○沖本
委員 これは後からつけ足しみたいなお答えのように聞こえたのですけれども、麻薬とか覚せい剤とかそういうものが最近の暴力団の資金源になっておる、そういうものを新聞紙上で見ることがふえているんじゃないだろうか。そういうふうな暴力団の悪によって
国民全体がだんだん毒されていて、そういうことによってこういういわれなき
事件が起こってくる下地をつくっていくんじゃないかという心配があるのですね。それもやはり社会不安であるということも言えるわけですし、先ほど精神衛生
課長さんがお述べになったとおり、人権の問題なり社会の問題なりいろいろな問題で非常につかみにくい、徹底しにくい問題は当然あるとは思いますけれども、
一つ一つその芽をつんでいく、そういうことの積み重ねや、じみなことをずっと繰り返していくこと以外に未然の防ぎ方はあり得ないわけです。
ですから、頂点は暴力団の拳銃なり凶器なりそういうものであり、あるいはまた精神異常者からそういう
事件が起こってこないかどうかという点であり、またメンツということから自分の家の中にそういう患者がいても社会に知らせないとかいう問題等ありますが、これから先に対して、お互いに社会をよくしていくために一般
国民自体が社会生活上の協力をし合っていく、そしてよりよい社会をつくっていくために協力を求めていくという事柄に向かって、政府機関なり治安当局がそれぞれ孤立するようなことのないところへ道を進めていただく、それをより多くPRしていただく、またいろいろな実態を
国民に知らせていただき協力しやすいような場をつくり上げていただく以外に
国民は協力のしようもないわけで、新聞に出てきた
事件にまゆをひそめて恐れおののいて身を縮めるということであってはならないと思うわけであります。そういう点を十分お考えいただきたいと思うのです。
それで、あとは法案の方にかかっていきたいと思うのですが、まず大臣に聞いていただきたいのです。「犯罪による被害者補償制度を促進する会」というのがありまして、一番
最初の会長さんは市瀬朝一さんとおっしゃるのですが、当
委員会へ出てこの法律について被害者の立場からいろいろ御意見をお述べになったこともあるわけです。その方が亡くなられて、奥さんがその志を継いで運動を引き続きずっとやっておられるわけですけれども、その会がまとめた
一つの本があるわけです。この本を少し読んでみたいと思います。「“あと二年生かして”」という題です。
初老の一人の男が、病室のベッドの上で、見えぬ眼を瞠(みひら)き主治医の顔を凝視しつつ、必死に訴え、主治医の腕を握りしめた。
「先生、もう二年間だけ生きさせて下さい。二年だけで結構ですから。まだ私は死ねんのです……」
主治医は職業柄、患者の生への願望や期待の言葉は臨終の前に何度も聞いてきたが、この男の叫びには、単に生の延長を奪取する気迫のみならず、“何か”に責めたてられてでもいる“執念の炎”が、音をたてて燃えているものを感じとった。家人を通じて「二年間のわけ」を知った主治医が、全霊込め施療の限りを尽したが、病はついに癒えず、男は六十六歳の生涯を閉じた。枕元には、瞑目した眦を伝って一筋の涙が、糸をひいたように白く流れていた。それは志半ばにして倒れた、死んでも死にきれない“無念の涙”のようであった。
市瀬朝一さん〈犯罪による被害者補償制度を促進する会会長〉は、十一年前、通り魔少年に最愛の息子を刺殺されるという悲運に見舞われ、以来十年余、いわゆる“いわれなき犯罪被害者”に国は救済の道を開き、補償の制度化を確立せよ、と訴え続けてきた人である。
その戦いは文字通り「一人立つ」実践から開始され、全国の同様の苦しみや泣き寝入りのままあえいでいる被害者・遺族を一軒一軒訪ね、激励し連帯を呼びかける“糾合行脚”の連続であった。
「しっかりした組織にせねば、国は相手にしてくれん」——これが生れてこの方、鉄工職人を仕事で使う以外に、他人と目的を持って徒党を組む政治行動などと全く無縁であった市瀬会長が、国という“怪物”を相手にして初めて痛切に思い知らされた、冷厳にして、したたかな実感と叩き声だった。
だが“怪物”はとてつもなく大きすぎた。手をたずさえあって進むべき同志は、全国にわたり予想外に多かったが、そのほとんどが一家の働き手を失い、妻を奪われ、我が子を亡くした悲惨な家庭ばかりであった。被害
状況はそれぞれ違っていても、
事件以来、経済的困窮に陥ったり、社会参加をかたくなに拒む“閉ざされた生活”を送るのみで、市瀬会長の提唱に呼応し、運動の担い手としてお互いの心を固く結び合うには、
相当の時間を必要とする極めて困難な戦いであった。
市瀬会長は、北は北海道、東北、南は九州、四国にいたるまで、被害者やその遺族家庭を訪問し、自己の悲惨な体験を語り、被害者補償の立法化が必要だと説き、そして同じ境遇の者同士スクラムを組もうと訴えたのだが、その説得行脚中、時に“売名行為”とか“よけいなお世話”などという非難、中傷を何度となく浴びせられたりした。
その度に「何故、理解してくれないのだろう。自分のしていることはいけないことなのか」そんな自問自答を繰り返しながら、最後には「何故、俺はこんなことに汗を流し、かかわっていかねばならないのか……」という絶望と挫折に陥りかけた。
だが、そんな時、絶えず市瀬会長の耳元で失いかけた闘魂と執念とを呼び覚ましたのは、子息が臨終の際に言い残した「親父、くやしい、仇を討ってくれ!」という悲愴にして凄絶な遺言であった。
「負けてはならない、息子の遺志を果すまでは」という決意が蘇えった。そして仇を討つとは、ただ犯人への復讐を遂げるだけでなく、こんな犯罪を生み出す社会そのものを改革するため、同遇の
人たちと連繋して、国を動かすことであると
結論づけたのは、誰でもない、自分
自身ではなかったのかと、運動を始めた初心に帰り、くじけそうになるたびに、初一念貫徹への奮起を新たにし、熾烈な戦いに再スタートしたのである。
このための費用は、すべて自分の財産を処分して資金に充てた。
こうした曲折の末、ついに四十二年六月、『殺人犯罪の撲滅を推進する遺族会』を結成、会員百二十名にこぎつけた。その後、同会による殺人犯罪の撲滅と被害者補償を要請する
国会請願のため、署名運動が活発に展開され、翌年十二月には、その署名が二万八千九百人に上り、初めて
国会請願を果した。
会活動としては会員相互の激励、意見交換などが行なわれたが、被害
状況、補償要求
内容の相違などから被害者遺族が、単純に連帯して団結することは
最初から困難であった。しかし、会活動が次第にマスコミの取材意欲をそそり、遂に四十九年の過激派による三菱重工爆破
事件など一連の企業爆破
事件の発生により、無差別テロの犠牲者に国が補償する方法はないものかとの論議が、にわかに世論として高まってから、同会の存在もようやく多くの人に知られるところとなった。
やがて
国会でも野党各党がこの問題を取り上げ、時の法相が「犯罪による被害者に国の補償がないのは文明国の恥である」との見解を発表してから、早急な立法化の検討を約させる趨勢となった。
この間、市瀬会長も、
参考人として意見を陳述、声を限りに実現の必要性を訴えた。
そして五十二年一月十九日、法務省の予算折衝で、立法化のための
調査費四百十五万五千円(法務省
関係三百二十六万円、警察庁
関係八十九万五千円)が復活計上された。だが、この三日前、市瀬会長はこの”ささやかな朗報”を知ることなく、ついに不帰の人となった。
たった一人から始めた、ほんの小さな市民運動が、ようやく大きな世論に支えられて実を結ぼうとしている時、そして市民運動が民衆参加の姿で国を動かし、新しい法律を作るに至らしめるという”前代未聞”の、いわば民主主義の原点ともいえる人間の誠意ある行動の結果が成就しょうとしている時、この運動の草創であるリーダーは無限の遺恨をそのままにして逝ってしまった。
市瀬会長が「二年間だけ生きさせてくれ」と叫んだのも、実は極めて近い将来に、立法化のメドがようやくにしてつくと期待し、その施行の日を心から待ち望んだからに他ならなかったのである。
志半ばにして倒れた会長の遺志は、残された者へ引継がれ、人権尊重の欠落
部分を補うという崇高な目的は、何が何でも実現させねばならない、というのが遺された同志の烈々たる闘魂である。
こういうふうなことで、あとずっと続いておるわけですが、あとは省略させていただきます。
この間、この
人たちの会があったわけですけれども、これは九日でございます。そのときに被害の訴えをなさった方の
内容も少し申し上げておきたいと思います。
大阪府の中村京一さんという方です。
私は四年前、当時二十六歳であった妻を十八歳の少年に刺し殺されました。場所は鳥取です。今は当時二歳であった子供のために大阪の方に住んでいます。なんの罪もない妻がどんな思いで死んでいったかと思うとあまりにもあわれで、私は気が狂ったように犯人を憎み復しゅうの気持ちでいっぱいでした。
犯人は少年鑑別所を出たり、入ったりで、保護監察のときにこのような罪を犯したのです。その結果は刑務所行きですが、そしてまたでてくるのです。
あとは飛ばします。
私たちには罪はないのです。私は再婚する気にはなれません。思い起こせば当時、二歳の子供を取り合いするほどの親バカでした。その子供も今は姉夫婦の世話になっております。というのも、亡き妻の通夜のとき、夜中に子供の泣き声で私が、子供のオシメを取り替えていたのを、義兄がそっと見ていたのです。そのとき「私が面倒をみる」といってくれたからです。私は子供と別れるのは辛いが、今なら、子供が小さいので姉夫婦を両親と思うことができると思い、姉夫婦に託しました。
ということで、この方もこういう経過をたどりながらいろいろ訴えておられるわけです。
それから、もう一人大阪の上月永子さんという中学生の女の子ですが、
昭和四十八年、残業を終えて帰ってきた父が、家の前で、知らない男の人に猟銃で射たれ、殺されたのです。
ということです。この子が最後におっしゃっていることは、
私は、私の家庭をメチャクチャにした犯人が殺してやりたいほど憎いし、そしてそんな人に猟銃をうつことを許した国も許すことができない。これからは、理由なき殺人をなくして、みんなが不安なく暮らせる日が一日も早くくることを期待したいと思います。
こういう点です。
それからもう一人中山正美さん、千葉県です。この方は、自分の娘さんが看護婦で、中学を終えてから自分から進んで看護婦の勉強に入ったわけですが、当直室で何者かに看護婦さん二人が殺された、そのうちの一人です。
その後、私の妻は精神的衝撃から立ち直れず、自殺未遂やいろいろ問題を起こし、やむを得ず離婚に至ったのです。
残された幼い子供の世話と仕事の両立に身も心も疲れながら、一生懸命に頑張っております。
こういうことなんです。
それで最後にお伺いしたいわけですけれども、大臣にお伺いしますが、大臣はこの点につきまして、八月十一日の当
委員会で、次の通常
国会に法案を出す、
刑事局長も、五十五年一月一日から実施したい、こういうふうにお答えになっていらっしゃるわけですけれども、結局は来年度に対する概算要求は全然なく、警察庁と両方に約三百万円ずつの
調査費がつくということで終わったということになり、その間の事情を新聞紙上で伺いますと、この制度について全国すみずみにある警察を窓口にした方が利用者は便利と警察庁から強い意欲が出た、それに対し、法務省は、犯罪
捜査の一線にある警察が取り扱うと補償制度があるため完全な
捜査をしないという
関連づけで誤解されやすい、利用者はきわめて限定されるため、地方
検察庁が窓口でもそう不便はない、こういうことで、結局両方の意見がまとまらなかったということで三百万円ずつの
調査費で、事業費という要求はなかったということなんですが、まず私不思議に思いますことは、お互いに所管争い、新聞では所管争いで見送りになったという見出しがついております。また、昨日の参議院の法務
委員会では、大臣は、五十四年度の概算要求に間に合わなかったが、簡単にはいかなかったとおっしゃって、やはり法案は次期通常
国会に
提出する、予算措置は後から講じるという変則的な形で制度拡充に取り組むということだということです。
伊藤刑事局長は、施行の日から適用日をずらすといったことを検討している、こういうことになるわけですけれども、まず窓口でお互いが、うちの窓口の方がいいのだ、こういうお話し合いがあるという点も私たちは奇異に感じるわけですけれども、一番
最初に申し上げましたとおり、
国民一人一人は自分を守るすべがないわけですから、すべて国の責務で
国民の生命財産を守らなければならないし、治安を守っていかなければならないという国に重大な責任があるわけです。
そういう点から考えてみましても、よりよき制度をつくって一日も早く
国民を安心させていき、被害者を救済していくという点については、政府部内で一致したものになっていかなければならない、私はそう考えるわけです。と同時に、しばしば伺うことですけれども、初めてこういうことで巨額な予算が法務省に必要であるという点から、簡単に言えば、いままで法務省あるいは
裁判所は予算を使うところだけであって、ほかのことで財源を生み出す省ではない。いままで一定のものだけ使っておったところへ、こういう制度を設けてぽかっとたくさんの金が要るということになる点自体が、法務省としては破天荒なことであって、大蔵省の方がなかなかそのことに対してかぶりを振ってくれない。何かのことでほかに制度をつくって財源を生み出してくるようなことであればというようなことが大蔵省の言い分であるとかというようなことをちらちら伺うわけなのです。そのこと自体またおかしいのであって、財政が逼迫しておるとか、国に予算が少ないとか、いろいろな理由はあるにしても、こういう窮迫した事態の中の
国民を救わなければならない、こういう被害によって苦しんでおる被害者を救済せねばならないということは一様に大事なことであって、何をおいてもやっていかなければならないし、やっていただかなければならない、こういうことになるわけです。この点についてもう少しざっくばらんに、法務大臣の例のざっくばらん型の思い切ったお話を私たちは伺いたいわけです。概算がつかない法案というのは、次の通常
国会へ出たときにどういうようになるのか、私たちにも想像がつきませんので、その辺についても御
説明いただきたいと思います。