○木島
委員 大臣、さっき私は、奥野さんが
日教組と
文部省の蜜月時代があったと言ったら驚かれたと申しました。終戦直後であります。そのときは、いま言われる意味の静かな場でした。静かでないとするならば、新しい
教育を求めてのみんな一緒になっての騒がしさはあったかもしれませんけれども、蜜月でした。それがなぜこうなったかということを私は聞いておるのです。そういう流れの一こまにスト権があるのです。それをスト権だけがという観点に立つと、
政争の場から静かな場に持っていくところのきっかけがありません。本当に静かになるなら、本質的に——後でお聞きしますけれども、
対話と協調なり協調と連帯なりということの政治を求めるとするならば、そうしていまの政治情勢はそういう情勢を、国民が求めておるところの結果をこの議会の政治問題の中で出しておるのですから、そうであるならば、やはりそのことを明確にしなければならぬだろうと私は思うのです。戦後、戦前の
反省から民主
教育を目指して、先ほど言った蜜月時代が過ぎました。しかし、やがてそれは数年で消えていきます。それは
世界の冷戦構造であります。その冷戦構造の中でもって、やがてそれが中国の毛沢東政権が成立し、朝鮮戦争が起こる。そのころからアメリカからの再軍備の
要請あるいは憲法改正の
要請等があった。しかし、日本には憲法第九条があるからなかなかできなかった。だが、最初ちょっと申しましたけれども、
昭和二十七年までは学者、民間
大臣が八代続いております。それは先ほど永井さんを出すことがいいと言った、あなたが
政争の場からとおっしゃった意味でしょう。党派に干渉されない、党派の支配に服しない純粋な
教育行政を求めた姿であったでしょう。けれども、そういうアメリカの
要請によって
昭和二十七年岡野清豪が政党
大臣として登場して以来、永井さんを除いてあなたまで続いておるわけです。そして、その
要請の中でもって、たとえば
昭和二十八年十月に池田・ロバートソン会談等が行われて、これは「日本
政府は
教育及び広報によって日本に愛国心と自衛のための自発的
精神が成長するような空気を助長することに第一の責任を持つ」ということを確認され、そしてもう詳しいことは述べませんが、先ほど
小島さんの御
質問にありますところの、
昭和三十一年には
教育委員会が公選制から任命制になる。当時はほとんどは無所属であったけれども、無所属というのは保守党の代名詞でありました。その保守党の代名詞の知事や市町村長が任命をし、保守が大部分を占めるところの議会で同意する。それは
政府の、
文部省の意思の通ずる
教育委員会に持っていかれました。そしてその翌年、勤評によって
文部省の物の
考え方、意に沿わぬところの者、意に沿う者、それを勤評として勤務評定をし差別待遇をしようとする。そして、
文部省、県の
教育委員会、市町村の
教育委員会、校長を通してその支配のルートができてきた。教頭が規則でもって制定をされる。そして、
文部省の指導要領が法的拘束力を持つということになり、そのことが
子供にどう
影響しているかを学力一斉テストでもって、学力でもってそれをはかろうとするというような一連の流れというものがずっときた。そういう歴史というものの中に、いまあなたがたとえばストならストということがある、そういう中にあった、そういうことを根本的に
理解をし、認識をし、この認識は永井さんと私の認識は一緒でありますけれども、だからあなたは永井路線を踏襲されるというのでありますからその認識というものにもそう差はないのだろうと思うのでありますけれども、そういう認識を
前提にして、しかしそれではすぐにあの蜜月時代に返るということは困難でありましょうけれども、そういう認識の中でもって何をいまなすべきかを
考えていくというその
基礎の認識というものが明確でなければ私はならぬだろう、
政争の場から静かな場へ持っていくことはできないだろうという意味で実はさっきからお聞きをしているところであります。