○原(茂)
委員 この問題の処理も何年もかかって打ち合わせなんかしてないことはわかりましたが、この問題を、前に、去年
指摘したときに、よくお考えいただくと非常に大きな問題を含んでいることに簡単に疑問をお持ちになったはずだと思うのですが、これから徐々にその点の解明をしていきます。その疑問を持たないで淡々と、九・九の処理をいたしました、八・三だけ何とか返還ができましたというようなことを言っているような、そういう何らの疑問を持たなかったような答弁に対しても、大変長い間打ち合わせをしたのじゃない。あなた方のような偉い専門家が長い間打ち合わせをしたら、そんなばかな答弁をされているわけはないし、何らかの手当てがすでに他に行われていたのではないかと私は思います。徐々にこれから、その点がわかるかどうか質問をしていきたいと思います。
御承知のように政府は、いまの図面で格子じまになっているところですね、九・九が格子じまになっているところです、この開拓財産を除きまして二百十四ヘクタールを随意
契約で林業の用に供すべき用途指定を付して山梨県に売却をしたわけです。これはわかっていますね。
だが、当該国有地はそもそも民有地であったが、
昭和二十二年十月二日、政府が自作農創設のため同特別
措置法第三十条の規定により
未墾地として買収したことにより初めて
国有財産、開拓財産となったものであります。これは当然御承知だと思います。
したがって、政府は自作農創設法の
趣旨にのっとりまして
未墾地買収後、当該土地に対しまして漸次海外からの引き揚げ者あるいは地元増反者を入植せしめ、国策としての食糧増産と引き揚げ者等に対する失業対策とをあわせ持った緊急開拓
事業の用に供さんとしたもので、本件土地はきびすを接して
昭和二十三年九月、占領米軍に耕作を禁止され、次いで二十四年七月には米占領軍演習場用に供すべく占領接収予定地に指定され、さらにそれに基づいて二十五年一月二十七日、命令番号JPNR−四二二三号の調達命令が出されまして、同年二月一日付をもって米軍に演習場として引き渡されてしまったのです。これは間違いないでしょう。ここに自作農創設のために同地を供することができない
状況が生じてしまったわけであります。
しかるに、二十五年二月一日、すなわち演習場用地としての引き渡しの日に、政府、この場合政府とは山梨県知事それから同県の農地
委員会ですね、政府は以上のような
事態が発生し、
未墾地買収時とその事情が全く異なるに至ったにもかかわらず、自作農創設のためとして所定の方針どおり当該土地を入植者に売り渡しているわけであります。ここに法的に検討しなければならない重大な問題が存在するのであります。
すなわち、当該地の入植者への売り渡しは、以上のごとく自作農創設の
目的に供することができないという
事態のもとで行われた点にかんがみまして、よし自作農創設法第四十一条が
未墾地の売り渡しにつき行政機関の裁量にゆだねているものであるとしましても、社会通念上、自作農創設などの
目的に供し得ないことが客観的に明らかな場合、その客観的
基準を無視した行政機関の売り払いに関する裁量というものは違法であり、無効たらざるを得ないのではないかということなのであります。非常に大きな問題をいま提起しているわけであります。
そもそも自作農創設の
目的に供することができないという
事態のもとで、しかも自作農創設の
目的で売り渡すというのであるから、その売り渡し自体がいわゆる背理たらざるを得ないと私は確信をいたします。
占領接収による演習場としての囲い込みの指定時、それは
昭和二十四年七月です、あるいは少なくともその調達命令が出たとき、すなわち
昭和二十五年一月でありますが、それ以降は、自作農の創設等の
目的に供しないことを
相当とする事実が生じた場合といってしかるべきだと思う。かかる事情のもとでの売り渡しは無効であることは当然だと私は思うのであります。
占領接収によるいわゆる囲い込みの現実というものは、当然のことながら農地としての
使用と著しく矛盾、抵触するものでありまして、かつ売り渡しの年が朝鮮動乱の勃発した
昭和二十五年であることを想起すれば、北富士演習場の
使用頻度も察するに余りあるものがあると思います。大変な使い方をされておりまして、事実それは営農を完全に不可能にするほど激しいものでした。よって、入植者は売り渡された土地を再び買い上げるよう政府に陳情、申請し、政府も
昭和二十九年三月六日、これを売り渡し
価格より
相当高く買い上げることによって、いわゆる離農
資金とさせたのがあの当時の現実であります、事実であります。
自後、該地は買い上げにより、総理府防衛
施設庁所管の提供財産とされまして、次いで
昭和四十八年四月十日、米軍からの返還をもって大蔵省所管普通財産となったものであります。
しかるに、ここにおいて注意を要するのは、実は該地のすべてが入植者に売り渡されていたものではなくて、
昭和二十二年十月の開拓
事業実施要領に基づきまして、道路、灌漑、排水等、重要な基幹
工事だけは全額国費をもって行うことになっていたのであって、該地においても該
工事を施行すべき土地はなお
農林省所管開拓財産として
管理されたものであり、まさしくこの
部分が格子じまの
部分なのであります。九・九ヘクタールであります。
したがって、政府は、当該土地については大蔵省普通財産と
農林省開拓財産として
管理していたのでありまして、普通財産は山梨県へ、開拓財産は旧所有者へと売り払っていることになるのであります。すなわち二十五年二月一日の入植者への売り渡しは違法、無効であるにもかかわらず、法的には大蔵省所管の普通財産とされていた該地は、当然
農林省所管開拓財産であるべきところであり、したがって、政府は、格子じま模様の
農林省所管開拓財産、道路予定敷地等として入植者に売り渡していなかった土地と同様に、農地法第八十条の規定に従いまして旧所有者に売り渡すべきものであり、旧土地所有者は政府に対して売り払うべきものと考えます。事実、該地は占領接収を承知の上で、しかし一たん入植させてしまった入植者の処理の一方策として、単に
手続的に売り渡し、買い上げというような操作が行われました。いわゆる該操作をもって入植者の離農
資金捻出が行われたものと言うべきであります。仮に、そうでないといいましても、結果的には自作農創設という
目的のために該地は供されることはなかったのでありますから、道路等の予定敷地のためにたまたま
手続的には売り渡しがなされず、そのまま開拓財産として
農林省が
管理してきた土地とその
実態はいささかも異なるところはないと思うのであります。
私は、このようにあえてその疑問とするところをあらかじめ提示いたしまして、これからまた徐々に質問をするというのも、本件事案というものがすでに四半世紀以上も過去のことであるがゆえであります。質問の意図を明らかにすることによって、いたずらに疑心暗鬼をもって抽象あいまいに答弁していただきたくないからであります。
以下に、このような特殊性をも私は勘案しながら、歴史をたどりながら、開拓問題一般を交えてお伺いをしてまいります。
第一に、本件土地がそもそも開拓地として適当であるかどうか、きわめて疑問であります。一般に開拓適地として
未墾地買収されたはずであるから、開拓適地であったに違いないと言われます。だが、果たしてそのとおりでありましょうか。かかる主張は「はずだ論理」に支配されております。何々のはずだと言い、正確な推論を進めているつもりでも、実は余り頼りにならない常識やあやふやな資料を前提にしているのがかかる議論であると私は考えます。「はずだ論理」であります。
そこで、私はめんどうでも、この開拓にかかわる重要な
施策の歩みを振り返りつつ質問をしてまいります。
開拓主要年表をたどってみますと、
昭和二十年八月農商務省が廃止されまして
農林省が復活をし、同年十月には
農林省に開拓局が設置されています。そしてすぐ、同年十一月には緊急開拓
実施要領という閣議決定がなされています。明けて
昭和二十一年十月、ちょうど一年くらい後ですが、
自作農創設特別措置法が制定、十二月にはそれが施行され、これに基づき
未墾地買収が一斉に開始されています。申すまでもなく、私がいま問題にしている土地はこれによって買収された土地なのであります。
昭和二十二年になりますと、開拓者
資金融資法と同
特別会計法が一月には成立をいたしました。開拓者に対する若干の援助も考慮されるに至っております。そうして同年十月には、緊急開拓
実施要領と言われた敗戦後三カ月日に出された閣議決定が、その緊急という頭文字を取って、ただ開拓
実施要領というものに変わっています。つまり、さきの要領が余りにも混乱に混乱を重ね、その混乱の影響がすこぶる甚大であったということとともに、入植者の営農がうまくいかない、たとえば入植者二戸当たりの経営面積が不足で営農不可能ということが判明するに及びまして、経営面積の規模の拡大とか開拓という新しい土地
開発に加えて、
土地改良ということも含めた考慮がなされた上で、この新しい
実施要領が制定されたのであります。
言うまでもなく、このころまでは復員者、疎開していた人たち、そういった人の住む場所、生活する場所を
確保することを重点に考えて
未墾地買収は行われていたのであります。やむを得なかったと思います。ちょうど、この
昭和二十二年十月に本件土地は
未墾地買収されているのであります。そして
昭和二十三年になりますと、さらに科学的に開拓地の土壌
調査事業というものが始められているのであります。
昭和二十四年になって初めて開拓適地選定
基準というのが設定されまして、それに基づいて
未墾地買収がなされるというようになっています。
このように、本件土地が
未墾地買収され、それが入植者に売り渡されるまでの間の諸
施策の一連の流れを見てもわかるように、緊急開拓の開始及び開始時における
未墾地買収並びに開拓の進め方というものは、特に混乱期でもあり、
事業のいわゆる
実施要領が先に決まり、
未墾地買収が開拓適地選定
基準も何もないまま行われたということが事実なのであります。つまり、
昭和二十年代前半というのは開拓
事業の創設時代で、走りながら考え、考えながら走るという試行錯誤の繰り返しの時代であったと言っても過言ではありません。この点はよくわかります。諸事体系的に整わないままにとにかく
未墾地買収、そして開墾と、結果的には
事業量は非常に伸びているが、多くの問題をはらんでいたのであります。つまり、適地選定
基準とか
計画の立て方とかが
未墾地買収後に決められているのであります。あるいは土壌
調査が後から行われているといったぐあいで、すべて順序が逆であったのです。それが当時の事情からすればいたし方がなかったにせよ、その後の開拓というものに、あるいはその
管理等について非常に大きな悪影響を及ぼしているということは事実だと思います。たくさんあります。
そこで、確認をしておきたいと思いますのは、いま私が申し上げた
事項、特に
昭和二十二年十月ごろは適地選定
基準などはなく、したがって、土壌
調査など、荒蕪地が農地に転換可能かどうかなどの科学的
調査もなく、ただ開拓予定地として次々に買収していったのが事実ではなかったかということでありますが、事実に照らしてこの辺をまずお答えをいただきたい。