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高木健太郎君 妙なことを聞いてまことに相済みませんが——というのは、知識というものは教え込むということができるわけです。これを覚えろということができるわけです。しかし、愛情というものは教え込むなんていうようなことはできないわけです。なぜあなたは私を好きなんですかといっても、彼女がなぜ好きだといっても、これを
説明するということは恐らく不可能ではないかと。なぜおまえはこの乗り物がきらいだと。きらいだからきらいだというのであって、好きだから好きだというものであろうと思うわけで、これは持っていき方がもちろんあるでしょうけれ
ども、頭から大上段に愛国心がないとか、国を愛せよとか、こういうことで
教育というものは私は達成できないと思う。そのように言えば言うほど、かえって青年というものは逆にいくんじゃないか。何を言っている、おれが好きであろうがきらいであろうがおれの勝手じゃないかというふうな気持ちにならぬとは私限らないと思うわけです。そういう
意味で、こういう愛情の問題とか情緒の問題と、知識の、理性の問題とをごっちゃにして、何もかも学校で教えるというような
考え方は、これは十分私は慎むべきであろうというふうに
考えましたのでこれを申し上げるわけでございます。
現在の世の中、非常に悪いとは言いますけれ
ども、しかし毎日
新聞の四月十六日付によりますと、都が行った
調査によりますと、二十歳以上の都民三千人を対象にして調べた数字によりますと、子供のために親が生活を犠牲にして尽くす必要はない、いわゆる親が子供のために犠牲になって一生懸命働くとか何かすると、そういう必要はありませんというのはかえって二十歳代に多いわけです。三十歳代以上の人にはそれが少ない。あるいはまた、老いた親のめんどうを子供が見るのに、いいというのはやはり二十歳代以上が五九%、六〇%ぐらいございますが、三十歳から五十歳代までの人はそんなめんどうなんか見る必要はないと、こう言っているわけです。私、こういうのを見まして、先ほどの愛国心があるとか、あるいは日本人に誇りを持つとか、こういう気持ちを実際によく聞いてみますと、これは統計が誤っていれば別ですけれ
ども、私は何もいまの青少年が非常に悪くなったというふうには思われないわけです。やはり深い愛情というのは根に持っているんじゃないか。だから、ここでいままでの
教科書が偏向しておったと、それをすぐ改めろと、そういうような気持ちは、これはもう少しよくお
考えになってからにされた方がよいのではないかというふうに思います。
で、
予算委員会でもいろいろこれが問題になりまして、
教科書の中のある文言を取り上げて、ここのところが悪い、あそこが悪いというようなお話がございまして、私も興味深く——興味深くと言えば悪いですけれ
ども、大変おもしろく聞いておりました。おりまして、しかし私は、その
内容の一点、一点を取り上げて言えば、これは非常に私、誤りはあるんじゃないかと思います。私がこうやって申し上げていることでも、後で速記録を見れば、恐らく私ずいぶん間違えたことを言っていると思いますけれ
ども、
文部大臣初め
局長は、私が何を言おうとしているかという全体の筋はおわかりになっているんじゃないかなというふうに思うわけです。私は、人間の思想というものはそういうものであって、
一つ一つの言葉じりをつかまえて、それでそれは悪い、いいという
批判をし始めると、これはもう何にもできなくなるんじゃないかと、こういうふうに思いまして、ここに私、
公民の方は余り得意じゃないもんですから生物の方を持ってきました。生物は私はちょっと専門でございますので、(本を示す)ここに実教出版株式
会社というところから出ました「生物I」というのがありまして、この監修者というのですか、
編集者は、私の同輩が書いておるわけですが、だから余り言うのはぐあいが悪いわけですけれ
ども、やっぱり間違えておるわけです。ここに——おわかりにならぬと思いますが、このごろはよく心臓を見るのに心電図というのを出すわけです。この心電図は、健康な人の心電図というのが出ているわけです。これを私見ますと、あっ、これは病気じゃないかと思うわけです。これは井上君は間違ったんじゃないかと思うんですね。というのは、ここにPというのがございまして、Pというのは心房ですけれ
ども、心房が収縮したときに出る
一つの電気なんですが、そのPというのがぽんぽんぽんぽんと、こう出ておりまして、それで心室の方の曲線がぽんぽんと出ているわけです。というのは、心房と心室が切れちゃっているんじゃないかと——切れているというのはおかしいですが、いわゆるブロックを起こしてうまく刺激が伝わらないようになっている心臓じゃないかなと思うわけです。それを健康な人の心電図というふうにこれ書いているわけです。だから、このほかに私、ここ紙をたくさんはさんできましたが、このほかにもちょっとこう見ただけでも、こいつはぐあい悪いと思うところがこれだけあるわけなんです。
公民は私はわかりませんが、だからほかの
教科書でも余りに細かいところをほじくれば私は幾らでも出てくると思うんです。——幾らでもというのは悪いですが、かなり間違いというものがあるだろうと。私は、
教科書というものの大事なことは、そういう個々を何とかすることではなくて、その本の中に流れている心といいますか、そういうものを子供が受けていくのだと思っておりますので、余りに個々をいろいろされるということには私は
反対でございます。
私は、戦争中、
昭和二十年、十九年、十七年、八年ごろ、中学に手伝いにいきまして物理を教えておりました。で、終戦に近くになりましてから、いままで物理、化学といいましたのを物象のI、IIという名前に変わったわけなんです。どういうふうに変わったかといいますと、御存じのようにオームの法則というのがありまして、電圧は電流と抵抗をかけたものである、V=RIというのをそれまで私は教えておったわけです。ところが、戦争の末期になってきましたら、A=DTと書いてあるわけです、A=DTっておわかりにならないでしょう。Aというのは電圧の圧なんです、Aなんです。Dは電流のD、Tは抵抗のTでありまして、A=DTと書いてあるわけです。ほかにレンズの話でも何でもが符号を全部ローマ字的のやつに文字を変えちゃったわけです。そのときの
政府がそのように
教科書を変えた。私はそのときにこんなものは全部覚えるなと、もうここのところの本はやめちゃえと、おれの教えることを一生懸命勉強せいというので、私はV=IRというもので押し通していたわけです。私はその子供はきっと喜んでいると思います。そういうもので、まあ書いてある事実は間違っていませんけれ
ども、余りに妙なことをして
教科書というものをこういうふうにいじくっちゃって、それでもう国際的には何も通用のしないような人間をつくり上げてしまうということは大変私は恐ろしいというふうに思ったわけでございます。
私ばかりしゃべって大変恐縮でございますけれ
ども、しかし私が申し上げたかったのは、
教科書の個々の誤りをついて、それでそれによって何か変わってしまったと思ってはいけないんだ、人間がつくるんだから個々の誤りというものはあう得るんだと。そうじゃなくて、その中を流れている心というものが実は大事であるということを申し上げたかったのと、
教科書だけが子供に大きな
影響を与えているんじゃないんだと、もっともっと大きなものがあるんじゃないですかと。だから、
教科書というものについて余りに神経質におなりになって、ああ今度ああ言われたからこう変えよう、こう言われたからああ変えようでは、私は
教育の一貫性というものがないので、その点を十分慎重にお
考えいただきたい、こういうことをきょう申し上げたわけです。
放送大学と大分外れまして申しわけなかったです。以上で私の質問を終わります。