○宝田公述人 私は、
専門家でありませんから、ことしの
予算編成のやり方の中に見られる、かなり憂慮すべき傾向と私が感じておることについて、少し
意見を申し上げたいと思うわけであります。それは、これからしばらく続くのではないかという懸念も持っております。
御承知のように、赤字
国債は、この
年度末に六十兆近いとも言われまして、
日本の財政危機というものはかなり深刻であります。
政府及び
大蔵省は、昨年の夏まで、
一般消費税の導入がなければ
日本の
財政再建はできないというふうに言い続けてこられました。しかし、結果としては、
国民の多数の反対意思がありまして、
一般消費税の導入はつぶれたわけであります。ところが、今度は公共料金の引き上げ、福祉切り捨てというふうな形で問題が転嫁されまして、財政の数字合わせが行われたと思います。幸いことしは四兆六千億と言われる
自然増収がありまして、ある
程度切り抜けられたかもしれませんけれども、来年は恐らくそんなに大幅なものは期待できないということは、大蔵大臣でさえ新聞で申されているとおりであります。そうなりますと、また来年も同じような福祉の切り捨てなり、そういうものが進むかもしれないというふうに考えられるわけであります。現に、
大蔵省と厚生省の間で取り交わされた覚書なるものは、そのことを公然と内外に示していることになるのではないかと思います。
問題は、そういうことをこれから何年も続けていって、八〇年代の
日本の財政というのは
国民生活にとって一体どういう性格のものになっていくのか、それが私にとっては八〇年代の財政論の一番大きな
問題点ではないかと思うわけです。
通常、
予算の分析といいますと、もともと
予算は単
年度主義が原則でありますから、前
年度に比べてどう変わったかとか、新しい問題がどう入ったかとか、そういう分析が正当なやり方だと思います。われわれもそれなりに細かな要求とか批判というものも持っておりますけれども、ことしの場合には、そういうことよりももっと長期的な、八〇年代に
日本の財政というものはどういう性格に変わっていくのか、それは決して
財政再建の数字の問題ではなくて、むしろ財政というものと
国民経済、
国民生活というふうなものの
関係論、質の問題がむしろいまは反省されなければならないのではないかというふうに思います。
といいますのは、八〇年代というのは、
世界的にも国内的にも非常に不安定な時代、先行きがわからない時代であります。そのことはだれも否定できない。スタグフレーションは非常に深刻化し、
エネルギー危機が存在し、国際的には政治的にもかなり不安な要素がふえている。内外情勢がそういう時代であるということになれば、われわれ
国民生活というのは、むしろできる限り安定性というものを求めるわけであります。不安定な社会だからこそ、政治に安定性というものを期待するということになろうかと思います。高度成長のときには、われわれはまだ成長の中に生活を向上させる
可能性があったわけですけれども、低成長の段階に入りますとそうはいきませんで、むしろ老後の安定とか、物価の安定であるとか、食糧の安定であるとか、
エネルギーの安定的供給とか、いろいろな意味で安定性というものを求めるようにならざるを得ないわけであります。このスタビリティ-とかセキュリティーというものを、政治、
経済、社会のいろいろな仕組みを変えることによってこれから新しくつくり出すのが、
日本の政治、財政の
課題ではないかというふうに思うわけです。
そのためには、
日本経済も余り
世界との摩擦の中で伸びていくような、いわゆる輸出第一主義というのはもうとれませんで、
国民生活向上型の、内需に基礎を置く成長への転換ということはもう避けられないと思います。同じように、
省エネルギーであるとかいろいろな方面でいま転換が図られているわけですが、それは
国民生活のさまざまな体系の中にも同じことが言えるのではないか。何とかわれわれの老後が安心できるとか、何とか安心して学校生活が送れるとか、そういう安定性というものを持つためには、いろいろな分野でいま中期的な目標を定めて、どういう
政策をとるかということの選択を迫られている、いまはそういう中期的な諸
政策の選択の時代ではなかろうかと思います。
たとえば、国鉄という問題が一つありますが、国鉄の赤字線を赤字対策としてどんどん削っていく。五年かけて三千六百キロとか四千キロとか減らすことは、同時に、
国民の方からしますと、国鉄離れ、マイカー主義に転換せざるを得ないということになるわけであります。ところが、他方で
エネルギーの問題からいいますと、運賃値上げによる飛行機への転換とか、マイカーへの転換ということは、相当
日本の交通の
エネルギー効率を一方では悪くするわけであります。一体、十年、二十年先の
日本の交通体系というものはマイカーにかえるべきなのか、かなり大衆交通
手段というものを考慮した交通体系を考えるべきなのか、どうもいまのところははっきりしていないのではないか。少なくとも、赤字という理由だけでずるずる対策を重ねていきますと、中期的にはそれは一つの路線になるのではないかというふうな感じであります。
また、
大蔵省の今度の
予算の説明書の六ページには「総合的な食糧自給力の向上」というふうな言葉が出ております。このために「長期的な視点に立って総合的な施策を展開する」こう書いて
予算を提案されておるわけでありますけれども、
予算を見まして、これが総合的な食糧自給力の向上という中期目標を想定できるかといいますと、どうも私にはそうは思えない。やはり、いまの
日本農業というのは相当な危機的
状況でありますから、食糧自給力を向上させる、いまの傾向に反対の結果を生むためには、相当中期的な思い切った
政策が必要ではないか。どういう
政策をとるかということをめぐって、その選択をめぐって大いに議論があってしかるべきではないか。
政府というのはそのどれかの路線を選んで、そのことを
予算に反映させていただきたい。そういう中期的な
政策不在の上に農業
予算を組みますと、それは去年よりふえたとか減ったとか、そういう議論しかどうもできないのではないか。
また、高齢化社会の接近はかなり深刻であります。やはり
国民の願うところは、最低の生活保障ということを考えますが、先ほども話にありましたように、この選択はかなりむずかしい問題を持っているわけですね。ところが、
予算の決まり方を見ておりますと、昨年も福祉年金は野党が修正をされて何がしか上積みをされる、ことしもあるいはそういうことになるかもしれない。一体、福祉年金というのは、厚生年金に比べて中期的に見てキャッチアップを
政府は考えているのか、そういう原則はとらないのか。一体どちらを考えて
予算を編成されているのか、われわれにはよくわからない。あるいは、そのときどきの財源次第で福祉年金というものの
予算は計上されるのか。もし、そういう後者のようなことであれば、われわれは年金のミニマムというものについて中期的な
見通しを持つことはできないと言わざるを得ないのであります。
そういうことが土地の制度にしても、住宅問題にしても、いろいろな分野であるわけです。言いかえますと、これからの八〇年代の
国民生活というものは、どうも市場任せでは安定性というものがない。どこか大事なところで国家の手による、あるいは社会的なあるシステムがありまして、そういうものによって生活の基本部分の安定性というものを新しくつくり出す必要があろう。それが年金であったり、医療制度であったり、教育制度であったり、交通、住宅、都市計画、完全雇用、食糧、
エネルギー、いろいろな分野でいま問題が続出をしている。そこに何がしかのそういう中期
政策がないと、われわれは生活の
展望が持てない。そのことが、現在の
予算編成の裏に実はなければならない。それが私がいま考えている問題でありまして、そういう尺度抜きに財政を判断せいと言われても大変困るわけであります。
今度の
予算をめぐりまして、新聞にも幾つかの批評が出ております。たとえば、福祉の制度論を抜いて短兵急に受益者負担を強いているとか、あるいは制度にメスを入れないと数字のバランスで終わってしまうとか、総合的な
改革の視点がなくて
経費節減だけで個別的
政策をねらい撃ちしているとか、種々の批評がありますが、これは私は同感でありまして、赤字対策も必要であるけれども、どういう型の赤字対策をとるかというときに、対策は必ずしも一つではないのではないか。そこのところが
政府の
政策にはっきりしていませんと、
予算というものがその場のバランス論になってしまう。
現在の
政府の中長期計画というものは、できたときからもう機能が喪失しておりますが、それは一つは世の中が非常に不確定で、できたときには
前提が狂っていたとかいろいろなことがあるのですが、もっと大事なことは、ああいう中期計画というものの中にこういうシステム的な検討というものが入っていないで、公共投資何兆円とか何
年間何兆という、いわばGNP論的な中期計画でしがなかったというところに、われわれの関心を呼ばなかったゆえんがあろうと思うのであります。言いたいことは、そういう中期的な生活諸
課題というものの詰めを抜いて、財政の編成というものはないのじゃないかという感じであります。
ところが、たった一つ、ことしの
予算で出てまいりました長期の
問題点は、厚生年金の受給年齢の引き上げでありました。これはまさに二十年タームの制度論であります。ありますが、
国民の世論はそれに対してノーといま答えているわけであります。なぜかと言えば、その理由は
一般消費税と同じでありまして、赤字対策論の中期、長期
政策ではありますが、高齢者の生活問題のシステムではないからであります。
外国の労働者に、
日本では定年制と年金の間に五年のギャップがあるということを言いますと、どこでも言われますことは、それは非人間的だということをまず言われます。次に、その間どうやって生活できるのか。この
二つは共通の質問であります。いまわれわれはこのギャップを何とか埋めたいというのが、
日本の労働組合、労働者のほぼ総意でありまして、どうやってとりあえず六十歳まで定年を延長するかということが運動の
課題になっている。一般にヨーロッパではそういう定年制というものはありませんで、たまにありましても、それは年金の受給権を超えたところに
企業の定年制というものは設定されている。
日本の場合には反対であります。労働者は六十五歳あるいは六十三歳、受給年齢になりますと、労働を継続するか年金を受けるかを選択するわけであります。選択権は労働者が持っている。だから、それは労働者の権利であります。そうでなければ、また労働者は老後の安定性を感ずることができない。
日本の場合にはいま何とかそのギャップを埋めたい、そういう運動が
日本の労働者の間にやっと盛り上がったところに、また五年ギャップを広げますという提案が
政府からなされたわけであります。
労働者は、どちらが自分たちの老後にとって安定性があるかということで、この問題に対して判定をいま下しているわけであります。ですから、労働者の生活の方から年金のことをお考えいただかないと、なかなか労働者の合意というものは得られない。むしろ制度が労働者の生活を振り回すという傾向がいまあらわれているのではないかと思います。
そういうことで、財政の編成の仕方を考えてみますと、数年前までは
日本でも、近代国家の財政機能というのは所得の再配分である、これは福祉国家として不可欠の機能である、あるいは完全雇用というものが国家の大きな目的であるということが言われてまいりました。そういう意味で、福祉元年という宣言を
政府もしたことがあるわけですけれども、一体、八〇年代になって
日本の財政というものはそういう所得再配分機能を強めていくのであろうか、完全雇用機能というものを掲げていくのであろうか、どうも年々の赤字、黒字論だけやっていたのでは、その辺の性格
変化というものを判断することができません。財政というものは、いつの間にか自分自身の赤字から抜け出すということだけが至上目的になっていはしないでしょうか、そのことを私は一番痛感するわけであります。
二番目に、昨年通産省は研究会なるものの名で八〇年代の産業
政策というものを発表されました。これはわれわれ
日本の労働者にとって非常に大きな
関係を持ちます。ということは、失業の諸制度もさることながら、
日本の雇用の総量を決めるのは、いまでは成長率が低いですから、週休二日制が貫徹されるかどうか、労働時間の短縮がどのぐらい
実現できるか、それからもう一つは雇用を
拡大できるような産業構造というものが八〇年代に維持できるかどうか、この
二つに大体しぼられていると思います。ところが、現在の八〇年代産業
政策と思われるものはかなり
世界に進出をするような構想でありまして、国際的視野における比較優位産業に
日本の産業構造を特化させていこう、資本進出を進めよう、そのうらはらといいますか反面としまして、国内市場を開放して大いに製品輸入を進めよう、三番目に
資源エネルギー、四番目に九〇年代の技術革新というのが通産の大きな
方向のようであります。
問題は、
世界に進出をし、
世界からなるべく物を買うという、この相互乗り入れということが行われた場合に、
日本の中小
企業というものは相当
影響を受けるであろう。われわれは、必ずしも保護貿易とか封鎖
経済ということを言っているわけではありませんで、その開放される段階で
日本の中小
企業政策というものがどういう性格を持つか、ここがむしろ問題なのでありまして、開放よりも、開放に際してどういう産業
政策を
日本の
政府はお持ちになるかということであります。
日本は、明治以来二重構造に悩んでまいりました。中小
企業というのは特殊性を持っております。それはヨーロッパのような構造ではないのでありまして、そこにいままでのような
補助金型の中小
企業政策はもうとれない。
補助金はいま
整理縮小であります。そういう
補助金型の三十年代の中小
企業政策から一体どういう
方向に転換をするかということを考えますと、通産というのはどうも中小
企業置き去り型の発想をお持ちのように見える。いまの
日本の中小
企業の最大の問題は、技術
開発とか内製力、マーケティングの能力であるとか、そういうものを非常に求めている。ですから、お金よりもむしろ、かつて
日本の
政府が技術革新で大
企業を優遇したような、そういう質的なものを求めている。そのような傾向がもしありませんと、やはりブーメラン
効果というものが必ず出ると思います。産業がやられますと雇用が危なくなるという構造でありまして、
日本の八〇年代の中小
企業政策というものの質を私は憂慮するものであります。
最後に、
行政改革ということについて簡単に申し上げます。
行政改革というのも、まさにいま申し上げました一連の文脈の中にある問題でありまして、かなり中長期の問題として考えていただかないと困るわけであります。単に赤字であるとかそういう問題ではない。また、省の数とか
特殊法人の数、そういう問題でもない。むしろもっと根本的な、交通、住宅などに見合うような大きな中期
課題としてとらえたい。というのは、いままでの行政というものはやはり高度成長型であったことは否めない。しかも、三十年の成長の中で、古い部分が出たり、新しい部分に対応していないという問題がありますから、もっと根本的に
見直しをすべきだ。その際、われわれ労働組合の原則は民主、公正、効率性であります。これは、
行政改革の視点が、さっきも言いましたように赤字のためではなくて、もっと
国民ニーズに合うか合わないかという問題からやってもらいたい、
日本の民主化のためにやってもらいたい、もっと公正を保ってもらいたい、もっと効率性を持ってもらいたい、この民主、公正、効率性であります。これがわれわれの大会で決定し、あらゆる
機関で決定している原則であります。特に官僚制度というものは利潤原理がききませんから、効率性というものをわれわれも尊重いたします。
問題は、そういう
行政改革というのを単に官僚レベルの問題ではなくて、もっと外から、
国会と
国民の参加というものの中で行ってもらいたい。そういう意味で、
国会の特別
委員会をぜひつくってもらいたい。それから、
国民が参加できる、スウェーデンのオンブズマン型のそういう監視機構、チェック機構というものをぜひつくって根本的にやってもらいたいということであります。
二番目は労働条件でありますが、行革をやれば労働条件が動くことは必至であります。したがいまして、労働組合ですから、雇い主である
政府なり
特殊法人なりそういうものと協議をして、労働条件の具体的な問題に対処したい、協議、団交権というものをわれわれは持ちたい、そういうことを
前提にしまして提言というものをもっと積極的に出せ、これがわれわれがこの半
年間やってきた態度であります。そのことは民間でも同じでありまして、およそ合理化をやるときに労働者、労働組合に相談しませんと問題は煮詰まらない、強いて労働組合、労働者を飛び越してやりますと、いまのSSKのような人権闘争になるわけであります。ですから、民間でも必ず合理化というものは労働者と慎重に協議をしてやっているはずであります。
そのことは公務員といえども同じでありまして、
行政改革をおやりになるときは当該労働者と十分話し合ってもらいたい。そのかわり、われわれもガラス張りの協定なり協約なりというものをやって、やみで処理するようなことは一切やめる、硬直的なことも改める、もっと
国民的立場に立って行革というものの提言をしたい。このことは、いま総評加盟の全部の組合の共通の方針であります。
ただし、公務頂も労働者でありますから、雇われておるわけであります。ですから、自分たちの権利が無視されてまで
行政改革をやられることには、労働者としてはがまんができない。したがいまして、
国民の方もいまや知る権利がありますから、情報はもっと公開すべきだとわれわれも提言をする、いろいろな
意見も申し上げます、協議もしたい。が、労働者の団結権、団交権とか協議権というものを否定されたのでは、これは労働組合としては容認できない。
ですから、われわれも積極的提言をします。
国民の参加権、行政を
改革する権利というものを認めますが、それが労働権の否定の上に行われてはならない。この両方の権利をどうやって共存させるかということこそが、ヨーロッパの労働運動が長年かけてきた歴史でありまして、ストライキと市民の権利と労働者の権利というものの共存
関係というものを、かつてヨーロッパがやったことをいまわれわれはやっていきたい。われわれは、
国民との共闘ということをこの五、六年重視しておりますから、市民権と労働権の共存ということを
前提にして、
行政改革というものに対しては積極的に取り組むという態度をとっております。
以上でございます。(拍手)