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参考人(林
竹二君) 私の話は、いままでのお三方とかなり帳じりの違ったものになろうかと思うんです。で、私は確かにいま
日本には、入試に関して地獄、
試験地獄とよく言いますが、その
試験地獄とも呼ぶべき事実があると思います。しかし、この事実を、この地獄を何とかして解消しようと思うと、
制度論や技術論ではほとんど何にもできないんじゃないかという気がいたします。その前提にもっと別なものが必要であるというふうに思うわけです。それで、私はもっぱら本質論とか実質論的なことを申し上げたいと思っております。
それで、第一に申し上げたいことは、いわゆる
試験地獄というものをつくり出したことに対する責任というものは、果たしてその
大学の入試だけにあるんだろうかということであります。それで、
試験は確かに学校
教育を破壊しております。その破壊の程度は大変いま深刻になっておると思います。しかし、それよりももっと深刻な事実は、この学校
教育があらゆる
段階において、学校
教育というものが空洞化しているんじゃないかという点であります。また厳密な意味で
教育というものが放棄されているんじゃないかというようなことが私は感じられて仕方がないんであります。それで私は、少し逆説的になりますけれ
ども、この学校
教育の空洞化が
試験地獄を生んでいるので、その逆ではないということを申し上げたいように思います。
で、私、
大学に三十何年くらい御厄介になりましたけれ
ども、この
試験地獄という問題について
大学は最大の加害者であるかどうかということについては、先ほど申し上げたように私はそれを認めるのにかなりちゅうちょを感じますけれ
ども、非常にはっきりしておりますのは、
大学がこの熾烈な
受験戦争の最大の被害者であるということであります。ところが、
大学の
方々も自分が被害者であるという実感が何だか非常に希薄なように思います。それで、激烈な
受験戦争に勝って
大学に入ってくる人間は、その人間に対して
大学が第一に求める、学ぼうとする意思と
能力をほとんど失い尽くしてしまっているわけであります。その
受験準備のためにその
能力を根底から破壊してしまわないと
大学にはいれないのであります。そういう人間が
大学にはいってくるわけであります。で、彼らは、何かを学ぶということが何であるか教えられていない。それから、学ぶということの喜びはもちろん教えられていない。それですから彼らは、何か学んで、何かそこで身につけるために
大学に入るのではないわけであります。彼らは、ただそこを出るために、楽をしながら
社会におけるしかるべき地位につくパスポートを手に入れるためにだけ
大学に入ってくるわけであります。すなわち
大学はそこを出るために入るだけであります。これで
大学教育が形骸化されないわけはないわけであります。しかし、この事態に対しては私は
大学自体が厳しくその責任を問われなければならないだろうと思います。これを
高等学校の責任に転嫁するわけにいかない。これは
大学自身がやっぱり責任を問われなければならないと思います。
大学では一人一人の
教官は自分の
研究にはすこぶる熱心であります。しかし、
大学が総体としてどうしたら学生の
教育に対して責任をとることができるかということについてはすこぶる不熱心であります。私は、その責任をとろうとする意思さえも持たないのではないかというふうに感じます。
で、私は、大変いままでラジカルなことを申し上げましたけれ
ども、これは私は、これだけの主張を申し上げるのは、宮城
教育大学における六年間の
学長としての経験を踏まえて、それからさらにその上に、これは私、教員養成
大学の
学長でありましたから、何とかその責任をとるために学校
教育の実態に触れたいと思いまして、小学校、中学校で
授業を試みました。そして、その
授業の経験、それから
学長としての経験、それからその
授業の経験に基づいて申し上げているわけであります。
私は、全国のいろいろな土地のいろいろな学校で
授業をやりましたが、ちょうどそれが二百三十三回になりました、六年余りであります。そしてその経験についてここに出ております、国土社から「
授業・人間について」というこの書物に子供の感想を主としてこの本は編んでおりますが、その「
授業・人間について」とか、
日本放送出版
協会から出ました「林
竹二・
授業の中の子供たち」、の中に、子供たちの表情を主として、それから
授業の記録なんかもおさめてここに出しておりますから、関心のある方はごらんいただきたいと思います。
それで、子供の感想ということを申し上げましたが、子供の感想というのは作文ではないのであります。これは
日本の
教育に関する非常に重い証言であります。で、私は、その
授業をしますと子供に感想を書いてもらうだけじゃなくて、その学校の先生たちに
授業を見てもらって、その上でその先生たちと話し合いをずっといたしてまいりました。ですから、この経験を通じて、私は
日本の
教育の現実のかなり内奥、奥深いところで
日本の
教育の実態に触れているつもりであります。
で、私は、ここで
一つの
授業の例から私の証言を始めたいと思いますが、私の二百三十三回目の
授業、すなわち最新の
授業は、神戸の長田区にある定時制の湊川
高校で、その二年生を相手にしてやった
授業であります。それで、湊川
高校については、その立地条件や何かで御存じの方がかなり多いと思いますけれ
ども、あそこは
日本で都市としては最も広大な未解放部落の番町に隣接して建てられている
高校であります。そして定時制でありますから、ことに最も劣悪な生活条件とそれから労働条件のもとで生活し、労働している子供たちをそこに収容しているわけであります。ですから、この湊川の子供は、自分のそれぞれの職場における労働を、かなりきつい労働をやっている子供が多いわけでありますが、労働を終わって学校に駆けつけてくるわけであります。そこで、そういう労働を終わった子供たちを相手に私は「人間について」という
授業をいたしました。これは、人間とは何なのかということ、それから、人間を人間にするものは何なのかという問題を考えているわけであります。おもしろおかしい
授業ではないわけでありますが、そこでこういうふうな(写真を示す)非常に真剣な表情をして子供たちは
授業を受けております。こういう非常に苦悩に満ちたような顔からだんだんきれいな美しい顔になってくるわけです。まあ私は、
授業というのは
一つのカタルシスだと、浄化だというふうに呼んでおりますが、これをお回ししてもよろしいかと思いますが、これをずっと続けて見ていただきたいんです。だんだん変わっているところ……。ここに写っておる少年といいますか、青年といいますか、これはそば屋の出前持ちをやっております。その出前持ちをしている子供がこんなに美しい、高度の知性を持った顔になっている。これが
授業が終わった休み時間にはこういうふうにくつろいで子供のようになってくるわけです。これも普通、席に着いていることが余りない子だということでありますが、これが
授業の中でこんなにみごとな威厳を持った顔になっております。こういうのもあります。それで、こういうふうな、これは三十五歳になる勤労者であります。この
授業をやりまして私、まあ、写真は学校の方で写してくれたわけでありますが、私の写真を写している小野というカメラマンがおりますが、その小野君はこのとき行けないので、向うで用意された神戸のカメラマンの秋山氏と、青雲
高校の西川氏が写したんでありますが、この写真を見て私は驚きました。もっとも私は
一つの
授業というものがそのカタルシスであるという主張をよくやってきておりますけれ
ども、もし私に十分な力があれば、この湊川ではいままで見たこともないような最も美しい顔が見られるはずだというふうに私は仮説を立てておりました。しかし、それが裏切られなかったように思います。
というのは、この私の
授業がごく普通の
高等学校でなされたならば、この湊川の子供が示したような表情は絶対に見られないと思います。その点をお考えいただけるでしょうか、なぜそういう違いが出てくるのか。それはしごく答えは簡単であります。それは、そういう、ことにエリート校なんかの場合は、私が湊川で問題にしたような、人間とは何か、人間を人間たらしめるものは何かというようなことに頭を突っ込んでいては、そんな
授業に夢中になるようでは
大学の入試には通りっこないはずであります。ですから、そういうものに対する感受性とか、そういうものに対する学ぶ要求とかいうものは一切捨ててしまわなければ、結局
大学の入試は通過できないという事実があるわけであります。ですから、いわば本当にこういう種類の
授業に深く集中し、深い厳しい
学習をするような子供は
大学に入れないという事実があるわけであります。ですからそういう
人たちが、ところがエリート校を出ますれば、国家や
社会の運命を握るわけであります。これはひどく私は恐しい事実じゃないかと思います。ですから、私は
試験地獄を生み出しているのは学校
教育の空洞化であるということを言いました。その空洞化というのはどういうことかというと、厳密な意味の
教育が失われているということでありますが、
授業というものの中で
一つの問題を突きつけられて、その問題とまともに持続的に取り組むということ、これが
学習であります。で、湊川の子供はそれをやっているわけです。で、問題と格闘し、自分と格闘しているわけであります。で、その格闘を通じていままで自分の立っていたところからはるかに高いところに引き上げられるわけであります。
で、そういう
授業がいま
高等学校で行われているかということであります。だから、学ぶ経験を持たない、そして学ぶ喜びというものを知らない人間は、要するに有名校にあこがれて、ただ、そこを出て
社会的に有利な地位に立つためにその
大学を目指すということになるわけであります。しかし、本当の学びということは何であるかということを子供たちは普通は教えられていないわけであります。学ぶということと覚えるということとは全く別のことなんだというようなことを考えたことのある子供というものはほとんどいないだろうと思います。しかし、それは学校に責任のあることであります。
ここに私、仙台市立の公立中学で一年生に入ってきた新入生に渡した心得のプリントを持っておりますが、これにはこう書いてあります。「
学習にとってもっとも大切なのは「記憶」であるが、この記憶は新しいものごとをおぼえる記銘、おぼえたことをしっかりつかんでおく保持、それを後から思い出す再生、この三つから成り立っている。」、こういうことをいっている。それで、その記憶を強くするためには、お湯に入ったら五分以上入ったらいけないとか、テレビは何分以上見てはいけないとか、そういうことを長々と書いているわけであります。だから
教育というものは物事を覚えることだということを初めて入ってきた一年生に中学校が公に教えているわけです。こういう
教育を受けて、本当に学ぶということは単なる何かを記憶するということとは別なことなんだなということを考えろといっても無理であります。ですからそういうところに私は空洞化の
一つの
原因があるように思います。
それで、私が二百三十回ばかりの
授業をしている間に、小学校の四年生が書いた感想でこういうものがあります。これは小学校四年生であります。
先生 きょうの 四時間日の へんてこなれきしのべんきょうか りかのべんきょうかわからないべんきょうを、 して はじめてべんきょうのおもしろさが、 わかりました。
いままで、小学校1年生から4年生まで、人間とは、 なにか、どおゆう物であるか、そして、どう物と、 どうちがうか、 人間のにの字も しらべたことが、 ありません。
先生の お話を 聞いていると、 自分のことも、 わからないようじゃだめだと、頭にうかんできます。いままでのべんきょうは、 てっていてきにしらべたことが、 ありません。
ただ 答えを、 だしたら、 それを、 おぼえて、 りゆうを、 かんたんに、 考えて、 終りです、 だいたい一もんに 15分とかかりません。
先生の ばわいは、 こまかくてっていてきに、 りゆうも、 こまかく しらべて終りで 一もんで、 45分いじょう かかります。
ぼくの いままでのべんきようにくらべると、 ずいぶん ちがいます。
ですから、こういう
授業をすれば子供は初めて勉強のおもしろさがわかったと言うわけであります。子供というのはものすごい力を持っています。
で、その一例としてこういうのもあります。これも同じく四年生でありますが、これ四年生になったばかりの子であります。四年生の子がこう書いています。
その日一時間目のときに
授業を受けた。
学長先生の
授業の教え方はうまい。それは大きく分けて、よく考える時間をくれるし、こまかく切りきざむところまで心を入れ、よくわかりやすく説明し、よけいなところのはぶき方もうまいからです。この差がプロフェッショナルと普通の先生方の違いです。
と書いています。ですから子供は本当に物事をとらえる非常に鋭い、深くとらえる力を持っているのですが、それにこたえる力を持っていないわけです、学校
教育は。
それで私は、私の
授業の経験、それから子供の感想と先生方との話し合いをした結果、こういう
結論を出さざるを得なくなりました。その第一は、子供たちは
成績などとは全く
関係なくすばらしい、驚くべき力を持っている。この力、すなわち可能性であります。引き出さなければ物にならない。持っております。しかし、いまの学校ではこの力がほとんど引き出されていないだけじゃなくて、逆につぶされているわけであります。時間があれば全部その論拠を示します。それで二は、子供はみんな勉強したがっている。それはあたりまえで、子供にとっては、激しく成長している時期の子供にとっては学ぶ意思と
能力がすなわち生の可能性にかかっているわけであります、それが。それがなければ生きることはできないんであります。しかし、学校
教育はこの子供たちの願いにこたえていない。で、子供たちはパンを求めて石を与えられ続けている結果、学校
教育によって勉強ぎらいにされてしまっているわけであります。それで、そういうときに、学校にはパンなどがあるはずがないと割り切って、与えられた石を適当にこなしていく子供がよい子になったり、優等生になったりするわけであります。で、あくまでもこれは石であってパンでないというようなことを固執する子供たちは問題児になったり、切り捨てられたりするわけであります。で、その切り捨てられた子供の何人かを切り捨てるということの上にいまの学校
教育が成立しているということは、これは非常に恐ろしいことだと思います。何人かの子供を切り捨てて何人かの子供だけを相手にする
教育は
教育ではないわけです。
私の
結論を最後に簡単に申し上げますと、結局、この
解決というのは、
大学が
大学になり、
高等学校が
高等学校になる以外には
解決がないということであります。
大学が
大学になるというのは、
大学は単なる一人一人の先生方が
研究に対して責任を持つというだけじゃなくって、やはり学生の
教育に対して、
研究に対すると同じように
教育に対してやはり総体として責任を持つことを考えなければならないわけであります。ですから、本当に学ぶ意思も
能力もない学生が入ってくるのをそのまんま出してやるというようなことでは、
大学は
大学としての責任を果たしていないわけであります。それから
高等学校について言いますと、
高等学校は、
高等学校に学んでいる子供たちは本当に人生のかけがえのない
一つの時期にあるわけであります。その時期にしかできない生活、それからその時期にどうしても学ばせておかなければならないものを学ばせる。これは
受験に必要なものとは別なものであります。それを学ばせるということに対して
高等学校は責任をとるべきだと思います。
入学者が少ないか多いかということに対しては
高等学校は責任を問われる理由はないわけであります。ですから、そういうふうにして、
大学と
高等学校がそれぞれに、
大学が
大学になり
高等学校が
高等学校になるためには、やはり小学校以来のあらゆる学校の
段階の中でもう一遇本当に
教育というものが回復されなければならないわけであります。
少し時間を超過して申しわけありません。陳述を終わります。