものなんです。だけれ
ども、こういう世の中になってアジアというものを見たときに、そしてアジアの日本を考えたときに、やはりわれわれの歴史観なりなんなりというものの浅さを考えなきゃいかぬという
意味で私は申し上げている。だから、伊藤博文が偉いということと、それを殺した安重根がすばらしい男だということとは矛盾しないんだ、そこまで踏み込まないと国と国との友好というものが魂に触れない、心に触れない。経済援助をする、行き来をする、それは結構ですよ。しかし、それだけでは私は友好というものにはならないだろう、こう思うのでございます。
そういう
意味において、三・一運動の問題なんかでも、朝鮮総督府の
発表では千九百何名の死傷者が出たと。その後の歴史家はほとんど七千ぐらいの死者になってますね。当時は総督府が軍人でございますから、特に武断派と言われた長谷川総督なんかだから、結構荒っぽいことをやったんだろうと思うんだけれ
ども、私は、自分の体験からいっても、とにかく取り締まり——弾圧弾圧というけれ
ども、まあ弾圧でいいでしょう、あのぐらいやれば。要するに、あれだけの死者というものはもう大変なことなんですよね。だから、長い歴史をほじくっていったんでは国家と国家の大人のつき合いはできませんから、お互いにほじくり合いみたいなことはやめにゃいけませんけれ
ども、われわれの反省として、ほとんどが
韓国においては加害者の
立場であって、その中には大変なむちゃなこともあったということだけは間違いない。これは古い歴史をたずねれば切りがないわけですよ。
そういうことで、やはり日韓の問題なんかというものは、日本の歴史、つまり
戦争までの歴史では、伊藤博文は
韓国青年のテロに倒れた、殺人犯・安重根という
考え方だった。しかし、それだけでは時間も場所も近くであるだけに、耐えられるものではない。そこまでやっぱり心を通わせるということが私は大事だと思うんですよ。
これはアメリカですけれ
ども、たとえば
鈴木総理大臣がアメリカへ行くときには、アーリントンの墓地に献花をします。花を掲げます。あの墓地には日本と戦った兵隊もいるわけですよ、日本人を殺した。それでもあそこへ花を掲げるということは、それぞれの国家や民族がその国のために戦った者には敬意を表するということが相手国を尊敬することになる。これが国際間の一つの礼譲といってもいいものだと思うんですね。そういう
考え方はやっぱり特にアジアについては持たなきゃならぬ。アジアの場合には、私は、どっちかというたら、日本は欧米に学んで急速な近代化を、ピッチを上げて近代化を図った。
最後は
戦争に突入して残念でございましたけれ
ども、そういうような歴史の中で、列強と伍するためにやや近くのアジアを足場にしたという気配がないではない、私はそういう歴史観も持つわけですよ。だから、どうかひとつ
文部大臣、やっぱりわれわれはアジア人なんだ、この足場はやっぱり忘れられない。それで、
韓国、
中国——
中国もまあ昔の共産党と違うようだから、これはやっぱり大変考えなきゃならぬことだと思うんですね。そのことを私は申し上げたいためにきょうちょっとこの席をおかりしたんですけれ
ども、後でまた感想をお聞かせ願えればいいと思いますが。
ついでに、いま一つだけ。この、歴史から学ぶということは、一つは、
中国なんかで、
侵略だとか——「しんりゃく」の「しん」が進むか侵すかみたいなことで争いになってますけれ
ども、これはやっぱり「侵す」の方ですね、どう考えたって。こんなことはあたりまえの常識ですよ。
中国を侵したようなことは、日本は再びそういうことはしないと、この誓いを立てることは、同時に、よその国が日本に
侵略の「侵」で、進出の「進」じゃなくて入ってきた場合にはこれを許さないという、そういう教訓が出てくるんだろうと思うんですよ。だから安全保障は大事なんだ、日本の安全保障は大事だということのやっぱり結論が、そこに私は教訓として学び得ると思うんですね。まあ、自衛隊なんか要らないという説もあるけれ
ども、安全保障というものにはやはり自衛隊を含んで、日本を守るということはそんななまやさしいことではない。日本も結構、善人かと思ったら、まあそうでもないことをやらかした。憲法では平和愛好国なんて——よその国はみんな平和愛好国と書いてあるけれ
ども、平和愛好国が結構
戦争をやる。この間もやった。国連加盟国は全部平和愛好国になっているけれ
ども、やったわけでしょう、どっちの国がいいか悪いかしらぬが。いずれにしても、ジャングルのおきてが支配するような部面もあるんだということを考えると、私は、この大東亜
戦争のわれわれの行き過ぎた行動に対して学ぶべきは、よその国を侵しちゃいけないということと同時に、今後われわれは侵されてはならぬ、侵されたことにはそれに当然反発するんだ——反発というのか、防衛をするんだ、専守防衛をするんだ、よそを侵すんじゃないんだ、この教訓こそ後代に伝えなければ、私は、
文部省の
立場としても、そういうことが実は歴史教育をやる大きな
意味があるんではないのかというふうに思うんですけれ
ども。まあこの辺にしますから、
大臣からちょっと感想だけ述べていただきたい。