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政府委員(
藤井貞夫君)
お答えをいたします。
はなはだ言葉が適切でないかもしれませんが、世の中では十年一昔というふうに申しますが、私が
地方公務員法制定に参画をいたしましたのは、思えば茫々三十年の昔でございます。したがいまして、非常に確信を持って正確に当時の状況等を申し述べて、これに絶対誤りありませんと言うことは少し僭越ではないかという感じもいたします。しかし、私もいろいろ
経験をしてまいりましたが、この
地方公務員法の
制定に参画をさせていただいた当時の実情というものは、なお脳裏にはっきり残っておるものも多々ございます。そういう意味で、できる限り記憶を呼び起こしまして、
お答えができる限りのことは申し上げたい、そういう
前提でございますので、よろしくお願いを申し上げます。
ところで、いまの
公務員法
制定当時、
地方団体、市町村を中心に八百八十八の
団体でもって
定年制をしいておった。そういうところから、この
定年制に関する規定を
地方公務員法に入れないということについて、何らかの
アクションがあったのではないかという御
質問でございます。
若干、その当時のことを申し上げさせていただきますと、実は私、いま御
指摘がございましたように、当時自治庁の
公務員課長といたしまして、本法案の立案に参画をさせていただきました。当時私の補佐として一緒に
仕事をいたしました中心の
職員がございまして、これは二人でございます。一人はいまの法制局長官の角田橿次郎君、もう一人は現在広島県の知事をやっております宮澤君、この二人を相手にいたしまして
仕事を進めさしていただいたのであります。
当時の情勢についてちょっと御参考までに申し上げたいと存じますが、この
地方公務員法というのは、なかんずく
国家公務員法に関しまして、当時点領下でございまして、アメリカからフーバー使節団というものが参りまして、アメリカにおける人事行政の従来のあり方、そういうところから見て、いわばかくあらまほしという
公務員制度のあり方というようなことを頭に描きながら、日本の場合においては占領下で、いわば白地に物をかくようにできるのではないだろうかというような思惑もあったのでございましょう、大変強力な指導といいますか、示唆というものが、なかんずく
国家公務員法の
制定についてはあったことは、これは先生も十分御
承知のとおりでございます。場合によっては、やはり憲法その他と同じように、この草案については一言半句変更を許さないというような強い姿勢も示されたことがございました。
しかし、その後
国家公務員法ができまして、それと並行して
地方公務員法の
制定準備に当たっておったわけでございますが、そのときに私が感じましたのは、実は
国家公務員法の
制定をもって占領軍の方も大体目的を達成したと見たのでありましょうか、また、
地方公務員法というようなものについてはそれほどの関心がなかったせいかもしれません。向こうの容喙の
程度というものは、私が感じましたところでは、さほどのものではなかったという感じを大変強く持っております。フーバー氏に呼ばれて参りましたのも最初の一回だけでございまして、後は係の人々との連絡を保ちながら
仕事を進めたという記憶がございます。
最初に
地方公務員法の
制定に当たって私たちが腐心をいたしましたのは、第一は、やはり基幹として近代的な
公務員制度の理念というものは、でれば当然
国家公務員法と同様に取り入れなければいけない、これはもう当然でございます。これは御専門の
皆さん方でございますから、私がここでるる申し上げることは差し控えさしていただきますが、近代的な
公務員法というものの骨格を導入していく、それが基本でございます。その場合に、
地方団体、しかも当時は町村合併がまだ進んでおりませんでしたので、全国に一万数千の
地方団体がございました。そういう現実を踏まえまして、これに対応するのには近代的な能率的、民主的な
公務員制度というものを
原則的に導入をする、その原理は取り入れていく、それは骨格でございますけれども、それを現実の
地方団体に当てはめるためにはどうすればいいかということでございます。
その
原則は、私は二つにしぼられると思っておりました。その
一つは、何よりもやっぱり憲法で保障する
地方団体の自主性、
地方団体の自主性というものをできる限り尊重しなければならぬ、それをどうしていくかということが
一つ。第二は、
地方団体と一口で申しますけれども、これはやっぱり都道府県というものがあり、また市町村というものがある。また、市にいたしましても、大変大きな大都市から、町村でいけば人口のごくわずかな、何百といったようなところまで非常に雑多でございます。多様性があるということで、この多様性に制度としてやっぱり対応できるものでなければならぬのではないだろうかということでございまして、
公務員制度の理念というものを骨子としながら、それに
地方団体の自主性と多様性というものをどのように調和させていくかということに最大の眼目を置いたわけでございます。当時としては大変苦労はいたしましたつもりでありまして、大体大筋としては現行
地方公務員法というものがそういういきさつででき上がったというふうに
承知をいたしておるわけでございます。
いまの御
論議の中心になっております
定年制について申し上げますと、かなりの
地方団体で
定年制を現実に持っておったということがございました。しかし当時、いま
自治省の方からも御説明があったようでございますが、私
自身といたしましても、自覚しているものとしては、それらの
地方団体からのリ
アクションあるいは
アクションというものはこれはほとんどなかった、絶無に近いようなものではなかったかというふうに
考えております。私
自身が何か陳情その他でもってお会いして内容の
趣旨の説明を受けたという記憶も全然ございません、これははっきり申し上げてよいのではないかと思います。
これは私なりの独断的な解釈かもしれませんが、当時なぜそういうことがあったのか、現実にいままでそれでもって
人事管理がうまく
推移してきておった、それがなくなってしまうということについて何かやはり
アクションがあってもいいんじゃないかと思われますが、当時なかったことは私は主として二つの原因があったと思います。
一つは、先刻も申し上げました占領下という異常事態でございました。しかも
国家公務員法というものがこれはやはり司令部の草案を提示を受けて、そのとおり一字一句も改めてはならぬぞ、修正してはならぬぞというような強い働きかけがございましてそれができ上がっていったという経緯等も
地方団体側も恐らく
承知をしていたと思います。そういうことがございまして、同じようにやっぱり
地方公務員法についても、これはとやかく言ったってしようがないんだろうという
一つのあきらめといいますか、そういうものが根底にあったのではないだろうかということが
一つでございます。
それからもう一点は、
地方団体の中で
定年制を持っておりました中で、特に従来からのいきさつで長年の労使の話し合いの積み重ねでもってうまく本問題を処理してきておったのは、これは先生も御
承知のように大都市、特に私の評価では一番よくやっておったのは大阪市です。大阪市とか、東京もそうですが、一番よくやっていたのは大阪市だと思います。その大阪市等においてはそういう慣行が長年の積み重ねででき上がっておる、したがって、これは
定年制というものを制度的につくらなくても、実際に話し合いでもって従来もやってきておるし、現実の話し合いの結果としてそういう運営をしていけばそれで事足りるのではないかというような
見通しがあったのではないだろうか。制度はなくなっても実際の話し合いでもってうまくやっていけばいいじゃないかという気持ちが強かったのではあるまいか。私はいまから
考えましてそういうふうに理解をいたしております。