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1978-04-21 第84回国会 衆議院 文教委員会 第16号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十三年四月二十一日(金曜日)     午前十時三十一分開議  出席委員    委員長 菅波  茂君    理事 石橋 一弥君 理事 唐沢俊二郎君    理事 藤波 孝生君 理事 渡部 恒三君    理事 木島喜兵衞君 理事 嶋崎  譲君    理事 有島 重武君 理事 曽祢  益君       石川 要三君    久保田円次君       小島 静馬君    玉生 孝久君       塚原 俊平君    中村  靖君       長谷川 峻君    水平 豊彦君       小川 仁一君    千葉千代世君       中西 積介君    長谷川正三君       湯山  勇君    池田 克也君       鍛冶  清君    伏屋 修治君       中野 寛成君    山原健二郎君       西岡 武夫君  出席国務大臣         文 部 大 臣 砂田 重民君  出席政府委員         文部政務次官  近藤 鉄雄君         文部大臣官房長 宮地 貫一君         文部省初等中等         教育局長    諸澤 正道君         文部省大学局長 佐野文一郎君         文部省学術国際         局長      井内慶次郎君         文部省体育局長 柳川 覺治君         文部省管理局長 三角 哲生君         文化庁長官   犬丸  直君  委員外出席者         外務省情報文化         局文化事業部文         化第二課長   岡   照君         文教委員会調査         室長      大中臣信令君     ————————————— 四月二十一日  理事石橋一弥君同月十九日委員辞任につき、そ  の補欠として石橋一弥君が理事に当選した。     ————————————— 四月二十一日  女子教育職員の出産に際しての補助教育職員の  確保に関する法律の一部を改正する法律案(参  議院提出、第八十二回国会参法第一号)  オリンピック記念青少年総合センターの解散に  関する法律案内閣提出第六七号)  著作権法の一部を改正する法律案内閣提出第  七〇号)(参議院送付) は本委員会に付託された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  理事補欠選任  昭和四十四年度以後における私立学校教職員共  済組合からの年金の額の改定に関する法律等の  一部を改正する法律案内閣提出第六八号)  文教行政基本施策に関する件      ————◇—————
  2. 菅波茂

    菅波委員長 これより会議を開きます。  この際、理事補欠選任の件についてお諮りいたします。  委員異動に伴い、現在理事一名が欠員になっております。これよりその補欠選任を行いたいと存じますが、先例により、委員長において指名するに御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 菅波茂

    菅波委員長 御異議なしと認めます。それでは、石橋一弥君を理事に指名いたします。      ————◇—————
  4. 菅波茂

    菅波委員長 昭和四十四年度以後における私立学校教職員共済組合からの年金の額の改定に関する法律等の一部を改正する法律案を議題とし、提案理由説明を聴取いたします。砂田文部大臣。     —————————————  昭和四十四年度以後における私立学校教職員共済組合からの年金の額の改定に関する法律等の一部を改正する法律案     〔本号末尾に掲載〕     —————————————
  5. 砂田重民

    砂田国務大臣 このたび政府から提出いたしました昭和四十四年度以後における私立学校教職員共済組合からの年金の額の改定に関する法律等の一部を改正する法律案につきまして、その提案理由及び内容概要を御説明申し上げます。  私立学校教職員共済組合は、昭和二十九年一月に、私立学校教職員福利厚生を図る目的のもとに、私立学校教職員共済組合法により設立されたものでありますが、その以後、本共済組合が行う給付については、国・公立学校教職員に対する給付の水準と均衡を保つことをたてまえとし、逐次改善が進められ、現在に至っております。  今回は、昭和五十二年度に引き続き、国・公立学校教職員年金の額の改定に準じて、私立学校教職員共済組合法規定による既裁定年金の額の改定等を行うため、この法律案を提出することといたしたのであります。  次に、この法律案概要について申し上げます。  第一に、私立学校教職員共済組合法規定による退職年金等の額を、昭和五十二年度の国家公務員給与改善内容に基づいて行われる国・公立学校教職員退職年金等の額の改定に準じ、昭和五十一年度以前の退職者について昭和五十三年四月分から増額することといたしております。また、これらに伴い、旧私学恩給財団年金についても相応の引き上げを行うことといたしております。  第二に、既裁定退職年金廃疾年金及び遺族年金最低保障額を、国・公立学校教職員既裁定年金最低保障額引き上げに準じ、昭和五十三年四月分から引き上げるとともに、六十歳以上の者等に係る遺族年金最低保障額昭和五十三年六月分からさらに引き上げることといたしております。  第三に、標準給与の月額の上限を、国・公立学校教職員掛金等の算定の基礎となる俸給等限度額引き上げに準じ、三十六万円から三十八万円に引き上げるとともに、下限についても六万二千円から六万六千円に引き上げることといたしております。  最後に、この法律施行日につきましては、他の共済組合制度の例にならって、昭和五十三年四月一日といたしております。  以上が、この法律案提案理由及び内容概要であります。  なお、私立学校教職員共済組合法は、給付関係規定については、国家公務員共済組合法関係規定を準用することといたしておりますので、昭和四十二年度以後における国家公務員共済組合等からの年金の額の改定に関する法律等の一部を改正する法律案が成立いたしますと、遺族年金に係る寡婦加算の額の引き上げ措置につきまして、私立学校教職員共済組合給付についても同様に措置されることになりますので申し添えます。  何とぞ、十分御審議の上、速やかに御賛成くださいますようお願い申し上げます。
  6. 菅波茂

    菅波委員長 これにて提案理由説明は終わりました。  本案に対する質疑は後日に譲ることといたします。      ————◇—————
  7. 菅波茂

    菅波委員長 文教行政基本施策に関する件について調査を進めます。  質疑の申し出がありますので、これを許します。小島静馬君。
  8. 小島静馬

    小島委員 久しぶりの一般質問でございますが、きょうは多くの問題に触れることなく、問題を二つにしぼってお伺いをいたしたいと思います。前半、学校給食、特にその中におけるところの米飯給食問題点についてお伺いをしたいと思います。後半、日本英語教育問題点につきまして、特に外国人教師の招聘の問題についてお伺いをしたいと思います。  学校給食沿革等も拝見をいたしまして、昭和二十一年から緒につきまして今日に至るまですでに三十年以上の経過をたどっておるわけでございますが、いまどんなふうな状況であるか、それから問題点はどこにあるか、そういう点について体育局長からお伺いしたいと思います。
  9. 柳川覺治

    柳川政府委員 わが国学校給食は、いま先生御指摘のとおり、学校給食法等に基づきまして、義務教育学校中心学校教育一環として実施して今日に至っております。  五十二年五月一日現在におきます全国的な実施状況でございますが、小学校児童数で申しまして九九・三%と、ほぼ完全実施に近い状態にございます。また、中学校につきましては、生徒数で八二・四%。特殊教育学校の幼児、児童生徒数では七八・八%、夜間定時制高等学校生徒数では八七・三%に達しておりまして、全体で千五百五十万人の児童生徒に及んでおる次第でございます。  このうち、学校給食完全給食補食給食ミルク給食の三態様がございますが、完全給食実施状況は、小学校児童数では九七・〇%と、ほぼ一〇〇%近い普及率を示しておりますが、中学校につきましてはなお、生徒数で五五・四%と、小学校に比べまして低い普及率になっております。この辺は、中学校実施が当初開始の時期がおくれたということもございますが、中学校におきます完全給食への普及の問題がなお引き続きこれから努力すべき一つの課題であろうと思います。  それから、学校給食につきましては、全般に施設設備の整備を図っていくという問題がございますし、特に物資につきまして、物資の適正かつ円滑な供給確保を図るという問題が、常に組織需要としてまとまったものでございますので、この面が父兄負担軽減等観点から大事なことだということで、各、日本学校給食会あるいは都道府県の給食会を通してのこの面の組織的な確保の体制を図っていくという問題があろうかと思います。  また、特に最近の問題といたしましては、国民の食糧事情背景といたしまして、長い期間粉食奨励のような形で、パンによります。パンミルクおかずという形での給食実施形態でございましたが、これを五十一年度から、実験学校の経験も経まして、パンあり、米あり、めん類ありという、素直な日本人食事形態学校給食に切りかえていくというための米飯導入の問題が、現在私ども一番力を注いでおるところでございます。
  10. 小島静馬

    小島委員 ごくあたりまえのことでありますけれども学校給食を行う基本理念といいましょうか目標といいましょうか、どういうお考えでこれをおやりになっておられるのか、それから学習指導要領の中ではこれはどういう地位を占めておるのか、お伺いいたします。
  11. 柳川覺治

    柳川政府委員 学校給食は、現在、教育活動一環としてこれを行うというたてまえをとりまして、学習指導要領の上におきましても特別活動のうちの学級指導に位置づけております。言うまでもございませんが、学校給食それ自体は、栄養のバランスのとれた食事児童生徒に提供する、そのことによりまして児童生徒の健康の増進体位向上に寄与するということが第一義的な意義であろうと思います。このことは、学校給食が開始されました当時から、わが国予供たち栄養面の不足を補うということで大変大きな役割りを果たしておりますし、現に学校給食によりまして一日の所要栄養量相当部分が補完されておるという実態はなお今日でもそのような状態でございます。この学校給食の、健康の増進あるいは体位向上に果たしておる役割りはなお大きなものがあるというように認識しておる次第でございます。  さらに、教育的な意義の面に立ちますと、児童生徒の明るい社交性と豊かな人間関係がこの給食を通して育てられるということが指摘されようかと思いますし、また、教師児童生徒が同じ物を食べることを通しまして平等感が培われ、これによって情緒が安定し、学習にもよい効果を与えていること、あるいは教師児童生徒親近感が育っておるということは大きな意義であろう。家庭におきまして夕げの場が家庭教育の場であるというように言われておりますとおり、学校におきまして学校給食の場で、教師子供たちが、親子、兄弟のような人間関係において、食事を通して明るく楽しい環境がつくられておる。この面は人間形成の上で大変大事な場になっておるというように指摘されようかと思います。  また、児童生徒が協力いたしまして配食や後片づけなどを行っております。このことは、勤労奉仕の精神を身につけることができるということも当然言われることでございまして、このように児童生徒の円満な人格形成に大きな影響を与えておりまして、学校教育におきまして現在重要な役割りを果たしてきておるわけでございます。  この辺の認識に立ちまして、このたびの新しい学習指導要領改定に当たりましても、従来の特別活動としての教育的な意義をそのまま継続しておるという経緯でございます。
  12. 小島静馬

    小島委員 もう一つ問題点でございますけれども、先刻の御説明の中で出てまいりました米飯給食導入の問題ですね。これはやはり学校給食というふうな教育上の効果はもちろんでございますが、もう一つは、時の問題として、米の消費拡大という問題からも当然これは取り上げられるべきものでしょう。閣議におきましても了解事項として出ておりますが、この目標、それから実施状況、どういうふうになっておるか、その点をお伺いしたいと思います。
  13. 柳川覺治

    柳川政府委員 米飯給食につきましては、御指摘のとおり、食事内容多様化を図る、また栄養を配慮した米飯の正しい食習慣を身につけさせる等の見地から教育上も大変意味あることでございますし、わが国食糧資源を考慮いたしまして、これを大いに推進すべきものであるという考え方に立っております。  そのことから、昭和五十一年から学校給食への計画的な導入を図り、当面週二回の実施目途に、その施策推進を図っておるところでございます。その結果、昭和五十一年五月現在、学校数で申しまして三六・五%でありましたものが、昭和五十二年五月現在では五八・三%に達してまいりまして、順調にその普及が図られておる状態でございます。五十三年度以降につきましては、五十三年度にこの普及率を八〇%の学校に及ぼす、また五十四年度には九〇%、五十五年度に九五%、五十六年度に一〇〇%の学校米飯の週二回の導入を実現するという方向年次計画をいま進めておるところでございまして、これに要します精米所要量は、五十三年度が四万一千トン、五十四年度六万トン、五十五年度八万三千トン、五十六年度十万四千トンという週二回の消費を考えておるということでございます。
  14. 小島静馬

    小島委員 週二回を目標に進めておって、五十二年に五八・三%いったという話ですが、全体として非常に達成率が高いように思いますけれども、実際にはそうじゃないんじゃないですか。全国平均でも結構ですが、月に何回くらい、全体のトータルをいたしますとどのくらいまでいっておりますか。
  15. 柳川覺治

    柳川政府委員 いま平均いたしまして月に三回くらいの割合でございまして、週二回の目標からいたしますとなおその目標に遠いということでございますが、米の方の消費量は、五十二年度二万トンの消費を見込んでおりましたがこれが二万二千トンほど消化されておるということでございまして、来年度は四万一千トン、約倍を見込んでおりますが、この四万一千トンの目標はぜひ達成いたしたいということを計画しております。学校によりましては現在の設備されておる圧力がま等で月一回だけ行うというところもございますが、すでに学校によっては週二回の計画的な実現を図っておるということで、地域また学校によって現在まちまちでございますが、一応の計画目標は達成していくという見込みの上に立ちまして努力をしてまいりたいと考えておるところでございます。
  16. 小島静馬

    小島委員 これは文部省からいただきました資料でございますけれども、まだ月三回には及ばないんじゃないか。もう少し少ないように思うのですが、週にしますと〇・六ないし〇・七くらい、月にしますと二・五回くらい、そのくらいじゃないでしょうか。
  17. 柳川覺治

    柳川政府委員 御指摘のとおり三回弱になるという状態でございます。ちなみに、その辺の割合を申し上げますと、週一回行っておる学校が二二%、週二回が一四・二%、それから月一回が一八・一%、月二回が二七・四%、月三回が七・三%というような状態でございまして、やはり現状では週一回ないしは月二回程度という学校の占める割合が多いという状態でございます。
  18. 小島静馬

    小島委員 それから内容的に見ていきますと、どうも大都市においては非常に米飯給食が低い、比較的、田舎に行きますとそうではなくて非常に高い、こういうふうなものが出ていると思うのですが、それは一体何が原因でしょうか。
  19. 柳川覺治

    柳川政府委員 学校給食への米飯導入につきましては、米の生産が高まったという問題を背景といたしまして、相当長期にわたりまして米作地帯中心にこの辺の要望が高まってまいりました。その面から、米飯給食への導入につきましては、文部省としては五年間ほど実験校実験を経まして、それぞれの学校日本人食事として素直に米の導入が現場においてなされるようにという期間を置きまして一部切りかえに踏み切ったわけでございます。そういうような関係から、米作地帯農村地帯におきまして、自分の家でつくっておるお米というものを素直に学校給食米飯給食として導入するということの要望は高うございます。またその辺の要望背景といたしまして、関係の市町村あるいは学校がそれにこたえていくということであろうかと思います。都市部におきましては、学校それ自体の数も多うございますし、都市部はまさに消費地帯でございまして、この面におきまして、一部のところではパン業者に、パンと同じように米の委託炊飯をさせるというようなことによりまして全面的な実施方向へ進めておるというところもございますし、自校炊飯方式等推進を図っておりますが、実際問題として人手の問題等もございまして、都市部の方での切りかえにつきましてはかなり苦労しておるところでございます。
  20. 小島静馬

    小島委員 いまお話が出ましたが、自校炊飯方式委託炊飯方式アルファ化米利用方式、こういうふうに三つに分かれておるようでございますが、長い間の沿革もございまして、パン屋さんに炊飯装置の二分の一補助ですか、そして入れさしているという形が非常に尊重されているようですね。炊飯センター等がございましてもそれは使わないというふうな傾向がございます。いろいろな沿革があろうと思いますが、その理由沿革についてどういうふうに理解されているでしょうか。
  21. 柳川覺治

    柳川政府委員 御案内のとおり、学校給食パンミルクおかずということで、良質な小麦粉を確保いたしましてこれをパンとして給食導入し、その間、国内産牛乳飲用奨励も含めまして、従来の日本食では発育盛り子供に対する食事としては若干欠けていると言われておりますたん白質あるいは脂肪の、いわゆる高たん高脂食事形態確保して、わが国子供たちを大きくたくましく育てていくということの役割りを果たしてきたわけでございます。その間、パンの業界の方にも、この学校給食パンミルクおかずという形態推進について大きな御協力と支えをしていただいてきたわけでございます。この面の問題もございますし、なお、学校給食ではお米もあり、パンもあり、めんもある、そういう食事形態を素直に導入していくことが当を得たものであろうという認識に立っております。従来、パンにつきましてはパン業者委託加工して学校導入されておりました。そういう従来の経緯もございまして、米飯の問題に委託加工方式を取り入れるということで手間その他の問題も解消いたしますので、米飯の米の価格を低廉にするという施策と相まって、そのような委託加工につきましてもこれを認めていくという立場に立っておる次第でございます。  現在は、自校炊飯方式が五四・五%、委託炊飯方式が二六・八%、アルファ化米利用方式が一八・七%というような米飯給食実施形態になっておる次第でございます。委託炊飯方式につきましても、それぞれのパン屋さんの共同化問題等もございますので、これも地域によってなかなかその形がとり得ないというか、いまその努力をしておる地域もございますが、広い地域でございますので、地域によっては委託加工方式は無理であろうという、その面は地域あるいは学校実態においていろいろバラエティーに富んだ対応になろうと思います。それぞれ米飯導入を素直に実施する、そういう形態をとっていくことに対しまして、それぞれの自校炊飯に対する施設設備助成、あるいは委託加工の問題につきましては三分の一の助成措置設備投資にしていく、そういう多様な対応をしてまいりたいというように考えておるところでございます。
  22. 小島静馬

    小島委員 学校給食をめぐる問題はまだいろいろあろうと思いますけれども、大まかな問題についていままでお伺いをしたわけでございます。  そこで大臣にお伺いをしたいと思います。昭和五十三年一月二十日の閣議了解事項でございますが、「農産物の総合的な自給力の強化と米需給均衡化対策について」その中で特に米飯学校給食計画的な拡充を図るということが大きく取り上げられておるわけでございます。その後に特にこういった米飯導入といった問題が真剣に論議をされておるわけですが、大臣はこの問題につきましてはどういうふうな御認識をお持ちか、一般的な御意見で結構でございますのでお伺いしたいと思います。
  23. 砂田重民

    砂田国務大臣 いま御指摘閣議了解のもとになりましたのも、学校給食立場から申し上げますならば、先ほど体育局長がお答えをいたしました長期計画をもって週二回の米飯給食を行う、それを目途にするわけでございまして、五十一年、五十二年は、先ほど体育局長がお答えいたしましたように、精米量にいたしますと計画を上回る量を消費できたわけでございます。私は五十三年も大体そういうところでいけると思うのですが、それから後にやはり問題があると思います。未実施校にどういうふうに実施をしていってもらうか。これは相当な努力を必要とすると思います。施設設備費補助をさらにふやしていく。また、農林省に三五%値引きをしてもらっておりますけれども、これから将来の米価の問題も絡んでまいりますから、農林省にも御努力をいただきますこの値引きの問題もさらに努力を重ねてまいりまして、五十六年度を目指しての所期の目的を何とか達成するよう最善の努力を払ってまいりたい、またそうでなければならないと考えておるものでございます。
  24. 小島静馬

    小島委員 いままでの学校給食の歴史を見ながらつくづく感じますことは、これが児童生徒体位向上あるいは健康の増進に非常に大きな役割りを果たしたことは率直に評価されてよかろう、かように思うわけでございます。それは栄養的な観点もございましょう。それからもっと教育上の効果として徳育の面に非常に大きな影響を持っている、これもいま局長からお話があったとおりでございます。  それからもう一つ観点も率直に認めていいのではなかろうか。栄養等の問題もございましょうけれども、いま農政の中で非常に大きな問題になっております米の問題、国の大きな政策として減反までやって生産調整をやっておるわけでございますが、考えてみますと、私ども戦前戦中、戦後というものを生きてきた者にとりまして、これはある意味では非常にぜいたくな悩みでございます。食うに食えなかった三十年前までの日本の姿。ところがこのごろでは主食の米が余って仕方がない。ほかに食べるものもいっぱいあるというふうなことで、米の消費というものも一人当たりにいたしましてどんどん減っている。こういう実情の中で、私どもは、一つには生産調整というような問題をどうやっていくかという面もございましょうけれども、同時に、国を挙げての消費拡大というものを考えていくべきではなかろうか。  全体的な風潮として、とかく米を食うとコレステロールがたまるとか体によくない、美容によくないとかというふうに言いますけれども、実はむしろこれは副食に大きな原因があるわけでありまして、副食が非常にぜいたくであった。戦前の、あるいは戦中日本人というのはそんなに肥満体質の人はおらなかったわけでありまして、あるいは今日の中国人とか韓国人の体型を見ましてもそんなに肥満児、肥満体の方というのはおらないわけでありまして、むしろ副食に大きな原因があるのでございます。外国人西洋人と比べましても日本人というのは非常にはだがきれいである、きめが細かい、そういうふうな面から見ましても、美容に非常に私は米食が効果があるんじゃないかと思うわけでございまして、何でも外来のものだけがいいんだということでない。もちろんビタミンがどうのこうのということになりますと、パンの製造の過程におきましてはそういうものを混入していって補うということができるでしょう。米はなかなかそれができにくいという面もございましょうけれども、やはりもう一度日本人の本来の主食である米というものを見直して、消費拡大を図っていかなければならない。  そういう傾向の中で、いまのままの学校給食を続けていきますと、最近米飯導入が言われ始めるようになったわけでありますが、これは国としても、農政だけでなく、国全体の経済の中で非常に大きな問題になってくると思うわけでございます。ですから、教育上の効果とあわせてこういった国の方の全体の政策に協力をしていく、こういうことを考えましたときに、もう少し積極的に米飯給食というものを取り上げていってしかるべきではなかろうか、かように考えるわけでございますが、そういう点につきまして、大臣もう一歩進めてひとつ御意見を伺わせてください。
  25. 砂田重民

    砂田国務大臣 全く同感でございます。特にいっとき御婦人の方がお米を食べなくなってしまっていた。しかし何か誤った宣伝に惑わされた感なきにしもあらずだという感じがいたします。従来子供たちにも、学校給食の場でパンミルクおかずという組み合わせでもっぱら来たわけでございます。しかし、この子供たちが、将来、家庭での、きょうは何を食べるかということを決定する決定権を持つ立場になるわけでございますから、やはり栄養価というものを考えた多彩な学校給食、こういう面からと、いま御指摘のありました日本食糧事情、やはり農政に協力もしていくということから、パン、米、めんという、そういう多彩な学校給食に切りかえていかなければいけない。そして、私どもといたしましては、米の消費学校給食の場で積極的に取り組んでいく。できることならば、立てました長期計画より以上の消費を何とか図っていくように各様の対策に前向きに取り組んでまいりまして、積極的に学校給食に米食が取り入れられますことを念願としながら前向きにやってまいる決意でございます。
  26. 小島静馬

    小島委員 そこで具体的な一つの例を提示したいと思うのでございますが、実は本年三月の十四日でございますが、わが党文教部会におきまして、静岡県豊岡村、ここの学校給食実態調査をしてまいりました。実はこの学校給食を愛情弁当というふうに呼んでいるわけでありますが、週に火曜日と木曜日の二日間だけでございますけれども、これはお母さんのつくった弁当を子供が持参をいたします。それをすでに二年近く行っているわけでありますが、その調査の結果に基づきましてまたいろいろお考えを聞いてみたいと思うのでございます。  ごく概括だけを申し上げてみたいと思うのでありますが、この愛情弁当、米飯弁当でございますが、その導入をこの豊岡村の村長の藤森さんという方が先頭に立って実は実施をいたしたわけでございます。五十一年の一月にアンケート調査実施いたしまして、米飯給食について八五・三%の賛成を得ました。そのうち米飯弁当持参方式について八二・二%の賛成が得られましたので、議会、給食関係者等との慎重協議の上に、五十一年の四月、週二回、火、木曜日の米飯弁当持参の給食実施いたしたのでございます。  その愛情弁当の内容調査は、これが子供のしつけあるいは親子の連帯感をどのように強めているか等徳育に果たしている役割り、それから朝御飯を炊くことにより家族を含めて米飯機会がふえて、米の消費拡大にどのような効果を及ぼしたか、そういう点についての調査でございます。小・中学生のいる全家庭八百戸を対象にいたしたものでございます。その結果を要約してみますと、現在九八%の父兄が次の効果を高く評価して、愛情弁当に賛成しているのであります。  その一つは、対話と連帯に対する効果。弁当の受け渡しを通じて、元気で勉強してきてねと親から、あるいは、きょうは全部食べてきたよと子供からの対話が生ずる。弁当の量を決めるに当たって親子で相談して決めることなどにより、親子の対話がふえた効果二二%、また台所の手伝いをするようになった一一%、それから子供の健康管理に非常に役立った、これが三八%。こういうことを通じまして親子の連帯感が非常に増してきたことを挙げております。  二番目は、しつけに対する効果でありますが、弁当を自分でかばんに入れる、これが九三%、空き弁当箱の処理は自分でかばんから出す、または洗いおけにつける、これも九六%あります。自分のことは自分でさせる、そのしつけの機会に非常に役立ったようでございます。  それから三番目は、感謝、思いやりに対する効果。お母さんの炊いた御飯は何よりもおいしいと思っている子供が九一%、それから小学校低学年ではお母さんが弁当をつくるのは大変だと思うというふうな気持ち、これが七六%。お母さんに感謝と愛情を深める機会に役立っております。お母さんの、おかずまでつくってやりたいというのが六%でありますね。これは非常に少ないんです。子供の、つくってもらいたい、こういう気持ちは五七%というふうに半分以上を超えております。  それから米の消費拡大に対する効果であります。豊岡村は世帯数二千三百九十戸でございますが、そのうち農家が千九十戸、四五・六%という農村地帯のために、御飯のウエートは八〇%と非常に高いわけでありますが、弁当持参による家庭への波及効果として一・五%、弁当持参による効果として三・七%、計四・二%の米の消費拡大が進んだものと見込まれております。この結果、御飯中心食事形態は九〇%近くに達しておるのであります。ちなみに、東京、大阪、名古屋、三大都市四百人の抽出調査によりますと六五%でございます。  そして、これは農村部で、豊岡村は農村部に属するわけでございますが、同時に、静岡県におきましては静岡市の中心ともいうべき静岡市立青葉小学校についての調査をいたしたのでございます。その結果を参考までに申し上げてみますと、静岡市中心部の青葉小学校の父兄百三十六人、これを対象に愛情弁当についてアンケート調査実施したのであります。その結果、要約をいたしまして、一、朝食が御飯中心家庭は六四%で、豊岡村の八四%を大幅に下回るにもかかわらず、九二%が賛成をいたしておるのであります。二番目に、賛成の理由として、親子の連帯感が強まるからというのが六九%、あるいは子供の健康状態がわかる、そういう理由でさらに積極的に四〇%の賛成があるわけであります。いずれにしても教育上の観点から好ましいという考え方がはね返ってきているのが、この調査の結果でございます。  それから、豊岡村の愛情弁当に対する措置の仕方でございますが、これは衛生的管理と食味保持のために、保温庫による保管、御飯以外は絶対に持たせない、朝炊いた御飯を持たせる、弁当箱及び弁当袋は常に清潔に保つというようなことを徹底させております。それからパン給食を希望する児童生徒にはパン給食する。三番目として、過食過少にならないよう、学年に応じた御飯の分量を指導するとともに、定期的にチェックしている。また、七分づき、麦飯も奨励をいたしております。  その他、愛情弁当持参の日には、きょうは忘れないようにというふうに有線放送で呼びかけるようなこともいたしておりまして、それでも忘れるような事例はありますけれども、親が後ろから届けたり、おもしろいことに級友が一はしずつ分けたという事例もあったようであります。もちろん副食、牛乳は一般生徒と同様に給食をされておるわけでございます。  学校教師からの要望でございますけれども教師は、給食時間が短いことが残食あるいは少量持参に連なるので、時間的に余裕を持たせたカリキュラムの編成を望んでいる、こういうのが出ております。村の当局は、愛情弁当に要する米穀にも、学校給食用米穀値引き措置に準じた措置が図られることを要望している。  ちなみに、豊岡村愛情弁当の実施方法として、設置費が、五十一年四月、申し上げたとおりですが、四百十万円の予算、これは保温庫が七つ、及び氏名刻印の弁当箱等約千七百人分。それから、家庭で詰められた弁当は各級ごとの受け箱、十五個から二十個に入れられて、保温庫で、これは常温を百度にして保管、給食のときには五十度ないし六十度に下がるよう前もって引き出しておいて給食をされる。副食及び牛乳は従来どおり給食センターから給食をされる。これが調査の結果の大要でございます。  私ども現場を見まして、非常に子供たちが明るく喜々としてやっている。それからお母さん方の御意見を聞いてみました。いま申し上げましたアンケートの中にも入っておりますけれども、非常にお母さん方が喜んで協力をしているという姿を見てきたわけでございます。教育上の効果といい、あるいは国の施策方向に対する協力といい、いろいろな面で非常に感銘を受けるところがございまして、ぜひこれを全国的な規模にまで広げることはできないだろうか、そこまで実は思い入れをいたして帰ってきたようなわけでございます。  概要、御報告を申し上げたわけでございますが、何とかそういうふうな方向というものが御検討願えないだろうかと思うのでございます。大臣、ひとついかがでございましょうか。
  27. 砂田重民

    砂田国務大臣 私も大変感銘深くいまのお話伺いました。ただ、お母様方の圧倒的多数の同意を得られたその豊岡村の場合は、教育上の意味からも大変恵まれた学校環境にあったように伺ったわけでございますが、いま御指摘のございました農林省の三五%値引きの問題をどう絡めていくかということも非常にむずかしい問題があろうかと思います。また、地域によっては、先ほど私、これからが問題がございますと申し上げたように、大都市部においてはそのようなお母様方の同意が得られるかどうか、非常にむずかしい点があろうと思います。中途半端なことで弁当持参ということを実施いたしますと、教育上むしろ大きなデメリットも伴うことでございます。ただ、いまの豊岡村の例は大変好ましい例だと思いますので、検討をさせていただきたいと思います。
  28. 小島静馬

    小島委員 いま言いました三五%値引きの問題とか、いろいろむずかしい問題がたくさんあると思うのです。ただ、やはり積極的な指導、助成ということによって非常に普及してくるかどうかということはあるわけでございまして、非常に前向きな御答弁を承りまして大変ありがたく思います。ぜひ御検討いただきまして、できるところから導入していく。またデメリットになる部分はどうしたら消していくことができるだろうか、こういうことにもつながってくると思いますから、心から御要望申し上げますので、この機会にぜひ御検討いただきまして、今後の施策に御期待申し上げていく次第でございます。  なお聞きたい点がございますが、時間が余ったらということにいたしまして、大臣が大体十一時半くらいになりますとお出になるということでございますので、学校給食についてはこの程度にしておきます。おられる間にもう一つ問題点につきまして、大臣にお伺いをいたしたいと思うのでございます。  去年の三月だったと思うのでございますが、文教委員会におきまして、当時の文教行政問題点について幾つか質問いたしました。その中の一つで私申し上げたことでございますが、今日の日本英語教育の実情でございます。中学に入りますと英語の授業が受けられる。高等学校に行きますと、必修科目でございましたでしょうか、高等学校においても相当の時間数を割いて英語教育をやります。大学に行きましても、もちろん選択になりますけれども、外国語教育というのはやるわけであります。中学、高校、大学と、相当の時間をかけて英語の勉強をして、その結果、高卒あるいは大卒でどの程度の英語の実用化が図られているかということを考えてみますと、実は非常に心もとない実情ではなかろうかと思います。私などは英字新聞すら読めないわけでございますが、不勉強であった私のような者は例外といたしましても、学校でたとえば英語が優だとかAだとか、そういう点を取ったといたしましても、実際には英字新聞を字引を片手に何とか読めるというのがほぼ一般的なレベルではなかろうか。直ちに英会話ができる、先方の言ったことが理解でき、そしてまた自分の言いたいことを表現することができるというレベルには、実はなかなか到達しておらないのが実情ではなかろうかと思うのであります。  やはり、教育目標というもの、外国語をなぜ教えるのだろうか、私はいろいろ考えます。ほかの科目に比べて、数学であるとかあるいは国語であるとか、そういうものとは違った外国語教育の何か目標があるように思うのでございます。そのことの中で、教育は人格を形成しあるいはその人の人間の能力を引っ張り出す、そういう論点があることは言うまでもございませんけれども、もう一つは、実学主義といいましょうか、実際にどれだけ役に立つかということ、これは教育の中の非常に大きな理念の一つだろう。私は、これは教育全体について言えることではないかと思うのであります。そういう角度から今日の英語教育の実情を考えましたときに、時間を相当かけて文法やらいろいろなことをやるわけでありますし、また実際の書物にも親しむことができるような方向はありますけれども、いわゆる実学主義的な立場からへ実用的な立場から考えてみますと、実は本当にお粗末なのが今日の英語教育実態ではなかろうか。ですから、中にはいまのような英語教育だったら全部やめてしまった方がいいのだというふうなことまであえて言う識者もあるわけでございます。そういう観点の中から、どうしたら英語教育というものの実用化を図っていくことができるだろうか、このことを私は考えてみる必要があると思うのです。  今日の文教政策の中でもすでにこのことは行われているわけでございまして、アメリカから十何人でありますか、ことしの予算でも十五人くらいの者を連れてくる。ところが、聞いてみますと、案外引き受け手がないんだというようなお話までも聞いておるわけでありますが、これもやはり問題があるから引き受け手がないわけでありまして、そういう面で、英語教育の実用化というものを積極的に推進する施策が望ましいと私は思うのです。特にこれからの日本の青少年の世界に向かって生きていく生き方というものを考えましたときに、高等学校を出れば日常英会話程度はできる、このレベルくらいまでにはぜひ持っていきたいと思うのです。もちろん、外国へ行きましてもポルトガル語やスペイン語やあるいはフランス語やということがあるわけでありますが、何といいましても英語ができておれば大体世界じゅうどこへ行っても何とか日常生活には不自由がないということを、しばしば海外に行ってみて私は痛感するわけであります。やはり世界語と言われるのは英語が非常に普及度が高い。世界の七割は英語を使っているというようなことを言われているわけであります。正確なことは知りませんけれども。そういう意味で、英語教育をどうしたら実用化させることができるだろうか、このことが私は非常に重要だと思います。  それから、今日、雇用不安あるいは産業構造の不安の中に置かれておるわけでありますが、そのことを考えましたときに、日本人の海外進出というものをもう一度見直してみる必要があるのではなかろうか。それは、かつての戦前戦中のような侵略的な意図につながるところの海外進出ではなくて、もっと平和的な、たとえば外国のおくれている国に出かけていって、そして日本の青年が持っている技術を使って職場リーダーになって、率先見本を示してその国の産業の発展のために尽くしていくとか、日本文化を紹介するとか、いろいろな面があるだろうと思うのでございます。そして年食ったらまた帰ってくる。嫁さんが欲しくなったら日本へ帰ってきて嫁さんを探して、女房を連れて出かけていく。そういうふうに世界の中に日本人が平和的に進出していく、そして世界じゅうの人から愛される。日本人はこういう人間で、非常に文化も高いし、単なるエコノミックアニマルではなかったな、そういうふうな理解を得ることが必要ではないかと思うのでございます。  私は、昨年の八月でございましたか、本院から派遣されまして、EC内外の六カ国の国々を回ってきたのであります。特に、どこへ行っても感じたことでございますが、英国へ行って感じたことでございます。私は聞いてみたのでございますが、あなたは日本を知っておりますか、こういうふうに聞いてみますと、四十五歳以上ぐらいの英国人は答えるのであります。知っていると言いますから、じゃ一体日本というのはどういう国であるかと聞きますと、日本はフジヤマの国である、こういうふうに答えるのであります。三十歳から下ぐらいの若い青少年を特に中心として聞いてみますと、日本を知っているかと言いますと、確かに彼らは答えます。日本を知っているよと、こう言うんです。どういう国だと聞いてみますと、日本はソニーの国であり、ホンダの国であり、ナショナルの国である、こういう答えがはね返ってくるのでございまして、日本がフジヤマの国であるということを知らないのでございます。イギリスの教育制度を調べてみますと、英国には歴史の先生というのがおりません。地理の先生が地理を教えながら歴史を教えているわけであります。そしてまず第一に教えているのが自分の国、英連邦、英国のことであります。二番目に教えているのがECを中心といたしましたヨーロッパのことであります。三番目に教えているのがアメリカのことであり、四番目に教えているのが近いアフリカのことでございまして、ようやく五番目になって日本のこと、いやアジアのことを教えるわけでありますが、そのアジアのこととして教えているのは日本でも何でもなくて、実は英連邦の一成員であるインドをもってこれがアジアであるといって教えておるわけであります。ですからいまの青年に聞いても日本がこういうふうな国であるということを知らないわけでございます。非常にそのことを痛感をいたしました。  今日、アメリカの日本に対する感情、あるいはEC諸国の日本に対する感情等を考えましたときに、慄然たるものが実はあるわけでございまして、今日の日本が伸びていく方向というものを考えましたときに、このような壁をそのままほうっておいたのでは日本の生きていく道は恐らくないだろうというふうに考えるわけでございまして、そういう意味では、日本全体の国際社会に生きる生き方の姿勢という問題を根底から変えていかなければならぬということを痛感をして私は帰ってまいりました。その中におけるところの文教行政のあり方、特にその中で具体的に直接的にこういう方途に役に立つ方法として、この外国語教育の実情を打破することを一つ目標としながら、同時に日本に対する国際的な理解を、真の評価を得さしめる、そういう方向というものを模索する何らかの政策があるはずだということを痛感をいたしておる次第でございます。  それで、その後実際的なそういう動きがあるということを理解をして帰ってきたわけでありますが、英国の大使館でも言っておりましたけれども、非常に熱心に、百人ないし二百人ぐらいの英国の大学の新卒者を送り込むので、日本がこれを受けとめてくれないかという話がすでに大使館には来ておる、あるいは外務省でどなたかが熱心にこれをやっているというふうなお話を聞いてきたわけでございます。さらに最近の動きをずっと調べてみますと、私もこれは参加いたしておりますが、五十二年七月に提案され、また五十三年の一月でございますか、日英文化混合委員会でございますか、そこにおいて正式に提案をされ、論議をされておるわけであります。また、日英議員連盟というのが超党派でできておりますが、これが本年の二月八日に岸会長以下会合を持ちまして、その席でも真剣に議論がされたところであります。当日は文部省の担当の方もお見えくださって、いろいろな御意見があってそう簡単にいく問題ではないということも承っております。  これは英語教師長期派遣計画についてということで英国のウォルファース氏が、これは英国の保守党のホワイトロー副党首秘書役ということになっております。実際は銀行家であるというようなことも聞いておりますが、こういうふうな具体の計画がございます。これを実現したらどんなにいいだろうか。そして一年ないし二年の滞日期間、そしてそれをどんどん交代をさしていく。彼らが帰ったならば、そして再び英国の教壇に立ったときに、もう、日本はホンダの国でありソニーの国であるというだけではない認識を持って帰るはずであります。フジヤマの国であり、すばらしい人情、文化に恵まれた国であると、目を輝かせながら語るであろうというふうに期待される施策であるわけであります。幾つかの障害はあろうと思うわけでありますが、これをぜひ進めていったらどうだろうか。私は具体の動きに、さらにこの委員会におきまして積極的に応援をしていきたいような気持ちを持つわけでございます。  少し長く申し上げてしまいましたけれども、基本的な考え方において大臣はどのような対応の仕方をしてくださるだろうか、御期待を申し上げながら御質問申し上げるわけでございます。
  29. 砂田重民

    砂田国務大臣 学校におきます外国語教育英語教育は、中学校から大学まで相当長い間行われているわけでございますけれども日本語と言語系統が違うというようなことから、なかなか十分な語学力を身につけていないことの方が多い、御指摘のとおり、事実でございます。  いまお話のございました英国からの話のこと、いまの現状をお答えしておきたいと思いますが、当初、英国の大学を卒業した青年百ないし百五十人を日本へ派遣して、日本学校や企業等で英語教育に当たらしめる、日本における英語教育の充実と、また英国人の正しい日本認識を深める、こういう考え方から、経費の負担、受け入れ先のあっせん等について日本側の協力が求められたわけでございます。その後いろいろ協議をいたしました結果、当面数十名程度の受け入れにしぼりまして、可能な範囲で五十三年度から受け入れを開始する線で努力することと相なりました。文部省といたしましては、日英の友好親善、相互理解、このようなことに資するとの観点から積極的に取り組むことにいたしまして、現在、中学校、高等学校、大学あるいは語学教育を主な目的といたします専修学校に対しまして、受け入れ希望数を照会、調査中でございます。この調査結果がまとまり次第、英国側に適任者の推薦を求めまして、本年の十月から受け入れが実現できるように関係者と協議を進めてまいりたい、かように考えまして、ただいま調査中でございます。
  30. 小島静馬

    小島委員 この問題につきましていま非常に前向きな、もう本年の十月から数十名を実施に移すのだというふうな具体的な計画をお示しいただきまして非常に意を強くいたした次第でございますが、これはやっていく上でいろいろ問題が出てくると思うのですよ。やり方でもってまた実際中身が非常に違ってくると思うのです。  そこで、実はこんなことでいろいろ資料を集めている間に、ある意味では驚くべき事実を私は一つ発見をいたしました。それは、私の住んでおります静岡県の教育委員会から実はけさ私のところへ電話で資料が入りました。文部省の方にも早速申し上げておきましたので、当時の実情がどうなっているかということを御調査を願いたいわけでございますが、それは、戦前におきましてすでにこういう制度を日本で取り上げておったのではないか、そう思われる資料が入手できたのでございます。  それは外国人英語教師でございますが、実は大正八年にすでにこの制度が始まっておりまして、県内で言いますと静岡商業、ここでは給与月額二十円、それから榛原中学、これはもちろん旧制でございますが、給与が月額五円でもって、教授嘱託の身分で外人英語教師がおったのでございます。これを出発点といたしましてその後どんどんふえておりまして、昭和六年までずっと続いております。いま申し上げました旧制静岡商業、榛原中学に加えまして、浜松一中、現在の浜松北高等学校であります。沼津中学、これは現在の沼津東高校。それから韮山中学、これは現在の韮山高等学校であります。掛川中学、現在の掛西。富士中、現在の富士高。下田にございます豆陽中学、現在の下田北高校であります。それから榛原中学、これは現在の榛原高校でございます。こういった県下の名門旧制中学が一斉に外人英語教師を、月の給与が二十五円ないし三十五円で雇い入れている事実がございます。そして昭和七年にそれらの中学から外人教師の在職が一斉になくなっております。その理由については昔のことでございますので定かではございませんが、当時の旧制中学の管理というのは国が行っていたはずでございますので、静岡県でこういうふうに県下の有力校に全部外人教師が張りつけられておったという事実から見ますと、恐らく全国的にその記録が残っているのではないだろうか、あるいは国が指導助成の策としてやっておったのではないか、そういうことが類推をされるわけであります。戦争が近づきまして、昭和七年から昭和十五年までの間にはこれらの学校の先生は消えまして、ひとり清水市立商業学校にのみ外人教師が在職していた記録が残っております。昭和十六年は開戦の年でございまして、それ以後は消えたわけでございます。まだ、けさ資料を手にしたばかりでございますので、文部省の方ではお調べになっておらないと思いますが、何か思い当たる節がございませんでしょうか。
  31. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 ただいま御指摘のように、静岡県で戦前、旧制中学校に教授嘱託という形で外人の英語教師を頼んでおったということでございますが、私どもがとりあえず東京都の場合等も聞いてみましたけれども、同じように、当時の府立一中から九中ぐらいまでの中学校ではいずれも大正のころから外人の教師を雇っておったという事実があったようでございますから、恐らく全国的にそういうことを名門中学校等ではやっておったと思うわけでございます。ただ、このやり方は、ただいまも御指摘がありましたように非常勤の嘱託というような形で静岡はやっておったわけですが、東京も同じような形ではなかろうかと思いまして、そのもとになりますのは、学校とそれぞれの個人の教師との契約のようなことでやっておったのではないかと思うわけでございまして、そういう雇用の仕方とかあるいは雇用された者の身分であるとか、その人に免許状が必要かどうかというような点は、いずれも戦前の制度と今日では若干異なっておりますので、そういう点を十分検討しながら今後対処してまいりたい、かように思うわけでございます。
  32. 小島静馬

    小島委員 東京でもあり、静岡でもあるということですから、おっしゃるとおり恐らく全国的規模で行われておったと思うのですが、考えてみますと、大正の年代から昭和の初期にかけましてこういう施策が行われておったということは、ある意味では本当に私ども感慨無量でございまして、何をしているのだといって殴られたような思いもするわけでございまして、ぜひ前向きに取り組んでいこうじゃありませんか。  そこで、本年十月から数十名に限ってやってみたいということでありますが、具体的な内容、たとえば往復の旅費はどうするのか、給与はどのぐらいにするのか、任用の資格の問題点等についてはどういうふうにするのか、いろいろあろうと思うのですが、そういう点について、いまわかる程度で結構でございますからお知らせ願いたいと思います。
  33. 井内慶次郎

    ○井内政府委員 先ほど大臣からお答えしましたように、現在希望調査中学校、高等学校、それから公・私立の大学等について行っておるのでございますが、その際に、英国側とも相談して、一応の資格として調査項目にも入れて調査しておる事柄としましては、英語教師として受け入れる者は教員にふさわしい能力と熱意を持った者でなければいかぬ、それから年齢につきましては三十歳未満で、英国の大学の学部または修士課程を修了しておること、これは後の住宅の問題でありますとかいろいろなこともございますし、いままでの協議の経過からしまして一応未婚者で希望をとる。それから外国語としての英語の教育について、それぞれの担当する学校段階に応じた十分な能力は持っておること、それから日本語について基礎的な素養を持っておること、というようなことを資格要件と一応いたしておるのでございます。  これに対します給与を一体どういうふうにしていくかということでございますが、五十三年度、初年度十月から受け入れようということで調査中でございますけれども、先ほど小島先生からも御指摘がございましたアメリカの方から約十名ないし十五名の英語教師を、これは文部省の方で若干の経費も補助しながらやっておる制度でございますけれども、その相関もございますので、往復の旅費、給与につきましてはおおむね年額三百万をめどに、アメリカから呼んでおります者との均衡もございますので、そういう条件でただいま希望調査をいたしておる、かように御理解願いたいと存じます。
  34. 小島静馬

    小島委員 資格の問題は、日本法律との関係はどういうふうに処理されますか。
  35. 井内慶次郎

    ○井内政府委員 特にこういった外国人教師を受け入れます場合の問題点として幾つかの問題が予想されるわけです。その際、いま先生御指摘のように、今回も中学校、高等学校、大学、それから外国語教育をもっぱら行う専修学校、一応広い範囲で希望調査はとっておるわけですが、特に中学校、高等学校につきましては、わが国の教員免許状の問題をどうするかといった問題がどうしても一つあるであろう。それから多くの場合、日本語、日本事情に関する基礎的な知識の豊富な者は実際問題としては得にくいだろう。さらに生活習慣等の相違もございますので、そういった点を考えますと、生徒指導上、教育上の配慮でありますとか宿舎のことであるとか、受け入れ側の教育上あるいは実務上の配慮を相当しなければならぬのではないか。そこのところを的確にやりませんとこの事業が安定して成長するということが困難ではないであろうか。それから、先ほど申しました今回の五十三年度の措置につきましては、受け入れる者が給与とか旅費とかも負担するということでございますので、経済面での受け入れ側の負担が相当に大きい、こういった点が特に問題じゃないか。ただ、私どもとしましては、これらの問題は打開不可能な問題ではないだろう、個別に実情に応じた措置を講ずることも可能であると考えておりますし、今後受け入れを進めていく過程で経験も積み、時間もかげながらこれらの問題点の解決を図ってまいりたい、かように考えておるところでございます。
  36. 小島静馬

    小島委員 私の聞き違いだったらごめんなさい。本年十月からとりあえず数十名を希望調査をやって呼んでみようというのは、予算的な面ではどういうふうになっておりましょうか。
  37. 井内慶次郎

    ○井内政府委員 この問題につきましての具体的な予算措置は、五十三年度は講ぜられていないわけでございます。したがいまして、それぞれ中・高・大学あるいは専修学校等、国・公・私立を含めまして、五十三年度はとにかくそれぞれ呼ぶ者の負担においてやれるところからやってみよう、こなせるだけこなしてみようという体制でございます。
  38. 小島静馬

    小島委員 さっきはぬか喜びだったようですね。受け入れ側が全部負担をするというわけですか。そうすると、たとえば県立何々高校ということになりますと、その県の教育委員会の予算でやるのでしょうか。公立のものについてはどこからお金は出るのでしょうか、旅費や給与は。
  39. 井内慶次郎

    ○井内政府委員 本年度の問題といたしましては、ただいま先生申されましたように、それぞれの受け入れる学校の設置者が負担をするということでございます。
  40. 小島静馬

    小島委員 設置者といいますと、県立なら県、市立なら市、私立ならその学校法人、こういうことになるわけですね。
  41. 井内慶次郎

    ○井内政府委員 はい。
  42. 小島静馬

    小島委員 いま希望はどの程度来ていますか。それだと余り多くはならぬと思うのですけれども
  43. 井内慶次郎

    ○井内政府委員 大体四月末を目途にいま調査をお願いしておるわけでございますが、ただいまのところ受け入れの希望は余り多くは来ていないというのが正直な実情でございます。
  44. 小島静馬

    小島委員 やはり予算的な面を伴わない施策というのは効果を発揮しないと思うのです。まあ、呼んでやるからひとつあなたのところで一切費用は持ちなさいと言いますと、恐らくどこの県知事さんでも、県立高校に英語の先生を置こうとか、あるいは、市町村立が多いわけですが、中学校に英語の先生を引っ張ってこようというのは相当の無理が伴いますので、国がめんどうを見てくれるんならやるんだけれどもということになりかねないと思うわけであります。これをやってみようという前向きの姿勢は大いに評価されるわけでありますが、積極的なというところまではまだまだいっていないと思うわけでありまして、より積極的な予算措置を伴った施策としてお考えを願いたいというふうに思うわけですが、来年はひとつ予算化してみようという、その辺のところまでは来ているのでしょうか。
  45. 井内慶次郎

    ○井内政府委員 最初に先生からも御指摘がございましたように、昨年の七月末に非公式な打診が在英のわが国の加藤大使のところにあって、本年一月に英国で開催された日英文化混合委員会で取り上げられて、それから具体的な話が出てきておるものですから、五十三年度の問題といたしましては、当面十月からの受け入れを実現すべく、いま受け入れ希望状況調査中であるということでございます。その調査結果の集計を待ちまして、英国での募集、選考を実施する。それでただいまお尋ねの、昭和五十四年度以降の問題についてはそれでは現在どう考えておるかという問題につきましては、いま実施しております調査結果でありますとか、あるいはイギリスにおける具体の応募状況等、本年度の状況も勘案しながら、英国側との協議の上具体的な措置を検討してまいりたい、かように考えておるところでございます。
  46. 小島静馬

    小島委員 施策としてもう一歩予算化を進めて、全国的なレベルで進めていくということがやはり必要ではないかと思うのでして、ことしの十月に無理やり連れてくるということは、まあ無理やりでもないでしょうけれども、やはり相当慎重を要するのではないかというような気もするのです。  英国の大学の卒業の時期というのはいつでしょうか。
  47. 井内慶次郎

    ○井内政府委員 大体六月でございます。
  48. 小島静馬

    小島委員 六月でございますと、本年度の卒業生というのはもう大半は就職が決まっているんじゃないかと思うのですよね。残った人が、就職口がないから、あぶれるよりもひとつ日本へ行ってこようかというふうな気楽な気持ちで来られても実は困るわけでありまして、それだけの実力を持った、資質を持った人に来てもらいたいと思うのですね。そういう面で御心配はありませんでしょうか。
  49. 井内慶次郎

    ○井内政府委員 五十三年度の問題としましては、ただいま申しましたように、時期的な問題も十月ということでございますし、この制度、この仕事を具体化するに当たりまして、いま御指摘のように具体的な選考をどこまで慎重に有効にやるかという問題、これは在英の大使館中心の仕事になろうかと存じますけれども、その辺を慎重にやってまいらなければならない。五十三年度につきましては、やはりその質の問題を本当に考えてまいらなければならぬだろう、かように考えております。
  50. 小島静馬

    小島委員 その点は特に御考慮を煩わしたいと思うのでございます。  それで、明年の実施でございますけれども、これは相当綿密な、要項から何から整備した上で当然おやりになられると思うのでございますが、どこかの県の教育委員会に付属させて希望のところをぐるぐる回すというふうなことをやるのか、どこかの中学、高校へ張りつけてやるのか、その辺のことはお考えになっておるのでしょうか。私は、私なりの考え方を申し上げてみますと、都会よりむしろ田舎へ張りつけるべきだろう。百五十人来てみても、一都道府県当たり三人程度だろうと思うのですね。そうしますと、わが県で言えば東、中、西、広い地域の中に一人ということになるわけでありますから、これをどういうふうに有効に活用するかという点は十分考えられなければならないと思うのです。その辺の工夫なんというのはすでに何かお考えになっているでしょうか。
  51. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 先ほどお話がございましたように、現在アメリカから十五人ほど外人教師をお願いしておるわけですが、一つ問題点は、免許状を持たなければ単独で教壇に立てないという現在の免許法の制度がございますものですから、現在は教育委員会の英語担当の指導主事の助手という形で、その指導主事等の教師に対する英語の実際的な指導と、それから学校へ参りました場合は、学校の英語の教師のいわばアシスタントのような形で指導をする。ただ、学校教育活動でもクラブ活動などになりますと、これは免許法の関係が直接作用しませんものですから、そこで日常会話の教育をするというようなことをやって、いまの免許制度の規定の範囲内で活動をしていただいているという現状でございます。  そして、先ほど学術局長からお話がございましたように、そういう外人につきましても、免許制度上は、外国の免許状を持っている人とか、外国の学校を出た人も、検定によって日本の免許状を与えることができることになっておりますので、いまのそうした外人教師の質の問題とも関連して、将来の課題としては、やはり免許状を取っていただいてとにかく直接教壇に立っていただく道を考えないと、実効を大いに期待できるようなことにはならぬのではないかというふうに考えるわけでございまして、その辺のところはもう少し検討をさせていただきたい、かように私は思っているわけでございます。
  52. 小島静馬

    小島委員 そこで、免許状の問題と関連しまして、将来は免許状を取ってやれるようにするということは、日本の公務員法あるいは教育公務員法とか、そういう関連の法を全部改正して、これは大学まで含まりますが、大学で言えば教授として、あるいは中・高で言いますと教諭ですか、そういう正式の資格で教壇に立てるようにすることを考えておられるのか。その国籍の問題はどういうふうになるのでしょうか。
  53. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 いま私が申し上げましたのは教師としての免許資格の問題でございまして、もう一つ公立学校教師であれば地方公務員としての身分の問題があるわけでございます。その場合に、中・高等学校であれば、教諭にするか助教諭にするか非常勤講師にするかという問題があるわけでございますが、現在の公務員法の法制上の解釈としては、公立学校の教諭に外国人がなれるかどうかという点は一つ問題点でございますので、そちらの側から言えば、まあ助教諭にすることは差し支えないだろう、同じような意味で非常勤講師にすることも差し支えないのではないかというふうに考えるわけでございますが、いまおっしゃったように教諭にでもするかどうかという点につきましては、法令の解釈の問題となるのか、あるいは新たな立法の問題となるのかということも含めて、今後さらに検討しなければいけない課題であろうと思います。
  54. 小島静馬

    小島委員 大学局長、大学の方ではどんな姿勢でおられますでしょうか。
  55. 佐野文一郎

    ○佐野政府委員 国立の大学の場合には、現在外国人教師、講師という制度がございます。これは国家公務員法の規定に基づきまして、個人的基礎においてなされる勤務の契約によって勤務をしていただいているものでございます。外国語を担当しております外国人教師、講師は、五十二年度におきまして教師が百九十五名、講師が三百十八名というような数にすでに上っておりますが、これを拡大をしていく。またその中で、先ほど御指摘のございました英国からの先生の受け入れということも対応できるわけでございます。それとは別途に、日本人の場合と同じように大学の教授等の職につけるようにするかどうかという問題がございます。これはいろいろと問題の御提起をいただいているところでもございますし、またいろいろな形で御検討も進んでおりますので、私たちもその点については十分慎重に検討したいと思っております。
  56. 小島静馬

    小島委員 よくわかりました。ひとつよろしくお願いいたします。  それから、外務省お見えになっておりますね。この教員派遣の問題について、英国側の姿勢はどんなものでしょうか。
  57. 岡照

    ○岡説明員 この提案は、イギリスの民間人から当初出てまいったものでございますが、英国政府といたしましても、これは対日認識を深めさせるという面から好ましいという認識がございまして、当然のことながら、先ほどからこちらで指摘ございます日本人英語教育の強化という意義もございますけれども、日英相互理解の増進の見地からもこの計画がぜひ実現するようにということで、協力の姿勢を見せておるということでございます。
  58. 小島静馬

    小島委員 この問題、まさに機は熟したような気がするわけでございまして、あとはどういうふうに具体的に推進をしていくかということが問題だろうと思うのでございます。さっき、つい長々やってしまいましたけれども、これからの日本の進路を切り開いていく、そういう大きな時代的な使命というものもあるわけでございますので、どうぞ文部省当局、外務省、それぞれ御努力いただきまして、この実現を目指していっていただきたいというふうにお願い申し上げたいと思うのであります。  きょうは、愛情弁当を中心といたしました学校給食の中における米飯導入をより積極化してまいりたい、それから国際化社会に生きる日本教育の中で英語教育の実用化を特に進めていきたい、この二点にしぼって私は質問をいたしたわけでございます。私の思っている以上に大変積極的な姿勢でやっておられるということに対しまして本当に心から敬意を表しながら、どうぞひとつますますの御精進をお願い申し上げたいと思います。まだ若干時間が余っておりますが、大変気持ちのいい回答を得られましたので、これで私の質問を終わります。
  59. 菅波茂

    菅波委員長 小川仁一君。
  60. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 早速質問をさせていただきます。  大臣や事務局の方で私たちの質問に御答弁がございまして、検討をするとか、考えておくとか、こういうお話がございます。巷間言われるところのいわゆる大臣答弁というのではなかろうかと思いますが、私、具体的に議事録を検討してみましたら、検討するとか、よく検討する、前向きに検討する、検討にもいろいろございます。それから、考えてみるというのも、考えてみるとか、いろいろ微妙なニュアンスの違いがあります。それを見ながら、先日、西岡さんの、前政務次官としての御経験からの質問かなという感じをしたのは、いつおやりになるか、いつから始めるか、こういうお話がある。ははあと思いながら、実は私も前の質問にかかわってお答えをいただきたいわけですが、いわゆる検討とか考えるとか、また私の方でお願いをしておる調査とかというものに対してはやはりどの程度、どんなふうに扱っておられるものか、まずここからお聞きしたいと思います。
  61. 砂田重民

    砂田国務大臣 それはいろいろであろうと思うのです。調査をしたり、検討したり、実行可能なものはすでに実行をしているものもございますし、いまなお検討、調査中のものもございます。いろいろであろうと思います。
  62. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 お聞き逃しをしておられるということではないわけでございますね。
  63. 砂田重民

    砂田国務大臣 国会答弁でございますから、また大臣は国会議員でもございますから、いいかげんに扱っているようなことだけは絶対にございません。
  64. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 そういう前提を聞いておかないと素人はなかなか御質問申し上げるのに困りますので……。  私が具体的に前の国会でいろいろお願いをしたりお答えをいただいたうちの三つを、きょうはひとつその後どのように御検討が進んでいるのか、あるいはお考えおきを願ったのか、あるいは御調査を願ったのかという点で質問させていただきます。  一つは、再三問題にいたします中学校中心にした無免許教員の免許外担任の問題でございます。もう一つは、これは意見として申し上げたと思いますが、いわゆる文部省の職員が余りにも小・中校の具体的な現場を知らな過ぎるという課題がございましたので、この職員を何か他の省庁みたいに学校からスタートさせる方法がないかということ、三つ目は、調査をお願いしておりました戦前の教科書の、「国歌」から「君が代」というふうに修身の教科書の題が変わった点、これらについてお伺いをしてみたいと思います。  最初に、免許外担任の問題について御質問申し上げますが、これは大臣の引き継ぎ事項みたいな余り重要な問題ではないかもしれませんが、いままでの大臣の御答弁の中で、今日ほど教員の資質の向上、研修について盛り上がった時代はなかった、こういうお話でございます。しかし、お話を聞いてみますと、そこの中では、比較的恵まれた場所にある者の研修については大変お力を入れているようでございますが、恵まれない立場、苦労している立場の研修についてのお話はございませんでした。大臣、あるいは御存じないかもしれませんが、きょう、調査したのを持ってまいりませんけれども、たとえばこの四月に小さな学校の教員に行きました英語の教師が美術を持たされて悪戦苦闘している、あるいは小さな学校に行った体育の教師が国語を持たされて悪戦苦闘しているとか、二教科ならいいけれども三教科も、一番多いのは、全国的な去年の調査ですと七教科ぐらい持っているという状況もあるわけです。こういう非常にきつい立場にいる人たちのことについて昨年度から御検討願っておるわけでありますが、一体、昨年度においてどのような調査をなされ、本年度において具体的な対策を立てられたかという点であります。一つは、恵まれない条件にある教師の研修に対してどういう基本的な考え方をお持ちになっているかという大臣の答弁と、あとの部分は局長からで結構でございます。
  65. 砂田重民

    砂田国務大臣 免許外教科の担任教員の研修については、いま小川委員が表現なさいました恵まれないと申しますか、しかし、恵まれないとか恵まれているとかいうことではなくて、やはり免許外教科の担任教師の研修は、その指導力の向上を図るためにはその奨励をもっと図っていかなければならない、かように私も基本的に考えるわけでございます。昨年、小川委員の御質問に対して私の前任者が検討をお答えいたしましたが、その後、五十二年度におきまして、都道府県の教育研究団体が免許外教科担任教員に対して行います研修に対しまして国が助成を行いました。具体的な場所はまた初中局長がお答えいたしますけれども、初めての試みとしてやったわけでございます。五十三年度におきましても当然都道府県教育委員会等の意向を徴しつつこの充実をさらにしてまいらなければならない、かように考えているものでございます。
  66. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 御指摘の点につきましては、昨年の三月であったかと思いますが、先生から御指摘ございまして、その後、五十二年度におきましては岩手県と茨城県について僻地の免許外教科担当教員の研修を実施するということにいたしまして、それぞれの県に対しまして国からの助成と、それから研究団体及び県の負担の持ち寄りで計画を行ったところでございます。そこで五十三年度につきましても、いま各県からそういった免許外担当教員の研修事業の実施計画希望の有無をとっておるところでございまして、その結果をまとめまして、五十二年度と同様、各県の研究団体に対する助成という形でこれを奨励してまいりたいと思うわけでございます。  一方、この免許外担当教科教員がどのくらいあるかということの実態把握でございますが、これは一般的には免許教科外担任許可件数という形で、要するに免許外教科の教育を担任することを許可した数で調べておるわけでございます。この数は、昭和五十一年度において四万七千八百二十件となっておりますが、この数は昭和四十三年度の五万八千六百九十四件に比べますと一万強の減少になっておるわけでございます。この問題はもちろん基本的に小規模学校の教員配置の問題に関連するわけでございまして、御承知のように、五十三年度までの五カ年計画による教員定数改善計画が本年度をもって完了したわけでありますが、現在の姿としては、三学級の中学校におきます教員の配置数は校長を含めて八名となり、四学級で八・三名、五学級で九・三名、こういう数になりますので、もちろんそれぞれの教科の担当時間数等が異なりますから必ずしも画一的に各教科一名ずつというわけにはまいりませんけれども、われわれの今後の努力としては、できるだけ教員の担当教科別の適正配置ということを指導してまいることによって、もう一面からこの僻地教員の免許外担当教科の問題を改善してまいりたい、かように考えるわけでございます。
  67. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 そうすると、本年度、定数の問題で、一つは五カ年計画満杯になりましたので、ある程度の定数がふえたことはわかりますが、しかし、実際問題としては、人事異動というのは教科によって人事異動できる状態にまだなっていないわけですから、依然として残っているわけでございます。  それで将来、そうしますと考え方の中に、三学級の中学校でも、校長を含めてで結構ですが、九教科の教員を置けるという状況まで、違った言い方をすると九名までは置くというお考えがあるのですか。
  68. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 これは御承知のように、法律を改正して計画を立てませんとはっきりできないわけでございますが、私はやはり、この次の改善計画一つのポイントはこういう小規模学校の教員配置を改善していくということではなかろうかというふうに認識しているわけでございます。
  69. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 それでは次の定数問題のところに移りますが、本年の研修計画、これはあなたおっしゃったように研究団体とおっしゃっておりますが、この研修は職務命令による研修にはなじまないものだ、こうお考えでしょうか。
  70. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 私はこの研修は、教育委員会側としては、教科外担任の先生をお願いするわけですから、ぜひそういう担任外の教科について能力をつけていただきたいという希望を持ち、一方講習を受ける先生方は、そういう機会にぜひ自分のそういう面での能力を伸ばしたいという御希望を持っておられると思いますので、その両者の希望が合致したところで、これを職務命令として研修していただくという形をとることは妥当な措置だというふうに考えるわけでございます。
  71. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 それで、やはり去年研修費を出した岩手で問題になったわけでありますが、これは免許状を持っていない教員です。しかも、そのもとの免許状はというと、研修を受ける人の免許状は体育から英語から数学から理科までみんなあるわけであります。そしてまたその人の入ってきた学歴その他もいろいろ違うわけであります。これを、たとえば英語なら英語の研修をやらせるということで集める、あるいは体育をやらせるというので集める、こう言いましても、もとが違うし、その次、この人が来年転任をして大きな学校に行きますと今度は免許外担任の必要がなくなる人たちなわけですね。したがって、その学校にいる間だけはその教科を持たされる、あるいはその学校におっても教員の構成が違うと違う教科を持たされる、こういう形の人たちなわけであります。しかも、本人がお断りを申し上げればお断りをすることができる臨時免許状の性格でもあります。ですから、職務命令による研修という形は本質的にとるべきでない、こう考えるのですが、あなたのお考えと違いますけれども、もう一度。  そしてまた、職務命令による研修をやらせようとしても、九教科全部やらなければならないでしょう。しかもスタートがいろいろ違う人、中には、英語をやらされても英語は最も不得意で体育なら得意だという数学の先生もあるかもしれない。こういう状態の中で、一体どういう水準を要求し、どういう基礎から始めるかということになると、研修自体も一定の水準をとることが不可能になる。こういう状態教育委員会や何かが集めて一定のところにぶち込んだって効果が上がらないと私は考えるのですが、そういう意味を含めてさっきのお答えをさらに補充していただきたいと思います。
  72. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 初めに、そういう人は基礎になる免許状を持っておって、教科外担当の教科について臨時免許状をもらうというお話でございましたけれども、この臨時免許状を自分で申請してもらうというのと、免許状は要らないので、一定の期限を限ってその間は免許状にある教科以外の教科の教授を担任できる許可をもらうというのは、制度上二つ別になっているわけですね。私は、こういう場合はわざわざお金を払って臨時免許状を出願しなさいということは適当でない、やはり許可でいくべきではないか。現実にまた臨時免許状をもらっているというケースはほとんどないのではないかと思うわけであります。そして一方、そういう教科担任をさせるということは、当該学校の教員構成の必要から、いわば職務命令としてあなたはこうやってくださいということになるわけでありまして、その前提として許可を受けてくれ、こういうことになるわけでございます。  そこで、その具体的研修の内容は、おっしゃるように人によってきわめてさまざまでありますけれども、そのよって来るところは、いま申しましたように学校教育活動の必要とそれにこたえる先生の意欲ということでありますから、私はこれはやはり職務命令として研修していただくということになじむ課題ではないかというふうに思うわけでございます。
  73. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 話が職務命令の方に行ってしまいましたので、そこを念を押しますが、免許状を持っていない者に、たとえば音楽の教師なんというのは中学校では非常に時間が少ないわけですね、それに職務命令で英語をやれと言えるのですか。それはどういう法律的根拠で免許状を持っていない者に職務命令でそれをやらせることができるのか。
  74. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 私が申し上げましたのはもとより、制度運営を法律的に言えば職務命令ということになるのではないかということでございまして、というのは、やはり学校でありますから各教科全部教授しなければならない、この場合、特定の教科について免許状を持っておる先生がいないという場合に、学校としてはそれゆえをもって音楽なら音楽の教育をしないというわけにはいかぬわけですから、やはり学校運営の責任者である校長はだれか教員のうちにお願いをして、あなたひとつ許可をもらって担任してくれと言わざるを得ないわけでございます。それを法律的にとらえれば職務命令だというふうに私は申し上げたのであります。
  75. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 いま現実にそういうことを拒否して授業してない学校一つも存在しません。そして私の県で言えば、みんなが時間数を合わせながら、自分が何とかやれる教科を話し合って決めておる。許可申請は本人が許可申請するのですからね。そういう納得の上で許可を申請しておるわけです。職務命令でやるのだという考え方になるといままでの体制は全部がらりと変わってしまいます。職務命令で許可申請を出す、こういうものに法律的に職務命令が出せるという問題と、免許状を持つ者が授業をするという原則とのかかわりの中で、本人が許可申請を出さないときは、あなたの解釈から言うと職務命令違反ですか。
  76. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 おっしゃるように、現実に教科外担任で特定の教科を教育しないなどという学校はないというのは、やはり事実上、学校教師あるいは校長との間でよく話し合いをした上でやっておられるからそうなのでございまして、その実態をとらえて先生はおっしゃったわけだと思いますが、私はそれでもちろんよろしいのであって、またそうなければならないというふうに考えるわけですが、制度としては、先ほど申し上げたような解釈をすれば職務命令ということになるのではないかということを申し上げただけであります。
  77. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 これは大臣もお考え願いたいと思います。日教組と文部省はかなりやり合っていますけれども子供教育の中に穴をあけておるという状態はありません。しかもこれは、いままでの私たちの受け取った慣習の中では、教育をする教師の責任で子供の時間に穴をあけてはいかぬ、自分が不得意でも何とか全力を尽くしてやろう、こういう教師一つの情熱のあらわれだというかっこうでこれを理解し、把握し、そして教育をやってきたつもりなんです。ところが、これが職務命令だということになり、しかも全然不得意な教科を職務命令というかっこうで研修に呼び出される、こういうかっこうになりますと、私たちは許可申請をしなくなるだろうと思うのです。たまったものじゃないですよ。そこの学校に一年行ったばかりに、全然やったことのない教科を持たされるほかに、職務命令で言いつけられて、そして職務命令で研修に引き出されるという状況が出てくれば、これは非常に教育上大きなマイナスになる。私が聞いたのは、お断りしたら職務命令違反になりますか、許可申請をしなかったら。私にはとうてい中学校三年生の音楽、ピアノも弾けません、こういう教師があったとしても、そこの学校の中では、子供の時間にあきをつくれないゆえに、がんばって何とか苦労しているのです。それを職務命令だと言ったら、絶対できませんと言ってお断りして、その人が自分の教科以外の教科を教えることを拒否したからといって職務命令違反になりますかということもあわせて聞いているのですよ。だから、あなた方の考え方の中でどこが重点でいくのか。このごろ校長先生方に、文部省のお役人さんたちが行って盛んに法律ということを教えておられる、管理規則とか管理とか。将来、こういう体制の中にこれを入れていくとすれば、免許法上の関係で、一体どういう職務命令が出せる状況があり、同時に、それを拒否した場合に職務命令違反になっていくのかということ、もう少し明らかにしていただきたい。  前段は、一つ教師教育というものの置かれた現実の中で、運営の中でどう対処するかという基本的な考え方ですし、それから将来の課題として、研修が盛んになってくる、職務命令の研修が出てくる、こうなれば必ず争いが起きてくるという、去年の実例の中から私は質問をしているのですから、その辺、はっきりしていただきたい。
  78. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 校長さんとしてどの先生に教科外担当をお願いするかという場合に、その判断というのは私は非常に大事だと思うわけで、御指摘のように、全然音楽のできない先生に、君やれと言うことはきわめて非常識だと思います。ですからやはり、どういう方を選んでお願いするかという、そこのところが実際の運営としては大切ではないかと思うわけでございます。  そしてなお、その職務命令で命令を出して研修にいらっしゃいということは、先生の御指摘のような御意見もあるわけですけれども、今度は実際に研修の会場へ御本人が出かけるときに旅費はどうするかということになれば、これは職務命令で出張を命ずるから旅費が出るわけでございまして、そういうことを考えました場合に、本人の研修に対する意欲と教育委員会あるいは学校側の資質を向上していただきたいという希望とが合致したそういう研修をするためには、職務命令という形はとりますけれども、やはり関係者が皆それに積極的に参加していただくことが望ましいというふうに考えるわけでございます。
  79. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 大臣、基本的には……。
  80. 砂田重民

    砂田国務大臣 先ほど小川委員が、こういう場で拒否しているような例は一つもない、こうおっしゃったわけでありますけれども、私は本当にそうあってほしいと思うのです。それで、命令違反だとか、命令にそのまま従わなければならないとか、そういうぎくしゃくした問題としてこの問題を教育委員会でも考えてほしくないという気持ちがいたします。ピアノも弾けない先生に音楽のための研修を無理強いする、何かそういう特別の例のことをいま例示的にお挙げになったのですが、そういうことを好ましいことだとは決して思いませんし、やはり校長と教員とがよく話し合って、合意に達して研修に行っておられますから拒否をしているような例が一つもないのだと思うのです。やはりそういうことが一番好ましいことであって、無理強いするとか命令で無理にやらせるとか、そういうことでは問題が違うと私は思うのです。初中局長もお答えをいたしましたけれども、次の定数改善のときのこれは大事な重要な柱の一つでございますので、だんだんこういうことのないように努力をしていくわけでございますが、現にいまはそういう状態があるわけですね。ですからそれについての研修機会というものをこの五十三年度もふやしていくことに努力をいたしておりますし、その中身については、いま申し上げたようなそんなぎくしゃくしたものではなくて、研修が滞りなく、先生方の意欲と相まって充実してまいりたい、かように考えるものでございます。
  81. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 大臣の運営方針はわかりましたが、職務命令問題については、きょうは時間がありませんから後でやることにして、私の意見だけを申し上げておきます。  免許状を持っていない者に免許外の担任をしろという論理は、これは他の免許状との見合いから言ったら無理であります。免許状を持っていない自動車の運転手は、運転しましたら処罰されます。これは免許状というものが持つ一つの責任、行政の責任だと思います。同じように教員の免許状でも、これを教えてよろしいという一つの単位、資格を持って初めて教えられるのであって、免許状を持ってもいない者に教えろと言うことについては、その職務命令を出した校長なり行政というものは子供について全然責任を感じていないということになります。おまえたちはそんなものでもいいのだ、こういう状態だということになりますから。職務命令問題については、本質的な討議は後に回します。  それで、実際問題としてそういう人たちがどんな苦労をして、どんなふうにお金をかけてやっているかということを私なりに調査してみました。大部分の人たちは小さな奥地の学校にいますから、自分の学校にその免許状を持っておる人がいないから自分がやらされているわけですから、近くの学校の先輩とかなんかへ行って勉強させてもらっております。新学期早々。こういう旅費、それから必要な雑誌、辞書、図書というものを懸命に購入しております。こういう費用が大変かかっております。それから特に実技を必要とする科目を受け持たされた人は、体育で言えば体育着ということになるでしょう。私の調査したものの中では、学校で、生徒の前で余り惨めなかっこうでピアノを練習したくないというので、自宅にピアノを買ったという先生がありました。それを別に文部省にも要求しておりませんし、県教育委員会にも要求しておりません。それからアコーディオンを買ったという人もありました。国語の先生で美術を持たされた人は美術全集を全部買った。非常にお金がかかっているわけなんです。実はこういうものをいままで要求として出したこともないし、みんながまんしております。日教組も多分要求として出していないと思うのです。私もここでどうしろというふうに要求を出すつもりはありませんが、こういうものについてお考えございましょうか。
  82. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 教師の仕事からしまして、先般来からも議論がございますように、絶えず研修をする、研修をするためにはそれに必要ないろいろな経費が要る、そうなるわけでございますが、特に御指摘のように免許外教科担任というようなことになれば勉強の範囲も広がり、経費もかかるというのは御指摘のとおりだろうと思うのでございます。そういうことを考えながら先生の処遇全体という見地からこれまで改善をしてきたわけでございますから、そういう個々の経費の問題というよりは、やはり私は、教師の処遇の改善という見地からそういう問題も含めて今後検討して、さらに努力をしていくべき課題ではないかというふうに思うわけでございます。
  83. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 これは特殊勤務手当になじみませんか。
  84. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 特殊勤務手当というのは、その勤務自身の特殊性、たとえば多学年を一つの学級に編制した場合の教育活動とか教育実習を指導する活動とか、そういう活動をしたその勤務時間に応じて手当を出すというのが教育活動の場合は一つの形でございますので、いまおっしゃった免許教科外ということでの活動自身をそういうふうに評価できるかどうかという点はひとつ検討さしていただきたいと思います。(「検討か、いつまで」と呼ぶ者あり)
  85. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 ここで西岡さんなら、いつまでと、こう御質問するところでございますが、ではいずれ検討していただきます。ただ、本当に大変な金がかかっているのですよ。皆さん、僻地の学校へ行って一番不得意な学科を持たされたときどうするかということを自分で考えてみていただけばわかると思うのです。主任手当の例を出していやみを言うつもりはありませんけれども、特殊勤務手当、主任手当、いろいろ手当が出ています。私は、手当でやればいいのかどうかということについてはいろいろ考え方があると思います。しかし、少なくとも不得意な学科をやらされるということは大変な精神的な負担がかかります。そのほかに、実際に子供の前で幾らかでも能力を上げてやろうと思えばお金がかかります。この点は、あるいは研修費かもしれませんし、何かの形でとにかく考えてやっていただくということがあり得ると思うので、また来年、もっともここで質問できるかどうかわかりませんけれどもそれは別として、ひとつぜひ御検討願いたいところであります。  同時に、もう一つ伺いしたいことは、いつごろ、どういう勉強をしているかという調査をしてみたわけであります。たとえば免許外担任をやらされた人が、いつの時期に、どういう形で、自分がその教科を教えるための勉強をしているかということを調査をいたしてみました。そうすると、これは、担任が発表になって、どうしたらいいかわからないで二、三日は頭を抱え込むようであります。中学校の二年、三年となると各教科ともかなり水準が高いわけでありますから、体育の先生が急に数学などを持たされますとずいぶん心理的にまいるようであります。そして二、三日たって、そちこち毎晩のように、あるいは夕方から、近くの大きな学校の数学の先生のところに行く、あるいは知っている指導主事のところに行く。指導主事のところへ行ったってこれは数学の先生じゃないと役に立たないわけです。あるいは若い人ですと自分の終わった学校の人のところへ行く。こういうふうに自分で歩いている日数が約一カ月あるようであります。期間で見ますと。一カ月過ぎますと、あきらめも出てくるかもしれませんし、あるいは時間的余裕も、もう五月になってくると体育行事なんかあるので動けなくなるという状態もあったり、多忙さもあったりしてなかなか行けない。こういうことを考えますと、この人たちの研修は、さっきお話がありましたのは新学期早々やるべきではないか。その学校へ行って急に免許外を言われた人が勉強する方法というものは新学期早々、その生徒の担任に入る前にやれるという状況をつくり出していくべきじゃないかということが第一の点。  それから、そうは言っても、九教科、水準の違う教師に対しての研修というのは非常にむずかしいと思います。実際に画一的な研修をしても意味がありません。そういうことになりますと、その人が自分で知っている人のところに勉強に行く、あるいは話し合いに行って教えられる、その教科のこういう重要なポイントだけは外すなよというようなことを教えられていく、こういう状態をつくり出す機会、これに対する、はっきり言ったら旅費ですね、最低一週間分なら一週間分の旅費というものを出してやる、こういう形で研修の機会と費用をお出しになる考え方はありませんか。これも本年とは言いませんから、これは大臣の方からひとつ、これに対してどう考えたらいいか。
  86. 砂田重民

    砂田国務大臣 研修の時期でありますとか、いま先生のお話しの点、私は重要な問題だと思います。また質問できるかどうかわからないとおっしゃいましたが、私もお答えできるかどうかわかりませんけれども、やはり大事な検討課題だと考えますから検討させていただきます。
  87. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 検討に大事がつきましたので、非常に大事にしていただくものと思います。  それで、この際、そういうことについてちょっとだけ意見を申し上げてみたいと思います。  本当に困っているのは異質の教科なんです。高校を終わっているじゃないか、大学を終わっているじゃないか、こう言われます。さっきもお話がありましたが、確かに英語なんかは大学まであります。しかし、実際実技系統のものになるとまいるんです。英文学部を終わってきた英語の先生に体育をやらせる。中学校の体育は大変ですよ、これは。ある意味では生来的な能力さえも必要になる体育とか音楽とか美術といったようなもの、大変なことになりますので、基本からやらなければならない人もある。あるいは高校で美術クラブに属しておったという、クラブ活動をしながら違った教科をもらっている人もある。そこで第一は、差があるので画一研修は無理だということです。第二の点は、新学期といっても授業がスタートするということになると、その人の授業が一、二日なくなるということがあったとしても、発令になって少なくとも四月上旬には、四、五日ごろまでには学校に行きますから、その間学校ではだれ先生が何という担任教科をある程度決めております。そうなりますとそこに三日、四日ぐらいの時間的余裕があるのです。この期間を有効に使っていただきたい。三つ目は、その人が自分で免許状を持っていない、水準の低さによっては恥ずかしいというような気持ちも率直にあるでしょう。君が音楽を教えるのか、あはは、と言われないとも限らないわけですからね。そうなりますとやはり知っている人に行かなければならない。自分の精神的な劣等感みたいなものを理解してくれる人でないと本気になって研修ができない、こういう面があると思うのです。したがって、どうしても研修対象者、研修個所を本人の希望によってやるべきだ。こういう三つの意見を申し上げて、一応この問題を終わらしていただきます。  そうしますと、研修の問題、それから旅費の問題は重大な検討事項として次までにお願いしたいと思います。  それからことしの分についてですが、研究団体にお金を出しておられると言いますけれども、研究団体というのは必ずしもこれだけではなくいろいろなことをやるわけですから、後で、お金を出した研究団体、県とそれぞれの団体名、金額をお知らせ願いたいと思います。  二つ目にお願いしているのは、「君が代」と「国歌」の変わり方を調べてくれとお願いしたつもりがありますが、これはこういうことなんです。昭和十二年に決まった「尋常小学修身書 巻四」の二十三課には「国歌」としてこれが出ております。私も教員ですからこれを教えました。ところが昭和十六年になりますと、「初等科修身 二」には「君が代」と変わっております。これは当時国定教科書でございましたので、内容の検討について私たちは外部から資料を手に入れることができませんでしたが、私は非常に大きな意味があると思うのは、戦争がスタートについた昭和十二年で国歌という名前になって、最も激しくなった中で君が代と変わっている。国歌という文字が消えた。このことの文部省内の御討議がございましたらお知らせ願いたい、こういうふうにお願いしておったのですが、もしできておりましたらお願いしたいと思います。
  88. 砂田重民

    砂田国務大臣 これも昨年、小川委員から当時の文部大臣調査をしてくれという御発言のあった問題でございます。お尋ねの点は、戦前児童用修身教科書で「国歌君が代」となっておりましたのが、昭和十二年の尋常小学校四年生ではただ「国歌」、それから昭和十七年の国民学校初等科四年生では「君が代」、そう書かれているわけですね。こういう次第のもとに取り上げていることでございますが、ただ、当時の教師用の教科書にはいずれも君が代が国歌であるということがずっと書かれておりまして、昭和十二年、十七年の場合、いずれも君が代が国歌であるという認識には変わりはなかった、こういうふうに、私ども調査結果をお答えいたすわけでございます。
  89. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 子供たちには国歌という表現はなかったのですが、そのときの教科書をちょっと読んでみますから。  国歌の方は、  「君が代は、    千代に    八千代に、     さゞれ石の   いはほとなりて、     こけの      むすまで。」  とほがらかに歌ふ聲が、おごそかな奏楽と共に、學校の講堂から聞えて來ます。  今日は紀元節です。學校では、今、儀式が始つて、一同「君が代」を歌ってみるところです。  どの國にも、國歌といふものがあって、其の國の大切な儀式などのあるときに、奏樂に合はせて歌ひます。「君が代」は、日本の國歌です。我が國の祝日や其の他のおめでたい日の儀式には、國民は、「君が代」を歌って、天皇陛下の御代萬歳をお祝ひ申し上げます。  「君が代」の歌は、「我が天皇陛下のお治めになる此の御代は、千年も萬年も、いや、いつまでもいつまでも続いてお榮えになるやうに。」といふ意味で、まことにおめでたい歌であります。  私たち臣民が「君が代」を歌ふときには、天皇陛下の萬歳を祝ひ奉り、皇室の御榮を祈り奉る心で一ぱいになります。外國で「君が代」の奏樂を聞くときにも、ありがたい皇室をいたゞいてゐる日本人と生まれた嬉しさに、思はず涙が出るといひます。  「君が代」を歌ふときには、立って姿勢をたゞしくして、静かに眞心をこめて歌はねばなりません。人が歌ふのをきいたり、奏樂だけをきいたりするときの心得も同様です。  外國の國歌が奏せられるときにも、立って姿勢をたゞしくしてきくのが禮儀です。 これが巻四です。  巻二の方は、    二 「君が代」  君が代は    ちよにやちよに     さざれ石の  いはほとなりて    こけのむすまで  この歌は、  「天皇陛下のお治めになる御代は、千年も萬年もつづいて、おさかえになりますやうに。」といふ意味で、國民が、心からおいはひ申しあげる歌であります。  「君が代」の歌は、昔から、私たちの先祖が、皇室のみさかえをおいのりして、歌ひつづけて來たもので、世々の國民のまごころのとけこんだ歌であります。   祝日や、おめでたい儀式には、私たちは、この歌を聲高く歌ひます。しせいをきちんと正しくして、おごそかに歌ふと、身も心も、ひきしまるやうな気持になります。   戦地で、兵隊さんたちが、はるかに日本へ向かつて、聲をそろへて、「君が代」を歌ふ時には、思はず、涙が日にやけたほほをぬらすといふことです。   また、外國で、「君が代」の歌が奏されることがあります。その時ぐらゐ、外國に行ってゐる日本人が、日本國民としてのほこりと、かぎりない喜びとを感じることはないといひます。 こう言っています。  今度「国歌」というふうに文部省が冠せられましたが、国歌の意義、中身を御説明になるときは、まさか巻四でも巻二でもないと思いますが、どういうふうに御説明になりますか。教科書風にひとつ御説明願いたいと思います。子供たちに教えるための材料としてお聞きしたいと思います。
  90. 砂田重民

    砂田国務大臣 もちろんいまの教科書の中で巻二、巻四にあるような内容のことを教えているわけではございません。現行憲法下でございますから、いまお読みになりましたようなことはないわけでございます。しかし、国歌が君が代であるということだけは教えていて、歌詞、曲などを教えているわけでございます。
  91. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 調査の過程で、この巻四と巻二、どこが共通点があって、どこが違うか、御検討になりましたか。
  92. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 表現も違っておりますし、記述も違っておりますけれども、冒頭に君が代の歌詞を出しまして、その意義を述べ、そして日本の国民としてやはりこれを大事にしなければいけないという趣旨は、私は同じだろうと思うわけでございます。
  93. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 その趣旨は、今度の国歌の中では、子供からどういう意味ですかと聞かれたときにお述べになることとどう違いますか。
  94. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 戦前の修身の教科書における君が代の「君」というのは、言ってみれば、戦前の帝国憲法の中に定められた天皇の御地位を説明しておるということだろうと思うのですが、現在、君が代のこの歌詞をどういうふうに解釈するかということにつきましては、かつて奥野大臣のときでございましたか、文教委員会かでお述べになっておりますけれども、今日の日本国憲法のもとにおける日本国あるいは日本国民統合の象徴である陛下の御地位を考えまして、そのような天皇を象徴としていただくこのわが国がいつまでも栄えるように、こういう趣旨でありますということを私どもは申し上げておるわけでございます。
  95. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 小学校の一年生からこれを教えるわけですね。そうすると、小学校の一年生に、国歌というものはこういうもので、この歌の解釈は、考え方はこういうものだというふうなことを、修身の教科書はないけれども、指導用の書類なり教師の心構えなりの中に子供説明するようにお書きになる御予定がございますか。いまみたいなお話を一年生に聞かせたってちょっとわかりませんが、しかし、もし教えないとすれば子供たちは一体何の歌なんだということになる。これはお出しになるべきだと思うのです。国歌というものである以上は、国歌の意義、国歌の持つ中身、そして歌詞の意味というものを明確にお出しになるべきだと思うので、その点をお尋ねします。
  96. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 御質問は、具体的にどういうふうに教えるかということ、その教え方を国の方針として示すかどうかというお二つだと思いますけれども、前段につきまして、小学校の一年から六年までの音楽の教科書に君が代は必修教材として載っておるわけでございますが、およそ指導要領全般の考え方として、子供にある物事を教える場合に、子供の発達段階なり理解の度合いというものを前提として教えなさいというのは当然のことでございますから、一年、二年の段階では、君が代というのは、先生が弾いてその楽譜になじませるとか、そういうことからまず始まってまいろうかと私は思うわけでございます。そして三、四年くらいになって自分でも歌えるようになる。私はよく知りませんけれども、君が代は音楽的に言うとなかなかむずかしい歌の面もあるようでございますが、正確に歌うというようなことを高学年になって教える。そういう段階を通じて、やはりその意味も子供の発達を考えながら教えていくというのが教育的な対応だろうと思うわけでございまして、そういう意味では一般的な教材の取り扱いということにおいて文部省でも指導要領に示してあるわけでございますが、さらにこれを具体的にその他の書類等に示すかどうかという点につきましては、これは少し検討させていただきたいと思うわけでございます。
  97. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 そうしますと、歌詞の意味その他は教師が勝手に解釈してよろしいし、子供子供で勝手に解釈してよろしい、文部省としては示さない、こういうことですね。
  98. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 いま申しましたように、これまで直接学校に向かってその歌詞の意味はこうだというふうに説明をしたことはないわけでございますが、文部省の考え方としては先ほど申したとおりだということを国会等でも御答弁しておるわけでございますから、文章にするかどうかはともかくとして、この指導担当課長の集まり等に際しましては、そういう趣旨を一層徹底するようにしたいというふうに私どもは考えておるわけでございます。
  99. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 巻四と巻二の共通項と違ったところを私から申し上げますと、共通項は、天皇陛下のお治めになる御代がいつまでも続くようにということ、皇室の御栄えを祈るということ、大切な儀式や祝日、おめでたい日に歌うということ、姿勢を正しくして歌うということ、これらは両方にあるのです。違う点はどこかといいますと、一つは、片っ方は国歌と書いています。片っ方は君が代と書いている。もう一つ違う点は、二年生の方は戦地で兵隊さんが歌う、こうなっている、片っ方には戦地という言葉が入っていない。最後の共通項は、思わず涙が出る、こうなっているのです。あの歌を聞いて涙が出たというのは、これはいろいろの意味の涙だったと思います。特に戦地なんかで歌った涙にはいろいろな意味の涙があると思いますが、しかし、やはりこういうふうに解釈してあるのですよ、いろいろな歌詞の意味を。  歌詞の意味が不明な歌を国歌として歌わせるという考え方、しかも学年に応じて教えるというからには、一年生には一年生なりの歌詞の意味を、五年生には五年生なりの歌詞の意味を教えなければ、全然意味がない話になってしまうのです。ですから、たとえば理科を習った子供が小石は絶対に岩にならないぞ、こういう論理を展開してきたときに教師はどう返事をしますか。コケがむすというのは、暗くて陰湿で日の当たらない場所に行かないと植物学的にコケはむさないのです。そんな暗い陰湿な歌かと生物を習った子供が解釈して、それでいいのですか。
  100. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 たびたび申し上げますが、素人の私が申すのも恐縮ですが、いまの小学校の教科書の唱歌の教材には戦前われわれが歌った文部省唱歌もあるわけでして、たとえば「われは海の子」なんというのは「煙たなびくとまやこそ」云々というのがあって、あれは私なんかも習ったときにどういう意味だろうか、ちょっとわからなかったけれども、私は必ずしも一々全部意味を教えてやらなければ唱歌にはならぬということでもないのではないかと思うわけでございまして、いま申しましたように、発達段階とかいろいろなことを考えて教師が教えていただくような配慮をしていただけばよろしいのではないかというふうに思うわけでございます。「さざれ石」云々ということも、科学的に見ればおっしゃるとおりでございますが、それは明らかに、先生としては、そういう点を一種の比喩として歌われた歌である、やはり君が代というのは千年も前から日本国民になじんだ歌でありますから、当然そういう歌詞の持っている意味というものは説明していただかなければいかぬだろうと思うわけでございます。
  101. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 一言よけいな分は後で……。「とまやこそ」なんというのは「とまや」という単語がわかればすぐ解釈できるのです。「さざれ石のいはほとなりて」よりは、「煙たなびくとまやこそ」の方が、漁村の子供には情景として存在するから理解が早いのです。しかしそれは唱歌の方ですよ。君が代が唱歌なら私はそれでいいのです。あなた方が今度国歌として入れたからには、国歌というものが持つ非常に大きな重大性なり意義なり、そういうものをお持ちになってわざわざ国歌と入れたと思う。君が代としておくのならまた話は違いますがね。だから局長の答弁はこれはすりかえの答弁です。私は国歌であるという立場でお聞きしているのです。  だから当然のこととして、曲の方はこれはまずい曲の最たるものでございますからあえて申し上げませんが、歌詞の意味というものは明確にしておく必要があると思うのです。それは願望なら願望でもよろしゅうございますよ。そこのところを明確にしておかないで、子供に合わせていますからと言うが、子供はいま何と言いますか。君が代というのは相撲の歌だと思っていた。私もそう思っていたら、このごろの中学生は何と言ったかというと、ザ・エンドの歌だと言うのです。ザ・エンドの歌というのはわからなかったのです。何だと思ったら、NHKというのがあるそうで、あれがテレビを消すときに日の丸と君が代をやるんだそうです。それでザ・エンドなんだそうです。ザ・エンドの歌だと中学生や高校生が言うのです。このザ・エンドと皆さんがおっしゃる国歌というもののずれというものをそのままにしておいてよろしいという考え方なら、解釈の統一や解釈の意味を出さぬでもいいですよ。しかし、それで困るというなら、これは明確になさるべきだ。しかも、それは各学年にわかるようなもの、現在は確かにあなたがおっしゃるとおり、憲法で天皇は象徴です。しかしその後段に何と書いてありますか。国民主権が書いてあって、国民の総意によって天皇の地位が保たれるということを書いてあるわけですから、保たせようと思ったら、主権者の国民に対して、国歌の意味、それは法律的な意味、法制的な決定の仕方、文部省と防衛庁だけが国歌と言っている理由、そして歌詞の意味というものを明確に示さなければいけないと私は思うのですが、その点再度、しつこいようですが、お聞きいたします。
  102. 砂田重民

    砂田国務大臣 先生がお読みになりました戦前の教科書の中の君が代の解釈、やはり戦前の旧憲法下での一つの君が代の解釈のあり方が教科書にも書かれていたと思われます。今日の現行憲法のもとでは、奥野元文部大臣が国会で御答弁をいたしました、日本国憲法に書かれております日本国の象徴としての天皇、そのような解釈をするわけでございますから、その歌詞の意義子供たちにどういう発達段階でどういうふうに教えていくかということ、そのことは私は明確にしなければならないことだと考えます。明らかにしなければならないことだと考えます。どういう時期に、どういう時点で、どういろ発達段階に応じてその歌詞の意義というものを教えていくかということは、これはひとつ検討させていただきたいと思います。  なお、歌詞がよくないという御発言がございましたけれども、また文部省と防衛庁だけが認める国歌というお話でございましたが、世界じゅうどこの国もがただいま君が代を日本の国歌と認めているわけでございまして、歌詞も、たしかロンドンかどこかだと思いますが、世界じゅうの国歌のコンテストで一等になった、曲のコンテストでも世界じゅうの国歌のコンテストで一位を取ったこともあると聞いております。必ずしも小川先生の音楽的才能を云々するのではありません。決してそうではありませんけれども、それは一概に申せない。やはり今日は、総理府の調査等を見ましても、国民的常識として国歌君が代というものが定着をしてくる。世界じゅうがまた日本の国歌を君が代と認めている。こういう観点に立ちまして、その君が代の歌詞の意味を教科にどう取り入れていくかということをひとつ検討をしなければならないと、かように考えます。
  103. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 中身が決まらないうちに国歌と決めていったということ自体に問題があるのですよ。これはだれがお入れになったかわかりませんけれども。それから公文書の中で、政府関係官庁の中で国歌と冠して出している文書は、私が見た限りでは防衛庁と文部省だけでございます。それ以外の省庁からは、国歌という形で君が代が出されている文書は拝見しなかったのでそう申し上げたのです。非常にここに戦前との一つの共通性があるのですね。戦争中における陸軍省、海軍省と文部省、そして国歌。これだって昭和十二年に初めて教科書に国歌が出てくる。戦地で思わず涙が出てくる。こういうことを考えますと、私は、国歌ということの中身の解釈、国民に対する理解の不足、説明もできないようなものを国歌として決めたということは非常に大きな問題であると思います。  この答弁はまた後でいただくことにいたしまして、先ほどのお話で、千年も前から、何ですか、国歌として歌われてきたなんて言っていますが、ありましたかね、そんなの、千年前に。私は生きていないから知らないけれども
  104. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 私が申し上げたのは、千年前から国歌として歌われたというのではなくて、この君が代のもとの歌が古今集に源を発し、その後和漢朗詠集にいまのような歌詞の形で伝えられた、それを年月的に言えば約千年の昔でございます。こういうことを申し上げたわけでございます。
  105. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 その古今集のころの歌の君が代の君というのは天皇を指しておったのですか。
  106. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 これは、私が調べたところでは詠み人知らずになっておりますので、その詠み人に聞くわけにはまいりませんのでどういう意味かわかりませんけれども、国民的な解釈としてはやはり天皇陛下というふうに言われておったというふうに物の本には書いてございます。
  107. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 あなたのお読みになった物の本と私の読んだ物の本の違いがあるようでございますが、あれは、君が代の君はあの時点においては、どのような文学の解釈の中でも天皇を指していないというのが、私が読んだ限りの物の本です。天皇を指すようになったという解釈が出たのは、文学上からはいつからでございますかね。
  108. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 いつのころかというのはちょっと私わかりませんけれども日本国語大辞典というものによりますと、君という名詞の意味は、君子とか自分の仕える人とか、相手を敬って言うとか、女から見て男の人を言うとか、いろいろでございますから、ですから意識としてはどれというふうに明らかに断定できないのではないかというふうに私は思います。
  109. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 そうすると、中身の解釈がないというと、三番目の解釈で、君というのは女が男を指すという解釈でちょっと解釈をしたりすると困るわけですね、おたくの方でも。そうするとやはり一番目か二番目の解釈というふうにとってよろしゅうございますか、いまの御答弁で。
  110. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 いま申しましたのは、明治以前のまだ曲のない時代の和歌の意味を御指摘になったわけでございまして、明治の初めにこれに曲がつけられて君が代として歌われるようになった時点以後の解釈としては、私は一貫してそれはやはり天皇陛下を指すというふうに言われたものと思っております。
  111. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 そうすると千年なんという話じゃなくて明治以後ですね。百年もたっていないということですね、この君というのが天皇を指すということは。
  112. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 まあ、百年程度ということになろうかと思います。
  113. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 そうしますと、私はそのとおりだと思うのです。というのは、君が代の君は、古今和歌集の時代においては、祝い歌ですから自分の先輩とか友達とかというのを指した。祝賀歌です。祝い歌です。この前海部大臣もちゃんとそうおっしゃっている、議事録で。したがって、これはその時点では天皇を指していない。その後、明治に入って富国強兵の世の中になった時点で、天皇の制度が確立した時代で君というのは天皇を指した、こういうふうな解釈というふうに文部省の解釈を伺っていいですか。
  114. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 明治以前の歌詞の解釈については、先ほど申しましたように、私は必ずしも一定したものはなかったろうと思うわけでございますが、これが天皇をはっきり指すというふうになりましたのは、明治の初めに曲がつけられまして歌われるようになった以後であろうというふうに、それはわれわれも考えるわけでございます。
  115. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 そうしますとやはりこれは、この歌を解釈しますとこうなりますね。君は天皇を指しますから、天皇の、君が代ですから、御代は、御代をつけるかどうかはまた問題といたしましても、天皇の御代、治めるという表現が入るか入らぬか問題だが、御代は千年も万年も続いてお栄えになりますようにという意味になりますか。
  116. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 象徴としての天皇をいただくわが日本国がいつまでも栄えるように、こういうふうな意味に今日は解釈するわけでございます。
  117. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 国という解釈ですか。さっきのお話ですと、国語大辞典とかいうのの解釈だと君主を指すとおっしゃったね、君というのは。そこの中に、君というのは象徴を指すとはあなたは解釈していなかったですよ。すると、君主制を認めた上で国は千年も万年も栄えるようにという意味だ、こういうことですか。
  118. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 私の乏しい知識では、君主制というのは一体何だ、これが国家統治の実権を握っている場合が君主制というのか、あるいは日本の天皇のように象徴的存在であっても、対外的に一国を代表せられるような立場にある方を持っておる場合にこれを君主制というか、両方の説があるのではないかと思うわけでございます。しかし、その問題はおくとしましても、私の申し上げましたのは、明らかに現憲法下における、天皇を象徴としておるこの日本国をという、そういう意味でございます。
  119. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 いままでのお話を聞いておりますと、幾つかの説があったり、歴史的には千年と百年と違ったり、いろいろあるようでございます。しかし、文部省解釈、これをそのうちに出されるようでございますから、解釈を出したところでまたやりますが、ここに教科書検定関係の方はおいでになりませんか。それから指導要領をおつくりになった方もおいでになりませんか。——ならないとすればいたし方ありませんが、いずれにしてもこれは憲法とのかかわりの中で非常に重要な意味を持つと考えます。私ははっきり言って、文部省の国歌という表現が歌詞の面からいったら非常に問題がある、こういう考え方を持ちます。そして歌の意味は祝い歌だ。前の海部大臣が仰せられたように元歌は祝賀の歌であります。しかも君主を指しておりません。それが明治の政治体制の中で変わって、政治的に君主を指した。そしてその次、戦後にやめさせられたような印象のお話をしておられますけれども、調べてみましたら、占領軍は日の丸の旗の掲揚については禁止いたしましたけれども、君が代を歌うことについての禁止はいたしておりません。これは明らかに国歌として認められていなかったから、文部省唱歌として存在したからだ、私はそう思うのです。文部省だけの恣意として存在しているからこういうことになるのです。  こういう一連のつながりの中で、国歌という、指導要領に対する表現を再考願いたい。歌の意味も言えないような歌を国歌として出すということは、やはり文部省としても国民に対して恥ずかしいですよ。しかも、いまの子供たち認識は相撲の歌からザ・エンドの歌だ、こういう認識が出ている。NHKにザ・エンドをやめささせるかどうかは別問題ですけれども、こういう状態でありますからとても国歌などという表現にたえられるような状況にはない。しかも、君主制という問題も、いま討論しますとまた長くなりますからやめますけれども、存在をしてくる。その時点では明らかに君主を指す、こう言っておりますからね。おたくの解釈ですよ。私が言ったのじゃないですよ。大臣自身の解釈だからおれの解釈じゃないと言うかもしれませんが、それは引用なすったのですから。ぜひひとつ、扱いを慎重に考えますために今回の指導要領からお外しになった方が、むしろ国民世論の統一なりあるいは国民に対する理解の問題から言って適当であると考えるわけです。しかも、先ほど申し上げましたように、戦争とつながっており、国民主権の問題とのつながりがあり、歌の文句も非科学的であり、音楽的に言うと「さざれ」と「石」の間に切りが入りますから、これは才能のあるなしにかかわらずあそこで息をつなげと言われると大変苦労するのです。切ることになっておるやつを続けろという指導をするという、曲の上からの無理もある。ぜひ御再考をお願いしたいのですが、大臣の御答弁をいただきたいと思います。
  120. 砂田重民

    砂田国務大臣 遺憾ながら見解を異にいたします。やはり国民的な常識が国歌君が代として定着をしている、そういう確信を持ちまして私どもは「国歌君が代」と学習指導要領の中にも明確にしたわけでございます。御意見として承りましたけれども、残念ながら見解を異にするものでございます。
  121. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 国歌に対して見解が違うということになりますと、極端な言い方をしますと国歌の意味がなくなってくるんじゃないかと私は思うのです。そういう状態であるということは御認識いただきたいと思います。したがって、見解が異なるというだけの課題で、教育の問題、ことに小さな子供たちに、しかも解釈も統一できないような状態のものを出してやるということ、私はむしろ国歌というものに対する冒涜になるんじゃないか、不遜ではないか、そういう感じさえいたしますので、私の考えを私も見解として述べておきたいと思います。なお、歌詞の意味その他が出、歴史的な一つの流れというふうなものも指導要領に出てくるようになりました時点で改めてこの問題は御討議をさしていただきたいと思います。  続いて、時間もありませんけれども、もう一つ伺いしたいのです。  これはなかなかむずかしいと思うことなんですが、私は先ほど申し上げましたけれども、日教組と文部省の仲というのは必ずしもいいわけじゃない。しかし、これは教育という課題から言えば、いろいろ共通理解が存在する方がよろしいと考えることは大臣も同じだと思うのです。したがって、前に申し上げましたが、文部省の職員の方を新採用なさる、あるいは採用して一、二年本省でお勤めになった後、どこか現場の学校に、短期間で結構です。長いことと言いません、一年くらいでいいから勤務をさせるということをお考えいただけないでしょうか。
  122. 砂田重民

    砂田国務大臣 いま文部省におります者をどこか教壇に立てたらどうか、大変興味のある御提案でございますけれども教育免許等のことも絡みまして、どこかに行けといっても免許状を持っていない、そういうこともまたございます。しかし、文教行政を担当いたします者が教育現場の実情をよく認識をし、把握をして、そして臨むなり、職務に当たらなければなりませんことは当然のことでございます。この場でいろいろ小川委員の御指摘があったこともまた、現場認識には大変役立ちをしてくださるわけでございます。そしてまた文部省でも一部学校の教員等の人事交流をやっているわけでございます。そこら辺のところはもう御承知でございましょうが、こういう人事交流を図る施策をもっと広げていきたい、さように私ども考えるものでございまして、やはり文教行政の企画、実施、それに当たります者が教育現場の実態を十分に承知をし、認識をしていかなければなりませんことについては同感でございます。
  123. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 資格の問題は問題ないのです。さっき、おたくの解釈によれば、職務命令で臨時免許状を出すと言っているから、だれにでも出せるのです。やらせる気ならですよ。資格はお断りになる条件にはならない。それでなかったら事務職員というのもありますから、事務職員にもやることができる。文部省の皆さんは、教育委員会の課長だ、次長だ、教育長だとおいでになっている。いつでも現場というものと対立、とは言いませんけれども、対立の状態または上下の関係だけで存在する。国鉄のエリートの職員、ごらんなさいよ。切符を切っているのですよ、ポイントを返しているのですよ。別に国鉄一家と言われることが正しいかどうかという問題はあるにしても、私はやはり、具体的な現場を自分の身で感じて、そこの中から問題を出すということがうんと大事だと思うのです。職員も少ない中でございますが、現場の交流がございますから、その分教員を、こっちを上げてまいりますから。これは本当に教育を考えて、本当に現場を知るという考え方になって、いま言われているような官僚組織とか官僚というものに対する一般的な批判点、欠陥を押さえて、そして本当にいい文部省になるためにも私は現場に立つべきだと思う。一学期でもいいです。そうすると、子供というのはどういうものだ、どういうことを研修することが大事だか、いろんなことが自分の体を通してわかります。残念ながら一番現場と交流のない職場が文部省であります。他の省庁に御比較願いたいと思う。第一線で具体的に仕事についたことのない人がどのような企画をここでなさっても、やはり心理的に遊離をする。おれは頭がいいから、何でもわかっているからというだけでは済まない課題がある。私はこれ、何とか大臣在任中に三人でも五人でもいい、事務職員でもいい、さっき言った臨時免許状で英語なり数学なり音楽なり教えていただいてもいいからやっていただくことが、本当にこれからのあらゆる行政の基本になる、こういう感じがするので、再度重ねてお願いをしてみたいと思います。お考えを願いたいと思います。
  124. 砂田重民

    砂田国務大臣 お言葉を返すようですけれども一つだけ、国鉄の職員の例を引かれましたけれども、私は必ずしも同じではないと思うのです。国鉄職員の職務も重要な職務であるということを認識をしておりますけれども、また仕事に使命感を持ち、愛情を持っていただくことは教師も国鉄職員も変わりはありませんが、やはり国鉄の方々よりももっと高度の学習を修めていただく、そういう任務が教師には与えられていると私は思うのです。そういうところから人確法というような法律も国会で皆様で成立をなさった。ですけれども、おっしゃるような人事の交流がありますことは、文部省だけではなくて、双方に好ましいと私は思うのですね。ですからひとつこの点は、ただいまも人事交流が一部ございますけれども、なおこの施策を広げてまいりたい、かように考えます。
  125. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 ひとつ広げていく、検討していくというお話ですから、これも期待をしてみたいと思います。私は、多分文部省のお働きになっている皆さんは比較的恵まれた学校、恵まれた家庭、恵まれた能力でずっと進んでこられた方が多いと思います。しかし、それはある意味ではそこへ到達する限られた人たちであります。しかし、教育というのはもっと大きな底辺を持って、もっと大きな問題を持っている。とすれば、自分の経験しない教育の場というものを実際に体験されるということは、将来の文部行政に非常に大事なことだと思います。そのことは否定なさる気持ちはないと思うから大臣からそういうお話があったと思いますが、何か考えていただきたい。  それから、私が言ったのは、国鉄と教員を比較したのではなくて、一つの省庁が一つの中で業務を行うときに、国鉄というのは教育行政よりもっと厳しい仕事をしているかもしれませんよ。そういう場合に、局長になる人、総裁になるような人たちでも二週間は切符を切るとか何とかという実務を通して上がってきている。もちろんそれでも二十五、六歳になると課長にはなりますがね。この実務を通して上がるということのよさを、学校教育で、公務員試験を通ったからというだけで処理されない非常に大きな大事なものと考えて申し上げたのです。  時間がありませんので次のことに移ります。  これは、先ころ「あららぎ」を読んでおりましたら、とてもおもしろい歌があった。おもしろいというよりも涙の出るような歌なんです。ちょっと読んでみます。   受持のすべての子らがすゞならしお守りさげて帰りゆくなりこういう歌です。田舎の学校の先生の歌でした。これを見ますと、受け持ちのすべての子らが音を立てる鈴と、それから多分交通事故のお守りを持っている、そう思います。こういう状況が歌になってくるほど、現在の交通事情というのは悪いわけです。それで率直にお伺いしますけれども、いま、子供たちの通学に対する今後の配慮なり措置というものがございましょうか。
  126. 砂田重民

    砂田国務大臣 やはり基本的には学校等で交通安全のいろいろな教育指導をやっていくこと、また家庭にもそういうことを期待をしていかなければなりませんし、御承知のスクールゾーン、これをもっと拡充もしてまいらなければなりません。一般的に、先般の交通安全週間も昨年に比べますと、特にお年寄りと児童の場合の事故が昨年よりふえた残念な結果で終わったわけでございます。交通安全施策を特に通学路等についてなお一層の確保をする努力をしていかなければならない。先般の交通安全週間が終わりましてそのことをもう一遍肝に銘じさせられましたので、なお一層の努力をしてまいる所存でございます。
  127. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 学校の行き帰りに交通事故に遭った児童の数などを御調査されておられましたら、お知らせ願いたい。
  128. 柳川覺治

    柳川政府委員 文部省関係といたしましては、登下校の際の事故につきましては日本学校安全会でその事故に対して共済給付を行っておるわけでございまして、その方で事故件数は掌握をいたしておりますが、全般に通学中の交通事故による事故の詳細につきましては、警察庁の所管の法人でございます全日本交通安全協会が調べておりまして、昭和五十二年一月から十二月までの状態でございますと、中学生以下の子供の通学中の交通事故による死亡者、重傷者の数が、幼稚園児で二百八十八人、小学校一年生から三年生までで四百七十人、小学校四年生から六年生までで百二十四人、中学生九十一人というふうになっております。このうち、安全会の調べの方で死亡者の数を見ますと、幼稚園児が十三人、小学生が六十四人、中学生が二十九人という状態でございまして、年々減少はしてきておりますが、なおこのような不幸な事故があるという状態でございます。
  129. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 大変な数が出ておりますので、交通機関等を利用できる子については利用させるといったような方式はおとりになっておりますか。考え方はと言った方がようございますか。——では質問を変えます。私が言いたいのは、お母さん方は、家から学校まで子供が無事に届いたかどうか、大変心配しておられるというのが近距離の子供さんでもあるわけです。ですから、私は時間がありませんので意見みたいなかっこうで申し上げますけれども、バスとかそういう交通機関をできるだけ利用させる方式をとるべきだ。その距離につきましては、公務員の皆さんでも企業でも二キロ以上は通勤費が出ております。したがいまして、二キロ以上の子供たちに対して通学費用を、文部省なり地方自治体が交通機関を利用する者に対して支給するという方式が考えられていいのではないか、こういうふうな端的な質問に変えます。
  130. 柳川覺治

    柳川政府委員 御指摘の点でございますが、現在交通安全指導の手引き等におきまして特に交通機関の利用には触れてまいっておりません。いままでいろいろなことが行われてきた一つの反省の中に交通事故のことがございますが、子供が毎日学校に登下校する、これはある意味で歩きの機会でございますし、そのことによって足腰が丈夫に鍛えられるという面が一ついま指摘されてきております。その面で私どもも、先ほど大臣が御答弁されましたとおり、スクールゾーンあるいは遊戯道路あるいは緑道の設置、この辺のところが交通安全施設の施策として関係省庁でも進められておりますし、文部省一つの試みでございますが、昔の先生が道草をしないで家へ帰れという教育がございました、そういう教育が復活できる環境ができないかというようなことから、グリーンスポーツ構想で、たとえば道草の道と申しておりますが、子供たちが自然に触れながら学校へ登下校できる、そういう子供に目を向けた町づくりがもう一つあるべきじゃないのか。いまむしろ私どもはそちらの方に関心を持っておりまして、交通の安全の問題につきましてはさらに安全施設の整備あるいは交通安全教育の指導の徹底ということで対処してまいりたいという考え方でおる次第でございます。
  131. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 一年生で何キロぐらいが体力と相応するのですか。
  132. 柳川覺治

    柳川政府委員 この辺、決まったあれはございませんが、たとえばある学者の説によりますと、子供は幼児のとき、自体一日十二キロ走る長距離ランナーであるというたとえがございます。人間は動けば動くほどその各器官が機能する、そこが基本的に大事だ、科学技術の進歩した今日でもその生態的な人間の特性は変わってないということがいま強調されつつあります。そういう中で見ますと、できる限り子供たちが活発に動ける機会を大事にするということがむしろ現代社会において必要になってきたという感じがいたしますが、小学校一年生で具体に何キロが適当かということにつきましては、いま具体に御答弁する知識を持っておりません。
  133. 小川仁一

    ○小川(仁)委員 質問のことにきちっとお答えいただければ終わっていたつもりだったんですが、話が横へそれてしまいまして大変時間的に失礼したようですが、私が言っているのは、交通事故の関係と、私は命の方を大事にしますから、乗り物の関係をやったのです。そうしたら今度あなたは歩かせる道路をつくるんだというお話になった。話が行き違いまして、そこで歩かせる道路の中では何キロぐらいがいいかと言ったら、それはまだ決まってない、こういうわけなんです。幼児が十二キロ走るなら小学生は二十キロ、まさか片道十キロずつ歩かせろという意味じゃないと思うのですが、歩くということがどれほど危険かということを皆さん御認識ないよ。皆さんは二キロ以上は通勤費をもらっているんだもの。バス、電車で来る。子供たちは学区内を毎日歩いているんです。細い道路を。東京をごらんなさい。スクールゾーンに自動車が入らないなどというふうに考えて、もしあなたがそういう認識でおやりになったら大変危険なので、危険性ということを中心に改めてまた問題を出してお話し合いをしたいと思いますから、以上で私の話を終わらせていただきます。  どうも済みませんでした。
  134. 菅波茂

    菅波委員長 本会議散会後再開することとし、この際、休憩いたします。     午後一時三十三分休憩      ————◇—————     午後三時十八分開議
  135. 菅波茂

    菅波委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  文教行政基本施策に関する件について質疑を続行いたします。  質疑の申し出がありますので、これを許します。曽祢益君。
  136. 曾禰益

    ○曽祢委員 私は本日、英語教育の問題、並びに大正以降の建築物、その保存の問題を中心に据えまして大臣に御質問申し上げたいと存じます。  第一の英語教育の問題については、けさほど同僚小島委員の方から大変に貴重な御意見を交えての御質問がございましたが、私もこの問題をとらえて御質問させていただきたいと存じます。  英語教育は、わが国の中学、高校におきましては、形式的に申しますれば選択科目になってはおりますけれども、その実態におきましては、これはもう必修科目あるいはそれ以上の重要性を持っていることは皆様御承知のとおりでございます。授業時間については、中学で週に三時間以上、高校では五、六時間以上になっておるのでございまして、中・高通算いたしますと実に九百時間程度の長い授業時間を持っておりますのみならず、特に、必修でないにかかわらず実際上は大学入試において得点の割合のきわめて高い重要科目であることはすでに御承知のとおりでございます。  私も、戦前教育にさかのぼって考えてみますと、戦前では高校に行きますと、旧制高校でございますが、英、独、仏のいずれかを徹底的にたたき込むような教育が施されて、一週間約十二時間、三年間やりますとこれは大変な集中的な教育でございますが、それはそれなりに、集中的にやる教育というものにはかなりの効果があったようであります。大体二年ぐらいいたしますと、字引を引っ張って読めばどうやらこうやら原書が読めるくらいになる人が多かったのではないか。これは無論非常に個人差があるのでありますけれども、言わんとするところのものは、少なくとも戦前の高校の段階の外国語の教育は、徹底的な集中主義のためにかなりの効果を上げておったのではないかと思うのであります。  ところが、現在の中・高の教育を見ますと、外国語が少なくとも読めるのは当然というたてまえにはなっておりますが、事実は、入試が終わって大学に入ってしまうと後はもうほったらかしだ。大学入試の際のパズルの解読に一応パスしてしまえば、それはもうほとんど会話、聞く方も話す方も全然だめであるし、英語を書く方のごときは問題にならないが、読む方も相当かと思うと読む方もほとんど集中でございませんし、大学の入試そのものはクイズ番組の文法をひねったようなことばかりやっているために、本当に読力というものがついておらない。全く何のために六年ないしは八年、大学の教養課程も入れると八年になると思いますが、一千時間以上も使って一体何ということだ、そういう悔いだけが残るというのが、極端なことですけれども現状ではないかと思うのでございます。  以上のような、これは私の見方でございますけれども、ともかくも戦後の日本英語教育、ことに中・高における英語の教育というものは、現状はもう放置できないくらいの段階に来ているのではないかと思うのですけれどもわが国における中・高の英語の教え方について、文部大臣としては基本的にいかに御認識になっているのか。これでいいとお考えなのか、これではいかないとお考えなのか。また、いけないとしたらどういう点をどういうふうに改正すべきと、後で詳細にわたってアイテム・バイ・アイテムでお聞きいたしますけれども、大まかな点で基本的な御認識の点をお伺いしたいと思うのでございます。
  137. 砂田重民

    砂田国務大臣 中学校、高等学校におきます外国語教育目的は、外国語を聞き、話し、書き、読む、そういう基礎的能力を養うことにあるとされてまいっておりますけれども、今日の教育実態は、ともすれば読むことと書くことに重点を置き過ぎている、私はそういう感じを率直に持つものでございます。英文和訳や和文英訳などの分析的練習に終わっていたりしておりまして、聞くことや話すことに関する指導が必ずしも十分とは言えません。これは曽祢委員御指摘のとおりの実情にあることを率直に認めざるを得ないわけでございます。これらの点は、入学者の選抜制度でありますとか教育条件などとも関連をするものでございますけれども、最近におきます国際交流の急速な進展等を考えてまいりますと、やはりコミュニケーションの手段として英語を聞いたりあるいは話したり、そういう基礎的な能力の育成に重点を一遍置き直して、そういうところを重視して今後改善を加えていかなければどうしてもいけない、そういう気持ちを基本的に持つものでございます。
  138. 曾禰益

    ○曽祢委員 大変に明快な、しかも率直な御意見を承って、私は基本的には賛意を表したいと思うのです。  ただ、一言加えるならば、書くということは読むよりむずかしいと思うのです。問題は、英語で書くことはとてもお呼びでない。しかし読むことはかなりできているはずなんだけれども、それもクイズ番組みたいな文法だとかにとらわれ過ぎておる。たとえば英語の新聞を大体読んで理解するというのとはほど遠いような、非現実的なむずかしい文章の訳読にだけ走っている。だから読む力も、本当にバランスのある実用的に読む力でないし、書く力なんかもまるっきりない。聞くことと話すことは全然だめだ。こういったような、全く片ちんばもいいところの教育に事実は終わっている。どこにその原因があるか。これは教育課程の問題もありましょうし、大学入試がやはりひん曲げている面もあると思いますが、これは後でさらに触れて御質問いたします。  そこで、私も文部省学習指導要領等の文章を見ながら検討をしたことを踏まえて御質問をさらに細目にわたってしたいのですけれども、たとえば現行の中学校学習指導要領の第一の「目標」というところには、「外国語の音声および基本的な語法に慣れさせ、聞く能力および話す能力の基礎を養う。」第二は、「外国語の文字および基本的な語法に慣れさせ、読む能力および書く能力の基礎を養う。」私はこの順序もいいと思うのです。本当はさっき言ったように逆になって、2の方の読む能力について、少しへんぱであるがある意味の読む能力だけは養っているけれども、書く能力なんかゼロだし、1の聞く能力及び話す能力は全くゼロだ。実際上は中学校学習指導要領に書いてある1、2の基本目標というものからはるかに遠ざかっている。しかし、話す能力の基礎を養うというのですから、逃げようと思えば逃げられるのですね。基礎をつけてやるとも言ってないし、養うと言うんだし、基礎だと言うんだから、おまえの言っているような能力そのものだ、能力の基礎なんだ。しかもつけてやると書いてないんだからある程度養えばいいんだと、皮肉に言えば逃げ口上が言えるような書き方にはなっておるようでございます。  しかし今度は、五十六年四月から施行される新しい学習指導要領になりますと、書いた字面においては非常に改善されていると私は思うのです。つまり、「初歩的な英語」で「聞いたり話したりすることができるようにさせる。」これは重大ですよ。能力の基礎を養うなんといって逃げてないのです。ずばり言って。とにかく初歩的な英語です。中学だから。しかし、初歩的な英語で聞いたり話したりすることができるようにさせる、これは非常に責任をとった表現になっているのですね。私は事実そうやってほしいと思うのです。しかし、これはまだこれからやるのだという逃げ場はあるのですけれども、現行の教育課程、指導要領と違って、今度こそ本当に(1)、(2)の、聞くこと、話すことをまず第一にやり、それから読むことと書くこと、こういう基本的な順序に従ってやるのか。基礎を養うなど、逃げ言葉です。それが今度は、できるようにさせるというところまで本当に踏み込んでやる、そういう改正の趣旨が本当にそこにあるのか、相変わらずレトリックで逃げているのか、ここが非常に問題だと私は思うのです。  ですから、まず整理して質問を申し上げますと、今度の改定のねらいは何なのか。現行との違いはどこなのか。なぜ、聞く、話すということと、読む、書くというものを三種類にしているのか。どちらにウエートを置くのか。聞く、話すが一番基本的で、それから読み、書くということで、そこに差をつけているのか、並列なのか。書いている順序からすれば、また外国語を習得する順序から言っても、聞く、話すが先で、次に読む、書く、私はこれでいいと思うのです。それはバランスがなければいけないけれども。つまり、いまのは全然バランスが逆なんですね。一部の訳読だけができておる。書くことはできないし、聞くことと話すことはゼロだ。こういうものでなく、この三種の能力を、ウエートの置き方もむしろ変えて、聞く、話す、そこに重点を置きながら、最終的にはバランスのある三つあるいは四つの能力を総合的につけてやる。基礎を養うで逃げるのではなくて、中等、高等を加えて全部ができるようにさせるんだ、そういうことなのかどうか、この点はいかがですか。
  139. 砂田重民

    砂田国務大臣 細部につきましては後ほど初中局長からも御説明をさせますが、基本的な考え方はやはり、聞く、話すを先行させて、読む、書くをそれに伴わせる、そういう趣旨の改定を行ったわけでございます。それはやはりこの改定で、コミュニケーションの手段として英語を聞いたり話したり、そういう基礎的能力の育成を、従来よりも変えて、あえて重点としたわけでございます。このために、いたずらに細かな文法的事項の学習に偏らないように、英語の指導内容を基礎的、基本的な事項に精選をして、たとえば文型や文法、語数など、いわゆる言語材料にいままで偏り過ぎておりましたことを思い切って削減をいたしました。そして、生徒が実際に英語を理解して英語で表現するための言語活動を重視するような改善を図ったわけでございます。高等学校学習指導要領については現在作業中でございますが、中学校におきます改定と同様の方向改善を図りたいと考えているわけでございまして、このような改善によりまして、ともすれば曽祢委員が御指摘になりました、読むこと、書くことに偏り過ぎていたいままでの文法的な、分析的な学習改善いたしまして、英語教育実態が、聞き、話すということを先行させて、読み、書きとのバランスを考えていく、このような気持ちで学習指導要領改定を行ったところでございます。願うところは、バランスのとれた学習に好ましい変化をしてまいりますことを期待しての改定でございます。
  140. 曾禰益

    ○曽祢委員 大変明快に言っていただいて、私は大賛成でございます。ただ、いよいよそれを実行に移すメソッドによりますと非常にむずかしい点があるのではないかと思うので、いまおっしゃったことに本当に私は賛意を表しながら、なお続けさしていただきたいと思います。  そこで、まだ高等学校学習指導要領ができていないのですけれども、いま文部大臣がおっしゃったように、とにかく、聞くことと話すことがまず第一であって、それから読むこと、書くことだ、そういう順で物を考えたときに、文部省のもう一つ英語教育改善調査研究協力者会議の報告が五十年六月十九日にできておりまして、小川座長が取りまとめた文書も文部省当局からいただいて読んだのですが、これは残念ながら大部分を学習指導要領の方に譲っちゃっているんですね。「改善の基本方向」というところを読んでみますと「教育内容や方法については」中略「聞くこと、話すことの指導にも十分な配慮を加える必要がある。」と、確かにウエートの置き方としては同じ意見を言っておられるのですが、ではどういうふうに改善するかということになると、悪いけれども小川座長の協力者会議は逃げちゃっているのですよ。いま学習指導要領があれだから大部分はそっちに任すと逃げているのです。改善の方策は教育課程審議会で検討中なので「主として条件整備の面に関して当面実施が急がれる施策中心に以下のように取りまとめた。」ということで逃げている。一番大切なところは学習指導要領改定のあれがやっているから、と。これは私はある意味では良心的だと思うが、またある意味では消極的に過ぎると思うのですね。学習指導要領学習指導要領でやっているのだから、ダブってもいいと思うのですよ。小川先生の指導したこの会議でそっちとダブっても構わないからやってくれればいいのに、条件整備の面ということで、一番聞きたいところは逃げちゃっているのですね。  したがって、どういうことが答申の骨子になっているかというと、学校の教え方でどういう点をするということを逃げてしまって、いきなり英語担当教員の研修。これも必要なことは認めます。しかしその前に、学習指導要領の領域でもやっているけれども、しかし英語教育改善という見地からダブっても構わないからやってほしいところが完全に抜けて、要するに器材の整備だとか条件の整備だとか、そっちだけの答申になっちゃっているのですよ。非常に残念だと思う。  この英語担当教員の研修のところを読んでみますと、研修の内容については、ここでも「読み、書く能力とともに、聞き、話す能力も十分高められるよう留意すること。」ちゃんと気がついていてはくれているのですね。やはり従来のあれから言うとどうしても、読み、書くということに、書く方は実質上能力を与えるまでにいっていないけれども、しかし、ねらいはそっちにいって、聞く、話すというのは書いてあるだけでたな上げしている。それではいけない。そのバランスを取り返すということに留意することとは書いてあるのですね。ところがそれは英語担当教員の研修の方に逃げちゃっているのです。ですから、指導的立場にある教員を一カ月程度研修する。これも必要ですよね。教員の素質と能力の開発ということは必要だからそっちも大切なんだけれども、最終のゴールは、教えられる方に何を教えてどういうようにするかということが先であるべきだと思うのだが、そっちは逃げて、教える人の能力の再開発、あるいは開発の方に重点がいっているのですね。ですから、指導的立場の教員の一カ月程度の研修。一カ月程度の研修で足りるとは思えませんけれども、とにかくこれから始めようということ。  それから、地方教員の研修の年次計画を立てさせて、これを中央から援助していこう。それから校内の研修。それから内地留学、特に大学院段階での内地留学。それから海外研修の拡充強化。これらはいずれも決して悪いことを言っていないし、いいことなんだけれども、私なんかが考えている、いわゆる文部省的表現をもってすれば、直接先生と生徒の間で何をするか、どういう教え方をするか、そっちの方は学習指導要領に逃げちゃっているのですね。先生の能力の開発、再開発。  それからもう一つは、視聴覚教材及び教育機器の整備。これもやって悪いことはないのですね。しかし、われわれ、たとえばLLというものがないから英語の会話なんか下手だというようなことは、これは口実にすぎないと思うのです。そういうものがあった方がいいかもしれないけれども、道具だけあったって、兵隊に魂が入っていなければ戦争になりませんからね。兵器になっていないと思うのです。いかに視聴覚機材を整備してみても魂の入っていない教育というものは素通りなんですね。だから、悪いことじゃないけれどもポイントを外していると思うのです。  それから指導上の改善というところを見ると、ここにやはり指導上の改善で一番先に上がってくるのは学習指導要領改善。言ってはいるんだけれども内容は逃げちゃっている。それから教科書の精選、これもいい。必要なことであるけれども、これも逃げの姿勢だ。それから生徒のクラブ活動の振興、これもやって悪いことはないんだけれども、ポイントじゃないのですね。重点じゃない。  それから第四に、英語、特に聞くこと、話すことの指導のため、外国人による指導の措置を講ずること。これはけさ同僚の小島議員からのお話もありましたように、外国人のいわゆる教員なりあるいはそういう人をなるべくたくさん雇うことは確かにいいことには違いない。しかし、重点というのはそればかりじゃないですね。何をどういう点で教えさせるのだという文部省の意気込み、地方自治体の意気込み、教員全体の意気込みが一番大切だと思うのですね。ただ、そのほかに、これから円高日本なんですから外人を雇うのも、少なくとも支払い能力の方はあるんだから、いい人があったらなるべくたくさん外人教師を雇うことに賛意を表するものであるけれども、しかしまだこれでも、けさの答弁を伺っていても、アメリカからの十五名程度しか事実上は進んでいないのですね。また一挙にこれをふやそうといっても無理だと思うのです。  しかし、これも小島さんの質問で非常にぼくは教えられたのですけれども、大正の終わりから昭和の初めごろ、臨戦態勢にいく前には静岡県においてもかなり有名校、昔は余り有名校というのはなかったかもしれぬけれども、ある程度の中等学校には外人の教師が相当いたということ。これは後で結構ですけれども、全国的に戦前の大正から昭和にかけて日本の中等学校に外人の、まあ教員じゃないと言うかもしれないけれども、とにかく英語を教える人がどのくらいおったか。私は大正の終わりのころに東京の府立の中学校にいて、その時分には確かにアメリカ人のおばちゃんが英語の先生の一人だったことをよく覚えていますけれども、それは東京の府立のいわゆる有名中学でそうだったが、しかし静岡県の全国的に見ればそれほど有数とも思えない中学校に外人の教師がいたとすれば、むしろ戦後のいまこれだけ英語教育があれしているときにいかに外国人教師の数が少ないか。戦前に比べてむしろ劣っているのじゃないか。つまり、話す方、書く方というのが完全に無視されて、ただ訳読中心主義の、あるいは大学入試を突破するための教育だけが日本人教師によってやられているのが、いまの中学校、高等学校の英語の曲がった姿の一つのあらわれだと思うのですね。本当に戦前にあれだけ英語を話す外人の教師がいたということは私は非常にいい教訓だと思うのですね。戦前ですらそうで、戦後にこれだけ英語と言っているのにいかに話すことや聞くことに対する教育というものがおくれていたかということの実にいい証拠だと思うので、これはぜひ戦争前の、要するに大正、昭和時代の日本の中等学校における外人英語教師の数というものがどのくらいだったか、お調べの上で後で結構ですから御報告を願いたいと思うわけでございます。  以上の点についてひとつ所感を述べてください。
  141. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 最初に、ただいま御指摘のございました戦前の旧制中学校等の外人の英語教師の配置状況につきましては、できるだけ各県に照会をいたしまして実態をつかむようにして、また御報告を申し上げたいと思います。  それから、ただいま御指摘のございました英語教育改善調査研究協力者会議の報告でございますが、この報告が提出されましたのがちょうど五十年の六月でございまして、これと並行して教育課程審議会で中・高等学校教育内容の審議をまさに同時に進めておりましたので、当時私は担当しておりませんでしたけれども、恐らくこの会議としてはそちらに内容の検討を譲られたのではないかというふうに思うわけでございます。  そして、教育課程審議会の答申に基づきます中学校学習指導要領改善の考え方につきましては先ほど御指摘がありましたとおりでございますが、なおつけ加えさせていただきますならば、中学校英語教育というものが、御指摘のように週三時間、三年間を通じて三百時間程度のものでございますから、できるだけ基礎的な事柄にしぼって、聞き、話し、読み、書くということを、書くことというのは非常にむずかしいというようなお話がございましたけれども、考え方としてはオールラウンドに実施をする。その場合に、いま申しましたような前提でございますからできるだけその基礎の重視ということ、したがって、具体的に指導要領を見ていただきますと、そこで取り扱いますところの言語材料につきましても、文型の種類であるとか、出てきます言葉の数であるとか、必修として挙げました数であるとか、そういうものもいたずらに数を多くしないで、一定の範囲内でこれをできるだけ自由に使えるように、そういった意味での能力を高めるということを基本といたしておるわけでございまして、ここにもありますように、その前提としてはやはりどうしても先生がそういう教育対応していただくということが必要でありまして、学習指導要領というのはごらんいただきましておわかりのように、一々具体的教育活動の中身そのものを決めてあるわけではございませんが、いま申し上げましたような基本的な方針を示しておるわけでございますから、それにのっとりまして個々の先生がいろいろ工夫をしていただいて教育を展開していただくところに意義があるわけでございますから、そういう意味での教員の能力の向上ということをいまの時点におきましては一つの大きな課題としてわれわれは取り組んでまいりたい、かように思うわけでございます。
  142. 曾禰益

    ○曽祢委員 そこで、先生の国内留学といいますか、研修ですね。これは地方自治体にもこれを奨励していくようで、それは結構なんですけれども、こういう先生方が余りに文字どおりに、聞くこと、話すことに重点を置いた教育をやろうとした場合に、これは私の思い過ごしだったら結構なんですけれども、かなり父兄側から、そんなハイカラなことを余りやってくれたって、うちの子供の当面の目標は大学入試あるいは高校の入試をパスすることにあるんだ。学校の方で先生が一生懸命に会話だとかヒアリングだとかスピーキングというようなことに重点を置いて真っ当にやろうとすると余り評判がよくない。先生をかえてほしいというようなことが起こるのではないかという心配ですね。その点はどうなんですか。つまり、今度の中学、高校の学習指導要領は少なくとも作文の字づらだけでない。文部省の、いまの大臣局長お話を聞いても、本当にバランスのある、読むこと、書くことだけでなくて、聞くこと、話すことにも相当重点を置いた、力をつけさせようという気持ちは、これは決して単にきれいなことを書くだけでなくて、やろう、やるべきだと思っておられるけれども、一方において、これは後で、中等学校、高等学校英語教育改善しようと思うとやはり大学入試の問題にぶつかるという、そっちへ私は議論を持っていくつもりではいるのですけれども、その大学入試ということを直接出す前に、そういう観点から、話すことだとか聞くことに先生が、課外教育なら別ですが、学校教育を文字どおりそっちへ重点を置こうとすると、かなり父兄からの反発というか批判が起こるのではないか。そういうことで実際やろうと思ってもできないようなムードがありはせぬかという、これは私の老婆心だけならいいんだけれども、そういうことはないのでしょうか。
  143. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 いまの御指摘の点は特に高等学校の段階に入ってからの問題だろうと思うのですけれども、今回の学習指導要領改定で……
  144. 曾禰益

    ○曽祢委員 高等学校のはまだ作文はできてないね。
  145. 諸澤正道

    ○諸澤政府委員 指導要領自体はできておりませんけれども改定の基本方針は教育課程審議会から答申をいただいております。それによりますと、まず英語Iというので、英語を習う者は必ずそのコースを通る。それはいまの、聞き、話し、読み、書くということをオールラウンドにやる。それが進んだ段階で英語IIに行けば同じような考え方でバランスをとって勉強する。そのほかにたしか三つのコースを提案しておりまして、一つは読む方を主体とした英語の勉強、一つのコースは文法、書くというようなものを主体としたもの、それからもう一つはいまおっしゃった、聞く、話すということ、こういうふうに選択をできる道をとりなさい、こういうことでございますから、もちろん現実に聞き、話すことも大事でございますけれども、高等学校の段階で基礎が終わった段階では幾つかの選択ができるような体制で勉強させる、こういう提案をしておるわけでございます。
  146. 曾禰益

    ○曽祢委員 私が心配するほどでなくて、選択制にすれば、聞く方、話す方にも相当のことができるかもしれぬし、賛成の父兄なり子供がおれば結構ですけれども、どうも私はその点がまだ心配なんです。  そこで、私は実は英語教育改善について御質問申し上げるのは、去年から計算すると二回目なんです。去年、海部文相のときの一般質問におきまして、むしろ諸悪の根源は大学入試にあり、大学入試でクイズ番組みたいなものを出すものだから、あそこの入試にパスすることに専念すると、学校で余り真っ当に、聞くこと、話すことまでやっているのはまだるっこいというので、いま町の書店に行くとどんどん英語の特訓の、いわゆる私設の教科書みたいなものばっかりがよく売れるといったようなことになりがちだと思うのです。そこでこの前の国会におきましては、諸悪の根源である大学入試を、今度は共通一次試験をやるからそれを機会にあそこでひとつ英語のあれを直していったらどうだということを申し上げたわけですが、これは後で申し上げるが、そっちの方は、実は私が素人で、なかなかむずかしいのだ、大学一次入試制度の改善というのは、やはりあれだけの大量のものをこなすということになると、一人一人ディクテーションや何かで語学能力を試すということなんかとてもできっこないのですね、個々面接でもやる一部二次試験になれば別だけれども。むしろ大量生産、大量消費的な第一次共通試験ということになると、偏向教育と言うと悪いけれども、いまの英語教育のゆがみが直らないような出題になる可能性が非常に強いではないかというような悲観的な結論になると思うのです。  いずれにしても、英語教育を抜本的に改善するとすれば二つ方法が考えられる。一つはいま申し上げた大学入試の面から、これは第一次共通試験が大量だからやはり依然としてむずかしいということはあるけれども、それを機会にあそこから直していくという方法がまだあり得ると思うのです。それから第二の面は教育課程の方から、現にやっておられるオーソドックスのメソッドのほかに、いわゆる四十九年から起こっている、われわれの現在の同僚の衆議院議員の平泉君が提案されたような、中・高における英語コースそのものの内容をもう思い切って変えたらどうだ、中・高における英語教育内容を、読むこと、話すこと、いわゆる実用英語式にして、訳読中心とは別のものをつくろうじゃないか、この二つのアプローチがあると思うのですね。  そこでまず第一の入試センター、大学の入試の方は簡単ですから後回しにして、先にこの平泉試案というものに関連して御意見を伺いたいと思うわけでありますが、皆様御承知のように、四十九年の四月に当時の参議院議員だった平泉氏の出された試案というものを私なりに消化して申し上げるならば、要するに、私が冒頭に申し上げたように、日本の中・高のあれでは全くむだだ。そこから先は、ぼくは当時から必ずしも賛成したわけではないのですが、国民の五%、六百万人ぐらいの英語の実用能力者だけを養って、もう英語は本当に選択科目にしてしまえ。実際は必修以上のウエートがあるのだけれども名前は選択科目になっていく。思い切って五%の本当に英語の能力ある者だけつくることにして、あとは事実上中・高の必修の課程から全部やめてしまえという。これは余りにも革命的であって、私、必ずしもそのときから賛成しているわけではありません。またこれに対しては、上智大学英文科の渡部昇一教授を初めとして、特に英語を専門に勉強され、また教えられている方からの相当強い反発があったということは御承知のとおりです。  そこで最近になりまして、これは平泉氏から聞いたのですが、五%、六百万人の最も実用的英語を選択でやるコースだけにしろということは撤回いたしまして、今度の第二次案では、この英語については中・高・大学を一貫した新コースの英語教育をつくっていく。中・高は各県に少しずつ設けていくのですけれども、五カ月ずつでたとえばE1、E2、E3、E4というふうに六段階に英語の力のグレードをつくりまして、各段階でテストをした上で進学させる。これはむろん任意コースであります。それで一方において在来の事実上の必修の英語コースはそのままにしておいていい。片方は任意だ。しかし、なるべく試験的に各府県に一つか二つぐらいずつそういう任意コースを置いて競争でやらしたらどうか。そうすると新幹線と鈍行と並べているようなもので、提案者から見れば、一緒にやっているうちにだんだん新幹線のコースの方に乗ってくる人が多くなるだろう、こういうような趣旨だと思うのです。  いずれにいたしましても、その案のさらにエッセンスと思うところは、このE1、E2、E3、E4、その他の英語の力の格づけは日本だけでやらないのです。国際的の水準がいろいろありますから、たとえばアメリカなんかで通称TOEFLと言っている、ああいった国際的な英語の実力試験のあれがありますから、ああいうものと比較対照できるようなグレードをつくってやっておけば、それをパスしたらアメリカでも通用する、OEFL第何級を通ったと言うこともできるようなものにやったらどうだ。これは「ボイス」の五月号に出ておりますから、私は別に金を出して皆さんに差し上げることはしませんから、任意にごらんになれば大いに参考になると思うのです。要するに、各コースのクラスの編成は二十五名程度の少数でびっしりやる。できるだけ多くの外国人を招聘する。そのほかに、この特別コースの担当を希望する教員には海外を含む研修の機会を与える、こんなふうにする。  さらに、外国語習得の基本的な条件として、正しい方法で一千時間内外を集中的に投入して、それで勉強させる。私はこれが一つのポイントだと思うのです。中学、高校で週三時間程度ちんたらちんたらやっていたって、実力をつけるのは非常にむずかしいですね。先ほども例に申し上げたので恐縮ですけれども、旧制高校の特訓教育というのは一週十二時間ぐらい詰めてやるのですね。ことに、英語の場合はちょっと違うかもしれませんが、フランス語やドイツ語みたいな、日本人から見るととっつきにくい文法のやつは、やはり何だかんだ言ったって結局は暗記ですよね。思い切って初めのうちに、フランス語ならフランス語の動詞の変化だとか、こいつはやはり自分でうんとこさ詰めて、学校の方も十二時間ぎゅうぎゅうしごいて、それで二年間やると相当、少なくとも読む力というものは出てくる。ぼくらもとにかくフランス語の原書でモーパッサンの小説なんか、その時分にはポルノなんかないものですから、モーパッサンの「女の一生」なんかで伏せ字のところがあるのですが、あそこをひとつ読んでやろうと思って、一生懸命二年間勉強してそこを鉛筆で書き入れたものです。そのくらい実力がつくのです。それはやはり集中してやらなければだめですよね。週三時間六年間とか八年間やったって、これはほとんど何にもならないのです。だから課外で特別に勉強しなければだめだ。ちんたらちんたらやっているのが一番悪いのです。ある程度集中して学校でやってやるのですよ。外で金をかけてやるなんてとんでもない。そういうようなことを言っているのだろうと思うのです。あるいは私なりの解釈で間違っているかもしれませんが、そういったようなことをやれば、とにかく町の書店の書架が英語の特訓雑誌であるいは教材で埋まっている、あるいは町にはんらんしている英会話の個人教育、どんな先生か知らぬけれども、いまの大学に通っている学生なんかがちょっといいかげんな英語を教えて金を取るなんていうのは実に恥ずかしいことなんで、何のために国が中学、高校であれだけの力を入れて教えているのか、これはよほど反省していかなければならぬと思うのです。  そういう意味において、平泉試案は平泉君からお聞きになるのがあれだと思うのですけれども、そういったような意見、私はそれに触れて、いままでの学習指導要領では、悪いけれども文部省の段階で学者を集めて作文をつくって、それは学校まで行くけれども学校から先に父兄のところまで行くと、先生、とんでもない、それよりか特訓教育をやってくださいということで事実上行われていない、一向に改善が進まない、この現実を何とかどこかで打破する勇気を持ってやっていかなければいかぬと思うのです。これは民族の将来のために、若い者にむだな時間を使わないようにさせる、この意味でひとつ、平泉試案に対する御意見まで伺おうとは思いませんけれども、そういう貴重な一つの前向きの意見もあるので、この際、学習指導要領で五十六年からやるのはできているとか、あるいは小川教授からレポートが出ているじゃないかとか、それじゃだめだと思うのですね。私は同僚の委員にもお訴えをしているのですけれども、立法府においてもこの問題をじっくり、国民の教育の基本の一つなんだから、英語教育に関する文教行政についてひとつ継続審議的な気持ちでやっていこうじゃないかということを申し上げて、かなりの御共鳴も得ているような次第なんです。文部省におかれてもひとつ文相を初めとして、ぜひひとつ英語教育の問題をもう一遍取り上げていただきたいと思うのです。御意見を伺いたいと思います。
  147. 砂田重民

    砂田国務大臣 中・高の学習指導要領、あるいはその学習指導要領に基づいて教育現場で、聞く、話す、ややもすればそれがないがしろになっていたようないままでの英語教育のあり方を、聞く、話すをむしろ先行させて、同時に、読む、書く、これとのバランスをとっていく、そういう趣旨で学習指導要領改定をいたしましたけれども、これを現場で生かすのは何といっても先生でございますので、そういう学習指導要領改定で期待をいたしております先生方にとっていただく研修の内容のこと、先ほどから初中局長がお答えをした方向でなお一層努力をしてまいりますけれども、先生、私は、英語教育がそういうふうに改善をされてくる一つの曲がり角にちょうどぶつかっているという気がするのです。  それは、一つは大学入試の御指摘のあった問題でございます。五十四年度に行われます初めての第一次の学力試験におきましては、これは国・公立の場合ですが、国立大学の教官の衆知を集めまして、高等学校教育目標内容に沿った問題、いまおっしゃった、高等学校で教わる英語ではなくて受験のための特別な勉強を外へ行ってしてこなければ大学の入学試験は落っこちてしまうのだ、そういうことのない試験問題にいま大学当局も、また共通一次のセンターも懸命に取り組んでいるところでございます。その意味では、国・公立の第一次試験は高等学校の英語の教育内容を把握していれば及第点が取れる、これが実現することは間違いない、私どもはそう考えているのです。それじゃ私立大学はどうだとなりますと、入学試験で英語においても難問、奇問というような、高校生を苦しめるような出題のないように私大側と文部省の間でいろいろな話し合いを行っておりますけれども、五十四年度に私立大学がすべてそのような試験問題で対応してくれるかどうか、高等学校中学校の英語の教育内容が変わりますのに大学の側がどうであるか、私大についてまだ一〇〇%の自信が持てない、まさにそういう曲がり角にある現在でございます。このことはもちろん大学側にこれからも指導助言を強めてまいりまして、受験生にむだな、受験のためだけの英語などというものの必要がないような体制をとる努力をしてまいります。  それからもう一つは、先生先ほど御指摘になりました、話す、聞く、そういうことが大学の試験で取り入れられないか。実は、共通一次入試に絡みまして、国立大学協会において調査研究の段階で四十九年から五十一年度にかけて実地研究を行ったわけでございますが、相当広い会場に高校生が集まってやることでございますので、マイクでありますとかアンプリファイアでありますとか、そういうものを使ってやらなければなりません。そうすると、試験場ごとにそういった機材的な条件が大変変わってまいりまして、異なりが出てまいりまして、必ずしも公平が期し得られない。そういうことから、高等学校の英語の教科内容に限った出題をするということは実現をしてまいりますけれども、やはり先ほどの、話す、聞く、読む、書く、そのバランスのとれた英語教育の中の、書く、読む、そういう出題に第一次試験はならざるを得ない。第二次試験の方で、話す、聞くの方は幾つかの大学が取り入れようとしているわけでございます。  今日は、いま申し上げましたように、中・高の英語教育内容が変わる、また共通一次入試が初めて行われようとしている、私大はまだその共通一次入試に踏み切り切っていない、まさに曲がり角にある時期だと考えますが、御提言の御趣旨は私もよくわかることでもございます。ただいま曽祢先生、「ボイス」の五月号ですか、あの前の平泉提言というものは承知をいたしております。ずいぶん革命的な御提言だったわけですが、今回の新たな平泉提言も一遍よく勉強させていただいて、検討材料にさせていただきたいと思います。
  148. 曾禰益

    ○曽祢委員 平泉提案は、今度のものはこの前ほどレボリューショナリーでもないし、任意コースのこともあると思いますし、大いに検討の価値があると思うのです。ただ、先ほども申し上げましたように、私自身もやはり何といっても素人ですけれども、大学の共通一次試験のときを機会に、ここでひとつ直してもらえるかと思ったところが、いま大臣からもすでにお答えもあったように、何しろ共通一次試験が約四十五万人ぐらいですかね、百二十の試験場で試験するそうなんで、平均三千五百人、まるで物的条件については千差万別でしょうから、同じテープを流しても、聞き取りの難易等から見て、とても書き取り、ディクテーションの試験なんかできっこない。少なくともそれが不公平のそしりを免れない。やはり安全をとるといままでのマルチプルチョイスでつけていくのが一番簡単なんですね。しかし、そんな安易な道を歩いたのじゃ改善はできないんですね。革命でなくても、少なくとも改革をやろうという意気込みでやるのであれば、若干のリスクはあっても、第一次試験は第一回がまだです。これからやるんですから、まだ時間がないわけじゃない、第一次試験は在来のものに近くても、さらになお改善の予地を執拗に追求していかないといけない。第二次試験については、学校学校によって人数の少ないところで、ことに文学部系統で外国語なんかをやろうというような人だったらそれはもうディクテーションぐらいやったっていいんですよ。そういう能力を調べる試験ができるのですけれども、やはり大量的に下級の教育機関の教育内容にまで影響を与えようということになれば、やはり共通一次試験のときに、いままでの、少なくとも同じマルチプルチョイスでやるにしても、難解な文法中心でない出題が全然ないわけじゃないと思うんですね。そこら辺の方で改善にもっと真剣に努力する必要があるのじゃないかと思いますので、やはり第一次試験及び第二次試験を通じて、英語教育のゆがみを直す一つの契機として、思い切った改革の精神でひとつやっていただきたいということを申し上げておきます。  これは同僚委員の方々にお諮りして、文部省も勉強してもらう、平泉提案に限らず、いままでのただ学習指導要領を変えてそれで満足じゃだめなんで、もう少し思い切ったことをやるぐらいの意気込みで、私らもそれを触発するぐらいなエネルギーで文教委員会はぜひひとつその震源地になっていただきたい、かように考えてやっていくつもりです。  以上のことで、まだ今後とも機会があることですから、あと十五分しかございませんので次の問題に移らせていただきます。  第二の問題は、先ほど申し上げましたが、これはすでに五十二年の三月二日に海部文部大臣及び安島文化庁長官に御質問申し上げた、要するに日本の近代建築ですね、特に西洋建築ということになろうと思いますけれども、これの保護の問題については、明治時代のは大体カバーされている。それで非常にランクの高いものは重要文化財に指定されているからこれはいいのです。  ところが、たとえば明治につくって完成したのが大正だ。たとえば東京駅のごときはその典型的な例ですけれども、事、大正のものになると全然保護されていない。これは余りにも画一的なんで、文化庁における当該委員会の選択の基準にも私は少し疑いを持っている。なぜ大正時代になると急にそうなるのか。大正時代にはろくな西洋建築がないのか。明治時代にはルネッサンスならルネッサンスという一つのスタイルがあって、それの方が権威があって、大正時代は、セセッション式がどうだとかなんとか言って、わりあいに大正時代の文化的価値を低く見ているようなきらいがあるのと、またどこかで一線を引くという意味で、大正時代は文化財保護から事実上外れているんですね。重文でなくても文化財保護はできないことはないと思うけれども、事実上外れている。  特に、同年の四月二十七日に申し上げたが、現在の東京駅、あれは戦災で半分壊れたままになってはおりますけれども、東京の顔である東京駅というものを、国鉄当局が、余りに金をもうけたいためだと思うのですが、あんなものはぶっ壊しちゃってもっと便利なものにつくるという、恐らくテナントから金を取って大いに財政的によくしようという気持ちがあるのだろうと思うのですけれども、とんでもない。あれだけ外人の記者団から美濃部知事がつるし上げられたんですね。なぜ東京駅みたいなものを壊すのだ、どこの国でも、町あるいは国の玄関になる一番大きなステーション、停車場ですね、そういうものはそのまま保存して、あるいは外形だけ保存して中の機能を幾ら近代化してもいい、それが本当じゃないか、絶対にあれは残すべきだと外人から言われているようなことは、日本人として実に情けないじゃないかというので、東京駅の保存をこの際もう一遍考えろ。東京駅の方は、何といっても公の財産ですからそう簡単に、われわれ国会の目をかすめて、と言っては悪いけれども、勝手にはそういうことはできないでしょうから、これはとにかくいきなり壊すということは抑えることはできたように思うのですけれども、決して東京駅だけを保護するというのじゃなくて、問題は、そういったような明治から大正、あるいは場合によっては昭和の初期までにかけての日本の建築で、まだまだこれだけはどうしても残しておく方がいいというものがあるのじゃないか。そこで、その選別のために重要なものをリストアップするようにしてくれということを申し上げた。つまり、もう一遍言います。大正期の近代建築物をリストアップして、それで必要なものの保存に対して保護の措置を打ってくれ、こういうことを申し上げたのに対して、文相あるいは文化庁長官は、大正期の建造物に対しては、保存の検討、研究が非常におくれていることを認める。さてどう対処すべきかについてはきちんと検討するということが海部文相のお答えだったわけです。  そこで、その後五十三年度の予算等を見ますと一つの進歩があったんですね。文化財保護等の事務処理の文部省の費用の中で、へ、近代建築保存対策等の経費、その1に近代建築保存対策に四百八万三千円出した。それは日本建築学会が三十二の都道府県に現存する主な近代建造物の五千件をリストアップした。そしてこのために全国の国・公・私立大学、工専、工業高等学校教育委員会や民間研究者数十人の方が集まって、大正、昭和戦前建築調査委員会、代表は東大の村松貞次郎教授ですが、これがリストアップをやって、もうことし十二個のリストアップが一応終わる。それに対して初めて文部省から補助費が出たのです。大変結構なことですね。文部省もさすがにやっとわかってきたかなと、うれしかったのですが、金額は四百万円ですから大したことはない。  一方、私もNHKの「風見鶏」を見て非常におもしろいと思ったトーマス邸は神戸市が買うので、その半額の何と六千万円を文部省から出しているんですね。私は、トーマス邸を買うのに六千万円を出したことを悪いと言ってないのです。これもいいだろう。しかし、私は素人だけれども、文化的、建築学的価値からいって、トーマス邸は「風見鶏」で非常に有名になったけれども、その文化的価値からいって果たして国から六千万円……。神戸市は先生の選挙区じゃないですかね。六千万円出したことは悪いのじゃないけれども、もっと大切なものがあるのではないか。四百万円でも出してくれた方だからいいのですけれども、まじめな話として、私はちょっとアンバランスのような気がしてならないのです。  私の言わんとするところは、ただ単にリストアップにとどまらず、文化財保護法の中にやはり欠陥があるような感じがするのですよ。古いお寺だとかお宮の保存、これは完全だし、重文に指定されたものは完全ですが、重文に指定するかどうかがボーダーラインの、たとえばいまの大正時代の、重文かどうかは別ですが、確かにこれは保存しておいた方がいい、それには網をかけるべきだと思うが、そこへいくといまのところは網がかからないですね。これでいいのか。よく例を挙げて恐縮なんですけれども、たとえばフランスのパリなんかに行ってみると、町並みの方にも網がかかっているし、重要なものには必ずしも古いものでなくても、現状維持についていかなる網もかけられるのですね。たとえば、リュー・デュ・フォーブル・サントノレという、日本で言えば銀座通りみたいな、ファッションのショップなんかが並んでいる繁華街ですね、それが表で、むしろ裏の方がシャンゼリゼなんですね。あそこに日本の大使公邸を土地を買って建てるという、その日本の大使公邸の建築のデザインそのものを一々パリかフランスの代表に相談して、それに合うように直させる。町並みというか、できている方の保護だけでなく、パリの景観に関係するものは、個人の財産でも、治外法権を持っている外国の大使館をつくるのにしても、それだけ法令上、口を出すということがあるのですね。何もそのまま、まねをする必要はないけれども、文化財保護法の中のそういったような重文とそうでないものとの間の有形の建造物その他について、重文に指定されないものについてはお手上げだというのでいいのかどうか。  それからもう一つは、そういうものを保護するだけでなくて、消防法がやかまし過ぎるときには消防法の除外例を設けさせるとか、また、たとえば東京駅なんか非常にいい例なんで、ああいうものは、機能は、どんどん下を掘り返してどんなに近代的機能にしてもいいけれども、外形を保存するとか、あるいは戦災を直すぐらいの金は、国鉄はもうけているのだろうから国鉄に金を出さして、外形を三階に直してりっぱなドームをつけさして大正初年にできたものを復元しろ、そのかわり中の方はどんなに近代的に直してもいいぐらいな、権威を持った文化財保護の法律に、これは立法府ですからわれわれが考えることではございますけれども、そうは言うものの、それだったら行政府の方がほうっておいていいわけではない。私は西洋建築だけにウエートを置いているわけではありませんけれども、明治、大正の明治はいいのですけれども、大正、昭和の初期にかけての全国の文化の価値のある建造物の保護あるいは保存等についての法令的な網をかぶせる問題を、ぜひひとつ御検討を願いたいと考える次第です。御返答願います。
  149. 砂田重民

    砂田国務大臣 たとえば、確かに御指摘のような洋風の建築物と申しますか、そういうもののいままでの指定をいたしました件数を時期的に分けて考えてみましても、幕末期が五件、明治期が六十五件、大正期が一件でございます。まだ調査ができていない実態にあることは御指摘のとおりでございます。  昨年の三月、曽祢委員が国会で御発言になりました後、昨年の六月から近代建築の保存対策樹立を目的といたしまして近代建築保存対策研究調査会というものを設置いたしました。保存についての基礎事項を調査、審議をしてまいったわけでございます。これは建築学会に、学識経験者十二名を協力者に委嘱をいたしまして、五十二年度で四回の会議を開いていただきました。先ほど先生御指摘の四百何万というのがこの調査会のための五十三年度の費用でございます。主要近代建築の選定方針でございますとか、あるいは耐久度と補強の方法とか、再活用の方法とか、さらに現在問題となっておりますような建築等について検討、審議をしてまいりましたし、五十三年度におきましても前年度に引き続いて、近代建築物を選んで、構造の診断調査等の実施を委嘱をした方々にやっていただくことにしております。文化庁はこれらの調査結果を参考にいたしまして、また建築学会におきましても御自身でもこのような調査を進めておられますので、それらを参考にしながら今後の保存対策を、まだ明治期のもので残っているものがございますけれども、大正期のものまで幅を広げて取り組んでまいりたいと考えております。  トーマス邸は、民間の所有物でありましたものを地方公共団体が自分で買い取って保存をしようという、実は望ましいことでありますけれども、余り全国に数のない例であったわけでございます。建築物を買い取りますので補助金が大きくなって、こちらは調査費でございますので金額が少ないので、砂田の選挙区じゃないかというのはちょっと困るのです。  それから東京駅を例におとりになりましたけれども、こういう近代建築というのはまだ耐用年数に達していない。東京駅もりっぱに使えるはずでございます。そういう場合でも、先ほど御指摘がありましたように、機能的に、率直に言えば国鉄としてもっと収益が上がる方法がないかという考えが出てくるわけで、どうもそういった新たに起こる使用要求とこの保存という問題がまさにぶつかってくる問題でございます。そういうふうに、新たな使用要求にこたえての建てかえられる例が多いわけでございまして、この保存もその再利用を考えたものでなければなりません。御指摘のように、外部の主要な部分だけ抑える、外側を抑える、その他の中身については近代的な機能を持ったものに改造する、そういうふうな考え方で、現在の保護法でもそういう指定の仕方をしていかなければならないかと思いますが、そういうやり方で実施をいたしましたのは、国が持っております建物といたしましては、旧近衛師団司令部を国立近代美術館の工芸館に再利用いたしまして、れんがづくりの建物は明治四十三年創立当時の姿に復元をいたして、中は近代的なものにしたわけでございます。同様な例は、北海道庁の旧本庁舎でありますとか横浜正金銀行もそうでございます。いわゆる一種のファサード保存と申すのでございますか、そういうやり方でやったわけでございますが、明治のものにまだ手いっぱいかかっておりましたのを新しい建造物にも広げて適切な保護を図ってまいりたい、こういうように考えておりますので、御発言の御趣旨を踏まえまして、十分にひとつ前向きに検討させていただきたいと思います。
  150. 曾禰益

    ○曽祢委員 これで終わります。
  151. 菅波茂

    菅波委員長 次回は、来る二十六日開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後四時三十分散会      ————◇—————