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1976-10-28 第78回国会 参議院 文教委員会 第6号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和五十一年十月二十八日(木曜日)    午前十時七分開会     —————————————    委員異動  十月二十七日     辞任         補欠選任      前川  旦君     松永 忠二君      小巻 敏雄君     小笠原貞子君  十月二十八日     辞任         補欠選任      小笠原貞子君     小巻 敏雄君      須藤 五郎君     安武 洋子君     —————————————   出席者は左のとおり。     理 事                 久保田藤麿君                 内藤誉三郎君                 小巻 敏雄君     委 員                 山東 昭子君                 志村 愛子君                 二木 謙吾君                 鈴木美枝子君                 松永 忠二君                 宮之原貞光君                 内田 善利君                 白木義一郎君                 中沢伊登子君                 有田 一寿君    政府委員        文部省初等中等        教育局長     諸沢 正道君    事務局側        常任委員会専門        員        瀧  嘉衛君    参考人        教育課程審議会        会長       高村 象平君        和光大学学長   梅根  悟君     —————————————   本日の会議に付した案件 ○理事補欠選任の件 ○参考人出席要求に関する件 ○教育文化及び学術に関する調査  (教育課程改善の問題に関する件)     —————————————   〔理事内藤誉三郎委員長席に着く〕
  2. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) ただいまから文教委員会を開会いたします。  委員異動について御報告いたします。  昨二十七日、小巻敏雄君及び前川旦君が委員辞任され、その補欠として小笠原貞子君及び松永忠二君が選任されました。  また本日、小笠原貞子君が委員辞任され、その補欠として小巻敏雄君が選任されました。     —————————————
  3. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) 理事補欠選任についてお諮りいたします。  委員異動に伴い、本委員会理事が一名欠員となっておりますので、ただいまから補欠選任を行いたいと存じます。  理事選任につきましては、先例により委員長の指名に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  4. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) 御異議ないと認めます。  それでは理事に小巻敏雄君を指名いたします。     —————————————
  5. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) 参考人出席要求に関する件についてお諮りいたします。  教育文化及び学術に関する調査ため参考人出席を求め、その意見を聴取することに御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  6. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) 御異議ないと認めます。  なお、日時及び人選等につきましては、これを委員長に御一任を願いたいと存じますが、御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  7. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。     —————————————
  8. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) 教育文化及び学術に関する調査中、教育課程改善問題に関する件を議題といたします。  本日お招きいたしました参考人は、教育課程審議会会長高村象平君、和光大学学長梅根悟君の両名でございます。午前中は高村参考人、午後は梅根参考人の順序でそれぞれ御意見を聴取することといたします。  この際、高村参考人に一言ごあいさつを申し上げます。本日はお忙しいところ、本委員会に御出席いただきましてありがとうございました。  それでは議事の進め方について申し上げます。本日は教育課程改善問題について忌揮のない御意見をお述べ願いたいと存じますが、議事の都合上、御意見をお述べ願う時間は十分程度にお願いいたしたいと存じます。なお、参考人意見陳述の後で各委員から質疑がございますので、お答えをいただきたいと存じます。それでは高村参考人にお願いします。
  9. 高村象平

    参考人高村象平君) 高村でございます。ちょうど三年ばかり前になりますが、この教育課程審議会仕事をしないかというお勧めがございまして、それ以来委員会百五十何回か開いて本日に至っておりますが、私がこの仕事をお引き受けいたしましたのは一つ二つの理由がございますので、前もってそれを申し上げておきたいと思います。  一つは、ことに最近強くなっていると思うのでありますが、学校の下校後と申しますか、ウイークデーの午後でございますね、夕方にかけまして、もとは街中で子供の遊び戯れる声が非常にした。ところが、いまは一向それが聞こえなくなって、かわって自動車のクラクションばっかり聞こえる。もちろん交通安全のため子供が昔のように道路の上で石蹴りをしたり、べいごまをやったりというようなことはなくなったわけでありましょうけれども、しかしもう一つ考えていかなきゃならぬことは、時折新聞その他にも出ることなんですが、義務教育学校では大抵の場合、朝十分ないし十五分校長さんが朝礼ということをやります。大体がお小言を言う時間なんでありますけれども、その十五分あるいは十分というものを立ち続けていられない子供ができてきておる。そのくせ背は高く、体はなかなか太って一見体力がありそうでいて実は体力がない。こういった子供が将来の日本を担うのかと思うと、ちょっと変な気持ちがするわけであります。それが全部、教育課程過密ダイヤといわれているものによって出てくるかどうかは問題なんでありますが、とにかくそれは教育課程現状がその一因であるということは否めない事実といっていいと思うんであります。  それで私ども教育課程審議会を、先ほど申しましたように百五十何回というものをこの約三年の間に会合を開きまして、いままでのまとめを、今月の初めに「審議まとめ」と題しますものを発表いたしましたので、きょうお集まりの方々は大体目を通してくださっているものと思います。もちろんまだ今後、来月いっぱいかかりましていろいろの方々の御意見を承るなり、あるいは現場の声、ついこの間も私、小倉へ行って現場先生方からの声を聞いてまいりましたが、そういうものを織り込みまして、また初等教育中等、高等のそれぞれの分科会で論議いたしまして、そして最終答申を十二月の十幾日かには文部大臣に提出する、そんな予定を立てております。  それで、どんなことをねらっているかということなんでありますが、私は三点と思うんであります。  一つは、これは従来行われている教育といわれるものが、みんなそうだったと思うんでありますが、何か知識を伝達するという形、それがもう教師仕事であり、またそれが伝達されるということが児童生徒役割りであるというようなふうな印象があったと思うんでありますが、それがために、それぞれのもうすでに一人前になっている先生方にとってはあたりまえのことをなさるわけですが、受け取るものはいわば白っ紙でありますから、そこで非常に矛盾が出まして結局、ただ詰め込まれて、それがいい悪いを自分なりに判断する余裕というものがなくて次の問題へ移っていくというようなことになっていると思うんであります。これを何とか改めたい。全然自分のものがなければ、他から詰め込まれるよりしょうがないわけでありましょうし、しかし少しでも持つようになりましたら、自分判断力というものを縦横発揮させるようにしませんと、これから、日本先進国の一隅に座っているような国際情勢のもとにおいては、どうしてもそういうような習性というものを学校教育を習っている間に身につけていくよりしようがないんじゃないか。そのために、そういう自分判断する能力育成というものを重要視する、もちろんその前には知識の伝達ということがなければならない。その知識の蓄積の上にそういう判断力というものが当然起こってくるわけでありましょうが、そういう判断力重視、つまり自分考えていく、したがってそれをもう少し敷衍すれば、自分の行動に対して責任を持つというような能力育成ということにもなろうかと思うんでありますが、そういう教育へつまり、この際変えていった方がいいんじゃないかということが第一点であります。  それからもう一つは、従来は、学校教育課程というものがどうも教える側の立場から一切決められていたように私は思います。そうでなくて——それがためつまり過密教育課程内容になってしまっているように思うんであります。それは専門家から見ればこのくらいはどうしても教えておかなければならないというような問題が出ましょうけれども子供の方からいえば、それは多過ぎるという問題があるわけなんで、そこで私は、むしろ子供が楽しんでといいますか、喜んで学校へ行くような境遇をつくるためには、教わる子供立場に立ったところの教科内容というものを設定しなければいけないんじゃないか。それには現在行われておりますものを精選するといっても、つまり徹底した精選というものを行わないと、ちくはぐなものがどうしても残っていくように思いますので、いわば子供学習負担適性化を図る、きれいな言葉で言えばそういうことになるかと思います。  それからもう一つは、現在小学校中学校、高校と、仮に三つ学校段階考えました場合に、小中義務教育でありますから、ほぼなだらかに進んでいるようには思いますが、中学校から高等学校といいますと、がくんと一段飛躍したような教科内容になっている。これはつまり高等学校というのはいまのところ、実際はそれよりも上級の学校の予備校みたいな形になることが相当あるために、中学出て、さて高等学校に入ったら、急に全部が変わってしまうようなことになっているんで、それがまた学校ぎらいになっていくというような問題もしばしば起こってくるように思うんであります。そこで、小中高、三段階の教科一貫性と言ったらいいと思いますが、その一貫性を図って教科を編成するようなことにするならば、なだらかに頭の中に入っていくということが言えるんじゃないか。ややこれは理想的な言い方かもしれませんが、そのくらいな、以上三点でありますが、ことをねらいといたしまして今回の「審議まとめ」に至りますまでのいろいろの論議をやってきた、こういうことでございます。  それで、結局私どもが期待することは、学校児童生徒が喜んで行く場所にしたいということ、もちろんそれには教師生徒との接触、信頼感といったようないろいろな問題がございましょう。それのためには第一、毎日毎日教室で習います教科内容というものが子供によってよく理解される、つまり消化しないで終わることのないような学習内容というものにしていかなきゃならないように思うのであります。  それで、いま最後に申しましたように、教科内容が飛躍的にむずかしくなるようなことのないようにして、学校ぎらいはなくす、せっかくいろいろの試験を受けて学校に入ったからにはその学校を十分活用していかなければ意味がないと思いますし、また児童生徒がついていけないような教科内容はこの際ため直していかなければなるまい、そんなことに考えている次第でございます。  大体いただきました十分はそのくらいでございますから、一応切っておきます。
  10. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) ありがとうございました。以上で参考人の方の御意見の開陳を終わります。  これより質疑に入ります。質疑のある方は順次御発言を願います。
  11. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 高村先生御苦労さんでございます。三年にわたりますところの審議一つの成案を得られるまでには大変な御苦労があったかと思いますが、冒頭に審議会皆さん御苦労に対しまして感謝を申し上げたいと思います。  そこで、私この中間の「まとめ」として発表されておるところの苦干の問題点について、この機会に先生からいろいろ御意見なりお教えをいただきたいと思います。  まず、重要な三つの柱の中のゆとりのある、しかも充実した学校生活が送られるように教育課程をやったという問題に関してでございますが、教育立国とも言われるわが国の教育の過去の教育史を見ますれば、言うならば教育量の拡大というのが一つ特色であったと思うのであります。ところが、今回の場合は、先ほどもお話しいただきましたように、むしろ量から質へという思い切ったやはり発想に立っての私は、まとめとしてはきわめて歴史的なものではないだろうかと思い、その点高く評価をいたしておるわけでございますが、しかも同時に、先ほどお話しいただきましたように、従来の教育課程が教える立場のものであった、それを学ぶ立場という立場から教育課程というものを考えてみたんだ、こういうことでございますし、そのことについても全面的に物の考え方として、私は理解できるのでございます。ただ、いま一つの心配は、こういう出されたところの「まとめ」につきまして、そのまま今度は次の文部省なりに引き継がれてまいりますところの指導要領とかあるいは教科書に忠実に反映されていくものだろうか、どうだろうかという一つ危惧を持つのです。それは四十三年のときの改定の場合も、実は報告を受けながら、その後のやっぱり関係皆さんからの非常な要請の中で、答申の中には削除されておったものが、また復活をしたという過去の例もある。そういうような点等から考えますと、一体これがそのまま素直に指導要領なりあるいは教科書に反映できるんだろうか、どうだろうかという問題について私は若干危惧を持つものでございますが、この点会長さんはこの問題についてどういうふうにお考えいただいておりますか、お聞かせ願いたいと思います。
  12. 高村象平

    参考人高村象平君) お答えいたします。  宮之原さんの御質疑もごもっともと思うのであります。確かに前回の審議会答申を見ますと、随所に「内容精選」というようなことが書かれております。ところが、現実にはいま児童生徒が非常に苦しむくらいに内容がふえております。単に質的に向上しているばかりでなく、量的にも非常に多くなっております。これは恐らくその審議会の手を離れて、指導要領編さんなりあるいは教科書の作製というようなところに反映してそうなってきたんだと思うのであります。そのどちらかと申しますれば決して望ましくない成果が目の前にございますものですから、今回は指導要領編さんに当たっては重々注意していただきたいということを何回も審議会の過程において言っておりますし、またその編さんに当たる担当係員方々が常に審議会に出ておられます。   〔理事内藤誉三郎君退席、理事久保田藤麿君着席〕 また、教科書検定の方もそこにおられるわけでありまして、恐らく今回は私はもう、その人たちがこれほどすっぱく教科内容が多くて困るんだ、困るんだということを委員の間で言っておりますので、居眠りしてない限り本当に聞いていてくれれば、そのことは十分上がっていくんじゃないかというふうに楽観的に見ております。もちろん悲観的に見れば幾らでも私がそばについていなきゃならぬということになるかもしれませんが、とうていそんな余裕もございませんし、またそれができるものでもございません。私は、指導要領というのはもう少し簡潔に書いてくれてもいいように思いますし、また、指導要領というのは御承知のように教科書編さんの場合の一番のめどになっていくもののように思いますので、従来の教科書検定あり方と申しましょうか、これは全く私のしろうと考えでございますから、あるいはまた、的はずれのところがあるかもしれませんが、それはお聞き逃しいただきたい。ということは、指導要領にこれこれとこれ、ということはどうしても必要だというようなことがおのずと教科書編さんに当たっては出てまいります。それがないといわば赤紙がついてくる。で、もう一遍再考しろということになる。それ以上のことが書いてあってもこれ一向検定には差しさわりがない。これは逆なんで、もちろんあることだけを教えろというような条項がございまして、それを入れるのはもちろんいいのですが、他方におきまして余分なものが書いてあったとき、それを削除する権限が、あるいはそれについてもう一遍再考を求めるというようなことにすれば教科書というものはかなり薄くなっていくのではないか。私はそういう意味で、教科書検定あり方というものが、従来の何といいますか、よけいなものが書いてあっても黙認するという形をやめたらいいのではないかというような、これしろうと考えですが、そんなふうに考えております。ただいま御質疑がございました四十三年の実例から推して果たして今回の「審議まとめ」が指導要領なりあるいは教科書に反映できるかどうかの御懸念でございますが、今度はまあできるのではないかとこう踏んでおりますがね。少し甘い考えと御判断でございましょうか。
  13. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 私たちが聞いておるところによりますと、これは初中局長がおりますので初中局長からも聞きたいのだけれども教育課程の出されるところの基準教科書、この二つ学習指導要領でどうつなぐかというこういうことで、何かその方策として出されるところの指導要領のほかに、教科書内容にさせるため細部にわたったところの基準細則というものを文部省としてはつくる計画だと、また、そのことを検討しておるという話を聞いておるのです。それが事実かどうか。事実だとすれば、今度はまたその基準細則というものがまた指導要領の以外にできてくるとしますと、これは教科書会社営利政策もありましょうけれども、あるいは現在の検定あり方等から見て、薄いところの教科書じゃなくてむしろ分厚のものができやせぬかという危惧を持つのですよね。それで、私先ほどお尋ねしたのですけれども、その点、先生はその問題との関連をどうお考えになられておるか、あるいはまた文部省としては事実そういう基準細則なるものを検討しておるのかどうか、そこらあたりのところもお聞かせ願いたいと思うのですがね。
  14. 高村象平

    参考人高村象平君) ただいま私初めて伺いました、その基準細則なるものは。以前ありました指導書のことと違いますでしょうか。以前は、現在、いまございますけれども指導要領をもっと非常に解きほぐしたような形で、それぞれの教科について指導書というものができておりますが、それのことをいまおっしゃったのでしょうか。それとも別な何か基準細則というようなものがいま編さんされつつあるということがお耳に入ったのでしょうか。私その基準細則については全然知りませんです。それについてはお答えは私はちょっとできかねます。
  15. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 初中局長から話してもらえばいいです。
  16. 諸沢正道

    政府委員諸沢正道君) 教科書検定制度の仕組みは現在その手続を主として、検定規則という省令がございます。そしてそれに基づいて検定基準というのを文部省の告示で決めておるわけです。そしてこの制度は発足して三十年近くなるわけでありまして、やってまいりますといろいろ改善すべき点が手続の上からもございます。そしてまた現在の検定基準というのは、少しく具体的に申し上げますと、絶対条件必要条件というのがある。絶対条件というのは、法律等の規定に照らして教科書として絶対にだめだというような点があるかどうかという審査になるわけですが、必要条件というのは、いまの学習指導要領に照らして、その内容とか、組織配列とかそういう点を検討するということになっておるわけでありますが、その辺の必要条件というものにつきましても、現在の構成をもう少し考え直した方がよくないかというような意見もございますので、いま申し上げましたような検定手続と手順、そういうものをひっくるめましてこの際、再検討をしようということで現在やっておるわけでございます。が、その趣旨は、あくまでも学習指導要領改定の時期でもありますし、それに即した教科書がどうしたら教科書著述者の自発的な創意工夫でできるであろうかと、そういうことを醸成するような方向で考えようということでいま検討しております。
  17. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 そういたしますとあれですね、いわゆる検定基準必要条件とかあるいは基準、そういうものと手続だけのものであって、世にいろいろうわさされているところの細目みたいなものを考えておるんじゃない、こういうふうに理解しておいてよろしゅうございますか。何か、出されるところの指導要領とそれから答申になかったものを、どうしてそれを教科書の中でつなぐかということで非常に、今度は文部省の物の考え方の入ったところの、大分細部にわたったものを、解説みたいなものをつくるみたいな話を聞いておるんですが、そういうあれはないんですね。それだけはっきりさして、教えていただけばいい。
  18. 諸沢正道

    政府委員諸沢正道君) いま申しましたように、できるだけ指導要領趣旨が反映した教科書をつくるようにするためにはどういうふうにしたらいいか、という点を検討しているわけで、おっしゃるように、何といいますか、とにかく金縛りにして、こういうものでなければだめだ、というような規制的なものを前面に出す考えはないわけでございます。
  19. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 それはないということですから一応了解しておきますが、後から物議をかもすことのないようにやっておいてもらいたい。  続いて「改善まとめ」の中の一つ特色でありますところの授業時数をずうっと減少したというようなことは、私も原則的に賛成なんですがね、ただ問題は、減少したところの時間をどう使うんだ、あるいは、これからのこのことが学校教師だけの責任になってしまうのではないかとか、そういういろんな問題が今日意見として出されているわけでございますね。その中でも私は、たとえば校長会とかあるいは教育委員会の中には、その減じられたところの時間についても、どう使うべきだという国の基準とかあるいはまた指示がなければ有効に使えないんだ、という意見を言う関係者も案外少なくないんですよ。私は、この言葉ぐらい、自分自主性というものを喪失したことを言う管理者もおらないという感じがするんですがね。それはさておいて、もう一つの非常に心配されておるのは、さらばといって、今度学校で自主的に使えといった場合に、現状のままでその学校先生方がこれを活用できるだろうか、どうだろうか。その場合には、たとえば学校の教員の定数の問題とか、あるいはいろんなグループに分かれて使わなければならないとすると、施設設備の問題とか、そういうのが私はやはり相伴わなければ、これはせっかく減じられたところの時数、時間というのは活用されていかないんじゃないだろうかということを非常に心配しておるんですがね。この面について、審議会としては、どういう手だてを裏づけとして考えて議論をされたか、あるいはまた文部省当局に要望されておるか、そこらあたりをお聞かせ願いたいと思います。
  20. 高村象平

    参考人高村象平君) ただいま宮之原さんからの御質疑、非常にごもっともなことが多いんであります。さて、削減いたしました授業時数というのが現在のものの一割、仮に四時間が一番多いぐらいのものだと思うんです、一週間に。したがいまして、これはもし五日といたしますれば、一日一時間にならないというふうに計算上なります。それを一体どういうふうに使うかが問題なんでありますが、私ども考えといたしましては、一つはいま昼休みというものが非常に短かい。つまり給食がございますですね、ことに義務校は大体において。その後食べる、片づける、すぐまた次の授業が始まる。これをひとつ是正するには、昼休みの休み時間というものを現在よりずっと多くとるいうこと、それから授業時間と授業時間との間の休憩時間、これまた多少五分ずつとか十分ずつとか延ばすということ、次の時間に頭の入れかえをして、教室の中でもっていろいろ教わるという、あるいはまた、体育をやるというようなこと。そうしますと一週間四時間の節約というのは、そういうことでほとんどつぶされてしまうのじゃないかというのが私なんかの考えでございます。つまり休み時間を長くするためにつくったものだというふうにお考えいただいてもいいんじゃないかと思います。しかし、他方におきまして、それぞれの学校の自由にしておきたいというのが私ども考えでございますので、たとえばその日の教科の中で理解の十分ついていない子供もいるわけでございますから、その子供には先生がもう一遍訓練といいますか、練習と申しますか、そういうことをする。たとえば算数の三、三が九、四、四、十六といったようなことをもう一遍おさらいしてやるというようなことも、先生が手を差しのべて、喜んで行くような学校にするためには必要な方法かとも思います。あるいは運動場で少し遊びたいというような希望がありますれば、また、その先生もその方がいいとお考えの場合には、そういうかっこうでしていただいて一向差しつかえないと思うので、これについては教員会議なり、あるいは担当の先生方、主任というような方々の相談なりということでその学校独自の方法をとっていただく。だけれども、私は、余りできないように思うのであります。と申しますのは、先ほど申しましたように、休み時間に大部分とられていく方が多いのじゃないか。私は、休み時間はあくまでも休み時間であって、そこで何か受験準備とかなんとかするようなことは、これだけはあくまでもとどめて、歯どめを置かなければならないと思います。さもなければ、せっかくつくりましたゆとりの時間というものの意味がなくなりますから、それだけを受験準備には充てないこと、ということが内示されておけば、後は管理職として長年その仕事で生きている、生活している人たちですから、十分な知恵が働くのじゃないか、案外。私はそういう意味では楽観しているわけであります。  それから、ただいまお話がございました、そういう問題につきまして先般意見を聞きました会で、何か、国から方針が大ざっぱなものでもいいから与えられたら非常に都合がいいんだ、というような校長会長のお話などございましたけれども、私は、自分仕事をみずから捨てる困った人たちだな、というような気持ちを持っておりました。こちらにいらっしゃる新聞の方々などは、色をなして怒った、なんていうふうな表現で記事にしてくださった新聞もございますけれども、事実あれはちょっと失望いたしました。まあ、それはさておきまして、さて、もしそれが今度はたとえば全校一度に体育と申しますか、そういった方面に出るとなれば、現在の義務校施設設備では足りません。ですから、そこでおのずと全部一度にするというようなことはとうていできないので、やがていろいろな予算がついて、そういうものができた暁には、それが可能になりましょうけれども、現在は一部分は校庭に出て、一部分は図書室に入るというようなかっこうにならざるを得ないんだと思いますが、これはひとつ皆様方のお力で文教予算をうんととっていただくよりほかしようがないんだろうと思うんであります。むしろ子供たちにかわりまして皆様に、私からお願いしたいことに属します。こんなことで、ただいまのお尋ねに対してこうお答え申しました。
  21. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 きょうは先生からまたいろいろお話を、一応お考えを聞く場でございますから、時間の関係もありますので、次の問題に移らしていただきたいと思いますが、いただきましたところのこの基準改正前との関連事項の中で、学校運営と学習の指導方法という一つの大事な面があるわけでございますが、その中でしきりに、学校におけるところの自発的創造的な活動に期待するところは多い、あるいはまた「まとめ」全体を見てみますと、この教育課程の弾力的な編成ということを至るところで強調されておるんですよね。だから、学校の自発性、創造性、あるいは教育課程の弾力的な運用、これ私は非常にまことに結構だと思っておるんですよ。これ文字どおりこれが各学校においてやってまいりますれば、いままでとは大分違った形のいろんな、創意工夫の満ちたところのいろんな授業とかそういうものが出てくるんじゃないだろうかと思うんですが、ただ、私が現実のこの教育課程の行政と申しますか、教育内容に対するところの行政のあり方を見た場合に、果たしてこの文書のままにいくんだろうかどうだろうかというやっぱり私は疑問を持たざるを得ないんであります。たとえば指導要領の問題については法的な拘束性が非常に強い。かつては指導要領はいわゆるガイダンスであって、これは一つ基準なんだからということが言われておった。それがまあ、昭和三十四年ですか、以降は非常に法的な拘束性というものをやかましく指導の面で言われておる。あるいは今日まで教科書検定あり方、採択のあり方についても、非常に統一的に採択をさせようとか、あるいは基準についてもいろいろ注文が多い。で、こういう教育課程のこれを実際に実践する場合の行政のあり方の問題はそのままにしておいて、幾らこのまま弾力的にやれ云々と、こう言ったって、非常に私は現実とそぐわないところの面があるんじゃないかということを率直に感じておるんですよ。それだけに、この「まとめ」を苦心してまとめられたところの問題を本当に生かそうとするならば、文字どおりここに書かれたるところのものをするとすれば、いまこの教育課程行政と申しますか、あるいはもっと端的に申し上げますれば指導要領の法的な拘束性の問題とか、あるいは教科書検定や採択の問題について、もっとやっぱり大胆なメスを入れて、文字どおり弾力的ないろんな運用ができるような仕組みへやらない限り、これは仏つくって魂入らず、というかっこうになりやせぬかと思うんですが、この点この委員会あたりではどういう議論があったのか。あるいはまたその点会長さんとしては、いや、その仕組みは、行政のあり方はもうわれわれの権限外だと、それはそのままにしておいてと、こうお考えになっておられるのか、ちょっとお聞かせ願いたいと思います。
  22. 高村象平

    参考人高村象平君) お答えいたしましょう。  最初にお話にございました、この「まとめ」の中に随所にあらわれてまいります文言でありますが、自発的に行うとか、あるいは弾力的な運用が望ましいというふうなことが書いてございますが、結局それの実践が可能かどうかということは、現在の学校の管理職はもちろんのこと、個々の教員の資質の問題によると思うんであります。自分に与えられた仕事責任を持ってやるという気概がありますれば問題は私、解決するというふうに楽観的に考えております。それを何か頼らなければ物ができない、あるいは子供の前で話ができないというような意思、意思というよりも考え方先生ばっかりでしたら、これ何にもできないと思うんであります。それのため学習指導要領があるんだというようなお話が時には出ることがございますが、私思いますのに、ことに私が幾つかの学校現場へ行きましたときに感じたことでございますが、指導要領ってそれほど先生方を、あるいは管理職というものを束縛してるかどうかということについて非常に疑念を持っております。ある学校へ行きました場合には、校長室のすみにただ重ねられて、ごく、少し極端な言い方いたしますればちりが積もってるというような感じでございました。別して私は、よく世間で、法的拘束性があるからどうのこうのという話が出ておりますし、ジャーナリズムなどでもそれが問題によくされておりますけれども現場では決して感じてないというのが本当のことのように私は思うんであります。現に読んでる先生が一体いるのかどうか。先生として一番読んでるものは、各教科書会社が出しております指導書、これはかなり分厚いものがございまして、非常に重宝なものでございましょう、いわゆるとらの巻というようなものでございますが、これは読んでるようであります。それを読んでるということは本当に勉強してないということだと思うんです、その先生方が。自分の勉強をしてないということになると思うんでありますが、それがつまりまた学校の教えること、あるいは教わることがつまらないということになっていくおそれが多分にあるように思います。つまり、独創的なものがそこに何もなくなってしまうおそれがある。しかしそれは私は指導要領によってのことでないんで、その教科書会社指導書によって生ずるところの不毛な感情といいましょうか、あるいは勉強の仕方ということになっていくんじゃないかというふうに思います。ですから、ただいま御指摘にございましたような指導要領の拘束性があるからどうのこうのっていうことは、私一向問題にしたくないし、また審議会の過程におきましてもほとんどこれについての発言いままではございませんでした。ということは、現実に指導要領というものがいろんな大きな枠になるとか作用をするとかということがないということをかなりの委員の人が知っているという、そのことからくるというふうに私は感じております。別にそれをあえて問題として取り上げたことはございませんでした。  ただまあ、指導要領そのものの必要性があるかないかというふうなお尋ねがあるかもしれませんが、いまのそれに続いて。私はあっていいことのように思うんです。ということは、別に縛りつけるんでなく、大体このくらいのことは教えておけという大まかな基準と申しますか、それがあって初めて一応のもの、それからさらにその水準は引き上げていくことがそれぞれの先生の励みになっていくもとになると、その意味で、あっていいんだろうというふうに考えております。  まあそんなお答えでございます。
  23. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 まあ、これは私は現場の実態の把握を先生とは逆な理解をしておるんです、率直に申し上げて。私は現場におったこともありますし、一番自分では先生よりも現場に近いと見ておるんです。確かに私は、その指導要領の中で大まかにやはりこの基準を示す、それはもう必要だと思っておるんですよ、言うならば、そのことは戦後ずうっとあったわけですから。しかも、これは一つの大まかな基準なんだよと、あとは、これは一つの指標なんだから、自由にやりなさいと。こういうふうなことが、それならばなぜ三十四年にああいうふうに変えなきゃならなかったか、いわゆるその案なるものを削除までしなきゃならなかったか。現にそれぞれの教育委員会の指導主事の皆さんの指導というものは、決して先生がおっしゃったようなかっこうにはされておらないというのが現実なんです、率直に申し上げればですね。それだけに、今度の随所に出てまいっておりますところのこの弾力性という問題とそれとのかかわりの問題については、先生は、それは教員の資質の問題だ、教科書会社のこの指導書の方に害されておるんじゃないか、ということで、本当にそのまま見ておられるとするならば、これはやっぱり相当違うということだけはこの際に申し上げておきたいと思うんです。  なお、まあきょうは先生と議論する場でございませんから、まだ先に進めたいと思いますが、もう一つお聞きしたいことがあるんですが、この「まとめ」を発表したところの先生のレクチャーの中でも、あるいは先ほどの先生の中でも、子供に遊びをということを非常に強調される。この点はまあかつての福沢諭吉さんの「学問のすすめ」から高村先生はひとつ今度は「遊びのすすめ」をというようなことでなかなか、私は、これはいまの教育問題点というものをやっぱりそのままずばりにえぐっておられ、非常に示唆に富んだこれは物のお考えだと、こういうようにその点は私は非常に高く評価いたしておるわけでございますが、ただ、先ほど申し上げたところの削減云々という問題とも関連いたしますけれども、やっぱりこれで、そのねらいというのは、子供の遊びとかそういうものもお考えになりながら、むしろ減らされた分ですね、たとえば学校に午後四時までおらなきゃならぬとすれば、学校では補習授業と申しますか、受験準備の一つの科目の補強の指導という面になるとか、あるいは家に帰るとそれでは物足りないからまた塾に行けという、むしろその塾をさらに助長するような形になりゃしないか、という心配を持つところの層も決して少なくないんです、率直に申し上げて。たとえば東京のある有名な塾の理事者は、現行の入試体制が改められない限り、幾らこれをいじったって塾はますます繁盛しますよと、現にお母さん方がもうそのことを焦っているんですからと、こういうことを豪語しているところの面があるようでございますがね。私もやはり先ほどの指導要領と別のもう一つの問題として、やはり今日のこの受験体制という問題について積極的にメスを入れるところの方策というものを示さない限り、せっかくりっぱなものをつくられてもこれまた実際に運営できないんじゃないだろうかと、こういう危惧を持つものなんですがね。その点、いわゆる関連事項の中の上級学校への入試の指導云々という問題のこの入試対策の問題について若干出ておりますけれども、果たしてそればかりだけでこの問題のやっぱり問題点というもの、根源というものが除去できるんだろうかどうだろうかと、こういう点を感じるんですが、その点先生のお考えをお聞かせ願いたいと思います。
  24. 高村象平

    参考人高村象平君) 御懸念非常にごもっともと私承っておりました。確かに現在の入試体制と申しますか、それが継続する限りにおきましては、少なくともそれぞれの家庭の父母というものは自分子供の前途を考えまして、学校だけでは足りないからそこで塾へ通わせようというその考え方が出てくるのは無理からぬことのように思います。  実はちょっと余談になりますけれども、昨晩NHKの番組に出ておりまして、現実に、ある母親からああいうきれいごとを言ってくれたって実際困るんじゃないか、という話を聞かされてまいりましたけれども、まあ、無理はないと思うんですが、しかし現在の入試体制というものを、私どもの与えられた権限でどうするわけにもいきませんし、問題は、私なりの考え方で申しますと、いまの出題の仕方がいけないということだと思うんです。教科書から出ていかない、問題が出ないということ、つまり腰だめでこのくらいは当然知っているはずだということで問題を出している。これを改めるには私は、全部の問題というまでにはいかないかもしれませんが、少なくともある教科の七、八割の問題は、試験が終わった後で、その学校が、これこれの教科書のこのページから出したんだ、という出典を明らかにするということが慣習化されていったならば、かなり防げることになるんではないか、つまり父母も学校教科書を勉強していればまあそれでいいんだと。もちろん、人間には欲がありますからもっといい点を取りたいというのでそういうところへ通わせる父母も当然出てくると思いますが、これについてはどうも私何とも言えません。御勝手になさるほかしょうがないと思うんであります。  それから、それに関連してでございますが、何か受験準備の関係学校にいる時間が、学校教科の時間が短くなっても在校時間が同じになるとすれば、その間受験準備を学校でしやしないかというお話でございましたが、これは私、防がなければならない。先ほどもちょっと私触れたつもりでおりましたけれども、そのいわばゆとりの時間、削減されてつくり出された時間というものを受験準備には絶対に使うな、ということは各地教委その他を通して歯どめとして言っておかなければならないことのように思います。ただ、下校した後で父母に勧められて今度は夜間の塾に行くようになりますか、あるいはある場所にありますような早朝塾というようなところへ通うようになりますか、これはどうもいかんともすべからざることで、私としては何ともその点手のつけようがございません。  最初に宮之原さんからのお話にございましたが、私が慶応におりましたその関係でございましょう、あるジャーナリストが高村は「遊びのすすめ」を今度考えているのだという、まことに妙な、「学問のすすめ」と「遊びのすすめ」とごろ合わせみたいなことになりますが、私は本当は実は「遊びのすすめ」で結構だと思っているのであります。と申しますのは、遊びということは、友だちをつくるということと通じると思うのであります。いまは学校では後から後から押せ押せでやりますために、友だちというものは本当にできてこないような感じを持っております。つまり競争相手はできる、しかし手をつないで生涯いろいろのことを話し合うというその友だちは現在の学校体制ではちょっとできなくなってきているんじゃないかと思います。それで、本当の友だちというものは何ら欲のないときに仲よくできていくものだと私は思うのであります。自分の体験から申しましても、私の親友と申しますものは小学校で一人、中学校で三人ばかりおりますが、大学ではほとんどおりません。というのは、大学のときにはほぼ同じような方向へ出かけていってしまう。それからまたもうその時分には二十幾つかになっておりまして欲が出ておりますから、一種の競争相手的な感情がどうしても出てまいりますので、それでできなかったんだと。それが小学校中学校のときはそんな欲はございませんでした。ことに私の時分は受験体制なんてそんな大げさなことのない時代でございましたから、よけいにそうだったんだと思いますが、その欲のないときに手をつなぎ合えるというのは遊びの時間がなきゃだめだと。ですから、あるジャーナリストが言う「遊びのすすめ」はむしろ私は胸を張って、ああそのとおりですよ、ということを言いたいというふうに思っております。ですから、学校というものは私の考えでは単にものを学ぶ、教える、その場だけではない、友だちをつくる場なんだ、これが大きな学校一つの何といいますか構成要素になっているんだと、そんな感じを持っておりますので……。  ただ、その点はそれでよろしいんですが、さて最後にお話がございました、いまの入試体制その他をほうっておいてこの教育課程の貫徹ができるかというお尋ねは、これは私できないと思います。確かにその入試体制に大きなおのを入れませんとどうにもならないことのように思います。現にこの「審議まとめ」のおしまいに五つばかり関連事項というものがございます。お読みくだすったと思いますが、いずれもすぐできないことばかり書いてあります。私は委員方々に言っているんです。これはきょうあしたに、あるいは三年、四年の後ですぐ実現できるとは思わないが、しかしこれがあるんだということを当局なりあるいは世間の方々がはっきりつかんでおいてくだされば、やがてそちらの方に目が向いていくんだろう、そのくらいの長い気持ちでひとつ書くことだけは書いておきましょうということでございます。で、前回の「中間まとめ」、昨年の秋に出しましたときに梅根悟さんと私お話し合いいたしたことがございますが、そのときにやはりこういう、ことに入試の問題は書いておきました。梅根さんは、あれ答申の真っ先に書くべきだと、おしまいの方に書いておいたんじゃ効果がないよ、という御指示がございました。まだ、最後に大臣に提出いたします答申までには一カ月以上ございますから、その点順序を逆にするかどうか、そこはわかりませんが、とにかくそういう御注意は梅根さんからは承っておりますので、その点、心がけてはおきます。
  25. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 時間が来ましたので、もう一問だけで終わりたいと思います、まあ、まとめて私の方から先生にお聞きいたしたいと思いますので。というのは、家庭科の問題と、婦人の今後のあり方の問題と関連をするところの問題ですけれども、御承知のように、国際婦人年にかかわりますところの行動計画は、固定的な男女の役割り分担を考え直すと、こういうことが一番大きな課題の一つになっておるわけなんです。私は、やっぱりこの婦人年におけるところのこの行動計画を本当に生かしていくところの役割り教育に負うところの分野がきわめて多いと思うんですがね。そういう立場から見た場合に、いわゆる学校教育におけるところの家庭科の男女共修とかあるいは男女必修という問題について、先生がどうお考えになられておるかという点が一つ。  関連いたしますのでもう時間がありませんのでひっくるめて申し上げます。それでいま一つは、先ほど申し上げたところの国際婦人年の行動計画と関連をさせて、いま婦人少年問題審議会あたりで、たとえば雇用における男女の機会の均等と待遇の平等の促進に関する建議というものがすでに上がっておるわけなんです。先生ごらんになっておられると思いますが、なっておられなければ、その建議の中に、特に優先的にやってもらう事項としてこういう条項がある。「現在婦人に対して行われている特別措置のうち、今後検討の結果科学的根拠を失い特に婦人の就業の制約となっていることが明らかになったもの」は逐次改善を直ちに行うべきであると、こういうような筋のやつが一つの条項の中にあるんです。このことと家庭科との問題を結びつけて考えてみた場合に、いままでの日本におけるところの学校教育の家庭科というのは、これはもう主婦の仕事なんです、婦人の。言うならば家庭科は主婦養成の教科なんだと、こういう理解がよく一般的になされておるわけなんですがね、このことについてどうお考えか。それは今度の「まとめ」を見ましても、まだ私は、そこから完全に抜け切っていないと見ておる、率直に申し上げて。それは、中学校での履修するところの領域の区分を男女別々必須を分けてみたり、あるいは高校の場合の家庭一般におけるところの女子のみの四単位のというところの条項あたりには、何か家庭の主体は女子で、職域の主体は男子だという物の考え方が、私はこの答申の中からも抜け出しておらぬのじゃないだろうか。こういうようなことを考えてみますと、どうも固定的な男女の役割り分担を考え直すということのこの国際婦人年としての世界的な動き、日本の婦人層での動きという問題と関連をいたしましてこの家庭科というものに対するところのこの「まとめ」を見ますと、何かそぐわない感じを受けるんですがね、そこのところを先生はどう受けとめられておるのか、お聞かせをいただきまして私の質問を終わりたいと思います。
  26. 高村象平

    参考人高村象平君) 家庭科につきましてはもうここ三年ずいぶん、うちへもその運動をされる方々がおいでになりましたり、あるいは投書、電報等々でずいぶんもういじめられております、簡単に申しますと。やり切れないという感じが切実なるお答えでございます。と申しますのは、私はせっかく昨年国際婦人年がございましたけれども、やはり男と女は違うというこの感触から離れるわけにはまいりません。これは宮之原さんひとつ、私がある年の人間だということで御了承いただくよかしょうがない。ただ、いま家庭科の内容が、衣食住というようなことのいろいろな処理の問題が中心になっておりますのは何らか改めなきゃならない、恐らく今度の教科書編さんでは、その点は変わってくることがあるんじゃないかと思います。  審議の過程におきましてこういうことがございました。これは公にはされておりませんが、現在小学校の上級あるいは少なくとも中学校において、セックスの問題を取り上げたらいいじゃないか。これは男も女も同時に必要なことなんだから、これだったら区別なくして取り上げることが、まあ取り上げなければならないのだ。その知識を持っていれば非常に、不祥事件というようなものもかなり防げるんじゃないか、そういう歯どめということをこの場合でやれば、家庭科は最善の効果を上げるんじゃないかという論議が何回かございました。私、それが、そのうち入ってくるんだと思いましたら、いつの間にか消えてしまいまして、これちょっと意外に思っているんですが。もう一つは、ある委員の発言の中に、家庭科で衣食住なんていうことをやめて、民法の遺産相続の問題をやれば、ことに女子学生というのは大喜びだと、目を輝かしてそれを聞くからという、ちょっとどきっとするような話を聞かされたことがございます、これはもちろん委員会の中の発言でございますが。しかしそうだからといって、急にそこへそういうものをぶち込むわけにはまいりますまいが、とにかく教えようとする立場と教わろうとする生徒との間にかなりギャップがございまして、これの結びつけ方は結局その教える先生の仲立ちいかんということで解決しなければならないことのように思います。  せっかくのお尋ねでございましたが、男女共修、ことに高等学校の段階におきましてのお尋ねにつきましては、私自身はネガティブな御返事を申し上げなければなりません。ただ、委員会全体としても、大体そっちの方に偏っているような気配を感じております。分科会がございまして、家庭科分科会というのがございましたが、私入るのがこわかったものですから、ほかのまた分科会が同時に開催されておりましたので、たしか、ほかは大抵外国語かなんかがぶつかったと思いますので、そちらの方に出ておりまして、努めて耳をふさいでおりました。これが実情でございます。
  27. 白木義一郎

    白木義一郎君 二、三の点について御質問並びにお教えを願いたいと思います。  いま冒頭にお話がありましたように、三年間大ぜいの先生方が真剣に取り組んでいただいたその結論の「まとめ」を拝見いたしまして、いまお話があった中で、この「まとめ」の「関連事項」の問題について、私は非常に関心を持ちました。最も教育の場で大切な問題がこの「関連事項」で済まされている、こういう感じを非常に強く持ったわけでございます。すなわち教科書検定制度あるいは「学校運営と学習の指導方法」「教員の養成と研修」「上級学校の入学者選抜制度」入試制度ですね。それから「家庭教育及び社会教育との関連」この問題が私は一番大事じゃないかと、こういうように強く、拝見をしまして感じたわけでございます。  そこで、冒頭に御説明がありましたとおりに、この審議会に臨むに当たりまして、審議会会長として三つのねらいを持った、知識の伝達のみの現況における矛盾を改めなきゃならない、また学ぶ側に立つ教課課程内容精選しなければ、また小中高一貫性、つまり高校は大学進学のための予備校的性格になってしまっているのを改善しなければならないと、こういう観点に立って取り組まれたということ。つまり、教科書を薄く、学校を楽しく、血色よい子供に育ってほしい。こういうお考えのもとに取り組まれたことについては大変喜ばしいことと思いました。  そこで、実際問題として、いまもお話がありましたけれども、過去の実例から心配がどうしてもされるわけです。それは、この答申後に学習指導要領の作成、さらに教科書執筆と続く一連の具体化作業の中で、精選あるいは制限の精神を、過去にはそれが貫かれなかった、というお話がいま出ましたけれども、これだけの努力を費やした結果が、再び過去にあった、危惧を持ったまま出発することはどうかと心配する者ですが、その点、審議会の中の審議の過程においてどの程度審議されたか、あるいは議論されて取り組まれたかということを最初にお伺いしたいと思います。
  28. 高村象平

    参考人高村象平君) その点はこんなことでございます。最初、この答申、現在のこの「まとめ」でございますが、昨年できる予定でおりました。つまり、二年間でこれを作成するという考えで始めたことでございます。ところが、委員の意思統一とでも申しましょうか、同じような方向にまとめますのに時間がかかりまして、それにはもちろん、私の不手際ということがあったと思います。で、結局三年かかって、一年よけいにかかってしまいました。しかし、私は当初やはり三年はかかるというような気持ちがございました。それじゃ、その二年答申作成にかかり、残る一年を何に当てるかというと、これは私は文部当局と一、二回話したことがあるかどうかのことなんですが、指導要領の作成、指導要領の原稿にまで首を突っ込もうじゃないかと。つまり、審議会答申を出せばそれでおしまいだということで、後は当局に任して、というときに、前回の経験から言うと、非常にかえって過密化した、あるいは肥大化したようなものができてしまうので、それを押えるには、指導要領の文章にまでこちらがタッチすればその点逃れるんじゃないか、そのためには一年間ぐらいどうしてもかかるだろうから、そこで全委員とは決して言わないけれども、ある分科会長とかそういうような地位にあった人はもう一年間延ばしてもらって、それでタッチしていこうじゃないかと。ところが、これをつくるのに三年かかってしまいまして、これ以上小委員を縛るといいますか、お願いするという元気がちょっと私としてはございません。それで、前回のこの失敗は私は審議会の構成そのものにもあったように思うんであります。  と申しますのは、今回は一本化で、最初から高等学校の問題から中学校、小学校というふうにだんだんこう下げて審議をしてまいりましたけれども、前回は初等教育分科会中学校分科会高等学校分科会、つまり三本の分科会があってそれぞれ同時発足しているのであります。で、相互の間にほとんど連絡がなかったようであります。それがためについ教科内容というものが肥大化してしまう、あるいは繰り返しが多くなってくる。勉強には繰り返しは悪いとは私申しませんけれども、むだな重複が出てきてしまったということがあると思うのです。それをつまり今度は可及的に少なくするために、一本化で、一つ審議会で全部やるということをとりましたので、まず前回ほどのまあ大きなミスはしないで済むんじゃないか、そんなふうに私考えております。
  29. 白木義一郎

    白木義一郎君 いま、審議の途中において、お述べになったような議論が交わされた。で、結論的には、まあ、これだけやったんだから、後は文部省がやるだろうと、やらなければなっちょらぬということで、ということになるでしょうけれども、それでは先生教育に対する理想あるいは良心に将来影が差すんじゃないかというようなことを心配するわけです。私たちも、それぞれの立場で、この改良され、あるいは一歩前進したこの審議を見守り、あるいは協力をしていきたいと思いますが……。  そこで、先ほど宮之原委員とのお話の中で、審議会では、この学習指導要領は余り重きを置いてないと、こう先生の方はおっしゃいますし、こちらではそうじゃないんだと、非常に拘束力があって、学校先生はそれに縛られて身動きできなくてとうとうここまで来てしまった。こういうように伺ったんですが、私は、この教科書が、極端に申しますと、教科書がどうあろうと、あるいは指導要領がどうであろうと、先生方の、教師自主性、主体性を強く持っていただいていれば、この問題は解消ができるんではないかと、そのように強く考えております。  そこで、最も大切なことは、言うまでもなく教育は人なりというところからこの問題が出発をしなければならないと思いますが、この「まとめ」の中で、教育課程まとめとしては、大筋として一歩前進を認められるわけですが、この教育は人なりという原点に返っての問題の中心は、やはりどうしても先生方の指導力、資質の向上にあることを忘れてはならないと思うんです。ところが、残念ながら現状に至った大きな問題は、指導要領の拘束力にあるとか、あるいは教育課程が非常に複雑になったため子供がこういうふうになった、こういう入試制度になってしまったというようなことを伺いますと、どうしてもこれはもっともっと先生に期待をしなくてはならないということから——この関連事項の五項目の一つに簡単に——まあ簡単と言っちゃ申しわけないのですが、簡単に片づけられている。先生教育者の任務の特殊性と使命感を先生方にいかに自覚していただくかということがもう最重要な問題になってくると確信いたします。つまり、人間対人間の生命の触発がなければ、どのような教科課程をとろうとも、これはなかなかむずかしいんじゃないか。つまり、いま、現況では時間が少なくなった後の時間をどうするんだと、それは自主性に任せるんだとか、あるいはもっと文部省がそれに枠をはめてくれなきゃ困るとかいうような議論を伺うと、まあ、子供立場に立つと、頼りないなあと、こういうような気がするわけです。  そこで、まあ、いままでの弊害を先生方が取り除くのには大きな団結それから力があったはずです。いままでの先生方のストライキは、先生自身のストライキの問題であって、子供の側に立つストライキが一遍もなかったわけです。   〔理事久保田藤磨君退席、理事内藤誉三郎君着席〕 これをやられると革新陣営としては大変脅威を感じなくちゃならないんですけれど、子供ためにはこういうふうにしなければならない、というストライキというようなことが、いまにあってもいいんじゃないかと、こんなことも考えるんですが。そこで、この教員、先生方の資質の向上ということについて、「関連事項」で終わってしまったということについての先生のお考えを伺いたいと思います。
  30. 高村象平

    参考人高村象平君) ごもっとものお話を重々承りました。確かに教育は人なりということでございましょう。フランスの有名な言葉に、教師というのはいろいろの知識を教えたり、あるいは道徳を教えたりするから教師なんでなくて、身をもって教えるから教師なんだという有名な言葉がございますが、まさに身をもって教えてくれれば問題はないと思うんであります。単にサラリーのために教えてくれるんじゃ、少なくとも教師というものは困る存在になってしまうというふうに私は信じております。それで、今回でも、審議会審議の過程のうちにおきまして、教員の資質をどうしたら向上できるかというようなことも何回か話に上りました。ただ、これがすぐ教育課程という一つの諮問の、改善の諮問にはちょっとすぐ応じられない問題でございますので、このおしまいの方にまとめたということなんでございまして、決して私どもはこれを軽視しているわけじゃございません。先ほどお尋ねの際にちょっと申し上げたことなんでありますが、このおしまいの五項目でございますね、これは事実一番大切なことなんであります。これがなければ今回の教育課程改善という、基準改善というものの本当の徹底した、何といいますか、達成ということは不可能になるんじゃないかということを私は重々承知しております。ただ、与えられた枠、それについて十分なものをとにかくつくっておこうじゃないかという気持ちでございます。仮にたとえて申しますれば、いまの六・三制という学校制度、これをそのまんまほうっておいていいのかという問題だって考えなきゃならないことになると思うんであります。もうすでに施行されまして三十年近くなりましたときに、いろいろのもうひずみが出てきていることはわかっていると思うんです。そのためにまた、ちょうど五年前になりますか、中央教育審議会で分厚い第三次教育改革と名づけられるような答申が出ておりますが、なかなかあれが実行されていかない問題があろうと思うんです。それはいろいろ問題はあるんだと思います。なぜ実行に移されないかということ、ああいうことが着々行われていたならば、今回の私どものつくりました教育課程基準改善もすらりとその中へ入れるんじゃないかと思いますが、どうもぎくしゃくして困ったことが多いように思います。  それから、先ほど指導要領の問題につきましてのお尋ねございましたが、問題は、私は、地教委の指導主事の問題が非常に大きいということを私としては感じております。まあ、いわば帝王的な存在というふうに、それぞれの地方の学校の教員からするとそんなふうな感触があるんじゃないか。ろくに物を知らないくせにいばりくさっているというような感じを私は持っております。ちょうどある県の教育委員を八年やっておりましたのでいろいろな見聞きをいたしました。それでまた、地方事務所などへ行きましても指導主事を集めて話をしたことなんかございますが、もちろん、まじめにやっているのもおりますし、こけおどかしの人間もいる。こういう問題は、まあ、大体が教員上がりなんですから、本来教室にいるべき者がそういう行政当局に入っていこうとする、もうそこに私ながら不純なものを感じます。が、そういう人間はそういう人間でしょうがないと言うよりしようがないと思いますが、とにかく、そういうぎくしゃくしたものが非常に多い現状だと思います。  それで、この教育課程基準改善でも、これだけでももし私どもの思うように実行してくだすったならば多少は本当の改善をしていくんじゃないか。一歩一歩改めていく、それよりほかしようがないと思います。  なお、この問題を十分取り上げないで、ことに、この五つの「関連事項」を取り上げないでどうするのかというお尋ねがございましたが、何分にも私老齢でございますので、地獄の底から、どういうふうになっていくか、やがて楽しみに見ていきたいと思っております。(笑声)
  31. 白木義一郎

    白木義一郎君 私は、子供のころによく遊べ、よく学べ、で育てられたものですから、遊ぶ方を第一義にしまして、教えどおり学ぶ方を第二にしてきたわけですけれども子供のころに一番印象に残っているのは、小学校で非常に女の先生にかわいがられたことです。見かけによらず、いまから言えばあれなんですが、そのころは非常に丸顔の美少年であった。(笑声)それで、余り勉強は好きじゃなかったんですけれども、その先生と会うのが楽しくて学校へ通った覚えがございます。それから、学芸会でチルチルミチルの主役をやりました。これは生涯忘れることのできない思い出でございます。後は、それこそ、メダカをとったり、というような幼少時代を過ごしましたが、途中から戦争へ行きました。戦争に行く前後には、私は日本ために命も捨てなければならないというような考え方教育されてしまったんです。国家主義といいますか、忠君愛国といいますか、そういう点で非常に今後のわが国の教育については関心を強く持たざるを得なくなったわけでございます。そういう意味で、どうしても先生方にますます理想を抱き、希望を持って成長もし、向上もしていただきたい、このように強く願っているわけですが、時間がございませんので一問だけ……。  この道徳教育の中で「人間の力を越えたものに対する畏敬の念」ということがうたわれておりますが、この点が余り抽象的で理解がしにくいわけでして、適当な表現ではないと思うんですが、この点の御説明を願いたいと思います。
  32. 高村象平

    参考人高村象平君) それは、端的に申しまして宗教心というふうにお答えしたらいいと思います。ただ、そういうすぱりと言うよりもこれくらいの表現の方がよかろうということになった。それからもう一つは、何と申しますかね、人を敬うということ、友だち同士でもお互いに礼儀を持つという、そこに何らか科学的に割り切れないものが人間関係には出てくると思うんですが、そういうものをまとめましてこういう表現にいたしました。で、これがまたちょっと御理解しにくいということでございましたならばひとつ、白木さんいい文句を教えていただきたい。それによりまして私どもまた参考にしたいと思います。
  33. 白木義一郎

    白木義一郎君 人間の力を超えたものに対する畏敬の念を育成すること、これは宗教だと端的におっしゃっていただければはっきりするわけですが、そこで、そういう問題が出てまいりますと、これは宗教というものに対してもっともっと研究をしていただかなければならないことになります。ところが、一般的な知識といたしましては、もう形而上の問題としてこれを受けとめていくのが一般の方々なんですが、この宗教という教えも相当勝劣、高低いろいろございますので、この点はそれも御承知の上でこのように漠然と表現されたんじゃないかと思います。同じ教育の中でも、この学校自体の歴史、伝統、校風、そういう中でどのように人間が成長していくかということも、これも非常に大事だろうと思うんですが、こういう点も、ひとつ先生大いに長生きをしていただいて、地獄の底からではなくて、うんと長生きをして、わが国の教育の効果を大きく推進し、見守っていただきたいことをお願いいたしまして、私の質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。
  34. 高村象平

    参考人高村象平君) ちょっと一言。恐らくその最後のお言葉、家内が聞きましたら喜ぶと思います。ありがとうございました。(笑声)
  35. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 高村先生にお伺いをいたします。  今度の教育課程改善のねらいというところで三つの柱が立てられてあります。この点では、現実の方からながめれば、この三つの問題について少なくとも今日集中的な問題点があり、このねらいで改善しなければならないというふうに読むわけでありますし、先生の一番初めの御発言の中でも象徴的に、ウィークデーの午後、町で子供の遊び戯れる声を聞くことがなくなったというような点から入っていかれたわけですね。ここでお伺いをするわけでありますが、これまでの教育課程に由来するいわば今日の教育問題点、まあ、ひずみというふうに言う人もございますけれども、この点の具体的な中身、遊びが不足をしておるというふうな点はずいぶんと強調されるわけですが、それではいわゆる知育、基本的な知識、こういう点ではいわば以前にもまして伸びてきておるけれども遊びの方が不足しておると、そういう問題であるのか、それとも基本的な知的な面においても幾つかのひずみなり、アンバランスが出てきておると、問題があるということであるのか、その辺のところを中身に入って今日の問題点をひとつもう少し具体的に明らかにしていただきたいと思うわけです。
  36. 高村象平

    参考人高村象平君) 私は教育学専門じゃございませんから何とも申し上げられませんが、少し私の感触で申し上げます。  知識というものを確かにいままで教室で教え、教わってきたということが言えるんですが、その場合の知識というのは、それまでのいわゆる知恵あるいは学問、そういったようなものをただ蓄えていく、あるいは蓄えられてきているものをそのまま流すという、それが学校教育であるというふうに思われていたと思うんであります。私は、その蓄積された知識の上に立ちまして物を考え、反省し、判断する、その力をつくること、これまた知識である。その点がどうも足りなかったんじゃないか。今回それを足すためには、余り私の好きな言葉じゃないんですが、ゆとりある教育にしなければいけない、こんなことのつながりと御了解いただけたらと考えます。
  37. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 知育偏重というようなことは一面ではかなりの人から言われておるけれども、むしろいま先生の御自身からも、お口からも出ておりますように、実際には詰め込みという形で行われておるものについては、一部の子供がそれを消化してそれなりの成績を上げたにしても、かなりの子供の中で未消化に終わり、知育自身の点でもかなりの範囲の子供の中に、これを消化できない、俗に、ついていけないという子供の問題がございますけれども、こういう点が黙視できないほど広がってきているわけです。裏返して言えば二回の教育改定以前の状況に比べても、一面では後退現象といいますか、知育自身が行き届かないという面があったというような認識から出発されたのかとお伺いするわけですが、いかがでしょうか。
  38. 高村象平

    参考人高村象平君) そうでございますね、確かに小巻さんのおっしゃるように、その点は私も認めざるを得ないと思います。と申しますのは、いままではつまり、回りの国際社会の日本を周るいわゆる先進国の知恵が余りにも進んでおりましたので、それを取り入れるにやぶさかでなかった、忙しかったということだろうと思うんです。今度はそうでない立場日本が置かれております以上、今度はこちらから出していかなければならない。つまり創造的なものをつくっていかなければならないといたしますれば、どうしても考えるという余裕を持ったそういう教育子供のときから仕込んでいかなければだめだ、そういう感じでございます。
  39. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 ゆとりのある学校生活を保障する、そういうためにも学校の創意を生かして、創意ある子供をつくるのには創意のない学校からではうまくいかないと思うわけですけれども、そういう教育活動を助成するというふうにも述べられているわけですけれども、こういう状況になれば特に学校側、とりわけ教育は人が行うわけですから、教師自主性あるいは創造性というようなものが保障され、学校の中で具体的に展開をしていくということがなければ裏づけがなくなってしまうと思うわけですが、その点については具体的にどういう討論がされたのかというような問題、それからあわせて今度の「まとめ」の中で道徳教育の問題が強調されており、あるいは勤労体験学習の新設というような問題にも触れておられるわけですが、こういう問題になれば一層どう具体化するかは学校側にゆだねられる要素が非常に大きいだろうと思うわけですね。こういう問題についての審議の中身等についてもひとつ触れてお話を願いたいと思います。教職員の創造的な取り組みの件について説明いただきたい。
  40. 高村象平

    参考人高村象平君) いまお尋ねのことは全部、審議会におきまして何回か発言がございましたし、応答もございました。結局、教員養成という現在の四年制大学を出て教職課程を経験すれば、そして地教委の試験が通れば就職できるという、したがって教壇に上がったら、ただ、ふるえちまうような人も教員になれるというのでいいのかという、この問題は、いま他に審議会があるはずですが、そちらからいずれまたいい答申も出てまいりましょうが、私ども審議会としては教員養成の問題も十分考えなきゃならない。といって戦前の師範教育を再現するのはもちろんいけないんで、その点そちらの審議会でしかるべき答申が出てくるのを待つよりほかしようがないということがお答えになります。  それから第二の道徳教育の問題でありますが、私ども、ほとんど全会一致して言っておりますことは、教育は道徳だということなんであります。どの教科も全部道徳につながるものでなければならない。ですから、それじゃ、道徳の時間を特設する必要があるのかというお尋ねが恐らく出るかもしれませんが、しかしそれがあってもいいじゃないかということで、こういうふうにしたわけでございますが、しかし、たとえば算数の時間だって私は、道徳的なものが幾らでも入ってきてよろしい。ただ、その道徳の内容が、どうのこうのとお尋ねになりますと、これは結局教員の問題になってまいります。そこまで私どもがタッチできませんし、また、しようとも思っておりません。  それから第三に勤労体験学習の問題についてのお尋ねがございましたが、これはもう非常に委員の中で発言が強い問題でございまして、新しくそういう関係教科を設けたらいいじゃないかという声がずいぶんございました。ただ、それにはちょっと時間が足りないので今回は、当分検討するという結論になってきております。しかし、これは単に子供を外へ連れ出してどうのこうのするということだけでなく、教科内容の中で勤労体験ということは幾らでもできるんだろうと思うのであります。問題はその取り方でございましょう。それは、その意味では管理職、学校の管理職初め、各教員がそれぞれ少し真剣に物を考えていただくことをやっていただかなきゃなりません。ただ、これが実施されますのにあと二年ばかり間がございますので、その間十分ひとつ論議していただいて、いいもの、いいものというふうに行っていきたい。そんなふうに考えております。
  41. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 いま先生のお話の中で、教育は道徳だというふうなとらえ方でも調和の問題を言われておると思うんですけれども、そのかわり裏返しにすれば道徳の基礎は科学的認識だという裏づけも当然準備されなければならない問題だと、その点から言えば、むしろこの詰め込み教育の弊害とそれから競争社会の学校への進入といいますか、こういう問題をため直すためには一方では基礎的な知育の方が系統的な、科学的な一貫性のあるものとして踏まれなければならぬ。このことが今回の改定の当面させられた問題点であり、そしてそれと道徳的な問題と申しますか、遊びなり人間調和の問題というものの並行というものが課題として自覚されておったのではないかというふうに思うわけですが、その点はどうでしょう。
  42. 高村象平

    参考人高村象平君) それはもうおっしゃるとおりでございます。
  43. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 何回かにわたる今日までの改定では、この点が一方では知恵太りの徳やせだとか、知育とあるいは道徳問題と矛盾対立するもののようにしばしばとらえられてきておる。その点で今回の場合にも、道徳問題その他でこの統一的な問題について明析を欠く点が表現上私はあるように思うわけですね。いま会長さんの方からそういうふうに言われれば問題点の所在は明白なわけでございますから、それをお伺いして進めたいと思うわけです。  一つは、今回のこの改定についておおよそ国民的に、学習時数を削減するというような方向とかこういう点では、国民的に歓迎をし、期待をする空気は大きいだろうと思うんですね。同時に、これが具体的内容がどのように実るかというのは、一つは先ほどからも出ておりますように、関連する事項、教科書あるいは学習指導要領の問題ということと同時に、大きく学校教職員の主体的取り組みにかかわってくる。こういうような点考えますと、そういう点からかえって、あき時間が先ほどからも出ておるように受験教育、あるいは塾通いを促進するというような心配も出ておるわけです。ここの一つのかなめは、これを組み上げたときに学校の中で授業が楽になるのか、いままで以上に濃密になるのかという点で問題がはっきりしない点にあるんじゃないか。安易にやればその心配されたような方向へ流れていくことだって考えられるわけですね。この点でひとつ先ほどは主体的なやる側の問題をお伺いしたんですが、これについて教育条件の物質的側面というのはどうしてもゆるがせにできない問題だと思うわけです。授業時数が削減されれば、いまの定員配当というのは大体、授業時数に一定の方程式をかけて教員数をはじき出してくるというようなことでもあるわけですね。授業削減がそのまま人数が減るんじゃないかというような心配をする人もなきにしもあらず、これらの問題について討議の中で、これらの問題の保障については一定のですね、討議があったのかということ、小学校長、中学校長なんかでも現にそういう危惧は存在しているわけです。  それからもう一つ、ゆとりの利用あるいはクラブ活動その他では運動場その他の教育条件改善ということとこれは非常に密接に関係をしてくる。一言、後の方で触れておられますけれども、教職員の組織とか施設整備の問題というのは六十二、三ページに出てまいりますが、これらの問題についての審議会考え方と方向と文部省への趣旨についてお伺いするとともに、ここの点については初中局長の方からもこれらの問題についての審議会の「まとめ」、読み方と申しますか、今後のやり方についての考えをお伺いしておきたいと思います。
  44. 高村象平

    参考人高村象平君) 最初にお話申しますが、今度の授業教科の時間削減によりまして、授業は一体濃密になるのか、あるいは楽になるのかというお尋ねでございますが、私は楽になると思います。端的に申しまして、いまの教科内容は一口に言えば枝葉末節の部分が非常に多いように思うのです。そのかわりかえって基礎的なものが空き間になっている。そこを充実するのが本当の教育のもとになっていくように思います。ですから、そこをいわば基礎的といいますか、基本的と申しますか、その原理原則をがっちり覚えさせる、それは繰り返し繰り返し強制力をもってしてもこれを教え込むということをすれば、あとは当人の応用の才があるかないかで、伸びるか伸びないか決まってくる、こういうふうに思います。  それから教育条件の物的側面についてのお尋ね、それから教員の定数の問題というようなお尋ねでございますが、教員の定数の問題は、私としてはちょっといまお返事しかねるので、後に局長からお話いただくことになりますが、私は、いまの四十五名の教室、御承知と思いますけれども、一教室に四十五名の生徒を置くということにちょっと首をかしげております。何分にも体が大きくなって教室の面積そのものはちっとも変わらないんですから、非常に机と机の間が狭くなってくるということが当然出てまいりますし、この点は何か是正されなければならない。私のふだん言っている言葉ですと、教室をもっと風通しよくしなきゃだめなんじゃないかということ、それから、仮に四十五名が四十名になれば、多少なりとも教員と生徒との間のスキンシップとでも申しますか、それはもっと加わっていくんじゃないか、いろいろの事情を教員がくみ取るということも可能じゃないかということを考えますが、しかし、これは何分にも問題は大蔵省相手のことだろうと思いますので、これにまで私はちょっと関接できません。  それから、物的条件の問題といたしまして、たとえばグラウンドの問題、それからいろいろのプールだとか、いろいろの用具、たとえば、体育の場合でございますね、そういういろいろな用具の問題が当然出てまいりますし、それからあるいは図書室と申しますか、そういうところの設備、それからまた、それに所蔵されている書籍の数等々におきまして、これからますます金がかかってくる教育課程基準改善をやったことのように私は思っております。あっさり読みますと何でもないことですが、実はこれをゆっくりお読みくだされば大変な金のかかる問題がこの中に含まれている。ただ、私はさっき宮之原さんのときに申し上げたんですが、指摘するだけにあえてとどめておきまして、これをやり出したら切りがないということがございますし、当面、諮問でもございませんでしたので、これくらいのところで触れておいたその苦しさをおくみ取りいただきたいという気持ちでございます。
  45. 諸沢正道

    政府委員諸沢正道君) ただいま御質問のありました新しい教育課程による教育の質、内容あるいはそれを実施するための人的、物的条件はどうかというお話でございますが、ただいま会長からお話のありました「まとめ」いわば新しい教育課程あり方の骨格的な考え方でございまして、これをいただきますれば、私どもの方は、具体的な学習指導要領というものを小中学校についていえば来年の三月くらいまでをめどにつくるという考えでおるわけでございます。したがいまして、いまおっしゃられたような条件内容等は、その具体的学習指導要領がつくられます過程、そしてできた後において十分検討し、方向を考えてまいりたいと、かように思っております。
  46. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 関連して初中局長から大変包括的な見解表明があったわけですけれども、この点では、特に定数とか条件整備のものは、学習指導要領等でそれら内容を具体化するということと相まって、この内容が現実に学校の中で実り、保障されるために、改定が要求し、進歩が要求する物的側面というのは当然保障されなければならぬと思いましても、少なくとも授業時間の軽減等は、定数を、教員定数等、減らすことを意味するんじゃなくて、ゆとりや余暇の時間の利用その他において、むしろ増加要因を要求するものだというふうに受けとめるべきだと思うわけなんですが、その点はいかがですか。その具体的な問題について再度
  47. 諸沢正道

    政府委員諸沢正道君) 教員の定数の問題というのは、先ほど会長もおっしゃったように、現在の標準法では四十五人を一学級の基準とするというようなことでございまして、これが適当かどうかというようなことは、長い間、議論もありましたところでございます。そしてこういう定数の問題は、五年一刻みで計画を立てて整備をしてくるというやり方をやってまいりましたので、文部省としては、もちろん学習指導要領改定というのも一つの検討の課題でございますが、これがありませんでも、従来とも期限を限りながら年次計画を立ててやってきたわけでございますから、ただいま御指摘のような点も参考にしながら、四十三年からの年次計画の策定について検討してみたい。なお、ただいまの新しい学習指導要領というのは来年三月にできますけれども、具体的には教科書の編著作と検定、採択という手順がございますので、実施に移されるのは本格的には五十五年からということになりますので、そういう点も頭に置きながら作業をやってまいりたいと思うわけでございます。
  48. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 もちろん、定数計算の基礎は学級編制の生徒数ですけれども高等学校等では当然生徒の方の総時間数とかかわってきますから、そして大体算定の基礎は授業時間だけを基礎に置いておるのは何ですから、削減、すなわち定数減につながるという危惧が具体的には出てきておる。しかし、それに対しては受けとめ方は、少なくとも総単位数を減らしたからいまおる者を引き揚げるというようなことにつながるものではない、これはこういうふうに受け取っていいですね。
  49. 諸沢正道

    政府委員諸沢正道君) おっしゃるとおりでございます。
  50. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 最後に、それじゃ一言お伺いしておきますが、今度の審議会への文部省からの依頼をした出発点は、高等学校への進学率の高まりの中で高校教育の見直し、そして一貫性小中も一緒にやろうというふうなところが出発点になっておったと思うわけですね。この点につきまして、高校関係の問題では二年生から基礎学科についても大変多様化をいたしまして、そして選択がずっとふえてくるというような行き方をとっておるわけであります。こういう点が一つは全員等しく学力を引き上げていくというような目的と、それからいわゆる多様化で到達する学力に差等を設けるような考え方との関係でどうなるのかという懸念がかなりのところにあるわけですね。  これ、一つ御説明いただきますとともに、もう一つこの関連事項で、入試選抜制度と今日の教育課程の中身は密接な関連があるというようなことで、大体、大学入試の問題がクローズアップされておるわけですけれども、中学から高校への入試選抜制度も、これは大きな関係のある問題で、これらについてはどういうふうな内容審議会の中で話し合われたのか、こういう点についてお伺いして終わりたいと思います。
  51. 高村象平

    参考人高村象平君) 高校が今回、一年に四つの教科について必修履修の教科を設けております。今度の新しい一つの目玉になっていると思うのですが、それで大体中学で学んできたものをそこでもう一遍足踏みさして、考えを同じようなものにしておいてから二年で選択教科に入っていくと、一番憂えられますことは、私は、選択教科が受験準備関係教科を選択することになりやすいんじゃないかと、これについての何か歯どめをしなければいけないように思っております。さもないと、高校が全く大学の予備校になってしまうおそれがございますので、これは当局にひとつ頼みまして、その点、厳に歯どめを何か設けなければならないように思います。決して、選択教科を高校の二年、三年に置いたということは大学の受験準備のために置いたということじゃないんで、当人の人間づくりの上に必要で置いたわけでございますから、その点の誤解のないように——誤認のないようにしていきたいと考えます。  それからもう一つの問題といたしまして、入試選抜で中学から高校の問題が当然考えられたろうと、まさにそのとおり、私ども考えました。この場合に、一番問題になりますのは、私ども審議でこういうことでございます。中学で何といいますか、進路指導というのをやっております。この進路指導で、結局、なるべく中学浪人というものをつくらないで、どこかの高校へ入れてしまおうというので躍起になって中学の管理職の人がやっていることなんです。ところが、そのために当人の必ずしも希望するところの高校の受験ができないという問題があります。私は、受験はさせなければいけないんじゃないかと思うんです。それが当人の力が足りなくて入試が不合格は、これはやむを得ないことだと思うんです。ただ、評点の少ない者は農業高校へ行けというような振り向けの仕方、この点は厳に改めていかないと学校ぎらいがますますできてくる、あるいは非行少年というものがそういうところから出る、あるいは途中で脱落する、学校を退学してしまう者がぐんぐん出てくる。その問題がその中に入ってくると思いますので、中学から高校への問題は、出題のものももちろん、中学の教科書から出すという方向をとらなければなりませんとともに、進路指導の問題をそれぞれの学校当局というものは十分考え直してもらわなければならない。何か浪人が出ることが、その学校にとってえらい不名誉のことのように思って躍起になっている気配がございます。この点は是正しなければならないと考えております。
  52. 中沢伊登子

    中沢伊登子君 この教育課程改善というのは十年に一度ぐらいずつやられているようでございますが、約三年間百五十五回にわたる委員会をお開きになられたということで大変御苦労さまに存じております。  私はその中で二、三お伺いをしたいと思いますが、今度の「まとめ」の中で先ほど先生がおっしゃいましたように、今度は教える立場より学ぶ側の立場を尊重してこの「まとめ」をつくられたという話を伺いました。大変うれしく存じておる次第でございますけれども、落ちこぼれの子供をなくすように、幾ら教育課程改善がなされましても、現在のような生徒一人一人の個性や能力の差を無視した画一的な教育が今後もなおなされるとするならば、やっぱりその効果は半減すると思うわけです。この点についてどのようにお考えをなされますか。
  53. 高村象平

    参考人高村象平君) おっしゃるとおりで、何度もみんな右へ向け、あるいは左へ向け、のことをやっておりますと、私はそれぞれの児童生徒には能力の面に相違があると思いますので、そこでどうしてもついていけないと申しますか、教科の進路についていけない者が出てくるのは当然だと思います。ですから、私は、全部できるとはちょっと考えられませんが、努力しなければならないことは、その日教えたことはその日のうちに消化する、消化させなければその先生仕事が終わらないんだという、そのくらいの気概を持ってやっていただくよりほかしょうがないと思うのであります。
  54. 中沢伊登子

    中沢伊登子君 私の持ち時間が大変少のうございますので、いろいろお伺いをしたいのですけれども、二、三の点にしぼりたいと思いますが、特に今度先ほどからもお話がありましたように、道徳教育の問題をここで取り上げられたことを大変私ども喜ばしいと思うわけであります。が、いままでややもすれば道徳教育の話を出しますと、それは軍国主義につながるというふうなことでなかなか道徳教育の問題が大きな声で語りにくかったきらいがあったわけでございますが、最近の社会はまことに多種多様化しておりまして、特に日本が経済の高度成長を遂げましてから物質万能になったということも事実だと思います。そういう中で、また他方学歴偏重の社会をつくったことも事実だと思います。そういう中で子供たちには連帯とか、人を敬うとか、あるいは勤労のとうとさとか、奉仕とか責任、あるいは愛国心、そういったものよりも物質本位、自分本位、一人よがり、こういうようなことになってきたと思います。そういう中で道徳教育は本当に重要だと思いますが、先ほども御質問があったかと思いますけれども、今度のこの委員会の中でこういう問題についてどの程度の御議論がなされたか、今度の道徳教育に関してどの程度のウェートが置かれておられたか、その辺お伺いしたいと思います。
  55. 高村象平

    参考人高村象平君) 相当時間かけたと私記憶しております。ただ、この問題は、問題が問題だけに、ちょっと私いま全部詳しいことを記憶しておりませんが、何と申しましても、人を押しのけてまでも出世するというような気構えが、小さいときから出てくるのは、これは困るじゃないか、というような、そういうところから直していこうじゃないか。つまり、社会の中に住んでいるのは一人でいるんじゃないんだ、大ぜいいるんだということをまずもって認識させようじゃないか、少なくとも小学校段階でそういうことをやらなきゃいけないじゃないか。そんなことが中心になって問題が始まっていったことを記憶しております。
  56. 中沢伊登子

    中沢伊登子君 私、この間、実は中小企業のおやじさんたち十二、三名の方と懇談をしたことがあったんですが、そのときに中小企業の人たちが一番悩みの種にしているのは、とかく、いま高等学校を出てくるとかあるいは大学を出てきて就職をする方が、中小企業で働くことに誇りを持たない。どうしても、大企業であればいいけれども、中小企業で働くというと何か非常に恥ずかしいことのような感じを持って来られるので大変困る。だから、これは教育の問題の中でひとつ大いにこれを一遍議論をしてもらえないか、という要望があったわけです。この点について先生のお考えをひとつお伺いをしたいと思います。
  57. 高村象平

    参考人高村象平君) 結局、いまのお話は何と申しましょうか、大企業を重視するというメンタリティですね、気持ち、それが若い人にずいぶんあると思うんです。同時にそのことは、その人間が一人前になっていないというふうに私は思います。というのはつまり、大企業の肩書きがあってその人間があるということなんだと思う。これは自分のことを申し上げて失礼になりますけれども、私の師匠が名刺には肩書きをつけるもんじゃないよ、ということをよく言われました。そういう名前だけで通用する人間にならなければだめだと。まさしくそうだと思いますのです。いまの大学卒業生など、私どもが名刺もらいますと、何々会社の何とかいうことで、うちが、うちが、でございますね、自分の会社のことを指して言うのに。あんな品性を本当は改めたいと思うんです。私のおりました大学を出ました者にも、そんなのがずいぶんおりますので、なかなか一朝一夜にして直すわけにはまいりませんが、しかし、これは徐々に小さいときから肩書きなしで生活できる人間というものをつくっていけば、中小企業であろうと何であろうと実力さえあればいいんだ、というその世界へ持っていきたいもんだと念じております。
  58. 中沢伊登子

    中沢伊登子君 大変ありがとうございました。いまの先生のお言葉を今度また私も、そういうふうに言い伝えてみたいと、このように思ったわけでございます。  この「改善まとめ」について、最後の、先生何遍かおっしゃっておられました最後の五点を注意してほしいと、こういう中の家庭教育及び社会教育との関連ということがございますが、この点、私は本当にいい大事なことだと思うわけでございます。実は私も一つ例をもって申し上げてみたいのですが、聞いた話でございますが、ことしの母の日ですね、五月の第二日曜かと思います。六月ですか、あの母の日に、まだ幼稚園の学齢前の男の子とそれから妹——三歳くらいになる妹と二人で手をつないで、舶来品のこういうものを売っているところですね、女性のアクセサリーを売っているその店にきょうだい二人がやってきた。それで、お母さんにぜひとも母の日にプレゼントをしたいんだけれども、と言って、その男の子が入ってきた。ところが、そこは舶来品ばかり売っておりまして、そんな子供が買えるようなものを売っていないわけですね。しかし、妹の手を引っぱって入ってきたその姿が余りかわいかったものですから、どれがいいの、と言っていろいろ見せたところが、二千円ぐらいのものを、これをお母さんにプレゼントしたいんだと言う、それでまあ、それを渡したら、もうその手に握っていたお金が熱くなっているんだそうです。それを開いてみたら五百円入っていた。それで、その店屋さんの人が非常に感動をして、恐らくその舶来品のネックレスをその子供にただ、紙に包んで渡したら、盗んできたかもしれない、親はそう思うかもしれない。そこで、その店屋さんはわざわざ箱に入れて紙で包んでリボンをかけて、そしてこれを持ってお帰りなさいと、こうして渡した。そうしますと、親は、やっぱりびっくりして、どこでこんなものを手に入れたかということで飛んで来られて、そして、いや、本当にいいんですか、本当にこれをいただいていいんですかと、こういうふうにお礼を言って帰られた。それからしばらくして、そのお母さんが子供を連れて、自分のうちで咲いた花を折ってリボンをかけて、これをどうぞ、と言って持ってきた。ところが、まだ子供は、それでは申しわけないと思ったんでしょうね、夏になったら、うちの庭で、キュウリとオナスがなる、おばちゃん、キュウリとオナスまた持ってくるからね、と言って帰ったと。こういう話を聞きましてね、私は、やっぱりそういう話を聞きますと、その子供の家庭を思うわけです。同時に、その店屋さん、二千円ぐらいのものを五百円で渡したけれども自分のしたことが本当によかったと、こういうふうにその店屋さんは話しているわけですけれども、私は、こういう中でやっぱりいま大事なことは、ここに言われている家庭教育と社会教育の関連だと、こういうことを実はつくづく思いながら、今後このことをどういうふうに進めていったらいいか——先ほどから申し上げておりますようにひとりよがりになってしまって、自分さえよければいい、自分の家庭さえ何かうまいこといけばそれでいいんだ、こういうような家庭が最近非常にふえているが、親がそういう気持ちになると子供もついそういうことになってしまう。こういうことで私はここに非常に大きなウェートを置いていくべきだと、このように実は考えているわけです。先ほど先生教育は道徳だと、こういうふうに言われたわけですけれども、私はその教育は道徳だと同時に、これからは何としても心の育成に力を入れていかなければならない。本当に、そういう点でこの社会教育は大事だと、このように思うわけですけれども、その点で先生方の今度の委員会でこの点にどれくらいの議論がなされたか、またどういう方向を見詰められて議論がなされましたか、その点をお伺いして私の質問を終わりたいと思います。
  59. 高村象平

    参考人高村象平君) いいお話承らせていただきました。そういう家庭ばっかり、あるいはそういう業者ばっかりあれば世の中はもっといいものになったんだと思いますけれども、現実は必ずしもそういかない。またそれでいいんだというような説を唱える人だってあると思うのですが、そういう恐るべき競争社会ということが事実われわれの回りにあるわけでございます。ただ、それがあるからそれでいいんだということじゃないんで、これはやっぱり、もちろんそれぞれの人々の考えによって解釈のしようはいろいろございましょうけれども現状がすべて正しいんだ、ということでない考え方、そこへ子供を持っていけばいろんな今度、解釈が可能になってくると思います。それがどのような結果になろうか、どのようなことを目標に置いてそれを考えるかは、それは当人の資質の問題になりましょうから学校でとやかく言うことでもございますまい。よく言われることですが、これは笑い話によく言われることですが、教育の方は母親の私または塾でやりますから、しつけは学校でやってください、なんという本末転倒した笑い話がございますが、そういう人こそしつけのない母親だと思うんです。まあひとつ、私が母親をどうするわけにもまいりませんけれども、中沢先生の方もお力をおかしくだすってそういう女性教育もひとつ——でき上がった女性ですね、これから伸びていくという子供の、女性の子供でなくて、もうすでに夫を持っているような女性も、ひとつこの際なるべくため直すような方向へ、ひとつ御努力いただけましたならば、教育課程改善はもっと効果が上がってくるように思います。
  60. 中沢伊登子

    中沢伊登子君 もう一つだけ。  そういう中で、先ほど来高等学校の男女の共習の問題がございましたが、私は、必ずしも手ですることの裁縫だの、料理だの、そういうことだけでなくて、そういう家庭をつくっていくために、私は、男女家庭教育の共習、そういう点にひとつ力点を置かれたらいかがかなという感じがするんですが。
  61. 高村象平

    参考人高村象平君) お答えします。  その点は先ほどもちょっと触れたんですが、どうも現在、これからますます核家族になってまいりますね。したがいまして、男もいろいろの問題知ってなきゃならないというんですが、これは私の私見でございますよ。委員会全体の考えじゃございませんが、せっぱ詰まれば何でもやるんだと思うんです。その教室で大切な時間を全部、衣食住その他の問題はあげなくていいんじゃないか。それよりも、必要となればおやじだって子供を抱きもし、あるいはおんぶもしようと、あるいは飯炊きもやるじゃないか、そりゃ覚えりゃ少しできるかもしれませんけれども、ですから、そういうときは必要に応じてやればいいんで、私は何もいわゆる衣食住的な家庭科というものを教えることはないんじゃないかと。それよりも男のあり方、女のあり方というような問題に中心を置いた家庭科の内容にしておいての上で、まあもう一遍考え直してもいいんじゃないか、そんなふうに考えております。
  62. 中沢伊登子

    中沢伊登子君 ありがとうございます。     —————————————
  63. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) この際、委員異動について御報告いたします。  ただいま須藤五郎君が委員辞任され、その補欠として安武洋子君が選任されました。     —————————————
  64. 有田一寿

    ○有田一寿君 十五分間だけ質問さしていただきますが、この教育課程審議会審議を詰めていかれました結果、それぞれ発表されました内容のことについては別といたしまして、その周辺の問題等について、今度発表した内容が効果があり、よい実を結ぶためにはこういうことであってもらいたいという、まあ一つの期待、希望、願いのようなものが高村会長の胸の中にも私は起こっておられるだろうと思うわけでございます。したがって、多少周辺の問題三点ほどお尋ねをしたい。  一つは、教科内容精選されてまいりますと、いままでより以上に、いわゆる先生方の資質、能力、学習の指導方法等がもっと深く、高められなければならないのではないか。したがって、大きくは教員養成の問題にもなりましょうが、とりあえず学習指導方法の改善ということについて、教育実習ですね、これがいまのような申しわけ程度の教育実習では、今度のこの発表された内容を効果あらしめるには不十分ではなかろうかという感じを持ちます。これが第一点。  それから次に、先ほどからお話が出ておりました補習、宿題あるいは塾、詰め込み等いろいろ指摘されている問題があるわけですが、これを、この姿をよくするのは、これは入試制度改善だということはもちろん言われております。が、この前、永井大臣にも、初中局長にも私も多少の意見を申し述べたわけですが、この入試の問題、これは高校と大学と両方ありますが、今度の国大協でやってもらっております第一次共通学力テストによる入試改善等、これが非常に効果を発揮するんだ、これで入試がある程度改善されるんだという幻想をばらまいておくと、後で大変なことになりはしないか。十人受けて五人確実に落ちるということであれば、これは入れ物を十人分用意するか、それから全くくじ引きにしてしまうなら話は別ですが、そうでない限り、やはり選抜ということで振り分ける限り、五人が落ちるという厳然たる事実は変わらないわけですね。問題をむずかしくすれば偶然が支配する、やさしくし過ぎればまた同様に偶然が支配する。そうすれば、公平でなければならないということ、それから努力する者が報いられなきゃならない。そういうことを基本に考えますと、そんな万能の方法があると思えないわけですね。だからむしろ、教育を受ける過程において、職業観を確立するとか、落第してもそこで自殺したりするようなことのない、そういう前向きの精神を鍛える必要があるのじゃないか、というような、えらい入試問題を逃げるようですが、そうではなくて、やはりそちらの方もよほど考えておかないと、入試だけですべてが解決するということはないのではないか。それが第二点。  それで、それに付随して、六・三・三制について改善をする必要ありということは中教審の答申でも四十六年に出ておりますが、これについてどういうふうにお考えでしょうか。そのときに一つだけ、私も永井大臣に例示として申し上げたんですが、たとえば六・六・一・四・四という、これを御検討くださいませんかと申し上げた。これは、六は小学校の六、後の六は三・三をくっつけた六ですね。次の一というのは、これは大学に入って五となるべきものだと思うんですが、いよいよ大学であれする前に一年間、そのうちの半分、六カ月は社会奉仕、勤労奉仕等、そういうことに過ごす。それから後の半年は、足並みをそろえることにそれぞれ充てるということで大学に進んでいっていいのではないか。それから四ですね。それから最後の四はいわゆる大学院なんですけれども。そしてもっといえば、それを一つ下げて、小学校教育中等学校教育と、いわゆる高等専門学校教育がいまの大学に相当すべきもので、いまの大学院が大学という名前でいいのじゃないか。すべてが、大学を出た出たという意識だけが先行するものですから、これだけ、四〇%近く進学する現在、そこのところどうもおかしい点が出てきているんではないか。  以上、直接内部的な問題でございませんけれども、御検討なさる過程においていろいろな考えがおありだったと思いますので、いまのような点についてお漏らしをいただきたい。あるいは個人の御見解になっても、これも結構でございます。今度の労作につきましては私は深く労を多としますし、高く評価をする一人でございますことを申し添えます。どうぞずうっとかためお答えくださって結構です。
  65. 高村象平

    参考人高村象平君) 第一点、教育実習が現在の期間でいいかどうかということですが、中学校高等学校教員の場合、現在最低二週間の教育実習になっていますが、わずか二週間ではだめでございます。二週間ぐらい教壇の上に立って教えようなんていうのは本当におこがましいという一言に尽きます。ですから、これは当然延ばすべきでありますし、それからまた、四年制の大学でそういう教職課程の何科目かとって、それでその中に実習があって二週間というのが現状でございますが、真剣に教員を目指す学生でございましたら、そんなことじゃ当然不可能といわなきゃなりませんから、これは改定が必要になると思います。これは制度の問題でございますから、私がどうのこうの言うわけにはまいりません。ただ、現在の実習期間では少なくとも私自身としてはどうにもならぬという、しないよりは少しはましだというくらいのことじゃないかと思うんでございます。それだけのことでございます。  それから第二点入試の問題、これはいま大学の大衆化と申しますか、あるいは高等教育の大衆化と申しますか、それが行われておりますことで、もう本来入ってもどうにもならぬ人間が大学に来ているということが実情でございます。そこにおられる新聞の関係の方は勉強をちゃんとなすったんだと思いますけれども、一般のいまある、たとえば神田、あの辺を歩いておりますと、あるいはそこの国電の駅を乗り降りする人間の目つきを見ますと、八百屋の店先にいても決して間違いのないような目つきでございます。以前は多少大学生というのはエリート意識もありましたし、現実にエリートだったと思うのです。だから、ちょっと目がきついものがあったと思います。それがいまは全然なくなって平々凡々になってしまって、それが大衆化といえばそれでいいのかもしれませんが、しかもそのねらうところはやはり一種の肩書きでございましょう。それですから、つまりいわゆる指定校をねらう。だから、ますます、受験生が足りないくらいの大学があると同時に、今度は非常に試験がむずかしくて入るのがなかなか大変な大学もできるということなんでございまして、結局どうも、これはむしろ有田委員に伺いたいのですが、入りたくない人間、それを親が無理に入れるというこの現状はどういうところでチェックしたらいいかという問題でございますね。親の欲目ということがあるのかもしれません。ですが、そういうものが入らなくても済む、先ほどこちらで御返事申しましたように、実力さえあれば全部片がつくそういう世の中、たとえばドイツのマイスター制度といったようなものが日本に今後いつ根づいてそれが実ることになりましょうか、そういった方策を一つ考えるということをやはり徐々にやっていかなきゃいけないのじゃないかというふうに思います。そうすれば、毎年何校かずつ大学設置の申請が出て、それがまた許可になっていくということもございますけれども、私も大学設置審議会委員を八年やっておりましてつくづく思いましたことは、何て空洞化している大学が多いかということでございます。ここは文部当局の方もおられますけれども、国立大学において非常に教員組織なんというのはあらがあります。しかもこれは文部省黙っています。見ないふりしております。そのかわり私学の方で足りないとがんがん責めます。こういう官尊民卑というような考え方、これはひとつ皆様方の力で文部当局をため直していただきたいと思います。かえって名前のある私立大学の方がいわゆる駅弁大学よりもはるかに人的内容は整っている。ただ、足りないのが物的施設であります。だから、金がピーピーしているということにもなります。それがまた授業料が高いという問題にもなります。それは話よけいになりますから、これでとめておきます。  それから六・三制の改善の第三の問題でありますが、それは確かにいまの六・六・一四でございますか——六・六・一・四・四、その御説は私はある程度うなずけますが、これではただ、いまの大学の内容でしたらばちょっと多過ぎるように思います。私は小学校五年でいいんじゃないかと思うんです。それから中学校は三年として、それで八年ございますね。それから高校は四年あっていいんじゃないかと。その四年の最後の一年はむしろ、大学の準備やるでしょうけれども、その四年全体を通じてもう少し外国語というものをがっちりやっていただきたい。大学に入ってからラボへ入って、それで語学をやるなんというのはおかしいんでございます。それでまたもう舌の方が言うことを聞かなくなっています。若ければ若いほどいい。本来ならば、小学校あるいは中学校で外国語をやっていけばいいんでしょうが、これは施設が大変で金がかかることから、すぐできますまいが、少なくとも高校ではだいぶこのごろラボというものを持つようになってきておりますので、ここを十分活用して、もう一応の外国語の、少なくとも英語なら英語だけは一応のことが事足りる形で大学へ入ってきてもらいますと、いまの大学の一般教養の時間というものはずいぶん削減されるし、それでまた入った学生が失望、落胆しないで勉強ができると思う。大学へせっかく入ったけれども、何だ、語学の時間ばっかりじゃないか、あるいは他の教養科目は高校で習ったことの繰り返しじゃないかと、とかくそういう高ぶった言い方を、入りたての者はいたします。そして、それがためにつまんない、つまんないということで、いわゆる五月病というものにかかるのです。この点をやっぱり改めて、入ったからにはすぐ一新した気持ちで勉強に取りかかれるには、高校と似通った科目を大学に置かないということ、結局、私は大学での教養課程は切り捨ててしまって、それは高校に全部預けてしまう。大学は専門課程でいく、昔の大学になりますけれども。それでいいんじゃないかと思っております。しかも、大学は現状ですと、最終学年というのは就職に明け暮れてしまう、せいぜい卒業論文と、それだけのことになっておりますが、これも何とかして改めませんといけない。それには就職の時期が、今度は十月からとか十一月からとかなりましたけれども、事実言えば卒業証書をもらってから就職試験が始まるという、そういうところへ持っていったらいいと思うんです。以前の制度がそうでございました。そうしませんと——それても恐らく先行して各企業を回ってコネをつけていくというようなことが出てくるでございましょうがね。しかし、いまのように三年——現在、大学の四年生でございますね。四年生はほとんど勉強しないでせいぜい卒業論文だけに取っかかればそれでいいと、あとは漫画本だけ読んでいるというような、これは何とかして改めなきゃいけないように思うんです。第一、時間と費用等全部むだでございます。そういうお答えでございます。  それからなお、ここで一つ、先ほど何でも話せというお話でございましたので、これは皆様の御意見をここで私が逆に承りたいのですが、なお、今回皆さんごらんになりましたこの「審議まとめ」は後一カ月以上またいろいろなものを足したり引いたりするようなことになると思います。これは私の私見として感じていることなんでありますが、現在、ことに義務校におきまして宿題というものがございます。毎日のように宿題が出される。それは教科の進度が十分伴わなかったからそれを補うという意味の宿題もございましょうし、あるいはドリルと申しますか、練習の意味の宿題もございましょうが、これがあるのが子供の顔を青白くしていくのではないかというふうに私は思うのでございます。そのつなぎ方が短絡的かどうか、これひとつ承りたい。  それから、ことに宿置の問題で一番私は困るなと思いますのは、夏休みの宿題でございまして、ことに二学期が始まる直前になりまして、七月の三十日はお天気だったか、雨だったか、というようなことを聞いて、急に日記帳を書くとかいうことで、宿題提出の前の日はもう家庭じゅうわんさわんさ、ごった返しになります。そして、しかも、うその日記を書いてそれを提出して、先生が本当に読むのかどうかもわからない。このうそのつき始めをここでやっていく、学校でやっていくということは改めていいんじゃないかと思うのであります。  もう一遍重ねて申し上げますが、宿題全廃論というのは一体世間に通りますかどうですか、御意見をひとつここで最後に承らしてくださいませんか。内藤委員長代表してお願いいたします。
  66. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) 私は大賛成です。宿題は全廃した方がいいと思う。ただ私は、入試問題と関連があるので、入試制度をどうするかという問題もやらないで仮に全廃しても、こそこそ、こそこそやって塾にまた通うことになるのですよ。ですから、やっぱり高校入試と大学入試問題について、私は抜本的にやるべきで、できれば私は、やっぱり大学の場合は資格試験を全部一斉にやる。高校の場合は、この前文部省がやったような一斉学力テストで五教科ぐらいやるのが一番いいんじゃないかと反省しています。  ちょっと速記をとめて。   〔速記中止〕
  67. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) 速記をつけて。  以上で高村参考人に対する質疑は終了いたしました。  高村参考人に一言お礼を申し上げます。長時間御出席いただき、貴重な御意見をお述べいただきましてまことにありがとうございました。  本件に対する質疑は午前はこの程度にとどめます。  午後一時十五分再開することとし、休憩いたします。    午後零時三十六分休憩      —————・—————    午後一時二十五分開会   〔理事内藤誉三郎委員長席に着く〕
  68. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) ただいまから文教委員会を再開いたします。  休憩前に引き続き、教育文化及び学術に関する調査中、教育課程改善問題に関する件を議題といたします。  この際、梅根参考人に一言ごあいさつを申し上げます。本日はお忙しいところ、本委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。  それでは議事の進め方について申し上げます。本日は、教育課程改善問題について忌憚のない御意見をお述べ願いたいと存じますが、議事の都合上、御意見をお述べ願う時間は十分程度にお願いいたしたいと存じます。  なお、参考人意見陳述の後で各委員から質疑がございますので、お答えをいただきたいと存じます。それでは梅根参考人
  69. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 梅根でございます。いま委員長さんからお話のとおり、時間約十分間で最初に一般的なことを少し申し上げてみたいと思っております。  今回のは「まとめ」という表現になっておりますが、その前に「中間まとめ」というのを御発表になっておりまして、各方面の意見審議会はお聞きになっておりまして、私なども参りまして意見を述べさせていただいておりますけれども、そんなわけで中間報告的なことを二回おやりになって、各方面の意見を聞いて、かなり慎重に審議を進めていらっしゃるということは今回が初めてかもしれません。その点で私は大変慎重に、そして民主的に議事を進めていらっしゃることに実は敬意を表しておるわけでございまして、そのことをまず第一に申し上げたいと思います。  この案が近いうちに恐らく最終の答申になるだろうと思いますし、その答申に基づいて学習指導要領の作成が行われるという手順になるだろうと思っておりますけれども学習指導要領は、具体的になりますけれども、今回の案は、その学習指導要領文部省でおつくりになりまする場合にこういう点を基本として考えてほしいというお考えでございますので、これから実際どんな学習指導要領ができていくかということが私どもの今後注目すべき課題であろうと思っております。  で、今回の「まとめ」につきましては、いま申しましたように、まず第一に中間報告的なことを二度もおやりになったということが第一。それから、一般的に私どもといたしまして評価に値すると思っておりますことが若干ございまして、過去の二回、それ以前の、三十三年の改革から見ますと今回は三回目でございまして、それ以前のものを別にいたしますと三回でございますが、三回目の学習指導要領は、過去二回のものに比べますと、もしこの線で忠実な学習指導要領ができてまいりますとしますと、恐らく三十三年、四十何年かの学習指導要領とはかなり違ったものになってくるだろう。私どもが多年要望しておりましたようなこともある程度は実現されるのではなかろうかというふうに見ておりまして、その点は評価に値すると思っております。たとえば、ゆとりのある教育課程をつくって、しかも充実した学校生活ができるようにしていきたいという基本方針をお立てになっておりますが、その方針はかなり具体的に守られておると申し上げてよろしいんじゃないかと思うのでございまして、そういう点で、これが具体的にでき上がりますならば、過去のものから比べますとよほど違ったものになってくるだろうと、その点は評価申し上げてよろしいんではないかと思っておるわけでございます。  それから、しかしそうは申しましても、もっと根本問題が入りますと、やはりもう少し根本的に考えてみてほしかったなあと思う点があれこれございますので、私は、半分あるいは三分の二賛成だが、あとはもう少ししっかりしてくれないか、といったようなことを申しておるようなわけでございまして、問題点をたくさん残しておられるということを感じておるわけでございまして、きょうはこの両方にわたって申し上げてみたいと思うのでございます。いままでの学習指導要領によりまして小中高校ともに非常に窮屈な統制を受けておりまして、教師子供もまあ、あくせくして詰め込み教育に狂奔してきたといったような実情でございましたが、今度いま申しましたような形で、もし忠実にこれが学習指導要領を重ねますと、その傾向はかなり緩和されてくるのではなかろうか。まあ、具体的に申しますと、授業時間数等も在来よりもある程度縮少されておりますし、特にいわゆる詰め込み主義と申しておりますような状況を排除して、個々の具体的なこまごまとした知識内容よりも、むしろ考え方そのもの、あるいは考える人間といったようなことを育てていくことに重点を置いていこうじゃないかといったような考え方が各所にずっと見えておりまして、これは当然のことであるといえばそれまででございますけれども、そのことが実際に行われていないというのが実情でございますから、それが貫かれてきますならば、教材の内容の中でかなりのものがいわゆる精選されていって、重要なものだけが、しかも個々の知識技能よりもむしろ根本的な考え方の問題を中心にしてやっていこうといったようなことが徹底されてくるだろうという点は、これは評価してよろしいんじゃないかと思っておるわけでございます。と言いながら、先ほども申しましたように、なおもう少し考えてみてほしいと思っておりますことは若干ございまして、たとえば教科の種類等につきましては、ほぼ在来どおりという考え方になっておりまして、三十三年、それから四十三年の二度の学習指導要領改定の場合にいろいろ議論されまして問題になってまいりましたようなこと、たとえば道徳時間を置くか置かないかといったような問題についてはずいぶん議論されました。それは道徳教育は非常に重要なんだけれども教科でない、したがって免許状も要らないような道徳の時間を置いても、それはむだではないかという議論がございましたし、現実にそれがまあ、むだとは言えないにしましても、やりにくくて大変困っているという実情が現場にございますが、その問題にはほとんど触れておられないといったようなこと。  それから学校五日制の問題は、これは文部大臣の諮問の中にもございまして、一般に週休二日制が広がりつつある状況の中で、学校五日制の問題をどう考えるかということについても御考慮を願いたいというふうに文部大臣がおっしゃっておりますけれども、その問題は今回の「まとめ」には一言も触れていない。したがって、御承知のように時間数は減らされてはおりますけれども、大体現在どおり六日制を原則として、毎日の授業時間をほぼ五時間と見て、五、六の三十時間程度のことを考えていらっしゃるようでございまして、その点は五日制の問題をどう考えるかということについて何もおっしゃられていないのは、やはり一つの大きな問題点ではなかろうかというふうに私ども考えております。  それからそのほかにつきましても、あれこれの問題がございますが、それらの問題につきましても大体基本線は在来どおりということになって、その問題には触れないといったようなお考えでございます。その点はやはりいますぐそれが実現されるかされないかは別として、将来構想として自分たちはこういうふうに考えるというふうなお考え方をお出しになった方がよかったのではないか、むしろお出しになるべきではなかったかというふうなことを感ずる、その点が一つございます。  で、教育課程審議会あり方の問題、あるいは審議会の答えをもとにして学習指導要領ができますけれども、一般的には教育課程行政と申しておりますけれども教育課程行政のあり方の問題についても一切お触れになっていないということでございまして、やはりいままでどおり教育課程審議会は、文部大臣がまあ、天下り的に任命する委員でもって構成をされるということで、都道府県教育委員会等には教育課程行政に関しては何らの権限が与えられていないといったような実情でございまして、これは三十三年の改定前後から起こってきた問題でございます。戦後改革では都道府県教育委員会にも若干の権限が与えられておったわけでございますけれども、その辺の問題については一切お触れになっていないということもございまして、等々誉げますと幾つかございますけれども、そういう根本問題と思われますような問題については、一向に御意見がなくて、大体在来どおりの線を守っていらっしゃるということだけでは、将来の改革構想といったようなものが出てこないのではなかろうかという感じでございます。  それから、教育課程の中身に関しまして都道府県教育委員会文部省との関係ということはいま申しましたようなことでございまして、その点については一切触れられていないということはございますけれども、それ以外に各種の教育研究団体がございますが、そのような研究団体の意見は一体どういうふうにして反映されたかということについてもお考えおきを願っておいた方がよかったのではなかろうかと私は思っております。  大体総体的に申しますと、いま申しましたような一定の限度内で、いままでの学校教育の行き詰まっておりました状況を打開するために、ゆとりのある、充実した学校生活をやっていけるようにしていきたいというお考えが各方面で、あれこれの段階で取り上げられているという点は評価に値すると思いますけれども、しかし一方から言うと、いま申しましたような根本問題について、やはり依然として在来どおりの線を守っていらっしゃるのではないかという感じでございます。これが総体的な感覚でございます。
  70. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) ありがとうございました。以上で参考人の方の御意見の開陳を終わります。  これより質疑に入ります。質疑のある方は順次御発言を願います。
  71. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 梅根先生本当に御苦労さまでございます。時間の制約もございますので、端的にお聞きいたしたいと思いますので、またせっかくの機会でございますから、先生のひとつ端的なまた御見解をひとつお聞かせを願いたいと思います。  実は午前中の高村参考人からのお話の中で、高村会長としてはこの改善のいわゆる視点ですね、視点として、みずから考え、正しく判断をする力を養う教育への質的な転換ということが一つの特徴点である。二番目は、学ぶ立場からの教育課程の編成である。三番目は、小中学校高等学校一貫した教育課程の編成、ということを踏まえてやったのだと、こういう先生のお話があったのですが、私は、ここにお話を聞いたところの三つの視点を正しいと肯定するのでございますが、ただ、この「まとめ」全体を見まして、なるほどそういう言葉、表現、文章表現とか、あるいはそういう意欲はにじみ出してはおるものの、いま梅根先生からお話がありましたところの、これが果たしてこのまま生かされるのだろうかどうだろうか、という幾多の障害点ですね。たとえばいま先生教育課程行政という言葉をお使いになったようでありますが、そういう一つ問題点等々から考えますと、一体この「まとめ」というのは、いま私が御紹介申し上げたこの三つの点が、全体的に一貫して貫かれておると先生は見ておられるかどうか、お聞かせ願いたい。
  72. 梅根悟

    参考人梅根悟君) いまの点につきましてちょっと所見を申し上げますけれども、いまおっしゃいました三つの視点というのは、当然そう考えていかなければならぬような視点でございまして、私もその視点としてお挙げになったことは賛成でございますけれども、実際の文章を拝見いたしますと、これがその視点かなあと思われるようなことはところどころにかなり散見をいたしております。けれども、総体としての学習指導要領を、こういうふうにすれば、この三つの視点にぴたりと合うのだといったようなことが必ずしも十全には貫かれていないということが一つ問題点ではなかろうかと、私は考えております。  個々の教育内容について申しますことになりますと、たくさんの問題が残っておりまして、考える力を養成すると申しましても、その考える力をどうして養成するかということについては必ずしも十分な意見が出てない、考え方が出ていない。教材の精選ということを申されておって、個々の雑駁な知識よりも基本的な問題についてじっくり考えさせたいという言葉、表現等はそこここに見えておりますけれども、じゃ、どうするかという具体案について申しますと、必ずしも十分には出ていない。先ほどちょっと申し上げましたように、だから、実はこれをもとにしてどんな学習指導要領がこれからでき上がってくるかということを見ないと、実はこの視点が貫かれておるかどうかということがはっきりはわからないというふうな状況ではなかろうかというふうな感じを持っております。
  73. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 いま私が冒頭に質問申し上げたところと関連をするわけでございますが、たとえばいまの視点を踏まえたところの、本まとめにあるところのいろんな強調されている点、たとえば学校におけるところの自発性、創造的な活動に期待するところが大きいとか、あるいはまた教育課程の弾力的な編成によってこれを生かすんだという点があちらこちらに散見をされるわけでございますが、実は私はこの言葉は肯定をしながらも、ちょっと先ほど申し上げたように、今日の教育課程行政のあり方から見れば、いまのままではとうてい実現し得ないんじゃないだろうかという疑念を持ち、特に指導要領の法的な拘束力の問題、あるいは教科書検定とか採択のあり方という問題について、これはやっぱり大胆にメスを入れてこの改善を図っていく。特に指導要領の拘束性の問題は、かつて指導要領一つの大まかな方向を示すものだ、いわゆるガイダンスなんだと、したがってこれは一つの案にすぎないんで、実際的には各学校先生方が十二分に生かしてやるのがこの教育課程の本当の生かすところの道なんだという指導がかってあった、いわゆる三十四年に改定されない前に。そういうところのものがない限りは十分生かされないんじゃないか、こう思っておるのですが、そのことについて午前中の高村先生のお話を承る限りでは、いや、現場では指導要領はそんなに拘束をされておるという感じはだれも持っておるものじゃない、非常に、ものは何ら不自由を感じなくて先生方は十分やっているんだ、ただ、あえてやるとするならば教科書会社指導書にこだわり過ぎて害されておるんじゃないか。こういう趣旨の話があったのでございますが、私はそういう立場をとらないということを申し上げて、午前中は質問をこの問題については触れなかったわけでございますが、この問題について梅根先生現場の状態というものをどうお考えになっておられるか、見ておられるか、その点を承りたいと思います。
  74. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 学習指導要領そのものが教師をそんなに拘束していないという高村さんの御発言は、ある意味ではそうかもしれないと思うんでございます。現場教師の大部分は学習指導要領そのものを見て、それに忠実であろうとするか、あるまいとするかということでなしに、その学習指導要領をもとにしてつくられて毎日の授業に使っておる教科書に縛られているという点の方が大きいことは事実なんですね。したがって、教科書はどんなものになるかということを見届けていく何か努力がされませんと、これは実りをなさないと、高村会長は当初それをおっしゃっておりました。今回は前回と違ってどんな学習指導要領ができてくるか、それをもとにしてどんな教科書ができてくるかということをちゃんとわれわれ委員会は見届けなければならぬ責任がわれわれ委員会にはあるんだから、それまではこの委員会を解散してもらわない方針だということを申されておりましたが、その点は最近、高村会長さんのお考えも少し変わってきておるんではないかというふうな判断ですね。ですから、学習指導要領がどんなものになってくるかということと教科書がどんなものになってくるかということについては、私はやはり民主的な仕方でこれを監視——監視と言うと言葉は悪うございますけれども、見届ける何か仕事が重要な役割りを今後担っておるというふうに思っておるわけでございます。  それから答申の最後にあります関連事項という点につきましても、その問題については重要であるとおっしゃっているだけで、具体案は全然示しておられませんということもございまして、おっしゃいましたとおり、果たしてこのとおりにいくかどうかという、これ自身にも問題があるけれども、このとおりいくならばある程度の改善にはなるだろうけれども、このとおりにいくかどうかということについて実は心配があるということを申し上げざるを得ないというのが実情でございます。
  75. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 次に、高等学校関係教育課程改善策についてお尋ねしたいと思いますが、この「まとめ」を見ますと、九〇%を超えた高校進学率を背景に、「能力・適性・進路等の一層多様化した生徒に対する教育の在り方を考慮」してと、こう前置きをして、必須科目を減少をして、二年から選択科目を相当拡大をしておるというのがこのまとめ特色だと私らは見ておるのでございますが、この「まとめ」が実際指導要領の中で実施をされてまいりますと、果たして言われておるようなかっこうに、これがねらいどおりにいくんだろうかということよりも、むしろ実際の現場では、このままこうやってまいりますれば、選択どころか、生徒は成績順に選別をされる、高校二年生がすでに予備校化されていくのではないかという一つ危惧ですね、もっと申し上げますれば、教師生徒がそれこそ呼吸がぴったりしてやれるような授業というのは、この中で言えば、いわゆる受験校の生徒はそういう可能性があるのではないだろうかと見る、いわゆる受験本位の高等学校であるならば。だからして、私はこういう点では、この「中間のまとめ」に対して、すでに志望校別にクラスを編成をしているいわゆる私学の有名校の諸君は、むしろこの「まとめ」を見て、われわれとしては先見の明があったと、こういうようなやはり広言さえもするような事態を生むのではないだろうかと、こういう一つ危惧を持つのです。  同時に、今度受験本位でない普通の高等学校の中では、放課後とか授業の合間の生徒の生活指導とか、あるいはまた、この選択科目によってたくさん分かれてまいりますから、一つのクラスがずっと分けられてまいりますと、生徒の指導管理という面で非常にやはり困難な事態という問題がたくさん出てくるのではないかと、こういうことを憂える声もするのでございますが、こういうような問題に対して先生はどういうふうに見ておられるか、お聞かせ願いたい、お教え願いたいと思うんです。
  76. 梅根悟

    参考人梅根悟君) お話の点につきましては、私ども一つの心配を持っておる点でございますけれども、この点をもう少し詳細に御説明を願っておきたかったという感じはいたしております。いわゆる多様化政策と世間で申しておりますことと同じか別かということについての御発言がこの案にはどこにも見えておらないのでございます。そこで、いわゆる多様化政策、在来の、まあ悪く批評する側から言えば、あれは多様化政策であるというふうに言われておりますことが一層ますます多様化されていく方向に走っていくんではないかというふうな心配を持たれる可能性がありますし、しかし、個性化という点から言いますと、特に芸術的な諸科目等を選択科目として豊富に置いていこうというふうな考え方を持っていらっしゃいまして、その点は私は考え方としては賛成なんでございまして、ただ、そのためにはいまのおっしゃったようなホームルームとかその他みんなが一緒に生活するような場を用意してやりませんと、そこでみんなが共同して生活する場が、たとえばイギリスの新しい高等学校等を見ましてもそれが非常によく整えられておるようでございますな。そうして、その他方で、個別的にそれぞれ自分の志望なり趣味なりに合った勉強ができるようにしむけてあるということになっておる。その点が、一方は欠けておるままで多様化政策に近いような方向に進んでいきますと、御心配のようなことが必ず起こってくるだろうというふうに私は見ております。したがって、その点についての保障ということが一つの課題ではないかというふうなことでございます。
  77. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 私は、いま梅根先生のおっしゃった点で、もっと詳細な説明がほしいというお話なんですが、大体高等学校が九〇%を超えた進学率があるから、能力、適性に応じてやらなきゃならないという、この強調点から見れば、今日やはりこの高校教育あり方の中で問題になっておるところの多様化と選別ということは、むしろこのままでは拡大をするような気がしてならないんです、この答申を見る限りではですね。そうした場合に、片一方で、またこの記録の中にもありますように、ほとんどすべての者が高等学校教育に行っているという現実を前提にしてと、こうなりますと、言うならばこの答申の「まとめ」の前文も、もう今日すでに高等学校教育は普通教育なんだ、普通国民の普通教育なんだと、こういうような認識に立っておられるようにも見受けられる。そういう今日の高等学校あり方を、いわゆる国民教育という、まあ言うならばもう義務制に近いぐらいの国民教育の場だというふうに理解するとするならば、一体、先ほど申し上げたところの高校の教育課程への改善の方向性というものと、この高等学校は国民教育の場なんだ、というこの二つの兼ね合いというものがここでぴったりそのまま一致するんだろうか、どうだろうかという疑問を持つんですが、そこは先生はこれを読んでどうお感じになっておられるか、その点もあわせてお聞かせ願いたいと思います。
  78. 梅根悟

    参考人梅根悟君) いまおっしゃいましたことにつきましての私の考え方、基本的な考え方を申し上げますと、一方で、まあ高等学校だけじゃございません。その下の方の学校もそうでございますけれども、特に高等学校の段階で、一方では国民共通の基礎的教養を持たせたいという考え方と、それからバラエティに富んだそれぞれの個性や志望に合った学習ができるようにしてやりたいという考え方とは、これは一見矛盾するように見えておりますけれども、この二つの一見矛盾するようなものを、これを矛盾しないように統一していくという仕事が実はこの教育課程行政の一番大事な仕事一つであろうと思っております。その点についてどういうふうに具体的に考えていらっしゃるかということをこの委員会に実はお聞きしたいという感じを私は持っております。それを、たとえばどれかの教科についてどう考えるのかというふうなことですね、それを具体的にお示しを願った方が現場はわかりやすいんじゃないかなという感じを私は持っております。  繰り返して申しますと、この二つの要求は一方をとって一方を捨てるべきものではなくて、この両方をいかにして両立させるかということが教育課程行政の課題ではないかと私は考えております。
  79. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 時間がありませんのでさらに進みますが、実は実庭科の問題について先生の忌憚のない御意見をお聞かせ願いたいと思うんですが、午前中いろいろ高村先生からもお教えを願ったんですけれども、どうも事この問題についてはなおはっきりせぬのですよ。いうならば、まあ先生言葉で私のメモしているところの感じで言えば、感じとしてはもうこの問題はいろいろな陳情を受けたりしていろんな場で議論されたんだが、やり切れない気持ちでこの問題は感じたんだと、あるいは年代の開きがあるのでどうも、というような形であまりお答えにならなかったんです。しかし、これはいわゆる年代の開きというなら、そのお年寄りの方々がこの家庭科をどうするのかというならわかりますけれども、少なくともこの教育課程答申云々というこの問題のいわゆる「まとめ」は次の世代を背負うところの国民のいわゆる家庭科教育をどうするかという問題なんですから、年代の違いが云々という形では、これは逃げていくわけにはいかない私は問題だと、こう思いますんで、まあ、高村先生から十分なお話を承ることはできませんでしたが、それならば、梅根先生はどうお考えになるか、その点をお聞かせ願いたいと思うんであります。その一つは、まあ昨年の国際婦人年にかかわって、いわゆる行動計画の十年というのが提起をされて、その中で、特に固定的な男女の役割り分担を考え直すんだ、こういう一つの大きな課題が出ておる。そうすると、この課題を解決するのは、これはもちろん教育でなけりゃならぬ。こうしますと、このことを忠実に考えれば考えるほど、今日のこの家庭科のあり方に対するところの基本的な考え方というのは再検討されてしかるべきじゃないだろうかと私は思うんです。言うならば家庭科というのは、これは主婦の座を守るところの御婦人が主体にしてやるところなんだ、言うならば、家庭の主導権は婦人が握ってやっていくんだと、したがって、そういうところの婦人の特性に応じたものという形でこの家庭科一般のものをたとえば中学では分ける、高等学校では女の子供だけ必修をさせるというような形では、この国際的な動きあるいはそれに呼応するところの日本の最近の動きとはどうもそごするような気がしてならぬのですがね。そこは先生はどういうふうにこれは見ておられますかね。
  80. 梅根悟

    参考人梅根悟君) じゃ、申し上げます。  家庭科に関しましては、現在、教育現場の中から出ておりますかなり重要な考え方一つは、家庭科の男女共修——一緒に勉強するという考え方でございます。同じ家庭に関する諸問題を男の子も女の子も一緒になって勉強する、考えてみるという考え方がかなり強く出ております。これが家庭科の男女共修論でございますが、その問題については、男女共修という考え方そのものをそのままとっていらっしゃるという形は今回のこの「まとめ」には出ておりません。ただ、男子向き女子向きとはっきり技術と家庭とを分けてしまうといったようないままでの学習指導要領考え方から見ますと若干変わっておって、必ずしも男子向き女子向きというふうに技術と家庭と分けてしまうということにしませんで、男子も女子も一緒に共修するような部分も含み得るというふうなゆとりのある考え方が出ております。けれども、やはりいわゆる被服、家事、裁縫等の教科は、これは女子向きの教科であるというふうな判断をなさいまして、そうして、その「技術・家庭」という科目の中の、この部分は女子学生の選択する部分である、というふうな判断をしていらっしゃって、依然として男子と女子とで「技術・家庭」の中が、いわゆる男子向きと女子向き、技術科と家庭科に大体分かれていくという方向はそのまま温存されておるというふうに申し上げてよろしいんじゃないかと思っております。これらについては現場では、たとえばそういう女子向きといわれておりますようなことについても男子も相当の関心を持っておるし、実際家庭科ではなくても職業として考えてみても、その被服も食物も、その他大体専門的な職業に携わっているのは男性じゃないかといったような考え方も一方から出ております。  それから家庭科につきましては、特に家族制度の問題、家族の問題についてほとんど触れていないということがございまして、これはやはり家庭科の一つ問題点で、これこそ男女共習、男女一緒に考えなきゃならぬ問題ではないかということを考えまして、男女一緒に家庭の問題を考えていこうという積極的な姿勢に欠けておるということは申し上げてよろしいんじゃないかと私は思っております。
  81. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 もっと具体的にお伺いします。たとえば中学の方の家庭、技術の分け方を見ますと、御承知のように必須の領域が男子は五つ、女子は四つと、こう分けられておるんです。そうした場合に、私が素朴な疑問を持つのは、たとえば女の子供は電気とかあるいは栽培という、こういうものを何でやってはいけないんだろうか、こういう疑問をざっくばらんに、すぐに持つんですよ。あるいは男の子にしても、将来の自分の職業をいろんなものを考えてみた場合に、衣服とかあるいは住居という問題あたりは、これは女の子供の専売特許なんだろうか、こう疑問を持つんですよ。今日まで、先生も御存じのように、たとえば婦人少年問題審議会あたり意見の中では、審議会としては、少なくとも雇用における男女の機会均等と待遇の平等の促進ということを非常に強調しております。言うならば、職業で男の子の職業、女の子の職業というふうに分けていくということ自体にも問題があるし、この中でやっぱり婦人解放の問題と非常にこれは関連をしてくる。それは常識的には、男の子向きが多いところの職業、あるいは女性の進出のしやすいところの職業という区別はありますけれども、そういうものを常識的に分けられるといたしましても、たとえば中学校のこういう段階の中から、すでにそういう別々に離さなきゃならない領域を、こういう組み方というものが果たしてこの近代社会に適合しておるんだろうかどうだろうかと、率直に申し上げて疑問を持つんですよ。そこらあたりが明治の郷愁なり、あるいは戦前の物の考え方に立ったところの男女観なり職業観というものが、依然としてこの「まとめ」の中にも根強く残っておるんじゃないだろうかという気がしてならぬのですがね。そこらあたり先生はどういうふうにこの問題をとらえていらっしゃいますか、お教え願いたいと思います。
  82. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 私自身のいまの考え方から申しますと、これはおっしゃるとおりに、家庭科については原則としては男女共習を原則として、それで部分的にまあ選択を立てさせますから、若干の女子的な選択が多い部分と男子的な選択が多い部分とは、地域的にあるいは職域的に出てくるかもしれませんけれども、原則はやはり男女共習として、そうして並びにさまざまな選択の可能性が若干出てくるというふうに編成されるべきものであろうというふうに私は考えております。特に先ほど申しました家族の問題につきましては、これはもう必ず男女共習でやってもらわなきゃならぬ。その家族の問題がほとんどオミットされているのは家庭科の一つの欠陥であろうというふうに私は見ております。以上でございます。
  83. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 時間の関係上、次に進みますが、いま一つは道徳教育の問題について午前中、高村先生のお話を承りますと、教育全体が道徳教育の場だと。全教科を通じてこれは行われなければならない、という原則的なことは私も理解いたします。しかしだからと言って、特設のものはいままであったんだからいいじゃないか、置いておいて。こういうことになりますと、大分論理の飛躍があるんじゃないだろうかと、私は。言うならば先ほど梅根先生が話されたところのいわゆる現状維持ですか、こういう物の考え方が一貫して「まとめ」の中にあるんじゃないかと思うんですが。いずれにしても、これについては、そのまま手を触れられておらないということに一つ問題点を依然として持っておるわけであります。  まあ、これは別にいたしまして、先生のお話も承りましたので、ここで関連をしてお聞きしたいのは、これは午前中の質問にも出ておったわけでございますけれども、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を育成することということを非常に強調しておる。これはどういうことかということで、午前中は高村先生から、これは宗教心だという御答弁があったのですがね。このことと、かつて出ておりました期待される人間像ですね、この第一章の個人としての五、「畏敬の念をもつこと」という、この項目を畏敬の念という言葉でずっとつなげていくと、「それは生命の根源に対して」云々というような説明なんですがね。ここらあたりは、これは審議会皆さんにお聞きしなければわからないのですけれども先生はこの点はどういうふうなお感じにこの問題をとらえていらっしゃるか、お教えを願いたいと思います。
  84. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 私も実はこの点につきましては、高村会長かどなたかに聞いてみたいと思っている点でございまして、正直なところ私にも、この畏敬の念を養成するという言語表現の中身は何事を意味しているかということについては、私自身にもわからない点でございまして、高村さんのおっしゃるように、たとえばこれを宗教心というふうに解釈しましても、そうなりますと、宗教はさまざまございますし、宗教教育をやる学校もございまするししますから、宗教教育一般について論ずるなら論じられるということでないと、この表現だけでは何をおっしゃっているか、さまざまな解釈が可能なような表現が使われると、このままこれが学習指導要領化していきますと、さらに問題が広がってきて、あいまいな解釈がさまざま出てくるんではないかという感じがいたしまして、聞いてみたいと思っている点でございます。私もわからないと申し上げてよろしいと思います。
  85. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 最後にもう一つお尋ねしたいと思いますが、これは冒頭に梅根先生の方からお述べになられたところの御見解とも大体一致するのではないかと思うのでございますけれども、先ほども申し上げたように、改善のねらいの方で、学校教育現状を分析して、今日の地域偏重のあり方教育を変えて、「自ら考え正しく判断する力を養う教育への質的転換を図っていこう」ということを打ち出していますが、この文章の限りでは非常に大胆率直に出ておるので、私も賛成だと思うのでございますけれども、ただ、それならば、それぐらいの意欲があるんなら、たとえば小学校の低学年におきますところの理科、社会の合科の問題ですね。この問題はいろいろなところで出ておりましたし、梅根先生あたりも主張されておったわけでありますが、これの主張にも原則的には何か同意をしてみたようなかっこうにしながら、今後合科の問題については、教科編成は変えないで今後の教育活動の中で創意工夫をこらして合科的な指導をすることが望ましいというかっこうで終わりにしておりますし、あるいは高校の勤労についての体験的学習の新設ということに対しても、あちらこちらに体験的学習ということを強調しながらも、最後の「まとめ」になりますと、特定の教科を設けないで、教育活動全体を通じてこの趣旨を徹底させると、こう出ておるわけなんですね。この点はまさにさっきの道徳教育と逆なんですよ。道徳教育の問題は教育全体の活動を通じてやるんだと言いながら、しかし今日あるものはいいじゃないかと、こう認められておる。ここらあたりが、何か今度の問題が一つの枠の中で一歩もはみ出すまいということがどうもねらい——「まとめ」を見ますと、意欲は意欲としてありながら、その意欲は一つの枠の中で何とかさせるんだというかっこうになっているところの感がきわめて深いんです。一体これで、私が冒頭に梅根先生に御質問申し上げたところの改革の原視点とも言うべき、改善の視点とも言うべき三つのやつが本当に生かされるんだろうかどうだろうかという疑問をまた、後返っても感ずるわけなんですけれどもね。ここのところに対するところの先生のひとつ忌憚のない御見解をお伺いさせていただきたいと思います。
  86. 梅根悟

    参考人梅根悟君) いまの御質問でございますけれども、合科の問題についてはおっしゃるとおり現在の学校教育法施行規則にも各教科を合科的に扱うことは可能であるということが示されておりまして、ただ、現場では実際にそれをほとんどやっていないのが実情でございます。大変技術的にむずかしい点もあるということもあります。その辺のことについては詳しい学習指導要領ができますならば、そしてそれでやっていくことが望ましいというふうに学習指導要領にも出てまいりますならばそれが実現されていくであろう。相当の現場的な研究を要する問題でございますから、それを推進していくためには、それについての具体的な学習指導要領ができ上がってくるということが非常に大事だろうというふうに私は思っております。それを推進するような仕事がこれから後の仕事として残っておるというふうに申し上げてよろしいんじゃないかと思うわけでございます。  それから勤労の問題でございますが、私どもは、勤労的な性格を持っておりますと同時に、つまり技術教育的な側面を持っておる。これがいまの普通高等学校には全然ないのでございます。普通高等学校と申しますと、社会科や理科や国語や算数、芸術等、主として大学進学に必要な科目だけでございまして、技術的な、手を使ったり何したりしていくような学習活動は全然オミットされてしまっておるというのが現在の普通高等学校の実態でございます。そういうことを排除して、高等学校生徒である以上——将来は義務制になっていくべきものだと考えますけれども、必ずすべての子供たちがそういった技術的な経験、それを通じての勤労的な意欲の育成といったようなことに携わっていくような学習指導要領をつくっていくべきものであるというのが私自身の考え方でございますけれども、その点はおっしゃいましたとおりに将来の研究課題というふうなことにしていらっしゃるという点は大変残念なことだと私は思っております。  以上でございます。
  87. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 いろいろ御教示をいただきましてありがとうございましたが、最後に一つお教え願いたいと思いますが、梅根先生の御見解を承っておりますと、次にこれを踏まえてできるところの学習指導要領に大分期待をされておるところの様子でございますが、私は高村先生にも申し上げたんですが、過去の例から見ると、どうも学習指導要領のときには大分ぼかされていくんじゃないだろうかという、前からの苦い経験もありますだけに、そう手放しで学習指導要領に期待をするというところがなかなかないんです。まあ初中局長聞いておりますけれどもね。今度は違うと言うならそれは結構なことなんですけれどもね。それだけに、これに合うような学習指導要領をつくってもらうようにするためにはどういうう手だてが必要なのか、あるいは国会なら国会としては、あるいは教育関係者は必要なのか、もし先生のお考えを承ることができればありがたいと思いますが、最後に。
  88. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 学習指導要領の作成の御準備はすでになすっていらっしゃるだろうと想像いたしますけれども、やはり教育課程審議会の組織の問題とともに、学習指導要領をつくる作業を直接的に担当されます教材等調査委員会でございますか、の組織についてはやはりよほど慎重に、この答申の線をきちんと守っていかれるような、そういう調査委員会が成立することがまずもって大事であろうと思っております。それについては、したがって、この学習指導要領を広く各方面の人材を集めて、網羅して、衆知を集めてというふうなシステムをおとりになることが一番基本であろうと私は思っております。そうしてそれを、先ほど申しましたことともダブりますけれども、このとおりにやらなければいかぬぞといったようなことでなしに、かなりフリーな——自由な、自由裁量の分野を認めていくべきであるというふうに今回の答申案には出ておりますから、それを学習指導要領でやはりまともに受けとめて、そういう自由な、自由裁量のきくような学習指導要領をつくり上げていくことが大事ではなかろうかと。その点について、まあ監視という言葉はいろいろ問題がございますけれども、それを見届ける仕事というのは国民の一つの課題としてやはりそのことを各方面で十分に考えていかなければならぬだろうと私は思っております。
  89. 宮之原貞光

    宮之原貞光君 いまのお話、初中局長はこのやりとりをお聞きだと思いますが、もうすでにその人的な構成も決まっておるのかどうかわかりませんけれども、いわゆるこれを十二分に生かすようなそういう人的な構成とか、あるいはいろんな角度の過程の中で意見を聞くという工夫をされていく用意があるのかないのか、それだけお聞かせ願いたい。
  90. 諸沢正道

    政府委員諸沢正道君) 教材等調査委員はすでにお願いをしていろいろ研究をしていただいております。これらの方々にいま御指摘のような今後学習指導要領をつくっていただく過程では、十分、御指摘ありましたような点を念頭に置いてつくっていただくようにわれわれも努力したいと、こういうふうに思っております。   〔理事内藤誉三郎君退席、理事久保田藤麿君着席〕
  91. 内田善利

    ○内田善利君 梅根先生どうもたびたび御足労でございます。私も若干梅根先生に御意見をお伺いしたいと思いますが、まず最初にお伺いしたいことは、教育課程審議会あり方についてなんですけれども、先ほども出ておりましたが、天下りということですね、そういう審議会であるということですが、これをどう考えられるのか。また、この教育課程審議会のあるべき姿はどうあらねばならないかということについて、まず先生の御意見をお伺いしたいと思います。
  92. 梅根悟

    参考人梅根悟君) じゃ、申し上げます。  教育課程審議会審議会そのもののあり方につきましては、すでに行政一般の問題としての各種の審議会あり方についての意見答申等も出ておるようでございますので、その線に沿って、特に教育問題についての審議機関のあり方について今後御検討を願わなければならぬだろうと私自身は思っております。で、先ほども申し上げましたように、いまのままで、教育課程の問題はこの審議会答申をもとにした学習指導要領一本で、全国のあらゆる学校、小中学校高等学校のすべてをコントロールしていくというシステムをとるかどうかという問題、それから委員自身の選び方についていまのままでよろしいかどうかという問題等々、さまざまの問題を含んでおりますので、その点をやはりこれは御検討願って、できればこの次の教育課程審議会の構成される時期までには何か新しいめどを立てて、新しい審議機関で審議をされるというふうになっていくことが望ましいというふうに私は思っております。以上でございます。
  93. 内田善利

    ○内田善利君 梅根参考人が中心となってまとめられました日教組の中央教育課程検討委員会の改革試案によりますと、授業時間数を大体三割減らすようになっておりますが、この三割減の根拠はどういうことで三割減になったのか、今度の教育課程審議会の「まとめ」では大体平均〇・七六割——七・六%程度と、こういうことなんですが、この授業時間数の減でいいのかどうか、私はゆとりある教育ということから考えれば、果たして七・六%程度でゆとりある教育ができるのかどうか。たくさん言えばいろいろございますが、端的に先生の方では三割減と、今回は〇・七六割ということなんですが、この程度でいいのかどうかお伺いしたいと思います。
  94. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 申し上げます。  私どもがやりました委員会の案ではおっしゃいましたように三割何分になっているかなってないか、そんなことは計算してみたこともございませんので、実際私自身は何割減ったことになっているのか存じない実情でございますけれども、先ほどもちょっと申しましたように、私どもは、いますぐこれを実施しようとは申しませんけれども、近い将来には当然実施されるであろう週五日授業制ですね。それには条件がございまして、そのためには家庭教育や社会教育の施設等々の整備等も急がなければなりませんけれども、その準備期間に差しかかっておるのではないか、したがって、学習指導要領考える場合には、週五日制を将来の課題、構想として考えて、そのときになってあわてて授業時間数を減らすといったようなことを考えないで、すでに週五日制になる可能性を認めてそれで学習指導要領の原案をつくってみるべきではないかという考え方をとってまいりました。で、今度の文部省審議会の案は、先ほど申しましたように、その点に一切触れていらっしゃらないで、ほぼ現状どおりというふうな御判断でございますから、週六日制でございます。そうすると小中学校について申しますと、小学校低学年はちょっと別ですけれども、大体小学校の高学年から中学校にかけては週六日制で、一日いわゆる授業は五時間、そうすると五、六の三十時間という数字が出てまいります。私どもは、同じ五時間で五日制でございますからほぼ、五、五二十五時間というふうな数字が出てまいります。そこに約二十五時間程度に抑えるか、約三十時間にするか、という違いが両方の案で出ておるというふうに申し上げたら一番わかりやすいのではなかろうかというふうに私は考えております。そういうことでございます。
  95. 内田善利

    ○内田善利君 今度の「まとめ」はゆとりある教育ということなんですけれども、今日まで、急行列車のようにスピードの速い授業知識をどんどん、どんどん詰め込んでいって、そしてそれでテストをし、そのテストでできる子とできない子を振り分けていく、そして入試の関門でこれを大きく選別するというのが、いままでの教育だったわけです。が、今度の「まとめ」でゆとりある教育という中で、考える方法、考え教育をしていくということなんですけれども考える人間、考え方を教えていくということになりますと、相当の時間数をとると私は思うんですね。教科書に載っている知識をどんどん、どんどん詰め込んでいくことは、これは容易にと言いますか、落ちこぼれを覚悟していくならば——どんどん詰め込んでいって学習指導要領に基づいた教育課程を消化していく、教科課程を消化していくということで、それでどれだけ覚えているかということでテストしてきたわけですけれども考える人間、考え方子供たちに教えていくということになれば、相当余裕のある教育でないと、いままでの時間で〇・七六%程度ぐらいでは、そういう考える人間をつくるということはとうてい不可能ではないか。三割ぐらいなら私もいいなと、このように考えたわけですけれども考える人間を養成していくということは、時間数を減らして、しかも教科も削減をしていく、科目についてもある程度削減していくということになれば、やっぱり同じ詰め込み教育になるんじゃないかと、そのように思うんですが、いかがでしょうか。
  96. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 先ほどの繰り返しになりますけれども、もしここでとどまっておって、この程度の答申が出ておって、それで学習指導要領の御作成があんまり在来の考え方と違わないものになってくるということになりますと、おっしゃいましたような、かえって詰め込み主義が強化されるというふうなことになりかねないということも考えられますから、そこで先ほどから問題になりましたような、これをいかに学習指導要領化していくかということが基本的な問題になってくるだろうと私は考えております。で答申、この「まとめ」はいまの基本的な問題、つまりたくさん教えてそれを詰め込んで、何でもかんでも知っている百科全書のような人間を育てるのか、それをそうしないで、何でもかんでも知っているということではないけれども、基本的な考え方考え能力といったような点についてはしっかりしておるといったような人間をつくっていこうというのか、教育の基本問題としてのどんな人間を育てるかという考え方について、「質的転換」という言葉も使っていらしゃいますけれども、その「質的転換」の実を上げるような部分も若干そこここに見えております。たとえば御承知の集合の概念を概念として教える、小学校の時代から概念として教えるなんというようなことはやめましょう、といったような種類のつまり教材の削限に関するお考え方はそこここに出ておりますけれども、総体的に教材をいわゆる精選するという言葉が出てまいりますが、どんな形でどういうふうにすれば精選されたと言えるのかということは具体的にはなかなかつかみにくいという形になっております。そこで先ほど申しましたように、この程度のものでございますとまだなかなか、この教材の精選という問題だけについて考えてみましても学習指導要領化していく場合にいろんな問題が起こってくるのじゃなかろうかと考えておりまして、そういう点について、ややもすると、考え方は結構なんだけれども、それの具体化について下手をすると変な、逆な考え方になってくる可能性をはらんでおるのではないかという感じを私は持っております。
  97. 内田善利

    ○内田善利君 この教育課程の「まとめ」に当たりまして、ゆとりある教育を徹底するためには、現在の大学を卒業するときの就職、大企業への就職について、いわゆる学歴社会を少しでもなくしていく、それとこの入試制度ですね、改革ということがなければならないと思うんですが、東大の西義之先生かおっしゃっているように、大学入試に限らず、入学試験にはすべて教科書だけから出す、そうしてその出典を明らかにする、という方法があるということですが、この教育課程の検討に関連いたしまして現在少しでも入試改革に役立つものとして、どのようなことをお考えになっているか、お聞かせ願いたいと思います。
  98. 梅根悟

    参考人梅根悟君) この入試改革の問題は中学校から、高等学校への入試制度をどうするかという問題と、高等学校から大学への入試制度をどうするかという問題と二段階になっておると申し上げてよろしいと思いますけれども、その中のどっちがより重要かというふうに考えますと、中学校から高等学校への段階の子供たちはまず中学生でございます、高等学校から大学への段階の子供たちは大学生でございますから、年齢的には少なくとも三歳の違いが起こっております。したがって、取り急ぎ何とかしてやってもらわなきゃならぬことは、少なくとも現在の中学校の一年生、二年生の学習生活を安定させるためには高等学校の進学問題をまず解決していくということであろうと私は思っております。それについては各地域で若干あれこれの試みがなされておりますけれども、現在のところは総合選抜制と申しますか、あるいは学区制、小学区制に持っていって、学区ごとに選抜するという考え方はなかなかむずかしいから、学区連合的なもので共同選択をしていくといったような考え方が各地で試みられておるものでございますけれども、それも実際は何割かの子供はやっぱり学区を越えた全県一区の進学制度をとるといったようなことが残されている例が多うございます。その点について、まず中学から高等学校への進学制度を、これは各都道府県の自由になっておりますけれども、それがなかなか改善されないという実情がございまして、それを何とか取り急ぎ実現するような気風を文部省もおつくりになる必要があるだろうということでございます。  それから大学の問題につきましては、御承知の国立大学につきましては共同選抜を、一時的には共同選抜をやっていこうというふうなことで御検討になっておりますけれども、これが本当によい共同選抜がなされて、各高等学校から大学への進学について適正にこの共同選抜が利用されるのならば若干の改善になってくるだろうと思いますが、しかし、根本的な解決から申しますと、かなりほど遠いものであろうと私は思っております。私自身は、もうこの年代になりますと昔の小学校中学校高等学校、大学という観念では押し切れないものがたくさん出ておるということをお互いに理解して、高等学校から大学への進学については、昔の中学校から高等学校への進学より以上に地域性を重視して、つまりいわゆる秀才と称する者が全国から東京に集まってくるといったような態勢が出てこないような、つまり地域主義、地区主義の進学の制度、学区制度の実現ということがひとつの大きな課題ではないかというふうな感覚を持っております。その点について共同してみんなで考えてみる必要があるというふうな段階にきておるのではないかというのが私の感想でございます。
  99. 内田善利

    ○内田善利君 ありがとうございました。この「まとめ」には、いわゆる宿題については全然触れられていないわけですが、宿題については毎日の宿題それから夏休み、春休みの宿題等で生徒も父兄も相当悩まされるわけですが、この宿題については参考人どのようにお考えか、お聞かせ願いたいと思います。
  100. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 宿題の問題は現実には学校先生に二通りあると申し上げたらよろしいかもしれません。つまり進学向けの勉強をより一層やらせようという意味で、それに利用できるような宿題をお出しになる先生の一群と、そうでなしに、学校教育のらち外で、もっとフリーに何かやっていらっしゃいといったような、たとえば絵の好きな子供に、あなた絵がうまいからもっとすばらしい絵をかいてみないかといったような、そういう意味の宿題を、宿題と申しますか、奨励と申しますか、という意味で家庭生活をより豊富にするようなことを考えていらっしゃる先生方と二通りありまして、まあ、前者の方が多いわけでございますけれども、私は後者の方々が多くなることが望ましいと考えております。  これはちょっとお話からずれてまいりますけれども、最近の都市の——都市でも農村でも同じかもしれませんが、学習塾ですね、学習塾が非常にはやっておりますが、学習塾にもこの二通りでございます。つまり受験用の宿題的なものをこなすのに大変ぐあいのいい学習塾と、それから音楽をやったり絵画をやったり剣道をやったり柔道をやったりといったような教科外の諸活動をやっておるような塾と二通りございまして、後者の方が繁盛するのは、その弊害は全然ないわけではございませんが、学校と塾との協力がうまくいけば、その方が私はよろしいと思っておりますけれども、学習塾でもって進学競争で子供たちを個人主義的に締め上げていくといったような塾の繁盛がもし家庭で推進されておるとするならば、それに対するやはりPTAの役割りといったようなことを十分に考えて、そうならないようにしていく必要が教師の側にも親の側にもあるだろうというふうに私は考えております。
  101. 内田善利

    ○内田善利君 学習指導要領の法的拘束性ですけれども、先ほども質問がありましたが、文部省としては学習指導要領に基づかない試験校をことし二十数校、来年は五十数校つくる、実験校をつくってやっていくということですが、この指導要領の法的な拘束性をどのようにお考えなのか。全廃していくべきだというお考えかと思いますけれども、その場合に教師自主性といいますか、そういったものをどの範囲までつけるべきものなのか、その辺をちょっとお聞かせ願いたいと思います。
  102. 梅根悟

    参考人梅根悟君) この問題はしばしば論議されてまいりました問題でございまして、三十三年の学習指導要領改定のとき以来、つまり学習指導要領試案となっておりましたのが、試案という言葉が消えてしまって、文部省学校教育法施行規則に定められて、別に文部大臣が公示する学習指導要領によるものとするということになったのが始まりでございまして、それを一般に法的拘束性とかと呼んでまいっておるわけでございます。そうしてその点は今回も外せとは「まとめ」には書いてございませんけれども、実際に書いていらっしゃる事柄の中身を見ますと、先ほどから話に出ましたように、多くの点で教師の自主的な判断学校の自主的な操作を認めるということになっておりますから、それが忠実に認められれば、いわゆる法的拘束性は非常に微弱なものになってくる可能性があると私は見ておりますが、果たしてそうなるかどうかということは今後の課題であろう。私は、学校の中には教師集団と父母集団との間の話し合いをする場もございますししますから、いわゆる法的拘束性がなくても変な行き過ぎなんかはなかなか起こることは余り考えられないと言っていいだろう。むしろ良識に任して、教師の良識及び親たちの良識に任してやっていくべきものではないかという点で、学習指導要領は一般的な参考基準というふうな線に戻るべきものではなかろうかというふうに私は考えております。
  103. 内田善利

    ○内田善利君 最後に、今度の教育課程審議会の「まとめ」ですが、先ほども先生は、今度の「まとめ」は基本的に在来どおりである、こういうふうにおっしゃったわけですか、確かに、せっかく教育課程まとめるとするならば、在来どおりでなくて、二十一世紀に向かう子供たちためにも少し創造的な「まとめ」がほしかったと私は思うんですけれども。というのは、ただ、時間数を減らし、教科のあちこち削減はしますけれども、それだけでは本当の意味のカリキュラムの編成はできないんじゃないか、そう思うんですけれども、この点については、二十一世紀に向かう子供たちにとって本当にいい「まとめ」であったのかどうか、先生の忌憚ない御意見をお伺いして終わりたいと思います。
  104. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 私自身の感想を申し上げますと、せっかくおやりになったんだから、もう一歩前進して、もう一歩突っ込んで、基本問題にお触れになってほしかったという感想を強く持っておるということを先ほど申し上げましたが、それの繰り返しになりまして、この程度の改革でもやらぬよりもいい。忠実にこれは実行されれば、現状の改革に若干のプラスになってくるだろうから、その点の評価はしていくべきであると思うけれども、これだけでは不十分である。もっと徹底的に考えてみるべき時期にきておるはずではありませんか、と申し上げたいというのが私の感想でございます。
  105. 内田善利

    ○内田善利君 どうもありがとうございました。
  106. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 先生にお伺いします。  今度の教育課程基準改定は、梅根先生のプランに比べれば、まあいまも出たように、少量になっているとは言っても、前回、前々回、昭和三十三年、四十三年の改定に比べれば、その前に戻ってくるほどかなり大幅な学習事項の削減、手直しというのが行われておるわけでありますが、このゆとりある学校生活とか、基礎的、基本的な事項の重視など、改善のねらいなんかを読んでみても、この中では抜きがたく、昭和三十三年以降の増大した教育課程、そしてその間に発生しておる教育効果ですね、そして学校教育の中での子供たちの実態というものがそれなりに反映をされたんだというふうに見ておるわけでありますけれども、まあ、いわばその点の分析は明文には余り書かれていないわけです。この点わずかにと申しますか、強調された点は、いわば遊んでおる子供の姿が見られないしでね、詰め込みより遊びを、というような限りで言われてきておるわけです。  ここでお伺いをするわけですけれども、今回の改定、前回の改定、前々回の改定すべて教育内容精選という言葉を用いなかったことは一遍もないわけですね。用語だけ見れば前回も精選今回も精選であります。この点前提となったひずみの意味ですね、そしてそれに対する精選ということの正しい意味と申しますか、これについてお伺いをしたいと思うわけであります。つまり、この文章に触れておる知識の伝達に偏って調和的な発達がおろそかになった、こういう観点で今回の精選が行われているというふうに見るわけでありますけれども、それではこの数年の間、知識の点は従来に増してよく伝えられており、道徳的な部分、調和的な部分が傷ついていたというふうにも読めるわけですけれども、そういう点ではどうなのか。一体、この知育の面では現行の教育課程のもとでかなりの効果が上がっておったのか。足りなかったのは道徳なり遊びの方であったというような分析が今日の改定に当たって正しい位置づけになるのか。精選とは本来どうあるべきものかというような点をお伺いしておきたいと思うんです。
  107. 梅根悟

    参考人梅根悟君) その点に関して申し上げますけれども精選という言葉を、おっしゃるとおりに、しばしば学習指導要領当時使われてまいったものでございますけれども精選とは何をすることであるかということについての具体的な説明は必ずしもされてなかった。精選というと何だかわかったような気がするけれども、実際は一向にわからないといったような実情になってまいったことはおっしゃるとおりだと思うんでございます。  したがって、今回その精選意味はもう少しはっきりさせていただくべきだったろうと、私自身は考えておりますけれども精選ということの一つの側面は、最も重要な側面は、私は、いわゆる知識万能主義で何でも知っている子供を育てるということではなくって、同じ知識でなくて——知性という言葉日本にはございますが、その方を使ったらかなりよくわかるんじゃないだろうか。知識を教え込むのではなくて、知性を開発するんだという考え方を全教科にわたって徹底させることが、いわゆる知識以外の道徳あるいは遊びを重視するということだけではなくって、非常に大事な一側面ではないかというふうに思っております。知識をたくさん、大量に教え込むのでなくって、知性を育てるのだということを具体的に説明していただいたらどうなるのかということについて、実は学習指導要領ではより具体的、具体化されたものが出てくることが期待をされるというふうに私は考えております。  この段階での「まとめ」を見ますと、その点では、先ほども申しましたように、若干の教え過ぎ、むずかしいことを教え過ぎと思われるような教材についての削減という案は出ておりますけれども、それ以上に、知性を育てるにはどうしたらいいかということについてのかなり説得的な御説明は出ていないように思われます。この点が今回のまとめ一つの弱点ではないかというふうに私は考えております。
  108. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 授業時数の削減についても、一面では詰め込みも問題で、そのために意欲を失ってついていけなくなって、何もかもゼロになってしまうということが懸念されるわけでありますけれども、一面からすれば、自主性を育てると言っても、子供は自然成長するものでないから、そういう点では学校、教室という場で反復して訓練、修練をしなければならぬ。こういうような点で、この減らされた時間というものに対して不安を持つというような要素も一方では出てきておるわけですね。これが逆に、学校離れして、塾に走るとか、あるいは学校自身が受験教育をするとか補習をやるとか、こういったふうな問題に対する懸念になってはね返っておりますけれども、これに対する答えの部分は、おおむねは教員の側の自主性と、あるいは弾力ある運用とか、そういう中に置かれておる。ここの部分についての展望をひとつお伺いをしておきたい。
  109. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 現場の様子を若干見てまいりますと、いま御指摘になりましたようなことについて、実際かなり苦労をして子供たちと一緒に、たとえば手を使ったり、あるいは自然状況と接触したりしていくような学習活動を指導しておる教師は全国的にはある数おります。それがおって、それの記録も出ております。そういうものを尊重して、そういうものを生かしていくような行政がなされることは非常に大事ではないかというふうな感じを私は持っております。  そういう人たちの中には、これはたまに、希有の例として、その教師教師を終わって校長になり、あるいは指導主事になったといったような例がないでもございませんけれども、そういう者は非常に希有でございまして、そういうものを具体的に、学習指導要領等の段階になりますと、実情を紹介をされるといったようなことまで進んでいって具体化していく必要があるんではないだろうか。そうなりませんと、絵に描いたモチになってしまって、何を言われたかわからぬといったようなことになりかねないと私は思っております。  先ほど申し上げましたことの繰り返しになるかもしれませんけれども、今回二回の「まとめ」をお出しになりましたけれども、この「まとめ」は、現場教師の多くの諸君は知らない。どんな「まとめ」が出ておるかは、まあ雑誌等に若干紹介されるから、そうかなあという程度でございましょう。「まとめ」は知らない。それからいわんやその次の学習指導要領も読んだことがないと。読んでいるのは教科書だけだといったような教師がかなり多数におるというのは実情でございますから、そこから直していく手だてを講ずることが大変大切だろうというふうに私は考えております。そのためにはどうしたらいいか、ということをこれから真剣に考えていく必要がありはしないかと私は思っております。
  110. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 この審議会が設けられるについては、昭和四十八年に奥野文相から高校問題を軸にして三点を基本に諮問をされた。そういう点では、この改定一つの目玉として、全体を流れる目玉として高校問題があるということは確かなことだと思うわけですが、諮問の中でも専門教育と普通の教育関係とのかかわり合い、それから職業教育自身についてのあり方というようなものを諮問しており、職業教育については一定のいわば専門に偏しないようにというふうな手直しも行われておるわけですけれども、今回の職業課程の手直しの持つ意味と普通課程とのかかわり等についてひとつ御説明いただきたいと思います。
  111. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 職業課程に関しましては、私自身の考え方は、私どものやりました委員会考え方もその点になっておりますけれども、根本的にはもう普通課程と職業課程との区別をやめて、そうして、いわゆる普通課程であってきた学校も、いわゆる職業課程であってきた学校も、共通に学習する部分と選択して学習する部分とに分かれるというふうな一本化の段階にきておる。そうして、一本化された場合に、主として高等学校を卒業しただけで就職する諸君はこんな勉強を、といったような選択の枝を用意していくというふうなことにして、普通課程と職業課程の区別を課程として立てるといったようなことをやめるべき段階にきておるだろうというふうに私自身は考えております。その点は、先ほど申し上げましたように、今回の委員会は依然として普通課程と職業課程とを区別、別途に考えていらっしゃるというふうな線になっておりますけれども、将来構想としては、それは今後改めて考えていくべき問題ではなかろうかというふうに考えております。
  112. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 まあ、普通課程の方でも一年生の取り扱いなんかは従来に比べて小中高を貫く一定の手直しは行われておるわけですけれども、二年生以降の者は単位数は、科目が細分化され、単位数が細分化されて大学の志望別にかなり多様化するというようなことになってくる。一方、職業課程の方ではもう大学にも行こうにも行けないという袋小路の中からある程度以前への回帰とでも言いますか、そういうふうな手直しが若干とも行われている。それがいま先生が言われたような方向へ進む過程として、双方が段階的にプラスの作用し合うものなのか、高校二年生以降の今度のような改定が一層これの開きを広げていくものか、こういうあたりがこれからの関心の中心になるだろうと思うんですけれども、その点ではどうでしょう。
  113. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 私は、先ほど申し上げたことの若干の繰り返しになりますけれども、下手をすると、いまのように普通課程は選択科自を重視するという考え方が、在来のような多様化政策と言われておりますものの方向へずうっと突っ走ってしまうといったような結果を生じかねない。一方で、それの対極としての職業課程の方はおっしゃるとおりに、普通課程考え方に近づけていくという考え方が一部には出ておりまして、実際の実践課程もそれでやっていらっしゃる学校もございますけれども、なかなかそうなっていかないで両極分化の線が一層強くなりかねないといったような心配がなお残っておるということは申し上げられると思うんでございます。私は、そうでなしに、いわゆる職業課程と普通課程と将来一本化していって、しかも大学進学に適した勉強、そうでないものに適した勉強のいずれもできるような、そういう教育課程を組むべきであろうというふうに私は思っております。現在、都道府県教育委員会等、高等学校設置について責任を持っておりますところで一番困っておりますものは、この職業課程が、まあいわば落ちこぼれの対象に、落ちこぼれの入る学校になってしまって、職業課程の本来の目的からかなりはずれたものになってきつつあるという現状でございまして、その点から考えましても高等学校の一本化ということは制度的に、行政的に非常に大事なことではないかというふうなことを感じております。
  114. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 大体時間もまいっておりますので、最後に一つお伺いをするわけでありますが、家庭科の問題についてはまあ、現在特に女性の側から男女共修あるいは男子必修の問題が強くアッピールされている。これはきょうに始まったことではありませんけれども、こういう流れがあるんですが、一方では、各高等学校等では改定のたびに家庭科無用論というものをその都度かなり大きくクローズアップされてきて、いつでもこの科の存立を問われるような状況もこれはあるわけであります。まあ、いわば学校の中で普通課程高等学校等であれば厄介者のような取り扱いをやる。これは男子にとってそうであるばかりでなく、女生徒にとってもそうであるというような状況も一方であるわけです。   〔理事久保田藤麿君退席、理事内藤誉三郎君着席〕  まあ、今度のものは確かに、中学校段階では以前に比べて若干、「技術・家庭」の中で男子向き、女子向きの方向を共通的にさや寄せするような方向は出てきておりますけれども、この領域の問題についての考え方としても、高校の中では技術が消え去るのみで一切展望が示されていない。こういう点について先ほども一定のお話を伺ったわけでありますけれども、家庭科のいわば存立の問題、そしてこの展望というような問題について、これは中学と高校の両面にわたってお伺いをしておきたいと思うわけであります。
  115. 梅根悟

    参考人梅根悟君) この問題は実は私自身にとっても大変厄介な問題でございまして、私自身が会長をいたしました、いわゆる日教組の委嘱による教育課程検討の組織では、最初はその家庭科というのをやめてしまおうじゃないかという案を出したんです。家庭科をやめてしまうというのは家庭科的な教育をやらぬということではございません。家庭科という教科を出さないで、その中の家庭科的部分の、つまり家族生活に関する部分は社会科へ、それから技術的な部分は選択科目としての男女通じての科目として出して、女子向けの共通必修科目としての家庭科というものは出さないという案を示しましたが、かなり抵抗がございまして、現在出しております案は、中学校の段階では先ほど申しましたように、男女共修の、そうして家族生活をやはり取り戻して家庭科の一つの重要な柱としてそれに技術的な面を加味したようなものを共通の科目として置こうということになっておりますが、小学校では置かないという方針をとってまいっております。そういう点で家庭科の問題は、私どもつくりました案でも、二回の案の一回目の案と二回目の案とでは違っておるというように、大変厄介な問題でございますので、これから後これをどうするかという問題は、やはり国民的な共通の問題として考えてみるべきじゃないかというふうに私は考えております。いまの段階で申しますと、私はまあ、共通して男女共修としての選択性の強い科目にして存置しておくというぐらいのところがまず妥当な線ではなかろうかと私は考えております。それを技術・家庭として、家庭科という部分をそのまま残すか、あるいは技術と家庭とを分けるかといったような細かな問題は別として、とにかく女子学生である限りは必ずその家庭科的な学習をしなきゃならぬ、といったようなそういうシステムは、もう考え直していい時期が来ておるのではないかと私は考えております。
  116. 小巻敏雄

    ○小巻敏雄君 終わります。
  117. 中沢伊登子

    中沢伊登子君 先生がいま、現在大学の学長さんでいらっしゃるというお立場で、少しこれから外れるかもしれませんけれども、二、三御質問申し上げたいと思います。  その第一は、午前中も多少議論がございましたが、いまの六・三・三制ですね、この六・三・三制について先生はどのようなお考えを持っていらっしゃいますか。
  118. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 申し上げます。六・三・三制については、この前の中教審答申で、六・三・三制と違ったシステムを考えてみてもいいと、今後の研究課題にするというふうな案が出ておりますししますが、今回の教育課程審議会の案では、その問題には一切触れていないということでございます。高等学校の実は共通広域教科としての一般社会とか一般理科とかといったような教科がずっと並んでおりますが、これを高等学校一年生の段階で設けるか設けないか、ということについては、実は、これが六・三・三制の中学校高等学校とをどういうふうにするか、二分するか、あるいは三年ずつの二段階にするか、四年と二年にするかといったような問題ともかかわりがありまして、まあ、六・三・三にするかどうかといったようなことを私どもは階梯の問題として存じております。階段の階という字とはしこという字でございますが。つまり初めの、私どもの案としては現状では、いまの六・三・三制のとおりに従がって小学校を低学年と高学年、中学校を三年、高等学校を三年というような三・三・三・三の四階梯に考えておくのがまず普通だろう。しかし将来の課題としては、この問題は各方面から考え直して、将来学校制度の全般的な改革の時期が来たならば、たとえば中学校四年間やって高等学校を二年間にする、あるいは中学校高等学校を一括した六年制度中等学校考えて、その初めの四年間はかなり共通性の強いもの、後の二年間はかなり選択性の強いものといったような考え方をしたらどうであろうかというふうなことが考えられておりますけれども、すべて将来構想でございまして、今後どうすべきかという問題であろうと考えております。
  119. 中沢伊登子

    中沢伊登子君 これは私の持論でございますけれども、いま、最近の子供は、テレビやいろんなものがありますから、相当、知識を早くから得ておりますから、学齢を、いま六・三・三制の六の一年を学齢をもう一年下げてみたらどうだろうかというような意見を私は持っているんですが、その点どうお考えでございましょうか。
  120. 梅根悟

    参考人梅根悟君) それは私は、いろんな関連がございまして、小学校六年間ずっとやってまいっておりますけれども、これを一年下げて、小学校を満五歳から就学するというふうなことにするというふうな場合には、その満五歳児——新一年生ですな、新一年生には、どんなことを教育するかということを考えませんと、下手すると——いま小学校の、現在小学校に入らない幼稚園の子供たちに小学校段階の知識を詰め込んでおる傾向が非常に強く起こっておりますが、その傾向を一般化していくようなことになりかねないと思いますから、五歳児入学を考える場合には、その中身の問題をよほど慎重に考えませんと、下手すると現状より以上の詰め込み主義になっていく可能性があるというふうに私は思っております。  もう十数年前になるかと存じますが、私、ソビエトへ行きまして、ソビエトの当時の文部大臣にその問題を聞きましたら、文部大臣は、一人でがんばっております。五年制に絶対にしない、六年制にも。満七歳から入るという制度を守るということを言っております。それは小学校に入れると詰め込み主義になるから、共産党の社会ではますます詰め込み主義になるから、なるべく小学校に入れない方がいいんだ、といったような意見ですな。そういう意見一つございますので、この点はよほど慎重に考えませんと、下手すると間違ったことになりかねないというふうなことでございます。ただし、幼稚園と託児所を別扱いにしないで、幼児段階の成長についてみんなが、国が、社会が共同の責任を持つという考え方はとるべきであろうというふうに考えております。
  121. 中沢伊登子

    中沢伊登子君 私も、実は幼稚園と保育所、そこら辺の幼児教育がばらばらなものですから、その点で、もういっそのこと学齢を一年下げて、そうしてその一年の間に小学校になれさせるとかいろんな点で内容考えていかなくてはいけないとは思いながらも、余りに幼稚園と保育所と皆子供がばらばらに入りますので、その点を案じながら御質問を申し上げてみたわけでございます。いい御意見をちょうだいしてありがとうございました。  それからもう一つ。これは私が下手だからではございません。それもありますのですけれども日本の英語の教育ですね、これが、私どもも五年間やってきたんですが、その後英語の学校にもちょっと行ってみたりはしたのですけれどもなかなか、英語というものが五年やり六年やっても外国に行って話すことができない。それから私ども、本を渡されれば読むことはできるけれども、話すことができないような英語教育になっている。最近は外国に行かれる方やら外国の人とのおつき合いが非常に多いですからね。日本も国際的な立場に置かれておりますので、六年ぐらいやれば適当に話せるような、そういう英語教育というものができないものか。あるいはこれは日本人の何というか、悪い癖といいますか、特質といいますか、外国語に非常に弱いといいますか、そういう点からそういうことになっているのか、その点先生のお考えをちょっとお漏らしをいただきたいと思います。
  122. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 私にも正直なところわからないのでございますけれども、私ども考えといたしましては、まあ、現在は、中学校の段階では、もうここは在来よりも時間数をふやして、できればある程度の話すこともできるような外国語教育をしておいて、高等学校の段階になったら必修ではなくて選択で、どの外国語でもよろしいから選ぶといったような——中学校は、まあその点では、いわゆる一科目を選択するのではございませんけれども、しかし、どの科目かを必ずもらう必要があるという共通必修として考えておりますけれども高等学校はそれを外して、完全な自由選択にしてしまったらよろしいのではないかというふうに考えております。話すことの教育日本では非常にまずいというお話でございまして、そのとおりだと思いますけれども、これは一長一短とも言えまして、日本は話すことの外国語教育をほとんどやっていないと言ってよろしいのではございませんでしょうか。教師自身が第一、そういうことの不得手な教師ばかりがそろっていると申し上げたらよろしいかもしれません。それは日本的特徴かもしれませんので、これは話すことはできないけれども、読むことは達者だということが、一つの逆の特長になっておるかもしれないと言ってよろしいのではないかという感じがいたします。ですから、一長一短と言ってよろしいと思いますけれども、話すことに非常に重点をかけて全日本国民がペラペラ外国語をしゃべるような国民に仕上げていくために大変な努力をしていくということが果たしてよろしいかどうかということも、やはり考えてみる必要がある一つの問題であろうというふうなことを私自身は考えております。私自身がしゃべれないから申し上げるわけではございませんけれども、そんなことでございます。
  123. 中沢伊登子

    中沢伊登子君 それにしても日本に英語が入ってきてからもう百年近くなるものですから、よく、このことがいろんなところで話されるもんですから、一つお尋ねをしてみたわけでございます。  それから先ほども質問をしてみたんですが、中小企業で働く人たちですね、中小企業で働く人たちがそれほど誇りを持って働かない。だから、何とかしてこれからの学校教育で、卒業してから中小企業で働く人に、中小企業で働くことにも誇りを持つような教育をしてくださいと、こういう御依頼があったんです。その点で先生のお考えを伺わしていただきたいと思います。
  124. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 私が実際やっております大学を例にとりますと、まあ、これは私、冗談に無流大学と申しておりますが、一流でも二流でも三流でもない流のない大学だと申しておりますけれども、比較的よそに比べると、中小企業と申しますか、働きがいのある職場を求める青年が比較的多い大学のように私は見ております。つまり、才能を認めてくれて、下っ端の働きでもいいから、とにかく労働でも何でも活発にできるような職場を求めていくといったような傾向が出ておるような感じがいたします。私は、そういう考え方はこれからの学校教育では非常に大事な点であろうと思っておりますので、中小企業へ行くか行かぬかということもございますが、そのもう一つ手前に、いわゆるホワイトカラーの方向に向いていくような考え方だけでなしに、ブルーカラーのよさといったようなものを十分に生かしていけるようなカリキュラムをつくっていくことが今後の課題であろうというふうに私は考えております。
  125. 中沢伊登子

    中沢伊登子君 それでは最後に、先生もこれずっとお読みくだすったし、私どもも皆これ読ましていただいたんですが、これを離れましてでも、これからの日本教育について先生先生なりの何といいますか、お考えをお持ちだと思いますが、もしこれと違ったお考えがありましたらひとつお伺いをさせていただいて、私の質問を終わりたいと思います。
  126. 梅根悟

    参考人梅根悟君) 大変むずかしい御質問で、ちょっと簡単にお答えできないんでございますけれども、今回の答申案に出てまいっておりますものにつきますと、先ほどから申し上げましたような線、もっとゆとりのある教育をしていきたいという考え方やら、いわゆる知識万能主義でなしに考える力やなんかを十分に育てていくような教育をしてみたいという考え方などが出てきておりますのは評価してよろしいと私は思っております。で、全般的に申しますと、その線をもう一段と進めて日本学校教育そのもののあり方をもう一度考え直してみる時期に来ておるのではないか。ちょうど戦後の年数を数えましても、戦後改革と言われておった時期から見ますと、戦後改革の時期が三十三年まで続いておりまして、三十三年以後二十年続いておりますから、ほぼもう一遍考え直してみるべき時期に来ておるのではないか。戦後改革と言われておりますものにもあれこれの問題点は残っております。残っておりますけれども、やはりいわゆる基本的物を考え考え方といったようなことはずうっとまあ、残骸かもしれませんけれども今日に続いておる。それをもう一遍洗い直してみるということがこの際非常に大事なことではないかと、私自身は。でありますから、戦後改革と言われておりますものの欠陥は直さなきゃならぬけれども、基本的にはその線に戻るということを基本方向として考えていくべきではなかろうか。学習指導要領をお考えになります場合もそうだし、中央教育審議会でそのことをお考えになります場合でもそうだし、やはり戦後改革の基本線に戻るべきであろうということを基本的な課題にすべきではなかろうかと私は考えております。
  127. 中沢伊登子

    中沢伊登子君 ありがとうございました。
  128. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) 梅根先生、ちょっと私委員長として最後に先生に御見解を伺っておきたいことがありますのでお願いします。  先ほど先生冒頭に、今度の教育課程は根本的な問題を避けて通ると、その一つとして、五日制の問題道徳教育の問題をお話しになったですね。私もやっぱり五日制の問題は検討しなきゃならぬですけれども、ただ、いま日本の農家や中小企業のことを考えますと、学校が五日になりますと子供たちは二日間休まなきゃならないですね。これがまた家庭の非常な負担になりますので、私は週休二日には賛成なんですが、何とかして土曜日はクラブ活動とか体育活動、あるいは奉仕活動ですね、こういうようなことにして、先生は週休二日とれるようにしてあげたらいいんじゃないかと私は考えるんですね。そのことの方がとにかくいま詰め込みでお勉強ばかりさしているから、もう少し体も丈夫にもなるんじゃなかろうかと思う。それが一点。  いま一点は道徳教育の問題ですが、この前私、文教委員長のときに各党推薦の方にお集まりいただいて徳育振興についてと言ったらみんな賛成なんです。私は、いま日本は価値観の多様化じゃなくて喪失していると思う。先ほど中沢先生おっしゃったように、自分さえよければいいというエゴと、そして物質万能、そういう金権体質物質体質になっているんじゃないかと思うんですね。価値観がないんじゃないかと思うんです。そこで、道徳ということですが、先ほど高村会長は、教育が全部が徳育だと、道徳だとおっしゃった。各教科は、教育は道徳だと、こうおっしゃっておるわけですが、私いまの教科見ておりまして、国語が、作文の書き方、文章の鑑賞の仕方というのが非常に技術的なんです。歴史も、私どもの歴史の中にはやっぱり人物が中心で、日本を築き上げた偉大なわれわれの先輩が苦労した物語がたくさん出てくるわけです。少なくとも私、子供教科書見て心の糧が随所にあったですよ。ところが、このごろの教科書は、本当に受験勉強のせいか非常に技術的なんです。という点で、徳育が本当に欠けているので、私は各教科にもっと心の糧になるような、魂の支えになるような生涯の思い出になるようなやっぱり教材を入れることが一つと、いま一つは、道徳の時間を私は教科にして、やっぱりこれは教育の根本だと思うんで、教科にして、教科書にした方が私はいいと思う。教科書なしに教えろと言ったってそれは無理なんで、いまの先生には。ですから、各教科の中心は道徳だというふうにして、各教科もやっぱり徳育という点に配慮すべきじゃないかと、こう考えているんですが、これについての梅根先生の御意見を伺って終わりにしたいと思います。
  129. 梅根悟

    参考人梅根悟君) いま委員長からお話のございました問題、特に道徳教育の問題は非常に重要でございますが、私自身の考え方は、いまのような道徳の時間というものは、これは学習指導要領をずうっと問題にしてきた学習指導要領の理論の歴史から考えましても、まあぐあいが悪いと申さざるを得ない。教科のうち、独立させるか、全教科でやっていくか、二つの道があるだろう。そのどちらでもないようないまのようなシステムは、これは学習指導要領そのものとして大変ぐあいが悪い。どちらかに決定すべきものだということが一般的な結論ですね。その点で委員長考えと私の考え方は若干食い違っておるだろうと思うんですが、私は、先ほども申しましたように、戦後改革の線に戻るべきであるということを申し上げました。それは社会科の中の道徳教育的部分ですね、特に憲法を中心としながら人権の問題等々の、つまり民主主義の民主主義的な道徳の基本を学習させる仕事は社会科の中にちゃんと入っておったという線を考えれば、社会科が即道徳教育をも兼ねておるといったようなシステムが可能になってくるんではないか。道徳があのような形で独立したためにむしろ社会科の道徳教育的側面が弱体化してきたといったようなこともないではないという点から考えますと、社会科の道徳教育的な側面を重視することがこの段階でのまず手っ取り早い一つの解決策ではないかと私自身は考えております。
  130. 内藤誉三郎

    理事内藤誉三郎君) 以上で梅根参考人に対する質疑は終了いたしました。  梅根参考人に一言お礼を申し上げます。長時間御出席いただき、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。  本件に対する質疑は本日はこの程度にとどめます。  本日はこれにて散会いたします。    午後三時二十一分散会