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三宅正一君 私は、
諸君の御同意を得て、
議員一同を代表し、故本
院議員、前
議長保利茂君に対し、謹んで
哀悼の
言葉を申し述べます。(
拍手)
保利君は、本月四日、
入院先の
慈恵医大病院において、心不全のため逝去されました。
かねての病を押して本
国会の
開会式に臨まれ、また
施政方針演説、
各党代表の
質問演説中、苦痛を忍んで
議長席に着かれましたが、散会直後、辞任願を提出されました。
議員一同はもとより、テレビに見入って、
国会中継を聞き入っていた
国民も、
議長席の
保利議長のやつれられたお姿に、御病状を案ずる
気持ちを抑えがたく、しばらく副
議長に任せられて御休養をと祈っておりましただけに、名
議長の辞任の御決断を惜しまぬ者はありませんでした。(
拍手)
次の日、病院へお見舞い申しましたところ、前日と違って顔に赤みが戻り、見違えるほど元気になっておられました。この
調子ならば、四月、花の候に来日される
周恩来未亡人、
全国人民代表大会常務委員会副
委員長鄧穎超女史御一行のお客様を元気に迎えられ、秋には待望の
中国御訪問も可能だろうと喜んで帰った次第でありました。
亡くなられた三月四日の午前中には、莫逆の同志、金丸、
細田両君と歓談され、
予算案の
成り行き等を案ぜられながらも、御退院後の
事務所設置のことまで話しておられた由でありますが、午後一時には、突如、容体一変して不帰の客となられましたことは、人の世の定めとはいえ、無常を嘆かずにはおられません。
ことに、
保革伯仲の緊迫した
時代にあって、手がたく公平な院の
運営に身をもって当たられ、院の内外の信望を集められた昨日までの業績を思い、感謝の念を新たにするとともに、哀惜の情はひとしおであります。(
拍手)
君は、
明治三十四年十二月二十日、佐賀県東松浦郡
鬼塚村山本部落の貧しい農家の三男一女、四人兄弟の次男として生まれられました。
鬼塚村は、現在、
唐津市に合併されておりますが、波荒き玄界灘に面し、元冠の役の古戦場であり、
神功皇后、
豊太閤の
朝鮮遠征の基地でもあって、元の来襲を防いだ防塁が、博多から
唐津に至る海岸には数多く残っているのであります。玄海の波は荒いが、風光は明媚、強風を防ぐために植えられた四百年昔からの松原が、激しい
風雪に耐えて
海岸線の絶景を形づくっておりますが、この美しく、かつ苛烈な自然にはぐくまれて、純粋さと強固さを兼ね備えた
保利君の
人格が形成せられたものでありましょう。(
拍手)村の
高等小学校を卒業して、
唐津鉄工所に勤められた君は、向学の志やみがたく、家を飛び出して
東京に出、働きながら苦学して、専検で
中学卒業の資格を取り、中央大学に学んで経済学部を卒業されました。
当時、
日本全体が前
近代的社会経済体質のもとにあり、社会的公正の
精神に乏しく、多数
国民が貧困のままに放置せられていた当時のこととて、
鬼塚村では全村一人の中学への
通学者もおらない実情であって、志を持って
東京へ出た
少年保利君が、形容もできない
苦労を重ねられたことは申すまでもなく、後年、人の問いに答えて、地をはうような
苦労をしたと語っていることを見ても、ひたむきに生きてきた、その
苦労が
保利君の身にしみ込んで、まじめさとこわさの両面となってあらわれたことを思わせるのであります。(
拍手)
こうして、いわゆる酸いも甘いもかみ分けた酒脱な
苦労人タイプとはまた違って、さらに深く
苦労自体が身についた、いぶし銀のように重厚で、
人間的迫力を帯びた
保利君の
人格ができ上がったものでありましょう。(
拍手)
そのことだけをもってしても、荒き
風雪に耐えて、人生の長い道程を歩み通された
保利君の魂を、いまさらに慰めたい
気持ちを禁ずることができないのであります。(
拍手)
大学を卒業された
保利君が、
報知新聞、次いで毎日新聞の前身である
東京日日新聞の
政治部記者としての十年を過ごされたことが、
政治家保利君の将来の
一つの大きな基であったことは言うまでもありません。
記者時代にマージャンや碁に練達されたことも、
保利君にとっては大きなプラスとなったと想像されるのであります。
十年の
政治記者生活の後、
保利君は、
昭和九年、
岡田内閣の
農林大臣であった
山崎達之輔氏の
秘書官となられたのですが、山崎氏がさらに
昭和十二年、林銑十
郎内閣の
農相、
昭和十六年、
東條内閣の
農商相となられたのに伴い、三代の
内閣の閣僚に仕えて
政治の裏表を学ばれたこととなり、
保利君がやがて大きく飛躍されるための貴重な礎となったことは明らかであります。
私が
代議士に当選したのは
昭和十一年で、
生意気盛りの
青年代議士として、
山崎農相に本
会議で質問し、君の農政ではだめだから、君をその席から追い落として私がその席に座ってみせると、血気に任せて怒号したことなどを、今日では冷や汗とともに思い出すのでありますが、まさにそのとき、
農相秘書官としての君と知り合い、自来五十年のおつき合いを願ってきたのであります。
保利君が初めて
議員に当選されたのは
昭和十九年であって、自来、ともに議席を持つ仲となりましたが、君は、敗戦直後の
政界混迷の時期、
政治的陰謀によると言われた
追放指定で、十三カ月の短期間とはいえ、
公職追放に涙をのまざるを得ない事態に追い込まれ、さらにその後、
昭和三十八年の総
選挙には不覚をとって落選され、四十二年一月二十九日の総
選挙で返り咲かれるまで
ノーバッジの
苦労をされました。
保利君と私とは、一歳だけ私が兄でありまして、
保守と革新と
立場こそ違え、
政治の
世界の
風雪を通じて、奇しくも相似た経験を持った仲で、因縁の不思議さを感ぜずにはおられません。(
拍手)
保利君が当面されたこの挫折も逆境も、かえって
保利君の人柄を謙虚にし、人の世の恐れを知り、
人間の幅を一幅も二幅も成長させて、君の大成にかえって大きく寄与したことを信じて疑わないのであります。(
拍手)
戦後の
保利君の
軌跡をたどってみると、その初期は、まず
進歩党、民主党を経て
保守本流に座を占めた
吉田元首相に才能を見出され、資質をみがかれた
吉田学校時代、そして
佐藤政権の七年八カ月にわたる大番頭として、君が最も高揚された主役の
時代、
田中政権以降は、政界の後見人として
保守本流を維持してきた陰の
実力者の
時代、そしてその最後が、全
議員より推されて
保革伯仲時代の
国会の
運営を主宰し、
国会の権威を高められた
時代の四つに分けることができると思います。
保利君が、第三次
吉田内閣の
労働大臣を振り出しに、同
内閣の
官房長官、第五次
吉田内閣の
農林大臣を歴任し、第二次
佐藤内閣では、
建設大臣のほか
官房長官、第三次
佐藤内閣の
官房長官を、さらに党に戻って
幹事長の
要職につかれたことは、いかに
佐藤内閣が
保利君を柱石として尊重したかを示すものであり、第二次
田中内閣の
行政管理庁長官を務められたのも、陰の
実力者として、
内閣の重石の役に任ぜられたものと言うべきでありましょう。(
拍手)
まことに
保利君こそは、戦後
保守本流の重心に位置した随一の人であって、これらの役職についてはあまねく人の知るところでありますが、さらに、日中の国交に
熱情を注がれ、かつては
美濃部東京都知事に
周恩来首相への
親書を託され、その後
三木総理の
親書を携えて訪中され、
周総理以下、
中国要人の
全面的信頼のもとに、大きく
国交樹立に寄与されたことも、改めて強調するまでもないと存じます。(
拍手)
日中の
国民的交流のため、
日本の
国会を代表して訪中することを念願し、
中国よりの招請を
楽しみにされていたのが、病のため実現せず、病をいやしての訪中を、
保利君御自身はもとより、
中国側も熱望しておったのに、忽然としてゆかれたことは本当に心残りであったと思いますが、
日中国交回復への
保利君の大きな
影響力は、今後とも正しく評価され、語り継がれなければなりません。(
拍手)
沖繩の
祖国復帰に当たり、
自民党幹事長として
国会をまとめられた
熱情と気迫も知る人ぞ知るであり、今日も忘れ得ぬ事績と言うべきでありましょう。(
拍手)
こうした
軌跡を顧みて、改めて感銘を深くするのは、君が、変転する情勢の中から的確に将来を見通す
洞察力の
持ち主であり、そして
政治目標の達成に心身をささげ尽くす情熱と律儀さの
持ち主であったことであります。これこそ、常に沈着で、容易に言挙げせぬ君が、おのずから党や
内閣の中枢に位置し続けたゆえんでもありましょう。(
拍手)
保利君は、死の二、三日前、周辺に、長くて険しい道だった、
目的地に近づいてきたようだと語られたと伝えられます。本当にひたすらに生きた人、一生懸命の人であったことが思われます。「百術は
一誠に如かず」また「
至誠天に通ず」という
言葉をしばしば
色紙等にも書いておられたと聞きますが、私は、子供のときから身体にしみ込んだ
保利君の仏心が、年をとり、
風雪を経て顕揚されてきたものと思うのであります。
保利君の生家は熱心な仏教徒で、君がまだ
小学校へも上がらない幼少のころ、
おじいさんが失明し、目の見えなくなった
おじいさんは、朝夕のお勤めとお寺参りだけが唯一の
楽しみでした。お寺でお説教があるとき、その
祖父の手を引いていくのが幼い君の役目でした。
「行きかえり、
祖父が、聞えるか聞えないかの声で、しきりにお念仏を唱えていたのを忘れることができません。思えば
祖父は、失明という身の不幸にあいながら、お念仏を唱えるという御報謝の
生活には少しも不自由を感じなかったのでしょう。いや
祖父は、肉体の眼が見えなくなったからこそ、かえって心の眼がひらけたのかもしれません。」と
保利君は書いておられます。
さらにまた、君は、
子供心に「ほとけさまはいつも「見てござる」「知ってござる」悪いことをして、人の目には見つからなくても、ほとけさまだけは見てござるぞ」ということを自分の戒めとして生きてきたと、
子供たちに贈る
言葉の中で書き記しておられます。
保利君は、
東京築地本願寺の
聞真会という
門徒出身の
国会議員の会合に熱心に出席されておられたそうでありますが、その
聞真会で「
子供たちの明日のために」という本が出されており、その中に「
築地聞真会の朝」という一編を寄稿しておられます。
ある日、
聞真会の早朝の集まりに向かうその朝、車の
フロントガラスいっぱいに光が差し込んでいるのに気づき、車をとめて外に出て、空を見上げると、いつも郷里の空を覆っているあの青空が広がっているではありませんか。全く澄明な朝の光です。私は、その感動に打たれたまま朝の法座にお参りし、「
正信偈」の「
煩悩に眼障えぎられて見ずと雖も、大悲は倦むことなく常に我を照らしたまう」の一言を見て、さらに新たな感動に身をふるわせました。
東京の空にいま薄暗く漂っているスモッグは、
近代都市の
煩悩そのものではないでしょうか。その
煩悩の雲に妨げられて、太陽の光を直接浴びることができなくても、太陽はうむことなくわれわれの頭上を照らし続けてくれていたのです。
大悲とは、御仏のお働きです。大慈悲です。慈しみの心です。君の座右に置かれた「百術は
一誠に如かず」の信念は、まさにここに発しているのです。
そして、さらに、そういう誠という信念も、まだ本当の悟りではなく、
正信偈に接して、「
一つの
思い上りであることに気づかせていただいたのでした」と述べ、「偉大なる宇宙に対して生きとし生きる
人間の小ささに対する自覚が足りなかったのではないか、という思いです」と、自己の内奥を披瀝しているのであります。
政治家保利茂もりっぱだったが、それにも増して、終生、内省と精進を怠ることのなかった
人間保利茂の純粋さと大きさとを、私は
諸君とともに認識し、追慕の念を深くしたいと存じます。(
拍手)
世上往々にして、
保利君を目して
策謀家などとの評をなす者がありますが、陽性でなかった
保利君とはいえ、幼少のときからの仏教の教えが
人間的成長と表裏一体となって身についた君は、少なくとも晩年には、
謀略家どころか、「終始
一誠意」という教えすらなお
人間のおごりであって、さらに偉大なる天の啓示に随順する謙譲さを身につけておられたのでありまして、
俗気ふんぷんたる私どもをして、永遠の師と仰がし
むる境地にまで到着されたのであります。(
拍手)
なお、一言づけ加えまするならば、半世紀にわたって権力の座におられた
保利君の私
生活が質素、清潔であられたことも、われらの範としなければならぬところと存じます。(
拍手)
七十余の生涯をかけて努力した結果、初心に帰ることができたとみずから称する君は、この歌をよく口ずさんでおられたといいます。
人の世の人の情けに生きるわれ人の世のためまことつくさむ
一見、平凡とも素朴とも思われるこの歌の心こそ、
人間にとって、とりわけ
政治に携わる者にとって、
立場の違いを超えた永遠の初心であり、原点でなければなりません。(
拍手)
ゆきて後、われわれになお多くのことを教えてやまぬ
保利君の偉大さを思い、再びこの議場に相会することのできぬさびしさを禁じ得ねままに、ここに
哀悼の
言葉を連ね、満堂の
同僚諸君とともに、心から御冥福を祈って、お別れを告げたいと存じます。(
拍手)
――
――◇―――――
元号法案(
内閣提出)の
趣旨説明