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高木健太郎君 これに関連しましてそこに「
学校保健」というものがございます。安全ということはいま御
説明いただきましたので、大体いろいろの交通あるいは建物その他の環境の整備の方に力が入っているのではないかと思うわけです。自分自身を健康に保つ、あるいは健康に育っていくというためには、私は自分自身がこれに気をつけていくということが非常に大事であろうと思うわけでございます。実は、これはサンプルでございますが、中
学校の「保健体育」の
教科書及び高等
学校のものを見せていただきました。その中身は、高等
学校に入りますと生理あり衛生ありあるいは制度上の問題もございましてなかなか高等にできております。これはもう大学に持っていっても恥ずかしくないような
内容であると思います。ただ、私ここで気がついたことを二、三申し上げましてひとつ御参考にしていただきたいと思います。
これを見ますと、まず第一に気のつきますことは、午前中にも
お話ございましたが、余り魅力がないということでございまして、非常に無味乾燥であるというところが私には響くわけでございまして、これを読んでも
子供は自分の保健とは考えないのではないか、何かそういうものをよそから言われているということでありまして、自分で健康を守るといういわゆる今度の
鈴木内閣の
一つの柱である自助という観念がこの中から抜けているんじゃないかということを感じます。私は、そういうことよりも、健康は自分で守るんだという気持ちを起こさせることが中
学校、少なくとも中
学校における保健の柱になった方がいいのではないか。ただ、いろいろな病気の名前をここで羅列しまして、こういう症状が出るといいましてもそれは医師が他人を診る場合に必要な知識でありまして、自分自身の体から起こってくることでこのようなことは余り役に立たない。要するに、役に立たないということは自分自身に興味を持ってこない、こういうことになるのではないかと思うわけです。そういう
意味では、私は少なくとも
小学校あるいは中
学校までは、保健というものはこういうむずかしいことではなくて、自分自身の生活にすぐ役に立つような、そういう保健
教育をすべきではないかという考えを持っております。ある人の説によりますと、
小学校、中
学校、いわゆる
義務教育までは自分の保健、安全ということを自分で十分納得ができるようなことをしっかり頭に入れるんだ、体と頭と両方で自分の体験として持つんだと。これが、将来われわれは老人になりましても、あるいは最近言われておりますいわゆる健やかに老いるという
意味におきましても、これをしっかりたたき込んでおくことが大事であるから、まず安全ということはこれはどうしても小中
学校の間にやらなければならぬことではないかと思うわけです。御存じのように、中国でははだしの医者というものがおりますけれ
ども、これはほとんど三カ月ぐらいの
教育しか受けていないわけでございますが、自分の健康はもとより、ほかの人の健康の管理もりっぱにできるぐらいの能力を備えるわけでございまして、それにはもっと、私は具体的な症例をもって具体的に教えているというふうに思うのでございまして、私も何度か中国に渡りましてその状態を見ましたけれ
ども、確かにより具体的であるということを一番私は体験したわけでございます。
そこで、どういうふうにするかということですが、これではいや腸チフスは何だ、コレラは何だと、もういまではないような病気まで書いてあるわけですけれ
ども、そういうことよりも、
生徒あるいは学生が自分に感ずることは、どっかが痛いということであり、あるいはだるいであるとか、あるいはもっと、眠れないとか、そういう自分自身の感覚の上に上ってくるその症状が実は大事である。そのときに自分はどういうふうにしたらよいかということを自分自身で知らせることが大事である。ここはうちでやれると、ここは医師に行かなければならぬ、そういうことを自分自身で判断のできるぐらいの知識は私は小中
学校で教えられるのではないかということを感ずるわけで、もしできましたならば今度の改正の場合に保健というものをもう少し具体的に実生活に役立つような保健を教えていただきたい。この高等
学校の生理のところを見ますとまことに詳しいわけでございまして、これなら大学生がこれを読んでいれば通るんじゃないかというぐらい、なかなかしっかりしたことが書いてあると、こう思うわけです。
それからもう
一つ、いまちょっと
局長からも
お話がございましたが、人命の尊重ということがあろうと思います。
これは午前中の皆さん方からも話が出まして、いまの
学校教育に欠けているところは相互信頼であるとか、
人間に対する愛情であるとかいうふうなことを皆さんおっしゃったわけでございます。で、この「保健」を見ますと、なぜそのように自分の体を大事にし、また他人の体も大事にしなきゃならぬかという根本的なところが抜けていやしないか、いわゆる人命の尊重ということがなぜ叫ばれなければならないかということをこの中にお入れになったらどうかと。最近はわれわれ病気になりまして死ぬ場合には大体畳の上では死ねないことになっておりまして、病院に担ぎ込まれて酸素吸入をすると、医者がついておりましてどんどん点滴をして、いよいよ最後だ、さあいらっしゃいと言うんで死に水もとってあげられないというような状態でわれわれは大体死ぬことになっておるわけでございます。特に核家族になりますとそういう状況がひどくなっていると思いまして、われわれが
人間として自分の親しい者あるいは親、そういうものの死に目によって私
たちは死というものを知り、同時に生きてるということのとうとさというものをひとりでに感ずるものであろうと思うわけでございます。そういうところから、人命尊重という気持ちが起こってくるので、人命がなぜとうといかということは理論的には出てこないと私は考えております。
人間は動物よりも高等であるから、いやだれだかのお役に立つから、そういう経済的あるいは論理的、そういうもので人命がとうといというのではなくて、直観的に
人間の命はとうといのであるということがひとりでにわれわれ悟られるものでございまして、そういうチャンスを得る機会が現在の文明社会では非常に少なくなっているということです。そういう
意味では、こういう保健の
教育の中で、なぜ
人間の命がとうといのかということを何らかの方法で、あるいは具体的に、あるいは動物ででも、あるいはその他のものででも、もう少し人命尊重という根源にさかのぼったものが最初に入るべきじゃないか。これがいわゆる
人間に対する愛情というものが、ひとりでに起こってくるその最初のものであろうと思うわけです。
最近の
教育は、
子供が生まれると、その
子供に対する愛情よりも、この
子供を将来どうやって月給取りにするかということの方が先決になっておりまして、
子供に対するひたむきな愛情というようなものよりも、その
子供を一種の道具として考えているこういう親もおれば、また
子供は親を、おれを
学校にやってくれる親であるというように経済的にも考えている。こういう
考え方は非常に合理的ではございますけれ
ども、一方においては愛情という面が薄れていく。また世間全体が愛情を失わせるようなそういう仕組みになっておる。こういう
意味では、私はこの「保健体育」の中にみずからの体を大切にし、あるいは心身を大切にする。しかも、そこから他人の体も大事にしようという気持ちが起こってくるのではないか。これは、現在非常に老人対策として寝たきり老人なんかが何万といま現在おるわけでございますし、あと十年先ぐらいには二千万の老人ができてくると、こういうときにすべてを医療に任せるということよりも自分自身で健康を守るという、そういう信念を
子供のうちに植えておくということが将来の老人対策の非常に大きな私は決め手になるのではないかということを考えまして、「
学校安全」ももちろん私は必要でございますが、ぜひみずからの心身はみずからで守っていく、それを実践的に
子供に教えていくということを、この
子供のときにぜひ仕込んでいただきたい、こういうふうな気持ちがするわけでございます。これが第一のことでございます。
第二は、これにやはり関連をしますが、最近体育という問題が非常にやかましく言われているわけでございまして、老いも若きもランニング、ジョッギングということを言われている。もちろん
文部省当局におかれましても、体育のいろいろの面で注意をしながら指導をしておられると思いますけれ
ども、
新聞紙上その他にも、最近余りの体育、スポーツの行き過ぎということが言われておりまして、確かにスポーツ障害あるいは運動障害あるいはランニングによってそこで倒れるという、いわゆる心筋梗塞が起こるとか、あるいは四肢の障害を起こすとか、その他の障害が多いということを盛んに言われているわけでございます。実は、この中学の「保健体育」の第一編の方には体育というものが出ておりまして、その後に保健
教育というのがございます。体育が、あるいはスポーツが、なぜ私
たちの健康に、あるいはわれわれの心身の発達にそれほど重要なものであるかという、実は基礎的の研究というのは現在私はないと思います。これは単なるわれわれのいままでの経験によってスポーツはいいものであると考えているだけでございまして、確かにスポーツもしないで寝てばかりでおれば、体は衰えていくというようなことはわれわれは知っておりますし、死にはしないけれ
ども、何の能力もないような
人間ができていくということも、これは証拠立てることができます。しかし、それじゃ進んで体育をすればなぜいいのかという科学的の根拠はないのではないかと思っておるわけでございます。そういう
意味では、ただむやみにだれにでもスポーツあるいはジョッギングをしろと言うことは私は非常に危険ではないか。単なる手探り的な政策ではないか。こういう
意味では、将来体育あるいはスポーツの振興は結構でございますけれ
ども、ぜひその基礎的の研究をも同時に進めていただくようにお願いを申し上げたいと思うわけです。
ことしの概算要求を見ますと、
一つ「国立総合体育研究研修センターの設置準備」というのがございますし、あるいはまた第二に「体育施設の整備」というのがございます。これを立てられるということは、一般の園児の非常に要望しているところでございますし、大変喜ばれることであろうと思いますが、この研究研修というところに、いままでのとおりに、ただ体育の先生あるいは実技の先生を入れて、手はこう動かす、足はこう動かすということではなくて、なぜ体育というものがそれほどわれわれの健康に重要であるのか、それはなぜわれわれの健康に役に立つのかということの研究部面、及びスポーツによって起こってくる障害の防止、そういうもののために私は医師及び医学者の参画をぜひお考えいただきたいと思うわけでございます。
——これにつきましてちょっと御
意見を伺っておきたいと存じます。