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1977-07-30 第81回国会 参議院 本会議 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十二年七月三十日(土曜日)    〇開 会 式  午前十時五十八分 参議院議長衆議院参議院の副議長常任委員長及び議員内閣総理大臣その他の国務大臣及び最高裁判所長官は、式場に入り、所定の位置に着いた。  午前十一時一分 天皇陛下衆議院議長の前行で式場に入られ、お席に着かれた。    〔一同敬礼〕  午前十一時二分 衆議院議長保利茂君は式場の中央に進み、次の式辞を述べた。    式 辞   天皇陛下の御臨席をいただき、第八十一回国会開会式を行うにあたり、衆議院及び参議院を代表して、式辞を申し述べます。   去る七月十日参議院議員通常選挙が行われ、七月二十七日をもつて臨時国会が召集されたのでありますが、われわれは、新たなる構成のもとに、現下の諸情勢に対処して、当面する内外の諸問題の審議につとめなければなりません。   ここに、開会式にあたり、われわれに負荷された使命達成のために最善をつくし、もつて国民の委託にこたえようとするものであります。  次いで、天皇陛下から次のおことばを賜った。    おことば   本日、第八十一回国会開会式に臨み、先の参議院議員通常選挙による新議員を迎え、全国民を代表する諸君と親しく一堂に会することは、私の深く喜びとするところであります。   ここに、国会が、国権の最高機関として、現下内外の諸情勢に対処し、その使命を遺憾なく果たし、国民の信託にこたえることを切に望みます。    〔一同敬礼〕  衆議院議長はおことば書をお受けした。  午前十一時六分 天皇陛下参議院議長の前行で式場を出られた。  次いで、一同式場を出た。   午前十一時七分式を終わる      ─────・───── 昭和五十二年七月三十日(土曜日)    午後一時三分開議     ━━━━━━━━━━━━━議事日程 第三号   昭和五十二年七月三十日    午後一時開議  第一 常任委員選任  第二 常任委員長選挙  第三 国務大臣の演説に関する件     ━━━━━━━━━━━━━ ○本日の会議に付した案件  一、故議員神田博君に対し弔詞贈呈の件  一、故議員神田博君に対する追悼の辞  一、故議員高田浩運君に対し弔詞贈呈の件  一、故議員高田浩運君に対する追悼の辞  一、故議員迫水久常君に対し弔詞贈呈の件  一、故議員迫水久常君に対する追悼の辞  一、日程第一より第二まで  一、特別委員会設置の件  一、日程第三      ——————————
  2. 安井謙

    議長安井謙君) これより会議を開きます。  議員公職選挙法改正に関する特別委員長神田博君は、去る六月三十日逝去せられました。まことに痛惜哀悼至りにたえません。  同君に対しましては、すでに弔詞を贈呈いたしました。  ここにその弔詞を朗読いたします。   〔総員起立〕  参議院議員公職選挙法改正に関する特別委員長正三位勲一等神田博君の長逝に対しつつしんで哀悼の意を表しうやうやしく弔詞をささげます      ——————————
  3. 安井謙

    議長安井謙君) 小谷守君から発言を求められております。この際、発言を許します。小谷守君。    〔小谷守登壇拍手
  4. 小谷守

    小谷守君 本院議員神田博君は、去る六月三十日、東京都新宿区の国立病院医療センターにおいて、心不全のため急逝されました。まことに哀惜の念にたえません。  ここに私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、正三位勲一等神田博君の霊に謹んで哀悼言葉をささげたいと思います。  神田君は、明治三十六年十二月、新潟県東蒲原郡三川村に生まれ、たゆまぬ努力と勤勉によって、内務属として内務省地方局に勤務された傍ら、法政大学専門部法律科を御卒業になり、昭和七年には、当時の静岡県知事に請われて、内務省から静岡県へ出向、秘書課長地位につかれました。以来、経済部水産商工などの課長歴任、特に商工行政について卓抜した手腕を発揮されたのであります。  しかし、君は、昭和十四年、三十代の半ばで十五年間の官界生活から退き、静岡県を第二のふるさととされて、実業界へ潔く転身されたのであります。その第一歩財団法人理化学研究所静岡工場長の委嘱でありました。  その後、君は、理研電化工業株式会社、現在の理研軽金属工業株式会社北陸軽金属工業株式会社などの取締役社長会長として企業経営に当たられたのを初め、静岡放送株式会社などの会長のほか、地域社会商工業関係の数多くの団体の役員を務められるなど、人間関係を大切にされ、めんどう見はことのほかよく、その地域の振興と業界の発展に多大の貢献をされました。そのゆえをもって、昭和三十八年には、産業功労者として藍綬褒章の栄誉を授けられたのであります。  君の産業界に残された足跡とともに政界にしるされた足跡も大きく、戦後、政界入りを志されて、昭和二十一年四月の戦後第一回の総選挙日本自由党より静岡県第一区から出馬され、四十二歳の若さで衆議院議員に初当選を果たされたのを皮切りに、衆議院議員当選八回、昭和四十九年の参議院議員通常選挙では、全国区で当選という輝かしい足跡をしるされたのであります。  この国会議員在職二十四年余の長きにわたり、温厚誠実、気骨の政治家として活躍され、経済安定政務次官衆議院商工委員長、さらには石橋、岸、池田、佐藤の歴代内閣厚生大臣歴任参議院にあっては公職選挙法改正に関する特別委員長社会労働建設などの委員を務められました。  また、党にあっては、政策通として、党総務政務調査会審議委員経済調査会医療基本問題調査会などの副会長並びに静岡県連会長などの要職につかれ、活躍されたのであります。  しかしながら、君のこの輝かしい人生足跡は必ずしも平穏な道ばかりではなかったようであります。むしろ、忍耐と苦難の道が交錯するものであったと言われております。螢雪時代においては苦学力行政界にあっては四回にわたる総選挙での苦杯を見られたのでありますが、君は、その都度、持ち前の粘り強さを遺憾なく発揮されて、これを克服、われわれに不屈忍耐力と根性のある努力家との印象を深く与えられたものであります。  このような不動の信念を貫かれた君は、政治経済両面において数多くの業績を残されました。中でも、厚生大臣に在任中、ジュネーブで開かれた国際連合世界保健第十回総会に出席された機会に、四十一日間にわたって欧米十カ国を訪問され、各国の医療並びに社会福祉問題について政府要人と親しく懇談されるとともに、各種施設をつぶさに視察され、見聞を広められたのでありました。この貴重な体験により、国民保険制度に関する基礎固めを行われたこと、また、厚生年金における一万円年金制度を実施されたことなどは、国民のひとしく認めるところであり、特筆される功績であります。  近年、経済社会の著しい発展の中にあって社会福祉施策の拡充が何よりも要請されております今日、豊かな経験と高い識見を兼ね備えた人材の活躍にまつべきものがきわめて多いことを思えば、突然君を失ったことは、御遺族はもとより、本院にとっても大きな損失であり、返す返すも痛恨にたえません。  ここに謹んで故神田博君の生前におけるありし姿をしのび、数え切れぬ功績をたたえ、心から御冥福をお祈りして、追悼言葉といたします。(拍手)      ——————————
  5. 安井謙

    議長安井謙君) 議員高田浩運君は、去る十七日逝去せられました。まことに痛惜哀悼至りにたえません。  同君に対しましては、すでに弔詞を贈呈いたしました。  ここにその弔詞を朗読いたします。    〔総員起立〕  参議院議員従三位勲二等高田浩運君の長逝に対しつつしんで哀悼の意を表しうやうやしく弔詞をささげます。      ——————————
  6. 安井謙

    議長安井謙君) 上田哲君から発言を求められております。この際、発言を許します。上田哲君。    〔上田哲登壇拍手
  7. 上田哲

    上田哲君 本院議員高田浩運君は、去る十七日、転移性肝腫瘍のため東京国立医療センターで逝去されました。昨年暮れ、病に倒れられ、心配申し上げていたのでありますが、薫夫人を初め家族の方々、病院関係者の必死の御看護もかいなく、ついに計報を聞くに至りました。まことに哀惜にたえません。  私は、皆様の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで従三位勲二等故高田浩運君のみたまに追悼言葉をささげたいと存じます。  高田浩運君は、大正三年、熊本三名市の素封家高田幾平氏の長男として出生されました。三名市は西南戦役激戦地として有名な田原坂のすぐ近くでありまして、高田君の祖父禎次郎氏もこの地でかつての十年戦役に参加されたと聞きます。眉目秀麗、紅顔の浩運君は、その戦跡地田原坂近郊をこよなき遊び場として多感な少年時代を過ごしたのでありました。君の万丈の人生は、ここにその原型を得たと言うべきでありましょう。  地元玉名中学校では、君は抜群の秀才としての誉れを高くされました。やがて君は地元熊本の旧制第五高等学校に進みます。自由と剛気の気風に富む第五高等学校では、君は豊かな才能を文学に託し、多くの詩文を物されたこともいまに語りぐさであります。中でも、二年在学当時に作詞された「潮を焚くか不知火の」で始まる五高の寮歌は、当時この高校に集う若き駿秀の気概をふるい立たせるものであり、いまなお当時ともに学んだ人々に愛唱され続けているところであります。  東京大学では英法を学ばれ、昭和十一年、卒業後直ちに内務省に入り、翌十二年には、早くも香川県の警務課長に抜てきされました。当時、新聞では、全国で一番若い課長さんとして話題となったのであります。  昭和十六年、新設間もない厚生省に転じ、自来一貫して厚生行政に当たられました。すなわち、終戦直後は大臣官房総務課で、在外邦人、元軍人の引き揚げ援護の仕事を担当されました。その後、保険局及び医務局課長として、戦時中及び戦後インフレで荒廃した社会保険の再建、戦後社会保障制度基礎の確立及びその方向づけに努力されました。このことは、その後の君の活動に大きな指針となったものでありましょう。  この後、官房人事課長総務課長歴任され、当時、予算も定員も弱少であり、廃止構想まで出された厚生省基礎を固めるため、それこそ一身を投じて努力されたのであります。その後、医務局次長児童局長薬務局長大臣官房長保険局長歴任され、厚生行政の中枢にあって、国民保険医療社会福祉社会保障生活環境の整備、遺族等援護に心血を注ぎ、引き続き、昭和三十七年、社会保険庁の構想を実らせ、みずからその初代長官として、社会保険事務所新設等創設期組織固めに当たり、今日の社会保険事業基礎を確立されたのであります。そして、昭和三十八年十二月、厚生次官を命ぜられるや、四十年退官されるまでの間、公害審議会公害防止事業団創設などの公害行政推進老人福祉法施策推進母子福祉法の制定など、福祉行政の充実、それに一万円年金実現など、厚生行政の今日的課題に対し適確な諸方策を講ぜられたのであります。  君が厚生官僚として最高地位につかれたのは、そのすぐれた素質と、厚生行政推進こそ近代社会役割りであるとの固い信念に基づく不屈努力が高い評価を得たためでありますが、一面、新しく入省してくる若い後輩たちと常に厚生行政あり方について話し合い、論じ合う努力は、次々に時代を先取りする新しい考えを吸収し、実現していく柔軟な姿勢を生み出しました。私は、その声をいまも若い官僚から聞くのであります。  君の厚生省在職中手がけた諸施策の中でも看過できない一点は、厚生行政を戦前の治安確保の考え方から、近代的な社会保障施策実施官庁として位置づけたことでありましょう。  君は、昭和二十一年三月、つまり、今日の社会保障制度審議会がまだ発足の三年前、当時の保険局庶務課長として、社会保険制度調査会を設け、実に、ここに森戸辰男膳桂之助、清水玄氏らそうそうたる民間有識者三十六名の参加を得て、幅広く社会保険の将来の方向を探る機会をつくり上げたのであります。これは、昭和二十二年十月八日に社会保障制度要綱案として公表され、大きく世の関心を呼んだのでありますが、このことが、以後揺るぎなく、厚生省社会保障実現に向かう方針を確立させる基礎を固めることになったと言えましょう。また、昭和三十八年、東京で開かれた国際社会保障協会東京会議でみずから議長を務め、これを成功させたのも、君の社会保障にかけられた情熱が国際的に認められた証左であります。アジアでは初めての国際社会保障協会功労章を贈られたのもむべなるかなであります。  君は、郷土の先輩である大麻唯男氏を学生時代から尊敬し、しばしば大麻邸を訪れ研さんを積まれていたのでありますが、その影響もあり、官界を退かれた後、政治へ志すことになったと聞いております。まさに田原坂栴檀の志と言うべきでありましょう。私は、そのころ肩にたすきをかけて真摯な運動を続けていた君の姿をたまたま知っております。次官としては厳しい道であったと想像されます。  政治家に転じて、昭和四十三年第八回通常選挙参議院議席を得られてから今日まで九年間の活躍は、まことに目覚ましいものでありました。国会にあっては、主として社会労働委員会に属し、その理事を長く務められましたが、そのほか、予算委員会理事災害対策特別委員会理事沖繩返還特別委員会理事歴任し、さらにい昭和四十七年七月から昭和四十八年十二月まで参議院内閣委員長要職にあられました。  また、自民党にあっては、党の社会福祉部長社会福祉施設特別小委員長老人対策委員長国会対策委員長等要職歴任され、昭和四十九年十二月以降は、自民党政務調査会社会部会長として、党の福祉政策推進役及びまとめ役に当たられました。  こうして政治家としての高田君を見るとき、厚生行政全般にわたる並びなき知識経験を生かし、末端の一人一人にまで福祉の光を当てることに生涯をかけておられた姿がいまもこの机上にほうふつといたします。これこそ君の味わいでありましょう。家庭のお年寄りにやさしく声をかけ、福祉施設の身障者をいたわり、保育園の子供たちと語る君に対し、人はほのぼのとした政治あり方を見たと話します。党の立場は違いましたが、君の一貫して福祉行政にかける情熱に、私どもも敬服の念を禁じ得なかったものであります。  社会労働委員会は、与野党を問わず、福祉実現という共通の目的をもって活動を進めておりますが、その方法において、時として激しく対立することもあります。その中にあって、君は、よく対立点を検討され、妥協点を見出すべく真摯の努力を傾けられました。特に印象深いのは、昭和四十八年の健康保険法の大改正の際であります。当時、君は内閣委員長でありましたが、党の社会部会の一員として、家族給付率の引き上げ、高額療養費支給制度新設国庫負担の上乗せなど、幾つかの改善点を盛り込むために、衆議院社会労働委員会との折衝、厚生省大蔵省との意見調整など、それこそ寸暇を惜しんで活躍されました。あるいはそのときの活躍のお疲れも急逝の素地の一因かと思われるのであります。  今日、君の願いとされた福祉行政の飛躍的大展開には、いまだ現状ほど遠いものがございます。このときに当たり、君のような社会保障に際立つ練達堪能の士を失うことは、まことに痛恨きわみであります。  政治家としてさらに大成され、厚生部門最高責任者として閣列に参ずる日の近いことをも私どもは予想していたのでありますが、不幸にも天はその機会を奪いました。君もさだめしお心残りと存じます。しかし、君が生涯をかけて福祉に傾けたその志は、政党政派の領域を超え、社会基本願いとして培い育てていかなければならないところとかたく信ずるものであります。君の足跡は消えることなく、その願いは大きく引き継がれるに違いありません。  ここに重ねて高田浩運君の誠実な人柄と残された業績をしのび、院を代表して謹んで哀悼の意を表する次第であります。御冥福を心からお祈りいたします。(拍手)      ——————————
  8. 安井謙

    議長安井謙君) 議員迫水久常君は、去る二十五日逝去せられました。まことに痛惜哀悼至りにたえません。  つきましては、この際、同君に対し、院議をもって弔詞を贈呈することとし、その弔詞議長に一任せられたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  9. 安井謙

    議長安井謙君) 御異議ないと認めます。  議長において起草いたしました弔詞を朗読いたします。    〔総員起立〕  参議院議員正三位勲一等迫水久常君の長逝に対しつつしんで哀悼の意を表しうやうやしく弔詞をささげます。     —————————————  弔詞贈呈方は、議長において取り計らいます。      ——————————
  10. 安井謙

    議長安井謙君) 新谷寅三郎君から発言を求められております。この際、発言を許します。新谷寅三郎君。    〔新谷寅三郎登壇拍手
  11. 新谷寅三郎

    新谷寅三郎君 本院議員迫水久常君は、今月二十五日卒然と逝去されました。まことに痛恨きわみであります。  私は、同僚議員各位の御同意を得まして、議員一同を代表し、謹んで追悼の辞をささげたいと存じます。  迫水君は、明治三十五年八月、東京都に生をうけ、少年時代から俊秀の誉れ高く、第一高校学校を経て、大正十五年、東京帝国大学法学部卒業と同時に大蔵省に入り、自来、昭和二十年、銀行保険局長最後に同省を退官されるまで、大蔵官僚としてきわめて順調に昇進を続けられたのでありますが、その間、公務員としましては全く異例とも言うべき進路をとり、幾多試練に耐えて難局を乗り越えてこられたのであります。  すなわち、昭和九年には、岡田内閣成立に伴い、請われるままに内閣総理大臣秘書官に転出し、当時全国民の注目を集めました、いわゆる二・二六事件に当たり、総理官邸内外の厳重な反乱軍将兵の監視の中で、冷静機敏に事に処し、ついに総理を無事救出した君の決死的な行動は、いまも当時を知る人々称讃の的となっているのであります。  さらに、昭和十二年、支那事変の勃発に伴い、企画院に転出して、基本的な国策の樹立に参画せられ、縦横に手腕を発揮せられたのであります。が、たまたま私はその当時海運行政を担当しておりました関係上、君とはしばしば政策の策定について協議をしたり、ときには激しい論議を闘わせたことを、いまさらのように感慨深く思い起こすのであります。  その後、昭和二十年、大東亜戦争の敗戦がいよいよ決定的となった情勢下成立いたしました鈴木内閣のもとで、君は内閣書記官長に起用され、終戦早期実現を目指す総理を補佐し、生命の危険をも冒して終戦工作を進められたのでありまして、終戦詔勅草案は君の起草に係るものでありますことは、すでに周知の事実であります。  「機関銃下首相官邸」、「終戦の真相」、「大日本帝国最後の四ケ月」等の君の著書は、激動を続けた昭和史の生き証人としての君の体験と感想を率直に伝えたものでありまして、今後も永くわが国民に多大の感銘と示唆を与えるものと信ずる次第であります。  終戦とともに、GHQの指令により公職を追放された君は、昭和二十六年公職追放を解除され、翌二十七年の衆議院選挙郷里鹿児島一区から立候補して当選し、政界への第一歩を踏み出されましたが、三十一年から参議院に転じ、同年の参議院選挙全国区から出馬して当選し、自来四回連続当選を果たしておられるのであります。  参議院議員としての君は、その幅広い卓越した識見と活力ある行動力を高く評価され、自由民主党の総務党紀委員長参議院国会対策委員長、同幹事長等要職歴任するとともに、昭和三十五年、池田内閣成立に伴い、国務大臣経済企画庁長官に、次いで三十六年には郵政大臣に任ぜられ、輝かしい数々の業績を残されたのであります。  君は、資性明朗濶達人柄であるばかりではなく、一見精枠な風貌にもかかわらず、さすがに幾たびか激動の嵐の中を乗り越えてきた貴重な体験を身につけ、強い信念と豊かな人間性とを備えておられましたので、同僚議員は申すまでもなく、多くの国民から常に敬愛の念をもって迎えられておりましたことは、まことに当然のことであったと思います。  ことに、参議院議員としての君の政治姿勢について特筆すべきことは、君が常に両院制度における第二院たる参議院が憲法の所期するその本来の機能を発揮するためには、われわれ議員は何を考え、何をなすべきかを真剣に検討し、一歩でも二歩でも前進しようと熱意を込めて努力されたことでありました。参議院選挙のたびに、ともすれば参議院無用論等の批判が行われる世論の動向を見るとき、いま君を失ったことは、本院にとって実に大きな損失であると存じます。  さらに、君の積極性に満ちた行動力は、単に政治分野にとどまることなく、ライオンズクラブを初め、全国たばこ販売協会全国ラジオ体操連盟等二十数団体会長または理事長として、また、日本専門店会連盟等三十数団体の顧問として、経済社会、文化の各分野発展のため、終始一貫誠意を傾け、東奔西走して貢献されましたことは、君に寄せられた国民の信頼がいかに高かったか、また、君が国民の希望にこたえて、いかに献身的に行動されたかを如実に物語るものと言うべきでありましょう。  いまや激動する内外の諸情勢のもとで、わが国はいまだかつて経験したことのない幾多の厳しい試練に直面し、われわれに課せられた責務がいよいよ重大さを加えつつあるときに当たり、君の貴重な体験とすぐれた識見に期待するところ多大でありましたにもかかわらず、忽然として不帰の客となられましたことは、まことに惜しみても余りあり、ひとり本院のみならず、国家のためにも痛恨事であると申さねばなりません。  ここに謹んで君の御功績をたたえ、ありし日の君の面影をしのびつつ、衷心より御冥福をお祈り申し上げまして、追悼の辞といたします。(拍手)      ——————————
  12. 安井謙

    議長安井謙君) 日程第一 常任委員選任  本日、議長常任委員全員辞任を許可いたしました。  これより常任委員選任を行います。  常任委員選任は、本院規則第三十条により、すべて議長の指名によることとなっております。  議長は、議席に配付いたしました氏名表のとおり常任委員を指名いたします。      ─────・─────
  13. 安井謙

    議長安井謙君) 日程第二 常任委員長選挙  本日、常任委員全員辞任を許可いたしましたため、常任委員長全員欠員となりました。  これより全常任委員長選挙を行います。
  14. 井上吉夫

    井上吉夫君 常任委員長選挙は、その手続を省略し、いずれも議長において指名することの動議を提出いたします。
  15. 久保亘

    久保亘君 私は、ただいまの井上君の動議に賛成いたします。
  16. 安井謙

    議長安井謙君) 井上君の動議に御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  17. 安井謙

    議長安井謙君) 御異議ないと認めます。  よって、議長は、内閣委員長塚田十一郎君を指名いたします。    〔拍手〕  地方行政委員長金井元彦君を指名いたします。    〔拍手〕  法務委員長中尾辰義君を指名いたします。    〔拍手〕  外務委員長安孫子藤吉君を指名いたします。    〔拍手〕  大蔵委員長嶋崎均君を指名いたします。    〔拍手〕  文教委員長吉田実君を指名いたします。    〔拍手〕  社会労働委員長上田哲君を指名いたします。    〔拍手〕  農林水産委員長鈴木省吾君を指名いたします。    〔拍手〕  商工委員長楠正俊君を指名いたします。    〔拍手〕  運輸委員長内田善利君を指名いたします。    〔拍手〕  逓信委員長栗原俊夫君を指名いたします。    〔拍手〕  建設委員長小谷守君を指名いたします。    〔拍手〕  予算委員長鍋島直紹君を指定いたします。    〔拍手〕  決算委員長茜ケ久保重光君を指名いたします。    〔拍手〕  議院運営委員長に木村睦男君を指名いたします。    〔拍手〕  懲罰委員長に河田賢治君を指名いたします。    〔拍手〕      ——————————
  18. 安井謙

    議長安井謙君) この際、特別委員会の設置についてお諮りいたします。  沖繩及び北方問題に関する対策樹立に資するため、委員二十名から成る沖繩及び北方問題に関する特別委員会を、  災害に関する諸問題を調査し、その対策樹立に資するため、委員二十名から成る災害対策特別委員会を、  公害及び環境保全に関する諸問題を調査し、その対策樹立に資するため、委員二十名から成る公害対策及び環境保全特別委員会を、  交通安全に関する諸問題を調査し、その対策樹立に資するため、委員二十名から成る交通安全対策特別委員会を、  当面の物価等に関する諸問題を調査し、その対策樹立に資するため、委員二十名から成る物価等対策特別委員会を、  公職選挙法改正に関する調査のため、委員二十名から成る公職選挙法改正に関する特別委員会を、  科学技術振興に関する諸問題を調査し、その対策樹立に資するため、委員二十名から成る科学技術振興対策特別委員会を、  また、ロッキード問題に関し徹底的に調査し、その真相を解明するため、委員二十五名から成るロッキード問題に関する調査特別委員会を、それぞれ設置いたしたいと存じます。御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  19. 安井謙

    議長安井謙君) 御異議ないと認めます。  よって、沖繩及び北方問題に関する特別委員会外七特別委員会を設置することに決しました。  本院規則第三十条により、議長は、議席に配付いたしました氏名表のとおり特別委員を指名いたします。
  20. 安井謙

    議長安井謙君) これにて休憩いたします。    午後一時四十分休憩      ——————————    午後二時八分開議
  21. 安井謙

    議長安井謙君) 休憩前に引き続き、会議を開きます。  日程第三 国務大臣の演説に関する件  内閣総理大臣から所信について発言を求められております。これより発言を許します。福田内閣総理大臣。    〔国務大臣福田赳夫君登壇拍手
  22. 福田赳夫

    国務大臣(福田赳夫君) 第八十一回国会が開かれるに当たりまして、所信の一端を申し述べたいと存じます。  私は、今回の参議院議員通常選挙で示されました国民の期待と願望を正しく、また、謙虚に受けとめ、国政の進路に誤りなきを期し、ここに心を新たにして、さらに真剣な努力を続ける所存でございます。  内外の諸情勢はなお厳しいものがあります。政府はこれに柔軟に対処し、機敏に行動し、国民の皆さんの期待と信頼にこたえるよう全力を傾けてまいります。  当面する最大の課題は、経済運営の問題であります。  最近のわが国の経済情勢を見ますると、政府投資が増加し、輸出も、その伸び率がやや鈍化しているとはいえ、引き続き高い水準で推移しており、景気は緩やかな回復基調にあります。しかしながら、設備投資などの民間需要の盛り上がりが乏しく、また、地域、業種による格差の問題も生じております。  政府は、公共事業執行の促進、金利の大幅な引き下げなど、一連の景気対策のほか、中小企業対策、構造対策に全力を傾倒いたしておるところでございます。  これら諸対策の効果は逐次あらわれてくるとは存じますが、引き続き事態の推移に即応して機動的な政策運営を行い、景気の回復を一層確実なものとし、もって内外情勢に対処する所存でございます。  物価の安定は、国民生活安定の基盤であり、社会的公正を確保するための不可欠の要件であります。  最近の物価の動向を見ますると、卸売物価は、為替相場が円高となったこともありまして、主要先進国の中では西独と並んで最も落ちついた推移を示しております。また消費者物価も、なお水準は高いものの、安定化の基調は次第に確かなものとなりつつあります。  政府は、引き続き生活必需物資等の価格安定対策を強化し、消費者物価の年度中の上昇率は七%台に抑制するという方針でございます。  政府は、さらに各般の雇用安定対策を推進し、また、恵まれない人々に対する福祉対策を充実して、国民生活の安定を図るため万全を期する所存でございます。  経済社会情勢の変動と行政需要の変化に対応しまして、行政の簡素化、合理化等の改革を行うことは、政府が当面する重要な課題であります。政府は、行政改革を積極的に推進する方針のもとに、目下その基本方針を検討中であります。  財政の健全化もまた緊急課題の一つであります。歳入面における見直し、歳出面における効率化の徹底等、財政の健全化を強く推進しなければならないと考えております。  次に、資源・エネルギー問題は、わが国経済及び国民生活の基盤にかかわるきわめて深刻な基本問題であります。  政府は、周到な環境並びに安全対策を徹底しつつ、電源開発の促進、原子力を初め、石油代替エネルギーの開発の積極的推進等に努めるとともに、省エネルギー対策の拡充を図り、今後なおエネルギーの大半を石油に依存せざるを得ない実情にかんがみ、産油国等との協調、大陸だな石油開発、備蓄等の諸対策を積極的に進めてまいります。  また、最近、米の生産過剰、需要の高い農作物の生産停滞、二百海里時代の到来による漁業への影響等、食糧をめぐる内外情勢はまことに厳しいものがあります。  政府は、総合的な食糧自給力向上のため、生産基盤の整備、需要に即応した生産の増大、生産の担い手と後継者の確保等、農林漁業の体質強化に努めるとともに、米の需給均衡化のための施策を強力に進めてまいります。  また、二百海里時代の急速な到来に当面し、その影響を受ける北洋漁業関係者及び離職者等に対しましては、所要の救済措置を講ずるとともに、水産資源の開発、増養殖の推進に努める等、適切に対応してまいる所存でございます。  来る八月初旬、マレーシアの首都クアラルンープールにおいて、東南アジア諸国連合、すなわちASEAN首脳会議が開催されるのであります。その機会に、私は招かれまして同地に赴き、参加各国首脳と親しく話し合いを行い、さらに引き続きASEAN五カ国及びビルマを訪問する予定でございます。今回の訪問は、わが国がこれら諸国との物心両面にわたる真の友人としての協力関係を確立する上で重要な意義を有するものであります。  政府といたしましては、さらにインドシナ諸国との相互理解の増進にも努め、広く東南アジア全域に平和と繁栄を分かち合う関係を樹立することに寄与してまいる所存でございます。  同じアジアの一部であるインド亜大陸の国々との関係も重要であります。最近の外務大臣によるバングラデシュ、インド及びネパールの三カ国訪問は、わが国とこれら国々との相互理解と友好協力の促進にとって大きな意義を有したものだと考えております。  私は、本年三月、米国を訪問し、カーター大統領との間で、わが国外交の基軸である日米友好協力関係の維持増進を確認し合いました。今後とも「世界の中の日米協力」という立場から、国際社、会の期待に積極的にこたえるよう、ともに協力してまいる決意でございます。  日中両国の関係は、日中共同声明を基礎として順調な発展を見せております。政府は、両国が共同声明を誠実に遵守することこそ相互の関係を律する基本であるとの立場を堅持しつつ、両国の善隣友好関係を長い将来にわたって揺るぎないものとしたいと存じておるのであります。日中平和友好条約に関しましては、双方にとって満足のいくような形で、できるだけ速やかにこれを締結するため、一層の努力を払ってまいりたいと存じます。  日ソ両国の友好関係もまた重要でありますが、北方領土問題を解決して平和条約を結締することこそが、両国関係を真に安定した基礎の上に発展させる不可欠の前提であります。政府は、この基本的立場を実現するため、対ソ折衝を強力に推進するとともに、経済、文化、貿易、人的交流等広範な分野においても、その着実な前進を通じて、日ソ関係発展に努める所存であります。  皆さん、すでに新しい世紀が指呼の間に迫ろうといたしておるのであります。そしていま、人類はまさに有史以来の資源有限時代を迎えようとしておるのであります。人口細密で、国土は狭く、天然資源に乏しいわが国の歩む道は、細く、かつ、険しいと言わなければなりません。  しかしながら、資質に富み、活動的で勤勉なわが民族が力を合わせて事に当たるとすれば、歴史が幾たびか実証しているように、いかなる困難も乗り越えられないはずはないと思うのであります。  私は、国民の英知を集め、その連帯と参加のもとに、二十一世紀に向けて真に安定した力強い文明社会を築き上げるために全力をささげてまいりたいと思うのであります。  皆さんの御理解と御協力を要望してやみません。(拍手
  23. 安井謙

    議長安井謙君) ただいまの演説に対する質疑は次会に譲りたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  24. 安井謙

    議長安井謙君) 御異議ないと認めます。  本日は、これにて散会いたします。    午後二時十九分散会