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田中昭二君 ただいま
議長から御報告のありましたとおり、本
院議員森田欽二君は、去る四月十三日、肝硬変のため、
入院先の
福岡大学附属病院において急逝されました。
私はここに、諸君の御同意を得まして、
議員一同を代表し、謹んで
追悼の
言葉を申し述べたいと存じます。(
拍手)
思えば、本年二月下旬、
議員会館のエレベーターの中であなたとお会いした際、
郷里のことなどを語り、顔色のすぐれないあなたを見て、お互い健康には
十分気をつけようと、握手して別れたのが昨日のことのようであります。
お聞きすれば、
森田君は、本年二月半ばごろからすでに体の不調を訴えておられたとのことでありますが、人一倍
責任感の旺盛な君は、
政治家として連日の
激務に追われ、三月の上旬に至り、ようやく医師の診断を受けられましたところ、病は意外にも重く、治療に専念するのやむなきに至りました。その後、一時小康を得られたとお聞きし、御回復の一日も早からんことを心からお祈りしておりましたが、病勢にわかにあらたまり、ついに不帰の客となられたのであります。
私は、君の計報に接し、
政治家の常とは申せ、一身を顧みずひたすら
国政に殉ぜられた君を思うとき、同じ
政治の道を歩む者として、
哀惜の念ひとしお深いものを覚えるのであります。
森田君は、大正六年十二月、
筑後平野を一望する風光明媚な古処山のふ
もと、
福岡県
朝倉郡旧安川村にお生まれになりました。
父君弥七郎氏は、長年にわたり村長を務められ、また
福岡県議会議員としても活躍された
人格識見ともに高い方でありまして、
郷土の誇る
政治家中野正剛先生とも親交深き仲であったと聞き及んでおります。君は、生来のすぐれた資質に加え、
父君の
政治的感化と、賢夫人の誉れ高い母堂の御
薫陶を受けながら
少年時代を過ごされたのであります。
思うに、君が後に
政治家森田欽二君として大成された
基盤は、まさにこの時期に培われたものと想像するにかたくありません。
しかし、みずからの生涯を
教育にささげることを理想とされた君は、長じて
朝倉中学から
福岡師範学校に進まれ、
昭和十二年同校を卒業するや、直ちに
郷里の
立石小学校の
教壇に立ち、若き
情熱と温かい
愛情を傾けて熱心に教鞭をとられ、さらに
福岡県
視学委員として、
教育の指導にその手腕をふるわれたのであります。戦後、わが国に平和がよみがえるや、君は再び
教壇に立ち、知育と体育の両面を備えた心情豊かな
教育をモットーに、次代を担う青少年の
育成に力を注がれたのでありますが、荒廃した
郷土と
教育界の現状を目の当たりにして、同憂の士とともに
青年同志会を結成し、
教育界の
民主化と教職員の
生活向上のために日夜
努力を払われたのであります。その過労が
もとで、君は不幸にも病に伏す身となられましたが一君の脳裏を離れなかったのは、真に豊かな
社会を築くことでありました。そして、この実現を図ることこそみずからに課せられた
使命であるとの
信念に立ち、君は、教職を辞して
政界への進出を決意されたのであります。
昭和二十二年四月、新
憲法施行に先立って行われた第一回
地方統一選挙に際し、君は、病床にありながらも、周囲の
人々から推されて
福岡県議会議員選挙に立候補し、弱冠二十九歳で初
当選、以来連続
当選すること七回、
在職二十五年の長きにわたりました。(
拍手)
この間、
土木委員長、
議会運営理事会長等を歴任されたほか、
県農協中央会理事、
県畜産会会長、
全国大
規模土地改良事業協議会副
会長あるいは
全国山林種苗協同組合連合会会長として活躍し、
農林業の
振興と農山村の
生活向上に力を尽くされた
功績は大なるものがありました。(
拍手)また、
昭和四十二年から再度にわたって
県議会議長の要職につき、多年の
経験と豊富な知識をもって、
与野党伯仲の
もとで、円滑なる
議会の
運営にその力量を遺憾なく発揮し、
県政の
発展に多大の業績を上げられました。
君の
地方自治の
育成発展に寄与された幾多の
功績に対し、
昭和四十二年九月には
藍綬褒章を授与されたのであります。かくして、
福岡県政に
森田ありと称せられ、名実ともにその名をいよいよ高められたのであります。
しかして、
地方政界において確固たる
基盤を築かれていた君は、真に豊かな
国民生活と
地域社会の充実を実現すべく、
昭和五十一年十二月の総
選挙に立候補し、地元の熱烈なる支持を得て、大激戦の上、
みごと当選の栄冠をかち取られました。(
拍手)
本院に議席を得られた君は、
在職二年余という短いものでありましたが、その間、豊富な
経験と卓越した
識見をもって、
議院運営、
農林水産、商工、
予算、
石炭対策等の各
委員会の
委員となり、精励をもって
議員の職責を果たされたのであります。(
拍手)
とりわけ、君の
専門分野である
農林水産委員会での活躍は目覚ましいものがありました。
農村に生まれ、
農民の
生活をつぶさに体験している君は、機会あるたびに
農業の持つ
重要性を主張し、
農民に対し国がより積極的に手を差し伸べるべきであると強調してこられました。この主張を
もとに、君は
委員会において、
農業後継者の
育成、
農村における
生活環境の改善、
酪農振興、
国有林野の開放あるいは
米価問題等について
質疑をされましたが、そのうんちくを傾けての
質疑は、さすがにその本質を的確にとらえたものであり、
日本農業の将来に寄せる君のひたむきな
情熱と真摯な姿勢は、政府を初め
委員会関係者に深い感銘を与え、先輩、
同僚議員のひとしく敬服してやまなかったところであります。(
拍手)
また、自由民主党にあっては、
文教局次長、
交通部会副
部会長、
国民運動本部推進部長、
都市公園緑地対策特別委員会副
委員長として、政策の
推進あるいは党勢の拡大に尽力されました。
君は、
平素中央政界にあって多端な
激務に当たられるとともに、常に
郷土の
発展を念願しておられたのであります。
その一つは
農業用水の確保であり、君は、その
対策に真剣に取り組み、並み並みならぬ
努力を払われてこられたのであります。その結果が
江川、
寺内両
ダムの完成となって実を結び、
農民は言うに及ばず、
地域住民の
生活安定に多大の寄与をされたのであります。また、昨年五月以降の深刻な
福岡市の
水飢饉に当たっては、この
江川、
寺内両
ダムからの
緊急配水によって、
福岡市民が水の危機から救われたのであります。その陰には、君の寝食を忘れた
献身的努力があったことを忘れてはなりません。(
拍手)
思うに、
森田君は常に、人の声を粗末にしてはいけない、そしてやれることとやれないことをはっきりさせることだ、できることはまともに取り組むという
政治信念で
大衆に接し、「
政治は心だよ」と言いながら、
大衆の心を心として、これを現実の
政治に反映するという
使命感に徹した真の
庶民政治家でありました。(
拍手)
また、剣道に親しまれた君は、古武士のような風格を持ち、信義を重んじ、おのれを厳しく律するの反面、温かい心と細やかな心配りを持つ人情味あふれる人でもありました。恵まれない
人たちは言うに及ばず、不遇の
同僚、知人に対しても、親身になって援助の手を差し伸べられておられたことは、君を知る者、だれしもが心からの感動を禁じ得なかったところでありまして、
郷土の
人々から
信頼と期待を寄せられていたのもけだし当然のことでありましょう。
去る四月二十八日
郷里でとり行われた
市町村民葬は、君を送るにふさわしいものでしたが、その
参列者の中には、
はるか韓国から駆けつけ、君の霊前に涙するかつての
教え子の姿があったのであります。仄聞するところによりますれば、君は、第二次
大戦末期、空襲で傷ついた多くの学童のために、当時としては貴重かつ
人命救助に必要な血清の入手に奔走され、また、君みずからの輸血によるなど必死の
救護活動に当たり、これによって辛うじて命を取りとめた
韓国出身の
教え子もいたとのことであります。(
拍手)私は、君の
薫陶を受けてりっぱに成長したこれら多くの
教え子たちが、いまに至るまで君を敬慕してやまなかったのは、君が分け隔てなく愛を持って
子供たちに接したからでありまして、そこに、
人間森田欽二君の真の姿をうかがい知ることができるのであります。(
拍手)
私は、このような、君からあふれ出る
人間としての深い
愛情と
政治家としての
行動力に対して、常に敬意と
信頼を寄せていたのでありまして、今後いつまでも相携えて
国政に貢献できることを念願いたしておりました。しかるに、君が
政治家としていよいよその本領を発揮されんとしていたやさき、雄図半ばにして倒れられた君の胸中を思うとき、
痛恨哀惜の情ひとしお深いものを覚えるのであります。(
拍手)
現下、内外の情勢はきわめて重要な時期に直面いたしておりますが、このときに当たり、君のごとき
真実一路の生涯を貫いてこられた前途有為な
政治家を失いましたことは、本院にとっても、国家にとっても、まことに大きな損失であると申さなければなりません。
ここに、
森田君の生前の
功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、
追悼の
言葉といたします。(
拍手)
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